ご当地映画の三本目(三本目に観たということにすぎない)。高知市を舞台に、強烈な高知弁(土佐弁)の洗礼を受ける。俳優の活舌が悪いというバカなネット民の評価があったが、活舌は誰も悪くない。ただ土佐弁は聞き取れても意味がわからないだけである。まあ『バッド・ランズ』も、強烈な関西弁と専門用語のたたみかけによって、台詞の多くが理解不能だったことを思い出した。ちなみに『女子大小路の名探偵』は名古屋弁ゼロ。『親のお金は誰のもの』では伊勢志摩の方言というのがあるのかどうかわからないが、みんな標準語だった。『ロストサマー』は、聞いたこともない土佐弁の語彙が噴出する。
ここのところ紹介している三作のなかでは、いちばん攻めた演出をしているので、個人的には一番興味深い映画である。
たとえば、おそらくキャストのなかでは最も知名度の高い小林勝也が演ずるところの老人は病気でもないのに毎日医院に来て迷惑がられているのだが、なぜそんなことをしているのか、徐々にわかってくる。妻を亡くした彼は、不治の病にかかって自分も死にたいと願っている。そのため医院で病気を発見してもらえればと考えているらしい――らしいというのは言葉で説明されるわけではなく、暗示されるだけなので。つまりこの老人は妻のあとを追って死にたいと思っているが、だが悲しいことに、まだ死者には追い付けない。追い付けないまま追いかける人、それがこの老人のたたずまいとなる。
いっぽう小林勝也にからむ若者(林裕太)は、会うたびに老人から財布を奪い、老人から追いかけられる。だが老人は追い付けない。いっぽう彼は、追い付けない老人をからかい楽しんでいるようだ。彼は逃げる人である。だが、ほんとうは追い付かれたいと思っている。そして自分のほうから追いかけてくる者を出迎える。そこに老人との友情が生まれる。映画も、小林勝也と林裕太の友情を確認して終わる。
ただしこれはドゥルーズのいう運動イメージのレヴェルの話であって、ドゥルーズのいう時間イメージで補完されるべき要素が多々ある。林裕太が、映画のはじめのほうで絡んでる若い女性は、どうやら実在せず、彼のみる幻影らしいのだが、それが映画の後半になってくると、彼の、おそらく死んだ母親の幻影だとわかってくる。
彼は、失われた母親の幻影につきまとわれることなく、前向きに生きたいと願っている。だがそれはまたただの身振りにすぎない。実際には、彼は失われた母親を求めている。あるいは失われた母親につきまとわれ、その影に追い込まれたいとも思っている。それは母親から殴られたいという彼の願望にもあらわれる。母親からひっぱたかれたいと願いつつ、母親をひっぱたきたいとも願っている。圧巻は、彼が、お金と自動車のキーを盗んだ仲間につかまってリンチを受けるとき、殴られつつも彼は母親に殴られた子供の頃のことを思い出すところである。また束の間、彼がたかれている時だけが、あるいはその思い出だけが、彼に、みずからの生を実感させるのだ。
抵抗して相手を倒すとき、そこに自分の母親を殴り倒すイメージが重なる。運動イメージが、ただ現在時にしか存在しないとは裏腹に、時間イメージは、過去と現在を同時共存させ、自己と他者との関係が入れ替わることもありうる。映像と物語の重層性が、この映画を印象深いものにしている。
【ちなみに林裕太が映画のなかで終始持っているのは、なにかの募金箱であり、それを財布代わりにしているのだが、これは母親の思い出ともつながっていた。映画の最後のほうでわかるのは、小さかったころ林裕太は、母親がなにかの募金に金を出していたことを目撃していたことである。その思い出が彼に募金箱をつねに持つようにさせたのである。なんともせつない話ではないか。】
ところで林裕太が逃れ/求めている母親は「夏」という。林裕太は「フユ(冬)」という名前である。また小林勝也の死んだ妻も、その名前を「夏」といったように思う。そして小林勝也の名前は「秋」である。林裕太も、小林勝也も、「夏」という女性を求めている。いなくなったか死んだかした、おそらく永遠に到達も入手もできない「夏」という名の女性。これが映画の「ロストサマー」というタイトルが意味するもののひとつである。
フユという名の青年と、秋という名の老人に、さらに「春」という名の女性(中澤梓佐)がからんでくる。彼女は、もはや夫からは性的対象とも見られず、弁当製造係くらいの扱いしか受けず、夫から見捨てられたような主婦である。ただ映画のなかでは「冬」と「秋」が失われた「夏」を求めているのだが、この「春」はフユとセックスをするのだが、「夏」とどうかかわるかというと、夫の名前が「夏」である(『キリエのうた』にも出演している関口ロアナンが夫を演じている)。そう彼女「春」もまた、夫「夏」から疎まれ、また夫「夏」を失ったともいえるのである。彼女にとっても、この夏は、夫「夏」を失った「ロストサマー」なのだ。
彼女「春」(中澤梓佐)は、夫から見捨てられたような状態となり、夫を失うことで、「フユ」とセックスに走り、またバーで一人酒を飲む。そこにバーの常連らしい男が、彼女に絡んでくる。うざい男に対して彼女はこれまでのうっぷんをはらすかのように、大声で土佐弁でうるさいと啖呵を切る。それはみていて気持ちのいいものなのだが、あろうことか、そこで彼女がうるさいという以外に何をいったのか、肝心なところが土佐弁なので、わからない。
おそらく土佐弁をわかる人には、彼女がなんといったのか明瞭に理解できると思うのだが、あいにく一般観客にわからない。居酒屋で男性客がなにかを大声わめいていて、女性店員がおびえているという場面があるのだが、この男性が何を言っているのか、土佐弁なのでさっぱりわからない。こんなわからない土佐弁のシーンはこの映画には多い。
しかし、土佐弁を理解できないことにも意味はあろう。さきの「春」が啖呵をきる場面でも、彼女の魂の叫びともいえる言葉が、まさに肝心かなめの言葉が、一般観客にはわからないのである。その魂の叫びは、彼女だけしかわからない異様な意味不明の叫びとと受け止められる。主体の存立をささえるもっとも中心的な言葉が、意味不明の無であるというのは、結局、主体の内奥の秘密は言語化できない、意味不明の叫びでしかないということになる。これは、中心に無と闇をかかえたこの映画の春と秋と冬の人物に等しくあてはまることだろう。
彼らの中心には、無が存在する。それが失われた夏だった――「ロストサマー」。そしてまた彼らの中心には、部外者にはわからない意味不明の言葉、いや言葉として認識されない叫びがあった。無と意味不明の叫び。同じものの二つの様相といえるだろう。
付記:私は高知県にも高知市にも行ったことがないのだが、この映画は、高知市の今の空気感のようなものがよく伝えているように思う。伊勢志摩国立公園のような風光明媚さとは違う、ありふれていながらも輝きを帯びる日常性のようものを映像はみごとにとらえている。
唯一気になったのは、日曜市の場面。おそらくコロナ渦の真っ最中に撮影したのだろう。売るほうも買うほうも、全員マスクをしている。マスクをしていない人はひとりもいない。そのなかで林裕太と小林勝也のふたりだけがマスクをしてないのは、なんとも異様なことなのだが。
2023年10月19日
『親のお金は誰のもの――法定相続人』
田中光敏監督による成年後見人制度と遺産争いの主題が、三重県伊勢志摩を舞台にして展開する映画。成年後見人制度がはらむ問題を鋭くえぐりだす映画だが、同時に、三重県伊勢志摩を舞台とするご当地映画でもある。
『女子大小路の名探偵』と同じようなご当地映画でもあるのだが、すでに女子大小路は絵にならないと書いたばかりなのに、この『親のお金は誰のもの』の舞台、伊勢志摩は、絵になる、絵になりすぎるといってもいい。
そもそも国立公園なのだから当然といえば当然なのだが、映画のエンドクレジットもまた伊勢志摩のリアス式海岸と真珠の養殖場をこれでもかというほど映し出す。絵にならない女子大小路とは雲泥の差である。この映画に『女子大小路の名探偵』は負けた。
成年後見人問題についてはよくわからないのだが、たとえば年老いて認知症になった親の財産の管理を親族にまかせると、親族が親のためではなく自分のために財産を使いはたすことがある。そのため裁判所が、公正な第三者(弁護士とか司法書士など)を財産管理者として任命することになる。
この映画のなかでは親を認知症扱いにして(知り合いの医者に偽の診断書を書かせ)、裁判所に届け出て、自分たちで財産を管理しようとする最低の娘たちが存在する。ところが彼女たちの思惑とは裏腹に、裁判所は、利害のからまない公正な弁護士を管理者として任命する。そのため親族といえども、管理者の弁護士の許可なく財産を使うことはできない。そこまではよいように思われる。
ところが財産の管理を任された弁護士が、財産を親族に使わせず、自分たちで勝手に使い暴利をむさぼるという事例が多発し、それがあらたな問題になる。
片や、親の財産を奪おうとする貪欲で最低の家族。片や、財産管理を隠れ蓑にしてあずかった財産を勝手に使用・運用する貪欲で最低の弁護士。
ただし、この両者の葛藤では、あまりに殺伐としすぎるために、コミカルな要素を多くとりいれ、そこにまた親子の葛藤と情愛、人生の意味、貪欲さの影にある苦悩といった人間的要素も取り入れて、軽いけれども同時に深いドラマが展開する。この部分を比嘉愛未が担当しているように思われる。そして伊勢志摩の光景もまた全体の雰囲気づくりに貢献している。
ネット上に、監督の遊び心も盛り込まれているとのコメントがあったので、どこにそれがあるのかと考えてみた。高価な真珠の真贋を確かめるためにブラックライトにかざすという場面が、フラメンコの舞台であって、そこでのドタバタと、フラメンコダンサー以外にも舞台奥にまぎれこんだ人物全員がフラメンコを踊るというコミカルでありえない場面がそうかなとも思う。面白いのだが、コメディ要素が強すぎるといえなくもない。
田中光敏監督は、三浦が好きなようだ。前作の『天外者』(「てんがらもん」と読む、鹿児島弁で意味は、異能者、ずばぬけてすぐれた才能を持つ者を指す)では、今は亡き三浦春馬が主人公だった。今回『親のお金は誰のもの』でも比嘉愛未とW主演の三浦祥平が、『天外者』でも坂本龍馬役で登場していた。ダブル三浦。
そして『親のお金は誰のもの』でも真珠養殖の名人役で三浦友和が、敏腕弁護士役で三浦祥平が登場している。ここでもダブル三浦。
『天外者』を思い出したことで、『親のお金は誰のもの』における冒頭もあらためて思い直した。
弁護士の三浦翔平が追われて市場を必死に逃げている。追うのは、みるからにいかついプロレスラーたちなのだが、やり手の弁護士である三浦祥平がこんなふうに追われるというのは、その後の映画の展開からして、まずありえない、場違いな展開であるようにみえる。
しかし『天外者』を思い出した。そこでは冒頭、三浦春馬がほかの武士たちに負われて港町を必死で逃げ回っていたのではないか。そう、逃げまわる主人公、これは『天外者』からか、もっと前からは覚えていないのだが、田中光敏監督印であることはまちがいないだろう。
付記:この映画でも『女子大小路の名探偵』でも田中要次が出演している。いまや、日本映画における、ユニヴァーサルなアクターとしての地位を確立しているかにみえる。
『女子大小路の名探偵』と同じようなご当地映画でもあるのだが、すでに女子大小路は絵にならないと書いたばかりなのに、この『親のお金は誰のもの』の舞台、伊勢志摩は、絵になる、絵になりすぎるといってもいい。
そもそも国立公園なのだから当然といえば当然なのだが、映画のエンドクレジットもまた伊勢志摩のリアス式海岸と真珠の養殖場をこれでもかというほど映し出す。絵にならない女子大小路とは雲泥の差である。この映画に『女子大小路の名探偵』は負けた。
成年後見人問題についてはよくわからないのだが、たとえば年老いて認知症になった親の財産の管理を親族にまかせると、親族が親のためではなく自分のために財産を使いはたすことがある。そのため裁判所が、公正な第三者(弁護士とか司法書士など)を財産管理者として任命することになる。
この映画のなかでは親を認知症扱いにして(知り合いの医者に偽の診断書を書かせ)、裁判所に届け出て、自分たちで財産を管理しようとする最低の娘たちが存在する。ところが彼女たちの思惑とは裏腹に、裁判所は、利害のからまない公正な弁護士を管理者として任命する。そのため親族といえども、管理者の弁護士の許可なく財産を使うことはできない。そこまではよいように思われる。
ところが財産の管理を任された弁護士が、財産を親族に使わせず、自分たちで勝手に使い暴利をむさぼるという事例が多発し、それがあらたな問題になる。
片や、親の財産を奪おうとする貪欲で最低の家族。片や、財産管理を隠れ蓑にしてあずかった財産を勝手に使用・運用する貪欲で最低の弁護士。
ただし、この両者の葛藤では、あまりに殺伐としすぎるために、コミカルな要素を多くとりいれ、そこにまた親子の葛藤と情愛、人生の意味、貪欲さの影にある苦悩といった人間的要素も取り入れて、軽いけれども同時に深いドラマが展開する。この部分を比嘉愛未が担当しているように思われる。そして伊勢志摩の光景もまた全体の雰囲気づくりに貢献している。
ネット上に、監督の遊び心も盛り込まれているとのコメントがあったので、どこにそれがあるのかと考えてみた。高価な真珠の真贋を確かめるためにブラックライトにかざすという場面が、フラメンコの舞台であって、そこでのドタバタと、フラメンコダンサー以外にも舞台奥にまぎれこんだ人物全員がフラメンコを踊るというコミカルでありえない場面がそうかなとも思う。面白いのだが、コメディ要素が強すぎるといえなくもない。
田中光敏監督は、三浦が好きなようだ。前作の『天外者』(「てんがらもん」と読む、鹿児島弁で意味は、異能者、ずばぬけてすぐれた才能を持つ者を指す)では、今は亡き三浦春馬が主人公だった。今回『親のお金は誰のもの』でも比嘉愛未とW主演の三浦祥平が、『天外者』でも坂本龍馬役で登場していた。ダブル三浦。
そして『親のお金は誰のもの』でも真珠養殖の名人役で三浦友和が、敏腕弁護士役で三浦祥平が登場している。ここでもダブル三浦。
『天外者』を思い出したことで、『親のお金は誰のもの』における冒頭もあらためて思い直した。
弁護士の三浦翔平が追われて市場を必死に逃げている。追うのは、みるからにいかついプロレスラーたちなのだが、やり手の弁護士である三浦祥平がこんなふうに追われるというのは、その後の映画の展開からして、まずありえない、場違いな展開であるようにみえる。
しかし『天外者』を思い出した。そこでは冒頭、三浦春馬がほかの武士たちに負われて港町を必死で逃げ回っていたのではないか。そう、逃げまわる主人公、これは『天外者』からか、もっと前からは覚えていないのだが、田中光敏監督印であることはまちがいないだろう。
付記:この映画でも『女子大小路の名探偵』でも田中要次が出演している。いまや、日本映画における、ユニヴァーサルなアクターとしての地位を確立しているかにみえる。
posted by ohashi at 02:47| 映画
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2023年10月15日
『女子大小路の名探偵』
そもそも女子大小路とは何だと思われるかもしれないが、名古屋(出身も含む)の人間なら、誰もが知っている。ただし「女子大」から連想されるような所とはまったく違う。ちょうど東京の新宿歌舞伎町が、歌舞伎とか演劇とは何の関係もないように(かつては新宿の地に歌舞伎劇場があり、また戦後に歌舞伎劇場を造る計画があった)。
Wikipediaの説明によると、「1963年まで中京女子短期大学(現・至学館大学短期大学部)が現在の名古屋東急ホテルの場所にあり、大学体育館の西側の路地に並ぶ店の店主達がこの通称で呼ぶようになった」。
つまりそこはバー、スナック、居酒屋、ホストクラブ、ゲイバー、風俗店などがひしめく歓楽街、それもいまでも名古屋で一二を争う歓楽街である。
私はそこで酒を飲んだことはない。十八歳で東京に出てきたためだが、たとえずっと名古屋にいても、そこには近づかなかったと思うのだが、歓楽街として子供の頃から名前だけはよく知っていた。「女子大小路」という名称は印象的だった。
映画『女子大小路の名探偵』(松岡達夫監督、2023年)は、名古屋の「メ~テレ」が60周年記念で制作した映画。10月13日に全国封切りとなった。私もタイトルに誘われて映画館で観てみたが、変な映画ではない。十分に面白かったが、当初、この映画は本仮屋ユイカ主演、平林克理監督で制作される予定だったが、トラブルがあって剛力彩芽主演、松岡達夫監督の作品となった。なにがあったのかは決定的なことは明らかになっていない。なにかもやもやとした感じが残るのだが、それと同じように、この映画そのものも、いろいろな面で、もやもやとしたものが残る。そこが味なのか、欠陥なのかは、よくわからないのだが。それがもやもやすることのひとつ。
映画の冒頭はちょっと驚く。このような導入は、映画ではなくて、連続テレビドラマのノリである。続編狙いかとも思われるのだが、たぶんテレビ映画として、テレビでの放映を念頭に置いてのことなのだろうか。繰り返すが、このような導入は、かつてはよくあったようにも思うが、いまの映画ではちょっとありえない。
原作は読んでいないのだが、タイトルの名探偵は誰かということになると、最終的に事件を解決する広中美桜/剛力彩芽のことだろうと、映画の途中から予想する。しかし映画の最後で、広中美桜/剛力彩芽の弟、広中大夏/醍醐虎沙朗が夜は雇われマスターとして働いているスナックを、昼間は探偵事務所にすることになり、彼が探偵なのである。探偵は剛力ではなく、弟のほうだった。原作を読んでいないのだが、原作では弟が主人公らしい。しかし映画を観るかぎり、姉のほうが主人公たらざるをえない。弟はへなちょこでポンコツなダメ男である(「名探偵」というのは皮肉であろう)一方、姉のほうが謎を解決し犯人を逮捕する罠を仕掛けるのだから。
こまかなことをいうと、剛力が、レストランを訪れるのだが、そこは、かつて剛力の弟が、のちに彼の恋人になる児相職員、加納秋穂/北原里英と最初に出会った場所だった。剛力は、その場で、弟と北原里英の出会いを想像する――映像としては二人が出会う。この場面を、剛力が突然超能力で過去の出来事を見抜くとか書いているネット上のコメントがあったが、剛力は超能力を付与されているわけではない。ただ弟から話を聞き、それに基づいて、レストランでの弟と北原の出会いを想像したにすぎないので、超能力でもなんでもないことになる。
しかし、その場に、のちに剛力の弟を重要な容疑者として尋問する刑事(小沢一敬)が、居合わせたていたことを剛力はどうして知ったのだろうかと思い返せば不思議である。彼女の弟がそれを知ってはいないはず(ただし弟はその直後に暴れ、そこをその刑事が取り押さえられたのだから、ある程度記憶に残っていたとしてもおかしくはないのだが)。となると剛力が過去の出来事を透視したという可能性も捨てきれない。
もう少し大きなもやもやを考えると、映画では剛力は、夜は岐阜市の柳ケ瀬でホステスをしている。弟は名古屋の女子大小路のスナックで雇われマスターとして働いている。名古屋市と岐阜市の二市物語である。問題は、場面によっては、岐阜市内なのか名古屋市内なのかわからないときがあることだ。それは映画の責任ではなく、観ている側の不注意だろうと言われればそれまでだが、ただ、両市は、その一部を切り取れば、どちらも地方都市の一区画にすぎず、差異はない。製作者側は、二つの市を区別しているとしても、観る側にとっては、混乱をもたらすかもしれないのだ。
【あと、これは名古屋出身の人間の悪しき優越感あるいは妬みかもしれないのだが、映画で、岐阜市駅前に立っているりっぱな織田信長の像が映し出されたとき、私は嫌な感じがした。信長は尾張出身であって、岐阜市出身ではない。たしかに信長は天下取りの段階で、いろいろな場所を本拠地とし(居城を変えた)、尾張だけの戦国時代の英傑ではないことはわかる。またいまの岐阜市に楽市楽座を開設したことで、岐阜と信長との間につながりが生まれたこともわかる。しかし、信長は、あくまでも尾張・名古屋の英傑である。
ちなみに剛力彩芽と戸田恵子の親子と田中要次が食事をする場所のひとつが、「炭鶏ともつ鍋料理信長本店」というところらしい。鶏肉の炭火焼きともつ鍋は、九州の名物料理であって、信長とはなんの関係もないではないか。ともかく岐阜市は、信長の名前を使いすぎる。これは尾張・名古屋市に喧嘩を売っているようなものである。そしてほんとうになさけないことは、どうも、名古屋市はこの売られた喧嘩に負けていることだ。この点は後日触れたい。
とはいえ、これだけは言わせてもらいたい。岐阜高島屋が来年7月に閉店することになって、これで岐阜県は、山形県、徳島県、島根県に続いて4番目のデパートなし県となる。恥を知れ。楽市楽座を設けた信長に岐阜県民はどう顔向けをするのだ。信長をかつぎだして、弱腰の名古屋市民を蹴散らしても、デパートなし県という不名誉によって信長の遺志を裏切っていることはまちがいないのだ。】
秦建日子氏の原作を氏自身が脚本にしているのだが、95分の作品にまとめるために、説明不足になっているところが多いように思われる(原作は読んでいないのだが)。結局、あれはどうなったのかと思わずにはいられない要素がけっこうある。このへんは観客に想像してもらうしかないと制作側が省略したり放置したりした箇所がけっこうあるように思う。残念ながら観客は、そんなに察しがよくない。むしろ観客は、説明不足のところを想像力で補うというよりは、批判するほうに走るのではないだろうか。
主人公の性格付けという点では、もしこの映画の完成形と、本仮屋ユイカがもめた台本とが同じだったとしたら、この役は、剛力彩芽には似合っていても、本仮屋ユイカにはぴったりこないように思う。本仮屋にしてみれば、新たなイメージ・チェンジに挑戦するつもりだったのかもしれないが、最終的に降板となったのは、やはり台本に難ありとしか思えない。
今回の完成形の台本と、本仮屋が格闘していた台本が同じなのか違うのか、違うとすればどう違うのは情報がないのではっきりしないが、説明不足の映画の流れからして、台本にはさまざまな問題が噴出していたのではないかと思う。面白い内容なのだが、その面白さを映画化するときにそこなわないようにするなかで、いろいろ無理が生じてきたのではとも思う。
あとダイハツが協賛しているのだが、名古屋だったら、トヨタを出してほしい。もちろんダイハツは、いまではトヨタの完全子会社なのだが、ダイハツは、「大阪発動機」を略した名称(大・発)でもあることからわかるように、本来、大阪の会社であって、名古屋発の企業ではない。そこにも、もやもや感がある。
あるいは主人公の剛力彩芽が、歳の離れた大学教授(田中要次)と、いとも簡単に家族ぐるみの付き合いをはじめてしまうのには、なにか説明があってしかるべきと思うのだが。まあ、これも説明不足のひとつなので、これくらいにしておく。
ただ、最後に、女子大小路のたたずまいについて。
280メートルほどの通りに、居酒屋、バー、スナック、ホストクラブ、ゲイバー、風俗店がひしめきあっているところは、まさに魔界、あるいは英語でいえば、まさにfleshpots(肉鍋という意味じゃない)。さぞかしすごい絵がスクリーンに映し出されるのかと期待するのだが、実際の女子大小路、夜ならばともかく、昼間の女子大小路は、地方都市の歓楽街どころか、地方都市のありふれた商店街にしかみえない。そこがこの映画の一番残念なところである。現実の女子大小路は、その名称からにじみでる不思議なイメージとは裏腹に、まったく絵にならない。ああ、ほんとうに絵にならない。映画としては、それは致命的な欠陥かもしれない。しかも、こればっかりは、加工あるいは修正しようがない。絵のない映画になってしまったのは惜しい。ほんとうに。
付記:大学の先生は、学生のことを「生徒」とは呼ばない。大学生を「生徒」と呼ぶのは一般的慣習かもしれないが、そもそも大学生は生徒ではない。その証拠に、いまではすたれたのかもしれないが、大学は、学生に、学生手帳を配布したり買わせたりしている。いっぽう中学生と高校生に学校がもたせているのは生徒手帳である。中学生や高校生は生徒手帳をもっている。大学生は学生手帳をもっている。大学生を生徒と呼ぶのは端的にいってまちがいである。
Wikipediaの説明によると、「1963年まで中京女子短期大学(現・至学館大学短期大学部)が現在の名古屋東急ホテルの場所にあり、大学体育館の西側の路地に並ぶ店の店主達がこの通称で呼ぶようになった」。
つまりそこはバー、スナック、居酒屋、ホストクラブ、ゲイバー、風俗店などがひしめく歓楽街、それもいまでも名古屋で一二を争う歓楽街である。
私はそこで酒を飲んだことはない。十八歳で東京に出てきたためだが、たとえずっと名古屋にいても、そこには近づかなかったと思うのだが、歓楽街として子供の頃から名前だけはよく知っていた。「女子大小路」という名称は印象的だった。
映画『女子大小路の名探偵』(松岡達夫監督、2023年)は、名古屋の「メ~テレ」が60周年記念で制作した映画。10月13日に全国封切りとなった。私もタイトルに誘われて映画館で観てみたが、変な映画ではない。十分に面白かったが、当初、この映画は本仮屋ユイカ主演、平林克理監督で制作される予定だったが、トラブルがあって剛力彩芽主演、松岡達夫監督の作品となった。なにがあったのかは決定的なことは明らかになっていない。なにかもやもやとした感じが残るのだが、それと同じように、この映画そのものも、いろいろな面で、もやもやとしたものが残る。そこが味なのか、欠陥なのかは、よくわからないのだが。それがもやもやすることのひとつ。
映画の冒頭はちょっと驚く。このような導入は、映画ではなくて、連続テレビドラマのノリである。続編狙いかとも思われるのだが、たぶんテレビ映画として、テレビでの放映を念頭に置いてのことなのだろうか。繰り返すが、このような導入は、かつてはよくあったようにも思うが、いまの映画ではちょっとありえない。
原作は読んでいないのだが、タイトルの名探偵は誰かということになると、最終的に事件を解決する広中美桜/剛力彩芽のことだろうと、映画の途中から予想する。しかし映画の最後で、広中美桜/剛力彩芽の弟、広中大夏/醍醐虎沙朗が夜は雇われマスターとして働いているスナックを、昼間は探偵事務所にすることになり、彼が探偵なのである。探偵は剛力ではなく、弟のほうだった。原作を読んでいないのだが、原作では弟が主人公らしい。しかし映画を観るかぎり、姉のほうが主人公たらざるをえない。弟はへなちょこでポンコツなダメ男である(「名探偵」というのは皮肉であろう)一方、姉のほうが謎を解決し犯人を逮捕する罠を仕掛けるのだから。
こまかなことをいうと、剛力が、レストランを訪れるのだが、そこは、かつて剛力の弟が、のちに彼の恋人になる児相職員、加納秋穂/北原里英と最初に出会った場所だった。剛力は、その場で、弟と北原里英の出会いを想像する――映像としては二人が出会う。この場面を、剛力が突然超能力で過去の出来事を見抜くとか書いているネット上のコメントがあったが、剛力は超能力を付与されているわけではない。ただ弟から話を聞き、それに基づいて、レストランでの弟と北原の出会いを想像したにすぎないので、超能力でもなんでもないことになる。
しかし、その場に、のちに剛力の弟を重要な容疑者として尋問する刑事(小沢一敬)が、居合わせたていたことを剛力はどうして知ったのだろうかと思い返せば不思議である。彼女の弟がそれを知ってはいないはず(ただし弟はその直後に暴れ、そこをその刑事が取り押さえられたのだから、ある程度記憶に残っていたとしてもおかしくはないのだが)。となると剛力が過去の出来事を透視したという可能性も捨てきれない。
もう少し大きなもやもやを考えると、映画では剛力は、夜は岐阜市の柳ケ瀬でホステスをしている。弟は名古屋の女子大小路のスナックで雇われマスターとして働いている。名古屋市と岐阜市の二市物語である。問題は、場面によっては、岐阜市内なのか名古屋市内なのかわからないときがあることだ。それは映画の責任ではなく、観ている側の不注意だろうと言われればそれまでだが、ただ、両市は、その一部を切り取れば、どちらも地方都市の一区画にすぎず、差異はない。製作者側は、二つの市を区別しているとしても、観る側にとっては、混乱をもたらすかもしれないのだ。
【あと、これは名古屋出身の人間の悪しき優越感あるいは妬みかもしれないのだが、映画で、岐阜市駅前に立っているりっぱな織田信長の像が映し出されたとき、私は嫌な感じがした。信長は尾張出身であって、岐阜市出身ではない。たしかに信長は天下取りの段階で、いろいろな場所を本拠地とし(居城を変えた)、尾張だけの戦国時代の英傑ではないことはわかる。またいまの岐阜市に楽市楽座を開設したことで、岐阜と信長との間につながりが生まれたこともわかる。しかし、信長は、あくまでも尾張・名古屋の英傑である。
ちなみに剛力彩芽と戸田恵子の親子と田中要次が食事をする場所のひとつが、「炭鶏ともつ鍋料理信長本店」というところらしい。鶏肉の炭火焼きともつ鍋は、九州の名物料理であって、信長とはなんの関係もないではないか。ともかく岐阜市は、信長の名前を使いすぎる。これは尾張・名古屋市に喧嘩を売っているようなものである。そしてほんとうになさけないことは、どうも、名古屋市はこの売られた喧嘩に負けていることだ。この点は後日触れたい。
とはいえ、これだけは言わせてもらいたい。岐阜高島屋が来年7月に閉店することになって、これで岐阜県は、山形県、徳島県、島根県に続いて4番目のデパートなし県となる。恥を知れ。楽市楽座を設けた信長に岐阜県民はどう顔向けをするのだ。信長をかつぎだして、弱腰の名古屋市民を蹴散らしても、デパートなし県という不名誉によって信長の遺志を裏切っていることはまちがいないのだ。】
秦建日子氏の原作を氏自身が脚本にしているのだが、95分の作品にまとめるために、説明不足になっているところが多いように思われる(原作は読んでいないのだが)。結局、あれはどうなったのかと思わずにはいられない要素がけっこうある。このへんは観客に想像してもらうしかないと制作側が省略したり放置したりした箇所がけっこうあるように思う。残念ながら観客は、そんなに察しがよくない。むしろ観客は、説明不足のところを想像力で補うというよりは、批判するほうに走るのではないだろうか。
主人公の性格付けという点では、もしこの映画の完成形と、本仮屋ユイカがもめた台本とが同じだったとしたら、この役は、剛力彩芽には似合っていても、本仮屋ユイカにはぴったりこないように思う。本仮屋にしてみれば、新たなイメージ・チェンジに挑戦するつもりだったのかもしれないが、最終的に降板となったのは、やはり台本に難ありとしか思えない。
今回の完成形の台本と、本仮屋が格闘していた台本が同じなのか違うのか、違うとすればどう違うのは情報がないのではっきりしないが、説明不足の映画の流れからして、台本にはさまざまな問題が噴出していたのではないかと思う。面白い内容なのだが、その面白さを映画化するときにそこなわないようにするなかで、いろいろ無理が生じてきたのではとも思う。
あとダイハツが協賛しているのだが、名古屋だったら、トヨタを出してほしい。もちろんダイハツは、いまではトヨタの完全子会社なのだが、ダイハツは、「大阪発動機」を略した名称(大・発)でもあることからわかるように、本来、大阪の会社であって、名古屋発の企業ではない。そこにも、もやもや感がある。
あるいは主人公の剛力彩芽が、歳の離れた大学教授(田中要次)と、いとも簡単に家族ぐるみの付き合いをはじめてしまうのには、なにか説明があってしかるべきと思うのだが。まあ、これも説明不足のひとつなので、これくらいにしておく。
ただ、最後に、女子大小路のたたずまいについて。
280メートルほどの通りに、居酒屋、バー、スナック、ホストクラブ、ゲイバー、風俗店がひしめきあっているところは、まさに魔界、あるいは英語でいえば、まさにfleshpots(肉鍋という意味じゃない)。さぞかしすごい絵がスクリーンに映し出されるのかと期待するのだが、実際の女子大小路、夜ならばともかく、昼間の女子大小路は、地方都市の歓楽街どころか、地方都市のありふれた商店街にしかみえない。そこがこの映画の一番残念なところである。現実の女子大小路は、その名称からにじみでる不思議なイメージとは裏腹に、まったく絵にならない。ああ、ほんとうに絵にならない。映画としては、それは致命的な欠陥かもしれない。しかも、こればっかりは、加工あるいは修正しようがない。絵のない映画になってしまったのは惜しい。ほんとうに。
付記:大学の先生は、学生のことを「生徒」とは呼ばない。大学生を「生徒」と呼ぶのは一般的慣習かもしれないが、そもそも大学生は生徒ではない。その証拠に、いまではすたれたのかもしれないが、大学は、学生に、学生手帳を配布したり買わせたりしている。いっぽう中学生と高校生に学校がもたせているのは生徒手帳である。中学生や高校生は生徒手帳をもっている。大学生は学生手帳をもっている。大学生を生徒と呼ぶのは端的にいってまちがいである。
posted by ohashi at 10:17| 映画
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2023年10月09日
『MEG2』
『MEG ザ・モンスターズ2』Meg2:The Trench(監督:ベン・ウィートリー アメリカ・中国映画、2023年)。
前作『MEG ザ・モンスター』(監督:ジョン・タートルトーブ、アメリカ・中国映画、2018)は、巨大なサメと戦うという、ジェイソン・ステイサム主演のアクション映画のなかでも主流ではない傍流の異色作というべきもので、私自身、どうしてわざわざ映画館で観たのか今となっては思い出せない。上映中の映画をかたっぱしから観たというわけではないのだが、コロナ渦直前のことは別時代のことのように思えて、なぜ観たのか記憶がとんでいる。
しかし続編のほうは、古代に生息したという超巨大サメ、メガドロンの人気に後押しされて世界中でヒットしているらしい。前作をみたこともあって、今回も映画館で観た。現在は、配信がはじまるようだが(もちろん、前作も、サメ人気それもばかばかしい人気の潮流に乗ったものであることは言うまでもないのだが)。
前作はテレビ(CS)で放送され配信もさいれているので、ご覧になった方も多いと思うが、続編のほうは、メガロドンがたくさん出てきて話のスケールは大きくなったが、物語的には、前作のほうが面白かったように思う。前作では少女だった女性が、今作をでは大きくなった(同じ女優かどうは不明)。また前作の人物たちの多くは入れ替わって新たな人間関係が形成されていた。続編だけに接する観客には、この作品は充分に面白い作品だと思う。ただ前作を観ている私にとってこの続編は、前作のフォーマット(最後に観光地の海水浴場でメグが暴れる、犬が溺れかかる)を踏襲しつついも、新たな監督を迎え、モンスターを増やし、話もスケールを大きくしていても、やや期待はずれだった。
小さな驚きとしては、海洋研究所の調査研究を支援する出資者としてシエンナ・ギロリーが登場していたこと。誰だと思うかもしれないが、『バイオハザード』シリーズには2で初めて登場し、その続編2編にも登場していた。私にとって彼女はテレビのミニシリーズ『トロイのヘレン』(2003)のもちろんヘレンである。当然ながら彼女は、年齢を重ねていて、今回は悪役として登場。最後にはメグではなく、べつの爬虫類(両生類か?)のモンスターに食べられてしまうのだが、死体がなかったので、第三作以降に再度登場するのだろうか。
ただし、これで記事を終えるのも寂しいので、付け加えると――巨大なモンスターに襲われるという映画、あるいは巨大ではなくてもサメに襲われる映画の恐怖と面白さは、サメであれメガロドンであれ、それが母性の象徴となっていることにある。
幼児にとって親は物理的に巨大にみえる。もちろん父親も物理的に巨大にみえるのだが、身体的接触の度合いからして、圧倒的に母親のほうが巨人イメージが強い。そこに幼児が抱く母親へのアンビヴァレントな感情の出自がある。
母親は、その巨大さゆえに幼児を守りはぐくむ慈悲深い存在である同時に幼児を圧迫し威圧する恐怖の存在にもなる。母親への愛は母親への恐怖と憎悪と背中合わせになっている。さらに男の子の場合、母親には異性の影が、つまり女性性が付随する。男の子にとって愛の対象たる女性は、同時に、迫害する魔女的存在となる。
【巨大モンスターではないが、巨神兵的な存在である『エヴァンゲリオン』におけるエヴァ機を想起してもいい。初期のエヴァ機には操縦者の母親のデータと人格が埋め込まれている。】
「MEG」というのはメガロドンMegalodonの略語だが、同時に、女性名でもある。また『MEG2』では海洋研究所で保護・飼育しているメガロドンは雌という設定である。巨大な母をコントロールするという男性的科学のファンタジー。このメグは、おそらく他のメガロドンから研究所関係者を守ってくれているのだが、同時に、いつ襲ってくるかもしれない恐怖の存在でもある。
そしてメガロドンの象徴、その代用ともいえるものが、巨大な顎と鋭い歯である。もしメガロドンが母親/女性であるとするならば、この顎と歯は何を意味するのか。
ラテン語で「ヴァギナ・デンタタ」(Vāgīna dentāta)、英語でデンタル・ヴァジャイナ(Dental Vagina)がそれである。歯の生えた膣。男性にとって欲望の焦点たる女性の性器が、同時に、男性を去勢する凶器ともなりうるという、男性が女性に対して抱くアンビヴァレントな感情を、この歯の生えた膣は示している。
ちなみに私が、「デンタル・ヴァギナ」(と、英語とラテン語と日本語からなるハイブリッドな表現で私は今も記憶しているのだが)について初めて知ったのは、以前というか、ずいぶん昔のことだが、エドガー・アラン・ポオの短編「ベレニス」についての解釈を読んだときのことである。
そもそも「メガロドン」の語源は、「大きな+歯」である。ジョーズもそうだったが、このメガロドンもまた「デンタル・ヴァギナ」のモンスターなのである。
前作『MEG ザ・モンスター』(監督:ジョン・タートルトーブ、アメリカ・中国映画、2018)は、巨大なサメと戦うという、ジェイソン・ステイサム主演のアクション映画のなかでも主流ではない傍流の異色作というべきもので、私自身、どうしてわざわざ映画館で観たのか今となっては思い出せない。上映中の映画をかたっぱしから観たというわけではないのだが、コロナ渦直前のことは別時代のことのように思えて、なぜ観たのか記憶がとんでいる。
しかし続編のほうは、古代に生息したという超巨大サメ、メガドロンの人気に後押しされて世界中でヒットしているらしい。前作をみたこともあって、今回も映画館で観た。現在は、配信がはじまるようだが(もちろん、前作も、サメ人気それもばかばかしい人気の潮流に乗ったものであることは言うまでもないのだが)。
前作はテレビ(CS)で放送され配信もさいれているので、ご覧になった方も多いと思うが、続編のほうは、メガロドンがたくさん出てきて話のスケールは大きくなったが、物語的には、前作のほうが面白かったように思う。前作では少女だった女性が、今作をでは大きくなった(同じ女優かどうは不明)。また前作の人物たちの多くは入れ替わって新たな人間関係が形成されていた。続編だけに接する観客には、この作品は充分に面白い作品だと思う。ただ前作を観ている私にとってこの続編は、前作のフォーマット(最後に観光地の海水浴場でメグが暴れる、犬が溺れかかる)を踏襲しつついも、新たな監督を迎え、モンスターを増やし、話もスケールを大きくしていても、やや期待はずれだった。
小さな驚きとしては、海洋研究所の調査研究を支援する出資者としてシエンナ・ギロリーが登場していたこと。誰だと思うかもしれないが、『バイオハザード』シリーズには2で初めて登場し、その続編2編にも登場していた。私にとって彼女はテレビのミニシリーズ『トロイのヘレン』(2003)のもちろんヘレンである。当然ながら彼女は、年齢を重ねていて、今回は悪役として登場。最後にはメグではなく、べつの爬虫類(両生類か?)のモンスターに食べられてしまうのだが、死体がなかったので、第三作以降に再度登場するのだろうか。
ただし、これで記事を終えるのも寂しいので、付け加えると――巨大なモンスターに襲われるという映画、あるいは巨大ではなくてもサメに襲われる映画の恐怖と面白さは、サメであれメガロドンであれ、それが母性の象徴となっていることにある。
幼児にとって親は物理的に巨大にみえる。もちろん父親も物理的に巨大にみえるのだが、身体的接触の度合いからして、圧倒的に母親のほうが巨人イメージが強い。そこに幼児が抱く母親へのアンビヴァレントな感情の出自がある。
母親は、その巨大さゆえに幼児を守りはぐくむ慈悲深い存在である同時に幼児を圧迫し威圧する恐怖の存在にもなる。母親への愛は母親への恐怖と憎悪と背中合わせになっている。さらに男の子の場合、母親には異性の影が、つまり女性性が付随する。男の子にとって愛の対象たる女性は、同時に、迫害する魔女的存在となる。
【巨大モンスターではないが、巨神兵的な存在である『エヴァンゲリオン』におけるエヴァ機を想起してもいい。初期のエヴァ機には操縦者の母親のデータと人格が埋め込まれている。】
「MEG」というのはメガロドンMegalodonの略語だが、同時に、女性名でもある。また『MEG2』では海洋研究所で保護・飼育しているメガロドンは雌という設定である。巨大な母をコントロールするという男性的科学のファンタジー。このメグは、おそらく他のメガロドンから研究所関係者を守ってくれているのだが、同時に、いつ襲ってくるかもしれない恐怖の存在でもある。
そしてメガロドンの象徴、その代用ともいえるものが、巨大な顎と鋭い歯である。もしメガロドンが母親/女性であるとするならば、この顎と歯は何を意味するのか。
ラテン語で「ヴァギナ・デンタタ」(Vāgīna dentāta)、英語でデンタル・ヴァジャイナ(Dental Vagina)がそれである。歯の生えた膣。男性にとって欲望の焦点たる女性の性器が、同時に、男性を去勢する凶器ともなりうるという、男性が女性に対して抱くアンビヴァレントな感情を、この歯の生えた膣は示している。
ちなみに私が、「デンタル・ヴァギナ」(と、英語とラテン語と日本語からなるハイブリッドな表現で私は今も記憶しているのだが)について初めて知ったのは、以前というか、ずいぶん昔のことだが、エドガー・アラン・ポオの短編「ベレニス」についての解釈を読んだときのことである。
そもそも「メガロドン」の語源は、「大きな+歯」である。ジョーズもそうだったが、このメガロドンもまた「デンタル・ヴァギナ」のモンスターなのである。
posted by ohashi at 16:48| 映画
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2023年10月06日
『コンフィデンシャル:国際共助捜査』
『コンフィデンシャル/共助』(2017)の続編が『コンフィデンシャル:国際共助捜査』(2022)である。派手なアクション映画であるのだが、女性の観客が多い、しかもけっこう年配の女性客も多いのは、前作ではヒョンビンとユ・ヘジンがW主演で、今回はヒョンビン、ユ・ヘジン、そしてダニエル・ヘニーのトリプル主演だが、圧倒的にヒョンビン人気のゆえであろう。いうまでもなくヒョンビンは、あの『愛の不時着』のヒョンビンである。
『愛の不時着』が日本でも人気を博したとき、私はNetflixに入っていなかったので、視聴できないドラマ、それもテレビドラマというものにはまったく関心がなかった。その関心のなさは、なんとヒョンビンとソン・イェジンの『愛の不時着』ペアが出演している映画『ザ・ネゴシエーション』(2018、日本公開2019)を、それとは知らずに観ていたことである。
『ザ・ネゴシエーション』は、『愛の不時着』ブームが日本で起こる直前のことだったと思うのだが(ひょっとしたらブームの力で日本で公開されたのかもしれないが、そこはよくわからない)、映画館の予告編で観て面白そうな映画だからと観ただけで、まさかこの二人が『愛の不時着』でも共演して一大ブームを起こそうとは(ひょっとしたらすでに起こしているとは)夢にも思わなかった。そう『愛の不時着』ブームの時、この二人が主役だったとは、まったく知らなかったのである。
今回は『コンフィデンシャル:国際共助捜査』の公開を機に、前作『コンフィデンシャル/共助』を観てみた。韓国に逃亡した北朝鮮の犯罪者を追って韓国にやって来た北朝鮮の軍人が韓国の刑事と協力して犯人を捕まえるという話で、設定としては二つの国の文化の差がからむ興味深い展開を予想させるのだが、同時に似たような話というか映画もあった気がする。
そう、ウォルター・ヒル監督の『レッドブル』(1988)。ソ連の軍人が、アメリカに逃亡した犯人を追って渡米、アメリカの刑事と協力して犯人を追い詰めるという設定で、ソ連の超人的身体能力を誇る軍人/捜査官をシュワルツェネッガーが、アメリカ側の軽薄な刑事をジョン・ベルーシが演じていた。シュワルツェネッガーをヒョンビンと同列に置くのは抵抗があるかもしれないが、要は、カルチャー・ギャップが引き起こすドタバタあるいは異化を軸に犯人を逮捕するアクションを加味した映画のなかで、ふたりが異人としての役割を担っていたのである。
とはいえカルチャー・ギャップは、私自身にもあてはまって、『コンフィデンシャル/共助』のなかで韓国の刑事ユ・ヘジンが、GPSアンクレットをヒョンビンに装着させる場面がある――ヒョンビンの行動を監視するために適当な理由(刑事であることの証であるとか)をつけていることは察しがついた。しかし、ヒョンビンが公園にいると、GPSアンクレット着けた怪しい男が近づいてきて、アンクレットの外し方を教える。ここで何が起こっているのか判然としなかった。そこで調べてみた。韓国では2007年に位置追跡電子装置装着法が成立し、GPSアンクレットが義務付けられた――性犯罪の前歴者に(同様の法律は米、英、独、仏などでも施行、日本でも2026年以降に実施されるかもしれない)。つまりあの場面、ヒョンビンを性犯罪前歴者と誤認したもうひとりの前歴者が仲間の変態にアンクレットの外し方を伝授したということである。怪しく、またコミカルなシーンの意味が、ようやくわかった。
と、まあ同じようなコミカルなシーンは、続編では、前作以上にちりばめられていて、前作以上に大掛かりになったアクションと複雑な人間関係をさらに喜劇面でもバックアップすることになった。
そう、特筆すべきは、おそらく海外市場を狙っているのだろうが、韓国映画(アクション映画であっても)に特有の湿っぽさ、お涙頂戴的な要素が、共助捜査の二編にはない。たとえば先に例を挙げた『ザ・ネゴシエーション』は、意表をつく展開に脅かされつつも、最後には泣かせようとする意図がはっきりわかる――ある意味、正統的な韓国映画といえるのだが。それが共助捜査二編には希薄もしくは皆無で、コミカルな要素は多いが、笑わせて泣かせるのではなく、全体が乾いている。変に、あるいは過度にセンチメンタルにならずに、インターナショナル向けのアクション映画として終わらせている。そこがこの映画を印象深いものにしている。
付記:この映画で今回、新たに加わったFBI捜査官ジャックを演じているのは、ダニエル・ヘニー。ヒョンビンとは、2005年のテレビドラマ『私の名前はキム・サムスン』(2005)で共演して以来、17年ぶりの共演ということになっているが、そういわれても、それを観ていない私はとくには特に感慨もない。むしろダニエル・ヘニーが、2023年9月からamazonで第2シーズンの配信がはじまった連続ドラマ『ホイール・オブ・タイム』のレギュラーであることのほうに興味をそそられた。ダニエル・ヘニーは、異能者モイレン/ロザンムンド・パイクの護衛士ラン・モンドラゴランとして冒頭から登場している。
『愛の不時着』が日本でも人気を博したとき、私はNetflixに入っていなかったので、視聴できないドラマ、それもテレビドラマというものにはまったく関心がなかった。その関心のなさは、なんとヒョンビンとソン・イェジンの『愛の不時着』ペアが出演している映画『ザ・ネゴシエーション』(2018、日本公開2019)を、それとは知らずに観ていたことである。
『ザ・ネゴシエーション』は、『愛の不時着』ブームが日本で起こる直前のことだったと思うのだが(ひょっとしたらブームの力で日本で公開されたのかもしれないが、そこはよくわからない)、映画館の予告編で観て面白そうな映画だからと観ただけで、まさかこの二人が『愛の不時着』でも共演して一大ブームを起こそうとは(ひょっとしたらすでに起こしているとは)夢にも思わなかった。そう『愛の不時着』ブームの時、この二人が主役だったとは、まったく知らなかったのである。
今回は『コンフィデンシャル:国際共助捜査』の公開を機に、前作『コンフィデンシャル/共助』を観てみた。韓国に逃亡した北朝鮮の犯罪者を追って韓国にやって来た北朝鮮の軍人が韓国の刑事と協力して犯人を捕まえるという話で、設定としては二つの国の文化の差がからむ興味深い展開を予想させるのだが、同時に似たような話というか映画もあった気がする。
そう、ウォルター・ヒル監督の『レッドブル』(1988)。ソ連の軍人が、アメリカに逃亡した犯人を追って渡米、アメリカの刑事と協力して犯人を追い詰めるという設定で、ソ連の超人的身体能力を誇る軍人/捜査官をシュワルツェネッガーが、アメリカ側の軽薄な刑事をジョン・ベルーシが演じていた。シュワルツェネッガーをヒョンビンと同列に置くのは抵抗があるかもしれないが、要は、カルチャー・ギャップが引き起こすドタバタあるいは異化を軸に犯人を逮捕するアクションを加味した映画のなかで、ふたりが異人としての役割を担っていたのである。
とはいえカルチャー・ギャップは、私自身にもあてはまって、『コンフィデンシャル/共助』のなかで韓国の刑事ユ・ヘジンが、GPSアンクレットをヒョンビンに装着させる場面がある――ヒョンビンの行動を監視するために適当な理由(刑事であることの証であるとか)をつけていることは察しがついた。しかし、ヒョンビンが公園にいると、GPSアンクレット着けた怪しい男が近づいてきて、アンクレットの外し方を教える。ここで何が起こっているのか判然としなかった。そこで調べてみた。韓国では2007年に位置追跡電子装置装着法が成立し、GPSアンクレットが義務付けられた――性犯罪の前歴者に(同様の法律は米、英、独、仏などでも施行、日本でも2026年以降に実施されるかもしれない)。つまりあの場面、ヒョンビンを性犯罪前歴者と誤認したもうひとりの前歴者が仲間の変態にアンクレットの外し方を伝授したということである。怪しく、またコミカルなシーンの意味が、ようやくわかった。
と、まあ同じようなコミカルなシーンは、続編では、前作以上にちりばめられていて、前作以上に大掛かりになったアクションと複雑な人間関係をさらに喜劇面でもバックアップすることになった。
そう、特筆すべきは、おそらく海外市場を狙っているのだろうが、韓国映画(アクション映画であっても)に特有の湿っぽさ、お涙頂戴的な要素が、共助捜査の二編にはない。たとえば先に例を挙げた『ザ・ネゴシエーション』は、意表をつく展開に脅かされつつも、最後には泣かせようとする意図がはっきりわかる――ある意味、正統的な韓国映画といえるのだが。それが共助捜査二編には希薄もしくは皆無で、コミカルな要素は多いが、笑わせて泣かせるのではなく、全体が乾いている。変に、あるいは過度にセンチメンタルにならずに、インターナショナル向けのアクション映画として終わらせている。そこがこの映画を印象深いものにしている。
付記:この映画で今回、新たに加わったFBI捜査官ジャックを演じているのは、ダニエル・ヘニー。ヒョンビンとは、2005年のテレビドラマ『私の名前はキム・サムスン』(2005)で共演して以来、17年ぶりの共演ということになっているが、そういわれても、それを観ていない私はとくには特に感慨もない。むしろダニエル・ヘニーが、2023年9月からamazonで第2シーズンの配信がはじまった連続ドラマ『ホイール・オブ・タイム』のレギュラーであることのほうに興味をそそられた。ダニエル・ヘニーは、異能者モイレン/ロザンムンド・パイクの護衛士ラン・モンドラゴランとして冒頭から登場している。
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