ただし『オセロー』の台詞のなかに人種差別的な台詞がないということはない。たとえばそれはデズデモーナという、人種の壁を越えて異人種結婚に走った女性の、意識せざる人種差別的な台詞となってあらわれる。彼女は、ムーア将軍と結婚するに到る経緯を語るさいに、彼は黒い肌の名の中に白い魂を持っていて、その魂に惚れたのだと言う。
彼は人相はわるけれども心はピュアだというような発言は、いまでは差別的発言として許されるか許されないかの瀬戸際にあるといっていいのだが(容貌への差別、あるいはルッキズム的偏見の発露)、人相の悪さを、膚の黒さに、そしてピュアであることを白さで語ったら、これはまぎれもない人種差別である。皮肉なことに、誰よりも人種的差異にひるんだりしなかったデズデモーナから白人社会に潜む人種的偏見が自然発生的にほとばしり出るとは。彼女ですら人種的偏見から逃れられなかったのだが、そのいっぽうで、イアーゴーには、そうした台詞はない(もちろん表だってないということなのだが)。
あるとき大学院の授業で、トニ・モリソンの『青い眼が欲しい』について触れている論文を読んだことがあった(アメリカ文学とか黒人文学を扱う授業ではなかったのだが)。そのとき参加していた院生のひとりが、アメリカの黒人の書く小説は、どれもこれも自分たちが黒人差別の被害者であり、白人に諸悪の根源があるということを十年一日のごとく述べるだけの退屈な作品でしかないという主旨の発言をした。
その学生が、そういう発言をすれば教員に褒められると思ってのことだとしたら(その可能性は高い)、私はずいぶんとなめられたものだと思ったし、また私に喧嘩をうっているという可能性もなきにしもあらずだったが、ただ、その学生がトニ・モリソンのその小説を読んでいなかったことは確かだった。なぜなら、その小説は、白人のような容姿に憧れている黒人の女の子を描いている。それは、たとえばいじめられている子が、いじめっこになりたいという権力への意志とは異なるものである。もちろん、その根底には人種差別があるのだが、そのありようは虐げられている者が虐げる者に憧れるという複雑な構造をとっている。それは通常の、十年一日のごとく語られる人種差別物語では決してない。ところがその学生は、個別性を無視し、わかりやすい人種差別物語がそこにあるかのように語って作品を断罪する。それは許しがたいことだった。
人種差別物語が嫌いな学生が、人種差別主義者であることは言をまたない。ただ、こうした院生と、NTLの『オセロー』の演出家は、似ているのである。つまり人種差別が顕在化せず、また複雑なものに変形されているかもしれない作品に単純な人種差別を導入することは、人種差別を考える際に、絶対にあってはならないことである。ありもしない単純な人種差別構造をでっちあげた院生と演出家。人種差別主義者の院生と、人種差別を告発する演出家。だが、どちらの人種差別の複雑なありようをみていない点において犯罪的であることにかわりはないのである。
*
NTLの『オセロー』は、イアーゴーの妻で、デズデモーナの身の周りの世話をするエミリアを加工変形している。
原作ではイアーゴーは27歳なので、その妻エミリアもだいたい同じ様な年齢だろう。つまりエミリアは、キャシオ、デズデモーナ、イアーゴーと同じ世代であり、おそらくデズデモーナよりも歳が上。とはいえデズデモーナが20代前半ならエミリアは20代後半というくらいの違いでしかないのだが。
NTLの『オセロー』では、イアーゴーを中年の男性とした。ただしこれは英国では、イアーゴーを主役級の俳優が演ずるという伝統があって、そのためイアーゴーが高齢化するという、原作とは無関係な伝統を無批判に踏襲したためだろう――しかし、社会に蔓延する人種差別を批判・告発する演出家が、伝統を無批判に踏襲することは大いに問題がある。
そしてイアーゴーの妻エミリアも高齢化するのだが、今回の舞台では、エミリアはなんと夫のからのDVに苦しむ中年女性ということになった。
ああ、なんという通俗的なメロドラマ化。DV問題を軽んずるわけではない。しかし、従来のというか、原作のエミリアは、夫を尻に敷くような元気のよい女性であり、夫のDVに苦しむか弱き女性とはちがっていた。
もちろんエミリアの行動にも問題がないわけではなく、今回の夫のパワハラとDVに苦しみぬいて難破船のようになっているという今回の演出が正当化される要素はある。
そのもっとも大きな要因が、デズデモーナのハンカチを拾うことである。オセローが妻の不貞を確信する理由の最大のものは、妻に与えたハンカチを、キャシオが持っていたこと、つまりキャシオはデズデモーナからそのハンカチをもらったと推測できることであった。この悲劇の最大の要因たるハンカチーフ。デズデモーナのハンカチを拾い、それをデズデモーナにではなく、夫イアーゴーにエミリアが手渡したことで悲劇的破滅はいよいよ実現間近となるのだが、エミリアがとくに考えずにハンカチを渡すことは、そのことで悲劇性がますのだが、今回の演出のように、夫のDVに苦しみ夫に心身ともに支配されている奴隷的エミリアが夫のためにハンカチを渡したというのであれば、責任は彼女にある。またそれは日頃から妻を専制支配していた夫イアーゴーの勝利でもあった。
だが夫を尻に敷きかねない伝統的なエミリア像のほうが原作に近いことは強調しておかねばならない。英国は他のヨーロッパの国々に比べると、女性の社会的地位が高く、「女の天国」という言われるような側面があった。もちろん基本的には当時どの国でも男性中心社会であって、女性の社会的地位の高さといってもたかが知れていることは確かなのだが、それでも当時の喜劇においては男性を圧倒し威圧する強い女性なり妻がよく登場する。だからこそシェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』のような喜劇が作られたのであり、『オセロー』のエミリアもそうした強い女性の系譜に連なっている。
さらにいえばシェイクスピアの喜劇には女性が活躍して問題を解決するという話がけっこう多い。『ヴェローナの二紳士』『ヴェニスの商人』『お気に召すまま』『十二夜』『終わりよければすべてよし』『シンベリン』など(ただし女性が男装するという設定ではあるが)。『オセロー』のデズデモーナも、その口添えがうまくいっていれば、そうした問題解決する賢明な女性の系譜につらなるシェイクスピア的女性であったことはまちがない。
そしてまた夫を尻に敷く女性像は、『オセロー』において最初から登場する。それはイアーゴーがキャシオをおとしめる際に、キャシオが軽蔑されてしかるべき理由に、彼が妻の尻に敷かれていることを理由のひとつにあげているのだ(NTLでは、この台詞はカットされている)。またデズデモーナは、キャシオ復職をオセローにしつこく懇願して学校の先生のようにベッドにおいてもオセローに説教してやるとまで言い放っている。うるさ型、ガミガミおかみ、亭主を尻に敷く奧さん、こうした喜劇的ステレオタイプは『オセロー』のなかに、はっきりそれとわかるかたちで存在している。また文化的ミソジニーの実例ではあるのだが、外向き・外出するときは淑女、過程では悪魔という画像が残っている。ヤヌス像のように、半身はドレスをして着飾っている姿、もう半身は悪魔の姿で、長いスカートからのぞいている足には蹄(悪魔の証拠)がある。
こうした文化的表象においては、エミリアもまた口うるさい妻で亭主を尻に敷く女のイメージが強い。ところがNTLの演出家は、あろうことかエミリアを……
たとえば『オセロー』の終盤で、エミリアは夫イアーゴーの欺瞞的詐欺的行為なり虚言を暴露するのだが、それは彼女の鋭い洞察力のなせるわざというのが従来の解釈、いっぽう今回の演出では夫のDVに苦しみ彼女が自らの経験、すなわち肉体的苦痛を通して獲得した洞察を最後の土壇場で必死の思いで吐露したことになる。実際、今回の演出では、エミリアの卑屈さと最後の渾身の力をふりしぼった夫への抵抗といういたいたしさだけが目立つことになる。
これにはデズデモーナを強い立場の女性にするという演出の意図も関係している。演出家の意図では人種の壁を乗り越え積極的に異人種間結婚へと走ったデズデモーナはスーパー・ヒロインなのだろう。だから知的にも優れ、人間的にも成熟をとげたプロト・フェミニストであるということなのだろう。これまでの解釈では夫を尻に敷きかねないエミリアこそがプロト・フェミニストであった。
そもそもデズデモーナは、絵に描いたような深窓の令嬢であって、父親ほどの年齢差のあるムーア人男性と結婚するというのは、人種差別的偏見にも汚染されていない(ただしすでに指摘したように無意識のレベルでは人種差別的パラダイムに汚染されているのだが)、その無垢性――いうなれば世間知らずなところ――ゆえである。もちろん世間知らずが悪いということではない。世間知にたけたスレた女性が躊躇するような異人種結婚は、世間知らずのデズデモーナにとっては障害でもなんでもない。むしろ彼女の世間知らず的なところこそ、彼女の強さであり、未来変革の基盤なのである。そうした彼女と、今回の舞台で示されているかにみえる知性あふれ成熟した彼女の姿とは、真逆である。
無垢で世間知らずであるがゆえにオセローと結婚することができた彼女にとって、夫婦は平等な伴侶であって、夫たるオセローは対等の妻の見解には耳を傾けるものであって、そのためキャシオの復職のために、夫を四六時中、懇願攻めにすることさえ厭わないと考える――そこに夫を尻に敷くという喜劇における強い女性の面影がある。
問題は、喜劇においてなら、そうした強い女性がもてる能力を存分に発揮できるのだが、悲劇においては、あるいは男性中心社会の現実の生活においては、夫婦は対等ではなかったし、妻が強くでることはあまりない。かくして夫を思うようにコントロールできないことにあせり、みずからの夫婦の理想論に破綻をきたした彼女は、精神的に疲弊してゆくものの、それでも最後まで夫への信頼を失わない。とはいえ最後には夫に命乞いをするはめになるのだが。
今回の演出では、そうしたデズデモーナは登場しない。最後まで気丈なデズデモーナなのだが、原作では彼女こそ、公衆の面前で夫から暴力をふるわれ、最後には寝室で首を絞めて殺されるというDVの究極的な被害者なのだが、舞台では、エミリアこそがDVの被害者で、デズデモーナは最後までスーパー・ヒロインなのである。よくもまあ、こんな矛盾に満ちた性格造型ができたものだとあきれる。
同じNTLにおけるアーサー・ミラーの『るつぼ』は、植民地時代のアメリカの有名なセイラム魔女裁判を扱ったものだが、無実の市民を悪魔と契約を結んだ罪人と告発した少女たちは、いまでいうキャンセルカルチャーの担い手のような存在であり、その怖さは、今の私たちの現実の事象と直結するものをもっているのだが、愚かな演出では、その悪辣な少女たちを、社会の犠牲者にしてプロト・フェミニストとして同情的描き、音楽すら付けていた。少女たちは社会の犠牲者かもしれないが、同時に、悪辣な加害者でもあることは演出上あるいはただの愚かさゆえに強調できなったようなのだ――あきれかえるのだが。
それと同じで、デズデモーナを黒人と結婚したフェミニストというありもしない虚像をつくりあげて顕彰する演出は、深窓の令嬢なのだが冷静な洞察力と世間知の持ち主で、理想主義に裏切られるかにみえて理想主義を捨てず、夫に暴力をふるわれる哀れな若妻なのだが、それを気にもとめない、そしていつも気丈な女性という、ステレオタイプでもなければ深みもないというモンスターに、デズデモーナを仕上げてしまったのである。
有名な柳の歌の場面では、夫を裏切る妻がいることを信じられないというデズデモーナは、原作では、無垢で純情な深窓の令嬢であるという癖が抜けない彼女の心性を示すことになるが、エミリアは、時と場合によっては、夫を裏切ることもあるといい、価値観がかわれば、裏切りも裏切りでなくなるかもしれないとという、まさに社会のオルターナティヴをも考慮する優れた台詞を口にするのだが、今回の演出では、デズデモーナは、夫を裏切る妻がいることを信じられないというとき、世間知らずではなくて、ただ意志の強さだけを示すだけのありそうもない人物となっている――ああ、この演出家にとって、それがデズデモーナの麗しい姿なのだ。
実際、この演出家は、人種差別主義者はまた女性差別主義者だと述べている。一般論からしてこれが正しいのか正しくないのかはむつかいしところだろうが、ただ言えるのは、この演出家は、たとえ原作を離れても、あるいは原作を無視して、そうしたイアーゴー像を造型したということだ。イアーゴーは人種差別主義者である。イアーゴーは男性中心主義者で、家庭で妻に暴力をふるうDV男である。やめてほしいこんな安っぽいメロドラマは。ありもしない浅薄な人種差別とありもしないDVをでっち上げて三文芝居にするのは。
『オセロー』のなかで殺される女性はデズデモーナとエミリア。そのうち公衆の面前で暴力をふるわれるのはデズデモーナだけである。デズデモーナがオセローから殴られるのは、異人種結婚をテーマにしたこの戯曲において、皮肉なことに最も有名な場面となっている。妻を殴ったことによってオセローの失墜は決定的なものとなる。
2016年に日本で上演されたアヤド・アフタル『DISGRACEDディスグレイスト―恥辱』(翻訳:小田島恒志、小田島則子;演出:栗山民也;出演:小日向文世、秋山菜津子、安田顕、小島聖、平埜生成;2016年9月10日~25日/東京・世田谷パブリックシアター)では、アメリカ人でパキスタン出身の元ムスリムの弁護士が、思いあまって妻を殴ることですべてが破綻する――妻とは離婚し職も失う。
この戯曲『DISGRACEDディスグレイスト―恥辱』が『オセロー』を意識したものか(つまり翻案なのか)どうかわかならいが、異人種の男性が白人の女性を殴ることが大事件となるという点で(これに匹敵する大事件となると子殺ししかない)、『オセロー』と問題意識を共有している。たとえどんなに高い地位(将軍)についてても、たとえどれほど白人化していようとも、野蛮で暴力的な素性は出るものだという人種差別的偏見にお墨付きをあたえるような出来事が、この公衆の面前での妻殴打行為である。
NTL『オセロー』では、この事件を重要視していない。オセローを人種差別の犠牲者にとどめておくために、これはオセローがその本来の野蛮で暴力的な性向を顕在化させたのではなく、イアーゴーの家庭内暴力に感染にした結果であることが示唆される。原作にはないイアーゴーの家庭内暴力を勝手に設定したのは、まさにオセローがDV男化する衝撃を和らげるためであった、つまりイアーゴーの野蛮性と悪が無垢なオセローに感染したという印象をあたえたのである。
NLT『オセロー』では舞台の三方を取り囲むベンチシートとそこに坐っている少数の物言わぬ不気味な舞台上の観客が社会にはびこる無意識の偏見のようなものを暗示しているのだが、そうなると異人種に対する憎悪と偏見と女性蔑視が社会にあり、それを一心に体現するのがイアーゴーであり、そのイアーゴーにそそのかされてオセローは妻を殴るはめになった。だが皮肉にも、妻への暴力行為が、異人種は野蛮で暴力的であると社会的偏見を裏書きすることになった。こうなると『オセロー』の舞台となるヴェニスとかキプロス島の白人社会(ほんとうは多民族社会なのだが)は、他人種・他民族を野蛮で暴力的な存在とみる偏見に支配されていて、たとえば彼らが敵視するイスラム社会と同じように野蛮で暴力的ということになる。オセローという名誉白人の顔をしている野蛮人が、野蛮白人社会のなかにいる。野蛮の中にいる野蛮ということになるが、オセローは、イアーゴーの術策にはまって野蛮へと追いやられたにすぎない。そして妻を殴るというオセローの行為のおぞましさに驚愕する白人社会の面々は、ただの偽善者にすぎない……。
だが、『オセロー』は、そういう話なのだろうか。
これは、この演出家が勝手につくりだした妄想的社会関係ではないだろうか。この妄想が作り出すのは、紋切り型の人種差別的偏見に支配された中年男、その男のDVの犠牲者となる中年妻、人種の壁を越える善良で勇気のあるフェミニスト的女性、彼らが構成する三流のメロドラマでしかない。オセローは、無垢な異人種で外国人であり腐敗したヴェニス社会における哀れな犠牲者にすぎない。だが、このメロドラマは同性愛的要素を欠落させている。この演出家がホモフォビアであるということではない。こうした三流のメロドラマを組み立ててしまうと、どうしても同性愛的要素を欠落させてホモフォビア的になってしまうということである。だがシェイクスピアの原作は、人種差別、外国人差別、女性差別をとりいれても、同時に、同性愛的要素も取り込んでいる。もし同性愛的要素を欠落させてしまうのなら、それはシェイクスピアの作品とは似ても似つかない捏造品といわねばならない。
NTL『オセロー』の最後において、すべてが発覚して、イアーゴーの暗躍が白日のもとにしめされる。このときオセローによって刺された(致命傷ではない)イアーゴーは、あとはもう何も言わぬといって、動機などの説明するのを拒む。そして最後まで沈黙する。
しかし、この演出家は、なにも言わないというイアーゴーに、口を開かせ、原作にはない「それがなんであるかわかっているはずだ」という語らせている。これは原作では別のところでイアーゴーが語っていた台詞である。それを、あとは何も言わないというイアーゴーに語らせるのだ。何も知らない観客は、何も語らないと宣言したイアーゴーが、どうしてさらに語るのかシェイクスピアってバカじゃないかと思うかもしれないが、バカは、シェイクスピアではなくて、この演出家である。
「それがなんであるかわかっているはずだ」という台詞で、この演出家は、社会にはびこっている黒人への敵意と憎悪を自分イアーゴーが具現化して、若い白人女と結婚したこの黒人を破滅させたとでもいいたいのだろう。なお、この黒人と結婚した愚かな白人女も罰せられたとか、亭主の言うことをきかない愚かな妻も殺された(イアーゴーによって)、ということまではいわんとしたのかは、不明。
しかし、オセローの最後はどうだったのか。すべてが発覚して、自分がイアーゴーの嘘に躍らされて妻を殺したことを理解したオセローは、たとえ騙されたとはいえ、自分の行為を許すことができず、野蛮化した自分自身を罰するために、まだ残っていた文明化された自分の手で、自害するのである。野蛮な自分を、文明化した自分が罰したのである。この自虐性、あるいは白人の価値観を体現して、本来の自分を殺してしまうというこのオセローの行為を許せなかったのか、この演出家は、その台詞を全面的にカットしているのである--有名な台詞なのだが。この演出家は、黒人への人種差別を際立たせるためには、つじつまがあわなくても勝手に台詞を付加し、不都合な台詞はカットしてしまうプロパガンディストそのものなのだ、
「それがなんであるかいわなくてもわかっているはずだ」という、オープン・シークレットの存在を暗示する台詞は、ふつうは社会にはびこる人種差別的偏見を示すものではない。わかっていても口にできないこと。ふつうそれは同性愛的欲望を指すのである。
もう少し続ける
2023年07月27日
『オセロー』NTL 2
posted by ohashi at 23:06| 演劇
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『一秒先の彼』
是枝裕和監督の『怪物』は、坂元裕二の脚本がカンヌで賞をもらったのだが、しかし、脚本の内容は、いかにも是枝監督の映画と頷けるような、これまでの是枝監督の映画とみごとにシンクロしていて、監督自身の脚本であるかのようにもみえる。
『一秒先の彼』は台湾映画のリメイク作品で宮藤官九郎の脚本なのだが、それでも、いかにも山下敦弘監督の映画としかいいようない、監督自身による脚本によるものといえる作品となっている。
そう、この映画の時間凍結は、もちろん、山下監督の専売特許ではないものの、いかにも山下監督の映画ならではの特徴となっている。もちろん台湾映画の設定ではあるのだが。
この時間凍結が、この映画のキモでもあるのだが、それには主人公や彼に片思いの女性の名前が重要な鍵となる。
岡田将生演ずる主人公をハジメと表記し、清原果耶演ずる恋人をレイカと表記している映画紹介がほとんどなのだが、主人公(岡田将生)の名前は皇一である。姓ではなく名前だけかと思うかもしれないのだが、皇一で姓と名。「すめらぎ・はじめ」と読む。「皇」は皇室とか天皇家に関わる姓となるため、現実には存在しないだろうと思うのだが、存在しているらしい。なお「皇一」で姓と名なので、自分の姓名を漢字で手書きで書くときは、おそらく誰よりも早く書ける。皇一(すめらぎ・はじめ)君がせっかちで、いつも他人よりも一秒先をいくのは、この姓名のせいでもある。
彼の恋人(清原果耶)の名前はレイカだが、姓名を書くと「長宗我部麗華」となる。「長宗我部」は戦国武将の名前だから読める――そう、「ちょうそかべ」と。この「長宗我部麗華」/「ちょうそかべ・れいか」は発音しても長い姓名だが、漢字で書くと、その画数はハンパなく多い。もし自分の名前を手書きで書くとなると、時間がかかり、どうしても人よりも遅れる。彼女がいつも人よりも遅れるのは、この画数の多い長い姓名のせいである。
映画の後半に時間凍結がおこるのだが、長宗我部麗華は、凍結の影響を受けない。そして、もうひとり時間凍結の影響を受けない人物が登場する。それが荒川良々演ずるところのバスの運転手で、名前は釈迦牟尼仏憲。これは読めない。というか苗字を「しゃかむにほとけ」あるいは「しゃかむにぶつ」としか読めないのだが、これは「みくるべ」という苗字で、釈迦牟尼仏憲は「みくるべ・けん」と読む。そしていうまでもなく姓名の漢字の画数はおどろくほど多い。彼もまた自分の姓名を手書きするときには人一倍時間がかかるのである。
長宗我部麗華と釈迦牟尼仏憲――この画数がハンパなく多い姓名をもつ二人に、時間凍結が訪れる。周囲の人間がみんな動かなくなるのである。それは、自分の姓名を手書きするとき、時間がかかりすぎて、時間をロスしている二人に、神様があたえたボーナス時間ともいえるものなのだ。
つねに周囲の人が先に終わって先に進み、どうしても取り残されてしまう人間に、自由に使えるというか、これまで失ってきた時間を神様がとりもどしてくれた。それが時間凍結であり、この時間凍結の間に、ふたりは、人生で、日常で失った時間を取りもどすことができるのである。
一方、皇一(すめらぎ・はじめ)は――たしかに漢字二文字の姓名はあっというまに手書きできる、しかも名前は漢字一字「一」だ!――常に一秒先いや、それ以上先に行ってしまうので、とりこぼす時間、あるいは気づかずにすぎてしまう時間が多い。彼はこの時間凍結によって、気づくと、まるまる一日を失っている。
その失われた一日を、いつものろまで人よりも遅れる彼女がひろいあげ活用して、最後に二人は再会をはたす。彼女のほうが彼の失った時間を丁寧に有効活用して最後に彼の元にたどりつくのである。
ここからいろいろなことが言えると思うのだが、それはまた別の機会に――わすれていなかったならの話だが。
『一秒先の彼』は台湾映画のリメイク作品で宮藤官九郎の脚本なのだが、それでも、いかにも山下敦弘監督の映画としかいいようない、監督自身による脚本によるものといえる作品となっている。
そう、この映画の時間凍結は、もちろん、山下監督の専売特許ではないものの、いかにも山下監督の映画ならではの特徴となっている。もちろん台湾映画の設定ではあるのだが。
この時間凍結が、この映画のキモでもあるのだが、それには主人公や彼に片思いの女性の名前が重要な鍵となる。
岡田将生演ずる主人公をハジメと表記し、清原果耶演ずる恋人をレイカと表記している映画紹介がほとんどなのだが、主人公(岡田将生)の名前は皇一である。姓ではなく名前だけかと思うかもしれないのだが、皇一で姓と名。「すめらぎ・はじめ」と読む。「皇」は皇室とか天皇家に関わる姓となるため、現実には存在しないだろうと思うのだが、存在しているらしい。なお「皇一」で姓と名なので、自分の姓名を漢字で手書きで書くときは、おそらく誰よりも早く書ける。皇一(すめらぎ・はじめ)君がせっかちで、いつも他人よりも一秒先をいくのは、この姓名のせいでもある。
彼の恋人(清原果耶)の名前はレイカだが、姓名を書くと「長宗我部麗華」となる。「長宗我部」は戦国武将の名前だから読める――そう、「ちょうそかべ」と。この「長宗我部麗華」/「ちょうそかべ・れいか」は発音しても長い姓名だが、漢字で書くと、その画数はハンパなく多い。もし自分の名前を手書きで書くとなると、時間がかかり、どうしても人よりも遅れる。彼女がいつも人よりも遅れるのは、この画数の多い長い姓名のせいである。
映画の後半に時間凍結がおこるのだが、長宗我部麗華は、凍結の影響を受けない。そして、もうひとり時間凍結の影響を受けない人物が登場する。それが荒川良々演ずるところのバスの運転手で、名前は釈迦牟尼仏憲。これは読めない。というか苗字を「しゃかむにほとけ」あるいは「しゃかむにぶつ」としか読めないのだが、これは「みくるべ」という苗字で、釈迦牟尼仏憲は「みくるべ・けん」と読む。そしていうまでもなく姓名の漢字の画数はおどろくほど多い。彼もまた自分の姓名を手書きするときには人一倍時間がかかるのである。
長宗我部麗華と釈迦牟尼仏憲――この画数がハンパなく多い姓名をもつ二人に、時間凍結が訪れる。周囲の人間がみんな動かなくなるのである。それは、自分の姓名を手書きするとき、時間がかかりすぎて、時間をロスしている二人に、神様があたえたボーナス時間ともいえるものなのだ。
つねに周囲の人が先に終わって先に進み、どうしても取り残されてしまう人間に、自由に使えるというか、これまで失ってきた時間を神様がとりもどしてくれた。それが時間凍結であり、この時間凍結の間に、ふたりは、人生で、日常で失った時間を取りもどすことができるのである。
一方、皇一(すめらぎ・はじめ)は――たしかに漢字二文字の姓名はあっというまに手書きできる、しかも名前は漢字一字「一」だ!――常に一秒先いや、それ以上先に行ってしまうので、とりこぼす時間、あるいは気づかずにすぎてしまう時間が多い。彼はこの時間凍結によって、気づくと、まるまる一日を失っている。
その失われた一日を、いつものろまで人よりも遅れる彼女がひろいあげ活用して、最後に二人は再会をはたす。彼女のほうが彼の失った時間を丁寧に有効活用して最後に彼の元にたどりつくのである。
ここからいろいろなことが言えると思うのだが、それはまた別の機会に――わすれていなかったならの話だが。
posted by ohashi at 10:07| 映画
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2023年07月14日
『オセロー』NTL
序章あるいは助走
ナショナル・シアター・ライヴの『オセロー』は、たしかに、誰が見てもシェイクスピアの『オセロー』以外の戯曲にはみえないのだから、黙っていればいいようなものだが、そんなに面白い舞台ではなかった。英国では称賛されているようだが、そんなものを信ずるのは、無知なというよりも、褒められたものならなんでもありがたがる無恥な観客にすぎないだろう。
たとえば最近上演されたアンドリュー・ボヴェル作『これだけはわかっている』Things I Know to Be True』(6月30日~7月9日)は、いかにも芝居らしい芝居を見たという感じを観客にあたえた優れた舞台だったが、これには、もちろん原作というか劇作家の功績が大きいのだが、同時に、演出家の力量、俳優陣の熱演もまた大きな要因となっている。当たり前のことを言うなと叱られそうだが、いくら原作が良くても、どうしようもない舞台は多い。しかも、本場かもしれない英国の舞台に接して、どうしようもないと落胆することはけっこうある。気の抜けたシェイクスピア劇を英国でみるよりも、日本の翻訳劇でシェイクスピアを観るほうが、はるかに刺激的で面白いということはよくある。今回のナショナル・シアター・ライブの『オセロー』もそうした凡庸な演出のひとつだった。
いや、凡庸ならそれでもいい。問題は凡庸な解釈にすぎないものを、なにか新しい前衛的で社会的な解釈として喧伝しようとしていることに腹が立つ。またそれは作品に対する根本的な誤解に基づいている。とはいえそれは悲劇を喜劇と間違えている、あるいはその逆という高尚な誤解ではない。弁解の余地のある誤解ではない。どうしようもない勝手な思い込みに近い誤解なのである。
たとえば今回の『オセロー』でイアーゴーを演じているポール・ヒルトンが出演している映画に『レディ・マクベス』(Lady Macbeth 2016)がある【今年10月に日本で上演される『レディ・マクベス』とは別物であるので誤解のないように】。この映画はロシアの作家ニコライ・レスコフの小説『ムツェンスク郡のマクベス夫人』をヴィクトリア朝の英国に移し替えて映画化したもの。映画の紹介文によれば「19世紀後半のイギリス。17歳のキャサリンは資産家の家に嫁ぐが、年の離れた夫は彼女に興味を示さず【ゲイでもあるから】、体の関係を持たない。意地悪な舅からは外出を禁じられ、人里離れた屋敷で退屈な日々を過ごしていた。そんなある日、キャサリンは夫の留守中に若い使用人セバスチャンに誘惑され……」という映画。キャサリンを演ずるフローレンス・ピューの圧倒的な存在感が印象的なこの映画は、犯罪が発覚してシベリアへ流刑になる主人公を描く原作とは異なり、最後に屋敷に女主人として君臨するキャサリンの姿で締めくくれる。そのような改変があってもいい。問題は、レスコフの小説にも、またそれを映画化したから当然なのかもしれないが、この映画にも、なぜ「レディ・マクベス」の名前が登場していることである。
レスコフの小説は、妻がその愛人と共謀して夫を殺す物語を展開させる。しかしシェイクスピアのマクベス夫人は、夫を殺さないし、愛人もいない。マクベス夫人は、アイスキュロスの『アガメムノン』に登場するクリュタイメストラではないし、ゾラのテレーズ・ラカン(同名の小説参照)でもない。だが、なぜレスコフは、浮気して愛人と結託して夫を殺す妻を「マクベス夫人」と呼ぶのか。ほんとうにレスコフとそのタイトルを許容したロシア人は何を考えているのかわからない。根本的に間違っている。これと同じ思いを、今回の『オセロー』を観て抱いた。
山下達郎のジャニーズ事務所擁護の発言が問題となり、大炎上。そのあおりで、山下達郎が、過去に、竹内まりあが中森明菜に提供した楽曲「駅」(作詞・作曲、竹内まりあ)の中森明菜による解釈を批判したことも引き合いにだされて、その非難には、ジャニーズ事務所を擁護する意図があったのではとまで言われ始めている。その真偽はともかく、山下から明菜への批判について私は賛成する。なぜなら中森明菜の楽曲解釈は、その楽曲のよさところをすこしも出していないからである。その歌い方は、竹内まりあから提供された曲の世界の可能性を広げるというよりも狭まるものでしかない。
それと同じでというのは、つまり、今回の『オセロー』は、制作者側あるいは演出家が、シェイクスピアの『オセロー』を利用して、人種差別問題を訴えるべく、芝居を構成しただけであって、人種差別も含め、シェイクスピアのこの作品がもつポテンシャルあるいはテーマを最大限実現させようという意図など最初からないようなのだ。べつにシェイクスピアを愛せというつもりはないが、ただ制作者あるいは演出家が、観客に学ばせるだけで、みずから舞台に載せる作品から学ぶつもりはないというのは最悪の舞台になる――今回のよう。
ムーア人/モーロ人であるオセローはアラブ人と黒人の中間的存在である。アラブ人性を強く出してもよいのである。そこからでも人種差別問題を引き出せる。たとえば吉田鋼太郎がオセローを演じた蜷川幸雄演出では、オセローは、アラブ系の存在であった(膚を真っ黒に塗ったりはしない――ただし悪くいうと、吉田鋼太郎のオセローは、アラビアン・ナイトに登場する魔法のランプから出てくるジーニみたいだったのだが)。オセロー=黒人としなくてもいいのである。またシェイクスピアの時代、イングランドは、ヨーロッパ諸国との協定を破って、ムーア人と交易をしていた。また当時イングランドを訪問したムーア人の大使の肖像画が残っている。

この肖像画が、ストラットフォード・アポン・エイヴォンのシェイクスピア研究所内の壁に掛けてあったのを発見した私は、まず肖像画の大きさに驚き、そして、それがシェイクスピア研究所にあることにさらに驚き、思わず、見入ってしまったが――あとで知ったのだが、実は、それはレプリカというか複製画で本物ではなかったし、さらにいえば本物のはもっと大きいとのことだった。
それはともかく、シェイクスピアが思い描いていたムーア人の将軍というのは、このアラブ系の大使の像だった可能性がある。この威厳のある、ある意味、威圧的な、またある意味、優れた知性をたたえた人物の肖像画は、その人物の出自がヨーロッパに匹敵する文明圏であることを如実に物語る。シェイクスピアの時代、異人種への眼差しは、ヨーロッパ中心主義だけでは説明のつかない複雑さを抱えていたのである。
1
イアーゴーの年齢ははっきりわかっている。今回、イアーゴーを演ずるのはポール・ヒルトン。いかにも、イタリアのファシストあるいは悪魔といった風貌で、『レディ・マクベス』に、フローレンス・ピューのゲイの夫として出演していた頃の面影はない。
はっきりとしないが、このイアーゴーは、オセローと同世代か、年齢的にオセローに近い男のようにみえる。
確認すると、オセローと、彼の妻となるデズデモーナと父親、ブラバンショーは、同世代がである。つまりデズデモーナは、父親と思えるほど年の離れたオセローと結婚したことになる。ではイアーゴーはというと、これもシェイクスピアとは何の関係もない伝統ができあがっていて、主役クラスのベテラン俳優が演ずることが多い。そうなるとオセローに近いか、ときにはオセローを上回る年齢のイアーゴーも登場する。
ある日本のシェイクスピア入門書では、悪魔的で怖いイアーゴーとして、50代か60代にみえる英国俳優の舞台写真を使っていたが、イアーゴーの年齢を知らずに入門書を書かないで欲しい。
イアーゴーは、自分で27歳だと、友人にして金づるのロデリーゴに語っている。イアーゴーは呼吸をするように無意識のうちに嘘をつむぎだすのだが、ロデリーゴに対し自分の年齢を偽る理由はない。となるとオセローやブラバンショーは父親の世代、それに対して、イアーゴーとその妻エミリア、そしてデズデモーナ、キャシオらは、おそらく20代の若者たちなのである。この年齢差、世代差が、大きな枠組みであり背景となって悲劇が発生するのである。
もちろん多くの上演と同様に、今回も、自分が27歳であるというイアーゴーの台詞は省略されている。またイアーゴーに扮するポール・ヒルトンとオセローを演ずるジャイルズ・テレラの実年齢を考慮すると、前者が1970年生まれで50代、後者が1976年生まれで40代後半ということになる。ただ今回、イアーゴーがオセローよりも6歳も年上にはみえない。ほぼ同年齢か、少し若いくらいにみえる(私の主観的判断だが)。しかし、このイタリア人ファシストの悪魔=イアーゴーは、デズデモーナやキャシオと同世代ではない。またエミリアは、イアーゴーにあわせて高年齢化している。
そのため原作の重要な要素をカットする必要に迫られてくる。
芝居の冒頭、原作においてイアーゴーは、ロデリーゴを相手に最近副官に任命されたキャシオの悪口をいいまくる。ここでは、たたき上げの軍人であるイアーゴーが、日本風にいうとキャリア組のキャシオに対する憎悪の念が噴出する。ここにあるのは、キャリアとノンキャリア組の階級問題である。
しかし、このとき、イアーゴーは、自分自身ではなくてキャシオを副官に任命したオセロー将軍に対して、あんな移民の子がとか、異人種の傭兵がとか、ヴェニスをつくったのは白人であって、黒人ではないだから、黒人が偉そうにするなという、欧米の白人優位主義者がいうような人種差別的呪詛を一切口にしない。あくまでも副官の地位をめぐって自分のライバルであるキャシオをおとしめるだけである。
実際、このあとイアーゴーが、間接的におとしめるのは、同じく彼と同じ世代のデズデモーナであり、デズデモーナとキャシオの不倫関係を匂わせることで、イアーゴーは、オセローとキャシオの信頼関係を壊し、そしてオセローとデズデモーナとの夫婦関係にヒビを入れるのである。またイアーゴーは自分の妻エミリアとオセローとが不倫関係にあったのではないかと疑う(イアーゴー自身、これが自分の妄想かもしれないと認めつつ、最後には真偽のほどはどうでもいいとまでいう)。
キャシオ、デズデモーナ、エミリア――イアーゴーと同世代のこの三人がイアーゴーの敵である。どうしてか。それはこの三人(もしくは二人)が、オセロー将軍の寵愛を勝ち得ているからであり、ひとりイアーゴーだけが、将軍から眼をかけてもらっていない。そのためこの三人を排除して、みずからその後釜に座る、つまりオセロー将軍による寵愛の座につくことがイアーゴーの目的である。
もしイアーゴーが階級的に差別される者の怨念しか抱いていないのならキャシオをおとしめればそれですむ。しかし彼はデズデモーナをも巻き込もうとする。さらにいえば、自分の妻エミリアの不貞疑惑を持ちだし、妻がオセローの持ち物になっている可能性を匂わす。イアーゴーはキャシオの後釜のみならずデズデモーナの後釜にも坐ろうとしている。そして、エミリアではなく自分がオセローの持ち物になることを望んでいる。
オセローが、みずからを裏切った(と思わされたのだが)デズデモーナとキャシオに復讐すること(具体的にはオセローは妻デズデモーナを、イアーゴーはキャシオを殺すこと)を決意するとき、オセローとイアーゴーの二人は跪いて復讐の誓いをたてる。これは結婚の誓いと同じである(動作姿勢ならびに言葉遣いが、まさに結婚の誓いそのものである)。オセローとイアーゴーは、復讐の誓いを結婚の誓いの形式でおこなう。オセローとイアーゴーは、はれて夫婦になったということもできるのだ。
ローレンス・フィシュバーンがオセローを演じ、ケネス・ブラナーがイアーゴーを演じた映画版『オセロー』(オリヴァー・パーカー監督、1995)では、復讐の誓いの場面、ふたりは最後にしっかりと抱き合い、イアーゴー/ケネス・ブラナーは眼に涙を浮かべるのだ(もちろん嬉し涙である)。なお映画ではこの場面、海浜ならびにその近くで展開し、水が暗示的に使われている――そう、同性愛の暗示として。
ここのどこに人種差別があるというのか。イアーゴーのこうした一連の行動のなかに、人種差別的蔑視と偏見が、どこにあるというのか。イアーゴーがオセローを憎いというとき、それは人種差別的な偏見からではない。オセローが、キャシオ、デズデモーナ、エミリア(すべて白人)を愛していて、自分(つまりイアーゴー)を愛してくれないことへの憎しみであり、そこに人種差別的な憎悪はない。さらにいえば、そこにはまぎれもなく同性愛的欲望がある。
演出家クリント・ダイアーは、このことが見えてないというよりも、見ようとしない。いや、おそらく見えているからこそ、つまり人種差別的偏見がないことをわかっているからこそ、自分の手で、人種差別的欲望を作り出したのだ――そして同性愛的側面を抑圧する。
そう、今回の舞台は、階段状のベンチ席のようなもので三方を取り囲ませている。登場人物は、囲まれた平場のようなところで演ずる。そして階段状のベンチシートには、見物人が坐っている。場面によって坐っている人数は変化する。彼らは表情や所作で、主として嫌悪感をあらわにするが、台詞を発することはない。いうなれば市民の側、共同体のなかにひそむ人種差別的偏見なり憎悪を、舞台上の観客が代表する。オセローもイアーゴーも、キャシオもデズデモーナもエミリアも、そうして人種差別的な視線にさらされているし、そうした視線に応答しているかにもみえる。とりわけイアーゴーは、そうした視線の代表者であり、またそうした視線を誘導したり創造したりもする源泉ともなっている。
イアーゴーの言葉のなかに人種差別的見解はない。台詞面から、これは確かである。また同性愛的欲望は如実にみてとれる。そのためありもしない人種差別的無意識を可視化するような舞台にこしらえて別の物語をつくるしかない――同性愛的要素を抹消した別の物語。黒人の演出家だから、『オセロー』を人種差別の犠牲者の悲劇にしたい、そのために、原作にはない要素を付け加えるのはいい。しかし原作とは別の物語にすることは、翻案とかアダプテーションの限度を超えている。繰り返すが、それで同性愛的要素を抹消するのは許しがたい。
ニコライ・レスコフの小説『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は、愛人と結託して夫を殺す女性を「マクベス夫人」と称しているのだが、シェイクスピアの『マクベス』におけるマクベス夫妻は仲が良く、マクベス夫人には愛人などいないし、マクベス夫人は夫を殺したりはしない。どういう誤解から、マクベス夫人とは似ても似つかない悪女を「マクベス夫人」と称することになるのか。このクソ・ロシア人作家にほんとうに聞いてみたいのだが、その小説を、舞台をロシアからヴィクトリア朝のイングランドに置き換えて映画化した作品『レディ・マクベス』も、愛人と結託して夫を殺す若妻が「マクベス夫人」と呼ばれることになるのだが、シェイクスピアの『マクベス』とは似ても似つかぬ、別の物語としかいいようがない。ちなみに『レディ・マクベス』でフローレンス・ピューに殺される夫は、今回の『オセロー』でイアーゴーを演じているポール・ヒルトンである。
これと同じで、クリント・ダイアー演出の『オセロー』は、シェイクスピアの『オセロー』の翻案ともいえない、別の物語になっているという、もどかしさ、そして凡庸な演出家への憤りが私のなかでは拭いされないのである。
つづく
ナショナル・シアター・ライヴの『オセロー』は、たしかに、誰が見てもシェイクスピアの『オセロー』以外の戯曲にはみえないのだから、黙っていればいいようなものだが、そんなに面白い舞台ではなかった。英国では称賛されているようだが、そんなものを信ずるのは、無知なというよりも、褒められたものならなんでもありがたがる無恥な観客にすぎないだろう。
たとえば最近上演されたアンドリュー・ボヴェル作『これだけはわかっている』Things I Know to Be True』(6月30日~7月9日)は、いかにも芝居らしい芝居を見たという感じを観客にあたえた優れた舞台だったが、これには、もちろん原作というか劇作家の功績が大きいのだが、同時に、演出家の力量、俳優陣の熱演もまた大きな要因となっている。当たり前のことを言うなと叱られそうだが、いくら原作が良くても、どうしようもない舞台は多い。しかも、本場かもしれない英国の舞台に接して、どうしようもないと落胆することはけっこうある。気の抜けたシェイクスピア劇を英国でみるよりも、日本の翻訳劇でシェイクスピアを観るほうが、はるかに刺激的で面白いということはよくある。今回のナショナル・シアター・ライブの『オセロー』もそうした凡庸な演出のひとつだった。
いや、凡庸ならそれでもいい。問題は凡庸な解釈にすぎないものを、なにか新しい前衛的で社会的な解釈として喧伝しようとしていることに腹が立つ。またそれは作品に対する根本的な誤解に基づいている。とはいえそれは悲劇を喜劇と間違えている、あるいはその逆という高尚な誤解ではない。弁解の余地のある誤解ではない。どうしようもない勝手な思い込みに近い誤解なのである。
たとえば今回の『オセロー』でイアーゴーを演じているポール・ヒルトンが出演している映画に『レディ・マクベス』(Lady Macbeth 2016)がある【今年10月に日本で上演される『レディ・マクベス』とは別物であるので誤解のないように】。この映画はロシアの作家ニコライ・レスコフの小説『ムツェンスク郡のマクベス夫人』をヴィクトリア朝の英国に移し替えて映画化したもの。映画の紹介文によれば「19世紀後半のイギリス。17歳のキャサリンは資産家の家に嫁ぐが、年の離れた夫は彼女に興味を示さず【ゲイでもあるから】、体の関係を持たない。意地悪な舅からは外出を禁じられ、人里離れた屋敷で退屈な日々を過ごしていた。そんなある日、キャサリンは夫の留守中に若い使用人セバスチャンに誘惑され……」という映画。キャサリンを演ずるフローレンス・ピューの圧倒的な存在感が印象的なこの映画は、犯罪が発覚してシベリアへ流刑になる主人公を描く原作とは異なり、最後に屋敷に女主人として君臨するキャサリンの姿で締めくくれる。そのような改変があってもいい。問題は、レスコフの小説にも、またそれを映画化したから当然なのかもしれないが、この映画にも、なぜ「レディ・マクベス」の名前が登場していることである。
レスコフの小説は、妻がその愛人と共謀して夫を殺す物語を展開させる。しかしシェイクスピアのマクベス夫人は、夫を殺さないし、愛人もいない。マクベス夫人は、アイスキュロスの『アガメムノン』に登場するクリュタイメストラではないし、ゾラのテレーズ・ラカン(同名の小説参照)でもない。だが、なぜレスコフは、浮気して愛人と結託して夫を殺す妻を「マクベス夫人」と呼ぶのか。ほんとうにレスコフとそのタイトルを許容したロシア人は何を考えているのかわからない。根本的に間違っている。これと同じ思いを、今回の『オセロー』を観て抱いた。
山下達郎のジャニーズ事務所擁護の発言が問題となり、大炎上。そのあおりで、山下達郎が、過去に、竹内まりあが中森明菜に提供した楽曲「駅」(作詞・作曲、竹内まりあ)の中森明菜による解釈を批判したことも引き合いにだされて、その非難には、ジャニーズ事務所を擁護する意図があったのではとまで言われ始めている。その真偽はともかく、山下から明菜への批判について私は賛成する。なぜなら中森明菜の楽曲解釈は、その楽曲のよさところをすこしも出していないからである。その歌い方は、竹内まりあから提供された曲の世界の可能性を広げるというよりも狭まるものでしかない。
それと同じでというのは、つまり、今回の『オセロー』は、制作者側あるいは演出家が、シェイクスピアの『オセロー』を利用して、人種差別問題を訴えるべく、芝居を構成しただけであって、人種差別も含め、シェイクスピアのこの作品がもつポテンシャルあるいはテーマを最大限実現させようという意図など最初からないようなのだ。べつにシェイクスピアを愛せというつもりはないが、ただ制作者あるいは演出家が、観客に学ばせるだけで、みずから舞台に載せる作品から学ぶつもりはないというのは最悪の舞台になる――今回のよう。
ムーア人/モーロ人であるオセローはアラブ人と黒人の中間的存在である。アラブ人性を強く出してもよいのである。そこからでも人種差別問題を引き出せる。たとえば吉田鋼太郎がオセローを演じた蜷川幸雄演出では、オセローは、アラブ系の存在であった(膚を真っ黒に塗ったりはしない――ただし悪くいうと、吉田鋼太郎のオセローは、アラビアン・ナイトに登場する魔法のランプから出てくるジーニみたいだったのだが)。オセロー=黒人としなくてもいいのである。またシェイクスピアの時代、イングランドは、ヨーロッパ諸国との協定を破って、ムーア人と交易をしていた。また当時イングランドを訪問したムーア人の大使の肖像画が残っている。

この肖像画が、ストラットフォード・アポン・エイヴォンのシェイクスピア研究所内の壁に掛けてあったのを発見した私は、まず肖像画の大きさに驚き、そして、それがシェイクスピア研究所にあることにさらに驚き、思わず、見入ってしまったが――あとで知ったのだが、実は、それはレプリカというか複製画で本物ではなかったし、さらにいえば本物のはもっと大きいとのことだった。
それはともかく、シェイクスピアが思い描いていたムーア人の将軍というのは、このアラブ系の大使の像だった可能性がある。この威厳のある、ある意味、威圧的な、またある意味、優れた知性をたたえた人物の肖像画は、その人物の出自がヨーロッパに匹敵する文明圏であることを如実に物語る。シェイクスピアの時代、異人種への眼差しは、ヨーロッパ中心主義だけでは説明のつかない複雑さを抱えていたのである。
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イアーゴーの年齢ははっきりわかっている。今回、イアーゴーを演ずるのはポール・ヒルトン。いかにも、イタリアのファシストあるいは悪魔といった風貌で、『レディ・マクベス』に、フローレンス・ピューのゲイの夫として出演していた頃の面影はない。
はっきりとしないが、このイアーゴーは、オセローと同世代か、年齢的にオセローに近い男のようにみえる。
確認すると、オセローと、彼の妻となるデズデモーナと父親、ブラバンショーは、同世代がである。つまりデズデモーナは、父親と思えるほど年の離れたオセローと結婚したことになる。ではイアーゴーはというと、これもシェイクスピアとは何の関係もない伝統ができあがっていて、主役クラスのベテラン俳優が演ずることが多い。そうなるとオセローに近いか、ときにはオセローを上回る年齢のイアーゴーも登場する。
ある日本のシェイクスピア入門書では、悪魔的で怖いイアーゴーとして、50代か60代にみえる英国俳優の舞台写真を使っていたが、イアーゴーの年齢を知らずに入門書を書かないで欲しい。
イアーゴーは、自分で27歳だと、友人にして金づるのロデリーゴに語っている。イアーゴーは呼吸をするように無意識のうちに嘘をつむぎだすのだが、ロデリーゴに対し自分の年齢を偽る理由はない。となるとオセローやブラバンショーは父親の世代、それに対して、イアーゴーとその妻エミリア、そしてデズデモーナ、キャシオらは、おそらく20代の若者たちなのである。この年齢差、世代差が、大きな枠組みであり背景となって悲劇が発生するのである。
もちろん多くの上演と同様に、今回も、自分が27歳であるというイアーゴーの台詞は省略されている。またイアーゴーに扮するポール・ヒルトンとオセローを演ずるジャイルズ・テレラの実年齢を考慮すると、前者が1970年生まれで50代、後者が1976年生まれで40代後半ということになる。ただ今回、イアーゴーがオセローよりも6歳も年上にはみえない。ほぼ同年齢か、少し若いくらいにみえる(私の主観的判断だが)。しかし、このイタリア人ファシストの悪魔=イアーゴーは、デズデモーナやキャシオと同世代ではない。またエミリアは、イアーゴーにあわせて高年齢化している。
そのため原作の重要な要素をカットする必要に迫られてくる。
芝居の冒頭、原作においてイアーゴーは、ロデリーゴを相手に最近副官に任命されたキャシオの悪口をいいまくる。ここでは、たたき上げの軍人であるイアーゴーが、日本風にいうとキャリア組のキャシオに対する憎悪の念が噴出する。ここにあるのは、キャリアとノンキャリア組の階級問題である。
しかし、このとき、イアーゴーは、自分自身ではなくてキャシオを副官に任命したオセロー将軍に対して、あんな移民の子がとか、異人種の傭兵がとか、ヴェニスをつくったのは白人であって、黒人ではないだから、黒人が偉そうにするなという、欧米の白人優位主義者がいうような人種差別的呪詛を一切口にしない。あくまでも副官の地位をめぐって自分のライバルであるキャシオをおとしめるだけである。
実際、このあとイアーゴーが、間接的におとしめるのは、同じく彼と同じ世代のデズデモーナであり、デズデモーナとキャシオの不倫関係を匂わせることで、イアーゴーは、オセローとキャシオの信頼関係を壊し、そしてオセローとデズデモーナとの夫婦関係にヒビを入れるのである。またイアーゴーは自分の妻エミリアとオセローとが不倫関係にあったのではないかと疑う(イアーゴー自身、これが自分の妄想かもしれないと認めつつ、最後には真偽のほどはどうでもいいとまでいう)。
キャシオ、デズデモーナ、エミリア――イアーゴーと同世代のこの三人がイアーゴーの敵である。どうしてか。それはこの三人(もしくは二人)が、オセロー将軍の寵愛を勝ち得ているからであり、ひとりイアーゴーだけが、将軍から眼をかけてもらっていない。そのためこの三人を排除して、みずからその後釜に座る、つまりオセロー将軍による寵愛の座につくことがイアーゴーの目的である。
もしイアーゴーが階級的に差別される者の怨念しか抱いていないのならキャシオをおとしめればそれですむ。しかし彼はデズデモーナをも巻き込もうとする。さらにいえば、自分の妻エミリアの不貞疑惑を持ちだし、妻がオセローの持ち物になっている可能性を匂わす。イアーゴーはキャシオの後釜のみならずデズデモーナの後釜にも坐ろうとしている。そして、エミリアではなく自分がオセローの持ち物になることを望んでいる。
オセローが、みずからを裏切った(と思わされたのだが)デズデモーナとキャシオに復讐すること(具体的にはオセローは妻デズデモーナを、イアーゴーはキャシオを殺すこと)を決意するとき、オセローとイアーゴーの二人は跪いて復讐の誓いをたてる。これは結婚の誓いと同じである(動作姿勢ならびに言葉遣いが、まさに結婚の誓いそのものである)。オセローとイアーゴーは、復讐の誓いを結婚の誓いの形式でおこなう。オセローとイアーゴーは、はれて夫婦になったということもできるのだ。
ローレンス・フィシュバーンがオセローを演じ、ケネス・ブラナーがイアーゴーを演じた映画版『オセロー』(オリヴァー・パーカー監督、1995)では、復讐の誓いの場面、ふたりは最後にしっかりと抱き合い、イアーゴー/ケネス・ブラナーは眼に涙を浮かべるのだ(もちろん嬉し涙である)。なお映画ではこの場面、海浜ならびにその近くで展開し、水が暗示的に使われている――そう、同性愛の暗示として。
ここのどこに人種差別があるというのか。イアーゴーのこうした一連の行動のなかに、人種差別的蔑視と偏見が、どこにあるというのか。イアーゴーがオセローを憎いというとき、それは人種差別的な偏見からではない。オセローが、キャシオ、デズデモーナ、エミリア(すべて白人)を愛していて、自分(つまりイアーゴー)を愛してくれないことへの憎しみであり、そこに人種差別的な憎悪はない。さらにいえば、そこにはまぎれもなく同性愛的欲望がある。
演出家クリント・ダイアーは、このことが見えてないというよりも、見ようとしない。いや、おそらく見えているからこそ、つまり人種差別的偏見がないことをわかっているからこそ、自分の手で、人種差別的欲望を作り出したのだ――そして同性愛的側面を抑圧する。
そう、今回の舞台は、階段状のベンチ席のようなもので三方を取り囲ませている。登場人物は、囲まれた平場のようなところで演ずる。そして階段状のベンチシートには、見物人が坐っている。場面によって坐っている人数は変化する。彼らは表情や所作で、主として嫌悪感をあらわにするが、台詞を発することはない。いうなれば市民の側、共同体のなかにひそむ人種差別的偏見なり憎悪を、舞台上の観客が代表する。オセローもイアーゴーも、キャシオもデズデモーナもエミリアも、そうして人種差別的な視線にさらされているし、そうした視線に応答しているかにもみえる。とりわけイアーゴーは、そうした視線の代表者であり、またそうした視線を誘導したり創造したりもする源泉ともなっている。
イアーゴーの言葉のなかに人種差別的見解はない。台詞面から、これは確かである。また同性愛的欲望は如実にみてとれる。そのためありもしない人種差別的無意識を可視化するような舞台にこしらえて別の物語をつくるしかない――同性愛的要素を抹消した別の物語。黒人の演出家だから、『オセロー』を人種差別の犠牲者の悲劇にしたい、そのために、原作にはない要素を付け加えるのはいい。しかし原作とは別の物語にすることは、翻案とかアダプテーションの限度を超えている。繰り返すが、それで同性愛的要素を抹消するのは許しがたい。
ニコライ・レスコフの小説『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は、愛人と結託して夫を殺す女性を「マクベス夫人」と称しているのだが、シェイクスピアの『マクベス』におけるマクベス夫妻は仲が良く、マクベス夫人には愛人などいないし、マクベス夫人は夫を殺したりはしない。どういう誤解から、マクベス夫人とは似ても似つかない悪女を「マクベス夫人」と称することになるのか。このクソ・ロシア人作家にほんとうに聞いてみたいのだが、その小説を、舞台をロシアからヴィクトリア朝のイングランドに置き換えて映画化した作品『レディ・マクベス』も、愛人と結託して夫を殺す若妻が「マクベス夫人」と呼ばれることになるのだが、シェイクスピアの『マクベス』とは似ても似つかぬ、別の物語としかいいようがない。ちなみに『レディ・マクベス』でフローレンス・ピューに殺される夫は、今回の『オセロー』でイアーゴーを演じているポール・ヒルトンである。
これと同じで、クリント・ダイアー演出の『オセロー』は、シェイクスピアの『オセロー』の翻案ともいえない、別の物語になっているという、もどかしさ、そして凡庸な演出家への憤りが私のなかでは拭いされないのである。
つづく

posted by ohashi at 18:07| 演劇
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2023年07月13日
『To Leslie トゥ・レスリー』
私は、アンドレア・ライズボローの昔からのファンだというと、納得される方もいれば、驚かれる方もいるだろう。彼女のことを知らないと、なんで、こんな汚れ役としてはすごいけれども、それ以外にはファンになるような魅了に乏しい女優の長年のファンなのかと不思議がられるかもしれない。
『ヴィーナス』(2006)に出演していた頃から観ている私は(とはいえ当時はまだ彼女のことを認識していなかったが)、『ハッピー・ゴー・ラッキー』(2008)、『わたしを離さないで』(2010)、『ブライトンロック』(2010)などに出演していた彼女に注目しはじめていたのだが、『ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋』(2011)ではシンプソン夫人を演じ、『シャドー・ダンサー』(2012)で主役を演じた彼女のファンになった。
マドンナ監督による『ウォリスとエドワード』、公開当時こそ、評判はよくなかったが、現在では高い評価を得ている映画で、その二重構造も、公開当時と異なりいまでは高評価の要因ともなっている。シンプソン夫人を演じた彼女が、『シャドー・ダンサー』では、IRAの活動についての情報屋を余儀なくされた子持ちの女性を演じていた。共演はオーウェン・クレイグ。緊迫感にみちた映画で圧倒された。
その後、トム・クルーズと共演した『オブリビオン』(2013)、アカデミー賞受賞作『バードマン』(2014)、トム・フォード監督の『ノクターナル・アニマルズ』(2016)などの映画では、いずれも主演ではないが確固たる存在感を主張していたし、こうした評価の高い有名な映画に出演していた彼女を知る映画ファンも多いと思うので、今回の『To Leslie』について、「この女優」といかいってコメントしているネット上の人間については、ほんとうに映画好きかと疑ってしまうし、なんにせよ多少は調べてからコメントすべきではと思ってしまう。
ファンとしての私は彼女が主役になる映画を待望していたが、そこで問題作に出会う。『マンディ 地獄のロードウォリアー』(2018)である。
パノス・コスマトス監督のベルギー映画『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』(原題Mandy、2018))は、妻(アンドレア・ライズボロー)を殺された男(ニコラス・ケイジ)の凄絶な復讐物語だが、妻が焼き殺されるシーンを観た私は、ふと、ロベール・アンリコ監督『追想』を思い出した。一瞬のことで、そのときはすぐに忘れたのだが、しかし、実はこの『マンディ』は、『追想』を踏まえていることをあとで知って驚いた。
ただ『追想』と異なるところもある。『追想』ではナチスの親衛隊に焼き殺される妻をロミー・シュナイダーが演じ、復讐する夫をフィリップ・ノワレが演じているが、『マンディ』では夫をニコラス・ケイジが演ずるのはよいとしても、殺される妻役のアンドレア・ライズボローが、ロミー・シュナイダーとは異なり、不気味な魔女のような風貌になっていて、善良な女性とはとても思えない、なにか闇に落ちた女性にしか思えなかった。彼女は被害者でありながら、同時に、その存在が死を招いたようにも思われた。それに続く復讐行為も残虐性だけが際立っていて、この頃から、どんな映画にでも出演するニコラス・ケイジ物語が始まっていたように思う。
もし焼き殺された妻がロミー・シュナイダーだったら、私はナチスの親衛隊を一人残らず殺しまくるかもしれないのだが、もし焼き殺された妻が、『マンデイ』におけるようなアンドレア・ライズボローだったら、私はたぶん復讐はしないと思う。それほどまでに、マンデイ/アンドレア・ライズボローは不気味だった。『トゥー・レスリー』の面影すらないのだ。
その後、コロナ禍になって、コロナ自粛中に公開された映画で、ライズボローが出演した映画はみることができなかった。そして2022年アカデミー最優秀主演女優賞にノミネートされた『To Leslie トゥ・レスリー』が出現した(原題:To Leslie、2022年のアメリカ映画。監督:マイケル・モリス)。『マンデイ』のライズボローは、あれからどうなったのだろうかと映画館で確認することになった。
テキサス州西部のシングルマザー、レスリー(アンドレア・ライズボロー)は、宝くじに高額当選するものの、アルコール代にお金を使い果たし、ホームレス状態にまで陥る。息子や友人に助けを求めるが、酒を止めることができず、極貧の放浪生活を余儀なくされるが……。転落からの復活までを描く映画のなかで、その中心はなんといっても、アルコール依存症から抜け出せない主人公の苦難の日々となる。
アルコール依存症はハリウッド映画のお家芸で、それを演ずれば高い評価が保証される。とはいえ、レズリーの境遇と、その性格からして、映画は、彼女が立ち直るのは不可能であることをたたみかけられるような展開というか、このまま彼女が野垂れ死にしてもなんらおかしくない展開となっていて、観ていて暗澹たる気持ちになる――もっともアンドレア・ライズボローの悲嘆と憤怒と絶望の鬼気迫る演技は、観ていて飽きない、つまりそんなに暗い気持ちにもならないのも事実なのだが。
気づくと、私にとって、レスリーの復活物語は、アンドレア・ライズボローの復活の物語ともなっていた。ライズボローがレスリーを演ずるのだから、あたりまえというなかれ。て。彼女がトム・クルーズと共演していた頃の彼女(『オブリビオン』)、あるいは英国国王と結ばれるシンプソン夫人を演じたときの彼女(『ウォリスとエドワード』)、IRAと英国側の諜報戦に翻弄される美しい人妻を演じた彼女(『シャドー・ダンサー』)――そうした彼女からの大きな逸脱は、レスリーの転落の人生と二重写しにみえてきて、しかもレスリーにも、彼女にも立ち直りの可能性はみえなくて、ある意味、どこでどう救済の契機が訪れるのか、期待できそうもないながら、どこかで期待していたのである。
薬物依存症から抜け出せない息子と父親の葛藤を描いた映画『ビューティフル・ボーイ』(Beautiful Boy2018 監督:フェリックス・ヴァン・フルーニンゲン、主演:スティーヴ・カレルとティモシー・シャラメ)で衝撃的だったのは、息子を救う唯一の方法は、息子を救わないこと、見放すことであるというメッセージだった。あたりまえのことかもしれないのだが、親がついつい子どもに手を差し伸べることで、子どもはいつまでたっても依存症から抜け出せなくなる。思い切って子どもを切り捨てること、子どもの自覚をうながすことが、救済の最短距離である。ある意味、アメリカンな思考かもしれないが、同時に、普遍性をもった規範でもあろう。
同様に『トゥ・レスリー』でも、主人公の女性がアルコール依存症と、そこから生ずる転落の人生から脱却すべく自助努力しないかぎり、救いもなにもやってこない。実際、ある時点でアルコールを完全に断つと決心して以降、彼女の境遇も徐々に上向きになりはじめる(もちろん終盤において、彼女が、モーテルの所有者と従業員の変な二人組男性たちと知り合い、そこで働き始めるようになることが、彼女の転機となることは確かだとしても)。自覚と克己が生まれると、支援と救済の輪が同時に広がり始める。いや、そればかりではない。主人公が自覚と克己へと到ると、彼女を援助しその言動を暖かく見守る人たちが昔からいたこと、そして彼女が依存症になって無軌道な行動に走ると、そうした人たちが影をひそめ、支援の輪が消滅してしまっていたこともわかる。自覚と支援が同時共存する。そして自覚なきところ、支援もないこともわかる。
これで社会問題が解決するとは思われない――むしろ、それはアメリカンな幻想かもしれない。しかしこの映画において、彼女の転落の人生は、宝くじに高額当選したことがきっかけだったし、これは誰にも起こりうることではない。宝くじに高額当選ということ自体が問題かもしれないし、実際、高額当選者には不幸な人生が待っていることが多いとも聞く。とはいえ超ラッキーな出来事がアンラッキーへの道を開く事態はレアな事例ではあろう。そのため事態への個人の対処こそが重要になる。
この映画で、残された唯一の道は自助努力でしかないというギリギリの状態に置かれた主人公が、結局、それによって生まれ変わるというのは、ある意味、予想ができなかったがゆえに、逆に、爽快でもある。
この映画は、絶望のきわみにおいても、希望は常に寄り添っていた――自助努力による復活という希望が常に寄り添っていた。この意味で、繰り返すが、この映画は悲惨な人生の果てにある、生半可な救済ではなく、いかにも救済らしい救済を描いたという点で、高く評価できるのである。
ただしコロナ禍におけるライズボロー出演の映画をみていない私としては、二〇一八年以降、彼女がずっと悲惨な役柄しか演じていたかどうかわからないので、彼女の俳優人生における救済と重ね合わせられるかどうかは、正直言って、未確認であるのだが。
『ヴィーナス』(2006)に出演していた頃から観ている私は(とはいえ当時はまだ彼女のことを認識していなかったが)、『ハッピー・ゴー・ラッキー』(2008)、『わたしを離さないで』(2010)、『ブライトンロック』(2010)などに出演していた彼女に注目しはじめていたのだが、『ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋』(2011)ではシンプソン夫人を演じ、『シャドー・ダンサー』(2012)で主役を演じた彼女のファンになった。
マドンナ監督による『ウォリスとエドワード』、公開当時こそ、評判はよくなかったが、現在では高い評価を得ている映画で、その二重構造も、公開当時と異なりいまでは高評価の要因ともなっている。シンプソン夫人を演じた彼女が、『シャドー・ダンサー』では、IRAの活動についての情報屋を余儀なくされた子持ちの女性を演じていた。共演はオーウェン・クレイグ。緊迫感にみちた映画で圧倒された。
その後、トム・クルーズと共演した『オブリビオン』(2013)、アカデミー賞受賞作『バードマン』(2014)、トム・フォード監督の『ノクターナル・アニマルズ』(2016)などの映画では、いずれも主演ではないが確固たる存在感を主張していたし、こうした評価の高い有名な映画に出演していた彼女を知る映画ファンも多いと思うので、今回の『To Leslie』について、「この女優」といかいってコメントしているネット上の人間については、ほんとうに映画好きかと疑ってしまうし、なんにせよ多少は調べてからコメントすべきではと思ってしまう。
ファンとしての私は彼女が主役になる映画を待望していたが、そこで問題作に出会う。『マンディ 地獄のロードウォリアー』(2018)である。
パノス・コスマトス監督のベルギー映画『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』(原題Mandy、2018))は、妻(アンドレア・ライズボロー)を殺された男(ニコラス・ケイジ)の凄絶な復讐物語だが、妻が焼き殺されるシーンを観た私は、ふと、ロベール・アンリコ監督『追想』を思い出した。一瞬のことで、そのときはすぐに忘れたのだが、しかし、実はこの『マンディ』は、『追想』を踏まえていることをあとで知って驚いた。
ただ『追想』と異なるところもある。『追想』ではナチスの親衛隊に焼き殺される妻をロミー・シュナイダーが演じ、復讐する夫をフィリップ・ノワレが演じているが、『マンディ』では夫をニコラス・ケイジが演ずるのはよいとしても、殺される妻役のアンドレア・ライズボローが、ロミー・シュナイダーとは異なり、不気味な魔女のような風貌になっていて、善良な女性とはとても思えない、なにか闇に落ちた女性にしか思えなかった。彼女は被害者でありながら、同時に、その存在が死を招いたようにも思われた。それに続く復讐行為も残虐性だけが際立っていて、この頃から、どんな映画にでも出演するニコラス・ケイジ物語が始まっていたように思う。
もし焼き殺された妻がロミー・シュナイダーだったら、私はナチスの親衛隊を一人残らず殺しまくるかもしれないのだが、もし焼き殺された妻が、『マンデイ』におけるようなアンドレア・ライズボローだったら、私はたぶん復讐はしないと思う。それほどまでに、マンデイ/アンドレア・ライズボローは不気味だった。『トゥー・レスリー』の面影すらないのだ。
その後、コロナ禍になって、コロナ自粛中に公開された映画で、ライズボローが出演した映画はみることができなかった。そして2022年アカデミー最優秀主演女優賞にノミネートされた『To Leslie トゥ・レスリー』が出現した(原題:To Leslie、2022年のアメリカ映画。監督:マイケル・モリス)。『マンデイ』のライズボローは、あれからどうなったのだろうかと映画館で確認することになった。
テキサス州西部のシングルマザー、レスリー(アンドレア・ライズボロー)は、宝くじに高額当選するものの、アルコール代にお金を使い果たし、ホームレス状態にまで陥る。息子や友人に助けを求めるが、酒を止めることができず、極貧の放浪生活を余儀なくされるが……。転落からの復活までを描く映画のなかで、その中心はなんといっても、アルコール依存症から抜け出せない主人公の苦難の日々となる。
アルコール依存症はハリウッド映画のお家芸で、それを演ずれば高い評価が保証される。とはいえ、レズリーの境遇と、その性格からして、映画は、彼女が立ち直るのは不可能であることをたたみかけられるような展開というか、このまま彼女が野垂れ死にしてもなんらおかしくない展開となっていて、観ていて暗澹たる気持ちになる――もっともアンドレア・ライズボローの悲嘆と憤怒と絶望の鬼気迫る演技は、観ていて飽きない、つまりそんなに暗い気持ちにもならないのも事実なのだが。
気づくと、私にとって、レスリーの復活物語は、アンドレア・ライズボローの復活の物語ともなっていた。ライズボローがレスリーを演ずるのだから、あたりまえというなかれ。て。彼女がトム・クルーズと共演していた頃の彼女(『オブリビオン』)、あるいは英国国王と結ばれるシンプソン夫人を演じたときの彼女(『ウォリスとエドワード』)、IRAと英国側の諜報戦に翻弄される美しい人妻を演じた彼女(『シャドー・ダンサー』)――そうした彼女からの大きな逸脱は、レスリーの転落の人生と二重写しにみえてきて、しかもレスリーにも、彼女にも立ち直りの可能性はみえなくて、ある意味、どこでどう救済の契機が訪れるのか、期待できそうもないながら、どこかで期待していたのである。
薬物依存症から抜け出せない息子と父親の葛藤を描いた映画『ビューティフル・ボーイ』(Beautiful Boy2018 監督:フェリックス・ヴァン・フルーニンゲン、主演:スティーヴ・カレルとティモシー・シャラメ)で衝撃的だったのは、息子を救う唯一の方法は、息子を救わないこと、見放すことであるというメッセージだった。あたりまえのことかもしれないのだが、親がついつい子どもに手を差し伸べることで、子どもはいつまでたっても依存症から抜け出せなくなる。思い切って子どもを切り捨てること、子どもの自覚をうながすことが、救済の最短距離である。ある意味、アメリカンな思考かもしれないが、同時に、普遍性をもった規範でもあろう。
同様に『トゥ・レスリー』でも、主人公の女性がアルコール依存症と、そこから生ずる転落の人生から脱却すべく自助努力しないかぎり、救いもなにもやってこない。実際、ある時点でアルコールを完全に断つと決心して以降、彼女の境遇も徐々に上向きになりはじめる(もちろん終盤において、彼女が、モーテルの所有者と従業員の変な二人組男性たちと知り合い、そこで働き始めるようになることが、彼女の転機となることは確かだとしても)。自覚と克己が生まれると、支援と救済の輪が同時に広がり始める。いや、そればかりではない。主人公が自覚と克己へと到ると、彼女を援助しその言動を暖かく見守る人たちが昔からいたこと、そして彼女が依存症になって無軌道な行動に走ると、そうした人たちが影をひそめ、支援の輪が消滅してしまっていたこともわかる。自覚と支援が同時共存する。そして自覚なきところ、支援もないこともわかる。
これで社会問題が解決するとは思われない――むしろ、それはアメリカンな幻想かもしれない。しかしこの映画において、彼女の転落の人生は、宝くじに高額当選したことがきっかけだったし、これは誰にも起こりうることではない。宝くじに高額当選ということ自体が問題かもしれないし、実際、高額当選者には不幸な人生が待っていることが多いとも聞く。とはいえ超ラッキーな出来事がアンラッキーへの道を開く事態はレアな事例ではあろう。そのため事態への個人の対処こそが重要になる。
この映画で、残された唯一の道は自助努力でしかないというギリギリの状態に置かれた主人公が、結局、それによって生まれ変わるというのは、ある意味、予想ができなかったがゆえに、逆に、爽快でもある。
この映画は、絶望のきわみにおいても、希望は常に寄り添っていた――自助努力による復活という希望が常に寄り添っていた。この意味で、繰り返すが、この映画は悲惨な人生の果てにある、生半可な救済ではなく、いかにも救済らしい救済を描いたという点で、高く評価できるのである。
ただしコロナ禍におけるライズボロー出演の映画をみていない私としては、二〇一八年以降、彼女がずっと悲惨な役柄しか演じていたかどうかわからないので、彼女の俳優人生における救済と重ね合わせられるかどうかは、正直言って、未確認であるのだが。
posted by ohashi at 22:38| 映画
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2023年07月12日
『遠いところ』
トルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭は、有名な次の一文で始まる。「幸福な家庭はすべてよく似たものであるが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」(中村白葉訳)。実のところ、これはトルストイが最初に考えていた冒頭の一文ではなかった。トルストイは、読者をいきなり物語あるいは事件の渦中に投げ込むことこそ小説の醍醐味と考えていたので、冒頭の一文は「オブロンスキー家ではすべてが猖獗を極めていた」であった。手元に訳本がないので、これが中村白葉訳の正確な表現だったかは不明だが、小学校高学年か中学生だった私には「猖獗を極めていた」というフレーズの意味がわからず漢和辞典で調べたことを記憶している(国語辞典じゃないのかというなかれ、漢字の読み方がわからなければ、国語辞典では調べようがないのだ)。
「幸福な家庭はすべてよく似たものであるが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」――今考えても、これがどういう意味かよくわからない。逆じゃないかとも考えられるし、また幸福な家庭も、不幸な家庭も、そのありようはさまざまではないか、つまりどちらも同じではないかとも考えられる。その真意について深掘りするつもりはないが、ただ、これは小説に関するメタフィクショナルなコメントではないかと個人的には思っている。
幸福な家庭とか幸福な人間を扱う小説など、退屈極まりなくて読めたものではない。他人の不幸を喜ぶつもりはなくても、不幸な家庭、そしてその数限りないヴァリエーションこそ小説にふさわしい題材となってくれる、ということではないか。
しかし、今回、私が抱いた感想は、不幸な人間は誰もがよく似ているということである。映画『遠いところ』を観ながら。
実際、この映画の主人公のように10代で結婚して2歳の子どもがいれば、遊んだり学んだりする暇などなく、夫に働く意欲がなければ、夜、子どもを義母か母に預かってもらってキャバクラで働くしかなくなる。しかも夫のていたらくを攻めれば、夫からひどい暴力をふるわれ(とはいえ若い夫のくずぶりはわかっていても、別れることができないばかりか、どうしても依存してしまう)、そして、せっかく稼いだお金も、銀行に貯金するのではなく、家のなかに隠していたために、全部、ダメ夫にもっていかれ、家賃も払えなくなり、キャバクラでは働けなくなり(もともと未成年なので非合法のキャバクラ勤務だったのだが)、親からの援助も得られず、最後には売りに走る。金銭的には余裕ができたが、精神的に荒廃し、面倒をみることができなくなった子どもを児相にひきとられ、子どもと会うこともできず、また売りを非難していた友人自身が、売りを強要されて自殺。絶望と自暴自棄のはてに、友人を死に追いやった男に暴行をふるい、夜、児相の施設に忍び込んで子どもを連れ出し……。
沖縄のゴザが舞台らしいのだが、沖縄の方言がとびかい、実際、映画のなかでは、その半分くらしか理解できない。ただし観光地としての風光明媚な沖縄の風景は皆無で、主人公の実家がある漁村の風景が少し出てくるくらいで、あとは歓楽街と住宅街しかない。それも日本の地方都市のどこにでもある、ありふれた光景である。
不幸はすべて似たりよったりである、とは言えないだろうか。
そうなると、沖縄である必要はないように思われる。この映画の主人公たちが置かれている苦境は、沖縄特有のものというよりも、今の日本の若年層の多くの苦境であるように思われる。もちろん、それはこの映画の誇れるところであろう。沖縄の十代の女性が直面する問題は、今の日本の問題そのものなのである。沖縄の問題かもしれないが、日本の問題、あるいは日本の地方都市がかかえる問題がこの映画に現前している。
*
なぜ沖縄が舞台なのかという思いは、その裏に、沖縄の現実に対する(私を代表とする愚かな日本人の)無知がある。
沖縄では出生率が全国トップで、しかも若年結婚・出産も多いことは、デキ婚率が40~50%であることからもわかる。また離婚率も全国トップ。
沖縄の完全失業率は全国平均を上回り、沖縄における一人あたりの所得は全国で最低である。子どもの貧困層は全国平均の二倍といわれ、さらに統計でははかれない問題として、中絶がすくないこと(10代で妊娠すれば、そのまま出産。婚外子も多い)。父権的社会規範の支配(若い男性の女性蔑視――それに起因する家庭内暴力)。また子ども好き、地縁血縁者による子育て支援の伝統が根強いこと――ただし、それが若年層の出産を助長し若年層の貧困化を加速化することにもなること。
これ以外にも、沖縄がかかえる数々の社会問題をみるにつけても、この映画は、日本の今ではなく、沖縄の今を赤裸々に暴いているということができる。映画の主人公の境遇は、不幸のてんこ盛りを示すというかたちで誇張されているのではなく、沖縄の若年層の今そのものなのだとわかる。
もちろん同じ問題は、日本全国の地方都市がかかえている問題であることは、すでに述べたとおりである。それでもなお、これが沖縄に固有の問題であるといえるのは、日本全国の社会的諸問題が、沖縄に集約されて発現しているからである。その集約感、その濃度、その救いのなさが、日本全国の他のどんな市町村にもまして、沖縄では際立っている。つまり、たとえ抱えている問題は、沖縄であろうが全国の市町村であろうが、基本的に同じであっても、その深刻さにおいて、その蔓延度において、沖縄は日本の他の地域を凌駕しているということである。
日本の社会問題の集約点が沖縄であるとするなら、もうひとつの集約点が、10代後半の若者たち、それもとりわけ女性である。無責任な男たちがもたらし、もはや出口などみえない苦境に、彼女たちだけが取り残される。人格も人権も顧みられず、邪魔者扱いされ、うとまれ、最後には社会から完全に排除されるしかない、彼女たちの運命、それが、沖縄の運命と重なり合う。沖縄を代表=表象するジェンダーは、10代後半の少女=母親である。
ちなみに、この映画の主人公がなぜそのような生活を送るようになったのか、その内面とか詳しい事情などがいっさい描かれていないというコメントがネット上にあったが(おそらく褒めているのではなく、けなすつもりで)、社会の、人生の一断片を描くものであって、前後関係までつまびらかにする必要はないのだが、ただ、いえることは、もし彼女が、個人的な事情とか、性向あるいは知性、あるいはさらに人生経験の乏しさによって、そうした境遇(若くして出産し結婚し風俗ではたらく)を選択したのなら、それは個人の問題である。しかし、彼女は、よく考えもせず(特筆すべき内的葛藤などなく)、また周囲の有形無形の圧力によって気づくとそうした境遇に陥らざるをえなかったのであって、だからこそ社会問題なのである。だからこそ個人の責任を問うことが社会問題の隠蔽につながるのである。
実のところ、映画のなかで、女は金に困ったらカラダを売ればいいと、実の父親が実の娘に言うのだ――どんなに金に困っても、カラダだけは売ってはいけないと、実の父がいうのではなく。この父親も貧困の犠牲者かもしれないが、同時に、女性を圧迫する加害者でもある。そして親子の愛憎とは関係なく、親子が加害者と被害者になるところに社会問題があるのだ。
*
この映画のなかで、主人公の女性は、儀礼的に、あるいはお座なりなかたちで、いくつかの場面でお礼の言葉を述べる。しかし、彼女は、その奉仕と自己犠牲にもかかわらず、誰からも感謝されることはない。儀礼的に、あるいはお座なりにでも、感謝されることはない。
誰かが、あるいは一人でもいいから、彼女の行動――どれひとつとして利己的な動機に基づくものではないのだが――に対して感謝の意を表明していたら、彼女の行動も変わっていたかもしれない。
だが、誰からも、彼女の行動は顧みられず評価されることもない。しかし、そのことで彼女は一度たりとも不満をもらしたり落胆したりすることもない。彼女の行為は、見返りも償いも求めることのない、まさに無償の愛の行為なのである。しかも、最初もまた最後も、彼女の愛は、2歳の息子に向かう――まだろくに口もきけず、彼女に感謝の言葉を伝えることすらできない幼い息子に。
はっきりとは描かれていないが、おそらく、行き詰まった彼女は、最後に、息子ととともに海に沈んで死ぬのだろう。それは悲惨な境遇のなかで救いを見出せず、また誰からも救われなかった彼女の哀れな最期かもしれないが、同時に、無償の愛を貫いた聖母の神聖な昇天のようにもみえてくる(もし息子が助かるのなら、この2歳の幼い男の子が成人したら、人間のくずの権化のような若い父親に似て、どうしようもないクソガキあるいはクズ男になる可能性は極めて高いのだが、しかし彼自身を愛し彼を守るために死んでいった母親の、たとえカラダは売っても聖母のごとき無償の愛を貫いたその短い生涯を思って、悲惨な現実を救う救世主になるかもしれない)。
映画において少女は特権的な立場にある(このことは何度も述べている)。映画における少女というのは、誰の所有物にもならず、精神の自律を最後まで貫き通す存在である。だから彼女は自律できない幼子でもなければ、結婚して子どもつくる家庭の主婦でもない、未婚・結婚・未亡人という男性が押しつける女性分類の外にある超越的存在、あるいは美しい魂である。映画は、こうした美しい魂の少女を常に顕彰してきた。そしてそのような少女のひとつの、だが重要な側面が、聖母なのである(これは母性という父権制における女性の枠付けに回収される危険性があるとはいえ)――たとえ結婚していても、たとえ複数の男に金のために身をまかせても、その美しい魂が汚れることのない。
『遠いところ』監督:工藤将亮、出演:花瀬琴音(アカデミー賞の主演女優賞にあたいする);石田夢実;佐久間祥朗(クズ夫ぶりは助演男優賞にあたいする)。2023年映画。
「幸福な家庭はすべてよく似たものであるが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」――今考えても、これがどういう意味かよくわからない。逆じゃないかとも考えられるし、また幸福な家庭も、不幸な家庭も、そのありようはさまざまではないか、つまりどちらも同じではないかとも考えられる。その真意について深掘りするつもりはないが、ただ、これは小説に関するメタフィクショナルなコメントではないかと個人的には思っている。
幸福な家庭とか幸福な人間を扱う小説など、退屈極まりなくて読めたものではない。他人の不幸を喜ぶつもりはなくても、不幸な家庭、そしてその数限りないヴァリエーションこそ小説にふさわしい題材となってくれる、ということではないか。
しかし、今回、私が抱いた感想は、不幸な人間は誰もがよく似ているということである。映画『遠いところ』を観ながら。
実際、この映画の主人公のように10代で結婚して2歳の子どもがいれば、遊んだり学んだりする暇などなく、夫に働く意欲がなければ、夜、子どもを義母か母に預かってもらってキャバクラで働くしかなくなる。しかも夫のていたらくを攻めれば、夫からひどい暴力をふるわれ(とはいえ若い夫のくずぶりはわかっていても、別れることができないばかりか、どうしても依存してしまう)、そして、せっかく稼いだお金も、銀行に貯金するのではなく、家のなかに隠していたために、全部、ダメ夫にもっていかれ、家賃も払えなくなり、キャバクラでは働けなくなり(もともと未成年なので非合法のキャバクラ勤務だったのだが)、親からの援助も得られず、最後には売りに走る。金銭的には余裕ができたが、精神的に荒廃し、面倒をみることができなくなった子どもを児相にひきとられ、子どもと会うこともできず、また売りを非難していた友人自身が、売りを強要されて自殺。絶望と自暴自棄のはてに、友人を死に追いやった男に暴行をふるい、夜、児相の施設に忍び込んで子どもを連れ出し……。
沖縄のゴザが舞台らしいのだが、沖縄の方言がとびかい、実際、映画のなかでは、その半分くらしか理解できない。ただし観光地としての風光明媚な沖縄の風景は皆無で、主人公の実家がある漁村の風景が少し出てくるくらいで、あとは歓楽街と住宅街しかない。それも日本の地方都市のどこにでもある、ありふれた光景である。
不幸はすべて似たりよったりである、とは言えないだろうか。
そうなると、沖縄である必要はないように思われる。この映画の主人公たちが置かれている苦境は、沖縄特有のものというよりも、今の日本の若年層の多くの苦境であるように思われる。もちろん、それはこの映画の誇れるところであろう。沖縄の十代の女性が直面する問題は、今の日本の問題そのものなのである。沖縄の問題かもしれないが、日本の問題、あるいは日本の地方都市がかかえる問題がこの映画に現前している。
*
なぜ沖縄が舞台なのかという思いは、その裏に、沖縄の現実に対する(私を代表とする愚かな日本人の)無知がある。
沖縄では出生率が全国トップで、しかも若年結婚・出産も多いことは、デキ婚率が40~50%であることからもわかる。また離婚率も全国トップ。
沖縄の完全失業率は全国平均を上回り、沖縄における一人あたりの所得は全国で最低である。子どもの貧困層は全国平均の二倍といわれ、さらに統計でははかれない問題として、中絶がすくないこと(10代で妊娠すれば、そのまま出産。婚外子も多い)。父権的社会規範の支配(若い男性の女性蔑視――それに起因する家庭内暴力)。また子ども好き、地縁血縁者による子育て支援の伝統が根強いこと――ただし、それが若年層の出産を助長し若年層の貧困化を加速化することにもなること。
これ以外にも、沖縄がかかえる数々の社会問題をみるにつけても、この映画は、日本の今ではなく、沖縄の今を赤裸々に暴いているということができる。映画の主人公の境遇は、不幸のてんこ盛りを示すというかたちで誇張されているのではなく、沖縄の若年層の今そのものなのだとわかる。
もちろん同じ問題は、日本全国の地方都市がかかえている問題であることは、すでに述べたとおりである。それでもなお、これが沖縄に固有の問題であるといえるのは、日本全国の社会的諸問題が、沖縄に集約されて発現しているからである。その集約感、その濃度、その救いのなさが、日本全国の他のどんな市町村にもまして、沖縄では際立っている。つまり、たとえ抱えている問題は、沖縄であろうが全国の市町村であろうが、基本的に同じであっても、その深刻さにおいて、その蔓延度において、沖縄は日本の他の地域を凌駕しているということである。
日本の社会問題の集約点が沖縄であるとするなら、もうひとつの集約点が、10代後半の若者たち、それもとりわけ女性である。無責任な男たちがもたらし、もはや出口などみえない苦境に、彼女たちだけが取り残される。人格も人権も顧みられず、邪魔者扱いされ、うとまれ、最後には社会から完全に排除されるしかない、彼女たちの運命、それが、沖縄の運命と重なり合う。沖縄を代表=表象するジェンダーは、10代後半の少女=母親である。
ちなみに、この映画の主人公がなぜそのような生活を送るようになったのか、その内面とか詳しい事情などがいっさい描かれていないというコメントがネット上にあったが(おそらく褒めているのではなく、けなすつもりで)、社会の、人生の一断片を描くものであって、前後関係までつまびらかにする必要はないのだが、ただ、いえることは、もし彼女が、個人的な事情とか、性向あるいは知性、あるいはさらに人生経験の乏しさによって、そうした境遇(若くして出産し結婚し風俗ではたらく)を選択したのなら、それは個人の問題である。しかし、彼女は、よく考えもせず(特筆すべき内的葛藤などなく)、また周囲の有形無形の圧力によって気づくとそうした境遇に陥らざるをえなかったのであって、だからこそ社会問題なのである。だからこそ個人の責任を問うことが社会問題の隠蔽につながるのである。
実のところ、映画のなかで、女は金に困ったらカラダを売ればいいと、実の父親が実の娘に言うのだ――どんなに金に困っても、カラダだけは売ってはいけないと、実の父がいうのではなく。この父親も貧困の犠牲者かもしれないが、同時に、女性を圧迫する加害者でもある。そして親子の愛憎とは関係なく、親子が加害者と被害者になるところに社会問題があるのだ。
*
この映画のなかで、主人公の女性は、儀礼的に、あるいはお座なりなかたちで、いくつかの場面でお礼の言葉を述べる。しかし、彼女は、その奉仕と自己犠牲にもかかわらず、誰からも感謝されることはない。儀礼的に、あるいはお座なりにでも、感謝されることはない。
誰かが、あるいは一人でもいいから、彼女の行動――どれひとつとして利己的な動機に基づくものではないのだが――に対して感謝の意を表明していたら、彼女の行動も変わっていたかもしれない。
だが、誰からも、彼女の行動は顧みられず評価されることもない。しかし、そのことで彼女は一度たりとも不満をもらしたり落胆したりすることもない。彼女の行為は、見返りも償いも求めることのない、まさに無償の愛の行為なのである。しかも、最初もまた最後も、彼女の愛は、2歳の息子に向かう――まだろくに口もきけず、彼女に感謝の言葉を伝えることすらできない幼い息子に。
はっきりとは描かれていないが、おそらく、行き詰まった彼女は、最後に、息子ととともに海に沈んで死ぬのだろう。それは悲惨な境遇のなかで救いを見出せず、また誰からも救われなかった彼女の哀れな最期かもしれないが、同時に、無償の愛を貫いた聖母の神聖な昇天のようにもみえてくる(もし息子が助かるのなら、この2歳の幼い男の子が成人したら、人間のくずの権化のような若い父親に似て、どうしようもないクソガキあるいはクズ男になる可能性は極めて高いのだが、しかし彼自身を愛し彼を守るために死んでいった母親の、たとえカラダは売っても聖母のごとき無償の愛を貫いたその短い生涯を思って、悲惨な現実を救う救世主になるかもしれない)。
映画において少女は特権的な立場にある(このことは何度も述べている)。映画における少女というのは、誰の所有物にもならず、精神の自律を最後まで貫き通す存在である。だから彼女は自律できない幼子でもなければ、結婚して子どもつくる家庭の主婦でもない、未婚・結婚・未亡人という男性が押しつける女性分類の外にある超越的存在、あるいは美しい魂である。映画は、こうした美しい魂の少女を常に顕彰してきた。そしてそのような少女のひとつの、だが重要な側面が、聖母なのである(これは母性という父権制における女性の枠付けに回収される危険性があるとはいえ)――たとえ結婚していても、たとえ複数の男に金のために身をまかせても、その美しい魂が汚れることのない。
『遠いところ』監督:工藤将亮、出演:花瀬琴音(アカデミー賞の主演女優賞にあたいする);石田夢実;佐久間祥朗(クズ夫ぶりは助演男優賞にあたいする)。2023年映画。
posted by ohashi at 20:12| 映画
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2023年07月06日
『これだけはわかっている』2
今回、舞台を観て家族について考えさせられることが多く、あらためて演劇における家族表象について思いをはせた。
そもそも現実の家族とは異なり、舞台の家族は親子が似ていない。血のつながっていない俳優たちが親子を演ずるのだから当然である(もちろん本物の親子が舞台で共演することはあるだろうが)。観客は、「似ていない親子」を前にして、それが本物の家族であるかのように想像する。そしてそれが容易に行えるとき、血のつながりとは異なる理由でも家族を構成することができる、その潜在的可能性を意識することになる。血のつながらない(filiationではない)家族、養子縁組的関係(affiliation関係)の発生。
これに対し、仲の良い、そして血のつながった家族であっても、その家族の構成員を血のつながっていない俳優たちが演ずるとき、そこに、家族が、親であれ子供であれ、「個」であることが、おのずと浮かび上がることもある。
親密な血縁関係が、実は、個の集合、個に分裂する可能性を秘めていることへの驚きと不安。俳優によって形成される似ていない親子関係も、観客の想像力のなかでは、類似性なり絆で結ばれた親密な親子関係となる。逆に、似ていない親子の、似ていなことを想像力のなかで解消するのではなく、むしろ積極的に受け止めると、家族が異なる「個」の集合でもあることが見えてくる。
家族とは、ほんとうは別々の人間の、すなわち個人の、集合であり、血のつながりなどというものは、本来、別個であるものをひとつにつなぎ止める仮構の連続体であって、家族などは、ばらばらな構成員をひとつにまとめる共同幻想にすぎない。
また、家族の構成員が、本来「個」でしかないとすれば、彼らが「個性」を身につけることで、必然的に次のステップが招来されることになる。共同幻想にすぎない家族は、子供の成長とともにほころびがみえはじめる。子供たちは家族から独立しようとする。家族は最後にはばらばらになることを運命づけられているのである。
夫婦であれ子どもたちであれ、彼らが個であるということは、演劇的観点による比喩的転換をおこなえば、彼ら、それぞれに「見せ場」が用意されるということである。個である以上は、強権的な家父長によって発言を禁じられるということはない。「個」である以上お、ひとりで舞台を支える語りがあり、自らの人生の自己決定と、それがもたらす親や兄弟姉妹たちとの軋轢を舞台に実現する激しい口論や時には暴力的衝突がなければならない。
「個」であるとは、家族の他のメンバーとは相容れない闘争的自己主張が保証されているということである。それはまた家族のひとりひとりが、ヒーローとなり、ヒロインとなることを保証されているということである。もはや端役は存在しない。全員が主役なのである。もちろん、誰が主役になるのかは、誰に光が当てられるかは、物語の進行とともに、順次、決められていくとしても。
家族は、劇場である。主役と端役の関係がなく、全員が主役の。全員が主役である以上、葛藤もまた容易におさまることはない。激突が常に発生する。
また家族物語は、親の世代と子どもの世代という二つの世代の激突でもある。観客もまたオールダー世代と、ヤンガー世代のふたつに分離する。しかし、両世代に受ける要素があるのなら、幅広い観客に受けるということでもあり、またそれは観客獲得にも貢献するということだろう。
家族物語の舞台において、真の父親あるいは母親は、舞台上の父親や母親役の俳優ではなく、演出家の男性であり女性のことである。両親のごとき演出家は抑圧するのではなく生産する役割を担う。つまり子どもたち=アクターたちから、優れた演技を引き出すことに全力を傾注するからである。もちろん演出家のなかには、自身の演出プランを強要して、アクターの独自性や個性を顧みることのない者たちもいるだろう。しかし、たとえそうであっても、演出家自身のプランを実現するためには、個々のアクターの演技を経由することはなんとしても必要であり、演出家は演技者の好きなようにやらせることもまた、その仕事のひとつと考えるだろう。そしてよき両親は、子ども可能性を開花させ子どもの自己実現の手助けをするというのであれば、それはまた演技者たちと演出家の関係にもあてはまる。
家庭と劇場は、パラレルワールド、あるいはマルチヴァースを形成する。今回のアンドリュー・ボーヴェル作の演劇作品において、両親と4名の子どもたちの関係について、誰もが見せ場をもっているという演劇的観点からの家族物語の評価が適切だとするのなら、それはまた、家族物語と演劇活動・舞台生成とのつながりの証左ともなる。
とまれ、今回の作品は、演劇作りをめぐるメタドラマでもなんでもないのだが、しかし、家族の物語が、演劇作りと似たプロセスになるとか、家族物語の面白さが、演劇的観点からも記述できるということを、今回、認識することになった。もちろんこうした認識には、原作者のボーヴェルの台本のよさが関係しているし、演出家の荒井氏、そして俳優の力強い演技が大いに寄与していることは言うまでもないのだが。
*
優れた英語圏作品を翻訳劇として上演されている荒井遼氏のこれまでの試みについては、いつも頭の下がる思いをしてきた。なにしろ、そうした試みは、興奮と感動を伴う演劇体験をずっと私たちにもたしてくれたのだから。また、オーストラリアの演劇については無知な私にとって、アンドリュー・ボーヴェルを紹介する今回の公演は、とてもありがたかった。ボーヴェルの戯曲を集中的に読んでみようと思い、原書をいくつか手に入れた。
ちなみにアンドリュー・ボーヴェルは映画の脚本も多く書いていて、ボーヴェルの脚本と知らずに観ている映画もけっこう多いのではないかと思った。そうしたなかのひとつにメル・ギブソン主演、マーティン・キャンベル監督の『復讐捜査線Edge of Darkness』(2011)がある。父親であり刑事であるメル・ギブソンのマッチョな捜査・復讐物かと思いきや、というかそうした要素があるのはまちがいないが、それ以外にも常套的展開を外れる要素があり、通常のジャンル作品とはひと味異なる作品であることに私は興味をそそられた(このブログでも、この作品に触れたことがある)。この作品に対する、おそらく、よい意味での違和感は、ボーヴェルが脚本に参加していたからだろうと、今となってはわかるような気がする。
これだけは言っておきたかった。そして当日券がまだあるのなら、この作品は、ぜひとも観ておくべき演劇作品である。とにかく強く推薦しておきたい。おわり
そもそも現実の家族とは異なり、舞台の家族は親子が似ていない。血のつながっていない俳優たちが親子を演ずるのだから当然である(もちろん本物の親子が舞台で共演することはあるだろうが)。観客は、「似ていない親子」を前にして、それが本物の家族であるかのように想像する。そしてそれが容易に行えるとき、血のつながりとは異なる理由でも家族を構成することができる、その潜在的可能性を意識することになる。血のつながらない(filiationではない)家族、養子縁組的関係(affiliation関係)の発生。
これに対し、仲の良い、そして血のつながった家族であっても、その家族の構成員を血のつながっていない俳優たちが演ずるとき、そこに、家族が、親であれ子供であれ、「個」であることが、おのずと浮かび上がることもある。
親密な血縁関係が、実は、個の集合、個に分裂する可能性を秘めていることへの驚きと不安。俳優によって形成される似ていない親子関係も、観客の想像力のなかでは、類似性なり絆で結ばれた親密な親子関係となる。逆に、似ていない親子の、似ていなことを想像力のなかで解消するのではなく、むしろ積極的に受け止めると、家族が異なる「個」の集合でもあることが見えてくる。
家族とは、ほんとうは別々の人間の、すなわち個人の、集合であり、血のつながりなどというものは、本来、別個であるものをひとつにつなぎ止める仮構の連続体であって、家族などは、ばらばらな構成員をひとつにまとめる共同幻想にすぎない。
また、家族の構成員が、本来「個」でしかないとすれば、彼らが「個性」を身につけることで、必然的に次のステップが招来されることになる。共同幻想にすぎない家族は、子供の成長とともにほころびがみえはじめる。子供たちは家族から独立しようとする。家族は最後にはばらばらになることを運命づけられているのである。
夫婦であれ子どもたちであれ、彼らが個であるということは、演劇的観点による比喩的転換をおこなえば、彼ら、それぞれに「見せ場」が用意されるということである。個である以上は、強権的な家父長によって発言を禁じられるということはない。「個」である以上お、ひとりで舞台を支える語りがあり、自らの人生の自己決定と、それがもたらす親や兄弟姉妹たちとの軋轢を舞台に実現する激しい口論や時には暴力的衝突がなければならない。
「個」であるとは、家族の他のメンバーとは相容れない闘争的自己主張が保証されているということである。それはまた家族のひとりひとりが、ヒーローとなり、ヒロインとなることを保証されているということである。もはや端役は存在しない。全員が主役なのである。もちろん、誰が主役になるのかは、誰に光が当てられるかは、物語の進行とともに、順次、決められていくとしても。
家族は、劇場である。主役と端役の関係がなく、全員が主役の。全員が主役である以上、葛藤もまた容易におさまることはない。激突が常に発生する。
また家族物語は、親の世代と子どもの世代という二つの世代の激突でもある。観客もまたオールダー世代と、ヤンガー世代のふたつに分離する。しかし、両世代に受ける要素があるのなら、幅広い観客に受けるということでもあり、またそれは観客獲得にも貢献するということだろう。
家族物語の舞台において、真の父親あるいは母親は、舞台上の父親や母親役の俳優ではなく、演出家の男性であり女性のことである。両親のごとき演出家は抑圧するのではなく生産する役割を担う。つまり子どもたち=アクターたちから、優れた演技を引き出すことに全力を傾注するからである。もちろん演出家のなかには、自身の演出プランを強要して、アクターの独自性や個性を顧みることのない者たちもいるだろう。しかし、たとえそうであっても、演出家自身のプランを実現するためには、個々のアクターの演技を経由することはなんとしても必要であり、演出家は演技者の好きなようにやらせることもまた、その仕事のひとつと考えるだろう。そしてよき両親は、子ども可能性を開花させ子どもの自己実現の手助けをするというのであれば、それはまた演技者たちと演出家の関係にもあてはまる。
家庭と劇場は、パラレルワールド、あるいはマルチヴァースを形成する。今回のアンドリュー・ボーヴェル作の演劇作品において、両親と4名の子どもたちの関係について、誰もが見せ場をもっているという演劇的観点からの家族物語の評価が適切だとするのなら、それはまた、家族物語と演劇活動・舞台生成とのつながりの証左ともなる。
とまれ、今回の作品は、演劇作りをめぐるメタドラマでもなんでもないのだが、しかし、家族の物語が、演劇作りと似たプロセスになるとか、家族物語の面白さが、演劇的観点からも記述できるということを、今回、認識することになった。もちろんこうした認識には、原作者のボーヴェルの台本のよさが関係しているし、演出家の荒井氏、そして俳優の力強い演技が大いに寄与していることは言うまでもないのだが。
*
優れた英語圏作品を翻訳劇として上演されている荒井遼氏のこれまでの試みについては、いつも頭の下がる思いをしてきた。なにしろ、そうした試みは、興奮と感動を伴う演劇体験をずっと私たちにもたしてくれたのだから。また、オーストラリアの演劇については無知な私にとって、アンドリュー・ボーヴェルを紹介する今回の公演は、とてもありがたかった。ボーヴェルの戯曲を集中的に読んでみようと思い、原書をいくつか手に入れた。
ちなみにアンドリュー・ボーヴェルは映画の脚本も多く書いていて、ボーヴェルの脚本と知らずに観ている映画もけっこう多いのではないかと思った。そうしたなかのひとつにメル・ギブソン主演、マーティン・キャンベル監督の『復讐捜査線Edge of Darkness』(2011)がある。父親であり刑事であるメル・ギブソンのマッチョな捜査・復讐物かと思いきや、というかそうした要素があるのはまちがいないが、それ以外にも常套的展開を外れる要素があり、通常のジャンル作品とはひと味異なる作品であることに私は興味をそそられた(このブログでも、この作品に触れたことがある)。この作品に対する、おそらく、よい意味での違和感は、ボーヴェルが脚本に参加していたからだろうと、今となってはわかるような気がする。
これだけは言っておきたかった。そして当日券がまだあるのなら、この作品は、ぜひとも観ておくべき演劇作品である。とにかく強く推薦しておきたい。おわり
posted by ohashi at 01:29| 演劇
|

2023年07月05日
『これだけはわかっている』
Andrew Bovell, Things I Know to be True (2016)が、東京芸術劇場シアター・ウェストで7月9日まで公演中。
出演(役柄の年齢順)は、栗原英雄(ボブ:父63歳)、南果歩(フラン:母57歳)、山下リオ(ヒップ:長女34歳)、市川知宏(マーク:長男32歳)、入江甚儀(ベン:次男28歳);山口まゆ(ロージー:末娘19歳)の合計6名。現在の日本で望みうる最高のキャストといっても過言ではない。
【栗原英雄、南果歩 以外、誰も知らないというなかれ。残り4名は、実力派の若手だし、顔を見れば、誰もが、テレビで観たことがあると思いあたるはずである。】
そして広田敦郎氏による翻訳と、荒井遼氏による演出とくれば、翻訳劇の上演としては失敗しようがないと、わかるだろう。私たち観客は、不安や心配から解放され、高い期待のみを私たちは抱くことになる。
実際、舞台は、予想をはるかに上回る舞台となって、観客に、両親と4人の子供たちの家族の強い絆を生々しく実感させるいっぽうで、その絆を断ち切って旅立ってゆく子供たちの姿を見届けさせることになる。
これだけは言いたい。この劇の唯一の欠点は、おそらく『これだけはわかっている』というタイトルであろう。原題も同じようにぱっとしなくて、それを日本語に置き換えたら、こういうことにしかならないというのは、わからないでもないが、この劇の魅力を、充分に伝えきれていないという点が残念でならない。
もちろんタイトルに関係なく、とにかく素晴らしい舞台なので、当日券があれば、いまからでも遅くない。観るべき作品である。つづく
出演(役柄の年齢順)は、栗原英雄(ボブ:父63歳)、南果歩(フラン:母57歳)、山下リオ(ヒップ:長女34歳)、市川知宏(マーク:長男32歳)、入江甚儀(ベン:次男28歳);山口まゆ(ロージー:末娘19歳)の合計6名。現在の日本で望みうる最高のキャストといっても過言ではない。
【栗原英雄、南果歩 以外、誰も知らないというなかれ。残り4名は、実力派の若手だし、顔を見れば、誰もが、テレビで観たことがあると思いあたるはずである。】
そして広田敦郎氏による翻訳と、荒井遼氏による演出とくれば、翻訳劇の上演としては失敗しようがないと、わかるだろう。私たち観客は、不安や心配から解放され、高い期待のみを私たちは抱くことになる。
実際、舞台は、予想をはるかに上回る舞台となって、観客に、両親と4人の子供たちの家族の強い絆を生々しく実感させるいっぽうで、その絆を断ち切って旅立ってゆく子供たちの姿を見届けさせることになる。
これだけは言いたい。この劇の唯一の欠点は、おそらく『これだけはわかっている』というタイトルであろう。原題も同じようにぱっとしなくて、それを日本語に置き換えたら、こういうことにしかならないというのは、わからないでもないが、この劇の魅力を、充分に伝えきれていないという点が残念でならない。
もちろんタイトルに関係なく、とにかく素晴らしい舞台なので、当日券があれば、いまからでも遅くない。観るべき作品である。つづく
posted by ohashi at 02:47| 演劇
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2023年07月01日
『ある馬の物語』
トルストイ原作『ホルストメール――ある馬の物語』のロシア版舞台化の翻訳をもとに、独自の演出なり音楽を加え、「音楽劇」と銘打った『ある馬の物語』を世田谷パブリックシアターでみた。
自腹でチケットを購入(わざわざこんなことを書く必要もないのだが)、あまりよい席ではなかったものの、興味深い作品だったので、とにかく劇場に足を運んだ。そして驚いた。
舞台と客席のフロアとの段差がなくなっていて、しかもA~F列までの席がすべて取り払われていた。G列が最前列の席だった。となると私のチケットは、そんなに悪い席ではなくなって、最前列ではないが、最前列に近いよい席となった。
なお、上演後のトークショーもあったので、それを見届けた。
白井晃演出には数々の工夫が凝らされ、また演者たちの力演も手伝って、迫力のある力強い舞台となっていて、しかも時として喜劇的/スラップスティック的であったり、また時として残酷極まりなかったりと、多様かつ多彩な変幻自在のパフォーマンスは、観客にも深い感銘をあたえたことがみてとれた。端的にいって、観客に受けていた。
最初から最後まで、舞台には工事現場を思わせるような、あるいは大きな倉庫内の棚を思わせるような枠組みが鎮座しているのだが、いかにも白井晃好みの舞台装置も――時として、その抽象的というよりも、むしろ無機質な日常的な装置が反発を受けるこもあるのだが――今回に限っては女性観客にも好意的に受け止められているように思われた。
だから、満足度の高い、優れた舞台であることは誰もが保証できると思う。このことを確認して観劇のコメントを終えてしまうことができれば、どんなによかったことか!
というのも上演後のアフタートークを聴いた限りでは、プロデュース、演出、演者の意識の低さに驚いた。こんなになにも考えないで、あるいは肝心なことを考えずに、よくもまあ上演できたものだと思った。ただし、舞台そのものは、すぐれた舞台なので、自信をもって推薦できるし、関係者がどんなことを考えているか、あるいは考えていないかは、上演そのものには全くといっていいほど影響を与えていないので、あえて口をつぐんでいてもいいのだが、やはり一言述べておきたい。
*
トルストイの『ホルストメール――ある馬の物語』は、アニマル・スタディーズの動物文学篇においては必須文献のひとつで、私も、いまから5年以上いや10年前くらいに読んでみた。とはいえ日本語の翻訳はあるのだろうけれども、見つからなくて、英語訳を読むことにした。そのため日本語の翻訳版探しは英語訳を読んだ時点で終わりにした。ひょっとして文庫本に入っているかもしれず、そのときは、ただ恥ずかしいばかりである。
英語訳はStriderという。大股で飛ぶように走る馬という意味である。短編ではないが、長編というには短すぎる中編といったところか。英語訳を読んでみて抱いた感想としては:
1) 貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)である。
主人公のストライダーは、高貴な血脈に生まれ、その血統にふさわしいサラブレッドとしての資質を受け継ぎながらも、その毛並みがまだら模様であるがゆえに忌み嫌われ不遇の境遇に置かれていることから。
ホルストメール/ストライダーが本物の貴種であることは、競馬場での飛び入り出場での優勝が物語っている。もちろんその栄光は一瞬で、次に転落と契機となる出来事がつづくのだが。
2)異化効果
恥ずかしながら今回はじめて知ったのだが、シクロフスキーが異化概念を語るとき、例として挙げていたのが、このトルストイの『ホルストメール』だった。馬の視点から人間界の不条理を暴くということなので。
ウィリアム・エンプソンは『牧歌の諸変奏』のなかで、単純なもので複雑なものをするのが牧歌ならびに牧歌的ジャンルの特徴であると説いた。エンプソンのいう牧歌は、ひろく諷刺文学批判を指すものだが、子供の視点でみられた大人の世界、馬の視点でみられた人間の世界、田舎者の視点でみられた都会人の世界――すべてこれ諷刺性を発動させる異化の仕掛けそのものである。トルストイの『ホルストメール』における動物の視点からの諷刺・批判はかなり過激である。
ホルストメールが批判するのは、人間や動物を「所有物、財産」とみることの不条理である。この批判性は、トルストイの思想の根幹にあるものだが、これはまた共産主義思想の根幹でもある。共産主義をプーチンの独裁、習近平の中国共産党の覇権主義とみなすような(その見方は間違いないのだが)昨今の世界の若者たち、あるいは日本のZ(ゾンビ)世代の若者たちには想像すらできないことだろうが、所有物、所有概念の否定が社会を変革しユートピアを実現すると考えるのが、本来の共産主義である。ちなみにロシアで大富豪でもないのに莫大な私有財産をもっているプーチンは、本来なら共産主義の敵であるはずなのに、共産主義国家の指導者として君臨するという歴史の皮肉が解消される日はくるのだろうか。
馬による人間世界への諷刺ということで思い出すのは『ガリヴァー旅行記』の第4部フウイヌム編である。そしてトルストイの『ホルストメール』は、ロシア版あるいはトルストイ版『ガリヴァー旅行記 フウイヌム渡航記』である。
【放送大学の教材で『ガリヴァー旅行記』(とくに第3部と第4部を中心とした)を扱ったのだが、そのときフウイヌム国渡航記と似たような動物寓話や動物物語の一例としてトルストイの『ホルストメール』を掲げようと思ったのだが、あいにく翻訳が簡単に手に入らないこともあってあきらめた。】
3)晩年のスタイル
トルストイの『ホルストメール』のなかにあった言葉かどうか定かではないのだが、その演劇版のコロスでは明確に聞き取れるセリフとして、いろいろな晩年のありようを列挙するものがある。
そもそも『ホルストメール』で最初に読者の前に登場するのは、ホルストメールと呼ばれているが、その名におよそふさわしくない、老齢の薄汚れた馬なのである。だが、その老齢の馬には、過去の輝かしい歴史があった。その馬が自分語りを始めると、他の馬たちも集まって耳を傾ける。読んでいると読者の脳裏に彼が生まれたばかりの頃、そしてまだら模様が差別されつつも、生気にあふれた若かりし頃のりりしい姿が浮かんでくる。
晩年とは、老残の身をさらしつつも、その魂のみずみずしさは失われていない二重性にあるとトルストイの原作にあったような気がする。若々しくも耄碌しているという矛盾と二重性こそ、サイードが『晩年のスタイル』で述べたような、老熟や円熟とは程遠い、老いることのない晩年性であった。
そもそもサラブレットでありながら、毛並みがぶちでまだらであるがゆえに、競走馬としての高貴さや優秀さを認められることなく苦難の生涯を送るホルストメールは、生まれたときから晩年のスタイルを生きている。
サイード的晩年のスタイル、Late Styleとは、時期的に遅いということだけでなく、遅れている、ずれているということ、空間的比喩に転換すると、場違い(out of place)、エグザイルであるということである。毛並みがぶちであることによってホルストメールは、異物、よそ者などのイメージがつきまとう。彼は生まれた時から晩年のスタイルを生きたエグザイルであったのである。
小説から戯曲へ
トルストイの『ホルストメール』出版されてまもなく戯曲化された。今回の公演も、その戯曲化作品に基づいている。
だが、それが不思議なのである。そもそも馬が語ったりする小説が、戯曲になりやすいわけがない。
たとえば最近まで上演されていた太宰治の『新ハムレット』は、シェイクスピアの『ハムレット』をもとに太宰が自由な脚色を加えた作品だが、対話形式で書かれているために、そのまま戯曲の台本として舞台化もしやすいし、実際、舞台化の試みは何度もあったようだ。
ただし対話篇からなる作品だからといって、そのまま演劇化できるかというと、そうでもない。かなりの困難を伴うことがわかるのだが、ただ、それにしても『ホルストメール』は最初から戯曲化はむつかしいと思われる――馬が主人公というだけではない、老いた馬が若いころの思い出を語るという二重構造も、おそらく面倒なことになるだろう。だが、それでも戯曲化されてきた。
英米圏では、この小説の戯曲版(ただしロシア版に基づくものかどうかは不明)が学校演劇作品として上演されてきたとの情報もある。もしそうなら動物が主役となるので、子供向け、学校教育用としての評価がなされ、実際の舞台化に伴う困難を乗り越えることになったのだろうか。
と同時に、出版直後から戯曲化されたこの作品は、小説というよりも演劇として知られているといってもいいかもしれない。『ホルストメール』は伝統芸に属するものであることを、今回初めて知った。それがある意味、私にとって落胆の原因ともなった。
というのも人間が動物の所作をまねるこの音楽劇は、ミュージカル『ライオンキング』とは異なる。後者が、動物しか登場しないアニマル・キングダムの物語であるとすれば(もちろん、その下敷きにあるのはシェイクスピアの『ハムレット』だが)、『ホルストメール』は、人間と馬とのかかわりを描くという点で、動物寓話ではなく動物物語であり、21世紀になって盛んになったアニマル・スタディーズの知見に寄与する重要な作品ともいえるのである。
事実、冒頭で述べたように、私はアニマル・スタディーズを通して、この作品について初めて知った。アニマル・スタディーズの文学部門において、トルストイの『ホレストメール』は、必読文献であり古典中の古典なのである。そして今、『ホルストメール』を上演するというのは、動物と人間との関係が問い直されている21世紀の文化的潮流に掉さすものだと、むしろ感激もしていたのだが、どうやらそうではないらしい。
上演はコロナ禍が始まる以前に計画されていたようだし、この作品は、日本でも何度も上演されていた。しかもロシアの劇団が日本で上演したこもある。どうやら、『ホルストメール』は、演劇作品のなかでは異色だが同時に定番商品のように伝統的に継続して上演されつづけてきた。ある意味、今回の上演は古典作品のひとつを舞台に載せたというにすぎず、文化的社会的出来事ではなかったのだ。アニマル・スタディーズとは関係なかったのだ。
ただ、今回の上演をみて感動もしまた満足もしたであろう観客の立場からみれば、そこにアニマル・スタディーズと同様な問題意識と意識的覚醒がみられることは確かなので(台本のすばらしさゆえに――演者や演出家の卓越した努力も加味されていることはいわずもがなだが)、動物と人間の運命をこの劇を通して感じとることは決してむつかしくない。
つづく
自腹でチケットを購入(わざわざこんなことを書く必要もないのだが)、あまりよい席ではなかったものの、興味深い作品だったので、とにかく劇場に足を運んだ。そして驚いた。
舞台と客席のフロアとの段差がなくなっていて、しかもA~F列までの席がすべて取り払われていた。G列が最前列の席だった。となると私のチケットは、そんなに悪い席ではなくなって、最前列ではないが、最前列に近いよい席となった。
なお、上演後のトークショーもあったので、それを見届けた。
白井晃演出には数々の工夫が凝らされ、また演者たちの力演も手伝って、迫力のある力強い舞台となっていて、しかも時として喜劇的/スラップスティック的であったり、また時として残酷極まりなかったりと、多様かつ多彩な変幻自在のパフォーマンスは、観客にも深い感銘をあたえたことがみてとれた。端的にいって、観客に受けていた。
最初から最後まで、舞台には工事現場を思わせるような、あるいは大きな倉庫内の棚を思わせるような枠組みが鎮座しているのだが、いかにも白井晃好みの舞台装置も――時として、その抽象的というよりも、むしろ無機質な日常的な装置が反発を受けるこもあるのだが――今回に限っては女性観客にも好意的に受け止められているように思われた。
だから、満足度の高い、優れた舞台であることは誰もが保証できると思う。このことを確認して観劇のコメントを終えてしまうことができれば、どんなによかったことか!
というのも上演後のアフタートークを聴いた限りでは、プロデュース、演出、演者の意識の低さに驚いた。こんなになにも考えないで、あるいは肝心なことを考えずに、よくもまあ上演できたものだと思った。ただし、舞台そのものは、すぐれた舞台なので、自信をもって推薦できるし、関係者がどんなことを考えているか、あるいは考えていないかは、上演そのものには全くといっていいほど影響を与えていないので、あえて口をつぐんでいてもいいのだが、やはり一言述べておきたい。
*
トルストイの『ホルストメール――ある馬の物語』は、アニマル・スタディーズの動物文学篇においては必須文献のひとつで、私も、いまから5年以上いや10年前くらいに読んでみた。とはいえ日本語の翻訳はあるのだろうけれども、見つからなくて、英語訳を読むことにした。そのため日本語の翻訳版探しは英語訳を読んだ時点で終わりにした。ひょっとして文庫本に入っているかもしれず、そのときは、ただ恥ずかしいばかりである。
英語訳はStriderという。大股で飛ぶように走る馬という意味である。短編ではないが、長編というには短すぎる中編といったところか。英語訳を読んでみて抱いた感想としては:
1) 貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)である。
主人公のストライダーは、高貴な血脈に生まれ、その血統にふさわしいサラブレッドとしての資質を受け継ぎながらも、その毛並みがまだら模様であるがゆえに忌み嫌われ不遇の境遇に置かれていることから。
ホルストメール/ストライダーが本物の貴種であることは、競馬場での飛び入り出場での優勝が物語っている。もちろんその栄光は一瞬で、次に転落と契機となる出来事がつづくのだが。
2)異化効果
恥ずかしながら今回はじめて知ったのだが、シクロフスキーが異化概念を語るとき、例として挙げていたのが、このトルストイの『ホルストメール』だった。馬の視点から人間界の不条理を暴くということなので。
ウィリアム・エンプソンは『牧歌の諸変奏』のなかで、単純なもので複雑なものをするのが牧歌ならびに牧歌的ジャンルの特徴であると説いた。エンプソンのいう牧歌は、ひろく諷刺文学批判を指すものだが、子供の視点でみられた大人の世界、馬の視点でみられた人間の世界、田舎者の視点でみられた都会人の世界――すべてこれ諷刺性を発動させる異化の仕掛けそのものである。トルストイの『ホルストメール』における動物の視点からの諷刺・批判はかなり過激である。
ホルストメールが批判するのは、人間や動物を「所有物、財産」とみることの不条理である。この批判性は、トルストイの思想の根幹にあるものだが、これはまた共産主義思想の根幹でもある。共産主義をプーチンの独裁、習近平の中国共産党の覇権主義とみなすような(その見方は間違いないのだが)昨今の世界の若者たち、あるいは日本のZ(ゾンビ)世代の若者たちには想像すらできないことだろうが、所有物、所有概念の否定が社会を変革しユートピアを実現すると考えるのが、本来の共産主義である。ちなみにロシアで大富豪でもないのに莫大な私有財産をもっているプーチンは、本来なら共産主義の敵であるはずなのに、共産主義国家の指導者として君臨するという歴史の皮肉が解消される日はくるのだろうか。
馬による人間世界への諷刺ということで思い出すのは『ガリヴァー旅行記』の第4部フウイヌム編である。そしてトルストイの『ホルストメール』は、ロシア版あるいはトルストイ版『ガリヴァー旅行記 フウイヌム渡航記』である。
【放送大学の教材で『ガリヴァー旅行記』(とくに第3部と第4部を中心とした)を扱ったのだが、そのときフウイヌム国渡航記と似たような動物寓話や動物物語の一例としてトルストイの『ホルストメール』を掲げようと思ったのだが、あいにく翻訳が簡単に手に入らないこともあってあきらめた。】
3)晩年のスタイル
トルストイの『ホルストメール』のなかにあった言葉かどうか定かではないのだが、その演劇版のコロスでは明確に聞き取れるセリフとして、いろいろな晩年のありようを列挙するものがある。
そもそも『ホルストメール』で最初に読者の前に登場するのは、ホルストメールと呼ばれているが、その名におよそふさわしくない、老齢の薄汚れた馬なのである。だが、その老齢の馬には、過去の輝かしい歴史があった。その馬が自分語りを始めると、他の馬たちも集まって耳を傾ける。読んでいると読者の脳裏に彼が生まれたばかりの頃、そしてまだら模様が差別されつつも、生気にあふれた若かりし頃のりりしい姿が浮かんでくる。
晩年とは、老残の身をさらしつつも、その魂のみずみずしさは失われていない二重性にあるとトルストイの原作にあったような気がする。若々しくも耄碌しているという矛盾と二重性こそ、サイードが『晩年のスタイル』で述べたような、老熟や円熟とは程遠い、老いることのない晩年性であった。
そもそもサラブレットでありながら、毛並みがぶちでまだらであるがゆえに、競走馬としての高貴さや優秀さを認められることなく苦難の生涯を送るホルストメールは、生まれたときから晩年のスタイルを生きている。
サイード的晩年のスタイル、Late Styleとは、時期的に遅いということだけでなく、遅れている、ずれているということ、空間的比喩に転換すると、場違い(out of place)、エグザイルであるということである。毛並みがぶちであることによってホルストメールは、異物、よそ者などのイメージがつきまとう。彼は生まれた時から晩年のスタイルを生きたエグザイルであったのである。
小説から戯曲へ
トルストイの『ホルストメール』出版されてまもなく戯曲化された。今回の公演も、その戯曲化作品に基づいている。
だが、それが不思議なのである。そもそも馬が語ったりする小説が、戯曲になりやすいわけがない。
たとえば最近まで上演されていた太宰治の『新ハムレット』は、シェイクスピアの『ハムレット』をもとに太宰が自由な脚色を加えた作品だが、対話形式で書かれているために、そのまま戯曲の台本として舞台化もしやすいし、実際、舞台化の試みは何度もあったようだ。
ただし対話篇からなる作品だからといって、そのまま演劇化できるかというと、そうでもない。かなりの困難を伴うことがわかるのだが、ただ、それにしても『ホルストメール』は最初から戯曲化はむつかしいと思われる――馬が主人公というだけではない、老いた馬が若いころの思い出を語るという二重構造も、おそらく面倒なことになるだろう。だが、それでも戯曲化されてきた。
英米圏では、この小説の戯曲版(ただしロシア版に基づくものかどうかは不明)が学校演劇作品として上演されてきたとの情報もある。もしそうなら動物が主役となるので、子供向け、学校教育用としての評価がなされ、実際の舞台化に伴う困難を乗り越えることになったのだろうか。
と同時に、出版直後から戯曲化されたこの作品は、小説というよりも演劇として知られているといってもいいかもしれない。『ホルストメール』は伝統芸に属するものであることを、今回初めて知った。それがある意味、私にとって落胆の原因ともなった。
というのも人間が動物の所作をまねるこの音楽劇は、ミュージカル『ライオンキング』とは異なる。後者が、動物しか登場しないアニマル・キングダムの物語であるとすれば(もちろん、その下敷きにあるのはシェイクスピアの『ハムレット』だが)、『ホルストメール』は、人間と馬とのかかわりを描くという点で、動物寓話ではなく動物物語であり、21世紀になって盛んになったアニマル・スタディーズの知見に寄与する重要な作品ともいえるのである。
事実、冒頭で述べたように、私はアニマル・スタディーズを通して、この作品について初めて知った。アニマル・スタディーズの文学部門において、トルストイの『ホレストメール』は、必読文献であり古典中の古典なのである。そして今、『ホルストメール』を上演するというのは、動物と人間との関係が問い直されている21世紀の文化的潮流に掉さすものだと、むしろ感激もしていたのだが、どうやらそうではないらしい。
上演はコロナ禍が始まる以前に計画されていたようだし、この作品は、日本でも何度も上演されていた。しかもロシアの劇団が日本で上演したこもある。どうやら、『ホルストメール』は、演劇作品のなかでは異色だが同時に定番商品のように伝統的に継続して上演されつづけてきた。ある意味、今回の上演は古典作品のひとつを舞台に載せたというにすぎず、文化的社会的出来事ではなかったのだ。アニマル・スタディーズとは関係なかったのだ。
ただ、今回の上演をみて感動もしまた満足もしたであろう観客の立場からみれば、そこにアニマル・スタディーズと同様な問題意識と意識的覚醒がみられることは確かなので(台本のすばらしさゆえに――演者や演出家の卓越した努力も加味されていることはいわずもがなだが)、動物と人間の運命をこの劇を通して感じとることは決してむつかしくない。
つづく
posted by ohashi at 21:07| 演劇
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