2024年10月31日

『八犬伝』2

インド出身のターセム・シン監督の長編映画第2作にあたる『ザ・フォール 落下の王国』は、長らく配信されていなかったのだが、今年の9月に世界配信となった。

ちなみに以下の記事では
『落下の王国』4Kレストア版、9月MUBIが世界配信 (2024年7月16日)


『落下の王国』(2006)【アメリカや日本における公開は2008年】、“映像の魔術師”と称されるターセム・シン監督が構想27年、CMやミュージックビデオ制作で稼いだ私財を全投入して作り上げた渾身の一作。
【中略】
カルト的人気を誇る作品だがストリーミングサービスには上がっておらず、現在は鑑賞が非常に困難となっている。

今回の4Kレストア版は来月開催されるロカルノ国際映画祭でワールドプレミア上映された後、MUBIでの配信が始まる予定だ。日本でも配信、もっと言えば劇場公開されることを願いたい。(編集部・市川遥)

とあるが、日本での配信は今のところない(DVD、ブルーレイ廃盤)。ちなみにこの映画のDVDを持っているのだが、現在発掘中。そのため以下の記述ではこの映画を見直すことなく書いているので、誤解・誤認・記憶違いがあると思うので、そこは容赦されたい。
ストーリー【Wikipedia】
1915年のロサンゼルス。無声映画のスタントマンをしていたロイは、撮影中に大怪我を負い半身不随となる。挙げ句の果てに主演俳優に恋人を奪われ、自暴自棄になっていた。
そんなとき入院中の病室に現れたのは、オレンジの収穫中に木から落ちて腕を骨折して入院していたルーマニアからの移民の少女アレクサンドリアだった。ロイは、動けない自分に代わって自殺するための薬【モルフィネだが】を少女に盗ませようと思い付き、アレクサンドリアに作り話を聞かせ始める。それは一人の悪者のために、愛する者や誇りを失い、深い闇に落ちていた6人の勇者達【正確には5人の勇者に最終的に1人加わり6人となる】が力を合わせ悪者に立ち向かう物語。【以下略】

あっさりした紹介だが、病院で大けがをしている二人(若者と少女)が出会し、青年が―少女におとぎ話を語って聞かせる―しかも、その物語は言葉で語られるだけでなく、映像化もされる。となるとなにか心温まるファンタジーあるいは童話的世界を強く予感させるのだが、この二人が病院で出会うこと自体に夢のカリフォルニアのアメリカン・ドリームの破綻が透けて見えることになる。

青年は映画のスタントマンで落下スタントに失敗して大怪我をしたことになっている。おそらく再起不能で、人生に悲観しているところ、仲良くなった少女に、モルフィネを盗ませ、それで自殺しようとする。

一方、少女のほうは、腕を骨折したようで添え木をして腕を吊っているのだが、元気で、病院内を走り回っている。おてんば娘が木登りをして遊んでいて落下したのだろうと思っていると、そうではなく移民の子の彼女が果樹園で危険な労働に従事させられた結果、そうなったのだとわかる。おそらく子供だから身が軽いと思われ、オレンジの木に登らされて果実の収穫作業のさなか足を滑らせて落下したのだ。これがわかると観ている者は慄然とする。

そうドリーミング・カリフォルニア、今年ワールドシリーズに優勝して世界一(実際にはアメリカでナンバー・ワンにすぎないのだが)になったドジャースの本拠地のあるカリフォルニア、そのカリフォルニアを支える代表的二大産業、オレンジ(フルーツ)産業と映画産業の闇を二人が体現している。

斬られ役なくして日本の時代劇が存在しないように、スタントマンなくしてハリウッドのアクション映画は成立しない。そして労働基準法などなかった時代に危険な作業に駆り出される幼い子供たちなくしてオレンジ産業は成立しない。いや、もっといえば、けがをしたスタントマン、けがをした幼い子供たちが、映画産業を、オレンジ産業を支えているのだ。いやさらにもっと言えば死者たち(死んだスタントマン、移民労働者の死んだ子どもたち)の闇によって産業が光り輝いているのだ。今、その犠牲者たちが病院で相まみえる。

スタントマンだった青年は、木から落下した少女に、悪人退治のファンタジーを語って聞かせる。そのファンタジーの部分も驚異的な映像と映像美で映画のなかに挿入される、というか病院や病室での青年と少女のやりとりと、青年が語る悪人退治物語とが交互に示される。そう、これは映画『八犬伝』(2024)と同じ構成ではないか。

いま悪人退治物語と述べたが、正確には、それは、5人(のちに1人加わり6人)の戦士たちが、それぞれに「総督」の暴虐の犠牲者であり「総督」への恨みによって結集しているのであって、この「総督」への復讐物語となっている。こうなると彼ら5人(のちにさらに1人参加)は、スーパー戦隊物の典型的なチームである(たとえ彼ら5人が、その無国籍でシュールな衣装によって統一感あるいはチーム感を出してはいないとしても)。そしてスーパー戦隊物(5人が基本)のルーツは『南総里見八犬伝』にあるとも考えられているとすれば、『落下の王国』は、スーパー戦隊物を介して『南総里見八犬伝』ともつながるのである。

【なお青年が少女に話をきかせるという『落下の王国』の構図は、『八犬伝』にもあらわれる。馬琴が北斎に『南総里見八犬伝』の内容を語るというかたちで。】

ただ違いもある。映画『八犬伝』では(べつにこの映画でなくてもいいのだが)、八犬士の活躍は、曲亭馬琴の頭のなかでつくられたファンタジーとなっている。馬琴から物語の概要を聞かされる北斎は、その想像力の荒唐無稽で大胆な飛躍に感心するのだが、登場人物に感情移入するわけではない。いっぽう『落下の王国』では、5人の戦士たちの復讐物語を語る青年自身、その物語の中ではリーダー格のスーパーヒーローとなるし、聞き手の少女も物語のなかでは、そのリーダーの娘となって活躍する。また病院関係者たちが物語の登場人物となってゆく。語り手や聞き手は、物語をわがことのように受け止めるのであって、そこが馬琴や北斎の、八犬伝物語に対する姿勢と大きく異なる点である。

【実際、この種の〈物語・中・物語〉形式では、語られる内容に、語る側の現実や状況が入り込むのはふつうのことである。つまり『落下の王国』では病院関係者たちが作中に登場するというのは、よくある趣向なのだ。ターセム監督は、ブルガリア映画『Yo Ho Ho』(監督ザコ・ヘスキジャ、脚本ヴァレリ・ペトロフ 1981年)から着想したということだが、『落下の王国』は、『Yo Ho Ho』のアダプテーションであり、残念ながら『Yo Ho Ho』をみていないのだが、そこでは聞き手は男の子で、病院関係者が語られる物語に数多く「出演」するらしい。なお『落下の王国』で女の子によりにもよって「スーパー戦隊物」のような物語を聞かせるというのも、この『Yo Ho Ho』から来ているのだろう。とはいえセーラー・ムーン・フランチャイズとかプリキュア・フランチャイズのようなものと考えれば、女の子だからというジェンダー偏見は無意味かもしれないのだが。】

『落下の王国』では、語り手の青年は、どうやら半身不随となって再起不能であるとわかって、自殺を考えている。その自殺用の薬を手に入れるために、少女を利用しようとしている。彼が物語を語って聞かせるのは、少女を手なずける手段でもある。だから悪人退治の復讐譚も、青年が人生をはかなみ、恋人も去り、映画会社からも見限られると、陰気な暗い話になってゆく。ヒーローたちは悪を打ち負かすどころが敗北を余儀なくされる。リーダー格のヒーローも物語当初の活力を失い負け続ける。まさに物語は、フォールする(負ける)物語へと闇落ち(フォール)する寸前までゆく。そしてそれを聞いている少女が抗議する。

ヒーローたちが悪をやっつける話が聞きたいのだと。スタントマンを使い捨てにする映画産業、子どもを危険な作業に従事させその人生を奪っても悔やむことのないフルーツ産業、非人間的な産業社会、資本主義の暗黒面。物語が、この巨大な世界悪と戦い勝利する物語でなくして、なんの物語か。ヒーローが巨悪に勝つ、あるいは巨悪を退治する物語がなければ、弱い立場の犠牲者たちは希望を失い破滅するだけである、弱い立場にある者たち、使い捨てにされる者たちは世界悪を克服する希望を完全に失うしかない。物語は、いつか世界悪は滅びるというユートピアの約束でなければならない。

もちろん少女は、もっと直接的な言葉で青年に物語のつづきを、それもヒーローが勝利する物語のつづきを求める。青年と少女のおかれた苦境、そしてふたりの絶望を知る私たちにとって、この部分はほんとうに涙なくして観ることができない。

『落下の王国』は驚異的な映像と物語/語りの形而上学(絶望とその裏返しのユートピア願望)によって圧倒される映画である。これに対し、同じような構成をとりながら映画『八犬伝』は、そこまでの感動はない。

たとえば馬琴が芝居小屋の奈落(地獄の意味ではなく舞台の下の空間のこと)で鶴屋南北と対決する場面は、おそらく誰が観ても、この映画の思想的核心である。馬琴が紡ぎ出す勧善懲悪物語は、鶴屋南北的な観点からすれば、社会的矛盾を想像的に解決するイデオロギー装置である(もちろん映画のなかで南北は「イデオロギー装置」とは言っていないが)。これに対し、そうしたイデオロギー装置を脱臼させるのが南北の怪談であって、忠臣蔵(八犬伝に通ずる集団復讐劇)という忠義・仇討・名誉など武士道と儒学的イデオロギー満載のキャノン的作品を反転させる裏忠臣蔵の世界を構築することによって、怪談という超現実的あるいは非現実的なジャンルをとおして、きれいごとではない現実の再現を目指したといえる。ただし、南北とは異る馬琴の現実的アプローチは、現実のあるがままの再現ではなく、現実は勧善懲悪であらねばならないという理想を求めるものである。そしてその理想が非現実的にみえるとき、現実そのものの仮借なき残酷さ、限りない不合理が逆に暗示させられるのである。となると南北も馬琴も、非情な現実のありようを再現しようとしている点で、建前では伝えられないリアルを出現させようとしている点で、たとえそのアプローチは異なっても、同じ現実をみすえていかことに変わりないのではないか。

そして『落下の王国』で劇中劇のように映画の中で語られるもうひとつの映画もまた、正義と善を希求している点で、馬琴の勧善懲悪物語(つまり『南総里見八犬伝』)と同じといえよう。だが『落下の王国』では、あれほど涙を誘った犠牲者たちのユートピア願望が、『八犬伝』からは感じ取れないのはなぜか。

映画『八犬伝』においては、『南総里見八犬伝』を語る者(馬琴)と聞く者(北斎)が、ふたりとも老人であって、『八犬伝』物語の登場人物と年齢がはなれていること、そしてまたふたりは、弱者でもなければ犠牲者でもないし、八犬士のように復讐、正義の鉄槌を求めているわけでもないし、ルサンチマンをかかえているわけでもない。忠義や孝行や人徳の欠如によって苦しんだ馬琴が、願望充足として勧善懲悪物語を書いているわけでもない。馬琴と物語との関係は希薄なのだ。すくなくとも勧善懲悪という面からみるかぎり。

おそらくこの映画における闘争は、矛盾に満ちた社会や暗黒の社会と理想的な勧善懲悪の社会との対立から生まれているというよりも別の要因から生み出されたように思われる。

戦域は勧善懲悪問題ではない別のところにある。つづく
posted by ohashi at 11:13| 映画 | 更新情報をチェックする

2024年10月30日

非公認に2000万円と投票場入場券

以下のネット記事が目についた。

自民党の惨敗を招いた「2000万円問題」の"厚顔" 赤旗「非公認に2000万円」報道で情勢が一変(泉 宏によるストーリー)東洋経済オンライン2024年10月30日
【前略】
そもそも選挙戦の「推移」を検証すると、赤旗が「2000万円」問題を報じた直後から、それまで前回比大幅減だった期日前投票が激増し、「各メディアの出口調査結果などで、その大多数が無党派層だったことが、自民惨敗につながった」(選挙アナリスト)との指摘が少なくない。
【中略】
こうした経過や結果を踏まえると、「全国的規模での期日前投票急増と、赤旗による『2000万円支給』の特ダネをメディアが一斉に後追いしたことが、タイミング的に一致しているのは確か」(選挙アナリスト)とみる向きが多く、「結果的に、自民の対応への不信や批判が有権者を突き動かし、期日前投票に向かわせた」(同)との見方が広がる。

さらに「その結果、低迷していた投票率が数ポイント上昇し、その多くが反自民票となり、各小選挙区での自民候補の落選と、比例代表での自民得票率の減少につながった」(同)との分析も説得力を持つのだ。【以下略】

今回の衆議院選挙において『赤旗』による「非公認に2000万円」報道が情勢に変化をもたらしたことはおそらく確かだろうが、ただ影響をあたえたらしいという漠然とした印象や推測ではなく、確かな証拠を求めた結果だろう、この記事は、『赤旗』の報道以後、期日前投票が増えたというデータを、その根拠としたのだ。

だが考えてみてもいい、『赤旗』による報道で、自民党はひどいということがわかった。では、自民党に票を入れないでおこうとか、野党を勝たせようと思ったというのならわかる。しかし、自民党はひどい、だから期日前投票に行こうというのは、いったいどういう理屈なのだ。

この時期に期日前投票が増えたのは、明白な理由がある。自治体の準備が遅れて有権者のもとに届いていなかった投票所入場券が、この時期、ようやく届き始めたからである。そのため期日前投票をする有権者が一挙に増えた。これ以外に理由は考えられない。

もちろん投票所入場券がなくても、期日前投票も、投票もできる。そのように各自治体は告知している。しかし、具体的にどういう手続きで投票所入場券を持たない有権者が投票可能になるのか、そうした事例に遭遇したり立ち会ったりしたことがないので具体的な手続きはわからない。そうなると不安になる。期日前投票を控える有権者も多いだろうと推測できる。そこにようやく自治体から待ちに待った投票所入場券が届く。期日前投票を予定していた有権者は、さっそく投票所に出かける。

と、まあこんなことだろう。赤旗による報道と、期日前投票の急増との間に因果関係はない。こじつけもはなはだしいと言わざるを得ない。

なお、赤旗による報道が投票率を増やすという推測も、証拠はないが、根拠は薄い。むしろ赤旗による報道によって投票率は下がったのではないかと思う。

今回の衆院選挙は前回の選挙時よりも投票率が下がった。自民党が過半数割れを起こすのではないか、野党が票を伸ばすのではないと投票前に言われ続けたこともあり、今回の選挙は国会での勢力図が変わるかもしれない、重要な選挙として、関心は高かったと思われるのだが、投票率は低かった。

これは投票所入場券の遅配送とは関係ないだろう。赤旗による報道の結果、自民党に嫌気がさした有権者のうち、これまでの自民党支持者で投票しなかった有権者が多かったからではないか。自民党に嫌気がさしても、かといって野党に投票しようとは思わない有権者は多かった。そのため投票率が下がったということだろう。

もしあなたがリベラルあるいは左翼であるとしよう、その際、野党側によい候補者が皆無だとして、では、自民党に投票するかというと、それはしないだろう。あなたはただ棄権するだけである。それと同じことが自民党支持者にも起こったと考えるしかない。

赤旗による報道は、国民を有権者を舐め切った自民党の体質の揺るがぬ証拠を白日のもとにさらすことで、自民党への批判票増大につながったと思われるのだが、批判票の増大というのは、野党候補への投票者をふやすのではなく、自民党支持者のなかに投票しないことを選択する有権者の数を増やすことになったのである。
posted by ohashi at 23:58| コメント | 更新情報をチェックする

2024年10月28日

『八犬伝』1

曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』ならびにその翻案(小説、映画、アニメなど)については、まったく無知で、子供向けのダイジェスト版を読んだ記憶もない。そのため今回の映画『八犬伝』(曽利文彦監督2024年)については、無知なるがゆえに新鮮な驚きに開かれている映画鑑賞者として接することになった。

おそらく私だけでなく、私と同様の予備知識のない観客は、馬琴が28年もかけて完成させた『南総里見八犬伝』というのは、こんなあっさりした単純な物語なのかと唖然とするかもしれない。ただし、プレス機でぺしゃんこにされスクラップ処理された自動車だったものの塊を前に、圧縮される前はどんな姿だったのだろうと推測する苦悩と楽しみはある。

今回の『南総里見八犬伝』パートは、ダイジェストの度合いを超えて、しかも翻案の域も超えているように思えるのだが、それは、滝沢馬琴と葛飾北斎とのからみのパートと平行して示される八犬士の物語が、あくまでも物語の一部、見所的なものの断片的紹介というかたち(つまり語られざる多くの部分があることを暗示する)ではなくて、独立し完結する一連の物語の流れを重視するかたちで提示される(つまりつなぎ合わせればダイジェスト版あるいは全体の要約となる)ために、八犬士のパートが薄っぺらくならざるをえなかったのではないか。ただし、その分、『南総里見八犬伝』というのは、ほんとうはどういう物語だったのか読んでみたいという知の欲望を掻き立てるのなら、それはそれで予期せぬ副次的効果が生まれたといえなくもない。

と同時に、今回思ったことは、曲亭馬琴は長い物語を書きすぎた。どのような要約でも、あるいはダイジェストでも、数多あるエピソードの妥当な再現はむつかしい。そのため翻案が常態化する。いや翻案というよりも改変が常態化する。そもそも、全編を読破した読者は少ないだろうから、どこがどう違うなどの指摘などできない。そうなると変えたい放題、翻案天国である。実際、今回の映画版に限らず、これまでの映画版すべてを、もし曲亭馬琴が見たら、原作とのあまりの乖離に抗議のために切腹してもおかしくないだろう。馬琴にとって翻案は地獄である。

『八犬伝』のなかで、鶴屋南北との奈落における対決は見せ場のひとつだが、その議論の内容は別にして、劇作家なら翻案に対する許容度は高い(そもそも『東海道四谷怪談』自体が、映画のなかで示されているように『忠臣蔵』の翻案であり、『忠臣蔵』を反転させた『裏忠臣蔵』でもある)。また翻案をいうのなら、戯曲の舞台化そのものが、まさにその戯曲の初演という起源そのものが、翻案、それも数多ある翻案の可能性のひとつにすぎないのだから。劇作家は、ひどい翻案に対しても抗議の切腹は絶対にしない。

芸術作品の評価は、受容の歴史と切り離せない。そのため翻案の百花繚乱(とはいいすぎかもしれないが)が『南総里見八犬伝』を今日至るまで永らえ続けさせてきた原因ともいえるのである。

ただし『南総里見八犬伝』の翻案は翻案でもないだろう。たとえば『ハムレット』を現代社会の出来事に置き換えた場合、オリジナルのどこをどう修正したのか補完したのかを通して翻案の意味が明確になるし、逆にオリジナルの特徴もまた明確になるのだが、『南総里見八犬伝』の場合、翻案が、オリジナルのどこをどう変えたのか専門家でないとわからないし、逆に翻案がオリジナルに光を当てることもない――オリジナルが何かわからないのだから。

たとえば『水滸伝』を基にして長編小説を書くとしよう(というか実際にたくさん書かれてきた)。その場合、べつに現代化をおこなわなくても、翻案となるし、そうみなされるのだが、同時に、その翻案を通して読者は名のみ有名なオリジナルの内容を想像する。そしてそれが、オリジナルを生きながらえさせる契機ともなる。

【ここでは議論を単純化している。『水滸伝』の場合、オリジナルは二種類ある。またさらに厳密に考えるとオリジナルが増える可能性もあろう。複数あるオリジナルというのは、本来、オリジナルではない。ただそもそもオリジナルという考え方自体が、複数多様性を一本化する抑圧的なものであることを忘れてはならないのだが】

だが古典とはそういうものだろう。古典は敬意を払われるが、同時に、古典はどんどん書き直される。『水滸伝』は原典として存在している、同時に、その数多くの書き直し(中には劣悪な書き直しさらには揶揄的な翻案もあろう)もまた『水滸伝』ユニヴァースを形成し、それ自体が、オリジナル『水滸伝』と切り離せない一部となる。

『南総里見八犬伝』も、オリジナルを無視したかたちで、あるいは改変・改悪したかたちで書き直され翻案される(コミック、アニメ、絵本にまでなる)のだが、それは『南総里見八犬伝』が、『水滸伝』と同じような古典の地位を獲得したからだといえないこともない。そうであるなら馬琴も腹を切らずに済むかもしれない--とはいえこの理屈を石頭の馬琴が理解できるとも思えないのだが。

翻案の百花繚乱なくして古典は存在しない。これはまた翻案という二次創作が独り立ちをして独創性を発揮してオリジナル化する可能性を包含している。

たとえば『南総里見八犬伝』における終盤、「関東大戦」(Wikipediaの表記)が起こる。
関東大戦
文明15年(1483年)冬、犬士たちを恨む扇谷定正は、山内顕定・足利成氏らと語らい、里見討伐の連合軍を起こした。里見家は犬士たちを行徳口・国府台・洲崎沖の三方面の防禦使として派遣し、水陸で合戦が行われた。京都から帰還した親兵衛や、行方不明になっていた政木大全も参陣し、里見軍は各地で大勝利を収め、諸将を捕虜とした。【Wikipedia】

という説明になる。映画『八犬伝』では、八犬士をひとつにまとめてはならないという「玉梓」の予言に逆らうかたちで八犬士が一丸となってラスボスのような化け猫(玉梓の化身)を倒すのだが、上記の「関東大戦」の説明からすると、オリジナルはそのような物語になっていない。

八犬士は三方面に別れて関八州の連合軍と相対する。里見側の陸戦部隊の陣容は、行徳方面では犬川荘助大将、犬田小文吾が副将となり、8500人を率い、敵側は2万人。いっぽう国府台方面では犬塚信乃が大将、犬飼現八が副将となり、9500人を率い、敵側は3万8千人。このほか水軍もあるのだが、この陣容をみると、映画『八犬伝』とは様子が異なる。

力を合わせて戦う八人の犬士物語は、秘密戦隊ゴレンジャーからはじまるスーパー戦隊シリーズの元祖だともいわれているのだが、馬琴が終盤の関東大戦で描こうとしているのは、八人の刺客のような八犬士ではなく、指揮官、武将としての八犬士である。関東大戦の直前に壮絶な仇討ちをおこなった犬坂毛野は、関東大戦では軍師である(「智」の球を持っている)。馬琴の念頭にあるのは、スーパー戦隊物ではなく、中国の水滸伝や三国志にあるような壮大な合戦とそこで活躍する将軍とか軍師の姿である。

となると馬琴の『八犬伝』に近いのは、スーパー戦隊物ではなく、コミック・アニメ・映画の『キングダム』である。中国の春秋戦国時代末期を舞台に展開するこの作品こそが、馬琴の『八犬伝』終盤の世界に通じているともいえる。

実際、信乃、現八、荘助、小文吾らは、『キングダム』風にいうのなら、先頭に立って戦う三千人将、五千人将いや将軍かもしれない。軍師毛野は、李牧や昌平君といった天才軍師の面影がある(彼らは知略の士だとしても、同時に有能な戦士でもある)。中国の大平原や山領の和風版である関東平野と周辺の山地で戦闘が行われる。里見家の領地に侵入する関八州の連合軍は、これはもう連合軍というよりも「合従軍」というべきものだろう。実際、馬琴に「合従軍」という名称を提案したら、おそらく喜んでその提案を受け入れたにちがいない。

だが中国の古典における戦記に似せて八犬士と合従軍との戦いを描くというのが、馬琴のオリジナルな意図だとしたら、次に考えるべきは、そこには無理があり、物語とか全体の設定からしても似つかわしくないということだろう。八犬士たちは、やがて里見家の八人の姫たちと結婚して城主となるとしても、それまではスーパー戦隊のメンバーとして活躍してくれたほうが、五千将であるよりもはるかに面白い。個人としての活躍から、一挙に、五千人将になるような馬琴の描き方には、違和感が拭い去れない。

八犬士が力をあわせて強大な敵を倒すというような、『八犬伝』ユニヴァースで定着している物語のほうが、オリジナルよりも面白いし説得力もある。まさに翻案がオリジナルを補完しつつ、あらたな可能性を広げ、しかも完成形を指示したといえるのである。つづく
posted by ohashi at 20:16| 映画 | 更新情報をチェックする

2024年10月27日

最高裁裁判官国民審査

本日は衆院選と同時に再考裁判官国民審査の日。

以下のネット記事が目に留まった

小泉今日子「法が法になってないと感じることもいっぱい」 最高裁裁判官国民審査の重要性訴える
スポニチアネックス(スポーツニッポン新聞社 の意見)10月27日

女優の小泉今日子(58)が26日深夜放送のJ-WAVE「TOKYO M.A.A.D SPIN」(土曜深夜1・00)に出演。27日投開票の第50回衆院選と同時に行われる最高裁裁判官6人の国民審査についてコメントした。

「あれも意外と重要なんじゃないかと。法が法になってないっていうように感じることもいっぱいあるので」と裁判官の国民審査について切り出した小泉。「“見てますよ”っていう意志は必要かなと思って。きちんとした判断をしてる人もいっぱいいるかもしれないけど、でも私はそこにも不満は感じる」と続けた。【以下略】

小泉今日子氏の意見に賛成である。最高裁裁判官の国民審査はけっしておろそかにできない。「“見てますよ”っていう意志は必要かなと思って」というのは、きわめて重要な指摘である。国民が審査を放棄したら、司法の暴走あるいは無為を止めることはできない。

ただ「きちんとした判断をしてる人もいっぱいいるかもしれないけど、でも私はそこにも不満は感じる」という発言は、この文面だけでは、よくわからない。国民審査をおろそかにせず「きちんとした判断」をしている人は多くいるとは思うものの、まだ十分ではないということか。

私は、最高裁判所裁判官の審査において、毎回、全員に×をつけている。おいおいそれでは審査になっておらず、ただのおふざけかと思われるかもしれないが、私は信念をもってそうしている。もちろん最高裁裁判官の考え方には差異があるので、一律に×ということにはならないとはいえ、政権の司法無視をいつも放置し、政権の顔色をうかがっているような最高裁判所を代表する裁判官は、全員、一度にやめてもらいたいと本気で考えている。

もちろん私が全員に×をつけても、少数意見にとどまるだろうし、最高裁裁判官の地位は微動だにしないと思うし、全員に×をつければ審査ではなく、ただのおふざけ・冗談としてしか受け止められず、「見てますよ」という意志は伝わらないかもしれないが、それでも、私の怒りの表明として、今度も、おそらく私が死ぬまで全員に×をつけ続けるだろう。

本日? もちろん全員に×をつけたことを報告しておく。
posted by ohashi at 19:42| コメント | 更新情報をチェックする

2024年10月24日

投票入場券が送られてこない

実は昨日送られてきたのだが、それまで投票入場券が届かないのはどうしたことかと、やきもきした。

いや、投票入場券は届いているのに、それに気づかなかった私が捨ててしまったのではないか。老人になると、どんな粗相をしでかすか、わかったものではない。私ももうろくして重要な書類を気づかずに捨ててしまったのかと、かなり落ち込んだ。

もちろん居住している自治体のほうの手違いで私に送られてこないとか、郵便局の誤配送ではないだろうかと、あれこれ可能性は考えた。

まさか急な総選挙の決定に自治体のほうで準備が間に合わず郵送が遅れたなどとは思いもよらなかった。

というのも、投票入場券が届いていないことを、知人に話したのだが、居住している自治体にいる知人ではなく、私のところからは遠い神奈川県に住んでいる知人に尋ねてみた。そうすると投票入場券は、とっくに届いているという返事だった。そのためやはりアクシデントがあって私のところにだけ届いていないか、あるいは私が気づかずに捨ててしまったのではないか、この二つの可能性しかないと思い込んでしまった。

同じ自治体に住んでいる知人にたずねてみれば、届いていないという返事だったはずで、そうなると悪いのは私のほうではなく、送付する側かもしれないと考え、様子をみる、自治体の役所に問い合わせてみる、あるいはメディアで調べてみたりするかもしれなかったのだが――実際にネットでは投票入場券が届いていないという記事があったし、本日、テレビでも、その話題をとりあげていた。だから自分がもうろくして重要な書類を捨ててしまったと思い込まなくてもよかったのだが、神奈川県の知人に尋ねたのが運の尽きだった。

とはいえ、投票入場券がなくても、投票できることを知っていたので(メディアでも、このことは伝えていた)、投票日には、投票入場券をなくしたと申告して(昨日まで自分がなくしたものと思い込んでいた)投票すればいいと、そんなに心配はしていなかったのだが。

自虐的で心配性の私は、もし自分であやまって捨てていなくても、私の投票入場券が奪われて使われてしまうのではないかと、心配した。

映画『人数の町』(日本映画2020年9月に公開。荒木伸二監督。主演:中村倫也)は、こんな物語である。

借金取りに追われ暴行を受けていた蒼山は、黄色いツナギを着たヒゲ面の男に助けられる。その男は蒼山に「居場所」を用意してやるという。蒼山のことを“デュード”と呼ぶその男に誘われ辿り着いた先は、ある奇妙な「町」だった。
「町」の住人はツナギを着た“チューター”たちに管理され、簡単な労働と引き換えに衣食住が保証される。それどころか「町」の社交場であるプールで繋がった者同士でセックスの快楽を貪ることも出来る。
ネットへの書き込み、別人を装っての選挙投票……。何のために? 誰のために? 住民たちは何も知らされず、何も深く考えずにそれらの労働を受け入れ、奇妙な「町」での時間は過ぎていく。
ある日、蒼山は新しい住人・紅子と出会う。彼女は行方不明になった妹をこの町に探しに来たのだという。ほかの住人達とは異なり思い詰めた様子の彼女を蒼山は気にかけるが……。【映画の公式ホームページより】

この映画の物語紹介のところに、別人を装っての選挙投票とある。私の奪われた投票入場券を使って誰かが投票していたらと思うと、投票で自分の意志を反映することができなかった悔しさと同時に犯罪に巻き込まれた怖さも感じられて複雑な思いにとらわれた。しかし、投票入場券がなくても投票できるのだから、期日前投票で、偽造の身分証明書さえあれば簡単に投票できてしまうことにも思い至った。つまり投票入場券を奪わなくても、なりすまし投票ができる。

もちろん、そんなことが実際に行なわれているかどうか知らないが、今の日本社会、このような犯罪に使われる人数要員は、闇バイトなどもふくめて、無数にいると考えても、あながちまちがいではないだろう。心配性の私は、結局、投票入場券が送られてきても、心配は終わらない。
posted by ohashi at 23:55| コメント | 更新情報をチェックする

2024年10月13日

もうひとつのシャクルトン

ミュージカル『アーネストに恋して』(原題『アーネスト・シャクルトンが私を愛する』)は、シャクルトンという探検家のもつオーラに大きく依存していることは確かだ。

日本版Wikipediaは、英語版を下手に翻訳したもののように思われるのだが、そこには以下の記述がある

1959年にアルフレッド・ランシング著『Endurance: Shackleton's Incredible Voyage(邦題:エンデュアランス号漂流)』が出版された。これは肯定的な視点でシャクルトンを描いた最初の本である。同じくしてスコットへの態度は徐々に変わり、文学作品の中で批判的記述が増え、バルチェフスキーが「痛烈な一撃」と評した、1979年出版のローランド・ハントフォードによる伝記『Scott and Amundsen』におけるスコットの扱いで頂点に達した。このスコットの負の一面は世間に真実として受け入れられるようになり、彼を象徴していたヒロイズムは20世紀後半の意識変化の犠牲になった。数年のうちにスコットは【中略】人気が急上昇したシャクルトンに、世間の尊敬面で完全に逆転された。2002年、BBCは「100人の偉大なイギリス人」を決めるアンケートを行ったが、シャクルトンの11位に対しスコットは54位であった。

そして
2002年にはチャンネル4が、ケネス・ブラナーを主役に1914年の遠征を描いた連続番組『Shackleton』を制作した。アメリカではA&E Networkで放送され、2つのエミー賞を受賞した。


とだけあるが、このケネス・ブラナー主演の『シャクルトン』を私は日本のテレビで観た。

2003年5月NHKでテレビ放送され、その大反響を受け2005年1月1日、2日にNHK教育テレビで再放送された。私はどちらの放送をみたのか記憶が定かではないが、たぶん再放送のときだと思う。現在、配信はされていないがDVDで販売されている。観て損はないテレビドラマ(前後2回3時間のドラマ)である。

これで「シャクルトン」の名前をしっかり刷り込まれた私は、イギリスのメーカー、エアフィックス(AIRFIX)社がシャクルトンのプラモデルを発売したとき、いち早く購入した。もちろん「シャクルトン」が誰かを承知の上でというか、その飛行機が「シャクルトン」と命名されていたがゆえに購入した。

Wikipediaの説明によると
アブロ シャクルトン(Avro Shackleton)は、アブロ社がアブロ リンカーン爆撃機に新しい胴体を取り付けて開発し、イギリス空軍により使用された長距離洋上哨戒機である。元々は主に対潜戦(ASW)と洋上哨戒機(MPA)として、後に早期警戒管制機(AEW)、捜索救難(SAR)やその他の任務が追加されて1951年から1990年まで使用され、南アフリカ空軍でも1957年から1984年までの期間使用された。機体名称は極地探検家のアーネスト・シャクルトンに因んで命名された。

そして「合計で185機のシャクルトンが1951年から1958年に生産された」とある。

英国空軍が航空機のニックネームに「シャクルトン」を使ったことは、「スコットvsシャクルトン」のライヴァル対決のなかでシャクルトンに軍配を挙げたというよりも、「スコット」という名前がありふれていて印象に残らないからだろう。またどちらが人気があったのかという問題ではなく、探検家としてシャクルトンは生前も死後も高い知名度を誇っていたことの証左がその命名にあらわれているということだろう。

ちなみにAIRFIXのプラモデルは1/72のスケールモデルでよくできている。シャクルトンは同じアブロ社の、第二次世界大戦中の爆撃機「ランカスター」ほど、面妖な機体ではなく、むしろ大人しい設計の機体なのだが、ただ随所に英国機的なおかしなところがあって面白い。4発のプロペラ機だが、二重反転プロペラなのでプロペラを8つ作らねばならないというめんどくささはあるが、プロポーションはよく、細部もスケールにみあった再現がされていて、作りやすいキットである。

ただAIRFIXの組み立て説明書には、コックピットを、天井も壁も床も、そして椅子までも黒く塗るように指定しているのだが、いくらなんでもこの色指定は雑すぎるのではないかと、ネット上で画像や動画をさがしてみたら、シャクルトンのコックピット、椅子や椅子のクッションまでも真っ黒だった。おそるべし英国機。
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2024年10月12日

『アーネストに恋して』

松竹ブロードウェイシネマと銘打ったミュージカルの舞台録画を映画館でみる。10月4日から全国順次限定公開。『アーネストに恋して』というのは、どこのアーネストだか知らないが勝手に恋してろという気持ちにしかならないのだが、原題は、Ernest Shackleton Loves Meえ、シャクルトンが私に恋した?! あの、シャクルトン? これにはがぜん興味がわいてきた。いったいどんなミュージカル・ドラマかと期待がたかまる。

そう、「シャクルトン」の名前がメインであって、アーネストはどうでもいい。ただ日本人にはシャクルトンといってもなじみのない名前かもしれないので、「アーネストに恋して」となったのだろう。しかたないことか。

ストーリー
『アーネストに恋して』(原題:Ernest Shackleton Loves Me)は、子育てとビデオゲーム音楽の作曲家としてのキャリアの両立に奮闘する睡眠不足のシングルマザーが繰り広げる奇想天外で独創的なミュージカル冒険劇。

ある夜更け、出会い系サイトに自己紹介動画を投稿した主人公のもとに、突然20世紀を代表するリーダーと称される南極探検家のサー・アーネスト・シャクルトン(1874-1922年)から返信が届く。南極で船が難破し流氷の上で身動きが取れなくなったシャクルトンは、時空を超えて主人公にアプローチし、壮大な冒険の旅へと誘う。思いがけないことに、二人は互いの中に自らを照らし導く光を見いだすのであった。

時空を超えて接触しあう、それもたんに通信を通して話し合うというのではなくて、実際に、身体的に接触する。シングルマザーが暮らす住居の冷蔵庫からシャクルトンがあらわれるのだ。だが彼女の雑然とした住居内と南極の雪景色はどうつながるのかと思ったのだが、プロジェクション・マッピングがそれを可能にしている。彼女の住処はそのままに、いつのまにか壁に南極の雪景色がひろがり、二人は南極を旅しているかっこうになる。

彼女の名前はキャサリン(キャット)。キャットとシャクルトンは、ともに、それぞれの世界で難題に直面しているのだが、互いに助け合って、苦境を脱することになる。シャクルトンにとって彼女は、くじけそうになる自分を力強く励ましてくれる心の中の女性である(ユング心理学でいうアニマ)。いっぽうキャットにとって、彼女を食い物にしているろくでなしの愛人とは異なり、誠実で真摯な男性で、彼に母性的な感情で助言を与え、また彼を力強く励ますことで、彼女自身、自分に自信をつけてゆくことになる。ある意味、シャクルトンは彼女の分身でもあり、彼女の心のなかにある男性的部分(アニムズ)でもある。二人は時空を超えて出会うことで、互いに相手を救い、また自身も救うことなる。

なお彼女とシャクルトンとの時空を超えた出会いは、もちろん不眠症に悩む彼女の一夜の夢と解釈もできる。ただ、夢ではなかったかもしれないという証拠も残っているのだが。

二人芝居だが、二人は当然のことながら、歌はうまい。オフ・ブロードウェイ・アライアンス最優秀ミュージカル賞(2017)を受賞したのもうなずける。で、それをスクリーンでみたが、主役の女性がぶさいくでつまらなかった。いくら、かわいらしさに正解はないとしても、ぶさかわいいともいうこともよくあるのだが、彼女はぶさいくすぎてかわいらしくない。1時間30分くらいの映画だが、それがまさに限界だった。

主役の女性がぶさいくでつまらなかった――なんという低俗で、しかも頭の悪い感想なのだ。しかも差別的だと非難の集中砲火を浴びるかもしれない。説明が必要だろう。

主役のヴァレリー・ヴィゴーダ(正確には二人芝居でW主演だが、原題にあるmeとは彼女のことで、どうしても主役と思えてしまう)は、劇中では眼鏡をかけている。そして眼鏡をかけた彼女はあまり魅力的ではない。

眼鏡をかけることの意味は、顔の魅力度を落とすか、上げるかのいずれかである。舞台上で眼鏡をかけているぶさいくな人物は、眼鏡はずして思いがけない美貌をみせるときに、それが人物としての生まれ変わりを象徴することがある。残念ながら、今回の舞台ではそのような演出はとられなかった。

となると別の可能性もみえてくる。眼鏡が顔の魅力度を上げている場合である。党首になってから眼鏡をかけはじめ好感度をあげようとしたどこかの国の首相のように、眼鏡が顔の不快さをやわらげることがある。舞台の彼女もそれなのだろうと思った。歌はうまいが顔がよくない、そこで眼鏡で顔立ちを変えたということだろう。しかしかわいげのない彼女は、劇の魅力を大きくそこなっている。ただ今回の彼女の脚本の舞台に、彼女以外のミュージカル俳優を用意するのがはばかられたのかもしれない。しかし、やはりほかの女優をわりあてるべきではなかったか。

だが、私のこの想定はまちがっていた。ネット上にはこのミュージカルの舞台写真もあるのだが、彼女が最初から眼鏡をはずしているヴァージョンもある。そして眼鏡をはずした彼女は美人なのである。だったら、どうして最初から眼鏡をはずすか、途中でも眼鏡をはずす演出にしなかったのだ。

おそらくそれは、うだつのあがらないゲーム音楽の作曲家で、男に食い物にされている子持ちのシングルマザーという主人公のイメージに、彼女の美貌がそぐわなかったので、眼鏡でぶさいくキャラにした。

となると、この作品を制作側は、男に搾取されつづけているシングルマザーが、シャクルトンとの出会いによって、男に依存しない自立した女性となり、たくましく生きはじめるという物語には、眼鏡をかけたぶさいくな女性というステレオタイプがふさわしいと考えたのだ。フェミニストにもなった彼女には、眼鏡をかけたぶさいくな女性像こそふさわしいということだろう。

なんという古臭い、しかも女性差別的な偏見なのだろうか。こんな偏見を容認・継承しているこのミュージカルはどこかゆがんでいる。たとえどんなに物語が舞台装置が演出が演者が魅力的でも、根底にある旧弊な前提は唾棄すべきものである。この作品は不快な愚劣さを垣間見せている。このミュージカルの基盤が不快でむかつくものだった。


だが、このミュージカルにはもう一つの基盤がある。水の物語と、その発展である。ただし、ミュージカル自体、このことを強調してはないように思われる。そもそも南極大陸圏で氷海に22名の隊員とともに閉じ込められたシャクルトン隊長の敵中突破ならぬ氷中突破物語は、女のいない海の男たち、男たちだけの冒険、その圧倒的な水量によって、水の物語(なんとかの一つ覚えと言われるのを覚悟のうえでいえば)、まさにゲイ的物語(現実のシャクルトンはどうであれ)である。正確にえいば、ゲイ的物語というサブテクストを強く喚起する。

シャクルトン役のウェイド・マッカラムWadeMcCollumは、南極で苦境に陥っているシャクルトンを印象づけるため、ひげ面のマッチョな男となって登場するが、その歌声とか過剰なまでの芝居がかった演技をみると、この俳優はゲイではないかと思えてくる。あるいはシャクルトンをゲイとして提示しようとしているのかと思えてきた。

実際、ウェイド・マッカラムは、伝説の、あるいは先駆的なトランスヴェスタイトでトランスジェンダーの作家・エンターテイナー、ケネス(のちにケイト)マーローを描くMake Me Gorgeous(2023)の主役舞台で高く評価されている。このミュージカルのネット上のページではWade McCollumのことを“queer cisgender”と紹介してる。え、どっちなのだ。

「クィア・シスジェンダー」というのは、一昔前というか前世紀の古い言い方をすれば、「ヘテロだけれども同性愛者を演ずる、同性愛者と仲が良い、同性愛者と相性がいい」という味か(クィア=同性愛ではないが、クィアは同性愛をふくむことは確か)。あるいは「ヘテロにみえる同性愛者」という意味にもとれるが、ウェイド・マッカラムを例にとれば、前者の意味だろう。

つまりウェイド・マッカラム(WM)は、同性愛者にみえるし(シャクルトンを演ずるときのみかけはそうでもないが)、同性愛者を演ずることもあるが、実際には結婚しているヘテロな男性であるということのようだ。

しかし、そうなると私がWM/シャクルトンのなかにみたクィアなものは、水の物語というサブテクストを意識したためにみえてしまったのか、あるいは、WMがたとえマッチョな男性を演じてもにじみでてしまった自身のクィア性なのか、あるいは最初からクィアなものをねらっているのか、どうとでもとれてしまう。

実際、私が映画館で観たときは、たまたまかもしれないが観客はまばらだった。いまでは上映館も大幅に減らしているかもしれないが、それは、私のように観客が、女性シンガーを魅力的ではないと感じた、あるいは主人公の女性をあえて魅力的ではないようにした演出に不満をもったというよりも、観客がシャクルトン役のWMのクィア性を、おそらく「気持ち悪い」とゲイ差別的にみたせいかもしれない。

ただシャクルトン(シスジェンダー)をクィア的俳優が演じ、シングルマザーをフェミニストのステレオタイプ的外貌をまとわせた女性俳優に演じさせたことで、クィアとフェミニズムの幸運な遭遇を出現させたというふうにみることができる。そうなると、時空を超えた男女(シスジェンダー)の出逢いという物語は、今そこに展開するかもしれない、いやすでに実現しているクィアとフェミニズムの出逢いという物語に反転するかもしれない。

そうなればこのミュージカルは面白くなるのかもしれない。

いや、主役の女性の魅力のなさは致命的で、私にとってこのミュージカルは、残念ながら永遠につまらないものでしかないのだが。
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2024年10月06日

お尻から乗る旅客機

「乗りものニュース」の記事に、こんなのがあった。

「お尻から旅客機乗ります」ユニーク手法なぜ消滅? 胴体最後部ドアのメリットとは2024.10.06 加賀幸雄(旅行ライター)

かつての旅客機では、「エアステアー」と呼ばれる内蔵の階段を使って、機体のおしりから乗り降りする、ユニークな方法を取る機種がありました。この方法はなぜ見かけなくなったのでしょう。

普通は「左舷から乗り込み」
 旅客機で乗客が乗り降りするのは左舷(機体の左側)が一般的ですが、かつては“おしり”から乗り降りする機種がありました。機体に内蔵された「エアステアー」と呼ばれる階段を使った乗降方法で、いまとなってはユニークに思えます。なぜこの方法は見られなくなったのでしょうか。

中略

1960年代はボーイング727や英国のBAC1-11のように、おしりから「エアステアー」を使って乗り降りできる機体がありました。これらはおもにジェット旅客機でも小型の機種で、機体後部にエンジンを付けた「リアエンジン式」だったことが、共通点として挙げられます。

なぜリアジェット=おしりから乗り降りになったのか

リアエンジン式は、離着陸距離を短くすることができるフラップや前縁スラットをエンジンに邪魔されず主翼へ幅広く付けることができます。この方法は小型のジェット旅客機が発着するような、小規模空港の短い滑走路への発着にもマッチするものでした。また、エンジンが胴体に付く分、全高も低くなり、乗り降りも楽になります。

中略 

胴体の最後部に設置するタイプだけでなく、機体側面の通常の乗降用ドアに階段を取り付けたタイプにも存在します。しかし、リアエンジン式の小型ジェット機は、ほとんどが胴体最後部に設置されてdいます。というのも、こうした機体は胴体が短いうえ、胴体後部にはエンジンがあるため、胴体側面に乗降ドアが付けにくくなります。そのため、最後部中央にドアを設けたのです。全高が低いので「エアステアー」も短くでき、重量を抑えられました。

他方、1960年代当時にエアステアーが重宝されたのは、地方空港を中心として、旅客ビルから直接乗り降りできる搭乗橋(ボーディング・ブリッジ)が満足に整備されていなかったこともあります。旅客の乗降には、機体が到着するたびにタラップ(階段)機体に横付けしなければなりませんが、内蔵式のエアステアーがあるなら横付けする手間も省けます。


しかし、全国の空港で搭乗橋が整備されていくと、搭乗橋を付けられない機体最後部の乗降口は使う機会も減り、やがて旅客機では消えてしまいました。

こんにち、海外の博物館に残されているおしりに乗降口のある機体のエアステアーを昇り機内に入ってみると、徐々に視界に入る座席が新鮮に映ります。それは1960年代、まだ飛行機へ乗る機会が少なかった時代に感じた旅の高揚感に通じるものなのかもしれません。
【了】
この記事に、なにも文句はなく、教えられるところも多いのだが、私自身、機体のお尻に昇降口がある旅客機を利用したことがある。

ただし乗るときは搭乗橋(これってボーディング・ブリッジの日本語訳だと初めて知った)を経て胴体側面のドアから機体内部に入ったと記憶している。羽田空港からである。

席に着いて窓から外をみると、すぐ横にジェット・エンジンの先端がある。実は、この旅行の前に、YS11に乗ったことがあり、そのときプロペラ機のYS11のキーンというエンジン音があまりにうるさくて気分が悪くなったことがあったので、こんなにエンジン近くの席では、エンジン音で吐きそうになるのではないかと心配した。

機種はDC9。いまはなき東亜国内航空の機体だったと思う。胴体後部にエンジンが二つ。記事にあったようなリアエンジンである。

しかし飛んでみてわかった。さすがにダグラスの機体。YS11とは異なり、エンジン音が静か。静かすぎるくらいで驚いた。

そして地方の空港に到着すると、後ろのドアというかお尻にあたる部分のドアが開き、こちから降りるようにと言われ、こんなところにドアがあったのかと驚きつつ、降りた。お尻から搭乗したのではなく、お尻から降りたのである。

乗るときは前方の側面にあるドアから入った。降りるときはうしろの席でもあったので、お尻から降りたのである。

実際には搭乗橋がない空港でも、前方側面のドアから搭乗したと思うし、登場するときはお尻のドアは使わないように思う。そのほうが乗客整理に便利だし、また大きな機体ではないので、ドアをひとつだけ使って問題ないのだろうから。

そのため「こんにち、海外の博物館に残されているおしりに乗降口のある機体のエアステアーを昇り機内に入ってみると、徐々に視界に入る座席が新鮮に映ります。それは1960年代、まだ飛行機へ乗る機会が少なかった時代に感じた旅の高揚感に通じるものなのかもしれません。」という記事にあるような高揚感はなかった。

繰り返すが、乗るときは前から。搭乗用にお尻のドアを使うと、客室乗務員を2か所に配置することになり、面倒なことになる。

ちなみにお尻のドアから降りた私には、こじんまりとしたターミナルの建物がみえた。そこに歩いてゆくのかと思ったら、送迎バスがやってきた。それに乗るようにいわれる。目の前の送迎デッキのあるターミナル・ビルとは別のビルがあって、そちらに、まわるのだろうと思ったのだが、バスは結局その小さなビルに横づけになった。乗車時間30秒もなかったと思う。100メートルもない、歩いていけるところを、なぜバスを使う。それもマイクロバスではなく、路線バスような大型バスを使うのである。

予想外に静かなジェットエンジン。お尻から降りる旅客機。すぐ目の前にあるターミナル・ビルに行くのにバスに乗らされる。飛行機の到着時間と列車の時間がまったく連動していなくて1時間待たされる。けっこう不思議な旅のはじまりだった。
posted by ohashi at 23:52| コメント | 更新情報をチェックする

2024年10月02日

『来るべき世界』

ヨーロッパ企画の『来てけつかるべき新世界』のこのタイトルは、1936年のSF映画『来るべき世界』(Things to Come)のもじりである。つまり『来るべき世界』の大阪弁ヴァージョンである(とはいえ作者の上田誠によれば、「来てけつかるべき」という用法は大阪弁にはないそうなのだが)。

あと「来るべき新世界」なのか「来るべき世界」のどちらが正解なのかということもあるが、どちらも正解である。日本語では「水を沸かす」と「お湯を沸かす」の両方が可能で、どちらかというと「お湯を沸かす」ということのほうが多いような気がするが、「お湯を沸かす」というのは、一度沸かした水(つまりお湯)を、もう一度沸かすことではない。「お湯を沸かす」は行為とその結果を示す言葉であって、二度沸かしの意味ではない。

類例は「新年あけましておめでとうございます」という表現。どこかのバカが旧年が明けて新年になるのだから、「新年が明けて」しまったら、新しい正月のさらに翌年の正月のことになるだとか、「夜が明ける」とはいっても、「日が明ける」とはいわないから、「新年が明ける」というのはおかしい(ただし「夜も日も明けない」とはいう)。そして「旧年明けまして」というのは違和感があるので、たんに「あけましておめでとうございます」がいいと主張し、その結果「新年あけましておめでとうございます」という言い方が駆逐されてしまった。間違った情報を流した奴は切腹してもらいたい。

それと同じで「来るべき世界」(つまり「未来」のこと)はOKで「来るべき新世界」は「新世界」はすでに未来だから、「未来のその未来」が来るとなっておかしいともいえるのだが、しかし「来るべき新世界」でも「未来の姿」ということでおかしくはない。なお「来てけつかるべき新世界」の「新世界」は大阪浪速区の繁華街「新世界」と、新しい世界の「新世界」をかけている。

それはともかく映画『来るべき世界』は、私の年代の人たち(まあ高齢者のことだが)は、小学生頃にNHKの番組で観た記憶があると思う。その頃はテレビがまだモノクロ放送だったので、モノクロ映画でも違和感はなかった。
Things to Come(1936年イギリス映画、監督 : ウィリアム・キャメロン・メンジース)】

とにかく生まれてはじめてSF映画を観たといっても過言ではない私にとって、その映画の印象は強烈すぎた。小学生の頃だったので、おそらく物語の筋立てとか内容については、理解できなかったと思うのだが、そのぶん、映像に圧倒された。

1936年に制作されたその映画は、来るべき第二次世界大戦を予告していて、しかも戦争が終結せず1960年代まで続いているという設定だった。また当時からヒコーキ少年だった私は、当時実際にあった複葉機を皮切りに、当時からみて未来の面妖な姿の航空機が登場し、その映像にほんとうに目を奪われて食い入るように観ていた気がする。おそらく今から見ると、ちゃちな特撮でしかないかもしれないが、子どもの目には、あるいは当時の特撮レヴェルからしたら、もうリアルな実写かと見まごうばかりのものだった。

H.G.ウェルズには『来るべき世界』という小説がある【The Shape of Things to Come1933)】が、それは映画の原作ではなく、映画はウェルズ自身が脚本を書いていた。その後、私は、子供向けのダイジェスト版の『タイムマシン』と『宇宙戦争』を読んで、度肝を抜かれ、ウェルズの名前は、子どもの頃の私に深く刻印されることになった。

映画『来るべき世界』は今見返してみると、こんな話でしかなかったかとがっかりするかもしれないが、当時の私には世界観がひっくりかえるほどの大きな衝撃を与えることになった。センス・オヴ・ワンダーといえばそれまでだが、それだけでは説明しきれない、ノスタルジーも加わったその映画は、私には、いまもなお、タイトルを目にし耳にするだけでわくわくするの映画となっている。
posted by ohashi at 12:20| 映画 | 更新情報をチェックする

2024年10月01日

『来てけつかるべき新世界』

ヨーロッパ企画の第43回公演(本公演)を下北沢の本多劇場でみる。2016年の公演の再演なのだが、残念ながら初演は観ていない。ただDVDでは観た。また2022年に東京のアウルスポットで観た『あんなにやさしかったゴーレム』も再演だったが、これは初演とくらべて舞台装置も変更がくわえられ、かなりパワーアップしたものだったが、今回のそれは、同じ舞台装置で、パワーアップ版ではない。ただ、それでも随所に時代の変化にあわせた変更がくわえられ、面白しさは倍増していると思った。

もっともいっしょに観劇した人に、2016年版のDVDを貸したところ、公演後、帰宅してすぐに見たら、これも面白かったということだったので、まあ、どちらも面白いということだろう。

実際、最初から最後までしっかり笑わせてもらったし、劇場全体が間断なく笑いに包まれていた。評判を聞きつけて急遽観に来た観客もいたと思うのだが、劇場は満席だった。

だから信じられないのが、私の隣に座った巨漢のことである。巨漢と言っても、『キングダム』に登場する大将軍のような大男ではないし、私がその巨体に圧迫されたというような迷惑をこうむったというのではないだが、その男、ともかく始まるとすぐに寝始めたのだ。

まだどんな話かわからないうちに寝るとは。芝居を観てつまらないと思い寝始めることはある。しかし芝居がはじまった瞬間寝ていたということはどういうことなのか。しかも、周りでは舞台に対する笑い声が絶えないというのに、その笑い声に誘われて舞台を観てみようとは思わないのだろうか。とにかく爆笑に包まれた劇場のなかで眠りこけているこの男は、いったい何者なのだ。

病気かもしれないのだが、午後1時から公演なので、ランチを食べすぎて眠たくなったということか。こんなに面白い芝居を前にして寝ているというのは、どういう愚か者なのかと笑うことすらできなかった。

公演にあたって作者・主催者の上田誠は、こんなことを書いている。

「来てけつかるべき新世界」は、大阪・新世界を舞台にしたSF人情喜劇です。くすんだ歓楽街にたむろするオッサンおばはんらの元へ、文字通りの「新世界」がやってきます。ドローン、ロボット、AI、メタバース、シンギュラリティ…。
2016年に初演し、ただならぬ手ごたえとともに、劇団を大きく躍進させてくれたこの作品を、8年ごしに再演します。もう8年か、と思うほどに最近の気分でもありますが、この8年でテクノロジーはまたうんと進化し、SFだなんて呑気に言ってられない状況になりました。ファミレスでハンバーグをロボットが運んでくるに至り、劇が現実に追い抜かれないうちにと再演を決意しました。
着々と新世界は来てけつかりますが、僕らも8年歳をとり、オッサンたちはよりふてぶてしくなりました。加えてえげつない客演陣と、いらちなマナっちゃんが串カツ屋で迎え撃ちます。人類はどこへいくのでしょう。阪神のサイボーグ枠は打つでしょうか。 (上田誠)

この言葉に触発されて、公演前のランチは「ガスト」ですることにした。下北沢の駅前すぐにあるし、並ばなくても入れるのだが、とくにファンというわけでもないのに、入ってみたかったのは料理をもってくるロボットをみてみたかったからである。

上記の文章で上田誠は、「ファミレスでハンバーグをロボットが運んでくるに至り、劇が現実に追い抜かれないうちにと再演を決意しました」と書いてある。実は、「ガスト」だけではないだろうが、ロボットが配膳するファミレスのひとつ、駅前の「ガスト」で、料理を運んでくるロボットをどうしてもみておきたかった(私はこれまで眼前でみたことはない)。

実際、ガストでのランチがよい予告編となった。実際に動くロボットは、今回の『来てけつかるべき新世界』の物語とテーマとに連動して、テクノロジーと文化について、ほんとうにいろいろ考えさせられた。

配膳ロボットをみていると愛おしくなった。これは動物が、あるいは幼い子供が、精いっぱいの努力をして仕事を全うするけなげな姿に対して、愛おしさを感ずるようなもの。とはいえ、これは優越感にひたりながら、上から目線で見下しているという、裏を返せば差別的姿勢そのものである、そう言われればそうである。

しかし、では、親が自分のまだ未熟な子供の行動を温かい目で見守っていることも、優越感に裏打ちされた差別的姿勢なのだろうか。そこには差別的目線を支える憎悪はない。愛がある。いや、そのような愛こそが憎悪と表裏一体化しているのだと批判されるかもしれない。親の愛も、子供が自立したとき、あるいは子供が自立を求めているときには、むしろ抑圧的・暴力的にはたらくことがあろう。だから、その愛はいつ暴力に反転するかわからないことを承知のうえで、それでも、人間が自然に抱いてしまうエンパシーは、ゆるがせにできぬ重大な機能を秘めていると主張したい。

そのような愛とかエンパシーは、抑圧とか暴力とか同調圧力などにいつでも反転しかねないし、未知なるものとの遭遇において、それらは、もっとも危険な対処法であることも十分に承知したうえで、それでもなお、未知なるもの、未知なる世界に相対するとき、敵対的・支配的な姿勢では、たとえ解決につながるかにみえて、それは根本的な解決にはならならず、やはり友愛とか愛情といったものが、未知なるもの他者なるものとの遭遇において基盤となるべきだと主張したい。そうならなければ、私たちはサヴァイヴァルできないのではないだろうか。敵対的・支配的なものはサヴァイヴァルにとってマイナス効果しかないだろう。また愛が敵対的・支配的なものに裏返らないことがサヴァイヴァルの条件である。

ガストにおける配膳ロボットをみて感じた愛おしさは、ロボットを擬人化しているともいえるのだが、おそらく擬人化は人類の歴史の始まりとともにあった。アニミズムである。結局、人間は自然を擬人化することで自然を意識化し、自然と対決したのだが、そうしなければ生き残ることはできなかった。もちろんアニミズムは妄想であり、恵みぶかい自然という擬人化は、近代科学の台頭とともに消え去ったともいえるのだが、人間の事情など意にかえさない冷酷な自然というのも、もうひとつの擬人化である。擬人化からは逃れられないとすれば、擬人化による生存戦略こそ見直すべきであろう。

と、まあ、そんなことをガストの配膳ロボットをみながら考えた。いや『来てけつかるべき新世界』の舞台を観ながら考えた。ここでいう「新世界」とはふたつの意味がある。「ドローン、ロボット、AI、メタバース、シンギュラリティ……」によって変化する新しい世界と、大阪市浪速区恵美須東に位置し、通天閣がみえる庶民的な繁華街、できた当初は新世界だったのだろうが、いまは昭和の名残のある庶民の繁華街、新世界とは似ても似つかぬ旧世界である。この古き新世界ではドローン、ロボットその他はおよそ似つかわしくないのだが、にもかかわらず新しいテクノロジーの波は古い新世界の日常を侵食してゆく。そこにストレスや悲劇も生ずるだろうが、お笑いも生ずる、それが『来てけつかるべき新世界』の世界である。

AIと人情喜劇の合体といってもよい。AIが人間の日常なり人間性を支配する近未来だが、同時に、人間がAIと仲良くなるというよりも人間がAIと情愛の絆で結ばれるような近未来もある。まさにAIと人間との「人情喜劇」であって、そこにAIとの接し方についての、好ましいありようが垣間みえる。そこがなんとも面白くて、そして愛おしい。

お笑い満載で、しかも知的刺激にことかかない、それがヨーロッパ企画の舞台であり、それが作者の上田誠の天才的なところでもある。

できれば配膳ロボットがいるファミレスで食事をしたあと、舞台を観ていただければ感慨もひとしおではないか。ファミレスから舞台へ。おなか一杯になって眠たくならなければ、これが私のお薦めするベストなコースである。
posted by ohashi at 04:44| 演劇 | 更新情報をチェックする