2024年07月21日

疑惑の旅人

というか「疑惑のネット記事」とでもいうべきか。

次のような驚くべき記事がでた。この記事は早くとりさげたほうがいい。
元人気アイドルが「ぶらり途中下車の旅」現る ネット二度見「久々に見た」「エクボたまらん」「酒強い?」
報知新聞社 によるストーリー 7月21日

 日本テレビ系「ぶらり途中下車の旅」(土曜・前9時25分)が20日に放送され、旅人を務めた31歳にネットが沸いた。この日の舞台は
京王線。多摩動物公園駅に現れたのは元AKB48の横山由依だった。「小日向さ~ん!」と、ナレーションを務める“中の人”小日向文世に呼びかける。「小日向さん、きょうは動物園じゃなくて京王レールランドに行きたいんですよ」と促した。【これは毎回、レポーター/旅人がおこなうルーティーン的やりとり(というか独り言)――引用者】

「横山由依久々に見た」「小日向さん、ん、やっぱりメチャメチャかわいい」「ぶらり途中下車は横山由依かあ。美人だしずっと変わらない」「横山由依 って30歳過ぎてるのか。なのにこの透明感っていうか素朴感」「横山由依さん、グループ卒業してからどんどん綺麗な大人の女性になってる」「めちゃめちゃ可愛い。笑ったときに頬と促した。

 その後は仙川にある中華店に入り、珍しい白子入りマーボー豆腐に舌鼓。「食感が豆腐と違うので新鮮ですね」と食レポし、ビールをグビッ。「これはお酒が進んじゃいますね。飲んじゃいました」と笑った。

 ネットは「横山由依久々に見た」「ゆいはん、やっぱりメチャメチャかわいい」「ぶらり途中下車は横山由依かあ。美人だしずっと変わらない」「横山由依 って30歳過ぎてるのか。なのにこの透明感っていうか素朴感」「横山由依さん、グループ卒業してからどんどん綺麗な大人の女性になってる」「めちゃめちゃ可愛い。笑ったときに頬骨の上にできる横型のエクボがたまらん」と、横山の変わらぬキュートな姿にほれぼれ。また「ゆいちゃんって酒強いのかなぁ?」と気になっていた。

こういうばかネット民こそ、代表を辞退したほうがいい。厳罰に値する。

というのも横山由依は、『ぶらり途中下車の旅』は、レポーターとしてよく出ている。土曜日の朝、この番組をよくみている私としては、横山由依の登場は珍しくない。

ちなみに『ぶらり途中下車の旅』をWikipediaで調べると、番組出演した旅人の女性篇に横山由依が掲げてある。しかも◎付で。この◎は、
◎:レギュラーとして複数回ぶらり旅をした人(新型コロナの影響を受けるもロケ再開された2020年6月以降出演経験あり)
 
であって、横山由依は基本的にレギュラーのひとりである。「横山由依久々に見た」というバカは絶対に代表権を剥奪すべきである。

横山由依をWikipediaで調べると、過去の出演作品が列挙してあり、そこに以下の記述がある。
ぶらり途中下車の旅 (日本テレビ) - 旅人
「都営大江戸線の旅」(2021年11月27日)
「京浜東北線の旅」(2022年3月19日)
「中央・総武線の旅」(2022年10月8日)
「大晦日 京都2時間SP」(2022年12月31日)
「日比谷線の旅」(2023年4月8日)
「秩父鉄道・東武東上線の旅」(2023年9月2日)
「有楽町線の旅」(2024年3月9日)
「京王動物園線・京王線の旅」(2024年7月20日)
 
今年になってからすでに二回目の出演である。年に、2・3回は定期的に出演している。この番組を視たことのない記者が、「横山由依久々に見た」というおバカ・コメントに誘導されて、彼女がレギュラーだとも知らず、勝手な記事を書いたとしかいいようがない。

まあ最近、風当りの強い日テレに対して、少しでも批判をかわそうと、番組のヨイショ記事(この言い方は考古学的に古いが)を書いたのだろう。記者も代表を降りるべきである。
posted by ohashi at 16:20| コメント | 更新情報をチェックする

2024年07月18日

疑惑の酒場放浪者

以下のような記事が目についた。

玉川徹氏 モーニングショー出演前夜に見る番組「15分ずつ日曜の夜から木曜の夜まで必ず寝る前に」2024/7/18 14:05(最終更新 7/18 22:06)
記事配信 スポニチ
元テレビ朝日社員の玉川徹氏が18日、自身がパーソナリティーを務める、TOKYO FM「ラジオのタマカワ」(木曜前11・30)に出演。テレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」(月~金曜前8・00)出演の前夜に必ず視聴しているテレビ番組を明かした。

この日のゲストは、酒場詩人の吉田類(75)で、吉田が登場すると、玉川氏は「僕、毎日、毎晩見ているんですよ、吉田さんの酒場放浪記」と、BS―TBS「吉田類の酒場放浪記」(月曜後9・00)に言及。そして、「15分4本で1回じゃないですか。それをちゃんと小分けにして、15分ずつ毎日、日曜の夜から木曜の夜まで必ず寝る前に見るんですよ」と明かした。

その理由について「僕は2015年から羽鳥慎一モーニングショーのレギュラーをやることになって、それまでは週1、2回だったんですよ、出演が。だけど、レギュラーで週5回出るとなると、生活変えないとダメだっていうことになったんですよね。夜遅く起きてたら無理だから。もう毎日9時半に寝てるんですよ」と言い、「眠れないじゃないですか、9時半なんて。それで薬とか飲むのは嫌だなって思って、何をしたら僕は眠くなるんだろうと思っていた時に吉田さんの酒場放浪記を見たら、すごくリラックスして眠くなったんです。すみません、もちろん見終わってですよ。眠くなったんで、あっこれだって思って、それからずっと10年、毎日見ています」と説明した。【以下略】

Wikipediaの『吉田類の酒場放浪記』の項目記事には、「玉川徹は、自身がレギュラーを務める『羽鳥慎一モーニングショー』の番組内で、当番組のファンであることをしばしば公言している。」とあって、玉川氏は筋金入りのファンのようだし、また玉川氏の好みにケチをつけるつもりは毛頭ないし、またファンに対しても番組を批判するつもりはない。

『吉田類の酒場放浪記』は、私も以前よく見ていたのだが、下町の居酒屋での常連客との交流がなんとも面白く、また紹介されるさまざまな酒のつまみというか酒の肴がなんとも興味深く食欲をくすぐるし、酒が強くない私でも、酒が少し飲みたくなりつつ、全体として肩ひじを張らずにリラックスして観ることができる番組であって、一時はけっこうとりこになっていた。その人気のほどは納得できる。もちろん、吉田類の飄々とした酒好きの文人めいたキャラクターとその軽妙洒脱な語り口が番組の人気を支えていることは言うまでもない。

私が見始めたのはいつ頃だったか覚えていないのだが、数年前のことだろうが、その頃から、なんとなく、吉田類の酒の飲み方が、酒好きでも大酒飲みでもない、なにか遠慮がちで、どちらかというと酒嫌いの人間の飲み方ではないかと不思議に思えてならなかった。

もちろんテレビ番組であって、取材先の居酒屋で酒を飲みすぎで呂律が回らいないくらい酔ってしまっては番組ができないから、酒を飲む量は抑え、ちびちびとしか飲まないだろうし、またプロのタレントではないので、それなりに緊張していて、酒を心から味わうということは番組内でできないのかもしれない(とはいえ吉田類は、緊張感など微塵もなく番組を進行させているのだが)。

類似の番組は多いのだが、レポーターが、最後には明らかに酔っぱらっているとわかることもあるのだが、吉田類はそのようなことはない。それが酒の強さの証しと思われているのかもしれないが、私には最初から酒を控えていて飲んでいない証しにしか思われなかった。

実際、番組内で吉田類は、出された酒を、舐めるだけか、少しすするだけで、ごくごくと飲み干すことは絶対にないし、グイっと一口飲むということもない。吉田類に興味があるのは、酒の肴や料理であって、酒ではなく料理をおいしそうに口に運び、料理に対しては箸が進む。

グラスを手に常連客に声をかけてまわるのだが、その時グラスの全体の5分の4ほどにはつねに酒が入っている。常連客に酒を注がれても、その5分の4に注がれるわけだから、量はごくわずか。それを全部飲み干すことは絶対にない。

繰り返すが、酒を飲みすぎて酔っぱらってしまったら、番組にならないので、酒を抑えているのだろうと推測できるのだが、しかし、酒ではなく料理のほうに関心があり(料理はほんとうにおいしそうに食べる)、酒を飲んでいるシーンはほとんどないことから、ほんとうに酒好きなのか疑念が生まれるのだ。

番組の最後には、取材した居酒屋から出てきて、まだ夜も早いので、もう一軒回ってから帰ろうかと思いますと語って、夜の街に消えていく。これが毎回のお決まりだが、視ているほうは、あんなにちびりちびりしかお酒を飲まない人間が、なぜ二軒目に行こうとするのか、わざとらしさにうんざりする。そういえば、番組中、吉田類は、酒を一口すすると、なんとガッツポーズをすることが多い。類似の番組は多いが酒のうまさにガッツポーズをするレポーターなどいない。その、酒好きを強調するオーバーなリアクションが鼻につく【あと付け加えると、吉田類は一晩に日本酒を一升飲むこともあると語っているだが、あんなにちびちびりの飲み方では何時間かかるのだろう。まあ、夜が明けるまで飲むのだろうが、あんなに酒の肴をがつがつ食べていたら、夜明けまでにおなかいっぱいになる、つまり酒は入っていかないのではないか。】

実は吉田類には「下戸疑惑」というのが前からついてまわっている(週刊文春でもとりあげられたらしい)。番組での酒の飲み方からすれば、その疑惑はよくわかる。

とはいえほんとうに下戸ならば、番組を引き受けないだろう(ただしほんとうに下戸だったら、その酒好きポーズは顕彰に値する)。私は番組を最初から見ているわけではないで、以前は、番組内で、豪快な飲みっぷりをしていたのかもしれないが、それが健康上の理由か、それ以外の何らかの事情で、酒が飲めなくなったのではないか。飲んでもせいぜい舐める程度の飲み方しかできなくなったのでは。そう思わずにはいられない。

玉川氏は、安らかな眠りへといざなわれる心癒される番組として『吉田類の酒場放浪記』を視るということだが、私などは、この番組を視るたびに、吉田類はどうしてもっとおいしそうにぐいっと酒を飲まないのだ、吉田類はどうしておかずばかりおいそうに食べているのだ(ほんとうの酒好きは、肴とか料理には手をつけないぞ――それがよい酒の飲み方かどうかはべつにして)、吉田類はほんとうは下戸ではないか、それが気になって、夜も眠れなくなる。そのため安らかな睡眠を確保するために、私は今では視るのをやめた。

posted by ohashi at 23:32| コメント | 更新情報をチェックする

2024年07月17日

疑惑の銃弾

トランプ元大統領に対する銃撃をめぐるニュースで、『ミヤネ屋』における解説委員の説明が、ひどすぎた。べつに思想的とか政治的なコメントがどうのということではない。端的に言って単純な事実誤認ではないかと思うのだが、やはりというべきか、ネット上では総突込み状態だったようだ。

次のネット記事から、そのことがわかった。
SmartFLASH
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2024.07.17 17:55 最終更新日:2024.07.17 17:55
『ミヤネ屋』解説委員、トランプ氏襲撃で「銃弾」説明するも赤っ恥…射撃訓練に参加したのに銃弾の構造知らず

7月15日の『情報ライブ ミヤネ屋』(日本テレビ系)でのある一幕が、ネットで物議をかもしている。

「ビックリしないでください、これあくまでも模型です」と言いながら、銃弾を右手の人差し指に当てたのは、『ミヤネ屋』のコメンテーター、読売テレビ報道局特別解説委員の高岡達之氏だ。

「通常使われるのと同じサイズの模型です」と言いながら、銃弾をカメラにアップさせ、自らの右耳の横に銃弾を当てる。物議をかもしたのは、その後の発言だ。高岡氏はこうコメントした。

「トランプ大統領は耳を貫通したと言っていますが、これ、私の耳とほとんど変わらないですよね」【銃弾の長さが、耳の長さと同じということ――引用者】

この「銃弾は大きい」発言に、視聴者がXで総ツッコミを開始した。

《弾丸は先っちょで、キミが持ってるのは薬莢やからなwww 薬莢は飛ばんぞ? 大丈夫か?》
《え! この人 弾頭と薬莢の区別がついてないんですが大丈夫?》
《弾丸のレプリカを持って丸ごとトランプの耳に当たったように馬鹿みたいに耳にあててる》

高岡氏が耳の横に持ち上げたのは薬莢(やっきょう)を含む弾丸で、実際に飛ぶ弾頭は、高岡氏が持っているものの先端にあるごく小さな部分だ。

「日本には銃刀法があるので、実際の銃弾を見たことない人が多い。レプリカを使用してわかりやすく解説しようとしたのでしょうが、さすがに薬莢がついたまま飛んでいくかのような説明は突っ込まれるでしょう。ものすごい勢いでXにツッコミ投稿がポストされましたね」(週刊誌記者)

ここまでリアルタイムで観ていた私は、この人、だいじょうぶかと、上記のネット上の反応と同じものを感じていたが、次のコメントを聞いて、驚いたというよりも、怒りを感じた。
高岡氏はさらに、「私も米軍の射撃訓練に参加しましたけど」など、射撃経験者として銃の説明を続けるが、Xは冷たい反応だ。

《米国の射撃訓練にも参加したことあるって言ってるけど。薬莢も飛ぶの? 漫画かよ》

私の記憶のなかでは「米軍の射撃訓練」ではなく、ただ「射撃訓練」と話していたように思うのだが、もちろん私の記憶違いかもしれないが、それはともかく、まず、なぜ射撃訓練に参加したのか、不思議に思えたのだが、もし本当に参加したとして、実際に射撃をした人間が、どうして弾頭と薬莢が分離することを知らないのかと驚いたが、そんなことも知らない奴が偉そうに何をいうかと怒りがわいてきた。ちなみに「偉そう」というのは高岡達之に必ず付く枕詞のようになっている最重要関連キーワードのひとつである。

私は実弾を手に取ってみたことも、射撃訓練に参加したこともないのだが、弾丸は先端の弾頭と全体の5分の4以上の薬莢からなっていて、発射すると銃からは薬莢が排出される(これを排莢という)。まあリヴォルヴァーの場合、弾丸発射直後、薬莢は回転弾倉に残るのだが、それ以外の銃では薬莢を自動的にあるいは手動ですぐに排出しないと次弾を打てない。薬莢が排出されそこねて銃身に残ってしまうのをジャムといって、その場合、早く薬莢を取り出さないと銃を撃てなくなるというか、戦闘状態では、ジャムを起こした銃は捨てるしかない。

とまあこういうことを、視聴者は承知していたことは、ネット上のコメントからわかる。ひとりだけわかっていなかったのは「偉そうな」ほんとうに「偉そうな」高岡達之である。

私はこの段階で、『ミヤネ屋』の視聴をやめてほかの番組を視聴した。記事を読むと、最終的に「偉そうな」高岡が、番組の最後で訂正したことがわかる。
高岡氏が間違いに気づいたのは、発言の少し後だ。フリーキャスター・伊藤聡子氏が話しているあたりで、カンペが出たのか高岡氏の目が泳ぎ、確認しているのがわかる。番組はそこからCMをまたぎ、報道フロアからのニュースへと移る。そして、エンディング直前、高岡氏が動いた。

「カメラさん、もう一度これ撮ってください。使われたと思われる銃弾と同じ模型ですと説明しました。その際に、この同じサイズのものがトランプ大統領のお顔の横を通過するような表現をしてしまいましたけど、正確にはこの薬莢という部分は発射されると銃からはじき出されますので、実際に通ったものはもっと小さいものです。訂正をしてお詫びします」

こう高岡氏が頭を下げて、番組終了となった。【以下略】

偉そうな高岡は、コメント直後に訂正したら、その場合、誤解を招く説明したことに気づいたということになり、銃弾とか銃のメカニズムを射撃訓練に参加した偉そうな高岡は知っていたが、ただ説明だけがまずかったということになるのだが、私がリアルタイムで見たときには、薬莢部分を含む大きな銃弾が耳を貫通したのだ、こんなに大きいのだぞといわんばかりの、威圧的で偉そうな顔をしてコメントしていた。

射撃訓練だってほんとうに参加したのかどうかわからないし、参加したとしても、せっかくの訓練から何も学ばなかったようだ。そして偉そうに強調したのは薬莢部分も含む銃弾の大きさなのだが、自分は、銃弾の大きさを知っているぞ、射撃訓練にも参加しているといいう、俺様偉いぞということだけを伝えることの熱意だけは感じ取ることができた。
posted by ohashi at 23:47| コメント | 更新情報をチェックする

2024年07月14日

オセローとイアーゴーの結婚 『オセロー』雑感 5

イアーゴーによって妻デズデモーナの不倫疑惑を吹き込まれ、やがて不倫を確信するにいたったオセローだが、なぜ結婚したばかりの最愛の妻を、いくらイアーゴーのられたからといって、疑うことになったのか。そしてその結果、人間関係にどんな変化がおこったのだろうか。

オセローがイアーゴーに騙された原因となるものはいくつか考えられる。そのひとつに、オセローが戦いの日々に長く明け暮れていたことがあげられる。戦場こそオセローのホーム(故郷・家庭)であり、彼の生きる場はそこでしかなかった。オセローにとって戦場こそ家庭。オセローにとって結婚生活は、異郷の地での不慣れな暮らしでしかない。当然、妻とどう向き合うか、夫たるものどうあるべきか、円満な夫婦生活の秘訣、どれもがオセローにとって未知の体験であり未知の領域であった。そこにイアーゴーのつけ入る隙ができたといえようか。

オセローは、信頼するイアーゴーの、歳は若いが(28歳)既婚者のイアーゴーの、その言葉の端々から円満な家庭生活のこつを、妻という女性の生理や心理をつかみとるしかない。イアーゴーに主導権を握られるのは必然である。

事実、平時において妻をもつことになった不器用な老将軍の悲劇というのは『オセロー』についてよく聞かれる解釈のひとつだった。

敵軍とわたりあうことにかけては歴戦の戦士であったオセローも、女性との対処法については無知をさらけ出すしかない、若い美人妻に翻弄される男でしかなかった。

もうひとつの要因は、オセローが異邦人であるということだ。ヴェニス公国に奉仕する傭兵の将軍たるオセローとって、つまりよそ者のオセローにとって、ヴェニスは未知の社会である。イアーゴーはいう、ヴェニスでは女性はみんな夫を騙して浮気していると。
イアーゴー ……
 私は同国人の気質がよくわかっております、
 ヴェニス女は、ふらちな行為を神様には平気で見せても、
 亭主にはかくします。その良心といってもせいぜい
 悪事を犯さないことではなく、犯しても内密にすることです。
オセロー ほんとうにそうか?(3.3.232-36)

そういわれるとヴェニス人ではないオセローは信ずるほかない。かくしてよそ者のオセローは、信頼するイアーゴーの知恵に助言に暗示に依存するしかなく、最終的にオセローはイアーゴーの言説におのが内面を書き替えられてしまう。

ある意味ではオセローにコンプレックスがあった、あるいはオセローはコンプレックスの塊であった。くりかえしになるが、軍隊生活が長く家庭生活にはまったくうといこと。女性の扱いに慣れていない無粋な男であること。妻の父親と同じ世代であって、高齢であること。そしてよそ者であること。間接的に示唆されることはごくわずかだ、おそらく大前提となっているであろう肌の色の違いがあること。こうしたコンプレックスゆえに弱みをかかえることになる。たとえ本人がヴェニス公国にとって救国の戦士・英雄であるとしても。

逆に言えば、こうしたコンプレックスは無意識の恐怖を育成することになる。家庭にも女性にもうとい自分が女性から飽きられ浮気されるのではないかという不安なりおびえ。父親のような自分に妻は夫を男としてみることができず、同世代の若い男との浮気に走るのではないか。異邦人である自分はヴェニス貴族の洗練された娘である妻に見下されるのではないか。こうした無意識の不安が育成されていたがゆえに、簡単にイアーゴーの軍門に下るのである。イアーゴーにほんの一押しされるだけで、オセローは嫉妬の泥沼にはまってしまう。

イアーゴーによれば、妻のデズデモーナに頭が上がらないオセローについて、オセロー将軍の将軍はデズデモーナであるという。だが、オセロー将軍には、デズデモーナ以外にも将軍がいる。いうまでもなくイアーゴーである。旗持ちという低い位にもかかわらず、イアーゴーはオセローの将軍、オセローの支配者となる。

この二人の将軍のうち、妻に裏切られたオセローはもうひとりの将軍イアーゴーにすがるしかない。もちろん軍人としてのプライドゆえにオセローはデズデモーナにせよイアーゴーにせよ誰かを自身の将軍として認めることはないだろう。するとオセローは妻デズデモーナを捨て、イアーゴーを新たな妻として迎えることになる。

ジェンダー論的にいえば、男性が(女性であってもいいのだが)、異性とのつきあいに苦慮し苦悶したあげく、同性とのつきあいのなかに安らぎを見出すということであり、このときホモソーシャル関係(ホモセクシュアル関係ではない)が救いとなる。イアーゴーはオセローを支配するために、このホモソーシャル関係の強化をはかるのである。

デズデモーナがキャシオと浮気をしている思い込ませるために、イアーゴーは、オセローに、こんなことを話す。最近、同じベッドで寝ていたキャシオは、寝ぼけて、私(イアーゴー)のことをデズデモーナと勘違いして、脚をからませてきて強烈なキスをしたのだと。

イアーゴー 
 ……最近のことです。私はキャシオーと
 寝ていまして、歯の痛みのためにどうしても
 眠ることができませんでした。
 世の中には、心にしまりがあないのでしょう、
 眠りながら自分がしたことをしゃべるやつがおります。
 キャシオーもそれなのです。
 眠りながらこう言いました、「かわいいデズデモーナ、
 気をつけよう、ぼくたちの愛が人目にたたぬように」
 それから私の手をとり、握りしめ、「ああ、かわいい人!」
 と叫んだかと思うと、私にはげしくキスしたのです、
 まるで私の唇に生えているキスを、根こそぎ
 引き抜こうとでもするかのように。そしてその脚を
 私の太腿にのせ、溜息をつき、キスし、叫びました、
 「あなたをムーアに与えたとはなんと呪わしい運命だ!」
オセロー ああ、犬め! 犬畜生め! (3.3.470-483)

【この見事な小田島雄志訳からもわかるように、イアーゴーの語りは、実にポルノチックで、官能的イメージの強度は尋常ではない。なおシェイクスピアは、聖書とかフロイトと同様に犬が嫌いであることは事実で、「ああ、犬め! 犬畜生め!」と訳されたのは、ある意味、天才的な直観のなせるわざと、別にお世辞でもなんでもなく付言しておきたい。原文は‘O monstrous! Monstrous!’なのだから】

なおここで留意すべきことは、すでに第1回「キャシオの美人妻」のところで述べておいたのだが、イアーゴーの話すことはほとんどでたらめで嘘である。キャシオが寝台で足をからませきたというのは、オセローを騙すための作り話だろうと観客は思う。そしてここにあるのは、イアーゴーの作為である。それが際立つ。

つまり、キャシオが隣に寝ていたイアーゴーをデズデモーナと勘違いして脚をからませ接吻してきたという話は、オセローを嫉妬で狂わせるに充分なものがあるのだが、同時に、キャシオとイアーゴーが抱き合っているという同性愛的イメージも喚起する。

事実、そうなのだ。このあとイアーゴーはオセローに言い寄り、イアーゴーはキャシオを殺し、オセローはデズデモーナを殺すという復讐の誓いをさせるのだが、誓いのために二人は跪く。だが、それは男女がおこなう結婚の誓いの仕草でもある。男女二人が跪いて結婚の誓いを話す。
オセロー ……
 ……おれの復讐の血は
 はげしい勢いで突き進むのみだ、うしろをふり返ったり、
 おだやかな愛におさまり返ったりはせぬぞ、
 あくことを知らぬ底なしの復讐がいっさいを
 飲みほす日まではない。あの大理石のような天にかけて
                         (ひざまずく)
 神聖な誓約にふわしい敬虔な心をもって、
 このことば誓うぞ。
イアーゴー     そのままお立ちにならないでください。
                         (ひざまずく)
 永遠に輝く天上の日月星辰を証人として、
 われらをとりまく地上の神羅万象を証人として、
 イアーゴーはその知恵と手と心の働きのすべてを、
 辱められたオセローのために捧げることを
 ここに誓います! 将軍の命令とあらば、
 いかに残虐な行為であろうとためらうことなく、
 従います。
                        (二人はたちあがる)
オセロー おれを思うおまえの愛〔thy love〕には感謝するぞ、
 口先だけの礼ではない、心からのことばだ。
 早速だがおまえの愛の証をみせてもらおう、
 三日以内にこの耳に報告をもってこい、
 キャシオ―は死んだと。3.3.518-538

と、このように。

ゼッフィレリ監督の映画『ロミオとジュリエット』では、恋人たちふたりは跪いて結婚の誓いを述べる(原作では結婚式の様子は舞台上に提示はされない)。ただ、それを思い出さなくても、『オセロー』においてはオセローとイアーゴーは、ト書き書いてあることもあって、ふたりして跪いて復讐の誓いを立てるのであり、それは結婚の誓いを思わせる。妻に裏切られ、女性に見放されたはオセローは、イアーゴーという男性と同性婚することで癒されるのである。

となると私たちは、いったい何をみてきたのだろうか。あるいは、ここにいたって、これまで間歇的に姿をみせてきたが明示的ではなかったテーマが、いよいよその全貌を現したということになりはしないか。ここにあるのはホモソーシャル関係を超えた関係ではないか。

イアーゴーはオセローを愛していた。そしてここにいたってイアーゴーはオセローと晴れて結婚できたのである。
posted by ohashi at 02:16| 演劇 | 更新情報をチェックする

2024年07月13日

ふたりは初夜を迎えたのか? 『オセロー』雑感 4

ふたりとはオセローとデズデモーナのことで、この問題は前回のダブルタイムと大いに関係する問題なのだが、オセローとデズデモーナは初夜をむかえていない、つまりふたりは婚礼後の初夜のセックスをしていないのではないかということが、昔から取りざたされてきた。

ダブル・タイムで長い時間枠を考えれば、ふたりは破局にいたるまで、初夜のセックスとか、その後の夫婦のセックスはしているであろうから、これは問題にすらならないだろう。

しかし『オセロー』には短い時間枠があり、これに沿うと、キプロス到着後の翌日、オセローはデズデモーナを殺害する。この夫婦は初夜を迎える前、夫が妻を殺し、夫も自殺する、つまり夫婦はふたりとも死んだのではないか。結ばれる前に。黒人/ムーア人と白人の異人種結婚は成就していないのではないか。

出来事の展開を追ってみよう。まずオセローとデズデモーナは、結婚後、ヴェニスのサジタリー亭に移動し、そこで新婚の初夜を迎えようとする。だがイアーゴーの奸計によって、娘デズデモーナが父親に内緒で家を出てオセローと結婚したことを知った父親ブラバンショーは一族郎党を率いてサジタリー亭に押し掛ける。そのためオセローとデズデモーナは初夜を迎えられなかった。

この時、イアーゴーは、ブラバンショーにこんなことを言っていた:
あたしはね、閣下、あんたのお嬢さんとムーアが、おなかは一つで背中は二つの怪獣になっているって知らせにきた男ですよ。(1.1)

また二人の秘密裏の結婚は親に祝福されたものではないため、父親に報告し許しをもらえるまでは正式の夫婦ではないと二人は考えたとしたら、サジタリー亭での密会で性行為に及ぶこと(「おなかは一つで背中は二つの怪獣」)はなかったといえる。

次に、オセローとデズデモーナは、ヴェニスの元老院で公爵から夫婦として認められる。だがオセローは、すぐさまキプロス島へ出発せねばならない。出発までの短い時間に二人がセックスをしたとは考えにくい。
オセロー 【略】 忠実なイアーゴー、
 デズデモーナをおまえにあずけねばならぬ。
 頼む、おまえの奥さんに面倒を見てもらいたい、
 都合がつき次第二人を連れてきてくれ。
 さあ、デズデモーナ、わずか一時間しか
 残っていはいないのだ、愛の語らいにも、
 俗事の始末にも。これだけは動かせないのだ。(1.3)

この一時間に二人は大急ぎで初夜をむかえたとは考えにくい。ふたりは初夜をキプロス島で迎えることになる。

夫婦の初夜は船上ではない。オセローとデズデモーナは同じ船ではなく別々の船でキプロス島へと向かうからである。事実、デズデモーナ一行はオセローよりも先に到着し、港でオセローを出迎えている。

そうなると初夜はキプロス到着後の夜ということになる。だが、この夜に、ふたたびイアーゴーの奸計によって、酒に弱いキャシオが酒乱状態で暴れまくりキプロス島総督にけがを負わせる事件が起こる。新婚初夜を邪魔されたオセローはキャシオを副官の職から解く。もちろん、その後、オセローはデズデモーナとの初夜を迎えたと考えることができるのだが、どうもそうでもないことがわかる。

『オセロー』のなかでよく省略される場面のひとつが、第3幕第1場の冒頭の場面だが、翌朝キャシオが楽隊あるいは楽師たちを連れて登場し、オセロー夫妻が宿泊している家の前で音楽を奏でさせる。ところが家からはオセローの召使(台本には道化と書いてある)が登場し、音楽を奏でるのをやめさせる。この短い出来事は何を意味しているのか?

その場面を確認しておく。
    キャシオーと数人の楽師たち登場。
キャシオー ここで音楽をやってくれ、礼はするぞ。
 短いのでいい、そのあと、「おめでとう、将軍」と言うんだ。
 音楽。道化登場。
道化【中略】ところで楽師諸君、金だ。将軍は諸君の音楽がたいそうお気に召されてね。どうかもう一曲、たりともやらないでほしいとおっしゃる。【以下略】(3.1)

婚礼後初夜を迎えた夫婦に対して翌朝、音楽を奏でて、祝福するというのが習わしだった。前夜、騒乱の張本人として副官職を解任されたキャシオは、復職するためオセローのご機嫌をとるために、楽師数人を雇い、めでたく初夜を迎えた夫妻を祝福するために音楽を演奏させたとみることができる。しかし、音楽を演奏するなと召使に言われる。これは前夜の騒乱のために結局、夫妻が初夜を迎えられなかったということを暗示する。いや、暗示どころか明確な指標となる。

短い時間枠のなかで考えている。この劇作品は、翌日の夜に、オセローは、デズデモーナを殺害し、そのあと自害することになる。夫婦の初夜が夫婦の最後の夜となり、しかもこのときオセローはデズデモーナを絞め殺すだけでセックスをしていないので、結局、ふたりは最後までむすばれなかったということになる。

ちなみに第4幕第2場で、デズデモーナは、エミリアにこう頼んでいる:
デズデモーナ お願い、今夜のベッドに
 婚礼のときのシーツを敷いていちょうだい――忘れないで
            Prithee, tonight
 Lay on my bed my wedding sheets. Remember. 4.2.121-2

と。今回、小田島雄志訳を一貫して使わせていただいているが、「婚礼のときのシーツ」というのは、べつにまちがいではないが、これは初夜を迎えたことが前提として訳語が選択されている。つまり「婚礼のときに使ったのと同じシーツ」という意味である。しかし原文‘my wedding sheet’は、初夜のときに使うシーツという意味にもなる。この夫妻が初夜をむかえていないことが暗示されているのである。いや、ここではっきりとわかるというべきか。

結局、結ばれなかった二人は天国で結ばれるということしかいえないのだが、なぜ、こうなったかについては、すでに述べたようにイアーゴーによる奸計が原因なのである。オセローとデズデモーナが、まさに結ばれようとするとき、イアーゴーは大きな騒ぎを仕組む。男たちが剣を鞘から抜いて夜の街を走る。阿鼻叫喚の騒乱が起こる。これに邪魔されてオセローとデズデモーナは性交できない。

もう一度確認すると第一の場面は、ヴェニスの夜。オセローとデズデモーナの宿泊場所サジタリー亭の前でブランバンショー一族とオセロー将軍側近たちとの間で暴力沙汰が起こる、正確には起りそうになるが、オセローがそれを未然に防ぐ。

第二の場面は、キプロス島にオセローが到着したその夜。キャシオが酒乱状態で暴力事件を起こす。キプロス島の夜の街に男たちの叫び声が響き渡る。

そして最後の場面、イアーゴーにそそのかされたロダリーゴーは夜、キャシオを襲うが、反撃され負傷する。そしてそのロダリーゴーを口封じのためにイアーゴーは殺害する。この出来事をきっかけに、キプロス島の夜の街は騒乱状態となる。これに、初夜を迎えようとしているオセローは煩わされることはない。オセローはすでに、デズデモーナを殺すことを決断していたからである。

イアーゴーは、ハムレットと同様に、不適切な結婚に反対していた。ハムレットの場合、母ガートルードと叔父クローディアスとの結婚は近親婚としていまわしいものであり、亡き先王の記憶を汚すものであった。イアーゴーの場合、オセローとデズデモーナの結婚は、メイ・ディセンバー婚(歳の差婚)としていまわしいものであるだけでなく、黒人男性と白人女性との忌まわしい異人種婚ということであった。

すでにイアーゴーは(ハムレットと同様に)ひとりシャリヴァリをしているのではないかと述べた。シャリヴァリとはそもそも何か。以下の記述で、概要をつかんでいだければと思う。
〈シャリバリ〉charivariというフランス語の語源は明らかでないが、共同体の伝統的規範を侵犯した者に対し、儀礼化したやり方で罰を加える行為であって、中世から19世紀に至るまで,広くヨーロッパ各地に見られた。英語では〈ラフ・ミュージックrough music〉、ドイツ語では〈カッツェンムジークKatzenmusik〉、イタリア語では〈スカンパナーテscampanate〉などと呼ばれている。シャリバリの対象として最も多く見られるのは、再婚をめぐっての事例であり、男やもめと若い娘とか、若者と年齢がかけ離れた寡婦といった組合せで、しかも一方がよそ者の場合など、あつらえむきのシャリバリの対象であった。村内婚が支配的であったこの時代にあって、村の若い男女の間の結婚の機会を奪うものであったからである。再婚の事例のほか,不義を犯した妻,間男された亭主,亭主をなぐったじゃじゃ馬女房なども,シャリバリに狙われるところとなった。共同体の規範を守る役目は若者の手にゆだねられることが多かったから、シャリバリにおいても若者組が中心的な役割を果たす。その方法としては,相手の家の窓下に押しかけ、一晩中角笛を吹き鍋釜を打ち鳴らすとか、ロバの背に乗せ、大騒ぎをしながら村中ひきまわすといった形がとられた。懲罰はこうして共同体内に公示されるのである。シャリバリの対象となった者は、結局のところ,若者組に罰金を支払うほかはなく、この懲罰を受けることによって初めて、村や町の共同体のメンバーとして受け入れられるのである。 執筆者:二宮 宏之、『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)

また繰り返すがデズデモーナとオセローの結婚は、1)歳の差婚であること、2)異人種婚であること、このふたつによって不適切な結婚であり、非難と妨害のためのシャリヴァリが要請されておかしくないのである。

ただし逆にいえばイアーゴーは、常套的・伝統的な結婚のみを容認し、そこから逸脱した結婚を取りしまる「結婚警察」的役割を共同体になりかわって自ら引き受けているのだ。しかも、この「結婚警察」は異人種婚を取り締まるという人種差別的な側面をもっている。イアーゴーは人種差別的機構のエージェントといってもいいだろう。

とはいえ『オセロー』におけるシャリヴァリは、共同体全体を沸騰させ暴動へと走らせるものではなく、イアーゴーのひとりシャリヴァリでしかない。『オセロー』においては、ご都合主義あるいは政治的配慮か、オセローとデズデモーナの結婚は公的に容認されているのであって、ひとりイアーゴーが不満を募らせて、自身が妨害者となるにすぎない。つまり『オセロー』世界では、歳の差婚も異人種婚も正式に容認されている。

この点に、人種差別主義者はおぞけ立つかもしれない。保守勢力――それはまた人種差別主義者と同じことだが――は、この結婚には全面的に反対する、あるいは嫌悪をもよおすかもしれない。まさにここにオセローとデズデモーナが初夜を迎えていないという可能性を存在させた劇作家の配慮がある。それは、不満をかかえる保守派を満足させるために、あるいは保守派からの攻撃を退けるために、保守派に与えられる賄賂のようなものと考えることができるのである。
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2024年07月12日

ダブル・タイム 『オセロー』雑感 3

シェイクスピアの『オセロー』には、二つの時間枠があると、昔から指摘されてきた。つまり短い時間枠と長い時間枠。これをダブル・タイムDouble Time問題と言っているのだが、どちらか一つが正しいとか基盤であり、いまひとつはイリュージョンあるいは派生的なものというのではなく、ふたつの時間枠は共存しているとみることができる。

『オセロー』の物語を時系列に沿って整理してみよう。

第1幕はヴェニスが舞台。オセローがデズデモーナと密会をしているところに、ヴェニスの公爵から呼び出しがかかる。オスマントルコの艦隊がヴェニス領キプロス島に攻撃をしかけてきたので、これを撃退すべく、オセローを総指揮官とする艦隊を派遣することが、その夜のうちに決まる。

なおこの夜にはオセローとデズデモーナとの結婚を許さないデズデモーナの父親ブラバンショーが結婚無効を公爵に訴えるが、訴えは退けられ二人は晴れて正式に結婚をする(もちろんオスマントルコの艦隊を撃破するために傭兵のオセロー将軍の力を借りねばならないヴェニス公国としては元老院議員のブラバンショーよりもオセローの希望を優先させるという政治的判断をしたともとれるのだが)。

つづく第2幕で、舞台はキプロス島になる。オセローよりも先に到着したキャシオ、イアーゴー、デズデモーナがオセローを出迎える。再会を祝するオセロー一行。その夜は、オスマントルコ艦隊が嵐によって撤退したこともあり、危機が去ったことを祝福する宴を開くことになる。だがその宴の席で刺傷事件が起こり、酒乱となった副官キャシオ―が職を解任される。ここまでが第二幕。

そしてその翌朝が第3幕第1場。この日を境にしてイアーゴーは、オセローに対し、デズデモーナの不義密通の疑惑を吹き込むことになる。

問題は、第3幕第1場以降の時間経過が漠然としていることである。第3幕から終幕までにどのくらい時間がたったのか定かでない。

前回話題となったキャシオだが、彼に妻はいないが、ビアンカという恋人がいる。そのビアンカはヴェニスから彼のあとを追ってキプロス島にやってくる。彼女は、キプロス島の安全が確保されたあと、ヴェニスからキプロス島へと移動したと思われるから、そしてヴェニスとキプロスとはかなり距離があることから、彼女がキャシオと再会するまでにはかなりの日数が経過していたとみることができる。

またヴェニスからの使者ロドヴィーゴが、キプロスに到着し、キャシオをキプロス島の総督に任命する旨を伝えるのだが、ヴェニスからの使者が到着するまでには、一定の時間がかかっているとみることができる。

まあ常識的に考えても、オセローが妻のデズデモーナを殺害するまでには、数週間、あるいは数か月かかっているとみることができる(ひょっとしたら数年かかっているかもしれない)。

これがロング・タイムLong Time。長い時間枠である。この何が問題なのかと思うかもしれないのだが、実は『オセロー』という作品、キプロス島へ到着してから次の夜に悲劇が起こるような印象も受けるのである。

もちろんこれはおかしいといえばいえる。オセローの艦隊がすべてキプロス島に到着したその翌日、ヴェニスからロドヴィーゴがやってきてオセローに帰還命令を伝えるというのは、可能性としてないことではないが、蓋然性にとぼしいだろう。

しかし第3幕1場以降、つまり朝になってから、ずっと昼間の場面が続き、第5幕つまり終幕になって夜の場面になるにために、第3幕から第5幕までが長い一日であるかのような印象を受ける。オセローがデズデモーナを殺害するのは長ければ結婚してから数年後(数週間後というのが妥当なところだろうが)、短かければキプロスに到着した翌日ということになる。

これはシェイクスピアの混乱のせいではないだろう。むしろ意図的に慎重に仕組まれたダブルスキームなのではないか。そして長い時間枠、短い時間枠、どちらにも意味をもたせているとみることができる。

長い時間:最側近のイアーゴーに、毎日毎日、デズデモーナの疑惑を吹き込まれたオセロー将軍は、真実と虚偽の見境がつかなくなり、デズデモーナへの信頼を失いはじめ、妻の不貞を確信して殺害に至るというのは、一方で十分にありえることである。

他方では、たとえ最初はイアーゴーに騙されて妻の裏切りを確信しても、長い時間がたつうちに、反省と熟慮を重ね、イアーゴーの言葉自体にも疑念が生じ、やがて妻に対する信頼を取り戻す。またその間、イアーゴーの戦術にもほころびが生まれ、墓穴を掘ることになるかもしれない--つまり最初は妻の裏切りの可能性に激高し絶望しても、時がたつにつれて冷静になり、真実を見抜くことにができるようになるかもしれない。

こう考えれば、長い時間枠というのは、悲劇を展開させる装置としては適切ではないかもしれない。長い時間がたてば、どんな悲劇も喜劇にかわる。もちろん当時の古典劇の理論としては、悲劇も喜劇も24時間以内に完結するというが基本ではあるのだが、同時に、喜劇には長い時間枠というのが想定されていた【詳しいことは別の機会に】。古典劇の理論では、喜劇の場合、舞台は、長いドラマの最後の一日なのである。

また長い時間枠で『オセロー』をみる場合、最後が惨劇で終わること自体、予想外のことで、ふつうなら喜劇的結末が期待される。まさにそうなのだ。そもそも騙されて、妻に嫉妬する愚かな夫というのは、喜劇の題材ではないか。

たまたまこの5月に、18世紀のイタリアの劇作家カルロ・ゴルドーニの『二人の主人を一度に持つと』(加藤健一事務所公演)を下北沢の本多劇場で観た――ちなみに、演出は奇しくも、文学座・横田英司主演の『オセロー』と同じく鵜山仁だったが。もちろんゴルドーニのこのコメディは『オセロー』とは似ても似つかないのだが、しかし、召使に騙されて嫉妬に狂う夫というテーマは、そこに変装した人物の陰謀と策略などが加われば、もう典型的なコメディア・デ・ラルテの世界、あるいはコメディア・デ・ラルテを刷新して人間味を加えた、いかにもゴルドーニの喜劇世界の中心的要素となるだろう。たしかに『二人の主人を一度に持つと』の主人公、口から出まかせ、デタラメ言いまくりのトゥルッファルディーノ(加藤健一が演じる)のなかに、イアーゴーの末裔をみることは容易である。

そもそもシェイクスピアの悲劇は、喜劇のパタンを踏襲したものが多い。このことは、喜劇というマトリックスをもとに作られた悲劇というかたちで論じられたり、悲喜劇(Tragicomedy)という言葉があるが――悲喜劇は究極的には喜劇的結末を迎える――、シェイクスピアの悲劇は喜悲劇(Comitragedy)だと言われたこともある。

たとえば『ロミオとジュリエット』は、親が争う家の子供が恋に落ちるというは基本的に喜劇のパタンであり、ハッピーエンドが予想されるがゆえに、悲劇的結末が痛ましいものとなる。父親を裏切る二人の娘と、父親から嫌われても最後は助ける末娘の物語(『リア王』)は喜劇を通り越しておとぎ話の世界であり、本来なら約束されたハッピーエンディングで終わるはずだった。とまあ、喜劇的世界あるいは喜劇的結末を予期させてそれを覆すのが、シェイクスピアの劇作術だとすれば、『オセロー』の喜劇的要素が横溢していることは驚くべきことではない。むしろ喜劇的結末を予想させて、それを裏切るところにシェイクスピア劇の真骨頂がある。

短い時間:悲劇は短い時間で展開することで、その良さが発揮される。破局にむかって一直線に進んでゆく、いかなる回避手段も、別の可能性も、否定され、破滅こそが唯一の必然的結末であるように作られるのが悲劇である。

そのため悲劇は必然的な破滅までの時間が短ければ短いほどいい。またすべてが破滅、死へと、収束することをめざすのであり、夾雑物は徹底して排除されることが望ましい。

特殊な終わりある時間(フランク・カーモードが『終わりの意識』のなかで紹介してくれた神学的時間の議論を参照すれば、「カイロスの時間」)こそ悲劇であり、夾雑物、必然性ではなく偶然性、そして日常性は、悲劇的純一性を損なうことになる(ちなみに、この対極にあるのが、終わりなき循環の時間、生と死を繰り返し、偶然性に支配され、多様性と不純性にみちた、日常的時間、「クロノスの時間」である)。時間が解決してくれるというのは、長い時間をかけた和解と再生作用を前提とする喜劇的世界観である。それはまた夾雑物が排除されず、多様性が確保され、偶然性が認知され、日常性の価値が評価される俯瞰的・全体的な世界観である。

その対極にあるのが悲劇であり、『オセロー』のなかにある短い時間と思われるものは、悲劇的要素を際立たせるものとして最初から仕組まれているとみるべきだろう。

今年の2月、マイウェン監督の映画『ジャンヌ・デュ・ベリー――国王最期の愛人』(2023)を観たのだが、監督兼主役のマイウェンが出演していた映画『フィフス・エレメント』(1997)を思い出した。彼女がリュック・ベッソンと結婚していたときに、ベッソン監督の映画に出演したのだが、それは異星人のオペラ歌手ディーヴァ・プラヴァラグナの役で、彼女がアリアを歌うのだが、その場面が映画の中の代表的場面のひとつとして今も記憶されている。またこのとき異星人という役なの元の容貌がわからない特殊メイクでのマイウェンの登場だったのだが、今回の『ジャンヌ・デュ・ベリー』に主演している彼女をみると、『フィフス・エレメント』のときの異星人の容貌ととさほど変わらなかったということで驚いたが、それはさておき、『フィフス・エレメント』で彼女(歌は吹き替え)が歌っていたのは、ドニゼッティのオペラ『ランメルモールのルチア』(Lucia di Lammermoor)のなかのアリア「甘いささやき」Il dolce suonoであった。

私はオペラ通ではないし、オペラについてはまったく無知といっていいのだが、ドニゼッティの『ランメルモールのルチア』はウォルター・スコット原作のスコットランド物であって、英文学と関係するからたまたま知っていたにすぎない。

ルチアは婚礼の夜、夫となる男を刺殺する。そして続く狂乱の場で、本来の結婚相手であった男への愛をうたうのだが、それがアリア「甘いささやき」であり、『フィフス・エレメント』で異星人のオペラ歌手(マイウェン演ずるところの)が歌っていたアリアである。ただ、それにしても婚礼の晩に夫を殺す妻。ああ、なんという絵に描いたようなオペラなのだろうか。そしてこれは、遅れた婚礼の晩(かもしれない)に妻を絞殺する嫉妬に狂う夫の物語と響きあう。『オセロー』はヴェルディによってオペラ化される以前に、すでに、絵に描いたようなオペラであった。

ダブル・タイム:『オセロー』には、喜劇的要素と悲劇的要素が混在・共存している。それは長い時間枠と短い時間枠に対応している。短い時間枠は、破滅と終末へと突き進む終わりある時間、カイロスの時間である。長い時間枠は、日常性の時間、死と再生を繰り返し終わりの来ない継続的時間、すなわちクロノスの時間である。

カイロスの時間は、悲劇に相当する。しかも『オセロー』の場合、この悲劇は、いかにもオペラにふさわしいものだった。たまたま類例というよりもただ乏しい知識のなかで思い出したにすぎないオペラの典型としてドゥニゼッティの『ランメルモールのルチア』をあげたが、このオペラはオペラ・セリア(正歌劇:ノーブルでシリアスなオペラという意味)のある意味典型であった。その対極にあるのがオペラ・ブッファ(コメディア・デ・ラルテに範をとる喜劇的オペラ)であり、この要素も『オセロー』にはある。ある意味、オセローがオペラ・セリア的要素を担い、イアーゴーがオペラ・ブッファ的要素を担うということもできるのだが、これは、オセロー自身のなかにも喜劇的要素と悲劇的要素が共存する以上、やや図式的か。

ただどうであれ、『オセロー』は、長い時間と短い時間、喜劇と悲劇、クロノスとカイロス、オペラ・ブッフェとオペラ・セリア、その他を、この対極にある要素の数々を、コインの両面のごとく、同居・共存させているのである。

posted by ohashi at 02:21| 演劇 | 更新情報をチェックする

2024年07月11日

キャシオの美人妻  『オセロー』雑感 2

『オセロー』においてイアーゴーが語ることは、ほぼ嘘である。そんなことは言われなくてもわかっていると反論されそうだが、わかっていない人種がいる。

それはともかく、劇の冒頭、イアーゴーはロダリーゴー相手に、オセローの悪口を言っている。悪口はオセローその人だけではなく、オセローの副官となったキャシオにまで及ぶ。
イアーゴー マイクル・キャシオーというフローレンス生まれの野郎だ
 美人の女房をもらって浮気されて泣きを見るのがいいところだ。

 One Michael Cassio, a Florentine,
 A fellow almost damned in a fair wife, 1.1.21-22

【小田島雄志訳を使わせていただいた。以下、同じ。なお引用でない場合はキャシオとする】

キャシオは美しい妻のために身の破滅という憂き目をみている。具体的にいえば、「美人の女房をもらって浮気をされて泣きを見」ているということである。英語の原文からはここでいいうキャシオはすでに結婚している、美人の女房をもっているという情報を受け取ることができる。

ところが『オセロー』という芝居を読んだり観たりした者にとって、はっきりわかるのはキャシオが結婚していないということだ。彼にはビアンカというガールフレンドがいる。しかし本人は独身である。ところがイアーゴーのセリフではキャシオは結婚している――このことで昔からもめていた。

シェイクスピアの最初のプランではキャシオは結婚していた。しかし途中でプラン変更となり、キャシオは独身ということになったのだが、最初のプランの痕跡が残ってしまった。あるいはシェイクスピアはこの劇を書き始めたころはキャシオを既婚者と想定していたが、途中からキャシオを独身者にした。ただ最初のほうの、つじつまのあわないセリフを消し忘れた……。

要はシェイクスピアはうっかり者だった――ということをバカなシェイクスピア学者がいいつのってきたのだが、シェイクスピアがそれを知ったらどう思うのだろうか。憤死するのではないかと心配である。もう死んでいるのだが。

この美しい妻云々のセリフは、やや深遠な意味を読み取れないこともないのだが、しかし、単純に考えれば、そしてそれが正解だと思うのだが、イアーゴーは、何も知らないロダリーゴーに、キャシオは美人妻に苦しめられている愚か者だと嘘をついているのである。

小田島雄志訳では「美人の女房をもらって浮気されて泣きを見るのがいいところだ」とニュアンスを着けて訳している(仮定法的に意味をとらえている)。キャシオというのは、結婚したら美人妻に苦しめられそうなやつだというように。それは独身のキャシオと整合性をとるための措置であることはわかるが、単純に考えたほうが正解である場合もある。

劇の冒頭におけるイアーゴーとロダリーゴーのやりとりをみてみよう。長いけれども、とくに面倒な議論をするつもりはないので、ただ漫然と読んでいただければいい。
ロダリーゴー おまえ、言ってたじゃないか、あいつを憎んでいるって。
イアーゴー おれに唾をひっかけるがいいさ、それが嘘ならば。
 この町のお偉がたが三人もやつのところに出むいて、
 おれを副官にと頭をさげて頼んでくれたんだ。おれだって
 自分の値うちはわかるさ、その地位はちーとも重荷じゃない。
 ところがやつは、おのれを大事にして我を通す男だ、
 長ったらしいホラ話に軍隊用語をやたら詰めこみ、
 それでもって三人のお偉がたを煙に巻いちまった。
 あげくのはては、
 歎願却下さ。「実は」とやつは言いやがったね、
 「副官の選考はすでに終えておりますので」
 で、そいつがだれだと思う?
 おどろいたね、人もあろうに算盤(そろばん)はじきの大先生、
 マイクル・キャシオーというフローレンス生まれの野郎だ、
 美人の女房をもらって浮気されて泣きを見るのがいいとこだ。
 だいたい戦場に出て軍隊を指揮したことなどないし、
 小娘ほどの知識もない。ご存じなのは机上の空論ばかり、
 それにしたって軍服には無縁の宮廷人でも
 わかっているようなものさ。口先ばっかり実行さっぱり、
 というのがやつの戦陣訓だ。そのやつがだよ、おまえ、
 副官に選ばれてだな、このおれは、将軍の目の前で
 ロードス島やキプロス島、キリスト教国や異郷の国、
 いたるところで手柄をあげたこのおれは、あの算盤はじきの
 帳簿の出し入れ野郎の風下におとなしく引っこまされるんだ。
 やつはまんまと副官様だ、ところがこのおれは
 なんたることか、将軍閣下の旗持ちだぜ。1.1.8-35

ノン・キャリア組のたたき上げの軍人たるイアーゴーが、キャリア組のエリート軍人キャシオに対して階級的怨嗟をぶつけていると理解できるこのやりとりだが、そのセリフのファクト・チェックをすれば、おそらくほとんどが嘘であろう。誹謗中傷以外の何物でもないセリフが発せられている。考えてみてもいい。ヴェニスのお偉がたが3人そろって、オセローに対し一介の旗持にすぎないイアーゴーを副官に推薦するなどということがあろうか。イアーゴーは、何も知らない信じやすい愚かなロダリーゴーに対して、自身を大きくみせようとしているにすぎない。典型的な詐欺師の戦略である。

イアーゴーの手にかかれば、オセローは情実人事あるいはエリート優遇の人事を平然としておこなう愚かな将軍であり、キャシオは実戦経験のないキャリア組の軍人で美人妻の尻に敷かれている愚か者であり、いっぽうイアーゴー自身は、のちに28歳とわかるのだが、歴戦の勇士で若くして副官になるにふさわしい優れた軍人だが愚かな将軍ゆえに冷遇されているということになる。

だがこのイアーゴーによる誹謗中傷と自己尊大化――要するにイアーゴーによる演出と自己演出――は、このあと登場するオセローやキャシオと大いに齟齬をきたすことだろう。どんなひどい将軍が、どんなひどい算盤野郎が登場するかと思うと、予想外に威厳がある人格者の将軍と将軍に忠誠を誓う有能な副官が登場するのだから。

そしてキャシオは、美人妻に振り回されるどころか、結婚すらしていないことが観客にわかった段階で、イアーゴーの嘘が、詐欺師の戦略が、誹謗中傷と自己劇化が、露見するということになろう。

「美人の女房をもらって浮気されて泣きを見るのがいいところだ」と訳するよりも、もっと単純に「美人の女房をもらって浮気されて泣きを見ている男だ」とニュアンスなしに訳しても全然かまわないのである。またそのほうが、イアーゴーの誹謗中傷行為がよくわかる。それをバカなシェイクスピア学者によって作者の不注意などと指摘されては、シェイクスピアにとってはほんとうにいい迷惑である。シェイクスピアは死んでも死にきれないぞ。

追記:
「美人の女房をもらって浮気されて泣きを見るのがいいところだ」は、嘘を述べていないとい考えることもできる。キャシオにはwifeがいた。ビアンカというwifeが。

いやしかし、キャシオと仲良くしているビアンカはキプロス島の娼婦であって妻ではないと言われるかもしれない。だが商売女と堅気の妻とを区別することは、近代的な区分であって、もともとは、父権制において、娼婦と妻との区分はないといってもよい。

なぜなら妻とは家庭に入り込んだ娼婦だからである。この妻という名の娼婦は、基本的に安価もしくは無償の商売女である。つまり無償で男の世話をし男の性的欲望を満たす存在となった娼婦を、父権制では、妻という名をつけ、制度化したのである。

だから〈娼婦と暮らすキャシオ〉と〈妻と暮らすキャシオ〉との間に根本的な断絶はなかったのであり、したがってイアーゴーは嘘を言っていないと考えることができる?
posted by ohashi at 01:23| 演劇 | 更新情報をチェックする

2024年07月10日

イアーゴーは28歳 『オセロー』雑感1

今回の文学座の紀伊國屋サザンシアターでの公演とは別に、シェイクスピアの『オセロー』について常日頃考えていることについて記しておきたい。第一回はイアーゴーの年齢について。

イアーゴーが28歳だというと驚く人が多い。その一人が、かつて英文研究室で私の同僚でもあった英国人教員であった。驚いただけでなく、私を不信の目で見ていたのだが、根拠はある。イアーゴー自身が自分で28歳だと語っているのだ。

その英国人は、シェイクスピアが専門ではないが、当然、シェイクスピアも読み、舞台も観ているはずであり、彼の英文学全般に関する知識は、私のそれをはるかにしのぐことは間違いなかったのだが、その彼がイアーゴーの若さに驚いたのは、舞台やオペラなどで、年配のイアーゴーを見慣れているからである。

では、どこでイアーゴーの年齢が語られるのか。

『オセロー』第1幕第3場の最後、イアーゴーとロダリーゴーの会話。元老院で公爵からオセローとデズデモーナとの結婚が認められ、デズデモーナとの結婚のチャンスが失われて、落胆しているロダリーゴーに対してイアーゴーはこう語る。訳文は小田島雄志訳を使わせていただく。
ロダリーゴー 生きるのが苦しいっていうのに生きていくのもばかな話じゃないか。死んで癒されるものなら死ぬ処方を書いてもらったっていいじゃないか。
It is silliness to live when to live is torment; and then have we a prescription to die when death is our physician.1.3.350-2【行数はあくまでも目安】

とこう嘆くロダリーゴーに対してイアーゴーは、
イアーゴー みっともないこと言うな! おれは四七の二十八年間、この世のなかをみてきたが、損得の勘定ができるようになってからというもの、自分を大事にするやつにお目にかかったためしがない。雌鶏一羽に惚れたぐらいで身投げするぐらいなら、人間様をやめて狒狒〔ひひ〕にでもなったほうがいいね、おれは。
O villainous! I have looked upon the world for four times seven years; and since I could distinguish betwixt a benefit and an injury, I never found man that knew how to love himself. Ere I would say, I would drown myself for the love of a guinea-hen, I would change my humanity with a baboon.1.3.353-58【行数はあくまでも目安】

28年間生きてきたというのは、満年齢でいうとまだ27歳かもしれないが、まあ、そこまで厳密に考えられたセリフではないだろうから28歳というつもりで、28年間この世のなかをみてきたとイアーゴーは言ったのだろう。

ちなみにイアーゴーの話すことは、劇の冒頭から嘘ばかりである。だから信用できないのだが、しかし、ここでイアーゴーは嘘をつく必要はないので、28年間生きてきたというのは真実とみてよいだろう。

今回の文学座の『オセロー』(2024年6月 - 7月、演出:鵜山仁、主演:横田英司)においてイアーゴー役の浅野雅博は若いイアーゴーに寄せている感じがあったが、28歳にはみえなかった。また舞台によってはオセローよりも年上のイアーゴーが登場することすらある。シェイクスピアのテクストを無視してどうしてそんなことがと驚くなかれ。上演では、引用した上記のセリフはカットされる。今回の文学座の『オセロー』でもこの台詞はカットされていた。

だがシェイクスピアが意図した28歳のイアーゴーは、そんなに受け入れがたいのだろうか。イアーゴーが28歳と知ってシェイクスピアのファンは驚くのだろうか。

『オセロー』においては世代対立とまではいえないかもしれないが、世代間の懸隔というものがある。年寄りの世代は、オセロー、ブラバンショー(デズデモーナの父親)、ヴェニスのお偉方(公爵など)である。いっぽうデズデモーナ、イアーゴー、エミリア、ロダリーゴーは若い世代に属する。このなかでオセローとデズデモーナとの結婚は、まさにメイ・ディセンバーMay-December結婚としてスキャンダルになる。オセローは、デズデモーナにとって父親といえるくらいの、齢の差婚である。

またシェイクスピアは、この時期つまり『オセロー』を書いている時期、若い世代が年老いた世代を陥れたり倒そうとする悲劇作品を書いている。『ジュリアス・シーザー』では、ブルータス(ならびに彼の友人たちともいえる若い世代)が、父親的な(父親という説もある)シーザーを暗殺する。

『ハムレット』は、殺された父親の仇をうつというかたちで、ハムレットが叔父クローディアスに挑戦する。『リア王』では、老人のリア王が娘二人に冷遇されるだけでなく、グロスター伯爵家では私生児の息子が父親を陥れる。そして『マクベス』では、マクベスが父親のようなダンカン王を暗殺する。若い世代が年寄りの世代を殺す世代間闘争(あるいは父親殺し)のテーマをシェイクスピアは追究していたのであって、イアーゴが父親のように年の離れたオセローを陥れるという悲劇作品はシェイクスピアの悲劇としてはまさに王道をゆく悲劇なのである。

したがってオセローが40代か50代、イアーゴーが50代から60代という設定の舞台は、けっこうあるし、一般にも、そうしたイメージが定着しているかもしれないが、それはシェイクスピアが考えもしなかった舞台である。日本では漫画のテレビドラマ化において原作者とテレビ局側とのあいだで衝突が繰り返されているのだが、シェイクスピアが生きていたら、28歳ではないイアーゴーが登場する舞台をみてどんな感想をもらすのだろうか。

ちなみに、イアーゴーの28歳という設定は、演ずる俳優の年齢と同じか、それに近づかせてあると指摘できる。バカなシェイクスピア学者(と書くと、バカでないシェイクスピア学者がいるかのように思われるかもしれないが、総じてみんなバカである)は、ハムレットを演じたリチャード・バーベッジ(Richard Burbage c. 1567 – 13 March 1619, 劇団の主役俳優)がオセローを演じたと考えているのだが、バーベッジは『ハムレット』や『オセロー』上演時には30代前半であって、ハムレットの年齢、またイアーゴーの年齢に近い。

ハムレットを演じたバーベッジが、次の作品において、高齢のオセローを演じたのだろうか。まあこのバーベッジはリア王を演じたのだろうから、年齢に関係がないともいえるのだが、それにしても、シェイクスピアがわざわざ28歳と年齢を指定したイアーゴー、作品中ではオセローよりもセリフの量が圧倒的に多く、また独白の数も、オセローをはるかににしのぐイアーゴーを、いったい劇団の誰が演じたというのか。シェイクスピアは劇団の誰を念頭において当て書きしたというのか。

おそらくハムレットを演じたリチャード・バーベッジがイアーゴーを演じ、クローディアスを演じた俳優がオセローを演じたのであろう。しかもハムレットとイアーゴーの役割は似ている。ともに、不釣り合いな結婚に対しそれを批判しできれば原状復帰すら求めている。ハムレットの場合は、母親と叔父との近親相姦的な結婚(しかも喪に服す暇もない早すぎる結婚)に対して異議を唱え、イアーゴーは、オセローとデズデモーナとのメイ・ディセンバー婚ならびに異人種婚に対してそれを妨害阻止するというかたちで異議を唱えている。どちらも不適切あるいは不釣り合いな結婚に対する異議申し立て人なのである。【ハムレット、イアーゴーの行為は一人「シャリバリ」ともいえるのだが、この点については別の項で】

ハムレットとイアーゴーの類似はそれだけではない。ハムレットにはホレイショーという友人が寄り添っている。イアーゴーにはホレイショーのパロディとでもいえるロダリーゴーが金づるの役目を背負わされている。

またハムレットもイアーゴーも最後には口をきなくなる。
イアーゴー なにを聞いてもむだだ、わかっているだろう。わかっていることは。
いまから先おれはひとことも口をきかんぞ。(5.2)

は明らかに、あとは沈黙というハムレットの最後のセリフと響きあっている。

『オセロー』においては、その台詞の量と独白の多さによってイアーゴーが実質的に主人公である。イアーゴーの台詞の量は、ハムレットの台詞の量に匹敵する。では、なぜ最初からイアーゴーを主人公に名目上でも設定しなかったのか。もちろんイアーゴーが主人公になることはない。悲劇は身分の高い王侯貴族を主人公とするジャンルなので、身分の低いイアーゴーは実質的には主人公であっても、名目上は主人公にはなれないのである。

ちなにみ若いイアーゴーも時々目にすることがある。今となっては古い映画だが、ティム・ブレイク・ネルソン監督の2001年製作のアメリカ映画『O [オー]』(原題: O)は、ジョシュ・ハートネットがイアーゴーに相当するヒューゴ・ゴールディングという人物を演じていた。

ジョシュ・ハートネットは比較的最近になって映画で観ることが多くなった。『キャッシュトラック』(2021)『オペレーション・フォーチュン』(2023)、『オッペンハイマー』(2023)など。いまや中年の男性となったが、若々しさは失っていない、そのジョシュ・ハートネットが、イアーゴーを演じた映画『O[オー]』は、クソジジイのイアーゴーしか観ることができない現状のなかで、若くて邪悪なイアーゴーを観ることができる稀有な映画である。しかも俳優の格として彼は、デジー/デズデモーナ役のジュリア・スタイルズやオーディン・ジェイムズ/オセロー役のメキ・ファイファーよりも上位に来る。まさに彼が主人公であった。

ただし映画は、学園物というジャンルに属しハイスクールを舞台にしているために、イアーゴーだけが若いのではなく、オセローもデズデモーナも高校生という設定で、つまりみんな若いため、イアーゴー/ジョシュ・ハートネットの若さがあまり目立たなかったのだが。
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2024年07月09日

『オセロー』

7月7日の紀伊国屋サザンシアターで千穐楽を観劇。そのためこの舞台を推薦しても、もう上演が終わっているので意味がないように思えるのだが、7月に数日別の場所でも上演するので全く無意味ではないと思う。上演期間が短いのは、最近のあるいはこれからの文学座の公演の特徴なのだが(理由は不明)、長く上演してもよい舞台だと思った(主演の横田英司復帰の舞台なので、長期公演は負担なのかもしれないが)。

ステージナタリーのネット記事から、その一部を引用すると:
これは、ウィリアム・シェイクスピアの「オセロー」を、小田島雄志の訳、鵜山仁の演出で立ち上げるもの。出演者にはオセロー役の横田栄司、裏切り者であるイアーゴー役の浅野雅博、オセローの妻デズデモーナ役のsaraのほか、石川武、高橋ひろし、若松泰弘、石橋徹郎、上川路啓志、柳橋朋典、千田美智子、増岡裕子、萩原亮介、河野顕斗が名を連ねた。

なお本作で鵜山は、文学座の代表に就任後、初めて劇団公演を演出する。初日を経て鵜山は「横田栄司の舞台復帰と、saraの劇団デビュー。オセローとデズデモーナの『向こう見ずな、運を天にまかせた』結婚をめぐって、文学座の『オセロー』、沸き立っています。 それにしても、このエネルギーの向かう先、到達点は、一体どこなんだろう。観客席の皆さんと、とんでもない旅路を共にしたいと思いながら、何か得体の知れない畏怖を感じている……不思議な初日です」とコメントした。【以下略】

鵜山仁氏のコメントは、自身が演出した舞台なのに、なにか他人事のような印象を受ける。だが、それは氏のおそらく偽らざる感想なのだろう。そう、この舞台は、鵜山氏の優れた演出もさりながら、まさになんといっても横田英司(以下俳優名は呼び捨て)の演技が起こす化学反応がなんともすごいことになっていた。まさにこれはシェイクスピア劇を材料にして展開する横田ワールドである。それは「得体の知れない畏怖」を伴う「とんでもない旅路」であるかのような観劇体験を私たちにもたらしてくれた。

もちろん浅野雅博によるイアーゴーにも、また初めて観るsaraの(評判通りの)みごとなデズデモーナにも感銘を受けたし、それは一流の演技であると確信をもって言えるのだが、なんといっても、横田英司の超人的演技はオセローのパーソナリティとその可能性の中心ともいえるものを余すところなく展開してみせてくれた。それを指して誰もが横田ワールドと言いたくなるのではないだろうか。

思い返すと、シェイクスピア劇の舞台で横田英司とはこれまで何度も出会ってきた。そのすべてを回顧できないのだが、たとえば今回の舞台をいっしょに観劇した知人から、『ヘンリー五世』(2018年5月、演出:鵜山仁、新国立劇場)のフルーエリン役が印象的だったと言われた。そのフルーエリン役については私自身一応覚えていたが、その後観た別の『ヘンリー五世』(2019年2月、演出:吉田鋼太郎、埼玉さいの国芸術劇場)でフルーエリンを演じた河内大和(いまや『Vivan』の悪役で一般にも知られるようになった)の怪演が強烈で、フルーエリンが舞台で齧る生ネギの匂いが客席に伝わってきた。この匂いの記憶が横田英司のある意味怪演を後景に押しやった観があったのだが、しかし、この『ヘンリー五世』(2019)で横田英司はフランス王という重要な役を演じていたことを忘れていた【なお、今回の『オセロー』の終幕で、殺されたデズデモーナが幽体離脱のようにベッドから起き上がり、寝室の周りを動き、最後の顛末をみているという演出があったが、この知人の考察によれば、わけもわからずにオセローに殺されたデズデモーナの魂が、事の次第をすべてを知り、最後にオセローを赦しオセローと和解するようにさせたものであった。なるほどと、洞察の深さにただただ感心をした。実際舞台ではデズデモーナの魂がオセローを抱きとめていたのだから。】

比較的最近の舞台でも、シェイクスピア関連もふくめて、ジョン・フォード『あわれ彼女は娼婦』ヴァスケス役(2016年6月、演出:栗山民也)、チェーホフ 『ワーニャ伯父さん』アーストロフ 役(2017年8月、演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ) 、シェイクスピア『アテネのタイモン』執事フレヴィアス役(2017年12月、演出:吉田鋼太郎)、チャペック『音楽劇「白い病気」』元帥役(2018年2月、演出:串田和美)、 ショーン・オケイシー『The Silver Tassie 銀杯』テディ・フォーラン役(2018年11月、演出:森新太郎)、三谷幸喜作『愛と哀しみのシャーロック・ホームズ』マイクロフト・ホームズ役(2019年9月、演出:三谷幸喜)【ちなみにシャーロック・ホームズ/柿澤勇人が演技なのか不覚にもなのかわからないが、舞台で吹き出してしまった、兄マイクロフトがみせる変顔というのはどういう顔だったのだろうか――客席からは見えなかったので】 、シェイクスピア『終わりよければすべてよし』パローレス役(2021年5月、演出:吉田鋼太郎) などが思うかぶ。もちろんこれ以外にも多くの舞台に出演しているのだが。

私にとって個人的に印象深かった横田英司のシェイクスピア劇出演は、『お気に召すまま』(2017年1月、演出:マイケル・メイヤー、シアター・クリエ)でのオリヴァー役だった。柚希礼音主演のこの公演では、シアター・クリエの通りを隔てて向かい側にある東京宝塚劇場よりも女性観客の比率が高く、数えるほどしかいない男性観客のひとりであった私は肩身の狭い思いをしたのだが、舞台は映像化して残しておいて欲しかったすぐれたものだった(まあ、夜の9時に幼稚園児を多数登場させた舞台でもあったので、映像化には問題があったのかもしれないのだが)。そのなかで横田英司はオリヴァーを演じていた。せっかく横田英司を使うのだから、もっとよいというか重要な役があるのに、これでは宝の持ち腐れだと最初は落胆した。オリヴァーというのは、主人公オーランドーの兄で、あとで改心して善人になる小悪党であり、なんとも中途半端な役どころなのだが、それを横田英司が演ずると信じられないほど面白く魅力的な人物に変貌した。すぐれた俳優が演ずれば、目立たない人物でもここまで驚異的な巨大な人物になるのか深い感銘を受けた記憶がある。

今回オセローを演ずる横田英司は、オリヴァーを演じた横田英司をほうふつとさせるとこがあって、オセローという人物の可能性の中心をまざまざと見せてくれたといっていいだろう。

TimeOutの記事には、こうあった:

演劇モンスター・横田栄司が「オセロー」で2年ぶりのカムバック、舞台復帰でかみ締めた思い

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の和田義盛役でも知られる俳優の横田栄司が、ホームグラウンドである文学座で、シェイクスピアの四大悲劇の一つ、「オセロー」のタイトルロールを演じる。【中略】

2022年秋に休養を発表してから約2年。ファン待望の舞台復帰となる今回、世界の名優たちが演じてきたこの役に、どう向き合うのだろうか。

そう2022年9月8日に『欲望という名の電車』を「肝機能障害と慢性疲」症候群およびメンタルヘルスに於ける不調の診断を受けたため、降板することを発表」(Wikipedia)とあってから2年(とまではいえないかもしれないが)たっていた。シェイクスピアの『ジョン王』(最初の公演はコロナ渦で中止)の再演/初演では横田英司が予定されていたが、健康上の理由で吉田光夫と交代したのは残念だった。ただ、そのまま横田英司が演じていたら、小栗旬とのからみで――つまり『鎌倉殿の13人』での北条義時と和田義盛との関係から――確実になにかアドリブが入ったと思うので、そんなものを見たくない私としては、吉田光夫で満足したのだが。

今回の横田英司の復帰はなによりも嬉しく、心から祝福したい。それも英語でいうwith a vengeanceで舞台に復帰した。猛烈な復帰である。なにしろ復帰第一作が主役の舞台なのだから。そしてこれからも、横田英司の主役の舞台を観てみたいと切に願っている。


これは批判ではない――危険な可能性への危惧めいたものにすぎないのだが、横田英司の今回のオセローは、多面的な人物像をみせてくれて、人物そのものを大きく膨らませてくれた。横田英司は演劇モンスターかもしれないが、オセローもまた横田英司を通してモンスターへ大きく変貌を遂げた。しかしいうまでもなく、異人種をモンスターへと変貌させるのは、人種差別につながることがある。今回の舞台が差別的であるということではない。ただ、差別化につながる要因はあると言わねばならない。

昔、テレビ(日曜洋画劇場)で、ローレンス・オリヴィエ主演の映画『オセロー』をみて、白人の俳優がここまで黒人になりきれるのかと、その演劇モンスターぶりに驚愕したことを今でも覚えている。映画はオリヴィエの舞台をもとに、舞台そのものではないが、簡素な空間設定で、舞台そのものをほうふつとさせた。この映画版は『オセロー』の映像化としては決定版ともいえるもので、長らく教材としても使われていたと記憶する。

だがイギリスでのこの映画の評判は散々なものだった。イギリスのあるテレビ番組で、この映画が人種差別的として批判されていたのを見て、私はただただ驚いた。しかし、この映画を見返してみれば、たしかに、黒人が、オリヴィエが演技しているように、あんなふうに目をむいたり、妙な笑い方をすることはないとわかる。ましてや黒人にとってみればオリヴィエの黒人像は差別的なもの以外の何物でもないかもしれない。

そういえばこの映画をテレビで放送したのは、日曜洋画劇場であったのだが、その時、解説者の淀川長治は、オリヴィエがオセローを演じるにあたって、動物園でゴリラなど類人猿の仕草や動作や顔の表情を観察して参考にしたという逸話を面白おかしく語っていた。その時は、子供心にもおかしいと思ったと語りたいが、そうでもなく、オリヴィエは研究熱心ですごいとしか思わなかった私はただのバカ少年だった。またそういう差別的逸話が英国から伝わり日本のテレビも無批判にそれを伝えていた。

昭和の時代のテレビ番組における不適切にもほどがある解説ということになるのだが、もしオリヴィエの逸話が本当なら、オリヴィエとしてはオセローを超人的な異人種というモンスターにしたくて動物をモデルにしたのではないか。もちろん黒人=類人猿という差別的な同一化も念頭にあったことはまちがいなのだが。

今回のオセローのモンスター化は、差別的意図はないと思うが、差別的に受け取られるかもしれない危険領域に足を踏み入れているところがなきにしもあらずだろう。ヴェニス社会における異人としてオセローに、暴走する野蛮人あるいは獣人のイメージをまとわせるという意図はなかったかもしれないが、図らずもそうしたイメージを生んだということなのかもしれない。

ただオセローのモンスター化はシェイクスピアの意図でもあったのだろう。いまでは珍しくなったが、しかし難病としてまだ人を苦しめている病気にてんかんがある。オセローはてんかんの発作を起こす数少ない登場人物の例である。横田英司の、てんかんで倒れるオセローの演技はリアルではなかった。そこは配慮があったのだろう。モンスター化の要素に病人をもってくるのは現代では控えるべきであろうから。しかしシェイクスピアの時代は病人は差別的処遇の対象になっていた。

あと、横田英司の声は大きくて劇場内によく通り、しかも、言葉一つ一つが明晰で、理想的なデクラメーションを発声できる俳優のひとりとして特筆に値しよう。私としては、そのまま最後まで大きくまた聞きやすいセリフ回しを続けて欲しかったのだが、これはシェイクスピア劇だけのことか、あるいは一般的な傾向なのかわからないが、セリフに強弱をつけて、大きな声で、ときには絶叫調でセリフを語ったかと思うと、ささやくような小声でセリフを語ったりすることが多い。小声でのささやき声のセリフでも劇場のマイクが拾ってくれて聞き取れないことはないのだが、それでも聞き取れなくなることはある。

オセローの最後のセリフは、ヴェニスからの使者にむけての、辞世の演説(まあ、こういう表現があるかどうか知らないが)であって、そこは横田英司の朗々たるセリフを聞きたかった。実際その最後のセリフは、T.S.エリオットがオセローという人物の自己劇化、自分を元気づける・景気づけるものとして、その愚かさを批判的にみたところだった(シェイクスピアはそのような人物としてオセローを作ったとエリオットは考えた)。たしかにオセローはヴェニスからの使者を前にして語るのであって、それを小声で語るというのは意味がとおらない(実際に、その最後の辞世の演説では、演説ではなく、ささやきであったので、聞き取れなかった言葉も多かった)。エリオットの所説を確認することすらできなかった。

とはいえオセローの最後のセリフについて、エリオットが自己劇化だのボヴァリズムだのと突き放して考えたことについては、セリフの違和感に敏感なエリオットの優れた感性の証しであることはまちがいないだろうが、結論はおかしい。というのも、繰り返すが、それはオセローの辞世の演説である。このあとオセローは自害する。これはヨーロッパ人がしないことである。むしろ辞世の句を詠んで切腹する日本人のサムライがするようなことである(辞世の句は東アジア的であるという説もある)。しかしシェイクスピがサムライと切腹と辞世の句を知ることなどなかっただろうから、日本を念頭に置いたわけではなかっただろうが、これはまちがいなく非ヨーロッパ人の異人種の死の儀礼なのである。

実際、オセローの最後のセリフは、愛する女性を騙されたとはいえ殺してしまった自分は、愚かな異教徒・異人種・ムーア人、総称して黒人であって、黒人化してしまった自分をこうして処罰することで、自分は白人の魂を最後まで失うことはなかったとして、自害するのである。なんという名誉白人かと、痛ましく思うのだが、同時に、切腹のようなかたちで自害することによってこの名誉白人は、最後は、あるいは最後まで異邦人・異教徒であることを印象付ける。非ヨーロッパ人であるオセローは、イギリス人よりもヴェニス人よりも日本人に近い、あるいはオリエント的アジア的存在なのである。

この重要な儀礼的なセリフの部分、辞世の演説が、小声で消え入るような声で発せられたのは、残念である。ただし、横田英司は、あるインタヴューで、自分の声を大きさにコンプレックがあると語っていた。体格がよすぎたり、背が高すぎたりする人がもつ、コンプレックスのようなものを横田英司も自分の声に対してもっていることに驚いた。むしろ自分の声が通らない、人の注目を集めないということでコンプレックスをもっている人が多いのに、これはなんという贅沢なコンプレックスなのか。舞台人なら、ふつう、どこまで大きな声が出せるか、どこまで劇場の隅々まで自分の声を届けることができるかに集中するところ、その心配はない横田英司は、どこまで小さな声でセリフを発せることができるかに集中したきらいがある。ご本人にとっては常に念頭にある重大問題なのかもしれないが、それによって聞きづらくなった台詞が多少あったのは、瑕疵ではないが、やや残念であった。
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