2023年11月20日

『私はモーリー・カーニー』

原題はLa Syndicaliste(2022)。「組合活動家」ということである。

この組合活動家をイザベル・ユペールが演じている。

まず日本語のタイトルについて。ケン・ローチ監督のI, Daniel Blake(2016)の時がそうだったのだが、このタイトルを日本の映画会社は、『私はダニエル・ブレイク』と訳した。ほんとうにバカといってやりたい。「私、ダニエル・ブレイクは」とすべき。実際映画の中でも憤慨した主人公が、建物の壁に「私、ダニエル・ブレイクは、~に抗議する」と書くのだ。この抗議文が「私はダニエル・ブレイク」では間が抜けすぎていて意味をなさない。

「私はモーリー・カーニー」というのは、そもそも原題とは違うのだが、それを無視しても、映画のなかで彼女が聴聞会で宣誓するときの言葉である――「私、モーリー・カーニーは、~を話すことを宣言します」という。これが「私はモーリー・カーニー……」では間が抜けすぎている。

間抜けな映画会社のことはともかくとして、この映画、まず組合活動家として辣腕をふるう強い女性モーリー・カーニーを登場させる。だが、その彼女が会社の裏切りと不正を追及するようになると三人組の暴漢に襲われる。すると強い女性だった彼女が、弱くてもろい女性になってしまう。暴漢に襲われたことが自作自演であったと告白するまでになる。ここまでなら通常の映画物語の範疇である。だが死に体になった彼女だが、冤罪をはらすために起死回生の逆転劇にでる。ふたたび強い女として復活する。

ちなみに英語のタイトルはthe sitting duck(「格好の標的」、まさに「鴨」ということ)だが、そこにはlame duck(「死に体」)の意味もなんとなく込められている気がする。

この映画の問題は、演出にある。観客をミスリードすることに精力を注いでいて、何をしたいのかよくわからないのである。強い女性が迫害され攻撃され心が折れそうになるも周囲の支援とみずからの強い意志で復活するという最終段階までには、紆余曲折がありすぎる。

映画の冒頭で、彼女が暴漢に襲われたという通報が入る。なぜ彼女が襲われたのか、それまでの経緯が語られる。それは女性映画というよりも、良質なサスペンス・スリラーを思わせるものだ。彼女の組合活動家としての辣腕ぶりが中国と提携を結ぼうとする原子力電力会社(彼女はそこの労組の代表)の幹部の不興をかったらしいとわかってくる。またフランス政府の原子力政策とからんで、国家規模の犯罪であることが匂わされ、彼女が襲われたのも、触れてはいけない国家機密に抵触したからではないかという疑念がわいてくる。

残念ながら私は映画を観る前に、予備知識として、彼女が暴行を受けたのは自作自演だということを仕入れていた。これはネタバレ的な情報なので、簡単に示していい情報ではないはずなのだが、それに気づかずに、私は映画の筋書きをほぼ知っている気になっていた。

ただ自作自演について知らなくても、知っていても、映画そのものが、彼女の言動の不自然さや矛盾を示しはじめるため、観客としては、彼女の自作自演を疑わざるをえなくなる。

国家憲兵隊の捜査官(階級は曹長、黒目が異様に大きい)が彼女の自作自演を主張しはじめると、観ている側もやはりそうかと思わざるをえなくなる。彼女は暴行を受けた人間にみえないし、侵入者が残した証拠もなく、目撃証人もいない。国家憲兵隊は、彼女の自作自演と決めつけるが、観客もまたその判断に納得するほかはなくなる。私のように前もって予備知識がある観客はなおさらのこと。

そして彼女は自作自演であったと自白する。もう終わりにしたいと言って。

ところが、映画は、自作自演が自白によって確定してから、自作自演ではなかったかもしれない方向にぶれはじめる。操作や尋問に問題があったのではないか。また彼女の性格の弱さも強調される。そして以前にもレイプされた経験があったという観客にとっての初めての事実も出てくる。

しかも判決に不服なため彼女は控訴するのだが、最初の控訴では、なんの準備もなく、切り札もなく、訴えはあっさりと退けられる。この無為無策はなんなのか。よき理解者である夫もいながら、彼女はあまりにもボンクラすぎる。

しかも彼女にとって切り札がひとつあったことは観客にはわかる。実は、事件の前にころんで右肩を痛め、右腕を動かせなかったのである。医師にも診断してもらっている。彼女が車の運転もできず、夫に送ってもらったりしたこと。右腕が動かない状態で、自分を縛ることができないこと。なぜ、それを最初の尋問のとき主張しなかったのか、あるいは控訴で切り札として出さなかったのか不思議でしょうがない。いらいらするくらいだ。

最後の控訴審で、右腕が動かなかったことを、最初の弁護士が主張しても警察がとりあわなかったこと、それが弁護士の最終弁論で明らかになる。ならば最初の取り調べのときに、いかに警察の捜査や尋問がずさんなものだったのか、さらにはいかにして警察が、最初から自作自演と決めてかかり、事件の真相を闇に葬り去ろうとしたのかが示されてしかるべきだった。ところが、まるで警察の味方をするかのように、彼女の受け答えや姿勢や生活態度から、自作自演とみられてもしかたがないと主張するかのように、観客の反応をも誘導操作しているのは、なぜなのか。バカなのかとしかいいようがない。

そう彼女の自作自演という予備知識にしても、それは、観客をミスリードする罠でもあった。私はまんまとそれに騙されたのだが、ただサスペンスフルにしたかっただけという映画制作側の勝手で愚かな策略としたら、それは最初から面白い素材に下手に手を加えてだいなしにしていると言わざるを得ない。

だが、サスペンスフルにすればそれでいいというというのは、別の観点からもまちがっている。私たちが彼女の活動にいまひとつ共感できないのは、原発企業の労組を代表しているからである。この企業は、中国と提携して、100%中国製の原発を作ることによって、フランス人労働者を解雇することになり、それに反対して彼女は戦うのだが、原発大国のフランスでも、原発や原子力に対する忌避感が国民の間に根強いということも映画は伝えている。彼女が別種の企業の労組の活動家であったらよかったのにと思うのは私だけではあるまい。あるいは、この問題を掘り下げるべきではなかったか。サスペンスフルにする前に。

さらにいえば、中国経済はいまや失速しはじめ、イギリスなどは中国との提携をしぶり、一帯一路もイタリアは消極的姿勢に転じている昨今、中国との原発提携が国策としても問題含みのもので、今後、どのような失策なり欠陥を生むかわかったものではない。彼女への暴行事件と警察の見込み捜査は、国家の闇へとつながる、相当やばい事件であって、たんに、暴行事件の犯人が捕まっていないことを伝え、その黒幕なり陰謀について知らぬ存ぜぬではすまされないのではないか。

この映画に登場するアレヴァArevaは、いまは再編されてオラノOranoになったようだが、三菱重工と提携し、原発の汚染水浄化設備を日本にも提供している企業である。

この映画は、まさにイヴェント・ホライゾンである。この映画が語る事件の背後には、私たちが到達できない恐るべき闇がある。日本の原発事業も含む、原発政策の、光のとどかない闇、それがなんたるかはわからないのだが、それがあることを示す、イヴェント・ホライゾン映画ともいうべきものが、この映画ではないだろうか。だからこそ、なおのこと、つまらない演出で、真の恐怖をだいなしにしていると言わざるを得ない。
posted by ohashi at 23:05| 映画 | 更新情報をチェックする