2023年11月29日

『翔んで埼玉~琵琶湖より愛をこめて~』


前作以上に荒唐無稽性と県民性へのいじりがパワーアップしていて、しかも、GACKTとからむ二階堂ふみも杏も、ともに男性の役であり、前作でも千葉の海岸が舞台になるときはそうだったが、今回も、和歌山白浜、そして琵琶湖と水にまつわる物語ともなっていてクィアであることはまちがいない。クィア性がアップしたかどうかわからないが、わかりやすくなってはいる。

私は埼玉県在住だが、前作のとき、千葉県出身という人から、千葉県民としては、これまでもこれからも埼玉県民に負ける気がしないといわれたとき、それはそうでしょうと賛意を表明した記憶がある。私は埼玉県で生まれ育ったわけではないので、埼玉県がどんなにディスられても面白がることができる、つまり笑っていられる。

ちなみに奈良県出身の人とリモートで会う機会があったのだが、雑談で、今回の映画の内容を紹介すると、奈良が、和歌山や滋賀と共闘させられるのは不愉快みたいで、和歌山・滋賀といった最底辺と奈良をいっしょにするのはおかしいと憤慨されていた。「京阪奈」という地域や呼称があるくらいで、また歴史の古さで京都をマウントできるのは奈良だけだと熱く語っていた。私は関西圏の詳しい事情は全く知らないので、文句は、どうか映画のほうに言ってほしいと伝えておいたのだが。

映画.COMでの映画紹介の一部を引用する
東京都民から迫害を受けていた埼玉県人は、麻実麗率いる埼玉解放戦線の活躍によって自由と平和を手に入れた。麗は「日本埼玉化計画」を推し進め、埼玉県人の心をひとつにするため、越谷に海を作ることを計画。そのために必要な白浜の美しい砂を求めて和歌山へと向かう。そこで麗は、関西にもひどい地域格差や通行手形制度が存在しているのを目の当たりにする。そして大阪のめぐらせた陰謀が、やがて日本全土を巻き込む東西対決へと発展していく。

この大阪の――具体的には片岡愛之助演ずるところの大阪府知事の――めぐらせた陰謀とは、大阪の粉ものを日本全土にばらまき、日本人を粉もの中毒にする(その症状は、粉もの料理を食べると、大阪弁しかしゃべれなくなり、最終的に廃人になる)ことで、日本全土を征服するもの。

これってメディではとりあげていないが、またとりあげるとやばすぎるのかもしれないが、この映画における狂信的で悪辣な大阪府知事の日本征服計画は、日本維新の会の躍進と重ね合わせてみることができる。

大阪都構想を打ち上げたローカルな政党がいまや国政に参加する全国区の政党となった。

しかも日本維新の会は、何度も失策・失政にまみれていても、支持率を失わないため、まるで新興宗教のようだと言われている(特定の宗教団からの支援を受けているというようなことではなくて、あくまでもイメージ上のこと)。

はたせるかな、この映画で大阪府知事は、なにやらいかがわしい宗教儀礼を主催し、信者たちをトランス状態に置くまでになっている。

日本維新の会について、日本人あるいは関東人が抱く負のイメージが、荒唐無稽な冗談という口実のもと(たとえば日本全土に白い粉をばらまく秘密兵器が通天閣ミサイルなのである)、表面化しているように思われる。それはまた日本維新の会のバックにある、名状しがたい闇(そこにはイメージだけではない宗教団体の影もちらつく)の不気味さをも連想させる。

『翔んで埼玉~琵琶湖より愛をこめて~』は、日本維新の会に対する恐れとおののきを、関西人をディすりながら展開する荒唐無稽な設定のなかに、見事に(と私は思うのだが)溶かしこんだ映画作品だと私は確信している。
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2023年11月28日

『デシベル』

ファン・イノ監督の2022年韓国映画。テロリストに翻弄される韓国海軍将校という話かと思っていたら、そうなのだが、同時に、潜水艦映画でもあった。潜水艦映画というジャンルとしても、ある意味、王道の作品であり、また、爆弾魔との闘いというジャンルでも王道の映画ではないかと思う。

繰り返すが潜水艦映画でもあった。過去に起こった潜水艦での事故の真相が徐々に明らかになる展開だが、それと並行して爆弾テロリストの巧妙な計画を未然に防ぐ主人公の決死のアクションが展開する。潜水艦事故の中心人物であり乗員を救ったヒーローでもある主人公がテロの標的とされたことで、ふたつの流れが融合する。基本は二者択一である。部下の乗組員を救った副長はまた、同じ数の部下を殺した責任者でもあった。

これまでの潜水艦物の映画のなかで有名な『深く静かに潜航せよ』(1958)では艦長(クラーク・ゲーブル)と副長(バート・ランカスター)が仲が悪かったというか対立する。『クリムゾン・タイド』(1995)では艦長(ジーン・ハックマン)と副長(デンゼル・ワシントン)との関係は険悪化して互いに解任しあう。

艦長CaptainあるいはSkipperと、副長Commanderとの関係は、学校でいうと校長と教頭との関係で、教員を束ね、また細かな指示を出すのは教頭/副長である。日本語で「副長」だが英語ではCommanderつまり司令官である(もちろんCommanderには役職のほかに階級としての意味もあるが)。教頭/副長は司令者である。いっぽう校長のほうは、良い意味でも悪い意味でお飾りで、対外的に学校を代表し、学校運営を統括するのだが、現場の司令官ではない。教員の筆頭でナンバー・ワン教員の教頭ではない。ちなみに『スタートレック』でカーク船長がナンバーワンと呼んでいるのは副長のミスター・スポックのことである。

『レッド・オクトーバーを追え』では、〈レッド・オクトーバー〉艦がアメリカに亡命する際に、それを阻止すべくロシア側の潜水艦が魚雷を発射するが、敵味方識別装置のせいで魚雷は自軍の潜水艦を回避するという場面があったように思うが、映画『デシベル』ではそれがどうなっているのかちょっとよくわからない。

しかし艦長と副長の仲の悪さとは別に『デシベル』と結びつくのはキャスリン・ビグロー監督の『K-19』(2002)である。原子炉事故を起こしたソ連の原潜を扱うこの実話に基づく映画は、冷戦下の複雑な国際情勢のなかで多くの若い乗組員の犠牲によって事故を処理した艦長の苦悩が描かれるが、映画の最後は、亡くなった乗組員たちの墓の前での艦長と生き残った乗組員たちの悲しくも感動的な再会であった。『デシベル』と似ている【そういえば『K17』でも艦長(ハリソン・フォード)と副長(ニーアム・リーソン)は対立していた。】

もちろん似ているのは再会のところだけではない。もっと根幹にあるテーマ。誰を救い、誰を犠牲にするかという困難な選択がある。

いわゆるトロッコ問題である。日本語では「トロッコ問題」だが、英語ではTrolley Problem――これは路面電車問題である【実際に、トロッコが来ても轢かれたら死ぬかもしれないが、路面電車のほうが分岐路とか犠牲者の数という問題に直結するのだが。つまりどこかのバカがTrolleyをトロッコと訳したのだ。私の子供の頃には、トロリーバスというのが街を走っていた。】

Wikipediaによれば、
トロッコ問題(英: trolley problem)あるいはトロリー問題とは、「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という形で功利主義と義務論の対立を扱った倫理学上の問題・課題。【中略】
概要
前提として、以下のようなトラブルが発生したものとする。
線路を走っていたトロッコの制御が不能になった【手押し車のトロッコが制御不能になることはない。路面電車のこと】。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコ【路面電車っちゅのに】に避ける間もなく轢き殺されてしまう。【中略】
この時たまたまAは線路の分岐器のすぐ側にいた。Aがトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもBが1人で作業しており、5人の代わりにBがトロッコに轢かれて確実に死ぬ。Aはトロッコを別路線に引き込むべきか?【中略】
つまり、単純化すれば「5人を助けるために他の1人を殺してもよいか」という問題であり、功利主義に基づくなら1人を犠牲にして5人を助けるべきだ。しかし、義務論に従えば誰かを他の目的のためだけに利用すべきではなく、何もするべきではない。

Wikipediaの説明は、基本的に、これ以上進展はない。要は、1人を救うか、5人を救うかは数の問題であり計量化できる問題であり、理性の領域の問題だが、たとえば5人は私の知らない人たち、1人は私の家族であったら、これは理性の領域で処理できない感情の領域の問題となり、1人を救って5人を殺すという解答も出てくることになる。しかし理性と感情との二項対立は簡単に脱構築できる。理性的判断も実は感情に動かされているし、感情的判断は、その理性的原因を排除するものではない。

もうひとつ、この問題のやっかいなところは、正しい解答がないこと、二者択一が究極の選択となって成立しないことである。つまりこの場合、1人を選ぶか5人を選ぶかは決められない(5人だと自信をもって決められるのは功利主義者のバカである)。だから何もできないことが正解なのだが、この状況では事態は急を要している。路面電車が分岐点を通過する前に選択するしかない。そしてどの選択をしても、私は後悔するだろう。

私は人生においてここまで追い詰められたことはないが、私が5人を救い1人を殺す選択をしてても、その選択が正しかったかどうか、一生、悩み続けるだろう。おそらくその後の人生において私がすることは二つだけである。すなわち私は、分岐点でどちらの選択しても人を殺したことになるので、私は責任をとって自殺する。あるいは死にきれなければ私は神にすがる。神に祈る。たとえ神からの語りかけは一生ないとしても【これはまた信仰の始まりでもある】。

そうこの路面電車問題は、人間に答えは出せないのであり、神にすがるしかない。実際、この映画『デシベル』でも副長(コマンダー)は、44名の乗組員のうち半数が救われるようにくじ引きをする。くじ引きで誰が死ぬか生きるかは、偶然の結果ともいえるし、神による選択ともいえる。実際のところ、酸素の残量と救出にかかる時間を厳密に計算したら端数がでるはずである。しかし生きる者と死ぬ者とを半数にすることで公平性を確保すると同時に、二択という神による選択にゆだねるという意味が生ずるかもしれない【副長は最初から自分は死ぬ側に属することにすると公表することもできるが、それだと二択に人間の意志が入ることになるため、あくまでも神の選択(偶然)にすべてをまかせるために、それはしないということだろう――副長は最後にくじを引いて生存者の側になる】。

なお、ここで思い出すべきは、『デシベル』におけるテロリストは、毎回、爆弾を2か所に設置することだ。そのことを副長に告げる。どちらを助けるかは、副長の判断にゆだねられる。まさにトロッコ、いや路面電車問題である。

だが、艦内で問題が起きる。「弟」(血のつながった弟なのか、そうでない弟分なのかは、私が見た限り、よくわからなかったが、血はつながっていないだろう)が死ぬ側になり、自分が生きる側になった兄が、自分が死ぬ側になり弟を助けてほしいと懇願するのである――路面電車問題でいえば、コインの裏表(二択)で、5人を救うことに決まったとき、気が変わって1人を救うことにするようなものである。これは許されない。これをしたら公平性が失われる。神の意志にそむくことになる。また弟も自分もともに死ぬ側にまわると懇願しても、これも許されない。死ぬ側から誰が生きる側にまわるかというやっかいな問題も生まれる。偶然という必然性が恣意性によって破壊されることになる。そしてこれがこの映画における事件のはじまりだった。

ただ功利主義者の計算も、神の判断にまかせる二者択一も、冷たい方程式を招来する。それは人間を超越しているか、人間の顔をしていないのだ。ときには理性に感情的要素を付加してもよいのではないか。脳内の感情ネットワークを動員しない決断は、ほんとうにありうるのか【やや揶揄的にいえば、韓国映画で、感情ネットワークを介在させない決断は、絶対にありえない】、あるいは基本的構造は変えなくてもそこに余裕というか隙というか例外的要素をもぐりこませることはできるのではないか【韓国映画はいつもこれをしている】。これを副長はしなかった。そこから復讐劇がはじまる。生き残った乗組員による復讐、そしてジャンルの掟による復讐。

副長の行為は、もちろん、公正無私の判断であって、なんら責められるべきものではない。それが映画の最後に、生き残った乗組員たちから賞賛されるゆえんである。だが、同時に、感情的要素の折り込みを拒否したことに対して副長は謝罪もしていることは無視されるべきではない。そして原則か例外か。賞賛か謝罪か。この路面電車問題は、もう一段階上のレベルでも生じているのである。

そうこの映画は、進行途上に、分岐点がある。このまま行って、テロリストとの対決で終わらせるのか。それとも潜水艦事故による生存物語で終わられるのか。コインをトスして、どちらか一方のジャンルで終わらせることはできない。それができないまま、テロとの対決物と潜水艦物とは、重なり合っている。シュレジンガーの猫ではないが、終わるまで、この重なり合いはつづくだろう。そう路面電車問題は、人間に決断などできないがゆえに、生と死が重なり合っている状態を出来させる。5人と1人は、生きているとも死んでいるともどちらともとれる。路面電車は、分岐点に至るまでに、アキレスと亀のように、無限にある中間点を越えなければならず、永遠に分岐点に到達しそうにもないかのようだ。だからこそ、ふたつの路線を走る映画が生まれたともいえる。テロとの対決物と潜水艦物と。そしてテロとの対決物が主流になるかにみえて、潜水艦物も徐々に盛り返してきて、ふたつが融合するかにみえる。路面電車、あろうことか二つの路線を同時に走行するようになる。それがこの映画だといえなくもない。

そして最後に、だか決して些少なことではないこととして、言わずもがなのことかもしれないが、潜水艦物というは水の物語である。死んだ乗組員が埋葬されている丘の墓地は眼下に海を臨んでいる。韓国の潜水艦は女性隊員を載せないらしいのか、乗組員全員男性である。最初から潜水艦では乗組員たちがじゃれあっている。仲のよい男たち。そこに同性愛的なものをみないことのほうが鈍感だといわざるをえない。生者と死者に、男たちの絆を絶たれた悲しみと苦しみは、そこから激しい怒りを生み、復讐へとつながってゆく。テロリストは、その悲しみを癒すべく、多くの人間を道連れにしてみずから死を選び取る。路面電車問題は、二者択一のメカニズムによって男たちの絆、けっして切られることのない絆をたちきってしまっていたのである。
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2023年11月23日

『スラムドッグス』


タイトルは日本で勝手につけたもの。Slumdogというのは、犬のことではなくて人間のこと。『スラムドッグ$ミリオネア』(原題: Slumdog Millionaire)が初出らしいのだが。ちなみに原題にない$が日本語のタイトルに入っているのは、『クイズ$ミリオネア』をもじっているからだろう。

繰り返すがスラムドッグという犬の種類はない。スラム街にいる貧民がスラムドッグ。この映画の原題はStraysつまり「野良犬」ということ。「野良犬」もメタファーとして使われるが、野良犬はまた犬の種類でもある。

今年観た映画のなかでは、面白さと下品さでは最高(最低というべきか)の映画だった。Wikipediaのあらすじ紹介にはこうある。
ボーダー・テリアのレジーはある日、飼い主のダグに家から遠く離れた原野に捨てられてしまう。

ピュアなレジーはこれが投げられたボールを取りに行く、いつものゲームだと信じて疑わず、家を目指してさまよっていたが、そこで野良犬のリーダー的存在のボストン・テリアのバグと出会い、自分が捨てられたことを知る。

大好きな飼い主のダグが最低なヤツだということを知ったレジーはダグへの復讐を決意、バグとその仲間と共に珍道中を繰り広げながら街を目指す。

このあらすじ、最初からまちがっている。主人公のレジーは「原野」に捨てられてはいない。大都会の、どちらかといえばスラム街に近いところに置き去りにされる。そもそも原野に捨てられたりしたら、仲間の野良犬と出会うことはまれである。大都会の片隅なら、野良犬はいっぱいいる。

飼い主と離れ離れになった犬が、苦難を乗り越えて飼い主と再会するという物語を予想してはいけない。自分を捨てた飼い主に復讐すべくもといた家に帰ってくるという物語。飼い主は車で3時間のところにある大都会に行って捨ててくる。捨てられ、野良犬生活を余儀なくされても、わずかな手掛かりをもとに、また仲間の野良犬たちの助けもかりて、レジーは帰ってくる。だが感動的な再会などない。相変わらずクズで****男の元飼い主は、もどってきたレジーを殺そうとする。レジーは、そこで仲間の力も借りて、飼い主のペニスにかみつき、どうやら食いちぎったらしい。
【最後のエンドクレジット中に、入院中の飼い主の姿がうつる。医師から飼い主は告げられる、ペニスはつながりませんでした、と。え~F***k!となる。】

この復讐をとげるまでの犬たちのやりとりがなんとも下品で楽しい。下ネタ満載である。とりわけペニス・ネタとオナニー・ネタが多い。

ほかにも下ネタがある。たとえば終わりのほうで犬がセックスをしている。それをみている老夫婦(にみえる)のうち男性のほうが、「昔を思い出す」と女性に語ると、女性は「あら、あなた昔は犬とセックスをしていたの」と真顔で聞く。なんとかしてほしい、このくだらない下ネタギャグを。

映画会社のホームページには「大人のペット物語」とあるのだが、ちがう、これは「成人向けのペット物語」である。大人向けではなく、成人向け。実際PG12。まあ子供にみせてはいけない映画だが、吹き替え版をつくって、字幕版より吹き替え版のほうが上映回数が多い。ただし絶対に家族でみにいってはいけません。子供には絶対にみせないこと。

吹き替え版は、家族向けの映画と勘違いしたか、あえて家族向けのほほえましい映画として売り込もうとした映画会社の戦略で声優を多用したかったのかわからないが、字幕版でみるほうがいい。犬たちの気持ちは、すべてヴォイスオーヴァーなのだが、ジェイミー・リー・フォックスの語りは、くせの強い、いわゆる「黒人の」英語なのだが、聞き取りやすい。他の俳優たちの声も、まあ、犬の気持ちだからということもあるのかもしれないが、英語は鮮明である。

犬が飼い主の性格や習慣や履歴を語るものとして『僕のワンダフルライフ』とその続編『僕のワンダフルジャーニー』を挙げることができるが、どちらの映画にも飼い主役として出演しているデニス・クウェイドが、この映画にも顔を出している。またどちらの映画にも犬の語りを担当しているジョシュ・ギャッドが、本作にも犬の声を担当している。ただし、本作では、ほかの犬たちからは「ナレーション犬」だといわれている。そのナレーションのなかで彼が語るのは、飼い主がシリアルキラーで、庭に死体が三体埋まっているということ――怖すぎるわい。

とにかく、おすすめはしないが、面白い映画だった。できれば一人で見に行ったほうが、楽しめる。家族や子供とは絶対に行かないこと。ネットでは、ガールフレンドとは行かないようにという意見があった。
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2023年11月20日

『私はモーリー・カーニー』

原題はLa Syndicaliste(2022)。「組合活動家」ということである。

この組合活動家をイザベル・ユペールが演じている。

まず日本語のタイトルについて。ケン・ローチ監督のI, Daniel Blake(2016)の時がそうだったのだが、このタイトルを日本の映画会社は、『私はダニエル・ブレイク』と訳した。ほんとうにバカといってやりたい。「私、ダニエル・ブレイクは」とすべき。実際映画の中でも憤慨した主人公が、建物の壁に「私、ダニエル・ブレイクは、~に抗議する」と書くのだ。この抗議文が「私はダニエル・ブレイク」では間が抜けすぎていて意味をなさない。

「私はモーリー・カーニー」というのは、そもそも原題とは違うのだが、それを無視しても、映画のなかで彼女が聴聞会で宣誓するときの言葉である――「私、モーリー・カーニーは、~を話すことを宣言します」という。これが「私はモーリー・カーニー……」では間が抜けすぎている。

間抜けな映画会社のことはともかくとして、この映画、まず組合活動家として辣腕をふるう強い女性モーリー・カーニーを登場させる。だが、その彼女が会社の裏切りと不正を追及するようになると三人組の暴漢に襲われる。すると強い女性だった彼女が、弱くてもろい女性になってしまう。暴漢に襲われたことが自作自演であったと告白するまでになる。ここまでなら通常の映画物語の範疇である。だが死に体になった彼女だが、冤罪をはらすために起死回生の逆転劇にでる。ふたたび強い女として復活する。

ちなみに英語のタイトルはthe sitting duck(「格好の標的」、まさに「鴨」ということ)だが、そこにはlame duck(「死に体」)の意味もなんとなく込められている気がする。

この映画の問題は、演出にある。観客をミスリードすることに精力を注いでいて、何をしたいのかよくわからないのである。強い女性が迫害され攻撃され心が折れそうになるも周囲の支援とみずからの強い意志で復活するという最終段階までには、紆余曲折がありすぎる。

映画の冒頭で、彼女が暴漢に襲われたという通報が入る。なぜ彼女が襲われたのか、それまでの経緯が語られる。それは女性映画というよりも、良質なサスペンス・スリラーを思わせるものだ。彼女の組合活動家としての辣腕ぶりが中国と提携を結ぼうとする原子力電力会社(彼女はそこの労組の代表)の幹部の不興をかったらしいとわかってくる。またフランス政府の原子力政策とからんで、国家規模の犯罪であることが匂わされ、彼女が襲われたのも、触れてはいけない国家機密に抵触したからではないかという疑念がわいてくる。

残念ながら私は映画を観る前に、予備知識として、彼女が暴行を受けたのは自作自演だということを仕入れていた。これはネタバレ的な情報なので、簡単に示していい情報ではないはずなのだが、それに気づかずに、私は映画の筋書きをほぼ知っている気になっていた。

ただ自作自演について知らなくても、知っていても、映画そのものが、彼女の言動の不自然さや矛盾を示しはじめるため、観客としては、彼女の自作自演を疑わざるをえなくなる。

国家憲兵隊の捜査官(階級は曹長、黒目が異様に大きい)が彼女の自作自演を主張しはじめると、観ている側もやはりそうかと思わざるをえなくなる。彼女は暴行を受けた人間にみえないし、侵入者が残した証拠もなく、目撃証人もいない。国家憲兵隊は、彼女の自作自演と決めつけるが、観客もまたその判断に納得するほかはなくなる。私のように前もって予備知識がある観客はなおさらのこと。

そして彼女は自作自演であったと自白する。もう終わりにしたいと言って。

ところが、映画は、自作自演が自白によって確定してから、自作自演ではなかったかもしれない方向にぶれはじめる。操作や尋問に問題があったのではないか。また彼女の性格の弱さも強調される。そして以前にもレイプされた経験があったという観客にとっての初めての事実も出てくる。

しかも判決に不服なため彼女は控訴するのだが、最初の控訴では、なんの準備もなく、切り札もなく、訴えはあっさりと退けられる。この無為無策はなんなのか。よき理解者である夫もいながら、彼女はあまりにもボンクラすぎる。

しかも彼女にとって切り札がひとつあったことは観客にはわかる。実は、事件の前にころんで右肩を痛め、右腕を動かせなかったのである。医師にも診断してもらっている。彼女が車の運転もできず、夫に送ってもらったりしたこと。右腕が動かない状態で、自分を縛ることができないこと。なぜ、それを最初の尋問のとき主張しなかったのか、あるいは控訴で切り札として出さなかったのか不思議でしょうがない。いらいらするくらいだ。

最後の控訴審で、右腕が動かなかったことを、最初の弁護士が主張しても警察がとりあわなかったこと、それが弁護士の最終弁論で明らかになる。ならば最初の取り調べのときに、いかに警察の捜査や尋問がずさんなものだったのか、さらにはいかにして警察が、最初から自作自演と決めてかかり、事件の真相を闇に葬り去ろうとしたのかが示されてしかるべきだった。ところが、まるで警察の味方をするかのように、彼女の受け答えや姿勢や生活態度から、自作自演とみられてもしかたがないと主張するかのように、観客の反応をも誘導操作しているのは、なぜなのか。バカなのかとしかいいようがない。

そう彼女の自作自演という予備知識にしても、それは、観客をミスリードする罠でもあった。私はまんまとそれに騙されたのだが、ただサスペンスフルにしたかっただけという映画制作側の勝手で愚かな策略としたら、それは最初から面白い素材に下手に手を加えてだいなしにしていると言わざるを得ない。

だが、サスペンスフルにすればそれでいいというというのは、別の観点からもまちがっている。私たちが彼女の活動にいまひとつ共感できないのは、原発企業の労組を代表しているからである。この企業は、中国と提携して、100%中国製の原発を作ることによって、フランス人労働者を解雇することになり、それに反対して彼女は戦うのだが、原発大国のフランスでも、原発や原子力に対する忌避感が国民の間に根強いということも映画は伝えている。彼女が別種の企業の労組の活動家であったらよかったのにと思うのは私だけではあるまい。あるいは、この問題を掘り下げるべきではなかったか。サスペンスフルにする前に。

さらにいえば、中国経済はいまや失速しはじめ、イギリスなどは中国との提携をしぶり、一帯一路もイタリアは消極的姿勢に転じている昨今、中国との原発提携が国策としても問題含みのもので、今後、どのような失策なり欠陥を生むかわかったものではない。彼女への暴行事件と警察の見込み捜査は、国家の闇へとつながる、相当やばい事件であって、たんに、暴行事件の犯人が捕まっていないことを伝え、その黒幕なり陰謀について知らぬ存ぜぬではすまされないのではないか。

この映画に登場するアレヴァArevaは、いまは再編されてオラノOranoになったようだが、三菱重工と提携し、原発の汚染水浄化設備を日本にも提供している企業である。

この映画は、まさにイヴェント・ホライゾンである。この映画が語る事件の背後には、私たちが到達できない恐るべき闇がある。日本の原発事業も含む、原発政策の、光のとどかない闇、それがなんたるかはわからないのだが、それがあることを示す、イヴェント・ホライゾン映画ともいうべきものが、この映画ではないだろうか。だからこそ、なおのこと、つまらない演出で、真の恐怖をだいなしにしていると言わざるを得ない。
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2023年11月18日

配信の『ロミオとジュリエット』二編 2

もうひとつの『ロミオとジュリエット』の配信

「マームとジプシー」主宰の藤田 貴大氏の構成・演出による『ロミオとジュリエット』(2016年、東京芸術劇場 プレイハウス)の劇場録画が配信中。

ほんとうに恥ずかしいことながら、藤田氏の存在と演劇に気付くのが遅くなり、演劇専門の学生が藤田氏の「マームとジプシー」を知っていたのでさらに恥ずかし思いをしたのだが、その藤田氏が東京芸術劇場で公演した『ロミオとジュリエット』の録画が現在配信されている。ご覧になることを強くすすめたい。

私は劇場で観て衝撃を受けた。『ロミオとジュリエット』と銘打って松岡和子氏の翻訳を使っているが、シェイクスピアの作品を多少アレンジを加えながら最初から上演するというのではない。シェイクスピアの作品は解体される。台詞も前後関係を無視してピックアップされ、カギとなる台詞がリフレインされる。そうしたなかで死へと向かう恋人たちの悲劇が舞台の中に、いまとここの出来事として現前する。その静かな悲嘆となつかしくも不気味なちぐはぐな運動に圧倒された。

まず主要人物は女性(少女)である。男優も登場するが8割、9割は女性のパフォーマーである。彼女たちは、みな、メイド服というか、白と黒のゴスロリ衣装というか、少女のような、あるいは人形のようないでたちで登場し、台詞を発し、踊る。ただ、その台詞はずべて棒読みである。台詞に感情はこもっていない。共感なり感情移入を一切排除する徹底した棒読みの台詞である。

またすでに述べたように台詞には物語性が付着しない。特徴的な台詞が何度も何度も繰り返される――徹底した棒読みによって。

そんな芝居のどこがおもしろいのか。そんな勘定移入を配したパフォーマンスに感動などできるのか。と疑問に思われるかもしれない。

実はエモーションを配したパフォーマンスこそが、なによりもまずそこにエモーションを生むことを、この戯曲を通して体験できるのではないかと思う。

昔E・M・フォースターというイギリスの小説家が、その小説論『小説の諸相』のなかで、ラウンドなキャラクターとフラットなキャラクターという二分法を提唱したことがあった。フラットなキャラクターというのは紋切り型でステレオタイプの登場人物。小説が扱う、あるいは描くのは、これではなく、ラウンドなキャラクター――つまり奥行きや深みをもつ、複雑な性格付けをもつ登場人物――である。中世的な物語文芸では、フラットなキャラクターがうごめくだけであるのに対し、近代的な小説ではラウンドな――つまり立体的な――キャラクターが登場する。あるいはそうした人物を描くことになる。

だがこの区分は、近代的であっても、現代的ではない。モダンアートは、むしろフラットなキャラクターを使って何かをしようとするだろう。ちょうど近代絵画が、遠近法を捨てて、絵画の平面性・二次元性を強調することによって絵画芸術独自の立体空間を現出させたように、人物をフラットにすればするほど、その人物が逆に生きるような小説空間が生まれる。ポストヒューマンというか、人物が人間ではなくロボットみたいなれば、そのぶん人間性の真実がみえてくるということもあろう。言葉でいくら人物の人間性なり人間的要素を述べても、フラットなキャラクター(ロボットでもいい)から生まれる人間性ほどの説得力はもちえない。あるいはフラットであればあるほど言語による造型力を感得できるともいえようか。感情がないキャラクターにこそ、実は感情移入しやすいのである。

藤田貴代氏の上演台本と演出による『ロミオとジュリエット』を観ればわかる。ロボットのようなアンドロイドのような動きの少女たち、彼女たちの棒読みの台詞、そしてシェイクスピアから抽出された特徴的な台詞のリフレイン、それらがあいまって、いつしか、あなたは、若い恋人たちの逃れられぬ過酷な運命、そして二人のつかのまの愛に、涙するにちがいない。泣けるはずのないパフォーマンスに、あなたは、いや私は、ほんとうに、真実の涙を流すだろう。

嘘だと思うかもしれないが、騙されたと私を罵倒するつもりで、どうか配信を観ていただきたい。シェイクスピアは、こんなにも悲しい運命を戯曲として書き上げていたのかと驚くはずである。
posted by ohashi at 10:16| 演劇 | 更新情報をチェックする

2023年11月17日

配信の『ロミオとジュリエット』二編 1

11月17日より、NODA・MAP第25回公演『Q』: A Night At The Kabuki【←この表記でよいのか疑問だが】の配信がはじまった。ネット上のNODA・MAPでは、
2022年、東京・ロンドン・大阪・台北の世界4都市を巡るワールドツアーを成功させたNODA・MAP第25回公演『Q』: A Night At The Kabuki。初演時のオリジナルキャスト10名が再集結し、野田秀樹演出のもと世界に挑んだロンドン公演を現地撮影した舞台映像の本邦初公開、そしてNODA・MAP作品としては初の試みとなる世界配信が決定しました!

とあり、さらに
2組のロミジュリ(瑯壬生/愁里愛)を演じる松たか子、上川隆也、広瀬すず、志尊淳をはじめ、橋本さとし、小松和重、伊勢佳世、羽野晶紀、野田秀樹、そして竹中直人と世代もキャリアも異なる総勢10名の人気俳優陣が再び一堂に会し、英国ロンドン、サドラーズ・ウェルズ劇場での海外公演に挑みました。

とある。配信は11月30日まで。チケットは完売はないので、いつでも申し込め、30日までならいつでも視聴できる。舞台は観ていなかったので、11月17日正午からはじまった配信をさっそく視聴した。

恥ずかしながら予備知識ゼロで視聴したので、最初、どんな芝居なのわからず戸惑ったのだが、それもすぐにシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』だとわかった。これは私のような凡人でも途中からわかると思う。慧眼な人は最初からわかる。

若い二人と、中年になった二人がからみある。どうやら若い二人は死ななかったようで、中年になった二人が、とりわけジュリエット/が自分たちの運命を変えようと奔走する。

だが、こうした物語・歴史改変物というのは、結局変わらなかったということで悲劇性を増す結末を迎えることがふつうである。ネタバレになっても、観劇体験に影響はないと思うので記せば、結局、未来のロミオとジュリエットの努力にもかかわらず、若い二人は死を迎え、二人を記念した黄金の像が建てられる。だが二人は誰も知らないまま生きていて、よみがえる。二人の生存が知られてはまずい両家は、ジュリエットを尼寺に入れる。ロミオのほうは無名戦士となって従軍する――シベリアあるいは満州に。ロミオはシベリアのラーゲリに収容され日本に帰れぬまま、ジュリエットに手紙をしたためる。だが、その手紙は届かないとも届いたともいえず、手紙を受けとったジュリエットは、自分たちの過去の運命をかえるべく過去へとタイムリープする。そして冒頭につながるという趣向になる。

このアダプテーションがリアリティと説得力をもつのは、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』は、基本的に喜劇的構造をもっている――困難な状況を知恵と勇気で打開し最後にむすばれるという筋立てであってもおかしくない。喜劇を壊すことで悲劇が生まれているのだが、喜劇というのは、悲劇的要素を退けることで成立もするのであって、この芝居の随所に喜劇にも悲劇にどちらにもころぶ分岐点が多数ある。未来のロミオとジュリエットが過去の自分たちの運命を変えようとする設定は、こうした分岐点をあらわにしている。そしてこの分岐点こそ、この芝居の可能性の中心なのである。

2022年のロンドン公演での録画だが、それにしても、この作品自体が、2022年とみごとにシンクロしているのは不思議な感じがする。対立する両家の争いというのは、源氏と平家の争いというかたちに翻案されている。ロミオが平家の清盛の息子、ジュリエットが、源氏の頼朝の妹という設定である。思い出すのは2022年の話題の中心のひとつはNHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』だった。平氏と源氏の争いから北条政権の誕生へとつづく大河ドラマをなぞるように、この芝居も、平氏滅亡、そして源頼朝の政権へとつづく流れを出現させる。木曽義仲、巴御前も登場する。また権力を握った頼朝は、妹ジュリエットを北条義時(小栗旬が演じていた)に嫁がせようする(また頼朝の突然死――大河ドラマを復習している錯覚に陥る)。

と同時に後半(前半が1時間30分、後半が1時間。休憩も入ったのだろが、録画では休憩はカットされている)には、ロミオが、シベリアのラーゲリに収容されるのだが(鎌倉時代から20世紀の終戦直後へと物語の時空間は移動する)、ラーゲリからの手紙をというのは、映画『ラーゲリより愛を込めて』で扱われていたのと同じ趣向である。この芝居が映画をパクったのかと思ったのだが、ロンドン公演は9月で、日本では映画は2022年12月9日公開だから、映画のほうが後。ただそれにしても没収されてしまい、とどくことのない手紙を仲間が暗記して伝えるという設定を芝居と映画が共有している、あるいは芝居と映画がシンクロしているのは不思議【なおこれは、現在放送中の『SPY×FAMILY』と、Neflix配信の『クレージー・クルーズ』(坂元裕二脚本)が、ともに客船内を舞台としている、そのシンクロぶりをほうふつとさせるものがある】。とはいえ手紙の内容の暗記は、実際にあった出来事であり、それは映画の原作にもなった辺見じゅんのノンフィクション『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』が詳しく伝えているところでもある。だからパクリではない。

パクリではないどころか野田版の『ロミオとジュリエット』における独創性こそ評価されるべきだろう。そもそも届かなかった手紙というモチーフは、届く手紙のモチーフもふくめ、シェイクスピア劇に多い(シェイクスピアと手紙という研究書もある)。そしてこの芝居では、届かなかった手紙のモチーフが、なんとラーゲリから来た手紙と合体させられているのである。この合体と設定には作者の天才性をうかがわせるに充分なものがあるように思う。

ラーゲリはまた戦争とも結びつく。野田版『ロミオとジュリエット』は、戦争の時代、すなわち源平平合戦から鎌倉幕府への時代と、シベリア出兵や満州事変の時代を喚起して、二人の恋人たちの運命のバックドロップに戦争をもってきたことも特筆に値する。いやありふれた設定かもしれないが、現在時において戦争の影のない場所は地球上どこにもないのだから。

舞台中継の配信に、充分満足した私だが、それでもあえて苦言を呈すれば、乳母役の俳優が異次元の下手さで目立った。おそらく何らかの事情によってほかの俳優にやらせることができなかったと思われるこの乳母は、この乳母だけが演出家のチェックが甘いような気がした。野田秀樹氏がきびしくチェックしていれば、この乳母役の俳優(男性が演じている)に厳しくダメ出しをしていたはずである。この乳母役にかぎって野田秀樹氏の演出の冴えがみえないのは残念なことある。

posted by ohashi at 20:12| 演劇 | 更新情報をチェックする

2023年11月16日

思い出のディズニー長編アニメ

ディズニーの長編アニメはみんなに愛されている。その証拠に多くの日本人が、ディズニーの長編アニメを全部ではなくても、大半いやほとんどを見ていることはまちがいない。

と同時に、リアルタイムでどのディズニーのどの長編アニメ作品から感銘をうけたかは、人それそれぞれだろう。とりわけどの世代に属しているかにもよっても、印象に残っている作品は異なる。

『アナと雪の女王』が一番印象に残っている人もいるだろう。いや、私は『ムーラン』だ、私は『アラジン』だという人もいよう。世界初の長編カラー・アニメ『白雪姫』(1937、日本公開1950)をリアルタイムで観た人もいるだろう。

私の場合、印象に残っているのは『わんわん物語』(1955/日本公開56)、『眠れる森の美女』(1959/60)、『101匹わんちゃん大行進』(1961/62)の三作である。アーサー王伝説を扱った『王様の剣』(1963/64)はテレビで予告編を見た記憶があるが、映画館ではみていない。

正確に言うと『わんわん物語』も映画館ではみていない。ただ『わんわん物語』の絵本(アニメ映画の画面を印刷したカラーの絵本)が、どういうわけか我が家にあって、子供の頃の私は、それを毎日とはいわないが、暇があれば見ていた。

『わんわん物語』の本編は、のちにテレビかなにかで見たのだが――またその時は原題がLady and the Tramp(お姫様と浮浪者・野良猫)というのにも驚いたが――、暇さえあれば観ていた絵本のなかのある場面がいつも気になっていた。

二匹の猫が一本のスパゲティを両端から食べ進んで最後にキスをするという、このアニメで最も有名になった場面なのだが、子供の頃の私は、一本のスパゲティの両端を二匹の犬がくわえている場面をみて、いったい何を食べているのかと、不思議に思ったのである。

当時、日本にもスパゲティは入ってきていたはずだが、庶民や貧乏人の食卓に出されることもなく、また街のほとんどのレストランにおいてメニューに入っていなかった。だから、麺類のようだがうどんでも中華麺でもないこれはなんだとその絵本を見るたびに不思議に思っていた。

結局我が家でも母親がスパゲティ料理を作るようになって疑問は氷解した。今にして思えば、それはスパゲティ・ミートボールであった。

ちなみにWikipediaの「スパゲッティ・ウィズ・ミートボール」の項目には、映像作品への登場というセクションで、
『わんわん物語』
主人公の犬のカップルがイタリアン・レストランにてスパゲッティ・ウィズ・ミートボールを食べている背後で、シェフがバンドネオンを弾きながら挿入歌「ベラ・ノッテ(Bella Notte)」を歌うシーンが存在する。

という記述がある。また
『ルパン三世 カリオストロの城』
ルパン三世と次元大介が、レストランにて山盛りのスパゲッティ・ウィズ・ミートボールを奪い合うように食べるシーンが序盤に存在する。

という記述もあるが、『ルパン三世』のこの場面は、『わんわん物語』に影響を受けたものだろうと私は考えている。

『眠れる森の美女』は子供の頃の私がはじめて映画館でみたディズニーの長編アニメ。もちろんミッキーマウスやドナルドダックなどはテレビでも見ていたのだが、長編アニメはとにかく初めてで、唖然としてスクリーンに見入っていたことを覚えている。実写版はつくられていないが、21世紀になって『マレフィセント』(2014,2019)が創られて、昔を思い出した。

また原作はペロー童話で、バレー組曲もあるこの『眠れる森の美女』だが、そもそもの原作が『ペンタローネ(五日物語)』であることに気付いたのは、けっこう最近のこと、マッテオ・ガローネ監督『五日物語――3つの王国と3人の女』(2015)を映画館でみたからである。『眠れる森の美女』の原型『太陽と月とターリア』は5日めの5番目の物語。ガローネ監督の『五日物語』には、この「太陽と月とターリア」は入っていないが、とにかく映画は不気味でそれでいて美しかった。

ガローネ監督の映画としては『ドッグマン』(Dogman、2018)が印象的で、登場する巨大な犬(本物)がいまもなお脳裏から離れないが、私が子供の頃のディズニーアニメは、『わんわん物語』ではじまり『101匹わんちゃん』で終わりをむかえていた。

犬を飼ったことはないのだが、ディズニー長編アニメでは犬に縁があった。『101匹わんちゃん』は、20世紀にすでに実写版がつくられ、21世紀になってからは悪役クルエラを主人公とした実写版(『クルエラ』)もつくられたが、101匹の犬を登場させる実写版はたいへんだったと思うものの、それ以上にたいへんなのはアニメ版で、全編にわたって登場する無数のダルメシアンに黒い斑を書き入れるという気の遠くなるような作業を余儀なくされたのである。

むしろその異次元のたいへんさを強調するためにダルメシアンを登場させる長編アニメをつくったのかもしれないが。

『わんわん物語』『眠れる森の美女』『101匹わんちゃん大行進』――この三作品で、子供の頃の私のディズニーアニメとの付き合いは終わる。その前後の作品は、ほぼすべてのちにテレビとかビデオ、DVDそして21世紀には映画館でもみることになったが、子供の頃はその三作しか見ていなかった。母親が病気になり映画館に連れて行ってくれる大人がいなくなった。また私自身、中学生、高校生となるにしたがってディズニー・アニメどころではなくなったのだが。

ともあれディズニーの長編アニメ映画のそのほとんどを見ている人は多いと思うのだが、そのなかに、子供時代の思い出となっている作品がいくつかあるはずである。まあ、それで歳がわかるというメリットあるいはデメリットもあるのだが。

【付記 『わんわん物語』は実写版が創られていたことがわかった(2019)。ディズニーのリメイク実写版としては初めて劇場公開されず、ストリーミングサービスのみでの公開。残念ながら私は観ていない。】
posted by ohashi at 14:23| コメント | 更新情報をチェックする

2023年11月10日

大学に教諭はいない

以下の記事があった。
日刊スポーツ新聞社  2023年11月10日
ひろゆき氏「ざまぁ!」と罵倒 わいせつ行為で懲戒免職となった元教諭の巨額退職金訴訟記事うけ
「2ちゃんねる」開設者で元管理人の「ひろゆき」こと西村博之氏(46)が9日、自身のX(旧ツイッター)を更新。わいせつ事件で懲戒免職になった元教諭が起こした訴訟をめぐる記事を引用し、痛烈な罵倒コメントをした。

ひろゆき氏は、女子生徒へのわいせつ行為で懲戒免職処分となった県立高校元教諭男性が、巨額の退職金不支給が不当として提訴したが敗訴したとする報道を引用。それに対し「ざまぁ!」と短いワードながらも強い語調で記した。【以下略】

この記事の内容についてどうこういうつもりはない。確認すべきは高校には教諭がいることである。Wikipediaによる「教諭」の項目を一部引用すると――
教諭は、公立学校の場合、教員採用試験の合格を通じて採用される。その他の学校の場合は、学校の設置者の定めるところにより採用された、正規の教員であり、各学校の種別に対応する教員免許状の普通免許状または特別免許状を有していなければならない。また、教諭の職務を助ける職としては、助教諭がある。

原則として教諭をおかなければならないとされる学校は、就学前教育、初等教育、中等教育を行う学校である。具体的には、幼稚園(広義的には認定こども園を含む)、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校が該当する。

つまり大学には教諭はいない。私も長く大学教員をしてきたが、大学内で大学職員を指す言葉として「教諭」というのは一度も聞いたことがない。

ところが以下の記事では大学に教諭がいたことになっている。
へずまりゅう、東大出禁に 学食めぐりにはまるも「大きな声出したら教諭が集まって」
日刊スポーツ 2023年11月9日

元迷惑系ユーチューバーのへずまりゅう(32)が9日までに、X(旧ツイッター)を更新。東大を出入り禁止になったことを明かした。

へずまは「東京大学を出禁になりました。最近安くて美味い大学の学食巡りにハマっていてほぼ毎日有名な大学に昼ご飯を食べに行ってます」とつづり、パスタやカツ丼、カレーライスの写真をポスト。「ある学生からファンサを求められて大きな声を出したら教諭が集まって来て強制的に出禁にされました」と報告し、さらに「有名人がボランティアで学生楽しませてやってんのにクソ馬鹿だよな」と持論を記した。【以下略】

ただし「教諭」というのはへずまりゅう氏の発言のなかの言葉なので、制度と常識を知らないへずまりゅう氏のあくまでも誤用なのだが。それにしても学食で大声をあげたら「教諭」があつまってきて、出禁にされたというのは、どういう子供じみた妄想なのだろう。

へずまりゅう氏は大学卒業者のくせに、そのストーリーは、「教諭」という言葉遣いからもわかるように、大学での出来事とは思えない。学食で大声をあげて不審者とみなされて追い出されたというのは、まるで高校における出来事のようにしかをみえない。だが、こんな嘘はAIだって恥ずかしくて作らないだろう。

東大内には学生が食事できる食堂・レストランは複数ある。またキャンパスも複数あるため(せめて駒場か本郷かくらいははっきりさせろ)、「東大の学食」というのは曖昧過ぎて情報価値がない。またかりにそこで騒いだりしても「教諭」が集まることはなく、職員か警備員につまみだされて終わりだろう。実際には、そんなことでつまみ出すことすらしないとは思うのだが。東大は入構者や学食の入場者をいちいちチェックなどしていないから(受験などの特別な場合でないかぎり)、出禁措置などということもありえない。

もちろん確かな情報をもっているわけではないから、へずまりゅう氏が語ることは真実だが、ただ舌足らずとか表現が稚拙で、まるで嘘のようにしか聞こえないということかもしれない。

ちなみに次のような記事もあった。

へずまりゅうさん「東大出禁」は本当か? 東大広報課「そのような事実は確認していない」
2023年11月10日 12時10分 弁護士ドットコム

元迷惑系ユーチューバーのへずまりゅうさんが11月8日、「東大出禁にされた」とエックス(旧ツイッター)に投稿し、メディアで取り上げられるなど、物議を醸している。

投稿には、大学の学食めぐりをしているというへずまりゅうさんが、東京大学の学食を訪れたことや、学生に求められて大声を出したら「教諭」(原文ママ)が集まってきて、「強制的に出禁にされました」などと書かれていた。

この投稿について、弁護士ドッドコムニュースが東大に取材したところ、「そのような事実は確認しておりません」と否定した。

これが真相ではないだろうか。この記事では「教諭」という表記がおかしいので、「(原文ママ)」という但し書きがあることにも注意してほしい。
posted by ohashi at 15:47| コメント | 更新情報をチェックする

2023年11月09日

『PIG/ピッグ』

映画館でみそびれた映画で、配信になったので視聴。評判どおりの素晴らしい映画だった。

マイケル・サルノスキ監督の長編映画第一作(2021)で、ニコラス・ケイジを主役に迎えた低予算映画。最終的に1時間分をカットして1時間30分の映画になったということだが、本来なら映画的に語られてもおかしくない細部――つまりそれが芸術系映画への途を開いたかもしれない――が削られたぶん、展開が早く全体としてコンパクトな印象を受けた。また低予算であるために、訓練された豚を使うことができなかったともいわれている。

トリュフ豚を使って森でトリュフを採取し、仙人のような生活をしている男(実は元天才シェフ)の男が、謎の一団に襲われ貴重な豚を盗まれてしまう。怒りにかられた男は豚をさがしに街に出るが……。という話は、ある映画を連想させる。

Part 1:ジョン・ウィック

そう今年シリーズ4作目『ジョン・ウィック:コンセクエンス』が公開された〈ジョン・ウィック・シリーズ〉の第1作『ジョン・ウィック』は、死んだ妻との絆でもあった愛犬を殺されて復讐に走るという映画だった。

ジョン・ウィック/キアヌ・リーヴスは引退した元殺し屋。愛する妻は死んでいる。愛犬がいる。そして謎の集団に襲われ高価な愛車フォード・マスタングを奪われ、犬は殺される。また敵方においては父親と息子との関係が重要になる。

ロビン・フェルド/ニコラス・ケイジは引退した元シェフ。愛する妻は死んでいる。豚を飼い、トリュフを採集している。そしてトリュフとトリュフ豚目当ての謎の集団に襲われ、豚を奪われる。またここでも敵方の父親と息子との確執が重要になる。

ここで観客は、ニコラス・ケイジが、ジョン・ウィックのように愛豚を奪った集団に制裁を下し豚を取り戻すだろうというと期待する(実際、私は映画の半ば過ぎまでそう期待していた)。しかしニコラス・ケイジは暴力をいっさいふるわない。映画の中で、ケイジは、取り壊されたホテルの地下に残っているホールで秘密裏に催されている賭けファイトに参加して情報を得るのだが、このファイトは、後ろ手に組んだ参加者が、殴られても一切抵抗せず、KOされるまでに1分以上耐えられるかどうかで勝敗が決まるというもの。ニコラス・ケイジは殴られっぱなしだが1分耐えて豚の居場所に関する情報を手に入れる。このエピソードが物語るように、ニコラス・ケイジは、暴力を加えられこそすれ、絶対に暴力をふるわない。そこがジョン・ウィックと違うところである。

ちなみに山中でトリュフ狩りをするために豚を飼ってかわいがっていると思われるのだが(実際そうであろうが)、ただ豚は頭のいい動物で、犬や猫と同様にペットになるという話をどこかで読んだことがある。豚は本来はきれい好きの動物であり、家の中で飼うこともできるとも読んだ。ニコラス・ケイジと豚との関係は、たんにトリュフ狩りのためだけではない。

実際、映画の中でニコラス・ケイジは豚がいなくてもトリュフを自分ひとりで探すことができると語っている。豚を必死で探すのは、トリュフのためではなく、豚への愛だと(ちなみに豚は雌豚なのでSheとして語られる)。ニコラス・ケイジと豚はペットいやそれ以上の絆で結ばれていたのだ。

ジョン・ウィックは、元殺し屋であり、その超人的な殺しの技能をつかって復讐をはたす。これに対しニコラス・ケイジは、暴力にうったえないし、復讐もしない。まったく正反対の生きざまと行動であるのだが、元シェフであった彼は、その超人的な料理テクニックを活かして敵に対処するという点において、ジョン・ウィックと似ている。ジョン・ウィックとニコラス・ケイジの関係は、たんに暴力と癒し、陰と陽、生と死、正と負との対立関係ではなく、似ているところもある。二人の関係は脱構築的である。あるいは重なり合っている。

脱構築などという、そんな現代批評用語(デリダの)を使って映画の物語を語って何が嬉しいのかといわれそうだが、実はdeconstructed(脱構築された、脱構築的)というのはこの映画のキーワードいやキーコンセプトのひとつである(「砕かれた、分解された、碾かれた、すりつぶされた」というような意味としても)。

実際、章のタイトルにも、また会話のなかにも出てくる。またニコラス・ケイジがレストランで食べるホタテガイの料理名はthe deconstructed scallop である(なんと訳してよいかわからない)。

Part2:エウリディケー

日本大百科全書(ニッポニカ) における「エウリディケ」Eurydicēの説明:
ギリシア神話の樹木の精で、楽人オルフェウスの妻。トラキアの野でアリスタイオスに追われて逃げる間に、毒蛇にかまれて死んだ。オルフェウスは、妻を慕うあまり冥界(めいかい)に下り、音楽で地下の神々の心を和らげ、地上に出るまで後ろを見ないという条件で妻を連れ戻す許可を得た。しかし、地上に出る寸前にがまんができなくなったオルフェウスは振り返り、その瞬間エウリディケはふたたび冥界に引き戻された。

つまりオルフェウスとエウリディケーの神話では、エウリディケーは樹木の精であり森がその棲み処である。ニコラス・ケイジは豚と森のなかで仙人のような暮らしをしているのだが、それはまた死んだ妻の霊が宿る森のなかで暮らす、あるいは死んだ妻への追憶のなかで生きていることを意味している。オルフェウスといえば、またその音楽で動物たちと交流し、冥界の神々たちを慰めていた。ニコラス・ケイジもオルフェウスである。音楽ではなく料理で癒しを与えるところの。

オルフェウスの死んだ妻は二度死ぬ。一度目は、アリスタイオスに追われて逃げているときに毒蛇にかまれて。だが彼女は冥界に連れ去られそこで「生きている」。そしてオルフェウスが、彼女を冥界から現世へと連れ戻そうとして……。

ニコラス・ケイジの妻がどうして死んだのか、あるいはなぜニコラス・ケイジが愛豚を奪われるのか、その理由が判然としないという感想がネット上にみられた。確かに判然としないのだが、なんとなく理由はわかる。なんとなくわかるだけでよいと思うのだが、エウリディケーの神話を参照して、出来事のなかで失なわれた環を補完することもできる。

神話におけるアリスタイオスに相当するのは、町の外食産業を牛耳っている黒幕ダリウス/アダム・アーキン(アラン・アーキンの息子で、父親にそっくりだった)である。このダリウスとニコラス・ケイジとは、ケイジの妻をめぐってライバル関係にあったのかもしれない。ニコラス・ケイジに敗れたかたちになったダリウスは、ニコラス・ケイジの妻を殺したとは思わないが、復讐のためにニコラス・ケイジにとって最愛の豚を盗むことになる。トリュフ狩りに使う豚はまた、ダリウスの息子のトリュフ売買にも貢献していることから、息子の商売を邪魔するためでもあった。

あるいは町の外食産業だけでなく市政をも牛耳り怒らせると怖いダリウスは、現世ならぬ冥界を支配するハデスの面影がある。そもそもニコラス・ケイジの豚探しは、冥界紀行あるいは地獄めぐりのイメージがある。実際、ダリウスの妻は自殺するのだが、生命維持装置をつけられて病院で植物状態のまま生きながらえている。ダリウスには妻の死をコントロールする冥界の王ハデスのイメージもある。

そしてこのダリウス=ハデスと対決するニコラス・ケイジは、さながらハデスの前で音楽をかなでるオルフェウスである――ニコラス・ケイジの場合は、元シェフという設定なので、その腕前で料理をふるまう。かくしてオルフェウス=ニコラス・ケイジは、連れ去られた豚の消息というか運命を知ることになる。

オルフェウスは冥界の王ハデスのもとから妻のエウリディケーを現世に連れて帰る許可をえる。不思議なことに、エウリディケーは、冥界にいるのだから死んでいるのだろうが、冥界で生きているようにもみえる。彼女がオルフェウスとともに帰る途上、神話によればオルフェウスは、約束を破り妻のほうをふりかえったために、妻エウリディケーは冥界にとどまるしかなくなる。彼女は二度死ぬとも、永遠に冥界で生きることになるともいえる。エウリディケーは生きた死人だし、死せる生者である。エウリディケーの存在は、生きているでもなく死んでいるでもなく、なんどもよみがえり、なんども死ぬ、脱構築状態にある。

なお、先のファイトクラブもどきの賭けファイトのあとでニコラス・ケイジは、フィンレイという料理長が経営している人気の高級料理店を紹介される。そのレストランで、例のthe deconstructed scallopを供されるのだが、そのレストランの名前は「エウリディケーEurydice」。給仕の女性の制服にもその名前のロゴが記されている。エウリディケー神話は、私のたんなる思いつきではなく、映画そのものがメッセージの一部として発信しているものなのだ。

Part 3:シュレジンガーの豚

映画のなかでニコラス・ケイジの衝撃的な発言の一つが、先に触れた、豚はいなくともトリュフは自分で探せるので、なにも豚を奪われても困らないのだが、それでも豚を探すのは、豚への愛だからというもの。そしてもうひとつは、もし自分が豚を探しに出なかったなら、彼女は心のなかで生きていただろうというもの。

豚は雌なので豚探しがエウリディケーを探して冥界に赴くオルフェウスの旅と重なる。そして豚の運命が映画の終わり近くでわかるまで、豚は生きているか死んでいるかわからない決定不可能な状態にある。またもしニコラス・ケイジが豚を探しに山を下りなければ、豚は彼の心のなかで永遠に生き続けていたかもしれない――あるいは死んでいるかもしれないという思いのもと、確証がないために、生きているだろうと思いつつ。

これは「シュレディンガーの猫」と呼ばれる思考実験で生じる状態とよく似ている。

「シュレーディンガーの猫Schrödinger's cat」という項目でWikipedia は、それを「1935年にオーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガーが発表した物理学的実在の量子力学的記述が不完全であると説明するために用いた、猫を使った思考実験」と説明している。

項目の記述の一部を引用すると:
蓋のある密閉状態の箱を用意し、この中に猫を1匹入れる。箱の中には他に少量の放射性物質とガイガーカウンター、それで作動される青酸ガスの発生装置がある。放射性物質は1時間の内に原子崩壊する可能性が50%であり、もしも崩壊した場合は青酸ガスが発生して猫は死ぬ。逆に原子崩壊しなければ毒ガスは発生せず猫が死ぬことはない。「観測者が箱を開けるまでは、猫の生死は決定していない」とされている。原子がいつ崩壊するのかは量子力学的には確率的にしか説明することができない。観測者が見るまでは、箱の中の原子が崩壊している事象と崩壊していない事象は重なり合って存在している。観測者が確認をした瞬間に事象が収縮して結果が定まる。シュレーディンガーはこれを「猫の生死」という事象に結び付け、「観測者が箱の中身を確認するまでは、猫の生死は確定しておらず(非決定)、観測者が蓋を開けて中を確認した時に初めて事象が収縮して、それにより猫の生死が決まるとして、箱を開けるまでは、生きている猫の状態と死んだ猫の状態が重なり合って存在している」という意味に解釈した。

これが量子力学とどのように関係づけられるのかは、専門家の説明にゆだねるしかないが、生きているか死んでいるかわからない、生と死が重なり合っている状態は、ごくふつうに起こる。「箱を開けるまでは、中の状態がどうなっているかわからない」というのは、あたりまえすぎる陳腐な定理か、それともそこに深い真実が隠されているのかどうか、なんともいえないが、ただ蓋を開けるまではわからず、生と死、あるいはそれに類する何らかの多比的状態が重なり合うことは、ごくふつうに起きている。

さらにいえば蓋があかないことは往々にしてある。シュレジンガーの猫は、蓋があかないかぎり、永遠に生きているともいえるし、死んでいるともいえるし、生と死が重なり合っている状態だともいえる。蓋など開かないのではないか、箱を開けてみることなどできないのではないか。あるいのは、ただ重なり合い、脱構築状態だけではないのか。

ニコラス・ケイジが奪われた豚を探すしている間は、また首謀者から真相を聞き出すまでは、豚は、生きている状態と死んでいる状態とが重なり合っていた。つまり脱構築状態にあった。

おそらくニコラス・ケイジの死んだ妻も、彼のなかでは生きていると同時に死んでいる。あるいは彼の宿敵であるダリウスの妻も、自殺をはかったあと生命維持装置によって植物人間化して生かされている。彼女は生きている屍であり、死んでいる生者でもある。だが、生きているのか死んでいるのかわからない、あるいは生きてもいるし死んでもいる脱構築状が人間を生かす原動力ともなっている。ニコラス・ケイジは生きているか死んでいるかわからない豚を探すことで隠遁状態のトリュフ狩人からシェフへと回帰する。宿敵ダリウスもまた、妻に生死をさまよわせることで、冥界を統べる魔王のように市政の黒幕として生きることになる。

いや、ニコラス・ケイジもダリウスも、実は、愛する者を失うことで、もう死んでいるのかもしれない。それでも彼らが生きているとしたら、彼らもまた生命維持装置を付けられた使者かもしれない。

そう、私たちは誰もがシュレジンガーの猫である。『PIG/ピッグ』は、シュレジンガーの豚を出現させることで、そのことを伝えくれている。
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2023年11月08日

『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』1

犯罪、それも大掛かりな犯罪、あるいは長期にわたる犯罪、さらには歴史の闇に隠れていた犯罪というのは、『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーンKillers of the Flower Moon』(マーティン・スコセッシ監督2023)であれ『福田村事件』であれ『ジャニー喜多川性加害事件』であれ、いい意味でも悪い意味でも興味をもたれ、映画化されるにふさわしいコンテンツとなっている(あ、ジャニー喜多川性加害事件は、まだ映画化されなていなかったが、映画化される日が待ちどおしい)。

『福田村事件』は今年度のベストの映画と思っていたが、『キラーズ……』もまた、ベストのアメリカ映画ではないかという思いをいだかずにはいられなかった。ともに犯罪を暴く映画である。

犯罪物の特徴は、たとえ犯罪者が事件当初はあるいは事件後もずっと罰せられることがないとしても、いつかは罰せられることにある――もしそうでなければ犯罪物がつくられるはずがない。そのため犯罪への恐怖と怒りだけでなく、犯罪が暴露されることで希望もわいてくる。犯罪を予防する途もみえてくる。犯罪物、実録映画は、そのためエンターテインメントである――楽しませつつ教えるのだから。実際、『キラーズ』のなかには、FBIの協力のもと実際の犯罪を紹介・解説するラジオ番組を再現する場面があり、それを後日談の代わりにしている(スコセッシ監督がカメオ出演している)。実録犯罪物は、楽しませつつ教えるという昔からの芸術文化作品の典型でもある。

西部劇ものとしてみると、第一次世界大戦(当時は大戦と呼ばれたのだが)の余韻の冷めやらぬ1920年代、アメリカのオクラホマ州オーセージにおける油田の受益者であるオーセージ・ネイティヴ・アメリカンの連続殺人事件を扱ったもので、いわゆる修正主義西部劇Revisionist Westernに分類されるのだろう(英語版WikipediaのRevisionist Westernの項目には『キラーズ』がこれに分類されている)。あるいは歴史物としてみるとFBIの前身であるBOI(the Bureau of Investigation)が創立当初、エドガー・フーバー長官のもと、初めて扱った大事件がこのオーセージ族殺人事件であり、まさにFBI誕生の物語となっている。ジェームズ・スチュアート主演の『連邦警察FBI Story』 (1959) には、この事件のことが出てくる(この映画は、昔見た記憶があるのだが、内容をすっかり忘れているので、見直したいと思っている)。

ただ映画をはじめから見てみると、その流れのなかでみえてくるのは、石油が出たことでオーセージ・インディアンの人々がこうむることになる生活と人生の激変、要するに巨万の富を手にした人びとを襲う惨劇の連鎖である。

【ちなみに「インディアン」という言葉はいまは使ってはいけない言葉なのだが(実際ネイティヴ・アメリカンの人々は、「インド人」ではないのだから)、当時は、「ニグロ」ともども、ふうつに使われていた言葉でもあるので、本稿でも、ことわりなく「インディアン」という表記を使うかもしれない。また私が子供の頃、アメリカのテレビのホームドラマの日本語版を見たときのことだが、そのとき吹き替えで「インジャン」という耳慣れぬ言葉が聞こえてきた。そう、日本のテレビ局は、いくら元のアメリカのテレビ番組での台詞に使われていたからといって「インジャン」という語をそのまま使っていたのである。「インジャン」は「インディアン」以上に使ってはいけない侮蔑語。それが日本のテレビの画面から聞こたのである。】

アメリカでは、宝くじ、プロスポーツ選手の契約金、損害賠償金といったかたちで巨万の富が個人の財産となることある。コーヒーをこぼしただけで、裁判で3億円もの賠償金を得たというマクドナルド・コーヒー事件がある(その後、賠償金は減額されたようだが、それでも高額である)し、類似の裁判はほかにもいろいろあるようだ。問題は被害者が受け取る額が個人で管理できないほど高額すぎることである。しかし、そこは心配しなくていいのかもしれない。高額の賠償金、つまりは巨万の富を手に入れた個人は、食い物にされて、その財産をほとんど失うことが多いのだから。つまり高額の金が社会に流れてゆく。絶大な経済効果ありとみることもできるのだから。

今年観た映画『To Leslie トゥ・レスリー』(2022)は、宝くじで高額当選したのだが、その6年後には路上生活をすることになる女性を扱った作品である。その映画の眼目は、彼女が自堕落で転落の人生を送る羽目になったというよりも、周囲が彼女を食い物にして、その賞金をよってたかって奪い取ったということにある。アメリカン・ドリームの実態がこれであろう。成功してどんなに巨万の富を手に入れようとも、それはすぐに横取りされ社会に還元され、経済効果を生む――たとえ幸運をつかんだ者を不運のどん底に陥れようとも。この不条理を、アメリカ社会は倦むことなく再生産してきたのである。

そしてその犠牲者たちに加えられる一群に幸運な人生を約束されながら不運の連鎖に巻き込まれたオーセージ・ネイティヴ・アメリカンがいたということになる。




posted by ohashi at 12:07| 映画 | 更新情報をチェックする

2023年11月07日

じゃこ天騒動

じゃこ天騒動はおさまったかにみえるが、しかし、納得のゆかないことがある。

実際にはじゃこ天は出されていなかったという記事があった。

秋田県知事「じゃこ天」騒動 実はメニューになかった 最高級伊予牛ステーキは提供【愛媛】10/30(月) 15:18配信 テレビ愛媛

「いいステーキだと思ったらじゃこ天。貧乏くさい」。佐竹秋田県知事が全国知事会で四国を訪れた際、実はメニューにじゃこ天はなく、最高ランクの伊予牛のステーキが出されていたことが30日までに分かりました。

この騒動は、佐竹秋田県知事が地元の政財界のトップが集まった23日の会合で、全国知事会議で四国を訪れた際の体験を「メインディッシュがいいステーキだと思ったら『じゃこ天』です。貧乏くさい」と発言。波紋が広がり25日に会見を開き謝罪していました。

愛媛県によりますと、県内では10年前に全国知事会議が開かれ、この時の献立には伊予牛「絹の味」の最高級にあたる黒ラベルのステーキが出された一方、じゃこ天はなかったということです。

ただ当日にメニューが変更されたり、佐竹秋田県知事が食べていない可能性があるとしています。

佐竹秋田県知事は謝罪した会見で、「会場を盛り上げようという思いがあった。悪い例えだった」と釈明しています【以下略】

この記事については、現時点では、後追い記事が出ていないのだが、またじゃこ天騒動も、じゃこ天の売り上げが伸びたらしく、よい結果をもたらしたので、これ以上追及しないというメディアの方針なのかもしれないが、しかし秋田県知事の無責任な発言は徹底して批判されねばならないことと思う。

考えてみてもいい、全国知事会議後の食事会に「じゃこ天」をメインディシュに出すわけがない。じゃこ天が貧乏くさいからではない。そもそもじゃこ天は、総菜か酒の肴であって、メインディシュのジャンルには入らない。コースのなかで、ご当地名物を一品添えることはあるだろうが、あるいはそれを材料のひとつとした料理を出すこともあるだろうが、メインディシュとして出すのはおかしい。だから夕食のメインディシュにはじゃこ天は出ていなかったと常識では考えるだろう。なぜそこをつっこまなかったのか記者たちのほうがおかしい。

いやそもそも、出てもいないじゃこ天を話題にした秋田県知事のほうがおかしいというべきか。「会場を盛り上げようという思いがあった」と秋田県知事は述べている。たぶんそうなのだろう。記者会見の場で、おもしろおかしい話をして座を盛り上げようとした。四国の愛媛県人は、メインディシュにじゃこ天を食べているらしい。びっくりした。貧乏くさい。という話は、真偽のほどは別として、面白い。しかし芸人やタレントが、ありもしない事実を面白おかしく盛って話すのは許されるかもしれないが、秋田県知事という公人であり政治家が、そのようなほら話を記者会見の場でするというのは許されないことと思う。

問題は、じゃこ天を貧乏くさいと述べたことではない(もちろんこれも問題だが)。それ以上に、ありもしないじゃこ天のディナーをでっち上げたことだ。本人は軽い冗談のつもりで、記者がつっこみを入れるのを待っていたかかもしれないが、それもなく、じゃこ天ディナーがさも事実であるかのように伝えられてしまったのだろう。繰り返すが、公人の発言としては、「冗談だ」というかたちでよいので、虚構であることをすぐに示さないと、虚偽が真実としてまかりとおり、そこから偏見や差別が生まれかねない。秋田県知事の発言は、受け狙いとしても、罪深いものといわざるをえない。

昔、タモリが、名古屋人はエビフライを偏愛しているという、ありもしない事実をでっち上げて流通させたことがある。名古屋の食堂の料理見本でエビフライをよく見かけたということらしいのだが、名古屋で生まれそこで暮らしていた私としては、名古屋人がエビフライをとくに好むということは、昔も今もないと断言できる。ましてやその後「エビフリャ~」と名古屋弁式の発音で語られるようになったエビフライだが、名古屋人は「エビフライ」を「エビフライ」と発音するだけで「エビフリャ~」などと発音はしない。料理名を発音するのに、アクセントは標準語と違うかもしれないが、なまって発音することはない。どこの県でも地方でも。

だからくだらない虚構を広めたタモリを私は絶対に許さないが、しかし、芸人やタレントが地方人や地方文化をいじることは実際には許されている。またいじられた側も、それを面白がり嬉しがって受け入れることも多い【『翔んで埼玉』のことを思い出してもいい】。しかし公人である県知事が受け狙いとはいえ事実をでっちあげることは、ましてや受け狙いでしかない場合、許されるべきではないだろう。たとえそれが良い結果を生んだとしても。
posted by ohashi at 09:13| コメント | 更新情報をチェックする

バービーと原水爆

つぎのようなネット記事があった。

「バーベンハイマー」まさかの映画化
シネマトゥデイ によるストーリー 2023年11月06日

インターネット・ミームとなった「バーベンハイマー」が、人間を破滅させるために原子爆弾を作るファッションドールの物語として、パロディ映画化されることになった。

バーベンハイマーは、一面ピンクのグレタ・ガーウィグ監督作『バービー』と陰鬱なクリストファー・ノーラン監督作『オッペンハイマー(原題) / Oppenheimer』という2作のタイトルを掛け合わせた言葉。正反対の作風の話題作2作が同日公開されるということで生まれた「バーベンハイマー」は海外で社会現象となり、それぞれ世界興行収入14億4,152万8,220ドル(約2,162億円)、9億4,748万1,000ドル(1,421億円)を上げる大ヒットを記録した。(数字は Box Office Mojo調べ、1ドル150円計算)

その「バーベンハイマー」というアイデアをそのまま映画にしてしまうことにしたのが、数々のB級映画を世に送り出してきたチャールズ・バンドだ。【中略】終わりのない夏とビーチパーティーが続くドールトピアを舞台にした『バーベンハイマー(原題)』の主人公は、トゥインク・ドールマンを彼氏に持つ聡明な科学者人形バンビ・J・バーベンハイマー博士。バーベンハイマー博士は人形たちが人間の子供たちから受けている残忍な扱いに激怒し、人間世界へ向かうことに。しかし、そこで人間の最悪な面を見たバーベンハイマー博士は、人間たちを破滅させるため巨大な核爆弾製造を決断する……というストーリーだ。【以下略】


「バーベンハイマー)」は、原爆の炎(映画『オッペンハイマー』由来)とバービー(映画『バービー』)とのコラージュ画像。この“おもしろ画像”が投稿されたとき、そうした画像に映画『バービー』の公式アカウントが肯定的な反応を送ったことから、日本側から猛烈な抗議の声があがった。

だが『バービー』の公式アカウントの無神経な反応がなければ、バービー人形と原爆とのコラージュは、ある歴史的真実をあぶりだしていたはずである。バービー人形が誕生したのは1959年。アメリカのミッド・センチュリー・モダンのまっただなかの1959年はまた、冷戦のまっただなか、軍拡競争のまっただなかでもあった。

この時期、米ソの軍拡競争のなかで、水爆実験が世界中でおこなわれていた(ちなみに水爆は、その第一段階において原爆を起爆する、つまり原爆と水爆は連動していた)。バービーの歴史的バックグラウンドは水爆実験である。そしてそれは1963年の部分的核実験禁止条約まで続いた(完全に実験がやめになったわけではなかったものの)。

バービーと原水爆は、おもしろ画像のコラージュを待つまでもなく、密接な関係があった。バービー人形の人工的な笑顔の背後では、水爆実験の爆風が地球の大気を確実に汚染していた。オッペンハイマーとの結びつきで広島・長崎に投下された原爆へとむすびつけられたバービー人形だが、ほんとうは、原水爆実験時代の、まさに顔だったのだ。このことは忘れてはならないだろう。
posted by ohashi at 00:53| コメント | 更新情報をチェックする

2023年11月06日

『尺には尺を』-1.0

新国立劇場における『尺には尺を』公演において、元東京都知事の観劇態度の悪さを報告したSNSでのコメントが話題になっている。【ちなみに私はまだ観ていていないが、観劇予定はある】

以下は、観劇していなかった元東京都知事の舛添要一氏に関するネット記事。
舛添要一氏 観劇マナー問題あらためて否定 「国会議員は実名で言うべき。こういう悪い態度でしたと」
スポーツニッポン新聞社 2023年11月05日

前東京都知事で国際政治学者の舛添要一氏(74)が5日、ABEMA「ABEMA的ニュースショー」(日曜正午)にコメンテーターとして生出演し、SNSなどで話題となっている“観劇マナーの悪い元東京都知事”についてコメントした。

演劇評論家がSNSで、10月28日に新国立劇場で行われた舞台「尺には尺を」を観劇した人からの情報として、「客席の元都知事が、傍若無人、足は投げ出す、お菓子の紙はチリチリポリポリが止まず、老婦人が制してやっとやめたとのこと。『おもてなし』とかチャンチャラおかしい縁なき衆生の醜態」と紹介。同舞台を観劇していたというラサール石井も、自身のSNSで「観劇態度は最悪。色の濃いサングラスに黒で統一した格好で身体を揺すりながらヤカラのように歩き、劇場にはふさわしからぬ出立ちでめっちゃ目立ってた」と投稿していた。

存命の都知事経験者は舛添氏と、日本維新の会の猪瀬直樹参院議員だけと紹介されると、スタジオには大きな笑いが起こった。【中略】舛添氏はスタジオでVTRを見ながら、あらためて「私、行ってませんから」と笑って否定。【中略】

SNSでの一連の告発について、舛添氏は「要するに、猪瀬さんって現職の国会議員なんですよ。私は普通の人だから、いじくられても困るけど、普通の国会議員は実名で言うべきなんですよ。“猪瀬国会議員がこういう悪い態度でした”と」と指摘。公人に対する問題告発は実名にすべきだと訴えた。【以下略】

舛添要一氏の主張は、正しくて、国会議員という公人であるからには、実名を示すべきであり、なぜ「元東京都知事」というあいまいな表記にしたのか。猪瀬氏が国会議員だから遠慮したのなら、その判断はまちがっているし、もし猪瀬氏か舛添氏に似た人で確信をもてなかったらのなら、そう述べるべきであり、もしかしたら二人とは全く別人かもしれないとしたら、二人のどちらにも迷惑をかけることになる。これは無責任な投稿ともいえる。SNSに挙げるマナーそのものが悪いことはぜひとも指摘しておかねばならない。

もし猪瀬氏の観劇態度がそのとおりだったら、観客として相当ひどく周囲の者に不快感をあたえることは間違いない。劇場に行くとそうした観客におめにかかることはある。

まあ性格上の問題かもしれないが、同時に、気に入らないことがあると、そのうっぷんを、そうした粗暴な行為ではらすことがある。これは本人も無意識でしていることが多く、またなにかの不満がこうした粗暴で無礼な迷惑行為の引き金になることは、けっこう普遍的ではないかと思っている。子供じみていても、人間は一皮むけば大人でなくてわがままな子供に過ぎないのだから。

元東京都知事で猪瀬国会議員かもしれない人物が、なにかいやなことがあって機嫌が悪くなり、観劇態度が悪くなったのかもしれないが、そんな別の場所で別の時間で起こった不快な出来事ではなく、むしろ観劇そのものが不快であった可能性のほうが高い。芝居などみたくもなかった。それもシェイクスピアの翻訳劇などみたくもなかった。それもシェイクスピアのなかでも知名度の低い芝居などみたくもなかった。時間の無駄だと思う。付き合いで劇場にきてしまったが、おもしろくない。それで……、周囲に迷惑と不快感をあたえる行為に及んだのかもしれない。

元東京都知事で現国会議員かもしれない人物が、このような粗暴な態度にでたのは、観劇前か観劇途中か観劇後のどの時点なのかによって変わるのだが、もし観劇中か観劇後であるのなら、つまり芝居を見ての反応ならば、芝居が機嫌の悪くなる原因かもしれない。

以下は、正直、うがちすぎの意見なのだが、

シェイクスピアの『尺には尺を』は、シェイクスピアの作品のなかで珍しく為政者の腐敗を描いている。もちろんシェイクスピア作品にはいろいろな君主や為政者が登場し、有能で高潔・高徳の士であったり、無能であったり悪辣であったりとさまざまなありようを示すのだが、悪しき為政者のなかで、『尺には尺を』のアンジェロは、天使にちなむ名前ながら悪魔にちかく、謹厳実直で高潔な人柄ゆえに公爵から代理職に任命されたあとは、見習い修道女(よりにもよって)の色香にまどい悪徳為政者、独裁者となって、腐敗した政治家の権化となってゆく。白さなのなかに隠れている邪悪な黒さ、あるいは悪臭を放つ腐ったスミレ。

別に猪瀬直樹国会議員が、『尺には尺を』の悪徳政治家アンジェロに近いというつもりは毛頭ない。ただ、腐敗した政治家に対する嫌悪感や不信や蔑視の空気を濃厚に漂わせているこの作品は、政治家にとっては居心地の悪い作品であったかもしれない。機嫌が悪くなって周囲に不快感を抱かせる行為におよぶ。そしてみずからが政治家の傲慢さの典型になりおおせてしまった。もしそれが猪瀬直樹議員だとしたら、みずから悪役をかってでてしまったということになる。

なおシェイクスピアの『尺には尺を』は基本的に喜劇なので、腐敗した為政者に対して、それを裁き成敗する水戸黄門的人物が登場する。この芝居のなかで猪瀬直樹は時代劇によくある、そして水戸黄門に罰せられる悪代官にみずからを見立てて不快になったのかもしれない。繰り返すが、この芝居のなかでアンジェロは公爵代理、つまり代官。そして悪代官。
posted by ohashi at 16:40| コメント | 更新情報をチェックする

2023年11月03日

講演会

『孤独のグルメ シーズン10』の第6話「岐阜県下呂市の」とんちゃんとけいちゃん」(2022年11月11日放送)では、おなじみの井の頭五郎/松重豊は、中学の同級生で、今は校長をしている人物(松下由樹)から講演を依頼され、岐阜県下呂市に赴く。無事講演を終えたあと、腹が減っていることに気付いた井の頭/松重がいつものように店探しをはじめるという話【CSでも2023年11月10日に再放送】。

かつて同級生だった校長から、井の頭の仕事について中学生の前で話してくれという依頼のようで、原稿もなく、メモもなく、生徒の前で1時間くらい話をしたという設定になっているのだが、気楽なものだと、うらやましくなる。

ただそれにしても、教室での授業の際のゲストとか10人以下の少人数の会合でのスピーチというのならまだしも、全校生徒を集めての講演が、自分の仕事についての漫談でいいというのは、いや、とにかく演壇でただ話せばいいというのは、いったいいつの時代の話なのかとあ然としなわけでもない。

私も東洋大学から講演を頼まれて10月27日に講演をした。1時間ほどの講演(そのあと30分ほどの質疑応答)だが、元大学の教員が、大学の教員と学生あわせて300人くらいの聴衆を前に講演するとなると、ただ、話していればそれでよいとはいかなくなる。原稿を用意する? もちろん、それも必要だが、会場には視聴覚機器も完備されているので、それらをフル活用することになる講演資料を用意せねばならない。具体的にいえば、パワーポイントを使ったスライドショーができるような資料を前もって用意するということである。要は、講演といっても、ただ話をするのではなく、いわゆるプレゼンをすることになる。したがってプレゼン用の資料をこちらで作成するということになる。

こうしたプレゼンにおいては、画面に映し出されるのと同じ内容を印刷した紙の資料も用意するのが慣例なのだが、私の場合、画面数が40と多いので、紙もそのぶん多くなる。そのため画面とほぼ同じ内容だが、それを圧縮してA4で4枚の資料を作成した。それを参加者全員に配ってもらうことにした。もちろん、それでも大量の印刷物となる。

ちなみに私の講演のあと、たまたま別の大学の先生で講演会の幹事兼雑用係をしたことがあるという方から話を聞く機会があったのだが、その大学では講師が用意した画面の数と同じ数の紙の印刷物を準備し、それを参加者全員に配ったので、ものすごく大変だったということだった。

パワーポイントのファイルは、コロナ渦で大学の授業がリモート中心になり始めたころ、まだ非常勤講師をしていた私は、リモート教材を毎週作成したことがあった。その時の記憶を頼りに、なんとか講演会の資料を作成できた。それに音声を入れれば、リモート授業の教材になる。

ただリモートではなくても、大学の先生方は、毎日、毎週、こうした教材の作成に明け暮れているわけで、ほんとうに頭が下がるとしか言いようがない。また多くの聴衆を集めての講演会では、視聴覚機器を活用するプレゼン形式になるのは、いまや慣例となっている。ただ、その場にいって話せばよいという昔ながらの講演がなつかしいといえばなつかしい。

なお東洋大学の講演は、「グローバルプロジェクト講演会」という連続公演のひとつで、「英米の映画における日本のイメージ」というようなタイトルで話をさせてもらった。その内容については、講演会が、東洋大学の教員・学生限定とのことだったので、ここで語ることはできない。

【付記:念を押しておくが、講演者が有名人だったら--公人として有名である場合、あるいは有名な私人である場合--どのような場合でも、本人が生きた資料そのものだから、パワーポイントを使ってのプレゼン形式の講演をする必要はない。むしろそんなことはしないほうがいい。漫談でいいので話をするだけでよい。松重豊クラスの俳優ならば、ただ登壇して漫談をするだけでも、聴衆は満足どころか大喜びであろう。しかし彼が扮する井の頭五郎の場合ならば、プレゼン形式の講演をしたほうが聴衆の満足度も大きいということである。】
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