『南総里見八犬伝』で驚くのは、犬の房八が伏姫に欲情することである。あらすじで確認する。
時はくだり長禄元年(1457年)、里見領の飢饉に乗じて隣領館山の安西景連が攻めてきた。【映画『八犬伝』は、ここから始まる】落城を目前にした義実は飼犬の八房に「景連の首を取ってきたら娘の伏姫を与える」と戯れを言う【いくつか褒美の条件を出して、八房を刺客犬にしようとするのだが、この条件に八房は強く反応する】。はたして八房は景連の首を持参して戻って来た。八房は他の褒美に目もくれず、義実にあくまでも約束の履行を求め、伏姫は君主が言葉を翻すことの不可を説き、八房を伴って富山(とやま)に入った。記
富山で伏姫は読経の日々を過ごし、八房に肉体の交わりを許さなかった。翌年、伏姫は山中で出会った仙童から、八房が玉梓の呪詛を負っていたこと、読経の功徳によりその怨念は解消されたものの、八房の気を受けて種子を宿したことが告げられる。懐妊を恥じた伏姫は、折りしも富山に入った金碗大輔【のちの丶大(ちゅだい)】・里見義実の前で割腹し、胎内に犬の子がいないことを証した【なお富山(とやま)で八房は、金碗大輔が撃った火縄銃【アナクロニズム】の銃弾で殺されるのだが、鉄砲には二つの玉が仕込まれていて、もう一つの鉄砲玉が伏姫にあたって彼女の命を奪うことになる。私は最初、彼女が流れ弾に当たったと勘違いした。映画では、そのへんは曖昧に描かれていて、彼女が八房をかばって自ら銃弾に倒れたというかたちになっている】。その傷口【割腹の傷口】から流れ出た白気(白く輝く不思議な光)は姫の数珠を空中に運び、仁義八行の文字が記された八つの大玉を飛散させる。Wikipedia なお【 】内の太字は筆者の注
【余計な注記をさらに。オランダの初代君主オラニエ公ウィレム(英語読みするとオレンジ公ウィリアム)は、フランスのカトリック教徒の放った3発の銃弾によって殺される。Wikipediaにも「ウィレムは、突然現れた暗殺者から3発の銃弾を浴びせられ、「神よ、わが魂と愚か者たちにお慈悲を」との言葉を残して倒れたと伝えられている」とあるが、まず凶器は火縄銃ではない。それは大きくかさばり、目立つので持ち込めない。凶器は拳銃である。ただし当時の拳銃は、火縄銃の小型版ではなく、火打石を内蔵していた高度で複雑な武器だった。独りの暗殺者が3発発射したというのは、連射したわけではない。また拳銃がリボルバー式だったわけではない(それはまだ歴史に登場していない)。当時の先込式の銃(火縄銃であれ拳銃であれ)は殺傷能力を高めるために複数の銃弾を銃身の先端から入れることがあった。ちなみにオラニエ公のボディーガードはエリザベス女王が派遣した兵士たちだったが、なんの役にもたたなかった。】
上記のあらすじでは、有名な八つの大玉と八犬士の由来が語られる。また映画では大型犬の八房の背中に乗って伏姫が城から去る場面では、思わず、アニメ『スパイファミリー』におけるボンド(白い大型犬)の背中に乗るアーニャを思い出したのだが、もちろん『八犬伝』における伏姫と八房の関係はそんな微笑ましいものではない。
そこには犬と人間とのセックスが、描かれているわけではないが、否定されることによって逆に喚起されているのだ。八房は伏姫に欲情した。その性欲は読経の功徳によって消えたとあるが、伏姫は、懐妊しているのである。その性行為なき懐妊は、ダメ押しするかのように性行為を喚起する。そして伏姫の死とともに八つの大玉が飛散し、そこから八犬士が生まれたことになる。彼女は八犬士の母親である。
人間の母親は一度に8人の子供を産むことはないが、犬は一回に5匹から10匹を出産する。一度に8人の子供を産むことは人間では珍しいが、というか不可能だが、犬の場合、ふつうである。となると八犬士の父親は八房ということになる。母親である伏姫はすでに半分犬になっている。実際、原作でも語り手が語っているように、そもそも「伏姫」という名前の「伏」自体が、人間(亻=にんべん)と犬との合体「伏」なのである。彼女はその名前からして、犬とむきあい、犬と合体し、犬を宿すことが運命づけられていた。
そして犬どうしの関係は映画では馬琴と北斎との関係にもあらわれる。北斎が馬琴から『八犬伝』の構想を聞いて、そのなかの場面を絵にしながらも、描いた絵を馬琴に渡さないというのは理解できないのだが――ちなみに渡さない理由を北斎を演じた内野聖陽が新聞で語っていたのだが、映画のなかでは何の説明もなかった。映画のなかではそのとき北斎が絵を描きやすいように馬琴は、自分の背中を貸すのである。北斎は馬琴の背中に紙を置いて描く。だが、それでほんとうに絵が描きやすくなるかどうかは疑問である。しかし、そこから北斎と馬琴の仲の良さが伝わってくる。さらに、それは仲の良さを通り越して、そこに性的なものが感じられるのである。性交体位における、いわゆる後背位。英語ではこれをDoggy Styleという。そう、犬の体位。
馬琴が北斎に描きやすいように自分の背中を貸すというは、史実ではなくて、映画のオリジナルな設定だろう。もしそうなら、映画はここで、犬の体位、後背位、そして人間の男性同性愛という主題連鎖が紡ごうとしているのである。そしてそれはたんに馬琴と北斎のクィアな人間関係だけではなく、『南総里見八犬伝』の世界にもつながってゆく。
映画ではなく原作のほうの『南総里見八犬伝』における八犬士のなかにおいても、犬坂毛野は今風の言い方をすればトランスジェンダーである。原作では最初犬田小文吾は女装の毛野のこと女性と思い込んでいたし(映画『八犬伝』にはこれは描かれていない)、さらに八犬士のリーダー格で犬塚信乃は、元服まで女性として育てられていた。信乃という名前自体が女性名だし、八犬士を描いた当時の挿絵か錦絵には、信乃を女性として描いたものがある(これは絵師が人物名から判断してまちがえたということはありうるとしても、そのまちがいには意味がある)。
もちろん八人の剣士の活躍は、当然、男性集団というかホモソーシャル集団であって、そこに同性愛的なものをみるのは安易すぎると思われるかもしれないが、しかし、剣士を犬士と呼んで、あえてゲイ的要素を喚起しているのは馬琴のほうである。犬が普遍的にゲイ的なものを表象するとは思わないが、文脈によっては、たとえばDoggy Styleが問題になるようなときには、男性同性愛と結びつく。ヨルゴス・ランティモス監督の映画『ロブスター』(2015)は、異性のパートナーを見つけられないと動物に変えられてしまうという未来社会を扱う異色のSF映画だが、主人公の兄はパートナー探しに失敗して犬にかえられている。これは主人公の兄が同性愛者であることの暗示となっている。繰り返すがすべての事例がそうであるわけではないが、文脈によっては、犬は、一方で忠義・忠孝といった儒教的理念の体現者であると同時に同性愛者を強く喚起する。
映画『八犬伝』の原作、山田風太郎の同名作品は読んでいない。私の『南総里見八犬伝』についての知識は脆弱でもろい。この大長編小説の筋の展開、張り巡らされた伏線の意味など、たとえ完璧でなくても、四捨五入すれば完璧になる知識すら私は持ち合わせていない。そのためアダプテーションによって原作を見失うかもしれないし、ささいな変更については、それに気づかず、原作についてまちがった知識を定着させてしまうかもしれない。そのため私の『南総里見八犬伝』の知が確固たるものにならないまでは、アダプテーションは極力読まないようにしたい……。
そのため映画『八犬伝』について、原作『八犬伝』についての全く知らないまま語ることを許していただきたい。映画版についての指摘は、それが原作についての指摘と重なろうとも、あくまでも映画版についての話として受け止めていただきたい。
映画『八犬伝』の八犬士物語の部分では、玉梓/栗山千明が八犬士を最後まで脅かし、犬士の3人を殺す最強・最凶の悪役なのだが、原作では玉梓は最初のほうで呪いをかけて死んでしまい、物語の大団円で八犬士と対決するということはない。もちろん玉梓の分身のような悪女が次々と登場するのが原作の『南総里見八犬伝』の特徴のひとつともなっているのだが、映画『八犬伝』はそうした悪女を玉梓ひとりに集約させている。しかも玉梓は原作にはないことだが、化け猫なのである。
猫と犬との闘い。なぜこうなるのかというと、それは映画における滝沢馬琴のパートにおいて、馬琴/役所広司とその妻/寺島しのぶとの夫婦の戦いがあるからである。執筆活動に没頭し家族のことなど顧みないわがままな作家と、そんな作家に不満をかかえている妻というのは、よくある設定で、珍しくもないのだが、その夫と妻の対立が、八犬伝物語のなかにもちこまれ、epicといえるくらいの規模に膨れ上がるのである。そのため化け猫の玉梓と八犬士との対決は、動物闘争というよりジェンダー闘争の様相を色濃く呈してくるのだ。いいかえると、犬の物語を書いている夫に対し、自分は猫派だというようなことをいう妻のお百/寺島しのぶは、八犬士物語では玉梓となって、男性のホモソーシャル=ホモセクシュアル同盟を揺るがすのである。夫に対して口うるさく、つねに非難がましいことをいい、敬意のひとかけらも示すことのない毒婦のような妻。本来なら黙って男の世話をしていればいい妻。不平と不満しか口せず、夫への敬意をひとかけらも有していないこの毒婦・鬼嫁こそ、八犬士の物語にあらわれる邪悪な化け猫の起源である。ある意味、家父長制下において常態化しているこうした鬼嫁こそ、玉梓あるいは化け猫が表象する存在であり、この最強・最凶の敵を倒すことが八犬伝物語の目的となる。化け猫は八犬士の友情と結束を強める手段ではなくて、目的化する。つまりそれを倒すことが物語の目的なのである。男を、夫を呪いたおす妻を物語のなかで処刑すること、それ八犬伝なのである。
ちなみに映画『八犬伝』のなかで馬琴が鶴屋南北の『東海道四谷怪談』を嫌うのは、それが武士道の美徳を揶揄あるいは転倒させているからではなく、虐げられた妻が夫に復讐する物語だからである。馬琴の宇宙では女は邪悪の根源である。
だが馬琴物語の最後には予期せぬことが起こる。失明して執筆できなくなった馬琴は、出版元から男性の筆記者を紹介さても、その頑迷固陋な性格、こらえ性のないわがままな性格ゆえに、筆記者からあいそをつかされる始末。そして『南総里八犬伝』の完成は遠のくばかりだった。そこに死んだ息子の嫁であるお路/黒木華が聞き書きを申し出る。無学で読み書きもひらがなしかできない嫁の助力は無意味と考えていた馬琴だったが、嫁の必死の努力と執念によって、口述筆記によって『八犬伝』を完成させることになる。
ミソジニックな『南総里見八犬伝』宇宙、そして馬琴と北斎との友愛によって代表される女性を排除した男性ホモソーシャル/ホモセクシュアルな日常にあって、つねに抑圧され無用視され、さらには妨害者として邪悪化されてきた女性による献身的な努力によって、馬琴と『南総里見八犬伝』宇宙は救われたのである。ここにジェンダー闘争は、ひとつの和解を、調和的結末をみるといってもよいかもしれない。
もちろん嫁のお路/黒木華は決して弱音を吐かない芯の強い女性だが、同時に馬琴のわがままを受け入れ決して不平不満を言わない、常に男をたてる従順な女性であってみれば、家父長制における理想的な女性であり嫁であっても、男性の下位に位置する抑圧された女性であることに変わりはなく、馬琴のミソジニーを、また家父長制宇宙を、なんらゆるがすものではないかもしれず、そこにジェンダー闘争の真の解決はないともいえる。
馬琴が嫁に口述筆記させているとき、印象的な場面なのだが、病床にあった妻お百/寺島しのぶが廊下に這って出て馬琴と嫁がいる部屋の前まで体をひきずってくる。何事かと駆け寄るお路に対し、独りごとのように「くやしい」とつぶやく妻お百。おそらくこの場面こそが、たんにお百がお路に嫉妬していたという史実的伝聞の劇化というにとどまらない重要性をもつことになる。つまりその暗示性によって、あるべき和解が示唆されているのだから。
つまり馬琴の妻お百が、夫への不平不満を口にするなかで求めていたのは夫が彼女自身をよきパートナーとして扱うことだったのだ。おそらく馬琴は金目当てで履物屋の娘と結婚し、婿養子として暮らすことになるが、妻は馬琴よりも年上ということもあり、馬琴の男性性は日常的に危機に瀕していた。その反動で、『八犬伝』では化け猫退治の物語ができあがる。だが妻が密かに望んでいたのは、馬琴が自分をただの金づるならびに下女・家政婦としてのみ扱うのではなく、その創作活動を支援するパートナーとして扱うことであったはずだ。もちろん馬琴にしてみれば、無学な妻を創作のパートーナーにすることなど論外だったかもしれない。しかし、息子の鎮五郎のちの宗伯は医師になったことからわかるように、本来、彼女の地頭はよかったのだ(知能の高さは母親から伝わるといわれている)。もちろん彼女は無学だが、当時の庶民の女性はほぼ全員無学であって、無学が無能な証拠というわけではない。理想的なことをいえば(馬琴の好きな観念的理想であるが)、馬琴は嫁のお路に口述筆記をさせる前に、妻のお百を口述筆記をはじめとして創作のパートナーとして重用すべきであったのだ。そうすれば失明しても、滞りなく創作を継続できたかもしれない。もちろん妻にとっては下働きにすぎないかもしれないが、それは雑用係としての下働きではなく、夫の創作活動に参加し、みずからを高めることにもなり、また天下の大作家のパートナーとして自尊心も育むことになり、望ましい夫婦関係が実現していたかもしれないのだ。
だが馬琴のコンプレックス(武家になれない半端者としての自分、年上の女房、下駄屋の婿養子など)は妻をパートナーとすることを阻んだ【アドラー的にいうと、馬琴のコンプレックスが、結局、創作のエネルギーへと転換したともいえるのだが】。またなさけないことに、いまなお日本に根強い家父長的世界観が、女性を独立した人格、尊ぶべき個性としてみることを阻んだのである。
たとえ馬琴は、失明後に嫁に助けられ創作活動を維持できたとはいえ、映画のなかで最後には、みずからが生み出した八犬士たちに囲まれ抱きかかえられて昇天するのである。これはけっこう感動的な場面だった。実の世界(馬琴)と虚の世界(八犬士たち)とが出会い交流し仲睦まじく融合するのだから。あるいはスーパー戦隊物のヒーローたちが、その生みの親たる馬琴を祝福して胴上げしているようなイメージがあった。
だが八犬士の生みの親は伏姫であり、結局、犬の母親のように八匹の子供たちに囲まれた伏姫と八犬士の仲睦まじき絵が、馬琴を中心とする八犬士の絵によって抑圧されたということもできる。母性的な世界は、父性的な世界によってかき消される。
とはいえ女性を嫌い、女性によって危機的状況に陥る父権的世界が、最後にはもちなおして復活するという、あいもかわらぬ家父長制的物語であるとはいえ、それを貫く、男女のジェンダー闘争は(映画は、原作において陰在しているジェンダー闘争の要素を、作者馬琴の物語に縁どらせながら、顕在化させた点で、ある意味、特筆すべきものでもあるのだが)、『南総里見八犬伝』の新たな可能性を示すことになった。つまり
忠義なき正義な汚れた世の中に勧善懲悪という理想像を敢然と上書きした『南総里見八犬伝』は、そこにさらに理想的なあるべきジェンダー関係の姿を上書きされるべきものであることを、馬琴は意識していたかもしれない。
それは動物(犬)と人間との和合が、男性どおしの和合にとどまることなく、男女という宿敵の和合につながることにもなるからである。
とりあえず終わり。