ヨーロッパ企画の『来てけつかるべき新世界』のこのタイトルは、1936年のSF映画『来るべき世界』(Things to Come)のもじりである。つまり『来るべき世界』の大阪弁ヴァージョンである(とはいえ作者の上田誠によれば、「来てけつかるべき」という用法は大阪弁にはないそうなのだが)。
あと「来るべき新世界」なのか「来るべき世界」のどちらが正解なのかということもあるが、どちらも正解である。日本語では「水を沸かす」と「お湯を沸かす」の両方が可能で、どちらかというと「お湯を沸かす」ということのほうが多いような気がするが、「お湯を沸かす」というのは、一度沸かした水(つまりお湯)を、もう一度沸かすことではない。「お湯を沸かす」は行為とその結果を示す言葉であって、二度沸かしの意味ではない。
類例は「新年あけましておめでとうございます」という表現。どこかのバカが旧年が明けて新年になるのだから、「新年が明けて」しまったら、新しい正月のさらに翌年の正月のことになるだとか、「夜が明ける」とはいっても、「日が明ける」とはいわないから、「新年が明ける」というのはおかしい(ただし「夜も日も明けない」とはいう)。そして「旧年明けまして」というのは違和感があるので、たんに「あけましておめでとうございます」がいいと主張し、その結果「新年あけましておめでとうございます」という言い方が駆逐されてしまった。間違った情報を流した奴は切腹してもらいたい。
それと同じで「来るべき世界」(つまり「未来」のこと)はOKで「来るべき新世界」は「新世界」はすでに未来だから、「未来のその未来」が来るとなっておかしいともいえるのだが、しかし「来るべき新世界」でも「未来の姿」ということでおかしくはない。なお「来てけつかるべき新世界」の「新世界」は大阪浪速区の繁華街「新世界」と、新しい世界の「新世界」をかけている。
それはともかく映画『来るべき世界』は、私の年代の人たち(まあ高齢者のことだが)は、小学生頃にNHKの番組で観た記憶があると思う。その頃はテレビがまだモノクロ放送だったので、モノクロ映画でも違和感はなかった。
【Things to Come(1936年イギリス映画、監督 : ウィリアム・キャメロン・メンジース)】
とにかく生まれてはじめてSF映画を観たといっても過言ではない私にとって、その映画の印象は強烈すぎた。小学生の頃だったので、おそらく物語の筋立てとか内容については、理解できなかったと思うのだが、そのぶん、映像に圧倒された。
1936年に制作されたその映画は、来るべき第二次世界大戦を予告していて、しかも戦争が終結せず1960年代まで続いているという設定だった。また当時からヒコーキ少年だった私は、当時実際にあった複葉機を皮切りに、当時からみて未来の面妖な姿の航空機が登場し、その映像にほんとうに目を奪われて食い入るように観ていた気がする。おそらく今から見ると、ちゃちな特撮でしかないかもしれないが、子どもの目には、あるいは当時の特撮レヴェルからしたら、もうリアルな実写かと見まごうばかりのものだった。
H.G.ウェルズには『来るべき世界』という小説がある【The Shape of Things to Come1933)】が、それは映画の原作ではなく、映画はウェルズ自身が脚本を書いていた。その後、私は、子供向けのダイジェスト版の『タイムマシン』と『宇宙戦争』を読んで、度肝を抜かれ、ウェルズの名前は、子どもの頃の私に深く刻印されることになった。
映画『来るべき世界』は今見返してみると、こんな話でしかなかったかとがっかりするかもしれないが、当時の私には世界観がひっくりかえるほどの大きな衝撃を与えることになった。センス・オヴ・ワンダーといえばそれまでだが、それだけでは説明しきれない、ノスタルジーも加わったその映画は、私には、いまもなお、タイトルを目にし耳にするだけでわくわくするの映画となっている。