2024年09月18日

『チャイコフスキーの妻』

キリル・セレブレンニコフ監督の2022年の映画(ロシア・フランス・スイス合作映画)。同性愛者だったチャイコフスキーと結婚した女性を待ち受ける悲劇と苦難の人生というような映画なのだが、ゲイの男性を慕う「おこげ」(Fag Hag)の女の話かと興味津々だったが、男性と男性の身体的なからみはなく、妻の性的妄想のなかに裸の男性が多数登場する。

予告編的映像のなかで(とはいえ私はその映像を観ていないのだが)、男性のペニスを握り、そのすぐあと手の匂いを嗅ぐという同性愛場面があってショックを受けたという人がいたが、映画のなかでその場面をみたとき、男性のペニスをしっかりにぎり、手の匂いを嗅ぐのはチャイコフスキーの妻であった。映画には幻想か現実かわからない場面がいつくもあったのだが、それもそのひとつ。妻の性的な妄想の世界(おそらく)に、「練馬変態クラブ」のような男性たちが登場するのである。

【ちなみに「おこげ」というのは侮蔑語であるとWikipediaに書いてあるが、たしかに「おこげ」も英語のFag Hagも侮蔑語であるが、LGBTQ評論・研究では、侮蔑語をコンプライアンス重視のようなかたちで使用しないということはなく、むしろその逆である。つまり歴史から隠されてしまう(hidden from history)LGBTQにとって、侮蔑語でも、それがあることによって、欲望のありかがわかるという機能をもっている。侮蔑語はパースの記号論でいうインデックス記号である。それがそこにあることの指標なのである。】

したがって『チャイコフスキーの妻』は、夫の側の同性愛についての描写はなく、妻の側の妄想にセクシュアリティの比重が置かれているため、くりかえすが「おこげ」の話になっていない。「おこげ」どころか、妻が愛するのは、異性愛者としてのチャイコフスキーである。なぜなら女性の妻だけがチャイコフスキーを救えると信じているからである。くりかえすが、ゲイの男性を愛するおこげの話ではない。

悲劇について
だがこの映画は紛れもなく悲劇になっている。

悲劇とはなにか、その定義はさまざまだが、そのなかのひとつに、妄執にさいなまれて破滅してゆく人間の悲惨と栄光をテーマとするという定義がある。

たとえばアーサー・ミラーの『セールスマンの死』。現代のアメリカの庶民の社会という、ギリシア悲劇から何光年も離れているような世界に、悲劇は可能かという問いに対する答えがその作品だった。

主人公のウィリー・ローマンは仕事上すでに負け犬になって会社からも疎まれているが、二人の息子にはそのことを隠し自分の古臭い人生観を押し付け続けている。それはアメリカン・ドリームともいえないような、人気者が社会の成功者になるという浅薄きわまりない人生観だった。

幼い頃は無批判に父親を尊敬していた二人の息子も、大人になるにつれて父親の人生観に懐疑的になり長男にいたっては父親と決裂するまでになる。しかし会社からも子供からも嫌われても、ウィリー・ローマンは自分の浅薄な人生観に固執する。それが崇高な大義というのなら同情も共感もできるのだが、ただ幼稚で愚にもつかない人生観に固執しつづけ、自分で自分の首を絞めている男ウィリー・ローマン――この愚かな頑固者のクソオヤジに対しては救いの手を差し伸べることすら無意味に思えてくる。この負け犬のなかの負け犬。決して自分の非を認めない負け犬。周囲に迷惑をかけ子供たちの人生を致命的に狂わせそうになった負け犬、愚かな父親。愚劣で蒙昧で頑迷固陋な最低の人間ウィリー・ローマン。

だから彼は偉大なのである。だから彼は現代の悲劇の主人公なのである。

節を曲げないこと。自分自身にどこまでも忠実であること。内省も反省もなくただ一途にひとつのことに固執し、それに殉ずることすらいとわないというか、それにすすんで殉ずる。そこに人間の偉大さをみるのが悲劇というジャンルの特徴なのである。

そのためにも中途半端な主義主張に殉ずるのはだめである。なぜなら、それには誰もが殉ずることになるから。そうではなくて、その個人だけが信奉し信奉すればするほど侮蔑され孤立を余儀なくされる理不尽な愚劣な信条、自分だけにしか価値をもたない信念、それに身をささげることが求められる。この不条理こそ悲劇が求める人間の実存的なありようなのである。

アンティゴネーは、国家の法に対して、血族の掟を対峙させているのではない。彼女は戦死した兄弟を埋葬したいだけであり、そのためには、国家の法を踏みにじろうとも、自ら罰せられ破滅しようとも意に返さないのだ。誰が説得しても彼女は自信の決断を撤回することはない。彼女の内面は、それをこじ開けようとも開けられないほどに固く閉ざされている。そう、自分の尻尾に食らいつく蛇――ウロボロスこそ、悲劇の主人公の究極のイメージである。ウィリー・ローマンも、現代のアメリカ社会のウロボロスである。そして、そこに、繰り返そう、悲劇は、なにものにも傷つかない人間の偉大さ、あるいは人間の魂をみているのである。

チャイコフスキーの妻はどうか

チャイコフスキーの妻アントニーナが、チャイコフスキーに魅かれたのは、有名な作曲家だからという浅薄なミーハー的な理由からだった。いっぽう独身主義者だったチャイコフスキーがなぜ彼女と結婚するにいたったかについては、おそらく記録も残っていないだろうし、明確なところはわからない。彼女が高額な持参金をちらつかせ、夫の仕事の邪魔をしない献身的な妻=家政婦になると思ったのかもしれないが、彼女の方は夫の理想的なパートナーとなるという独りよがり的な妄想を抱いているように思われる。夫は自分を愛し、自分も夫を愛している。夫を救えるのは自分であり、夫は彼女を愛することで夫自身も救われるという破廉恥とはいわないが、薄っぺらな夢を彼女は抱いている。問題はその薄っぺらな夢を彼女が最後まで捨てないことである。

夫が生きているホモソーシャルな世界に女性あるいは妻が入り込む余地はない。おそらく財産目当てあるいは世間体のためにチャイコフスキーは結婚したのだろうが、それが過ちであり、女性を傷つけたことを悟り、別居から離婚することにしても、手遅れである。妻のほうは、道具・手段として扱われプライドを傷つけられたことの恨みからか、絶対に離婚に応じない。

冷静に考えれば、さっさと離婚して慰謝料をもらい、第二の人生を歩んだほうが賢明であることは、おそらく本人もわかっているだろうし、周囲も彼女にとってよかれと、そのような選択をすすめるのだが、彼女は、断固として離婚の書類に署名をしないし、周囲の説得に応ずることなく夫が自分を迎えに来るのを待ち続けるのである。

おそらく弁護士の男と肉体関係をもち三人も子供を作りながら、彼女はチャイコフスキーの妻――それがオクシモロン的存在であることなどものともせずに――でありつづけるのである。しかも彼女の愛とは著名人に対するミーハー的感情からそんなに隔たったものでもなかったのだが。もうこうなっては、誰も彼女を止められない。彼女を救えない。彼女はウロボロスになっている。そしてそこに彼女が人間の魂そのものとなっている偉大さがみえてくる。人間の魂のなんという悲惨な偉大さ。彼女は正真正銘の悲劇の主人公になりおおせたのである。

最初に述べたようなこの映画はゲイの男性を慕う「おこげ」の話ではまったくなかった――そのようにすることもできたとはいえ。むしろ、これはそうトリュフォーの映画『アデルの恋の物語』(L'Histoire d'Adèle H.1975)ではないか。くだらない男に捨てられても、男を慕い続け発狂してゆく、ヴィクトル・ユゴーの次女アデル(アデーレ 1830-1915)の物語は、チャイコフスキーの妻アントニーナ・イヴァノヴナ・ミリューコヴァ(1848 – 1917)とどこか重なってみえるのは、私だけだろうか。
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2024年09月09日

『エイリアン:ロムルス』

9月6日公開の映画『エイリアン:ロムルス』は全世界でヒット中のようだが、日本では『ラストマイル』に一位(なんの一位かよくわからないが)を譲っているようだ。まあわからないわけではない。『ラストマイル』のほうがずっと面白い。『エイリアン:ロムルス』は正直いって、エイリアン・フランチャイズのなかでは、一番面白くなかった。怖くもなければ面白くもなかったのだ。ただし最低な駄作ということではない。

ちなみにいつの頃か、「~シリーズ」と言っていたものを「~フランチャイズ」と英語でいうようになった。好きな言い方ではないが、一応ここでは「フランチャイズ」としておくが、エイリアン・フランチャイズを出来事の年代順にならべるとこうなる(制作年はアメリカを基準とする)。

『プロメテウス』(2012):2093年
『エイリアン:コヴェナント』(2017):2104年
『エイリアン』(1979):2122年
『エイリアン:ロムルス』(2024):2142年
『エイリアン2』(1986):2179年
『エイリアン3』(1992年):2179年
『エイリアン4』(1997年):2381年

昔、私の姪が「スター・ウォーズ」フランチャイズを全部見ようと思い立ち、エピソード1から順に見始めたら、エピソード4で突然、映画が変質をきたしてびっくり仰天したということがあった。フランチャイズは作品内における年代順よりも作品が製作された順にみたほうがいい。エイリアン・フランチャイズを全部見るつもりなら、『エイリアン』(1979)からはじめたほうがいい。

それはともかく、『エイリアン』は嫌いではない。それどころか論文すら書こうと思っていたくらいで、興味深いテーマ――女性の身体性とかセクシュアリティから、日本企業にいたるまで――が満載なのである。昨年、東洋大学で、ハリウッド映画に登場する日本人や日本のイメージというテーマで短い講演をしたのだが、そこでは『エイリアン』の話はしなかった。若い人にとっては『エイリアン』における邪悪な日本企業のイメージといっても作品になじみがないかもしれないと思ったからだが、今年、『ロムルス』が公開されることを知っていたら、『エイリアン』フランチャイズに触れていたかもしれない。

とはいえ『ロムルス』から失われたものは日本企業の影である。そもそも21世紀に入ってから制作されたエイリアン作品では20世紀の作品にあった邪悪な日本企業のイメージはきれいさっぱり消えている。『プロメテウス』では、まだWeyland(ウェイランド社)でWeyland-Yutani(ウェイランド・ユタニ(湯谷?))社にはなっていない。『ロムルス』ではウェイランドランド・ユタニ社となっているが、日本人重役や社員、技術者の影はまったくない。日本の凋落が影を落としているのだろう。
【映画『エイリアン』の日本版ウィキペディアによれば「ウェイラン・ユタニ社」については、「シリーズを通して暗躍する巨大複合企業。リプリーらを利用してエイリアンを生きたまま捕獲し、軍事利用しようと目論むが、その企業実態は詳しくは語られていない。作中では「会社」とだけ呼ばれる。/社名は当初「レイランド・トヨタ」とするつもりだったが、当然のことながら権利上の問題で使用出来ず、「Leyland」をもじって「Weylan」に変更し、コッブ【SFイラストレイター・アーティスト・デザイナーのロン・コッブのこと】の知人の日本人から「ユタニ(湯谷)」という日系の名称を採った」とある。ただし『エイリアン2』以降、また『ロムルス』でもウェイランドWeyland・ユタニ社となっている。】

今回の作品では、フェデ・アルバレス監督を起用したのだが、監督の代表作『ドント・ブリーズ』と『エイリアン』フランチャイズの多くの作品は共通点がある。一体の脅威的存在が人間の集団に攻撃を加えるのである。ところが今回の『ロムルス』は、設定を変えた。『エイリアン2』(原題はAliensエイリアンたち)と同様、エイリアンの巣窟に身を投じた主人公たちが、そこからいかにして逃れるかという、戦争映画では定番中のド定番ともいえる敵中突破物になったのである。しかしだったらフェデ・アルヴァレス監督を起用することはないのではないかともいえる。

そしてもうひとつの設定変更は、少女ヒロインの活躍物となったことである。映画における少女の存在についてはどれほど強調しても強調したりないのだが、女性が活躍するエイリアン・フランチャイズにおいて、今回は主役が女性ではなく少女になった。第一作『エイリアン』ではシガニー・ウィーヴァーがひとりエイリアンと対峙した。下着姿の彼女がエイリアンに気取られぬよう宇宙服を身にまとい、そしてエイリアンを宇宙空間に放出するという有名なシークエンスは、『ロムルス』でも踏襲されている(『エイリアン:コヴェナント』でも同様のシーンがある)。その彼女はフランチャイズでは性的に成熟した女性で、つねに男性の影がつきまとい、またみずからエイリアンの子供を宿したりもした母なる女性でもあった(これは21世紀のエイリアン・フランチャイズにおける女性主人公たちについてもいえる)。

一方『ロムルス』のケイシー・スピーニー(この映画のなかでイアン・ホルムと並んで唯一有名な俳優)は、残念ながら彼女が主演の『プリシラ』は観ていないのだが、なんといっても『パシフィック・リム:アップライジング』(18)の小型イェーガー製作者兼操縦者のイメージが強烈すぎて、独立系戦闘美少女の系譜に連なるヒロインである。少女であるからにはボーイフレンドはいても、恋人なり夫の存在はなく、男に支配されない独身女性で、また子供を宿すこともないために母性性の束縛からも解放されている。誰にも(とくにいかなる男性にも)支配されない独立した存在。その彼女が、最凶最悪のエイリアンと対決する。少女として、無敵の女性として。

ちなみに、近年における少女物の映画としては、たとえば『ザリガニの鳴くところ』(2023)とか『哀れなるものたち』(23)を挙げれば、理解していただけるだろうか。

また『ロムルス』のなかでレイン/ケイリー・スピーニ―は倒したエイリアンの一体に「ビッチ」と吐き捨てているが、エイリアンの性別ははっきりしないのに、なぜビッチなのかといぶかるなかれ。これは『エイリアン2』(『エイリアン3』だったかもしれない)において、シガニー・ウィーヴァーが、女王蜂のようなマザー・エイリアンから、人間の女の子ニュートを奪い取ったときのセリフを踏襲しているのであって、エイリアンの女王に「ビッチ」は正しい用法だが、『ロムルス』においては、その用法はコンテクストに合致しない形骸化した用法でしかなかった。

そう、少女物と敵中突破物の合体としての『ロムルス』だったが、独自路線を歩むまえに、フランチャイズで育まれたフォーマットが重くのしかかってくる。結局、そのフォーマットに乗っかった作品にしかならないし、しかも、今回は廉価版である。

たとえば21世紀になってつくられた『プロメテウス』(リドリー・スコット監督)では、主役のエリザベス・ショウ博士をノオミ・パラスが演じているし、女性陣にはほかにシャーリーズ・セロンも登場する。船長にはイドリス・エルバが、またウェイランド社長にはガイ・ピアースが、ショウ博士の父親にはパトリック・ウィルソンが、そしてアンドロイドにはマイケル・ファスベンダーがと、けっこうそうそうたるメンバーが名を連ねているのだ。そう、ショーン・ハリスも出演していた。誰というなかれ、『ミッション・インポッシブル』の2作において悪役ソロモン・レーンを演じた俳優といえばわかっていただけるだろうか。

ところが『ロムルス』ではケイリー・スピニーズ以外に誰も知らない俳優ばかりである。アンドロイドを嫌っている差別主義者のビヨルンを演じているスパイク・ファーンは、『アフター・サン』(2022)にも出演したらしいが、端役すぎて覚えてない(ちなみに『アフター・サン』もゲイの父親を回顧する少女の物語である)。

『プロメテウス』やその続編『エイリアン:コヴェナント』との差は歴然としている。著名な俳優が出ていないだけではない。もちろんおなじみの俳優しか出ていない映画よりも、知らない俳優たちが出ている映画のほうが新鮮で刺激的ともいえるだが、しかし、『ロムルス』では、その知らない俳優たちが、若者というよりも、クソガキであって、それだけで観ていて萎える。ディズニーでは、無軌道・無責任は若者たちが窮地に陥るものの、そこから全身全霊の奮闘によって奇跡的に脱出するという物語を構想したのかもしれない――たとえば『Fall/フォール』(2022)のような映画。また『ロムルス』とは対照的であったはずの『プロメテウス』も(『エイリアン:コヴェナント』も同じようなものだが)、その登場人物はみんな大人だが言動は中学生以下であることは認めるとしても、それにしても、『ロムルス』は実年齢と精神年齢がしっかり低い。強いて言うなら『ロムルス』は、宇宙版『スタンド・バイ・ミー』である。ただし『スタンド・バイ・ミー』とはちがって画面が暗すぎ迷宮のような宇宙施設内部は閉所恐怖症に陥りそうだとしても。そして人物が子供のくせにセックスしたり妊娠したりするという違いはあっても。

いや安い俳優を使った廉価版であっても、登場人物が性欲モンスターの小学生だとしても、そんな映画はごまんとあるので、目くじらを立てるには及ばないし、そもそも小学生並みの精神年齢だからこそ事件が起こり物語が展開するのだから、そこを問題にするのはおかしいと言われそうだが、ただゆるがせにできないのはアンドロイドの扱いである。

エイリアン・フランチャイズでは主人公の女性とアンドロイドは親密な関係になる(たとえ命を狙われるというかたちであっても)。『ロムルス』でも、レイン/ケイリー・スピーニーは、アンドロイドを「弟」と呼んで親密な関係にある。ただこのアンドロイド(アンディーと呼ばれている)は、旧式で廃棄されたアンドロイドを拾ってきたもので、ポンコツである。レインの父親によって、彼女を愛し守り慰めるよう再プログラミングされているのだがアンドロイドとしては性能は劣り、クソガキたちからいじめられている。ことに両親の死をアンドロイドによる管理のせいにしている徹底したアンドロイド差別主義者の男は、アンディを目の敵にしていて、その差別的言動は観ていて不快きわまりない。

エイリアン・フランチャイズではアンドロイドは白人男性だった。『プロメテウス』や『エイリアン:コヴェナント』では、マイケル・ファスビンダーがアンドロイドだった。彼らは会社から秘密の指令を受けており人間たちを守るどころか会社の利益のために行動することで主人公と敵対することにもなる。そのアンドロイドが『ロムルス』では黒人になっている。アンドロイド差別は黒人差別というかたちになる。また年齢的にも上にみえるアンドロイドを彼女は弟と呼んでいるが、旧式で性能が劣るものの、性格的には明るく彼女を和ませるアンディーは、老いた黒人召使のイメージが強い。それはまたもうひとつの人種差別に他ならない。従順な劣等人種である黒人だけがよい黒人ということなので。

物語としてはこのままで離陸できない。そのためアンディーは、コントロール室に放置されたアンドロイドと接触することによって性能が向上するのである。上半身だけになって放置されるアンドロイドというのは、エイリアン・フランチャイズの定番であって、その原型が『エイリアン』におけるイアン・ホルム演ずるアンドロイドである。『エイリアン』においてはアッシュと呼ばれていたイアン・ホルムだが(最初はアンドロイドとは思われていなかった)、『ロムルス』ではルークと呼ばれている(『エイリアン2』でのアンドロイドがビショップだったので、ルークと命名されたのかもしれない――つまりチェスの駒の名称になっている)。それはともかく、亡くなったイアン・ホルムが登場することで驚いた。CGとはわかっているが、懐かしすぎる――もっともこのイアン・ホルムのイメージの使用は問題になったのだが)。

アンディーは、このルークと接触することで、能力がアプデイトされ性能が大幅に向上する。するとアンディーを弟のようにかわいがっていたレイン/ケイリー・スピーニ―は嫌悪しはじめるのである。

刷新され性能が向上したアンディーは的確な判断と予測で、エイリアンの攻撃から人間たちを守り、安全な脱出経路へと人間を誘導する。そのさまは老いたポンコツのアンドロイドとは天と地のひらきがあって、その優秀さ、有能さは、爽快感すら覚えるのだが、レイン/ケイリー・スピーニーにとっては老いた気のいい頭の弱い黒人召使のほうがよかったようだ。アンクル・トム症候群か。

問題が鮮明化するのは、性能向上型アンディーが、レインの仲間を見捨てかねない行動をとったときである。結果的に仲間もぎりぎりで助かり、アンディーもそれを計算の上での行動だと冷静にコメントするのだが、レインは、そこに、会社の利益だけを優先するアンドロイドのルークに乗っ取られ、冷酷非情のアンドロイドと化したアンディーをみる。アンディのチップをルークのチップと入れ替えたので(手動で入れ替え!)、ルーク型のアンドロイドとなり、会社ファーストの思考回路になったということのようだが、乗っ取られたというよりも性能向上型になっただけであり、その変貌によって有能なアンドロイドが誕生したのだから喜んでいいはずで、実際、アップデイトされたアンディがいなければ脱出は不可能で、物語も終わっていたのである。にもかかわらず、レインは最終的に性能向上型のアンディを侮蔑するだけで、逃避行が一段落したら彼をもとにもどしてしまうのである。

ダニエル・キースの『アルジャーノンに花束を』は周知のとおり30歳代の知的障碍者の男性が手術とか薬物によって知能指数が飛躍的に向上し天才科学者になるというSF小説だが、天才科学者になることによって人間性を失うことになり、最後に、もとの知的障害の男性に戻ることで幸福になるという、作者の超保守的なイデオロギーを全開させた作品でもあるのだが、『ロムルス』でも天才的になったアンディーを嫌い、元のポンコツのアンディーにもどすことで安堵するというのは、作者(脚本家、監督)の保守的なイデオロギーの露骨な反映以外の何物でもないだろう。しかもアンディーに黒人俳優をあてることによって、頭のいい黒人よりも、バカで人が好い黒人だけがよい黒人という人種偏見を無批判に踏襲してしまったところがある。

いや、してしまったのではなく、最初から、そうするつもりだったのだろう。実際、『ロムルス』は、ハイブリッド・エイリアンを登場させたりして(CGではなく着ぐるみに近い形で撮影している――とはいえエイリアンの完成体は、最初から、宿主とのハイブリッドになるのではなかったか)、そこも問題なのだが、この映画の背後にある差別的無意識はゆるがせにできないものがある。映画のなかのクソガキどもは、物語を動かし、最終的にはエイリアンのいけにえになることで消滅する悪役というのではない。映画のなかで彼らは消滅しても、彼らの世界観は消えることなく映画の最初から最後までを支配している。フランチャイズ中、最低の映画たるゆえんである。
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2024年09月03日

ただ生きているだけではメダルはもらえない: パラリンピック射撃銅メダル

2024年パリ・パラリンピック大会で、水田光夏さんが、射撃の混合エアライフル伏射(運動機能障害SH2)で銅メダルを獲得。スポーツに関心がなく、ましてやオリンピックはゼロ視聴の私だが、水田光夏さんの射撃での銅メダルは率直に祝福したい。

面識があるわけではないのだが、私の親戚の女性が、一時期、彼女の知り合いであった。友人だったかどうか不明。ただ知り合いだったのは、水田さんが難病になる前のこと。難病を発症後、障害者ライフル射撃競技選手になってはじめて、水田さんの病状について私の親戚の女性は知ったとのこと。以後、陰ながら水田さんを応援している。

ただ、これだけなら、私がそのことを知る機会はなかっただろう。私は、親戚の女性といっしょに暮しているわけではなく、また頻繁に会うどころかその逆なので、水田さんのことが話題になること自体なかったはずだ。

ただ、前回の東京オリンピックでの射撃会場が、たまたま私の住居と近かったことと、彼女が水田さんを応援するために射撃会場のチケットを購入しようとしていたので、私のほうにも話題がふられたのだった。

その時はじめて水田光夏さんの活躍について知ったのだが、当時、つまり東京オリンピック直前に、NHKの地上波だったかBSだったか覚えていないのだが、彼女を扱ったドキュメンタリー番組を視たことは覚えている。親戚の女性に教えられてのことだった。

ドキュメンタリーで取り上げられるほどだったので、メダルの有力候補だったにちがいない。だが残念ながら、前回のパラリンピックでは、呼吸困難に陥り、32位で予選敗退となった。詳しいことは知らないが、勝負に出る前にアクシデントで棄権するようなものではなかったか。2大会連続でパラリンピックに出場と紹介されている水田光夏さんだが、実質的に、今回が初出場といっていいだろう。初出場にして期待通りの活躍ができて銅メダルに輝いたということだろう。前回はアクシデントのためノーカウントとみたほうがいい。

私の親戚の女性のことを、水田さんが覚えているとは思えないが、万が一、覚えているとしたら、彼女を通して、水田さんにお聞きしたいことはたくさんある。難病になってから、なぜ射撃をはじめたのか、たとえどれほど天性に恵まれていても、血のにじむような努力は必要だったはずで、そこのところを、余計なお世話もしくは単なる好奇心にならないようなかたちで、要は失礼にならないかたちで、聞いてみたいものだと思っている。

パラリンピックに限らずオリンピックのアスリートたちは、たいへんな努力と鍛錬のはてにメダルを獲得していることは、誰でもわかるのだが、日本では、「生きているだけで金メダル」という、アスリートをバカにした暴言を発したお笑い芸人が何の咎めもうけることなく、逆に、その暴言を批判したお笑い芸人が芸能活動停止に追い込まれているという狂気が横行している。

アスリートたちは、ただ生きているだけでメダルを獲得しているのではなく、私たちの想像を絶する努力で栄光を勝ち取っていることだけは、忘れてはなるまい。生きているだけで金メダルというアスリートはひとりもいない。

posted by ohashi at 11:15| コメント | 更新情報をチェックする