2024年06月07日

『関心領域』

The Zone of Interest 監督ジョナサン・グレイザー/ 脚本ジョナサン・グレイザー/出演 クリスティアン・フリーデル、ザンドラ・ヒュラー/音楽 ミカ・レヴィ

タイトルの「関心領域」について私は誤解していたが、たとえば私が国際情勢に関心をもっているというとき、「私の関心領域は国際情勢です」と言ったりするかもしれないが、この映画のタイトルThe Zone of Interestというのは、そういう意味での、つまり「関心のある領域」という意味ではなかった。

ポーランドを占領したナチスが、アウシュヴィッツ強制収容所周辺の、SSが管理する40平方キロメートルの領域を指して使った言葉、ドイツ語でInteressengebiet、そのまま英語に訳すとinterest zoneでは意味が通じないからthe zone of interestとなるということか。

ここでいうinterestは、おそらく「重要、重大」という意味なのだろう。Person of Interestというテレビドラマがあったが、このPerson of Interestは「重要参考人、重要人物」というような意味で、関心がある人物という意味ではないだろう。【ちなみに『イコライザー THE FINAL』(2022)のなかで、ロバート/ロベルト・マッコールことデンゼル・ワシントンは、ダコタ・ファニング演ずるCIAの女性エージェントに、あなたは“Person of Interest”だと言われていた。コンテクストから判断すると、「重要人物、問題人物、要注意人物」ということくらいか。】

Weblioではinterestの意味の概要を
興味、関心、興味を起こさせるもの、関心事、趣味、興味をそそる力、おもしろさ、興趣、重要(性)、重大(性))

としているが(なおWeblioには利益利子という意味のinterestの説明もあり)、一般人、現地の住民は入れてはいけない特別地帯あるいは要注意地帯という意味なのだろう。利益があがるという意味はないようだが。しかし、映画の内容からして、登場人物は壁一つ隔てた隣の収容所の凄惨な地獄図絵には関心がなく、関心があるのは快適で秩序だった日常と家庭生活なので、関心がある領域という意味も、このThe Zone of Interestにこめられている可能性は高い。

あともうひとつ私が誤解して途中まで混乱していたのは、主役のルドルフ・ヘスのこと。私の乏しい知識のため、ヘスをナチスの副総統でのちに英国に亡命したルドルフ・ヘスRudolf Heßのことと勘違いし、アウシュヴィッツの所長でもあったのかと思い込んで、話のつじつまのなさに途中まで困惑していた。主人公は実はもうひとりのルドルフ・ヘス(Rudolf Franz Ferdinand Höß , 1901年11月25日 - 1947年4月16日)で、アウシュヴィッツの所長だった人物。副総統のヘスHeßと収容所所長のヘスHöß 、ドイツ語での綴りが違っていてもカタカナになると同じなので、私は勝手に混乱していた(なお所長のヘスの実際の誕生日は11月25日。この映画において所長の誕生日は11月ではなかった)。

この映画の設定のなかで、やはり問題となるのは、壁一つ隔てた二つの世界の関係性であろう。

かたやアウシュヴィッツ強制収容所。そこでは連日、ユダヤ人が列車で運び込まれガス室で殺され焼却されている。たとえガス室で殺されなくても、劣悪な環境下で強制労働させられる地獄図絵が展開している。その隣にあるヘス所長の家族(妻と5人の子供と使用人たち)が快適で秩序だった平穏な悠々自適の生活を送っている。壁一つ隔てて天国と地獄に別れている。

収容所の人々は、隣の所長宅がどうなっているか知る由もないが、少なくとも所長とその妻は隣で何が行なわれているかは知っているはずである。しかし所長はともかく、その妻と家族は壁の向こうの地獄は関心の外にある。むしろ壁にまもられた快適な邸宅での日常を楽しんでいる。壁の向こうの世界は観て見ぬふりをしている。あるいは意識から遮断している。そうすることで天国と地獄が共存するのである。

チャイナ・ミエヴェルのSF『都市と都市』(2009)では、二つの都市が同一空間を占拠してそれぞれ別の国と文化に属しているという奇想天外な設定なのだが、いったいどういう時空間の歪みによって、二つの都市が複雑に入り組んだかたちで共存するようになったのか、その科学的な説明はどうするのかと、宇宙人が時空間を加工してそんな都市を構築したのか、あるいは時空間のカタストロフ的崩壊が起きてその余波として二つの都市空間が絡まり合うようになったのか。いったいどうなるのだろうと、期待を膨らませながら読んでいたのだが、そのからくりを知って愕然とした。要は、見ない。見て見ないようにする。仮に通りを隔てた向こう側が別の都市でありそこに別の都市の住人が住んでいるという場合、根本は、その地域には目をやらない。そして間違ってもそこに足を踏み入れない。そうすることで一平面上に二つの国家ないし二つの文化に属する二つの都市が共存することになる。【なおミエヴェルのSFについての記述はたんなる脱線ではない。この映画は、ある意味『収容所と収容所』というタイトルをつけることもできるのだから。】

なお『都市と都市』は、物理的に二つの都市が沸き出たとか、別の時空間から飛んできたというのではない。ただたんに約束事、人為的規則によって、二つの都市空間を成立させているということ。たとえば私の家のすぐ隣にある空き地に洗濯物が風で飛ばされて落ちたとしよう。そこに行って取ってくればいいのだが、そこは別の都市だとすると、勝手に空き地に入るわけにはいかない。入ろうものなら逮捕され国際問題に発展しかねない。そのため私は自分が所属している都市でしかるべき手続きをとり、隣の都市へ入る許可をもらい、隣の都市への入り口なり税関を通って、遠回りして空き地に赴き、そこに飛んでいった洗濯物を回収するということになる……。それって子供だまし?いや約束事の世界である。約束事は、存在しないものを生み出し、存在しているものを抹消する。それと同じで、見なければ、そこにないのも同然ということになる。見なければ、意識しなければ、どのようなものも存在しないことになる。そう決めればいい。そしてその約束事を守ればいい。そうすればおびただしい数の人間が殺されていても平気でいられる。そもそも虐殺など存在していないのだから。

知覚されても、それを遮断することで、他者の存在を消し去る。誰もが日常的に行っていることでもあるが、それが規模が大きくなると場合、遮断される対象が、人類史上最悪の犯罪のひとつである場合、遮断行為が冷酷非情な残忍な行為へと変わる。遮断する側も、犯罪の加担者、共犯者とみさされる、あるいはなってしまう。これがこの作品が提示する第一のパラドクスである。

と同時に小さな事件なり対象ならば、それを見てみぬふりをするどころか、認知することもたやすい。だが大規模な事件、組織的な犯罪となると、むしろそちらのほうが、目をそむけたくなる。受け入れることも認知することもむつかしくなる。トラウマになる。となるとジェノサイドから目を背ける者は、共犯者でもあるが、犠牲者もある。どちらもトラウマに苦しむ者になりかねない。そうなると加害者、目撃者、忌避者、いずれも犠牲者に分類されかねない。加害者にして犠牲者。ホロコーストの当事者、ホロコーストを目撃した者あるいは無視した者、彼らは加害者であると同時に被害者でもある。それがこの映画の提示する第二のパラドクスである。

だがいくら目をふさいでも、現実は避けがたく、ありとあらゆる穴から浸透してくる。現実あるいは真実は決して遮断できない。むしろ遮断すればするほど、これまで使われなかったか、顧みられなかった回路が利用されたり見出されたりする。この映画では、壁によってみることができない収容所の世界は、見えないぶん、音の意味と重要性が増し、音を通して真実が主張されることになる。たえまなく、大小さまざまな音を通して、また諸種の音域や音質を通して伝わるものがある。見えなくなっているものが、見えるようになる。音でみることができる。目隠しをすれば聴覚が発達し、これまでになかった、あるいは顧みられなかった伝達手段に光があたることになる。たとえ見えなくても、視覚以外の感覚によって観ることができる。これが第三のパラドクスである。

私はラカンを通して知ったのだが(「「盗まれた手紙」のセミネール」)、オストリッチ/ダチョウの戦略というのがある。危険が迫ったときダチョウは砂のなかに頭をつっこんで何もみないようにして安心するという。
【Wikipediaではダチョウの記事に「慣用句」という項目があり、そこでは:
ダチョウは、危険が迫ると砂の中に頭を突っ込む習性があるという迷信がある。実際にはダチョウにこのような習性はないが、この迷信上の姿から「He is hiding his head like an ostrich」「follow an ostrich policy」といったような言い回しが派生した。これは現実逃避する、都合の悪いことを見なかったことにするといった意味。国内・国際政治でも、安全保障上などの危機を直視しようとしないことを「Ostrich policy」(「ダチョウ政策」「ダチョウの平和」)と呼ぶ比喩表現がある。】

オストリッチのように見ないようにしても、視野を遮断しても、聴覚によって、あるいは肌を通して、熱を通して、見えない者が伝わってくる、いや、みえないものが見えてくる。リアルは決して遮断できない。

こう考えれば、この映画の登場人物とりわけ収容所に隣接した所長宅で生活する人びとはまさに愚かなオストリッチの群れである。そして現実の遮断、現実逃避の強度が増せば増すほど、リアルからの報復が増すことになる。そしてその分、麻痺状態も進行する。この麻痺、この現実逃避は、もはや犯罪の域に達しようとしている。悲惨な現実から目を背けたいというのは、人間の弱さとして許されるのではなく、こうなると犯罪である。

だが、この映画では第四のパラドクスがある。

壁の両側は天国と地獄という対照的な世界ではあるが、同時に、二つの世界の根底にあって、両者を支えている原理は実は同じひとつのものかもしれない。これが第四のパラドクス。というのも観客として目撃する所長宅の秩序だった几帳面で清潔な生活ぶりと、アウシュヴィッツでのユダヤ人大量虐殺と遺体の焼却処理は、同じことの両面にすぎないのではないか。ある意味、所長宅の生活は、どこにでもある小市民の生活ぶりにほかならないのだが、それが模範的ともいえるような秩序だった几帳面な夾雑物に邪魔されない快適な生活になればなるほど、ユダヤ人を大量虐殺して排除するホロコーストの姿勢と重なってくる。所長は、ホロコーストを実践する有能な官吏(親衛隊中佐)であるが、その有能ぶりと、几帳面な家族管理は重なり合ってくる。もはや、たとえ壁を隔てたすぐそこであっても、強制収容所の残虐行為から目をそらしたり、逆に、そこに想いをはせたりする必要はない。壁のこちら側の快適な生活そのものが、ホロコーストと同じ原理を共有している――それは快適で清潔で几帳面な平穏な生活をおくるために、害獣と害虫と雑草とゴミと不用品を徹底的に駆除・排除することである。壁の向こう側から聞こえてくる音は、ホロコーストのメタファーではなくメトニミーである(どんなに抑圧しても残ってしまうもの――抑圧する音そのものは抑圧できない――の断片である)が、遮断されている壁の向こう側のホロコーストと壁のこちら側の快適な小市民生活とは互いにメタファーの関係にある。

映画は最後に現代にワープする。博物館にされたアウシュヴィッツ収容所があらわれ、朝、女性の職員たちが清掃する。そこには収容所の囚人たちの写真が飾られている通路があったり、おびただしい数の遺品の靴が山積みとなった一角があったりする(私は博物館に行ったことはないが、そうした展示があることは知っている)。それらは、とりわけ遺品の靴の山は、ホロコーストの一部あるいは断片であり、ホロコーストのメトニミーである。パースの記号論でいえば、ホロコーストの事件を示すインデックス記号である。

こうした生々しい断片に対して私たちは目を閉ざしてはいけないだろう。いや目を閉ざそうにもその厳粛で冷酷な事実に身が引き締まる思いがする。だが、たとえば靴の山はガラスで仕切られ囲われた一画(かなりの広さがある)にまとめられている。靴たちは音を出すこともない、沈黙の遺品なのだが、あたかも、声が音が出て外に漏れることを恐れるかのように大きなガラスで封印されているように思われる。博物館展示のこれが限界ともいえるのだが、一方で歴史の事実を記憶すべきものとして保管し展示することは、絶対に必要なことであり、その意義の大きさはどんなに強調しても強調しきれないのだが、他方で、そのために歴史的事実を、その消滅や隠ぺいから防ぐために、厳重に封印し保管しておかねばならなず、それによって現在が歴史的事実から遮断されてしまうのである。歴史的事実を忘れないための処置が歴史的事実を忘却の途へと導いてしまう。これがこの映画の最後のパラドクスではないだろうか。

おびただしい遺品の靴は、分類整理などできるはずもない、カオスのそのものとして存在しているのだが、博物館としては、それをガラスで囲われた一画で展示することで、カオスを保管と整理にゆだね、そしてカオスを緩和し、それを現在から、私たちから遮断し封印してしまう。博物館を訪れる者たちは、ホロコーストの事実と向き合い多くを学ぶことになるだろうが、同時に博物館の、過去を過去として埋葬する作為(たとえそれは博物館側の悪意では決してないのだが)は、過去を清掃し几帳面に整理し駆除しているかのように思えてしまうところもある。博物館は、ホロコーストという全人類に対する最悪の犯罪といってもいいものを白日にさらすという、残酷な事実あるいはカオスから決して目をそらさない強烈な決意に支えられて運営されていることはまちがいないが、だが、その保管と展示行為は、収容所の隣で展開していた所長宅の暮らしぶりと通ずるものがある。過去の暴虐を忘れるなという展示が、過去の暴虐を遮断し忘却へと導く行為と背中合わせになっている。博物館のオリジナルの意図とは反対の方向へと動いているのではないか。あるいはそれが博物館の限界であり運命ではないか。

まさにそうであるがゆえに、この映画は、最後に、単に、過去から現在にワープするだけではない。所長のルドフル・ヘスを、この博物館内にワープさせているのだ。アウシュヴィッツと博物館とは同じ時空間を共有しているに思われる。ここがアウシュヴィッツだ。アウシュヴィッツは終わっていないのである。
posted by ohashi at 20:08| 映画 | 更新情報をチェックする

2024年06月01日

ハムレットの独白(第二幕第二場)

ハムレットの独白のうち、“To be or not to be…”ほど有名ではないが、それよりもひとつ前の独白(第二幕第二場の最後)について、前から考えていたのだが、すっかり忘れていたことを、今回、彩の国さいたま芸術劇場の『ハムレット』とパルコ劇場の『ハムレットQ1』を観る機会があって思い出した。

私の知る限り誰も語っていない説なのだが、まあ私の考えることだから、ほかの誰かが思いつくことは十分に考えられる。また、しっかり考えたことなら、絶対に、ほかの場所でもほかの誰かが同じことを考えているはずだと思うべきで、それは落胆すべきことではなく、新たな発見と洞察が共有されてゆく希望につながるのだという趣旨のことをエドワード・W.サイードが語っていたことを思うと、たとえ珍説と言われようとも、たとえすでに誰かが多語っていたとしても、私としては自信をもっているこの説をここに記すことは、この説が広く知られるための一助にはなるはずで、無駄ではあるまい。

シェイクスピアの『ハムレット』の第二幕第二場の最後、旅役者たちの朗誦を聞いた後、ひとりになったハムレットは、復讐に手間取っている自分はなんと見下げ果てた男だろうと長い苦悶の独白をする。『ハムレット』のなかの多くの独白のなかで、この独白は最長のものである。そして自分自身を責め苦悩するハムレットのこの鬼気迫る独白には観客は圧倒されるしかない。

問題はこの独白の前にハムレットが旅役者にする指示である。明日の晩『ゴンザーゴ殺し』という芝居を上演できるかとハムレットは尋ねる。できますという答えを得たのちに、ハムレットは、セリフを追加したいが大丈夫かというと、大丈夫ですと旅役者は答える。この部分はQ1をはじめとしてQ2でもF1に存在する。これが問題なのある。

【参考までに、その箇所を引用すると
『ハムレットQ1』安西徹雄訳、光文社古典新訳文庫、p.75 8(2・1)
ハムレット あ、ちょっと。お前たち「ゴンザーゴ殺し」はやれるか?
役者一、二、三、四 はい。
ハムレット それなら、私が十二、三行台詞を書き加えたら、それも覚えてえもらえるな?
役者一、二、三、四 はい、そのくらいなら雑作〔ぞうさ〕なく。

『ハムレット』松岡和子訳、ちくま学芸文庫、p.110(2.2)
ハムレット (役者一に)おい、待ってくれ。『ゴンザーゴ殺し』はやれるか?
役者一 はい、殿下。
ハムレット 明日の晩、見せてもらおう。できれば十五、六行ほど台詞を書き加えたい、覚えられるか?
役者一 はい、殿下。

ふたつの訳文が異なるのは、原典が異なるからであり、訳者の問題ではないことは明確にしておきたい。】

何が問題かというと、この後(翌日という設定)旅役者たちはハムレットの要望どおり『ゴンザーゴ殺し』をクローディアスとガートルードという国王夫妻の前で上演する。その芝居は、クローディアスによる先王ハムレット殺害を強くにおわせるもので、クローディアスがそれを観て動揺するかしないかをハムレットはじっと見ている。またその芝居のセリフには、ハムレットが追加した12行から16行のセリフも含まれているだろうと推測できる。なにが問題なのかと思われるかもしれないが、これは大問題なのである。

というのも、クローディアスに、この芝居をみせてクローディアスを動揺させようと決心したのは第二幕第二場の独白の最後においてである。つまり長い独白の最後にハムレットは『ゴンザーゴ殺し』の上演を思いつくのである。
【これも参考までに、その箇所を引用すると
『ハムレットQ1』安西徹雄訳、光文社古典新訳文庫、p.76 8(2・1)
ハムレット ……考えろ、考えるのだ。そうだ、聞いたことがある。罪を犯した男が、芝居を見ていて、舞台の真実に魂を揺すぶられ、思わず、殺人の罪を白状したことがあるとか。……確かな証拠がほしい。芝居だ。芝居を使って、奴の良心を罠に掛ける。それだ。

『ハムレット』松岡和子訳、ちくま学芸文庫、p.113-114(2.2)
ハムレット ……頭を使え。そうだ――聞いたことがある。
罪を犯した者が芝居を見ているうちに
真に迫った舞台に
魂をゆさぶられ、
その場で犯行を自白したという。
殺人そのものに口はないが
不思議な力の働きでひとりでに語り出すものだ。
あの役者たちにいいつけて、
父上の殺害に似た場面を
親父の目の前で演じさせよう。……
……
確かな証拠がほしい。それには芝居だ。
この罠で王の罪の意識をあぶり出してみせる。】

しかし、独白の前にハムレットは旅役者に『ゴンザーゴ殺し』を上演するようにたのんでいたし、おまけにクローディアスを苦しめるであろうようなセリフを追加することにしていたのだ。ところが、独白のなかでハムレットは、突然、あたかもはじめてであるかのように、クローディアスを動揺させる芝居の上演を思いつくのである。

これはなぜか。段取りが狂ったのだろか。実際、そのように考えられてもきた。『ゴンザーゴ殺し』の上演とセリフ追加の確認のところは、ハムレットのこの第二幕第二場の独白のあとにもってくるはずだったのが、独白の前に置かれることになった。不注意で、あるいは適当な置き場がなくてということか(とはいえハムレットは第三幕第二場の冒頭で役者たちに指示をあたえているから、そこに『ゴンザーゴ殺し』と追加のセリフに関する情報を入れることは可能だったはずだ)。

Q1でも、それ以後の版でも、『ゴンザーゴ殺し』とセリフ追加の件は、独白の前に置かれている。作者も劇団関係者が不注意だったかもしれないのだが、さもなければ彼らは、そこが不適切な場所とは思わなかったということだろう。となるとそこにはどんな意味が込められていたのか。

これに関連してもうひとつの不思議な箇所がある。第二幕第二場の独白で、ハムレットは最初に、ようやくひとりになれたというのだ。

ローゼンクランツとギルデンスターンに別れを告げたハムレットは、“Now I am alone”【松岡和子訳では「さあ、独りになった」】と言い、“O what a rogue and peasant slave am I!”以下の独白をはじめるのだ。

だが、ポローニアスも、旅役者たちも、ローゼンクランツとギルデンスターンも退場した直後のことである。ひとりになったことは、わざわざいわなくてもわかるのではないか。なぜこんなことを口にするのか。

独白がはじまることの合図といわれるかもしれないが、独白とは心の中の声とか思考である。そのためにはひとりにならなくてもいい。周りに人がいてもいい。たとえ役者が大声で独白のセリフをまくしたてても、それは心の声だから周囲の人物には聞こえていないというのが大前提である。むしろ周囲に人がいたときに限り、以下のセリフは、誰かへの語りかけではなくて、心の中の声、独白であることを、観客が誤解しないように、何かセリフを付け加えることがあるかもしれないが、周囲に誰もいなくなってからの、一人語りは独白以外のなにものでもないので、さあ、独りになったという述懐は異様である。

この、さあ、独りになったという述懐の違和感を扱った日本語の論文を私は以前読んだことがある。鋭い着眼点に敬服したのだが、残念ながらどういう結論だったのか忘れてしまった。それは私がその結論に納得しなかったか、あるいはその結論の意味をその時は理解できなかったかのいずれかだったのだろうが、ひょっとしたら、今私がこれから披歴しようとしているのかもしれないことは、その論文で先取りされていかもしれないことを断りつつ――

ハムレットは、旅役者たちに、その場で、芝居の一部をやってみせてくれと頼む。正確にはトロイ陥落を扱う芝居の語り、ナレーションの朗誦が求められる。語る旅役者は特定の人物を演ずるのではなく、口上役としてのセリフを朗誦する。だが、その朗誦のなかで旅役者は顔面蒼白になり両眼には涙を浮かべはじめる。それをみていたハムレットは、いったい旅役者は、どのような劇中人物に憑依したのか。なぜ涙を流したのか。その涙は誰による誰のための涙かといぶかるのだ。古代ギリシアの神話世界の出来事にすぎないトロイ戦争の物語、それも老王の死とその妻ヘカベの悲嘆と絶望をめぐる朗誦に、かくも感情移入できる役者とは対照的に今の自分は、身内の出来事にもかかわらず冷静で何もできないなさけない人間だという長い自己譴責が始まる……のだが。

ではなぜ、このとき、ようやくひとりになれたと述懐するのか。そしてすでにある『ゴンザーゴ殺し』の上演計画を、なぜ長い独白の最後で思いついくのか、あるいはふりをするのか。

私の答えは、旅役者の鬼気迫る朗誦に接したあと、それに刺激された、芝居好きのデンマークの王子が、自分も役者のように、セリフを朗誦してみようと思い立ったのではないか。それが第二幕第二場の独白となる。

子供は言葉を覚えるとき、ひとりで、親に隠れて、言葉を反芻して覚えることがよくある。実際に言葉を使う前にリハーサルしているわけである。子供時代のことなので私自身はそういう記憶はないが、子供をみているとそれはふつうに起こっている。また子供が、好きなアイドル歌手の歌や振付をまねるときにも、マスターするまでひとりでリハーサルしていることはよくある。ハムレットも、プロの旅芸人のみごとな朗誦を聞いたあと、ひとつ、誰もいないところで自分もやってみようかと思い立ったのではないか。

子供がひとりで隠れてなにか言葉や踊りの練習もしくは実演をしているというのが、私にとっては、このアイデアの原風景である。もちろん子供は、みんなの前で、親や友達のまえで、ほめてもらうために最初から実演してみせることもあるかもしれない。しかし子供ではなく大人になれば、さすがに人前でのリハーサルもいきなりの実演も抵抗がある。ハムレットのように周囲に誰もいないことを確認して、自分でも朗誦を試みるのである。

ではハムレットはここで何を朗誦しようとしているのか。旅役者が口にしたトロイ戦争を扱った芝居の口上ではない。ハムレットが自分ひとりで独白を試みた、その芝居あるいは筋書きとは、ハムレットという人物の現在の状況における苦悩と葛藤と決意である。おそらくそれは漠然としたものであろう。文字化された台本ではない。しかし独白することで内的思考が完成する。また独白と内的思考とは同時に起こっているのだが、内的思考が先行する台本であり、それを暗記し、その人物になりきったハムレットがいるというかたちになる。つまりハムレットは演技をしているのである。自分自身を演じているのである。

このことが明確になるのは、『ゴンザーゴ殺し』上演計画のおかけである。この劇の上演は、すでにハムレットの頭のなかにある――旅役者に上演を指示したのだから。そして長い自虐的な独白の最後に、上演をいま突然思いついたかのように語ることで、浮かび上がるのは、そうした上演計画をあらかじめもっていた人物を、いまハムレットは独白を通して演じているということである。ハムレットの独白は真率の直接的な心情吐露ではなく、独白する行為=演技を、こっそりと人にみられることなく、ある種の自己満足も伴いながら、悲劇的葛藤のなかにある人物、苦悩する人物、またその苦悩から活路を見出す人物を演じているのである。この独白に先行して『ゴンザーゴ殺し』上演計画があることで、この独白の再現性と演技性が際立つ。

繰り返すが、問題となるこの独白は、ハムレットという人物が自分の心の声を舞台に響かせるというのではなくて、悲劇的葛藤にとらわれた人物の長い独白を、みずから演じてみせたということである。演劇好きのデンマークの王子は、劇作家のようにセリフを書いたり、演出家のように役者に指示をあたえたり、評論家のように上演の出来栄えを判定するだけでなく、またたんに好きな芝居のセリフを覚えるだけでなく、みずからも劇中人物になりきって演ずることを試みたのである。そもそも、そうせずして何が演劇好きといえるのだろうか。繰り返すが、演劇好きの王子は、プロの旅役者の朗誦に刺激されて、みずからも長い独白を演じてみたくなり、誰もいないところで、そうしたのである。「さあ、独りになった」

【余計な想像だが、ひとりでリハーサルするとか実演するというのは、子供に限ったことではない。イングランド中部の田舎町に育った演劇好きのウィル少年は、旅役者たちの巡業に刺激をうけて、みずからも一人で朗誦を試みたり、劇中人物の一人になって演じたりしたにちがいない。また当時の俳優になる条件としては、朗誦がしっかりできること、歌って踊れること、また剣劇ができることであったが、ウィルはこれらを演劇学校などない田舎町で、ひとりで練習に励んでいたにちがいない――「さあ、独りになった」。人に知られたり見られたりするのは恥ずかしだろうから、周囲に誰もいなかことが重要だった。かくしてシェイクスピアがロンドンに上京したときには素人ながら未完成ながら役者の条件を満たしていたことは想像にかたくない。】

ここからいえることは多い。

ひとつは、ハムレットの心の声、その率直な吐露と思えたものは、演劇好きの王子の実演であったのであり、本心は、たとえあいまいなものであっても独白に先行していたとなると、この独白するハムレットと、ハムレット自身とは距離がある。

ただし本心と心情吐露行為との間には距離があっても、どちらも相互に支えあっていることも事実である。大筋はできていても細部が未完成の本心は、独白によって細部と全体を完成させることになる。しかも劇中人物の心情として。これはまた主体が演劇的ペルソナとして構築されるということである。

近代的主体とは、自分自身とは一致しない、あるいは自分自身と距離をもつ、演劇的主体であるとやや大げさに宣言できるかもしれない。

いいかえるとこれは虚構と現実との関係において、現実の価値が減少するというか、現実と虚構とがせめぎあい、ときには混然と一体化するといってもいい。

たとえばデンマークの演劇好きの王子は、プロの旅役者の朗誦に感銘をうけ、自分でも試してみる(これが私の説)アマチュアなのだが、しかしプロとアマチュアとの関係は、舞台では逆転する。なにしろ旅役者を演ずる俳優は、シェイクスピアが所属する劇団では端役を演ずるメンバーであり、演劇の好きのアマチュアであるデンマークの王子は、ハムレットという主役を演ずる俳優であって、その朗誦の質は、おそらくハムレットを演ずる者のほうが、つまり劇中では演劇のど素人のほうが格段に優れているであろう。旅役者(プロ)とハムレット(アマ)という劇中の関係(虚構)が、劇場では、ハムレットを演ずる主役クラスの俳優と旅役者を演ずる端役の俳優との関係(現実)とせめぎあう。この劇は、この劇作家は、その優位性の揺れと戯れているということもできる。

あるいは言い方を変えると、虚構と現実の混然一体化は、同時に、現実が虚構でしかなく、虚構が現実であるという、ある種の乖離現象にもつながるはずである。これが次の有名な“To be or not to be…”の独白にもつながっている。つまりこの有名な独白は、どこか他人事なのである。自分の気持ちを他人事のように、あるいは非人称の朗誦のように、本心や肉声とはどこかずれている仮面の告白のように語るのだから。

また、さらにいえば、近代的自我の確立というは、自我意識が確固たるかたち出来上がるということではなく、自我をみつめるもうひとつの自我の誕生を意味するのかもしれない。いいかえれば近代的自我とは、自我の分裂の別名なのである。かりに第二幕第二場のハムレットの独白にかぎっても、この独白は、直接的・無媒介的・自然発生的な嘘偽りのない心情吐露ではない。そんなものは、もう消え去った。独白は心情の吐露ではなく、心情の構築であり、すでにあるモデルや筋書きにもとづいて、あるいはなぞらえて、自我を生成することである。演技する自我あるいは演技によって生成・完成する自我といってもいい。古き良き時代よさらば。いまは、自分が自分を斜に構えてみているような、純粋な行動ではなく、つねに演技性を意識しないではいられない自意識過剰な演劇としての行為しかなくなった。人間はみな役者になった。人間は分裂したといってもいい。もう分裂以前の全一的な人間にはもどれない。『ハムレット』第二幕第二場の最後の独白は、自我の分裂、自己の亡霊の誕生、演技する自我の時代への、まさに開かれではなかったか。

いや、なにをバカな。子供が親をおどろかしてやろうとこっそり歌の練習をしているように、ハムレットも、芝居好きがこうじて、誰もいないところで、悲劇役者がよくする自虐的・自己譴責的な台詞を朗誦してみようとした? しかも、この発想のオリジナリティは、すでに誰かにもっていかれたと心配している? そんな珍奇なことを考えるのは、おまえだけだ。オリジナリティのことを心配する必要はない。いったい誰がこんな珍説を思いつくのだ。こんな珍説に納得などしないという方々もいるかもしれない。

だが、ならば問いただしたい。そもそも『ハムレット』第二幕第二場でシェイクスピアはものすごく攻めていて、斬新で大胆な実験を試み、演劇性の限界へと到達しているのだが、それは舞台で旅役者に延々と朗誦をさせ、そのあとハムレットに長い独白をさせるという構成によくあらわれている。旅役者のパフォーマンスがハムレットの独白を汚染する、あるいは異化するのではないか。いいかえれば、なぜ旅役者のパフォーマンスをもってきたのか。これはハムレットの独白の人為性・演技性をいやがうえにも喚起するものではないか。観客は、ハムレットが自己の心情や決意を語っていると思うよりも先に、悲劇役者として悲劇の主人公として演技していると思えてならないのではないか――、と、そう私は問いたいのである。
posted by ohashi at 01:44| 演劇 | 更新情報をチェックする