齋藤勇起監督第一作にして、このクォリティというのは驚きである。
そしてこれがもうひとつの、あるいは2024年版の『怪物』であることにも驚いた。ゲイ映画の傑作である。
ネット上には高く称賛するコメントが、落胆したというコメントと共存している。なんだかんだと文句つけているバカ・コメントをみると、そこからホモフォビアが垣間見える。ゲイ的要素が嫌いな人は、実はゲイ的欲望が人一倍強く、それを抑圧しているがゆえの反動形成としてホモフォビアが生まれることに早く気付いたほうがいい。自分でゲイ的欲望を自覚しない人間ほど周囲に迷惑をかける困った人間はほかにいないのだから。
いや、たとえゲイの変態オヤジにレイプされるという展開があるとしても、また同級生の中学生の間に友情はあっても同性愛的感情はないと思われるかもしれない。しかし、この映画における女性の扱いをみてもいい。この映画は少なくとも男性ホモソーシャル物語であって、女性の入り込む余地がない世界、男だけで自己完結する世界が描かれている――あるいは女性の欠如によっていびつになった男性の生活が描かれる。
共学の中学校なのだが、いつのまにか男子校のようにみえる。女子もまじっているサッカーの試合だが、サッカーは男子選手しかいなくなる。死んだ妹。逃げた母。関係を断ちたい母親。母親のいない農家。女性警察官の姿がみえない警察署。男性メンバーしかいない反社の集団(女性の秘書はいるとしても幹部は全員男性である)。女性は食事を提供するか、やさしい女性教員として、金のない中学生におごってやるか、子供や孫を生んで、家族の団欒という癒しを男性にあたえるような、慰撫する機能しか帯びていないように思われる。
ちなみに高良健吾、大東俊介、石田卓也という、三人の中学同級生たちも――それにしても実際にほぼ同年齢のこの三人、その演技と存在感で、この映画を限りなく魅力的なものにしている――、20年後、結婚しているのは高良健吾だけで、刑事の大東俊介は、罪の意識ゆえに結婚生活がうまくゆかなかたと述懐し、農家の後を継いだ石田卓也には女性の影がなく独身のようである。罪の意識が高良健吾以外の二人の生活に暗い影を投げかけたといえるのだが、同時に、彼らは女性ではなく男性のなかにしか救いを求めることができていないともいえる。あるいは女性が与える救いは、男性による救いに比べると薄いのである。
椎名桔平演ずる警察の幹部は、刑事の大東俊介が批判するように悪人を手玉にとりながら自分を街のキングにしている権力欲の亡者ではなくて、高良健吾をはじめとする不良や反者の男たちの面倒をみて、たとえそこにゲイ的な欲望は、エクスプリシットにみえていなくとも、男性ホモソーシャル関係の円滑な持続のために努力しているとみることもできる。
あるいは佐藤浩市扮するヤクザの会長の屋敷で庭の手入れをしている白装束の男(老人)たち。そこには女性の秘書がいるのだが、そこには隠微なかたちで同性愛的世界が暗示されているように思われる。
そのそも地方都市の闇の世界、反社とヤクザと警察がせめぎあう、まさにノワールの世界はゲイ的要素が濃密に浮遊する男性ホモソーシャル世界を形成しないことのほうがおかしい。とともに、時代の流れもあり、そこに生まれていた危ういバランスが失われつつある--それが物語の基本条件である。
映画のラストでは、高良健吾は、かつて中学生時代に仲間と川のなかにはいってじゃれあっていたときのことを思い出す。映画はそこで終わる。思い出のなかで浮かび上がるそれは、過去の美しいユートピア的な男性の絆の姿であり、同時に、それは失われるしかない運命の確認である。過去の男子中学生のまばゆい輝きのなかにあった友情は、20年後のヤクザとの抗争に入って結局殺されるであろう高良健吾の運命と重なり合う。
中学生のまばゆい輝きの中にあった友情には、彼らの望まない、あるいは無意識うちに望んでいたゲイ的欲望が忍び込んでいる。ゲイの変態オヤジにレイプされるという衝撃的事件は、しかし、ゲイ的欲望を否定するものではない。男性が女性をレイプしたからといって異性愛が忌まわしいものとして否定されることはないのと同様に、ゲイ的欲望は、中学生の仲間たちのなかに確実に存在していたし、だからこそゲイの変態オヤジのところに遊びに行ったりしていた。またゲイ的性加害事件後も、彼らの心の傷をいやすのは、女性ではなく男性との付き合いであったのだろう。ゲイ的欲望は、彼らを傷つけつつ、彼らを癒すのである。
この映画でわからないのは、なぜ、死体を川の浅瀬に放置したのかということである。川が犯行現場ではないにもかかわらず、20年前も、また20年後も。犯罪を隠蔽したり操作を攪乱したりするという明白な意図が語られたりはしていない。ではなぜ川の中なのか。
いうまでもなく、また何とかの一つ覚えと言われて仕方がないのだが、この物語が、川あるいは水の物語であるからだ。つまり水は同性愛の伝統的記号というかイメージを現前させるために川のなかの死体が必要だったのだ。少年を犠牲にしたのはゲイ的性加害である。だが彼らを救うのもゲイ的要素――男どおしの絆――なのである。この死と再生のドラマ。あるいは失われた再生。川のなかに置かれた少年の死体は、共同体の運命を、その光を失った目で見極めようとしているかのようだ。