『Le Fils 息子』(劇場版)と『The Son/息子』(映画版)を比べてみると、最後の方の展開は、映画版のほうが緊迫感と非哀感において優っているというか適切であると言わざるをえない。
銃声が聞こえ息子が自殺したのではないかと、観ている者にも衝撃が走る。そして暗転。数年後に、父親は訪ねてきた息子に再会する。どうも自殺未遂であったようだと観客は安心する――自殺したほうが自然で、未遂で終わったというのは作為的のようにも観客には思えるとしても。大学にも進学して社会人にもなったらしい息子には、高校時代(とはいえ学校には通っていなかったのだが)にはできなかった恋人ができ、おそらく結婚するであろうし、また高校時代から書いていて小説が認められて出版の運びとなったことを父親は知る。おまえは、ほんとうに自慢の息子だと感激する父親だったが、つぎの瞬間、息子は消える。すべては父親の幻想だった。息子を失った父親は、なぜもっと息子のことを注視してやらなかったのかと父親が泣き崩れるところで幕となる。
最後に父親が幻想をみるところの流れは、舞台よりも映画表現のほうが効果的であるように思われる。と同時に、この場面は、この作品のカギとなる要素を集約しているのだが、その前に、なぜ息子は生きづらいと感じ、人生が重荷なのかについて答えが三つあることを確認しておきたい。
明確な答えとしては、両親の離婚である。離婚によって母親が傷つき、みずからも傷ついた息子は、厭世的気分に呪縛されて人生を重荷としか感じられなくなる。学校に通うこともできず、両親を喜ばせる安心させる嘘をつくしかなく、それがばれたとき、もはや行き場を失って死を選択するしかなくなる。両親の離婚が子供をいかに傷つけるか――その重大さ、そのとりかえしのつかなさが悲劇の原因となっている。ただし、これは現実における深刻な問題であると同時に演劇的世界としてはわかりやすすぎる解答である。ただし、これを究極的な答えとして観客は劇場からもちかえってもよいように作られていることはまちがいなく、いうなれば、これは観客にあたえられたボーナス的お土産である。これでこの劇に一定の満足感がえられる。
第二の答えは、答えがないという答えである。たとえ両親の離婚が引き金となったとしても、ここまでの自傷行為に、そして自殺行為に、つながるものだろうか。出発点は離婚だとしても、そこから先は、自分自身でも原因を把握できない苦しみが増大することになる。もはや息子はなぜ人生を生きづらいと感ずるのか、そもそも何が不安であり恐怖であり生を忌避させるのかわからなくっている。
また父親のほうも、みずからの離婚と再婚とが息子の苦悩の原因だとはわかっていても、その苦しみを息子がいつか克服すると信じているし、事態を常に楽観視している。ある意味、それは父親としては望ましいことであって、鬱状態あるいは双極性障害の息子に同調してみずからも鬱状態になる父親よりは、息子を励まし息子の現実復帰を信じて疑わない父親のほうが、息子にとってよい親であるように思われる。
ただし離婚を機にとはいえ、離婚問題を超越した生への虚無感を募らせる息子に対していは父親はなすすべがない。息子もまた自身でかかえている不安がなんであるか把握できないまま、みずからの存在に空いたブラックホールに最後には飲み込まれてしまうように思われる。ある意味、息子のほうは父親が経験もしなければ見ようともしなかった、生の実存に向き合っているともいえる。そしてそれゆえに死を選択するかなくなっている。
そうなると、たとえどれほど力を尽くしても父親には、このブラックホールをかかえた息子を救うことはできない。そもそも息子そのものがブラックホールであって、父親もやがては息子を救えなかった罪の意識ゆえに自死するのではないかという暗示がないわけではない。
ただ、繰り返せば、離婚/再婚を機に、世界の不毛と生の残酷に向き合うことになり自殺願望を抱くようになる息子――ゼレールの『Le Père父』にはリア王の影があったとすれば、『Le Fils息子』にはたしかに『ハムレット』の影がある。親の世代の重圧に押しつぶされ、生と死の選択をせまられ、いつしか世界の虚妄性と生の実存へと行きつく若者の物語は、どうしても『ハムレット』に似てくるのである。
第三の答え。それは映画版のほうに顕著なのだが、水の物語である。劇場版『Le Fils息子』では、息子が子供の頃の楽しい思い出として親子三人でサファリに出かけたことが語られる。映画版で息子と妻との楽しい思い出として父親(ヒュー・ジャックマン)の脳裏に去来するのは、ギリシア(だと思ったが)の海での親子三人の楽しい思い出である。劇場版ではサファリが、映画版ではギリシアの海となっている。しかも息子と過ごした海の思い出は、何度も父親の脳裏に去来する――劇場版ではサファリへの言及は一度か二度しかないというのに。
となれば息子と水/海との関係のもつ象徴性はあきらかである。息子は意識しているかどうか定かではないが、同性愛的性向をもつ人間である。かりに強く意識しているわけではなく、ただうすうす同性愛的欲望を感じているだけだとしても、息子にとって、その人生は、すでにいつも死とメランコリーに彩られている。そしてその死の願望は、欲望が承認されない限り、誰にもとめることができない。
この作品で息子が自殺したあと父親がみる成長した息子の幻影には意味がある。そこには父親が望んだ息子の将来像が投影されている。息子がその文学的才能が認められて若い作家としてデビューするというのは、父親が勝手に思い描く他愛もない夢である。ただし、その夢には、息子が愛する女性とともにあるという、強制的異性愛が寄り添っている。息子の幸せな未来に、なぜガールフレンドが必要なのか――10代の息子はガールフレンドはいなかったし、ガールフレンドを欲しがってもいなかったというのに。息子は強制的異性愛の世界には生きていないというか、生きづらかった。だが、そのことを父親は最後まで理解できなかった。父親は最後まで強制的異性愛の観点からしか息子をみていない。息子の幸福な人生には男性ではなく女性のパートナーが必要であると思い込んでいる。そこに悲劇の根源がある。父親は息子をまだ理解できてないのである――たとえどれほど悔いていようとも。
三つの解答のうち、父親の離婚と再婚が原因というのは、この劇が手渡してくれる軽い手土産である。もちろんこの理解は決してまちがっていない。これで満足する人は決してこの劇作品を理解できないわけではなく誤認しているわけでもない。
理由なき動機なき自殺というのは、トーラスというかドーナツのように中心の空白をめぐる空騒ぎともいえるこの劇にふさわしい原因――原因なき原因――かもしれない。両親の離婚と再婚を契機として、息子はいつしか生の実存とむきあいはじめ、ついにはそれに耐えられなくて自殺するという展開は虚無的でありまた悲劇的であり、すぐれた演劇・文学作品になる資格を充分もっている。
これに対し、せっかく謎を謎として提起し、この解きえぬ謎を中心に据えたパフォーマンスのすばらしさを確認できたというのに、その空白を同性愛というキー・タームで埋めてしまうというのは、なんという厚顔無恥で無責任きわまりない愚行あるいうは退行的措置かとあきれる方々もいよう。
だがこれまでの同性愛的表象は、表象しえぬ表象というかたちをとってきた。名づけえぬ行為、語られることのない悪行、歴史から隠された、など同性愛表象の特徴はその表象不可能性であった。動機なき理由なき行為は、同性愛的欲望と同性愛現象と等価でありパラレルである。動機なき理由なき行為の衝撃と不条理を糊塗するためにもっともらしい原因が措定される。これに対して同性愛を糊塗するという、ホモフォビアが、同性愛という原因を隠蔽するために、動機なき理由なき行為が、原因なき原因、理由なき理由として提示される。そこにあるのは愚劣なホモフォビアにすぎない。
息子の自殺の第三の理由を同性愛とすることに対する批判が、ホモフォビアつまり同性愛差別に汚染されていないかどうかは慎重に検証すべき課題であるように思われる。
Unnamableとは、名づけえぬ者、口にしてはいけない者という意味から神聖なもの、神を意味することになる。名づけえぬ生の不条理、世界の神秘は、聖なるものへの裏口になることがある。さらにえば、unnamableは、口にできない、いまわしいおぞましいものを意味することになる。意味付けられない意味、意味行為の極北ともいえるこのunnamableは、タブー視される性的な現象なり欲望にもつながっている。神、不条理、同性愛は、シニフィエなきシニフィアン、あるいは禁じられたシニフィエという点で、同位体なのである。
2024年04月28日
『母』と『息子』
現在、フロリアン・ゼレールの二つの戯曲、『La Mère母』と『Le Fils 息子』が池袋の東京芸術劇場で上演中(29日月曜日まで。ただしその後6月30日まで全国を巡回)。
『Le Père父』と『La Mère母』と『Le Fils息子』で三部作ということだが、『Le Père父』は、2019年東京芸術劇場で上演。コロナ禍において私は劇場に足を運ばなかったので観ていないが、映画化作品『The Father/父』(作者自身が脚本を書き監督も務める)は観ている。
『Le Fils息子』は再演であり、またゼレール自身が監督した映画『The Son/息子』を観ているので、今回は、日本初演の『La Mère母』だけを観ることにした。
そして観ていて、『La Mère母』は、私が観た映画版『The Son息子』と設定が違う。映画『The Son息子』では息子は母親と暮らしていて、父親は家を出て再婚している。ところが『La Mère母』では夫婦は離婚していない。夫には愛人がいるようだが、離婚には至っていない。となると映画版ではなく劇場版の『Le Fils 息子』は設定が違うのかもしれないと思い、また『La Mère母』が面白かったこともあり、公演中だったものの急遽チケットを探したところ幸い空席を購入することができて、『Le Fils 息子』も観ることになった。
そして気づいた。劇場版の『Le Fils 息子』は映画版とまったく同じだった。ただシナリオの演劇的強度からすると(俳優の演技ということとは別)、『Le Fils 息子』のほうが興奮できたので、映画と同じだったからといって、時間と金を返せ(とはいえ誰に向かって言っているのだ)とまでは思わなかった。
5月には『ハムレットQ1』で吉田羊がハムレットを演ずるようだが、女性が演ずるハムレットは、舞台と映画でハムレットを演じたサラ・ベルナール以降の伝統もあるのだが、ハムレットはいいとして、たとえばリア王を女性が演ずるのにはむりがあるとかつて思っていたが、それは1997年11月に当時のパナソニック・グローブ座でみた『リア王』ではキャスリン・ハンターがリア王を演じていて、私の思い込みは見事に裏切られた
【デンゼル・ワシントン主演の映画『マクベス』に登場する気色の悪い魔女を演じたのはキャスリン・ハンターだと言われ、そうですかと答えた私は、すでに前世紀の終わりに舞台でキャスリン・ハンターの演技をみていた。キャスリン・ハンターは『夏の夜の夢』では妖精パックを演じていたと私に教えてくれた人がいて、その人の知識に感心した記憶があるが、よく考えたら彼女がパックを演じた舞台(ジュリー・テイモア演出)を映像化したDVDを私はもっているだけでなく、その一部を授業で学生に見せたことがあった。アテネのタイモンを女性が演じた舞台のDVDをもっていたのに、まだ観ていないことを思い出したが、現物を手に取ると、それはサイモン・ゴッドウィン演出の『アテネのタイモン』で、キャスリン・ハンターはタイモンを演じていた。どういうわけか、いずれの場合も私の記憶保持力の衰退の証拠でしかないのはなさけない。】
女性版リアは、リア王という老人と女性との間になんらかの類似性というものが見出されていなければ、説得力をもたないような気がする。では、その類似性とはなにか。邪魔者ということであろう。
女性も母親となって子育てを終える頃になると、加齢による容姿の衰えが顕著となり、夫にとっては良き伴侶というよりは、うっとうしい邪魔者になる。子供にとって生き方に干渉するだけでなく、たとえば息子の場合、息子の恋人とのライヴァル関係となって息子のとりあいとなり、息子からは人生を邪魔する悪しき存在として嫌われることになる。リア王との類似性は、まさに否定できない。なにしろリア王もまた、娘二人に邪魔者扱いされて、最後には嵐の荒野を彷徨することになる。最愛の末娘も、娘の夫なる者に奪われることを嫌って、自分から娘を嫁がせるかたちで追放する。邪魔者扱いされ迫害され孤独のなかで死を待つ――老齢になった女性の悲しい運命の客観的相関物こそ、リア王ではない
だろうか。
そんなことを『La Mère母』の舞台を観ながら考えていた。劇は、最初、ふしぎなことが起こる。同じことが反復され、時間ループ物の様相を呈してくる。そこからひとつの家族の崩壊がみえてくる。妻は、夫に裏切られ、夫を愛人に奪われそうになる。疎遠になった息子が突然帰ってきても、息子の関心は恋人との関係にあるらしく、ここでも母親は、息子を彼の恋人に奪われてしまうという悲哀を味わう。
だが、劇がすすむにつれてわかるのは、こうした家族の崩壊――夫には愛人がおり、息子は母親を顧みず恋人のほうを選ぶ――は、この母親の妄想かもしれず、彼女の脳内劇場を私たち観客は観ているらしいということだ。夫は浮気をしているわけでもない。息子は恋人といっしょに早く家を出たいと思っているわけではないのだろう。各エピソードは、ときにはわざとらしい演技と図式的な展開で、硬直化したパフォーマンスを提供することが多いのだが、それはすべて母親がつくりあげた妄想の不自然さ、不気味さを帯びている。と同時に、どこまでが妄想でどこからが現実かわからないところもある。虚実入り混じるスリリングな展開こそ、この舞台の魅力であろうか。そしてその舞台のコアには、寒々とした孤独とともに生きるしかない母親の存在がある。
ただし、この母親は、夫に裏切られたり、息子から疎まれたりはしていないのだろう。ただ、母親がそう思い込んでいるのであり、その妄想の呪縛ゆえに、彼女は精神病院に入院するしかなくなっている。むしろ、このほうが、実際に迫害され邪魔者扱いされるよりも、悲しく哀れを誘う。
フロリアン・ゼレールの三部作のどれにも、病院が登場する。父、母、息子、三人は入院患者である。私たち現代人は比喩的に入院患者かもしれないが、彼ら三人は文字通りに入院患者となるのである。そしてまたアルツハイマー病になったときの男女が示す行動あるいは恐怖心というもののなかに、その人の人生の縮図があるということを聞いたことがある。もしそうなら、この演劇作品において、病院に入院している母親にとって、その人生は、夫の裏切りと息子の離反におびえる一生だったのである。
つづく
『Le Père父』と『La Mère母』と『Le Fils息子』で三部作ということだが、『Le Père父』は、2019年東京芸術劇場で上演。コロナ禍において私は劇場に足を運ばなかったので観ていないが、映画化作品『The Father/父』(作者自身が脚本を書き監督も務める)は観ている。
『Le Fils息子』は再演であり、またゼレール自身が監督した映画『The Son/息子』を観ているので、今回は、日本初演の『La Mère母』だけを観ることにした。
そして観ていて、『La Mère母』は、私が観た映画版『The Son息子』と設定が違う。映画『The Son息子』では息子は母親と暮らしていて、父親は家を出て再婚している。ところが『La Mère母』では夫婦は離婚していない。夫には愛人がいるようだが、離婚には至っていない。となると映画版ではなく劇場版の『Le Fils 息子』は設定が違うのかもしれないと思い、また『La Mère母』が面白かったこともあり、公演中だったものの急遽チケットを探したところ幸い空席を購入することができて、『Le Fils 息子』も観ることになった。
そして気づいた。劇場版の『Le Fils 息子』は映画版とまったく同じだった。ただシナリオの演劇的強度からすると(俳優の演技ということとは別)、『Le Fils 息子』のほうが興奮できたので、映画と同じだったからといって、時間と金を返せ(とはいえ誰に向かって言っているのだ)とまでは思わなかった。
5月には『ハムレットQ1』で吉田羊がハムレットを演ずるようだが、女性が演ずるハムレットは、舞台と映画でハムレットを演じたサラ・ベルナール以降の伝統もあるのだが、ハムレットはいいとして、たとえばリア王を女性が演ずるのにはむりがあるとかつて思っていたが、それは1997年11月に当時のパナソニック・グローブ座でみた『リア王』ではキャスリン・ハンターがリア王を演じていて、私の思い込みは見事に裏切られた
【デンゼル・ワシントン主演の映画『マクベス』に登場する気色の悪い魔女を演じたのはキャスリン・ハンターだと言われ、そうですかと答えた私は、すでに前世紀の終わりに舞台でキャスリン・ハンターの演技をみていた。キャスリン・ハンターは『夏の夜の夢』では妖精パックを演じていたと私に教えてくれた人がいて、その人の知識に感心した記憶があるが、よく考えたら彼女がパックを演じた舞台(ジュリー・テイモア演出)を映像化したDVDを私はもっているだけでなく、その一部を授業で学生に見せたことがあった。アテネのタイモンを女性が演じた舞台のDVDをもっていたのに、まだ観ていないことを思い出したが、現物を手に取ると、それはサイモン・ゴッドウィン演出の『アテネのタイモン』で、キャスリン・ハンターはタイモンを演じていた。どういうわけか、いずれの場合も私の記憶保持力の衰退の証拠でしかないのはなさけない。】
女性版リアは、リア王という老人と女性との間になんらかの類似性というものが見出されていなければ、説得力をもたないような気がする。では、その類似性とはなにか。邪魔者ということであろう。
女性も母親となって子育てを終える頃になると、加齢による容姿の衰えが顕著となり、夫にとっては良き伴侶というよりは、うっとうしい邪魔者になる。子供にとって生き方に干渉するだけでなく、たとえば息子の場合、息子の恋人とのライヴァル関係となって息子のとりあいとなり、息子からは人生を邪魔する悪しき存在として嫌われることになる。リア王との類似性は、まさに否定できない。なにしろリア王もまた、娘二人に邪魔者扱いされて、最後には嵐の荒野を彷徨することになる。最愛の末娘も、娘の夫なる者に奪われることを嫌って、自分から娘を嫁がせるかたちで追放する。邪魔者扱いされ迫害され孤独のなかで死を待つ――老齢になった女性の悲しい運命の客観的相関物こそ、リア王ではない
だろうか。
そんなことを『La Mère母』の舞台を観ながら考えていた。劇は、最初、ふしぎなことが起こる。同じことが反復され、時間ループ物の様相を呈してくる。そこからひとつの家族の崩壊がみえてくる。妻は、夫に裏切られ、夫を愛人に奪われそうになる。疎遠になった息子が突然帰ってきても、息子の関心は恋人との関係にあるらしく、ここでも母親は、息子を彼の恋人に奪われてしまうという悲哀を味わう。
だが、劇がすすむにつれてわかるのは、こうした家族の崩壊――夫には愛人がおり、息子は母親を顧みず恋人のほうを選ぶ――は、この母親の妄想かもしれず、彼女の脳内劇場を私たち観客は観ているらしいということだ。夫は浮気をしているわけでもない。息子は恋人といっしょに早く家を出たいと思っているわけではないのだろう。各エピソードは、ときにはわざとらしい演技と図式的な展開で、硬直化したパフォーマンスを提供することが多いのだが、それはすべて母親がつくりあげた妄想の不自然さ、不気味さを帯びている。と同時に、どこまでが妄想でどこからが現実かわからないところもある。虚実入り混じるスリリングな展開こそ、この舞台の魅力であろうか。そしてその舞台のコアには、寒々とした孤独とともに生きるしかない母親の存在がある。
ただし、この母親は、夫に裏切られたり、息子から疎まれたりはしていないのだろう。ただ、母親がそう思い込んでいるのであり、その妄想の呪縛ゆえに、彼女は精神病院に入院するしかなくなっている。むしろ、このほうが、実際に迫害され邪魔者扱いされるよりも、悲しく哀れを誘う。
フロリアン・ゼレールの三部作のどれにも、病院が登場する。父、母、息子、三人は入院患者である。私たち現代人は比喩的に入院患者かもしれないが、彼ら三人は文字通りに入院患者となるのである。そしてまたアルツハイマー病になったときの男女が示す行動あるいは恐怖心というもののなかに、その人の人生の縮図があるということを聞いたことがある。もしそうなら、この演劇作品において、病院に入院している母親にとって、その人生は、夫の裏切りと息子の離反におびえる一生だったのである。
つづく
posted by ohashi at 23:26| 演劇
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2024年04月22日
「タメィロゥ」
ネット上で次の記事が目に留まった。
これに対して
というコメントも寄せられているようで、まったくその通りなのだが、これに対する私のコメントを書く前に、さらにこの記事のなかの以下の記述が気になった。
代表の回答はこれだけ。なぜ「タメィロウ」という発音ができたのかは答えていない。じつは以前、テレビ朝日の『激レアさんを連れてきた』でも紹介された人だと記憶するのだが、そのときも、なぜこの発音ができたのかはわからなかった。
【2021年11月20日テレビ朝日系列『激レアさんを連れてきた』トマト嫌いの曽我新一が金賞受賞!「トマトによって人生がめちゃくちゃになり、トマトを一切食べられないにもかかわらず、トマトを育てて金賞を獲得した曽我新一(ソガシンイチ)さんです」のなかでも、この発音の件は、取り上げられていた。】
tomatoは、英語(アメリカ英語)でゆっくり発音すると「トメイトゥ」となる。ただし「Tは母音(a.e.i.o.u)にはさまれると『L』の発音に変わる」というコメントにあったように、ゆっくり発音しない場合は「トメイロウ」となるのだが、発音をこのようにカタカナ表記にすると「タメィロゥ」がもとの英語の発音に近くなる。
ただし、これはアメリカ英語の特徴で、イギリス英語では「タメィロゥ」とは言わない。イギリス英語では「トマートー」という。ただし日本の英語教育は、基本的にはアメリカ英語だが、発音まで、こてこてのアメリカ英語にすることは求めていないので、「タメィロゥ」は違和感があったのかもしれないが、しかし「タメィロゥ」という発音は原音に近いので、賞賛されこそすれ笑われるというのはおかしいといわざるをえない。まあイギリスだったらおまえはアメリカ人かと言われるかもしれないが。また曽我氏は、なぜ「タメィロゥ」という発音ができたのか、その理由はわからない。
発音については、やはりいろいろな規則を教えないといけないと思う。
たとえば日本語の「を」を日本人でも/WO/と発音するバカがいる。歌手などで「を」を/WO/と発音している無知な人間がいるが、日本語の「を」の発音は、日常会話では母音の/O/である。「これをください」というのは「これOください」と発音するのであって、「これWOください」と発音しない。「翼をください」は「翼Oください」であり、「あなたを愛しています」を、「あなたWO愛しています」とは発音しない(とはいえ「を」は絶対に「O」と発音せよということではなく、「を」を「Wo」と発音してもいいのだが)。
「Tは母音(a.e.i.o.u)にはさまれると『L』の発音に変わる」という規則について、私が英語を学び始めた中学生のころは知らなかったが、当時、英語の教科書にでてくる単語とか文を英語母語者が発音しているテープ、教材のテープを聞いたとき、Yes, it isが私には「イェス、イリーズ」と聞こえて困ったことがある。「イェス、イティーズ」ではないかと思ったのだが、私の耳には「イェス、イリーズ」にしか聞こえない。このことについて誰も質問しなかった。私の耳がおかしいのか、真剣に悩んだことがある。私の空耳なのかもしれないとその時はというか長らく諦めていた。空耳ではなかったとわかったのはずいぶんのちのことである。
また先の引用で、「同じく中学生の頃、イーグルを『イーグォー』と流暢に言ったら皆に笑われて悔しかったことを思い出しました。応援しています。」というコメントがあったが、Lの発音にはlight Lとdark Lがあるというのは、大学に入ってから初めて知ったことだった。Lは単語の頭(プラス母音)あるいは中(プラス母音)の場合、日本語の「ラリルレロ」と同じ発音になるが、語尾になると「ウ」「オ」に近い発音となる。つまりlightとかleftとは「ライト」「レフト」と発音するがtableは「テーブル」ではなく「テーボゥ」となる。Michaelは「マイケル」ではなく「マイコー」となる。したがってeagleは「イーグル」ではなく「イーグォー」となる。
ただし「タメィロゥ」には、まだ徹底されていない発音規則とは別の問題というか違和感があるかもしれない。
というのもTomatoはアメリカ英語とイギリス英語では発音がちがう。アメリカ英語ではTomatoのmaは「メイ」と発音するのに対してイギリス英語ではmaは「マー」と発音する。そもそも、コロンブスの新大陸への航海以後、ヨーロッパにもたされて全世界にひろがったものがある。梅毒を除くと、それは三つ。「トマト」に「タバコ」に「ポテト」である。
TomatoとTabacoとPotato。TabacoとPotatoとは発音に違いはない。またPotatoはアメリカ英語では、「パラロ」とはならないくて、しいて言えば「パテイロ」となる。ところがTomatoに限って発音がわかれるのはどうしてなのか、よくわからない。
それはともかく「タメィロゥ」というのは、すでに述べたようにこてこてのアメリカ英語である。アメリカ人でもないのに、いかにもというようなアメリカ英語を話すのに抵抗があってもおかしくない。
小島信夫の短編「アメリカン・スクール」(芥川賞受賞作?)では、戦後まもなくのことだが、日本人の英語教員で、英語をかたくなに話さないという人物が登場するのだが、その理由として、英会話は苦手だとか、英語の発音がうまくないから英語で話すのは恥ずかしいというような、もっともな理由ではなくて、英語を話すと日本人でなくなるような気がするという、異様な理由だった。ほんとうの理由を隠す負け惜しみのような理由だろうと思ったのだが、いまとなってはわからぬことはない。
というのも英語は国際語であるのだが標準化されていない。たとえばイギリス英語とアメリカ英語という大きな違いがある。その際、自分がどちらの英語を話すのかで選択を迫られる。できればアメリカ英語でもないがイギリス英語でもない、そんな抽象的な、ローカルではない英語を話せたらいいのだが、そのような選択肢がない。となるとアメリカ人でもないのにアメリカ英語を話すか、イギリス人でもないのにイギリス英語を話すかという究極の選択しかない。もちろんネイティヴでもない日本人だから完璧なアメリカ英語を話せるわけがなく、アメリカ人に間違われる、あるいは日本人というアイデンティティを失うようなアメリカ人化するという心配はまったくないと言われれば、そのとおりなのだが。
これはネイティヴではないのにネイティヴにまちがわれそうな英語を話すこと、あるいはそうした人物に対する抵抗とか違和感につながることかもしれない。「タメィロゥ」という発音は、日本語を学んでいる、日本語を話す外国人が、関西弁で話すようなものである。関西ネイティヴであれば、べつに問題ないのだが、そうではない外国人が、関西弁(あるいは日本各地の方言のどれか)を話すことには違和感を超えた抵抗感のようなものがある(なおこれはアメリカ英語が英語圏では関西弁のようなものということではない。日本語の関西方言にあたるものは、英語圏では、どちらかというとイギリス英語である)。
日本人が英語を話すことで日本人でなくなるということはないと思うが、これはアメリカ人でもないのにアメリカ英語(下手な)を話すことへの恥ずかしさややましさの裏返しとみるべきものかもしれない。この点はまだまだ考えなければいけないことが多くあるのだが、ひとまずここでは、発音の規則みたいなものを、明確に教えた方がいいことを主張しておきたい。ネイティヴの発音に近い発音を心がけているものを笑ったり排除するような愚をおかさないためにも。
【追記:Wikipediaの記事「ポリアンナ(Pollyanna)は、米国の小説家エレナ・ホグマン・ポーターによるベストセラー児童文学シリーズ、およびその主人公(架空の人物)。フルネームはポリアンナ・ホイッティアー(Pollyanna Whittier)。そこから転じて「極端に楽観的な人物」を意味するようになった。日本ではパレアナとも表記。以下略」とあるのだが、当然のことながら「パレアナ」のほうが原音に近い。
Pollyannaを「ポリーアンナ」ではなく「パレアナ」と表記した村岡花子の英断は高く評価すべきだが、その後、「ポリーアンナ」となって現在にいたる。「タメィロゥ」が消え、「トマト」となったようなものである。表記は原音近似主義に徹してはどうか。「トマト」とか「ポリーアンナ」という発音では国際的に通用しないので。】
まいどなニュース
「タメイロゥ」英語の授業で流暢な発音したら笑われた…悔しい思い出を商品名に トマト農家のアイデアが話題 まいどなニュース の意見 2024年4月22日
トマト農家の恨みがこもったポップがX上で大きな注目を集めている。
「5月からタメィロゥの販売がはじまります。」と一枚の写真を紹介したのは新潟県新潟市のフルーツトマト農園「曽我農園」のX公式アカウント(@pasmal0220)。
「中学生の頃、英語の時間にトマトを『タメィロゥ』と流暢に言ったら皆に笑われました。思い出したら悔しかったので現在商品名を『タメィロゥ』にしています。」と高濃度海水栽培のフルートトマトを紹介するポップ。商品の魅力よりも生産者の熱い思いが伝わりすぎるこのポップに、SNSユーザー達からは
「同じく中学生の頃、イーグルを『イーグォー』と流暢に言ったら皆に笑われて悔しかったことを思い出しました。応援しています。」【以下略】
これに対して
「ちなみに、英語の発音マニアの観点から言いますと…Tは母音(a.e.i.o.u)にはさまれると『L』の発音に変わるんです。なので、曽我農園さんの発音めちゃくちゃ完璧です!」
というコメントも寄せられているようで、まったくその通りなのだが、これに対する私のコメントを書く前に、さらにこの記事のなかの以下の記述が気になった。
生産者さんに聞いた
曽我農園の代表に話を聞いた。
――当時「タメィロゥ」と流暢な発音を披露しようとされた経緯をお聞かせください。
代表:中1で初めての英語授業の際、知っている英単語を言いましょうというのがありました。その時、両親がトマト農家だった私は流暢に発音しましたが、先生含め生徒のほとんどに笑われた記憶があり悔しかった思い出があります。
代表の回答はこれだけ。なぜ「タメィロウ」という発音ができたのかは答えていない。じつは以前、テレビ朝日の『激レアさんを連れてきた』でも紹介された人だと記憶するのだが、そのときも、なぜこの発音ができたのかはわからなかった。
【2021年11月20日テレビ朝日系列『激レアさんを連れてきた』トマト嫌いの曽我新一が金賞受賞!「トマトによって人生がめちゃくちゃになり、トマトを一切食べられないにもかかわらず、トマトを育てて金賞を獲得した曽我新一(ソガシンイチ)さんです」のなかでも、この発音の件は、取り上げられていた。】
tomatoは、英語(アメリカ英語)でゆっくり発音すると「トメイトゥ」となる。ただし「Tは母音(a.e.i.o.u)にはさまれると『L』の発音に変わる」というコメントにあったように、ゆっくり発音しない場合は「トメイロウ」となるのだが、発音をこのようにカタカナ表記にすると「タメィロゥ」がもとの英語の発音に近くなる。
ただし、これはアメリカ英語の特徴で、イギリス英語では「タメィロゥ」とは言わない。イギリス英語では「トマートー」という。ただし日本の英語教育は、基本的にはアメリカ英語だが、発音まで、こてこてのアメリカ英語にすることは求めていないので、「タメィロゥ」は違和感があったのかもしれないが、しかし「タメィロゥ」という発音は原音に近いので、賞賛されこそすれ笑われるというのはおかしいといわざるをえない。まあイギリスだったらおまえはアメリカ人かと言われるかもしれないが。また曽我氏は、なぜ「タメィロゥ」という発音ができたのか、その理由はわからない。
発音については、やはりいろいろな規則を教えないといけないと思う。
たとえば日本語の「を」を日本人でも/WO/と発音するバカがいる。歌手などで「を」を/WO/と発音している無知な人間がいるが、日本語の「を」の発音は、日常会話では母音の/O/である。「これをください」というのは「これOください」と発音するのであって、「これWOください」と発音しない。「翼をください」は「翼Oください」であり、「あなたを愛しています」を、「あなたWO愛しています」とは発音しない(とはいえ「を」は絶対に「O」と発音せよということではなく、「を」を「Wo」と発音してもいいのだが)。
「Tは母音(a.e.i.o.u)にはさまれると『L』の発音に変わる」という規則について、私が英語を学び始めた中学生のころは知らなかったが、当時、英語の教科書にでてくる単語とか文を英語母語者が発音しているテープ、教材のテープを聞いたとき、Yes, it isが私には「イェス、イリーズ」と聞こえて困ったことがある。「イェス、イティーズ」ではないかと思ったのだが、私の耳には「イェス、イリーズ」にしか聞こえない。このことについて誰も質問しなかった。私の耳がおかしいのか、真剣に悩んだことがある。私の空耳なのかもしれないとその時はというか長らく諦めていた。空耳ではなかったとわかったのはずいぶんのちのことである。
また先の引用で、「同じく中学生の頃、イーグルを『イーグォー』と流暢に言ったら皆に笑われて悔しかったことを思い出しました。応援しています。」というコメントがあったが、Lの発音にはlight Lとdark Lがあるというのは、大学に入ってから初めて知ったことだった。Lは単語の頭(プラス母音)あるいは中(プラス母音)の場合、日本語の「ラリルレロ」と同じ発音になるが、語尾になると「ウ」「オ」に近い発音となる。つまりlightとかleftとは「ライト」「レフト」と発音するがtableは「テーブル」ではなく「テーボゥ」となる。Michaelは「マイケル」ではなく「マイコー」となる。したがってeagleは「イーグル」ではなく「イーグォー」となる。
ただし「タメィロゥ」には、まだ徹底されていない発音規則とは別の問題というか違和感があるかもしれない。
というのもTomatoはアメリカ英語とイギリス英語では発音がちがう。アメリカ英語ではTomatoのmaは「メイ」と発音するのに対してイギリス英語ではmaは「マー」と発音する。そもそも、コロンブスの新大陸への航海以後、ヨーロッパにもたされて全世界にひろがったものがある。梅毒を除くと、それは三つ。「トマト」に「タバコ」に「ポテト」である。
TomatoとTabacoとPotato。TabacoとPotatoとは発音に違いはない。またPotatoはアメリカ英語では、「パラロ」とはならないくて、しいて言えば「パテイロ」となる。ところがTomatoに限って発音がわかれるのはどうしてなのか、よくわからない。
それはともかく「タメィロゥ」というのは、すでに述べたようにこてこてのアメリカ英語である。アメリカ人でもないのに、いかにもというようなアメリカ英語を話すのに抵抗があってもおかしくない。
小島信夫の短編「アメリカン・スクール」(芥川賞受賞作?)では、戦後まもなくのことだが、日本人の英語教員で、英語をかたくなに話さないという人物が登場するのだが、その理由として、英会話は苦手だとか、英語の発音がうまくないから英語で話すのは恥ずかしいというような、もっともな理由ではなくて、英語を話すと日本人でなくなるような気がするという、異様な理由だった。ほんとうの理由を隠す負け惜しみのような理由だろうと思ったのだが、いまとなってはわからぬことはない。
というのも英語は国際語であるのだが標準化されていない。たとえばイギリス英語とアメリカ英語という大きな違いがある。その際、自分がどちらの英語を話すのかで選択を迫られる。できればアメリカ英語でもないがイギリス英語でもない、そんな抽象的な、ローカルではない英語を話せたらいいのだが、そのような選択肢がない。となるとアメリカ人でもないのにアメリカ英語を話すか、イギリス人でもないのにイギリス英語を話すかという究極の選択しかない。もちろんネイティヴでもない日本人だから完璧なアメリカ英語を話せるわけがなく、アメリカ人に間違われる、あるいは日本人というアイデンティティを失うようなアメリカ人化するという心配はまったくないと言われれば、そのとおりなのだが。
これはネイティヴではないのにネイティヴにまちがわれそうな英語を話すこと、あるいはそうした人物に対する抵抗とか違和感につながることかもしれない。「タメィロゥ」という発音は、日本語を学んでいる、日本語を話す外国人が、関西弁で話すようなものである。関西ネイティヴであれば、べつに問題ないのだが、そうではない外国人が、関西弁(あるいは日本各地の方言のどれか)を話すことには違和感を超えた抵抗感のようなものがある(なおこれはアメリカ英語が英語圏では関西弁のようなものということではない。日本語の関西方言にあたるものは、英語圏では、どちらかというとイギリス英語である)。
日本人が英語を話すことで日本人でなくなるということはないと思うが、これはアメリカ人でもないのにアメリカ英語(下手な)を話すことへの恥ずかしさややましさの裏返しとみるべきものかもしれない。この点はまだまだ考えなければいけないことが多くあるのだが、ひとまずここでは、発音の規則みたいなものを、明確に教えた方がいいことを主張しておきたい。ネイティヴの発音に近い発音を心がけているものを笑ったり排除するような愚をおかさないためにも。
【追記:Wikipediaの記事「ポリアンナ(Pollyanna)は、米国の小説家エレナ・ホグマン・ポーターによるベストセラー児童文学シリーズ、およびその主人公(架空の人物)。フルネームはポリアンナ・ホイッティアー(Pollyanna Whittier)。そこから転じて「極端に楽観的な人物」を意味するようになった。日本ではパレアナとも表記。以下略」とあるのだが、当然のことながら「パレアナ」のほうが原音に近い。
Pollyannaを「ポリーアンナ」ではなく「パレアナ」と表記した村岡花子の英断は高く評価すべきだが、その後、「ポリーアンナ」となって現在にいたる。「タメィロゥ」が消え、「トマト」となったようなものである。表記は原音近似主義に徹してはどうか。「トマト」とか「ポリーアンナ」という発音では国際的に通用しないので。】
posted by ohashi at 12:55| コメント
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2024年04月19日
1週間はなぜ日曜日から土曜日までなのか
1週間は月曜日から始まるという説もあるのだが、それは特に問題にしないが、
次のようなレベルの低い記事がネット上にあった。
というスライド形式の記事で、最初が、
「週休7日制」? こっちのほうが疑問ではないか。しかし、なぜ一週間が7日かは、それぞれの日についている名前から推測できる。
次のスライドでは、
やはり「週7日制」なのか。まちがうなバカヤローと言ってやりたいが、おそらくAIで翻訳しているのだろうから、AIに文句を言ってもはじまらない。それにしてもAIのミスがわからない人間は恥ずかしすぎる。
以下、このスライドでは関係のない話、そして各曜日の名前の語源的説明しかなく、なぜ一週間が7日なのかについては、さっぱりわからない。
しかしすでに述べたように、日月火水木金土というのは、ざっくり言って太陽系の星の名前である。太陽は恒星で、月は衛星で、そのほかは惑星なのだが、暦を作った時代の人たちには、そういう区別はなく、すべて星だった。これらは、夜空を放浪する星々であり、月にいたっては満ち欠けすらした。
問題は、天動説では、地球に対する近さの順でゆくと、天空には月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星が並んでいることになっている。地球を除く7つの「星」が、1週間を構成する七つの日に割り当てられた。そんなことは、子供でも推測できる。
なお太陽系は、水金地火木土、天王星、冥王星、海王星からなるが、天王星、冥王星、海王星は、暦が作られた昔には発見されていなかったら、とにかく七つの「星」が基本となる。
ではなぜ、水金(地→日)火木土【天動説では地球の位置に太陽がくる】もしくは土木火日金水月の順番ではなく、日月火水木金土なのか。この順番はどうして決まったのか。当時の天文学が推測した星の並び(近くから遠くへ、あるいは遠くから近くへ)ではない。なぜ太陽の日(日曜日)のあとが、月の日(月曜日)なのか。月の日(月曜日)のあと、なぜ突然、火星の日(火曜日)になるのか。
これは神話の神の名前を調べてもわからない。曜日の名前の語源を調べてもわからない。なぜこの順番なのか。私は、それを知っている。大学の教員であった頃は、シェイクスピアの時代の宇宙観(かわりつつある宇宙観)を説明するついでに、いつも説明していた。年に1回は授業で。
調べてみてください。
次のようなレベルの低い記事がネット上にあった。
あなたは知ってた?曜日の名前の由来
Stars Insider によるストーリー • 2 時間2024年
というスライド形式の記事で、最初が、
週休7日制
©Shutterstock
私たちの多くは、時間に基づいて人生を構成している。日、週、月、年などが時間管理の基本である。しかし、なぜ週は7日なのかと疑問に思ったことはないだろうか。
「週休7日制」? こっちのほうが疑問ではないか。しかし、なぜ一週間が7日かは、それぞれの日についている名前から推測できる。
次のスライドでは、
週7日制の起源
©Shutterstock
週7日制の歴史は、古代シュメール人、そしてバビロニア人の暦にまで遡ることができる。
やはり「週7日制」なのか。まちがうなバカヤローと言ってやりたいが、おそらくAIで翻訳しているのだろうから、AIに文句を言ってもはじまらない。それにしてもAIのミスがわからない人間は恥ずかしすぎる。
月が週7日制に与える影響
©Shutterstock
これらの暦は月の満ち欠けに基づいていた。基本的に、月の満ち欠けの周期は約7日間である。つまり、その間に月はある位相から別の位相へと移り変わる。
以下、このスライドでは関係のない話、そして各曜日の名前の語源的説明しかなく、なぜ一週間が7日なのかについては、さっぱりわからない。
しかしすでに述べたように、日月火水木金土というのは、ざっくり言って太陽系の星の名前である。太陽は恒星で、月は衛星で、そのほかは惑星なのだが、暦を作った時代の人たちには、そういう区別はなく、すべて星だった。これらは、夜空を放浪する星々であり、月にいたっては満ち欠けすらした。
問題は、天動説では、地球に対する近さの順でゆくと、天空には月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星が並んでいることになっている。地球を除く7つの「星」が、1週間を構成する七つの日に割り当てられた。そんなことは、子供でも推測できる。
なお太陽系は、水金地火木土、天王星、冥王星、海王星からなるが、天王星、冥王星、海王星は、暦が作られた昔には発見されていなかったら、とにかく七つの「星」が基本となる。
ではなぜ、水金(地→日)火木土【天動説では地球の位置に太陽がくる】もしくは土木火日金水月の順番ではなく、日月火水木金土なのか。この順番はどうして決まったのか。当時の天文学が推測した星の並び(近くから遠くへ、あるいは遠くから近くへ)ではない。なぜ太陽の日(日曜日)のあとが、月の日(月曜日)なのか。月の日(月曜日)のあと、なぜ突然、火星の日(火曜日)になるのか。
これは神話の神の名前を調べてもわからない。曜日の名前の語源を調べてもわからない。なぜこの順番なのか。私は、それを知っている。大学の教員であった頃は、シェイクスピアの時代の宇宙観(かわりつつある宇宙観)を説明するついでに、いつも説明していた。年に1回は授業で。
調べてみてください。
posted by ohashi at 18:58| コメント
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2024年04月13日
曙と大谷
曙 太郎氏がなくなった。心不全で東京都内の病院で死去というニュースがあった。死ぬには若い。冥福を祈りたい。
私は相撲については無知でなおかつとくに興味もないのだが、曙関については、その現役時代には、私の知人の女性たちにファンが多かったことを記憶している。
たとえば今は亡き竹村和子さんは、曙のファンだと私に話してくれたことがある。まあ亡くなった方のことなので、これを読まれた方に、その真偽を証明できないのだが、ただ、私はそう聞いたとき、そんなものかととくに気にも留めなかったのだが。
曙関の死のニュースの後、その生涯と功績を振り返る映像がテレビにあふれた。それをみながら、また過去に曙関がインタヴューに答えている映像をみると、その流ちょうな日本語、中身のある内容、丁寧かつ真摯な物言いと物腰、どれをとっても優れた知性と感性をにじませるもので、気は優しくて力持ちという横綱として、愛されるキャラクターであったことを今初めて知ることになった。善人は早死にする。
女性のファンが多くても何の不思議でもないと認識をあらたにしたのだが、とくに驚いたのは、現役時代に、日本に帰化して日本国籍を取得していることである。来日して力士になった人たちにとって、それが珍しいことなのか、ふつうのことなのか私にはわからないのだが、とにかくその日本語を聞いて、この人がハワイ出身だとは日本人には信じがたいことである。
6年か7年、アメリカにいて、いまも通訳を使っている大谷翔平とはえらい違いである。
もちろん大谷翔平は日本とアメリカを往復する生活を送っているのだろうが、ただアメリカでプレーしているのだから英語によるコミュニケーションは必須である。もちろんアメリカにいれば1年や2年で英語で話せるようになるなんてことはないのだが、6年だぞ。
しかし大谷翔平が頭が悪いとは思わない。また英語でのコミュニケーションに対する意識が低すぎるとは思わない。問題は通訳がいたこと。しかも、その通訳が、大谷の年俸に近い金を大谷の口座から盗んでいたことが発覚した。これが大谷の英語力とも関係しているといいたい。
おそらく大谷は普段は英語でコミュニケーションしているのだと思う。日本人コミュニティーに閉じこもっているのではないかぎり、アメリカで仕事をしている大谷が英語を話せないわけがない。6年もいて。
通訳の水原一平の存在が大きい。違法賭博事件については、報道の初期には、水原の証言によって、違法賭博での借金を大谷が自分の口座から支払ったということになった。この証言を水原はすぐに撤回するのだが、大谷は、みずから賭博に手を出してはいなくとも、通訳が違法賭博に手を出したことは知っていて、借金を払ってやったというのはありえない話ではない。むしろ水谷ののちの証言よりも最初の証言のほうが信ぴょう性が高いように思われた。
しかし水谷の証言におかしなところがある。6年アメリカにいても通訳を使っている大谷が、自力で、自分の口座から送金できたのだろうかという疑念。この疑念は、大谷はできたのだと証明されれば払拭されるのだが。次に、アメリカで銀行の口座をつくるときには通訳が同行してそこで通訳も口座についての情報を得たという可能性も報道されたとき、なにか納得できたような気がする。
私もイギリスで銀行の口座を開いたことがあるが、その時、本人認証のための情報として、あなたのお母さんの結婚前の名字surnameを教えてくれといわれ、予想もしなかった質問だったので、質問を正しく聞き取れているかどうか自信がなくて、聞き直したことを記憶している(母親の結婚前の名字というのは、その後、日本でも本人認証の情報として使われることを知ったのだが)。もしその時通訳がいたらどうなのだろう。銀行側として通訳でなく本人から答えを得ようとして通訳にはわからないような伝達手段をとるかもしれないが、しかし、通訳は意図しなくても本人認証の情報を得てしまうかもしれない。またそれも含め通訳に諸手続きをまかせっきりというのは渡米直後はありうることである。
となると大谷が水谷の借金を肩代わりして自分で送金したというのはまっかな嘘ということになる。犯行の手口はまだつまびらかにされていないが、水原が大谷になりすまして大谷の口座から何回も送金したことは確かなようだ。
そしてこうなると、これまで水原あるいは水原・大谷関係において美談のごとく語られてきたことは、すべて詐欺と窃盗行為の一部であったことがわかる。
そもそも通訳が有名になること自体おかしい。これまでもアメリカのメジャーリーグでプレイするようになった日本人選手は何人もいるわけだが、当然、通訳もいただろうが、通訳の名前も顔も一般に広く知られることはなかった。それが水谷一平の場合は、大谷人気もあってか、名前も顔をよく知られるようになった。大谷のメジャーデビューを円滑にしチームメイトとの関係を良好にするように腐心し、なおかつ大谷にとってかけがえのない友人であり、キャッチボールの相手さえしたという麗しいエピソードが、これですべて詐欺のために、大谷を囲い込むための策略であったことになる。
いやキャッチボールの相手をしたということ自体、なにかおかしいと疑ってしかるべきだったのかもしれない。常に大谷に傍にいて球団やチームメイトのコミュニケーションを円滑にした水原の美談は、大谷を囲い込み、大谷の窓口になることで、大谷をコントロールする策略であり、球団と大谷とのコミュニケーションを阻害するものだったという悪しきエピソードへと転換する。
もちろん水原が最初からすべて計算してのことだったどうかわからない。そもそも大谷の通訳だから、もし借金がかさんでも大谷が肩代わりしてくれるだろうという思いが違法賭博の胴元の側にはある。大谷からの肩代わりを見込んで胴元側が水原に接近した可能性もある。大谷になりすます方法とか大谷の口座から送金する方法なども胴元から指南された可能性がある。
また大谷が違法と知りつつ肩代わりしたら、ペナルティとして出場停止処分になるかもしれず、アメリカ野球でスーパースターになったこの日本人選手の足をひっぱることができるかもしれない。さらに水原にお金の管理をまかせて多額の送金にも気づかなかった大谷のずさんさがアメリカ社会で批判されるようになれば、これもまた彼の足をひっぱるよいきっかけになる。その意味で、水原は利用された可能性もある。彼は被害者だったのかもしれない。
とはいえ水原のついた嘘の悪辣さ、また賭博の借金の額の多さからしても、彼が一方的な犠牲者だとは考えづらい。これまで賭けで水原よりも多額の借金を作った人物はたくさんいるようだが、それでも62億の円の損失は大きすぎるし、また自分の金ではなく盗んだ金での賭けとなると同情の余地も救いようもない。
これで大谷は免罪というか無罪になったようだが、これだって、作られたシナリオかもしれない。またそうでなくとも、大谷の契約--10年総額7億ドル(約1073億円)でドジャースと契約、そのうち97%が後払い--というのは、理由はよくわからないが、アメリカの税務署は頭にきていることはまちがいない(節税対策だとも実際に言われている)。大谷に対しては第二、第三の矢が放たれるかもしれない。
私は相撲については無知でなおかつとくに興味もないのだが、曙関については、その現役時代には、私の知人の女性たちにファンが多かったことを記憶している。
たとえば今は亡き竹村和子さんは、曙のファンだと私に話してくれたことがある。まあ亡くなった方のことなので、これを読まれた方に、その真偽を証明できないのだが、ただ、私はそう聞いたとき、そんなものかととくに気にも留めなかったのだが。
曙関の死のニュースの後、その生涯と功績を振り返る映像がテレビにあふれた。それをみながら、また過去に曙関がインタヴューに答えている映像をみると、その流ちょうな日本語、中身のある内容、丁寧かつ真摯な物言いと物腰、どれをとっても優れた知性と感性をにじませるもので、気は優しくて力持ちという横綱として、愛されるキャラクターであったことを今初めて知ることになった。善人は早死にする。
女性のファンが多くても何の不思議でもないと認識をあらたにしたのだが、とくに驚いたのは、現役時代に、日本に帰化して日本国籍を取得していることである。来日して力士になった人たちにとって、それが珍しいことなのか、ふつうのことなのか私にはわからないのだが、とにかくその日本語を聞いて、この人がハワイ出身だとは日本人には信じがたいことである。
6年か7年、アメリカにいて、いまも通訳を使っている大谷翔平とはえらい違いである。
もちろん大谷翔平は日本とアメリカを往復する生活を送っているのだろうが、ただアメリカでプレーしているのだから英語によるコミュニケーションは必須である。もちろんアメリカにいれば1年や2年で英語で話せるようになるなんてことはないのだが、6年だぞ。
しかし大谷翔平が頭が悪いとは思わない。また英語でのコミュニケーションに対する意識が低すぎるとは思わない。問題は通訳がいたこと。しかも、その通訳が、大谷の年俸に近い金を大谷の口座から盗んでいたことが発覚した。これが大谷の英語力とも関係しているといいたい。
おそらく大谷は普段は英語でコミュニケーションしているのだと思う。日本人コミュニティーに閉じこもっているのではないかぎり、アメリカで仕事をしている大谷が英語を話せないわけがない。6年もいて。
通訳の水原一平の存在が大きい。違法賭博事件については、報道の初期には、水原の証言によって、違法賭博での借金を大谷が自分の口座から支払ったということになった。この証言を水原はすぐに撤回するのだが、大谷は、みずから賭博に手を出してはいなくとも、通訳が違法賭博に手を出したことは知っていて、借金を払ってやったというのはありえない話ではない。むしろ水谷ののちの証言よりも最初の証言のほうが信ぴょう性が高いように思われた。
しかし水谷の証言におかしなところがある。6年アメリカにいても通訳を使っている大谷が、自力で、自分の口座から送金できたのだろうかという疑念。この疑念は、大谷はできたのだと証明されれば払拭されるのだが。次に、アメリカで銀行の口座をつくるときには通訳が同行してそこで通訳も口座についての情報を得たという可能性も報道されたとき、なにか納得できたような気がする。
私もイギリスで銀行の口座を開いたことがあるが、その時、本人認証のための情報として、あなたのお母さんの結婚前の名字surnameを教えてくれといわれ、予想もしなかった質問だったので、質問を正しく聞き取れているかどうか自信がなくて、聞き直したことを記憶している(母親の結婚前の名字というのは、その後、日本でも本人認証の情報として使われることを知ったのだが)。もしその時通訳がいたらどうなのだろう。銀行側として通訳でなく本人から答えを得ようとして通訳にはわからないような伝達手段をとるかもしれないが、しかし、通訳は意図しなくても本人認証の情報を得てしまうかもしれない。またそれも含め通訳に諸手続きをまかせっきりというのは渡米直後はありうることである。
となると大谷が水谷の借金を肩代わりして自分で送金したというのはまっかな嘘ということになる。犯行の手口はまだつまびらかにされていないが、水原が大谷になりすまして大谷の口座から何回も送金したことは確かなようだ。
そしてこうなると、これまで水原あるいは水原・大谷関係において美談のごとく語られてきたことは、すべて詐欺と窃盗行為の一部であったことがわかる。
そもそも通訳が有名になること自体おかしい。これまでもアメリカのメジャーリーグでプレイするようになった日本人選手は何人もいるわけだが、当然、通訳もいただろうが、通訳の名前も顔も一般に広く知られることはなかった。それが水谷一平の場合は、大谷人気もあってか、名前も顔をよく知られるようになった。大谷のメジャーデビューを円滑にしチームメイトとの関係を良好にするように腐心し、なおかつ大谷にとってかけがえのない友人であり、キャッチボールの相手さえしたという麗しいエピソードが、これですべて詐欺のために、大谷を囲い込むための策略であったことになる。
いやキャッチボールの相手をしたということ自体、なにかおかしいと疑ってしかるべきだったのかもしれない。常に大谷に傍にいて球団やチームメイトのコミュニケーションを円滑にした水原の美談は、大谷を囲い込み、大谷の窓口になることで、大谷をコントロールする策略であり、球団と大谷とのコミュニケーションを阻害するものだったという悪しきエピソードへと転換する。
もちろん水原が最初からすべて計算してのことだったどうかわからない。そもそも大谷の通訳だから、もし借金がかさんでも大谷が肩代わりしてくれるだろうという思いが違法賭博の胴元の側にはある。大谷からの肩代わりを見込んで胴元側が水原に接近した可能性もある。大谷になりすます方法とか大谷の口座から送金する方法なども胴元から指南された可能性がある。
また大谷が違法と知りつつ肩代わりしたら、ペナルティとして出場停止処分になるかもしれず、アメリカ野球でスーパースターになったこの日本人選手の足をひっぱることができるかもしれない。さらに水原にお金の管理をまかせて多額の送金にも気づかなかった大谷のずさんさがアメリカ社会で批判されるようになれば、これもまた彼の足をひっぱるよいきっかけになる。その意味で、水原は利用された可能性もある。彼は被害者だったのかもしれない。
とはいえ水原のついた嘘の悪辣さ、また賭博の借金の額の多さからしても、彼が一方的な犠牲者だとは考えづらい。これまで賭けで水原よりも多額の借金を作った人物はたくさんいるようだが、それでも62億の円の損失は大きすぎるし、また自分の金ではなく盗んだ金での賭けとなると同情の余地も救いようもない。
これで大谷は免罪というか無罪になったようだが、これだって、作られたシナリオかもしれない。またそうでなくとも、大谷の契約--10年総額7億ドル(約1073億円)でドジャースと契約、そのうち97%が後払い--というのは、理由はよくわからないが、アメリカの税務署は頭にきていることはまちがいない(節税対策だとも実際に言われている)。大谷に対しては第二、第三の矢が放たれるかもしれない。
posted by ohashi at 22:19| コメント
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2024年04月10日
『ポート・オーソリティ』
もうすでにシアター・トラムでの上演は終了したのだが(シアター・トラム、2024年3月28日-31日)、コナー・マクファーソン『ポート・オーソリティ――港湾局』(翻訳:常田景子、演出:荒井遼)は実に興味深い演劇作品だった。
コナー・マクファーソンについては、アイルランドとアイルランド演劇に詳しくない私でも知っている人気作家で、昨年から今年にかけても『海をゆく者』の再演があった。私はそれを観ていないのだが、2014年のPARCO劇場(改装前の)における再演は観ていた。今回の『ポート・オーソリティ』は初めて聞く作品だったので、事前に予習というか作品を読んでみた。
これがクセモノの作品で、「ポート・オーソリティ=港湾局」というのは、どういう設定なのか、港湾での事件とか人間模様を扱うのか、たとえそうだとしても、そんなに観劇意欲がわかない題材ではないかと思ったのだが、読んでみてわかった。どこにも港湾局はでてこない。そもそも港の話でもない。なぜ「ポート・オーソリティ」なのだ。
登場人物は3人。20代のケヴィン、30代のダーモット、70代のジョー。3人がこの順番で独白をはじめる。独白は中断し、次の人物が独白始める。ひとりで5回話をする。全部で15場。この3人の関係性が謎としてつきつけられる。だが実は3人に関連性はない。たとえばこの3人は一人の人間の青年期、中年期、老齢期かと思ったのだが、それはちがった。まあ三期にわたる人生模様を描くということかもしれないが、同一人物のことではなかた。では親族とか友人といった緊密な関係にある3人かというとそうでもない。
この三人の話を注意してきくと、共通の人物なり事件なりがみえてくるのだが、しかし、だからといってそれはつながりともいえないつながりであって、会ったこともない遠い親戚だったり、同じ地域にたまたま住んでいたり、隣人の知り合いの親戚だったりという場合がそうであるように、とにかくゆるいつながりでしかない。
また20代のケヴィンの話の中に恋人と港まで行く体験が出てくるのだが、それ以外のふたりの話のなかに港は出てこない。「港湾局」は最後まで出てこない。謎である。
しかし世代の違う3人の男性を登場させ、港湾局という謎めいたタイトルを付けたからには、そこに隠れたというか潜在的な関連性が仕組まれているはずである。
ひとつにはそれは3人の男性が語る経験の同質性がある。もちろん別個のなんのつながりもない経験なのだが、同時に、それらは共通のテーマをもっている。脱出とその失敗。解放と束縛。別離と再会。とにかくいったんは脱出に成功するかにみえて、結局、ひきずりもどされるという落胆と絶望。そしてその先にある諦念と平安。
たとえばケヴィンは親元から離れ、同じ世代の仲間と共同生活を営むのだが、無軌道で無責任な男女にふりまわされて警察沙汰になり失意のまま実家に帰る――それみたことかという父親の嘲笑のもとで、そして失意と諦念のなかで過ごす実家での生活に安らぎも見出しながら。
ダーモットは、転職して大企業に雇われ、同僚とアメリカまで旅行するのだが、間違って採用されたことがわかり解雇され失意のままダブリンに帰るが、そのとき実は妻が主導権を握っていたという真実を知り、この母のごとき妻に慰められる。ダーモットのアルコール依存症による不祥事にもかかわらず大企業が採用を見送らないのはなぜかと不思議に思うのだが、ただ、彼は物笑いの種、道化的人物として、大企業のエリートたちから侮蔑と嘲笑の対象としてもてあそばれた可能性もある。
老人施設で暮らすジョーは、かつて妻が入院中に隣人の女性と浮気をしたことがあるが、最終的に妻を裏切ることができず、つかの間の不倫で終わる。その出来事が老人施設におけるジョーのもとに影を落としてくる。彼は、不倫によってあらたな夫婦関係への冒険を試みて諦め、さらにその過去の出来事から逃亡したはずが追い付かれてしまう。結局、妻も、不倫相手の女性も亡くなったことが分かった今、彼は、二人の女性の思い出のなかにひとしく安らぎを見出すことになる。
この間、三人の語りのなかに、共通の人物とか地名とか家族と名称が言及され、それを通して三人がまったく無関係ではないことがわかるが、しかし、それ以上に発展はしない。と同時に彼ら三人の経験の共通性が強く印象に残る。おそらくそれが港湾という、語りに出てこないものの、語りの内容の同質性を支えるイメージの由来であろう。港は旅立つ者と帰ってくる者との出会いと別れの場である。逃げようとして逃げることができなかった3人の男たちの物語。それはまるで海のかなたにあこがれながら、港から旅立つことのできなかった者たちの物語ともいえようか。とにかく出発と離脱と回帰と収容――それをとりにしきっている何かがある。オーソリティという名前で。
*
ああ、これはジョイスの「イーヴリン」の世界だ。ジョイスの『ダブリナーズ』のなかで、もっとも有名かもしれない一篇(その短さも有名であることに貢献しているにちがいない)では、船乗りに誘われて、家族を見捨てて、海のかなたの世界へと旅立とうとするイーヴリンが結局、土壇場のところで、断念する。冒険と離脱の夢は結局あえなくついえさる。アイルランドの地、血縁の絆からは逃れられないことの確認と諦念。おそらく、専門家でもない私がいうのは気が引けるが、いかにもアイルランド的な離脱と挫折の物語が、ここにも顔をのぞかせるというべきか。
だが、この作品の特異性は、この三人の男性が似かよった経験をしていながら、結局、一度も互いに言葉をかわすことはないということだ。言葉はすべて観客に向かって発せられる。彼らは、弱いつながりがあっても、本人はそれに気づいていない。気づくのは観客だけである。
今回は、朗読劇というかたちをとった。もちろんそれは演出の荒井遼氏によるもので、もともと、この劇は朗読劇ではない。なぜ朗読劇にしたかについては、こちらで推測するしなかいのだが、ひとつには、3人の出演者は、それぞれ長い独白をする。100分くらいの演劇だが、3人は総計30分あまり一人で話すことになる。たがいに言葉を交わすことはない。そうなると演者には、台詞を全部を覚えるのに相当負担を強いることになる。朗読劇にすれば、すくなくとも俳優の負担は大きく減る。アフタートークでは、稽古は3回だと語っていた。たった3回の稽古で済んだというのも朗読劇であるがゆえん。ただしケヴィンは3人の俳優によって演じられたので、すくなくとも残り二人も3回の稽古だとすると、全部で9回の通し稽古ということになるのだが。
しかしたんに俳優の負担を減らすというだけが朗読劇の設定ではないだろう。というのも3人の俳優は、手に台本を持っているのだが、台詞は全部入っているように思われた。手にした台本を読んでいるようでいて、実は、ページをめくらずに、台詞を発しつづけるのである。あるいは私の観たケヴィンは、最後のほうでは、台本を置いて、舞台を動き回る。朗読していない。朗読劇ということ自体、この演劇空間に飲み込まれて虚構化しているのである。
これは演出の荒井遼氏がアフタートークで語っていたことだが、この芝居には、最初に、‘The play is in the theatre’という謎のト書きというか但し書きがある。私も原作を読んだときに、荒井氏と同様、これがどういう意味なのかわからなかった。
私なりの考えをいえば、この作品は、3人の男性の独白=語り(告白あるいは告解あるいはただの経験譚)から成り立っていて、しかも3人は舞台ではからまないから、たとえば、ラジオドラマ(おそらく今では流行っていないのだろうが)として放送することもできる。3人の声を、語りを、リスナーが、耳から受け入れてなんの不都合があるのだろう。
あるいは私は原作を読んだのだが、ここはどうするのだろうかと劇場に足を運ぶ必要にはかられなかった。すべて独白というか台詞が、完結した語りになっていて、その語りから、いろいろ情景とか人物像を想像するしかないのだが、それが舞台上に現前することはない。だから読書が観劇によって補完されることはない。
あるいは語られることを映像化して、テレビドラマ化、さらには映画化もできるかもしれない。3人が語る体験は、それなりに面白い。それを語りではなく映像・映画として提示することは可能であろう。3つの物語がオムニバス作品のように映像化される。
だが、こうした試みというか可能性を作者は否定するというか、はなから拒んでいる。それが最初の但し書きからわかってくる。その但し書きは、あくまでも劇場で上演せよと要求しているのだ。年齢と世代も異なる3人の男性が、かわりばんこに、自分の人生のなかで起った出来事を観客に向かって語る。それを劇場で聞けというのが作者の求めることであった。
アフタートークのなかでケヴィン役の西山潤(ちなみにケヴィン役は、あと崎山つばさ、櫻井圭登が日替わりで担当)は、以前共演したことのある眞島秀和と、今回共演の平田満と同じ舞台に立てると楽しみにしていたのだが、舞台上で、3人はからまない、言葉を交わすことがないという設定なので残念だったという話をしていた。ただし、舞台上で絡むことはないのだが、他の二人の語りとか演技に影響は受けてほしいと演出の荒井氏からは求められと語っていた。
なるほどそういうことか、と荒井氏の配慮というか考慮に青天の霹靂的な啓示を得ることができた。たしかに三人が交互に話をするだけで言葉を交わさない舞台は異様であり、またその語りは、注意して聞かないと場所とか人物とか出来事の全容が把握しづらい。私は試しにと目をつぶって語りを聞いてみた。そうすると発せられた言葉がすっきりと耳に入り心地よかったが、そのまま眠ってしまいそうになって(これは語り方とか語りの内容が退屈だったということではない)、やはり目を開いて、語り手の姿と声を受け止め、あわせてほかの二人の姿も視界に入れた。語っていない残り二人は、ただ座っているだけで、観客の注意をひくような仕草なり動作をすることはないのだが、その存在感というか現前性は無視できない。まさにそれが作者のコナー・マクファーソンの狙いだということがわかった。
舞台上の3人の男性は、それぞれ自分の体験を語るだけで、互いに言葉を交わすことはない。しかし3人が舞台上にいることで、なにかつながりができる。実際、そうであり、語られた体験は、直接的なつながりはないが、というか直接的なつながりがないがゆえに、かえって、その同質性が強烈に認知されるのではないか。そしてそれは3人の演者による語りと演技が劇場ならではの化学反応を起こし、その都度、3人の語りにプラスα的な、あるいは予期せぬなにかが付加される。それがなんであるかはわかないが、いやわからないからこそ、劇場的な生がオーラが化学反応が期待できる。ラジオドラマやテレビドラマあるいは映画には望めない、劇場的な生がここにはある。
ちなにに私が観た回は、すでに述べたようにケヴィン/西山潤、ダーモット/眞島秀和、ジョー/平田満の組み合わせだったが、それ以外にほかの組み合わせの回もあり、同じ台本なのに、舞台の印象は変わるのではないか、できればほかの回、ほかの組み合わせでの回もみてみたいと本気で思って、当日券でもあれば、翌日も観劇しようと思ったのだが、私の計画は、しかし、突如として訪れた体調不良のために、頓挫することになった(数日間、寝込んだわけではないが、何もできなかった。病院での検査では感染症ではなかった)。同じ劇であるのに、毎日べつの劇をみるという稀有な経験を見過ごすことになったのは残念だった。
それはともかく、演劇ならではの化学反応というのは、抽象的あるいは観念的な表現であって、それがなんであるのかを語るあるいは示唆しないと、何も言わないに等しいと非難されるかもしれない。しかし、この作品に限っては化学反応はある程度までその輪郭が描かれ暗示されているかもしれない――輪郭と暗示、またも観念的な表現と再度非難されるかもしれないが。
荒井氏の演出は、舞台を、夜の港それも港湾というよりも波止場あるいは漁村の船着き場というようなところに見立てている。もちろんこれは荒井氏の考案によるものだろうが、ポート・オーソリティという劇のタイトルに少しでも接近しようという試みかもしれない。と同時に、それは三人の男たちの眼前には、夜の海がみえていることになる。そう、これもまた水の物語ではないのか。『海をゆく者たち』も、これは船乗りとか漁師たちの話ではまったくない。ただイメージである。『ポート・オーソリティ』もまた港湾とか港湾局の話ではまったくない。ただのイメージである。そして船、船乗り、港といったイメージは、水の物語であることとつながっているはずである。
『ポート・オーソリティ』は、水の物語である。三人の男たちは、それぞれ恋人なり伴侶がいるのだが、しかし、彼女たちは、添え物かあるいは聖母マリア的な存在で、女性的存在としては男性の男性性を軸とする経験に深くからんでくることはない。そして三人の男たちのホモソーシャルの関係。三人が語る体験談は、ホモソーシャルではないが、舞台、つまり男3人だけの舞台ははホモソーシャルである。そしてこのホモソーシャル関係に、港とか水の物語のイメージが付与されることによって、同性愛的な関係が浮かび上がってくる。傷ついた男たちを救うものがなんであるのか、男たちは気づいていない。だが水の物語である以上、彼らを救うものはおのずと知れてくる。
今回の荒井氏の演出はそこに気づかされるものだった。もちろん、それは荒井氏が望んだものか、そうでないかは別として。とにかく面白く刺激的な舞台だった。
コナー・マクファーソンについては、アイルランドとアイルランド演劇に詳しくない私でも知っている人気作家で、昨年から今年にかけても『海をゆく者』の再演があった。私はそれを観ていないのだが、2014年のPARCO劇場(改装前の)における再演は観ていた。今回の『ポート・オーソリティ』は初めて聞く作品だったので、事前に予習というか作品を読んでみた。
これがクセモノの作品で、「ポート・オーソリティ=港湾局」というのは、どういう設定なのか、港湾での事件とか人間模様を扱うのか、たとえそうだとしても、そんなに観劇意欲がわかない題材ではないかと思ったのだが、読んでみてわかった。どこにも港湾局はでてこない。そもそも港の話でもない。なぜ「ポート・オーソリティ」なのだ。
登場人物は3人。20代のケヴィン、30代のダーモット、70代のジョー。3人がこの順番で独白をはじめる。独白は中断し、次の人物が独白始める。ひとりで5回話をする。全部で15場。この3人の関係性が謎としてつきつけられる。だが実は3人に関連性はない。たとえばこの3人は一人の人間の青年期、中年期、老齢期かと思ったのだが、それはちがった。まあ三期にわたる人生模様を描くということかもしれないが、同一人物のことではなかた。では親族とか友人といった緊密な関係にある3人かというとそうでもない。
この三人の話を注意してきくと、共通の人物なり事件なりがみえてくるのだが、しかし、だからといってそれはつながりともいえないつながりであって、会ったこともない遠い親戚だったり、同じ地域にたまたま住んでいたり、隣人の知り合いの親戚だったりという場合がそうであるように、とにかくゆるいつながりでしかない。
また20代のケヴィンの話の中に恋人と港まで行く体験が出てくるのだが、それ以外のふたりの話のなかに港は出てこない。「港湾局」は最後まで出てこない。謎である。
しかし世代の違う3人の男性を登場させ、港湾局という謎めいたタイトルを付けたからには、そこに隠れたというか潜在的な関連性が仕組まれているはずである。
ひとつにはそれは3人の男性が語る経験の同質性がある。もちろん別個のなんのつながりもない経験なのだが、同時に、それらは共通のテーマをもっている。脱出とその失敗。解放と束縛。別離と再会。とにかくいったんは脱出に成功するかにみえて、結局、ひきずりもどされるという落胆と絶望。そしてその先にある諦念と平安。
たとえばケヴィンは親元から離れ、同じ世代の仲間と共同生活を営むのだが、無軌道で無責任な男女にふりまわされて警察沙汰になり失意のまま実家に帰る――それみたことかという父親の嘲笑のもとで、そして失意と諦念のなかで過ごす実家での生活に安らぎも見出しながら。
ダーモットは、転職して大企業に雇われ、同僚とアメリカまで旅行するのだが、間違って採用されたことがわかり解雇され失意のままダブリンに帰るが、そのとき実は妻が主導権を握っていたという真実を知り、この母のごとき妻に慰められる。ダーモットのアルコール依存症による不祥事にもかかわらず大企業が採用を見送らないのはなぜかと不思議に思うのだが、ただ、彼は物笑いの種、道化的人物として、大企業のエリートたちから侮蔑と嘲笑の対象としてもてあそばれた可能性もある。
老人施設で暮らすジョーは、かつて妻が入院中に隣人の女性と浮気をしたことがあるが、最終的に妻を裏切ることができず、つかの間の不倫で終わる。その出来事が老人施設におけるジョーのもとに影を落としてくる。彼は、不倫によってあらたな夫婦関係への冒険を試みて諦め、さらにその過去の出来事から逃亡したはずが追い付かれてしまう。結局、妻も、不倫相手の女性も亡くなったことが分かった今、彼は、二人の女性の思い出のなかにひとしく安らぎを見出すことになる。
この間、三人の語りのなかに、共通の人物とか地名とか家族と名称が言及され、それを通して三人がまったく無関係ではないことがわかるが、しかし、それ以上に発展はしない。と同時に彼ら三人の経験の共通性が強く印象に残る。おそらくそれが港湾という、語りに出てこないものの、語りの内容の同質性を支えるイメージの由来であろう。港は旅立つ者と帰ってくる者との出会いと別れの場である。逃げようとして逃げることができなかった3人の男たちの物語。それはまるで海のかなたにあこがれながら、港から旅立つことのできなかった者たちの物語ともいえようか。とにかく出発と離脱と回帰と収容――それをとりにしきっている何かがある。オーソリティという名前で。
*
ああ、これはジョイスの「イーヴリン」の世界だ。ジョイスの『ダブリナーズ』のなかで、もっとも有名かもしれない一篇(その短さも有名であることに貢献しているにちがいない)では、船乗りに誘われて、家族を見捨てて、海のかなたの世界へと旅立とうとするイーヴリンが結局、土壇場のところで、断念する。冒険と離脱の夢は結局あえなくついえさる。アイルランドの地、血縁の絆からは逃れられないことの確認と諦念。おそらく、専門家でもない私がいうのは気が引けるが、いかにもアイルランド的な離脱と挫折の物語が、ここにも顔をのぞかせるというべきか。
だが、この作品の特異性は、この三人の男性が似かよった経験をしていながら、結局、一度も互いに言葉をかわすことはないということだ。言葉はすべて観客に向かって発せられる。彼らは、弱いつながりがあっても、本人はそれに気づいていない。気づくのは観客だけである。
今回は、朗読劇というかたちをとった。もちろんそれは演出の荒井遼氏によるもので、もともと、この劇は朗読劇ではない。なぜ朗読劇にしたかについては、こちらで推測するしなかいのだが、ひとつには、3人の出演者は、それぞれ長い独白をする。100分くらいの演劇だが、3人は総計30分あまり一人で話すことになる。たがいに言葉を交わすことはない。そうなると演者には、台詞を全部を覚えるのに相当負担を強いることになる。朗読劇にすれば、すくなくとも俳優の負担は大きく減る。アフタートークでは、稽古は3回だと語っていた。たった3回の稽古で済んだというのも朗読劇であるがゆえん。ただしケヴィンは3人の俳優によって演じられたので、すくなくとも残り二人も3回の稽古だとすると、全部で9回の通し稽古ということになるのだが。
しかしたんに俳優の負担を減らすというだけが朗読劇の設定ではないだろう。というのも3人の俳優は、手に台本を持っているのだが、台詞は全部入っているように思われた。手にした台本を読んでいるようでいて、実は、ページをめくらずに、台詞を発しつづけるのである。あるいは私の観たケヴィンは、最後のほうでは、台本を置いて、舞台を動き回る。朗読していない。朗読劇ということ自体、この演劇空間に飲み込まれて虚構化しているのである。
これは演出の荒井遼氏がアフタートークで語っていたことだが、この芝居には、最初に、‘The play is in the theatre’という謎のト書きというか但し書きがある。私も原作を読んだときに、荒井氏と同様、これがどういう意味なのかわからなかった。
私なりの考えをいえば、この作品は、3人の男性の独白=語り(告白あるいは告解あるいはただの経験譚)から成り立っていて、しかも3人は舞台ではからまないから、たとえば、ラジオドラマ(おそらく今では流行っていないのだろうが)として放送することもできる。3人の声を、語りを、リスナーが、耳から受け入れてなんの不都合があるのだろう。
あるいは私は原作を読んだのだが、ここはどうするのだろうかと劇場に足を運ぶ必要にはかられなかった。すべて独白というか台詞が、完結した語りになっていて、その語りから、いろいろ情景とか人物像を想像するしかないのだが、それが舞台上に現前することはない。だから読書が観劇によって補完されることはない。
あるいは語られることを映像化して、テレビドラマ化、さらには映画化もできるかもしれない。3人が語る体験は、それなりに面白い。それを語りではなく映像・映画として提示することは可能であろう。3つの物語がオムニバス作品のように映像化される。
だが、こうした試みというか可能性を作者は否定するというか、はなから拒んでいる。それが最初の但し書きからわかってくる。その但し書きは、あくまでも劇場で上演せよと要求しているのだ。年齢と世代も異なる3人の男性が、かわりばんこに、自分の人生のなかで起った出来事を観客に向かって語る。それを劇場で聞けというのが作者の求めることであった。
アフタートークのなかでケヴィン役の西山潤(ちなみにケヴィン役は、あと崎山つばさ、櫻井圭登が日替わりで担当)は、以前共演したことのある眞島秀和と、今回共演の平田満と同じ舞台に立てると楽しみにしていたのだが、舞台上で、3人はからまない、言葉を交わすことがないという設定なので残念だったという話をしていた。ただし、舞台上で絡むことはないのだが、他の二人の語りとか演技に影響は受けてほしいと演出の荒井氏からは求められと語っていた。
なるほどそういうことか、と荒井氏の配慮というか考慮に青天の霹靂的な啓示を得ることができた。たしかに三人が交互に話をするだけで言葉を交わさない舞台は異様であり、またその語りは、注意して聞かないと場所とか人物とか出来事の全容が把握しづらい。私は試しにと目をつぶって語りを聞いてみた。そうすると発せられた言葉がすっきりと耳に入り心地よかったが、そのまま眠ってしまいそうになって(これは語り方とか語りの内容が退屈だったということではない)、やはり目を開いて、語り手の姿と声を受け止め、あわせてほかの二人の姿も視界に入れた。語っていない残り二人は、ただ座っているだけで、観客の注意をひくような仕草なり動作をすることはないのだが、その存在感というか現前性は無視できない。まさにそれが作者のコナー・マクファーソンの狙いだということがわかった。
舞台上の3人の男性は、それぞれ自分の体験を語るだけで、互いに言葉を交わすことはない。しかし3人が舞台上にいることで、なにかつながりができる。実際、そうであり、語られた体験は、直接的なつながりはないが、というか直接的なつながりがないがゆえに、かえって、その同質性が強烈に認知されるのではないか。そしてそれは3人の演者による語りと演技が劇場ならではの化学反応を起こし、その都度、3人の語りにプラスα的な、あるいは予期せぬなにかが付加される。それがなんであるかはわかないが、いやわからないからこそ、劇場的な生がオーラが化学反応が期待できる。ラジオドラマやテレビドラマあるいは映画には望めない、劇場的な生がここにはある。
ちなにに私が観た回は、すでに述べたようにケヴィン/西山潤、ダーモット/眞島秀和、ジョー/平田満の組み合わせだったが、それ以外にほかの組み合わせの回もあり、同じ台本なのに、舞台の印象は変わるのではないか、できればほかの回、ほかの組み合わせでの回もみてみたいと本気で思って、当日券でもあれば、翌日も観劇しようと思ったのだが、私の計画は、しかし、突如として訪れた体調不良のために、頓挫することになった(数日間、寝込んだわけではないが、何もできなかった。病院での検査では感染症ではなかった)。同じ劇であるのに、毎日べつの劇をみるという稀有な経験を見過ごすことになったのは残念だった。
それはともかく、演劇ならではの化学反応というのは、抽象的あるいは観念的な表現であって、それがなんであるのかを語るあるいは示唆しないと、何も言わないに等しいと非難されるかもしれない。しかし、この作品に限っては化学反応はある程度までその輪郭が描かれ暗示されているかもしれない――輪郭と暗示、またも観念的な表現と再度非難されるかもしれないが。
荒井氏の演出は、舞台を、夜の港それも港湾というよりも波止場あるいは漁村の船着き場というようなところに見立てている。もちろんこれは荒井氏の考案によるものだろうが、ポート・オーソリティという劇のタイトルに少しでも接近しようという試みかもしれない。と同時に、それは三人の男たちの眼前には、夜の海がみえていることになる。そう、これもまた水の物語ではないのか。『海をゆく者たち』も、これは船乗りとか漁師たちの話ではまったくない。ただイメージである。『ポート・オーソリティ』もまた港湾とか港湾局の話ではまったくない。ただのイメージである。そして船、船乗り、港といったイメージは、水の物語であることとつながっているはずである。
『ポート・オーソリティ』は、水の物語である。三人の男たちは、それぞれ恋人なり伴侶がいるのだが、しかし、彼女たちは、添え物かあるいは聖母マリア的な存在で、女性的存在としては男性の男性性を軸とする経験に深くからんでくることはない。そして三人の男たちのホモソーシャルの関係。三人が語る体験談は、ホモソーシャルではないが、舞台、つまり男3人だけの舞台ははホモソーシャルである。そしてこのホモソーシャル関係に、港とか水の物語のイメージが付与されることによって、同性愛的な関係が浮かび上がってくる。傷ついた男たちを救うものがなんであるのか、男たちは気づいていない。だが水の物語である以上、彼らを救うものはおのずと知れてくる。
今回の荒井氏の演出はそこに気づかされるものだった。もちろん、それは荒井氏が望んだものか、そうでないかは別として。とにかく面白く刺激的な舞台だった。
posted by ohashi at 22:39| 演劇
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2024年04月08日
あみだかぶり
ヘルメットというか保護帽を後ろにむけてかぶるのを、あみだかぶりといって、ヘルメット着用の際には避けるように言われている。
あみだかぶりという表現は初めて知ったのだが、あみだかぶりそのものは、昔から存在している。
ミドリ安全.comのウェブサイトには、以下の注意書きがある。
問題は台風などのレポートのとき、レポーターが、このあみだかぶりをして状況を伝えたことでバッシングを受けたことだ。そんなに前髪が気になるのかというかたちで。さらにはネット上ではあみだかぶりをする者たちへの憎悪をにじませる記事もあり、そうした記事には警備員を職業としている人間が、あみだかぶりをする者の人格攻撃をするものもあって、私など、あみだかぶり攻撃をする人間に対し、おまえの人格こそ破綻している、自害せよと言ってやりたくなるのだが……。
私たちの着こなしとか身に着け方には、オンとオフの状態があって、なかでもオンとオフが裏表ではなく対等の関係にあったり、ときにはオンよりもオフのほうが評価されるものがある。たとえば男性のネクタイ。あらたまった場、正装とか正式の場では、きちんとネクタイを締めるのが当然のことなのだろうが、ネクタイは、同時に、結び目を下にさげ、ネクタイをゆるめることがある。
きちんと締めるのがオン。すこしだらしなくリラックスしたかたちでゆるめるのがオフである。もちろん正式の場で、だらしないネクタイは許されない。しかし緊張した時間が終わりリラックスするときネクタイをゆるめる者たちは多い。緊張とリラックス。表と裏との関係はしかし、逆転することもある。リラックスしてネクタイをゆるめたオフの状態のほうがかっこよくて、逆に、ネクタイをきちんと締めるのはフォーマル感はあるものの同時にダサい感じもする。さらにいえばネクタイをゆるめた格好そのものがかっこよくて着こなしのファッションとなることもある。くりかえすが、ネクタイは、オンとオフのふたつの身に着け方があるのだが、時としてオンの状態がダサくてオフの状態がファッショナブルなことはある。
【追記:同様の例は男性の無精ひげである。無精ひげは、通常のおしゃれのひげとは違い、だらしないだけという面もあるが、たとえば無精ひげが男くささの象徴としてみられることもある。これは本来オフの無精ひげが、きちんとひげを剃ったオンの状態よりもかっこいいとみなされるよい例である。実際、近年のアメリカのドラマでは人種にかかわらず無精ひげの男性が精悍な男性性をにじませるマッチョな男の代表となっている。】
ヘルメットも同じである。オフはあみだかぶり状態である。もちろんヘルメットを着用して作業をする仕事をするときに、あみだかぶりはしてはいけないのだが、リラックスするとき、緊張をほぐすとき、休憩中は、あみだかぶりがふつうであり、そしてあみだかぶりのほうが、仕事慣れしたベテラン感を出すことができる。逆にきちんとヘルメットをかぶっているだけの者は、がちがちに緊張していて精神的余裕がなく、信頼できない感じもする。あみだかぶりをしている者のほうが、信頼度が高い。そしてヘルメットをファッションとして着用する場合には、目深にかぶってバンドを固定するダサいかぶり方よりも、あみだかぶりのほうがかっこいい。
戦争映画では、激しい戦闘場面は別として、リラックスしている兵士たちはみんなあみだかぶりをしていた。ヘルメットを目深にかぶってあごにバンドで固定しているのは、がちがちに緊張している新兵であり、古参の兵隊は、日常的にはあみだかぶりであった。
私が子供の頃、人気があったアメリカの戦争物のテレビドラマ『コンバット』で主役のひとりサンダース軍曹のイメージは、まさに、あみだかぶりのヒーローであった。
あるいは別の戦争映画かドラマでは、顎紐をしっかりつけようとする新兵に、古参の兵隊が、あごひもははずしておけ、さもないと爆風で首がもげるとアドヴァイスしていたことを私はいまも覚えている。そのアドヴァイスが正しいものかどうかわからないが(とはいえまちがったアドヴァイスをするというのは考えられないのだが)、あごひもは外しておく、また戦闘以外のリラックスしているときにはあみだかぶりというのが、かっこいい兵士像であった。
【追記:これについては私の記憶があいまいだったのだが、Wikipediaの『コンバット』の項目に以下の記述があった:
上記の「別の戦争映画かドラマでは」という私の記述はまちがいで、『コンバット』での設定であった。いずれにしても、Wikipedaの記述が正しければ、あみだかぶりや顎紐をはずすという、一見だらしない着用法も、現実には戦闘時にも存在していたことになる。なおACHは米陸軍や空軍で使われている最新の戦闘ヘルメット、LWHは米海兵隊で使われているヘルメットのこと。】
実際、子供の頃、なにかの理由で(おそらく避難訓練)、ヘルメットをかぶることがあったのだが、私はそのときあみだかぶりをしてみた。顎のベルトはつけなかった。そのほうがベテラン感がでて、有能な古参の兵隊のような気分になった。ヘルメットの場合、オンがださくて、オフのほうがかっこよかった。
またテレビのレポーターが被災地あるいは悪天候の地でヘルメットをかぶって報告するときに、あみだかぶりをしているのは、たんにそのほうがかっこいいからではなくて、目深にヘルメットをかぶると顔がみえなくなるからだろう。ヘルメットを目深にかぶって、顔も表情もよくわからない人間が報告することほど不気味なものはない。それならロボットに報告させればいいのではないか。やはり顔を出さないとみている側も安心していられない。
またレポーターがあみだかぶりをしていたら、正しいヘルメットの着用法が国民に伝わらないと批判するファシストがいるが、レポーターは、離陸前の救命胴衣の着用法を身をもって示すCAじゃない。またあみだかぶりが、ゆるめたネクタイと同じで、正しいあるいは正式な着用法・かぶり方ではないことくらい、誰にもわかる。非正規の、くずれた着用法だからこそ、カッコイイという部類に入る装具品に、ネクタイと同じくヘルメットも入る。
【追記:もし私が報道関係者で、AIレポーターをつくるとすれば、ネクタイをゆるめたかっこうのAIの映像はだらしないだけで作ることをしないが、あみだかぶりをするAIレポーターは登場させるかもしれない。そのほうがAI臭さ、あるいは機械映像臭さを払拭できる気がするので。もっとも正しいヘルメットかぶり推進ファシストの反対にあってやめるかもしれないが。】
そしてこんな初歩的なこともわからずに、ヘルメットのあみだかぶりを批判している輩こそ、人格が破綻していることを自覚せよと言ってやりたい。
あみだかぶりという表現は初めて知ったのだが、あみだかぶりそのものは、昔から存在している。
ミドリ安全.comのウェブサイトには、以下の注意書きがある。
かぶり方
保護帽はまっすぐに深くかぶり、後ろに傾けてかぶらないようにしてください。(あみだかぶりをしないでください。)
ヘッドバンドの調節
ヘッドバンドは、頭の大きさに合わせて調節し、確実に固定してください。(ヘッドバンドの調節が悪いと、使用中にぐらついたり脱げやすく、保護性能を十分に発揮することができません。)
アゴひも
アゴひもは緩みがないようにしっかりと締めてください。着用中は、ゆるめたり外さないでください。(事故のとき、保護帽が脱げて重大な傷害を受けます。)
問題は台風などのレポートのとき、レポーターが、このあみだかぶりをして状況を伝えたことでバッシングを受けたことだ。そんなに前髪が気になるのかというかたちで。さらにはネット上ではあみだかぶりをする者たちへの憎悪をにじませる記事もあり、そうした記事には警備員を職業としている人間が、あみだかぶりをする者の人格攻撃をするものもあって、私など、あみだかぶり攻撃をする人間に対し、おまえの人格こそ破綻している、自害せよと言ってやりたくなるのだが……。
私たちの着こなしとか身に着け方には、オンとオフの状態があって、なかでもオンとオフが裏表ではなく対等の関係にあったり、ときにはオンよりもオフのほうが評価されるものがある。たとえば男性のネクタイ。あらたまった場、正装とか正式の場では、きちんとネクタイを締めるのが当然のことなのだろうが、ネクタイは、同時に、結び目を下にさげ、ネクタイをゆるめることがある。
きちんと締めるのがオン。すこしだらしなくリラックスしたかたちでゆるめるのがオフである。もちろん正式の場で、だらしないネクタイは許されない。しかし緊張した時間が終わりリラックスするときネクタイをゆるめる者たちは多い。緊張とリラックス。表と裏との関係はしかし、逆転することもある。リラックスしてネクタイをゆるめたオフの状態のほうがかっこよくて、逆に、ネクタイをきちんと締めるのはフォーマル感はあるものの同時にダサい感じもする。さらにいえばネクタイをゆるめた格好そのものがかっこよくて着こなしのファッションとなることもある。くりかえすが、ネクタイは、オンとオフのふたつの身に着け方があるのだが、時としてオンの状態がダサくてオフの状態がファッショナブルなことはある。
【追記:同様の例は男性の無精ひげである。無精ひげは、通常のおしゃれのひげとは違い、だらしないだけという面もあるが、たとえば無精ひげが男くささの象徴としてみられることもある。これは本来オフの無精ひげが、きちんとひげを剃ったオンの状態よりもかっこいいとみなされるよい例である。実際、近年のアメリカのドラマでは人種にかかわらず無精ひげの男性が精悍な男性性をにじませるマッチョな男の代表となっている。】
ヘルメットも同じである。オフはあみだかぶり状態である。もちろんヘルメットを着用して作業をする仕事をするときに、あみだかぶりはしてはいけないのだが、リラックスするとき、緊張をほぐすとき、休憩中は、あみだかぶりがふつうであり、そしてあみだかぶりのほうが、仕事慣れしたベテラン感を出すことができる。逆にきちんとヘルメットをかぶっているだけの者は、がちがちに緊張していて精神的余裕がなく、信頼できない感じもする。あみだかぶりをしている者のほうが、信頼度が高い。そしてヘルメットをファッションとして着用する場合には、目深にかぶってバンドを固定するダサいかぶり方よりも、あみだかぶりのほうがかっこいい。
戦争映画では、激しい戦闘場面は別として、リラックスしている兵士たちはみんなあみだかぶりをしていた。ヘルメットを目深にかぶってあごにバンドで固定しているのは、がちがちに緊張している新兵であり、古参の兵隊は、日常的にはあみだかぶりであった。
私が子供の頃、人気があったアメリカの戦争物のテレビドラマ『コンバット』で主役のひとりサンダース軍曹のイメージは、まさに、あみだかぶりのヒーローであった。
あるいは別の戦争映画かドラマでは、顎紐をしっかりつけようとする新兵に、古参の兵隊が、あごひもははずしておけ、さもないと爆風で首がもげるとアドヴァイスしていたことを私はいまも覚えている。そのアドヴァイスが正しいものかどうかわからないが(とはいえまちがったアドヴァイスをするというのは考えられないのだが)、あごひもは外しておく、また戦闘以外のリラックスしているときにはあみだかぶりというのが、かっこいい兵士像であった。
【追記:これについては私の記憶があいまいだったのだが、Wikipediaの『コンバット』の項目に以下の記述があった:
サンダースなどが、ヘルメットの顎紐を外しているのは、これをしっかりと締めていると近くで強烈な爆風を浴びた時に、ヘルメットの内側に爆風が吹き込み、ヘルメットを吹き飛ばす風力が顎紐から首に集中的にかかって、首の骨が折れると現場の兵士達に信じられていた為であるが(顎紐を締めていなければ爆風を受けてもヘルメットが飛ぶだけで済む)、白兵戦の時に敵にヘルメットを引っ張られると顎紐が首を絞めるという、より現実的な問題もあった。後に衝撃で外れる顎紐に変更されるが、顎紐をしない兵士は依然多かった。21世紀の現在でも顎紐を締めずヘルメットの縁に引っ掛けておく者はいる。現行のACHやLWHではこの技は使えない。
上記の「別の戦争映画かドラマでは」という私の記述はまちがいで、『コンバット』での設定であった。いずれにしても、Wikipedaの記述が正しければ、あみだかぶりや顎紐をはずすという、一見だらしない着用法も、現実には戦闘時にも存在していたことになる。なおACHは米陸軍や空軍で使われている最新の戦闘ヘルメット、LWHは米海兵隊で使われているヘルメットのこと。】
実際、子供の頃、なにかの理由で(おそらく避難訓練)、ヘルメットをかぶることがあったのだが、私はそのときあみだかぶりをしてみた。顎のベルトはつけなかった。そのほうがベテラン感がでて、有能な古参の兵隊のような気分になった。ヘルメットの場合、オンがださくて、オフのほうがかっこよかった。
またテレビのレポーターが被災地あるいは悪天候の地でヘルメットをかぶって報告するときに、あみだかぶりをしているのは、たんにそのほうがかっこいいからではなくて、目深にヘルメットをかぶると顔がみえなくなるからだろう。ヘルメットを目深にかぶって、顔も表情もよくわからない人間が報告することほど不気味なものはない。それならロボットに報告させればいいのではないか。やはり顔を出さないとみている側も安心していられない。
またレポーターがあみだかぶりをしていたら、正しいヘルメットの着用法が国民に伝わらないと批判するファシストがいるが、レポーターは、離陸前の救命胴衣の着用法を身をもって示すCAじゃない。またあみだかぶりが、ゆるめたネクタイと同じで、正しいあるいは正式な着用法・かぶり方ではないことくらい、誰にもわかる。非正規の、くずれた着用法だからこそ、カッコイイという部類に入る装具品に、ネクタイと同じくヘルメットも入る。
【追記:もし私が報道関係者で、AIレポーターをつくるとすれば、ネクタイをゆるめたかっこうのAIの映像はだらしないだけで作ることをしないが、あみだかぶりをするAIレポーターは登場させるかもしれない。そのほうがAI臭さ、あるいは機械映像臭さを払拭できる気がするので。もっとも正しいヘルメットかぶり推進ファシストの反対にあってやめるかもしれないが。】
そしてこんな初歩的なこともわからずに、ヘルメットのあみだかぶりを批判している輩こそ、人格が破綻していることを自覚せよと言ってやりたい。
posted by ohashi at 17:29| コメント
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2024年04月06日
『ゴジラ-1.0』
『ゴジラ-1.0』(ゴジラ マイナスワン英題: GODZILLA MINUS ONE])は、2023年11月3日公開のTOHOスタジオ・ROBOT制作による日本映画。【中略】タイトルに付けられた-1.0には、「戦後、無(ゼロ)になった日本へ追い打ちをかけるように現れたゴジラがこの国を負(マイナス)に叩き落とす」という意味がある。
とWikipediaでは説明しているが、実際、この説明(下線部)は、広く伝えられているが、そんな珍奇な説明を誰が信用するのか。
そもそもがゴジラの存在そのものも架空のものであって、実数というよりは負数の世界、マイナス・ワンの世界である。まあ虚構作品はみんなそうだと言えばそうなのだが。
しかしゴジラ映画というかゴジラ・フランチャイズのなかでの本作の位置づけを考えてみれば、-1.0の意味はみえてくる。ゴジラが最後には撃退されることは誰もが予想することなので、ネタバレでもなんでもないのだが、最後に破壊され深海へと沈んでゆくゴジラというかその破片だが、心臓だけは生きている。となれば、この心臓を核にしてやがてゴジラが再生し、再び日本を襲うということになる。7年後の1954年に。
ということはこの『ゴジラ-1.0』は、『ゴジラ』映画の第一作で描かれた出来事の前日譚ということなる。
ちなみに1947年に東京の銀座を襲ったゴジラは、メディアによっても報道されたのだが、政府あるいは進駐軍GHQは、その詳細を隠しているし、ゴジラを撃退する「海神作戦」も極秘裏に行なわれて一般国民の知るところではなかった。まさに闇から闇へと葬られた事件であり、抑圧されたものの回帰として1954年のゴジラが登場するということになる。つまり前日譚の出来事は、広く知られることはなかったという設定であろう。
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私は何の予備知識もなく映画をみたのだが、ゴジラ映画が登場した頃に生まれ、少年時代を送った私には、軍事オタクとまちがわれそうなほどの軍事知識が自然に入ってくる環境にいたため、第二次大戦についてはかなりの知識がある。
重巡洋艦高雄が登場した。シンガポールで修理中に終戦を迎えた、この高雄級の一番艦の登場には感慨深いものがあった(高雄は、実際には1945年に沈没処分されている)。シンガポールでは迷彩塗装を施された高雄だが、映画でゴジラに食われる前の高雄は迷彩塗装はしていなかったと思う。なお当時の重巡洋艦には日本の山の名前がつけられた。高雄級は他に「鳥海」「摩耶」「愛宕」の三艦がある。いずれも山の名前がついている。「高雄」は八王子の「高尾山」のことかと勘違いする人がいるかもしれないが、台湾の高雄山のこと、と私は思っていた。当時日本は台湾を植民地化していたので、台湾は日本の一部であった。しかし、京都の高雄山であるという説があり、これが正しいようだ。ちなみに台湾の高雄市という市の名前を巡洋艦に付けることはないと堂々と述べているバカサイトがあったが、台湾の高雄市には現在柴山と呼ばれている(寿山とも呼ばれる)山があって日本統治下では高雄山と呼ばれていた【さらにいうと戦時下の台湾には有名な山があった。真珠湾攻撃の暗号、ニイタカヤマノボレの、ニイタカヤマである】。
あるいは駆逐艦「雪風」。戦艦大和の沖縄特攻に随伴した護衛艦のひとつで、大和ならびに護衛艦の多くがアメリカ軍の猛攻によって沈没したなか、生き残った艦のひとつ。戦後は戦時賠償艦として中華民国に引き渡された。その雪風が「海神作戦」で指揮艦となるのも感慨深いものがあった。
要は高雄にしろ雪風にしろ、死にぞこなった生き残りの者たち(特攻隊だった主人公もその1人)が、セカンドチャンスにかける話。臆病風に吹かれて死ねなかった、あるいは偶然が幸いしてか生き残ってしまった者たちが、もう一度、たとえ生き残ることをめざすとはいえ、結局は死におおせることを目的とした特攻作戦を行ない、辛くも勝利するというのがこの映画である。もちろん、セカンドチャンスはなかったのだが、もしあったならという、虚構性・架空性を前提としている。まさにIFの世界。それゆえに、-1.0である。すでに終わったことを、もう一度前に戻す。それが-1.0であり、またありえなかったが、あってほしかった負の世界を描くという自意識を出しての-1.0ということにちがいない。
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映画の中では、ゴジラに襲われた通勤電車からからくも逃げ延びて、銀座で夫と再会する大石典子/浜辺美波だが、再会もつかのま、ゴジラが放つ熱線の爆風で吹き飛ばされて行方不明となる。この彼女が最後にどうなるか。彼女が行方不明となって死んだとなると悲劇性が増して、たとえゴジラを倒しても、主人公に、また観客にも、彼女のことは貴い犠牲と損失としてを受け止められるのだが、もし生きていたということになれば、安易なメロドラマ化に映画が屈したことになるのではと観ながら考えた。
最後、彼女が生きていることがわかり、敷島浩一/神木隆之介は、娘とともども病院いかけつける。病室には包帯を巻いた浜辺美波がベッドに横たわっている。感動的あるいはメロドラマ的再会であり、結局、そういうふうに映画をつくったのかと思い、ややがっかりしたのだが、このとき浜辺美波の娘(実際には血はつながっていないのだが)で永谷咲笑扮する明子は何の反応もしていない。あんなに会いたがっていた母親がそこにいるのにぽかんとしている。まあその場面は浜辺と神木の再会がメインで、母と娘の再会は二の次であり、子役にも再会の感動を演じさせるのには無理がある。
まあ子役の限界ということになるのかもしれないが、しかし演出の工夫によって、子役の限界を感じさせないでおくこともできたはずではないか。ということは、おそらく、これは意図的か。
ふと思う。子役の明子は、実は、そこに母親の姿を見ていないのでは、と。彼女の母親、神木の妻、浜辺は、実は、死んでしまっていて、もうそこにはいないのでは。すべてが生きていてほしい、再会したいという神木がみている幻影ではないか、と。だから、そこに何もみていない、そもそも最初から存在していなかった死んだ母親をみていない明子は、実は真実をみていた。
浜辺は死んだ、神木が彼女の幻影をみている。娘はそこになにも見ていないから無反応である。おそらく神木にとって浜辺は-1.0である。その意味で、映画の物語も、敗戦のあと生き残った者たちに、ありえたかもしれない夢を見せたという意味でも、史実の負の世界をみせる、まさに-1.0の世界でもあった。映画はこのことをそれとなく知らせているのではないか。この-1.0の世界を成立させる要となるのが、登場して暴れたあと負けて排除されるスケープゴートとしてのゴジラなのではないだろうか。
posted by ohashi at 14:58| 映画
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2024年04月05日
『ペナルティループ』
日本でも毎年のように制作されているタイム・ループ映画の新作が公開された。荒木伸一監督による99分の映画。ネタバレを避けて簡単なコメントを。
主人公(若葉竜也)は、毎日6月6日月曜日に起きるということを繰り返す。というか彼の日常は6月6日から次の日7日へと移行できないまま、同じ日を繰り返す。前日あるいはそれまでのループの日々の記憶は残っている。しかも彼が殺す相手である溝口(伊勢谷友介)も、彼と同じく同じ日々を送っているようで、毎日殺される。そしてその殺される記憶のみならず、殺されるときの痛みも体に残っているという設定である。
なぜループが起こるのか、どのようなからくりがあるのかについては、映画のなかできちんと説明されている。
たとえばこうしたタイムループ映画の嚆矢ともいえる『恋はデジャブ』(とはいえ、小説におけるタイムループの起源的作品は筒井康隆の『時をかける少女』だろうが)では、なぜループが起こるのか科学的説明はなされていない。同じ月曜日を繰り返す『ハッピー・デス・デイ』では、ループについて明確な説明はなされていないが、その続編『ハッピー・デス・デイ2』では、前作と同じ人物と環境のなかに、科学的SF的設定をもちこんでいた。
科学的説明の対極にあるのは心理的説明で、タイムループ映画とは認識されていないが、まぎれもないタイムループ映画『ラン・ローラ・ラン』で、悲劇的結末を避けるために主人公はさらに2回走ることになるが、それは失敗への悔恨と別の現実への願望に端を発する夢想としての同ルートの走破であり、最後にはハッピーエンディングを迎えることになる。
そのような脳内ドラマとは異なり、『ペナルティループ』では、誰が何のためにどのようにループを実現するかが一応説明され、観ている側も、たとえばタイムマシンで時間旅行ができると説明されればそれを受け入れるほかはないのと同じようにタイムループを受け入れる。
問題は、というかそれが、この映画のよいところなのだが、ループの原因がわかって一区切りついたところで、次に、何が現実で、何が夢なのかわからなくなる。ループの原因となった事件、そして主人公の決断、すべてが夢あるいはヴァーチャルな現実に過ぎないかもしれないという可能性がじわじわと表面化する。すべてが仮想現実での事件で、実際にはなにも事件は起こらなかったのではないか。そこがあいまいなまま映画は終わってゆく。
これは、この監督独特の一種のニヒリズムではないか。確実なよりどころとなる事実なり現実をすべて虚妄と処理してゆくような世界観が、前作『人数の町』よりも強くでている。
ちなみに『人数の町』は、毎年日本でも数多く出ている失踪者たちが結局政治的に利用されて頭数というか人数としての存在価値しか認められなくなるという設定で、そこに現代の政治に対する強烈な風刺があったように思われる。選挙の時に別人に成りすまして投票する。こうした不正によって利益を得るのは、国民にたいした支持も受けていないのに選挙に勝つ自民統とか維新といった保守政党だろうと思うのだが、しかし具体的にどの政党に投票したのかまでは示されない。
そしてさらに驚くべきことに、『人数の町』では、戸籍も住民票を失った彼らが別人になりすまして投票するだけでなく、デモにも動員される。しかもそのデモたるや、環境問題とか平等とか平和を訴えるという、いわゆるリベラルなデモにも動員されている。彼ら戸籍を失った者たちは人数として扱われるのだが、それには保守もリベラルも関係ない。そこにあるのは、政治について口出すことだけでなく、政治活動そのものをタブー視するリベラル・ヒューマニストの、いや、芸能界とか広告業界の不文律の前提に拘束された世界観である。
『人数の町』にあるのは、あらゆる政治活動や政治的姿勢の表明を嫌う自由主義的・個人主義的保守思想なのだが、現代の多くの観客が共有している思想でもあって、それは違和感あるいは嫌悪感をもたれずに受け入れられたと思われる。いいかたをかえれば、その映画は、環境破壊を批判するデモ行進にすら、いやそもそもデモ行進そのものに嫌悪感をもよおすような庶民の階層に賛同を得ようとしていた。だが、その保守思想は、ニヒリズムと肩をならべているのだが、それには気づかれなかった。
ところが『ペナルティループ』では、SF的設定による謎の解明のあとに、ヴァーチャルな現実しか残さなかったために、現実の現実味がなくなり、すべてが根拠のない夢のような、たしかなものはなにもないニヒリズムが前面に出ることになった。『人数の町』におけるニヒリズムと保守思想とは仲睦まじい関係にあったのだが、『ペナルティループ』には保守思想は影を潜めているのだが、そのかわりニヒリズムが前面にでることになった。これは何が現実で何が夢かわからなくなることと戯れるという映画的快楽を追及した結果なのだろうが。
ただし、すべてが曖昧になる『ペナルティ・ループ』において、確かなリアリティをもって迫ってくるものがある。それが男どうしの友情である。岩森/若葉竜也は、自分の恋人を殺した溝口登/伊勢谷友介を毎日殺し、その死体を川に捨てるのが日課になっているのだが、殺される伊勢谷も、殺す若葉も、徐々に疲れてくる。だんだん殺されること/殺すことに嫌気がさしてくる。ループの末期には、ふたりのなかに友情が芽生えている。若葉にとって伊勢谷は自分の恋人を殺した憎むべき悪人だが、しかし若葉の恋人/山下リオは死にたがっていて、伊勢谷の手を借りて自殺した可能性も生まれてくる。そうなると若葉にとって伊勢谷は冷酷な殺人鬼ではなくなる。むしろ毎日殺し殺される関係のなかで芽生えた親密な関係が、最終的に殺さない/殺されない関係へと変化し、そこに同じ運命を生きる二人の男性の友情めいたものが生まれる。このことがなんとも興味深いのである。
すべて不確かな『ペナルティ・スープ』の世界のなかで、若葉竜也と伊勢谷友介の二人の運命と友情だけが確かなものに思えてくる。男女の関係は不確かである。男同士の関係のほうが安定している。そして毎日、若葉は伊勢谷を殺しその死体を川に投げ捨てる。川あるいは湖か。一日の最後は水で締めくくられる。
そうこれは水の物語。また懲りないない奴だと言われそうだが、水の物語。それは男女を問わず同性愛の物語ときわめて親密な関係がある。
【ちょっと古い映画だが、マイケル・ウィンターボトム監督のデビュー作『バタフライ・キス』(1995)は、連続殺人犯の女(アマンダ・プラマー)と、彼女に魅せられた女(サスキア・リーヴィス)の逃避行を描くものだが、最後に、サスキア・リーヴスは、海辺で、アマンダ・プラマーを海に沈めて窒息死させる。それは憎しみや嫌悪の帰結ではなく、同性愛的情念のゆきつく死への願望の成就というかたちで提示された。海辺の死。水の物語。同性愛テーマに水の物語は設定として理想的なのである。】
主人公(若葉竜也)は、毎日6月6日月曜日に起きるということを繰り返す。というか彼の日常は6月6日から次の日7日へと移行できないまま、同じ日を繰り返す。前日あるいはそれまでのループの日々の記憶は残っている。しかも彼が殺す相手である溝口(伊勢谷友介)も、彼と同じく同じ日々を送っているようで、毎日殺される。そしてその殺される記憶のみならず、殺されるときの痛みも体に残っているという設定である。
なぜループが起こるのか、どのようなからくりがあるのかについては、映画のなかできちんと説明されている。
たとえばこうしたタイムループ映画の嚆矢ともいえる『恋はデジャブ』(とはいえ、小説におけるタイムループの起源的作品は筒井康隆の『時をかける少女』だろうが)では、なぜループが起こるのか科学的説明はなされていない。同じ月曜日を繰り返す『ハッピー・デス・デイ』では、ループについて明確な説明はなされていないが、その続編『ハッピー・デス・デイ2』では、前作と同じ人物と環境のなかに、科学的SF的設定をもちこんでいた。
科学的説明の対極にあるのは心理的説明で、タイムループ映画とは認識されていないが、まぎれもないタイムループ映画『ラン・ローラ・ラン』で、悲劇的結末を避けるために主人公はさらに2回走ることになるが、それは失敗への悔恨と別の現実への願望に端を発する夢想としての同ルートの走破であり、最後にはハッピーエンディングを迎えることになる。
そのような脳内ドラマとは異なり、『ペナルティループ』では、誰が何のためにどのようにループを実現するかが一応説明され、観ている側も、たとえばタイムマシンで時間旅行ができると説明されればそれを受け入れるほかはないのと同じようにタイムループを受け入れる。
問題は、というかそれが、この映画のよいところなのだが、ループの原因がわかって一区切りついたところで、次に、何が現実で、何が夢なのかわからなくなる。ループの原因となった事件、そして主人公の決断、すべてが夢あるいはヴァーチャルな現実に過ぎないかもしれないという可能性がじわじわと表面化する。すべてが仮想現実での事件で、実際にはなにも事件は起こらなかったのではないか。そこがあいまいなまま映画は終わってゆく。
これは、この監督独特の一種のニヒリズムではないか。確実なよりどころとなる事実なり現実をすべて虚妄と処理してゆくような世界観が、前作『人数の町』よりも強くでている。
ちなみに『人数の町』は、毎年日本でも数多く出ている失踪者たちが結局政治的に利用されて頭数というか人数としての存在価値しか認められなくなるという設定で、そこに現代の政治に対する強烈な風刺があったように思われる。選挙の時に別人に成りすまして投票する。こうした不正によって利益を得るのは、国民にたいした支持も受けていないのに選挙に勝つ自民統とか維新といった保守政党だろうと思うのだが、しかし具体的にどの政党に投票したのかまでは示されない。
そしてさらに驚くべきことに、『人数の町』では、戸籍も住民票を失った彼らが別人になりすまして投票するだけでなく、デモにも動員される。しかもそのデモたるや、環境問題とか平等とか平和を訴えるという、いわゆるリベラルなデモにも動員されている。彼ら戸籍を失った者たちは人数として扱われるのだが、それには保守もリベラルも関係ない。そこにあるのは、政治について口出すことだけでなく、政治活動そのものをタブー視するリベラル・ヒューマニストの、いや、芸能界とか広告業界の不文律の前提に拘束された世界観である。
『人数の町』にあるのは、あらゆる政治活動や政治的姿勢の表明を嫌う自由主義的・個人主義的保守思想なのだが、現代の多くの観客が共有している思想でもあって、それは違和感あるいは嫌悪感をもたれずに受け入れられたと思われる。いいかたをかえれば、その映画は、環境破壊を批判するデモ行進にすら、いやそもそもデモ行進そのものに嫌悪感をもよおすような庶民の階層に賛同を得ようとしていた。だが、その保守思想は、ニヒリズムと肩をならべているのだが、それには気づかれなかった。
ところが『ペナルティループ』では、SF的設定による謎の解明のあとに、ヴァーチャルな現実しか残さなかったために、現実の現実味がなくなり、すべてが根拠のない夢のような、たしかなものはなにもないニヒリズムが前面に出ることになった。『人数の町』におけるニヒリズムと保守思想とは仲睦まじい関係にあったのだが、『ペナルティループ』には保守思想は影を潜めているのだが、そのかわりニヒリズムが前面にでることになった。これは何が現実で何が夢かわからなくなることと戯れるという映画的快楽を追及した結果なのだろうが。
ただし、すべてが曖昧になる『ペナルティ・ループ』において、確かなリアリティをもって迫ってくるものがある。それが男どうしの友情である。岩森/若葉竜也は、自分の恋人を殺した溝口登/伊勢谷友介を毎日殺し、その死体を川に捨てるのが日課になっているのだが、殺される伊勢谷も、殺す若葉も、徐々に疲れてくる。だんだん殺されること/殺すことに嫌気がさしてくる。ループの末期には、ふたりのなかに友情が芽生えている。若葉にとって伊勢谷は自分の恋人を殺した憎むべき悪人だが、しかし若葉の恋人/山下リオは死にたがっていて、伊勢谷の手を借りて自殺した可能性も生まれてくる。そうなると若葉にとって伊勢谷は冷酷な殺人鬼ではなくなる。むしろ毎日殺し殺される関係のなかで芽生えた親密な関係が、最終的に殺さない/殺されない関係へと変化し、そこに同じ運命を生きる二人の男性の友情めいたものが生まれる。このことがなんとも興味深いのである。
すべて不確かな『ペナルティ・スープ』の世界のなかで、若葉竜也と伊勢谷友介の二人の運命と友情だけが確かなものに思えてくる。男女の関係は不確かである。男同士の関係のほうが安定している。そして毎日、若葉は伊勢谷を殺しその死体を川に投げ捨てる。川あるいは湖か。一日の最後は水で締めくくられる。
そうこれは水の物語。また懲りないない奴だと言われそうだが、水の物語。それは男女を問わず同性愛の物語ときわめて親密な関係がある。
【ちょっと古い映画だが、マイケル・ウィンターボトム監督のデビュー作『バタフライ・キス』(1995)は、連続殺人犯の女(アマンダ・プラマー)と、彼女に魅せられた女(サスキア・リーヴィス)の逃避行を描くものだが、最後に、サスキア・リーヴスは、海辺で、アマンダ・プラマーを海に沈めて窒息死させる。それは憎しみや嫌悪の帰結ではなく、同性愛的情念のゆきつく死への願望の成就というかたちで提示された。海辺の死。水の物語。同性愛テーマに水の物語は設定として理想的なのである。】
posted by ohashi at 08:21| 映画
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2024年04月04日
高齢者の3割負担
こんな記事があった。
こういう質問が出るからには、猪瀬議員は2割負担ということなのだろうか。あるいはもし猪瀬議員が3割負担なら、自分と同等か、自分よりも元気に働いている人間が2割負担というのはおかしい、収入とか健康度によって3割負担にしてもいい老人はたくさんいるという問題提起なのだろうか。
しかし収入などによって70歳すぎても2割負担にならない老人はいる。だから一律2割負担ではない。その証拠が私である。
私は70歳になって2割負担になるかと思ったら3割負担。私の保険証にもはっきり3割負担と印字してある。病院でも、最初は私の負担が2割負担とみなして、それで診察料を決めていたのだが、あとで病院側が間違いに気づき、追加徴収された。
しかしなぜ私が3割負担なのだ。私は無職で年金以外に収入はない。またもちろん私は富裕層でもなんでもない。親の遺産があるわけでもない。通常の年金以外に収入がないので、私の経済状態は誰にでもわかる。にもかかわらずなぜ3割負担なのだ。
【ちなみに年金は収入ではないと言われるかもしれないが、確定申告では、年金は収入扱いで、必要経費に相当する金額も決められている。】
まあ過去に出版した翻訳の印税が細々と入ってくるが、最初から部数が限られている学術書の翻訳であって、ベストセラーとか、話題の本の翻訳などしたことがない。
数十万部を売り上げたオーウェルの『1984年』でも翻訳していれば、それは3割負担になっても当然だが、謙遜でもなんでもなく、私の翻訳の印税などほんとうに微々たるものである。
要は、診療費・医療費は70歳以上が一律2割負担ではない。収入に応じて3割負担ということにもなっている。猪瀬議員は、なにを寝ぼけたことを言っているのかというのが私からの問題提起。
と同時に猪瀬議員よりはあきらかに収入が少ない、いや、70歳以上の知人や友人や親族は、みんな私よりも収入があるのに2割負担で、年金生活者の私が、なぜ3割負担なのか。これが私からの第二の問題提起。
なにかの間違いであると思うのだが。ちなみに前年度は翻訳の印税収入はほとんどなかったので、今年度は3割負担を見直してくれるよう自治体に願うし、保険証更新時にまたも3割負担だったら、厳重に抗議し、理不尽さをアピールするつもりである。
医療費めぐり維新・猪瀬氏×武見厚労相 「高齢者も3割負担」主張して「私は喜寿…」
FNNプライムオンライン によるストーリー • 4月3日 •
医療費の窓口負担について、「高齢者も原則3割負担にすべき」と主張する日本維新の会が、国会質問で政府に対し、制度の見直しを求めた。
2日の参院厚労委で、維新の猪瀬直樹参院議員(77)が、武見厚労相(72)に対し質問した。
猪瀬氏は「高齢者医療制度における窓口負担を、現役世代と同じ3割にすることを提言している」との維新の方針を示し、武見厚労相に見解を質した。
武見厚労相は、「所得が低く、医療費が高くなる後期高齢者にとって、間違いなく負担増になる。必要な受診が抑制される恐れがあり、『一律3割』には慎重な考えを持っている」と答弁した。
また猪瀬氏は、直近20年間の男性の就業率について、70代前半で29%から43%に、70代後半で19%から26%に増えたとの総務省の調査結果を示し、「武見さんは72歳、私は喜寿。みんな働いている。こうやって真剣な議論ができる。年齢で優遇したり冷遇したりではなく、所得や経済状況に応じた負担に切り替える時期に来ている」と主張。【以下略】
こういう質問が出るからには、猪瀬議員は2割負担ということなのだろうか。あるいはもし猪瀬議員が3割負担なら、自分と同等か、自分よりも元気に働いている人間が2割負担というのはおかしい、収入とか健康度によって3割負担にしてもいい老人はたくさんいるという問題提起なのだろうか。
しかし収入などによって70歳すぎても2割負担にならない老人はいる。だから一律2割負担ではない。その証拠が私である。
私は70歳になって2割負担になるかと思ったら3割負担。私の保険証にもはっきり3割負担と印字してある。病院でも、最初は私の負担が2割負担とみなして、それで診察料を決めていたのだが、あとで病院側が間違いに気づき、追加徴収された。
しかしなぜ私が3割負担なのだ。私は無職で年金以外に収入はない。またもちろん私は富裕層でもなんでもない。親の遺産があるわけでもない。通常の年金以外に収入がないので、私の経済状態は誰にでもわかる。にもかかわらずなぜ3割負担なのだ。
【ちなみに年金は収入ではないと言われるかもしれないが、確定申告では、年金は収入扱いで、必要経費に相当する金額も決められている。】
まあ過去に出版した翻訳の印税が細々と入ってくるが、最初から部数が限られている学術書の翻訳であって、ベストセラーとか、話題の本の翻訳などしたことがない。
数十万部を売り上げたオーウェルの『1984年』でも翻訳していれば、それは3割負担になっても当然だが、謙遜でもなんでもなく、私の翻訳の印税などほんとうに微々たるものである。
要は、診療費・医療費は70歳以上が一律2割負担ではない。収入に応じて3割負担ということにもなっている。猪瀬議員は、なにを寝ぼけたことを言っているのかというのが私からの問題提起。
と同時に猪瀬議員よりはあきらかに収入が少ない、いや、70歳以上の知人や友人や親族は、みんな私よりも収入があるのに2割負担で、年金生活者の私が、なぜ3割負担なのか。これが私からの第二の問題提起。
なにかの間違いであると思うのだが。ちなみに前年度は翻訳の印税収入はほとんどなかったので、今年度は3割負担を見直してくれるよう自治体に願うし、保険証更新時にまたも3割負担だったら、厳重に抗議し、理不尽さをアピールするつもりである。
posted by ohashi at 08:16| コメント
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