秋篠宮家の長男・悠仁親王が筑波大学に推薦入学で合格されたことで筑波大学そのものもがいろいろなところで話題にのぼるようになった。
私は筑波大学では集中講義で教えたことはないのだが、研究会の講師として招かれて話をしたことがある。私を招いていただいた先生にキャンパスを案内していただいたときのこと。
当時は、サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』の日本語翻訳者であった筑波大学の五十嵐助教授が殺害されたあとのことで――直後ではないが、その余波が続いていたころのこと――、構内には目撃情報を求める文書がまだあちこちに掲示されていた。
そのひとつに目をとめた私は、ふと、気になって、いまいるキャンパス内の道路上で、周囲を、それこそ360度見まわしてみた。そして愕然とした。人間の姿がまったく見当たらない。無人の空間だった。これでは目撃者などいようはずもない。
ちなみにいま私は自分の住居の窓から外を眺めてみた。その窓が向いている方角には、人間の姿が一人もみあたらなかった。しかし車が動いている。近くの道路の騒音が聞こえてくる。また私鉄の電車が動いているのも見える。たまたま人間の姿を見かけなくても町は生きている。ところが、そのときの筑波大のキャンパスは、人間の姿も車の姿もなにもみえず、しかも雑音すら聞こえてこなかった。神秘の無人の沈黙のキャンパスだった。
ただし正確な日時を覚えていないのだが、夏期か春期の長期休暇中だったので、学生がほとんどいなかったせいもあるのだが、それにしても人口密度が低すぎた。いや人間がいなかった。とはいえ、1990年代のことである。今は違うのかもしれない。
*
もうひとつ。筑波大学の院生、2,3人に東大での大学院の授業の一環で研究発表をしてもらったことがある。筑波大学の院生を個人的に知っているという東大の院生の紹介だが、興味深くまたほんとうにすぐれた研究発表内容で、その後、その院生は本も出した。
授業後の雑談のなかで、筑波大学の院生は、キャンパス生活のことを、自虐的に面白おかしく紹介していた――幽霊が出るとかいうような話を。その時、自殺者が多いという話にもなった。しかし、自殺者はどの大学でも、あるいはどの学校でも多い。わざわざ大学に来て自殺する学生もけっこういる。そうした事例は、どの大学も積極的に公表しないか、そもそも伏せてしまうから、実態はよくわからない。ただ、自殺する学生はどの大学でも多い。自殺者の多さがその大学の特徴にはならないというようなことを私は話した気がする。
すると、その院生は、いえ、自殺する学生が多いのではないのです、と語った。教員や研究者の自殺が多いのです、と。
絶句。まあ21世紀初期の話である。今は違っていると思う。
2024年12月18日
血小板
本日は、コロナワクチンとインフルエンザワクチンの両方を同時に接種してきた。
このところワクチン接種の時間がとれず、本日までのびのびになっていたのだが、ようやく二種のワクチンを接種、それも同時接種。ワクチン陰謀論者からしたら、ふたつも同時に接種するとは自殺行為なのかもしれないが、もちろん政府・厚労省は同時接種が可能であるとしている。
病院で支払いをすませて帰り道、近くの公園のブランコや砂場があるセクションで、幼稚園児たちが黄色い歓声をあげて遊んでいる(近くの幼稚園では、午前中のこの時間、公演で園児たちを遊ばせている)。みんな帽子をかぶっている。
あ、こっ、こっれは、血小板ちゃんたちだ。心の中で思わずそう叫んだ。
これはワクチン接種の副反応によって起こった幻覚ではないよ。
このところワクチン接種の時間がとれず、本日までのびのびになっていたのだが、ようやく二種のワクチンを接種、それも同時接種。ワクチン陰謀論者からしたら、ふたつも同時に接種するとは自殺行為なのかもしれないが、もちろん政府・厚労省は同時接種が可能であるとしている。
病院で支払いをすませて帰り道、近くの公園のブランコや砂場があるセクションで、幼稚園児たちが黄色い歓声をあげて遊んでいる(近くの幼稚園では、午前中のこの時間、公演で園児たちを遊ばせている)。みんな帽子をかぶっている。
あ、こっ、こっれは、血小板ちゃんたちだ。心の中で思わずそう叫んだ。
これはワクチン接種の副反応によって起こった幻覚ではないよ。
posted by ohashi at 17:58| コメント
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2024年12月15日
『夏の夜の夢』1
彩の国さいたま芸術劇場で、シェイクスピア『夏の夜の夢』(吉田鋼太郎演出、小田島雄志訳)を観る。今回の公演は、実は数日前に観た新国立劇場中劇場のブルガーコフ『白衛軍』(上村聡史演出、小田島創志訳)と同様に、小田島家の翻訳ということではなく(いやそれも共通点だが)、ともに「文化庁劇場・音楽堂等における子供舞台芸術鑑賞体験支援事業」である。そうした支援事業の意義は大きいと思うし、それによって公演が可能になるのはよいことだが、そのぶん今回のさいたま芸術劇場の公演のように、一般観客の観劇日が減るのはしかたないとあきらめるべきか、どうか。
というのも今回の吉田鋼太郎氏演出の『夏の夜の夢』は、前作の『ハムレット』ともども、これからの日本におけるシェイクスピア演劇のスタンダードを確立したという思いを強くしたからである。この公演は、日本各地を回ったら素晴らしい結果を残すと思うし、たとえすぐにでもなくてもよいが、いつか再演してほしいと願ってやまない公演である。
スタンダードというと、標準版ということで、平均的な出来と思われては困る。むしろこれは規範みたいなもので、これからのシェイクスピア劇上演の真価が、この吉田版を超えているか、あるいはそのレベルに到達しているかによって判断されるということである。けっして平均的ということではない。それだと独創性があまりないと思われがちだが、今回の公演は独創性を事欠くことはけっしてない。そうではなくて、独創性の立ち上げ方の標準あるいはモデルとしても今回の公演が重要な役割をはたすということである。
今回の公演は、高校生を中心とした若い観客に向けてもつくられているので、そこのところがどうかという不安もないわけではなかったが、実際の舞台は、これぞ『夏の世の夢』の、新たなる可能性と、過去の演出・翻案の集大成とでもいうべきものとが合体していて、高校生向けだからということではない、つまり手を抜かないし手を緩めない、見事な演出となっていた。
その最たる例が水を使う演出で、舞台の最初から最後まで、大きな水槽が置かれ、それが最初から最後まで重要な役割を担っていた。ただ水につかっていたり、水槽に投げ込まれたり、水槽の水をかけあったり、水槽のなかでころげまわったりと、これは水が主役の舞台というのは、いいすぎと思うのだが、水が、もう一人の出演者・登場人物である。水が、まちがいなく舞台に豊かな表情をあたえていた。
そしてもうひとつが階段(それに梯子)。まあ、水の使用も、昭和を感じさせる演出でもあるのだが、階段と梯子も、舞台空間を立体的に使うというか、舞台を三次元的に拡張するものである。と同時に、それらは演技を超絶技巧化する重要な装置ともなっていた。超絶技巧? そう、階段を登ったり下りたりしながら台詞を発することは、一度に二つのことをする(階段の上り下りと発声)ため、常人では簡単にできないことであり、演ずる者たちのすぐれた能力なしではなしえない。
そしてそうした技巧性や技術性を前面に出しながら、また舞台空間を余すところ活用しながら、最前列付近の観客に水がかかってもかまわない壮絶な水しぶきをまき散らし、そして水のしたたる裸体を何度も見せる俳優たちによって構成される舞台。演出家の、ある意味、わがままなというか盛りだくさんの要求に見事にこたえている俳優たちの努力に誰もが深い感銘を受けるにちがいない。
これは高校生にぜひ見てほしい舞台だし、高校生だけに見みせるのは惜しい、誰にも見てほしい舞台だった。
というのも今回の吉田鋼太郎氏演出の『夏の夜の夢』は、前作の『ハムレット』ともども、これからの日本におけるシェイクスピア演劇のスタンダードを確立したという思いを強くしたからである。この公演は、日本各地を回ったら素晴らしい結果を残すと思うし、たとえすぐにでもなくてもよいが、いつか再演してほしいと願ってやまない公演である。
スタンダードというと、標準版ということで、平均的な出来と思われては困る。むしろこれは規範みたいなもので、これからのシェイクスピア劇上演の真価が、この吉田版を超えているか、あるいはそのレベルに到達しているかによって判断されるということである。けっして平均的ということではない。それだと独創性があまりないと思われがちだが、今回の公演は独創性を事欠くことはけっしてない。そうではなくて、独創性の立ち上げ方の標準あるいはモデルとしても今回の公演が重要な役割をはたすということである。
今回の公演は、高校生を中心とした若い観客に向けてもつくられているので、そこのところがどうかという不安もないわけではなかったが、実際の舞台は、これぞ『夏の世の夢』の、新たなる可能性と、過去の演出・翻案の集大成とでもいうべきものとが合体していて、高校生向けだからということではない、つまり手を抜かないし手を緩めない、見事な演出となっていた。
その最たる例が水を使う演出で、舞台の最初から最後まで、大きな水槽が置かれ、それが最初から最後まで重要な役割を担っていた。ただ水につかっていたり、水槽に投げ込まれたり、水槽の水をかけあったり、水槽のなかでころげまわったりと、これは水が主役の舞台というのは、いいすぎと思うのだが、水が、もう一人の出演者・登場人物である。水が、まちがいなく舞台に豊かな表情をあたえていた。
そしてもうひとつが階段(それに梯子)。まあ、水の使用も、昭和を感じさせる演出でもあるのだが、階段と梯子も、舞台空間を立体的に使うというか、舞台を三次元的に拡張するものである。と同時に、それらは演技を超絶技巧化する重要な装置ともなっていた。超絶技巧? そう、階段を登ったり下りたりしながら台詞を発することは、一度に二つのことをする(階段の上り下りと発声)ため、常人では簡単にできないことであり、演ずる者たちのすぐれた能力なしではなしえない。
そしてそうした技巧性や技術性を前面に出しながら、また舞台空間を余すところ活用しながら、最前列付近の観客に水がかかってもかまわない壮絶な水しぶきをまき散らし、そして水のしたたる裸体を何度も見せる俳優たちによって構成される舞台。演出家の、ある意味、わがままなというか盛りだくさんの要求に見事にこたえている俳優たちの努力に誰もが深い感銘を受けるにちがいない。
これは高校生にぜひ見てほしい舞台だし、高校生だけに見みせるのは惜しい、誰にも見てほしい舞台だった。
posted by ohashi at 23:14| 演劇
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『白衛軍』1
新国立劇場中劇場でブルガーコフ原作の戯曲『白衛軍』(演出:上田聡史、翻訳:小田島創志)を観劇(本日ではない)。
演劇研究者ならブルガーコフの演劇作品を持っていたり読んでいたりして当然で、私も次の英訳をもっている。Mikhail Bulgakov, Six Plays (Methuen Drama,1991)。私がもっているのは1998年版なのだが、いつ購入したのか不明。たぶん21世紀に入ってからだろうが、けっこうきれいな状態というか、新刊と変わりない状態なので、読んでいないことがばればれなのだが、しかしThe Last Playsは読んでいる。問題は、なぜそれを読もうとしたのか、あるいはなぜこの英訳選集を購入したのか。
とはいえ今回の上演で、『白衛軍』の英訳を読むことができたのはよかった(The White Guard, translated by Michael Glenny)。これを機に、ブルガーコフの他の残りの作品も読んでみたくなった。
今回の上演は、英訳で読んで抱いていた作品のイメージを、ふくらまし、また精緻にすることはあっても、決して裏切らない演出で、すぐれた舞台であることはまちがいない。
ブルガーコフの演劇的強度に満ちた展開と、俳優たちの演技の多様性と統一性の共存によっても、芝居をみる喜びをあたえてくれた。
ポスターやチラシなどには雪原を進軍する白衛軍の騎兵が描かれているのだが、雪原での戦闘シーンはなく、白衛軍が兵舎として使っている学校の一室での戦闘はある。また場所が白衛軍の駐留地とか、ゲトマン軍、ペトリューラ軍それぞれの司令部とか、あちこちと飛ぶ。しかしまた第一幕と第四幕(終幕)はトゥルビン家の居間が舞台となる。この居間でのやりとりをみると、この『白衛軍』はチェーホフの芝居を髣髴とさせる。遠くの砲声によって戦闘が暗示されるが、あとは、暴力とか死が入り込まない居間での出来事となる。実際そうなのだ。劇の幕切れ近くにチェーホフが引用される。英訳で読んでいたときには、チェーホフの引用がどこからきたのかわからなかったのだが、小田島創志氏の翻訳のセリフを聞いていたら、あああれかとすぐにわかった。『ワーニャ伯父さん』の最後のソーニャのセリフ。新しい時代の到来に対する喜びはなく、ただ不安と忍耐しかない。それが『白衛軍』の幕切れとなる。
【ただし、今回の演出あるい英語台本では、チェーホフ的なところは出さないようにしているようにも思われたのだが。】
今回はアンドリュー・アプトンの英訳の台本にもとづくとある。アプトン版をもっていないし、ブルガーコフのこの作品には日本語訳もあるのだが、それももっていない。私のもっている英語訳でなんとかなるだろうと思っていた。たしかに、何とかなったのだが、同時に、いろいろなことに気づくことになった。
なお小田島創志氏の翻訳は、実に見事で、耳で聞いていても、違和感とかわかりにくいとことはなく、完成度の高いというか、完成された翻訳であり舞台台本としても優れていることは確認しておきたい。氏の最近の目覚ましい仕事ぶり(その若さでの)には感服するしかなく、バーナード・ショーの翻訳(初めて知った作品だったので、手持ちのほこりにまみれたショーの全集を引っ張り出して読んでみた――ショーの作品の常で、序文が作品よりも長くて疲れたのだが)は驚いたけれども、ブルガーコフを翻訳するとも思わなかった。氏が今度、どんな作品の翻訳をするのか(たとえそれが頼まれた仕事ではあったとしても)目が離せない。
【ちなみに、劇場で、小田島創志氏からは挨拶されてしまった。私はマスクをして一般観客にまぎれていると自分では思っていたのだが、それでも私の独特の体型とか姿勢とか歩き方とか、顔がでかいとかいった身体的特徴のせいで結局は目立ってしまったのか、あるいは小田島氏のすぐれた観察眼のせいか、先に見つけられて声をかけられた。まさか劇場のホワイエで出会うとは全く予想していなかったので驚いた。とっさに、たまには招待券ちょうだいとおねだりしようと思ったのだが、あまりにいやらしいので、それは語らずじまいだったのだが……。なお万が一、このコメントが小田島創志氏の眼にとまったり、あるいは耳に入ったりしても、絶対に、招待券を送ることはしないように。私が軽蔑するどこかの県知事みたいなおねだり体質と思われるのは、ほんとうに嫌なので)】
つづく
演劇研究者ならブルガーコフの演劇作品を持っていたり読んでいたりして当然で、私も次の英訳をもっている。Mikhail Bulgakov, Six Plays (Methuen Drama,1991)。私がもっているのは1998年版なのだが、いつ購入したのか不明。たぶん21世紀に入ってからだろうが、けっこうきれいな状態というか、新刊と変わりない状態なので、読んでいないことがばればれなのだが、しかしThe Last Playsは読んでいる。問題は、なぜそれを読もうとしたのか、あるいはなぜこの英訳選集を購入したのか。
とはいえ今回の上演で、『白衛軍』の英訳を読むことができたのはよかった(The White Guard, translated by Michael Glenny)。これを機に、ブルガーコフの他の残りの作品も読んでみたくなった。
今回の上演は、英訳で読んで抱いていた作品のイメージを、ふくらまし、また精緻にすることはあっても、決して裏切らない演出で、すぐれた舞台であることはまちがいない。
ブルガーコフの演劇的強度に満ちた展開と、俳優たちの演技の多様性と統一性の共存によっても、芝居をみる喜びをあたえてくれた。
ポスターやチラシなどには雪原を進軍する白衛軍の騎兵が描かれているのだが、雪原での戦闘シーンはなく、白衛軍が兵舎として使っている学校の一室での戦闘はある。また場所が白衛軍の駐留地とか、ゲトマン軍、ペトリューラ軍それぞれの司令部とか、あちこちと飛ぶ。しかしまた第一幕と第四幕(終幕)はトゥルビン家の居間が舞台となる。この居間でのやりとりをみると、この『白衛軍』はチェーホフの芝居を髣髴とさせる。遠くの砲声によって戦闘が暗示されるが、あとは、暴力とか死が入り込まない居間での出来事となる。実際そうなのだ。劇の幕切れ近くにチェーホフが引用される。英訳で読んでいたときには、チェーホフの引用がどこからきたのかわからなかったのだが、小田島創志氏の翻訳のセリフを聞いていたら、あああれかとすぐにわかった。『ワーニャ伯父さん』の最後のソーニャのセリフ。新しい時代の到来に対する喜びはなく、ただ不安と忍耐しかない。それが『白衛軍』の幕切れとなる。
【ただし、今回の演出あるい英語台本では、チェーホフ的なところは出さないようにしているようにも思われたのだが。】
今回はアンドリュー・アプトンの英訳の台本にもとづくとある。アプトン版をもっていないし、ブルガーコフのこの作品には日本語訳もあるのだが、それももっていない。私のもっている英語訳でなんとかなるだろうと思っていた。たしかに、何とかなったのだが、同時に、いろいろなことに気づくことになった。
なお小田島創志氏の翻訳は、実に見事で、耳で聞いていても、違和感とかわかりにくいとことはなく、完成度の高いというか、完成された翻訳であり舞台台本としても優れていることは確認しておきたい。氏の最近の目覚ましい仕事ぶり(その若さでの)には感服するしかなく、バーナード・ショーの翻訳(初めて知った作品だったので、手持ちのほこりにまみれたショーの全集を引っ張り出して読んでみた――ショーの作品の常で、序文が作品よりも長くて疲れたのだが)は驚いたけれども、ブルガーコフを翻訳するとも思わなかった。氏が今度、どんな作品の翻訳をするのか(たとえそれが頼まれた仕事ではあったとしても)目が離せない。
【ちなみに、劇場で、小田島創志氏からは挨拶されてしまった。私はマスクをして一般観客にまぎれていると自分では思っていたのだが、それでも私の独特の体型とか姿勢とか歩き方とか、顔がでかいとかいった身体的特徴のせいで結局は目立ってしまったのか、あるいは小田島氏のすぐれた観察眼のせいか、先に見つけられて声をかけられた。まさか劇場のホワイエで出会うとは全く予想していなかったので驚いた。とっさに、たまには招待券ちょうだいとおねだりしようと思ったのだが、あまりにいやらしいので、それは語らずじまいだったのだが……。なお万が一、このコメントが小田島創志氏の眼にとまったり、あるいは耳に入ったりしても、絶対に、招待券を送ることはしないように。私が軽蔑するどこかの県知事みたいなおねだり体質と思われるのは、ほんとうに嫌なので)】
つづく
posted by ohashi at 00:18| 演劇
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2024年12月08日
それが問題だ
今年は、彩の国さいたま芸術劇場で『ハムレット』を、またパルコ劇場で『ハムレットQ1』を観ることができて、きわめて有意義な観劇体験を得たのだが、二つの公演のプログラムのなかのエッセイで、『ハムレット』の有名な独白、“To be or not to be, that is the question”が取り上げられていた。執筆者は同じ。そのエッセイでは、この有名な独白をめぐり、それがフェミニン・エンディングになっているということから、いろいろな連想が紡がれてゆき、書き手の文才に大いに感銘を受けたので、それはそれでいいのだが、ただ、シェイクスピアの無韻詩blank verseの例として、この独白の一行は、字余り/フェミニン・エンディング以外にもやっかいなことがある。私自身、大学で教えていた頃に、この一行をシェイクスピアのブランク・ヴァースの例としてとりあげたことは一度もない。
まず、“To be or not to be, that is the question” というのは日本風にいうと字余りになっていて、ブランク・ヴァースのルールに厳密に則ってはいない。
ブランク・ヴァースの特徴である弱強のリズムで確認してみよう。
To be or not to be, that is the question (太字は強勢を置いて発音するところ。なお強勢というのはstressということだが、日本語にはこれがないため発音しにくい。日本人の場合、強くではなく長く発音するほうが発音しやすい。そこで「トゥ、ビ~、オア、ノ~ット、トゥ、ビ~」となることが多い)
通常は10音節で、弱強という二拍子のリズムが5回くりかえされる。ところが上記のセリフでは11音節となり、末尾のtionの音節が余計になる。このような行の終わり方をfeminine endingと呼んでいる。
しかし問題はそれだけではない。前半のTo be or not to beはルール通りで弱強の二拍子のリズムが3回つづき、問題はない。ところが後半は、字余りということも含めて、弱強のリズムが不自然である。
そもそもthat is the questionを「ざっと・い~ず・ざ・くうぇ~すちょん」なんて発音をするのか。この台詞を弱強五歩格のブランク・ヴァースの例として引用する人間に問いたい。あなたは、後半をどうやって発音するのか、と。まさか「ざっと・い~ず・ざ・くうぇ~すちょん」なんて発音しませんよね。
なるほど、この台詞の後半は、4音節プラス1音節で、字余りとなる一音節を除けば、弱強の二拍子になるのだが、それは文字の並びをみてのことで、実際にそのリズムで発音するとなると、isに強勢を置くことになり、変則的で不自然になる。
可能性としては、
That is the questionと、弱強ではなく、強弱のリズムとなって、通常弱く発音されるisとtheをひとまとめにすると、これで変則の強弱4音節となる。
あるいは当時は-tion語は、フランス語と同じように(もともとフランス語からきているのだが)、ti-onと二音節で発音していた(つまり「クウェス・ティ・オーン」というように発音していた)。
そこで
That is the questi-onとなって、That is theが強勢がないところで、まとめて弱部とし、queが強勢のあるところ、そしてtiが強勢のないところ、onが強勢のあるところとなると、これで末尾が字余りではないかたちのセリフとなる。
では実際の(現代の)舞台ではどう発音されるのだろう。ネット上には、この台詞を語っている舞台とか映画の映像、あるいは朗読している映像なり音声が数多くある。ぜひ、それを聞いていただきたい。
後半を that is the questionといった珍妙な発音をするものは、私が観た限りではひとつもない。まあ当然である。isに強勢が入るのは不自然だからだ(たとえ強調の意味でbe動詞が強く発音されることはあるとしても)。ではどう発音されているのか。
ひとつには
To be or not to be, that is the question この後半部を平坦にさらっと流して発音するもの(弱強のリズムはなし)。
あるいは
To be or not to be, that is the question thatを強く発音するが、それ以下がしりすぼみになるような発音。
どちらの発音も、この一行の意味を踏まえてのことである。To be or not to beと威勢よく二つの可能性を掲げ、次にどちらかを選ぶと思われたら、どちらの可能性も選べないというかたちで、腰砕けになるのが後半なのである。威勢の良い前半部と、弱腰になる後半部。この対比は面白いし、前半部と差異化するためにも、後半部は、弱弱しく、あるいは苛立たしく、「それが問題だ」と切り替える。
そして、このような台詞の流れの中で、“that is the question” などいう機械的で不自然な弱強のリズムは、あくまでも文字だけの存在で、実際に声に出されることはない。文字と声、形式と感情とが齟齬をきたしている。
思えば、これが『ハムレット』という作品のイメージとつながっている。つまり世界文学史上屈指の名作ながら、実際には、よくわからないところ、謎めいたところが多くて、単純には割り切れない。にもかかわらず、例にあげられたり、人気演目として上演される。
一見単純でわかりやすそうなこのTo be or not to beの台詞が、前半部の意味のわからなさと、全体として無韻詩のルールに従っているかにみえて字余りになるだけでなく、発音できそうで発音できない後半部によって、きわめて謎めいている。よく知られているが、同時によくわからない。そうした矛盾のかたまり、それがこの一行であり、それは作品の人気とわかりにくさと響きあっている。
さらにいえば前半の男らしい選択肢の宣言、後半の弱腰あるいは懐疑によって、ジェンダー的(伝統的なジェンダー的)観点からいえば、この一行は、前半部が男性的、後半部が女性的であり、両性具有的なのである。あるいはトランスジェンダー的。あるいは男性原理と女性原理がせめぎあっている。
この有名な台詞は謎めいているがゆえに限りない魅力を帯びている。ただ、ブランク・ヴァースの例としてだけは引用しないほうがいいと、余計なお世話かもしれないが、ここに記しておきたい。
付記:レッシング『賢者ナータン』丘澤静也訳(光文社古典新訳文庫2020)で訳者の丘澤静也氏は、訳者あとがきで、この作品が劇詩であることを触れて、次のように書かれている。
結局、ブランクフェルスを日本語に反映させるのは無理なので散文訳にしたと丘澤氏はことわっておられるのだが、英語のブランク・ヴァースの一例として、丘澤氏は、人口に膾炙しているこのハムレットのせりふを一例として引用されたかと思うのだが、この一行の後半の例外的なことには触れられていない。この一行は例にひかれがちなのだが、同時に例にひかれるほどの典型性はない。丘澤静也訳『賢者ナータン』は、すばらしい翻訳なのだが、読者は、あとがきのこの例には戸惑うかもしれない。そして、では代案があるのかといわれても、それはないとしか答えられず、ほんとうに面倒なのである。
まず、“To be or not to be, that is the question” というのは日本風にいうと字余りになっていて、ブランク・ヴァースのルールに厳密に則ってはいない。
ブランク・ヴァースの特徴である弱強のリズムで確認してみよう。
To be or not to be, that is the question (太字は強勢を置いて発音するところ。なお強勢というのはstressということだが、日本語にはこれがないため発音しにくい。日本人の場合、強くではなく長く発音するほうが発音しやすい。そこで「トゥ、ビ~、オア、ノ~ット、トゥ、ビ~」となることが多い)
通常は10音節で、弱強という二拍子のリズムが5回くりかえされる。ところが上記のセリフでは11音節となり、末尾のtionの音節が余計になる。このような行の終わり方をfeminine endingと呼んでいる。
しかし問題はそれだけではない。前半のTo be or not to beはルール通りで弱強の二拍子のリズムが3回つづき、問題はない。ところが後半は、字余りということも含めて、弱強のリズムが不自然である。
そもそもthat is the questionを「ざっと・い~ず・ざ・くうぇ~すちょん」なんて発音をするのか。この台詞を弱強五歩格のブランク・ヴァースの例として引用する人間に問いたい。あなたは、後半をどうやって発音するのか、と。まさか「ざっと・い~ず・ざ・くうぇ~すちょん」なんて発音しませんよね。
なるほど、この台詞の後半は、4音節プラス1音節で、字余りとなる一音節を除けば、弱強の二拍子になるのだが、それは文字の並びをみてのことで、実際にそのリズムで発音するとなると、isに強勢を置くことになり、変則的で不自然になる。
可能性としては、
That is the questionと、弱強ではなく、強弱のリズムとなって、通常弱く発音されるisとtheをひとまとめにすると、これで変則の強弱4音節となる。
あるいは当時は-tion語は、フランス語と同じように(もともとフランス語からきているのだが)、ti-onと二音節で発音していた(つまり「クウェス・ティ・オーン」というように発音していた)。
そこで
That is the questi-onとなって、That is theが強勢がないところで、まとめて弱部とし、queが強勢のあるところ、そしてtiが強勢のないところ、onが強勢のあるところとなると、これで末尾が字余りではないかたちのセリフとなる。
では実際の(現代の)舞台ではどう発音されるのだろう。ネット上には、この台詞を語っている舞台とか映画の映像、あるいは朗読している映像なり音声が数多くある。ぜひ、それを聞いていただきたい。
後半を that is the questionといった珍妙な発音をするものは、私が観た限りではひとつもない。まあ当然である。isに強勢が入るのは不自然だからだ(たとえ強調の意味でbe動詞が強く発音されることはあるとしても)。ではどう発音されているのか。
ひとつには
To be or not to be, that is the question この後半部を平坦にさらっと流して発音するもの(弱強のリズムはなし)。
あるいは
To be or not to be, that is the question thatを強く発音するが、それ以下がしりすぼみになるような発音。
どちらの発音も、この一行の意味を踏まえてのことである。To be or not to beと威勢よく二つの可能性を掲げ、次にどちらかを選ぶと思われたら、どちらの可能性も選べないというかたちで、腰砕けになるのが後半なのである。威勢の良い前半部と、弱腰になる後半部。この対比は面白いし、前半部と差異化するためにも、後半部は、弱弱しく、あるいは苛立たしく、「それが問題だ」と切り替える。
そして、このような台詞の流れの中で、“that is the question” などいう機械的で不自然な弱強のリズムは、あくまでも文字だけの存在で、実際に声に出されることはない。文字と声、形式と感情とが齟齬をきたしている。
思えば、これが『ハムレット』という作品のイメージとつながっている。つまり世界文学史上屈指の名作ながら、実際には、よくわからないところ、謎めいたところが多くて、単純には割り切れない。にもかかわらず、例にあげられたり、人気演目として上演される。
一見単純でわかりやすそうなこのTo be or not to beの台詞が、前半部の意味のわからなさと、全体として無韻詩のルールに従っているかにみえて字余りになるだけでなく、発音できそうで発音できない後半部によって、きわめて謎めいている。よく知られているが、同時によくわからない。そうした矛盾のかたまり、それがこの一行であり、それは作品の人気とわかりにくさと響きあっている。
さらにいえば前半の男らしい選択肢の宣言、後半の弱腰あるいは懐疑によって、ジェンダー的(伝統的なジェンダー的)観点からいえば、この一行は、前半部が男性的、後半部が女性的であり、両性具有的なのである。あるいはトランスジェンダー的。あるいは男性原理と女性原理がせめぎあっている。
この有名な台詞は謎めいているがゆえに限りない魅力を帯びている。ただ、ブランク・ヴァースの例としてだけは引用しないほうがいいと、余計なお世話かもしれないが、ここに記しておきたい。
付記:レッシング『賢者ナータン』丘澤静也訳(光文社古典新訳文庫2020)で訳者の丘澤静也氏は、訳者あとがきで、この作品が劇詩であることを触れて、次のように書かれている。
……だが劇詩『賢者ナータン』は、めずらしく散文ではなく、ブランクフェルス(Blankvers)で書かれている。
〈ブランク[押韻のない]+フェルス[詩]〉は英語だとブランク・ヴァース(blank verse)。ポイントは押韻ではなく強弱。弱強5歩格というスタイルがポピュラーで、たとえばハムレットのせりふ――“To(弱) be(強), or(弱) not(強) to(弱) be(強): that (弱)is(強) the (弱)question(強)”。【p.304】
結局、ブランクフェルスを日本語に反映させるのは無理なので散文訳にしたと丘澤氏はことわっておられるのだが、英語のブランク・ヴァースの一例として、丘澤氏は、人口に膾炙しているこのハムレットのせりふを一例として引用されたかと思うのだが、この一行の後半の例外的なことには触れられていない。この一行は例にひかれがちなのだが、同時に例にひかれるほどの典型性はない。丘澤静也訳『賢者ナータン』は、すばらしい翻訳なのだが、読者は、あとがきのこの例には戸惑うかもしれない。そして、では代案があるのかといわれても、それはないとしか答えられず、ほんとうに面倒なのである。
posted by ohashi at 17:56| コメント
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