タイトルの「関心領域」について私は誤解していたが、たとえば私が国際情勢に関心をもっているというとき、「私の関心領域は国際情勢です」と言ったりするかもしれないが、この映画のタイトルThe Zone of Interestというのは、そういう意味での、つまり「関心のある領域」という意味ではなかった。
ポーランドを占領したナチスが、アウシュヴィッツ強制収容所周辺の、SSが管理する40平方キロメートルの領域を指して使った言葉、ドイツ語でInteressengebiet、そのまま英語に訳すとinterest zoneでは意味が通じないからthe zone of interestとなるということか。
ここでいうinterestは、おそらく「重要、重大」という意味なのだろう。Person of Interestというテレビドラマがあったが、このPerson of Interestは「重要参考人、重要人物」というような意味で、関心がある人物という意味ではないだろう。【ちなみに『イコライザー THE FINAL』(2022)のなかで、ロバート/ロベルト・マッコールことデンゼル・ワシントンは、ダコタ・ファニング演ずるCIAの女性エージェントに、あなたは“Person of Interest”だと言われていた。コンテクストから判断すると、「重要人物、問題人物、要注意人物」ということくらいか。】
Weblioではinterestの意味の概要を
興味、関心、興味を起こさせるもの、関心事、趣味、興味をそそる力、おもしろさ、興趣、重要(性)、重大(性))
としているが(なおWeblioには利益利子という意味のinterestの説明もあり)、一般人、現地の住民は入れてはいけない特別地帯あるいは要注意地帯という意味なのだろう。利益があがるという意味はないようだが。しかし、映画の内容からして、登場人物は壁一つ隔てた隣の収容所の凄惨な地獄図絵には関心がなく、関心があるのは快適で秩序だった日常と家庭生活なので、関心がある領域という意味も、このThe Zone of Interestにこめられている可能性は高い。
あともうひとつ私が誤解して途中まで混乱していたのは、主役のルドルフ・ヘスのこと。私の乏しい知識のため、ヘスをナチスの副総統でのちに英国に亡命したルドルフ・ヘスRudolf Heßのことと勘違いし、アウシュヴィッツの所長でもあったのかと思い込んで、話のつじつまのなさに途中まで困惑していた。主人公は実はもうひとりのルドルフ・ヘス(Rudolf Franz Ferdinand Höß , 1901年11月25日 - 1947年4月16日)で、アウシュヴィッツの所長だった人物。副総統のヘスHeßと収容所所長のヘスHöß 、ドイツ語での綴りが違っていてもカタカナになると同じなので、私は勝手に混乱していた(なお所長のヘスの実際の誕生日は11月25日。この映画において所長の誕生日は11月ではなかった)。
この映画の設定のなかで、やはり問題となるのは、壁一つ隔てた二つの世界の関係性であろう。
かたやアウシュヴィッツ強制収容所。そこでは連日、ユダヤ人が列車で運び込まれガス室で殺され焼却されている。たとえガス室で殺されなくても、劣悪な環境下で強制労働させられる地獄図絵が展開している。その隣にあるヘス所長の家族(妻と5人の子供と使用人たち)が快適で秩序だった平穏な悠々自適の生活を送っている。壁一つ隔てて天国と地獄に別れている。
収容所の人々は、隣の所長宅がどうなっているか知る由もないが、少なくとも所長とその妻は隣で何が行なわれているかは知っているはずである。しかし所長はともかく、その妻と家族は壁の向こうの地獄は関心の外にある。むしろ壁にまもられた快適な邸宅での日常を楽しんでいる。壁の向こうの世界は観て見ぬふりをしている。あるいは意識から遮断している。そうすることで天国と地獄が共存するのである。
チャイナ・ミエヴェルのSF『都市と都市』(2009)では、二つの都市が同一空間を占拠してそれぞれ別の国と文化に属しているという奇想天外な設定なのだが、いったいどういう時空間の歪みによって、二つの都市が複雑に入り組んだかたちで共存するようになったのか、その科学的な説明はどうするのかと、宇宙人が時空間を加工してそんな都市を構築したのか、あるいは時空間のカタストロフ的崩壊が起きてその余波として二つの都市空間が絡まり合うようになったのか。いったいどうなるのだろうと、期待を膨らませながら読んでいたのだが、そのからくりを知って愕然とした。要は、見ない。見て見ないようにする。仮に通りを隔てた向こう側が別の都市でありそこに別の都市の住人が住んでいるという場合、根本は、その地域には目をやらない。そして間違ってもそこに足を踏み入れない。そうすることで一平面上に二つの国家ないし二つの文化に属する二つの都市が共存することになる。【なおミエヴェルのSFについての記述はたんなる脱線ではない。この映画は、ある意味『収容所と収容所』というタイトルをつけることもできるのだから。】
なお『都市と都市』は、物理的に二つの都市が沸き出たとか、別の時空間から飛んできたというのではない。ただたんに約束事、人為的規則によって、二つの都市空間を成立させているということ。たとえば私の家のすぐ隣にある空き地に洗濯物が風で飛ばされて落ちたとしよう。そこに行って取ってくればいいのだが、そこは別の都市だとすると、勝手に空き地に入るわけにはいかない。入ろうものなら逮捕され国際問題に発展しかねない。そのため私は自分が所属している都市でしかるべき手続きをとり、隣の都市へ入る許可をもらい、隣の都市への入り口なり税関を通って、遠回りして空き地に赴き、そこに飛んでいった洗濯物を回収するということになる……。それって子供だまし?いや約束事の世界である。約束事は、存在しないものを生み出し、存在しているものを抹消する。それと同じで、見なければ、そこにないのも同然ということになる。見なければ、意識しなければ、どのようなものも存在しないことになる。そう決めればいい。そしてその約束事を守ればいい。そうすればおびただしい数の人間が殺されていても平気でいられる。そもそも虐殺など存在していないのだから。
知覚されても、それを遮断することで、他者の存在を消し去る。誰もが日常的に行っていることでもあるが、それが規模が大きくなると場合、遮断される対象が、人類史上最悪の犯罪のひとつである場合、遮断行為が冷酷非情な残忍な行為へと変わる。遮断する側も、犯罪の加担者、共犯者とみさされる、あるいはなってしまう。これがこの作品が提示する第一のパラドクスである。
と同時に小さな事件なり対象ならば、それを見てみぬふりをするどころか、認知することもたやすい。だが大規模な事件、組織的な犯罪となると、むしろそちらのほうが、目をそむけたくなる。受け入れることも認知することもむつかしくなる。トラウマになる。となるとジェノサイドから目を背ける者は、共犯者でもあるが、犠牲者もある。どちらもトラウマに苦しむ者になりかねない。そうなると加害者、目撃者、忌避者、いずれも犠牲者に分類されかねない。加害者にして犠牲者。ホロコーストの当事者、ホロコーストを目撃した者あるいは無視した者、彼らは加害者であると同時に被害者でもある。それがこの映画の提示する第二のパラドクスである。
だがいくら目をふさいでも、現実は避けがたく、ありとあらゆる穴から浸透してくる。現実あるいは真実は決して遮断できない。むしろ遮断すればするほど、これまで使われなかったか、顧みられなかった回路が利用されたり見出されたりする。この映画では、壁によってみることができない収容所の世界は、見えないぶん、音の意味と重要性が増し、音を通して真実が主張されることになる。たえまなく、大小さまざまな音を通して、また諸種の音域や音質を通して伝わるものがある。見えなくなっているものが、見えるようになる。音でみることができる。目隠しをすれば聴覚が発達し、これまでになかった、あるいは顧みられなかった伝達手段に光があたることになる。たとえ見えなくても、視覚以外の感覚によって観ることができる。これが第三のパラドクスである。
私はラカンを通して知ったのだが(「「盗まれた手紙」のセミネール」)、オストリッチ/ダチョウの戦略というのがある。危険が迫ったときダチョウは砂のなかに頭をつっこんで何もみないようにして安心するという。
【Wikipediaではダチョウの記事に「慣用句」という項目があり、そこでは:
ダチョウは、危険が迫ると砂の中に頭を突っ込む習性があるという迷信がある。実際にはダチョウにこのような習性はないが、この迷信上の姿から「He is hiding his head like an ostrich」「follow an ostrich policy」といったような言い回しが派生した。これは現実逃避する、都合の悪いことを見なかったことにするといった意味。国内・国際政治でも、安全保障上などの危機を直視しようとしないことを「Ostrich policy」(「ダチョウ政策」「ダチョウの平和」)と呼ぶ比喩表現がある。】
オストリッチのように見ないようにしても、視野を遮断しても、聴覚によって、あるいは肌を通して、熱を通して、見えない者が伝わってくる、いや、みえないものが見えてくる。リアルは決して遮断できない。
こう考えれば、この映画の登場人物とりわけ収容所に隣接した所長宅で生活する人びとはまさに愚かなオストリッチの群れである。そして現実の遮断、現実逃避の強度が増せば増すほど、リアルからの報復が増すことになる。そしてその分、麻痺状態も進行する。この麻痺、この現実逃避は、もはや犯罪の域に達しようとしている。悲惨な現実から目を背けたいというのは、人間の弱さとして許されるのではなく、こうなると犯罪である。
だが、この映画では第四のパラドクスがある。
壁の両側は天国と地獄という対照的な世界ではあるが、同時に、二つの世界の根底にあって、両者を支えている原理は実は同じひとつのものかもしれない。これが第四のパラドクス。というのも観客として目撃する所長宅の秩序だった几帳面で清潔な生活ぶりと、アウシュヴィッツでのユダヤ人大量虐殺と遺体の焼却処理は、同じことの両面にすぎないのではないか。ある意味、所長宅の生活は、どこにでもある小市民の生活ぶりにほかならないのだが、それが模範的ともいえるような秩序だった几帳面な夾雑物に邪魔されない快適な生活になればなるほど、ユダヤ人を大量虐殺して排除するホロコーストの姿勢と重なってくる。所長は、ホロコーストを実践する有能な官吏(親衛隊中佐)であるが、その有能ぶりと、几帳面な家族管理は重なり合ってくる。もはや、たとえ壁を隔てたすぐそこであっても、強制収容所の残虐行為から目をそらしたり、逆に、そこに想いをはせたりする必要はない。壁のこちら側の快適な生活そのものが、ホロコーストと同じ原理を共有している――それは快適で清潔で几帳面な平穏な生活をおくるために、害獣と害虫と雑草とゴミと不用品を徹底的に駆除・排除することである。壁の向こう側から聞こえてくる音は、ホロコーストのメタファーではなくメトニミーである(どんなに抑圧しても残ってしまうもの――抑圧する音そのものは抑圧できない――の断片である)が、遮断されている壁の向こう側のホロコーストと壁のこちら側の快適な小市民生活とは互いにメタファーの関係にある。
映画は最後に現代にワープする。博物館にされたアウシュヴィッツ収容所があらわれ、朝、女性の職員たちが清掃する。そこには収容所の囚人たちの写真が飾られている通路があったり、おびただしい数の遺品の靴が山積みとなった一角があったりする(私は博物館に行ったことはないが、そうした展示があることは知っている)。それらは、とりわけ遺品の靴の山は、ホロコーストの一部あるいは断片であり、ホロコーストのメトニミーである。パースの記号論でいえば、ホロコーストの事件を示すインデックス記号である。
こうした生々しい断片に対して私たちは目を閉ざしてはいけないだろう。いや目を閉ざそうにもその厳粛で冷酷な事実に身が引き締まる思いがする。だが、たとえば靴の山はガラスで仕切られ囲われた一画(かなりの広さがある)にまとめられている。靴たちは音を出すこともない、沈黙の遺品なのだが、あたかも、声が音が出て外に漏れることを恐れるかのように大きなガラスで封印されているように思われる。博物館展示のこれが限界ともいえるのだが、一方で歴史の事実を記憶すべきものとして保管し展示することは、絶対に必要なことであり、その意義の大きさはどんなに強調しても強調しきれないのだが、他方で、そのために歴史的事実を、その消滅や隠ぺいから防ぐために、厳重に封印し保管しておかねばならなず、それによって現在が歴史的事実から遮断されてしまうのである。歴史的事実を忘れないための処置が歴史的事実を忘却の途へと導いてしまう。これがこの映画の最後のパラドクスではないだろうか。
おびただしい遺品の靴は、分類整理などできるはずもない、カオスのそのものとして存在しているのだが、博物館としては、それをガラスで囲われた一画で展示することで、カオスを保管と整理にゆだね、そしてカオスを緩和し、それを現在から、私たちから遮断し封印してしまう。博物館を訪れる者たちは、ホロコーストの事実と向き合い多くを学ぶことになるだろうが、同時に博物館の、過去を過去として埋葬する作為(たとえそれは博物館側の悪意では決してないのだが)は、過去を清掃し几帳面に整理し駆除しているかのように思えてしまうところもある。博物館は、ホロコーストという全人類に対する最悪の犯罪といってもいいものを白日にさらすという、残酷な事実あるいはカオスから決して目をそらさない強烈な決意に支えられて運営されていることはまちがいないが、だが、その保管と展示行為は、収容所の隣で展開していた所長宅の暮らしぶりと通ずるものがある。過去の暴虐を忘れるなという展示が、過去の暴虐を遮断し忘却へと導く行為と背中合わせになっている。博物館のオリジナルの意図とは反対の方向へと動いているのではないか。あるいはそれが博物館の限界であり運命ではないか。
まさにそうであるがゆえに、この映画は、最後に、単に、過去から現在にワープするだけではない。所長のルドフル・ヘスを、この博物館内にワープさせているのだ。アウシュヴィッツと博物館とは同じ時空間を共有しているに思われる。ここがアウシュヴィッツだ。アウシュヴィッツは終わっていないのである。