齋藤勇起監督第一作にして、このクォリティというのは驚きである。
そしてこれがもうひとつの、あるいは2024年版の『怪物』であることにも驚いた。ゲイ映画の傑作である。
ネット上には高く称賛するコメントが、落胆したというコメントと共存している。なんだかんだと文句つけているバカ・コメントをみると、そこからホモフォビアが垣間見える。ゲイ的要素が嫌いな人は、実はゲイ的欲望が人一倍強く、それを抑圧しているがゆえの反動形成としてホモフォビアが生まれることに早く気付いたほうがいい。自分でゲイ的欲望を自覚しない人間ほど周囲に迷惑をかける困った人間はほかにいないのだから。
いや、たとえゲイの変態オヤジにレイプされるという展開があるとしても、また同級生の中学生の間に友情はあっても同性愛的感情はないと思われるかもしれない。しかし、この映画における女性の扱いをみてもいい。この映画は少なくとも男性ホモソーシャル物語であって、女性の入り込む余地がない世界、男だけで自己完結する世界が描かれている――あるいは女性の欠如によっていびつになった男性の生活が描かれる。
共学の中学校なのだが、いつのまにか男子校のようにみえる。女子もまじっているサッカーの試合だが、サッカーは男子選手しかいなくなる。死んだ妹。逃げた母。関係を断ちたい母親。母親のいない農家。女性警察官の姿がみえない警察署。男性メンバーしかいない反社の集団(女性の秘書はいるとしても幹部は全員男性である)。女性は食事を提供するか、やさしい女性教員として、金のない中学生におごってやるか、子供や孫を生んで、家族の団欒という癒しを男性にあたえるような、慰撫する機能しか帯びていないように思われる。
ちなみに高良健吾、大東俊介、石田卓也という、三人の中学同級生たちも――それにしても実際にほぼ同年齢のこの三人、その演技と存在感で、この映画を限りなく魅力的なものにしている――、20年後、結婚しているのは高良健吾だけで、刑事の大東俊介は、罪の意識ゆえに結婚生活がうまくゆかなかたと述懐し、農家の後を継いだ石田卓也には女性の影がなく独身のようである。罪の意識が高良健吾以外の二人の生活に暗い影を投げかけたといえるのだが、同時に、彼らは女性ではなく男性のなかにしか救いを求めることができていないともいえる。あるいは女性が与える救いは、男性による救いに比べると薄いのである。
椎名桔平演ずる警察の幹部は、刑事の大東俊介が批判するように悪人を手玉にとりながら自分を街のキングにしている権力欲の亡者ではなくて、高良健吾をはじめとする不良や反者の男たちの面倒をみて、たとえそこにゲイ的な欲望は、エクスプリシットにみえていなくとも、男性ホモソーシャル関係の円滑な持続のために努力しているとみることもできる。
あるいは佐藤浩市扮するヤクザの会長の屋敷で庭の手入れをしている白装束の男(老人)たち。そこには女性の秘書がいるのだが、そこには隠微なかたちで同性愛的世界が暗示されているように思われる。
そのそも地方都市の闇の世界、反社とヤクザと警察がせめぎあう、まさにノワールの世界はゲイ的要素が濃密に浮遊する男性ホモソーシャル世界を形成しないことのほうがおかしい。とともに、時代の流れもあり、そこに生まれていた危ういバランスが失われつつある--それが物語の基本条件である。
映画のラストでは、高良健吾は、かつて中学生時代に仲間と川のなかにはいってじゃれあっていたときのことを思い出す。映画はそこで終わる。思い出のなかで浮かび上がるそれは、過去の美しいユートピア的な男性の絆の姿であり、同時に、それは失われるしかない運命の確認である。過去の男子中学生のまばゆい輝きのなかにあった友情は、20年後のヤクザとの抗争に入って結局殺されるであろう高良健吾の運命と重なり合う。
中学生のまばゆい輝きの中にあった友情には、彼らの望まない、あるいは無意識うちに望んでいたゲイ的欲望が忍び込んでいる。ゲイの変態オヤジにレイプされるという衝撃的事件は、しかし、ゲイ的欲望を否定するものではない。男性が女性をレイプしたからといって異性愛が忌まわしいものとして否定されることはないのと同様に、ゲイ的欲望は、中学生の仲間たちのなかに確実に存在していたし、だからこそゲイの変態オヤジのところに遊びに行ったりしていた。またゲイ的性加害事件後も、彼らの心の傷をいやすのは、女性ではなく男性との付き合いであったのだろう。ゲイ的欲望は、彼らを傷つけつつ、彼らを癒すのである。
この映画でわからないのは、なぜ、死体を川の浅瀬に放置したのかということである。川が犯行現場ではないにもかかわらず、20年前も、また20年後も。犯罪を隠蔽したり操作を攪乱したりするという明白な意図が語られたりはしていない。ではなぜ川の中なのか。
いうまでもなく、また何とかの一つ覚えと言われて仕方がないのだが、この物語が、川あるいは水の物語であるからだ。つまり水は同性愛の伝統的記号というかイメージを現前させるために川のなかの死体が必要だったのだ。少年を犠牲にしたのはゲイ的性加害である。だが彼らを救うのもゲイ的要素――男どおしの絆――なのである。この死と再生のドラマ。あるいは失われた再生。川のなかに置かれた少年の死体は、共同体の運命を、その光を失った目で見極めようとしているかのようだ。
2024年02月26日
『夜は昼の母』
2024年2月2日~29日
東京都 シアター風姿花伝
作:ラーシュ・ノレーン
翻訳:ヘレンハルメ美穂
演出:上村聡史
出演:岡本健一、那須佐代子、竪山隼太、山崎一
コロナ渦前にはシアター風姿花伝によく行っていたが、コロナ禍には外出を控えていたので、久しぶりの風姿花伝である。入口までに階段を上ったり下りたりするので3階か4階にある劇場と思っていたが、今回、終演後、指示された階段を一階分降りて、さらにつぎの階段はどこかと探したら、そこはもう歩道だった。つまり入口/出口は2階にあることを初めて知った。知るのが遅すぎたのだが。
知るのが遅すぎたのは、ラーシュ・ノレーンの芝居もそうで、シアター風姿花伝での過去のノレーン作品上演の評判のよさを知ると、北欧演劇は専門ではないからと観なかったことが悔やまれる。ノレーン作品の高い評価は、今回の『夜は昼の母』(Natten är dagens mor)を観ても深く納得できるものだった。
ホテル経営をしている父親と母親そして二人の息子の四人が登場する家族芝居なのだが、家族はたがいにいがみあっている。最初、それは16歳の次男がゲイで家族のやっかい者になっているからだろうと推測できるのだが、劇がすすむにつれて(とはいえ一日の出来事なのだが)、父親がアルコール依存症であることわかる。断酒していたのに隠れて酒を飲み始めた父親が家族間の対立を激化させることになる。気づくと、家族を壊したアルコール依存症の父親への愛憎関係が軸となって1:3の闘争関係ができる。
そして激しい家族喧嘩の繰り返し。あんなに大声をあげてどなりあう喧嘩だとすると、従業員やホテルの客が嫌悪感いや恐怖感を抱くのではないかと心配になるが、4人だけの芝居で、それ以上登場人物は増えない。従業員も宿泊客も、壮絶な家族喧嘩をみてみぬふりをしているということか。あるいは私たち観客が、目撃者に見立てられ、息を飲んで興味津々に凝視しいているということかもしれない。
そしてアルコール依存症という優れて演劇ばえ、いや演技ばえする精神疾患【ばえるというのは、現実にそんな人間がいたら私たちは嫌悪感を抱くしかないのだが、演劇においては私たちはその存在感と演劇性に圧倒されるということである】。もちろんアルコール依存症は社会問題化していることでもある。
そもそもアルコール依存症それも重度のそれは、たんに酒が飲みたくてしかたがないという渇望感にさいなまれる精神状態というにとどまらない。妄想いや幻覚にとらわれ、さらに暴力をふるったりもするのだ。アルコール依存症は、いわゆる酒乱状態もしくは錯乱状態を伴う。いいかえるとアルコール依存症の人間は、現実を直視しないで、現実を幻想に置き換え、自己の創造した幻想の国に君臨する君主となる――そのため現実と周囲の人間を支配下に置くべく暴力をふるうことも辞さない。飲酒をしなければ誠実で温厚で思いやりのある優れた人間であるのに、アルコールが入ると、豹変し、暴れはじめ、隠れた悪魔的人格が表に出る。まさに同じ一人の人間が光から闇へ、静謐から狂乱への変容と回帰の往復運動をする。その揺れ幅の大きさは、当人を、すぐれた演技者にみせてしまう。
そう、アルコール依存症の人間は、現実においてではなく劇場のなかで出会うのなら、プロテウス的変幻自在の演技性を誇示しつつ、現実を支配し、みずからの幻想の王国をたちあげる、まさにプレーヤー・キングplayer kingあるいはステージ・キングであって、観客とっては、こんなに驚かされ、こんなに唾棄すべき、そしてこんなに面白い人物はいなのである。ああ、プレーヤー・キング。
この『夜は昼の母』では、アルコール依存症の父親を山崎一氏が演じているのだが、山崎氏の舞台を全部みているわけではないのであくまでも私の数少ない演劇体験のなかでの話だが、こんな山崎氏をみたことがない。そのエネルギッシュな酒乱男の暴走にはただただ目を見張るしかない。演技者としての山崎氏の圧巻の演技への驚きは、アルコールが入ると別人に豹変するアルコール依存症の人間に対する驚きとかぶってくる。内容と形式とが、演じられる人物と演じる人物とが一致する稀有な時間が出現するのである。
劇行為そのものは、酒乱の父親によって壊れてしまった家族関係から、いかに逃れるか、あるいはそれをいかに修復するか、あるいは修復できないと諦めるかをめぐって展開する。
家族のメンバーたちの葛藤と衝突は観ていて面白くてたまらないのだが、しかし、この家族に救いは訪れないだろうという気がする。酒乱の父親に見切りをつけて出て行こうするのだが、最終的にそれが誰にもできないまま、狂乱の一日と一夜のあと、翌朝を迎えることになる。
この無力感、このストックホルム症候群のような暴力的支配者への共感と許し。おそらくそこに、作品が1980年代後半の作品であることの時代性がよくでているのではないか。現代からみると、夫婦はさっさと離婚すればいいし、子供たちも親を見捨てて出て行けばいい。あるいはこの暴力的酒乱の父親を殺しても今なら正当防衛として認められる、つまり無罪となる。かりに収監されても、スウェーデンの刑務所は、日本のビジネスホテル並みの施設で圧迫感や閉塞感はない。つまりこの状態を打破できる可能性はじゅうぶんにある。だが1980年代のオヤジの世界には、その可能性が不可能なものとなっている。
実際、このアルコール依存症で酒が入ると暴君に豹変する父親は、1980年代の、日本でいえば昭和時代の末期の、不適切にもほどがある、コンプライアンス無視のクソオヤジをほうふつとさせる。そしてこのクソオヤジは、どんなに責められても、最後には許されてしまうのだ。そのためこの作品の家族は、ある意味、どこにでもある問題をかかえた家族なのだが【私自身、そうした家族をけっこうい身近に知っている】、同時に、そこから抜け出せないと思っている点で、いかにも昭和、いや、1980年代的なのである。
実際、この芝居は、狂乱の一夜のあと、ひとりを除いて、みな疲れ切って眠ってしまう。夜の眠りは昼の母。その眠りが忘却への引き金となって、これまでの父親の暴虐が、たとえ忘れ去られることはないにしても、緩和され希釈されてしまう。そうなると毎日が同じことの繰り返しとなる。この家族は学習しないまま不幸を繰り返すのである。
この3月にはまたもやタイム・ループ物の新作日本映画『ペナルティ・ループ』が公開されるようだが、飽きもせずループ物をつくりつづける業界もどうかと思うが、それでも人気のあるタイム・ループ物は、この『夜は昼の母』をみる、ひとつの視座を提供してくれる。
もちろんこれは私の勝手な見解にすぎないのだが、『夜は昼の母』の家族は、狂乱の一日あるいは狂乱の一夜の後、翌朝目覚めてまた同じような一日を過ごすのではないか。父親は、断酒の禁を破って酒を飲むことで人格が豹変し、そのあげく暴君的な家長となって家族を支配しようとし、母親は離婚を考え、子供たちは家を出ていくところまでいく、そして翌朝……。なにも変わらぬ家族の一日がはじまる。まるで前日に戻ったかのように。
もし家族の者たちが忘却の河を渡ってしまい記憶を失うのなら、毎日が繰り返しに、それも酒乱の父親をめぐる一大事件、結末も救いもない一大事件の、繰り返しとなる。記憶を失うか記憶が薄れることによって、アルコール依存症の悲惨な実態が緩和される。そしてその悲惨を毎日、いやというほど味わうことになる。一日の出来事を記憶しないかぎり、同じ一日の繰り返しは逃れることのできない罰となる。この家族に救いはない。彼らは同じ一日を永遠に繰り返す――この感想は、リアリティがある。なぜなら演者は、翌日も同じ演劇を、同じ一日を演ずることになるのだから。タイムループ物は演劇上演の世界のメタファーでもある。
岡本健一が最初に登場する。彼は女装をして口紅をひく、今でいうとトランスジェンダーである。そしてゲイの人間であることを兄に糾弾されて兄弟関係が険悪になる。ちなみに岡本健一氏は、16歳の誕生日を迎える少年の役を演ずるのだが、それは無理がありすぎる。またとくにメイクなどで実年齢をごまかすことはしないので、中年男が、16歳の少年の下手なコスプレをしているとしかみえない。
そこで、なにかたくらみというか、16歳にみえない岡本健一を正当化するような設定があるのかもしれないと期待したが、残念ながらそれはなかった。そのためいくら優れた演技者とはいえ、54歳の岡本健一が16歳の少年を演ずるのを我慢するしかないのだが、ただ、この少年、不眠症ということで家族が寝静まったあとでも起きている。それはまた彼が記憶の人であることを物語る。忘却は、毎日をペナルティ・ループに変えるが、記憶は、たとえ同じことの繰り返しであってもこまかな差異への気づきによって変化への希望が生まれる。
タイム・ループ物の設定では、ループしていると気づかないかぎり、囚われ状態が続くが、ループに気付くと、たとえどんなにわずかなものであっても変化への希望が生まれる(もちろん悪化の可能性にも気づくことになるとはいえ)。家族のなかで、岡本健一演ずる次男だけが成長を遂げる。ほかの家族は子供でしかないのだが、彼だけは大人もしくは大人になる途上にある。
現実をみようとせず現実を支配しようとするプレーヤー・キングたる父親と、現実に目をひらき現実を支配するのではなく現実を模倣し記憶しようとする次男、この二人のある意味超人の対決はまた、私たち全員がかかえている内部抗争のメタファーともなるのだろう。
とりあえずの感想である。今回の衝撃的な上演そし圧巻の演技は、私にとってラーシュ・ノレーンの作品の強烈な通過儀礼となった。遅ればせながら、他の作品を読んでみることを決意した。
東京都 シアター風姿花伝
作:ラーシュ・ノレーン
翻訳:ヘレンハルメ美穂
演出:上村聡史
出演:岡本健一、那須佐代子、竪山隼太、山崎一
コロナ渦前にはシアター風姿花伝によく行っていたが、コロナ禍には外出を控えていたので、久しぶりの風姿花伝である。入口までに階段を上ったり下りたりするので3階か4階にある劇場と思っていたが、今回、終演後、指示された階段を一階分降りて、さらにつぎの階段はどこかと探したら、そこはもう歩道だった。つまり入口/出口は2階にあることを初めて知った。知るのが遅すぎたのだが。
知るのが遅すぎたのは、ラーシュ・ノレーンの芝居もそうで、シアター風姿花伝での過去のノレーン作品上演の評判のよさを知ると、北欧演劇は専門ではないからと観なかったことが悔やまれる。ノレーン作品の高い評価は、今回の『夜は昼の母』(Natten är dagens mor)を観ても深く納得できるものだった。
ホテル経営をしている父親と母親そして二人の息子の四人が登場する家族芝居なのだが、家族はたがいにいがみあっている。最初、それは16歳の次男がゲイで家族のやっかい者になっているからだろうと推測できるのだが、劇がすすむにつれて(とはいえ一日の出来事なのだが)、父親がアルコール依存症であることわかる。断酒していたのに隠れて酒を飲み始めた父親が家族間の対立を激化させることになる。気づくと、家族を壊したアルコール依存症の父親への愛憎関係が軸となって1:3の闘争関係ができる。
そして激しい家族喧嘩の繰り返し。あんなに大声をあげてどなりあう喧嘩だとすると、従業員やホテルの客が嫌悪感いや恐怖感を抱くのではないかと心配になるが、4人だけの芝居で、それ以上登場人物は増えない。従業員も宿泊客も、壮絶な家族喧嘩をみてみぬふりをしているということか。あるいは私たち観客が、目撃者に見立てられ、息を飲んで興味津々に凝視しいているということかもしれない。
そしてアルコール依存症という優れて演劇ばえ、いや演技ばえする精神疾患【ばえるというのは、現実にそんな人間がいたら私たちは嫌悪感を抱くしかないのだが、演劇においては私たちはその存在感と演劇性に圧倒されるということである】。もちろんアルコール依存症は社会問題化していることでもある。
そもそもアルコール依存症それも重度のそれは、たんに酒が飲みたくてしかたがないという渇望感にさいなまれる精神状態というにとどまらない。妄想いや幻覚にとらわれ、さらに暴力をふるったりもするのだ。アルコール依存症は、いわゆる酒乱状態もしくは錯乱状態を伴う。いいかえるとアルコール依存症の人間は、現実を直視しないで、現実を幻想に置き換え、自己の創造した幻想の国に君臨する君主となる――そのため現実と周囲の人間を支配下に置くべく暴力をふるうことも辞さない。飲酒をしなければ誠実で温厚で思いやりのある優れた人間であるのに、アルコールが入ると、豹変し、暴れはじめ、隠れた悪魔的人格が表に出る。まさに同じ一人の人間が光から闇へ、静謐から狂乱への変容と回帰の往復運動をする。その揺れ幅の大きさは、当人を、すぐれた演技者にみせてしまう。
そう、アルコール依存症の人間は、現実においてではなく劇場のなかで出会うのなら、プロテウス的変幻自在の演技性を誇示しつつ、現実を支配し、みずからの幻想の王国をたちあげる、まさにプレーヤー・キングplayer kingあるいはステージ・キングであって、観客とっては、こんなに驚かされ、こんなに唾棄すべき、そしてこんなに面白い人物はいなのである。ああ、プレーヤー・キング。
この『夜は昼の母』では、アルコール依存症の父親を山崎一氏が演じているのだが、山崎氏の舞台を全部みているわけではないのであくまでも私の数少ない演劇体験のなかでの話だが、こんな山崎氏をみたことがない。そのエネルギッシュな酒乱男の暴走にはただただ目を見張るしかない。演技者としての山崎氏の圧巻の演技への驚きは、アルコールが入ると別人に豹変するアルコール依存症の人間に対する驚きとかぶってくる。内容と形式とが、演じられる人物と演じる人物とが一致する稀有な時間が出現するのである。
劇行為そのものは、酒乱の父親によって壊れてしまった家族関係から、いかに逃れるか、あるいはそれをいかに修復するか、あるいは修復できないと諦めるかをめぐって展開する。
家族のメンバーたちの葛藤と衝突は観ていて面白くてたまらないのだが、しかし、この家族に救いは訪れないだろうという気がする。酒乱の父親に見切りをつけて出て行こうするのだが、最終的にそれが誰にもできないまま、狂乱の一日と一夜のあと、翌朝を迎えることになる。
この無力感、このストックホルム症候群のような暴力的支配者への共感と許し。おそらくそこに、作品が1980年代後半の作品であることの時代性がよくでているのではないか。現代からみると、夫婦はさっさと離婚すればいいし、子供たちも親を見捨てて出て行けばいい。あるいはこの暴力的酒乱の父親を殺しても今なら正当防衛として認められる、つまり無罪となる。かりに収監されても、スウェーデンの刑務所は、日本のビジネスホテル並みの施設で圧迫感や閉塞感はない。つまりこの状態を打破できる可能性はじゅうぶんにある。だが1980年代のオヤジの世界には、その可能性が不可能なものとなっている。
実際、このアルコール依存症で酒が入ると暴君に豹変する父親は、1980年代の、日本でいえば昭和時代の末期の、不適切にもほどがある、コンプライアンス無視のクソオヤジをほうふつとさせる。そしてこのクソオヤジは、どんなに責められても、最後には許されてしまうのだ。そのためこの作品の家族は、ある意味、どこにでもある問題をかかえた家族なのだが【私自身、そうした家族をけっこうい身近に知っている】、同時に、そこから抜け出せないと思っている点で、いかにも昭和、いや、1980年代的なのである。
実際、この芝居は、狂乱の一夜のあと、ひとりを除いて、みな疲れ切って眠ってしまう。夜の眠りは昼の母。その眠りが忘却への引き金となって、これまでの父親の暴虐が、たとえ忘れ去られることはないにしても、緩和され希釈されてしまう。そうなると毎日が同じことの繰り返しとなる。この家族は学習しないまま不幸を繰り返すのである。
この3月にはまたもやタイム・ループ物の新作日本映画『ペナルティ・ループ』が公開されるようだが、飽きもせずループ物をつくりつづける業界もどうかと思うが、それでも人気のあるタイム・ループ物は、この『夜は昼の母』をみる、ひとつの視座を提供してくれる。
もちろんこれは私の勝手な見解にすぎないのだが、『夜は昼の母』の家族は、狂乱の一日あるいは狂乱の一夜の後、翌朝目覚めてまた同じような一日を過ごすのではないか。父親は、断酒の禁を破って酒を飲むことで人格が豹変し、そのあげく暴君的な家長となって家族を支配しようとし、母親は離婚を考え、子供たちは家を出ていくところまでいく、そして翌朝……。なにも変わらぬ家族の一日がはじまる。まるで前日に戻ったかのように。
もし家族の者たちが忘却の河を渡ってしまい記憶を失うのなら、毎日が繰り返しに、それも酒乱の父親をめぐる一大事件、結末も救いもない一大事件の、繰り返しとなる。記憶を失うか記憶が薄れることによって、アルコール依存症の悲惨な実態が緩和される。そしてその悲惨を毎日、いやというほど味わうことになる。一日の出来事を記憶しないかぎり、同じ一日の繰り返しは逃れることのできない罰となる。この家族に救いはない。彼らは同じ一日を永遠に繰り返す――この感想は、リアリティがある。なぜなら演者は、翌日も同じ演劇を、同じ一日を演ずることになるのだから。タイムループ物は演劇上演の世界のメタファーでもある。
岡本健一が最初に登場する。彼は女装をして口紅をひく、今でいうとトランスジェンダーである。そしてゲイの人間であることを兄に糾弾されて兄弟関係が険悪になる。ちなみに岡本健一氏は、16歳の誕生日を迎える少年の役を演ずるのだが、それは無理がありすぎる。またとくにメイクなどで実年齢をごまかすことはしないので、中年男が、16歳の少年の下手なコスプレをしているとしかみえない。
そこで、なにかたくらみというか、16歳にみえない岡本健一を正当化するような設定があるのかもしれないと期待したが、残念ながらそれはなかった。そのためいくら優れた演技者とはいえ、54歳の岡本健一が16歳の少年を演ずるのを我慢するしかないのだが、ただ、この少年、不眠症ということで家族が寝静まったあとでも起きている。それはまた彼が記憶の人であることを物語る。忘却は、毎日をペナルティ・ループに変えるが、記憶は、たとえ同じことの繰り返しであってもこまかな差異への気づきによって変化への希望が生まれる。
タイム・ループ物の設定では、ループしていると気づかないかぎり、囚われ状態が続くが、ループに気付くと、たとえどんなにわずかなものであっても変化への希望が生まれる(もちろん悪化の可能性にも気づくことになるとはいえ)。家族のなかで、岡本健一演ずる次男だけが成長を遂げる。ほかの家族は子供でしかないのだが、彼だけは大人もしくは大人になる途上にある。
現実をみようとせず現実を支配しようとするプレーヤー・キングたる父親と、現実に目をひらき現実を支配するのではなく現実を模倣し記憶しようとする次男、この二人のある意味超人の対決はまた、私たち全員がかかえている内部抗争のメタファーともなるのだろう。
とりあえずの感想である。今回の衝撃的な上演そし圧巻の演技は、私にとってラーシュ・ノレーンの作品の強烈な通過儀礼となった。遅ればせながら、他の作品を読んでみることを決意した。
posted by ohashi at 21:11| 演劇
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2024年02月23日
『マクベス』雑感2
4. 失われた幼年時代
『マクベス』は、子供が登場する数少ないシェイクスピア劇のひとつである。
子どもが登場するシェイクスピア作品を列挙すると:
ここで子供をめぐるいくつかの数字を確認したい。
まずシェイクスピア劇全体で登場人物はおよそ1000人。そのうち子供はおよそ30人。そのなかで台詞のある子どもは13人。【1000人というのはとんでもなく多い人数に思われるかもしれないが、蓋然性のある数字。また子供の人物は少ないが、それでも同時代の劇作家の作品に比べるとシェイクスピア劇は子どもを使うことが多いともいわれている】
子供がいる世帯:全体の70%。子供のいる世帯の平均的子供数:2.5~3。そのうち貧困層の世帯の平均的子供数:4.75。
10歳未満で死亡する子供の割合:5分の1(エリザベス女王時代)、4分の1(ジェイムズ王時代)
現実には子供は多くいた(また多くの子供が10歳未満で死亡)。核家族に子供は二人はいた。それに対してシェイクスピア劇には子供は極端に少ない。これは子供を演じにくいという事情もあったかもしれない。
子供は誰が演じたかというと、少年俳優である。少年俳優はひとつの劇に3名もしくは4名だった。ちなみに『マクベス』の場合、少年俳優は3人。この3人が3人の魔女を演じ、さらにマクベス夫人、マクダフ夫人、その息子の3人を演じたと考えられる。そして少年俳優が子供の存在を可能にしたか困難にしたかは判断できない。そうなると世界観か。
新約聖書の『コリント人への第一の手紙』のなかの有名な第13章に次のような一節がある。
子供の時は子供言葉で喋っていても、いつしか大人になると普通の言葉で喋るようになる。子供言葉を捨てることは信仰をもつようになることと表裏一体化している。ここでわかるのは子供言葉で喋る子供時代というのが私たちにあるということである。
ところがシェイクスピア劇に登場する数少ない子供たちには、子供言葉で喋る子供時代というのは存在しないようなのだ。シェイクスピア劇の子供たちはみんな大人言葉をしゃべる。そのせいかどうかわからないが、みんな大人びている。いいかえるとかわいげのない生意気なクソガキであり、彼らの運命にどう反応したらいいのか現代の観客は戸惑うのではないか。
『マクベス』におけるマクダフの息子(名前はない)は、幼いながら母親を暗殺者から守ろうとして殺される。けなげな母親思いの息子なのだが、これも通常なら、利発で母親思いの幼い子供が刺客によって殺される――息子をかばおうとした母親といっしょに。そしてそれが涙を誘うのだが、『マクベス』では利発な息子が刺客から母親を守ろうとして最初に殺される。この息子には、子供らしい愚かさや弱さがない。この子は自殺行為に走る。『ジョン王』に登場する少年アーサーのように。自殺行為は幼な子のする行動というよりも、大人の行動パタンである。
ノゾエ征爾氏の演出による『マクベス』は、マクダフ夫人と息子が刺客によって殺されるまでの経緯をかなり丁寧に舞台化し、そこを見せ場のひとつにしようとしていたのだが、マグダフの息子のかわいげのなさが演出に悪影響を及ぼしていて、この場面だけ演出が空回りしているように思えた。
これはシェイクスピアあるいはシェイクスピアの時代のせいである。子供を舞台にのせにくいという基本的条件があったかどうかとは関係なく、観客の情動に訴える劇的提示法をシェイクスピアとシェイクスピアの時代は発見していなかったのではないか。子供を登場させることで、果敢に子供のもつ劇的可能性を模索したにもかかわらず。
5 三顧の礼に似て
「三顧の礼」は、目上の者が身を低くして目下の者を手厚く迎えるというような意味に使われているようだが、ただ、ここに劇的強度を高める稀有の出会いがあることを劇作家は古来から気づいていた。
たとえばソポクレスの『ピロクテーテース』。Wikipediaの項目「ピロクテーテース」には、ソポクレスの悲劇『ピロクテテース』をめぐって次のような記述がある。
トロイ戦争に参加することを嫌がるピロクテーテースをいかに説得するか、あるいはいかに騙すかが、この悲劇(とはいえどこが悲劇かよくわからないのだが)の劇的強度増大への契機となる。嫌がる人間を参加・復帰させるというテーマが、ここに生まれる。それが魅力的テーマであったのは、三大悲劇詩人がこのテーマで作品を書いたことからも推測できる。
サルトルの『悪魔と神』Le Diable et le Bon Dieu(全3幕、1951年初演)は16世紀ドイツ農民戦争時の傭兵隊長ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンが、状況に翻弄され隠遁生活に入るものの、苦戦を続ける農民側の指導者から執拗に乞われ最後に総指揮官となって農民と戦うことを決意するまでを描く歴史劇である。第3幕に後半における説得と固辞とのせめぎあいのはての出陣は、まさに『ピロクテーテース』の世界の延長線上にある。
そして現代の例のとして、トム・ストッパードの翻訳で有名になったヴァーツラフ・ハヴェルのLargo Desolato (1984年執筆、1986年初演)をあげることができる。ハヴェル自身を思わせる民主化運動のかつての英雄にして指導者を主人公にして、監視状態にあり、また自ら隠遁を選択したような彼は、運動に復帰するように促す勢力から説得されるが、当局の罠ではないかと疑心暗鬼になりつつ、最終的には、運動と政界に復帰しない。参加を乞われた人物が参加を最後まで拒否するという予想を裏切る展開が特徴となる。
ソポクレス、サルトル、ハヴェルの例からみると、『マクベス』においてイングランドに亡命したマルカム王子を、マクベス討伐軍の指導者になるよう求めるマクダフの執拗な説得と、自分はその任ではないどころか不適切な君主であるとかたくなに固辞をするマルカムとの劇的衝突は、この劇の後半の見どころとなる。シェイクスピアの『マクベス』の第4幕におけるマルカムとマクダフの場面は、いま触れた二、三の劇作品、それも固辞するヒーローに対する必死の説得というテーマを共有する作品群の重要な事例となることはまちがいない。
ただし問題もある。『マクベス』におけるマクダフによる説得の場面はけっこう問題があり、予想を裏切りつづけ、劇作品の統一感や整合性を揺るがしかねないのである。
どういうことかといえば、まず亡命したマルカムは、スコットランドからやってきて説得にあたるマクダフをマクベスの手先あるいはマクベスが放った刺客ではないかと警戒しているようにみえる。自分は君主たる資格をもたない愚劣な人間であると強く主張するマルカム。そこへスコットランドから使者が到着し、マクダフの妻子がマクベスによって皆殺しになったという知らせをもってくる。その知らせを聞いて、マクダフが自分の家族を犠牲にしてまで自分を説得しに来たことを確信するマルカムは、マクダフの要請を受けて、総司令官としてスコットランドに進軍することを決意する……とはならないのだ。
『マクベス』では、まずマルカムは自分の不徳あるいは悪徳を列挙して自分は王にふさわしくないと語る。マクダフはそれでもかまわないと、王たるものにふさわしい条件の敷居をどんどん下げる。そして最後にそれもかなわぬと知って嘆くマクダフ。それをみてマルカムは挙兵することを決意し、その旨をマクダフに告げる。マクダフの妻子が殺されたという知らせは、マルカムが決意した後で届き、マルカムの決意になんら影響を与えない。
さらに、マルカムは、マクダフによる説得以前に、スコットランド進軍の準備をすすめていて、イングランド側のシーワード将軍はすでに進軍を開始したのだと告げる。これによってマクダフの説得は、マルカムとシーワード両司令官の進軍命令になんら影響を与えていないことになる。
こうしてマクダフの説得には、全く意味がなかったことが明らかになるのだが、それでいいのだろうか。この部分にみられる材料は、もっとうまく使えば、ふつうに感動的な結末を提供できたはずである。なぜそれをしなかったのか。
『マクベス』という芝居は意外に謎が多いのである。
『マクベス』は、子供が登場する数少ないシェイクスピア劇のひとつである。
子どもが登場するシェイクスピア作品を列挙すると:
〇『リチャード三世』The Tragedy of King Richard the Third(1592-3):国王エドワード四世Edward IVの二人の子どもエドワード5世(兄)、ヨーク公リチャード(弟)クレランス公Duke of Clarenceの二人の子どもエドワード(兄)とマーガレット(妹)
〇『マクベス』The Tragedy of Macbeth(1606)マクダフMacduffの息子
〇『冬物語』The Winter’s Tale(1609-10) マミリアスMamillius
〇『ジョン王』The Life and Death of King John(1596) アーサーArthur
ここで子供をめぐるいくつかの数字を確認したい。
まずシェイクスピア劇全体で登場人物はおよそ1000人。そのうち子供はおよそ30人。そのなかで台詞のある子どもは13人。【1000人というのはとんでもなく多い人数に思われるかもしれないが、蓋然性のある数字。また子供の人物は少ないが、それでも同時代の劇作家の作品に比べるとシェイクスピア劇は子どもを使うことが多いともいわれている】
子供がいる世帯:全体の70%。子供のいる世帯の平均的子供数:2.5~3。そのうち貧困層の世帯の平均的子供数:4.75。
10歳未満で死亡する子供の割合:5分の1(エリザベス女王時代)、4分の1(ジェイムズ王時代)
現実には子供は多くいた(また多くの子供が10歳未満で死亡)。核家族に子供は二人はいた。それに対してシェイクスピア劇には子供は極端に少ない。これは子供を演じにくいという事情もあったかもしれない。
子供は誰が演じたかというと、少年俳優である。少年俳優はひとつの劇に3名もしくは4名だった。ちなみに『マクベス』の場合、少年俳優は3人。この3人が3人の魔女を演じ、さらにマクベス夫人、マクダフ夫人、その息子の3人を演じたと考えられる。そして少年俳優が子供の存在を可能にしたか困難にしたかは判断できない。そうなると世界観か。
新約聖書の『コリント人への第一の手紙』のなかの有名な第13章に次のような一節がある。
わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
子供の時は子供言葉で喋っていても、いつしか大人になると普通の言葉で喋るようになる。子供言葉を捨てることは信仰をもつようになることと表裏一体化している。ここでわかるのは子供言葉で喋る子供時代というのが私たちにあるということである。
ところがシェイクスピア劇に登場する数少ない子供たちには、子供言葉で喋る子供時代というのは存在しないようなのだ。シェイクスピア劇の子供たちはみんな大人言葉をしゃべる。そのせいかどうかわからないが、みんな大人びている。いいかえるとかわいげのない生意気なクソガキであり、彼らの運命にどう反応したらいいのか現代の観客は戸惑うのではないか。
『マクベス』におけるマクダフの息子(名前はない)は、幼いながら母親を暗殺者から守ろうとして殺される。けなげな母親思いの息子なのだが、これも通常なら、利発で母親思いの幼い子供が刺客によって殺される――息子をかばおうとした母親といっしょに。そしてそれが涙を誘うのだが、『マクベス』では利発な息子が刺客から母親を守ろうとして最初に殺される。この息子には、子供らしい愚かさや弱さがない。この子は自殺行為に走る。『ジョン王』に登場する少年アーサーのように。自殺行為は幼な子のする行動というよりも、大人の行動パタンである。
ノゾエ征爾氏の演出による『マクベス』は、マクダフ夫人と息子が刺客によって殺されるまでの経緯をかなり丁寧に舞台化し、そこを見せ場のひとつにしようとしていたのだが、マグダフの息子のかわいげのなさが演出に悪影響を及ぼしていて、この場面だけ演出が空回りしているように思えた。
これはシェイクスピアあるいはシェイクスピアの時代のせいである。子供を舞台にのせにくいという基本的条件があったかどうかとは関係なく、観客の情動に訴える劇的提示法をシェイクスピアとシェイクスピアの時代は発見していなかったのではないか。子供を登場させることで、果敢に子供のもつ劇的可能性を模索したにもかかわらず。
5 三顧の礼に似て
実用日本語表現辞典実用日本語表現辞典
三顧の礼 読み方:さんこのれい 別表記:三顧
三顧の礼とは、目上の者が目下の者のもとに幾度も出向くなどして礼を尽くし、物事を頼む、という意味の故事成語。わかりやすく言うと、上司や年長者が目下の相手を軽んじることなく心から敬意を払って頼みごとをするということである。「三顧」だけでも「三顧の礼」と同じ意味の表現として用いられる。ちなみに「三顧」とは、3回にわたって訪問するという意味である。
三顧の礼は、黄巾の乱を平定し一大軍勢を築いていた劉備が、無位無官かつ大幅に年下の(どう捉えても格下の)諸葛亮を軍師として迎え入れるために、諸葛亮の住まう庵を3度も訪ねた、という故事が由来となっている。以下略 (2020年7月18日更新)
「三顧の礼」は、目上の者が身を低くして目下の者を手厚く迎えるというような意味に使われているようだが、ただ、ここに劇的強度を高める稀有の出会いがあることを劇作家は古来から気づいていた。
たとえばソポクレスの『ピロクテーテース』。Wikipediaの項目「ピロクテーテース」には、ソポクレスの悲劇『ピロクテテース』をめぐって次のような記述がある。
ピロクテーテースはヘレネーの元求婚者だったためにトロイア戦争に参加したが、トロイアに着く前に、テネドス島において毒蛇に噛まれた【中略】。その傷はなかなか治らず、ひどい悪臭をはなった。このためオデュッセウスがピロクテーテースをレームノス島に捨て【トロイに向かう】。
十年後、トロイアはまだ落ちていなかった。ピロクテーテースの持つヘーラクレースの弓なくしては、トロイアを陥落させることができないという運命だったのである。ギリシア勢の預言者カルカースはこのことを予言し、ディオメーデースとオデュッセウスがピロクテーテースを迎えに来た。【中略】ピロクテーテースは洞窟に住み、弓で獲物を捕らえて生きながらえていた。ピロクテーテースの傷は癒えておらず、かなりやつれていた。
ピロクテーテースは、自身をレームノス島に捨てたオデュッセウスを見たときに、かっとなって彼を殺そうとしたが、やっとのことで思いとどまった。そして、彼らの説得に応じてトロイア戦争に復帰した。三大悲劇詩人は、この場面を主題としたギリシア悲劇を書いたが、現在まで残っているのはソポクレースの『ピロクテーテース』だけである。なお、この悲劇では、説得に来たのがオデュッセウスとネオプトレモスだったことになっている。【以下略】
トロイ戦争に参加することを嫌がるピロクテーテースをいかに説得するか、あるいはいかに騙すかが、この悲劇(とはいえどこが悲劇かよくわからないのだが)の劇的強度増大への契機となる。嫌がる人間を参加・復帰させるというテーマが、ここに生まれる。それが魅力的テーマであったのは、三大悲劇詩人がこのテーマで作品を書いたことからも推測できる。
サルトルの『悪魔と神』Le Diable et le Bon Dieu(全3幕、1951年初演)は16世紀ドイツ農民戦争時の傭兵隊長ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンが、状況に翻弄され隠遁生活に入るものの、苦戦を続ける農民側の指導者から執拗に乞われ最後に総指揮官となって農民と戦うことを決意するまでを描く歴史劇である。第3幕に後半における説得と固辞とのせめぎあいのはての出陣は、まさに『ピロクテーテース』の世界の延長線上にある。
そして現代の例のとして、トム・ストッパードの翻訳で有名になったヴァーツラフ・ハヴェルのLargo Desolato (1984年執筆、1986年初演)をあげることができる。ハヴェル自身を思わせる民主化運動のかつての英雄にして指導者を主人公にして、監視状態にあり、また自ら隠遁を選択したような彼は、運動に復帰するように促す勢力から説得されるが、当局の罠ではないかと疑心暗鬼になりつつ、最終的には、運動と政界に復帰しない。参加を乞われた人物が参加を最後まで拒否するという予想を裏切る展開が特徴となる。
ソポクレス、サルトル、ハヴェルの例からみると、『マクベス』においてイングランドに亡命したマルカム王子を、マクベス討伐軍の指導者になるよう求めるマクダフの執拗な説得と、自分はその任ではないどころか不適切な君主であるとかたくなに固辞をするマルカムとの劇的衝突は、この劇の後半の見どころとなる。シェイクスピアの『マクベス』の第4幕におけるマルカムとマクダフの場面は、いま触れた二、三の劇作品、それも固辞するヒーローに対する必死の説得というテーマを共有する作品群の重要な事例となることはまちがいない。
ただし問題もある。『マクベス』におけるマクダフによる説得の場面はけっこう問題があり、予想を裏切りつづけ、劇作品の統一感や整合性を揺るがしかねないのである。
どういうことかといえば、まず亡命したマルカムは、スコットランドからやってきて説得にあたるマクダフをマクベスの手先あるいはマクベスが放った刺客ではないかと警戒しているようにみえる。自分は君主たる資格をもたない愚劣な人間であると強く主張するマルカム。そこへスコットランドから使者が到着し、マクダフの妻子がマクベスによって皆殺しになったという知らせをもってくる。その知らせを聞いて、マクダフが自分の家族を犠牲にしてまで自分を説得しに来たことを確信するマルカムは、マクダフの要請を受けて、総司令官としてスコットランドに進軍することを決意する……とはならないのだ。
『マクベス』では、まずマルカムは自分の不徳あるいは悪徳を列挙して自分は王にふさわしくないと語る。マクダフはそれでもかまわないと、王たるものにふさわしい条件の敷居をどんどん下げる。そして最後にそれもかなわぬと知って嘆くマクダフ。それをみてマルカムは挙兵することを決意し、その旨をマクダフに告げる。マクダフの妻子が殺されたという知らせは、マルカムが決意した後で届き、マルカムの決意になんら影響を与えない。
さらに、マルカムは、マクダフによる説得以前に、スコットランド進軍の準備をすすめていて、イングランド側のシーワード将軍はすでに進軍を開始したのだと告げる。これによってマクダフの説得は、マルカムとシーワード両司令官の進軍命令になんら影響を与えていないことになる。
こうしてマクダフの説得には、全く意味がなかったことが明らかになるのだが、それでいいのだろうか。この部分にみられる材料は、もっとうまく使えば、ふつうに感動的な結末を提供できたはずである。なぜそれをしなかったのか。
『マクベス』という芝居は意外に謎が多いのである。
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『マクベス』雑感1
ノゾエ征爾演出『マクベス』を東京芸術劇場シアター・イーストで観たことの興奮も冷めやらぬなか、上演とは関係ないが、シェイクスピアの『マクベス』について、日ごろから思うところを少し書いてみたい。
1魔女たちは誰が書いたか?
『マクベス』といえば魔女たち(Three Weird Sisters)である。劇の冒頭、嵐の中、登場する彼女たちは人間界の騒乱を斜に構えてみつめ、マクベスに会うことを宣言して、その場を去る。おそらく箒に乗って。「きれいはきたない」「きたないはきれい」という有名なフレーズを語りながら。
『マクベス』といえばこの魔女のシーンが欠かせないというか、劇中でもっとも有名な場面かもしれない。しかし近年の研究では、この場面は後世のつけたしであってシェイクスピアが書いたものではないとも言われている。
私たちが読んできたシェイクスピアの『マクベス』は、シェイクスピア以外の劇作家が手を加えた版であって、オリジナルのシェイクスピアのそれには、冒頭の魔女のシーンはなかったかもしれない。
なるほど、そういわれてみると、冒頭の場面は、韻律からして異質で、場面構成からしても現行の第1幕第2場からはじまったほうがシェイクスピア劇らしい。魔女の場面はシェイクスピアの作劇法ともなじまない異質な場面である。もちろんシェイクスピアらしくないから、別人の手になる追加であろうと考えるのは単純すぎる考え方かもしれないが、ただ劇中にほかにもある魔女関連の場面は後世の追加と思われるので、冒頭のこの場面も同様な追加であろうと考えることにも一理ある。
もっとも冒頭の場面に限っては、その誰もが感嘆する有名な台詞からしても、またその簡潔かつ不気味な雰囲気からしても、さらに劇的世界との連続性などからして、別人の手によるものではないという考え方もある。
ちなみにその別人とは、シェイクスピアの後輩にあたる劇作家トマス・ミドルトン。現在、ミドルトンの一巻本全集がオックスフォード大学出版局から出版されているが、そのなかには『マクベス』と『尺には尺を』が、ミドルトン作として収録されている(現在、私たちが読んでいるシェイクスピアの『尺には尺を』もミドルトンによる加筆改訂版であるとみなされている)。
とにかく冒頭の有名な魔女たちの場面が、後世による加筆であり、もしシェイクスピアが生きていたら、勝手なことをするなと激怒するか、あるいは自分の意向とは違う追加を投げていて自殺するかもしれないような場面であるというのは、かなり残念である(現在、日本では漫画家がその作品をテレビドラマ化されるときのトラブルによって自殺をした事件が記憶に新しいのだが、いまの記述はそれを揶揄するものではない)。
もっとも当時、版権というか著作権は劇作家ではなく劇団が所有していたため、劇作家は自分の作品が改ざんされること、加筆されたり削除されたりすることについて文句を言えなかった。ただしシェイクスピアは、著作権をもっていなかったのだが、劇団員であったために、実際の上演に際しては原作者の意向を無視するような改変があれば、文句を言っていただろうから、作者の意向に沿わない上演はなかっただろうと言われている。
ただし作者の死後の改変については作者は反対できない。となると『マクベス』の冒頭の場面、あれほど有名な場面が、非シェイクスピア的場面でオリジナルではないとして削除されることになるのだろうか。
いや、そういうことにはならないだろう。もし仮に冒頭の魔女の場面がなかったとしても、後世あるいは現代の演出家は、魔女が登場する場面を創造するだろうから。その場面が、現行の『マクベス』の魔女の場面と同じか似ているかはなんともいえないが、とにかく冒頭の場面に似ている場面を実際の公演では必ず付け加えていたはずだ。だから仮に冒頭の場面がなくても、『マクベス』の上演には、なんらかの全体を枠取るような、全体を暗示するような儀礼的な場面が演出家によって追加されただろうから、実際の『マクベス』上演は、現行の上演とたいして変わらなかっただろう。
2 魔女たちは何をしているのか。
『マクベス』にははっきり書かれていないが、魔女たちは、何をするために嵐のヒースの原野に集まり、また何のためにマクベスの運命に介入するのか。
答えを先に言えば、人間の魂を盗むためである。では人間の魂を盗んで何をするのか。これも答えを先にいえば、人間の魂を使って未来の予言するため、あるいは未来を垣間見るためである。
ただしキリスト教の世界観では、人間の魂は神によって守られている。死後は天国に行くものと決まっていて、魔女や悪魔は簡単に盗めない。
ただし天変地異や災害が起こって死んだり、あるいは戦争によって死んだりする場合は、満足な臨終の儀式を行なうことができないまま、つまり魂が神に守られるようにする手続きを踏めないまま死ぬため、無防備な魂は悪魔や魔女に奪われてしまう。
だから『マクベス』において、魔女たちは、人間が一度にたくさん死ぬ戦場に赴いて、そこで死者の魂を手に入れるのである。
ただし人間の魂は、そうした例外的な状態においてだけでしか獲得できない。年がら年中、天変地異や戦争が起こることはないから、人間の魂の獲得にはたいへんな困難が伴う。
ただし愚かな人間は、時折、自分から魂を悪魔に売ろうとする。自分の魂を、自分から売り渡そうとするバカがいるから、悪魔や魔女は、貴重な人間の魂を確保できる。『マクベス』のなかでマクベスは悪魔に魂を売るというようなことは一言も口にしないが、魔女たちの巧みな誘導によって自分の魂を売り渡すような人間となる。魔女たちは、マクベスの魂を狙っているのである。
繰り返すが魂を手に入れることで未来の姿を観ることができる。実際『マクベス』のなかには未来の姿を垣間見せる予言的場面がいくつも存在する。
3.マクベスは誰の子
マクベスMacbethの名前には、ケルト系というかスコットランド系のMacという文字が入っている。これはson ofの意味だといわれている。そのためマッカーサー(MacArthur)というのはアーサーさんの息子の家系、マクドナルドMacDonaldはドナルドさんの息子の家系。そしてマッキントッシュ(McIntosh)はイントッシュさんの息子ということになるが、イントッシュというのは聞きなれない名前。実は、マッキントッシュMcIntoshの家名は、ゲール語 "Mhic an Tòisich" の英語読み "Mac an Toisich" からきているとのこと。
とまあ、こういうことだとすると、マクダフMacDuffはダフDuffさんの息子ということになる。マクベスMacbethは、そうなるとベスBethさんの息子ということになる。ベスBethというのはエリザベスElizabethという女性の名前の略称でもある。マクベスに限っては名字に女性の名前が入っている父親ではなく母親の息子なのである。
これはなんともおかしいと思うだろう。ウィキペディアで歴史上の王マクベスについて調べてみると:
つまりマクベスMacbethというのは英語読みで、ゲール語ではマクベタッドMacBethadでベス/エリザベスとは何の関係もない。マクベタッドという名前というか表記には女性あるいは母親の影はない。ところがそれを英語化すると〈マクベス=ベスの息子〉という女性的なものが入ってくる。
おそらくそれが狙いであろう。マクベス自身、魔女の言いなりになり、そのあとには魔女のようなマクベス夫人にいいなりになる。また魔女の予言、魔女の庇護なくて、何もできない臆病者であり、また女性的影響があるがゆえに、悪辣で残忍な独裁者となる。
そしてこのマクベス(ベスの息子)を倒すのが、マクダフ(ダフの息子)であり、マクダフは、月足らずで母親の腹を破って出てきた男、女の影響を受けず、むしろ女/母親を殺して生まれてきた男の中の男、母親の影のない男なのである。マクダフは帝王切開で生まれてきたということなのだが、今の帝王切開とは異なり、当時は、母親のおなかの中の子供を助け出すために行なうもので、当然、帝王切開後、母親は死んでいた。
【なお「ベスの息子」という専制君主は、エリザベス女王の申し子であり、前時代の悪弊の体現者というかたちで、悪魔化の対象となったのかもしれない。ジェイムズ一世時代に、そこまでエリザベス女王が嫌われていたかどうかわからないが、シェイクスピア自身はまちがいなくエリザベス女王を嫌っていただろうから、マクベスという名称に唾棄すべき忌まわしきイメージを付着させることになんの躊躇もなかっただろう。もちろん女性的というジェンダー化によってマクベスをただ悪魔化したということかもしれないが。】
1魔女たちは誰が書いたか?
『マクベス』といえば魔女たち(Three Weird Sisters)である。劇の冒頭、嵐の中、登場する彼女たちは人間界の騒乱を斜に構えてみつめ、マクベスに会うことを宣言して、その場を去る。おそらく箒に乗って。「きれいはきたない」「きたないはきれい」という有名なフレーズを語りながら。
『マクベス』といえばこの魔女のシーンが欠かせないというか、劇中でもっとも有名な場面かもしれない。しかし近年の研究では、この場面は後世のつけたしであってシェイクスピアが書いたものではないとも言われている。
私たちが読んできたシェイクスピアの『マクベス』は、シェイクスピア以外の劇作家が手を加えた版であって、オリジナルのシェイクスピアのそれには、冒頭の魔女のシーンはなかったかもしれない。
なるほど、そういわれてみると、冒頭の場面は、韻律からして異質で、場面構成からしても現行の第1幕第2場からはじまったほうがシェイクスピア劇らしい。魔女の場面はシェイクスピアの作劇法ともなじまない異質な場面である。もちろんシェイクスピアらしくないから、別人の手になる追加であろうと考えるのは単純すぎる考え方かもしれないが、ただ劇中にほかにもある魔女関連の場面は後世の追加と思われるので、冒頭のこの場面も同様な追加であろうと考えることにも一理ある。
もっとも冒頭の場面に限っては、その誰もが感嘆する有名な台詞からしても、またその簡潔かつ不気味な雰囲気からしても、さらに劇的世界との連続性などからして、別人の手によるものではないという考え方もある。
ちなみにその別人とは、シェイクスピアの後輩にあたる劇作家トマス・ミドルトン。現在、ミドルトンの一巻本全集がオックスフォード大学出版局から出版されているが、そのなかには『マクベス』と『尺には尺を』が、ミドルトン作として収録されている(現在、私たちが読んでいるシェイクスピアの『尺には尺を』もミドルトンによる加筆改訂版であるとみなされている)。
とにかく冒頭の有名な魔女たちの場面が、後世による加筆であり、もしシェイクスピアが生きていたら、勝手なことをするなと激怒するか、あるいは自分の意向とは違う追加を投げていて自殺するかもしれないような場面であるというのは、かなり残念である(現在、日本では漫画家がその作品をテレビドラマ化されるときのトラブルによって自殺をした事件が記憶に新しいのだが、いまの記述はそれを揶揄するものではない)。
もっとも当時、版権というか著作権は劇作家ではなく劇団が所有していたため、劇作家は自分の作品が改ざんされること、加筆されたり削除されたりすることについて文句を言えなかった。ただしシェイクスピアは、著作権をもっていなかったのだが、劇団員であったために、実際の上演に際しては原作者の意向を無視するような改変があれば、文句を言っていただろうから、作者の意向に沿わない上演はなかっただろうと言われている。
ただし作者の死後の改変については作者は反対できない。となると『マクベス』の冒頭の場面、あれほど有名な場面が、非シェイクスピア的場面でオリジナルではないとして削除されることになるのだろうか。
いや、そういうことにはならないだろう。もし仮に冒頭の魔女の場面がなかったとしても、後世あるいは現代の演出家は、魔女が登場する場面を創造するだろうから。その場面が、現行の『マクベス』の魔女の場面と同じか似ているかはなんともいえないが、とにかく冒頭の場面に似ている場面を実際の公演では必ず付け加えていたはずだ。だから仮に冒頭の場面がなくても、『マクベス』の上演には、なんらかの全体を枠取るような、全体を暗示するような儀礼的な場面が演出家によって追加されただろうから、実際の『マクベス』上演は、現行の上演とたいして変わらなかっただろう。
2 魔女たちは何をしているのか。
『マクベス』にははっきり書かれていないが、魔女たちは、何をするために嵐のヒースの原野に集まり、また何のためにマクベスの運命に介入するのか。
答えを先に言えば、人間の魂を盗むためである。では人間の魂を盗んで何をするのか。これも答えを先にいえば、人間の魂を使って未来の予言するため、あるいは未来を垣間見るためである。
ただしキリスト教の世界観では、人間の魂は神によって守られている。死後は天国に行くものと決まっていて、魔女や悪魔は簡単に盗めない。
ただし天変地異や災害が起こって死んだり、あるいは戦争によって死んだりする場合は、満足な臨終の儀式を行なうことができないまま、つまり魂が神に守られるようにする手続きを踏めないまま死ぬため、無防備な魂は悪魔や魔女に奪われてしまう。
だから『マクベス』において、魔女たちは、人間が一度にたくさん死ぬ戦場に赴いて、そこで死者の魂を手に入れるのである。
ただし人間の魂は、そうした例外的な状態においてだけでしか獲得できない。年がら年中、天変地異や戦争が起こることはないから、人間の魂の獲得にはたいへんな困難が伴う。
ただし愚かな人間は、時折、自分から魂を悪魔に売ろうとする。自分の魂を、自分から売り渡そうとするバカがいるから、悪魔や魔女は、貴重な人間の魂を確保できる。『マクベス』のなかでマクベスは悪魔に魂を売るというようなことは一言も口にしないが、魔女たちの巧みな誘導によって自分の魂を売り渡すような人間となる。魔女たちは、マクベスの魂を狙っているのである。
繰り返すが魂を手に入れることで未来の姿を観ることができる。実際『マクベス』のなかには未来の姿を垣間見せる予言的場面がいくつも存在する。
3.マクベスは誰の子
マクベスMacbethの名前には、ケルト系というかスコットランド系のMacという文字が入っている。これはson ofの意味だといわれている。そのためマッカーサー(MacArthur)というのはアーサーさんの息子の家系、マクドナルドMacDonaldはドナルドさんの息子の家系。そしてマッキントッシュ(McIntosh)はイントッシュさんの息子ということになるが、イントッシュというのは聞きなれない名前。実は、マッキントッシュMcIntoshの家名は、ゲール語 "Mhic an Tòisich" の英語読み "Mac an Toisich" からきているとのこと。
とまあ、こういうことだとすると、マクダフMacDuffはダフDuffさんの息子ということになる。マクベスMacbethは、そうなるとベスBethさんの息子ということになる。ベスBethというのはエリザベスElizabethという女性の名前の略称でもある。マクベスに限っては名字に女性の名前が入っている父親ではなく母親の息子なのである。
これはなんともおかしいと思うだろう。ウィキペディアで歴史上の王マクベスについて調べてみると:
マクベタッド・マク・フィンレック(Mac Bethad mac Findlaich, 現代ゲール語:MacBheatha mac Fhionnlaigh, 1005年 - 1057年8月15日)は、スコットランド王(在位 : 1040年 - 1057年)。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲の題名にもなったマクベス(Macbeth)の通称で世界的に知られる。マルカム2世の次女ドウナダ(Donada)とマリ領主フィンレック(Findlaich)の間に生まれた。異父兄にオークニー伯トールフィン(ソーフィン)がいる。マクベスの名は、ゲール語で「生命の子(マク・ベーサ)」の意味である。
つまりマクベスMacbethというのは英語読みで、ゲール語ではマクベタッドMacBethadでベス/エリザベスとは何の関係もない。マクベタッドという名前というか表記には女性あるいは母親の影はない。ところがそれを英語化すると〈マクベス=ベスの息子〉という女性的なものが入ってくる。
おそらくそれが狙いであろう。マクベス自身、魔女の言いなりになり、そのあとには魔女のようなマクベス夫人にいいなりになる。また魔女の予言、魔女の庇護なくて、何もできない臆病者であり、また女性的影響があるがゆえに、悪辣で残忍な独裁者となる。
そしてこのマクベス(ベスの息子)を倒すのが、マクダフ(ダフの息子)であり、マクダフは、月足らずで母親の腹を破って出てきた男、女の影響を受けず、むしろ女/母親を殺して生まれてきた男の中の男、母親の影のない男なのである。マクダフは帝王切開で生まれてきたということなのだが、今の帝王切開とは異なり、当時は、母親のおなかの中の子供を助け出すために行なうもので、当然、帝王切開後、母親は死んでいた。
【なお「ベスの息子」という専制君主は、エリザベス女王の申し子であり、前時代の悪弊の体現者というかたちで、悪魔化の対象となったのかもしれない。ジェイムズ一世時代に、そこまでエリザベス女王が嫌われていたかどうかわからないが、シェイクスピア自身はまちがいなくエリザベス女王を嫌っていただろうから、マクベスという名称に唾棄すべき忌まわしきイメージを付着させることになんの躊躇もなかっただろう。もちろん女性的というジェンダー化によってマクベスをただ悪魔化したということかもしれないが。】
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2024年02月22日
『マクベス』
劇団はえぎわの主宰者ノゾエ征爾氏が劇団はえぎわと彩の国さいたま芸術劇場の共同企画としてたちあげたシェイクスピアの悲劇『 マクベス』を、東京芸術劇場のシアター・イーストで観てきた。
ノゾエ征爾氏の脚本による芝居とか本人が出演している芝居は観たことがあるが、恥ずかしながら、ノゾエ征爾氏の演出による舞台を観たことがなかったので、『マクベス』をなんの予備知識もなく観に行くことになった。
とはいえ『マクベス』の舞台は数えきれないくらい観ている私としては、シェイクスピア劇についてまったく何も知らないまま舞台に接したといっても嘘になるので、予備知識なしとっても、ノゾエ征爾氏の演出手法とか劇団はえぎわの舞台については何も知らない(恥ずかしながら)という意味である。
さて、そのような私の感想としては、それを先にいってしまえば、すぐれた舞台で、じゅうぶんに楽しむことができた。シェイクスピアの『マクベス』のエッセンスのようなものをしっかり把握しつつ、独自の解釈を加えているという点で、忠実でありながら独創的なパフォーマンスは見事というしかない。おそらく、これからも、機会があれば、ノゾエ征爾氏の演出作品を観に行きたいと思った。
劇場に入ると、舞台に木製の椅子がずらりと並んでいて壮観である。ノゾエ征爾氏はイヨネスコの『椅子』の舞台(リーディング公演)を演出したこともあり、また他の作品でも、同じ型の木製椅子を使ったこともあるようなので(実際に舞台を観たわけではなく、画像や映像資料によって推測しているにすぎないのだが)、椅子はノゾエ征爾氏のトレードマークかもしれない。ただ、それとは無関係にシェイクスピアの『マクベス』は椅子のドラマであることを、今回の、ある意味、斬新な演出によってあらためて思い知らされることになった。
そもそもマクベスがダンカン王を殺すことになったのは、自身が王の後継者として選ばれなかったことにある。王は息子のマルカムを後継者に選び宣言した。だが、マクベスは、ダンカン王を殺害することで、王の後継者の椅子をマルカムから横取りすることになる。この椅子取りゲームは、さらにマクベスが王座についてから諸侯を集めて宴会をするとき、彼が殺したバンコーの亡霊が、マクベスが座るべき椅子に座ってしまい、マクベス自身、椅子取りゲームの敗者となるというかたちで続く。
『マクベス』のなかで象徴的に語られるマクベスのイメージとは、今回の公演でもそうだったが、体にあわない、だぶだぶの服を身に着けている権力者ということである。ただ、このイメージは言葉で語られても、実際に視覚的に体に合わない服をきているマクベスが舞台に登場した例を私は(限られた観劇体験においてだが)知らない――体にあわない服を着ている人物というのは道化的人物であり、マクベスを道化として表象する演出があれば、だぶだぶの衣装を身に着けたマクベスを登場させてもおかしくはないのだが。
それよりもむしろ視覚的に強烈な印象を与えるのは、マクベスに座るべき椅子に、マクベスが刺客を使った殺したバンコーの霊が座るところである。座るべき椅子がない。椅子が奪われる。椅子を奪っても、その椅子が奪われる。王位簒奪の表象としての椅子取りゲームは強烈な視覚的存在感を主張する。
また椅子は人間の座る道具であるため、たとえ誰も座っていない椅子でも、そこに人間の存在が暗示される。椅子と人間とは一体化しているのであり、椅子を壊したり倒したり、空席の椅子に座る行為のひとつひとつに、人間の死のイメージが付着する。その意味でも、椅子とはなんとも不気味な装置といえなくもない。つまり椅子は亡霊を座らせているのである。
さらにいえば椅子は劇場においては、観客「席」のメタファーでもある。舞台で椅子たちがぞんざいな扱いをうけるとき、それは観客にとってみずからの受難のイメージともなりうる。舞台上の椅子は、観客の亡霊を座らせているのだから。
ただしノゾエ征爾氏の演出は、椅子を有効に象徴的に使っているのだが、その際、椅子取りゲームのイメージを強調はしていない――そこはお断りしておかねばならない。今回の演出では、椅子は最初は壮観なまでに整然と並べられている。椅子は舞台の進行とともに、置き換えたり並び替えられたり、時には組み合わせ合体させ積み上げられたりして、舞台空間を自在に構成していく。その構成力に圧倒される。椅子を並び替えただけで、新たな空間が示唆される変容のすばらしさにはただただ目をみはるばかりである。
もちろん椅子は空間の布置を作り替え新たな空間を創造するために貢献する道具であり装置であるというだけではない。倒されたり、不規則に集積されたりして人物の動きを妨げる椅子は、舞台空間全体に混沌とした乱雑な印象をもたらすとき、椅子は創造の道具であるとともにカオスの分配器ともなる。
そして舞台の始まり――壮観なまでに整然と並べられた椅子。椅子の列は、マクベスの登場によって整然さを失い混沌とした無秩序感を醸成したあと、最後に舞台上に、もう一度整然と並び置かれるのだが、舞台の始まりにあったような壮観なまでの椅子の秩序感というのはすっかり失われ、いびつな椅子の並びが出現するだけである。今回の『マクベス』は、秩序破壊者マクベスの物語を、登場人物だけでなく、椅子の群れたちにも語らせているのである。
『マクベス』はシェイクスピア作品のなかでも短い方で2時間くらいの舞台に簡単に収まるのだが、ただ、それでも劇的展開には夾雑物や不要とも思える紆余曲折はけっこうある。ノゾエ征爾氏の今回の演出は余計な台詞なり展開をカットし、また舞台から演者が去らないよう出番が終わった演者を舞台の影の部分に残していることが多いため全体的に場面の区切りが極力目立たないようになっているため、全体としてみてきわめてスピーディーな展開の『マクベス』となっている。ただしカット部分が多くあっても、『マクベス』自体もともと贅肉の少ない芝居であるために、『マクベス』という作品が貧相になったり口当たりのよいなめらかな芝居に変えられたという印象は受けない。むしろ、これは誰がどうみてもシェイクスピアの『マクベス』そのものだし、『マクベス』のもつ劇的エネルギーを損なうことなく主題を(それがいかなる現代的意味をもつかは観客ひとりひとりが考えるしかないのだが)を着実に私たちに伝えてくれているのではないかと思う。
もちろん今回の演出上の数々の工夫や技巧については不明な部分も多い――たとえば上演開始前の場内アナウンスにも、『マクベス』的世界を浸透させようとしていることには驚いたが、ただそれがどこまで有効かは私には判断できなかったし、舞台空間そのものを枠どる舞台両脇に置かれた小物たちのもつ意味を今も私は判読できていない――が、それは観客が自分のなかで反芻して未来に答えを出すべき課題なのかもしれない。
まさにそういう意味から、この『マクベス』は、一度ならず二度以上観てみたい公演だし、また再演を繰り返してほしい公演だということを私はここに宣言できる。
シェイクスピアをよく知らない観客にとって、シェイクスピア演劇への一歩としても、また同時に、ノゾエ征爾演出への一歩としても、今回の公演は貴重な機会になるのではないかと思う。
なお演者の方々の素晴らしさについては、ここで触れていないが、触れていないからこそ、それは当然の前提と化している――演者の方々の今後のさらなる活躍を期待する。
東京芸術劇場では2月25日まで公演中。興味があるかたは足を運んでみては。
ノゾエ征爾氏の脚本による芝居とか本人が出演している芝居は観たことがあるが、恥ずかしながら、ノゾエ征爾氏の演出による舞台を観たことがなかったので、『マクベス』をなんの予備知識もなく観に行くことになった。
とはいえ『マクベス』の舞台は数えきれないくらい観ている私としては、シェイクスピア劇についてまったく何も知らないまま舞台に接したといっても嘘になるので、予備知識なしとっても、ノゾエ征爾氏の演出手法とか劇団はえぎわの舞台については何も知らない(恥ずかしながら)という意味である。
さて、そのような私の感想としては、それを先にいってしまえば、すぐれた舞台で、じゅうぶんに楽しむことができた。シェイクスピアの『マクベス』のエッセンスのようなものをしっかり把握しつつ、独自の解釈を加えているという点で、忠実でありながら独創的なパフォーマンスは見事というしかない。おそらく、これからも、機会があれば、ノゾエ征爾氏の演出作品を観に行きたいと思った。
劇場に入ると、舞台に木製の椅子がずらりと並んでいて壮観である。ノゾエ征爾氏はイヨネスコの『椅子』の舞台(リーディング公演)を演出したこともあり、また他の作品でも、同じ型の木製椅子を使ったこともあるようなので(実際に舞台を観たわけではなく、画像や映像資料によって推測しているにすぎないのだが)、椅子はノゾエ征爾氏のトレードマークかもしれない。ただ、それとは無関係にシェイクスピアの『マクベス』は椅子のドラマであることを、今回の、ある意味、斬新な演出によってあらためて思い知らされることになった。
そもそもマクベスがダンカン王を殺すことになったのは、自身が王の後継者として選ばれなかったことにある。王は息子のマルカムを後継者に選び宣言した。だが、マクベスは、ダンカン王を殺害することで、王の後継者の椅子をマルカムから横取りすることになる。この椅子取りゲームは、さらにマクベスが王座についてから諸侯を集めて宴会をするとき、彼が殺したバンコーの亡霊が、マクベスが座るべき椅子に座ってしまい、マクベス自身、椅子取りゲームの敗者となるというかたちで続く。
『マクベス』のなかで象徴的に語られるマクベスのイメージとは、今回の公演でもそうだったが、体にあわない、だぶだぶの服を身に着けている権力者ということである。ただ、このイメージは言葉で語られても、実際に視覚的に体に合わない服をきているマクベスが舞台に登場した例を私は(限られた観劇体験においてだが)知らない――体にあわない服を着ている人物というのは道化的人物であり、マクベスを道化として表象する演出があれば、だぶだぶの衣装を身に着けたマクベスを登場させてもおかしくはないのだが。
それよりもむしろ視覚的に強烈な印象を与えるのは、マクベスに座るべき椅子に、マクベスが刺客を使った殺したバンコーの霊が座るところである。座るべき椅子がない。椅子が奪われる。椅子を奪っても、その椅子が奪われる。王位簒奪の表象としての椅子取りゲームは強烈な視覚的存在感を主張する。
また椅子は人間の座る道具であるため、たとえ誰も座っていない椅子でも、そこに人間の存在が暗示される。椅子と人間とは一体化しているのであり、椅子を壊したり倒したり、空席の椅子に座る行為のひとつひとつに、人間の死のイメージが付着する。その意味でも、椅子とはなんとも不気味な装置といえなくもない。つまり椅子は亡霊を座らせているのである。
さらにいえば椅子は劇場においては、観客「席」のメタファーでもある。舞台で椅子たちがぞんざいな扱いをうけるとき、それは観客にとってみずからの受難のイメージともなりうる。舞台上の椅子は、観客の亡霊を座らせているのだから。
ただしノゾエ征爾氏の演出は、椅子を有効に象徴的に使っているのだが、その際、椅子取りゲームのイメージを強調はしていない――そこはお断りしておかねばならない。今回の演出では、椅子は最初は壮観なまでに整然と並べられている。椅子は舞台の進行とともに、置き換えたり並び替えられたり、時には組み合わせ合体させ積み上げられたりして、舞台空間を自在に構成していく。その構成力に圧倒される。椅子を並び替えただけで、新たな空間が示唆される変容のすばらしさにはただただ目をみはるばかりである。
もちろん椅子は空間の布置を作り替え新たな空間を創造するために貢献する道具であり装置であるというだけではない。倒されたり、不規則に集積されたりして人物の動きを妨げる椅子は、舞台空間全体に混沌とした乱雑な印象をもたらすとき、椅子は創造の道具であるとともにカオスの分配器ともなる。
そして舞台の始まり――壮観なまでに整然と並べられた椅子。椅子の列は、マクベスの登場によって整然さを失い混沌とした無秩序感を醸成したあと、最後に舞台上に、もう一度整然と並び置かれるのだが、舞台の始まりにあったような壮観なまでの椅子の秩序感というのはすっかり失われ、いびつな椅子の並びが出現するだけである。今回の『マクベス』は、秩序破壊者マクベスの物語を、登場人物だけでなく、椅子の群れたちにも語らせているのである。
『マクベス』はシェイクスピア作品のなかでも短い方で2時間くらいの舞台に簡単に収まるのだが、ただ、それでも劇的展開には夾雑物や不要とも思える紆余曲折はけっこうある。ノゾエ征爾氏の今回の演出は余計な台詞なり展開をカットし、また舞台から演者が去らないよう出番が終わった演者を舞台の影の部分に残していることが多いため全体的に場面の区切りが極力目立たないようになっているため、全体としてみてきわめてスピーディーな展開の『マクベス』となっている。ただしカット部分が多くあっても、『マクベス』自体もともと贅肉の少ない芝居であるために、『マクベス』という作品が貧相になったり口当たりのよいなめらかな芝居に変えられたという印象は受けない。むしろ、これは誰がどうみてもシェイクスピアの『マクベス』そのものだし、『マクベス』のもつ劇的エネルギーを損なうことなく主題を(それがいかなる現代的意味をもつかは観客ひとりひとりが考えるしかないのだが)を着実に私たちに伝えてくれているのではないかと思う。
もちろん今回の演出上の数々の工夫や技巧については不明な部分も多い――たとえば上演開始前の場内アナウンスにも、『マクベス』的世界を浸透させようとしていることには驚いたが、ただそれがどこまで有効かは私には判断できなかったし、舞台空間そのものを枠どる舞台両脇に置かれた小物たちのもつ意味を今も私は判読できていない――が、それは観客が自分のなかで反芻して未来に答えを出すべき課題なのかもしれない。
まさにそういう意味から、この『マクベス』は、一度ならず二度以上観てみたい公演だし、また再演を繰り返してほしい公演だということを私はここに宣言できる。
シェイクスピアをよく知らない観客にとって、シェイクスピア演劇への一歩としても、また同時に、ノゾエ征爾演出への一歩としても、今回の公演は貴重な機会になるのではないかと思う。
なお演者の方々の素晴らしさについては、ここで触れていないが、触れていないからこそ、それは当然の前提と化している――演者の方々の今後のさらなる活躍を期待する。
東京芸術劇場では2月25日まで公演中。興味があるかたは足を運んでみては。
posted by ohashi at 18:30| 演劇
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2024年02月15日
恵方巻とバレンタインデイ
昨日はバレンタインデーだったが、一昔前のような熱狂は冷めつつあるようだ。これは私自身が女性からチョコレートをもらうことがなくなってから久しい(そもそももらったことがあったかも今となっては定かでないのだが、まあ義理チョコはもらったこともあるものの、かなり昔のことである)ということだけではない。
食品業界に踊らされていることに対して不快感を覚えるのは私だけではないはずだ。そもそもキリスト教圏でのお祝いの日であって、キリスト教徒以外の人間あるいは国民には無関係な日である。ただクリスマスがそうであるように、キリスト教の祭日が全世界的に広まるという傾向があって(最近ではハロウウィン)、バレンタインデーもその一環だろうと思うしかないのだが、ただ、それにしても、バレンタインデーについて日本の食品業界は誤ったイメージを広めた。日本国民をバカにしている。
バレンタインデーには女性が愛する男性にチョコレートを贈るというバカ話を誰が考えたのだろうか。それを信じたのもバカだが、しかし、悪いのは詐欺師のほう、騙したほうだろう。
昔、ダニエル・キースのSF小説『アルジャーノンに花束を』を翻訳で読んでいたとき、主人公の知的障碍者チャーリーが子供の頃、バレンタインデーにみんなから騙されて、人気者の女性のクラスメートにプレゼントをして恥をかかされるというエピソードがあり、そこでアメリカではバレンタインデーに男性から女性にプレゼントをするのだとはじめて知った。しかもプレゼントはチョコレートではない。このとき、国民を騙して荒唐無稽な風習をこしらえて金儲けをしようとしている日本の食品業界に対してふつふつと怒りがわいてきた。
実際、西洋でのバレンタインデーと日本のバレンタインデーは異なることに気付いていた大人たちはたくさんいたはずである。なぜ彼らは声を上げなかったのか。あるいは上がった声をメディアは、なぜ大きく取り上げなかったのか。食品業界が大手スポンサーだとメディアも腰がひけたのだろうか。
バレンタインデーを壊した日本の食品業界は、その後、二匹目のどじょうではないが、恵方巻というものを関東に、そして日本全国にもちこんだ。
節分の日に、恵方を向いて、太巻きを黙って全部食べるという風習は関西では長らく継承されてきたようだが、それを日本の食品業界は日本全国に広めた。恵方巻の習慣に反対するのではない。ただ、それは関西圏にとどめてほしかった。
私の経験では、21世紀に入ってから、節分が近づくと、あるいは節分の日に、スーパーで突然、恵方巻という巻きずしが売られるようになった。最初は何のことかわからなかった。徐々に、恵方巻といって関西での習慣だということがわかってきた。そしていまやそれが全国に広がり、豪華な恵方巻からロールケーキ・ヴァージョンまで生まれるようになり、また売れ残りの廃棄問題も生まれた。はっきりいってこれは愚劣な習慣となった。
関西圏だけでとどめておけば、こんなことにならなかっただろうと思う。また子供の頃から慣れ親しんだ風習ではなく、突然降ってきた、あるいは強要された風習であるので、抵抗感がある。
そもそも巻きずしを丸かじりにするのは、私にとっては「行儀が悪すぎる」。食事のマナーとしてもやってはいけない部類に入る。
これはインドではカレーを手で食べるのだが、日本人にとってカレーあるいはカレーライスを手で食べることには抵抗がある。それと同じで巻き寿司をかじるというのは、関西圏は他の地域と文化も違うし、そこに住む人々も人種も民族も違うから問題ないのだが、関東とか東日本、いや西日本の人間にとっても、巻き寿司の丸かじりには抵抗がある。なにか親からひっぱたかれそうな、子供時代の親に対する恐怖がよみがえる。
というのも、私は子供の頃、ヤカンのラッパ飲みをして親からこっぴどく叱られたことがある。周囲にヤカンのラッパ飲みをする子供たちがいて、私も家でそのまねをしたら、親から行儀が悪い、二度とするなと厳しく叱られた。そのため、たとえ日本の食品業界が2月にヤカンのラッパ飲みデーを設けても、私はそんな行儀の悪いことは絶対にしない。それと同じで恵方巻をまるかじりすることは行儀悪くて絶対にしない人たちも多いのではないかと思う。
とにかく日本の食品業界の暴挙にはうんざりしている。荒唐無稽な風習を勝手にこしらえたり(バレンタインデー)あるいは突然違和感のある風習を持ち込んだり(恵方巻)する彼らの文化破壊と伝統破壊に対しては断固抗議すると同時にそれにとりこまれないようにする覚悟が私たちにも必要ではないかと思う。
食品業界に踊らされていることに対して不快感を覚えるのは私だけではないはずだ。そもそもキリスト教圏でのお祝いの日であって、キリスト教徒以外の人間あるいは国民には無関係な日である。ただクリスマスがそうであるように、キリスト教の祭日が全世界的に広まるという傾向があって(最近ではハロウウィン)、バレンタインデーもその一環だろうと思うしかないのだが、ただ、それにしても、バレンタインデーについて日本の食品業界は誤ったイメージを広めた。日本国民をバカにしている。
バレンタインデーには女性が愛する男性にチョコレートを贈るというバカ話を誰が考えたのだろうか。それを信じたのもバカだが、しかし、悪いのは詐欺師のほう、騙したほうだろう。
昔、ダニエル・キースのSF小説『アルジャーノンに花束を』を翻訳で読んでいたとき、主人公の知的障碍者チャーリーが子供の頃、バレンタインデーにみんなから騙されて、人気者の女性のクラスメートにプレゼントをして恥をかかされるというエピソードがあり、そこでアメリカではバレンタインデーに男性から女性にプレゼントをするのだとはじめて知った。しかもプレゼントはチョコレートではない。このとき、国民を騙して荒唐無稽な風習をこしらえて金儲けをしようとしている日本の食品業界に対してふつふつと怒りがわいてきた。
実際、西洋でのバレンタインデーと日本のバレンタインデーは異なることに気付いていた大人たちはたくさんいたはずである。なぜ彼らは声を上げなかったのか。あるいは上がった声をメディアは、なぜ大きく取り上げなかったのか。食品業界が大手スポンサーだとメディアも腰がひけたのだろうか。
バレンタインデーを壊した日本の食品業界は、その後、二匹目のどじょうではないが、恵方巻というものを関東に、そして日本全国にもちこんだ。
節分の日に、恵方を向いて、太巻きを黙って全部食べるという風習は関西では長らく継承されてきたようだが、それを日本の食品業界は日本全国に広めた。恵方巻の習慣に反対するのではない。ただ、それは関西圏にとどめてほしかった。
私の経験では、21世紀に入ってから、節分が近づくと、あるいは節分の日に、スーパーで突然、恵方巻という巻きずしが売られるようになった。最初は何のことかわからなかった。徐々に、恵方巻といって関西での習慣だということがわかってきた。そしていまやそれが全国に広がり、豪華な恵方巻からロールケーキ・ヴァージョンまで生まれるようになり、また売れ残りの廃棄問題も生まれた。はっきりいってこれは愚劣な習慣となった。
関西圏だけでとどめておけば、こんなことにならなかっただろうと思う。また子供の頃から慣れ親しんだ風習ではなく、突然降ってきた、あるいは強要された風習であるので、抵抗感がある。
そもそも巻きずしを丸かじりにするのは、私にとっては「行儀が悪すぎる」。食事のマナーとしてもやってはいけない部類に入る。
これはインドではカレーを手で食べるのだが、日本人にとってカレーあるいはカレーライスを手で食べることには抵抗がある。それと同じで巻き寿司をかじるというのは、関西圏は他の地域と文化も違うし、そこに住む人々も人種も民族も違うから問題ないのだが、関東とか東日本、いや西日本の人間にとっても、巻き寿司の丸かじりには抵抗がある。なにか親からひっぱたかれそうな、子供時代の親に対する恐怖がよみがえる。
というのも、私は子供の頃、ヤカンのラッパ飲みをして親からこっぴどく叱られたことがある。周囲にヤカンのラッパ飲みをする子供たちがいて、私も家でそのまねをしたら、親から行儀が悪い、二度とするなと厳しく叱られた。そのため、たとえ日本の食品業界が2月にヤカンのラッパ飲みデーを設けても、私はそんな行儀の悪いことは絶対にしない。それと同じで恵方巻をまるかじりすることは行儀悪くて絶対にしない人たちも多いのではないかと思う。
とにかく日本の食品業界の暴挙にはうんざりしている。荒唐無稽な風習を勝手にこしらえたり(バレンタインデー)あるいは突然違和感のある風習を持ち込んだり(恵方巻)する彼らの文化破壊と伝統破壊に対しては断固抗議すると同時にそれにとりこまれないようにする覚悟が私たちにも必要ではないかと思う。
posted by ohashi at 00:00| コメント
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2024年02月14日
「解雇通告」の瞬間
以下の記事に着目した。
「解雇通告」の瞬間をTikTokに投稿した女性に賛否。CEOが釈明する事態に
ハフポスト日本版 2月14日
会社からオンラインで解雇を告げられた女性が、明確な理由のない解雇に抗議する場面の動画をSNSに投稿し、話題となっている。
投稿したブリタニー・ピーチさんは、アメリカの大手IT企業に勤めていた。同僚たちが次々と解雇される中、自らも人事とのオンライン会議が設定されたのを受け、カメラを回したようだ。
【中略】
一方、動画が転載されたX(旧Twitter)では、「解雇通告を録画してTikTokに載せるなんて、こんな人は絶対雇わない」「この動画は、彼女の将来を台無しにするよ。業界は狭いし、動画はすぐ広まるからね」などの否定的な声や、「会社が短期にたくさん人を雇うと、残念ながらこうなるんだよね」といった意見もあった。
この動画は広く拡散され、ピーチさんが勤務していた会社のCEOがXで声明を発表する事態に。CEOは「動画は痛々しかった。解雇通告には上司が常に関与しているべきだ。人事もだが、全てを任されるべきではない」と話し、今回の解雇通告は「もっと親切に、人道的に行われるべきだった。今後改善に注力する」と締めくくった。
一方、一部のXユーザーに将来のキャリアを心配されていたピーチさんだが、それは余計なお世話だったようだ。ピーチさんはビジネス系SNS「LinkedIn」のアカウントで、2月頭にすでに新たな職場が決定したと報告している。
解雇通知を受けた女性が冷静に会社に反論をする詳細については動画あるいはこの記事を通して知ることができるので、興味がある方はどうぞ。
ただ上司でもない外部の人間が解雇通知をするというのは、映画『マイレージ、マイライフ』で扱われていたことを思い出した。
『マイレージ、マイライフ』(Up in the Air)は、ジェイソン・ライトマン監督による2009年の映画(日本公開は2010年)。ウォルター・カーンの2001年の同名小説を原作としてライトマンとシェルドン・ターナーが脚本を執筆。企業の「ダウンサイザー」である主人公(ジョージ・クルーニーが演じる)が解雇を告げる旅をつづけるという物語。共演はヴェラ・ファーミガ、アナ・ケンドリック、ダニー・マクブライドなど。主人公と組む新人のパートナーがアナ・ケンドリックだったが、彼女はこの映画で着目されて、以後、いろいろな映画に出演・主演することになったと記憶している。
この映画は解雇通知を受ける社員の驚きや悲しみや怒りをそのつど真正面からとらえるという特徴があって、解雇される社員の数はかなりの数に上る。物語の展開とは別に、この解雇通知の瞬間が痛々しくもあり面白くもあり、観てはいけないのだがついつい観てしまうという隠微な喜びを味あわせてくれた。しかも解雇される人たちの表情には妙なリアリティがあって、そのわけはあとからわかった。
というのもあとで調べたら解雇通知の場面、演技ではなく、本物だった。実際に解雇通知を受け取った人たちの表情を映画は撮影しているのである。解雇された時の衝撃は、そのなんともいえない表情は、絶対に演技では出せないものがある。
それを思うと痛々しくて、二度と観ることができないのだが、未見の人は、どうぞみてください。物語の内容もさることながら、解雇通知を受けた瞬間のリアルには――べつに大声でわめいたり罵ったり号泣したりする場面などないのだが――衝撃を受ける。
Wikipediaによれば「映画はナショナル・ボード・オブ・レビュー賞やワシントンD.C.映画批評家協会賞で作品賞を獲得した。放送映画批評家協会賞では8つの候補を獲得して脚色賞、ゴールデングローブ賞では6つの候補を獲得して脚本賞を受賞した。アカデミー賞では6つの候補を獲得したが無冠に終わった」。評価は高い。面白い映画。ただし痛々し映像については、お奨めしないが
posted by ohashi at 17:46| 映画
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