2024年03月24日

薬剤師の質問

すでに決着したというか終わった話なので、あえて蒸し返す必要はないと思うのだが、だからこそ回顧的に問題を検討してみたい。とはいえ問題提起ではなくて、よい方向に決着したことを確認するためだが。

以下の記事が概要をまとめている。
YAHOO!ニュースJAPAN
かまいたち濱家、薬剤師への不適切発言を即謝罪もノーコメントの山内は延焼…“対応力” でわかれたコンビの明暗
3/2(土) 19:40配信

かまいたち・濱家隆一が、3月1日に自身のXを更新。2月28日に放送された『これ余談なんですけど…』(ABCテレビ)での不適切な発言について謝罪した。

この日の放送では、「せっかち関西人200人に聞いた『あの瞬間イライラするわぁ~』」というテーマでトークを展開。元アジアンの馬場園梓が、ゲストとしてスタジオに登場した。

山内健司が、医師の診察後に調剤薬局へ処方箋を持っていった際、薬剤師から「どうされたんですか? お熱もあるんですか?」と医師の診察時と同じ質問をされ、イライラしたエピソードを紹介。「あれもう全然いらん時間やなって思っちゃう。しんどいから、はよ薬渡して帰らせてほしいのに」と語った。

この発言に対し、濱家は「薬剤師さんも医療に携わっているから、一応、医者憧れみたいなものがある」と共感。馬場園も「わかる。そいつに言ったって薬が変わるわけではないからね」とコメントした。

放送終了後、一連の発言がSNS上で “薬剤師軽視” として炎上。

《「あの時間イライラするわぁ」の話題で、「薬剤師がなんで症状きくねん」「今聞いたかてお前処方変えられへんやろ」「医者への憧れから聞いてるだけ」「黙って薬だけ出せ」等暴言オンパレード。これを出演者の爆笑と共にそのまま電波にのせるのはテレビ局として終わってるわ》

《薬剤師は薬のエキスパートです。医者よりも詳しいこともざらにあります。日々処方ミスがないよう一人一人丁寧に確認し責任をもって仕事をしてくださっています。医者が量や飲み合わせを間違えない訳じゃないから口頭での確認はとても大切なんですよ。最後の砦です》

など、批判的なコメントが多数書き込まれた。

これを受けて、濱家はXで《処方箋の件、考えなしに失礼な事言ってしまいました 薬剤師の皆さん、本当にすみませんでした》と謝罪。濱家の対応には、励ましの声も寄せられている。

《濱家さんのお陰で薬剤師さんの重要性が再認識したので逆に良かったです 発信力があると色々大変やと思いますが応援してます》

《薬剤師です。全然問題ないです むしろ制度として改善されてほしい点でもあるので、こうして影響力のある方に問題提起をしてもらえてありがたいぐらい》

《制度上どうしても患者さんからしたらムダと思われることも聞かないといけない反面、デリカシーない薬剤師も多いのでそういった患者心理がうまれるのは当然と思います。気にしないでいいくらいと思います》

いっぽうで、謝罪していない山内に対しては批判的なコメントが増加している。「濱家さんの炎上対応はお手本ですね」と語るのは、大手広告代理店関係者だ。
以下略

省略したのは、かまいたち山内のほうが謝罪していないから駄目だと批判。対応力の違いだの、謝罪はすぐすべきだとのと偉そうな、だがどうでもいいコメントが続く。

この問題は、かまいたちの濱家隆一氏のほうが、3月7日、自身の公式X更新し、薬剤師をめぐる番組内での発言を改めて謝罪したことにより、その真摯な姿勢と謝罪とが高く評価され問題は終わったように思われる。だから、以下、私がどのように考えようが問題をこじらせるつもりはないことは明言しておきたい。

「山内健司が、医師の診察後に調剤薬局へ処方箋を持っていった際、薬剤師から「どうされたんですか? お熱もあるんですか?」と医師の診察時と同じ質問をされ、イライラしたエピソードを紹介。「あれもう全然いらん時間やなって思っちゃう。しんどいから、はよ薬渡して帰らせてほしいのに」と語った。」ことに対しては、私自身全く同感である。いちいち病状について説明させられるのは不愉快だしつらい。というのも医師に対しては高熱があって咳も出ると自分の症状を正直に正確に伝えようとする。それに対して医師からの説明は、医学的知識がない私としてはわからないことも多い。そのよくわからない病状なり病因なりを薬剤師に対して説明するのはめんどうなことこの上もない。

私自身、調剤薬局で薬を出してもらうときに、あれこれ聞かれて戸惑ったことがある。それまでは病院内の薬局で薬をもらっていた。その時は、症状についてあれこれ聞かれることはなかった。いつもの病院内の薬局がなくなったため、調剤薬局を探すことになったので、母が存命中から利用していた薬局で薬を購入することにしたのだが、そこで、いろいろ症状を聞かれ、少々面食らった。薬剤師は一人ではないのだが、特定の薬剤師がいつもうるさく聞いてくるので、私は薬局を変えた。ちなみに自宅から最寄りの駅までに調剤薬局はたくさんあるので、よりどりみどり。母の存命中から使っていた薬局をやめて新しい薬局にかえた。

山内のコメントに対して、バカがこうコメントとしている:《薬剤師は薬のエキスパートです。医者よりも詳しいこともざらにあります。日々処方ミスがないよう一人一人丁寧に確認し責任をもって仕事をしてくださっています。医者が量や飲み合わせを間違えない訳じゃないから口頭での確認はとても大切なんですよ。最後の砦です》

薬剤師が薬を渡すときに丁寧に薬の内容と服用法について確認することは問題ないし、それは当然のことである。まちがいがないようにするために。この点について文句を言う者はいないだろう。私だって薬剤師による確認を不愉快だとか時間のロスだと思ったことは一度もない。山内自身、それを問題にしているのではない。

山内が問題にしているのは、「薬剤師から「どうされたんですか? お熱もあるんですか?」と医師の診察時と同じ質問をされ、イライラした」ということである。その質問は無意味で、もし薬剤師が「医者が量や飲み合わせを間違えていた」と判断したとしても、それを医者に言うのだろうか。患者のあやふやな答えだけで、医師に、その診断とそれにもとづく服用法が間違っていると進言できるだろうか。確かなデータもなく、患者のあやふやは受け答えだけで。

またさらに山内の発言をうけての濱家のコメント――「薬剤師さんも医療に携わっているから、一応、医者憧れみたいなものがある」というのは、失礼な言い方かもしれないが、一理ある。さらに馬場園のいう「そいつに言ったって薬が変わるわけではないからね」というのも的を射ている。要は、薬剤師が聞いても無駄なことを聞いてきているということである。

いや医師がまちがった薬を指定したらどうするのかという批判に対しては、それは医師の責任で、薬剤師の責任ではない。もし医師の処方した薬とは異なる薬を出したら、それは薬剤師のミスで、確認もれであり、重大な過誤として責任を追及されるが、医師のミスまで薬剤師が責任を負うことはない。

だが、問題はそこではない。タレントに個人情報である病気について質問するというのは重大な犯罪である。

私のようなクソ爺なら、持病などやまのようにあっても誰も驚かないだろうし、また私は有名人でもなんでもないので、薬剤師から病状・病名を聞かれても、またそれが他人に伝わってもなんの被害もない。しかし、かまいたちの両人は、テレビでレギュラーを何本ももっている人気タレントである。その二人に病状を聞くというのはなんという無神経な薬剤師なのだろう――もちろん私のような無名の人間でも病気に関する個人情報が洩れたら不利益をこうむる可能性は大きく、有名、無名は関係ないとしても。

薬剤師は、医師とか弁護士など同様、守秘義務があることは言うまでもない。かまいたち山内に「どうされたんですか?」と訊いてきた薬剤師本人が、守秘義務を無視して山内の病状を言いふらすとは思わないが、もしその調剤薬局に客がいて、薬剤師と山内とのやりとりを耳にはさみ、それをネッにでも公表したら、売れっ子芸人でもある山内にとって大きなダメージになりかねない。たとえ薬剤師に個人情報を漏らす意図はなかったとしても、個人情報が容易に知られる環境なり条件下で個人情報を問いただすことは意図的ではなくても責任を問われる過誤である。

繰り返すが、人気芸人だけにかぎらない。個人の病気というのは重大な個人情報であり、誰であれ、自分の病気に関する情報を薬局の受付でのやりとりのなかで聞かれたくはない。それを聞き出すのは、薬剤師側の重大な守秘義務違反である。どうしても知る必要があるのなら、誰にも話の内容が漏れない別室かなにかで薬剤師と患者の二人だけで確認すべきである。それを受付で「どうされましたか」と訊く薬剤師。無神経にもほどがある。謝罪すべきなのは薬剤師のほうである。

濱家の発言「薬剤師さんも医療に携わっているから、一応、医者憧れみたいなものがある」というのは、失礼な言い方で、差別発言かもしれない。これについて確認すべきは、薬剤師は、医者になりたくてもなれなかった人間がなる職業ではない。薬剤師は、薬剤師になりたくて薬剤師になったのだ。市会議員は、首相になりたくてもなれないから、市会議員になったわけではない。何か困難なあるいは高度な職業に就けなかった、あるいは挫折したから、現在の職業に就いたと想定することは(たとえそれが事実だったとしても)侮辱であり絶対に行なってはならないことである。

しかしまた何かを非難するとき、人格否定になる場合とそうでない場合とがある。おまえはバカだというのは人格否定である。おまえはバカなことをしているというのは、当人が本来なら賢明な人間なのにいまバカなことをしているということで人格を否定しているわけではない。もちろん理屈をこねまわせば、たとえ賢明な人間でも、バカなことをしてしまったなら、やはり生まれながらにしてバカだという人格否定ににもなるのだが、しかし可能性あるいは選択肢としてのおバカ行為の指摘は、最初から本質的にバカだと批判するのとは異なる。つまり「beingバカ」と「becomingバカ」の場合、後者にはまだ選択の余地、別の可能性が想定されるのであって、一方的な人格否定にならないかもしれないのだ。

医者のなりそこないの薬剤師というのは、薬剤師への侮辱であって謝罪を要することかもしれないが、薬剤師が医者のようにふるまっているという批判は、おまえ何様という批判と同じであって、強い、また失礼にあたる批判かもしれないが、人格否定にはならないだろう(法的な解釈ではなく、一般的な観点からの議論である)。ゆきすぎた言動への批判として、それが汝自身を知れというかたちになったときに、差別的な人格否定と受け止められかねないことは確かだが、同時に、それは「いいすぎました」程度の謝罪をするか、むりに謝罪しなくてもよい案件である。そもそも怒っているのは、そちらではなく、こちらであり、怒っている側が、事実誤認でもしていたらべつだが、なぜ謝罪するのだ。ふつうは怒られた側が謝罪するものだ。

薬剤師に対する差別というのが伝統的にあるのかどうか私は知らない。もしそれが根強くあれば、そうした差別に乗っかっての発言になって、これは批判されるべきだが、そのような薬剤師差別はないのではないか。むしろ、医療問題について私たちは、差別の加害者というよりも、差別の被害者になる側である。私たちは、薬剤師を含む医療関係者のほうに、どうか国籍・人種・民族・ジェンダー・年齢・職業・階級などで差別をしないでほしいと訴える側、弱い立場の人間である。医療関係者は、私たちの健康を、命を左右する強い立場にいる人たちであり、私たちの知られたくない秘密を握っている立場にいる人たちであるからには、どうか個人情報を慎重に扱ってほしいというのが、かまいたち山内・濱家の訴えであって、繰り返すが、なぜそれに対して彼らの側が謝罪せねばならないのだ。

英文学に登場する薬剤師あるいは薬屋のなかでもっとも有名なのはシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』に登場する薬剤師である。もちろんこの薬屋は、ロミオに強く乞われて毒薬を渡すために、あまり褒められた薬屋ではないのだが、この薬屋、英語ではapothecaryという。これは現代英語でいうpharmacyの古い形ともいいきれないところがあるのは、当時のapothecaryは単に薬を売るだけでなく医療行為にも携わった。英文学史上もっとも有名なapothecaryはロマン派の詩人ジョン・キーツである。彼はapothecaryとして医療行為に従事できる資格をもっていた。医学の勉強もしていたキーツだが、正式な医師の免許はもっていなくて、apothecaryとしての免許はもっていた。したがってキーツは「薬剤師」であったというと誤解を生ずる可能性がある。

薬剤師も医師も西洋ではともに医療行為に携わっていた時代があった。現在では、薬剤師は医師のように医療行為に携われないが、しかし、薬剤師は医師と同様に医学や医療の知識はもっているので、現在、法的に禁じられているかどうか別に、薬剤師は可能性として医療行為に参加することも医師への医学的助言をすることもできる。だから医師と薬剤師との役割分担があいまいなグレーゾーンに踏み込むことが薬剤師の側にもまた医師の側ににもあるだろう。それが一般の私たちに戸惑いを生むのかもしれない。下手をすると越権行為とみなされるかもしれない。かまいたち山内と濱家のコメントは、薬剤師に越権行為だと批判しているのである。そしてたしかにそれは越権行為でもあるし、また許されている越権行為でもあるともいえるが、ただ個人情報の無神経な開示要求は許されるべきではない。いずれにしても、かまいたち山内と濱家が謝罪するような案件ではまったくない。

実際、最初に記事にもどれば、

放送終了後、一連の発言がSNS上で “薬剤師軽視” として炎上。とあって、《「あの時間イライラするわぁ」の話題で、「薬剤師がなんで症状きくねん」「今聞いたかてお前処方変えられへんやろ」「医者への憧れから聞いてるだけ」「黙って薬だけ出せ」等暴言オンパレード。これを出演者の爆笑と共にそのまま電波にのせるのはテレビ局として終わってるわ》とコメントするクズ野郎(女性かもしれないが)こそ、終わっているクズである。そもそも「終わっている」という表現自体、キャンセル・カルチャーで生きているクズであることをゆくりなくも証明している。

これを受けて、濱家はXで《処方箋の件、考えなしに失礼な事言ってしまいました 薬剤師の皆さん、本当にすみませんでした》と謝罪。さらにその後長文の謝罪文も発表し、その真摯な姿勢が高く評価されたことは、すでに述べたとおりだが、この記事によれば、「濱家の対応には、励ましの声も寄せられている」とあって、以下の3つのコメントを紹介している。
《濱家さんのお陰で薬剤師さんの重要性が再認識したので逆に良かったです 発信力があると色々大変やと思いますが応援してます》

《薬剤師です。全然問題ないです むしろ制度として改善されてほしい点でもあるので、こうして影響力のある方に問題提起をしてもらえてありがたいぐらい》

《制度上どうしても患者さんからしたらムダと思われることも聞かないといけない反面、デリカシーない薬剤師も多いのでそういった患者心理がうまれるのは当然と思います。気にしないでいいくらいと思います》

もしこのコメントがほんとうに薬剤師の方からのそれならば、薬局での薬剤師の質問にはするほうもされるほうも戸惑いがあることがうかがえる。私のように問われてもいい加減な答えしかしておらず(もしくはいい加減な答えしかできない)、そのあげく不愉快だから薬局を変えた人間もたくさんいるかもしれない。薬剤師の側からは義務として聞いているのかもしれないが、こちら側からすると個人情報の暴露、越権行為という観点から受け止めてしまう。このことは医師の側が全く知らない問題であって、それを提起してもらった「かまいたち」の両人には、むしろ感謝すべきであろう。また薬剤師もバカではないので、この騒動を知って、調剤薬局での対応についても反省と改善を試みているはずである。

「デリカシーない薬剤師も多いのでそういった患者心理がうまれるのは当然と思います。気にしないでいいくらいと思います」というコメントがあった。これが大人の対応だろうか。しかし「気にしないでください」というのは黙っていろというやんわりとした命令である。この命令は、ネット上でいちゃもんをつけるだけが楽しみな人格破綻者たちに対してこそ発せられるべきものだろう。
posted by ohashi at 18:46| コメント | 更新情報をチェックする

2024年03月22日

『リア王』3

『リア王』と手紙

今回の演出において、どうして手紙が透明のシートに書かれているのかと私は質問を受けた。私はもちろん上演関係者ではないので、それについて答えようがないのだが、ただ言えることは、オーヴァー・ヘッド・プロジェクターを使うので、透明のシートじゃないと壁に投影できない。

とはいえ「オーヴァー・ヘッド・プロジェクター」略してOHPそのものが、今の若い人たちには何のことかわからないだろうし、ましてや年寄りも(質問者は実は私よりも年齢が上だったのだが)OHPのことは忘れてしまっているだろう、もしくは私のようにかつてOHPを使ったことがなければ、なんのことか見当もつかないだろう。

「オーバーヘッドプロジェクタ」と表記するのが一般的なようだが、透明なOHPシートに文字などを書き、それをスクリーンとか壁などに投影する装置。シートの下から光をあて、それを鏡でうけレンズで拡大してスクリーンに投影する機械。

私はかつて授業で使ったことがある。私は学生と対面して、機械に透明のシートを置き、それを私の頭上の背後のスクリーンとか白い壁に投影する(これが機械の名称の由来)。私は学生の顔をみながら操作できるし、そのシートにその場で書き込むことができる。この表現が重要だと赤線をほどこしたり、丸で囲ったりもできる。ただし、透明のシートでなければならない。

そのため今回の『リア王』において手紙はどれも透明なシートの上に黒い筆記体の文字で描かれている。なぜ白い紙でないのか不思議に思った観客がいてもおかしくない。また透明なシートを手紙としてやりとりすることに深い意味があるのかと詮索した観客がいてもおかしくない。そもそもいまやOHPは過去の遺物で、私もほんとうに久しぶりにみた。残っていること自体が不思議である。

いまは授業でも、あるいはプレゼンテーションでも、コンピュータを使う。パワーポイントなどのプレゼンテーションソフトウェアが普及していて、OHPは完全に過去の遺物である。それをあえて使って演出したのは、透明なシートの不思議な手紙を出現させたかったからではなくて、手紙の重要性、その物質性を強調しようとしたからではないだろうか。

演出家は、さすがにシェイクスピアについてはよく知っている。『リア王』に手紙が複数登場すること、それが『リア王』の特徴のひとつにもなっていることを知っているにちがいない。だからこそ、OHPを使って手紙の内容を投影するという演出法をとった。

【ただし投影された手紙は、現在の筆記体のアルファベットで書かれている。当時(シェイクスピアの時代)の筆記体の文字か思った観客もいたようだが、シェイクスピアの時代に手書きの書体としてはセクレタリー・ハンドとイタリック・ハンドの二種類があったのだが、今回舞台でOHPで投影された手紙の文字は、そのどれとも違っていた。セクレタリー・ハンドというのは、シェイクスピアが署名に用いた字体で、今では使われていない、独特の字体で、専門的知識がないと読めない。いっぽうイタリック・ハンドは、現在の筆記体に近くて読みやすい。ただし現在の活字で斜自体をイタリックスと呼ぶがそれとは異なる。】

そう『リア王』は、実物として舞台にもちこまれる手紙だけでなく、言及されるだけの手紙も含めると、シェイクスピア劇のなかで、もっとも多くの手紙が登場する作品なのである。

それがどういう意味をもつかについて語るのは別の機会にしたいのだが、その時は、次の文献を多いに参考にして語るだろう:

  Alan Stewart, Shakespeare’s Letters, Oxford University Press, 2008.

この本はすごく面白い本で、また当時の手紙について、いろいろと学ばせもらった。シェイクスピア劇の読み方を変えてくれたといってもいい優れた本である。
posted by ohashi at 00:08| 演劇 | 更新情報をチェックする

2024年03月21日

『リア王』2

PARCO PRODUCE 2024『リア王』(2024年3月8日 - 31日、東京芸術劇場 プレイハウス / 4月6日・7日、りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館 劇場 / 4月13日・14日、刈谷市総合文化センター アイリス 大ホール / 4月18日 - 21日、SkyシアターMBS / 4月25日・26日、キャナルシティ劇場 / 5月2日、まつもと市民芸術館 主ホール)

訳:松岡和子 演出:ショーン・ホームズ
出演:段田安則/小池徹平/上白石萌歌/江口のりこ/田畑智子/玉置玲央/
入野自由/前原滉/盛隆二/平田敦子/高橋克実/浅野和之/秋元龍太朗/中上サツキ/王下貴司/ 岩崎MARK雄大/渡邊絵理

前回のつづきだが、PARCO PRODUCE 2024『リア王』(2024年3月8日 - 31日、東京芸術劇場 プレイハウス)の舞台は、さすがに英国の演出家によるアレンジによるだけあって、作品の重要な台詞は省略せずにきちんと押さえ、作品の全体像と世界観をしっかり見せ、斬新だが同時に重厚な演出によるもので、久しぶりに本格的な『リア王』を観たという感想を抱いた。俳優の演技も力強く観る者を圧倒するし、松岡和子氏の翻訳による台詞も、美しくかつ明晰で、シェイクスピアの言葉の魅力を存分に伝えるものとなっていた。お奨めの舞台である。

前回から続く考察は、私の個人的な感想に端を発するものであって、しちめんどくさい議論が展開していても、あくまでも私自身のための覚え書きにすぎないことをお断りしておきたい。

前回、俳優が観客席の方をむいて台詞を発することが多く、本来なら二人で互いを観ながら話をする場合でも、二人の俳優が客席のほうだけをむいて台詞を発するということが多かった。台詞そのものは、からまりあうというか、応答と対話になっているのだが、それを発する俳優のほうは二人とも客席のほうを見ているので、からまない。発話内容は対話になっているが、発話者は互いに目をあわせることはなく、発話内容と発話行為とが一致しないのである。

前回述べたことの繰り返しになるが、これをどう考えるのか、これがどのような舞台効果を狙っているのか私なりに考えてみた。ひとつには正面(客席側)をむいて台詞を発するのは演劇舞台では確固たる約束事であり、王道の方式である。観客に声がとどきやすいし、観客は、自分たちに向けられた台詞が舞台上の人物どうしの言語的コミュニケーションになっていることを頭の中で補完する。

しかしまた今回の『リア王』では演ずる者たちが、出番が終わって舞台から消えるという通常の方式以外にも、舞台上の椅子に座るかたちで舞台に残っているという演出が随所にみられた。これも大きな舞台ならではの、演劇の流れをとめないスピーディーな展開を実現するための時短戦略であろう(舞台が大きいので俳優が出たり入ったりするだけで時間がかかり、その間、演技が中断する)。またそうすることで、前の場面と次の場面とが現場面とかさなりあうことになり、舞台空間に時間的錯綜というか時間的奥行きなり広がりができる。実際に出番が終わった俳優の舞台を去る行為と、次の場面の俳優の舞台への登場がオーバーラップすることは多かった。出入りのオーバーラップは、場面のオーバーラップへとつながり舞台を重層化した時空間に変えた。

だが前回考えたのは、それだけではない。演技の終わった俳優が舞台から消えるのではなく舞台上の椅子に座る。その眼前で次の場面が演じられる。またその場面が終わると、すでに座っていた俳優が立ち上がって、さらに次の場面を演ずる……。観客に何をみせているのかというと、演技だけでなく、演技する俳優の姿、あるいは俳優と、その俳優がなりきる人物の両方をみせているのであろう。通常、観客が舞台にみるのは、俳優が演じている人物である。リア王とかハムレットとかジュリエットなど。しかし今回の演出では、ハムレットを演ずる俳優の演じていない姿と、演じている姿の両方をみせることになる。

演ずる者と演じられる者/役/役柄とを同時にみせる演出ということになる。なぜ、そんなことをするのか。もちろん演じられる人物だけでなく演技そのものもともにみせるという演劇について演劇(メタ演劇)をめざしているといえば、そうなるのだが、ただし、これは『リア王』そのものとも関係している。

たとえば後半では目が見えないグロスターが悲観してドーヴァーの断崖絶壁から身を投げて自殺をしようとするのだが、実際には、ただ平たい舞台のうえで、前にむかって倒れるだけである。グロスターは、出会った「乞食のトム」に言いくるめられて、自分が断崖絶壁の上にいると確信し、次の瞬間身を投げる。しかし断崖の下に落下しても、奇跡的に助かりケガひとつしていないとグロスターは思い込む。目がみえない老人をからかうにも、これはひどすぎると思うなかれ。グロスターを騙す乞食のトムは、実はグロスターの実の息子であり、両目を失い悲観している父親を助けようと、奇跡を演出したのである。乞食のトム自身がエドガーによる演技であり、その演技者が今度は父親の運命を演出する。しかも乞食のトムはドーヴァーの「断崖絶壁」までグロスターを案内したあと、次は絶壁の下で、たまたまとおりかかった地元の住民を演技して、グロスターの奇跡に驚いて見せる。

これは『リア王』における一例(といはいえ有名な例)だが、そのほかにもこの劇には、演技や演出によって人を救済しようという試みがくりかえしなされるのだ。冒頭のリア王の娘たち、とりわけ長女と次女の父親への愛の告白が詐欺的演技だとしたら、演技のそうした悪性面によって苦しみ破滅する人々を救うのもまた演技(とその良性面)であって、毒をもって毒を制するような、演技をもって演技を制するような、演技とか演技性あるいは演出に対して意識が高いのがこの『リア王』なのである。だから、演技そのものをも意識させる今回の演出は、この作品の主題とも響きあっている、もしくはこの主題を顕在化させる仕掛けであると言える。

しかし、気がかりな面もある。この演出は、演ずる者と演じられる者とを完全に分離しているわけではない。椅子に座っているジュリエットを演ずる俳優は、ジュリエットの扮装のまま黙って椅子に座っており、その彼女が、次の瞬間、立ち上がってジュリエットになりきるということになる。つまりジュリエットとそれを演ずる俳優(別人)ではなく、ジュリエットと、脱力した気の抜けたジュリエット(同一人物の別の面)という関係になる。

たとえば『ドレッサー』(The Dresser(1980)ロナルド・ハーウッド作。二度映画化され、日本でもその翻訳劇が何度も上演されている)という芝居は、リア王を演ずる老シェイクスピア俳優とその付き人との、『リア王』上演中の楽屋裏でのやりとりから成り立っているが、この場合、楽屋で準備したりくつろぐ老俳優と、舞台(ただし上演舞台のほうが裏側になるのだが)でのリア王とは別人である。たとえリア王を演ずる老俳優がリア王そのものに似てくるとはいえ、それは主題面でのメタフォリカルな同一化であって、俳優とリア王とはあくまで別人である。

ところが今回の演出では、リア王に限らず、俳優と役との関係が1:1ではなく、同じ存在の活動態・対・休止態との関係、強いて言えば1:0の関係である。これは俳優と役との関係ではない。スイッチが入って起動してるアンドロイドと、電源が切れて動かないアンドロイドの関係、あるいは死者とよみがえって活動している死者/生者の関係。そもそもこの舞台の俳優たちはみんなゾンビであって、要請されたときに限って行為をするかにみえてくる。

もちろんそんな幻想を抱くのは、頭のおかしいお前だけだと言われそうだが、これが今回の演出の私なりの解釈である――実際の演出意図とは異なっていても、それはかまわない。いま述べたように受け取れる面が間違いなくあるからだ。台詞と動作との不一致。演技するときと脱力するときの両方の状態をみせる演出。これらは不条理演劇の演劇性と境を接しているように思われる。

不条理演劇では、人間の営みから自然らしさやリアリティが失われ、この世界が哀れでおかしく無意味な道化芝居にみえてくる。人間は人間性を失い機械仕掛けのアンドロイドに観てくる。言葉は人間の心情から遊離し、独り立ちして、暴走し、無意味な音、いや雑音に近づいてゆく。

ベケットに『芝居』というタイトルの芝居がある(Play,1964)。死んで骨壺に入っていて頭部だけを出している三人の人物が、スポットライトをあてられるときに限り台詞を超高速で棒読みで語る。この芝居の英語上演を観たことがあるが、私は見に行く直前に原文でテクストを2回読んだ(そんなに長い芝居ではない)。そうすることで棒読みの台詞を超高速で2回くりかえすというこの芝居の一字一句を聞き取れた。そうでもしないと台詞が棒読みで早すぎて聞き取れなかっただろう。死んで感情もなく、喜怒哀楽も失った三人の人物(男女の三角関係が暗示されているのだが)の抑揚のない棒読みの台詞まさに血の気のない厚みも深みもない機械的な言葉の羅列が、一皮むいた人間のコミュニケーションの真実だという、人間の世界をカオスとみる不条理演劇の世界観がここにはある。

今回の演出がそれと同じだというのではない。ただ、それと同じようなカオスを暗示しているといいたいのである。前半、舞台天井の蛍光灯の一部が切れそうになって点滅するとき、それはリア自身が正気を失いそうになる前触れというか兆候としてみることができる。だが後半になると、天井に並んだ蛍光灯の照明は、雷鳴に連動する雷光となる。点滅しきれそうな蛍光灯が宇宙的カオスの予兆ともなっていた。そして最後、秩序が回復されたかにみえるこの『リア王』においても、ふたたび蛍光灯が点滅しはじめる。カオスは制圧されてはいない。いつなんどき不条理な世界へと陥落するかわからない。そうした不安あるいは恐怖によって舞台は閉じられる。

実際問題、シェイクスピアの『リア王』は、不条理演劇にもっとも接近した演劇作品であることは、とくに誰といわなくても、誰もが感じていることだろう。今回の演出は、ひとつ見方をかえるとゾンビたちが演ずる芝居である、あるいはゾンビたちが演じている芝居にみえかねない、なりかねない可能性をもった危機的な世界を提示している。不条理演劇ではないが、いつなんどき不条理な世界に陥ってもおかしくない、そうした危機的状況にある世界を演出は暗示しているのではないだろうか。

今回の演出では、最初からハエの羽音が不快な雑音として聴こえてくる。ハエは『リア王』における有名な台詞、いたずら小僧が虫けらを面白半分に殺すのと同じように、神々も人間を面白半分に殺すという台詞において、虫けらの原語はハエflyである。今回の演出でもエドマンドがハエの羽をむしり取るという場面があった。このハエは、無力な人間の象徴でもある。だが、そのハエが劇の冒頭エドマンドの周囲を飛んで彼をいらだたせ、劇の最後でオールバニー公の周囲を飛んで彼をいらだたせるとき、この小さなハエは、点滅する蛍光灯と同じく、秩序を揺るがすささいな予兆ともなりうる気がする。そしてもうひとつ、ハエは死体にむらがる。そう、この『リア王』の世界は、ゾンビたちのうごめく世界に、あるいはこの世界の陰画(この比喩はいまでは死滅しているのかもしれないが)に接していたのである。【残り1回】

【『リア王』で最後を締めくくる台詞はエドガーが話すのが今では普通になっている。しかし、今回の演出では、オールバニー公爵が述べることになった。実は1608年の四折り版(Q1)ではオールバニーの台詞となり、1623年の二折り版全集(F1)ではエドガーの台詞となっていて、どちらの台詞とするかは翻訳者にまかされる。今回松岡さんの翻訳ではオールバニーとなっていて、ある意味納得はした。まだ伯爵に正式になっていないエドガーよりも、オールバニーのほうが位は上で、リア亡き後、ブリテンの後継者となるにふさわしい人物だからであろうと推測した。ただし、ちくま文庫の翻訳見ると、松岡さんは最後の台詞をエドガーに言わせている。脚注でこの台詞はQ1ではオールバニーの台詞となっていると注記されている。ということはオールバニーに締めくくりの台詞を言わせたのは演出家だったのだ。それは今回の演出プランにあわせてのことだろう。ハエに悩まされるのはエドガーではない。白々しく新秩序の立ち上げを宣言しているようにみえるオールバニーこそ、ハエに悩まされてしかるべき存在ということなのだろう。】
posted by ohashi at 20:08| 演劇 | 更新情報をチェックする

2024年03月20日

『リア王』


PARCO PRODUCE 2024『リア王』(2024年3月8日 - 31日、東京芸術劇場 プレイハウス / 4月6日・7日、りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館 劇場 / 4月13日・14日、刈谷市総合文化センター アイリス 大ホール / 4月18日 - 21日、SkyシアターMBS / 4月25日・26日、キャナルシティ劇場 / 5月2日、まつもと市民芸術館 主ホール)

訳:松岡和子 演出:ショーン・ホームズ
出演:段田安則/小池徹平/上白石萌歌/江口のりこ/田畑智子/玉置玲央/
入野自由/前原滉/盛隆二/平田敦子/高橋克実/浅野和之/秋元龍太朗/中上サツキ/王下貴司/岩崎MARK雄大/渡邊絵理

私にとって、大きな劇場でのシェイクスピア劇公演としては、昨年の10月の新国立劇場中劇場における『終わりよければすべてよし』と『尺には尺を』以来だが、昨年の新国立劇場中劇場での観劇の際には、日曜日の午後の回を観たのだが、客席に空席が目立った。今回の東京芸術劇場のプレイハウスの公演では、同じく日曜日の午後の回を観たのだが、客席は満席だった。

この違いはどこからくるのだろう。おそらくは劇作品の知名度の違いだろうか。『終わりよければすべてよし』と『尺には尺を』は、シェイクスピア劇のなかでも問題劇とされているものだが(まあ「問題劇」というレッテルも観客を遠ざける要因かもしれない)、「四大悲劇」といってもてはやされている『リア王』に比べたら、無名の作品といっても過言ではない。『尺には尺を』のほうはけっこう上演されるのだが、一般に知名度は低いし、『終わりよければすべてよし』にいたっては、上演されることすら少ない。少ないから貴重な機会だから見てみようという気をおこす人は、それほど多くなかったのだろう。結局、シェイクスピア劇といっても、翻訳で読む限りでは難解でもなんでもないのだが、一般観客にとっては敷居が高いにちがいない。

『終わり……』と『尺には尺を』の不人気は、演出とか俳優のせいでは決してなかったと思うのだが、今回の『リア王』の舞台は、知名度にも助けられているかもしれないが、演出と俳優の演技のせいで劇場を満席にした(補助席もでるくらいなので)といっても過言ではない。現在公演中で、チケットが余っているのかどうかわからないが、観劇のチャンスがあればご覧になられること強くお勧めする。

昨年の『終わりよければすべてよし』と『尺には尺を』の公演では、ともに空席が目立ったのだが、最後には、立ち上がって拍手する、いわゆるスタンディングオベーションする観客がたくさんいた。このことは、観劇態度が悪かったと直接見聞きしたのではない伝聞情報をSNSに書かれて憤慨していた猪瀬直樹氏は、自分が立ち上がって拍手しなかったから批判されたのだろうと述べていたが、新国立劇場の公演では観客が少なかったのに毎回スタンディングオベーションをしていたみたいだ。なんなのだろう。やけくその景気づけか? 満席の『リア王』の公演では誰も立ち上がらなかったが、それがふつうである。最終公演では立ち上がって拍手するというのが慣例になっているが、それがふつである。とはいえ劇場のせいではない。昨年の東京芸術劇場の『橋からの眺め』も私が観た回には空席が目立ったが、最後にはスタンディングオベーションをしていた。なんなのだろうか。

以下は今回の『リア王』の演出についての考察である。ネタバレも含むので、劇をご覧になる前の方は読まないように。

1.現代服上演(1)
『アンソニー・ホプキンスのリア王』という映画(正確にはテレビ映画)のネット配信(AMAZON PRIMEだったか)に対するAMAZONのいつものことながら低次元(であるがゆえに私の好きな)レヴューに、『リア王』を王道の演出でもみてみたいというのがあった。『アンソニー・ホプキンスのリア王』は近未来の世界とはいえほぼ同時代に設定となている。ではシェイクスピアの戯曲はどうなのか。物語は史実ではなく伝説に属し、それは紀元前8世紀のことである。イタリア半島にローマが建国された頃ということになっている。だが、この時代設定は全く守られていない(多神教の時代ということで「神々」と呼ばれるくらいか)。戯曲にはフランス王だのバーガンディー公爵だのが登場する。フランスという国民国家が存在しているかのような設定である――紀元前8世紀というのに。つまり戯曲にあるフランスとは、シェイクスピアの時代のフランスなのである。

時代設定はめちゃくちゃである。というか時代劇ではない。そもそも材源自体が、伝説とおとぎ話との混交で、歴史ドラマではない。むしろ最初から、同時代の話あるいは同時代のアレゴリーとして受け止めることが要求されている。
そのためシェイクスピア時代では、同時代の服装で演じられていたにちがいない。17世紀、18世紀の上演でも、残っているイラストなどをみると同時代の服装で演じられている。そもそも紀元前8世紀にブリテン人がどんな服装をしていたのか誰も知らないのだから当然の処置である。シェイクスピア劇のすべてがそうでないとしても、『リア王』はつねに、同時代服・現代服上演が王道の上演形態なのである。

2.現代服上演(2)
ただし現代服上演で現代の政治社会や文化のアレゴリーを盛り込むということはできても、同時に芸術作品は時代を超える。安易な普遍性を持ち出すべきではないが、ローカル性あるいは同時代性の強調は、それをも超えた作品の超普遍性なり形而上性を実現できるのだろうか。今回のショーン・ホームズ演出の衣裳では、リア王は国王あるいは王族というよりも会社の社長、悪くいうとギャングのボス、せいぜいよくてファミリー経営のオーナー程度にしかみえない。そうした現代のビジネスの世界における愛と裏切りのドラマなら、それでもよいが、その背後にある一種の宇宙的崩壊とか新旧時代の対立を示唆するときは、現代服は阻害要因となる可能性がある。

3. 空間の使用
舞台全体の三分の一、それも客席側からみての三分の一を使う冒頭からの展開は、緊迫感とスピード感で魅了する。白い壁は、清潔感と同時に闇や汚れを嫌う圧迫感をかもしだす。黒と違って白は、重苦しさとは無縁のどちらかというと解放感を与えるのだが、黒とはちがった圧迫感や威圧感をかもしだす。しかも、この白い壁は、一部が壊されたり、落書きされたりして、汚れるたり一部が壊れたり破れたりするのだ。それが秩序への挑戦と破壊にみえ、汚れた白壁が、落書きされた壁となって重苦しいさを立ち上げることになる。 

後半というかリアが荒野に出ていったあと、嵐の荒野が舞台になると、白い壁は取り払われ、黒い壁で三方を囲まれた大きく広い舞台空間が出現する。また天井も白い空間のときよりも高くなり、そこに蛍光灯がずらりとならび、蛍光灯の点滅と大音響で、雷鳴と落雷を表現している。

この大きな空間も圧迫感を与える。白い空間での演技と比べ、この広くて暗くて黒い空間での演技は、演ずる者を小さくみせる。嵐の荒野の場面は、ある意味では、怒り狂うリア王の内面の光景でもあるのだが、そのようなことを思い起こさせないほどの、巨大な空間は、人間を虫けらのように押しつぶすかにみえる。あるいは人間を超えた大きな強大な力を感じさせる。

ここには、先ほど述べたようなファミリー企業の経営者とかオフィスを思わせるようなものはなくなり、人間の営みをあざ笑うかのような神秘的な力が感じられる。ここでは、宇宙的な動揺を肌で感じ取られるような神秘的な巨大な空間と、それに翻弄される小さな人間との対照性がくっきりと浮かび上がる。

4.蛍光灯
白いオフィス/宮廷の場面でも、また嵐の荒野の場面でも、天井には蛍光灯がずらりと並べられる。それらは下の舞台を明るく照らすだけではなく、時に部分的にしか点灯されなかったり、一部が点滅をくりかしたりして、蛍光灯全体のなかで壊れかかっている部分のありかを示すのである。へたをすると蛍光灯の一部、あるいは全部が壊れて点かなくなるのではという不安がよぎる。この世界では、文明の支えたる電気と電灯・蛍光灯が壊れ消えかかっている。その不気味な秩序崩壊への予感と不安とを蛍光灯の点滅で効果的示唆している。

演出家のショーン・ホームズはリアにとって自分が狂気に陥ることへの恐怖が強いと語っているが、狂気への転落、秩序からカオスへの転落、その可能性への不安と恐怖が、蛍光灯の点滅で効果的に示されているのではないか。

そう、私の家にも点滅をくりかえす古くなった蛍光灯、しかも、今回の舞台のようにジーと音を立てていまにも点灯しなくなるであろう蛍光灯がある。蛍光灯の不調が崩壊とカオスの予兆になることをあらためて思い知らされた。

5.場面転換
東京芸術劇場のプレイハウスは大きな劇場である。とくに舞台の端から端までを使うと、退場とか登場に時間がかかりそうだ。その時間、劇の流れが途絶えてしまいそうなので、退場する俳優と登場する俳優とが同時に舞台でまじわることがある。前の場面での役者が退場し終わった時点で時を置かず次の場面の役者が話をはじめられる。いやもっと正確にいうと、退場する役者は袖からはけるのではなく、舞台上の椅子に座ったりする。そしてその間、次の場面の役者が登場しはじめるか、すでに座っている椅子から立ち上がって話はじめる。退場と登場がオーバーラップする。そうして時間短縮が図られれ流れが途切れることがなくなる。

また退場する役者は、袖にはけるのではなく、その場にとどまることが多く、また次の場面の役者も舞台の椅子で待機していて、その姿を観客にみせている。これは、退場せずに舞台にはとどまる俳優をみて、観客はいま終わったばかりの場面の余韻に浸ることになり、また次の場面の役者がすでに舞台にいることから、いろいろ予想をたてる、あるいは予想しなくても次の場面を意識しはじめる。過去が現在にもとどまり、未来が現在に入り込む。時間が錯綜し、過去と未来とが絡まりあう。その面白さ、あるいはややこしさが、この演出の狙いではないだろうか。

6.多くの俳優が正面をむいて話す
おそらくは対面して言葉をぶつけあっていると思われる場面でも、当事者の俳優はまっすぐ観客席をみて台詞を発している。手紙を読む(音読する)場面でも、俳優は手紙そのものに目を落とすことなく、客席にむかって手紙も文言を、手紙をみることなく伝える。そのため台詞は聞き取りやすいが、時としてなぜ互いに顔を見あって話をしないのか不思議に思えてしまう演技が生まれる。

ただし話し相手ではなく観客のほうを向いて話すというのは、現実ではありえないが、演劇にとって基本中の基本、まさに演劇的な身振りである。たとえばフランスの新古典派の時代の演劇(ラシーヌとかコルネイユとかモリエールの時代)では、役者は直立不動で客席を向いてただ朗々と台詞をしゃべるだけだったともいわれている。演技とかアクションは夾雑物であり、台詞、言葉を客席に届けることが演劇の使命だとするなら、客席をむいての語りは、演劇の王道といえる。

しかし、それでは納得できない何かがある。ひとついえること、それは俳優が客席にむかってのみ話すというのは、独白の場合である。結局、この芝居では、登場人物全員が、すべてではないとしても、ほとんどの場合、相手に話をしているようで、結局、独白していて、相互のコミュニケーションは眼中にないのではないだろうか。自分の言いたいこと伝えたいことを話すだけで、それがどう受け止められようが、どのような効果なり結果をもたらそうが関係ないということなのか。これがひとつの考え方。

舞台の外に退場しない場合、役者は舞台上の椅子に、演技の邪魔にならないように座っている。この姿は客席からみえる。と同時に、椅子に座っている間、その役者は、場面上には存在していないことになり、死んだも同然である。つまり死者、人形、ロボットのような存在となる。これらは時間がきたら、場面のなかで必要となったらスイッチが入って、登場する。もちろん、そんな演劇機械のような象徴性など、今回の演出からはみじんも感じられないから、私の勝手な妄想とあきれられるかもしれないが、出番の終わった役者を舞台に座らせておき、次の場面に登場させるというような処理は、時間短縮や演劇の流れの円滑化のため以上に、演技性そのものを見せる仕掛けなのではと思えてくる。

たとえばただ座っているだけの俳優が、次の瞬間、リア王になり、エドマンドになりゴネリルにリーガンになる。そしてそれが終わったら一人の人間・俳優として魂が抜けたかのように椅子にすわって待機することになる。このとき観客がみているのは、リア王とかエドガーとか道化ではない。リア王になること、エドガーになること、道化になること、その演技化の運動をみている。演ずることと演じられること、そのふたつのうち、ふつう観客は演じられること(演技のシニフィエ)しかみないが、ここでは観客は演ずる行為そのものも観ているということになる。

この方式は、『リア王』という作品ともシンクロしている。『リア王』の後半では、狂ったリアが、椅子やがらくたを自分の不忠の娘ゴネリルやリーガンに見立てて裁判をする。あるいはエドガーは目が見えなくなったグロスターに断崖絶壁と思わせて自殺から救う。グロスターは崖の上から飛び降りたつもりでも、平たい舞台にただ身を投げ出したにすぎない。だが自分は断崖か飛び降りたと思っている。この詐欺、それをよきものとみせかける演劇性。『リア王』では、演技とか演劇性そのものが主題にもなっているであり、そのようなメタドラマ性は、俳優が演劇マシンではないかと思われるようなかたちでの客席に語りける台詞とか、退場しないで舞台に残る方式によっても、じゅうぶんに強調され補強されるのではないだろうか。

もしそうだとすれば、そこにまた欠点も生まれる。話しているのはリアではなく、リアを演ずる役者であり、出場が終われば、俳優にもどる一時的なものにすぎず、長い人生を生きてきた老人の心の深淵など最初からない、魂も心もないゾンビとしてリア王がみえてしまうのだ。どの役柄も、一時的に役者が憑依する、あるいは役者に憑依するものでしかなく、その正体はゾンビであり死者である。そんな負のイメージも生じかねない。

6.それがハエではないか。子供が遊ぶ虫けらというのは原文ではfly(ハエ)である。そしてハエは邪悪のハエの王を暗示すると同時に、死体にむらがるものでもある。つづく
posted by ohashi at 00:47| 演劇 | 更新情報をチェックする

2024年03月08日

『アーガイル』

Filmarksの映画紹介によれば、
凄腕エージェントのアーガイルが世界中を飛び回り、謎のスパイ組織の正体に迫る大人気スパイアクション小説「アーガイル」。ハードなシリーズの作者エリー・コンウェイの素顔は、自宅で愛猫のアルフィーと過ごすのが至福の時という平和主義。しかし、新作の内容と実在するスパイ組織の活動がまさかの一致で、エリーの人生は大混乱に!
物語の続きをめぐり命が狙われる事になった危機的状況をエイダン(サム・ロックウェル)と名乗るスパイに助けられる。
果たして、出会うはずのなかった二人と一匹の猫の危険なミッションの行方は…?!

新作の内容と物語の続きがどうして一致するのか、どんなからくりがあるのか、どんな仕掛けになっているのかと思ったが、これについてはきちんと説明がなされた。この種の設定の映画が多いので、類似の作品を指摘するだけで、ネタバレになってしまうので、慎重に、また知名度の低い作品を指摘すれば、この『アーガイル』は、『ロング・キス・グッドナイト』(1996)と同じ設定である。というかよく似ている――監督も承知の上のことだろう。この『ロング・キス・グッドナイト』は、公開当時はアメリカでも日本でもあまりヒットしなかったようだが、観ると面白い映画で、いまは評価が高い。『アーガイル』に出ているサミュエル・ジャクソンがジーナ・デイヴィスとW主演。

私の個人的な感想を先に述べれば、主演のブライス・ダラス・ハワードを観ることができて、これほどうれしいことはなかった。いまでこそ、『ジュラシック・ワールド』シリーズの顔というよりもレギュラーとして覚えられている彼女だが、2000年代には、『ヴィレッジ』(ナイト・シャマラン監督2004)とか『マンダレイ』(ラース・フォン・トリア監督2005)では主役だったし、同じくナイトシャマラン監督の『レディ・イン・ザ・ウォーター』(2006)ではタイトルになっている水の精だった。

しかし、その後は、アクあるいは癖の強い役あるいは悪役を演ずるようになり、『ゴールド/金塊の行方』(2016)では体格のいい胸が大きいだけのバカ女を演じていたし、『ロケットマン』(2019)では、エルトン・ジョンの、体格のいい胸がでかい鬼母を演じていて、まあ、これからこういう役をつづけるのかとも思った――『ジュラシック・ワールド』(2018)での活躍とは別に。

ただ私がブライス・ダラス・ハワードを初めて知ったのは、シェイクスピアの『お気に召すまま』の映画化作品であった。ケネス・ブラナー監督(本人は出演していない)の映画で、日本を舞台にした翻案作品(台詞はシェイクスピアのそれ)だが、日本では公開されずDVD化もされなかったはずだ。私はアメリカ版のDVDで観た。その映画で彼女はロザリンドを演じていた。主役である。【ちなみにシェイクスピアの原作ではロザリンドに一目ぼれしたオーランドーが、木の幹にロザリンドの名前を刻むのだが、この映画版ではなんとカタカナで「ロザリンド」と刻まれていたと記憶する。幕末から維新にかけての日本が舞台なので】

以後、ブライス・ダラス・ハワードの出演作は気づいた範囲で観ていたのだが、この『アーガイル』は彼女の二度目のブレイクといってよいのでは。しかもトラブルに巻き込まれる独身の女性作家という役どころは、いままでの彼女の役柄になかで、好感度トップのそれではないだろうか。しかも正直言っていまなお太めの彼女も、それが目立たない格好をしていて、少女らしさを強調しているようにも思われる。

ただ後半、残念ながら、せっかく目立たないような服装をしていた彼女も、設定上、その太めの(ごめんなさい)体を露出させずにはいられなくなる。そして、そこからがすごくなる。もちろん彼女の性格の変化あるいは二重性も見どころのひとつだが。

正直いってスタイルもよくないというよりも、大柄でドラム缶のような体型の彼女、しかも若くもない中年の女性である彼女が、サム・ロックウェル(俳優の実年齢は52歳)と、それも、たとえば『リチャード・ジュエル』に登場したような辣腕弁護士のような役がよく似合い、肉体派とはほど遠いサム・ロックウェルと、アクションシーンを演ずることになる。この中年の、ともに体型的にもむりすぎる、オバサンとオジサンのアクションシーンは、瞠目すべき驚異のパフォーマンスとなっている。おふざけがすぎると怒る観客がいるかもしれないが、私は、なんであれおふざけは大好きであり、二重に見えるというこの映画のテーマを考慮すれば、このアクションシーンも、性的な含意とか年齢を超越する若さへの夢として重層的にとらえることができる。たとえば、このアクションシーン、この女性作家にとってみれば、父親と母親の束縛と管理と洗脳から逃れようとする精神的な戦いと二重写しになっているといえる。

マシュー・ヴォーン監督は本作を、『ダイ・ハード』とか『リーサル・ウェポン』といった1980年代のアクション映画へのオマージュだというようなことを語っているようだが(ちなみにアーガイルというのは『ダイ・ハード』に登場するリムジンの黒人運転手の名前でもあるのだが)、たんなるノスタルジックなオマージュというよりも、変わり種ながら主流作品とみなされるようになったアクション映画を反復実践しつつ、それへのメタコメンタリーにもなっているのではないか。たとえば『ダイ・ハード』が筋肉ムキムキのスーパーヒーローではなく庶民的な脆弱な身体の男性による知力と体力をかけてのアクションを展開して大ヒットしたとすれば、『アーガイル』も攻撃的なまでの脂肪と筋肉を誇示する身体のブライス・ダラス・ハワードによるアクションを展開することによって、たとえおふざけでも夢物語でも、従来にないアクション映画の新たな局面を開拓したのではないかと思われる。

本来なら不利にはたらくブライス・ダラス・ハワードの驚異の身体の奇跡を私たちは目に焼き付けるべきである。

【追記:床一面に広がった原油の上を、急ごしらえのスケート靴を使って滑ることはできません。スケート靴のエッジが床に傷をつけるだけです。むしろふうつの平底の革靴だったら、スケートの心得があるのなら滑ることができるのかもしれない。】

posted by ohashi at 01:48| 映画 | 更新情報をチェックする

2024年03月06日

『コヴェナント/約束の救出』

原題がGuy Ritchie’s Covenantとなっているのは、もうひとつの映画『コヴェナント』(リドリー・スコット監督の『エイリアン:コヴェナント』(2017)のことだろう)と区別するためらしい。

ガイ・リッチー監督の近年の映画としては、フランス映画のリメイクである『キャッシュトラック』(2021)、『オペレーション・フォーチュン』(2023)と比べると、エンターテインメントとはいえ、アフガニスタンを舞台にしたシリアスな戦争ドラマとなっていて評価は高いようだ。裏切りに次ぐ裏切りの犯罪ドラマ『キャッシュトラック』とか、ばかばかしいスパイ・アクション映画『オペレーション・フォーチュン』にくらべたらということかもしれないが、個人的には『オペレーション・フォーチュン』は好きである。

戦争映画のお約束は、「敵中突破」なのだが、この『コヴェナント』もその例に漏れず、お約束の敵中突破を2回も行う。一度は、負傷した曹長を荷車に載せて、タリバンが支配している地域を100キロくらいの逃避行の末に米軍基地に無事帰還するアフガン人通訳の敵中突破行。もうひとつは、この敵中突破によってタリバンから命を狙われ身を隠している通訳を救出すべく、曹長がアフガンの地に再度降り立ち無事救出すること。実際にあったことではないようだが、二度の敵中突破は成功するだろうと予想がつくものの、思わず引き込まれるつくりをしていて、良質のエンターテインメントとなっている。まさに「お約束の敵中突破=救出」。

ただ、アフガニスタンや中東を舞台にした近年の戦争映画を観ていないので、同種の戦争映画と比べてみてどのくらいの出来なのかは比較し判断できないのだが、個人的な判断では面白い映画だと思った。

もちろん戦闘場面を売りにするただのエンターテインメントにとどまらず、最終的に撤退して現地の多くの通訳たちを見殺しにせざるを得なかったアメリカ軍の非情・非道ぶりへの批判はあるし、また命を救ってくれたアフガン人が窮地に陥っているときに、その恩返しとして単身救出に向かう元曹長という民族と国籍を超えた友情物語を罪滅ぼしとして作ったともいえなくもない。通訳の男性にはヴィザばかりかアメリカのパスポートも与えられる。

映画のなかでは、主人公たちの逃避行によって、人間が住んでいそうもないむき出しの原野と峡谷が開けてきて、その圧倒的な風景に驚かされ、アフガニスタンはすさまじいところだと思ったのだが、さすがにアフガニスタンでロケはできなかったようで、スペインでのロケに終始したようだ。ただたとえそうでも、スペインには、こんなところがあるのかと驚いた。

空軍基地の航空機などもアメリカ軍のマークをつけているが、スペイン軍の軍用機らしい。大きな軍用輸送機が駐機していた、あれは自衛隊も使っているC130の改良型かと思ったら、エアバスA400だった。ちなみに米軍はエアバスA400を使っていない。スペイン軍の機体とわかった。また最後に救世主としてあらわれる死の天使、ガンシップのAC130は、スペイン軍は使っていないので、あれはCGなのか、そこのところはよくわからなかった。

ちなみに西側の描くタリバンは、もちろん、誇張と悪魔化をほどこされた表象にちがいはなくて、真のタリバン像とは違うと予想はつくのだが、では真のタリバンとはまったく重なることのないフェイク像にすぎないかというと、そうでもないだろう。彼らの悪逆非道ぶりは、否定のしようもないところである。

幸か不幸か、日本人には、タリバンのために尽くし、タリバンによって殺され、殺された後、タリバンによって聖人化された中村哲という人がいる。アフガニスタンの人々のために人道支援してタリバンに殺されたら、悲劇の英雄にほかならなかったが、生前からタリバンの擁護者いやタリバンそのものと言われ、死後、タリバンからほめたたえられている中村哲については、安易な判断は下せない。タリバンによる殺害は悪い冗談だったのだろうか。あるいはタリバンを憎む勢力によって標的にされたのだろうか。

この『コヴェナント』から思い起こすというか、コロナ渦で日本の公開時にみることができなかったふたつの映画を配信などでみることになった。

ひとつは『記者たち/畏怖と衝撃の真実』(2018/日本公開2019)。あらためてSeptember 11からテロとの戦いに入り、アウガにスタン、そしてイラク戦争へと突き進んだアメリカの歩みとその過ちを、この映画を通して見直してはどうだろうか。

そしてもうひとつ『コヴェナント』で曹長を演ずるジェイク・ギレンホールの妻を演じていたエミリー・ビーチャム。彼女が主演の映画『リトル・ジョー』(2019/日本公開2020)である。というか『リトル・ジョー』は『コヴェナント』よりも先に観たのだが、ふたつの映画でエミリー・ビーチャムの印象が異なるため、『コヴェナント』での彼女について最初は認識できなかった。というか『リトル・ジョー』における彼女の髪型が変すぎたせいでもあったのだが。

次の記事ではこの二つの映画について少し触れてみたい。
posted by ohashi at 10:59| 映画 | 更新情報をチェックする

2024年03月05日

トイレがまぎらわしい

本題とはちょっと関係ない話だが、

昔イギリスのテレビでアメリカのテレビドラマを放送していて、それを観ていたのだが、内容は、文字が読めない初老の男性の話。もう孫もいる男性なのだが、文字が読めない。

そのため孫も含む家族全員で、海鮮料理のレストラン(おしゃれな高級レストラン)に食事に行っても、メニューが読めないので、ハンバーガーを注文する。

せっかく高級レストランに食べに来たのだから、メニューから自由に選べばいいのではと家族の者たちから非難されても、頑固にハンバーガーと言い張る。おじいちゃんは、どこへ行ってもハンバーガーしか注文しないのだからと息子か娘がこぼしつつ、店員にハンバーガーはあるかと訊くとあるというので、それで事なきを得る。

そしてこのおじいちゃん、トイレに行くと問題に遭遇する。

トイレには、ふつうならmenとwomenあるいはgentlemenとladiesと書いてあって、記号化された男女の図(ピクトグラム)がつけられているのだが、なんとその海鮮レストランのトイレにはsailorsとmermaidsと書いてあるだけ。ちなみにそのドラマを観ていた私は英語の文字は読めるから(まあ日本で義務教育を受けた人間としてはあたりまえのことだが)、どちらが男性用かはすぐにわかったが、このおじいちゃんは文字が読めないから、どちらに入っていいかわからない。そのため男女がどちらのトイレに入るのか様子をみて判断することになるのだが、なにかへんな男っぽいかっこうをした女性がマーメイド(女性用)のトイレに入ったので、そこを男性用と勘違いしたおじいさんは、堂々と入っていて、なかにいた女性たちから怒鳴られ叫ばれて追い出されるはめになる。

イギリスでの成人教育月間か週間にテレビで流されていたドラマで、成人教育というと、日本では、歳をとって何か習い事をするとか、資格をとるとか、趣味にうちこむとか、カルチャーセンターに通うとか、そういうイメージしかないのだが、イギリスでは成人教育は、そのメインの的のひとつに、文字を読めない人に文字を読めるようにするということがあって驚いた。文字が読めない人が多い(移民とかいうのではなく、ネイティヴで)。そして、またネイティヴのように話せないのだが、幸い文字は読める私は、そのドラマを観てなにか変な優越感にひたったことをいまでも覚えている。そのドラマについては、いろいろ書きたいこともあるのだが、今回の本題は、文字が読めないということではなく、最近のトイレ、なにかまぎわらしくなっていて、男性用と女性用をまちがえてしまいがちであるということである。

2月29日に、こんな記事がネット上に、
横浜駅のトイレに不満多数「設計悪手すぎるだろ」広報の見解は
SmartFLASH の意見 2月29日

男子トイレと思ったら “とんだ不意打ち”…東急横浜駅のトイレに不満多数「設計悪手すぎるだろ」

渋谷と横浜をつなぎ、1日の平均輸送人員が100万人を超える「東急東横線」。1日の乗降客が渋谷に次いで2位の横浜駅には、毎日30万人ほどが訪れているが、そこにある男子トイレが「わかりにくい」と騒ぎになっている。

トイレを表示する看板は、右側がピンク、左側が緑のカラーリングとなっており、パッと見は左が男子トイレだと誰もが思うだろう。しかし、左側のトイレは、オストメイト(人工肛門造設者など)や障害者、また子連れや高齢者などに配慮したバリアフリートイレ(男女共用多機能トイレ)なのだ。

バリアフリートイレの入口横にある「お手洗い案内図」を見てみると、バリアフリートイレのさらに左側、男性の足なら20歩も歩いたところに男子トイレがある。

もちろん、バリアフリートイレは男女共用のため、男性が使っても問題ないのだが――ホームから階段を上がってすぐのところにこのトイレはあり、ずっとトイレを我慢してきて、1分1秒を争う状態で「やっとたどりつけた!」と安堵した人には、とんだ不意打ちに違いない。

実際に観察していると、わずか2〜3分の間に、続々とバリアフリートイレに男性が入っていこうとするも、みな何か違うことに気づき、引き返して出てくる。入っていいのかどうかわからない人が多いのだろう。

たまたま作業を終えた清掃員の女性が出てきたので、「ここは使ってもいいんでしょうか?」と話を聞いてみた。すると、「いいんです、いいんです。体の不自由な方だったり、小さなお子さん連れの方がメインなんですけど、空いているときは全然使っていいんです」とのこと。

とはいえ、しょっちゅう利用客から同じ質問をされるようで、「わかりにくいですよね。迷う方が、たくさんいらっしゃるんです」と困惑気味に話してくれた。

実際、この設計にわかりにくさを感じる人は少なくないようで、ネット上では、

《東急、マジでこのトイレの設計悪手すぎるだろ…普通男子トイレだと思うじゃん》

《日本語・漢字が分からない外国人であるなら、確かに判断に迷うでしょう》

《脇に地図あるじゃん。見りゃわかるだろ!文字見りゃわかるだろ!色見りゃわかるだろ!ピクト【「ピクトグラム」を「ピクト」と略すことをはじめて知った】見りゃわかるだろ!いやいや、人間はそんなに丁寧ではない》

《これ実際にわたし間違えました…》

などの声が複数上がっている。【以下、略】

略したのは東急電鉄の見解の部分だが、東急電鉄に限らず、どうも最近、駅だけでなく繁華街やショッピングセンター、デパート、公共の建物でのトイレが、わかりにくいというか、まぎらわしくて、まちがって入ってしまうことがよくある。

先日も、あるデパートのトイレにいたら、突然、女性が入って来た。まちがって入ってきたようで、その女性はすぐに出て行ったが、私自身も、気づかずに女性用トイレに入ってしまい、あわてて飛び出しことがある。

たとえせっぱつまってトイレに駆け込んだわけではないのに、なにかまちがってしまうつくりになっている。私が老人で、暴走したり逆走したりする老人のドライヴァーと同じで、耄碌しているからと言えないこともないのだが、それにしても耄碌だけでは説明がつかないこともある。

記事にある東横線の駅のケースだが、男女共用のトイレがあることがまぎらわしさを強めている。バリアフリートイレがたくさんできるのはよいことだとしても、また男女どちらでも使ってよいトイレとはいえ、そこは男女どちらもとも使いにくいところでもある。

そして男女共用の図柄(ピクト!)あるいは文字があるために、その左右にあるトイレがどちらか急いでいるとわからなくなってしまうのではないだろうか。

もちろん本格的な分析をするつもりはないが、落ち着ていて判断しないと、まちがった側に入ってしまいがちであることは、強く意識しておきたい。

【追記
最初にふれた、私がイギリスで観たテレビ映画のタイトルはBuffing It(1987)。日本で放送されたか、上映されたかは知らない。主役はデニス・ウィーヴァー。スピルヴァーグを一躍有名にしたテレビ映画『激突』Duel(1971)の主役といえばわかるだろうか。日本ではまたNHKで放送されて連続テレビドラマ『警部マクロード』(1975-77)の主役としても名高かかった。そのウィーヴァーが孫もいる初老の工場長を演じたのがこの映画で、彼は読み書きができない。そのことは妻以外誰も知らないのだが、やがて隠しおおせなくなって……という話。

文字の読み書きを習いはじめた彼のところに、孫の女の子が、おじいちゃん、絵本を読んで近寄ってくる。これまでは相手にしなかったのだが、文字が読めるようになった彼は、孫を抱きよせ、絵本をたどたどしく読み始める。そこで映画は終わる。映画のポスターなどでは、この画像が使われている。映画を代表するシーンであり、観ていて泣けた。


posted by ohashi at 20:06| コメント | 更新情報をチェックする

2024年03月04日

『落下の解剖学』


2023年度カンヌ映画祭におけるパルムドール受賞作品で、評判にたがわず緊迫感あふれる映画【監督ジュスティーヌ・トリエ】。2時間30分ほどの上映時間がまったく気にならない。最後まで見入ってしまった。また映画館でみて、これはパルムドール賞だけでなく、パルムドッグ賞にも値すると思ったら、実際、パルムドッグ賞も受賞していた。当然の、納得の受賞。その理由は――見ればわかる。犬がすごいから。

アナトミーというタイトルは「解剖」とか「解剖学」としか訳しようがないのかもしれないが、またこれは私の個人的な妄想かもしれないが、たんに深い分析とか考察とかいう意味はもちろんのこと、それ以外にも、たとえばノースロップ・フライが、その『批評の解剖』のなかで着目した「解剖」という文学形式とも関係があるのかもしれない。

フライは、アナトミー形式をメニッポス的風刺とむすびつけているが、しかしフライ自身の著書のタイトル『批評の解剖』は風刺的あるいは批判的ではなく文学構造を俯瞰的にみる視座を提供するものである。いうなればメニッポス的風刺から風刺性を希薄化する、もしくは切除して、可能な限り全体像を提示する。しかし、それはたとえ風刺性をそいでいても、メニッポス的風刺の構造は維持している。つまり示されるさまざまな人物像あるいは観点なり思想は、どれも欠陥があり風刺の対象となるのがメニッポス的風刺であった。それにならって、いくら可能性を網羅した全体像を示しても、そのどれもが最終的解決ではない。

そしてまさにそれがこの映画だった。つまり裁判の結果とは関係なく、また自殺という可能性はあっても、同時に、誰もが犯人であるかもしれない――犬ですらも殺人に加担したかもしれない――という決定不可能性状態、あるいは可能性の飽和状態で映画は閉じられるのである。
しかし、だからといって難解な映画、後味が悪かったり、フラストレーションが残ることはない。

重たいという感想もあるようだが、それは重たいと思う人間の頭が最初から鈍重なだけで、むしろ映画をみたあとは爽快感にあふれている。

もしこれが疑問の余地なく犯人が特定され真相が隅々まで明らかになったら、なんて安っぽい映画なのだろうと、それこそ頭を抱えて重い気持ちで映画館を後にするしかないのではないだろうか。

裁判物の映画である。そして裁判物の常として、少しでも真相に迫ろうと観ている側の集中力はマックスになる。また裁判物・法廷劇でもあるので、観ている側は、早急な結論に飛びつくのではなく、かといって不必要な遅延とか無意味なミスリーディングに苦しめられることなく、着実に段階を経て真相が明らかになるプロセスに参加できる。そう、プロセスという語には、訴訟手続・裁判手続きの意味もある。良質な法廷物映画がそうであるように、この映画でも、裁判の進展とともに真相が明らかになっていくさまは、きわめてエキサイティングである。

だが、自殺か殺人か、殺人だとしたらいつだれがどのように殺したのかという真相を究明する裁判のなかで明らかになるのは裁判の真相そのものでもある。決定的な客観的証拠がない場合、すべては原告・被告側の代理人の弁論が裁判の勝敗(そう勝敗なのだ)を決める。どちらの弁論が論理的に破綻がなく整合的かどうかが問題となる――真相は、決定不可能となり、もうどうでもよくなるのだ。

さらにいえば論理性だけではなく、あるいはそれとは関係なく、説得性が問題となる。説得力のある物語を構築しえた側が裁判に勝つ。もちろん揺るがぬ客観的証拠がある場合とか、疑わしきは罰せずの原則が厳密に守られる場合とかは別にして、勝訴・敗訴を問題にする裁判は真相解明の場ではなくレトリック闘争の場となる。法廷は舞台。弁護士、検察官、判事は、みな役者。彼らには、それぞれ出場と台詞があり……。

これがまさに裁判のリアルなら、この映画は事件の真相を暴くなかで裁判の真相を白日のもとにさらすといってもいい。いや暴かれたのは裁判のリアルで、事件の真相はやぶの中といってもいいだろう。

だが、このことを私たちは映画の最初からわかっているわけではない。裁判によって真相が暴かれることを期待して画面に集中する。そして映画がはじまってからおよそ半分くらい時間がたってから(2時間半つまり150分の映画の中で、はじまってから75分くらいのところで)、夫が死ぬ前日の夫婦喧嘩の録音が法廷で公開される。検察もこの夫婦喧嘩に妻が夫を殺害した原因があるとみる。録音はすぐにフラッシュバックにかわり、夫婦の激しいやりとりが映像となって迫ってくるが、最後の部分のところでフラッシュバックは終わり、録音に耳をそばだてている傍聴人たちの姿が映し出され、物が壊れたり怒鳴ったり叫んだりする声が録音から聞こえるものの、何が起こったかは想像するしかない。壮絶な夫婦喧嘩の最も激しい部分が、その中心ともいえる部分が、音のみで伝えられ、真相は謎のままとどまるのである。

この映画では、肝心の部分が露呈しない。肝心かなめの部分が空白となっている。夫の死亡についても、自殺なのか他殺なのか正確なところはなにもわからない。最後まで。この映画の中心、事件の真相には、ただ空白が脈動しているしかない。最後まで。最後になって、結局、空白のまま、何も埋まらないまま、何も真相があきらかにならないまま終わることが観客にもわかる。

しかし、それがわかるまでは、真相が解明される期待と渇望に観客は翻弄される。そして真相そのものではなくても、真相の近似値は示される。

この夫婦喧嘩の原因を考えてみてもいい。裁判の結果がどうであれ、また途中の証言がいかなるものであれ、妻のほうも最後まで怪しいという感想をネット上で読むことができるのだが、どうもそれは、夫をたてない妻の傲慢さに反感を抱くメール・ショーヴィニストのくだらない感想でしかない。しかし小説家である妻が、学生からのインタヴューをうけているときに、階上で家全体に響き渡るような大音量で音楽を流して嫌がらせをする夫に対して殺意を抱いたかもしれないとは、容易に想像がつく。なぜなら、この夫の垂れ流す大音響に私も殺意を抱いたからだ。

50セントのP.I.M.Pという曲のインストルメント・ヴァージョンということだが(歌詞のほうは、相当ひどい女性蔑視的な内容ともなっていて、そのことは裁判の場でも検察側が触れている)、スチール・ドラム(スチール・パンというのか?)の音は嫌いではない私でも、あの大音量は生理的にも耐えがたく(そもそもグルノーブルの雪山の中で、カリブ海の音楽は聴くこと自体違和感マックスである)、あの大音量は暴力的な反応を誘発させるのにじゅうぶんなものがある。姿をみせない夫は、相当にひどい人間であると映画の冒頭からわかる。温厚な平和主義者の私だが、階上に行って音楽をやめさせるか、いうことをきかないようなら、その夫のむなぐらをつかんでバルコニーから下へと放り投げて殺してしまうかもしれない。私は、全面的に妻の味方である。

また、個人的にも、知人の女性が夫婦仲が悪くなっていて、事情を聴くと、結局、この映画の夫と同じようなことを言って、妻たるその知人の女性を責めていることからも、私は、個人的には、この映画のなかで夫には同情しない。妻のほうに同情する。夫は妻に苦労をかけまくっている加害者であるにもかかわらず、自分は妻からのプレッシャーの被害者だと言ってのける。まあ、夫婦喧嘩というのは、どこでもそうしたものかもしれないのだが、私の感想にはバイアスがかかっているとは思わない。

この映画のひとつの解剖所見では、夫は負け犬だが、失敗の原因を自分ではなく妻のせいにし、妻を悪者にして自分を正当化するというクズ人間である。追い詰められて自殺しても、妻に殺されても、どちらも当然の報いということになる。私はこの解剖所見を全面的に支持する。

ただし解剖所見はそれだけではない。自殺か他殺かについては確証はないものの、妻はかぎりなく怪しいし、もし殺したなら、それを黙って裁判で無実を訴えるというのは相当な悪女である。しかし彼女だけではない。視覚障碍者の息子もまた、証言を二転三転させている。視覚障碍者が唯一の目撃者であるという皮肉な状況が生まれているが、彼はまた、見えない目撃者であるかもしれないが加害者かもしれないのである。あるいは事故で父親を死なせたかもしれないのだが(事件後あれほど号泣していた彼は、父親の死を悼む以上の何か衝撃的なことを隠していたのかもしれない)、彼が父親の死の原因である可能性はある。

もちろん盲導犬といっていい犬のスヌープもまた怪しい。彼もまた少年の父親を襲った可能性がないわけではない。目の見えない少年と言葉をしゃべれない犬が真相を握っているという皮肉。あるいは少年と犬だけが、何かを知っている。真相をつかんでいる。開かれを経験しているのである。

だが、たんに誰が殺したかというレベル以上の死因も暗示されている。小説家の妻は、自分の人生上の経験をアレンジして小説を書き、高い評価を得ているという設定になっている。父親と自分との関係。自分の息子が失明する事故のこと。不仲な夫との関係。すべて実人生から材料を得て小説を書いている。

ただそうなると自分の人生と小説のなかの出来事との区別がつかなくなりはじめる。あるいは言い方をかえれば、自分の人生を演ずることにもなる。自分の人生が、虚構の人生と重なってくる。しかも皮肉なことに、今回、この事件では、彼女が実際にはどうであれ、小説のなかの人物のようにふるまうことが一般大衆から期待されている。つまり彼女は夫を殺す真犯人を演ずることを一般大衆や読者から期待されていることになる。

だが虚構と人生の境がなくなっているのは、夫の方もそうである。みずから小説も書く夫(ただしその小説は妻のそれと比べれば売れていないし評価も高くないようだ)は、妻との喧嘩を録音して、それを文字に起こして小説に使おうとしていることがわかる。そのこと自体最低の所業と思わずにはいられないが、死ぬ前日の壮絶な夫婦喧嘩も、夫が仕組んだ芝居といえないこともない。あるいは夫がいろいろなものを録音してそれの文字起こしをしていることを知っている妻は、夫婦喧嘩にも、どこか一歩引いた演技者として参加していたのかもしれない。

いっぽう妻のほうも、夫が思いついてもうまく小説として完成させらなかったアイデアを使って自分で小説を書いた。夫からはアイデアを盗んだとなじられるが、それは許されることだとしても実生活が虚構の材料を提供する、あるいは自分のアイデアと他人とアイデアの境がつかなくなるという点でも、両者(現実と虚構、自己と他者、理念と実践)が入り乱れる。絡み合う。

そしてそれが現実なのである。あるいは解剖形式による現実表象は、真実もしくは事実と可能性とを、真相とオルタナティヴとを同列に置く。そしてどれが中心でどれが周縁か、どれが真実でどれがべつの選択肢としての真実か、どれが起こり、どれが起こらなかったのか、どれが演技でどれが素の状態なのかの区別がなくなる。それが俯瞰的にすべての可能性を展示してみせる解剖形式の特徴である【「あれか、これか」ではなく、「あれも、これも」がアナトミー形式の特徴であえる】。

『落下の解剖』は、裁判で確定したものはゆるぎない真相であるどころかゆらぎがついてまわるように思われる。自殺か他殺かは判別できない。自殺であっても、自殺者への殺意はうずまいていた。実際におこったもしれないことと、目撃証言とは齟齬をきたす。そして最後に勝利するのは、真実ではなく、美しく説得力のある捏造かもしれない。その捏造が真実にとってかわるのかもしれない。

ポスト・トゥルースという言葉は今では誰も覚えていないかもしれないが、しかし、たんにフェイク情報を流して、それが真実として通用するような政治・文化的状況を意味するのではないポスト・トゥルースという用語ならまだ消えるのは早すぎる。事実は確定的で真実はいかようにも捏造あるいは偽造できるという二分法ではなくて、そのような事実と真実とが入り乱れ、どちらがどちらかわかならくなるという事実/真実もあること、まさにそれが現実であること(妄想や空想もまた現実の一部とみなすこと)、その感触の一端を私たちは『落下の解剖』でつかむことができるのかもしれない。

【なお夫が妻の浮気を容認していたのは、妻がバイセクシュアルで、妻がほかの女性と寝ていたことについては、さほど男性あるいは夫としてのプライドも名誉も傷つかなかったからというようにみなすことができるが、このバイセクシュアル問題は、この映画が、深く追求してないか、私たちに残された課題であるかの、どちらかであろう。】
posted by ohashi at 16:03| 映画 | 更新情報をチェックする