2023年11月28日

『デシベル』

ファン・イノ監督の2022年韓国映画。テロリストに翻弄される韓国海軍将校という話かと思っていたら、そうなのだが、同時に、潜水艦映画でもあった。潜水艦映画というジャンルとしても、ある意味、王道の作品であり、また、爆弾魔との闘いというジャンルでも王道の映画ではないかと思う。

繰り返すが潜水艦映画でもあった。過去に起こった潜水艦での事故の真相が徐々に明らかになる展開だが、それと並行して爆弾テロリストの巧妙な計画を未然に防ぐ主人公の決死のアクションが展開する。潜水艦事故の中心人物であり乗員を救ったヒーローでもある主人公がテロの標的とされたことで、ふたつの流れが融合する。基本は二者択一である。部下の乗組員を救った副長はまた、同じ数の部下を殺した責任者でもあった。

これまでの潜水艦物の映画のなかで有名な『深く静かに潜航せよ』(1958)では艦長(クラーク・ゲーブル)と副長(バート・ランカスター)が仲が悪かったというか対立する。『クリムゾン・タイド』(1995)では艦長(ジーン・ハックマン)と副長(デンゼル・ワシントン)との関係は険悪化して互いに解任しあう。

艦長CaptainあるいはSkipperと、副長Commanderとの関係は、学校でいうと校長と教頭との関係で、教員を束ね、また細かな指示を出すのは教頭/副長である。日本語で「副長」だが英語ではCommanderつまり司令官である(もちろんCommanderには役職のほかに階級としての意味もあるが)。教頭/副長は司令者である。いっぽう校長のほうは、良い意味でも悪い意味でお飾りで、対外的に学校を代表し、学校運営を統括するのだが、現場の司令官ではない。教員の筆頭でナンバー・ワン教員の教頭ではない。ちなみに『スタートレック』でカーク船長がナンバーワンと呼んでいるのは副長のミスター・スポックのことである。

『レッド・オクトーバーを追え』では、〈レッド・オクトーバー〉艦がアメリカに亡命する際に、それを阻止すべくロシア側の潜水艦が魚雷を発射するが、敵味方識別装置のせいで魚雷は自軍の潜水艦を回避するという場面があったように思うが、映画『デシベル』ではそれがどうなっているのかちょっとよくわからない。

しかし艦長と副長の仲の悪さとは別に『デシベル』と結びつくのはキャスリン・ビグロー監督の『K-19』(2002)である。原子炉事故を起こしたソ連の原潜を扱うこの実話に基づく映画は、冷戦下の複雑な国際情勢のなかで多くの若い乗組員の犠牲によって事故を処理した艦長の苦悩が描かれるが、映画の最後は、亡くなった乗組員たちの墓の前での艦長と生き残った乗組員たちの悲しくも感動的な再会であった。『デシベル』と似ている【そういえば『K17』でも艦長(ハリソン・フォード)と副長(ニーアム・リーソン)は対立していた。】

もちろん似ているのは再会のところだけではない。もっと根幹にあるテーマ。誰を救い、誰を犠牲にするかという困難な選択がある。

いわゆるトロッコ問題である。日本語では「トロッコ問題」だが、英語ではTrolley Problem――これは路面電車問題である【実際に、トロッコが来ても轢かれたら死ぬかもしれないが、路面電車のほうが分岐路とか犠牲者の数という問題に直結するのだが。つまりどこかのバカがTrolleyをトロッコと訳したのだ。私の子供の頃には、トロリーバスというのが街を走っていた。】

Wikipediaによれば、
トロッコ問題(英: trolley problem)あるいはトロリー問題とは、「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という形で功利主義と義務論の対立を扱った倫理学上の問題・課題。【中略】
概要
前提として、以下のようなトラブルが発生したものとする。
線路を走っていたトロッコの制御が不能になった【手押し車のトロッコが制御不能になることはない。路面電車のこと】。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコ【路面電車っちゅのに】に避ける間もなく轢き殺されてしまう。【中略】
この時たまたまAは線路の分岐器のすぐ側にいた。Aがトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもBが1人で作業しており、5人の代わりにBがトロッコに轢かれて確実に死ぬ。Aはトロッコを別路線に引き込むべきか?【中略】
つまり、単純化すれば「5人を助けるために他の1人を殺してもよいか」という問題であり、功利主義に基づくなら1人を犠牲にして5人を助けるべきだ。しかし、義務論に従えば誰かを他の目的のためだけに利用すべきではなく、何もするべきではない。

Wikipediaの説明は、基本的に、これ以上進展はない。要は、1人を救うか、5人を救うかは数の問題であり計量化できる問題であり、理性の領域の問題だが、たとえば5人は私の知らない人たち、1人は私の家族であったら、これは理性の領域で処理できない感情の領域の問題となり、1人を救って5人を殺すという解答も出てくることになる。しかし理性と感情との二項対立は簡単に脱構築できる。理性的判断も実は感情に動かされているし、感情的判断は、その理性的原因を排除するものではない。

もうひとつ、この問題のやっかいなところは、正しい解答がないこと、二者択一が究極の選択となって成立しないことである。つまりこの場合、1人を選ぶか5人を選ぶかは決められない(5人だと自信をもって決められるのは功利主義者のバカである)。だから何もできないことが正解なのだが、この状況では事態は急を要している。路面電車が分岐点を通過する前に選択するしかない。そしてどの選択をしても、私は後悔するだろう。

私は人生においてここまで追い詰められたことはないが、私が5人を救い1人を殺す選択をしてても、その選択が正しかったかどうか、一生、悩み続けるだろう。おそらくその後の人生において私がすることは二つだけである。すなわち私は、分岐点でどちらの選択しても人を殺したことになるので、私は責任をとって自殺する。あるいは死にきれなければ私は神にすがる。神に祈る。たとえ神からの語りかけは一生ないとしても【これはまた信仰の始まりでもある】。

そうこの路面電車問題は、人間に答えは出せないのであり、神にすがるしかない。実際、この映画『デシベル』でも副長(コマンダー)は、44名の乗組員のうち半数が救われるようにくじ引きをする。くじ引きで誰が死ぬか生きるかは、偶然の結果ともいえるし、神による選択ともいえる。実際のところ、酸素の残量と救出にかかる時間を厳密に計算したら端数がでるはずである。しかし生きる者と死ぬ者とを半数にすることで公平性を確保すると同時に、二択という神による選択にゆだねるという意味が生ずるかもしれない【副長は最初から自分は死ぬ側に属することにすると公表することもできるが、それだと二択に人間の意志が入ることになるため、あくまでも神の選択(偶然)にすべてをまかせるために、それはしないということだろう――副長は最後にくじを引いて生存者の側になる】。

なお、ここで思い出すべきは、『デシベル』におけるテロリストは、毎回、爆弾を2か所に設置することだ。そのことを副長に告げる。どちらを助けるかは、副長の判断にゆだねられる。まさにトロッコ、いや路面電車問題である。

だが、艦内で問題が起きる。「弟」(血のつながった弟なのか、そうでない弟分なのかは、私が見た限り、よくわからなかったが、血はつながっていないだろう)が死ぬ側になり、自分が生きる側になった兄が、自分が死ぬ側になり弟を助けてほしいと懇願するのである――路面電車問題でいえば、コインの裏表(二択)で、5人を救うことに決まったとき、気が変わって1人を救うことにするようなものである。これは許されない。これをしたら公平性が失われる。神の意志にそむくことになる。また弟も自分もともに死ぬ側にまわると懇願しても、これも許されない。死ぬ側から誰が生きる側にまわるかというやっかいな問題も生まれる。偶然という必然性が恣意性によって破壊されることになる。そしてこれがこの映画における事件のはじまりだった。

ただ功利主義者の計算も、神の判断にまかせる二者択一も、冷たい方程式を招来する。それは人間を超越しているか、人間の顔をしていないのだ。ときには理性に感情的要素を付加してもよいのではないか。脳内の感情ネットワークを動員しない決断は、ほんとうにありうるのか【やや揶揄的にいえば、韓国映画で、感情ネットワークを介在させない決断は、絶対にありえない】、あるいは基本的構造は変えなくてもそこに余裕というか隙というか例外的要素をもぐりこませることはできるのではないか【韓国映画はいつもこれをしている】。これを副長はしなかった。そこから復讐劇がはじまる。生き残った乗組員による復讐、そしてジャンルの掟による復讐。

副長の行為は、もちろん、公正無私の判断であって、なんら責められるべきものではない。それが映画の最後に、生き残った乗組員たちから賞賛されるゆえんである。だが、同時に、感情的要素の折り込みを拒否したことに対して副長は謝罪もしていることは無視されるべきではない。そして原則か例外か。賞賛か謝罪か。この路面電車問題は、もう一段階上のレベルでも生じているのである。

そうこの映画は、進行途上に、分岐点がある。このまま行って、テロリストとの対決で終わらせるのか。それとも潜水艦事故による生存物語で終わられるのか。コインをトスして、どちらか一方のジャンルで終わらせることはできない。それができないまま、テロとの対決物と潜水艦物とは、重なり合っている。シュレジンガーの猫ではないが、終わるまで、この重なり合いはつづくだろう。そう路面電車問題は、人間に決断などできないがゆえに、生と死が重なり合っている状態を出来させる。5人と1人は、生きているとも死んでいるともどちらともとれる。路面電車は、分岐点に至るまでに、アキレスと亀のように、無限にある中間点を越えなければならず、永遠に分岐点に到達しそうにもないかのようだ。だからこそ、ふたつの路線を走る映画が生まれたともいえる。テロとの対決物と潜水艦物と。そしてテロとの対決物が主流になるかにみえて、潜水艦物も徐々に盛り返してきて、ふたつが融合するかにみえる。路面電車、あろうことか二つの路線を同時に走行するようになる。それがこの映画だといえなくもない。

そして最後に、だか決して些少なことではないこととして、言わずもがなのことかもしれないが、潜水艦物というは水の物語である。死んだ乗組員が埋葬されている丘の墓地は眼下に海を臨んでいる。韓国の潜水艦は女性隊員を載せないらしいのか、乗組員全員男性である。最初から潜水艦では乗組員たちがじゃれあっている。仲のよい男たち。そこに同性愛的なものをみないことのほうが鈍感だといわざるをえない。生者と死者に、男たちの絆を絶たれた悲しみと苦しみは、そこから激しい怒りを生み、復讐へとつながってゆく。テロリストは、その悲しみを癒すべく、多くの人間を道連れにしてみずから死を選び取る。路面電車問題は、二者択一のメカニズムによって男たちの絆、けっして切られることのない絆をたちきってしまっていたのである。
posted by ohashi at 01:42| 映画 | 更新情報をチェックする