もうひとつの『ロミオとジュリエット』の配信
「マームとジプシー」主宰の藤田 貴大氏の構成・演出による『ロミオとジュリエット』(2016年、東京芸術劇場 プレイハウス)の劇場録画が配信中。
ほんとうに恥ずかしいことながら、藤田氏の存在と演劇に気付くのが遅くなり、演劇専門の学生が藤田氏の「マームとジプシー」を知っていたのでさらに恥ずかし思いをしたのだが、その藤田氏が東京芸術劇場で公演した『ロミオとジュリエット』の録画が現在配信されている。ご覧になることを強くすすめたい。
私は劇場で観て衝撃を受けた。『ロミオとジュリエット』と銘打って松岡和子氏の翻訳を使っているが、シェイクスピアの作品を多少アレンジを加えながら最初から上演するというのではない。シェイクスピアの作品は解体される。台詞も前後関係を無視してピックアップされ、カギとなる台詞がリフレインされる。そうしたなかで死へと向かう恋人たちの悲劇が舞台の中に、いまとここの出来事として現前する。その静かな悲嘆となつかしくも不気味なちぐはぐな運動に圧倒された。
まず主要人物は女性(少女)である。男優も登場するが8割、9割は女性のパフォーマーである。彼女たちは、みな、メイド服というか、白と黒のゴスロリ衣装というか、少女のような、あるいは人形のようないでたちで登場し、台詞を発し、踊る。ただ、その台詞はずべて棒読みである。台詞に感情はこもっていない。共感なり感情移入を一切排除する徹底した棒読みの台詞である。
またすでに述べたように台詞には物語性が付着しない。特徴的な台詞が何度も何度も繰り返される――徹底した棒読みによって。
そんな芝居のどこがおもしろいのか。そんな勘定移入を配したパフォーマンスに感動などできるのか。と疑問に思われるかもしれない。
実はエモーションを配したパフォーマンスこそが、なによりもまずそこにエモーションを生むことを、この戯曲を通して体験できるのではないかと思う。
昔E・M・フォースターというイギリスの小説家が、その小説論『小説の諸相』のなかで、ラウンドなキャラクターとフラットなキャラクターという二分法を提唱したことがあった。フラットなキャラクターというのは紋切り型でステレオタイプの登場人物。小説が扱う、あるいは描くのは、これではなく、ラウンドなキャラクター――つまり奥行きや深みをもつ、複雑な性格付けをもつ登場人物――である。中世的な物語文芸では、フラットなキャラクターがうごめくだけであるのに対し、近代的な小説ではラウンドな――つまり立体的な――キャラクターが登場する。あるいはそうした人物を描くことになる。
だがこの区分は、近代的であっても、現代的ではない。モダンアートは、むしろフラットなキャラクターを使って何かをしようとするだろう。ちょうど近代絵画が、遠近法を捨てて、絵画の平面性・二次元性を強調することによって絵画芸術独自の立体空間を現出させたように、人物をフラットにすればするほど、その人物が逆に生きるような小説空間が生まれる。ポストヒューマンというか、人物が人間ではなくロボットみたいなれば、そのぶん人間性の真実がみえてくるということもあろう。言葉でいくら人物の人間性なり人間的要素を述べても、フラットなキャラクター(ロボットでもいい)から生まれる人間性ほどの説得力はもちえない。あるいはフラットであればあるほど言語による造型力を感得できるともいえようか。感情がないキャラクターにこそ、実は感情移入しやすいのである。
藤田貴代氏の上演台本と演出による『ロミオとジュリエット』を観ればわかる。ロボットのようなアンドロイドのような動きの少女たち、彼女たちの棒読みの台詞、そしてシェイクスピアから抽出された特徴的な台詞のリフレイン、それらがあいまって、いつしか、あなたは、若い恋人たちの逃れられぬ過酷な運命、そして二人のつかのまの愛に、涙するにちがいない。泣けるはずのないパフォーマンスに、あなたは、いや私は、ほんとうに、真実の涙を流すだろう。
嘘だと思うかもしれないが、騙されたと私を罵倒するつもりで、どうか配信を観ていただきたい。シェイクスピアは、こんなにも悲しい運命を戯曲として書き上げていたのかと驚くはずである。
2023年11月18日
配信の『ロミオとジュリエット』二編 2
posted by ohashi at 10:16| 演劇
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