2023年08月28日

『桜の園』

演出:ショーン・ホームズ、英語版脚本:サイモン・スティーヴンス、翻訳:広田敦郎、出演:原田美枝子、矢嶋智人、成河 ほか。

東京のPARCO劇場での公演は明日が最後だが、そのあと全国公演が待っている。今回の公演、斬新で目を見張るという演出ではないが、しかしけっこう攻めた刺激的演出で、従来の『桜の園』とは一線を画す優れた舞台となっている。

たとえばチェーホフの『桜の園』といえば、20世紀初頭(実質的には19世紀)ロシアの演劇を一挙に現代劇たらしめることになった、あの「音」、謎の音の存在が欠かせない。

ところが本公演では、その不気味な「音」が存在しない。これには驚いた。登場人物たちには音が聴こえている。事実、彼らが聴く音についての台詞がある。彼らはその不気味な音をめぐって台詞を交わす。しかし観客席では、あたかもそれが大人には聴こえないモスキート音であるかのように、まったくその音が聴こえないのだ。

その音はもちろん原作にある。ただその音の解釈はさまざまである。チェーホフも、その音については謎として放置しているようである。なぞの音。ただ今回は、その音の存在が最初から消されていた。

たとえば『ハムレット』の冒頭に、ハムレット王子の父親の亡霊が登場する。しかし私が初めてイギリスの劇団の舞台を日本で観たとき、デレク・ジャコビとかいう聞いたこともない俳優(当時の私にとっては)が、ハムレットを演じていた舞台で、俳優が演ずる亡霊は登場しなかった。衛兵たちには亡霊が観えているのだが、観客には見えない。その分、舞台上にあって観えない亡霊の不気味さは増した。

こういう演出もありなのかと思っていたが、今回の演出は、それと同じなのだろうか。実際、音が聴こえないので、その音をめぐる短いやり取りは、観客によって無視されてしまう可能性がある。なるほど聴こえる音よりも、聴こえない音のほうが不気味かもしれないのだが、今回の演出では、全員、どこかいかれている。そのいかれている人間たちが聴いたいかれている音ということで、不気味さが希釈されてしまうのではないだろうか。ここはなんともいいがたい不気味な音を観客にも聴かせるべきではなかったかと思う。

ひとつだけ気になるのは、たまたま私の観た回(本日ではない)では、機械かなにかの故障、もしくは人為的ミスによって、本来あるべき音を舞台に響かせることができなかったのではないかということである。だったら、怒るぞ。この音の不在は、顕著なので、劇評などでも触れられていると思うのだが、まだ劇評に目を通していないので、なんとも言えないのだが、事故でないことを祈るばかりである。


この謎の音を舞台に響かせない演出からもわかるように、斬新な攻めた演出で本公演の舞台は際立っている。実際のところ、こんな台詞が原作にあったのだろうかと思われる台詞も多々あって、原作に忠実な舞台というよりも大胆な翻案というイメージもあるのだが、同時に、これは誰が観てもまぎれもなくチェーホフの『桜の園』であって、斬新さと古典性とが危うい均衡を保っているといってもいい舞台である。

そう、それはチェーホフの原作が、斬新な解釈と演出で、壊れそうで壊れない、完全に改築されてもおかしくないところまできているのに、本来の骨組みとか枠組みはゆるぎなく、あるいは頑固に残っているという、微妙な均衡のうえに危うく残存しているそのさまがまさに、ラネーフスカヤ(原田美枝子)の館と、その奥に広がる桜の園--もはやサクランボを生むことのなくなった枯れる一歩手前の桜の木々――の壊れそうで壊れないありようと、見事にシンクロしているのである。

もちろん原作と桜の園と演出解釈との見事な同調性というか同期生を考えなくても、ショーン・ホームズの演出の舞台は、英国性を色濃くにじませているようにも思われる。その証拠のひとつが、舞台の上方に吊り下げられたというか吊り上げられた、いまにも落ちてきて、人物を全員押しつぶしかねない、重たそうな石の壁の存在である。舞台となる屋敷の子供部屋の四方の壁が舞台上方に吊り上げられて、部屋の内部が舞台上に露呈するということなのだろうが、同時に、重たそうな石の壁は、登場人物全員の圧し掛かる重さ・重荷の存在を暗示というか明示していることはまちがいない。(もうひとつの暗示は、これは石棺あるいは墓石であって、これが上方へと持ち上げられて、なかの死者たちが動き始めたということである)

と同時に、舞台に、むりやりそうした「屋根」をこしらえて緊迫感と象徴性を出すのは、いかにも英国の、はやりの舞台づくりと私は勝手に思っているので、音楽や衣装(とくに舞踏会の衣装)の使い方などとあいまって、英国の舞台らしさが濃厚に出ている演出ではないかとひとりで納得している。


劇中でガーエフ(ラネーフスカヤの兄、松尾貴史)が、ひとつの病気に対して、いろいろな治療法を試みるというのは、確たる治療法がないということだという趣旨のことを述べる。『桜の園』という戯曲は、没落貴族でもあるラネーフスカヤが過去の栄光にとらわれていて、現在進行中の社会の変化と向き合うことができないまま、館を領地を失うことになる、つまり現実と向き合おうとしない臆病な人間に待っている悲劇だというように考えてきた。

だが、それはラネーフスカヤに限ったことではない。今回の舞台をみると、おそらく誰もが現実にむきあっていない――おそらく現実の変化に敏感に反応しているようにみえる人物も含めて。誰もが、現実の問題に対する解決策を、好き勝手に述べているだけで、しかも、そうした言明は、ただ一方向に発せられるだけで、絡み合ったり、双方向的になったりしないまま(つまり支持や賛同を得られることなく)、その絶対性ではなく、相対性を際立たせるばかりである。

これはメニッポス的風刺ではないか。同じ病気に対する役に立たない数多の治療法。各人それぞれ自説を開陳するが、そのどれもが限界と欠陥のある考え方ばかりで最終的に作品あるいは作者によって却下されるという文学ジャンル。典型的なのは『不思議の国のアリス』。アリスが出会うキャラクターたちは、それぞれ独自の世界観や自説や性癖をもっているのだが、彼らは一人残らず、いかれていて救いようがない。アリスも最初は熱心にあるいは真剣に耳を傾け真摯に対応するのだが、すぐにあきれ返って立ちさることになる。

だが『不思議の国のアリス』の例からもわかるように、メニッポス的風刺は、頭のいかれた人物を断罪しつつも、同時に、彼らのキャラクターをいつくしむところがある。確定的・絶対的治療法がない病に対しては、最終的に手をこまねいてみているほかないのだが、しかし、多様な治療法は、その効果は別について、それ独自で興味深いものとなる。

そう、メニッポス的風刺は、奇人変人たちをただ断罪し抹消するのではなく、同時に、奇人変人たちが活躍する祝祭空間を用意してもいるのだ。

『桜の園』でも、各人各様の現実対処法は、どれもまちがっているか欠陥のあるものなのだが、またそのことは各人各様に認識しているのだが、それでもみんな生き生きしている。そこがなんとも興味深く、個々の自分を笑い飛ばしながらも愛さずにはいられないという二律背反的反応を観客は強いられる。

とはいえ『桜の園』の登場人物たちは、たとえ経済的に成功しているロパーヒン(八嶋智人)ですら敗残者である。未来に対する希望を熱く語る元家庭教師のトロフィーモフ(成河)ですら、万年大学生の敗残者である。現実に地のついた堅実な暮らしと仕事ぶりでラネーフスカヤの一族を支えている養女ワーリャ(ワーニャ伯父さんの女性版、安藤玉恵)ですら、実のところ立ち直れないほどの敗残者である。あるいはみんな死者たちといってもいい。『桜の園』では死者たちがみんな生き生きとしているのだ。

メニッポス的風刺は、死者を生かすジャンルである。あるいは墓石を動かすと、その下にうごめいている虫たち…。


ラネーフスカヤの館と桜の園が、一族の過去の栄光の象徴として、また現在では一族を圧迫する重荷として存在していることは言うまでもない。

各人物は、この桜の園を中軸とする束縛と自由の弁証法を生きている。つまり彼らはこの館(宙に浮いたいつ落ちてくるかわからない石の壁あるいは石棺さながらの)の呪縛から逃れようとしながら、逃れられないまま今日まで来たが、やがて家屋敷と領地が競売にかけられ、彼らが、それを失うときに、彼らも束縛から解き放たれて自由になれる――というのがこの戯曲から予想される展開である。ところがそうはいかなかった。

彼らは家屋敷と領地を失ってしまうことで、束縛が解けたというよりも、自由すらも失って、あてもない放浪を余儀なくされるか、虚無的な生活へとからめとられるかのいずかでしかなくなる。彼ら死者たちは、生き生きとしなくなるのだ。

凧と紐との関係がこれの皮肉をよくあらわしている。私たちは紐を引きながら凧を風にのせる。凧にしてみれば、私たちがひっぱっている紐がなければ、自由に空を飛行でき、海のかなたまで飛んでいけるかにみえる。凧をひっぱる紐さえなければ、風に乗って自由飛行できる。だが、ならば紐を切ればどうなるのか。

私たちが凧揚げをしながら、その紐を切れば、凧は自由の空高く舞い上がるのだろうか。紐を切ってみる。そうすると次の瞬間、凧は真下に落下する。凧を空中に飛翔させていたのは、それを引っ張る紐があったからである。束縛する紐がなくなれば、凧は落下するしかない。束縛があるからこそ自由がある。束縛がなくなれば自由も存在しなくなる。

これと同じで『桜の園』の人物たちは、彼らを束縛し、ひとつにまとめて身動きできなくしていたかにみえる家屋敷・領地・桜の園を失って、自由になったのだろうか。なるほど、もうそこに住めなくなって立ち退かねばならないので、彼らは、自由になったというよりも離散して亡霊のように各地をさまようしかなくなるかにみえる。

彼らは、自分たちが、すでに死んでいたことをはじめて認識するのである。死んでいることを知らずにはしゃいでいた彼らがみずからの死に直面する。それが『桜の園』という亡霊劇の神髄ではないかと、今回の舞台を観て考えた。


私が観た日には終演後アフタートークがあって、松尾貴史、安藤玉恵、堅山準太(ラネーフスカヤに使える召使)、天野はな(若いメイド)の4氏が舞台でトークを繰り広げた。

PARCO劇場ではないが、別の劇場でのアフタートーク(成河氏の舞台であったのだが)が、演者ではなくゲストに招かれた人物の我田引水的独演会となって、なにか腹立たしい思いだけが後に残ったのが記憶に新しいのだが、今回の演者4人のトークは、演出家の方法、けいこ場でのエピソード、演ずる人物評、作品の特徴など、実に面白くまた刺激的な話が多くて、感銘を受けた。この作品の理解を確実に深めてくれたことを感謝したい。

松尾貴史氏は、自分は古典に縁がないというような話をされていたが、私はシェイクスピアの『お気に召すまま』、またミュージカルの『マイ・フェア・レディ』に出演されている松尾氏を劇場でみている。

安藤玉恵氏は、2019年のKAATの『グリークス』以来だが、もちろん、この間、安藤氏はいろいろな舞台に出演されていて、私もそのうちの何本かは観てみていておかしくなかったのだが、コロナ渦での自粛生活のために観るチャンスを逸したのはかえすがえすも残念でならない。
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2023年08月22日

『とっくんでカンペキ』

原題:Practice Makes Perfect.
こちらは、『一分間タイムマシン』の監督デヴォン・エイヴリーによる3分間の短編映画(2012)。

12歳の男女二人のラブコメのようなもの。台詞はない。SFでもない。配信で簡単にみることができる。

12歳のクリントは、サリーと初デイトで映画館に行く。クリントは、デイトの前にキスの練習をする。女の子の顔を書いた風船とか、ハロウィンのかぼちゃの頭を使って練習しているので、どうやら、この男の子、女の子とは初デイトの内気で気弱な小学生のくせに、デイトで濃厚なキスをねらっているようだ。濃厚なキス、いわゆるフレンチ・キスである。

以前、AKB48の3人組の派生アイドル・ユニット(柏木由紀ら)が「フレンチ・キス」と命名されていて、ずいぶん大胆な攻めたネーミングだと驚いた。「フレンチ・キス」といえば濃厚なディープ・キスと理解していたが、日本では「軽いキス」として理解されていることを、その時、初めて知った。Wikipediaにも「日本語でフレンチ・キスというと「軽いキス」を示す場合があるが誤用」だと書いてある。この誤用は一刻も早く正したほうがいい。外国人に、軽いキスならOKというつもりで、「フレンチ・キスならOK」などと言おうものなら、舌を入れられ、歯を舐めまわせれ、舌を絡まされ、舌を吸われたり、唾液を飲ませられたりと、とんでもないことになる。

この3分間映画で男の子が練習しているのはフレンチ・キスのやり方である。うまくいくのだろうかと、ハラハラする。

女の子のほうも、男の子のことが好きそうで、男の子がなにかしてくることを予期している。

そしてバス停で待っている二人のところに、帰りのバスが来る。すると男の子は分かれ際に女の子にキスをするのだ。フレンチ・キスを? いや頬に軽くキスをする――日本で誤解されているというか、日本版フレンチ・キスをする。すると女の子がほんとうにうれしそうな顔をする。そして満面の笑みを浮かべて女の子はバスに乗る。ふたりは、またデイトすることができるだろう。

もし男の子が、あれほど練習をしていたディープ・キスを、別れ際に女の子にしようものなら、おそらく女の子にショックを与えひっぱたかれるか泣かれてしまうだろう。彼女は二度と会ってくれないだろう。どんなに練習をしても、それを実践しなかったことでデイトは成功した。英語のタイトルは皮肉である(日本語のタイトルはひどすぎる)。練習の成果を捨て去るという男の子の最後の判断が、女の子に楽しい思い出を残すことができたのである。
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2023年08月21日

一分間タイムマシン

『一分間タイムマシン』One-Minute Time-Machine (2014)
監督:デヴォン・エイヴリーDevon Avery、脚本:ショーン・クラウチ Sean Crouch、
出演:ブライアン・ディーツェンBrian Dietzen(1977-)、エリン・ヘイズErinn Hayes(1976-)。

時間リープ物と時間ループ物が合体したような映画で、SFとラブコメの要素が入っていて、時間は6分の短編映画。

とはいえ、日本では全く無視されながらも海外で多くの賞を獲得した日本の映画『ドロステのはてで僕ら』(監督:山口淳太、原案・脚本:上田誠2020)のように、アイデアが面白く考えさせられ、それでいて深刻・深遠になりすぎないコメディタッチでエンターテインメント性にすぐれたこの『一分間タイムマシン』は、すでに多くの賞を受賞し(8受賞、6ノミネート)、上映時間6分という短さも、高評価につながり--短すぎて注文をつける余地がない--、ネットでもおおむね高評価で、いまや全世界で配信中の大ヒット人気短編映画となっている。これまで知らなかったことが恥ずかしい。

配信で簡単に観ることができるので、おすすめの映画。なにしろ上映時間6分。

私はアマゾン・プライム・ビデオで観たのだが、男女二人しか登場しない映画で、ジェイムズという名のちょっとドジな青年を演じているのが、ブライアン・ディーツェン。これにはちょっと驚いた。日本のアマゾンのレビューでこのことに触れたものはなかったのだが、ブライアン・ディーツェンって誰だ、と言われそうだが、『NCIS~ネイビー犯罪捜査班』を観たことがある人なら、2014年から現在にいたるまでレギュラーのジミー・パーマー博士のことである。『NCIS』を観たことがなければなんのこっちゃとなるとしても。

【『NCIS~ネイビー犯罪捜査班』は今なお続いているが、シーズン19でギブス/マーク・ハーモンが番組を去って以後、見る影もなくなったといってよく、スピンオフの『NCIS:ハワイ』のほうが、本家『NCIS』よりもはるかに面白いことは誰もが認めるところだろう。『NCIS』ではマーク・ハーモンより早く辞職してもおかしくなかったデヴィッド・マッカラム(マラード博士)は、いまも時々出演しているが、そうでもしないとレギュラー陣からオーラが完全に消えてしまうからだろう。そのマラード博士の、最初は助手、その後博士の後任となったのが、ジミー・パーマー博士/ブライアン・ディーツェンである。】

『一分間タイムマシン』の内容は
手持ち型の一分間タイムマシンを持つジェームズはその赤いボタンを押す度に、一分前に戻ってレジーナを口説こうとするが...思わぬ結果を招くことになる。【AMZONプライムの紹介文】

あるいは
ジェイムズが自慢げに携えているのはテクノロジーのささやかな驚異の産物である。なにしろそれは正確に一分前の過去へのタイムトラベルを可能にしてくれるからだ。公園のベンチに腰かけている美しいレジーナを誘惑しようとする彼にとってそれは完璧な道具だった。もし彼がドジをしたら、あるいは拒絶されたら、その機械の小さな赤いボタンを押してやり直せばいいだけである。ただジェイムズには不運なことに、その機械は彼が思っていたようには稼働していなかった。彼はいまや、自分の行為の暗い真実に直面することになる。【IMDbの紹介文を日本語訳・意訳した】

を参照していただければと思うのだが、確認すると、

ジェイムズがレジーナを口説く。そこでたとえば10分間楽しく会話ができ意気投合したとしよう、次の瞬間、ジェームズの心無い一言がレジーナの機嫌をそこねてしまう。自分の失言に気付いたジェイムズはタイムマシンの赤いボタンを押して1分前にもどる。つまり二人が出会ってから9分たった時点に戻る――という設定である。

映画ではジェイムズは言い間違いから不適切な発言まで、すぐに失言してしまい赤いボタンを押すので、二人が出会ってから一分もたたないうちに一分前に戻ってしまうので、初期設定の時間が、二人が出会う時よりも徐々に、それ以前へと後退していくように思われるのだが、そのことは問わないようにしよう(実際に1分前に遡行しているのではないことがわかるのだから)。

失言しても1分前にもどるだけだから、その失言だけを注意して再度トライすることで、ジェイムズは、レジーナとの親密な関係を築くことができる。これがもし、失言したら即、出会いの時にまで戻るとなると、すべて一からやり直すことになる。となると、これは時間ループ物になる。ところが1分前だとゼロからやりなおさなくていいぶん気が楽である。

映画『オール・ユー・ニード・イズ・キル』では地球に侵略し時間を操る異星人を倒すために多くの過程を経て異星人の基地に接近するのだが、途中で失敗し殺されると、ふりだし(つまり映画の発端時)にもどらなければならない。そして再び、多くの過程を経る長い道程を反復することになる。何度ども何度も殺されリセットされて振り出しにもどる。時間ループ物の特徴のひとつは、ループを繰り返すあるいはループにとらわれる主人公が、最初から、ゼロから同じことを繰り返さねばならないという、とんでもない忍耐を強いられることである。

ところが、もし『オール・ユー・ニード……』に1分間タイムマシンがあれば、異星人に攻撃され殺される直前に1分前にもどりさえすればよく、そうして対策を練るか、危機を回避することで死なずにすむ。すべての振り出しにまで戻る必要はない。これは失敗を修復するために過去に戻るという時間リープ物に近いことになる。

以下ネタバレ注意

『一分間タイムマシン』には従来のタイムトラベル物にないひねりが2つ加えられている。

1) レジーナが主役?
映画はベンチに腰かけている何も知らない女性レジーナに、見知らぬ男(1分間タイムマシンを持った)が声をかけてくる。彼はレジーナを口説こうとして何度も失敗するのだが、しかし、レジーナは、この男ジェイムズのことを知っているふしがある。

彼女は科学の教科書のような大きな本を持っていて、量子物理学者だと名乗るのだが、最初に科学書について指摘されたときは、少々うろたえうそをつく。しかし、実際には、彼女はタイムトラベルの原理を発見してその本のなかに書いたとのこと。彼が持っている1分間タイムマシンというのは、彼女の理論から生まれたマシンのようなのだ。彼女は直接仕組んだわけではないだろうが、この男に、自分を誘惑し口説くようにさせ、失敗しても、1分前に戻り、再挑戦させるようにした張本人である可能性が高い。しかも、彼女は、何度も再挑戦する彼に口説き方も指示する。もう少し激しくと要求したりもする。つまり彼女はジェイムズの出現を予期し、待っているのである。

またジェイムズがある事実を知り意気消沈して口説き続けられなくなったら、彼女のほうがタイムマシンの赤いボタンを押し、1分前の過去へとさかのぼるのである。

次のネタバレとも関係するのだが、この1分間タイムマシンはジェイムズの所有物で彼だけを過去へと送り出す装置のように思われるので、彼女が赤いボタンを押すのは意気消沈しているジェイムズを1分前に送りだすということかもしれない。

しかし彼女が赤いボタンを押すときの台詞は、彼女のほうが、やりなおすために1分前の過去へともどるかのように思われる。このタイムマシンは、それを手にしている者を過去へと送り出すようになっているようだ。

2) 自殺マシン
このタイムマシンの原理を考え、実用化させた彼女の説明によると、このタイムマシンは、時間旅行を可能にするタイムマシンではない。なんと!

そもそもタイムトラベルが可能かどうかについての議論がある。科学にうとい私レベルでも理解できるかもしれない話として、過去へはタイムトラベルできないという理論がある。もし私がタイムトラベルし10年前の私に会って忠告しようとして、それに成功したとしよう。だが私自身、10年前に未来からやってきた私に出会っていないとしたら(ほんとうは出会っていたが記憶を消されたということはないとする)、私が到達した10年前の世界と、私が10年前に生きていた世界とは異なることになる。

こうもいえる――私が10年前の私自身に出会ってしまったら、その時間軸の世界は、私がこれまで生きていた時間軸とは異なるパラレルワールドのものとなる。つまり私はパラレルワールドにタイムトラベルする。同じ時間軸をさかのぼった瞬間、違う時間軸が発生するので、結局、違う時間軸へと転移するのと同じことなる。これはタイムトラベルといえるのだろうか。タイムマシンは、パラレルワールドにしか移動できない。それはパラレルワールド転移装置である。


これと同じようなことを映画のなかでレジーナが語るのである。つまり1分間タイムマシンは、実は、パラレルワールドへの転移装置であるというようなことをいうのだ。つまりそれは現時点での時間軸のジェイムズを捨て去り、その複製、コピーを作る装置なのである。

ジェイムズはレジーナを口説くのに失敗して1分前に戻るというのではなく、レジーナを口説くのに失敗した時間軸というか世界を捨てて、別の世界へと移行する。これは言い方をかえると、ジェイムズは、レジーナを口説くのに失敗したジェイムズ自身を置き去りにして、新たなジェイムズを複製し、その複製したジェイムズをべつのパラレルワールドに生かすということでもある。それをこの装置(「一分間タイムマシン」と命名された)が行なうということである。この装置はレジーナがいうように「自殺マシンSuicide Machine」なのである。

ジェイムズはショックを受ける。これまで16回ほど赤いボタンを押して1分前の過去に戻っていたと思っていたが、実は、16回、自分を殺してきたのだとわかる。いまの自分は16回めの複製にすぎないのだと。そして彼がまるで魂を抜かれたかのようにベンチに横たわって死んでいるさまが16回映像で映し出される。

こうして茫然自失として生きる気力すら失ったかに見えるジェイムズを元気づけ、口説きつづけさせようとして、今度は、レジーナ自身が赤いボタンを押すことになる。それは今の自分を殺して、複製された自分をパラレルワールドにつくって事態を修復させようというわけである。

したがってレジーナ、この1分間タイムマシンが自殺マシンであることを最初から知っていた。また彼女を口説くには何度も自殺することが必要となる、ある意味、その口説き行為は命がけの行為で、なかなか実行する人間がいないことも知っていた。何も知らない、お人よしのジェイムズ君が、自殺マシンと知らずにタイムマシンと思い込んで何度も彼女を口説こうとしていたというわけである。

とはいえ失敗した自分を捨てて新たに生まれ変わるというのは、それほど陰惨な話でもない。人間誰でも、オリジナルな自分などとうの昔に抹消している。いまある私自身は、n回目の複製にすぎなといわれても、そんなにショックではない。むしろショックで口もきけなくなるほうが、大げさで滑稽である。この映画は終始コミカルなレベルを維持し続けている。

この設定からいえることがある。

たとえば失言(嚙んだりすること)して1分前にもどってやりなおすこと(実は、その試みを破棄して、新たに挑戦を再開すること)、あるいはジェイムズが16回、魂の抜け殻となり、それに驚く女性の反応が16回映像化されことは、映画撮影の実際のありようと見事にシンクロしている。

台詞を噛んでやりなおすとき、次の映画撮影において、次のテイクに入るという。この映画における1分前の過去へのタイムトラベルは、簡単に言えばやり直し行為であって、16回やりなおすということは16テイクまで撮るということである。女性を口説く行為を、芝居が下手な(人生において要領が悪いということである)ジェイムズ君は16テイクまで撮ったということにもなる。

また彼がベンチで死んだときのレジーナの驚きやうろたえるさまが、16回繰り返されるが、それら16回は、16のヴァリエーションを試したということである。撮影現場では、べつに失敗はしなくても、パターンをいくつか試して最良の結果を模索することはふつうに行われる。16テイクと16パターンを記録したアーカイブが、この6分の映画を構成するとみることもできる。あるいはこの映画は、映画成立までの過程の記録であり、試みられたテイクやパターンを保存するアーカイブになっているといってもいい。この映画『1分間タイムマシン』は、映画そのものの制作をテーマとしてメタ映画なのである。

これはまたいまの私は、数多くの失敗のうえに成立しているということである。となると、いまの私は、無数の失敗、無数の試行錯誤の結果であり、最良・最善を求めての長い道のりの果てに到達した最高点ということになる。とはいえそれは1分間タイムマシン=自殺マシンを使って得られた結果ではなく、頭の中での思考の成果なのではあるが。またこの1分間タイムマシン=自殺マシンは、試行錯誤のはてに最善を求める人間の思考過程のメタファーといってもよいだろう。いずれにしても、いまある私は、たとえ自己の欠陥を完璧に克服できてはないとしても、完成にいたる途上にあり、いまの私は、現時点での最善のありようなのである、とまあ、ライプニッツの最善説みたいな話となる。

しかし、こうした過程の裏で、無数の可能性の死体が累積している。SFなどの時間ループ物の不気味さもここにある。同じことを繰り返し、その試行錯誤のなかで現状を打破し、みずからの欠陥を克服して進化を達成するのなら、それと寄り添うようにして、どうあがいても失敗するしかないという進化の失敗、無意味な進化のイメージが存在している。試行錯誤が進化をもたらすとすれば、同時に、同じ試行錯誤は、永遠の反復可能性にも開かれている。失敗しても修復のために反復できるということは、終わりなき後悔、終わりなき悪あがきが待っているということでもある。そしてこのような状況は、ある一つの可能性を暗示する。つまり当事者が死んでいるということである。

映画『1分間タイムマシン』における1分前へのタイムトラベルという物語が暗示するのは、たとえば脳内における後悔と再試行(映画『ラン、ローラ、ラン』参照)――夢の中の出来事――、あるいはタイムマシンを使ったタイムリープと、それが繰り返されるタイムループなのだが、もうひとつ重要な可能性は、本人(ジェイムズ)が死んでいるということである。死んでいるからこそ、生きている間には起らなかった同じ瞬間の反復が起こる。生きている間には起らない人生のリセットが可能になる。死んでいるからこそ、ある意味、冷静な判断ができて、失敗とわかればすぐにリセットする……。

この死の世界を、何度でもやり直される人生というパラダイスなのか、永遠に失敗と未完成に苦しむしかない、賽の河原的な拷問の地獄とみるかは、人それぞれにまかされている。
posted by ohashi at 11:07| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2023年08月17日

東京に原爆?

次のような記事があった:

東京大空襲は…「ワイド!スクランブル」の戦争アンケートに列島激震のワケ
アサ芸biz の意見 2023年 8月17日

戦争の悲惨さを後世にどう語り継いでいくべきか、真剣な議論が必要だ。

終戦記念日の8月15日、ニュースや情報番組は戦争をテーマにした企画をこぞって放送したが、中でもテレビ朝日「ワイド!スクランブル」で公開された衝撃のアンケート結果が日本列島に波紋を広げている。

「番組では『終戦から78年 若者の意識変化』として、10代後半7000人以上を対象にしたインターネット調査を紹介。その中で、戦争末期のアメリカ軍による東京大空襲について『東京大空襲で落とされた爆弾は?』という設問がありました。選択肢には『焼夷弾』『中性子爆弾』『核爆弾』の3つがあり、もちろん正解は焼夷弾なのですが、アンケートの回答は焼夷弾61%、核爆弾24%、中性子爆弾15%というもの。この結果に一定以上の年代の人は、絶句してしまったようです」(週刊誌ライター)

驚いた理由は、核爆弾と選択した若者が24%もいたこと。核兵器の一種である中性子爆弾については「答えが分からない人が馴染みのないものを選んだ」とも予想されるが、毎年8月6日に広島、9日に長崎で原爆死没者慰霊祭と平和式典が行われている日本にあって、東京に核爆弾が落とされたと勘違いしている若者が4人に1人もいるという事実はやはり衝撃だ。【以下略、筆者は「山田ここ」とある】


番組は見ていないが、たしかにこのアンケート結果は衝撃的かもしれない。とはいえ「パンとサーカス」化しているメディアが若者の無知を笑うことはやめたほうがいい。日々、「パンとサーカス」で若者の歴史認識を奪っているメディアこそ責められるべきであり、若者に咎はない。

実際、冷静にアンケートと、その結果を見直してもいい。
『東京大空襲で落とされた爆弾は?』という設問に対し、
選択肢は、『焼夷弾』『中性子爆弾』『核爆弾』の3つである。


この質問と選択肢が、若者の無知を嘲笑するために仕組まれたものではないか。いまどき『焼夷弾』を読める人間がいるのだろうか。
焼夷弾61%、核爆弾24%、中性子爆弾15%

という結果、つまり対象となった若者たちの半数以上が、「焼夷弾」と答えたのは素晴らしいとしかいいようがない。この61%の若者たちの内訳は、「焼夷弾」を「しょういだん」と読め、なお焼夷弾がどういうものか知っている若者たちと、核爆弾や中性子爆弾ではないという消去法から焼夷弾を選んだ若者たちとなるだろう。

中性子爆弾を選んだ回答者は、焼夷弾は読み方からしてわからず、また核爆弾ではないという認識のもとに、中性子爆弾を選んだともいえる。そうなると東京に落とされた爆弾は、核爆弾ではないと考えた若者が76%もいることになる。この数字はまあまあではないか。

そもそも爆弾の種類というものは、空襲を経験したり、その犠牲になった人々、まあ戦中戦後の人たちなら、ある程度わかっていても、いまでは、専門家か軍事オタクでないかぎりわからない。

また、
焼夷弾、核爆弾、中性子爆弾
という選択肢も、ひっかけ問題あるいは意地悪な選択肢である。

なぜなら広島、長崎に落とされたのは、原爆(原子爆弾)である。「原爆」であることは、日本人の多くが認識しているだろうが、原爆が「核爆弾」の一種であることは、認識していなくてもおかしくない。

もし、広島・長崎に落とされたのは「核爆弾」だと話したら、いや、ちがう「核爆弾」ではなく「原爆」だという答えが返ってきてもおかしくないのだ。だから「焼夷弾、核爆弾、中性子爆弾」の三択のうち、「核爆弾」が「原爆」と表記されていたら、結果はちがっていたことはまちがいない。

結局、この設問と選択肢は、若者に「核爆弾」を選ばせ、列島に激震を走らせ、おバカな若者の無知を嘆き、また笑いとばすための、ひっかけ問題みたいなものである。おバカな若者を笑う/嘆くための企画がこのアンケートだった。

ここでもメディは、若者いじりという、「パンとサーカス」の材料になるものしか考えていないのだ。若者は怒ったほうがいい。
posted by ohashi at 17:03| コメント | 更新情報をチェックする

懸念についての懸念

古い記事だが、あるブログに次のようなものがあった。

塩川徹也訳『パンセ』についての大きな懸念 2015-09-24 18:04:53

先月の岩波文庫の新刊の一冊として、日本における現在のパスカル研究第一人者である塩川徹也氏による『パンセ』の邦訳の上巻(後続刊の中下巻と合せ全部で三巻)が刊行された。最新のパスカル研究に基づき、未だ本国フランスで刊行されていないジャン・メナール版『パンセ』の編集基本方針も考慮に入れ、いわばその「露払いをつとめること」がその目的とされている(上巻「解説一」、480頁)。その学問的業績と学者としての己に厳しい態度にかねてより畏敬の念を覚えていただけに、同氏が十五年の歳月を掛けて世に送り出したという『パンセ』の新訳に大いに期待を寄せていた。

ところがである。今朝、再来月のシンポジウムの発表要旨の仕上げをしていて、その中にパスカルからの引用があるので、その箇所の塩川訳を仏原文と引き比べながら読もうしているときのことであった。同訳の評判はどうだろうかと、アマゾンの「カスタマーレビュー」をちょっと覗いて見て、一驚した。訳し落としの指摘や訳文への疑問が一つや二つではないのである。それらの指摘をなさっている読者の方々はもちろん仏語をよく解し、中には塩川訳が底本としている「第一写本」まで確認のためにご覧になった方もいらした(因みに、塩川氏自身が「凡例」に明記しているように、同写本はフランス国立図書館の電子図書館「ガリカ Gallica」で複製版が無料で公開されている。興味のある方はこちらから御覧ください)。

それらがすべて訳し落としなのか、底本とされた版本の違いによるものなのかは、今時間がなくて私自身は確認できていないが、ちょっと自分で最初の方を数頁見てみただけで、やはり訳し落としと思われる箇所を発見した。

それは、ラフュマ版の断章番号で13番(ブランシュヴィック版では133番)の断章である。まず原文を掲げよう。よく知られた短い一文である。

Deux visages semblables, dont aucun ne fait rire en particulier font rire ensemble par leur ressemblance.

中公文庫の前田訳では次のように正確に訳されている。

  個別的にはどれも笑わせない似ている二つの顔も、いっしょになると、その相似によって笑わせる。

塩川訳はこうである。

  似かよった二つの顔。別々に見ればおかしくもなんともないが、並べて見ると笑ってしまう。

何が抜けているか、もうおわかりであろう。原文の « par leur ressemblance » が訳されていない。手元にある La Pochothèque のセリエ版、La Pléiade のルゲルン版いずれにもヴァリアントの注記はない。したがって、写本の段階から原文はこの通りであったとみなしてよいとすれば、この訳し落としは、この文の訳としては、致命的である。なぜなら、二つの似かよった顔が同時に見られるときに私たちが笑ってしまう理由、「それらの相似によって」が、塩川訳ではまったく示されていないからである。

「カスタマーレビュー」で指摘されている訳し落としを考え合わせると、まだまだ同様な訳し落としが見つかるのではないかと懸念される。そんな「あら探し」に時間を費やしている暇はないが、もう安心して同訳が読めなくなったことだけは確かである。

もし、これらの訳し落としと思われる箇所が版本の違いによるものでなく、訳者の誤りあるいは不注意によるのであるのならば、訳者ならびに出版社は、直ちに同書を絶版にし、改訂版を刊行すべきである。それが学問的誠実さであり、出版社としての良心であろう。

こういう輩の多さにはうんざりするのだが、かりに訳し落としがあったとしよう。三巻にわたる大部の翻訳である以上、訳し落としなどあっておかしくない。もちろん訳し落としはあってはならないが、訳し落としがまったくない翻訳は、おそらく、皆無だろう。

なおこの記事の書き手は研究者らしいが、重要な指摘をするときには該当箇所や出典は明記すべきであって、そんなこともできない人間に訳文の不備を指摘してもらいたくない。また翻訳者に敬意をしめせ、このくず野郎【すみません、私にもあなたのくずっぷりが感染してしまいました。失礼しました。】

なお結論からすると、私が持っている塩川徹也訳の『パンセ』では、こうなっている。
似かよった二つの顔。別々に見ればおかしくもなんともないが、並べて見るとその相似に笑ってしまう。(上巻、p.41、岩波文庫、2018、5刷)

初版をもっていたが、どこかになくしてしまい、2019年に第5版を再度購入したものだが、上記の訳し落としはない。初版をみていないのだが、この記事のとおりだとすると、訳し落としを塩川先生自身が気づかれたから、あるいはなにか指摘があったかによって、「その相似に」を挿入されたのだと思う。岩波文庫に限らないが、版を重ねるごとに不備などを訂正することはごく普通にある。とくに翻訳の場合には。

また訂正・修正の努力を怠らない塩川先生の翻訳姿勢によって、岩波文庫版の『パンセ』は、確実に、完璧な完成版へと近づいていることはまちがない。

なお引用のこの箇所をみても、もちろん前田訳(私が初めて『パンセ』を読んだのは前田訳だったが)は誤訳もなくすぐれたものだが、塩川訳は、原文の流れとリズムまで日本語訳に反映させようとした――読者の頭にすんなり入ってくる日本語の並びになっていて――名訳といっていい仕上がりをみせている。

こうしたチンピラ研究者【まだ感染症が治っていません。暴言を深くお詫びします。】によって、塩川訳『パンセ』がまちがったイメージを付与されないことを――こころから望む次第である。


付記:AMAZONにおける以下のレビューが、おそらくこの本の正当な評価だと思うので、引用する。日付も新しい点が、この翻訳の高い歴史的評価の定着を暗示している。:

なおたろう
5つ星のうち5.0 写本に基づく、新しい「パンセ」像の提示
2021年2月1日に日本でレビュー済み

誤訳、訳詞落としなどが喧伝されていますが、ブランシュヴィック版に依った翻訳が普及している中、「写本」を底本とした翻訳が出た価値は極めて大きいと考えます。注釈の充実も特筆すべきレベルです。テーマ別編集のブラ版の前半はキリスト教の予備知識がなくても読める断章が多く、例えば前田・由木訳は「幾何学の精神と繊細の精神」という直感や認識に関する断章から始まります。なので、親しみやすい。一方で、後半になって読むのをやめた人も多分少なくないと思います。ひるがえって、塩川版は「『詩編』はあまねく大地でうたわれる」で始まり、進行に関する断章が続きます。「パンセ」はパスカルの没後、残されたファイルや詩編を編集したものですが、中心となるのは「キリスト教護教論」。もっとも、塩川氏も認めていますが、「パンセ」に護教論には収まらない、豊かな断章が多く含まれてもいます。これまで前田・由木版ではよく分からなかった部分が、注釈が充実している塩川版で理解できる部分は多々あります。誤訳・訳詞落としと指摘されている部分は改訂時に修正が施されているようですし、読みやすさを重視した意訳として許容できる部分もあると思います。ようやく出た、まったく新しい「パンセ訳」の試みです。あまりおとしめることなく、2つの訳を併読して、「パンセ」に対する理解が深めることが有益だと思います。
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2023年08月15日

原爆をめぐる覚書

1原爆が戦争(第二次世界大戦、あるいは太平洋戦争)を終わらせたというのは神話である。

広島と長崎に原爆が投下され、人類史上かつてないほどの凄惨な破壊が行われても、その程度で、日本の戦争指導者たちは降伏することはなかっただろう。おそらくその時期、日本もアメリカも戦後を視野にいれて戦争を遂行していた。日本は、アメリカが東京に原爆を投下し、天皇をはじめとして日本の中枢機構を根絶やしにすることはないと考えていたにちがいない。ソ連との対立構造が戦後、いよいよ不可避なものとなったとき、日本を連合国側の組み入れておいたほうがよく、日本の政治経済を動かし統括できる頭脳部は温存することになっていたはずだ。日本の指導層も彼ら自身が根絶されることはないと踏んでいた。

原爆投下によって、日本に降伏のための口実を与えようとしたのは間違いないだろうが(そしてまた日本の降伏により、連合国側の犠牲が少なくなることも期待していたにちがいないだろうが)、同時に、2発の原爆程度で降伏することも現実的ではないと日本側も考えていたにちがいない。では、なにが日本を無条件降伏へと走らせたのか。

それはソ連の参戦であったことは誰もが知っている。北海道からはじまり本州へとソ連軍が進駐し日本を占領したら、天皇制を廃止し、政治体制も共産主義化されるにちがいない。国体の護持が不可能になる。ならば早めに降伏をし、アメリカによる占領を受け入れれば、国体は護持できると指導層は考えたにちがいない。国民の犠牲をこれ以上大きくすることはしのびないなどと指導層は夢にも考えなかった。国体の護持だけしか念頭になかった。

原爆投下が終戦を速めたのではない。ソ連の参戦が終戦を速めた。そして原爆投下は交渉の道具として使われたにすぎない。だからこそ原爆による死者や被爆者はアメリカと日本、双方にとって交渉のための駒だった。だからこそ原爆による死者たちは、どれほど悼んでも悼みきれない。

2 ヒバクシャ・イン・USA
私が30代の頃に読んで、もっとも衝撃を受けた本のひとつに、春名幹男(著)『ヒバクシャ・イン・USA』 (岩波新書1985)がある。

今は、購入できなくなっているこの岩波新書だが、その内容紹介を引用する(出典は不明):
被曝国は日本だけではなかった.核超大国アメリカもまた恐るべき核被害大国であった.自宅の真ん前に大量の核廃棄物を棄てられた市民,核実験でモルモットにされた兵士,核実験場ネバダの風下住民,ウラン鉱の開発に駆り出されたインディアン…….アメリカの核兵器開発の裏面に迫り,ガンに苦しみながら闘うヒバクシャたちの姿を描く.

ちなみに爆撃による被爆と、放射能にさらされることを被曝といって区別するのだが、面倒なのと、どちらか区別できない場合もあるので、ヒバク、ヒバクシャとカタカナ書きをすることにする。またヒバクシャは英語にもなっているHibakusha。ちがっているかもしれないが、英語のヒバクシャは、被爆と被曝どちらも指すと思われる。

広島、長崎への原爆投下以前に、アメリカ本国でヒバクシャが出ていた。しかも、戦後における核開発・核実験によってヒバクシャはさらに増え、アメリカ全土が被ばくしていたともいえるのは、驚くほかはない。

さらにはアメリカだけではなく核保有国の核兵器開発の過程でヒバクシャは生まれており、その数はふえつづけている。またアメリカが使っている劣化ウラン弾による被害も、ヒバクのひとつと考えれば、核実験が終わった現在でもヒバクシャはふえつづけている。

そしてこれで思い出されるのが「バーベンハイマー」現象を生み出した能天気ぶりである。

新聞記事より、引用する:

東京新聞 2023年8月8日 12時00分

バービーと原爆の画像合成で騒動に…核兵器への日米の温度差を「バーベンハイマー」の流行から考える

 広島と長崎への原爆投下から今年で78年がたつ。犠牲者を悼み、平和を願う式典が開かれるこの時期に、被爆者らの気持ちを逆なでする出来事が起きた。映画「バービー」の米国のX(旧ツイッター)公式アカウントが、原爆投下を想起させる画像に好意的な反応をしたのだ。原爆投下に対する日米の認識の差というだけで終わらせていい問題だろうか。(曽田晋太郎、西田直晃)

◆髪の毛がきのこ雲に…そして配給会社が「♡」
 物議を醸したのは、ともに米国で7月21日に公開された実写版「バービー」と、原爆開発を主導した物理学者の半生を描いた映画「オッペンハイマー」を組み合わせた画像だ。
 原爆投下の爆発を思わせる背景の中、バービー役の俳優がオッペンハイマー役の俳優の肩に乗り、笑顔ではしゃいだり、バービー役の髪の毛が「きのこ雲」に置き換えられていたり。Xに投稿されたそんな合成画像に、バービーの米国の公式アカウントが賛意を示す「♡」の絵文字とともに、「思い出に残る夏になりそう」と好意的な反応をしたのだ。
 両作品は記録的な興行収入を上げている。タイトルを合体させた「バーベンハイマー」という造語が生まれる社会現象となり、合成画像の投稿が一種の流行と化す中で波紋が広がった。
 X上では「越えてはならない一線を明白に越えている」「米国では9.11やナチスをネタにすることは絶対にない」などと反応に対する批判が相次いだ。
 映画を配給する米ワーナー・ブラザーズの日本法人は7月31日、「米本社の公式アカウントの配慮に欠けた反応は、極めて遺憾なものと考えている」とのコメントを発表。その後、米本社は「心からおわびします」との謝罪声明を出し、問題の投稿を削除した。
以下略。


アメリカの国民全員が、原水爆に無神経な人間だとは思わないが、それにしても、ここにあるのは、自国民がヒバクしていることへの救いがたい無知そのものである。今回の件で、実際にすでに訴訟も起きているアメリカの核実験による核物質被害について脚光を浴びることになったが、しかし、メディアの反応は、アメリカ本国でも、あるいは他国でも鈍いようだ。ただ、たとえそうであれ、ヒバクが全世界に広がっていること、にもかからず、そのことへの驚くほどの無知は、人間がすでにもうAIにのっとられて非人間化しているとしか思えない状況となっている。

広島・長崎への原爆投下という事実を前にして、日本側に降伏を迫るアメリカ側と、その程度の犠牲で降伏することはないとはねつける日本側、どちらの側も、自分たちが犠牲者に、ヒバクシャにならないと確信し、ヒバクシャを交渉の道具として使っている冷酷さにおいて、現在の「バーベンハイマー」画像制作者とまったく変わりない。原水爆とヒバクシャへの無知、その能天気ぶりは、怒りを通り越して悲しくなる。

3 日本の原爆開発

日本版ウィキペディアにも「日本の原子爆弾開発」という長い項目記事があることからもわかるように、日本もまた戦時中に原爆を開発していた。その詳細は、このウィキペディアの記事を読まれるとよい。ただし、科学にうとい私には理解できない内容も含まれているのだが、とはいえ、日本の原爆開発の事実ははっきりとわかる。またこの事実は驚くことではないだろう。戦時中は、各国が原爆を開発することに力を入れていたし、ドイツも原爆開発に力を入れていたが、ドイツが迫害・追放したユダヤ人科学者を受け入れたアメリカが最初に原爆をつくったのも皮肉なことであったのだが。

もちろん、もし日本がアメリカに先んじて原爆を開発していたら、日本の軍部は、まちがいなく原爆投下を繰り返し、アジア地域を核汚染の地獄へと変えていたことは想像にかたくない。しかも、犠牲者は他民族、他国民だけでなく、日本国民にも及んでいただろうこともまた想像にかたなくない。そして戦争は、まちがいなく長引いただろうし、戦争は、休戦というかたちで終わり、日本のファシズム体制は温存されて、復興は遅れに遅れていただろう。

日本が原爆を開発しないでよかったと言えるのだが、もちろんだからといってアメリカの原爆開発を歓迎し正当化するということではないし、その原爆投下は、絶対に許してはならないことである。

ちなみに、ウィキペディアの「日本の原子爆弾開発」では、一言も触れていないのが映画『太陽の子』である。

監督・脚本:黒崎博 出演:柳楽優弥、有村架純、三浦春馬、イッセー尾形、山本晋也ほか。
音楽:ニコ・ミューリー、主題歌:福山雅治「彼方で」、撮影:相馬和典
制作会社:KOMODO PRODUCTIONS、製作会社:「太陽の子」フィルムパートナーズ
公開:2021年8月6日

映画の前にはテレビドラマ版があり、ウィキペディアによれば:
『太陽の子』(GIFT OF FIRE)は、NHK総合、NHK BS4K、NHK BS8Kにて終戦75年目の2020年8月15日に放送された日本のテレビドラマ。「国際共同制作 特集ドラマ」として制作され、第二次世界大戦末期に京都大学で行われた核分裂エネルギーを用いた新型爆弾の開発(F研究)において、原子物理学の研究に没頭する1人の若手研究者が戦争という時代の波に翻弄されていく姿を史実に基づいて描く。作・演出は黒崎博、主演は柳楽優弥。
中略
テレビドラマ版とは異なる視点で描いた映画版が2021年8月6日に公開された。【これは国際共同制作映画として、テレビ・ドラマ版とは異なる視点で描かれ映画】


実はテレビ放送は見過ごし、また映画版は、コロナ渦で映画館では見ていないのだが、今では配信されていてみることができる。

映画版について、いろいろ考えさせられたが、それについてはいずれ機会があれば、語らせていただくことにして、日本の原爆開発がテレビドラマや映画で取り上げられることは、ある意味、画期的なことで、私のような歴史的な知識のない愚かな無知な人間に、日本も原爆の加害国になりえたかもしれない現実を気付かせたことの功績は、どれほど強調しても強調したりないだろう。

そして最後に。つづく
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2023年08月11日

『テンダーシング』2

シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を知らなくても(観たり読んだりしていなくても)存分に楽しめる舞台であるとすでに述べたが、もちろん『ロミオとジュリエット』を知っていれば、なおのこと面白いのは言うまでもない。

最初はシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の続編かと思ったが、そうではない。つまりロミオとジュリエットが悲劇を生き延び、夫婦となって、いま晩年を過ごしているという話ではなく、ロミオとジュリエットという老夫婦が、運命と出会う話で、その際、ロミオとジュリエットそれぞれの心情が、『ロミオとジュリエット』のなかの台詞(ただしシェイクスピアの他作品からも持ってこられた台詞を含む)を使って語られるということである。『テンダーシング』の夫婦は名前こそロミオとジュリエットだが、シェイクスピアのロミオとジュリエットとはまったく異なる人生を歩んできている。

オリジナルの『ロミオとジュリエット』のなかで使われた台詞が、オリジナルの文脈や物語の展開なり状況から切り離されて使われ、オリジナルとは異なる物語が構築される。オリジナルでは10代半ばから後半の若者の心情を表象する台詞が、『テンダーシング』では高齢の夫婦の心情を表象することになる。

たとえば『ロミオとジュリエット』において乳母がジュリエットの幼い頃の思い出を語る台詞は、『テンダーシング』では、老夫婦のあいだにできた娘の思い出として語られる――そしてその子は、すでにこの世にはいないことから、老夫婦の晩年が陰りを帯びることになる。『ロミオとジュリエット』ではロミオは若くしてメランコリーに取り付かれているのだが(それはまた形だけのポーズといえなくもない)、その台詞が『テンダーシング』では老齢のロミオの人生への虚無感の表象として使われることになる――老人のメランコリーのほうが真正に思える。

くりかえすと『テンダーシング』は物語的には『ロミオとジュリエット』とはまったく別物である。ただ、使われている台詞が同じということである。そしてそこにこの芝居の魅力がある。

オリジナルなコンテクストから切り離されて使われる台詞は、切り離されて宙に浮くか、別のコンテクストを形成することによって、独自の輝きを帯び始めるからである。『ロミオとジュリエット』にこんな台詞があったという驚き、あるいは独立し宙に浮いた台詞から発する、これまでにない独自の輝き、またさらに同じ台詞が別の物語を構築したりこれまでにない心情を構築したりするときの新たな意味的可能性――こうしたものすべてがオリジナルの台詞構成を解体することではじめて見えてくる。それが解体構築される台詞の魅力となる。

またこの『テンダーシング』を観てから『ロミオとジュリエット』を観たり読んだりするとき、この台詞が、あの台詞が、オリジナルではこんな使い方をされていたのだという驚きと発見が生まれるだろう。あるいは『テンダーシング』では、何気ない台詞としか思いえなかったものが、オリジナルでは異彩を放っていたということもある。またさらに輝かしい台詞がオリジナルでは何気ない台詞であったことなどがわかったりする。

だがらこそ、『テンダーシング』は、『ロミオとジュリエット』と併せて読まれるべきものなのであり、『リーディングドラマ ロミオとジュリエット』との抱き合わせ公演は両作品の魅力を相互に増幅させることもあって興味ぶかい試みであると同時に、Mustであるともいえようか。

今回、私は『リーディングドラマ ロミオとジュリエット』を観ることはできなかったが、『ロミオとジュリエット』は読み返してみるつもりである。『テンダーシング』を思い出しながら、あの台詞が、オリジナルではどこで使われていたのか発見することは、この上なく楽しい経験となるだろう。

そしてまた『ロミオとジュリエット』を読んだ後、『テンダーシング』を読みなおしたときに遭遇する数々の発見にも私は期待している。


実はベン・パワー(Ben Power)の『テンダーシング』をまだ読んでいない。再演を知ってから、すぐに原書を取り寄せればよかったのだが、うっかりして注文しわすれた。そして気づいたとき原書を取り寄せても今回の上演にはまにあわないことを知った――原書は注文していあるので、そのときは『ロミオとジュリエット』と読み比べてみるつもり。

ベン・パワーについてはパンフレットで日本でも『リーマン・トリロジー』がNTliveで公開されたと書いてあってショックを受けた。NTliveは欠かさず観ているのだが、2020年公開ということで納得した。コロナ渦の最中であり、私自身自粛生活をして県境を越えなかったため、映画館に足を運ぶことはなかった。もし知っていれば映画館に行ったかもしれないが、自粛生活のさなか公開映画や映画館の情報を集めることはしなかったので、とにかく当時、映画館に行く可能性はなかった。

まあ『リーマン・トリロジー』は原作で読んだので、いつか配信で観るチャンスがあればいいと考えているが、ただ英語圏では有名な劇作家とはいえ、ベン・パワーの、この作品に目をつけて上演を試みた演出の荒井遼氏の慧眼と上演実現にむけての努力には頭が下がるばかりである。

またさらに触れたいこともあるが、まだ上演中の作品なので、ネタバレをしないように留意しているため、これ以上語ることは慎まねばならない。

ただ土居裕子と大森博史のお二人の演技について、ひとつだけ指摘すれば、大森氏の話しぶりだが、声を張り上げるところは、劇場で聞こえすぎるほどによく聞こえるのだが、ただ小声で話をすることも多く、その声が、ひそひそ話を超えて、聞き取れないくらいの小さいことは、なんとかしてほしいと思う。

歳をとって耳が遠くなったのではと、私が批判されそうだが、それはない。ワインのボトルを入れた紙袋がたてる、ごそごそ・がさがさというノイズのほうが、大森氏のささやくような声よりも音が大きかった。とはいえ声が小さくとも、実は、台詞はしっかり発音されていて、言葉は聞き取れる。だったらいいじゃないかと言われそうだが、尋常ではない集中力をもってしてようやく言葉ひとつひとつが聞き取れるので、どうか初日以降、大森氏の話し方を再点検あるいは検討していただけないか。土居裕子氏と大森博史氏の見栄えは文句なくよいので、小さな声になるところだけ調整されんことを、ほんとうにお願いしたい。あと3日間、足を運ばれる観客のためにも。
posted by ohashi at 01:47| 演劇 | 更新情報をチェックする

2023年08月10日

『テンダーシング』

『テンダーシング――ロミオとジュリエットより』
A Tender Thing: Adapted from William Shakespeare’s Romeo and Juliet
作:ベン・パワーBen Power 翻訳監修:松岡和子 演出:荒井遼
2023年8月10日~13日 あうるすぽっと(東京池袋)

初演の際に、私は手術直後の療養中だあっため、舞台を観ることができず、残念に思っていたので、今回『テンダーシング』が再演されることは、この上もない喜びだった。さっそく8月10日の初日に観させていただいた。

パンフレットをみると:
本作は、イギリスの若き劇作家でドラマトゥルグのベン・パワーによって生み出された、もうひとつの『ロミオとジュリエット』です。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の台詞を抜粋し、ソネット詩などの言葉も加え、大胆に再構成された本作は、老夫婦の全く新しいラブ・ストーリーとなっています。

また以下の記事では、この再演の開始を伝えている。
土居裕子・大森博史の「テンダーシング」開幕、村井良大らが読む「ロミオとジュリエット」も
2023年8月10日 14:43 69 1 ステージナタリー編集部

「テンダーシング-ロミオとジュリエットより-」「リーディングドラマ ロミオとジュリエット」の2作品同時上演が、本日8月10日に東京・あうるすぽっとでスタートする。

「テンダーシング」は、イギリスの劇作家ベン・パワーによる作品。ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが2009年に初演し、日本では2021年に初めて上演された。今回は初演に続いて土居裕子、大森博史が老夫婦になったロミオとジュリエットを演じ、荒井遼が演出を手がける。

そして初日を観た感想を述べれば、一言、すばらしい舞台で感激した。べつに『ロミオとジュリエット』について観たり読んだりしたことがなくても、このロミオとジュリエットという名前の老夫婦の物語は、心をうつ。土居裕子と大森博史、両氏の演技は若々しくもあり、また老いから逃れることができないまま、忘却と想起(認知症の兆候は出ていても記憶もまだ確かである)、そう状態とうつ状態、ノスタルジーと失わぬ希望といった相反したメンタリティをかかえる晩年の心性を、過剰でもなく過少でもないかたちの円熟した演技で私たちに差し出してくれて、感動を呼ぶ。

また荒井遼氏のステージづくりは、この7月に『これだけはわかっている』(アンドリュー・ボヴェル作)を観たこともあって記憶に新しいのだが、インスタレーションとしてもすぐれていて、ヴィジュアル面でも洗練されている。舞台構成の美しさに魅了されて最後まで観たが、たとえば今回の上演の幕切れは、字幕や映像を映し出してきた(プロジェクション・マッピング)に、この作品のタイトルまでもが示され、その前で老夫婦が踊り続けているという、それだけで洗練されたエンディングの動画として観る者の記憶に残るものだった。

終演後は、舞台を撮影してもよいと言われ、私もスマホで撮影して、このブログに掲載しようと思ったのだが、気づくと、観客の顔が映り込んでいて、掲載は断念。先のネット上のステージナタリーの記事などに舞台写真が掲載されているので、そちらを参照のこと。

というか上演は残り3日間しかないのだが、ぜひ実際に舞台を観ていただきたい。インスタレーションの美しさを、そして、いうまでもなく二人芝居の面白さを、二人の演技のすばらしさを堪能していただければと思う。

平日の午後の初日ということもあって、客席の前半部はほぼ満席だったが、後半部は空席が多かった。当日券もあるようなので、ぜひ。明日は、終演後のトークもあるようだし。

また『リーディングドラマ ロミオとジュリエット』も可能なら併せて観られることをすすめたい。その理由については、この記事のつづきで。つづく
posted by ohashi at 20:52| 演劇 | 更新情報をチェックする

2023年08月08日

『インスペクション』

Inspection(2022)は、監督エレガンス・ブラットン(Elegance Bratton, 1979-)の実体験に基づく自伝的映画。ゲイの黒人男性がゲイであることを隠して海兵隊に入隊、厳しい訓練の日々を送るという映画。いわゆるブート・キャンプでの訓練が主体となるが(なお正式には海兵隊・海軍ではrecruit trainingというらしい)、当然、ゲイであることから差別と迫害を受けるだろうし、またゲイであることを隠し通して訓練を受けるのも魂を病むことでもあって、同性愛問題の深刻さを痛感させる映画で、まあ、見ていて楽しい映画ではないだろう――LGBTQ映画は、すべて見るようにしている私にとっても。

しかし、この映画、予想外に、エンターテインメント性が強く、はっきり言って、めちゃくちゃ面白い。もちろんゲイ問題は大きく影を落としている。しかし「劇中で描かれていく実体験は、あまりにも濃密で衝撃的。脳裏に焼き付くほどの凄まじいインパクトで…」とネット上のサイトでは宣伝しているのだが、まあ宣伝する側としてそうでもいわないといけないのだろうが、正直、バカかと言ってやりたい。濃密で、すさまじいといは、どういうものか、まったくわかっていないのだから。

16歳から10年間、ホームレス状態を続けていた「黒人」のゲイの青年が、生活をたてなおし、おそらく疎遠になっていた母親からも褒められたいとの一心から海兵隊に入隊する。と、そこにはブートキャンプが、地獄の新兵訓練が、待っている。

そう、これは新兵訓練物というか新兵訓練映画であって、いまの若い人たちは、この種のジャンルの映画を見たことがないかもしれないが、私のような老人は、はっきり記憶に残っている。

たとえば『愛と青春の旅立ち』(An Officer and a Gentleman, 1982)は、海軍航空隊のパイロットを目指す新兵の物語だが、ヒコーキ・オタクの私にとっては残念なことだが、飛んでいる航空機は一度も登場しない映画(『トップ・ガン』とは全く異なる映画)。映画は新兵訓練担当の鬼軍曹に徹底的にしごかれるパイロット候補生たちの物語に終始する。

また人格と人権を否定するような過酷な訓練ではあるのだが、ただのサディストに思われた鬼軍曹のしごきも、すべて一人前に軍人に仕立て上げるための愛の鞭であったことがわかるし、実際、この訓練を経て、訓練生は人間的にもまた軍人としても成長をとげてゆく。

たとえばTBSで不定期に放送中の「究極のサバイバルアタックSASUKE」という番組がある。毎回100人が出場し、1st、2nd、3rd、FINALの4つのステージに分かれたさまざまな障害物をアクションゲームのようにクリアしてゆくという番組は、茶の間で見ているぶんには面白いエンターテインメントである。「それぞれのステージに要求される能力・技能は濃密で衝撃的で脳裏に焼き付くほどの凄まじいインパクト」があるが、そこが面白いのである。新兵訓練物には、そうした面白さがある。と同時に、そこにドラマがからみあう――『愛と青春の旅立ち』では、リチャード・ギアとデボラ・ウィンカーの恋物語が。

キューブリック監督の『フル・メタル・ジャケット』(Full Metal Jacket, 1987)は、前半で、地獄の新兵訓練が描かれる。ただしそこでは脱落者の悲劇的な死が暗い影をおとす。新兵訓練物の予定調和的物語が崩れていて、この前半が、後半でのベトナム戦争の地獄と連動している。

いっぽう古典的な新兵訓練物語としてはリチャード・ウィドマーク主演の『あの高地を取れ』(Take the High Ground!)がある。1953年製作という古い映画だが、日本では1960年代終わりから1970年代の初めにテレビで放送している。私は、その放映を見た。そして面白さに驚いた(なおけっこう有名な映画なので日本版Wikipediaにも項目がある)。

この新兵訓練物語だが、リチャーヂ・ウィドマークが鬼教官を演じていて、新兵たちの激しい訓練によって、新兵たちから反感を買うのだが、それは朝鮮戦争で戦友たちを亡くしトラウマを背負っている鬼教官の愛の鞭であった。この鬼教官の訓練に耐えた新兵たちは最後にはたくましい兵士として訓練所から巣立ってゆく(また教官のほうも新兵たちから影響もうけ、両者の間に友情と信頼関係が生まれる)。そして新たな訓練生を迎えたこの鬼教官は、卒業していった訓練生たちに最初に語ったのと同じことを語り、新たな訓練生へのしごきがはじまるというところで終わる。ウィドマークの二面性(悪人と善人の両方を演ずるスターだった)が効果的に使われていた。また戦闘場面は回想シーンでわずかに使われるだけだったが、戦闘よりも訓練内容のほうが激しくて、見ていて飽きがこなかった。

実戦経験があり戦友を亡くした鬼教官。その鬼教官の理不尽なまでの過酷な訓練。だが、それは娑婆っ気の抜けない訓練生たちを一人前の兵士にするための愛の鞭だったことがわかる。鬼教官は優れた教官だった。訓練生も最初は鬼教官を憎み反発していたが、有能な兵士へと成長するにつれて教官とも和解し、仲間たちとの連帯も強めていく……。

これは『あの高地を取れ』についてもう一度まとめているのではなく、『インスペクション』の物語をまとめたにすぎない。そう、『インスペクション』は、新兵訓練物語のフォーマットにのっとって作られているから(優等生の訓練生が自分の地位を脅かす主人公に対して不正を行うというのも、お約束の展開である)、予定調和的結末は見えている、見え見えである(しかも監督の経験に基づくということだから、主人公の新兵が脱落したり死んだりすることはないと安心してみていられる)。

また『インスペクション』は、これまでの新兵訓練物語の例に漏れず、面白い。もし、こんな過酷な訓練をするように命じられたら、そもそも私にはできないし、むりに訓練させられたら私は死んでいるにちがいなのだが、他人事として映画としてみているぶんには、実に面白い。訓練にへこたれて負けるなと無責任に応援したくなる。戦争映画は金がかかるが、こうした新兵訓練物語なら低予算ですむ。それでいて厳しい訓練模様は、戦場での戦闘よりも迫力があって、みていて面白い。

そもそもこういう訓練物語、つまり、軍隊でなくとも、さまざまな分野において特訓とか集中訓練や修行などをへて、ひとつのコースを終え、卒業し、成長してゆく物語というのは、物語としては心地よいものであり、オプティミスティックな世界観にもとづき、なにかユートピア的なものを想起させる。

またいうまでもなく新兵訓練物語は戦意高揚映画のひとつである(キューブリックの『フル・メタル・ジャケット』は訓練物語が戦意高揚映画になっていない稀有な例である)。そのため基本的に体制側の世界観を体現することになる。なにしろ主人公が入隊するのは、泣く子も黙る海兵隊(マリンコ)。先陣を切って突撃し、戦死する可能性がどの軍よりも高い海兵隊。センパー・ファイ(というフレーズは映画のなかでは聞かれなかったが、「ウラー」はうるさいほど聞こえた)の世界。監督は除隊しているのだが、しかし、一度海兵隊員になったら死ぬまで海兵隊員といわれている以上、これは、海兵隊の監督が撮影した映画なのだ。な、なんという麗しき保守性――ただし、ゲイであることを除いては。

主人公の新兵がゲイでるあることを除けば、新兵訓練物語として、この映画はよくできているし、安心してみることができる。ハッピーエンディングなので、安心してみることができる、おすすめの映画である。


と、すぐにいま述べたことを否定してしまうのは、どうかと思うのだが、この映画は実はビター・エンディングである。

ゲイの男性のステレオタイプを持ち出すのは真実をゆがめてしまうものかもしれないが、ゲイ男性は母親が好きである。ゲイ男性は、父親とは敵対することもあれば、そうでないこともあるが、母親とは一様に仲がいい。母親は、わが息子のゲイであることについては、寛容であり、許すものである。ところがこの映画では主人公は、ゲイであることを最後まで母親に認めてもらうことはない。母親は、海兵隊員になったことは評価するが、ゲイであることは絶対に認めないのだ。

ふつうならこの敵対関係に決着をつけるものだが、映画ではオープンエンディングになっていて、そこがまたビター・エンディングともなっている。撮影中に監督の母親が亡くなったとのことで、結局、監督と母親はゲイ問題については和解できていなかったために、それを映画にも反映したともいえる。またフィクションなら和解と容認が描かれていただろうが、自伝的映画であるがゆえに、事実とは異なる結末を設けることはできなかったのだろう――母親の死が、和解を可能にしたというよりも、むしろ和解を不可能にしたといえる。

だが自伝的反映を考慮しなければ、この絵にかいたような保守的母親との和解なしを描くことは、絵にかいたようなアメリカの保守層にゲイに対する反対意見もあることを示して、黙認を可能にする担保ではないだろうか。ゲイの主人公の母親が最後まで断固として同性愛を認めないことで、保守層は安心するのかもしれない。そしてそれが許されない妥協形成としてラディカルなアクティヴストからは批判されることを承知のうえで、保守寄りにもリベラル寄りにもなる中間地帯としての映画を製作をしたのだが、この映画そのものが、ある意味、海兵隊(あるいはアメリカの軍隊全般)における妥協形成DADTとシンクロしているのである。

【DADTはDon’t Ask, Don’t Tellという米軍における公式な政策で、同性愛者が自己の性的嗜好を公言しないかぎり同性愛者の入隊を認めるもの。1994年から2011年まで継続。この映画は2003年に設定されている。映画のなかで、新兵たちが余興として見せられる映画『ジャーヘッド』は2005年公開の映画だが。】

いや海兵隊における妥協形成こそ、この映画で提示しようとしたリアルであったというべきか。訓練施設に入るまえに候補生は全員、おまえは同性愛者homosexualsや共産主義者communistsではないだろうなと怒鳴られる。同性愛者の入隊は公的には許可されていないのだが、黙認されていた。そのため訓練期間中、同性愛者と発覚したとき主人公は候補生たちからリンチを受けるし、教官もそのリンチを黙認するというか教官がリンチを扇動する。だがそのいっぽうで、軍隊から同性愛者を全部追放したら軍隊そのものが成立しなくなるという教官がいるように、同性愛者は黙認されている。本人が公然とカミングアウトしない限り、同性愛者の海兵隊員も、センパー・ファイと誓い合った仲間なのだ、ウラー。

インスペクションというタイトルも重要である。同性愛者かどうか、同性愛者を摘発するインスペクションというか監視の目は存在している。と同時に、インスペクションこそが、シークレットをオープン・シークレットにとどめおくことによって、同性愛者を生存させる方法ともなる。摘発の道具が隠蔽させる道具ともなる。

ただの差別ではなく、こうした妥協こそが同性愛者の精神をむしばむという考え方、あるいは現実があることはわかる。それがDADTの廃止に至る理由のひとつなのだが。ただし、妥協形成によって、ゲットーのなかにとどまるのではなく、社会的公認と全面的解放へ向けての中継点ができたことは事実である。

これはカミングアウトか否かという自己解放と自己確立重視のモダンでラディカルな主体政治に対して、まぎれこむこと、オープン・シークレット状態によって生存を確保することという脱ラディカルなポストモダンのパッシング政治の一環であるともいえる。『インスペクション ここで生きる』の「ここで生きる」というサブタイトルは、日本側がつけた青臭い副題だが、案外、正鵠を射ているのかもしれない。

エンターテインメントとしてほんとうに楽しめるこの映画は、同時に、エンターテインメントのかたちで、軍隊にもネガティヴなかたちで肯定(アファーム)されているパラドクシカルなLGBTQのリアルを提示したパッシング映画なのである。

付記:パッシング問題の嚆矢となった文学作品は、ネラ・ラーセンの『パッシング』(1928)である。鵜殿えりか氏による優れた翻訳によって読むことができるようになったことは私たちにとって実に幸運なことである。ネラ・ラーセン『パッシング/流砂にのまれて』(みすず書房、2022)【流砂にのまれては別の作品、副題ではない】。

また以下の選集の私の短い解説も参照していただければ嬉しい。オスカー・ワイルドほか『ゲイ短編小説集』大橋洋一監訳(平凡社ライブラリー1999)。
posted by ohashi at 15:59| 映画 | 更新情報をチェックする

2023年08月06日

『不安は魂を食いつくす』

『不安は魂を食いつくす』(原題(ドイツ語):Angst essen Seele auf、英:Ali: Fear Eats the Soul、監督ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー1974年)が現在公開中。日本初公開ということだが、ネット上には2023年以前にこの映画の感想を記したコメントやサイトが多くあるので、有名な映画でもあるため、私のようにすでにDVDで観たことのある人は多いのだろう。というか過去にこの映画のコメントをネット上で読んで、私も観ることになったのだから、日本初公開でもすでに観た日本人は数多くいる。

ニュー・ジャーマン・シネマを代表するにファスビンダー監督のこの映画は、以前は『不安と魂』の表題で紹介されていた。Wikipedia(「不安と魂」の項目)はこう紹介している。
掃除婦として働く孤独なドイツ人老女と、外国人労働者である若いモロッコ人との愛と苦悩を描いた作品で、第27回カンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞とエキュメニカル審査員賞(第1回)の二冠に輝き、ファスビンダーの名前を一躍国際的にした代表作のひとつ。主演のブリギッテ・ミラはドイツ映画賞で主演女優賞を獲得した。

ドイツ語の原題には文法上の誤りがあるが、これは意図的なも。Wikipediaにも、説明がある。
原題は、劇中で外国人労働者のアリがたどたどしいドイツ語で言う台詞「Angst essen Seele auf(恐れは魂を蝕む)」に基づく。ドイツ語文法上の誤りがあるが(正しくは「Angst isst die Seele auf」)、そのまま使われている。


映画館では観ていないが、この映画は、私にとってかなりきつい映画で、最後まで観ることができなかったと言えるほどのものだった(最後まで観たのだが)。

過去の映画評では、この映画の形式面の斬新さと技巧性を称賛しているものが多い。それはそれで鋭い洞察にもとづく有効な視点なのだろうが、同時に、形式面だけに着目して、映画のもつ毒には全く無頓着である――副反応を全く感じていないのだ。

いっぽうこの映画を映画館で観たという観客のコメントは、この映画の毒を実感しているようにみえる。その証拠に、この映画をお笑いとしてしかとらえていないのだ。もう少し正確にいうと風刺的なものとしてとらえている。私もこの映画をストレートな笑いではなくサタイアの笑いとして観れば苦しい思いをしなくて済んだのかもしれない。

『不安は魂を食いつくす』は、異人種婚と年の差婚の合体した内容なのだが、掃除婦として働く孤独なドイツ人老女を演じたブリギット・ミラは、当時64歳。白人は男性も女性も、日本人と比べると年齢よりも老けて見える。彼女は74歳いや84歳くらいにみえる。性的な魅力はない高齢の女性、母親的というよりも祖母的であり、恋人となり結婚もするモロッコからの移民あるいは季節労働者の青年とは、祖母と孫ほどの年齢の開きがある。この青年アリが筋肉隆々のマッチョ男性。性的オーラのない老婆が、彼女の孫のようなマッチョマンとセックスをすることは、私の想像を絶した。黒人の季節労働者に親切にするのはよいことである。だが、セックスをする必要はあるのかと頭をかかえた。

まえに生田斗真が主役を演ずる太宰治の『人間失格』の映画版をみたとき、最後に登場する老婆をみながら、話の流れからして生田斗真は、このクサレ婆さんとセックスをすることになるのだろうが、それはみていてて苦しいと思ったことがある。だが、その老婆を演ずるのは三田佳子、さすがにベテラン女優だけはあって、生田との絡みが実に自然かつ官能的に訪れた。特撮とかCGを使ったわけでもないのに、老婆がみごとに美魔女へと変貌をとげていた。だが『不安は魂を食いつくす』では、そのような化学反応は一切起こらなかった。

ちなみに『不安は魂を食いつくす』は、ダグラス・サークの映画『天はすべてを許し給う』(All That Heaven Allows、1955)へのオマージュもしくはアダプテーションと言われている。裕福な家庭の人妻であり母である女性が、庭師の若い男性と恋に落ちる。スキャンダルになって子どもたちにも責められるが、子どもたちは母の犠牲に感謝することもなく母親をたんなる金づるとしてみていない。そのため絶望した母は、庭師の男との恋を選ぶ。階級差を越えて。

ダグラス・サークのメロドラマ映画は年齢と階級の壁を乗り越え、タブーを破る強度がある。母を演ずるのがジェーン・ワイマン(Jane Wyman1917- 2007)、庭師の男を演ずるのはロック・ハドソン(Rock Hudson、1925 – 1985)。このカップルはむしろ美しすぎる。反対するほうが愚かと言わざるをえない。

階級差と年の差婚の『天は……』に対してファスビンダーの『不安は魂を食いつくす』は、異人種の壁を持ち込んだ。これに対し、ダグラス・サーク作品のさらなるオマージュ、あるいはアダプテーションとして、トッド・ヘインズ監督の『エデンより彼方に』(原題: Far from Heaven、2002)がある。1950年代のアメリカ東部コネチカット州を舞台にしたことは、ダグラス・サークの映画の1950年代を再現したもの。そこでは『不安は魂を食いつくす』と同じように、白人女性と黒人男性との愛がメロドラマ性と道徳性を高めることになるのだが、裕福なブルジョワ家庭の主婦をジュリアン・ムーアが演じ、庭師の黒人男性をデニス・ヘイスバートが演じた(誰かというなかれ、この映画の撮影時期にヘイズバートは、テレビドラマ『24 -TWENTY FOUR-』の第一シーズンで黒人のアメリカ大統領を演じていた)。知的で人間味にあふれたヘイズバートとジュリアン・ムーアのカップルはパーフェクト・カップルとしか言いようがない。

ただトッド・ヘインズは『天は……』と『不安は魂を食いつくす』に共通しているある要素を顕在化させた。それはゲイ男性である。『天は……』では庭師の男を演ずるロック・ハドソンはゲイだったし、『不安は魂を食いつくす』でアリを演じたのは、ファスビンダー監督の愛人の男性でもあった。トッド・ヘインズは、『エデンより彼方へ』のなかで、前2作におけるゲイ男性の潜在的ありようを顕在化させ物語に取り込んだ。ジュリアン・ムーアの夫をゲイとして設定したのである。

この2作を念頭におくと――つまりどちらも悲劇性を意識しつつも未来への可能性に賭けるその高い倫理性によって際立っている――、私は、ファスビンダー監督の『不安は魂を食いつくす』を辛辣なサタイアとしてみることができなかった。

ダグラス・サークの『天は……』では、母親の再婚に反対する子どもたちに対し、その身勝手なエゴイズムに嫌悪感すら抱く観客は多いと思うのだが、『不安は魂を食いつくす』では、母親の再婚に反対する子どもたちを良識人として応援したくなる。

だが、それでも結婚に走ったおばあちゃんと黒人のアリ夫妻は、結婚後どうなるかというと……。以下、新しい映画評に語ってもらおう。映画.COMの映画レビューである。

4.5誰が結婚を発明したのだろう?
talismanさん フォロー 2023年7月29日 Androidアプリから投稿 鑑賞方法:映画館
とても面白くて笑えて可愛らしくて。そして結婚の嫌らしさをすごく感じた。
【中略】
……ただ当初は、肌の色が異なる外国人労働者と結婚した為にアパートの住人からも行きつけの商店主からも同僚の女性からも自分の子ども達からも疎んじられ皆離れていく。それでもエミとアリは強く結びついていた。

それが、二人で過ごした気晴らし休暇から戻ったら状況がおかしく(普通に?)なってくる。住人も商店主も同僚も子ども達も手のひら返しの優しさでエミとの関係を戻す。そしてエミも変わる。顎でアリを使うかのように隣人の荷物移動手伝いをアリに指示する。女達がアリの若くてスベスベした筋肉質の身体を触りまくって褒め称える。それをエミはニコニコと笑って眺めている。クスクスを作ってというアリに、「クスクスなんて私は本当は嫌い。あなたもドイツに慣れなくては」と言い放つ。二人だけが幸せなら良かったはずだったのに。みんなの意地悪は嫉妬からだとエミは言っていたのに。でもエミはアリとの結婚で失った知人、友人、家族関係を恋しがってもいたのだ。

最後にエミはアリに言う。あなたが誰と寝ようが関係ない。二人で幸せに暮らしたい。残りの人生を一緒に過ごせればそれでいいと。「オレはお前より先に死ぬ、お前はオレの面倒を最後まで見るのだー」と昭和の夫のようだ。一方で、アリは当時の医者によると外国人労働者に多い胃潰瘍を煩っていて原因はストレス。どっちが先に死ぬのかもう誰もわからない。

結婚における権力構造を明らかにするためには男女関係をここまでひっくり返す必要があるのか・・・と絶句した。


私はこのコメンテーターの鋭い観察と記憶力に脱帽するし、この映画の見方を教えてくれるという点においても深く敬意を表するものである。

つまりファスビンダーの映画は、メロドラマ映画のもたらす想像界に対し、それが高い倫理性を誇る、現実逃避ではなく現実改変の強い意志の発露してある想像界であったとしても、それを批判し異化する現実界をぶつけてきたのである。人種差と年の差を超えた勇気ある、また高い倫理感に支えられた結婚も、ありきたりの、陳腐な夫婦、エゴむきだしの、あるいは人種差別的な外国人差別的なエゴむき出しの日常と同居するしかない夫婦関係へと堕してしまうのである。ファスビンダーの眼は、それを意識しているかどうか定かではないのだが、とにかくどこまでも冷たい。どこまでも批判的である。

私が覚えている台詞がある(とはいえ英語字幕での台詞なのだが)。老婆とアリが高級レストランで食事をする場面がある。そのレストランが高級である理由としてどのようなことをあげるだろうか。三つ星レストランとか五つ星レストランというような外部評価。あるいは皇室御用達といったような、セレブに好まれ、セレブがよく使うようなレストランというのが褒め言葉になる。だがこの老婆は、高級レストランを褒めるときに、あろうことか、ナチスの高官がよく利用していたレストランだからすばらしいレストランだというのだ。たとえとしてナチスを出してくるのか! ドイツ庶民の意識と世界観は、結局、それなのかと驚いたことは、いまでも記憶している。
posted by ohashi at 22:17| 映画 | 更新情報をチェックする

2023年08月05日

「駅」

ジャニー喜多川の性加害をめぐる山下達郎の発言は、多くの物議を醸し出し、いまなお尾を引いている。

Wikipediaから引用すると:
2023年7月1日、松尾潔は自身のツイッターで「15年間在籍したスマイルカンパニーとのマネージメント契約が中途で終了になりました。私がメディアでジャニーズ事務所と藤島ジュリー景子社長に言及したのが理由です。私をスマイルに誘ってくださった山下達郎さんも会社方針に賛成とのこと、残念です。今までのサポートに感謝します。バイバイ!」と投稿。松尾は同月6日発売の夕刊紙「日刊ゲンダイ」のコラムで、性加害問題で揺れるジャニーズ事務所への苦言をラジオで呈したことなどを理由に、マネジメントの年間契約の中途での解除を申し入れられ、山下および山下の妻で同社所属の竹内まりやも同社の方針に賛意を示したと述べた。山下は同月9日のラジオ番組で、「ネットや週刊誌の最大の関心事はですね、私がジャニーズ事務所への忖度があって、今回の一件もそれがあって関与したのではという、根拠のない憶測です。今の世の中は、なまじ黙っていると言ったもの勝ちで、どんどんどんどんウソの情報が拡散しますので、こちらからも思うところを、正直に率直に、お話しておく必要性を感じた次第であります」、「まずもって、私の事務所と松尾氏とはですね、彼から顧問料をいただく形での業務提携でありましたので、雇用関係にあったわけではない。また、彼が所属アーティストであったわけではなく、解雇にはあたりません。弁護士同士の合意文章も存在しております。松尾氏との契約終了についてはですね、事務所の社長の判断に委ねる形で行われました。松尾氏と私は直接話をしておりませんし、私が社長に対して契約終了を促したこともありません。」、「性加害が本当にあったとすれば、それはもちろん許し難いことであり、被害者の方々の苦しみを思えば、第三者委員会等での事実関係の調査というのは必須であると考えます。」と松尾の発信した内容を否定した。

とある。

しかし、7月20日発売の『週刊文春』が「山下達郎とジャニー一族 20億円の『ご恩と奉公』」という記事で、山下達郎とジャニー一族との交流とビジネス上のつながりについて報じため、山下のラジオでの、いまでは語り草にもなった古典的発言:
このような私の姿勢を忖度、あるいは長いものに巻かれているとそのように解釈されるのであれば、それでも構いません。きっとそういう方々には私の音楽は不要でしょう。(2023年7月9日放送『山下達郎のサンデー・ソングブック』)

は、「ジャニーズ専属作家」の山下の、ジャニーズ事務所とずぶずぶの関係にある山下の忖度以外の何物でもないとみなすほかはなくなった。

そしてこの発言から、かつて山下達郎が、竹内まりやが中森明菜に提供した楽曲「駅」について中森自身の解釈を批判したことがあらためて中森明菜ファンの間で想起されて怒りの声が高まっている。

「駅」(えき)は、
中森明菜の楽曲。竹内まりやが作詞・作曲を手掛け、中森明菜へ提供した楽曲で、1986年発売の中森のアルバム『CRIMSON』に収録された。この中森のアルバムの中でも好評な曲であったが、翌1987年に竹内まりやがセルフカバーしてシングルとしても発売し、これによって一般的に広く知られるようになった。Wikpedia


1994年発売の竹内まりやのベスト・アルバム『Impressions』における山下のライナーノーツは
アイドル・シンガーがこの曲に対して示した解釈のひどさに、かなり憤慨していた事もあって、是非とも自分の手でアレンジしてみたいという誘惑にかられ、彼女を説得してレコーディングまでこぎつけた。その後このヴァージョンは有線放送で1位になるなど、今では竹内まりやの代表作のひとつとなっている。メデタシ、メデタシ。

と。

しかし「アイドル・シンガー」が中森明菜のこととわかっているのに、この書き方は不快なまでに揶揄的である。中森に対する敬意もなにもない。ただのバカなアイドル・シンガー(アイドル・シンガーというのは、シンガーと違って歌が下手な名ばかりのシンガーということである)が勝手に解釈しやがってということである。ただたとえそうであっても妻が提供した楽曲について、最初から歌い方などを規定していたら話はべつだが、そうでなかったら歌手側が自由に歌っていいはずである。また解釈の違いというのはどういうことかも問題になる。

解釈の違いといっても言語化して説明しているのはなく、別のオルターナティヴな歌い方あるいは編曲を示しているだけなので、どこがどう違うかは、それこそさらに解釈がわかれることになる。

私の個人的見解を言えば、竹内まりやの代表作になってから、この「駅」に接したこともあって、中森明菜の歌い方は、この楽曲にはふさわしくないのではないかと思っている。そのため山下・竹内版が、この曲への正しい解釈であって、中森版は、中森ワールドにむりに曲を取り込んでいるだけではないかと思っている。山下の批判は正しい、と。

ただ、これだけでは曖昧なので、歌詞から、解釈がわかれるであろう個所を抜き出してみる。それは、この歌曲のなかで一番の盛り上がりを見せる個所の、つぎのような言葉である。

今になってあなたの気持ち、初めてわかるの 痛いほど、私だけ愛してたことも。


竹内まりやの歌詞のこの部分は舌足らずで(とはいえ歌謡曲一般についていえるのだが、舌足らずなところが実は魅力なのだが)、「私だけ」が主語なのか目的語なのかわからない。

「あなたは、私だけを愛していた」(私がふった)が山下・竹内版の解釈で、

「あなたのことを、私だけが愛していた」(私の片思い/私がふられた)が中森版の解釈である。

歌詞からはどちらの解釈も可能である。

ただ歌詞全体、あるいは前後関係から、私は前者の解釈が妥当だと考える(楽曲の雰囲気からもそう言えるのだが、これは山下・竹内版の編曲を聴いた上での感想なので判定基準にはならない)。

中森版では、歌い手の女性は、完全に絶望の淵に沈んだ難破船状態で、それが2年もつづき、立ち直る気配は全くない。中森版の「駅」を聴いたとき、「あなたのことを私だけが愛していた」ともとれる解釈から、それは近藤真彦と関係のあったあなた、中森明菜自身のことでしょうと、心の中で突っ込み入れていた。

そう、中森明菜は近藤真彦と交際関係にあって自殺未遂事件を起こし、その後の「金屏風会見」において謝罪した。そうしたトラブルが当時あった。

となると、竹内まりやの楽曲を中森明菜のように歌うと、近藤真彦との関係、金屏風事件など一連のスキャンダルを想起させることになり、そこでジャニーズ事務所とジャニーズ一族との20億円の「ご恩と奉公」がある山下が楽曲の解釈の変更を迫り、ライナーノーツによって「アイドル・シンガー」の解釈を批判することになった。まさに当時も、ジャニーズ事務所に忖度していた。その結果が、山下の中森批判ではなかったかと中森明菜ファンたちが憤慨している。その憤慨はむりもない。

私がここで考えたいのは、利害と真実である。利害関係があると真実がくもらされる、正しい判断ができなくなると言われる。

利害関係のない第三者が判定を下すべきだという原則がある。これは、関係者は公平な判断ができないということでもある。

しかし同時に利害関係があるから、関係者だからこそ、真実がみえることもある。そしてこの可能性は往々にしてみすごされる。

今回の山下達郎による中森明菜の楽曲解釈についての批判は、ほうっておいてもいい問題ではある。「駅」は人気曲であり多くの歌手がカバーしている(Wikipediaの「駅(中森明菜)」の項目には「カバー・バージョン」の一覧がある)。

歌手がどう歌おうが自由で、その歌手が持ち味を出せばいいのであって、それに対し、これはこういう曲だからといちいち文句をつけてもはじまらない。ただ山下達郎による批判は、「人間難破船」「廃人」と化した女性の心をウィスパー・ヴォイスで歌う中森明菜に対し、原曲の世界を歪曲した誤解釈した歌い方だと憤慨したうえで、この曲のスタンダードな解釈を竹内まりやの歌う「駅」というかたちで示したものである。

しかも竹内まりや版は、中森明菜版よりも高い支持を得て人気曲になり竹内まりやの代表作のひとつとなった。そして冷静にみれば、こうした「駅」という曲のスタンダード歌唱と編曲(つまり竹内まりや版)を提示することによって、他の歌手たちのカバーにも存在理由を与えることになった。中森版は、本来、カバー版ではないのだが、いまや竹内版のカバー的な地位にあり、そしてそれはまたこの曲のありうるかたちとして定着しているように思われる。

石川さゆりの「駅」のカバーを聴いたことがあるが、東京の渋谷駅とか中目黒駅などを舞台にし、東急東横線(それも副都心線とか東武東上線・西武線とも直結し、和光市とか川越市とか森林公園といったダ埼玉の住民を横浜や中華街に運ぶ路線に脱する前の東横線だが)を連想させるといわれるこの曲なのに、青森の津軽海峡に近い雪景色のなかの駅を連想させるものとなっていて驚いたが、しかし、それもスタンダードに対する変形版としての意義はある。

またすでに述べたように山下が竹内版をとおして示した解釈のほうが、原曲の世界を正しく具現化しているように思われるし、スタンダードな解釈として認定されてもおかしくないと思う。

山下達郎による批判と楽曲解釈は私のみるかぎり正しいと思うし、そのような批判をなしえた山下の鋭い洞察と感性と創造性には敬意を表すしかない。

ただ問題は、それが、近藤真彦のスキャンダルを連想させる中森版を抹消して20億円の絆を維持しジャニーズ事務所を守ろうとした山下の利害関係に基づく行為であったことだ。その動機が芸術的・文化的・音楽的なものではなく、20億円の義理と恩義であったということだ。

あくまでも「アイドル・シンガー」の勝手な解釈に憤ったという音楽上の理由を掲げながら、その実というかその裏には金銭がらみ・欲得がらみの薄汚い動機があった。ただ、だからといってその批判が全く的外れの言いがかり的なものかというと決してそうではない。

これがどうみても理不尽な言いがかり的な批判だったらよかったのだが、批判そのものには説得力があるからこそやっかいなのである。また私は山下の行為が、結局、「駅」という楽曲の価値と評価を高めたことは事実だと思うので、利害関係があるから、関係者だからといって、その行為をおとしめることはできないと思う。

むしろ近藤真彦を救おう、ジャニーズ事務所を救おうという義理人情に発する動機があったがゆえに、山下をこうした批判へ走らせたとみるべきである。利害関係がある、あるいは関係者だからこそ、中森版の解釈の、まちがいというよりも無理のあるところを見抜けたのである。

利害関係があるから、中森版を故意に歪曲しておとしめたということにはならない。利害関係があるからこそ、ふつうなら見過ごされるか無視される問題を俎上にあげて批判と創造をおこなうことができた。

利害関係のある者が、中立的ではない関係者が、真実を見極めることができるという実例ともいえるものである。

ただし山下の場合、利害に目が眩んで暴走してしまったという面もある。いや、暴走ではなく意識的な隠蔽かもしれない。となると、利害関係があるからこそ真実が明らかになる場合と真実が隠されてしまうということになって、要はケース・バイ・ケースということになるが、ただ利害関係が真実を明らかにすることもある点は強調しておきたい。

そもそも竹内まりやの「駅」は、もう有名な話だがパクリなのである。

ダニエル・ビダルの1970年の楽曲「小さな鳩」(作曲:村井邦彦、歌詞:山上路夫)の冒頭部分と、「駅」の冒頭部分(いわゆるAメロ)が同じである。

ダニエル・ビダル(1952-)はフランス人歌手だが、1970年代前半に日本で活躍し、日本語の歌のレコードを発売、テレビ番組にもよく登場した(私もテレビで観た記憶がある)。1970年発売のレコードに収録された「小さな鳩」は、かわいらしい歌曲で、冒頭が「駅」と酷似というか同じ。ただ「駅」のほうが、映画やテレビドラマの一場面のような情景と若い女性の日常のなかに人生の悲哀がにじみ出るスケールの大きな歌曲で、全体の印象は「小さな鳩」とは全く異なるのだが、冒頭部のAメロがパクリであることは、すでに周知の事実となっているようだ。

つまり「駅」については、その解釈が違うとかスタンダードな編曲はこれだという前に、たとえ一部であってもパクリであるという、やましい曲なのである。

山下達郎はジャニーズ事務所と近藤真彦を防衛するために、この曲の一部がパクりだとも知らずに、中森明菜の解釈に激怒して、竹内まりやにセルフカバーさせて、その代表曲を世に送り出すことになった(竹内まりやが気まずく思っているかどうかわからないが)。

あるいはこの曲の一部がパクリだと知っていても、それをジャニーズ事務所、近藤真彦防衛の意識が強すぎて、中森批判に走ったのか。いずれにしても、これは、利害関係が、マイナスに働いた例であろう。ちなみに「駅」は、いまでは竹内まりやの代表作ではないようだ。

私は山下達郎・竹内まりや夫妻に対してなんら恨みも憎しみも嫌悪感もないし、その楽曲は好きなのだが、ただ、いまや「人類史上、最悪の性虐待事件」を引き起こした人間(しかもこれで死後国際的名声をはせることとなった)と20億円のご恩と奉公とがあって、そうした性犯罪者や事務所に対する批判者を弾圧するような山下達郎は、自身が、国際的恥であることだけは自覚してほしいと思う。

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2023年08月04日

『神回』

2021年6月に東映ビデオが立ち上げたプロジェクト「TOEI VIDEO NEW CINEMA FACTORY」に応募された309本の企画と脚本の中から第1回製作作品に選ばれたのがこの『神回』。監督・脚本が中村貴一朗、主演は青木柚、坂ノ上茜。

「人シネマ」と題されたネット上の記事(2023.7.28)では、この映画をこんなふうに解説している。

まず前書きがある:
毎週公開される新作映画、どれを見るべきか? 見ざるべきか? 毎日新聞に執筆する記者、ライターが一刀両断。褒めてばかりではありません。時には愛あるダメ出しも。複数の筆者が、それぞれの視点から鋭く評します。筆者は、勝田友巳(勝)、高橋諭治(諭)、細谷美香(細)、鈴木隆(鈴)、山口久美子(久)、倉田陶子(倉)、渡辺浩(渡)、木村光則(光)。


次に内容紹介:
夏休み中のある高校。文化祭実行委員の沖芝樹(青木柚)は早めに教室につき眠ってしまう。もう一人の実行委員の加藤恵那(坂ノ上茜)に起こされて午後1時から打ち合わせを始めるが、5分たつと樹は午後1時に戻っている。抜け出せないループに陥った樹は、混乱を極めていく。

【中略】不安と妄想、若者の内に秘めた心情をずるずると照らし出した脚本に魅せられた。青春真っただ中のループにどう決着をつけるかと思っていたら、老いの後悔や切なさに着地。青春映画の進化系の趣を感じる。タイムループものは枚挙にいとまがないが、学校や教室内という、ほど良い閉鎖環境との親和性も新鮮だ。

しかし、落としどころは平板でやや拍子抜け。終盤は収束感を出すよりも、はじき飛ばす感性があってよかったかも。焦燥感たっぷりの青木、はつらつとした坂ノ上の躍動感にも注目。中村貴一朗監督。1時間28分。東京・新宿シネマカリテ、大阪・シネ・リーブル梅田ほかで公開中。第2弾「17歳は止まらない」は8月4日公開。(鈴)

さらに以下のコメントもある:
ここに注目
登場人物はほぼ2人。種明かしまでのミスリードも手が込み、よくある設定でも先読みさせまいと観客に挑戦する趣だ。その試みは半ばは成功。ただ、つじつまの合わない細部が気になったし、描写の生臭さと物語の着地点がややバランスを欠く。後味はしみじみともほのぼのとも言いがたいのが残念。(勝)


「記者、ライターが一刀両断。褒めてばかりではありません。時には愛あるダメ出しも」という辛口のコメントも辞さないという姿勢は、ややもすれば上から目線にもなるし、冷静な判断というよりも自己尊大化に陥りやすい。

「後味はしみじみともほのぼのとも言いがたいのが残念」という「勝」氏のコメントは、当人にとってみれば、一般観客にとって残念というつもりなのかもしれないが、「勝」氏本人にとって残念ともとれないこともなく、そうなるとあなた誰様?、俺様?という思いすら私たちは抱きかねない。そのコメントの不条理さは、たとえば「ロミオとジュリエットのふたりは、最後に、駆け落ちして結ばれてハッピーエンディングを迎えると思ったら、二人とも死んでしまうという悲しい結末になってしまったのが残念」というコメントの馬鹿馬鹿しさを思えば納得がいくことだろう。作者の意図が気にくわなかったら残念の一言で片付け要する心性こそ、ほんとうに残念である。

ただし、この映画が後半予想を裏切るかたちで展開するのは事実。またそれまでは時間ループ者の王道的作品であることを誇示している。

夏休みの高校の一教室で、文化祭の企画についての打ち合わせをする高校生の男女が、午後1時から1時5分という5分間の時間ループにとらわれてしまう。そのとき時間がループしていることを意識するのは、高校2年生の沖芝樹(青木柚)だけで、相手の加藤恵那(坂ノ上茜)は何も気づいていない。この設定は、たとえば『時をかける少女』(筒井康隆の短編あるいは映画化作品)とか『恋はデジャブ』(アメリカ映画)といった時間ループ物の王道の設定であって、同じ時期に上映されている『リバー、流れないでよ』では旅館に勤める従業員と宿泊客全員が2分間の時間ループに気づくのだが、これはけっこう異例の設定である。

また文化祭にむけての企画準備というのは、文化祭前夜学校に残っての準備時間を繰り返すという『ビューティフル・ドリーマー』を彷彿とさせる。この作品では高校に残って準備している者たちが、時間のループに気づき始めるのだが、『リバー』とは異なり、気づきは徐々におこなわれるのだが、『神回』との共通点は、このループが、誰かの願望充足になっているという設定である。『リバー』でもループを引き起こす誰かの願望が問題となっていた。また昨年公開されたループ物『Mondays』でも一週間のループを引き起こす原因となる人物が存在していた。

『神回』は、この中間である。唯一、時間ループに気づいた男子高校生は、5分間のループから逃れるために、原因の追究、事情を知っているかもしれない人物との接触などを試みるが、結局、原因はわからず、脱出ができないままである。

しかしこの映画のはじまりに、説明をされないのだが、病院らしき個室で生命維持装置を付けてベッドで寝ている年配の男性の姿が映し出され。そして夏休みの高校の校舎へと場面はかわる。すべてはこの生命維持装置をつけて意識がないらしい男性の夢のなかの出来事かもしれないという可能性は最初から示唆されている――実際、その示唆はまちがっていない。となると、このループの原因は、そこから必死で抜けだそうとしている高校生の、おそらくは晩年の彼自身である。

『ビューティフル・ドリーマー』では、文化祭の前日の準備の時間という学園生活で一番楽しい時間が永遠につづくことを願っている人物が時間ループをもたらしたのだが、この『神回』では、ひそかに恋心をいただいている女子高生との文化祭打ち合わせは青春の楽しい思い出を、この男子高校生はずっとつづいていていて欲しいと願っているのではないかと思うのだが、あいにく思い出の出来事は5分間しか続かず、しかもその5分ですら耐えられない男子高校生は、そこから必死の逃亡をはかるのはなぜかという疑問が映画の後半に観客の脳裏をよぎり始める。

ただし、その前に、時間ループ物としてこの映画について展開を確認しておきたい。まずは5分間のループに気づいた主人公は、そこからの逃走を図る。知恵を絞り、あらゆる可能性なり原因を考慮して策を練り行動に走るのだが、ことごとく失敗し、疲労する。記憶は残っているのだから、だんだん要領がよくなってくるのだが、結局は、すべての試みが無駄であったことを悟る。どんなに逃げだそうとしても、水平方向のバンジージャンプみたいでに、結局は引き戻されるのである。

つぎに5分のループからの脱出は不可能とわかったあとは、5分間をいかに有効に活用するかにテーマがかわる。男子高校生が女子高校生と、将来について、自分の夢について語りあうとき、かけがえのない親密な瞬間が訪れる。午後1時5分より先に時間はすすまずにループして反復をくりかえす時間にとらわれたとき、これは一回切りの人生に生じたボーナス時間でもあって、たとえ5分であっても、ふだんできない時間の使い方というものがあるはずで、主人公はそれを片思いの女子高生との親密な語らいに使うのである。

だがもうひとつの有効活用がある。それは悪いことをするのである。あるループ物の映画では、1日の時間ループに囚われた高校生の若者たちが、何をしてもリセットされて一日前にもどるのだからと、街で犯罪行為に走る。たとえ警察につかまっても、あるいは人を殺しても殺されても、翌日になればすべてリセットされて前日に戻るのだから。ただし、これが危険なのは、もし時間ループが終わると、犯罪行為がリセットされずに責任をとわれることになる――これは『リバー』でも警告されていたことだ。

『神回』において主人公の男子高校生は、相手の女子高生をレイプしようする。ループを繰り返すうちに次第に狡猾になった男子高校生は時間をかけずに女性を気絶させ性行為に及ぼうとするが、それでも時間切れになる。この暗い展開のなかで、結局、彼はレイプできない。ただしその理由が、5分間では短すぎるためか、まだ残っていた良心ゆえにか、あるいはそれ以外のなにかなのか判然とはしないのだが。

【以下、ネタバレ注意。Warning:Spoilers】

ここで映画の冒頭において示された生命維持装置をつけられ眠っているか意識のない高齢の男性の病室か自室(自室のようだが)へと戻る。どうやら余命幾ばくもない男性は、甥の新納慎也とその妻だったか妹、そして医師と看護師に看取られている。生命維持装置を外すことに躊躇する新納は、父親がわりだった伯父の希望をかなえて最後まで行かせてやりたいという。またこの老人の夢(老人は男子高校生になっている)にあらわれた医師は、老人がなんらかの医療実験に参加していて、良好な結果を得たというようなことを知らされる。ただし、どのような医療実験なのか、またこの老人は、どうして高校時代の夢をみているのかは説明がない。なにか自分の人生における幸福な一瞬を最後に夢見るという実験(?)に参加しているのかなと思う。

ところがそうではない。夏休みの高校の教室での、女子高生との文化祭の企画の打ち合わせという出来事は、実際には起こらなかったのである。この老人/男子高校生の願望にすすぎなかった。だからこそ、この願望充足が実現したかのような幸福な時間は、そこに閉じ込められたいと願いながらも、あり得なかった架空の時間であって、そこにとどまることのできない時間でもあった。そのためこの昏睡状態の老人にとって、高校時代の夏の幸福(だったかも知れない)時間から逃れ、最後に、老齢となった二人が結ばれるハッピーエンディングを目指そうとしても、結局は、その架空の幸福な時間に引き戻されるしかない。なんという空虚感。なんという焦燥感。

このことは甥の新納慎也が、伯父の持ち物や卒業アルバムを整理して、伯父の恋人だったかもしれない女性を呼び出して、療養中というか昏睡状態の伯父に会ってもらったことから判明する。彼女は、老人の高校時代の恋人でもなんでもなかった。彼女にはボーイフレンドがべつにいた。彼女と文化祭の企画の相談などしなかった。すべては老人男性の妄想というか夢であったとわかるのである。

その間、老人は昏睡状態のなか、夢のなかで、たがいに老齢化した女性と、ループから逃れようと高校の教室をあとにする。だが階段を上った先にあるものあ定かではない。それが正しい脱出経路かどうかも定かではない。ただひとつ言えるのは、校舎の窓からコンクリートの通路に飛び降りて頭を割って死ぬのではなく、老齢となって死ぬことが、ループから逃れる唯一の方法だとわかるのである。いいかえれば昏睡状態の老人が、生命維持装置をはずされたとき、ループが終わるということである。

映画の最後には、高校の校舎が映し出され、教室の黒板とか壁、また校舎の壁などに、プロジェクション・マッピングで、男子高校生と女子高生との文化祭の打ち合わせの場面、彼女の姿、ふたりの語らいの姿などが映し出される。プロジェクション・マッピングは外部から動画を建物の壁などに投影するものなのだが、観ている側からすると、建物の内部から映像や動画が浮かびあがってくるようにみえる。この高校の校舎は、男子高校生の思い出を、正確にいえば妄想を閉じ込めた墓場という趣がある。あるいはこの老人の墓石は、高校の夏休みの校舎の形をしているのである。

なんという悲しいせつない物語なのか。この老人は、一応、社会的には成功した生涯を送ったようだが、甥を引き取り、自分の子どものとして育てた彼は、おそらく生涯独身で、伴侶には恵まれなかったようだ。彼にとって唯一の愛の思い出は、高校時代の同級生の女子高生への片思いでしかなかった。もちろん彼女にはつきあっている恋人がいて、彼女に恋心を伝えることはできなかったし、たとえ伝えても相手にされなかっただろう。だが、彼女のことを忘れられなかったことは、人生の最期において昏睡状態の妄想中で、彼女とのありえたかもしれない、というかありえなかった経験をループして夢にみたことからもわかる。

悲しい一生だったのだろうか。いや、永遠の片思いこそ、もっとも純粋な愛、決して壊れることのない愛の究極のかたちである。たとえそれがどんなに苦しくとも、またそこからどんなに逃れようとしても、その苦しみ、その逃亡行為、その焦燥感こそが、愛の証しだったのである。


posted by ohashi at 00:03| 映画 | 更新情報をチェックする

2023年08月02日

『オセロー』NTL 3

イアーゴーは、最後にもう何も語らないというのだが、『オセロー』の前に書かれた悲劇『ハムレット』でも、ハムレットは、あとはなにも語らないといって死んでゆく。

ハムレットもイアーゴーも、あとは何も語らないといって死んでゆくのである(イアーゴーはこれから処刑されるのだろうが)。ハムレットとイアーゴーはその最期が似ている。

いや、ふたりは他の点でも似ているのだが、これは私が常々考えている、そして残念ながら賛同を得られていない『ハムレット』と『オセロー』の相同性とも関係する。

両作品は、同じ劇団の劇団員を念頭において座付き作者が創作したものである。登場人物を対照させてみよう。

ハムレット              イアーゴー
ホレーショウ(ハムレットの友人)   ロデリーゴー(イアーゴーの友人)
レアティーズ(ハムレットのライバル) キャシオ(イアーゴーのライバル)
クローディアス(父親的存在、叔父)  オセロー(父親的存在)
ポローニアス(父親的存在)      ブラバンショー(父親的存在)
ガートルード/劇中劇の女王      エミリア/ビアンカ
オフィーリア(ハムレットの恋人、歌を歌う)  デズデモーナ(イアーゴーと仲良し、歌を歌う)
フォーティンブラス(新支配者)    ロドヴィーゴ(ヴェニスからの使者)

このどこがハムレットとイアーゴーの共通点かといえば、どちらも不釣り合いな、あるいは正常ではない結婚に反対しているからである。

ハムレットは、母と叔父との早すぎる結婚に、イアーゴーは、父親ほど年上の男と若い女性の結婚、それも異人種結婚に、それぞれ反対している。

当時のシャリバリには、いろいろな理由が考えたれたが、こうした異常な結婚に対する若い男性たちの非難行為――具体的にはにバカ騒ぎをしたり、当事者夫婦に屈辱的な制裁を加えたりした――は常套化していたふしがある。

ハムレットは母親と叔父との結婚に反対して嫌がらせをおこなう。

イアーゴーはもっと派手に、もっとシャリバリ的に騒乱を起こし、オセローとデズデモーナの結婚に反対するかにみえる。その邪魔をする。前者が近親相姦的な結婚であったすれば、後者は、年齢差婚のみならず異人種婚ということもあり、そこに人種差別的偏見と怨念がからんでくることは疑問の余地がない。

あとここで『オセロー』をめぐる長い時間と短い時間というダブル・タイム(Double Time)の議論を振り返っておこう。

『オセロー』は、ヴェニスでの一夜から始まり、舞台はキプロス島へと移る。そしてキプロス島についてから長い時間がかかって悲劇的結末にいたるとみることができる(長い時間Longer time説)。

しかし、みかたによっては、キプロス島についてから次の夜にオセローはデズデモーナを殺したともとれる(短い時間Shorter time説)。長い時間説というのは、オセローがイアーゴーに騙されて徐々に愛する妻への不信感が増して、そしてついに妻を殺すにいたると考えられるからだ。愛する妻を殺すのには、憎悪の長い熟成期間が必要である。また結末いたるまでにヴェニスからの使者が到来したりと、いろいろなことが『オセロー』では起こる。そのため、長い時間(数週間から数ヶ月)が経過するとみるのは自然なことである。

いっぽう短い時間説は、愛する妻を殺すというのは、思わずかっとなって殺したということであり、長い時間を経れば、冷静になり妻への疑いや怒りも鎮静化することが多いのだから、これは短期間であればこそ可能となった凶行である。

この短期間説には、さらに重要なこととして、オセローとデズデモーナが、実は初夜を迎えていないのではないという昔からある説とも関係がある。

どういうことか。

1)最初にオセローとデズデモーナが結ばれたかもしれないヴェニスでの一夜には邪魔が入る。イアーゴーの策略によって、デズデモーナの父親が一族郎党をひきつれて、オセローとデズデモーナがいるサジタリー亭にやってくる。これで初夜はなくなる。

2)オセローとデズデモーナはすぐにキプロス島へと出発する。このときオセローとデズデモーナは別々の船でゆく。船上での初夜はない。

そしてキプロス島でオセローと再会したデズデモーナ、ふたりはその夜、初夜を迎えることになるが、イアーゴーが仕組んだ騒乱によって、ふたりは初夜を迎えることができない(二人が初夜を迎えることができなかったという暗示は、次の翌日の場面のなかに認められる)。

3)そしてその次の夜、いよいよ初夜を迎えるというときオセローはデズデモーナの首を絞めて殺すのである。

となるとふたりは肉体的に結ばれなかったことになる。

そしてそれを邪魔したのはイアーゴーである。

黒い肌の男と白い肌の女が身体的に結ばれるか結ばれないかというまさに瀬戸際に邪魔が入る。この邪魔は何に由来しているのだろうか。イアーゴーが邪魔をしていることはいうまでもない。騒乱と殺人というカオスの配達人たるイアーゴーは、シャリバリの主催者であり、異人種結婚に総毛立つ人種差別的偏見の体現者かもしれない。

だが、これはイアーゴーが意識しているかどうかはわからない。そのような偏見なり憎悪は、無意識的なものかもしれないのだが、ただ、偏見と憎悪や嫌悪、そして恐怖をあおっているシェイクスピアの隠れた手の働きは否定しようがないだろう。

『オセロー』におけるヴェニスやキプロスの社会は、人種的差別や民族差別のないリベラルな多民族国家なり社会であって、そこでは傭兵の将軍も高い地位に就けるし白人の女性とも結婚できる。実際、『オセロー』の世界は、非白人種が、あるいは女性が高い地位に就けるリベラレルな現代社会に通じている。

だが、そうした社会ですら、その底辺には、おぞましい人種差別的想念が渦巻いている。それは観客ひとりひとりのなかに消えずにうごめいている。シェイクスピアは、その恐怖を容赦なく露呈させているといえなくもない。NTLの演出家の単純な人種差別物語では、その複雑さをとらえきれないのである。

posted by ohashi at 21:53| 演劇 | 更新情報をチェックする

ふたつの場面

「心に刺さる」という表現というかフレーズは、あまり好きではないのだが、ただ、それでもいい意味でも悪い意味でも「心に刺さった」言葉なり場面が最近みた映画のなかにあった。

まあ私は生半可な学者どころか、学者のはしくれでもない、どうしようもない人間なのだが、それでも研究は好きである。問題は、ただ、成果が出ていないことである。若い頃は、ああなってはいけないと肝に銘じた生き方――学者、研究者としての生き方――があったのだが、いま気づくと、まさにああなってはいけない存在に自分がなってしまっていることに愕然とする。こういう人間だけでにはなっていけないと思っていた、そういう人間に自分がなったことの驚きというか、なさけなさは解消しようがない。

ただ、それでも研究は好きである。問題は、成果が出ていないことのほかに、この猛暑のなか、研究時間すらまともにとれないということだが、それはあきらめることにして、最初に取り上げるのは『インディー・ジョーンズと運命のダイアル』(Indiana Jones and the Dial of Destiny 2023)。

映画の最初のほうで、若いハリソン・フォードに出会うことができて驚いた。若い頃の映画の映像をつなぎ合わせて作ったのだろうと思ったら、そうではなく、あらたに映像をつくったものというのでさらに驚いた。現在のハリソン・フォードの映像をとりいれながらつくったというその映像は、実に自然で、これまでの映画で行われてきたAIでつくられた映像を、自然らしさではるかに凌駕していた。いっしょに、マッツ・ミケルセン(オッペンハイマー的役柄だったが)も若くなっているのだが、AI技術の進歩にただただ驚くばかりだった。

もうひとつ学者ではない私が不思議に思ったのは、アメリカの大学に日本の大学と同じように定年退職があるということ。インディー・ジョーンズ教授が花束と贈り物をもらって職場を去るという場面は、日本ではふつうだが、アメリカではふつうのことなのか不思議に思った。まあアメリカの事情はよくわからないし、設定は、アメリカが月着陸に成功した年であるので、その頃と今とは違っているのかもしれない。

ただ、学者になりそこねた私だが、この映画で感動したあるいは心に突き刺さった場面というのがひとつあった。それはインディーが紀元前のシチリア島へとタイムリープしたときである。ローマ軍の上陸を阻止すべく、シチリア側はアルキメデスが考案した武器で船団を攻撃し最終的に撃退するのだが、この戦乱のなかにタイムリープしたインディーは、乗っていたナチス・ドイツの爆撃機が被弾してシチリア島に不時着する。またそのとき自らも負傷する。

もといた世界というか時空間にもどらないと、この負傷では死んでしまうかもしれないと同行者が心配しているところ、アルキメデスが弟子たちともに戦禍のなか登場する。

偉大なアルキメデスに直接遭遇することができたインディーは、同行者たちが止めるのも聞かず、20世紀に帰らず、にこの時代に留まってもいいというか留まりたいと強く希望する。古代シチリアとその時代や社会を研究してきたインディーにとって、実際に古代で生きることは、この上ない喜びにほかならない。

この古代では傷の手当ても満足にできないだろうから、留まっても、すぐに死ぬ運命がまっているという同行者の主張には耳を貸さず、アルキメデスのもとにひれ伏し、その教えを乞い、その人となりに接しようとするインディーの姿に思わず涙が出てきた。

私は学者になれなかった学者だが、研究している時代に実際に行くことができたら、たとえ地獄のような環境でも、そこに留まっていたいと思うし、もう21世紀にはもどりたくないと思うだろう。たとえその時代ですぐに殺されようとも。それは古い文物・制度を研究する者にとって夢のような奇跡的な出来事である。起こりうるはずはないとわかっていながら、不可能な夢にどうしても涙することしかできなかった。

【ただし、インディーは古代シチリアでソクラテスと現代のギリシア語で話をしていて、はたしてほんとうにコミュニケーションができるのかどうか不安になるのだが。】

【なお今回の『インディー・ジョーンズ』はIMAXレーザーで観た。音も映像も格段に鮮明で、3Dではなくても、自然な立体感が画面から生まれていることに驚いた。もしチケットの代金が同じなら、迷わずIMAXレーザーを選ぶ。しかし余分な料金を払ってまでして、どうしてもIMAXレーザーを観たいかというと、そこまでの願望はないことを認めざるを得ない。】

いまひとつは、感激したというよりも憤慨した事例なのだが、映画『サントメール―ある被告』(2022)のなかにあった。

ちなみにこの映画、冒頭で、『ヒロシマ・モナムール』(1959、『24時間の情事』というタイトルはどうしても違和感があるので、こちらにするのだが)からの引用映像がある。それは第2次世界大戦中の占領下のフランスで、ナチスドイツに協力した女性たちが、解放後か戦後、住民たちからの制裁を受け、髪の毛を全部刈られて丸坊主にされるという映像であった。

いうまでもなく『ヒロシマ、モナムール』で日本人建築家(岡田英次が扮する――ちなみに私の母は岡田英次の大ファンであったが)と恋に落ちるフランス人女性は、大戦中、ドイツ軍兵士と恋におち、それが原因で、戦後かフランス解放後、頭髪を刈られるという制裁を受けたことが心の傷となって残っていた。

この解放後か戦後にナチスやファシズムに協力した女性たちが、制裁を受け、頭髪を刈られるという出来事は、『ヒロシマ、モナムール』をはじめて観たとき、主人公の女性がたまたま遭遇した不幸な暴力的事件くらいとしか考えなかったが、ジョゼッペ・トルナトーレ監督の『マレーナ』(2000)を観て、これがナチス占領下のヨーロッパ全体に広がっていた集団リンチ行為であったことを遅ればせながら初めて知った。

『マレーナ』は、舞台がシチリア(!)だが、その美貌ゆえに引く手あまたの女性が、夫の戦死(ただし誤報)を機に、生きてゆくためにナチスの将校の愛人になったりしたため、解放後、近隣住民の女性たちの反感を買い、壮絶な集団リンチにあう。髪を刈られるだけでなく、身ぐるみ剥がされてボコボコにされるのである。

マレーナはモニカ・ベルッチが演じている。この映画に対する日本でのネット上の感想はマレーナに同情し、群集の集団ヒステリー的行為の怖さを断罪する声が多く、自分たちは集団リンチの主体の側に属するかもしれないという可能性を一考だにしていないことに、ただただあきれた。今の日本のネット状況なら、この映画のリンチシーン以上の残酷な行為がまかりとおっておかしくない。

そもそもこれは戦争犯罪に関わることである。国を戦争に巻き込んだファシストどもは戦争中、庶民が苦しい生活を余儀なくされるなか、安逸な生活をむさぼり、イタリアに駐留していたナチスにいたっては、スパイ嫌疑をかけられたり戦争に反対したりしたイタリア人だけでなく、軍事戦略上の理由だけでイタリアの一般庶民を虐殺もしている。そうしたファシストやナチスに協力した人間を、私がイタリア人庶民だったら、絶対に許さない。集団リンチで殺したりはしないが、率先して公開謝罪を要求することだろう。

残虐なファシストやナチスに協力した人間を私はほんとうに許せないのだが、ただ冷静に考えれば、女性たちだけが協力したわけではない。むしろ髪の毛を刈られた女性たちはスケープゴートで、その影で、協力者の男性たち、甘い汁を吸った彼らは罰を免れている。さらにいえば占領・駐留しているドイツ人が全員クズというわけではないだろう。善良なドイツ人兵士や将校と親しくなった女性は、ファシズム・ナチズムの残虐行為に加担したわけではないだろう。

『ガーンジー島の読書会の秘密』(The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society、2018、マイク・ニューウェル監督)では、戦時下ナチスドイツの占領下となった英領ガーンジー島に存在していた読書会について戦後まもなく取材した女性作家は、読書会関係者のひとりが実はドイツ人兵士に身を売り住民からは売春婦扱いされていた事実を、まさに黒歴史をつきとめる。ただ実際には、この女性はドイツ人の軍医と恋仲になり子どもみごもるのであって、軍医はナチスではなくて戦闘員というよりは善良な医師であり、彼女は売春婦でもなかったのだが。

ナチス・ドイツの占領下において積極的に協力した女性もいただろうが、同時に、売春を強要されたり、ただ恋仲になった一般女性もいたはずで、解放後あるいは戦後に、彼女たちを一律に協力者として断罪しリンチの対象としたことは、戦時下における協力問題と同様に、黒歴史として封印せざるを得なかった。

『ヒロシマ、モナムール』においてマルグリット・デュラスの原作は、1959年という、戦後13年か14年の段階で(日本でいえば昭和30年代)に、この問題を物語の題材としている。それが早いのか遅いのかわからないのだが、ただ黒歴史を掘り起こした勇気ある題材選択であることはまちがいないだろう。

そしてそこから映像を引用した『サントメール―ある被告』(2022)だが、ただそこで髪を丸刈りにされる女性たちは、映像のなかでは、恥ずかしさに顔を伏せたり、屈辱的仕打ちに泣き叫んだりせずに、傲然と頭をあげて、むしろ不敵なまでに笑みをうかべて髪を刈られている。それは私が記憶している『ヒロシマ、モナムール』のなかの映像とはちがっていた。実際、手元にあるDVDで見直したのだが、『サントメール』で引用されている映像はなかった――ただしそれは私のもっているDVDのヴァージョンがそうであるというだけのことで、ほかのヴァージョン(たとえばフランス本国でのヴァージョン)では、存在しているのかもしれない。

ただ『サントメール』では女性が丸刈りにされる映像を大学で学生にみせる教授役の女性は、詳しい説明や状況説明をしないために、女性が丸刈りにされるという、男性による理不尽な暴力という印象を観る者にしか与えないし、その女性の教授は、このような暴力を、マルグリット・デュラスの文学的表現は美しいものに昇華させていると学生たちに語るのだ。しかし、マルグリット・デュラスの原作が、この丸刈り事件を美しく語っていることなどないではないか。映画のなかでは、これは痛ましいトラウマ的な事件として提示されるのだが、そこにはそれを美化しようという意図などみじんも感じ取れないのである。

実際、『サントメール』のアフリカ系の女性監督については、先のNTLの『オセロー』の黒人演出家に対するのと同様に、粗雑なプロパガンディストに対するのと同じ不信感を私はいだいている。『サントメール』の監督・脚本家にいいたい、あのキメラ細胞の話は、私は判断できないのだが、嘘ではないだろうか。

『サントメール』は、ザンビア出身の若い女性が留学先のパリで、いろいろなことに挫折し、白人男性との間に娘をつくるのだが、不安やストレスによって、1歳ちょっとの女の子を砂浜におきざりにして殺してしまう。その罪で裁判にかけられるのだが、直接的に提示されることはないのだが、ヨーロッパ社会における暗黙の人種差別と女性差別が、若いアフリカ系の女性に重くのしかかり自分の娘と自分自身の将来を奪うことになったということらしい。だが監督の説明不足は、先の『ヒロシマ、モナムール』の引用映像に関するものだけではない。結局、裁判の結果、その女性にどのような判決が下り、どのような刑期をつとめることになるのか、なんの説明もない――有名な事件だからといって、それはない。せめてナレーションか字幕でもいいから裁判結果を示すべきだろう――たとえ誰も裁けないか、あるいは観客全員が、社会全体が、被告への加害者だとしても。

そもそも実際の裁判の証言をそのまま台詞として使ったというふれこみなのだが、この映画をみると、フランスの裁判というのはいい加減すぎる。裁判長は審理に介入して被告に延々と質問するだけでなく、自分の考えというか推測を長々と述べているし、検察官は異例なほどの傲慢さで自説を開陳するだけであり、弁護士にいたっては最終弁論まで、いっさい弁護をしない。演出上、そのような展開になったのかもしれないが、これがフランスの裁判だとしたら、かなりやばい。

しかし、悪い意味で私の心にささったのは、この映画のそういうところではない。弁護側か検察側の証人なのか、どちらかわからなかったが、証言者のひとりが、被告のパリでの勉学について証言するなかで、被告がヴィトゲンシュタインを研究しようとしていたと証言し、さらにヴィトゲンシュタインは言語哲学者であって、そんな人物を研究して何になるのか、もっと身近なことを研究すればいいのと言い放ったことに、私は、いまなお、このような考え方がまかりとおっているのかと、心が震えるほどの憤りを感じた。

ザンビア出身の若い女性が、研究すべき身近なことというのは、ザンビアの政治社会や歴史問題、あるいは西アフリカや北アフリカの諸問題、いや、政治経済というよりもアフリカ人社会の日常生活のありようなのだろうか。まさに形而下的な主題こそが、アフリカ系の女性にとってふさわしい研究対象ということになる。

言語哲学は、抽象度が高い学問で、特定の言語の歴史的・社会的・地域的特殊性に左右されないがゆえに、ザンビア出身者がハンディを感ずることなく専念できる学問であるような気がするのだが、そうした形而上的話題は、ヨーロッパの白人にまかせておけばよく、アフリカの「土人」の「女」は手を出すなという、完全に差別的な見解、それもこのポストコロニアルの時代に、植民地時代的見解が、堂々と、恥ずかしげもなく、発せられるのである。

実際、このような偏見的差別的見解を前にしたら、自分と子どもの将来を悲観して、子殺しに走るのもむりからぬことといえようか。

しかし裁判の審理が大半を占めるこの映画のなかでなら、このような偏見的差別的見解に対して、裁判の場で徹底した反論を展開しても不自然にならずに済んだと思われるのだが、この映画監督は、そこまでする勇気も根性もなかったのは、実に残念でならない。
posted by ohashi at 09:48| 映画 | 更新情報をチェックする