2024年05月30日

『ハムレット』の思い出

老人の昔話をひとつ。

シェイクスピアの『ハムレット』は、英語で読むととてもやっかいな作品で、大学教員のときに、授業でもめったに扱うことはなかった。作品自体長く(シェイクスピア作品では最長)、また意味不明であったり解釈が分かれる英語も多く、高名で人気のある作品だが授業で丁寧に英語で読むとなるとたいへんな作品である。

とはいえ、個人的には、いろいろな意味で『ハムレット』の上演とは縁があった。1980年前後だと記憶するが、デレク・ジャコビ主演の『ハムレット』が日本にやってきたことがある。映画とかライブ映像ではなくて、劇団としての来日。当時としてはできたばかりの新宿文化センターで公演を行なった。その公演に対して日本シェイクスピア協会が全面的に協力することにもなり、当時、東京大学の英文科の助手だった私も動員された。私に課された仕事は、英文プログラムのなかで、シェイクスピア学者や批評家のコメントの部分の翻訳であった。

いまでこそ、デレク・ジャコビといえば知らぬ人はいない――すくなくとも英国演劇や英国映画に関心がある者ならば――のだが、当時の私は恥ずかしながらデレク・ジャコビを知らなかった。ジャコビは1979年に『ハムレット』を演じ、おそらくその舞台が評判になったのだろう、BBCが作成したシェイクスピアのテレビドラマ版シリーズでは『ハムレット』を演ずることになった。英国での『ハムレット』と、BBC版『ハムレット』とのあいまに、日本公演にやってきたかたちになったのだが、繰り返すのだが、誰だこいつはというのが恥ずかしながら失礼ながら当時の私の感想であった。

で、私にまわってきた仕事は英国版プログラムの翻訳なのだが、分量も多くはなく、時間もあり楽な仕事だと思い、名前は出ない翻訳の仕事だったのだが、喜んで着手した。

問題は、そのプログラムの中の著名な批評家のコメントのひとつが意味不明だったことである。そもそも英国での公演パンフレットである。一般の観客に理解不可能な英語の文章が載るわけがない。それなのに私にはどうしても意味が取れなかった。そこで頭を抱えた。【誰かに聞かなかったのかと思われるかもしれないが、まあ事情があり、それは私にできなかった。】

出典にあたって確認すればいいと考えた。その批評家はけっこう有名だったが、出典は明記されていなかったと記憶する。いまだったらネットで検索できたかもしれないが、当時は、ネットなどない。そこで絶望しつつも、その著者の本はいくつか持っていたので、まあ出典を突き止める可能性はゼロに近いとあきらめつつ、手持ちの本で調べることにした。

当時の私としては運がよかったのか、私の調査方法が優れていたのか、数冊の原書をぱらぱらとめくっているうちに、出典箇所がわかったのである。まさに奇跡に近い。そして抜粋の前後を読めば、意味もおのずとわかると思ったのだが、そこで意味がわからなかった原因が判明した、ミスプリントで、単語がひとつ落ちていたのである。その抜け落ちていた単語を入れて読み解けば、英文の意味は明確に理解できた。

これをどう考えたらいいのだろう。

アンデルセン童話に「エンドウ豆の上に寝たお姫様」という有名な作品がある。エンドウ豆のうえに二十枚の敷布団を敷きその上に二十枚のやわらかい羽根布団を重ねたベッドで寝たお姫様が、翌朝、固いものがあって眠れなかったと答えた。それほどやんごとなきお姫様は敏感なのだという話【付記参照】。

このお姫様と私は同じだといえるかもしれない。たったひとつの単語が抜けても、意味がとれないほど、私の英語読解能力は「敏感」なのだった。つまり統語論的にも意味論的にも了解できなければ、私の英語読解能力は停止してしまうのである。これは、私の英語読解の卓越性の証左なのかもしれない。

とうぬぼれていてもしかたがない。単語がひとつ脱落していたくらいで読解能力が停止したのは、私の英語読解能力の未熟さというか端的にいって「なさ」の証左にほかならない。私はミスプリントはよくあるということを経験知としてもたなかった。そのためミスプリントによる脱落という可能性を思いつかず、その方向で頭がはたらかなかったのだ。ただのバカ者である。

本当に読解力が優れている者ならば、どのような単語があれば読解可能になるかを推測できるはずで、その単語が脱落しているかもしれないという可能性をたとえ思い浮かばなくても、消失している単語を自分で補って意味のとおる翻訳ができたはずである。その意味で私は未熟者であった。

ちなみに、私の経験は、なにも英語読解のための教訓だけではない。これは、シェイクスピアの本文を読解するときに必要な頭の働かせ方でもある。シェイクスピア時代の印刷事情を考慮すれば、単語の脱落から印刷ミスにいたるまで、本文の意味が通らなくなる要因は数多く存在している。それを推測して意味を確定することは、過去において優れたシェイクスピア学者が行なってきたことなので、その成果の恩恵をこうむるだけで、自分ではなにもできなかったのは、ほんとうになさけないとしかいいようがない。

なおこの話は、これまで誰にも話していないと思うのだが、ちがっていたら、老人の記憶力のなさを笑っていただきたい。

付記:「エンドウ豆の上に寝たお姫様」については、Wikipediaにある同名の項目を参照のこと。そのなかの「あらすじ」で内容も確認できる。そもそも小品なので、その「あらすじ」は、本文とそんなにかわらない。参考までに:
あらすじ
あるところに本当のお姫様をお妃に迎え入れたいと考えていた王子様がいた。王子様は世界中をまわって本当のお姫様を探したが、何かしらよくないところがあって本当かどうか疑わしいお姫様しか見つからず、王子様は失望した。ある嵐の晩、ひとりのお姫様がお城にやってきた。お姫様は雨でびしょぬれであったが、自分は本当のお姫様だと言った。王妃は試しにベッドの上に一粒のエンドウ豆を置き、その上に敷布団を二十枚敷き、さらにやわらかい羽根布団も二十枚重ねた。お姫様はその上で寝ることになった。

朝になり、城の者が寝心地はいかがでしたかとお姫様に聞くと、お姫様はなにか固いものがベッドの中に入っていたため体中に跡が付いてしまい眠れなかったと答えた。二十枚の敷布団を敷きその上に二十枚のやわらかい羽根布団を重ねてもエンドウ豆が体にこたえるというほど感じやすい人は本当のお姫様に違いないということで、王子様はこのお姫様をお妃に迎え入れた。


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2024年05月29日

『マーヴィンズルーム』

5月24日から6月9日まで、劇団昴によるスコット・マクファーソン作の有名な戯曲『マーヴィンズルーム』を上演中。訳・演出=田中壮太郎、会場=Pit昴/サイスタジオ大山第一。Cast:米倉紀之子/ベッシー、あんどうさくら/リー、佐藤しのぶ/ルース、岡田吉弘/マーヴィン、赤江隼平/ハンク、屋鋪琥三郎[児童劇団「大きな夢」]/チャーリー、磯辺万沙子/ウォーリー医師、林佳代子/シャーロット医師、岩田翼/ホーム長、白倉裕人/ボブ。

訳・演出の田中壮太郎氏の作品としては、2022年の『ラビットホール』以来だが、『ラビットホール』、映画にもなった有名な作品で、田中壮太郎氏の演出と出演者たちの演技で満足したし、なおかつ映画も見直したこともあって、2023年のパルコ劇場での『ラビットホール』は観なかったというか観る必要を感じなかった。パルコ劇場での『ラビットホール』は、藤田俊太郎氏の演出で、翻訳も小田島創志氏で、魅力的ではあったのだが、観なければいけない義理もないし、作品自体、大劇場には向いていない気がしたので。また小劇場のPit昴/サイスタジオ大山第一での上演は、舞台装置が松岡泉氏によるもので、美術面では、こちらのほうに軍配が上がるとも考えたので。

『マーヴィンズルーム』も有名な作品である。作者のスコット・マクファーソン自身が映画のために書いた脚本に基づいて映画化もされた。『マイ・ルーム』(このタイトルは日本側で勝手につけた意味不明のタイトルかと思ったが、アメリカで映画会社がつけたものだった)は姉のベッシーをダイアン・キートンが、妹のリーをメリル・ストリープが、リーの息子でベッシーの甥をレオナルド・ディカプリオが演じていた。またポンコツ医師かもしれないウォーリー医師を映画ではロバート・デニーロが演じていた。

私は原作は読んでいないが、而立書房から出版されている(1998年)松本永実子氏の翻訳で読んだ。今回の上演でも、而立書房の翻訳を販売していたようだが、まだ在庫があったのか、あるいは増刷したのかわからないが、翻訳者(演出家でもある)松本氏が亡くなっていたことには驚いた(もっとも本には松本氏の年齢は書かれていなかったので、享年はわからない)。今回、田中氏の翻訳を使うということだが、松本氏の翻訳との大きな違いというのはなかったように思う。【映画の字幕はひどいのだが、原作の翻訳は信頼がおける。】

率直な感想として、原作のよさをうまく引き出した優れた公演で、観る価値は絶対にある。また今回の公演で、ずいぶん前に観た映画と、これもずいぶん前に読んだ翻訳では気づかなかったことを新たに発見することもできた。その意味でも、今回の公演に感謝したい。観る価値のある誰にでも推薦できる公演である。

またスタジオは小さいので、どの座席に座っても舞台がよく見える。私は今回は前から二番目の席で、前の列の観客が、別に大柄な男性ではなかったのだが、私の視界の三分の一以上を占めていたのだが、舞台に近いため演者の顔や表情がよく見えるので、その迫力で、視野の狭さが十二分に補えた。



あと雑感。

劇中、みんなでディズニー・ワールドへ行く場面があるのだが、映画では面白い場面だったが、小さな舞台では無理な設定ではないかと思った。とはいえ、そんなことはどうでもよく、ディズニーは著作権にうるさく、よくこんな設定で芝居ができたものだと驚いた。今回の公演でも、ディズニー・ワールドで聞こえてもおかしくない音楽を使っていたが、そのものではない。そのものを使うとディズニーの著作権警察がうるさいし、高額の著作権をとられるか、罰金をとられるか、公演が中止に追い込まれかねない。そのことは原作者もわかっていると思うのだが、あえて攻めたのだろうか。もっともディズニー・ワールドの悪口をいっているわけではない芝居なので、余計な心配かもしれないが、ただそれにしてもディズニーはめんどくさくて危険である。【ちなみに今年、2024年はショーン・ベイカーの作品がパルムドール賞を受賞したのだが、そのショーン・ベイカー監督の2017年の映画『フロリダ・プロジェクト――真夏の魔法』では映画の最後の方に実際にディズニー・ワールドへ行く(ただし夢という設定だったように思うのだが)場面があり、あれはゲリラ撮影のようだったが、その後、ディズニー側ともめたりしなかったのだろうか。これも余計なお世話だが。】



公演のパンフレットには、公益財団法人日本骨髄バンクの広報渉外部長による寄稿があった。白血病には骨髄移植が必要で、この作品が書かれた頃には適合者を探すのは至難の業だったこと、そして骨髄バンクによって適合者が見つかりやすくなったこと、しかし現在ドナー登録者の多くが54歳以上になって大量のドナー引退時代を迎えようとしていて、骨髄バンクがピンチ状態にあるという、実に深刻な内容の文章だった。

白血病も、癌(白血病も血液の癌なのだが)も、エイズも、いまや誰もが怖れる病気ではなくなったというのんきなことをいう人間がいまもいるのだが、それらは基本的に不治の病である。そのうちどれかに罹ったら死を覚悟するしかないことは、今も昔もかわりない。骨髄バンクがあるから白血病は怖くないなどと言っている時代ではないのだ(骨髄バンク自体が危機に瀕している)。この作品における白血病は、ゲイであり、また余命いくばくもなかった作者のエイズのメタファーだと思っていたのだが、もちろん、そうした面はあるのだが、同時に、メタファーに収まらない独自の存在感を主張していることが、今回の骨髄バンク関連の寄稿によって認識できた。



その骨髄だが、演出の田中壮太郎氏が、Marvinという名前を調べてみたら、「その由来が元々ウェールズ地方の名前で「marrow(骨髄)」からきている、というものでした。作家が意図していたか、ただの偶然かわかりませんがそれを発見した時、ちょっと鳥肌が立ったのを覚えています」とパンフレットに書かれている。

田中氏が、何を参照されたのかわからないが、たとえばWikipediaにはこんな記述がある:
Marvin is a male given name, derived from the Welsh name Mervyn, an Anglicized form of Merfyn. The name Merfyn contains the Old Welsh elements mer, probably meaning "marrow", and myn, meaning "eminent".

あるいは“Meaning of the Name”というサイトのMarvinの項目では、こんな記述も:
Marvin is a Welsh name in origin, predominantly used in English and German. It is derived from the Welsh name 'Merfyn', composed of the words 'mer', which means 'marrow', and 'myn', which means 'eminent or great'.

ここでいう骨髄とは、解剖学的な意味での骨髄ではなく精神的な意味での「精髄」とか「大黒柱」という意味だろう。ベッシーが父親Marvinを介護しているこの家(あるいは舞台)の後景にあるのはMarvinという大黒柱がいる部屋なのだ。この満足に言葉も発せられない痴呆症になった老父が、ベッシーの生を支えている大黒柱とは、いったいどういう意味なのだろう。

どういう意味とは、どういう意味なのか。そもそもそれはそのままの意味でしかない。介護生活とは、寝たきりの病人がその中心軸にある。そしてその病人を介護することで介護人たちの人生と生活が決定される。寝たきりの病人は、介護生活の中心、王様もしくは女王様、精髄の心髄であり、介護する者たちの人生に君臨し、彼らの人生を棒にふらせる。しかし、この棺桶に片足をつっこんでいる病人は、介護人に多大の犠牲や奉仕を強いるだけではない。介護する者たちに生の意味と愛の対象を与えるのだ。

介護はつらいし耐えられない。介護する者は自分の人生を棒に振る。しかも見返りなどないのだ。実際、この作品で20年父親の介護をつづけているベッシーにとって、父親はもはや彼女の存在すら認知できない頭脳状態にあって、感謝の言葉も期待できないというか感謝しているのかどうかもわからない。しかしそれでも、あるいはだからこそ愛せるのである。

ベッシーは、妹のリーに、自分の人生は恵まれていたという。寝たきりの父や伯母から信頼され愛されたからかと妹はいうが、ベッシーは、そうではなく、ふたりをほんとうに愛することができたからという。自分には愛する人たちがいたからだという。この愛はいっぽう通行である。見返りなどない。絶対にないからこそ愛せるのである。これは片思いということではない。たとえば重度の障害を抱えた子の親は、親のことさえ認知できず、当然、感謝すらしてもらえない子のことがいとおしくてたまらないという。見返りなどないからこそ愛せるのである。これは、障碍者は介護する者に害をなすだけで殺してもかまわないという邪悪な犯罪者には絶対にわからないことである(そもそも平気で多くの人を殺せる者に人間的感情を求めても、また基本的な理解力を求めても無駄なのだが)。まただからといって介護の困難さを軽減する社会的努力をやめてはいけないこと、それが介護人への報酬を忘れてよいという理由にはならないことは強調しておかねばならない。

おそらくこうした無償の愛が可能なのは、愛の対象が家族だからであろう。家族以外の者にそれを感ずることはむつかしいかもしれない。もちろん家族の定義を広げ、疑似家族的関係を含めるときには愛の対象は広がるとしても。これが家族愛の不思議であり神秘である。それは最も脆弱で最も無力なもの最も無意味なものが家族において――良い意味でも悪い意味でも――中心軸になることを、この作品はあらためて私たちに思いたらせることに成功している。



この劇のなかに、劇全体の主題を暗示するようなベッシーのセリフがある。あたかも中心紋のように、劇中のなかから劇全体を照射するようなエピソードが語られる。
【「中心紋」は「紋中紋」ともいい、Wikipediaの次の簡潔な定義を参照のこと。紋中紋(もんちゅうもん)は、主に芸術作品において、あるモティーフ(または主題)の中に、同じようなモティーフが入れ子構造で入っている表現・手法をいう。フランス語ミザンナビーム(Mise en abyme. 「底知れぬ深みに置くこと=入れ子状態に置くこと」といった意)の訳語。】
ここでは中心紋がベッシーの語る経験を通して語られる。妹のリーから、好きになった人はいなかったのかと聞かれたベッシーは、実は、移動遊園地の観覧車係の男性が好きだったと語る。その男性は笑い方が特徴で、大口をあけて笑うのだが、声がでていなかったというのだ。ただ、その恋は悲劇的結末を迎える。移動遊園地の家族とかスタッフでピクニックに出かけたとき、その男性が川に入っておどけて見せた。その男性は大きな口をあけて笑っているようにみえた。だが、実は溺れかかっていたのだが、誰もが笑っているものと思い、助けようともしなかった。そしてその男性は溺れて死んだというのである。

死にかかっている。あるいは必死で助けを求めているのに、笑っているように、幸せそうに思われてしまう。道化師の悲哀といえばそれまでだが、この劇の主題を集約しているのではないか。

実際、主人公のベッシーは溺れかかっている。彼女が介護している父親や世話をしている伯母には、もう先がない。余命いくばくもない。痛みをとるための装置をつけているという伯母のルースにしても、そのような装置、あるいは鎮痛薬というのは、病気を治すのではない、はかない延命装置にすぎない。そして介護をするベッシーは白血病にかかり、骨髄移植の適合者を身内には見つけられないのである(実際、気の合う甥のハンクが適合者ではないかと期待させるように劇は作られているのだが、そのような甘い期待を劇は最後には打ち砕く)。ベッシーは死にかかっている。いや、父親のマーヴィンも、伯母のルースにも、そして介護するベッシーにも確実に死が迫っている。彼らは、とりわけベッシーは溺れかっている。彼女が愛し、溺れ死んだ男性と同じく、ベッシーも溺れかかり死にかかっている。

笑っている人間は、助けを求めて叫んでいることもあろう。彼らは絶望のあまり泣き叫んでいるかもしれない。だがその絶叫も慟哭も聞こえない私たちは、笑い顔しかみえないために、幸福な恵まれた人生と生活を想像するしかない。このなんという真昼の闇。陽気に生きようとする主人公の、底知れぬ絶望と救いのなさに、私たちは言葉を失うほかはない。そしてそのときの私たちの顔は、声を出さずに笑っているように見えるのかもしれないのだ。
posted by ohashi at 13:10| 演劇 | 更新情報をチェックする

2024年05月23日

女性版ハムレット

『ハムレットQ1』上演関連
女性版ハムレット

女性版ハムレット 図像.docx

↑女性版ハムレットについて、参考になる図版のファイル。
図版の通し番号はp.9からp.10まで。
5月22日のQ1とQ1以外の版本との内容比較のファイルがp.5からp.8であったが、そのつづき。

図版説明.docx
↑図像説明のファイルも用意した。



posted by ohashi at 23:49| 演劇 | 更新情報をチェックする

『ハムレットQ1』つづき

『ハムレットQ1』が『ハムレット』のQ1版の日本初演をうたうだけでも特筆すべきことなのだが、それだけでは物足りないとばかり、主役のハムレットを女性が演ずるという女性版ハムレットを打ち出した。

女性版ハムレットのこの試みは、今回の舞台をみるかぎり成功したといえる。なにしろ、美しさとりりしさを兼ね備えた男前の吉田羊は、そのたたずまいからして美青年の貴公子というか高貴な王子そのものであり、その強烈な存在感は、舞台で観る前から、ポスターとかチラシでも衝撃的だったし、実際に舞台でみると、近くからでも遠くからでも、その容姿には圧倒される。そして完成度の高いというか完成された演技によって、これはもう『ハムレットQ1』という劣化版でも廉価版でもない『ハムレット』そのものの上演である。

かつてはQ1は、劣化版とみなされて「粗悪な四折版」(Bad Quarto)とも呼ばれていたのだが、現在ではこの名称は使われず、『ハムレット』Q2あるいはF1といった現行の『ハムレット』の定本ともいえる版の再編集版もしくは原型といわれていて、もし再編集版なら廉価版として作られたと考えられている。廉価版だから悪いということにはならない。またそれは漫画のアニメ版とか劇場実写版との関係にもなぞらえることができる。あるいは、もし原型ならQ2とかF1との比較によって、進化の痕をたどることもできるし、進化ではなくオルターナティヴな版としてみることもできるが、いずれにしても劣化版とはいえない。

ただしBad Quartoという過去の名称は決して理由のないことではない。とくにQ1のセリフは単純であったり簡略すぎたり説明的で情緒的でなかったりと、Q2やF1に比べると見劣りする(聞き劣りする)ところがある。ただ誤解のないようにいえば、Q1のセリフはQ2やF1よりもわかりにくいとか未熟だとかいうことではない。むしろわかりやすすぎるセリフのほうが多い。Q2やF1のほうが圧倒的にセリフはわかりにくく、ギクシャクしている。そのためQ1は出来の悪い劣化版というのではなく、むしろ完成しすぎて深みがないという意味での「劣化版」なのだ。たんにQ1が下手なセリフと下手な台本だというのならいいのだが、通常ならよくまとまった作品で、ただQ2とかF1のような複雑怪奇でわかりにくい作品と比べると、そのわからなさという点で劣っているという、やっかいない存在なのである。

このやっかいさは日本語の翻訳では再現不可能である。むしろ日本語の翻訳の場合、Q1の完成度――まあ「良さ」といってもいいのだが――なら、うまく表現できる。Q1の見劣り(聞き劣り)を日本語の翻訳では表現できないために、Q1を完成した作品として示すことができる。Q1の再現には失敗するしかないが、それによってQ1のよさを、評価されるべき独自性を適切に再現できるという逆説が生ずる。そのため、今回の『ハムレットQ1』は、Q1の欠陥の再現には失敗しているが、それゆえにQ1の良さや独自性を際立たせることには成功している。だからこそ、Q1の良さをみるには、翻訳版の上演にまさるものはない。

翻訳のパラドックスがここにある。翻訳は、どうしても原典よりもわかりやすくなる。そもそも『ハムレット』は、わかりにくくてめんどくさい作品である。とくにその台詞。たとえば有名なTo be or not to beの独白からして議論が噴出している。この曖昧なあるいは抽象的な表現は、ハムレット自身が生きるか死ぬかを問題にしているだけではない。親の仇のクローディアスを生かしておくべきか殺すべきかという意味も含んでいる(またそれ以外にもさまざまな意味を含む)。となると「生きるべきか死ぬべきか」というのは誤訳ではないが問題の一面しかとらえていない劣化版翻訳である。とにかく、翻訳では、意味の単純化、簡易化、平明化は避けられないから、翻訳はいかにすぐれた翻訳といえでも原文の劣化版であり、それに満足するしかない。翻訳のほうは、わかりやすくなる。翻訳とはQ1づくりなのである。

女性版『ハムレット』の場合は、このことは関係ない。どのような翻訳劇も、女性版をつくることと同じだとは言えないのだから。森新太郎と吉田羊は、俳優が全員女性という『ジュリアス・シーザー』を上演しているのだが、コロナ禍で引きこもっていた私はそれを観ることはできなかった。ただ全員女性という上演と、ハムレットだけ女性という上演では意味がちがってくる。今回、『ハムレット』の宝塚版を上演したわけではないのだから。

ただそうであっても、今回の『ハムレットQ1』は、宝塚の男役のもつオーラ(女性しかだせない、男性の美しさとりりしさ)をそのまま舞台に移入し再現しようとした観がある。実際『ハムレットQ1』では、旅芸人たちは、全員女性が演じていた(女性が演じなければいけないという必然性はない)。そして劇中劇の場面(どのような『ハムレット』でも演出家がさまざまな趣向を試みる)では、イタリアのコメディア・デ・ラルテ風の衣装と意匠を、宝塚のミュージカルのように仕上げていた――楽曲のメロディーや歌い方などまさに宝塚(あるいはそのパロディかパスティーシュ)であった。吉田羊もどのような宝塚の男役にも見劣りしないオーラを発散していた。おそらくこのあたりが『ハムレットQ1』のねらいどころだったのだろうと私は推測した。もちろんその試みは成功していたことを急いで付け加えておかねばならないが。

『ハムレット』上演史において女性版ハムレットは長い伝統がある。サラ・ベルナールが舞台で上演しまた映画でも演ずることなった女性版ハムレットは、ハムレットという人物のなかに女性とむすびつく何かがあるにちがいないのだが、そのなにかについては、議論あるいは解釈はいろいろあるにしても、それも近似値にすぎないのは、そもそも正解はないのか、あるいは私自身が、いまだ正解にぶつかっていないのかのいずれかである。

【狂人のふりをするようになってからのハムレットのセリフは謎めいたものが多い。そのためハムレットは、文学史上のモナ・リザとかスフィンクスのようだともいわれてきたが、モナ・リザもスフィンクスもともに女性である。またデンマークの王子なのだが、父親が死んだあとその王位を叔父に奪われ、未来の後継者として飼い殺し状態になっているため、その抑圧性が父権制において抑圧されている女性と似ているともいわれる。しかし舞台での女性版ハムレットは、女の謎の体現者でもないし束縛され身動きもできない不自由な身でもない。からめてではあっても攻撃的な人間だし、その立場とか性格とか文化的機能といった面だけで女性性を認定するのにはむりがある。】

今回の『ハムレットQ1』には、女性版ハムレットについての何かヒントが得られるのではないかとかなり期待したが、私にかぎっていえば、多くのヒントは得られなかった。もちろんだからといって上演が失敗だったというのでは断じてない。女性版ハムレットについてのなんらかの見解を示すのではなく、女性版ハムレットを上演するのが、今回の公演の目的であって、それをどのように考察するかは観客の手にゆだねられる。俳優や演出家の責任ではないのだから。

これは上演そのものとは関係のないことだが、上演パンフレットには、松岡和子氏と森新太郎氏との対談(それ自体、きわめて示唆に富む有益な対談ではあるのだが)、そして小田島恒志氏のエッセイ(ちなみに小田島恒志氏は、彩の国さいたま劇術劇場での吉田鋼太郎演出の『ハムレット』のプログラムにもエッセイを寄稿している)でも、女性版ハムレットについてのつっこんだ考察あるいは紹介はなかった。執筆者がいないのか?とはいえ女性とハムレットについて書ける人、考察している研究者はいるはずなので、というかいるので、どうして執筆を依頼しなかったのか不思議でならない。もし誰かが女性版ハムレットについて短くてもよいので考察を展開していたら、それが決定版であればその啓示を私は感謝しつつ受け入れたことだろうし、もし決定版ではなくても、なんらかの有益なヒントは絶対にもらえたはずなのだから。

とはいえ今回の上演から私はひとつのヒントをもらったことも確かである。ハムレットがその復讐物語でそのような機能なり役割を担うかではなく、ハムレットが舞台で劇場でどのようなオーラを、その両性具有的な、あるいはトランスジェンダー的な魅力を放つかという点で考えれば、そこにハムレットという人物のもつなんとも言い難い、異色の、あるいは彼岸的な、超人的=超男性的なエイリアン性をみずにはいられなくなる。ハムレットはこの劇において、ある意味、異星人である。いいかえればこの劇において、男性世界のなかにまじった、男性としてパッシングしているトランスジェンダーの女性/男性である。

英国の俳優デイヴィッド・テナントの『ハムレット』は観ていないのだが(おそらく映像化されているだろうから、観ていない私は怠慢であることの責めを負うしかないが)、テナントは、2013年にシェイクスピアの『リチャード二世』を主役として演じて、その舞台を録画したものが全世界の映画館で公開された(ストラットフォード・アポン・エイヴォンのスウォン座の舞台だったと思うが、私はそれを日本の映画館で観た)。その舞台では登場人物(映像化にあたってはどの人物の顔もアップになる)は男性であれ女性であれ、みんな顔がいかつくて、中世イングランドの宮廷の王侯貴族というよりも、邪悪な犯罪者一家、悪魔と魔女の集団、スラム街の悪の巣窟の住人たちにしかみえず、もし私が現実にこうしたいかつい顔の男女に囲まれたら、たぶん怖くて泣いていただろうと思ったのだが、そのなかにあって優男の二枚目であるデイヴィッド・テナントだけは、その端正な顔立ちで異彩を放っていた。そう彼だけが、犯罪者にみえない高貴な人間にみえた。『リチャード二世』がそうした芝居なのかどうかは意見の分かれるところだろうが、少なくとも映画館でみたその舞台ではリチャードだけが「掃き溜めに鶴」のような異彩を放っていたことを思い出した。

つまり『ハムレット』とは、もしかしたらそうした芝居なのではないか。当時ハムレットを演じたであろうリチャード・バーベッジには出来の悪い肖像画しか残っていなくて、それをみると中年のくそおやじでしかなく、劇団の主役俳優としてのオーラは皆無なのだが、しかしハムレットを演じた頃は、誰もが圧倒される美青年であったにちがいない。シェイクスピアを含め同性愛者の集団でもあった劇団のなかでトップになるためには腕力よりも美しさが絶対的な条件だった。そして劇中で演出家・劇作家のごとく演技指導するハムレットの姿にはトップ俳優のリチャード・バーベッジの姿が重なる。

とはいえ今回の『ハムレットQ1』が「掃き溜めに鶴」のような演出なり舞台であったということはない。吉田羊のハムレットのりりしさと美しさは際立っていたが、同時に吉田栄作のクローディアスもかっこよすぎて、これからもまだまだ主役をはれる俳優であることを実感したのだが、ハムレットとクローディアス、吉田羊と吉田栄作、このW吉田の競演こそが『ハムレットQ1』の醍醐味であり見どころであるようにみえた。

いっぽうで「掃き溜めに鶴」的な女性的だが同時に男性的な異質の存在であるハムレットをめぐる、ある種、エロティックなファンタジーが舞台を包む。またいっぽうで、甥(ハムレット)と叔父(クローディアス)との対立が、それも男同士の対立であるとともに男女(W吉田)の対立があるのだが、この対立は、対立に名を借りた愛でもあり、そうなるとジェンダーの境界が侵犯され、幻惑的なジェンダー攪乱の渦中に若きハムレットが屹立することになる。そこには、異性愛とも同性愛ともつかないクィア的な時空間が立ち上がる。私たちが観客としてみるのは、クィア性発生の瞬間である。

だが、このクィア時空間の立ち上げによって抑圧とはいかなくとも隅に追いやられた要素がある。それも『ハムレットQ1』ならではの特徴が。

光文社文庫版の安西徹雄訳の『ハムレットQ1』を読むとわかるのだが、翻訳者も解説者(小林章夫氏と河合祥一郎氏)もガートルードが、他のQ2やF2に比べ、Q1では格段に重要になっていることを指摘している。実際、かつて『ハムレットQ1』で卒論を書いた私の学生も、私が誘導したわけではないのに、ガートルードの重要性をQ1から読み取っていた。そうこれは誰もでも気づくことだが、Q1以外の版ではガートルードは、クローディアスが先王ハムレット(ハムレットの父でガートルードの夫)を殺害しとまでは知らないというか、ハムレットによって聞かされていない。しかしQ1でハムレットはクローディアスが父の仇であることをはっきり言うし、ガートルードもハムレットに全面的協力することを誓う。そしてガートルードもハムレットと同様に自分を偽ってクローディアスに接することになる。

フランコ・ゼッフィレリ監督の映画『ハムレット』は、主役のメル・ギブソンから連想されるようなマッチョなハムレットではなく、むしろ母親を愛する、それも近親相姦的に母親を愛するマザコン・ハムレットを提示した点で特筆すべきものだった。この映画のなかでは、グレン・クローズ演ずるガートルードが女王として、まさにディーヴァのごとく宮廷に君臨する。クローディアスもポローニアスも、いや宮廷人全員がガートルードを欲望し、ガートルードの前にひれ伏してしまう。ああ、ディーヴァ! もし「掃き溜めに鶴」がハムレットだとしたら、それをさらにしのぐ鶴が、このディーヴァであった。

このゼッフィレリ版『ハムレット』のポスターでは、ハムレットを中心に、むかって右隣りにはグレン・クローズのガートルードが、そしてむかって左隣にはヘレナ・ボナム・カーター演ずるオフィーリアがいる。ハムレットとガートルードとオフィーリア、この三角関係が劇中における愛を左右することになり、クローディアスとかポローニアスは、この三人の外側に位置する脇役にすぎない。

『ハムレットQ1』のポスターとかチラシは、これと同じような構図をとっていて、センターは吉田羊のハムレット、そしてその両隣を……。右隣がクローディアスを演ずる吉田栄作。そして左隣がオフィーリアを演ずる飯豊まりえ(私が舞台を観たときには知らなかったのだがすでに結婚していたとは!)。つまりクローディアスとオフィーリアとハムレットは、三角関係にはならない。ならばガートルードを演ずる広岡由里子はどこにいるかというと、むかって右端。完全に端役にすぎない。この扱いの違いは何だろう。

ゼッフィレリの映画との比較ではない。Q1と比較したときの話である。今回の演出では、Q1では大きな存在であったガートルードが、『ハムレットQ1』では卑小な存在になってしまった。これは俳優のせいではない。演出のせいである。演出がW吉田の闘争を主軸におくあまり、ガートルードとの関係性を夾雑物かのように扱ったとしか思われない。吉田鋼太郎演出・柿澤隼人主演の『ハムレット』(さいたま芸術劇場)では、ハムレットとガートルードの寝室場面を予告編入りで強調していたのだが(予告編とは何かと思われた方は、吉田版(三度目の吉田)『ハムレット』に足を運んでいただければわかる)、『ハムレットQ1』ではその意義が大きくそがれてしまう。なぜならハムレットからクローディアスの犯行を聞き、ハムレットに協力することを約束するガートルードであったが、ハムレット退場後に入れ替わりやってきたクローディアスを遠ざけるどころか、いとおしそうにその腕に抱きつき、従順な妻にもどってしまうのだから。長身の吉田栄作と小柄な広岡由里子は、夫婦というよりも、国王と王妃というよりも、仲の良い親娘のようにしかみえない。ガートルードは、頭のおかしいハムレットに調子をあわせて復讐に協力することを約束しながら、クローディアスの前では元の従順な妻にもどるのだ。そこに葛藤はまったくない。

息子に責められ、説得されて、自分の元夫の弟であり今の夫クローディアスに嫌悪感をいだき、ハムレットに協力して、ハムレットの復讐を成就させる(最後にはハムレットを守るべく毒杯をあおって自己犠牲をもいとわない)ドラマを低俗なメロドラマと演出の森新太郎氏は考えたのだろうか。

あるいは女性版ハムレットにしたことで、ハムレットとガートルードの関係は強度が弱まるとでも考えたのだろうか。
ハムレット⇔ガートルード
息子    母親  (異性愛的:フロイト的解釈ではマザコン)
主役俳優  少年俳優(同性愛的:俳優と少年俳優、伯父/叔父と甥 いずれも同性愛関係を強く連想させる)

これが女性版ハムレットとなると
ハムレット ⇔ ガートルード
息子      母親    (愛憎関係:ハムレットのミソジニー)
女性(娘)   女性(母親)(同性愛的:葛藤あるいは和解・連帯)

こう考えたとき、女性版ハムレットで生ずる母娘関係への暗示が演出家によって嫌われたということかもしれない。『ハムレット』/ハムレットほど、女性のことを悪くいう作品/人物はない。もし女性版ハムレットなら、娘から母親にむけられた女性への呪詛には、救いがない。女性の自己否定のスパイラルに陥るばかりで、そこには救済も解放も和解もなにもない。致死的・自虐的な自己否定しかない。だが母娘関係は、映画『哀れなるものたち』における究極のそれのように、あるいは最近出版されたアンソロジー『母娘短編小説集』利根川真紀編 (平凡社ライブラリー2024)にあるように、開拓され創造さるべき豊かな関係性を秘めている。

『ハムレットQ1』における、ガートルードの扱いの小ささについては、その理由は最終的にはっきとはしないのだが、落胆したことは確かである。おそらく今回の『ハムレットQ1』の公演に対する唯一の落胆。そして凡百の演出家とは異なり、シェイクスピア劇についても、クィア演劇についても優れた洞察を示してくれる演出家についての唯一の落胆である。

【ただしもうひとつ落胆ではないが、なにか違和感が残ったのは、吉田羊のハムレットは狂気を装うときに、なんといってよいかわからないが、声を裏返して茶化すような、おちょくるような話し方をする。もし突然、そんな話し方をするようになった人が身近にいたら、困惑しつつも、人を小ばかにしているのかと怒りを感ずるのだろうが、しかし、それを狂気のなせるわざとは思わない。あくまでもそれは軽率な茶化すような話し方であって、狂気の発作的言説ではない。なるほどそれは、ハムレットが周囲の人間にどう対処しているかについては、わかりやすい仕掛けであるが、同時に、ほかにも選択肢があったような気がする。あくまでも個人の感想にすぎないが。】

もちろん、だからといって、森新太郎氏の洞察の尋常ではない鋭さについての確信がゆらぐことはまったくない。たとえば『ハムレットQ1』では、吉田羊のハムレットは時々歌をうたう。Q2とかF1でもそうなのだが、ハムレットの韻文のセリフのなかには、当時の小唄のような、あるいは歌曲の歌詞のようなものがあって、おそらくそれは舞台では歌われたと推測されている。これは異様なことである。私が学生の頃、ハムレットが歌をうたうことを取り上げていた丸谷才一の論文を読んで驚いたことを思い出す。そもそも悲劇の主人公は歌をうたわない。オセローが、マクベスが歌をうたっただろうか。リア王が歌をうたったような気がするのは(実際には歌っていない)、リア王が狂気に陥るからであるが、歌と狂気はむすびついている。狂ったオフィーリアは歌をうたう。さらにいえばハムレットは狂人のふりをしていないときに歌をうたう(たとえば劇中劇が終わったあと、一瞬にひとりになったときのハムレットのセリフは、歌の歌詞であろうという説がある)。歌うハムレットは、ハムレットの不思議さのひとつである。そしてそれを演出の森新太郎氏はわかっている。歌うハムレットを舞台に実現させたのだから。
posted by ohashi at 23:37| 演劇 | 更新情報をチェックする

2024年05月22日

Q1との比較

Hamlet Q1 比較.docx

このファイルは、Q1と定本(Q2, F1)との対照表である。

ページが5~8まであるのは、このファイルがある機会に私が配布した資料の一部であるため。

使用したテクストは光文社文庫(安西徹雄訳)とちくま文庫(松岡和子訳)である。
観劇の際に参考にしていただければと思う。
posted by ohashi at 02:09| 演劇 | 更新情報をチェックする

『ハムレットQ1』

渋谷のパルコ劇場で上演中のシェイクスピア『ハムレットQ1』は、この作品の日本での上演史上画期的な出来事であるといって過言ではない。

第一に、それは現存する『ハムレット』の三つの版本のうち、Q2(第二・四折版)とF1(第一・二折版)(どちらも作品の定本としての資格を有し、またQ2とF1を合わせて定本とするのがふつうだった)に比べ、その半分とまではいかないが、三分の二くらいの長さしかない、短いQ1を上演するからである。観客にとってこれほど貴重な体験はまたとないだろう。なにしろ私たち観客は、従来にない作品像を舞台で目の当たりにできるのだから。

これだけでもじゅうぶん野心的な上演なのだが、それでもまだ足りないかのように、主人公ハムレットを女性(吉田羊)が演ずるという、さらなる驚きの試みが待っている。この2点において今回の『ハムレットQ1』は、興味のつきない刺激的なパフォーマンスとなる。

ただし残念ながら、日本語による翻訳劇という条件ゆえに、この野心的試みは限界に逢着することもまた事実なのだ。『ハムレットQ1』 安西徹雄訳(光文社古典新訳文庫, 2010)をみていただくとわかるのだが(それにしてもQ1を文庫本で読めるというのはすばらしいことである。そして松岡さんのご翻訳も早く文庫本で読みたいと思う)、安西訳は韻文の部分を行替えせずに散文訳にしているために、ただでさえ短いQ1が、かなり薄い本になっているのだが、Q1の特徴はただ短いというだけではない。劇の流れも、Q1とF1と異なるのだが、セリフや言葉遣いも違う。

Q1を、“Bad Quarto”と昔は呼んでいたのだが、理由なきことではない。言葉遣いが単純で、詩的な美しさや陰影に乏しく、また重要なセリフもQ1では短いだけでなく要約的であったり簡略化されているところがあって、定本となるQ2版もしくはF1版もしくはQ2とF1のミックス版とは比べ物にならないくらいレベルが低い。そのぶんわかりやすいという利点もあるのだが、このQ1については、劇団員(幹部クラスではない)が記憶を頼りに復元した台本を『ハムレット』人気にあやかって急遽出版したものという説が長らくまかりとおってきた。繰り返すが、そう考えるのも理由のなきことではない。たとえ現在では、この説は否定されているとはいえ。

つまりQ1は『ハムレット』(Q2かF1かQ2+F1)の劣化版もしくは廉価版というイメージが強い。だが、翻訳劇では、このイメージは示しにくい。なにしろ翻訳者に下手に翻訳せよと求めることになるからだ。今回は松岡和子氏の翻訳なのだが、その台詞は、わかりやくすまた耳に心地よく、とにかく歯切れのよい台詞であって、完成度の高い翻訳となっている。りっぱな翻訳である。劣化版とか廉価版のイメージはどこにもない。光文社文庫の安西徹雄訳も、りっぱな翻訳で、劣化版とか廉価版のイメージはない。そもそも優秀な翻訳者に下手な翻訳を求めることはできないのだ。

しかし、Q1のセリフの特異性の再現には失敗しているのだが、舞台そのものは、完成型の日本語表現の見事な台詞を俳優に語らせるという充実したパフォーマンスを実現することには成功している。もしこれがQ1のぎくしゃくした未熟な台詞の真に迫る再現であったらなら、『ハムレット』の劣化版を観に来たのではないと観客が怒りを爆発させてもおかしくないものとなっていただろう。

【ちなみに私は松岡訳、安西訳をうわまわる翻訳などできないが、それを下回る翻訳は自信をもってできるが、そんな翻訳を誰が読んだり聞いたりしたがるのだろう。ただそれ以上にやっかいで怖いのは、私がいくらひどい翻訳をしても、それを--俳優はセリフ回し、抑揚その他の発声技術そしてセリフに呼応するかセリフを際立たせる所作を通して--自然な美しい台詞と観客に思わせてしまうことができて、私の翻訳のひどさが目立たなくなるということだ。】

ではQ1らしさは、セリフではなく舞台構成にあるということになる。たとえば有名なTo be or not to be...の独白は、現行の定本では、「言葉、言葉、言葉」というハムレットとポローニアスのやりとりの後に置かれているが、Q1では、「言葉、言葉、言葉」の前に置かれている。実際、話の流れとしてはQ1のほうがすっきりしている。現行版では展開がぎくしゃくしているのも事実である。

ただたとえQ1を上演するものではないとしても、To be or not to be...の独白を、「言葉、言葉、言葉」の前にもってくる演出もないわけではない。さらにいうと、どのような『ハムレット』の上演でも、定本のセリフを省略せずに使うと、3時間どころか4時間くらいになったりするため、セリフの省略はどうしてもやむをえない。また実際の『ハムレット』の上演の際には、セリフの大幅なカットとか場面と展開の変更や修正を行なうことによって、たとえ『ハムレットQ1』の上演でないとしても、『ハムレットQ1』と同じような上演時間と内容になっている公演はふつうに存在する。

そのため『ハムレットQ1』の舞台を観る私たちは、Q1の特殊性とか、すでに述べた劣化性とか廉価版性を体験しようとしても、通常の『ハムレット』上演とそんなにかわらない舞台を観ることになる。

Q1の特異性を、セリフではなく上演形態とか劇的展開の面で舞台に載せようとしても失敗するしかない、あるいは不可能だということなのだが、これはけなしているのではない。むしろ誉め言葉である。私たちが『ハムレットQ1』の舞台で観たのは、立派な、何一つ遜色のない『ハムレット』の舞台そのものであって、『ハムレット』の魅力、面白さ、あるいは謎を、充分に堪能できる。そうこれは誰にも勧めることができる『ハムレット』の舞台である。Q1であることは、そんなに気にしなくてもよい。Q1らしさ――劣化性とか廉価性――を出そうとしても限界がある。だがその限界は、『ハムレットQ1』 を『ハムレット』のあまたある公演のひとつに格上げするといってもよい。繰り返そう、これは誰にでも観てほしい『ハムレット』である。 つづく
posted by ohashi at 01:59| 演劇 | 更新情報をチェックする

2024年05月20日

二部構成とシェイクスピア劇

シェイクスピア劇のテクストは幕(Act)と場(Scene)に区切られている(「場」は演劇台本一般では、昔は、あるいはいまも、「景」と表記することもある)。「場」はどこで区切られているかはわかる。シェイクスピア劇の場合、舞台に誰もいなくなったら、そこが場面の終わりである。最近の演出では、前の場面が終わっていないうちに次の場面の人物が登場したりすることも多いが、それでも場面の終わりとはじまりはわかる。

では「幕」は、どうやってわかるのか。そもそもシェイクスピアの時代の劇場に昇降させたり引いたり開けたりする幕などないから、どこが幕の終わりか、劇場内に、これは第二幕ですというような表示でもしないかぎり観客にはわからない。そもそも幕と日本語に訳されているのは英語ではActである。

ただギリシア・ローマの古典劇ではActの切れ目は観客にわかる仕掛けになっていた。それは舞台に誰もいなくなったときが幕の終わりであった。古典劇は幕と場に別れている。では場はどうやって区別したのか。それは舞台上の人物の増減によって場を区切ったのである。すでに登場していた人物が減れば、それが場の終わりになる(ただし全員退場したら幕の終わりになる)。また新たに人物が登場するとき、それが新しい場となる。したがって古典劇の場合、幕と場は明確に区別できた。

実際、シェイクスピアの時代にも、この古典劇の「幕Act」と「場Scene」の切り分けで書かれた作品もあったが(代表的なのがシェイクスピアの同時代人であるベン・ジョンソンによる戯曲)、シェイクスピアは、この方式を採用せず、場面の終わりごとに舞台上から人物を全員退場させる方式にした。したがってシェイクスピア劇にかぎっては、「幕」の概念はない。繰り返すが、観客は、どこが「幕」の終わりか判断する材料はなかったのだから。

したがってシェイクスピアは場面中心の劇作家である(“Scenic Playwright”と呼んだりする)。とはいえ現行のシェイクスピア劇のテクストは「幕Act」と「場Scene」に別れているのはどうしてかと疑問に思われるかもしれないが、これは後世になって付け加えたのである。勝手にといえばそれまでだが、一応、古典劇の構成にのっとって幕と場面に分けた。だから、それはシェイクスピアのあずかり知らぬおところであり、観客にとってもどうでもいいことである。

といえ古典劇の「幕」(基本は5幕形式)と「場」という形式をシェイクスピア劇に当てはめると、なんとなくうまく当てはまったということも事実であり、シェイクスピアは無意識のうちに古典劇の5幕形式で芝居を書いていたともいえる。

さらにいえばすでに述べたように、シェイクスピアと同時代の演劇作品にも5幕形式の古典劇形式で書かれたものもあったので、古典劇形式についてシェイクスピアならびに同時代の劇作家が無知であったということもなく、たとえ5幕形式に従わずとも、それを意識していたことは充分に考えられる。

あと、住所の番地表記の場合、住戸の通し番号だけだったら、たとえば東京都678900番という表記は、場所がどこかイメージしにくい。また探すのもたいへんである。東京都千代田区~2丁目3番地といった表記のほうがわかりやすく探しやすい。「2幕4場」という表記はたとえ後世における付加だとしても便利であることも事実である。

現代のシェイクスピア劇の場合、ふつう途中で1回休憩を入れるから、観客には前半と後半という区切りがわかる。現代のシェイクスピア劇は、いうなれば二幕構成で上演されるといってよい。劇場によっては時間配分表に前半を第一幕、後半を第二幕と表記しているところもある。もちろんどこで区切るかは演出家の判断によるが、ただ前半と後半の区切りは、原作の場面の区切りにあわせるのがふつうであろう。なんとかゴッドウィンという演出家が日本での『ハムレット』公演で行った愚かしい区切りのような例外はあるにしても(この件については2024年5月14日の記事で触れた)。

しかし前半と後半の区切りは、幕と場の区切りとは異なり、シェイクスピアの意図を無視しておこなわれているとは言い切れないところがある。つまりどこで区切ったかはわからないが、シェイクスピアの劇も、実際の上演には2幕構成つまり2部構成だった可能性はつとに指摘されているのである。

実際のところ、1回休憩があると、私のような頻尿の老人にはトイレに行くことができてありがたいのだが(とはいえシェイクスピア時代の上演時間は2時間(なお誰もが時計で時間を計っていた時代ではないので、実際には、2時間から2時間30分くらいだったろうが)でそれほど長い上演時間ではなかったのだが)、それはともかく、劇場物販は、劇団にとって昔も今も重要な収入源であった。そのため休憩時間は必要だったし、また劇作家のほうも、前半部と後半部との間の休憩を意識して劇の構成を考えたにちがいない。

2部構成について確認すべきは、それは長い一連の出来事を時間的に均等になるようにしていったん真ん中で分断したということではまったくないということだ。前半と後半という構成にするには(テレビドラマとか映画などの前編・後編を考えていただければいいが)、それぞれに完結性をもたせることが条件となる。たとえばシェイクスピアの二部作『ヘンリー四世』では、第一部において無頼の徒とつきあい父王ヘンリー四世を困られたハル王子は、戦いで父王の窮地を救い栄誉を勝ち得たのだが、ハル王子は第二部においても無頼の徒との付き合いをやめず評判を落としていて、第一部での活躍は何であったのかと疑問をもたずにはいられないのだが、第一部のパタンを第二部でも踏襲するからこそ、二部構成作品として成立するとみることができる。

では、一つの作品の場合はどうか。それが二部構成となるために、後半も前半のパタンを踏襲する必要がある。あるいは前半と後半がそれぞれ完結性をもつことが必要となる。そのためにもシェイクスピアは常に二度ベルを鳴らす。マクベスは、魔女と2回出会うことになる。ハムレットは先王の亡霊に、後半でも出会うことになる。あるいはよく言われていたシェイクスピア劇ではクライマックスが真ん中にくるという指摘も、そのクライマックスは、前半の終わりか後半のはじまりとみることができる。

たとえばハムレットの場合、国王をはじめ宮廷人が一堂に会して劇中劇をみるという大掛かりな場面が劇の中ほどに設けられているのだが、これは前半の終わりを示す締めくくりの場面か、国王の犯行を確信したハムレットがいよいよ復讐に走る後半部のはじまりの場面か、そこは解釈がわかれるところと思われるが、二部構成が意図されていることは推測できる。

先ほどふれたマクベスの場合も、魔女から予言をもらったマクベスは、予言通りに事をすすめたマクベスは、さらなる予言を求めて魔女に会いにでかける。マクベスの二度目の魔女との出会いは、前半の締めくくりとも、後半のはじまりとも、どちらともいえるのだが、その前後に休憩を入れることで、作品を二部構成に近づけているといえよう。

またシェイクスピア劇の二部構成については、『冬物語』が一つの典型例となる。劇は前半と後半の間に16年が経過する。後半の初めに、「時Time」という口上役が砂時計をもって登場し16年後の世界へと観客を導入する。「時」は、二部構成の後半のプロローグの役を果たしているのだが、このような構成は、一回休憩時間があることによって、さらに効果の強度を上げることができるだろう。

シェイクスピア劇の場合、真ん中に休憩を入れるという現代の上演方式は、奇しくも、当時の上演方法と合致していたのである。

【なお、どこが前半・後半の切れ目かというと、第3幕までが前半、第4幕と第5幕が後半というように考えられているが、ただ「幕Act」は後世の後付けであるために、シェイクスピア劇において現行の第4幕が後半のはじまりとして意図されているかどうかは確定できない。】
posted by ohashi at 14:24| 演劇 | 更新情報をチェックする

2024年05月19日

合わせ鏡としての二作品1

何が合わせ鏡なのかと問われると、まともな答えができないのだが、鏡と鏡をあわせることで互いに相手を映し出すことで、互いにその性格、それも照らしあうことでしかみえてこない性格があらわになるという、ゆるい定義でお許し願いたい。

演劇公演の場では、同種のあるいは連作になる作品を同時にあるいは交互に公演することで、いま述べたような相乗効果とか、ときには異化効果をもたらすことができるため、2作品(あるいはそれ以上の作品)を、合わせ鏡的に上演することはよくある。

昨年の10月から11月にかけて新国立劇場中劇場で上演されたシェイクスピアの『終わりよければすべてよし』と『尺には尺を』は、成立時期も同じで内容にも共通点がある二作品の上演であった。パンフレットも1冊で2作品をカバーすることで、1作品あたり、通常の公演の半分の価格ですむことになった。一作品しか見ないとパンフレットを購入するとなると割高なのだが、2作品をみると割安になる。2作品を見ることを最初から想定しているのである。

あるいはこれも5月に公演は終わったのだが、フロリアン・ゼレールの『父』『母』『息子』の三部作の内、『母』と『息子』の同時上演も合わせ鏡的な上演だった。たとえば東京芸術劇場のシアター・ウェストで『母』を午後に上演し、その日の夜にシアター・イーストで『息子』を上演するという方式をとった。いっそのこと同じ時間帯に上演してもよかったのだが、それは2作品とも同じ俳優による上演なので、不可能であった。

ゼレールの『母』と『息子』が顕著なのだが、同じ俳優が演じ、また登場人物名も同じなのだが、しかし同じ家族の物語ではない。『息子』では息子の両親は離婚して父親は再婚しているのだが、『母』では息子の両親は離婚していない(離婚の危機にはあるが)。ならば『母』は離婚前の物語、『息子』は離婚後の物語かというと、そうでもなく、『母』は精神を病んで入院中だが、『息子』では離婚した母親は特に精神を病んではいない。名前は同じでも、同じ物語の世界線上にふたつの作品は位置していない。まただからこそ、連続性ではなくて、相似性のほうが際立ち、そこに差異と同一性を立ち上げる合わせ鏡的効果を期待することができた。

シェイクスピアの『終わりよければすべてよし』と『尺には尺を』の同時上演は、同じ俳優による、同じ舞台装置によって――つまり両作品で同じ舞台空間と舞台デザインを共有していた――合わせ鏡的効果をねらっていたと言えるのだが、しかし、同じ舞台装置を共有しながらも、両作品は、類似性よりも差異性のほうが目立つのであって、合わせ鏡的上演にする必然性は希薄であったように思う。両作品に共通しているのはベッドトリックという趣向であって、それ以外に物語上の類似点はないとはいえないのだが、少ないことは確か。

ただし『終わりよければすべてよし』と『尺には尺を』という、あまり上演されることのない二つのシェイクスピア作品を翻訳劇として日本でみることができるたのは実にすばらしいことであって、二作品上演の意義はどれほど強調しても強調したりないのだが、ただ二作品の合わせ鏡的効果はない。なお、この二作品上演については、別に機会を設けて語る予定。

今回はシェイクスピア作品のなかでかなり性格の異なる作品が実は同じような構造をもっていて、合わせ鏡的に照らしあっていることを考えたい。それは『ハムレット』『オセロ』である。

どこでとは言わないが、シェイクスピア劇についての私の講演で、もっとも評判が悪く、あきれかえられて反響さえ呼ばなかった講演(そんなのはいっぱいあるだろうと言われそうだが、そのなかでも特に)が、シェイクスピアのいわゆる四大悲劇が同じ構造をしているという個人的知見を述べたものだった。最悪の講演とも言われたのだが、私自身は、その内容と洞察には、かなり自信をもっていたのだが。

『ハムレット』と『オセロ』に限らず、シェイクスピア劇は最初に、シェイクスピアが座付き作者でもあった劇団によって上演された。したがって作者も劇団員に当て書きした可能性もある。『ハムレット』で主役を演じた俳優は『オセロ』でも主役を演じた――とはならないところから、この両作品の、これまで気づかれなかった差異と類似がみえてくる。

ハムレットを演じたる俳優が『オセロ』でオセロを演じたかどうか疑わしい。というのもハムレットはヴィテンベルク大学生であり、のちの墓堀の場では30歳くらいと想定されるのだが、オセロは、妻となるデズデモーナの父親ブラバンショウと同世代で友人でもあったのだから、50代か60代である。おそらく20歳代のハムレットを自然なかたちで演ずることができた俳優(推定で20~30歳代)でも、オセロを演ずるのは無理がある。

ただしこの考察あるいは推察は、証拠なり証言に基づくものではないので、これ以上すすめることはできるが、同時に、どうでもよいことである。ハムレットを演じた主役俳優が、イアーゴを演じたかどうかは基本的にどうでもよい。重要なのは、『ハムレット』におけるハムレットは、『オセロー』においてはイアーゴであるということである。

この観点は、『ハムレット』も『オセロ』も、ともに不釣り合いな結婚、問題のある結婚に対する異議申し立てを主軸にしているということである。

両作品を対比させてみる。

ハムレット               イアーゴ
 母と叔父との結婚に反対している。    オセロとデズデモーナの結婚を妨害。
 20から30歳                28歳

クローディアス             オセロ
 ハムレットの叔父にして義父       イアーゴにとって父親ほどの年齢差
 ハムレットに殺される          イアーゴによって翻弄され自害

ガートルード              デズデモーナ
 ハムレットの母             問題のある結婚をする。
オフィーリア              エミリア
 ハムレットの恋人            イアーゴの妻
 二人の女性をハムレットは娼婦に譬える  二人の女性をオセロは娼婦に譬える
                    (イアーゴによるそそのかしによって)

先王ハムレット             
ハムレットの亡父

ポローニアス              ブラバンショウ
 クローディアスの側近          オセロの友人
 オフィーリアの父親           デズデモーナの父親。心痛で死去。
 ハムレットに殺される

ホレイショウ              ロデリーゴ
 ハムレットの友人            イアーゴの友人で金づる

旅芸人たち               キャシオとビアンカ(旅芸人はいない)
 ハムレットは劇作家・改作家・演出家   イアーゴは劇作家・演出家
 観客はクローディアスとガートルード   オセロにキャシオとビアンカをみせる

『ハムレット』においては、先王が謎の死をとげてから、ハムレットの母が、先王の弟でハムレットにとって叔父あたるクローディアスとすぐに(近親相姦的な)結婚したことで、彼の憂鬱がはじまるとみてよい。先王の亡霊から、クローディアスを父の仇と認識し、復讐を遂げる前に、気が狂ったふりをする(佯狂)のだが、しかし、それはクローディアスの目をあざむくというよりも、クローディアスと母の結婚への嫌がらせのようなところがある。

不適切な結婚への異議申し立てのために騒ぎを引き起こすこと、それはヨーロッパでは「シャリバリ」(イングランドでは「ラフ・ミュージック」などと呼ばれた)として知られる喧噪的祝祭を連想させる。実際、『ハムレット』は、結婚に異議を申し立てるハムレットの独りシャリバリといってもいいところがある。

『オセロ』においても、オセロとデズデモーナの結婚は、問題のある結婚である。ひとつにはそれは5月と12月の結婚。若き乙女のデズデモーナ(5月)が、父親と同年代のオセロと結婚すること。これはヨーロッパにおける典型的なシャリバリの発起理由である。しかも、それがムーア人(黒人かアラブ人)と白人女性との異人種結婚であることも問題となる。

『オセロ』では夜の騒乱が3度起こる。ひとつはヴェニスでデズデモーナとオセロが密会していた夜、イアーゴを通して密会について知ったデズデモーナの父ブラバンショーが一族郎党を連れて密会の宿に押しかけるときである。

もうひとつはキプロスでオセロとデズデモーナが再会した夜のこと。酒に弱いというか酒乱のキャシオが挑発されて騒ぎを起こすとき。眠りを妨げられたオセロは、傷害事件を起こしたキャシオを解任する。

最後は、妻デスデモーナの不貞を確信したオセロが寝室でデスデモーナを殺す夜、キプロスの街角ではイアーゴにそそのかされたロデリーゴがキャシオを襲ってケガをさせるが、ロデリーゴ自身、陰謀の発覚を恐れたイアーゴに刺殺される。

『オセロ』にはダブルタイムと呼ばれる時間線があって、それによれば、この悲劇は、キプロス島についてから翌日の夜の間に起る。ショートタイム枠組み。嫉妬に狂ったオセロはかっとなって翌日に妻を殺してしまう。短期間であるがゆえにリアリティがある。長い時間が経過したら嫉妬心も収まるのではないか。

しかしあれほど愛していた妻をいくら嫉妬に狂ったとはいえ再会してから翌日に殺すのは気が短すぎる。イアーゴのそそのかしがじわじわと効き始め、長い時間を経たのちに悲劇に突入するとみるほうが自然かもしれない。キャシオの恋人ビアンカは、キャシオを追ってヴェニスからキプロスへとやってくる。オセロがキプロス到着の翌日には、ビアンカはまだキプロスにやってきていない。

これともうひとつ--オセロとデズデモーナは肉体的に結ばれたのかどうかについても古来から議論が分かれている。

最初のヴェニスでの密会、結婚初夜では邪魔が入る。デズデモーナの父ブラバンショーが押し掛けてくる。ふたりは初夜を迎えられないまま、別々の船でキプロスを目指すことになる。

キプロスで再会したふたりは、その夜が初夜となるはずである。ところがキャシオが暴れ、初夜をむかえることができなくなる(実際、劇の進行のなかでも二人が初夜を迎えられなかったことが暗示される)。

そしてショートタイムで考えると、その翌日の夜、オセロとデズデモーナは晴れて初夜を迎えることになるが、嫉妬に狂った夫が妻を殺害する。外では傷害事件が起こっている。二人は初夜を迎えることができなかったのではないか。

二人の初夜を妨害した張本人はイアーゴである。オセロとデズデモーナが肉体的に結ばれるというその夜、騒ぎが起こり男たちの乱闘事件が起こる。それまさにオセロとデズデモーナ、5月と12月との、黒人と白人との肉体的結合の成就をいまわしきものとして妨害するシャリバリそのものではないか。『ハムレット』においてはハムレット自身の独りシャリバリだったが、『オセロ』においてはイアーゴのシャリバリはコミュニティ全体を巻き込み、おそらくは人種的偏見をも刺激するかたちで爆発する。

合わせ鏡というのは曖昧な比喩かもしれない。むしろ絨毯の裏と表、いや両面というべきか。どちらの面も同じ構図を共有している。しかし構図は同じでも色や織り方などがちがうために、別の模様であるかにみえる。それと同じで、『ハムレット』と『オセロ』は、まるで似ているところがない対照的な作品にみえるのだが、共通する人物や共通する主題なりアクションがあって、それを主軸にすると、これまでみえなかった作品の特徴がみえてくる。それが絨毯の裏と表を比較するときの醍醐味であろう。

たとえばハムレットは先王にいわれて母ガートルードを責めてはいけないと忠告される。なぜかははっきりわからない。『オセロ』において、イアーゴ(ハムレット)はデズデモーナは責めて/攻めてはいない。ハムレットは母親を近親相姦的に攻めるのだが、しかし、母親と結ばれることはないが、それでも激しく攻める。いっぽうイアーゴは、デズデモーナと結ばれる可能性はあるのだが、責めることもないし攻めない。あたかもデズデモーナが実の母親であるかのように。

そう両作品を突き合わせることで、イアーゴにとってデズデモーナが母親であるといえる。直観的ではないかもしれない。しかしデズデモーナは黒い聖母(Black Madonna)である可能性がある(これ以上の詳細は別の機会に)。

ハムレットとクローディアスは、甥と叔父の関係以上の深い関係がこれまで考察されてきた。フロイト的解釈では、ハムレットは母ガートルードを愛し、父(先王ハムレット)を憎んでいるというエディプス状態にある。そうであるがゆえに、父(先王ハムレット)を殺し、母と結婚したクローディアスは、ハムレットの欲望を体現した分身のような存在、もしくは隠されたハムレットの真の姿であり、それゆえに復讐できない。自分が憎んでいる相手を殺してくれた人間に、復讐するというのは理不尽であるからだ。

オセロとイアーゴの存在は、さらにねじれてくる。一般にイアーゴはオセロを人種差別的に憎んでいて、オセロを陥れようと画策する。だがイアーゴは、オセロを憎んでいない。いやむしろイアーゴはオセロに承認されたがっている。オセロに承認されないかぎり、イアーゴは憎しみをつのらせる。イアーゴの憎しみは、オセロの愛と信頼を勝ち得たときには消滅するだろう。イアーゴの憎しみはオセロへの愛の裏返しである。親の仇でもあったクローディアスとハムレットの間にひそかに情愛がはぐくまれていたのなら、人種偏見の対象たるオセロ、異人種であるオセロとイアーゴの間にも、愛があるのではないか。

イアーゴは、オセロに、デズデモーナとキャシオとの間に不倫関係があることをにおわせる。オセロはそれによって妻デズデモーナを憎み、キャシオへの復讐のパートナーとしてイアーゴを選ぶのである。二人はデズデモーナとキャシオへの復讐のパートナーとなるべく誓いを立てる。このときオセロとイアーゴは跪いて誓いをたてる。それはまさに夫婦の誓いと同じ姿勢と手続きである。オセロとイアーゴは夫婦になる。

これに相当する場面が『ハムレット』にあるかというと、みあたらない。だが、『ハムレット』においてクローディアスが跪いて祈るシーンがある。祈るクローディアスをみて、ハムレットはその後ろにたって復讐の刃を振り下ろそうとする。ハムレットは思いとどまるのだが、跪いて祈る男(父親的)と、そこに居合わす息子(ハムレット/イアーゴ)の構図は両作品で似ている。オセロとイアーゴの場合は疑似結婚だった――二人は復讐のパートナーとなった。ならばクローディアスとハムレットも、そこにあるのは復讐のきっかけを失ったハムレットの失敗というよりも、クローディアスを殺すことのできないハムレットのクローディアス愛ではなかったのだろうか。『ハムレット』におけるこの場面は、愛と欲望が交錯する予想外に複雑な場面ともいえるのである。

ハムレットの友人はホレイショウであった。ハムレットのライヴァルはレアティーズであった。イアーゴの友人はロデリーゴであった(ただし金ずるとしていいようにあしらわれているロデリーゴはホレイショウのパロディのようなところがある)。キャシオはオセロの覚えもめでたく側近であり副官として仕えている(実際、エリートのキャリア組であるキャシオは、キプロスにおけるオセロの後任に指定されているくらいだ)。オセロの寵愛を受けているキャシオは、イアーゴのライヴァルである。ちょうどレアティーズが国王クローディアスの寵愛を受けて、留学先のフランスに戻ることをすぐに許されるのに対し、ハムレットは留学先に戻ることは許されない。ハムレットがレアティーズに対して抱くある種の妬みは、イアーゴがキャシオに対して抱く妬みと同質のものがある。

--など、など、さらに考察をつづけることができるのだが、今回は、この程度で終えておく。ただ、いえることは二つの作品が同じような構造を共有していることを認識すると、そこからこれまで気づかれなかったこと、あるいは気づかれていても意味が判然としなかったことが、浮かび上がってくる。合わせ鏡の化学反応は、二つの作品(鏡)の中間領域に隠れた真実をホログラムのように立ち上げるのである。
posted by ohashi at 00:27| 演劇 | 更新情報をチェックする

2024年05月18日

『ミッシング』

吉田恵輔監督の本作は、主演の石原さとみの前評判の高い鬼気迫る演技で観る者を圧倒しつつ、同監督の『空白』(21)と同様、家族を失った親の苦悩と救済を扱った繊細だが骨太の映画となっている。苦しむ母親とその心情のある時は怒りのあまりの激しいく揺れ動き、そしてある時は絶望と諦念のはての無気力を、丁寧に扱う繊細な映画であるが、同時に骨太であるというのは、幼い娘が行不明となった夫婦の境遇とそれを取材するメディアの歩道姿勢ならびにネットにおける悪意ある反応という現代社会の問題を鋭く提起しているからである。

石原さとみの鬼気迫る演技が、この映画の主軸となるだろうが、しかし同時に、絶望の果てになにがあるのかを考えさせられる作品であって、こう語っても問題ないと思うのだが、行方不明になった幼い娘は最後まで行方不明のままである。途中で、娘が保護されかもしれないという情報が示されたり、娘らしき少女が目撃されたりして、最後に娘と母親が再会するような可能性を垣間見せるのだが、観ている側は、これがハッピーエンディングになったら濃密なドラマが台無しになると心配する――大丈夫、ハッピーエンディングにはならいので、これから観る人は安心してください。

『空白』の最後に、チンピラ風の男が元スーパーの店長のところに歩み寄って、邪悪なからかいをするのではないかと思うと、閉店したスーパーの「焼き鳥弁当」が大好きで、スーパーがなくなったことへの残念な気持ちと、その弁当を作ってくれていたことのお礼を語る……。そこで私は涙が止まらなくなった。まあ監督のここで泣かせようという戦略にみごとに嵌ったといえばそれまでだが、『空白』のその場面がもたらす思いがけない涙は、映画の物語の流れからすると必然であったことに思い当たるのだが、『空白』はともかく、今回の『ミッシング』においても、最後に、泣かせる場面が用意されている(ハッピーエンディングではないけれども)。そしてその場面に来て、この映画で扱う事件がなんであったかもみえてくる。

娘が行方不明となった両親が人通りの多い、駅前でビラ配りをしているところからはじまる映画では、母親役の石原さとみが、不安と焦り、怒りと悲しみのあまり、狂気に境を接するような暴発的発作的八つ当たりをする手負いの危険な獣となって、周囲を怖がらせ怯えさせ孤立してゆく。この孤立――娘がいなくなったことで起きる孤立は、彼女と夫との仲に亀裂をいれ、ふがいない弟とは絶縁状態となり、職場においても彼女を孤立させてゆく。また娘の失踪の当日、彼女は人気アイドルグループのライブに行っていたこともあり、自責の念から自分自身を許せないくなり、自分自身とも疎遠になる。そしてそれに追い打ちをかけるように、ネット上での誹謗中傷が彼女を襲う。

虚偽情報を流して彼女を翻弄させることを面白がっているネット民の悪辣さは、この映画の脚本によるフィクションといって安心できないほどのリアリティがある。ネット民の無責任な書き込みは、彼女を社会と敵対させることにもなる。そしてそこに地方テレビ局の、中立的事実の報道をうたいながらも、視聴率を意識した報道が、視聴者を彼女への批判的姿勢へと誘導することになってしまう*。彼女にとって、自分自身も含めて、身内が、社会が、すべて敵、敵しかいなくなる。

【*メディアとネットの問題は『空白』でも取り上げられていたが、いま現在、メディアはネット民の得意技である被害者へのバッシングに加担するようなところがある。メディアが権力の番人であることから逃走するようになってから久しいのだが、いまや権力の番人であるどころか、もうみずからが権力そのものになってしまった。権力におもねったり、権力に忖度するのではない。いまやメディアは独自路線で誹謗中傷や捏造に積極的に参加しているのだ、もちろんメディアの在り方に疑問を呈するテレビ局記者を登場させることによって、メディアは、まだ悪魔に魂を売ったわけではないことを監督は強調しているのかもしれない。】

だが娘の失踪後2年たち、失踪事件も忘れられ報道されることもなくったとき、別の事件が起こり、彼女もそれに便乗して自分の娘の捜索と調査が行われるように画策するのだが、幸い、事件は解決する。ただし彼女の娘は依然行方不明のままである。だが、この事件によって娘を探す彼女のもとに、新たな支援者たちがあらわれる。かつて冷たくあしらった職場の同僚も彼女の支援にやってくる。印刷所の主人もビラを増刷して代金をサービスしてくれる……。

かつて彼女を孤立させることになった娘の失踪は、いま、失踪後2年もたち、娘を発見する見込みが限りなく遠のいている現在、その娘の不在を通して、新しい人間関係が生まれてくる。絶縁していた弟とも和解する。娘は帰ってこない。おそらく殺されているか、あるいは生きていてももう二度と帰ってくることはないかもしれない。しかし娘の不在によって、彼女は一度は社会からの孤立を味わったのだが、しかし、一度は断ち切られた社会との絆がいままたつながりはじめようとしている。

娘は帰ってこない。だがその絶望のなかで社会が形成されようとしている。悲しみと怒りと絶望のなかで社会が、ネット社会のような虚像でしかない悪意の共同体ではなく、真に善意の共同体として立ち上がろうとしている。この共同体は絶望を癒すものではないし絶望を解消するものではないが、しかし絶望があるがゆえに、はじめて社会的絆に対する気づきが、自然発生的な共同体が生起するのである。

それが、そう、涙を誘うどんな出来事だったのかは、映画の最後にどうか注目してほしいと思う。映画館で。
posted by ohashi at 01:23| 映画 | 更新情報をチェックする

2024年05月14日

『ハムレット』

彩の国さいたま芸術劇場リニューアルオープン&開館30周年を記念し、吉田鋼太郎芸術監督による新シリーズ「彩の国シェイクスピア・シリーズ2nd」が始動。その第一作として、シェイクスピア『ハムレット』が上演中。5月26日まで、さいたま芸術劇場。その後、仙台、名古屋、北九州、大阪とまわる。

さいたま芸術劇場は、『ヘンリー八世』の再演以来で久しぶりなのだが、客席に座ると座席との間に余裕がある。以前、さいたま芸術劇場で観劇した際に、いっしょに観た人で劇場に足を運ぶことが少ない人が、新しい劇場でもこんなに狭いのかと驚いたのが印象的だった。その時私は、宝塚劇場はもっと狭いと話したことを覚えている。かつて(昭和の頃だが)、映画館よりも劇場のほうがりっぱな座席だったのだが、いまでは映画館のほうが座席がよくなっている。そのため映画館を基準にすると劇場の席のならびと前後席の狭さが際立つ。実際、劇場の狭さは、その人にとってトラウマになったようだったが、今回座ってみると広いとはいえないが、思ったより狭くない。狭いという印象はなんだったのかと不思議に思ったが、ふと気が付いた、いや勘違いかもしれないが、改装したあとだ、座席のレイアウトも変更したのかもしれない……。



それはともかく吉田鋼太郎演出、柿澤勇人の主演の『ハムレット』は、開幕から歩哨たちの緊迫したやりとりと時を置かずして登場する幽霊とその退場という、おなじみの『ハムレット』の冒頭が、速度感を伴って進行し、ハムレットが登場する次の場面によどみなくつながってゆく。

舞台は黒を基調とした質素だが威圧感があるという重厚な空間を出現させ、一昔前の軍服というか軍装を貴重とした衣装は、戦争を準備している軍事国家の空気を余すところなく伝えると同時古典的な威厳を与えることにも成功している。

ネットとか当日劇場に掲示してあったであろう上演時間と休憩時間などについての情報を気に留めることなく観ていたので、上演の迫力とスピード感に圧倒されて、そろそろ休憩が入るのかなと予想しつつも、このまま最後まで突っ走ってしまえと思うほどの、つまり上演を中断してほしくないと思えるほどの充足感に満たされていたことは事実である。

上演時間についても何の予備知識もなく観ていたのだが、午後2時から午後5時30分過ぎに上演が終わったとき、長いと思ったのだが、同時に、長さを感じさせない上演であったことを痛感した。スタンディング・オベーションのなか、久しぶりに、本格的な『ハムレット』を観たという充実感を超えた感動を覚えていた。通俗的な表現というのを覚悟のうえでいえばこの『ハムレット』は、「令和のシェイクスピアのスタンダード上演」として記憶されるにふさわしいものだった。

実際、吉田鋼太郎芸術監督による「彩の国シェイクスピア・シリーズ2nd」は、日本のシェイクスピア上演それも大劇場における公演において、超えるどころか模倣するのもむつかしい峻厳なモデルとしてとどまり続けるだろう。

もちろん蜷川幸雄演出のシェイクスピア劇を意識しているところもある。客席から舞台へとつづく通路を利用するのは、さいたま芸術劇場ならではの演出ではないかもしれないが、同時に、シェイクスピア劇では必ずといっていいほど行なわれる演出であって、今回も劇中劇の場で、ハムレットの義父と母親は、ほんとうに客席のなかの王座で舞台上映をみるという、ある意味、斬新な演出だった。また劇中劇ではなく、劇そのものの最後に天井から花が降ってくる。蜷川シェイクスピアへのオマージュであるかのように。



ここで終えていいのだが、いくつか個人的感想を。

ひとつは、これは蜷川時代の悪い癖が残っているとしかいいようがないのだが、台詞が聞き取りづらいことがある。これは俳優の誰がとかいうことではなく、また最初から最後まで聞き取りにくいということではなく、部分的に誰がということでもないのだが、聞き取りづらいところがある。実際、蜷川シェイクスピアは海外での公演が多かったからかもしれないのだが、台詞が本当に聞きづらい公演というのがあった。

蜷川シェイクスピアの舞台はDVDにもなっているのだが、それを何度も視聴した経験からすると、さいたま劇術劇場は、音響設備が悪いのか俳優のセリフ回しが悪いのかセリフが聞こえないどころか、セリフとして認識できないこともあった。私はこれは悪癖だと思う。この癖は受け継がないでほしいと思う。

また今回の上演の成功は吉田演出にあるだけでなく、柿澤勇人ハムレットの魅力によるところも多いだろう。以前、池袋の東京芸術劇場プレイハウスで内野聖陽のハムレットを観たことがあるが、内野のセリフ回しは実にうまく、これほどみごとに美しく朗誦されしかも説得力もある独白があったであろうかと思えるほどの、私にとっては奇跡的ともいえるパフォーマンスだったが、もちろんこれは意図的なものだろうが、内野聖陽ハムレットは、若い貴公子ではなく、おっさんハムレットだった。

これに対して柿澤ハムレットは、もうそのたたずまいからして若きハムレット(Young Hamlet)そのものである。もちろん今回の『ハムレット』は確実に柿澤勇人氏の代表作のひとつになることはまちがいのないと思うのだが、またそれにみあった熱演であることは誰も否定できないと思うのだが、セリフ回しについては緩急と強弱をつけている。ハムレット本人の台詞もそうだが、他の登場人物のセリフも興奮してくると絶叫調になる。現実にはそんな大声を出すようなシチュエーションではなくても、あるいは現実には悲しみをこらえるようなシチュエーションでも、人物たちは絶叫する。だがこれは大劇場ならではの特徴で、そうでもしなければ情動的展開を実現できない。と同時に絶叫する人物たちに対し、ハムレットは独白の際にはささやき声になる。

ささやき声というのは声量は少ないものの、音波としてよく伝わるものであって、ささやき声の内緒話は、それをさえぎる音源が近くにないかぎり、けっこうよく伝わる。病院に見舞いに行った者たちが、早く元気になれよと患者に別れを告げたあと、廊下で、ささやき声で、もう長くないらしいと話すと、それはたぶん患者に伝わっている。だからささやき声は伝わる。ささやき声のセリフが悪いというわけではないし、緩急をつける、あるいはささやき声によってハムレットの人物像を際立たせる試みは評価できるが、ただ、聞こえるか聞こえないかの限界でのセリフは客席にいる者にとってはかなり苦痛である。マイクでささやき声をひろって劇場内のスピーカーで流すような、ささやき声をささやき声のまま増幅させる仕掛けがあってもよかったのではないか。

なお日本語訳については今回は小田島雄志訳を使っている。旧シリーズとの差異化を図ってのことだろうが、松岡和子訳よりも先に存在していた小田島訳を使うのは先祖返りかということになるのだが、理由はわからない。

ただ言えることは今回、舞台でのセリフを聞くと、やはりその言葉遊びの部分が、あらためて強烈なインパクトをともなって響いてくる。当時というか小田島雄志訳のシェイクスピア劇が評判になっていたころ、そのダジャレというか言葉遊びが話題になっていたのだが、私が当時読ませていただいたときには、むしろそうした言葉遊び以外のところで、実にきちんとした、しかも美しい日本語になっていて、なぜそこを評価しないのかと不思議に思ったことがある(まあ、りっぱな訳文になっていることは触れるまでもないこととしてスルーされたのだろうとも当時思ったのだが)。

実際、私はシェイクスピア劇の日本語訳は、気づく限り全部読んでいて、当然、小田島訳でも全作品を読んでいるのだが、言葉遊びが印象的だったということはない。繰り返すが、その訳文は、舞台で発せられるセリフとしても、また原文の解釈の結果としても、どちらとしても日本語の言語表現の極致ともいってよいものであったし、その思いは今も変わらない。

また今にして思えば、言葉遊びが話題になったのは、実は『ハムレット』の翻訳を対象にしたものだったとわかる。実際、今回の小田島訳のセリフを聞くと、はっきり聞き分けられる言葉遊びの部分は、ハムレットの性格とか、あるいはその狂気の戦略などと、実によくシンクロしている。言葉の裏の裏、その端正な言葉遣いと猥雑な意味の共存、言語のアクロバティクな使用――『ハムレット』における身体とはなにをおいてもまず言語であることを実感させてくれるものは、小田島訳をおいてほかにないともいえるのではないだろうか。



柿澤勇人に対しては、まちがいなく魅力的なハムレット像を私たちに提示してくれるだろうと思い、期待はあったが同時に安心していた。レアティーズの渡部豪太、ポローニアス役の正名僕蔵、ハムレットの母・ガートルード役の高橋ひとみのベテラン勢についても予想通りの熱演で安心したのだが、ただハムレットの恋人・オフィーリア役の北香那については、どんなオフィーリアになるのかこれはほんとうに期待した。

オフィーリアのポイントは発狂してからである。オフィーリアを演ずる者には、紋切り型というかステレオタイプの狂人については忘れ、独自の独創的なオフィーリアになることを求められるのだろうと思うが、面倒なのは、ステレオタイプの狂人を捨てると、下手をするとただの情緒不安定な若い女の子にしかみえなくなることだ。喜劇的にならないような、ステレオタイプへの依存という微妙なバランスを、オフィーリアを演ずる者は求められると思うのだが、これは達成するのがとてもむつかしい。北香哉は、この難題をよくこなしていると思うのだが、それでもオフィーリアに対する恐怖と憐憫は、さらに強度を高める余地が残されていると思う。

とはいえ私は個人的には北香那のファンである。先ほど内野聖陽に触れたが、その主演作『春画先生』での北香哉を私は観ているし、さらにいえば彼女が主演声優だったアニメ映画『ペンギン・ハイウェイ』だって私は観ている(主演声優は蒼井優ではないかと思うかもしれないが、北香哉は男の子の役)。今週公開の『湖の女たち』にも出演している。これからも北香哉の私はファンである。



2019年にサイモン・ゴドウィン演出、岡田将生主演の『ハムレット』では、劇の前半と後半の区切りとなるのが、祈るクローディアスを見かけたハムレットが背後に立ち、剣をふりあげ、これからいよいよ復讐のために殺すのかというところであった。そこで暗転となって前半が終わる。もちろん原作では、そこが場面の区切りではない。観客がそこでハムレットが復讐をとげるのかどうか、ハラハラするとでもゴドウィンは本気で考えたのだろうか。仮に原作を知らない観客がいても、そこでハムレットがクローディアスを殺したら話が終わってしまって先がつづかない。ほぼまちがいなく、そこでハムレットは殺さないだろうと予想する。だから変にサスペンスを盛り上げるような終わり方は、観客をバカにしているとしか思えない――このクソ演出家のサイモン・ゴドウィンは。

サイモン・ゴドウィンをクソ演出家と当時思ったのは(今でもその思いは変わらないが。またその演出をほめているイギリスとか日本の関係者もクソだと思っているのだが)、その『ハムレット』は、私の好きな岡田将生の熱演にもかかわらず、舞台装置がひどすぎたからである。デンマークのエルシノア城が、城というよりも、デンマークの漁村の漁業組合の集会場とか公民館を思わせるようなものになっていて、『ハムレット』の世界線が、ここまで壊れてしまうものなのかとあきれ返ったし、ドラマも、漁労長のいかがわしい悪事が最後に暴かれるというようなものとなっていて、それ以外のものになりようもなく、せっかくの俳優たちの熱演が無駄に終わったような気がしたことは今も記憶に新しい。

今回、吉田演出の『ハムレット』では、ハムレットが母ガートルードの寝室を訪れるところで終わった--なにか不穏な感じを漂わせて。原作は、ここで切れてない。そもそもこれからハムレットとガートルードの対決がはじまるというのに、その直前で切るということは意味がない。これはあの思いだすだけでもむかついてくるサイモン・ゴドウィンのバカ演出に吉田鋼太郎ともあろうものが影響を受けたのだろうかと、いまいましい思いを抱きながら休憩中にトイレの前に並んだのだが、後半がはじまると、ガートルードの寝室にハムレットがやってくるところがもう一度舞台で示されることになった。後半は、前半のつづきではなく、寝室の場面をもう一度最初から示すことになった。前半部最後の不穏な終わり方は、寝室の場面の予告編のようなものだったとわかり(まあコマーシャルのあとの場面で、コマーシャル前の場面を繰り返すテレビドラマの手法といえばそれまでだが)、サイモン・ゴドウィン化してはいないことがわかり安心した。



最後に。シェイクスピアの『ハムレット』とはどういう芝居なのか。またそれを日本語で上演すればどうなるのか、それを知りたければ絶対に観るべき、また見る価値があるのが、今回のさいたま芸術劇場の『ハムレット』であった。
posted by ohashi at 02:00| 演劇 | 更新情報をチェックする

2024年05月06日

四塩化一黄酸

5月5日(日)に京都駅でみつかった不審物に「四塩化一黄酸」と書かれていて危険な化学物質かと大騒ぎになったとのだが、「四塩化一黄酸」という化学物質は存在しないこと、「四塩化一黄酸」というのはヨットチーム名にしてヨットの艇名であることが判明。チームのメンバーの忘れ物であり、悪気はなかったことが立証されたとのこと。

で、この「四塩化一黄酸」がチーム名にせよ艇名にせよ、チームに関係のある言葉に漢字をあてたものらしいということをネットで知った私は、それならチームのスローガンか、地名か、人名だろうと思った。最後の「酸」が「~さん」ならば、これは人名だろうと私は考えた。

その後のネット記事で、「四塩化一黄酸」は、メンバーの1人か、メンバーにゆかりのある人なのか、はっきりしなかったが、宇治市の医療法人完岡医院の医院長「完岡市雄」さんのことだという。ちなみに私が参照した記事には京都市とあって、宇治市ではなかったので、宇治市の完岡市雄さんとは別人かもしれないのだが。

京都方面ではよくある名前かどうかわからないのだが、「ししおか」と読む「完岡」という姓を、私は知らなかった。また「市雄」という名前も珍しい。

この「完岡市雄さん」(ししおか・いちおさん)に「四塩化一黄酸」の漢字をあたてたということだが、なにか無理やり感が否めない。もとになった名前が珍しすぎる。「四塩化一黄酸」にあうような、もとの名前をむりやりでっちあげたようにしかみえない(実際はその逆だとしても)。

なぜなら「四塩化一黄酸」は、べつの読み方というかべつの元の名字を推測できるからだ。たとえば「よしおかかずおさん」=「四よ・塩化しおか・一かず・黄お・酸さん」と。

強いて漢字をあてれば、吉岡一雄さん、吉岡和夫でも吉岡和雄で吉岡一男でも、漢字はいろいろな可能性があるのだが(さらにいえば、ほかの読み方もあるだろうが)、とにかく、こちらのほうが自然な名前ではないだろうか。「よしおかかずお」ではなく、「ししおかいちお」!? 名前がおかしすぎないか。

まあ、嘘とかなんらかの作為あるいは陰謀でないことを祈るばかりだが。
posted by ohashi at 23:16| コメント | 更新情報をチェックする

2024年05月05日

マルハラ

マルハラが話題になっている。Wikipediaのマルハラの項は、不完全な記事だが、以下のようになっている(注などは省略)。
概要
2024年1月28日放送のAbemaTVの番組、『ABEMA的ニュースショー』で一部ネットで話題になっている現象があるとしてマルハラ(当時は名前がなく番組スタッフが命名)を紹介。放送後、Abema側がネット記事化し各ニュースサイトに配信すると、一気に広がり各メディアもマルハラという名称使用するようになったり、マルハラ特集が増えていった。 若い世代はLINEやXなどで短文を投稿する際に句点を省略することが多いため、句点を文末に付した文章が送られてきたり見かけたりした際に、「投稿者が怒っているように見える」という感覚を抱いたり、冷淡さや威圧感を感じたりするという。

この感覚には年代による差異があり、先述のように若い世代は抱きやすいが、中高年の世代は気に留めていないことが多い。一説には、句点を多用するメールの文体に慣れた中高年の人々がチャットでも同様の文体を使用するために、若い世代にとっては異質なチャットメッセージになってしまうとされている。

一方、筑波大学の岩崎拓也は、若い世代もメールやXでは句読点を普通に使っているとした上で、「マンガなどの吹き出しでは句読点が使われることが少なく、SNSのメッセージは吹き出しで表示されるため、句読点がない方が馴染むのではないか」「世代間ギャップの問題にすぎない」と述べている。また、若い世代が句点にネガティブな意味を持たせるのは同世代間のみであり、若者批判の印象操作とする意見もある。

英語圏でもすでに2020年には同じような指摘があった。【この最後の一文には注があり、以下の記事を紹介している: “Full stops can annoy Gen Z, warn linguists” (英語). The Daily Telegraph (2020年8月24日).】

あるいはこのような記事もあった。
若者が感じる「マルハラ」とは? 文末の句点「。」から威圧感を覚える理由を探る
益子 貴寛(ましこ たかひろ)Voista Media2024.03.14

みなさんは「マルハラ(マルハラスメント)」という言葉をご存知ですか?

LINEなどでのメッセージのやりとりで、主に若者が文末の句点「。」から圧力を感じることを「マルハラ」といい、最近話題となっています。あるアンケート調査では、若い女性の4割が句点に威圧感を覚えたことがあると回答したそうです。

以下、マルハラについて一緒に考えてみましょう。

マルハラはあくまで便宜上の言葉。
いわゆるハラスメントではない
パワハラ防止法(労働施策総合推進法)では、職場でのパワーハラスメントを「優越的な関係を背景にした言動で、業務上必要な範囲を超えたもので、労働者の就業環境が害されること」と定義しています。

厚生労働省が具体的に示している6類型は、

身体的な攻撃(暴行・傷害)
精神的な攻撃(脅迫・名誉毀損・侮辱・ひどい暴言)
人間関係からの切り離し(隔離・仲間外し・無視)
過大な要求(業務上明らかに不要なことや遂行不可能なことの強制・仕事の妨害)
過小な要求(業務上の合理性なく能力や経験とかけ離れた程度の低い仕事を命じること・仕事を与えないこと)
個の侵害(私的なことに過度に立ち入ること)
です。

マルハラは、これらのうちどれに該当するのでしょうか?

あえていえば「2. 精神的な攻撃」に該当する可能性がありそうですが、いずれにしても内容が問われるのであって、句点の有無がハラスメントの直接的な理由とはならないでしょう。

このように、マルハラはあくまで便宜上の言葉と考えておきましょう。

たしかに感じる句点「。」からの圧力
とはいえ、LINEなどのチャットで文末に句点を使う人は少数派といってよく、むしろ絵文字を入れたり、適度に感嘆符「!」を使ったりすることがほとんどです。このようなコミュニケーションに慣れている現代では、句点「。」から何かしらの圧力を感じる人がいるのは、無理からぬことです。【以下略】

また次のような記事も:
議論を呼んでいる『マルハラ』 俵万智の金言に胸打たれる 「素敵な言葉」「感動しました」By - grape編集部  公開:2024-02-08

2024年2月現在、SNSで議論を呼んでいる、『マルハラ』という言葉。

マルハラとは、『マルハラスメント』の略称で、中高年層が「はい」や「了解」などの言葉の最後に句点を付けて、若者にメールやメッセージアプリで送ることを指します。

送られてくる文章の文末に句点が付くことに対し、相手の感情が分からず、恐怖心を抱く若者が増えたことにより生まれた言葉のよう。

『マルハラ』という言葉が世間に知れ渡るとともに、「句点を多用するのは『おばさん構文』」とネット上で話題になり、複数のメディアが取り上げました。

俵万智の『金言』に絶賛の声
同月8日、短歌『サラダ記念日』で有名な、歌人の俵万智さんがX(Twitter)を更新。

マルハラや『おばさん構文』にまつわる話題を目にしていた、俵さんは、「そっと置いておきますね」と、自身が詠んだ一首を投稿しました。

「✕でなく、○で必ず終わる日本語」と、句点を指すような一首を詠んだのです。

きっと俵さんは、『マルハラ』と呼ぶほど、句点を恐れる若者に、恐怖の対象ではないことを優しい表現で伝えたかったのでしょう。

また、言葉のプロでもある俵さんは、この一首を通して、文章の文末に『。』を付ける美しさや、年齢と句点は関係がないことも伝えたかったのかもしれません。

『金言』とも呼べる、俵さんの心に響く一首に、絶賛と感動の声が寄せられています。
・『おじさん構文』『おばさん構文』と揶揄(やゆ)する文化。優しい世界になってほしい。
・最高です。日本語の優しさを伝えてくれて、ありがとうございます。
・句点が怖いと思う人たちに、ぜひ読んでほしい。
・言葉を生業にする人は違うなあ。感動しました。
・ギスギスした気持ちを解きほぐしてくれる、素敵な言葉…。

言葉の使い方は、時代によって変わりゆくもの。

手軽にやり取りができるメッセージアプリの普及によって、句点が除かれたやり取りが増えてはいるものの、美しい日本語で物事を表現する大切さは、どれだけ時が経っても変わらないはずです。

俵万智さんが歌で詠んだように、句点を『マル』だと思えば、苦手意識を克服できるかもしれませんね。[文・構成/grape編集部]

ただしgrape編集部のこの記事のなかで俵万智の歌の引用がおかしい。「✕でなく、○で必ず終わる日本語」というのは俳句(季語がないので川柳か)でもないし和歌でもない。いったい何なのだと疑問に思ったが、次の記事を参照。
「マルハラ」はNG?好かれる、嫌われるLINEの差
文章の最後に「。」をつけると怖いと感じる若者

高橋 暁子 : 成蹊大学客員教授/ITジャーナリスト 2024/02/20 9:30 東洋経済ONLINE

「文章の最後にマル(句点)をつけるだけで怖い」と言われてしまう話題の「マルハラ」ですが、大人世代は若者に合わせないといけないのでしょうか?」
「文章の最後にマル(句点)をつけるだけで怖いと言われるなんて。もう何を書いていいかわからない。マルハラって?」と困惑している人も多いのではないか。大人世代は、LINEの作法も若者世代に合わせなければならないのだろうか。併せて、LINEの使い方によって好かれたり嫌われたりする理由と対策までをご紹介したい。

俵万智さんも困惑、マルハラはいけないこと?
好まれるLINEの文章は、世代によって異なる。その顕著な違いが「マルハラ」だ。大人世代からマル(句点)のついた文章を送り若者に威圧感を感じさせてしまうことが、一部ではマルハラスメント、通称「マルハラ」と呼ばれている。

大人世代はLINEの文章でマルをつけるのが当たり前だが、若者世代は基本的に使わない。そして普段マルを見慣れないため、ついていると意味を見出してしまう。怖いとか冷たいと感じたり、威圧感を感じたりしてしまうのだ。

歌人の俵万智さんも、「句点を打つのも、おばさん構文と聞いて…」と、「優しさにひとつ気がつく ×でなく○で必ず終わる日本語」という句を発表している。当たり前のことをしていただけで怖がられてしまい、困惑した大人世代の気持ちを代弁したものだろう。

では、大人世代がLINEの文章に句読点や絵文字をつけるのはいけないことなのか。大人世代は、若者に合わせなければならないのだろうか。【以下略。】

「優しさにひとつ気がつく ×でなく○で必ず終わる日本語」これなら立派な和歌で、しかもうますぎる。「grape編集部」は和歌の一部を切り取って引用している。そんな無教養なバカが日本についての記事を書くな。

バカはともかくとして、「マルハラ」について疑問がある。LINEなどのチャットで、句句読点を使わない若者たちが、句読点、とりわけ「。」を使う年配者のチャットに違和感を覚えて、「おばさん構文」あるいは「おじさん構文」と揶揄するのは理解できる。

実際問題としてLINEやXでは短文というかフレーズでコミュニケーションするので句読点は必要ない。無理に句読点をつけると、その句読点自体に意味が生じてしまいコミュニケーションが阻害されてしまいかねない。句読点は余計者なのである。

だから句読点をつけるLINE上での吹き出しコメントを年寄りくさいとバカにしたり嫌うのは理解できるとして、それがなぜ威圧的に思えるのだろう。

威圧的だからこそマルハラという言葉が生まれたのだが、ほんとうに句読点の「。」を威圧的に感じているのか。少なくとも俵万智氏は「。」を威圧的どころか好ましいものと感じているところが嬉しい。俵氏は「。」を威圧的と感じていない。俵氏と同じ受け止め方をする人は多いだろう。また俵氏と同様に「。」を好ましいと感ずる人は、それほど多くないと思うが、物言わぬ句読点「。」についてはいろいろな感じ方があって当然である。一様な受け止め方、つまり一様に威圧的と感ずることには、なにか不自然なところがであり、そこには陰謀めいたものを感ずるのだ。

というのも文末の句読点(日本語では「。」)が威圧的というのは、発想がまったく英語だからである。言語表現の用例は無限にあるので、日本語の「。」が威圧的なかたちで使われる例があるかもしれないが、ただ、それは慣用ではない。ところが英語ではピリオド(.)は威圧的に使うのである。

Weblio辞書(英和辞典・和英辞典)はperiodの語義を以下のように説明している:
名詞:期間、時代、周期、終止符、月経
形容詞:ある時代の、月経の
間投詞:以上、終わり -

そう、periodには名詞の用法だけでなく、間投詞の用法がある。

以下Weblioが示す間投詞としての用法。
間投詞
以上、終わり
「period」が間投詞として使われる場合、話の終わりや強調して何かを終結させる際に用いる。具体的な例を以下に示す。
・例文
1. I am not going to discuss this matter any further, period.(この問題についてこれ以上話し合うことはない、以上。)
2. You're grounded for a week, period!(君は1週間外出禁止だ、終わり!)
3. No more excuses, period.(言い訳はもう聞きたくない、以上。)
4. We are done with the negotiations, period.(交渉は終了だ、以上。)
5. That's my final offer, period.(それが私の最終提案だ、終わり。)

私は、英語でperiodをこういう間投詞として使ったこともないし、また幸い、このようなことを英語で言われたことはないのだが、「もう黙れ、これでおしまい、これ以上なにもいうな」という意味で英語では、実際に‘Period’と声に出していう。

こういう間投詞としての「ピリオド」は威圧的・遮断的・排他的・抑圧的である。それは文章におけるピリオド(.)について慣習的に威圧的・抑圧的に感じているからこそ、音声でも「ピリオド」という間投詞的表現が生まれたのだろう。


日本語とは無縁の発想なのに、英語の発想に洗脳されて、句読点が威圧的あるいはパワハラそのものという感想を抱いてしまったとしたら……。「。」を威圧的と感ずるのは、それこそクズ・インフルエンサーに操られているとしか思われない。しっかりしないとZ世代はゾンビ世代になってしまうぞ。(マル)

posted by ohashi at 00:30| コメント | 更新情報をチェックする