2024年01月20日

身代わりの世界『菅原伝授手習鑑』4

2023年9月5日の『菅原伝授手習鑑』3を受けての記事。身代わりについて論じている記事の最終回。

ドン・フアン・マヌエル(1282-1348)の説話集『ルカノール伯爵』(原題は『ルカノール伯爵とパトロニオの教訓の書』)、その日本語訳は、私の愛読書なのだが、なぜ、中世スペインで書かれた説話集を知っているのかというと、大きな理由は、ここにシェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』の物語の原型めいたものが含まれているからである。日本語訳の『ルカノール伯爵』の解説で指摘されているように、第35話「たけだけしい気性の粗暴な娘と結婚した若者に起こったこと」がそれである――シェイクスピアは『ルカノール伯爵』から直接想を得たわけではないのだが(ちなみに解説では触れられていないが、第27話にも『じゃじゃ馬ならし』とのつながりがみえる)。

その他、アンデルセンの『裸の王様』の原型となった物語(第32話)とか、ボルヘスが『汚辱の世界史』のなかで使った物語(第11話)――「『ドン・キホーテ』の作者ピエール・メナール」と同様に、ボルヘスは『ルカノール伯爵』の物語をほぼそのまま使っている)などがあって、『ルカノール伯爵』にはエッジの効いた物語がけっこう多い。

そしてこれを日本語で読めることの幸せを私たちはかみしめるべきであろう――ドン・フアン・マヌエル『ルカノール伯爵』(スペイン中世・黄金世紀文学選集③)』牛島信明・上田博人訳、国書刊行会、1994

この『ルカノール伯爵』には身代わりの物語が多くあるのだが、そのうちの一つがひどく感動的であって、私自身、キリスト教に改宗しようと思ったくらいの力があった。それが第48話「自分の友人を試した若者に起こったこと」である。

物語は、父親が息子に真の友人は得難いものだがら、たくさん友人をつくるようと忠告する。息子は多くの人たちと交わり彼らに惜しげもなく金品を贈って多くの友人をつくる。彼らは困ったときには何でもして助けるとその息子に約束したのである。

息子が短期間にたくさんの友人をこしらえたことに驚いた父親は、その友人たちが真の友かを試すために、息子にこうすすめる。まず自分が殺した人間の死体を隠してほしいと友人たちに頼め、そしてもし自分が官憲に逮捕されたなら弁護してほしいと友人たちに頼むのだと。

案の定、息子のにわか仕立ての友人たちは息子の願いを却下し弁護することすら拒む。落胆した息子が父親に報告すると、次に父親は、父親自身の「半分だけの友人」を試してみてはどうかと息子にすすめる。息子に頼まれたその「半友人」は、父親との友情ゆえに、息子の願いを聞き入れる。

【ちなみに、困ったときに助けてくれるのが真の友という"A friend in need is a friend indeed."という格言に通ずるこのテーマは、中世において好まれたテーマかもしれない。英国の中世道徳劇『万人』Everyman(15c)では、死神がやってきて冥府へとくだらなければならくなったエヴリマン氏は、友人たちに同伴を求めるが、ほとんどの友人たちは途中で彼を見捨てて逃げ出す。唯一彼の同伴者となったのはグッド・ディードGood Deedだけであった。真の友人などめったいにいない。あてにならない友人というテーマは、『ルカノール伯爵』のこの説話に通ずるものがある。なお道徳劇『万人』は純英国産ではなく、オランダ起源である。】

すると父親は、息子に、その「半友人」にいいかがりをつけて殴れと命ずる。殴られた「半友人」はしかしそれを根に持つことなく、息子の殺人行為は隠しておいてやると明言する。 

息子がこのことを父親に報告すると、では自分の「完璧な友人」を試してみるといいという。息子が、その父親の「完璧な友人」に、これまでの経緯を伝えたところ、その友人は、あなたをどんなことをしても守ってやると約束すると言ってくれる。

以下引用:
ところがちょうどその頃、その町でひとりの男が殺されたのですが、その下手人がなかなかみつかりませんでした。【目撃証言もあり】この若者が犯人ということになってしまいました。

それからのことは長々と申し上げるまでもありません。その若者に死刑の判決が言い渡されたのでございます。父親の友人は若者を救おうとできる限り手を尽くしました。しかし、どうしても若者の処刑を回避することができないとわかると判事たちに、罪のないあの若者をこのまま死に追いやるのは良心が許さない、実は男を殺したのはあの若者ではなく、私の一人息子なのです、と申しました。そして息子に自白するように説得すると、息子は罪を認めて処刑されました。こうして真の友人をもった父親の息子は命が助かったのでございます。(牛島信明・上田博人訳、p.279)

この戦慄的な説話においては、このあとルカノール伯爵の相談役パトロニオが伯爵に語っているように、真の友人とは神のこと、その息子はイエス・キリストのことである。そしてこのエピソードは、人間の罪を背負って処刑されたイエス・キリスト物語の世俗版である。実際、説話の必ず最後に付される教訓的な二行詩には「みずからの血で人の罪をあがなわれた/神ほどよき友人は決して見出せない」(p.281)とある。宗教的寓意は明らかである(ちなみに「半友人」というのは聖人のことと説明される)。

イエス・キリストが全人類の罪を背負って処刑されたというキリスト教神話はよく知られているが、それをこのように市井の生活のなかの一挿話として、世俗化された物語として語られると、その異様さに驚く。そしてその不条理なまでの無償性に、世俗性を超越する聖性が立ち上が。

『菅原伝授寺子屋』では、松王丸が、自分の息子小太郎を、管秀才の身代わりとして殺すことになる。子供を身代わりとして殺すこと。それはキリスト教の神と同じ行為である。ただしキリスト教の神は、救うに値するかどうかわからない人間(ちなみにこの説話では、息子は殺人を犯してはいないとしても)の身代わりとして、神の子、それも無辜の子を犠牲の羊として差し出すのに対し、松王丸は、主君菅原道真への忠誠心から自分の子供を身代わりにする。松王丸は、悲劇の主人公である――子供を殺してきた日本人も罪と悲しみを一身に背負うことによって。だが忠誠心は無償ではない――たとえ欲得性がミニマムであっても。もし松王丸が、罪深く薄汚い人類のために、わが子をささげていたら、彼は神になっていたかもしれない。

『ルカノール伯爵』のなかのこの説話において、身代わりは二重である。ひとつには「真の友人」が友情ゆえに、友人の息子の身代わりとして、自分の息子を罪人として差し出し処刑させること。そしてもうひとつの身代わりは、キリスト教の神話(神の子イエスが、全人類の身代わりとなって処刑されるとうい物語)を、世俗化することによって――世俗版物語を宗教的寓意の身代わりにすることによって――、この神話のなかにありながらふつう気づかれることのない、異次元の戦慄的な無償性があぶりだしたこと。

後者の場合、身代わりというのは、アダプテーションあるいは隠喩化といってもいいのだが、身代わりは劣化とは矮小化ではない(そのようなことは起こりうるとしても)。ここでは隠蔽されていた可能性が立ち上がる稀有な瞬間が実現している。その驚異的な聖性をまえにして、私がキリスト教に帰依しようと、たとえ一瞬でも、本気で思ったのは当然だったのである。

【追記:この記事の最後の一節で述べているのは、「異化」という文学上の技法の効果に通ずるもの、いや異化効果そのものといってもよい。そして異化効果である以上、事象なり事物の良性面ではなく悪性面も露呈させることがある。次回、最終回のくせに補足的にこの点を、『ルカノール伯爵』のなかの説話を例に考えたい。】

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2024年01月13日

ツルゲーネフの「ファースト」

田山花袋の『蒲団』を読んでいて、やれ性を露悪的に描き出しているだの、やれ日本の私小説のはじまりだのという、いまとなってはどうでもよい見解にまどわされなければ、あるいはむしろそうした雑音にまどわされることなく虚心にこの小説を読んでみれば、これは誰でも思いつくことだが、これはりっぱなメタフィクションである。

またひとつの小説(中編か)としてもよくできている。そのなかで「私小説」というレッテルは、最後のレッテル、どうでもいいレッテルである。

実際最初から読んでみると、この頃、20世紀の初めに、現代の映画やドラマなどでごくふつうに使われる技法がすでに使われていることに驚くかもしれない。

つまり最初に危機的な状況を読者につきつける。ひとりの男、文士らしいのだが、女に裏切られたか捨てられたかして動転している。
 
小石川の切支丹坂から極楽水に出る道のだらだら坂を下りようとして渠【かれ】は考えた。「これで自分と彼女との関係は一段落を告げた。三十六にもなって、子供も三人あって、あんなことを考えたかと思うと、馬鹿々々しくなる。けれど……けれど……本当にこれが事実 だろうか。あれだけの愛情を自身に注いだのは単に愛情としてのみで、恋ではなかったろ うか」

なかなか衝撃的な書き出しである。

この冒頭の第一章の最後はこうである
「けれど、もう駄目 だ!」と、渠は再び頭髪【かみ】をむしっ た。

小説のつかみとしては、申し分ない。いったい何があったのかと冒頭で読者を作品のなかに引きずり込む。そして次の第二章で、三年前にうつる。Three Years Earlierということで、物語の発端から語られる。
 
渠【かれ】は名を竹中時雄と謂【い】った。
今より三年前、三人目の子が細君の腹に出来て、新婚の快楽などはとうに覚め尽した頃 であった。【第2章冒頭】

これはいまでこそ映画やテレビドラマでよく使われる手法なのだが、1907年にすでにこの手法が使われていたとは、ある意味、驚きである。というか小説としてよく練られている。念入りに計算したものか、自然と生まれ出たものなのか私に知る由もないが、技巧が凝らされていることは誰も否定できない。

古くは、叙事詩の発端を途中からはじめるべしと述べたホラティウスの詩学にもとづく途中からの美学、あるいは起承転結の構成原理のなかで「起」の部分に注力しただけともいえるのだが、この危機的冒頭のあと語りは、3年前の発端へと戻り、第4章で、再び、危機的現在へともどり、事件のさらなる詳細を語ることになる。
【ご存知の方には余計な注釈だが、ホラーティウスの『詩論』には、こうある:「〔叙事詩人は〕たえず終わりに向かって急ぎ、皆が物語をよく知っているかのように、事件の核心へ聞き手を引き入れる」(岡道男訳)と。ここで「事件の核心」へと訳されているのはin medias res、英語で直訳するとin the middle of things(物事のまっただなか)となるが、これが「途中からはじめる」「事件の核心からはじめる」という叙事物語の技法のスローガンとなった。アリストテレース/ホラーティウス『詩学・詩論』松本仁助・岡道男訳(岩波文庫1997)参照。引用はp.234。たとえばウェルギリウスの『アエネーイス』では、アエネーアース一行が嵐の海にもまれてカルタゴへとたどりつくさまが最初に語られ、一行がどのようにして航海しここまでたどり着いたかは、アエネーアースがカルタゴの女王ディードーにむけて語るトロイ戦争末期の出来事を発端とする冒険としてつまびらかにされる。】

と同時にこの冒頭は、結末とも響きあっている。
【……】さすがに「寂しき人々」をかの女に教えなかったが、ツルゲネーフの「ファースト」という 短篇を教えたことがあった。洋燈の光明かなる四畳半の書斎、かの女の若々しい心は色彩 ある恋物語に憧れ渡って、表情ある眼は更に深い深い意味を以て輝きわたった。ハイカラ な庇髪、櫛、リボン、洋燈の光線がその半身を照して、一巻の書籍に顔を近く寄せると、言うに言われぬ香水のかおり、肉のかおり、女のかおり——書中の主人公が昔の恋人に「ファースト」を読んで聞かせる段を講釈する時には男声も烈【はげ】しく戦【ふる】えた。
「けれど、もう 駄目 だ!」
と、渠は再び頭髪をむしった。【第一章末尾】

この第一章の最後の部分が、小説の最後の部分と響きあう。
【……】時雄は机の抽斗【ひきだし】を明けてみた。 古い油の染みたリボンがその中に捨ててあった。 時雄はそれを取って匂いを嗅いだ。暫【しばら】くして立上って襖を明けてみた。大きな柳行李が三箇細引で送るばかりに絡【から】げてあって、その向うに、芳子が常に用いていた蒲団——萌黄唐草【もえぎからくさ】の敷蒲団と、線の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引出し た。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟【えり】の天鵞絨【びろうど】の際立って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。
 性慾と悲哀と絶望とが忽ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷め たい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。
 薄暗い一室、 戸外には風が吹暴【ふきあ】れていた。【第十一章(最終章)末尾】

第一章の末尾で語られる女の「香水のかおり、肉のかおり、女のかおり」が、作品の最後にいたって女の用いていた蒲団と夜着の「女のなつかしい油の匂いと汗のにおい」を、その「なつかしい女の匂いを」「心のゆくばかり」「嗅いだ」という語り手の行為と響きあうのだ。

実際、小説のタイトルにもなっている「蒲団」のもつ意味は読者にとっては不可解であったのだが、最後の最後になって女の使っていた蒲団の匂いを嗅ぐ行為の道具として深く印象づけられる。むしろ最後の最後であるがゆえに、蒲団の匂いを嗅ぐ変態男の姿は読後も強烈な残像として読者に刻み込まれるのだが、同時にそれは小説の冒頭で告知された「女のかおり」という嗅覚テーマの完結でもあった。作品の末尾が冒頭と共鳴している。あるいは最初にもどることで作品を追えるという小説の終わり方の常套手段のひとつを作者は駆使している。

女の使っていた蒲団とか夜着の匂いを嗅がずにはいられない語り手の劣情にふりまわされる行為を小説は赤裸々に描写しながらも、同時に、作品を完結させる手法についても、明晰に意識しているのが、この小説の特徴であろう。私小説的な生々しさを求める読者からすると、この作品は、むしろ技巧的・人為的すぎるといえるかもしれない。

実際、そうなのだ。すでに引用した冒頭第一章の最後のところを、一部、再引用してみると:
さすがに「寂しき人々」をかの女に教えなかったが、ツルゲネーフの「ファースト」という 短篇を教えたことがあった。【中略】書中の主人公が昔の恋人に「ファースト」を読んで聞かせる段を講釈する時には男声も烈【はげ】しく戦【ふる】えた。

ここには文学作品のタイトルがふたつ登場している。ハウプトマンの戯曲『寂しき人々』とツルゲーネフの「ファースト」である。とりわけツルゲーネフの「ファースト」を時雄は女に講釈したとある。女の蒲団の肉の匂いを嗅ぐ行為はまた、文学作品によって媒介される恋愛関係によっても支えられていたのである。歯止めの利かぬ情念と意識的な文学読解との共存ゆえに、この作品はメタフィクションたる資格を備えているということができる。情念と哀しみと絶望の嵐にさらされながら、片一方でどこまでも冷めているという二重性がこの作品の誰もが気づく特徴であろう。

ただ、それにしてもツルゲーネフの「ファースト」とは何か、気になった。

この作品でツルゲーネフは重要な意味をもっていえる。語り手の時雄は、彼女に、ツルゲーネフ全集を買わせている。ツルゲーネフ作品についての言及は随所にある。そこで私は「ファースト」は英語のFirstであろうと考えた。

時雄は、みずからをツルゲーネフのいう“Superfluous man”(第3章、原文英語)になぞらえる。またツルゲーネフ作品の「オン・ゼ・イヴ」について言及している(第5章)。これはツルゲーネフの長編小説『その前夜』のことだろう。主人公は、ツルゲーネフを英訳で読んでいるようだ。当時の翻訳事情はわからないが、“Superfluous man”はツルゲーネフの小説『余計者の日記』で有名になった概念である。となると「ファースト」は、ツルゲーネフのなかでも有名な『初恋』のことと私が考えても無理もない。実際、『初恋』の英訳のタイトルはThe First Loveである。

ただし、気になるのは、「書中の主人公が昔の恋人に「ファースト」を読んで聞かせる段を講釈する時には」という記述で、『初恋』のなかに、昔の恋人に「ファースト」を読んで聞かせる」場面などあったのか、そもそもどういう場面なのかわからなかったので、『初恋』を読み直してみた。話の筋というか結末は知っているのだが(映画化作品とかテレビ映画版もみたことがある)、細部については忘れていたので、はじめて読むような感動を味わったが、読み終わったあと、『蒲団』のなかで言及されているのは、この作品ではないと気づいた。

『初恋』という作品のなかで主人公が「初恋」という作品を昔の恋人に読んで聞かせるというのは、まったく意味不明の行為である。そう、これはツルゲーネフの「ファースト・ラブ」ではなく「ファウスト」という中編小説だった。そうゲーテの『ファウスト』のアダプテーションではないが、このゲーテの戯曲が重要な役割をはたす小説だった。

それにしても最初から『ファウスト』と書いてもらえれば、よかったのにと愚痴のひとつも言いたくなる。いや「ファウスト」も、「ファースト」も、ヴァリエーションとしてありで、それを「ファースト・ラブ」と解するのは私の早とちりであると言われてもしかたがないが、だったら「オン・ゼ・イヴ」だの“Superfluous man”だのと書かないでほしい。書いてあるからこそ、「ファースト」はFirstにしか見えなかったのだ。

まあ『蒲団』を注釈付きの本で読んでいたら、こんあ間違いはしなかったのだが。つづく
posted by ohashi at 19:36| コメント | 更新情報をチェックする

2024年01月10日

ボーファイター

劇場版『SPY×FAMILY Code:White』が昨年12月22日公開後、3週間以上経てもなお観客動員数一位をキープしているようだ。まあ、私も観に行ったので、観客数増加に貢献している。

ちなみに劇中で父のロイド・フォージャーが操縦する双発の戦闘機/爆撃機が何か映画館ではすぐにわからなかった。

まあ第二次世界大戦中の双発機については、「モスキート」と「屠龍」とか「月光」くらいしかわからない私としては映画を観たあと、記憶のなかでイメージを再現して、飛行機の型をあれこれ推測するしかなかった。

最初、ドイツの「ヘンシェル129」かと思ったのだが、私の記憶のなかでは、痩せて角ばっていたヘンシェルとは異なる、もっちりとした双発機であったので、あれはブリストルの「ボーファイター」だと推測した。

YouTubeでの予告編映像でも確認したので、まちがいないと思うのだが、ただポスターで、ファミリーの三人が乗っている双発機は、デフォルメされているとはいえ、あきらかにボーファイターとはちがう。あればボーフォートである。なぜ劇中ではボーファイター、ポスターではボーフォートなのかわからないのだが、ブリストル・ボーファイターということで私のなかでは落ち着いた。

このボーファイターのプラモデルは、タミヤから発売されている。田宮模型のサイトでは「1/48 傑作機シリーズ No.53 ブリストル・ボーファイター Mk.VI BRISTOL BEAUFIGHTER MK.Ⅵ 1997年5月発売」とあって現在も入手可能なようだが、タミヤ製ボーファイターのプラモはもっと古くからあったように思う。

現在の目からみると、キャノピーからもよく見える機内などもう少しディテールがあってもよいように思うのだが、それ以外の点では、全体の輪郭はボーファイターの特徴をよくとらえているし、また作りやすい構造にもなっていて、文句のつけようがない。しかも1/48の双発機だが、全長は単発の戦闘機くらいだから大きすぎず、しかしヴォリュームはあり、満足度は大きい。

『ゴジラ-1.0』では大戦末期に試作機として登場した前翼機の「震電」がゴジラと戦うこともあって、長谷川から『ゴジラ-1.0』仕様の1/48の震電のプラモデルが発売された。すでにあるプラモデルだが、箱絵を映画にあわせ、映画にあわせたデカールを付けたお手軽な再販だが、たぶんよく売れていることだろう。

ならば田宮さんにも『劇場版SPY×FAMILY』仕様のボーファイターを、あるいは『劇場版SPY×FAMILY』に登場するとうたい文句でボーファイターを出してもらえるとありがたいのだが。

とはえいすでにタミヤ版1/48 傑作機シリーズ No.53 ブリストル・ボーファイター Mk.VIは購入して、夜間戦闘機型にして真っ黒に塗り終わったのだが。もう一機くらいは購入してもよいと思っているので。
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2024年01月04日

トイレの神様?

以下の記事が目についた。
「トイレの神様」植村花菜さん、故郷の市制70周年記念しコンサート朝日新聞デジタル1月4日
 兵庫県川西市は、市制70周年を迎える今年8月1日、堅苦しい式典をしない代わりに、市出身のシンガー・ソングライター植村花菜さん(41)の記念コンサートを市キセラホールで開く。

 来賓あいさつが続く従来の式典よりも、市民が主役で楽しめ、記憶に残るイベントで祝いたいと、若手のプロジェクトチームが発案した。

 植村さんは生後3カ月から21歳まで川西市で暮らした。2010年、「トイレの神様」が大ヒット。翌年、市のイメージ向上と文化振興に貢献したとして、市民文化賞が贈られた。

 市制70周年では、市民から募った「川西のこんなところが好き」というエピソードを基に、オリジナルソングを制作することも快諾。記念コンサートで初披露するという。【以下略】

それにしても今年の8月1日に行われるイベントに関する記事を1月4日に出す? よほど記事になる事件がなかったのだろうか。

しかも2010年にヒットした「トイレの神様」がらみの記事。いまは「トイレの神様」ではなく「ウンコの神様」の時代では?
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2024年01月03日

東海地震はいずこ

冷和6年能登半島地震

2024年1月1日におこったこの大地震は、時間がたつにつれて、その被害の全容が明らかになり、その廃墟と化した一帯の映像にはただ言葉を失うしかないのだが、こうした大きな地震が起こるたびに、東海地震はまだ起こらないのかと不思議に思う人間は数多くいるはずである。

実際、20世紀の後半から終わりにかけて、東海地震がいつ起こってもおかしくないと危機感をあおられた日本国民のひとりとしては、その後、東海地震が起こっていないことに安堵すべきなのかもしれないが、東海地震が想定されている以外のところで大きな地震が何度も起こっていることはなんとも解せないのである。

たとえば阪神・淡路大震災、新潟県中越地震、東日本大震災、熊本震災、そしてこの能登半島地震といい、いまも記憶に新しい大地震は、すべて東海地震とは関係ない地域で起きている――よりにもよって。

まあ神様が、人間に東海地震を予言されてしまったので、その腹いせに、東海地震だけは起こさないように、地震予知学者にいじわるをしているのではないか。

いいかたをかえよう。いったいどこのバカが東海地震が起こると予言し、膨大な科研費を使い、地震予知と被害防止のための経費をあさっての方向にある地域に投入したのか。

東海地震が起こるといわれても、実際には別の地域で地震が起こった場合、それでも近々に東海地震が起こる可能性は否定できないため、誰も懐疑の声をあげなかったのかもしれない。しかし、ここまで東海地震が起こらないと、つまり東海地震以外の大地震が大きな被害をだしていると、さすがに東海地震はどうなったのか、これってあるある詐欺ではないかという声が出てもおかしくない。というか出ている。

いや、東海地震はいつか起きるかもしれない。だが、今後の情勢では、それは一連の大地震の最後に起こるのかもしれない。

英語でthe last+名詞+to do~という表現をご存知だろうか。

He is the last person to tell a lie. という一文は「彼は決して嘘をつかない人だ」という意味になるのだが、これは、彼は嘘をつく人間のなかでは最後の人だ→つまり決して嘘をつかないということになる。

この表現法でいくと、東海地震は最後に起こる地震といえる。つまり起こるはずがない地震なのである。

重要なのは、あるある詐欺を働いた個人なり集団を特定し、それがどのようなメカニズムとなって風評以下のバカ学説となりおおせたのか、そしてそれによる被害と損失はどれくらいなものなのかをしっかり検証することである。

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2024年01月02日

『枯れ葉』

アキ・カウリスマキ監督の6年ぶりの新作ということになるのだろうか。2017年に『希望のかなた』を最後に、引退宣言をした監督の2023年の新作。ただし個人的には『街のあかり』『ル・アーヴルの靴みがき』以後、カウリスマキ作品は観ていない。久しぶりのカウリスマキ作品なので、どう対応してよいのか最初戸惑った。

かつてはふうつうに面白がって観ていたのだが、その勘が10年間に失われてしまったため、まるではじめてカウリスマキ作品と遭遇した初心者観客と全く同じで、はじまってからかなりの時間、違和感に悩まされた。

映画は、無表情の人物を正面からとる場合が多く、その人物たちは無表情のうえ寡黙で、何を考えているのかわからない変人のようにもみえるし、いつも過剰な演技していえるようにも、あるいはプロの俳優ではなく素人が演技しているようにもみるという独特のパフォーマンス空間を現出させる。また戸外はともかく、室内は、いつも独特の人工的な色合いで、照明もどこかわざとらしく、しかも、それを「シュール」という形容でごまかさなければ、ノスタルジックなどとは程遠い、ただなんとなく古臭いといった独特の雰囲気を漂わせている。これはカウリスマキ映画の特徴であることは私の記憶にも刻まれていた。

では、物語はどうか。たとえば女が男に電話番号を記した紙を渡す。男はその紙を落としてしまい連絡がとれない。女のほうも心配になり男と出会った映画館に行ってみる。すると歩道にたばこの吸い殻が密集して落ちていて、そこでヘビースモーカーの男が待っていたらしいことがわかる。あるいは女と連絡がついて、すぐに女のところへ駆けつけようとして市電にはねられる。だが病院にはこばれ昏睡状態。死ぬことなく、昏睡状態からも目覚める。う~ん、昭和初期から戦後にかけての時代の、すれちがい映画の世界だ。カウリスマキだからこそ許されるプロットだ。ふつうならこんなカビすら幾重にも層をなして死滅しているようなプロットが採用されるべくもない。

映画のこの緩くて古い世界が、芸能や文芸に政治は不要だと考える日本の愚かな観客どもにとって至福の映画的快楽の源泉となっているらしいことがネット上の感想をみるとわかる。みんな面白がっている。この映画は、幸せな気分になるために、年末・年始にみる映画の代表格にまつりあげられている。この映画は「幸福の約束」なのである(アドルノ的な意味とは異なるのだが)。だったら『劇場版SPY×FAMILY』でも観に行けばいいのだ(ちなみに私は劇場版であろうがテレビ版・配信版であろうが『SPY×FAMILY』の大ファンであり、劇場版もすでに観た)。

しかし、この映画のどこが面白いのだと考え始めると、台詞のやりとりが面白いということに思い至った。人物たちは、気の利いたことを話そうとしているというか話している。ナンセンスな、あるいはシュールな台詞を幾度も発している。だが話すほうも、それを受け取るほうも、ともにデッドパン(dead pan)状態だから、面白ことを言っても、ただスベッているだけのようにもとらえられる。これがわかると、台詞のばかばかしさに心のなかで笑えるし(そんなとき観ている側もデッドパン)、それに対する無反応・無表情(まさにデッドパン)に対しても笑えるという二重のおかしみを感ずることができる。このコツがわかったので中盤以降、この映画の台詞のやりとりが面白くてならなくなった。カウリスマキ映画をみるときのコツのようなものをとりもどしつつある自分がいた。

だが、こうしたデッドパン喜劇的な映画は、社会的・歴史的現実から隔離されたノスタルジックな映画的ユートピアかというと、そうでもない。いや過去のカウリスマキ映画はそうだったかもしれないが、この『枯れ葉』の映画の世界には死の影が忍び寄ってくる――「われアルカディアにもあり」。女性の主人公の住居は、電子レンジと携帯電話はあるが、黒い固定電話と古い型のラジオしかなく、テレビはなく、パソコンもない。なにか昭和初期を思わせる時代設定あるいは時空間のゆがみのなかでに、ウクライナ侵攻を伝えるラジオニュースが入ってくる。ここには現実界が容赦なく入ってくる。ロシア軍がウクライナの病院施設を攻撃しているというニュースは、ガザにおけるイスラエル軍の暴挙をもほうふつとさせて観客にとっても心穏やかでない。女性の主人公は、このニュースを聞くと食欲をなくしラジオを切るのだが、リアルは確実に映画的ユートピアを侵略している。

いや、そもそも主人公の雇用形態も不安定であり、映画のなかで語られてもいたのだが、彼女は「ゼロ時間契約」(zero-hour contract)労働者という非正規雇用労働者であって簡単に首を切られてしまう。また仕事も不定期なので銀行でローンも組めないなど、さまざま不利益を被っている(ちなみに『Perfect Days』の役所広司演ずる清掃員も、ひょっとしたら「ゼロ時間契約」労働者なのかもしれない)。

そしてロシアのウクライナ侵攻とゼロ時間契約労働者の彼女が失業する事態が同時に起こる。『枯れ葉』の世界線は私たちの現実から隔離された別世界ではなくなっている。そのなかで、かろうじて、不幸な状態、逆境にもめげない昭和の中年の恋人たちのありえないハッピーエンディング物語が展開する。この映画のデッドパン状態はどちらかというと、喜劇的ではなく悲劇的なのである。

この映画の英語のタイトルはFallen Leavesである。「落ち葉」でもよいのではないか。「枯れ葉」にしなくともと思ったが、映画の最後にエンドクレジットにもかかるかたちで、フランスのシャンソン「枯れ葉」(「枯葉」とも表記)が流れてきたので、シャンソンのタイトルを映画のタイトルにもしたということで、「落ち葉」ではなく「枯れ葉」にしたのだとわかった。

「枯葉」は古い歌だが今の若い人たちもよく知っているであろうシャンソンの名曲で、1945年ジョゼフ・コズマ作曲、ジャック・プレヴェール作詞の短調のバラード。6/8拍子の長い序奏部(前説)と、4拍子のコーラス部分(さびの部分)から成る。長い前説の部分は、失われた恋と青春を嘆く歌詞からなり、コーラス部では男女二人の愛の絶頂期をたたえるとともに、その終わりを悲しむことなる。日本語ヴァージョンでさびの部分で「枯葉」という言葉がたたみかけられるのだが、フランス語の歌詞では、さびの部分に「枯葉」という言葉は一度も出てこない。全体としてこの歌は失われた愛を回顧するもので、映画のようなハッピーエンディングの対極にある。映画は暗い時代において、ロシア軍のミサイルやドローン兵器によって死んでゆく病院患者や解雇されて暮らしてゆけぬゼロ時間契約労働者がみるつかのまの悲惨な白昼夢なのである。
posted by ohashi at 23:25| 映画 | 更新情報をチェックする