映画館でみそびれた映画で、配信になったので視聴。評判どおりの素晴らしい映画だった。
マイケル・サルノスキ監督の長編映画第一作(2021)で、ニコラス・ケイジを主役に迎えた低予算映画。最終的に1時間分をカットして1時間30分の映画になったということだが、本来なら映画的に語られてもおかしくない細部――つまりそれが芸術系映画への途を開いたかもしれない――が削られたぶん、展開が早く全体としてコンパクトな印象を受けた。また低予算であるために、訓練された豚を使うことができなかったともいわれている。
トリュフ豚を使って森でトリュフを採取し、仙人のような生活をしている男(実は元天才シェフ)の男が、謎の一団に襲われ貴重な豚を盗まれてしまう。怒りにかられた男は豚をさがしに街に出るが……。という話は、ある映画を連想させる。
Part 1:ジョン・ウィックそう今年シリーズ4作目『ジョン・ウィック:コンセクエンス』が公開された〈ジョン・ウィック・シリーズ〉の第1作『ジョン・ウィック』は、死んだ妻との絆でもあった愛犬を殺されて復讐に走るという映画だった。
ジョン・ウィック/キアヌ・リーヴスは引退した元殺し屋。愛する妻は死んでいる。愛犬がいる。そして謎の集団に襲われ高価な愛車フォード・マスタングを奪われ、犬は殺される。また敵方においては父親と息子との関係が重要になる。
ロビン・フェルド/ニコラス・ケイジは引退した元シェフ。愛する妻は死んでいる。豚を飼い、トリュフを採集している。そしてトリュフとトリュフ豚目当ての謎の集団に襲われ、豚を奪われる。またここでも敵方の父親と息子との確執が重要になる。
ここで観客は、ニコラス・ケイジが、ジョン・ウィックのように愛豚を奪った集団に制裁を下し豚を取り戻すだろうというと期待する(実際、私は映画の半ば過ぎまでそう期待していた)。しかしニコラス・ケイジは暴力をいっさいふるわない。映画の中で、ケイジは、取り壊されたホテルの地下に残っているホールで秘密裏に催されている賭けファイトに参加して情報を得るのだが、このファイトは、後ろ手に組んだ参加者が、殴られても一切抵抗せず、KOされるまでに1分以上耐えられるかどうかで勝敗が決まるというもの。ニコラス・ケイジは殴られっぱなしだが1分耐えて豚の居場所に関する情報を手に入れる。このエピソードが物語るように、ニコラス・ケイジは、暴力を加えられこそすれ、絶対に暴力をふるわない。そこがジョン・ウィックと違うところである。
ちなみに山中でトリュフ狩りをするために豚を飼ってかわいがっていると思われるのだが(実際そうであろうが)、ただ豚は頭のいい動物で、犬や猫と同様にペットになるという話をどこかで読んだことがある。豚は本来はきれい好きの動物であり、家の中で飼うこともできるとも読んだ。ニコラス・ケイジと豚との関係は、たんにトリュフ狩りのためだけではない。
実際、映画の中でニコラス・ケイジは豚がいなくてもトリュフを自分ひとりで探すことができると語っている。豚を必死で探すのは、トリュフのためではなく、豚への愛だと(ちなみに豚は雌豚なのでSheとして語られる)。ニコラス・ケイジと豚はペットいやそれ以上の絆で結ばれていたのだ。
ジョン・ウィックは、元殺し屋であり、その超人的な殺しの技能をつかって復讐をはたす。これに対しニコラス・ケイジは、暴力にうったえないし、復讐もしない。まったく正反対の生きざまと行動であるのだが、元シェフであった彼は、その超人的な料理テクニックを活かして敵に対処するという点において、ジョン・ウィックと似ている。ジョン・ウィックとニコラス・ケイジの関係は、たんに暴力と癒し、陰と陽、生と死、正と負との対立関係ではなく、似ているところもある。二人の関係は脱構築的である。あるいは重なり合っている。
脱構築などという、そんな現代批評用語(デリダの)を使って映画の物語を語って何が嬉しいのかといわれそうだが、実はdeconstructed(脱構築された、脱構築的)というのはこの映画のキーワードいやキーコンセプトのひとつである(「砕かれた、分解された、碾かれた、すりつぶされた」というような意味としても)。
実際、章のタイトルにも、また会話のなかにも出てくる。またニコラス・ケイジがレストランで食べるホタテガイの料理名はthe deconstructed scallop である(なんと訳してよいかわからない)。
Part2:エウリディケー日本大百科全書(ニッポニカ) における「エウリディケ」Eurydicēの説明:
ギリシア神話の樹木の精で、楽人オルフェウスの妻。トラキアの野でアリスタイオスに追われて逃げる間に、毒蛇にかまれて死んだ。オルフェウスは、妻を慕うあまり冥界(めいかい)に下り、音楽で地下の神々の心を和らげ、地上に出るまで後ろを見ないという条件で妻を連れ戻す許可を得た。しかし、地上に出る寸前にがまんができなくなったオルフェウスは振り返り、その瞬間エウリディケはふたたび冥界に引き戻された。
つまりオルフェウスとエウリディケーの神話では、エウリディケーは樹木の精であり森がその棲み処である。ニコラス・ケイジは豚と森のなかで仙人のような暮らしをしているのだが、それはまた死んだ妻の霊が宿る森のなかで暮らす、あるいは死んだ妻への追憶のなかで生きていることを意味している。オルフェウスといえば、またその音楽で動物たちと交流し、冥界の神々たちを慰めていた。ニコラス・ケイジもオルフェウスである。音楽ではなく料理で癒しを与えるところの。
オルフェウスの死んだ妻は二度死ぬ。一度目は、アリスタイオスに追われて逃げているときに毒蛇にかまれて。だが彼女は冥界に連れ去られそこで「生きている」。そしてオルフェウスが、彼女を冥界から現世へと連れ戻そうとして……。
ニコラス・ケイジの妻がどうして死んだのか、あるいはなぜニコラス・ケイジが愛豚を奪われるのか、その理由が判然としないという感想がネット上にみられた。確かに判然としないのだが、なんとなく理由はわかる。なんとなくわかるだけでよいと思うのだが、エウリディケーの神話を参照して、出来事のなかで失なわれた環を補完することもできる。
神話におけるアリスタイオスに相当するのは、町の外食産業を牛耳っている黒幕ダリウス/アダム・アーキン(アラン・アーキンの息子で、父親にそっくりだった)である。このダリウスとニコラス・ケイジとは、ケイジの妻をめぐってライバル関係にあったのかもしれない。ニコラス・ケイジに敗れたかたちになったダリウスは、ニコラス・ケイジの妻を殺したとは思わないが、復讐のためにニコラス・ケイジにとって最愛の豚を盗むことになる。トリュフ狩りに使う豚はまた、ダリウスの息子のトリュフ売買にも貢献していることから、息子の商売を邪魔するためでもあった。
あるいは町の外食産業だけでなく市政をも牛耳り怒らせると怖いダリウスは、現世ならぬ冥界を支配するハデスの面影がある。そもそもニコラス・ケイジの豚探しは、冥界紀行あるいは地獄めぐりのイメージがある。実際、ダリウスの妻は自殺するのだが、生命維持装置をつけられて病院で植物状態のまま生きながらえている。ダリウスには妻の死をコントロールする冥界の王ハデスのイメージもある。
そしてこのダリウス=ハデスと対決するニコラス・ケイジは、さながらハデスの前で音楽をかなでるオルフェウスである――ニコラス・ケイジの場合は、元シェフという設定なので、その腕前で料理をふるまう。かくしてオルフェウス=ニコラス・ケイジは、連れ去られた豚の消息というか運命を知ることになる。
オルフェウスは冥界の王ハデスのもとから妻のエウリディケーを現世に連れて帰る許可をえる。不思議なことに、エウリディケーは、冥界にいるのだから死んでいるのだろうが、冥界で生きているようにもみえる。彼女がオルフェウスとともに帰る途上、神話によればオルフェウスは、約束を破り妻のほうをふりかえったために、妻エウリディケーは冥界にとどまるしかなくなる。彼女は二度死ぬとも、永遠に冥界で生きることになるともいえる。エウリディケーは生きた死人だし、死せる生者である。エウリディケーの存在は、生きているでもなく死んでいるでもなく、なんどもよみがえり、なんども死ぬ、脱構築状態にある。
なお、先のファイトクラブもどきの賭けファイトのあとでニコラス・ケイジは、フィンレイという料理長が経営している人気の高級料理店を紹介される。そのレストランで、例のthe deconstructed scallopを供されるのだが、そのレストランの名前は「エウリディケーEurydice」。給仕の女性の制服にもその名前のロゴが記されている。エウリディケー神話は、私のたんなる思いつきではなく、映画そのものがメッセージの一部として発信しているものなのだ。
Part 3:シュレジンガーの豚映画のなかでニコラス・ケイジの衝撃的な発言の一つが、先に触れた、豚はいなくともトリュフは自分で探せるので、なにも豚を奪われても困らないのだが、それでも豚を探すのは、豚への愛だからというもの。そしてもうひとつは、もし自分が豚を探しに出なかったなら、彼女は心のなかで生きていただろうというもの。
豚は雌なので豚探しがエウリディケーを探して冥界に赴くオルフェウスの旅と重なる。そして豚の運命が映画の終わり近くでわかるまで、豚は生きているか死んでいるかわからない決定不可能な状態にある。またもしニコラス・ケイジが豚を探しに山を下りなければ、豚は彼の心のなかで永遠に生き続けていたかもしれない――あるいは死んでいるかもしれないという思いのもと、確証がないために、生きているだろうと思いつつ。
これは「シュレディンガーの猫」と呼ばれる思考実験で生じる状態とよく似ている。
「シュレーディンガーの猫Schrödinger's cat」という項目でWikipedia は、それを「1935年にオーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガーが発表した物理学的実在の量子力学的記述が不完全であると説明するために用いた、猫を使った思考実験」と説明している。
項目の記述の一部を引用すると:
蓋のある密閉状態の箱を用意し、この中に猫を1匹入れる。箱の中には他に少量の放射性物質とガイガーカウンター、それで作動される青酸ガスの発生装置がある。放射性物質は1時間の内に原子崩壊する可能性が50%であり、もしも崩壊した場合は青酸ガスが発生して猫は死ぬ。逆に原子崩壊しなければ毒ガスは発生せず猫が死ぬことはない。「観測者が箱を開けるまでは、猫の生死は決定していない」とされている。原子がいつ崩壊するのかは量子力学的には確率的にしか説明することができない。観測者が見るまでは、箱の中の原子が崩壊している事象と崩壊していない事象は重なり合って存在している。観測者が確認をした瞬間に事象が収縮して結果が定まる。シュレーディンガーはこれを「猫の生死」という事象に結び付け、「観測者が箱の中身を確認するまでは、猫の生死は確定しておらず(非決定)、観測者が蓋を開けて中を確認した時に初めて事象が収縮して、それにより猫の生死が決まるとして、箱を開けるまでは、生きている猫の状態と死んだ猫の状態が重なり合って存在している」という意味に解釈した。
これが量子力学とどのように関係づけられるのかは、専門家の説明にゆだねるしかないが、生きているか死んでいるかわからない、生と死が重なり合っている状態は、ごくふつうに起こる。「箱を開けるまでは、中の状態がどうなっているかわからない」というのは、あたりまえすぎる陳腐な定理か、それともそこに深い真実が隠されているのかどうか、なんともいえないが、ただ蓋を開けるまではわからず、生と死、あるいはそれに類する何らかの多比的状態が重なり合うことは、ごくふつうに起きている。
さらにいえば蓋があかないことは往々にしてある。シュレジンガーの猫は、蓋があかないかぎり、永遠に生きているともいえるし、死んでいるともいえるし、生と死が重なり合っている状態だともいえる。蓋など開かないのではないか、箱を開けてみることなどできないのではないか。あるいのは、ただ重なり合い、脱構築状態だけではないのか。
ニコラス・ケイジが奪われた豚を探すしている間は、また首謀者から真相を聞き出すまでは、豚は、生きている状態と死んでいる状態とが重なり合っていた。つまり脱構築状態にあった。
おそらくニコラス・ケイジの死んだ妻も、彼のなかでは生きていると同時に死んでいる。あるいは彼の宿敵であるダリウスの妻も、自殺をはかったあと生命維持装置によって植物人間化して生かされている。彼女は生きている屍であり、死んでいる生者でもある。だが、生きているのか死んでいるのかわからない、あるいは生きてもいるし死んでもいる脱構築状が人間を生かす原動力ともなっている。ニコラス・ケイジは生きているか死んでいるかわからない豚を探すことで隠遁状態のトリュフ狩人からシェフへと回帰する。宿敵ダリウスもまた、妻に生死をさまよわせることで、冥界を統べる魔王のように市政の黒幕として生きることになる。
いや、ニコラス・ケイジもダリウスも、実は、愛する者を失うことで、もう死んでいるのかもしれない。それでも彼らが生きているとしたら、彼らもまた生命維持装置を付けられた使者かもしれない。
そう、私たちは誰もがシュレジンガーの猫である。『PIG/ピッグ』は、シュレジンガーの豚を出現させることで、そのことを伝えくれている。
posted by ohashi at 15:09|
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