2024年11月29日

スキンヘッドの女性

以下の記事が目についた。AbemaTVで2024年11月25日放送した番組の記事

「男かと思った」 坊主頭の女性に向けられる好奇の目 「好きでやっているのに変だと言われるのは悲しい」 ABEMA TIMES (Microsoft)
今SNSで話題の女性、Chiharuさん。映画で見た女性の坊主頭に憧れ、3年前にショートカットから坊主にした。しかし、彼女に注がれたのは「女性がなんで坊主?」という好奇の目。

「“あれ、男の人かな?女の人かな?”みたいな。そういう目で見られるのは気持ち悪い。(日本は)“女はこう、男はこう”みたいな固定概念が強い部分がある。好きでやっているのに、それは変だよと言われるのは悲しい」

あちこちにはびこるルッキズムについて、『ABEMA Prime』で彼女と考えた。

Chiharuさんは坊主にしたきっかけについて、「アニメやゲームで(女性キャラの坊主頭を)見て衝撃を受けて、“私もこうなりたい”と思った。髪の毛があった時は絶望というか、人生が暗い時期だったので、“運命を変えたい。今しかない”と思った」と説明。映画『G.I.ジェーン』の役作りで坊主にした米女優のデミ・ムーアへの憧れもあったという。

坊主にすると「男かと思った」「変だ」「髪は女性の命」「女性なら美しくあるべき」「髪があったほうがかわいいのに」などの声にさらされた。また、女性トイレに入ると驚かれるため、なるべく人がいないタイミングを選ぶことも。

しかし、再び髪の毛を伸ばしたい気持ちは「全くない」という。周囲の声についても、「最初は『なんで坊主?』『よりによって』と言われていたが、自分が好きでしたし、短いのが好きすぎて突き返した」と明かした。【以下、ルッキズム問題の記述へ】

「坊主頭」という表現は差別的な表現である。スキンヘッドと言い換えてほしい。

そしてここで話題になっているChiharuさん、端的に言って、美しい方で、美女は髪があってもなくても関係ない。また、「坊主にすると「男かと思った」「変だ」「髪は女性の命」「女性なら美しくあるべき」「髪があったほうがかわいいのに」などの声にさらされた」と記事にあるが、ほんとうにバカな日本人が多くて困る。というか日本人はバカだといいたい。

このChiharuさん「アニメやゲームで(女性キャラの坊主頭を)見て衝撃を受けて、“私もこうなりたい”と思った。」と語っているのだが、なぜ現実の女性がスキンヘッドだと嫌な顔をするのか。スキンヘッドを受け入れない日本人の美意識も感性も明らかに劣化しているとしかいいようがない。

実際問題、スキンヘッドの女性は、えもいわれぬ魅力がある。私がある学術団体の事務局長をしていた頃、近くの郵便局の窓口にスキンヘッドの若い女性がいた。彼女は、郵便局の窓口業務をはじめたばかりで、他の男性の郵便局員から指導を受けていたが、みんなとても親切に指導していた。他の男性局員にも人気があったのだろうと思う。

彼女の存在には、たまたま団体の郵便物を出しにいったときに気づいたのだが、以後、事務局に行くたびに、私は率先して郵便物をその郵便局にもっていった。事務局長たる者、そんなことは事務局員にまかせればいいのだが、こまめに雑用を引き受ける事務局長だろうと思われていたにちがいない。

順番もあって、彼女のいる窓口に郵便物を出すチャンスは、そんなにまわってこなかったが、待っているときに彼女のスキンヘッドと顔をみているだけで満足していた。スキンヘッドに見惚れていた。

その後、忙しくなって事務局の近くの郵便局に行っている時間がなくなって、彼女の姿をみることができなくなったのだが、私が郵便局に足繁く通っていた時期は、スキンヘッドのヴィーナスをみた至福の一時期だった。
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2024年11月28日

『六人の嘘つきな大学生』

原作が刊行されたときは、すごく評判のよい作品だったのだが、私個人としては大嫌いな作品である。とはいえこのような設定の推理小説は、おそらくはじめてかもしれず、理屈っぽい推理の部分も、丁寧かつ分かりやすい文章で、すんなり頭に入ってくるため、佳作であること(人によっては傑作と思だろうが)は、まちがいない。

以下、ネット上でのレヴューを部分的に引用して感想をまとめてみたい。実際にあったレヴューなのだが、その証拠や出典は明記しないので、嘘だと思われてもしかたがない。また省略をしたところは多いのだけれでも、文言を変えたり編集したりはしていない。

A. ミステリーの本質部分は変わっていないが、原作で意外とよいと感じて、どう映像で表現するのか楽しみにしていたところが、スルーされたのに、少しだけガッカリした。上記のように大人の事情でしかたないことは分かっている。

このコメント通りで、評判の作品なのに映画化が遅れたのは、理由がある。私も映像としてどう表現するのか興味津々だったが、上記のコメントのように完全にスルーされていた。

小説、あるいはラジオドラマでは、最後まで隠されているある事実が、映画では最初からわかってしまうので、どうするのか、と。上記レヴューアーの言うように、それは「大人の事情ではない」。小説やラジオでは可能でも映画では不可能であるというメディアの事情である。

B.……それに犯人の動機がいまいちピンとこない。ストーリーが陳腐なのが残念。結局明かされなかった嶌ちゃんの悪行は何だったのか?波多野に自分を推してくれと頼んだことか或いは⁈

上記Aの事情があって、嶌(しま)/浜辺美波の悪行というか秘密が不問のまま終わることになった。手紙は中身がわからないシニフィエなきシニフィアンで終わっている。またそのため嶌/浜辺美波の性格も原作と異なり改変されている。それは

C.原作通りなんでしょうけど、嶌の人物像が胡散臭いのが何とも言えない。
めちゃくちゃ強かで嫌な女だなって感じを上手に演じた浜辺さんが見事でした。

原作どおりではない。映画では、嶌/浜辺の人物像が確かに胡散臭いものになっている。ただし、それは全員怪しいという推理ドラマの定石でもある(それをいうのなら小説も同じ)。ただこの定石が、できるOLである嶌/浜辺に対して世界に冠たる女性差別国日本の男性に対してミソジニックな反応を喚起することになった。嶌は、波多野に自分を推してくれと頼むエゴイスティックな女性でもあるが、それを除けば好感こそ抱くことこそあれ、反感を抱くことにはならない。まあ世界に冠たる女性差別国日本の男子にとっては、浜辺美波は、戦後まもなくのころ、銀座でゴジラの爆風にふっとばされて死んだと思われるような被害者こそふさわしいのだろう。

D. 浜辺美波の弱みは何だったんだろう…

というコメントもあったが、確かに映画では弱みが描かれていない。原作には、最後のほうで(まあ、いわゆる伏線回収というところで)あかされるいくつかの弱みがある。ところが、その弱みも悪行ではない。ただし隠すことも嘘をついていたことになるのなら、彼女も嘘つきである。また原作での彼女は映画でみせるようなエゴむきだしの性格でもない。

E. 出演者、事務所、大学に忖度し過ぎた為に、オチがもう一つ。二十代なんだから、病死より事故死のほうが、よりリアル感が出せた。東大ではなく一橋にしたのも、六大学揃わずシックリこない。

しかし出演者や事務所に忖度する必要のない原作においてもオチというか犯人は同じ。もう一つといわれても、原作がそうなのだからしかたがない。東大生が混じっていないことについては原作にコメントがある。とはいえ、それほど納得できる理由ではないが。なお原作と映画では出身大学にちがいがみられる。原作では六大学ではないし、映画でも六大学ではない。

F. 勝手な最終面接がまかり通ってる、カメラ越しの訴えが通らない、最終選考の方針が急に変わるあたり、確かにダメな会社、終わってる人事だなとは思いましたけど。

むしろあんな会社だと普通の人は辞退するような。。

あと、安易に主人公を病死させてよかったのか?取り返しつかない感を安易に演出しててチープに感じました。

このコメントは正しいというか正鵠を射ていると思う。勝手な最終面接がまかり通っている。最初は6人一致団結して何か企画をつくりあげるのが課題で、でき次第では6人全員を採用してもいいという集団面接だったが、急遽、6人で相談の上、内定者を一人決めるという集団面接会議を行なうという聞いたことがない方式に変更。「確かにダメな会社、終わってる人事だなとは思いましたけど。/むしろあんな会社だと普通の人は辞退するような」というコメントはまさにそのとおり。ちなみに8年後におけるその会社の就職面接では、通常の面接なのだが、面接官がただひとりというありえない面接。原作では面接官が複数いたのだが--これでもし決まるのなら、こんな会社、辞退したほうがいい。

主人公の病死は、展開上、それなりの理由があるとしても、安易のそしりは免れない。主人公が殺されていたら、これも安易なことはまちがいないが、それほど批判されることもない。病死という設定が安易に思われる。私が原作に対していいだく不快感も、こうした安易さに原因があるのかもしれない。

「最終選考の方針が急に変わる」ことについては、急遽という感じだったが最初から予定していたことであり、なぜそうしたかについては原作に説明がある。とはいえ計画どおりだとしても、会社の人事面接の闇がうかがえる。圧迫面接あるいはそれに近いような競争させて順位を決めさせるような集団面接、混乱させて本音を引き出すような面接、いずれにせよ、下手をすると人権無視の暴力的なものになりかねない。しかも、そうまでしてベストな人間を採用するかというとそうでもない。その就職面接のいい加減さを告発するというのが犯人の目的だが……

G. とりあえず犯人の犯行動機が弱すぎる。
H.先輩が面接落とされたからってそこまでやる?笑

というように犯人の動機が弱いことは事実。実はその先輩は落とされても、その後、起業し、その社長におさまっていることから、そんなことで、そこまでするかという感想は偽らざるものだろう。

そもそも就職面接は、オーディションと同じで、会社が求める人材でなければ落とされる。落とされても、その人物の全人格が否定されたり能力が過小評価されるということではない。にもかかわらず、就職面接が、特定の仕事に対する人物の適正とか会社が要求しているもので合否を決めるのではなく、全人的な評価で決まるという前提はどこかおかしい。

しかもその前提にたって、就職面接、あるいは会社の人事部の方針なり審査のいい加減さを告発しようとしても、無理がある。いわんや就職面接はコネなども重視されるだろうから、公平な審査ではありえない。それは審査するほうも、審査されるほうもわかっている。就職面接という題材は興味深いものがあるし、共感を呼ぶテーマかもしれないが、それが犯罪につながるというのは大げさすぎる。とはいえそんなに凶悪な犯罪ではなく、死人はでない(面接後の病死者がひとりでるにしても)。

では純粋に犯人当てのゲームを楽しめばいいかというと、そうでもない。囚人のジレンマのような、だれがどのように状況を認知するかについての論理的な解決が行なわれるわけではない。せっかく、殺人事件はないことにしたのだから、もっとゲーム性や論理性をたかめればよかったのにと思うのは私だけだろうか。

I. 物語の大半が一つの部屋で展開される為まるで舞台劇を観ているかの様な錯覚を覚えます。カメラの位置を細かく変えたり、カット割りを増やしたりして舞台との差別化をはかろうとしていましたが、役者さんの演技自体が芝居がかっているので舞台劇の空気感を払拭するまでには至っておりませんでした。
個人的には舞台で本作を鑑賞したみたい気持ちにさせられてしまいました。

ヘキサゴンの部屋のなかで、6人が議論し知恵を出し合い、徐々に真相に近づいていくのだが……。という構成は、舞台劇を観ているようで、興味深い。映画ファンのなかには、舞台など観たこともないのに、演劇的なものにアナフィラキシー反応を示す**がいる。舞台劇のような映画というのは、確固たる一ジャンルを形成していて、それはそれで実に濃密なドラマ空間を提供してくれていて退屈しない。スペクタクル映画など私には退屈きわまりないしろものである。

「役者さんの演技自体が芝居がかっているので舞台劇の空気感を払拭するまでには至っておりませんでした」とあるが、設定と物語は舞台劇だが、演技は芝居がかっていはない。そもそも緊張感みなぎる設定のなかで、むしろ演技は自然そのものであって、あれを芝居がかっているというのなら、どんな映画俳優の芝居も芝居がかっている。

とはいえ「個人的には舞台で本作を鑑賞したみたい気持ちにさせられてしまいました。」というのは同感である。

実際、この『嘘つきな6人の大学生』の佐藤祐市監督は『キサラギ』(2007年)の監督でもある。【『探偵はBARにいる』の古沢良太脚本。小栗旬、ユースケ・サンタマリアなど豪華俳優が共演。自殺したアイドル・如月ミキの一周忌に集まったファンの男たちが彼女の自殺の真相に迫っていく密室劇】 この『キサラギ』を観たとき私は、てっきり芝居の原作があるものと思っていた。それくらい舞台劇のよさが出ていた映画だったのだ。原作はなかった。むしろこの映画そのものがのちに舞台化された。原作の小説は、舞台劇の感じはしないというか、謎解きの推理小説は、そもそもが舞台劇なのだが。この映画をもとに舞台化することは充分に可能菜だろう。そのときは芝居がかった演技を劇場で堪能したい。

J.……怒っている場面が多かったため鑑賞することに疲れてしまい、各々の嘘に隠された真実が暴かれた時に感動する程の気力が残っていませんでした

この人は映画版『12人の怒れる男』(1957)は観ない方がいいい。12人がみんな怒っていますから。小説を読んでいるときには感じなかったのだが、映画版をみてあらためて、これが『12人の怒れる男』のような密室劇であることに思い至った。時間を区切って、議論の結果の投票を行なうというのも似ている。もちろん陪審員の審議と就職の集団面接とは違うのだが、密室での審議という点は似ている。しいて言えば陪審員の場合、犯人は外にいるのだが、この映画では犯人は中にいるということか。

K.察しの良いミステリ好きにはバレてしまいますが、このインサート・シーンは後半に大きな意味を持つ要素で、映画ならではの魅力的な仕掛けになっていました。
後半と前半で印象が変化する作品の要でもあるので鑑賞中は撮影している側の気持ちになって観る事をおすすめします。
L.豪華な俳優陣で有名作品という事で期待したのですが、展開が読めて眠くなってしまいました。d

常に推理小説とか推理ドラマ・映画に対して先が読めてしまうという、頭のいい人が必ず現れる。マウントをとりたくてしかたのない人間は、自分がバカであることを自覚しているがゆえに、頭のよさを誇示したいバカなのだろう。原作も小説も、先が読める展開ではない。私の頭が悪いだけかもしれないとしても。

またこの作品(小説でも映画)における犯罪計画は、周到であっても賭けにでるところがあって、よくこんな緻密で大胆な犯罪を計画できたとどんなに称賛してもしきれないところがある。先が読めるというバカよりも、先が読めなくて驚いたという人こそ、賢明で誠実で、頭のよい人である。

実は原作はKindleで読んだので、密室劇が終わったときに、もうほぼ読み終わったと思ったら、まだ全体の半分しか読み進めていないことに気づいた。本で読んでいれば、まだ半分であることがすぐにわかっていたはずなのだが、Kindle版では基本的にわからない。

原作は前半が密室劇、後半は、就職が内定した一人が、病死した元候補者の遺した遺物を手掛かりに真相をつきとめる話。たしかに前半と後半では、どちらも一人称の告白だが、物語の展開は異なる。上記Kではインサート・シーンについて触れているが、これは原作でもそうで、原作のほうでも密室劇の部分に使われていて、集団面接の進行とともに、だれが最終的に内定者となったという謎の解明にかかわってくる。映画ならではの魅力的仕掛けではない。小説のほうが、もっといろいろなことができる。映画での使用は、単純すぎる。

最後に全体的なテーマとしてのこの映画の嫌なところ。通常の推理物あるいは警察ドラマでは、犯人は逮捕され罰を受ける。しかし、その犯行は、褒められたものではないし、憎むべき犯罪ながら、その動機とか、外的要因を考慮すると、犯人に同情することができる。あるいは被害者も、犯人から恨まれて殺されたようだが、意思疎通ができていたなら、被害者は加害者の味方であって、加害者から恨まれることは何もしていない。偶然のなりゆき、あるいは誤解によって、嘘によって、悲劇が起こってしまったのである。こうしたことが犯人が捕まってから解き明かされる。

これは私たちにおなじみの人情物の刑事ドラマ、推理ドラマである。

ところが一見、悪人だと思われた人間も、実は……というのがこの映画の原作で、ネタバレになるので中身を具体的に語ることはできないが、たとえば、パワハラとか公金供出で疑われ百条委員会で審査されることになった知事がいるとしよう。その知事の暴挙を、命を絶ってまでして告発した県職員もいた。議会では知事の不信任案が可決され、知事は、辞職し、知事選挙が行われた。実は、知事のことをよく調べてみると、改革を断行したものの、それを快く思わない勢力に恨まれ、ありもしないデマを流され、パワハラの悪者にでっちあげられたとわかった。知事に対する非難はすべて、抵抗勢力とマスコミがつくりあげたものにすぎない。パワハラ知事というのはフェイクである。ほんとうはとっても良い人で、責められるような人ではない。その証拠に知事に再選された。完全に無罪の人である。

という、おめでたい物語があったとしよう。これは犯人だが動機には同情の余地があるという推理小説とは異なり、犯人は犯人ではなかった。善人だったという推理小説である。裏には裏があり、容易にみかけに騙されてはいけない、たとえ何かが解決してもそれは真の解決ではないかもしれないという意識をはぐくむのが推理小説だとすれば、悪人といえども、ほんとうは全面的に善人であるというバカメッセージを垂れ流すような推理小説はクズである。ヒットラーだって、孫に対しては、やさしいおじいちゃんだったにちがいない(ヒットラーに孫はいないのだが)。だからといってヒットラーのユダヤ人虐殺を許せというようなものである。そうした不快感を原作の小説から得ることはできる。

この映画のいいところは、原作のもつ鼻持ちならない偽善的メッセージが緩和されているところである。
posted by ohashi at 22:17| 映画 | 更新情報をチェックする

2024年11月18日

『ヴェノム』2

報告
MOVIE Walkerのレヴュー欄にこんな投稿があった。

カラピー  3.5 22日前
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レビューなのに映画の内容には触れません、すみません、お許しください。

おそらく観ていないのに(投稿が公開前)0.1の評価をしている「ゆうすけ」「カイワレカイワレ」なる人物は(たぶん同一人物の複アカでしょう)以前も他の映画でこのような荒し行為をしていましたね


なお、この報告で言及されている「ゆうすけ」なる人物の投稿は現時点では削除されて、「カイワレカイワレ」の投稿が残っている。以下参照

カイワレカイワレ 0.1 26日前

報告
残念、ガッカリしました。

前作と同様、気持ち悪いし、つまらなく、子供っぽい映画でした。

ひどかったです。

本当に、気持ち悪く、つまらなかったです。

ひどかったです。

やっぱり、悪役の映画はダメですね。

これが「荒らし行為」の実例で、「カラピー」氏の投稿のあとも、次のような、同一人物の、あきらかに映画を観ていないコメントがあった。書式が独特で同一人物が複数のアカウントから投稿しているとわかるのだが、書式の全体はスペースの関係もあって再現しない。まあどうせクズコメントなので、正確に再現しても意味がない。
しょうた  0.1 18日前
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全然ダメだった。
大コケだった。

何がしたいのか分からないし、ただただ気持ち悪いだけだった。
主人公のエディを演じるトムハーディは老化してかなりおっさんになり、もう、限界だと思う。ヨタヨタの年寄りのおっさんだ。
見た目も抜け毛や薄毛になり、シワばかりで、たるんでいて、かなり老けた。
足もかなり遅かった。
【たしかにエディ/トム・ハーディはふけた。しかし彼はアクション担当ではないので、全く問題ない】

曲も選曲が悪く酷かった。
シーンに合っていないし、滅茶苦茶だった。
ゴキブリが出てきて気持ち悪いし、つまらないし、全然、ダメな大コケ映画だった。

つづいて
ミズキ 0.1 18日前
報告
とにかく気持ち悪かった。
ゴキブリも出たし…。
つまらないし、吐き気がした。
肌がかゆくなり気持ち悪くなった。
本当に気持ち悪かった。
エディも死んだし、最低でした。【最低なのはゴキブリみたいなおまえだ。理由はあとで】
ゴキブリが苦手の人は要注意の映画でした。
つまらないし、ひどかった。
最低の最後の映画だった。

さてもうひとり。同一人物。

リョウコ 0.2 18日前
報告
要注意、ゴキブリが出ます。【←この映画にゴキブリは出てこない。お前がゴキブリだ】
うわぁ、気持ち悪かった。
そんな気持ち悪い映像を見せるなよ。
つまらないし、気持ち悪いし、本当に最悪でした。
物語も意味が分からない。
敵もバレバレで分かるし何が目的なのか分からない映画でした。
見た後、気持ち悪くて、ご飯が喉を通りませんでした。
敵も汚らしかった。
気持ち悪かった。
つまらなかったです。
今年、最悪の映画でしたし、本当に、最悪の映画でした。

最悪はおまえだよと言ってやりたいし、映画会社もこういう投稿は営業妨害として罰をあたえるべきだと思う。個人の感想ではない。映画を観ていないことがバレバレだからだ。

ゴキブリについて触れているのだけれども、これだとやたらとゴキブリが大量に出てくる映画だと思うかもしれないが、本編にゴキブリは一匹も出てこない。出てくるのは、いわゆるポスト・クレディット・シーンという、最後のクレディット(10分から15分くらいある長いクレディット)が終わったあと出てくる、最後の最後の映像。

洞窟のなかからメキシコ人のバーテンダーが出てくる。彼は戦争らしきもので荒廃した町の姿を見る。その時、前景にゴキブリが一匹だけ登場。よく見ないとゴキブリとわからない。病的にゴキブリを怖がる人でないかぎり、とくに嫌悪感をもよおすような不潔でおぞましい姿のゴキブリではない。たぶん作り物かCG。そのゴキブリにシンビオートの断片が付着するような映像があって、やがてそこからヴェノムが復活するのではないかという暗示があるように思われる。

また本編でデティ・ペイン博士/ジューノ・テンプルがゴキブリは災厄や戦争の惨禍を生き延びてきた唯一の生物だというような話をしていたのだが、そこからも戦争(おそらくヌルとの戦争)や戦禍を生き延びる人たちのことが暗示されているのかもしれない。なお私はマーヴェルのスーパーヒーロー物の映画はほとんでみていないので、この映像から私よりももっと多くの情報を引き出せる人は数多くいるだろう。

それから上記「ミズキ」のコメントなかで「エディも死んだし」とあるが、エディは死んでいない。これは記憶違いではすまされない。意図的な偽情報の開示である。お金をもらって意図的に映画の評価を下げようとしているのだとしたら犯罪者で、ヴェノムに食われるといいし、ただ面白半分に観てもいない映画の悪口を言っているのなら、精神を病んでいるとしかいいようがないんで、ヴェノムに脳みそを食われるといい。さぞかしい美味しい脳みそだろ。

ただ救いはほとんどの観客が、この荒らし行為に影響を受けずに、独自の感想コメントを投稿していることである。それには感銘を受けた(兵庫県県民は見習うべきである)。

posted by ohashi at 18:16| 映画 | 更新情報をチェックする

2024年11月17日

『ヴェノム ザ・ラスト・ダンス』

映画『ヴェノム』シリーズの三作目(Venom: The Last Dance, 2024)、エディ・ブロック/トム・ハーディとヴェノムの「1年間」の共生関係の終わりを告げる完結編として、満足のゆく映画であったが、しかし2作目から感じていた不満は解消されずに残った。

コミックのほうは読んでいないので、どのような物語展開なのか知らないのだ、が第一作においてエディ/トム・ハーディがジャーナリストであるという点が実に興味深かった。つまりジャーナリストは、社会や政治の不正を暴き、政治家や権力者の真の姿を示すために、みずからならず者にならねばならないという真理を見事についた設定になっていたからだ。辣腕ジャーナリストと人間を食うヴェノムとの共生が。

エディのジャーナリストとしての能力は、ヴェノムとの共生によって、ますます強化されてゆき、エディの功績はヴェノムの危険な支援なくしてありえなかった。

同じくジャーナリストのスーパーヒーローといえば、デイリー・プラネットの記者であるスーパー・マンがそうだが、彼の場合、辣腕記者でも剛腕記者でもなく、人間としては地味なうだつのあがらない記者であり、記者・ジャーナリストとして大きな業績をあげたとも思えない。スーパーマンにとって記者としての姿は、ほんとうに正体をみやぶられないための仮の姿でしかない。

だがヴェノムにしても、第2作以降は、エディとその相棒でもあるヴェノムとの共生・共同活動によって、ジャーナリズム活動が加速化し、社会の闇を暴き、悪人を懲らしめる、公共性・社会性をフルスロットルで全開するかと思ったら、公共性・社会性は、つまりジャーナリストとしての活躍は、後退するばかりで、今回の三作めにおいては、エディはもうジャーナリストでもなくなっている。

公的次元が私的次元へと様変わりするのは、『ジョーカーII』でも同じだったが、『ヴェノム』においても社会・政治問題とジャーナリズムとの切り結びが、スーパーヒーロー物(それは決して荒唐無稽な夢物語ではなく、常にけっこうシビアな世界観・宇宙観を宿しているのだが)のなかでも異色だった。ヴィランのもつ攻撃性がジャーナリズムの攻撃性と共生することで社会を改革する力学へと変容をとげるのだから。

しかし第2作と今回の第3作はヴェノムという愛嬌もあるのだが同時に暴力的で凶悪な面もあるやっかいな相棒(バディ)との共生から生まれる奇妙な友情関係が物語の主流となり、社会性や公共性はどんどん後退することになった。

なるほどバディ物としてみると泣けるところがある。エディとヴェノムの奇妙な友情は、他者といかに共生できるかという、いまでも切実な問題を喚起する。そしてここでの他者とは、おそらく移民のことだろう。

映画『レオン』の最後、ナタリー・ポートマンが、レオンの形見である観葉植物を植木鉢から出して学校だかどこかの敷地に植える。それはイタリア系移民でもあった天涯孤独のレオンの夢の実現であった。アメリカの地に根を張ることになるのだから。ヴェノムは移民を迎えるために作られたという自由の女神をレディと呼び、このニューヨークのレディに会ってみたいものだと語っていた。その夢をエディは最後にかなえてやるのだが、それはアメリカが移民を温かく迎え入れる女神としてあってほしいというヴェノム=移民の夢なのだろう。たとえ今、アメリカの次期大統領が移民がペットを食べていると信じ、アメリカ人の半数は移民をヴェノムの姿として想像しているとしても。

****
ちなみにこの『ヴェノム ザ・ラスト・ダンス』、トム・ハーデはイギリス人だが、ほかにもイギリス人は多い。前作から登場しているスティーヴン・グレアム(マリガン刑事)のほかに、有名な俳優なのに名前の読み方が決まっていないChiwetel Eijofor(とりあえずチューウィテル・イジオフォーとしておくが)、そしてジューノ・テンプル(歳をとって女性としての魅力が増したと思ったのだが、まだ35歳であった)もイギリス人、しかもそのうえリス・エヴァンズまで登場するとなると、これはもうイギリス映画ではないか(ちなみに特殊メークで顔がよくわからないのだが、ヌル(Knull)役で、前作では監督も務めたアンディー・サーキスも登場する)。

しかしこれをいうのなら、このイギリス人俳優たちが、みんなマーヴェル系のアメコミ映画の出演者でもあるということのほうが意義深いという指摘もあろう。彼らは他のアメコミ映画の登場人物として、この映画には登場しているわけではないので、他のアメコミ映画とは連続性と断絶性とが同時にあらわれることになる。ここにはなにかあるのかもしれない。

posted by ohashi at 23:01| 映画 | 更新情報をチェックする

『グラディエーター II』

Gladiator II(2024)
前作『グラディエーター』から24年ぶりの続編で、スケールの大きなスペクタクル大作ということもあってのぞいてみた。

前作の時は、主要な人物は、オリヴァー・リード、デレク・ジャコビ、リチャード・ハリスを除くと、ラッセル・クロウ、ホアキン・フェニックス(ジョーカーの)、コニー・ニールセンで、彼らは、いまでこそ超有名になったが当時としてはあまり名の知られていない、誰?という俳優たちだった。それが新鮮でもあったのだが。

今回、主役のポール・メスカル。誰? しかし、この問いは私にとってはあってならない問だった。なぜならポール・メスカル主演の前作『aftersun/アフターサン』(22)と『異人たち』(23)は映画館でみているのだから。ただそれにしても『グラディエーターII』で、いかにも古代ローマの彫刻から抜け出てきたかのようなポール・メスカルの彫り深いその顔をみていると、彼が『aftersun』とか『異人たち』で、どんな顔をしていたのか、まったく思い出せなくて困った。私の中では『グラディエーターII』のポール・メスカルが、それ以前のポール・メスカルを上書きし消去してしまったようなのだ。

ちなみに『aftersun』でも『異人たち』でも、ポール・メスカルが演ずるのはゲイの男性であった。ただ『グラディエーターII』では、ゲイ的要素を払拭するような夫婦愛が強調されている。とはいえ戦死した弓の名手としての妻は、女性性よりも少年のような魅力をたたえていて、夫婦関係はクィアであるといえなくもない。そもそも裸の男性の肉体美を鑑賞するためにギリシアの貴族が考案したといわれる古代オリンピックから抽出できるゲイ的要素は、もちろんグラディエーターの戦い場でのコロッセウムや闘技会からも抽出できるだろう。

そもそも男臭いドラマにはゲイ的要素はつきものなのだが、いっぽうでゲイ的要素を隠匿しようとする力学もはたらく。

つまりゲイ的要素を嫌うホモフォビアの観客にも賄賂が用意されているのだ。男女の夫婦愛という賄賂が。

主人公のルシアス/ポール・メスカルがその死を悼んで絶えず記憶のなかに喚起する死んだ妻アリシャトの存在。あるいはルッシラ/コニー・ニールセンと夫でありローマの英雄アカシウス将軍/ペドロ・パスカルとの夫婦愛(アカシウス将軍というのは、史実には登場しない架空の人物)。まさにこのような賄賂(適切な用語ではないとは思うが)を渡すことで、ホモフォビアの観客からゲイ的要素の搬入を見逃してもらおうとしているのである。

なにしろゲイ的な要素はけっこう多いのだから。

デンゼル・ワシントン演ずるマクリヌスは、カラカラ帝暗殺後に帝位に就く皇帝マクリヌスをモデルにしたようだ。もっともマクリヌス皇帝はよくわからない人物のようだが、この映画のなかで示される奴隷商人とか武器商人、剣闘士のプロモーターではなかったようだ。このマクリヌスに、ゲイ的要素が濃厚に付着する。イアーゴー的な口八丁・手八丁の悪人で剣闘士好きということ自体、本人がゲイであることを暗示しているし、事実、独身である(彼が男性と接吻しているという場面があったらしいのだが、最終的にカットされたとのこと。もともとゲイもしくはクィア的人物として設定されていたのだが、あからさますぎる場面は削除したということだろう)。

もちろん、それだけではない。またこのことを指摘すれば、またかと嫌がられる、いやあきれられるかもしれないが、この映画、水の映画である。最初、ローマの軍船が海に面した砦を攻略する。主人公が海に落ちたり、海岸に戦死者が打ち上げられたり、主人公の夢の中で死んだ妻が浜辺から黄泉の国へと旅立つ。そして闘技場での最大のスペクタクルは、闘技場に水(海水)をいれて行われるサラミスの海戦の再現である(水中にはサメがいる)。この超絶スペクタクルのあと、最後の戦いがどこだか映画を観た人は思い出すだろう。そう、川の中。これほど水の場面が印象に残る映画はない。それはまたこの映画が、異性愛の物語と並行してゲイの物語でもあることを強く暗示している。

【ウィリアム・ワイラー監督『ベン・ハー』(1959)ではベン・ハー/チャールストン・ヘストンと幼馴染のメッセラ/スティーヴン・ボイドの間にゲイ的関係が仕組まれていた(ヘストンには知らされていなかったらしいのだが)ことを『セルロイド・クローゼット』(1995)ではじめって知って驚いたのだが、しかし、そのような設定がなくとも、『ベン・ハー』のようなローマ時代(イエスの磔刑の時代でもあるのだが)の男性の闘争物語にはゲイ的要素が横溢していることは指摘するまでもない。】

極めつけは映画のなかでの双子の皇帝かであろう。共同統治したゲタ皇帝とカラカラ皇帝は、史実では双子ではないのだが、双子でなくとも共同統治ということはこの時代よくあったようだ。なぜそうなったかはよくわからないが(『グラディエーター』と『グラディエーターII』は共同皇帝の時代の出来事となっているが、それは史実にのっとっている)。この(双子)兄弟皇帝の愛憎なかばする関係は、ゲイ的要素をはらむクィア的なものである。前作『グラディエーター』においてコンモドゥス/ホアキン・フェニックスは、ゲイの人間にもみえるし姉に対してインセスト感情を抱く倒錯者でもあった。これはこの映画シリーズがクィア的というよりも、当時のローマ帝国がクィア的だったことの再現でもあるのだろう。

古代ローマがクィアなのは、ヨーロッパ文明の源流でありながら、アフリカやオリエント世界との交流のなかで、どこかしらオリエンタリズム的異国情緒を漂わせているからではないだろうか。一方で映画的スペクタクル、つまりepicという形容で語られる壮大なスペクタクル映画にこそふさわしい題材の宝庫である古代ローマは、近代ヨーロッパとは隔絶した異国それもアジアアフリカとのコンタクトゾーンであるがゆえに、そこにクィア性が横溢するということができる。

今回の映画でも、古代ローマの宮廷や貴族の華麗な生活がリアルに再現されているが、それをみると、「オリエンタリズム」という言葉が感想として口をついてきそうになったが、よくみれば、そのリアルさは、ジェロームのオリエンタル絵画のそれではなく、アルマ=タデマの世界という思いが強くなった。
ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema, 1836年1月8日 - 1912年6月25日)は、イギリス、ヴィクトリア朝時代の画家。古代ローマ、古代ギリシア、古代エジプトなどの歴史をテーマにした写実的な絵を数多く残し、ハリウッド映画の初期歴史映画などに多大な影響を与えたと言われる。

このオランダ出身の19世紀の画家は、フランスで印象派の画家たちが毛嫌いしたアカデミー絵画に近いもので、リアルだがそのけれんみたっぷりな画風は、はっきりいって俗悪の一歩手前というところがだが、リアルだけれども異国情緒あふれるその絵画は、題材としている時代や場所(古代ギリシア・ローマ、エジプト、地中海世界)からしても、クィア性でむせかえるほどのものである。私はその俗悪さとクィア性ゆえにアルマ=タデマの大ファンである。画集をもっているだけではない。その絵画をプリントしたマグカップとお盆と、カレンダーすらもっているのだ。

そして上記のWikipediaの記述にもあるように、その絵画は、初期歴史映画にも影響をあたえた。アルマ=タデマ、ハリウッドの歴史スペクタクル映画、そして『グラディエーター』の世界、その相乗効果に、私だけかもしれないが、酔いしれる。

なおネタバレになるので詳しくは語れないが、この『グラディエーターII』 をみて得た教訓がひとつある。イーロン・マスクには、アメリカ人、ほんとうに気を付けた方がいい。
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2024年11月11日

『お気に召すまま』

明治大学シェイクスピア・プロジェクト(MSJ)の公演(明治大学駿河台キャンパスアカデミーコモン3Fアカデミーホール)を観ることができた。演目は、シェイクスピアの『お気に召すまま』。昨年の『ハムレット』公演、観劇予定はあったのだけれども残念ながら急用で行けなかった。ただYouTubeでの無料配信でみることはできたのだが、今回、いつものアカデミーホールで観ることができてよかった。

やはり演劇は配信ではなく劇場でみるべきということは一面の真理をついているのだが、おそらくそれだけではない。今回のMSJの公演をみて、演劇がフェスティヴァルであることをあらためて痛感した。

もちろんMSJのシェイクスピア劇公演は質の高いものであって、開幕、人物の第一声を聞くだけでも、これはアマチュアの学生演劇のレヴェルを超えたものであることは誰もが納得することだろう。実際、上演は、まぎれもなくシェイクスピア劇、まぎれもなく『お気に召すまま』であって、無料の配信を通して、シェイクスピア劇のよさを日本中が知ることになるのはすばらしいことである。

私がMJSの公演について知ったのは、明治大学で非常勤講師をされていた某先生からで、毎年、ホールで観劇するということをお聞きし、いっしょに観劇させてもらった。演ずる学生たちの演技の質の高さや公演のために一丸となって行われる周到な準備にも感銘をうけた。大学からも後援をうけてというか明治大学主催なのだが、りっぱなパンフレットも無料で提供され、いまでは公演のみならずその配信も無料でみることができる。

私は大学教員時代にシェイクスピアの講義担当していたとき、extraの課題として、シェイクスピア劇を劇場で体験することも課題に加えた。チケットの半券そのものもしくはコピーと、簡単な感想をレポートに添付することを要求した。もちろんこれは正規の課題ではない。この課題を提出しなくても、通常のレポートで評価するので成績に影響はないし、ましてや単位が出ないこともない。ただ、せっかく演劇に関する講義に出席しているのだから、劇場に足をはこんでみてはどうか。毎日、毎週、毎月、劇場に行っている学生は、むしろこの課題は提出しなくてもいい。これまで一度も劇場に行ったことがない学生、シェイクスピアに限らず演劇舞台を観たことがない学生、そして大学卒業してから死ぬまで劇場に行くことはないかもしれない学生向けの課題である。これは提出しなくてもいい課題だから、教員とか大学のための課題ではなく自分自身のための課題だと説明した(なおシェイクスピア劇の映画あるはビデオの鑑賞はだめと伝えていた)。

ただし授業のために余分な出費をともなうものだから金銭的に切迫している学生には負担が重いかもしれないという反論も予想して、素人劇団のようなところが、安くあるいは無料で上演することもある。あるいは学園祭で学生によるシェイクスピア劇上演など一般に公開されていて無料で観劇できるものもあると伝えて、そのような例として明治大学シェイクスピア・プロジェクト(MSJ)によるシェイクスピア劇上演を推薦しておいた。

その結果、MSJの上演をみて観劇記を提出した学生がけっこういた。無料だからということもあったのだろうが、同じ学生による上演ということに対して好奇心なり親近感を抱いた学生たちも多かったように思う。そしていずれの観劇記もMJS公演に高い評価を与えていた。

なぜ劇場体験にこだわるのかについては理由はいろいろとあろうが、劇場体験の短所もある。劇場中継とか録画では俳優の表情など細部がはっきりとわかる。劇場に足を運ばなくても配信でみれば十分に満足できるし、劇場で観た場合と配信で観た場合で評価が大きく異なるとは思えないし、配信のほうが解釈にも深みが出るようにも思う。もちろん劇場中継録画とか配信ではカメラによって視界が固定されカメラの解釈に左右されてしまうという欠陥もあるが、それをいうなら劇場では前の観客の肩や頭で舞台がよく見えなかったということはしょっちゅうある。舞台映像というか動画おいて、見えにくい、一部が切り取られてしまったということはない。ではなぜ劇場での観劇にこだわるのか。

今回(私にとっては何度目かの)明治大学シェイクスピア・プロジェクトを観させていただいて、その答えがなんとなくわかったような気がした。先に学生たちの演技のレベルがプロ並みであるようなことを述べた。それについて変更はないのだが、同時にそのパーフォーマンスには、プロの俳優たちの洗練されたあるいは先鋭的な舞台にはならないようにリミッターが働いているような気がする。MSJの舞台が守っている伝統とは、学生演劇的要素を失わないこと、(たとえプロからの助言や援助があるとしても)プロとは違うアマチュアの手作り感を失わないことであるように思われる。

そしてこれはいまや教育の場から学芸会がなくなり、学生演劇も以前に比べれば少なくなっている昨今において貴重なことではないかと思われる。

小中学校などで学芸会を行うようになったのは、生徒が将来俳優になるための準備としての「学習発表会」ではない。演劇を教育の場に取り入れることに意義があることが前提とされていたのではないだろか。その前提が見失われたとき、そしてまた教員が指導できなくなったとき、自然と学芸会が消えていったのでは。
【『おいしい給食 Road toイカメシ』(2024)におけるように、中学校の学芸会のために脚本を書き自分で演出・演技指導できる甘利田幸男先生(市原隼人)のような先生は稀だろう。そもそも学芸会がなくなっている】

演劇を教育の場にとりいえることの意義は、作り手の側からすると、生徒や学生が一丸となって上演をめざして共同作業を行うことで、うまくいけばそこになんともいえない一体感や達成感が生まれること、その体験は生徒や学生の将来によい影響をあたえるということだろう。それが作り手側からみた意義ならば、受け手の側からすれば、芝居の上手い下手は関係なく、演劇を観ることの祝祭感は他の何物にもかえがたい得難いものとなる。実際に、学園祭の一環として演劇上演が行なわれてきたし、また小学校や中学校の学芸会は、学芸会だけでひとつのお祭りであった。

さらにいおう。学校というのは、厳めしい(イカメシではない)教育の場としてのみ存在しているのではなく、その隠れた本質が、共同体の祝祭の場であることを私たちは忘れている。その本質を、ハレの場、ハレの舞台としての年に一回の学芸会あるいは体育祭が垣間見せてくれる。フェスティヴァルを学校は排除しているようにみえて、フェスティヴァルほど学校に似つかわしいものはない。生徒・学生や先生は、みんな役者。教室は舞台。授業は戯曲もしくは戯曲のためのリハーサル、教育活動は、日々くりひろげられる演劇活動であり、学校生活はドラマ、学校はひとつの世界、大宇宙のミクロコスモスなのである。

今回の明治大学シェイクスピア・プロジェクトの公演は、これまでのように、上演に関わる学生諸君の家族や知人・友人だけなく、明治大学の学生や卒業生にも開かれていること――祝祭的であること――そして同時に、私たちのような一般観客にも開かれていること――祝祭的雰囲気のおすそ分けをもらっていると同時にまぎれもないシェイクスピア劇を鑑賞できること――、その二重性が、プロ並みの演技とアマチュア感の横溢した舞台の二重性と響きあっているように思われる。

『お気に召すまま』そのものについて語るのを忘れてしまった。次回は作品について。
posted by ohashi at 19:57| 演劇 | 更新情報をチェックする

2024年11月07日

『族長の秋』

ガルシア=マルケス『族長の秋』が文庫化されると、KAI-YOUのお**記事が伝えている。

ただ、それにしてもKAI-YOUの記事、誰にでも「さん」付けしていているのはいかがなものか。偉い人は呼び捨てが原則。偉い人に「さん」をつけると、逆にバカにしているように思われるのですよ、KAI-YOUさん。【織田信長のことを、織田信長さんとは言わない(近所のおじさんじゃないのだから)。紫式部さんとも言わない(近所のおばさんじゃないのだから)。)

ガルシア=マルケス『族長の秋』が文庫化 大ヒット『百年の孤独』に続く長編第2作
KAI-YOU によるストーリー 2024年11月6日

新潮文庫が、コロンビアの小説家であるガブリエル・ガルシア=マルケスさんの小説『族長の秋』を、2025年2月28日(金)に刊行する。訳は翻訳家の鼓直さん。

この小説は、2024年6月に刊行され36万部を突破した『百年の孤独』文庫版に続くガブリエル・ガルシア=マルケスさんの長編第2作。

長らくハードカバーしか存在しなかった前作の文庫化は大きな話題に。発売前から重版が決定し、海外文学として異例の売行きが続くだけに、第2作も大きな反響を集めそうだ。
【『百年の孤独』についての紹介。略する】
悪行を繰り返す独裁者を「自身の写し鏡として描いた」【小見出し】
新たに文庫化される『族長の秋』は、1967年の『百年の孤独』刊行から8年後の1975年に発表された作品。

幼年時代に、独裁者の奇妙な評伝を憑りつかれたように貪り読んだというガブリエル・ガルシア=マルケスさんが、悪行を繰り返す独裁者の素顔を複数人物の語りによって描く。

ガブリエル・ガルシア=マルケスさんによれば、『百年の孤独』の冒頭から登場する主要人物である「アウレリャノ・ブエンディア大佐のその後を描いた」とも、「自ら自身の写し鏡として描いた」とも語られている。

筒井康隆【原文のママ。「さん」付けしていない】も「おれのお気に入り」と強く推薦【小見出しだからさん付けしないというわけのわからないルール】
日本では1983年に、鼓直さんの翻訳により集英社から刊行されていた『族長の秋』。
【中略】
また、新潮文庫での『百年の孤独』の文庫化の際には、書き下ろされた解説で小説家・筒井康隆さんが『族長の秋』について言及。

「カストロと親交のあったマルケスならでは」と評価した上で、「実はおれのお気に入りは、マルケスが本書の八年後に書いた『族長の秋』なのである。文学的には本書の方が芸術性は高いのかも知れないが、その破茶滅茶度においてはこちらの方が上回っている」と、強く推薦している。
(以下引用)
「百年の孤独」を読まれたかたは引き続きこの「族長の秋」もお読みいただきたいものである。いや。読むべきである。読まねばならぬ。読みなさい。読め。筒井康隆 - 新潮文庫『百年の孤独』解説より
(以上引用)

なお、海外文学を巡っては、2024年8月に作家のジェイムズ・ジョイスさんによる『フィネガンズ・ウェイク』の邦訳版が刊行。難解さと奇天烈さで“文学の極北”と評される作品が待望の復刊を果たすなど、世界文学は大きな盛り上がりを見せている。

私は集英社版の『族長の秋』を読んだことがある。それこそ『百年の孤独』の翻訳を人物の相関関係図とか系図を本に書き込みながら読んだ興奮冷めやらぬなか、このラテンアメリカ固有の「独裁者物語」を読んだ。

何が起こっているのか曖昧模糊として理解不能なところも多かったのだが、予備知識なしの状態で力まかせに最後まで読んだ。読了した達成感はあった。だが、その満足感はすぐに後悔にかわった。

『族長の秋』は、ガルシア=マルケスの他の小説(中編も含む)とはまったく違っている。『百年の孤独』とも違う。『百年の孤独』を念頭に置きながら、この小説を読むと困惑するだけである。つまり『族長の秋』は、ガルシア=マルケス版『フィネガンズ・ウェイク』であって、読んでもわからない。そもそも読み通せない。

読めない小説である。その読めない小説を読んでしまった私はいったいどういう愚か者なのだ。

筒井康隆のような手練れの読み手が、その独特の感性をもってこの作品に接すれば、面白く読めると思うのだが、それは例外的な事態で、ほとんどの読者にとっては、ただただ面食らうか、時には憤慨するしかない作品である。少数の賢明な読者、あるいは理解力のある読者、そしてどんな小説でも読んできた読者なら、ある程度読んだら、その先を読むのをやめるはずである。読み進めないことが正しい選択である。

それをただ淡々と読み進めた私はただのど阿呆である。たとえていえば、ひらがなしか読めない私が馬琴の『南総里見八犬伝』のめんどくさい文章を、当時の原文には漢字すべてにふりがながふってあるので、漢字の意味はわからなくても、最後まで読んだというようなものである。つまり読んだことにならない。『族長の秋』は、読めない、読もうとして挫折したというのが、正しい読者であって、私のように読んでしまった読者は、ただただはずかしいだけである。

まあそれでも『族長の秋』が、独裁者の没落物語りであることは読んでわかった。最近、ラテンアメリカではなく北アメリカに誕生したトランプとかいう独裁者のこれからの愚行とその狂気の内面と自滅とを予言しているような作品といえなくもないだろう。
posted by ohashi at 00:05| コメント | 更新情報をチェックする

2024年11月04日

500万人のパレード

本日のネット記事
玉川徹氏「25万人か、って…ちょっと」優勝パレードで16年500万人の記録…ドジャース少ない
日刊スポーツ新聞社 によるストーリー

元テレビ朝日社員の玉川徹氏(61)が4日、テレビ朝日系「羽鳥慎一モーニングショー」(月~金曜午前8時)に生出演。MLBのワールドシリーズを制覇したドジャースメンバーがロサンゼルスで開催した凱旋(がいせん)パレードについて、祝福したファンの規模に「25万人か、って…ちょっと」と首をひねった。

ニューヨークでヤンキースを4勝1敗で撃破したドジャースナインは大谷翔平(30)らを乗せた計7台のバスで市内中心部から約45分をかけて、メジャー公式サイトによると約25万人のファンに祝福されたという。

玉川氏は「25万人パレードって、すごく多いと思ったんだけど、先週の金曜(11月1日)に井口(資仁)さん、元メジャーリーガーに出ていただいたじゃないですか。彼ワールドシリーズ2回制覇しているんですけど、ホワイトソックス200万人(06年シカゴ)カブス(16年シカゴ)のときは500万人、っておっしゃってたんですよ。だから、25万人か、って…ちょっと」と話した。

月曜レギュラー石原良純(62)は「500万人、ってどうやってみるの?」と驚いた。さらに玉川氏は「シカゴの人口、って今ちょっと調べたら500万人いないんだよね(22年に約270万人、周辺都市も含めると約944万人とも)」と語ると、石原は「(500万人パレードが)間違っているんじゃないか?」と過去の公式記録にいちゃもんをつけた。玉川氏は「一応、確認したんだけど…合ってんのよ」と語った。【以下略】

実際、この番組をリアルタイムで視ていたが、玉川氏の疑問、石原氏の「いちゃもん」、ともによくわかる。

私自身、10万人のイベントに参加したことがあって、その時、知人と、会場で待ち合わせをしたら、結局、最後までその知人に会えなかった。人が多すぎて。

今だったら携帯で連絡をとりあえば、出会うことはむつかしくないのだが、当時は、携帯などなかったのだ。携帯のない時代を生きてきたというと、今では江戸時代の人間かと思われそうな気がするが、携帯がなかった時代というか、逆に携帯が生活に不可欠になった時代というのは、20年あるいは30年くらいしかたっていない。それ以前は携帯なき生活に馴染んでいた。とくに不便だと思わなかったのだ。

それはさておき10万人くらいになると人が多すぎて人間の認知能力の範囲を超える。10万人のなかから誰か目指す相手を探すというのは至難のわざである。

パレードに25万人というのはわかる。けっこうな数である。しかしパレードに500万人というのは、さすがに想像を絶する。パレードが行われる通りの両側に人が陣取ったとしても、シカゴ市の全人口よりも多い人間が、沿道に殺到したら大事故が起きかねない。

強いて言えば、高層建築の窓からパレードを観る人を考慮すると、垂直方向に収容人数を加算できるから、200万人、500万人というのはあり得ない人数ではないのかもしれないが、それにしても多い。

パレード観覧者の人数がまちがっているか、とんでもないサバ読みとしか思えない。石原良純氏に賛成である。
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2024年11月03日

『八犬伝』3

『南総里見八犬伝』は、犬=人間の物語でもある。とりわけ八犬士たちは、「剣士」ではなく「犬士」である。彼らは、当時の挿絵からして、錦絵の歌舞伎役者のようないでたちで想像されることが多いのだが(またそれが曲亭馬琴と当時の読者が想定していたオリジナルの姿だとしても)、物語上の彼らはもっと犬犬しいはずである。いうなれば半獣半人であるはずだ。

『南総里見八犬伝』で驚くのは、犬の房八が伏姫に欲情することである。あらすじで確認する。

時はくだり長禄元年(1457年)、里見領の飢饉に乗じて隣領館山の安西景連が攻めてきた。【映画『八犬伝』は、ここから始まる】落城を目前にした義実は飼犬の八房に「景連の首を取ってきたら娘の伏姫を与える」と戯れを言う【いくつか褒美の条件を出して、八房を刺客犬にしようとするのだが、この条件に八房は強く反応する】。はたして八房は景連の首を持参して戻って来た。八房は他の褒美に目もくれず、義実にあくまでも約束の履行を求め、伏姫は君主が言葉を翻すことの不可を説き、八房を伴って富山(とやま)に入った。

富山で伏姫は読経の日々を過ごし、八房に肉体の交わりを許さなかった。翌年、伏姫は山中で出会った仙童から、八房が玉梓の呪詛を負っていたこと、読経の功徳によりその怨念は解消されたものの、八房の気を受けて種子を宿したことが告げられる。懐妊を恥じた伏姫は、折りしも富山に入った金碗大輔【のちの丶大(ちゅだい)】・里見義実の前で割腹し、胎内に犬の子がいないことを証した【なお富山(とやま)で八房は、金碗大輔が撃った火縄銃【アナクロニズム】の銃弾で殺されるのだが、鉄砲には二つの玉が仕込まれていて、もう一つの鉄砲玉が伏姫にあたって彼女の命を奪うことになる。私は最初、彼女が流れ弾に当たったと勘違いした。映画では、そのへんは曖昧に描かれていて、彼女が八房をかばって自ら銃弾に倒れたというかたちになっている】。その傷口【割腹の傷口】から流れ出た白気(白く輝く不思議な光)は姫の数珠を空中に運び、仁義八行の文字が記された八つの大玉を飛散させる。Wikipedia なお【 】内の太字は筆者の注

【余計な注記をさらに。オランダの初代君主オラニエ公ウィレム(英語読みするとオレンジ公ウィリアム)は、フランスのカトリック教徒の放った3発の銃弾によって殺される。Wikipediaにも「ウィレムは、突然現れた暗殺者から3発の銃弾を浴びせられ、「神よ、わが魂と愚か者たちにお慈悲を」との言葉を残して倒れたと伝えられている」とあるが、まず凶器は火縄銃ではない。それは大きくかさばり、目立つので持ち込めない。凶器は拳銃である。ただし当時の拳銃は、火縄銃の小型版ではなく、火打石を内蔵していた高度で複雑な武器だった。独りの暗殺者が3発発射したというのは、連射したわけではない。また拳銃がリボルバー式だったわけではない(それはまだ歴史に登場していない)。当時の先込式の銃(火縄銃であれ拳銃であれ)は殺傷能力を高めるために複数の銃弾を銃身の先端から入れることがあった。ちなみにオラニエ公のボディーガードはエリザベス女王が派遣した兵士たちだったが、なんの役にもたたなかった。】

上記のあらすじでは、有名な八つの大玉と八犬士の由来が語られる。また映画では大型犬の八房の背中に乗って伏姫が城から去る場面では、思わず、アニメ『スパイファミリー』におけるボンド(白い大型犬)の背中に乗るアーニャを思い出したのだが、もちろん『八犬伝』における伏姫と八房の関係はそんな微笑ましいものではない。

そこには犬と人間とのセックスが、描かれているわけではないが、否定されることによって逆に喚起されているのだ。八房は伏姫に欲情した。その性欲は読経の功徳によって消えたとあるが、伏姫は、懐妊しているのである。その性行為なき懐妊は、ダメ押しするかのように性行為を喚起する。そして伏姫の死とともに八つの大玉が飛散し、そこから八犬士が生まれたことになる。彼女は八犬士の母親である。

人間の母親は一度に8人の子供を産むことはないが、犬は一回に5匹から10匹を出産する。一度に8人の子供を産むことは人間では珍しいが、というか不可能だが、犬の場合、ふつうである。となると八犬士の父親は八房ということになる。母親である伏姫はすでに半分犬になっている。実際、原作でも語り手が語っているように、そもそも「伏姫」という名前の「伏」自体が、人間(亻=にんべん)と犬との合体「伏」なのである。彼女はその名前からして、犬とむきあい、犬と合体し、犬を宿すことが運命づけられていた。

そして犬どうしの関係は映画では馬琴と北斎との関係にもあらわれる。北斎が馬琴から『八犬伝』の構想を聞いて、そのなかの場面を絵にしながらも、描いた絵を馬琴に渡さないというのは理解できないのだが――ちなみに渡さない理由を北斎を演じた内野聖陽が新聞で語っていたのだが、映画のなかでは何の説明もなかった。映画のなかではそのとき北斎が絵を描きやすいように馬琴は、自分の背中を貸すのである。北斎は馬琴の背中に紙を置いて描く。だが、それでほんとうに絵が描きやすくなるかどうかは疑問である。しかし、そこから北斎と馬琴の仲の良さが伝わってくる。さらに、それは仲の良さを通り越して、そこに性的なものが感じられるのである。性交体位における、いわゆる後背位。英語ではこれをDoggy Styleという。そう、犬の体位。

馬琴が北斎に描きやすいように自分の背中を貸すというは、史実ではなくて、映画のオリジナルな設定だろう。もしそうなら、映画はここで、犬の体位、後背位、そして人間の男性同性愛という主題連鎖が紡ごうとしているのである。そしてそれはたんに馬琴と北斎のクィアな人間関係だけではなく、『南総里見八犬伝』の世界にもつながってゆく。

映画ではなく原作のほうの『南総里見八犬伝』における八犬士のなかにおいても、犬坂毛野は今風の言い方をすればトランスジェンダーである。原作では最初犬田小文吾は女装の毛野のこと女性と思い込んでいたし(映画『八犬伝』にはこれは描かれていない)、さらに八犬士のリーダー格で犬塚信乃は、元服まで女性として育てられていた。信乃という名前自体が女性名だし、八犬士を描いた当時の挿絵か錦絵には、信乃を女性として描いたものがある(これは絵師が人物名から判断してまちがえたということはありうるとしても、そのまちがいには意味がある)。

もちろん八人の剣士の活躍は、当然、男性集団というかホモソーシャル集団であって、そこに同性愛的なものをみるのは安易すぎると思われるかもしれないが、しかし、剣士を犬士と呼んで、あえてゲイ的要素を喚起しているのは馬琴のほうである。犬が普遍的にゲイ的なものを表象するとは思わないが、文脈によっては、たとえばDoggy Styleが問題になるようなときには、男性同性愛と結びつく。ヨルゴス・ランティモス監督の映画『ロブスター』(2015)は、異性のパートナーを見つけられないと動物に変えられてしまうという未来社会を扱う異色のSF映画だが、主人公の兄はパートナー探しに失敗して犬にかえられている。これは主人公の兄が同性愛者であることの暗示となっている。繰り返すがすべての事例がそうであるわけではないが、文脈によっては、犬は、一方で忠義・忠孝といった儒教的理念の体現者であると同時に同性愛者を強く喚起する。

映画『八犬伝』の原作、山田風太郎の同名作品は読んでいない。私の『南総里見八犬伝』についての知識は脆弱でもろい。この大長編小説の筋の展開、張り巡らされた伏線の意味など、たとえ完璧でなくても、四捨五入すれば完璧になる知識すら私は持ち合わせていない。そのためアダプテーションによって原作を見失うかもしれないし、ささいな変更については、それに気づかず、原作についてまちがった知識を定着させてしまうかもしれない。そのため私の『南総里見八犬伝』の知が確固たるものにならないまでは、アダプテーションは極力読まないようにしたい……。

そのため映画『八犬伝』について、原作『八犬伝』についての全く知らないまま語ることを許していただきたい。映画版についての指摘は、それが原作についての指摘と重なろうとも、あくまでも映画版についての話として受け止めていただきたい。

映画『八犬伝』の八犬士物語の部分では、玉梓/栗山千明が八犬士を最後まで脅かし、犬士の3人を殺す最強・最凶の悪役なのだが、原作では玉梓は最初のほうで呪いをかけて死んでしまい、物語の大団円で八犬士と対決するということはない。もちろん玉梓の分身のような悪女が次々と登場するのが原作の『南総里見八犬伝』の特徴のひとつともなっているのだが、映画『八犬伝』はそうした悪女を玉梓ひとりに集約させている。しかも玉梓は原作にはないことだが、化け猫なのである。

猫と犬との闘い。なぜこうなるのかというと、それは映画における滝沢馬琴のパートにおいて、馬琴/役所広司とその妻/寺島しのぶとの夫婦の戦いがあるからである。執筆活動に没頭し家族のことなど顧みないわがままな作家と、そんな作家に不満をかかえている妻というのは、よくある設定で、珍しくもないのだが、その夫と妻の対立が、八犬伝物語のなかにもちこまれ、epicといえるくらいの規模に膨れ上がるのである。そのため化け猫の玉梓と八犬士との対決は、動物闘争というよりジェンダー闘争の様相を色濃く呈してくるのだ。いいかえると、犬の物語を書いている夫に対し、自分は猫派だというようなことをいう妻のお百/寺島しのぶは、八犬士物語では玉梓となって、男性のホモソーシャル=ホモセクシュアル同盟を揺るがすのである。夫に対して口うるさく、つねに非難がましいことをいい、敬意のひとかけらも示すことのない毒婦のような妻。本来なら黙って男の世話をしていればいい妻。不平と不満しか口せず、夫への敬意をひとかけらも有していないこの毒婦・鬼嫁こそ、八犬士の物語にあらわれる邪悪な化け猫の起源である。ある意味、家父長制下において常態化しているこうした鬼嫁こそ、玉梓あるいは化け猫が表象する存在であり、この最強・最凶の敵を倒すことが八犬伝物語の目的となる。化け猫は八犬士の友情と結束を強める手段ではなくて、目的化する。つまりそれを倒すことが物語の目的なのである。男を、夫を呪いたおす妻を物語のなかで処刑すること、それ八犬伝なのである。

ちなみに映画『八犬伝』のなかで馬琴が鶴屋南北の『東海道四谷怪談』を嫌うのは、それが武士道の美徳を揶揄あるいは転倒させているからではなく、虐げられた妻が夫に復讐する物語だからである。馬琴の宇宙では女は邪悪の根源である。

だが馬琴物語の最後には予期せぬことが起こる。失明して執筆できなくなった馬琴は、出版元から男性の筆記者を紹介さても、その頑迷固陋な性格、こらえ性のないわがままな性格ゆえに、筆記者からあいそをつかされる始末。そして『南総里八犬伝』の完成は遠のくばかりだった。そこに死んだ息子の嫁であるお路/黒木華が聞き書きを申し出る。無学で読み書きもひらがなしかできない嫁の助力は無意味と考えていた馬琴だったが、嫁の必死の努力と執念によって、口述筆記によって『八犬伝』を完成させることになる。

ミソジニックな『南総里見八犬伝』宇宙、そして馬琴と北斎との友愛によって代表される女性を排除した男性ホモソーシャル/ホモセクシュアルな日常にあって、つねに抑圧され無用視され、さらには妨害者として邪悪化されてきた女性による献身的な努力によって、馬琴と『南総里見八犬伝』宇宙は救われたのである。ここにジェンダー闘争は、ひとつの和解を、調和的結末をみるといってもよいかもしれない。

もちろん嫁のお路/黒木華は決して弱音を吐かない芯の強い女性だが、同時に馬琴のわがままを受け入れ決して不平不満を言わない、常に男をたてる従順な女性であってみれば、家父長制における理想的な女性であり嫁であっても、男性の下位に位置する抑圧された女性であることに変わりはなく、馬琴のミソジニーを、また家父長制宇宙を、なんらゆるがすものではないかもしれず、そこにジェンダー闘争の真の解決はないともいえる。

馬琴が嫁に口述筆記させているとき、印象的な場面なのだが、病床にあった妻お百/寺島しのぶが廊下に這って出て馬琴と嫁がいる部屋の前まで体をひきずってくる。何事かと駆け寄るお路に対し、独りごとのように「くやしい」とつぶやく妻お百。おそらくこの場面こそが、たんにお百がお路に嫉妬していたという史実的伝聞の劇化というにとどまらない重要性をもつことになる。つまりその暗示性によって、あるべき和解が示唆されているのだから。

つまり馬琴の妻お百が、夫への不平不満を口にするなかで求めていたのは夫が彼女自身をよきパートナーとして扱うことだったのだ。おそらく馬琴は金目当てで履物屋の娘と結婚し、婿養子として暮らすことになるが、妻は馬琴よりも年上ということもあり、馬琴の男性性は日常的に危機に瀕していた。その反動で、『八犬伝』では化け猫退治の物語ができあがる。だが妻が密かに望んでいたのは、馬琴が自分をただの金づるならびに下女・家政婦としてのみ扱うのではなく、その創作活動を支援するパートナーとして扱うことであったはずだ。もちろん馬琴にしてみれば、無学な妻を創作のパートーナーにすることなど論外だったかもしれない。しかし、息子の鎮五郎のちの宗伯は医師になったことからわかるように、本来、彼女の地頭はよかったのだ(知能の高さは母親から伝わるといわれている)。もちろん彼女は無学だが、当時の庶民の女性はほぼ全員無学であって、無学が無能な証拠というわけではない。理想的なことをいえば(馬琴の好きな観念的理想であるが)、馬琴は嫁のお路に口述筆記をさせる前に、妻のお百を口述筆記をはじめとして創作のパートナーとして重用すべきであったのだ。そうすれば失明しても、滞りなく創作を継続できたかもしれない。もちろん妻にとっては下働きにすぎないかもしれないが、それは雑用係としての下働きではなく、夫の創作活動に参加し、みずからを高めることにもなり、また天下の大作家のパートナーとして自尊心も育むことになり、望ましい夫婦関係が実現していたかもしれないのだ。

だが馬琴のコンプレックス(武家になれない半端者としての自分、年上の女房、下駄屋の婿養子など)は妻をパートナーとすることを阻んだ【アドラー的にいうと、馬琴のコンプレックスが、結局、創作のエネルギーへと転換したともいえるのだが】。またなさけないことに、いまなお日本に根強い家父長的世界観が、女性を独立した人格、尊ぶべき個性としてみることを阻んだのである。

たとえ馬琴は、失明後に嫁に助けられ創作活動を維持できたとはいえ、映画のなかで最後には、みずからが生み出した八犬士たちに囲まれ抱きかかえられて昇天するのである。これはけっこう感動的な場面だった。実の世界(馬琴)と虚の世界(八犬士たち)とが出会い交流し仲睦まじく融合するのだから。あるいはスーパー戦隊物のヒーローたちが、その生みの親たる馬琴を祝福して胴上げしているようなイメージがあった。

だが八犬士の生みの親は伏姫であり、結局、犬の母親のように八匹の子供たちに囲まれた伏姫と八犬士の仲睦まじき絵が、馬琴を中心とする八犬士の絵によって抑圧されたということもできる。母性的な世界は、父性的な世界によってかき消される。

とはいえ女性を嫌い、女性によって危機的状況に陥る父権的世界が、最後にはもちなおして復活するという、あいもかわらぬ家父長制的物語であるとはいえ、それを貫く、男女のジェンダー闘争は(映画は、原作において陰在しているジェンダー闘争の要素を、作者馬琴の物語に縁どらせながら、顕在化させた点で、ある意味、特筆すべきものでもあるのだが)、『南総里見八犬伝』の新たな可能性を示すことになった。つまり

忠義なき正義な汚れた世の中に勧善懲悪という理想像を敢然と上書きした『南総里見八犬伝』は、そこにさらに理想的なあるべきジェンダー関係の姿を上書きされるべきものであることを、馬琴は意識していたかもしれない。

それは動物(犬)と人間との和合が、男性どおしの和合にとどまることなく、男女という宿敵の和合につながることにもなるからである。

とりあえず終わり。
posted by ohashi at 08:09| 映画 | 更新情報をチェックする