ヨーロッパ企画の芝居を、KAATでたまたま観る機会があって、それ以後、公演の度に出かけていた。コロナ禍で私の観劇体験は途絶えるのだが(基礎疾患のある老人には感染は怖いので)、昨年『あんなに優しかったゴーレム』を、再演だが、私にとっては初めての作品でもあったので、劇場(池袋のアウルスポット)で観てから、またヨーロッパ企画の舞台を追いかけたい気持ちにとらわれた。今年は9月以降に全国を回るようなのだが、それまでは配信とか、集めたDVDを見直すしかないと思っていたら、映画『リバー、流れないで』が6月23日に公開された。ただし東京では下北沢トリウッドと、TOHOシネマズ池袋の2館のみ(その後 TOHOシネマズ日比谷も)。公開館をもっとふやしたらいいのにと思う。面白い映画なので、絶対に多くの観客に受けると思うので。
2分間のタイムループは、いかにもヨーロッパ企画の舞台にふさわしい設定といえよう。ドタバタもあればほろりとさせられたり、形而上的思索があったりと、いろいろな要素で私たちを楽しませたり刺激したりと、この設定からは予想できなかったほど、いろいろなことができる。
また2分間のタイムループというのはループ物のとしては最短のループ時間である。リチャード・R・スミスの短編「退屈の檻」(大森望編『revisions 時間SFアンソロジー』 (ハヤカワ文庫 2018)所収)は10分間のタイムループで、これがこれまで最短のループかと思っていたら、今回『リバー』では2分間という超最短ループを実現している。2分間で何ができると思っていたら、いろいろなことができる。デートも逃避行もできる。映画は2分間のループを2分間のワンカットで展開し、気づくと、リアルタイムの作品となっている。2時間をゆうにきる映画だが、ループがつづくあいだは、完全にリアルタイム展開となる。
となると通常の舞台をみているのと同じ感覚が味わえるといいたいところだが、映画をみればわかるのだが、これは舞台ではできない、まさに映画ならではの設定であり物語展開である。舞台では役者のカラダがもたないことは、この映画をみればわかることと思う。
またこの映画の特徴は、時間はループしても、登場人物全員が、ループしていることを認識していることである。2分たてば、リセットされてしまうのだが、しかし、登場人物は毎回のターン(と映画のなかでは呼んでいる)の記憶がある。つまり登場人物の頭のなかはリセットされないのである。
リアルタイムのタイムループ物。この点はどんなに強調しても強調しきれない。たとえばタイム・ループ物で、昨年公開されて、けっこう長くいろいろな映画館で上映されていた『Mondays/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』(2022竹林亮監督)ではループは一週間。事務所勤めの会社員の話で、月曜日になるとすべてリセットされてしまい、記憶もリセットされてしまう。そのためタイムループしていることにどうやって気づくか、またその記憶をどうやって保持するのか、一週間で学んだこと、得た知識もリセットされてなくなってしまうのをどうした止められるのか……。そこには、途方もない困難がたちはだかっていた。
一方、これも昨年公開された『カラダ探し』(2022羽住英一郎監督、なお原作小説、漫画、アニメは参照していない)では、1日のタイムループ(ただし殺された時点でリセットされるので正確に1日かどうかわからないが)で、高校生の男女は、前日以前の記憶をもっている。またバラバラになった死体の部位を集めて死体を復元することで、ループから抜け出せるという設定なのだが、集めた死体の部位は、時間のリセットによる効果から免れている。つまり部位を集めて完成しつつある死体そのものがリセットされることはない。この設定はタイムループ物にあってはならない設定かと思ったのだが、『リバー』も、リセットされるものと、されないものがあるので、まあOKか。
ただ、いずれにせよ、たとえば一日でループというよくある設定でも、その一日ははしょって示すほかはない。24時間の映画をつくるのならべつとしても。つまり一日のループの場合、観客に示されるのは一日のダイジェストである。しかも回がすすむにつれて、同じ一日の反復なので、次に何が起こるか暗記できてしまえるくらいになって、ダイジェストがどんどんおざなりに、あるいは短くなる。ところが2分間のループの場合は、ダイジェストではなくリアルタイムのループとなって、そこの省略がなくなり、貴重な短い時間を、一刻もおざなりにせずに、どう使うのかという緊迫感にみちたが2分間の連続となる。
そこが2分間ループによってはじめて実現できた細部の新鮮な際立ちとなる。そしてその2分間の牢獄からどうやって抜け出せるかという緊迫感と、同時に、その2分間のなかに逃避したいという人間の切実な願望とが映画のなかでせめぎ合う。タイムループ物の新たな傑作が登場したといえよう。
追記:地名としての「貴船」は「きふね」ではなく「きぶね」と発音することをはじめて知った。ただし「貴船神社」は、「きふねじんじゃ」と読むらしい。とはいえ以前、京都在住の知人(京都出身ではない)は、「夏の貴船の川床」がどうのこうのという話を聞いたことがある。そのとき「きふね」と発音していたようだが。
2023年06月26日
『リバー、流れないでよ』
posted by ohashi at 23:01| 映画 タイムループ
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2023年06月25日
広末涼子W不倫騒動
べつに何かをコメントする予定はなかったものの、以下の杉村太蔵氏のコメントがネット上で報道され、私自身、同意するところが多かったので、一言。
スポニチ
杉村太蔵が持論展開 広末涼子の不倫騒動から「別れられず困る女性をどう守るか議論すべき」2023/6/24 14:38
元衆院議員でタレントの杉村太蔵(43)が24日放送の読売テレビ「今田耕司のネタバレMTG」に出演。女優・広末涼子(42)のW不倫騒動について、持論を展開した。
以前、同番組で広末と鳥羽周作シェフの不倫報道の第一報について取り上げた際、杉村は「これ、第2弾あると思う。来週の(文春砲)第2弾、注目」と予想し、的中させていた。杉村は、あらためて「いやあ…予想は完璧でしたね。第1弾で決定的な証拠写真がないにもかかわらず、かなりな書き方でしたから」とドヤ顔で語った。
広末の夫キャンドル・ジュン氏の会見も見た上で、「思ったのは、ひと言で言うと、もう愛想尽かされてる訳よ」と指摘。「これね、僕に言わせるともっと本質的な問題なんだな」と語った。 「世の中には、本当は別れたくて別れたくてしょうがない女性って居ると思う。その女性たちをきちっと守ってあげなくちゃいけないんじゃないかって。相手に非があるわけじゃない、決定的な離婚理由はないけど(夫が)嫌で仕方ない女性っていると思う」と語った。
杉村は「別れたくても別れられなくてすごい困ってる女性をどう保護するかって、この問題から議論をしたほうがいいと思う。僕、ほんと真面目に言ってる。こんなおちゃらけた芸能ニュースで終わらせたらいけない案件」と語り、「誰がおちゃらけた芸能ニュースや!オマエ、ええ加減にせえよ」と今田耕司につっこまれ、苦笑いで頭を下げた。今田は「確かに俺の目指してる番組の形ではあるけど…」と言って、笑わせていた。
同様の記事・ストーリーがネットにアップされている。
杉村太蔵氏の主張は、キャンドル・ジュン氏の会見内容に関しても、また離婚したい女性を束縛することの非に関しても、私はまったく同感である。
そもそもキャンドル・ジュン氏の会見について、夫として妻に自由にさせないこと、さらには妻の要求を精神が不安定になった理不尽な要求として退けていたことなど、悪辣なDV夫に近いことを平気で語っていることへの批判がめにつかないのはどうしてかと不思議に思っていた。
会見については、たとえば以下の記事を参照。
妻・広末涼子が不倫 キャンドル氏会見にネット賛否「内容が壮絶すぎる」「子どもたちが一番の被害者」6/18(日) 17:00配信 ORICON NEWS.
俳優・広末涼子(42)の夫でアーティストのキャンドル・ジュン氏(49)が18日、都内で会見を開き、妻・広末に関する不倫報道について謝罪した上で“育児放棄疑惑”を真っ向から否定。さらに夫婦間で“離婚話”が持ち上がっていることを明かした。
中略
会見冒頭に「キャンドル・ジュンこと、広末ジュンと申します。まず初めに私の妻・広末涼子が多くの方にご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」と謝罪し、深々と頭を下げる。そして報道陣に最も伝えたいこととして、「妻・広末涼子が育児放棄したことは一度もありません」ときっぱり語り「私にとっても良き妻ですし、何よりも子どもたちにとって最高の母であり、家族や親戚の中でも最も頑張るすてきな女性です」ときっぱりと話した。【←このコメントで、妻をけなさない、よい夫であるという印象を与えたことに成功したのようだ】
さらに「彼女から離婚してほしいと言われていました」と明かす一幕も。「その理由は?と聞くと『夜中に電話するの怒るから』って。普段の彼女は、仕事や家事で疲れて子どもたちと早く寝て、朝も早くから子どもたちと弁当を作る。でもそうではない精神状態に陥ってしまったら、さまざまな人に連絡したり、寝れなくなってしまう。今回もそういうことが起きてしまったから。でも頭ごなしに怒ってはいけない、逆上してはいけないと思い、しばしだんまりを続けていたら『ほらまたそうやって怒る』と言われ、それをきっかけで彼女が夜家を出るようになった」と語り、時折涙ぐむ姿も見られた。
会見の模様が各メディアを通じて報道されると、SNS上では「内容が壮絶すぎる」「子どもたちが一番の被害者」「キャンドルジュンさん また広末涼子さんと仲戻りますように」以下略
「夜中に電話をすると怒る」というのは、相当ひどい夫である。ささいなことというなかれ。ささいなことであるからこそ、そんなことでも束縛する夫に対してDV夫に近い暴力性(精神的な)を感じないネット民は、いや日本国民は、やはりジェンダー/ギャップ指数、世界125位だけのことはある。
この疑似DV夫は、妻が夜電話をすることを許さないばかりか、そういう要求をしてくる妻を精神状態が正常ではないと断定しているのだ。この夫は、自分のしていることだけが正しく、妻は奴隷上でかまわない、抵抗する妻は精神異常者とみなすという、サイコパスに近いのではないか。この発言をもって、あなたは女性を隷属状態におくサイコパスだと、当日の記者はさすがに言えなかったかもしれないが、ネット民は、日本国民は、すくなくともドン引きしても当然である。
この夫は妻から愛想を尽かされているという杉村氏のコメントが唯一の批判的コメントというのは、ほんとうになさけない。日本には、不文律の女性差別促進法が存在していることはまちがない。
posted by ohashi at 02:02| コメント
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2023年06月22日
理学療法と人道的殺戮 2
理学療法が人道的殺戮だという意味ではないので誤解のないように。
人道的というのを英語にするとhumaneを思い浮かべる。これ以外にもhumanitarianという語も「人道的」に該当する。
では「人道的」とはどういうことか。人道的:「人として同義にかなったさま。人間愛をもって人に接するさま」(広辞苑)とか「人として守り行うべき道にかなうさま」(明鏡国語辞典)というのが、一般的な定義だろう。
ただ英語のhumaneというと、日本語の「人道的」ではカバーしきれない意味もある。そのためhumaneを機械的に「人道的」と訳すとおかしなことになる場合がある。
動物愛護の思想が広く浸透するに及んで、食肉用に動物を殺すことに非難の声があがるようになると、食肉を正当化するためにどのような理屈がひねり出されたかというと、動物に苦痛を与えないように殺しているからというものだった。
たとえば”a humane way of killing animals”が推奨されたが、これを「人道的な動物の殺し方」と訳したら、なんのことがわからない。そもそも「人道的な殺害とか殺戮」というのはどういう意味なのか。想像力をはたらかせないとわからないし、はたらかせてもわからないとも言える。
Humaneには「人道的」という意味のほかに、「(他人や動物に対して)人間[人情]味のある、慈悲深い、思いやりのある」(ランダムはウス英和大辞典)という意味がある。実際、ランダムハウス英和大辞典は、これ以外に「人文学の」という語義しか示しておらず、「人道的」という表記を避けている。つまり日本語の「人道的」が「慈悲深い」と結びつかないからかもしれない。「人道的な殺害」といっても、ふつは、なんのことかわからない【なお「人道的」というのはhumanitarianというほうが一般的であろう】。
私が監訳した『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』(平凡社、2023)では、動物をhumane、あるいはhumanelyに殺すという原文を、苦痛を与えないようにして殺すというように訳している。ところが、とこかのアホ【こいつについて、これから大々的に毎日批判してやる】が、これは「人道的に」と訳すべきだと批判してきた。なにか動物学とか動物研究の分野(以下、ここではアニマル・スタディーズとする)では「人道的」と訳すのが決まりだと、そんなことも知らないないのかと、軽蔑的に批判してきた。
しかし軽蔑されるのはお前のほうだ。そもそもhumaneに「人道的」という訳語を示さない英和辞典もあることすら、知らないのか。
またもしアニマル・スタディーズの分野で、humaneとかhumanelyを機械的に「人道的」「人道的に」と訳していたら、一般読者にはわけがわからなくなる。もし日本のアニマル・スタディーズにおいて、これが慣行になっているのなら、一刻も早くやめたほうがいい。それはphysical treatmentを「身体療法」ではなく「理学療法」と訳してしまい、ひっこみがつかなくなった医療分野の愚を繰り返さないためである。
とはいえ、日本のアニマル・スタディーズの関係者は、バカではないから、まさかHumaneを機械的に「人道的」と訳してはいないと思う。そもそもそれは誤訳に近い。まあ、この愚かな批判者とその周辺にたむろしている一部の無教養な者たちだけが、ひとりよがりで勝手なことを垂れ流しているだけだと思いたい。
【注記:
Humane killerは「人道的殺し屋」と訳したら恥ずかしい。「動物の無痛屠殺機」という訳語が辞書ではあたえられている。【なお私は屠殺という言葉は、差別用語だと思っているので、ここではやむを得ず使っている】
Humane killingは「人道的殺害」でははなく、「安楽死」のこと。ただし「安楽死」には、これ以外にも英語表現はある。
Humane societyは「人道協会」ではなく「愛護協会」のこと。何を愛護するのかというと動物のことなので、これは「動物愛護協会」と訳してもいい。
以上参考までに。】
人道的というのを英語にするとhumaneを思い浮かべる。これ以外にもhumanitarianという語も「人道的」に該当する。
では「人道的」とはどういうことか。人道的:「人として同義にかなったさま。人間愛をもって人に接するさま」(広辞苑)とか「人として守り行うべき道にかなうさま」(明鏡国語辞典)というのが、一般的な定義だろう。
ただ英語のhumaneというと、日本語の「人道的」ではカバーしきれない意味もある。そのためhumaneを機械的に「人道的」と訳すとおかしなことになる場合がある。
動物愛護の思想が広く浸透するに及んで、食肉用に動物を殺すことに非難の声があがるようになると、食肉を正当化するためにどのような理屈がひねり出されたかというと、動物に苦痛を与えないように殺しているからというものだった。
たとえば”a humane way of killing animals”が推奨されたが、これを「人道的な動物の殺し方」と訳したら、なんのことがわからない。そもそも「人道的な殺害とか殺戮」というのはどういう意味なのか。想像力をはたらかせないとわからないし、はたらかせてもわからないとも言える。
Humaneには「人道的」という意味のほかに、「(他人や動物に対して)人間[人情]味のある、慈悲深い、思いやりのある」(ランダムはウス英和大辞典)という意味がある。実際、ランダムハウス英和大辞典は、これ以外に「人文学の」という語義しか示しておらず、「人道的」という表記を避けている。つまり日本語の「人道的」が「慈悲深い」と結びつかないからかもしれない。「人道的な殺害」といっても、ふつは、なんのことかわからない【なお「人道的」というのはhumanitarianというほうが一般的であろう】。
私が監訳した『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』(平凡社、2023)では、動物をhumane、あるいはhumanelyに殺すという原文を、苦痛を与えないようにして殺すというように訳している。ところが、とこかのアホ【こいつについて、これから大々的に毎日批判してやる】が、これは「人道的に」と訳すべきだと批判してきた。なにか動物学とか動物研究の分野(以下、ここではアニマル・スタディーズとする)では「人道的」と訳すのが決まりだと、そんなことも知らないないのかと、軽蔑的に批判してきた。
しかし軽蔑されるのはお前のほうだ。そもそもhumaneに「人道的」という訳語を示さない英和辞典もあることすら、知らないのか。
またもしアニマル・スタディーズの分野で、humaneとかhumanelyを機械的に「人道的」「人道的に」と訳していたら、一般読者にはわけがわからなくなる。もし日本のアニマル・スタディーズにおいて、これが慣行になっているのなら、一刻も早くやめたほうがいい。それはphysical treatmentを「身体療法」ではなく「理学療法」と訳してしまい、ひっこみがつかなくなった医療分野の愚を繰り返さないためである。
とはいえ、日本のアニマル・スタディーズの関係者は、バカではないから、まさかHumaneを機械的に「人道的」と訳してはいないと思う。そもそもそれは誤訳に近い。まあ、この愚かな批判者とその周辺にたむろしている一部の無教養な者たちだけが、ひとりよがりで勝手なことを垂れ流しているだけだと思いたい。
【注記:
Humane killerは「人道的殺し屋」と訳したら恥ずかしい。「動物の無痛屠殺機」という訳語が辞書ではあたえられている。【なお私は屠殺という言葉は、差別用語だと思っているので、ここではやむを得ず使っている】
Humane killingは「人道的殺害」でははなく、「安楽死」のこと。ただし「安楽死」には、これ以外にも英語表現はある。
Humane societyは「人道協会」ではなく「愛護協会」のこと。何を愛護するのかというと動物のことなので、これは「動物愛護協会」と訳してもいい。
以上参考までに。】
posted by ohashi at 01:19| 『アニマル・スタディーズ』
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2023年06月16日
『ウーマン・トーキング』
『ウーマン・トーキング 私たちの選択』Women Talking(2022)
最初は、いつ、いかなる時代の、場所はどこのことか、わからなかったが、実は最後までわからなかった。
みんな英語を話しているから、アメリカのどこかかと思っていた。時代も2010年と知り驚いたが、アーミッシュの共同体のようなところの話かと考え、アメリカだろうと考えた。【2010年の国勢調査をおこなう車がモンキーズのDaydream Believer(←なつかしすぎる)を大音量で流していたから、アメリカである可能性は強まった】
しかし終わりのほうで南十字星をみて方角を知る方法が話題になるにいたってわからなくなった。いうまでもなく南十字星は南半球でしか観ることが出来ない。となるとここはどこなのか。すんなりと、ここは南半球なのだと思い至ればいいのだけれども頑迷な私の頭脳はアメリカだと思い続け、この南十字星にはどんな寓意が込められているのかと、ただいぶかるばかりであった。
ただ地理的感覚の喪失は、この物語の舞台が、特定の国や場所(とはいえ南半球なのだが)ではなく、どこでもないところ(ノーホエアー)、逆にいえば、いたるところ(エヴリホエアー)であることによって、普遍性を獲得することに貢献している。
もちろん混乱は別のところにもあった。主役の女性たちのうち3人、ルーニ・マーラ、クレア・フォイそしてジェシー・バックリーは、知的な女性を演ずることが多い。その彼女たちが、文字の読み書きもできず、自分たちが世界のどの地域の、どの地方の、どのあたりなのかも知らないという無知蒙昧な状態に置かれているというのは違和感マックスと言わざるを得ない【私の知人は、最初、これはマーガレット・アトウッドの『侍女の物語』のような、女性が男性に隷属している未来社会を描くSFかと思ったらしい】。
つまり彼女たちの置かれた境遇を考慮すると、彼女たちがいくらすぐれた知性に恵まれていても、このような活発な議論ができるということは想像しにくいのである。
おそらくこれは原作が現実の歴史的事件に取材しながら、そこで生じてはいない、あるいは生じてもおかしくない後日談を想像的に創造したためであろう。つまり現実的であるとともに超越的な物語、現実性と寓意性の共存といってもいい。そこに女性たちが置かれてきた過酷な運命の普遍性をにじませるということなのかもしれない。
事件は2009年6月、隣家へ侵入しようとした2人の男が捕らえられた。彼らは仲間を密告し、19歳から43歳のコロニーの男性9名が捕まり、彼らは2005年から居住区で性的虐待を繰り返していたことがわかった。彼らは、牛の麻酔に利用される薬品などを調合したスプレー【映画のなかでも大きなスプレーが見える】を使用。彼らは中にスプレーを噴射し、家族全員に効果が現れたのを確認したのち、屋内に忍び込んでいたらしい。
約2年後2011年に裁判の開始前に事件の全容が明らかになった。被害者は3歳から65歳。3歳の少女は、処女膜を指で傷つけられていた。既婚者、未婚者、住民、観光客、精神障害者を問わず、数多の女性が被害にあっていた。
彼らのうち7人は25年の刑に服し、薬品を渡した獣医は12年と6ヶ月の刑。残る1名は逃亡ということになった。
原作ならびに映画は、この事件を受けて、コロニーの女性たちが村にとどまって犯罪者たちをキリスト教の精神に則って赦すか、彼らは犯罪者たちと犯罪を許容した差別的な男性たちと戦うか、コロニーを去るかの三択を考える。女性たちを代表する家族が協議のうえ、女性たちはコロニーを去ることになる。この協議の様子が映画の主要な部分となる。
女性たちの話し合いのなかで、性加害の実態、そして彼女たちの受けた人権蹂躙の苦しみが明らかになる。その結果、彼女たちは、コロニーに留まって男社会で闘争を繰り広げるよりは、村を去ることを決意する。それはまた平和主義というこのメノナイトの教えにかなったものでもあった。
そう平和主義。メノナイトの教えは絶対的な平和主義である(そのため懲役忌避者を出して迫害も受けた)。それが、こんな暴力的な性犯罪者を出していいものか。映画のなかにも夫のDVに苦しめられる女性たちが登場するが、敬虔な平和主義者の団体が、なぜDVを性加害を生むのか。
おそらくこのコロニーでは平和主義は男性間での原則であり、女性は家畜同然に扱われ平和主義の対象ではないのである。そしてそれを可能にしているのがキリスト教の原則ということになる。メノナイトのコロニーは、女性に教育を受けさせないということはないのだが、このボリビアのコロニーは超保守的で女性に教育を受けさせなかった。したがって彼女たちは文字を読み書きできない。この映画について、一部のコメントは、女性が読み書きできないことについては誇張あるいは事実の歪曲があるとしているが、ことボリビアの事例では、女性たちはほんとうに読み書きができなかった。
彼女たちの決断は、コロニーでの教えを踏みにじるのではなく、平和主義を貫いた結果でもあった。同じく、キリスト教の教えは、男性中心社会を出現させ、女性蔑視の世界観をつくりあげたのだが、この抑圧の道具としてのキリスト教は、また彼女たちの精神を解放することにも貢献したというのが、この映画の主張ともなろう。
この映画における女性たちの逃亡は、逃避でもなければ敗退でもない。彼女たちが受けた教えを忠実に守ったうえでの、そしてその教えを男性たちにつきつけるかたちでの、コロニーからの退去である。彼女たちが目指す未来には、彼女たちの子どもたち世代には、べつの物語がまっているだろう。
もちろん、これは原作者が、そして映画が思い描いた架空の出来事である。実際にボリビアでは女性たちはコロニーを退去していない。性犯罪は、続いたという。地獄はつづいている。私たちがなすべきは、想像界において彼女たちを救出するのではなく現実界において救出することであろう。
追記
以下の記事(一部略)がネット上にあった。
この記事では原作者をミリアム・トウズMiriam Toewsと表記している。しかしWikipediaの英語版ではToewsは「テイヴィズ」と発音するのだと明記している(オランダ系の名前である)。実際、サラ・ポーリー監督も、そのスピーチ(動画参照)で、「ミリアム・テイヴィズ」と発音している。なぜ確認しないのだろう。なぜ英語読みにこだわるのだろう。恥を知れ。
最初は、いつ、いかなる時代の、場所はどこのことか、わからなかったが、実は最後までわからなかった。
みんな英語を話しているから、アメリカのどこかかと思っていた。時代も2010年と知り驚いたが、アーミッシュの共同体のようなところの話かと考え、アメリカだろうと考えた。【2010年の国勢調査をおこなう車がモンキーズのDaydream Believer(←なつかしすぎる)を大音量で流していたから、アメリカである可能性は強まった】
しかし終わりのほうで南十字星をみて方角を知る方法が話題になるにいたってわからなくなった。いうまでもなく南十字星は南半球でしか観ることが出来ない。となるとここはどこなのか。すんなりと、ここは南半球なのだと思い至ればいいのだけれども頑迷な私の頭脳はアメリカだと思い続け、この南十字星にはどんな寓意が込められているのかと、ただいぶかるばかりであった。
ただ地理的感覚の喪失は、この物語の舞台が、特定の国や場所(とはいえ南半球なのだが)ではなく、どこでもないところ(ノーホエアー)、逆にいえば、いたるところ(エヴリホエアー)であることによって、普遍性を獲得することに貢献している。
もちろん混乱は別のところにもあった。主役の女性たちのうち3人、ルーニ・マーラ、クレア・フォイそしてジェシー・バックリーは、知的な女性を演ずることが多い。その彼女たちが、文字の読み書きもできず、自分たちが世界のどの地域の、どの地方の、どのあたりなのかも知らないという無知蒙昧な状態に置かれているというのは違和感マックスと言わざるを得ない【私の知人は、最初、これはマーガレット・アトウッドの『侍女の物語』のような、女性が男性に隷属している未来社会を描くSFかと思ったらしい】。
つまり彼女たちの置かれた境遇を考慮すると、彼女たちがいくらすぐれた知性に恵まれていても、このような活発な議論ができるということは想像しにくいのである。
おそらくこれは原作が現実の歴史的事件に取材しながら、そこで生じてはいない、あるいは生じてもおかしくない後日談を想像的に創造したためであろう。つまり現実的であるとともに超越的な物語、現実性と寓意性の共存といってもいい。そこに女性たちが置かれてきた過酷な運命の普遍性をにじませるということなのかもしれない。
事件は2009年6月、隣家へ侵入しようとした2人の男が捕らえられた。彼らは仲間を密告し、19歳から43歳のコロニーの男性9名が捕まり、彼らは2005年から居住区で性的虐待を繰り返していたことがわかった。彼らは、牛の麻酔に利用される薬品などを調合したスプレー【映画のなかでも大きなスプレーが見える】を使用。彼らは中にスプレーを噴射し、家族全員に効果が現れたのを確認したのち、屋内に忍び込んでいたらしい。
約2年後2011年に裁判の開始前に事件の全容が明らかになった。被害者は3歳から65歳。3歳の少女は、処女膜を指で傷つけられていた。既婚者、未婚者、住民、観光客、精神障害者を問わず、数多の女性が被害にあっていた。
彼らのうち7人は25年の刑に服し、薬品を渡した獣医は12年と6ヶ月の刑。残る1名は逃亡ということになった。
原作ならびに映画は、この事件を受けて、コロニーの女性たちが村にとどまって犯罪者たちをキリスト教の精神に則って赦すか、彼らは犯罪者たちと犯罪を許容した差別的な男性たちと戦うか、コロニーを去るかの三択を考える。女性たちを代表する家族が協議のうえ、女性たちはコロニーを去ることになる。この協議の様子が映画の主要な部分となる。
女性たちの話し合いのなかで、性加害の実態、そして彼女たちの受けた人権蹂躙の苦しみが明らかになる。その結果、彼女たちは、コロニーに留まって男社会で闘争を繰り広げるよりは、村を去ることを決意する。それはまた平和主義というこのメノナイトの教えにかなったものでもあった。
そう平和主義。メノナイトの教えは絶対的な平和主義である(そのため懲役忌避者を出して迫害も受けた)。それが、こんな暴力的な性犯罪者を出していいものか。映画のなかにも夫のDVに苦しめられる女性たちが登場するが、敬虔な平和主義者の団体が、なぜDVを性加害を生むのか。
おそらくこのコロニーでは平和主義は男性間での原則であり、女性は家畜同然に扱われ平和主義の対象ではないのである。そしてそれを可能にしているのがキリスト教の原則ということになる。メノナイトのコロニーは、女性に教育を受けさせないということはないのだが、このボリビアのコロニーは超保守的で女性に教育を受けさせなかった。したがって彼女たちは文字を読み書きできない。この映画について、一部のコメントは、女性が読み書きできないことについては誇張あるいは事実の歪曲があるとしているが、ことボリビアの事例では、女性たちはほんとうに読み書きができなかった。
彼女たちの決断は、コロニーでの教えを踏みにじるのではなく、平和主義を貫いた結果でもあった。同じく、キリスト教の教えは、男性中心社会を出現させ、女性蔑視の世界観をつくりあげたのだが、この抑圧の道具としてのキリスト教は、また彼女たちの精神を解放することにも貢献したというのが、この映画の主張ともなろう。
この映画における女性たちの逃亡は、逃避でもなければ敗退でもない。彼女たちが受けた教えを忠実に守ったうえでの、そしてその教えを男性たちにつきつけるかたちでの、コロニーからの退去である。彼女たちが目指す未来には、彼女たちの子どもたち世代には、べつの物語がまっているだろう。
もちろん、これは原作者が、そして映画が思い描いた架空の出来事である。実際にボリビアでは女性たちはコロニーを退去していない。性犯罪は、続いたという。地獄はつづいている。私たちがなすべきは、想像界において彼女たちを救出するのではなく現実界において救出することであろう。
追記
以下の記事(一部略)がネット上にあった。
【全訳】『ウーマン・トーキング』監督、アカデミー賞受賞で“わきまえない女性”として痛快なスピーチ2023-03-13
『ウーマン・トーキング 私たちの選択』のサラ・ポーリー監督がアカデミー賞授賞式で語った思いが痛快&感動!(フロントロウ編集部)
映画『ウーマン・トーキング 私たちの選択』で10年ぶりに監督復帰したサラ・ポーリー監督が、第95回アカデミー賞で脚色賞を受賞。本作はキリスト教一派の村で起こった実際のレイプ事件を基にしており、被害に遭った村の女性たちが男性たちのいない時に集まり、未来を懸けた話し合いをする。
ポーリー監督がその才能と知性を遺憾なく発揮した本作。彼女のセンスは受賞スピーチでも表現され、彼女はスピーチを、「初めに、“女性(ウーマン)”と“話す(トーキング)”という言葉をこんなに近い距離に一緒に置いても、死ぬほど怒らないでくれたアカデミー賞に感謝します」と始めて、女性達が能動的に行動することを嫌がる現代社会に痛快すぎる皮肉! 会場が笑いに包まれたところで、熱く、愛に溢れる言葉を続けた。
「(原作者の)ミリアム・トウズは、すべての物事には同じ意見を持たない人々が1つの部屋で一緒に座り、暴力なしに前に進む方法を切り開くという進歩的な民主主義の行為についての必要不可欠な小説を書きました。彼女たちはそれを、話すことだけでなく、聞くことによって成し遂げました。私達の映画の最後のセリフは、若い女性から生まれたばかりの赤ちゃんへ向けたもので、彼女は、『あなたたちの物語は、私たちのものとは違う』と話します。それは約束であり、責任であり、支えであり、この美しい世界で自分の道を進んでいこうとする、私の素晴らしい3人の子どもたちイヴ、アイラ、エイミーに全身全霊をかけて伝えたいことです。以下略。
この記事では原作者をミリアム・トウズMiriam Toewsと表記している。しかしWikipediaの英語版ではToewsは「テイヴィズ」と発音するのだと明記している(オランダ系の名前である)。実際、サラ・ポーリー監督も、そのスピーチ(動画参照)で、「ミリアム・テイヴィズ」と発音している。なぜ確認しないのだろう。なぜ英語読みにこだわるのだろう。恥を知れ。
posted by ohashi at 23:08| 映画
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2023年06月14日
理学療法と人道的殺戮 1
理学療法が人道的殺戮だという意味ではないので誤解のないように。
「理学療法」とか「理学療法士」という言葉を初めて知ったのは、何時のことだったか覚えてないのだが、医療については全く無知な私は、かつて母の診察の付き添いで病院に行ったとき、待合室というか待合スペースの近くに「理学療法室」というのがあって、これはどんな治療をするところなのだろうと不思議に思った記憶はある。
日本理学療法士協会のサイトでは
理学療法とは、人体の運動機能改善を目的として、運動させる、さらには温熱、電気、水、光線などの物理的手段を用いるものだという。物理的手段が必須ではなくてそれを用いることもあるということのようだ。
これも同じことだが、「治療体操その他の運動を行なわせ、及び電気刺激、マッサージ、温熱その他の物理的手段を加える」というのも、体操と運動がメインで、そこに付加的に物理手段を付加するとある。ちなみに電気刺激は物理的手段だが、マッサージは機械ですれば物理的手段、人間がする場合は物理的手段ではないし、温熱は物理的手段なのだろうか。よくわからない。
また理学療法の目的として
とある。
何をこだわっているのかというと、理学療法というのは物理的手段を用いる療法であるらしい。ならばなぜそれがメインではなく、運動とか動作の治療の補助的な手段となっているのか。またメインであるべき治療の物理的手段そのものが曖昧でよくわからない。
機械でするのなら、それでもいい。しかし機械を物理的手段という必要はない。放射線治療を物理的手段による治療という必要もない。要は物理的手段はなんでもよく、またそのぶん、どうでもよいのではないか。
理学療法というのは、病院などで遠くから観ていると、リハビリのことのようだ。
とあるように。
だが待った、理学療法は、英語でいうとphysical therapyである。ちなみにWikpiediaでphysicaltherapyをみてみると
この定義はひどい。下線部はtherapistがすることなのだが、これは通常、医師がおこなっている医療となんらかわりない。
ただいえることは身体の運動能力を改善し、その際、物理的手段も用いるなんてことは、どこにも書いていないことだ。
Physicalには、「身体の、肉体の」という意味と「物理学、物理的な、自然科学の、自然法則の」という意味があり、後者は「理学」という訳語に通ずるものがある。
おそらくPhysical therapyを翻訳するとき、どこかのバカが「身体」ではなく「理学」と訳したのだろう。「身体療法」ではなく「理学療法」となった。単純にいって誤訳であろう。
なぜならphysical examinationは「身体検査」と訳しているし、これを「理学検査」と訳したら意味が通らない。
Physical measurementは「身体測定」であって、「理学測定」ではない。
Physical exerciseは「身体体操」であって、「理学体操」と訳したらバカと思われてしまう。
しかるにPhysical therapyだけは、「身体療法」ではなく「理学療法」となっている。いまでも。
おそらく誰かが誤訳に気づいたのかもしれない。誤訳という指摘をかわすために、このphysical therapyというのは、身体治療、運動治療のために、物理的手段も使うから、だから「物理療法あるいは理学療法」なのだと、苦しいいいわけを思いついた。それが語の定義としても用いられるようになる。
一度、誤訳したら、もうそれを意地になっても続けるしかないということか。だが、たとえ1000年続いたとしても間違いは間違いで、いつでも訂正できると語ったのは、カントではなかったか。そして間違いを訂正せずに慣用として流通させてしまうのは、とんでもない間違いであって、いつでも訂正してよいのである。
つづく
「理学療法」とか「理学療法士」という言葉を初めて知ったのは、何時のことだったか覚えてないのだが、医療については全く無知な私は、かつて母の診察の付き添いで病院に行ったとき、待合室というか待合スペースの近くに「理学療法室」というのがあって、これはどんな治療をするところなのだろうと不思議に思った記憶はある。
日本理学療法士協会のサイトでは
理学療法とは病気、けが、高齢、障害などによって運動機能が低下した状態にある人々に対し、運動機能の維持・改善を目的に運動、温熱、電気、水、光線などの物理的手段を用いて行われる治療法です。【引用者による下線部追加】
「理学療法士及び作業療法士法」第2条には「身体に障害のある者に対し、主としてその基本的動作能力の回復を図るため、治療体操その他の運動を行なわせ、及び電気刺激、マッサージ、温熱その他の物理的手段【引用者による下線部追加】を加えることをいう」と定義されています。
理学療法とは、人体の運動機能改善を目的として、運動させる、さらには温熱、電気、水、光線などの物理的手段を用いるものだという。物理的手段が必須ではなくてそれを用いることもあるということのようだ。
これも同じことだが、「治療体操その他の運動を行なわせ、及び電気刺激、マッサージ、温熱その他の物理的手段を加える」というのも、体操と運動がメインで、そこに付加的に物理手段を付加するとある。ちなみに電気刺激は物理的手段だが、マッサージは機械ですれば物理的手段、人間がする場合は物理的手段ではないし、温熱は物理的手段なのだろうか。よくわからない。
また理学療法の目的として
理学療法の直接的な目的は運動機能の回復にありますが、日常生活動作(ADL)の改善を図り、最終的にはQOL(生活の質)の向上をめざします。病気、けが、高齢など何らかの原因で寝返る、起き上がる、座る、立ち上がる、歩くなどの動作が不自由になると、ひとりでトイレに行けなくなる、着替えができなくなる、食事が摂れなくなる、外出ができなくなるなどの不便が生じます。誰しもこれらの動作をひとの手を借りず、行いたいと思うことは自然なことであり、日常生活動作の改善はQOL向上の大切な要素になります。理学療法では病気、障害があっても住み慣れた街で、自分らしく暮らしたいというひとりひとりの思いを大切にします。
とある。
何をこだわっているのかというと、理学療法というのは物理的手段を用いる療法であるらしい。ならばなぜそれがメインではなく、運動とか動作の治療の補助的な手段となっているのか。またメインであるべき治療の物理的手段そのものが曖昧でよくわからない。
機械でするのなら、それでもいい。しかし機械を物理的手段という必要はない。放射線治療を物理的手段による治療という必要もない。要は物理的手段はなんでもよく、またそのぶん、どうでもよいのではないか。
理学療法というのは、病院などで遠くから観ていると、リハビリのことのようだ。
理学療法(りがくりょうほう、英語: physiotherapy、physical therapy)とは身体に障害のある者に対し、主としてその基本的動作能力の回復を図るため、治療体操その他の運動を行わせ、及び電気療法、マッサージ、温熱その他の物理的手段を加えることをいう。Wikipedia
とあるように。
だが待った、理学療法は、英語でいうとphysical therapyである。ちなみにWikpiediaでphysicaltherapyをみてみると
Physical therapy (PT), also known as physiotherapy, is one of the allied health professions. It is provided by physical therapists who promote, maintain, or restore health through physical examination, diagnosis, management, prognosis, patient education, physical intervention, rehabilitation, disease prevention, and health promotion. Physical therapists are known as physiotherapists in many countries.
この定義はひどい。下線部はtherapistがすることなのだが、これは通常、医師がおこなっている医療となんらかわりない。
ただいえることは身体の運動能力を改善し、その際、物理的手段も用いるなんてことは、どこにも書いていないことだ。
Physicalには、「身体の、肉体の」という意味と「物理学、物理的な、自然科学の、自然法則の」という意味があり、後者は「理学」という訳語に通ずるものがある。
おそらくPhysical therapyを翻訳するとき、どこかのバカが「身体」ではなく「理学」と訳したのだろう。「身体療法」ではなく「理学療法」となった。単純にいって誤訳であろう。
なぜならphysical examinationは「身体検査」と訳しているし、これを「理学検査」と訳したら意味が通らない。
Physical measurementは「身体測定」であって、「理学測定」ではない。
Physical exerciseは「身体体操」であって、「理学体操」と訳したらバカと思われてしまう。
しかるにPhysical therapyだけは、「身体療法」ではなく「理学療法」となっている。いまでも。
おそらく誰かが誤訳に気づいたのかもしれない。誤訳という指摘をかわすために、このphysical therapyというのは、身体治療、運動治療のために、物理的手段も使うから、だから「物理療法あるいは理学療法」なのだと、苦しいいいわけを思いついた。それが語の定義としても用いられるようになる。
一度、誤訳したら、もうそれを意地になっても続けるしかないということか。だが、たとえ1000年続いたとしても間違いは間違いで、いつでも訂正できると語ったのは、カントではなかったか。そして間違いを訂正せずに慣用として流通させてしまうのは、とんでもない間違いであって、いつでも訂正してよいのである。
つづく
posted by ohashi at 00:13| コメント
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2023年06月12日
差別発言防げず?
以下の記事によって事件を確認しておきたい。
まず、討論会において差別発言を防げなかった河村市長の謝罪だが、差別発言は出た瞬間に制止すべきものだろう。実際、それは絶対におこなうべきことである。
私は数年前まで大学教員だったが、授業などで、こうした身障者差別発言が学生から出たら、すぐに制止し、学生に厳重注意する。これは躊躇なくおこなったはずであるし、他の教員も同じであろう。
ところが市長も同席している公共の場で差別発言が2件連続して続いたというのは考えられないことである。市民討論会(動画配信もされる予定だった)で、差別発言が出れば、司会者や、あるいは最高責任者の市長が、即座に止めるべきであった。
しかし、なぜ止めなかったのか。名古屋市側に、あるいは市長に、差別についての認識が希薄だったから、あるいは、ただ眠っていて、うっかりしていたというのが理由ではないだろう。
「市側が住民基本台帳から無作為に選んだ18歳以上の参加希望者約40人が出席」とある。この記事の表現がどこまで正確なのかわからないが、参加希望者は、最初から募ればいいのでは。「住民基本台帳」から選ばれても、多くの人は関心がないか、よくわからないかという理由でことわるだろう。いったい台帳から何人の住民に声をかけたのだろう。
そして討論会には、よりにもよって車椅子の男性一人と、差別発言者の二人(および、その同類)が、なんと都合良く集まったものか。彼らがどうやって集められたかはわからないが、市側が、討論会を成立させるため、また市側の計画に賛成してもらうため、彼らを選んだのではないか。
そして市側が選んだ発言者には、たとえ差別発言があっても、最後まで発言させたということではないか。差別発言者は、最初から、市側によって操作されたものではないか。それがひどい差別発言であっても、市側の発言者である以上、制止などできるはずはなかった。それが真相ではないか。
河村市長、差別発言防げず「申し訳ない」 名古屋城討論会で男性発言
朝日新聞社 によるストーリー • 6月5日
木造復元を目指す名古屋城天守のバリアフリー化をテーマにした名古屋市主催の市民討論会で、エレベーター(EV)設置を求めた身体障害がある男性に対して他の参加者から差別発言があり、河村たかし市長は5日の定例会見で、差別発言を防げなかった市の対応について謝罪した。
市民討論会は3日に名古屋市で開かれた。市側が住民基本台帳から無作為に選んだ18歳以上の参加希望者約40人が出席。河村市長も参加した。
市は「史実に忠実な復元」の方針を示す一方で、バリアフリー化については、天守の石垣部分から少なくとも1階までは車いすの人が利用できる小型の昇降機を設置するとしている。それより上層階の具体的な整備案は定まっていない。
討論会では、車いすの男性(70)が最上階まで車いすを運べるEVが設置されない場合に言及し、「障害者が排除されているとしか思えない」と市側に訴えた。
その直後、EV不要を訴える2人の男性が発言した。最初の男性は車いすの男性に対し、「河村市長が作りたいというのはエレベーターも電気もない時代に作ったものを再構築するって話なんですよ。その時になぜバリアフリーの話がでるのかなっていうのは荒唐無稽で。どこまでずうずうしいのかっていう話で。我慢せえよって話なんですよ。お前が我慢せえよ。エレベーターを付けるなら再構築する意味がない」などと話した。
次に発言した男性は身体障害がある人への差別表現を使った上で、「エレベーターは誰がメンテナンスするの。どの税金でメンテナンスするの。その税金はもったいないと思うけどね。毎月毎月メンテナンスしないといけない。本当の木造を作って」などと話した。
この2人の男性の発言の後には会場の一部からは拍手も起きていた。市側の参加者は、2人の男性の差別発言を制止することはなかった。
河村市長は定例会見の冒頭で、市民討論会で差別発言があったことに触れ、「差別的表現を含む不適切な発言があった。発言には十分お気を付けくださいということは言うべきだった。誠に申し訳ありませんでしたということでございます」などと謝罪した。
会見に同席した市観光文化交流局の担当者は「差別的発言にあった方は大変心を痛めていると思いますので、今後おわびさせていただきます」などと話した。【以下略】
まず、討論会において差別発言を防げなかった河村市長の謝罪だが、差別発言は出た瞬間に制止すべきものだろう。実際、それは絶対におこなうべきことである。
私は数年前まで大学教員だったが、授業などで、こうした身障者差別発言が学生から出たら、すぐに制止し、学生に厳重注意する。これは躊躇なくおこなったはずであるし、他の教員も同じであろう。
ところが市長も同席している公共の場で差別発言が2件連続して続いたというのは考えられないことである。市民討論会(動画配信もされる予定だった)で、差別発言が出れば、司会者や、あるいは最高責任者の市長が、即座に止めるべきであった。
しかし、なぜ止めなかったのか。名古屋市側に、あるいは市長に、差別についての認識が希薄だったから、あるいは、ただ眠っていて、うっかりしていたというのが理由ではないだろう。
「市側が住民基本台帳から無作為に選んだ18歳以上の参加希望者約40人が出席」とある。この記事の表現がどこまで正確なのかわからないが、参加希望者は、最初から募ればいいのでは。「住民基本台帳」から選ばれても、多くの人は関心がないか、よくわからないかという理由でことわるだろう。いったい台帳から何人の住民に声をかけたのだろう。
そして討論会には、よりにもよって車椅子の男性一人と、差別発言者の二人(および、その同類)が、なんと都合良く集まったものか。彼らがどうやって集められたかはわからないが、市側が、討論会を成立させるため、また市側の計画に賛成してもらうため、彼らを選んだのではないか。
そして市側が選んだ発言者には、たとえ差別発言があっても、最後まで発言させたということではないか。差別発言者は、最初から、市側によって操作されたものではないか。それがひどい差別発言であっても、市側の発言者である以上、制止などできるはずはなかった。それが真相ではないか。
posted by ohashi at 07:50| コメント
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2023年06月07日
蕎麦味のうどん
ネット上にある、乾麺の日本蕎麦の通販サイトをのぞいてみた。
自社製品である蕎麦を宣伝するサイトでは、蕎麦畑やそば粉の製造所などを紹介するだけでなく、長年の愛好者たちから寄せられたメッセージや画像、それに動画までも紹介していた。
当然、愛好者たちからは絶賛の嵐である。
だが、原材料としては次のようになっていた。
原材料は多い順番に書く。つまりこの乾麺の蕎麦は、小麦粉が半分以上使われているということである。
いやつなぎの小麦粉は、2割か3割くらいのはずだと思うかも知れないが、しかし、もしそうならこの順番では、小麦粉3割、そば粉2割となって、あとの5割は食塩かということになって意味不明となる。
ただ小麦粉が入っていない10割蕎麦というのは、食感がよくないかもしれないし、調理するのも難しい。そのため8割蕎麦とか7割蕎麦くらいがちょうどよいということはわかる。
しかし小麦粉が6割、そば粉4割から3割というのは、そば粉の入っているうどんでしょう。
私は、原材料のトップに小麦粉と銘記されている蕎麦は絶対に買わない。そば粉の入っている、蕎麦味のうどんというのは好まないからである。
【追記:では通販サイトに称賛の言葉を寄せた愛好者たちは、みんな騙されているのかということになるが、小麦粉5割以上で、そば粉が2割ほどつなぎとして入っているいる麵(うどんといっていい)は、喉ごしもよく、腰もあって、おいしいことはまちがいない。彼らの味覚が騙されておかしくなっているということはないだろう。また製造元は、原材料を多い順に銘記する義務があるので、製造元が騙しているとはいえない。とはいえ純正の蕎麦(10割そば、8割そば、7割そば)ではないものを蕎麦だと思っている愛好者たちは、やはり騙されているのでは。いい加減目を覚ませ。】
自社製品である蕎麦を宣伝するサイトでは、蕎麦畑やそば粉の製造所などを紹介するだけでなく、長年の愛好者たちから寄せられたメッセージや画像、それに動画までも紹介していた。
当然、愛好者たちからは絶賛の嵐である。
だが、原材料としては次のようになっていた。
原材料名 小麦粉(国内製造)、そば粉、食塩、小麦たんぱく
原材料は多い順番に書く。つまりこの乾麺の蕎麦は、小麦粉が半分以上使われているということである。
いやつなぎの小麦粉は、2割か3割くらいのはずだと思うかも知れないが、しかし、もしそうならこの順番では、小麦粉3割、そば粉2割となって、あとの5割は食塩かということになって意味不明となる。
ただ小麦粉が入っていない10割蕎麦というのは、食感がよくないかもしれないし、調理するのも難しい。そのため8割蕎麦とか7割蕎麦くらいがちょうどよいということはわかる。
しかし小麦粉が6割、そば粉4割から3割というのは、そば粉の入っているうどんでしょう。
私は、原材料のトップに小麦粉と銘記されている蕎麦は絶対に買わない。そば粉の入っている、蕎麦味のうどんというのは好まないからである。
【追記:では通販サイトに称賛の言葉を寄せた愛好者たちは、みんな騙されているのかということになるが、小麦粉5割以上で、そば粉が2割ほどつなぎとして入っているいる麵(うどんといっていい)は、喉ごしもよく、腰もあって、おいしいことはまちがいない。彼らの味覚が騙されておかしくなっているということはないだろう。また製造元は、原材料を多い順に銘記する義務があるので、製造元が騙しているとはいえない。とはいえ純正の蕎麦(10割そば、8割そば、7割そば)ではないものを蕎麦だと思っている愛好者たちは、やはり騙されているのでは。いい加減目を覚ませ。】
posted by ohashi at 22:06| コメント
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2023年06月06日
『レコード芸術』休刊
音楽之友社の『レコード芸術』が2023年7月号(6月20日発売)をもって休刊となる(音楽之友社で「休刊」として告知しているが、再刊のメドはたっていないので、実質的には廃刊であろう)。
現在レコードを聴く人間がどれくらいいるのかわからないのだが、たぶん『レコード芸術』というネーミングで損をしている観がある。ちょうどイギリスのBBCが刊行していたテレビ・ラジオ番組情報誌が、テレビの時代になってもRadio Timesのタイトルを変えなかったことで、ラジオ番組専門の情報誌とまちがわれたにちがいないように。
【実際、私のような外国から来て、テレビ番組情報誌を購入しようとして、Radio Timesをラジオ番組専門の情報誌と勘違いした人間は多いはずである。結局私はRadio Timesがテレビ番組・芸能情報中心であることを知っても、すでに購入し始めていた別の情報誌のほうを購読し続けた。その雑誌(名前は忘れた)には劇作家ストッパードの奧さんのミリアム・ストッパード博士の人生相談欄があって、それがけっこう面白かったので、星占いともども毎週欠かさず読んでいた。なおストッパード夫妻はその後離婚。】
クラシック音楽については無知といってもよく、『レコード芸術』を購入していもない私が、休刊に際して『レコード芸術』誌をなつかしく思うのは、父が、『レコード芸術』を毎月購読していたからである。父は、音楽之友社の『音楽の友』と『レコード芸術』そしてあともうひとつ雑誌を購入していた(名前は忘れたが)。
オーディオ・ファンでクラシック音楽ファンであった父が、そうした雑誌を購入していたのは当然だったが、子どもの頃の私は、そうした音楽・オーディオ誌を読ませてもらっていた。小学生の頃の話なので、記事を丁寧に読むということはなかったが(そもそも小学生には読めるような記事はなかったのだが)、『レコード芸術』は、カラー写真・図版をふんだんに使った高級誌で、写真をみているだけで(実際、写真しかみていなかったのだが)、じゅうぶんに楽しめた。
いまでも思い出す。『レコード芸術』のなかで紹介されていたピアニストのホロヴィッツが、写真で見る限り、当時の私が通っていた小学校のK先生とそっくりだったことを。この認識は、K先生に会ったことがある私の母や妹からも賛同を得た。
そのため家では、K先生(私のクラスの担任でもあった)のことをホロヴィッツと呼んでいたし、逆に、ホロヴィッツがテレビなどに出ていると、K先生が出ているといってはしゃいでいた。
たわいもない思い出だが、私が小学生の頃、『レコード芸術』は私の日常の一部であった。
現在レコードを聴く人間がどれくらいいるのかわからないのだが、たぶん『レコード芸術』というネーミングで損をしている観がある。ちょうどイギリスのBBCが刊行していたテレビ・ラジオ番組情報誌が、テレビの時代になってもRadio Timesのタイトルを変えなかったことで、ラジオ番組専門の情報誌とまちがわれたにちがいないように。
【実際、私のような外国から来て、テレビ番組情報誌を購入しようとして、Radio Timesをラジオ番組専門の情報誌と勘違いした人間は多いはずである。結局私はRadio Timesがテレビ番組・芸能情報中心であることを知っても、すでに購入し始めていた別の情報誌のほうを購読し続けた。その雑誌(名前は忘れた)には劇作家ストッパードの奧さんのミリアム・ストッパード博士の人生相談欄があって、それがけっこう面白かったので、星占いともども毎週欠かさず読んでいた。なおストッパード夫妻はその後離婚。】
クラシック音楽については無知といってもよく、『レコード芸術』を購入していもない私が、休刊に際して『レコード芸術』誌をなつかしく思うのは、父が、『レコード芸術』を毎月購読していたからである。父は、音楽之友社の『音楽の友』と『レコード芸術』そしてあともうひとつ雑誌を購入していた(名前は忘れたが)。
オーディオ・ファンでクラシック音楽ファンであった父が、そうした雑誌を購入していたのは当然だったが、子どもの頃の私は、そうした音楽・オーディオ誌を読ませてもらっていた。小学生の頃の話なので、記事を丁寧に読むということはなかったが(そもそも小学生には読めるような記事はなかったのだが)、『レコード芸術』は、カラー写真・図版をふんだんに使った高級誌で、写真をみているだけで(実際、写真しかみていなかったのだが)、じゅうぶんに楽しめた。
いまでも思い出す。『レコード芸術』のなかで紹介されていたピアニストのホロヴィッツが、写真で見る限り、当時の私が通っていた小学校のK先生とそっくりだったことを。この認識は、K先生に会ったことがある私の母や妹からも賛同を得た。
そのため家では、K先生(私のクラスの担任でもあった)のことをホロヴィッツと呼んでいたし、逆に、ホロヴィッツがテレビなどに出ていると、K先生が出ているといってはしゃいでいた。
たわいもない思い出だが、私が小学生の頃、『レコード芸術』は私の日常の一部であった。
posted by ohashi at 23:12| コメント
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2023年06月03日
レイ・スティーヴンソン追悼
以下の記事によって、レイ・スティーヴンソン(George Raymond Stevenson, 1964年5月25日 - 2023年5月21日)が亡くなったことを知った。
Showbizz Daily
2023年5月に亡くなった有名人
Zeleb.es によるストーリー • 6月2日 22:45
レイ・スティーヴンソン/5月21日
TVシリーズ『ローマ』や映画『マイティ・ソー』シリーズで人気を博したイギリス出身の俳優レイ・スティーヴンソンが5月21日に58歳で亡くなった。最新作『Cassino in Ischia(イスキア島のカジノ)』の撮影を行っていたイタリアで突然体調を崩し、病院に運ばれたもののそこで亡くなったという。
ただ、この記事は、レイ・スティーヴンソンが、現在、映画館で上映中の映画のうち2作品に出演していることについては完全に無知である。
以下のシネマトゥデイの記事は、短いながらも要点を押さえている。
シネマトゥデイ
レイ・スティーヴンソンさん、58歳で死去 『RRR』総督役など
2023年5月23日 7時43分
大ヒットインド映画『RRR』や、マーベル映画『マイティ・ソー』シリーズなどに出演した英俳優レイ・スティーヴンソンさんが現地時間21日、イタリアで亡くなった。58歳だった。スティーヴンソンさんの広報が The Hollywood Reporter に認めた。
スティーヴンソンさんは、イタリア・イスキア島で行われていた新作映画の撮影中に緊急搬送され、そのまま帰らぬ人となってしまった。死因などの詳細は明かされていない。
1964年北アイルランド生まれのスティーヴンソンさんは、役者としてテレビドラマで経験を積むと、2008年にマーベル映画『パニッシャー:ウォー・ゾーン』でパニッシャーこと主人公フランク・キャッスル役に抜てき。2011年には『マイティ・ソー』にウォリアーズ・スリーの一人・ヴォルスタッグ役で出演し、浅野忠信(ホーガン役)とも共演。その後『マイティ・ソー バトルロイヤル』(2017)までのシリーズ3作品で同キャラクターを演じていた。
最近ではインド映画『RRR』で冷酷な英国領インド帝国総督・スコットを演じたほか、今月12日に日本公開されたリーアム・ニーソン主演のアクション映画『MEMORY メモリー』にも出演。8月にディズニープラス配信される『スター・ウォーズ』新作ドラマ「アソーカ」では、メインヴィランを担当している。(編集部・倉本拓弥)
そう、現在上映中の映画は、『RRR』(2022)と『MEMORYメモリー』(2022)の二作品。その早すぎる死に心を痛めないではいられないのだが。
1990年代から舞台、映画、テレビで活躍していたレイ・スティーヴンソンが、私たちに日本人に知られるようになったのは、テレビドラマ『Romeローマ』(2005~2007)であろう。歴史上の人物たちにまじって、百人隊長ヴォレヌスとその部下プッロの二人組が多くの地域や人物や時代と横断的に絡まり合う。彼らはいうなれば狂言回し的な役割だが、同時に、影の主役といってもいい。その部下のほうを演じていたのがレイ・スティーヴンソン。
日本でも放送されたドラマだが、私はテレビでは観ていない。しかし2010年に全2シーズンを収録したDVDが、極めて安い値段で発売されたとき、私ははじめて知った。HBOとBBCによる制作で、登場人物は皆あくの強い者たちばかり、残酷な描写、女性のヘア・ヌード満載という、予想通りのテレビ・シリーズだった。
このドラマで人気が出た彼は、以後、『マイティー・ソー』シリーズに登場することになる。他に『三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船』(2011)では三銃士のひとりポルトスを演じていた。そして『RRR』のインドの総督役。
これからもエンターテインメント大作に出演することが見込まれていただけに、その急死には驚いた。追悼の意も込めて、未見の『MEMORYメモリー』を映画館で観ておこうと思う。
posted by ohashi at 13:09| コメント
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2023年06月02日
『サマー・ストーリー』
劇団昴が今上映中のイモジェン・スタッブス作『われら幸運な少数』について、前日の記事の続きでもあるが、プログラムをみてみると翻訳者がイモジェン・スタッブスについて思い入れがないみたいで、意外の感を免れ得なかった。
というのもあのイモジェン・スタッブスが本格的な演劇作品を書いたということは、驚きで、しかも、それを翻訳劇として日本で観ることができるというのも、なんという幸運なことかと思わずにはいられないのだが、しかし、これはどうでもいいことなのだが、プログラムをみるとスタッブスの著者紹介に問題はないとしても、彼女が出演した映画作品のタイトルへの言及がなく、翻訳者が寄せた一文にもスタッブスへの言及がない。
しかし私のようなシェイクスピア映画ファンにとっては、彼女が主演したシェイクスピアの『十二夜』(共演ヘレナ・ボナム・カーター、監督トレヴァー・ナン、1996)は、ベン・キングズレー演ずるおとなしすぎる道化フェステともども記憶に残る映画だった。
彼女が出演した他の映画もどれも感銘深いものばかりだ。『いつか晴れた日に』(1995、ジェイン・オースティンのSense and Sensibilityの映画化でアン・リー監督の演出が冴えわたっていた、最高のオースティン映画化作品)や、『ブラック・リスト』のレッド/ジェームズ・スペイダー(まだ髪があった頃)と共演していた『トゥルー・カラーズ』(True Colors, 1991)もさりながら、彼女の出世作は、なんといっても『サマー・ストーリー』(A Summer Story, 1988)だった。この映画を、私は映画館でみていない。20世紀の終わり頃、深夜のテレビで放送していたのを、ぼんやりと、ただイモジェン・スタッブスが出演していることに気づきつつ観ていたのだが、その結果、真夜中に私はひとり激怒することになった。
この映画の世界観はひどすぎる、と。
たとえば『マダム・バタフライ蝶々夫人』というオペラで、アメリカ人の士官ピンカートンに捨てられた蝶々夫人は自害するのだが、オペラでは自害の場にピンカートンが駆けつけて終わる(彼がどのような思いを抱いたかは観客の想像に任される)。もしこのオペラが、ピンカートンの側に立って、彼が日本人女性を捨てたことについて、後悔もせず、罪の意識にとらわれもせず、当然、反省の弁もなく、ただ昔の楽しい出来事を思い出し、最後に、蝶々夫人と自分との間にできた男の子を嫡男として平然と連れて帰るとした、誰だって、このクソばか野郎を許すことはできないだろう。
ネット上では『サマー・ストーリー』を『ロミオとジュリエット』に比肩する純愛物語と考える者もいた(これも許しがたいもうひとりのクソばか野郎だ)が、もしロミオが、ジュリエットとの愛をあきらめ、べつの女性と結婚することを選び、駆け落ちをするつもりでひとりロミオを追いかけてきたジュリエットを、ロミオが振り切って逃れたとしたら。そして悲嘆したジュリエットはロミオの子どもを産んで死ぬ。数年後、そのことを知ったロミオは、ジュリエットの出会いから別れまでの短い楽しい思い出にひたりつつ、自分のおこないに苦悩することも悔恨の情に苦しむこともなくい、当然、反省の弁もなく、ジュリエットの生んだ子どもを自分の嫡男としてひきとり、舞台から去ったら、観客席から、みかんの10箇や20箇、彼に向かって投げつけられてもおかしくないだろう。
もうここまで書いたら、あらすじを書く必要もなくなってしまっているのだが……、
1904年の夏のイングランドでの話である。エリート大学生が夏休みを田舎で過ごすことになり、そこで知り合った農家の若い女性と恋に落ちる。男女の仲になった二人だが、夏休みの終わりとともに別れる運命にあった。しかし二人は将来を誓いあい、大学生の言葉を信じた若い女性は村を出て結婚を夢見て大学生に会いにくる。しかし、すでに大学生は階級の違う女性と結ばれることに戸惑いを感じ、同じ上流階級の女性と結婚をすることを決意していた。そのため彼を追いかけてきた農家の娘から逃げてしまう。農家の娘は、実家に帰り、失意のなか、大学生との間にできた子どもを出産するが、ほどなく息をひきとってしまう。
そして数年後【映画のあらすじでは18年後となっているが、私の記憶のかぎりでは18年も立っていない】、このクソ大学生は結婚していて、妻とともに、かつて夏休みを過ごした村を再訪する【このクソばかの元大学生は、どういうつもりなのかと、私は観ていて腹立たしい思いにとらわれていた】。そして村で、あの農家の娘が子どもを産んでほどなくして死んだことを初めて知る。村を再訪した男とその妻の間には子どもはいない。そして村を去るとき、農家の娘と彼との間にできた子ども――すでにりっぱな少年になっている――が、何も知らないまま、彼に親しげに手をふるのであった。
映画が終わる頃になって私の怒りは頂点に達していた。べつに田舎娘に子どもをつくっても責任をとろうとしないクズ男に対して腹をたてたのではない。こういう人間のくずはどこにでもいるのだから。
またこのくず男が、たとえ若気の至りとはいえ、純情な若い女性を不幸にしたことに対し、なんの良心の呵責も感じないようにみえる(すくなくとも、悔悛のセリフはない)ことに私は腹をたてたわけではない。若気の至りを反省でもすればと思うのだが、何の痛痒を感じなくても、それはかまわない。そういう人間のクズは山のようにいるのだから。
そうではなくて私が腹をたてたのは、娘の悲しい運命についての話を聞きながら、このばか男は、反省するでもなく、心を閉ざすでもなく、ただ、なつかしい昔の楽しい思い出にひたるような顔をするのだ(ジェームズ・ウィルビーが演じてるのだが、その表情をみて、私は殺意さえ抱いた――ジェームズ・ウィルビーは映画『モーリス』では主役を演じている)。
視点が、哀れな農家の娘ではなく、彼女を死に追いやりながらも、反省もしないエリート層のそれであって、そこに唖然としつつも私は激しい怒りを覚えたのである。
結婚後の彼には子どもがいない。しかし、この村には彼の血をひく子どもがいる。しかもその子どもが別れ際に、なにも知らないまま、彼(父親でもある)に親しげに手をふるのであって、それでこのくず男に許しがあたえられてしまう錯覚すら生まれるのだ。
先に『マダム・バタフライ』と同じような物語であると述べたが、そこにみらえる植民地を支配する帝国主義的視座は、『サマー・ストーリー』における庶民や農民を搾取するエリート層の視座と通底している。そして帝国側、エリート階級側は、みずらかの非道な暴力性、搾取的権力の行使について、許されるものと考えている。あるいは許されてしかるべきあるという心性が、この映画の元大学生の描き方に投影されている。
就中、この映画では子どものいない夫婦となった元大学生も、実の子どもを発見することで、彼を養子とすれば、家を存続させることができる。不幸な出来事も、なにか丸く収まるのである。農家の娘にとってではない。このエリート・クソ・元大学生にとって。
こんな恥ずかしいむき出しのエリート主義は、近年おめにかかったことはない。ゴールズワージーの『りんごの木』の映画化であると知って、ある程度納得した。世界観が、虐げられた人びとの側に立っていないことも、ある程度は納得できた――一昔も、二昔も前の小説なのだから仕方がないのか、と。『りんごの木』は、英文学史上有名な作品なのだが、私は読んではいなかった――映画を観たときに。映画と原作の小説は違って、小説のほうを読めば異なる印象を受けるかもしれなかったのだが、私の怒りは大きすぎて、小説のほうを読む気にはなっていない。いまも。おそらく死ぬまで。
というのもあのイモジェン・スタッブスが本格的な演劇作品を書いたということは、驚きで、しかも、それを翻訳劇として日本で観ることができるというのも、なんという幸運なことかと思わずにはいられないのだが、しかし、これはどうでもいいことなのだが、プログラムをみるとスタッブスの著者紹介に問題はないとしても、彼女が出演した映画作品のタイトルへの言及がなく、翻訳者が寄せた一文にもスタッブスへの言及がない。
しかし私のようなシェイクスピア映画ファンにとっては、彼女が主演したシェイクスピアの『十二夜』(共演ヘレナ・ボナム・カーター、監督トレヴァー・ナン、1996)は、ベン・キングズレー演ずるおとなしすぎる道化フェステともども記憶に残る映画だった。
彼女が出演した他の映画もどれも感銘深いものばかりだ。『いつか晴れた日に』(1995、ジェイン・オースティンのSense and Sensibilityの映画化でアン・リー監督の演出が冴えわたっていた、最高のオースティン映画化作品)や、『ブラック・リスト』のレッド/ジェームズ・スペイダー(まだ髪があった頃)と共演していた『トゥルー・カラーズ』(True Colors, 1991)もさりながら、彼女の出世作は、なんといっても『サマー・ストーリー』(A Summer Story, 1988)だった。この映画を、私は映画館でみていない。20世紀の終わり頃、深夜のテレビで放送していたのを、ぼんやりと、ただイモジェン・スタッブスが出演していることに気づきつつ観ていたのだが、その結果、真夜中に私はひとり激怒することになった。
この映画の世界観はひどすぎる、と。
たとえば『マダム・バタフライ蝶々夫人』というオペラで、アメリカ人の士官ピンカートンに捨てられた蝶々夫人は自害するのだが、オペラでは自害の場にピンカートンが駆けつけて終わる(彼がどのような思いを抱いたかは観客の想像に任される)。もしこのオペラが、ピンカートンの側に立って、彼が日本人女性を捨てたことについて、後悔もせず、罪の意識にとらわれもせず、当然、反省の弁もなく、ただ昔の楽しい出来事を思い出し、最後に、蝶々夫人と自分との間にできた男の子を嫡男として平然と連れて帰るとした、誰だって、このクソばか野郎を許すことはできないだろう。
ネット上では『サマー・ストーリー』を『ロミオとジュリエット』に比肩する純愛物語と考える者もいた(これも許しがたいもうひとりのクソばか野郎だ)が、もしロミオが、ジュリエットとの愛をあきらめ、べつの女性と結婚することを選び、駆け落ちをするつもりでひとりロミオを追いかけてきたジュリエットを、ロミオが振り切って逃れたとしたら。そして悲嘆したジュリエットはロミオの子どもを産んで死ぬ。数年後、そのことを知ったロミオは、ジュリエットの出会いから別れまでの短い楽しい思い出にひたりつつ、自分のおこないに苦悩することも悔恨の情に苦しむこともなくい、当然、反省の弁もなく、ジュリエットの生んだ子どもを自分の嫡男としてひきとり、舞台から去ったら、観客席から、みかんの10箇や20箇、彼に向かって投げつけられてもおかしくないだろう。
もうここまで書いたら、あらすじを書く必要もなくなってしまっているのだが……、
1904年の夏のイングランドでの話である。エリート大学生が夏休みを田舎で過ごすことになり、そこで知り合った農家の若い女性と恋に落ちる。男女の仲になった二人だが、夏休みの終わりとともに別れる運命にあった。しかし二人は将来を誓いあい、大学生の言葉を信じた若い女性は村を出て結婚を夢見て大学生に会いにくる。しかし、すでに大学生は階級の違う女性と結ばれることに戸惑いを感じ、同じ上流階級の女性と結婚をすることを決意していた。そのため彼を追いかけてきた農家の娘から逃げてしまう。農家の娘は、実家に帰り、失意のなか、大学生との間にできた子どもを出産するが、ほどなく息をひきとってしまう。
そして数年後【映画のあらすじでは18年後となっているが、私の記憶のかぎりでは18年も立っていない】、このクソ大学生は結婚していて、妻とともに、かつて夏休みを過ごした村を再訪する【このクソばかの元大学生は、どういうつもりなのかと、私は観ていて腹立たしい思いにとらわれていた】。そして村で、あの農家の娘が子どもを産んでほどなくして死んだことを初めて知る。村を再訪した男とその妻の間には子どもはいない。そして村を去るとき、農家の娘と彼との間にできた子ども――すでにりっぱな少年になっている――が、何も知らないまま、彼に親しげに手をふるのであった。
映画が終わる頃になって私の怒りは頂点に達していた。べつに田舎娘に子どもをつくっても責任をとろうとしないクズ男に対して腹をたてたのではない。こういう人間のくずはどこにでもいるのだから。
またこのくず男が、たとえ若気の至りとはいえ、純情な若い女性を不幸にしたことに対し、なんの良心の呵責も感じないようにみえる(すくなくとも、悔悛のセリフはない)ことに私は腹をたてたわけではない。若気の至りを反省でもすればと思うのだが、何の痛痒を感じなくても、それはかまわない。そういう人間のクズは山のようにいるのだから。
そうではなくて私が腹をたてたのは、娘の悲しい運命についての話を聞きながら、このばか男は、反省するでもなく、心を閉ざすでもなく、ただ、なつかしい昔の楽しい思い出にひたるような顔をするのだ(ジェームズ・ウィルビーが演じてるのだが、その表情をみて、私は殺意さえ抱いた――ジェームズ・ウィルビーは映画『モーリス』では主役を演じている)。
視点が、哀れな農家の娘ではなく、彼女を死に追いやりながらも、反省もしないエリート層のそれであって、そこに唖然としつつも私は激しい怒りを覚えたのである。
結婚後の彼には子どもがいない。しかし、この村には彼の血をひく子どもがいる。しかもその子どもが別れ際に、なにも知らないまま、彼(父親でもある)に親しげに手をふるのであって、それでこのくず男に許しがあたえられてしまう錯覚すら生まれるのだ。
先に『マダム・バタフライ』と同じような物語であると述べたが、そこにみらえる植民地を支配する帝国主義的視座は、『サマー・ストーリー』における庶民や農民を搾取するエリート層の視座と通底している。そして帝国側、エリート階級側は、みずらかの非道な暴力性、搾取的権力の行使について、許されるものと考えている。あるいは許されてしかるべきあるという心性が、この映画の元大学生の描き方に投影されている。
就中、この映画では子どものいない夫婦となった元大学生も、実の子どもを発見することで、彼を養子とすれば、家を存続させることができる。不幸な出来事も、なにか丸く収まるのである。農家の娘にとってではない。このエリート・クソ・元大学生にとって。
こんな恥ずかしいむき出しのエリート主義は、近年おめにかかったことはない。ゴールズワージーの『りんごの木』の映画化であると知って、ある程度納得した。世界観が、虐げられた人びとの側に立っていないことも、ある程度は納得できた――一昔も、二昔も前の小説なのだから仕方がないのか、と。『りんごの木』は、英文学史上有名な作品なのだが、私は読んではいなかった――映画を観たときに。映画と原作の小説は違って、小説のほうを読めば異なる印象を受けるかもしれなかったのだが、私の怒りは大きすぎて、小説のほうを読む気にはなっていない。いまも。おそらく死ぬまで。
posted by ohashi at 21:01| 映画
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2023年06月01日
『われら幸運な少数』
昨年の『ラビット・ホール』がよかったので、劇団昴のPit昴/サイスタジオ大山第一に足を運んだ。今回はイモジェン・スタッブス作『われら幸運の少数』(2004)【訳:芹沢みどり、演出:千葉哲也、5月20日~6月4日】は、上演のパンフレットを引用すると:
もし、この通りの内容の芝居なら、面白くないはずがない。今回、時間がなくて予習できなかったのだが、充分に面白いはずと、期待に胸ふくらませて大山のスタジオに。
ところが最初のうちは、どうしても芝居に入り込めなかった。翻訳劇だからではない。私はシェイクスピア劇も含め、翻訳劇のほうをたくさん観ている。
【コロナ禍によって私の観劇体験は、大きな断然を迎えるのだが、コロナ禍前には、千葉哲也氏の演出の舞台ではジョー・ペンホール『いま、ここにある武器』(2016)を観ている(千葉氏自身も演じておられた)。また作品の予習がまにあわず、会場の「風姿花伝」まで炎天下のなかを歩きながら、原書をかろうじて最後まで読んだことを覚えている。】
また翻訳が悪いということは絶対にない。シェイクスピアからの引用は福田恆存訳を使っているが、よくこなれた訳でわかりやすくまた格調もあり違和感はない。
劇団を率いる演出家役のヘティは、英国ではジュリエット・スティーヴンソンが演じているようだが(原書による情報)、日本版は彼女ほど癖のありそうな人物ではない。またへティを助けるフローラもふくめ、新たに成立する劇団のメンバーは、サイスタジオのある東武東上線大山駅近辺の主婦たちがコスプレをしているようにしか見えない。
これは演じている人たちのせいではなく、脚本のせいでもある。ゼロから劇団を立ち上げるために、オーディションをおこなうのだが(そう、この劇の前半も後半も、いかにして演劇作品を作り上げるか、また作られたかをめぐるメタドラマなのだが)、どの応募者もポンコツばかりで、オーディションが彼女たちをふるいにかけたとは、とても思えないのだ。
実際、オーディションで残った者たちも、ポンコツなのである。またやむにやまれず、プロの女優にも参加を懇願するのだが、彼女はアルコール依存症に近い存在で劇団の中心メンバーになるどころか劇団の足を引っぱりつづける。
シェイクスピアの『夏の夜の夢』で、職人たちがリハーサルを経て余興の芝居を演ずるさまをどうしても思い出してしまう。あれはド素人が悲劇を演ずるつもりでドタバタ喜劇を上演してしまうというメタドラマだったが、おそらくこの芝居、『真夏の夜の夢』の職人たちのドタバタ劇を踏まえているのだろう。
だとすれば、こんなポンコツばかりの劇団で、まともな芝居ができるはずがない。いや、ポンコツ七人組の劇団が上演する芝居は、おそらく目も当てられないひどいものとなるのだろう。面白そうな芝居と期待していた私たち観客は、複雑な思いにとらわれ始める。劇団員がひどすぎる、これでは惨憺たる失敗しか待っていないだろう、と。
劇団員がひどすぎるというのは、舞台でのこの芝居の設定である。だから現実に演じている劇団昴の劇団員のことではない。しかし、こうしたシナリオの展開が、目の前のパフォーマンスに影響を与えてしまう。この芝居は大丈夫なのかと私たちは思う。この芝居とは第二次世界大戦中に7人の劇団が上演しようとする『マクベス』のことだが、同時に、劇団昴の劇団員が今上演している『われら幸福な少数』のことにも思えてしまうのである。
戦時下で『マクベス』を演ずるのは、悪辣な専制君主を倒す物語が、ヒトラーのナチス・ドイツと戦う英国民の戦意高揚につながると考えてのことだが、素人の女性だけの劇団ではたして『マクベス』を上演できるのかと心配しつつみていると、ダイジェスト化された『マクベス』の、それでも最後の戦いの場面になると緊迫感と荘重さが一挙に増してマクベスが倒されたとき爆発的な勝利感覚が生まれ、ドラマが無事に成立したという安堵感に襲われる。
そして演者たちが英国国旗の小旗を舞台でふる。シェイクスピア劇を舞台にかろうじて実現したとしても、それにしてもなんという安っぽい戦意高揚プロパガンダへ協力したのかという不満も残る――だが、この不満は、ようやくこの芝居にのめりこめたことの証しなのだが。
*
第二次世界大戦下の英国でシェイクスピア劇を上演するという芝居は、有名なところで『ドレッサー』(The Dresser ロナルド・ハーウッドの1980年のイギリスの舞台劇。1983年に映画化)がある。老シェイクスピア俳優と、その付き人の男との楽屋でのやりとりがメインの芝居だが、設定は空襲によって上演が中断されたりする第二次大戦下のイギリス。ちなみに日本での初演の際には、付き人役が同性愛者であるという設定を外したのだが、『われら幸福な少数』が第二次世界大戦中にシェイクスピア演じた劇団物語のレズビアン版とすれば(エクスプリシットにレズビアン的要素が存在する)、『ドレッサー』は明らかに、そのゲイ版である。
『ドレッサー』のほうは最初から戦時下での巡業公演であることが既定の事実として設定されているが、『われら幸福な少数』は、政府からの助成金獲得など巡業実現に至るまでの苦労が詳細に描かれていて、そこに『ドレッサー』にはないディテールの重みが加わっている。とはいえ『ドレッサー』ではドサ回りとはいえプロの劇団の話であるのに対し、『われら』は素人劇団の話であって、そこに大きな落差がある。もちろん芝居としては素人劇団の話のほうが面白くなるのだが、繰り返すと、素人劇団の話なので、そのとばっちりで、素人劇団の話を上演する劇団の芝居までもが不安定な素人芝居にみえてしまうという、ありがたくない副次効果が生まれてしまうのである。
*
前半は、アルテミス・プレーヤーズ立ち上げのための『マクベス』上演というクライマックスでひとまず終わるが、後半は、空襲のなか各地で公演をつづけ劇団員が疲弊してゆくさまが描かれる。そして、戦争が終わり、劇団も解散することになる。最後に『ヘンリー五世』を上演することによって。
戦争で男性が兵隊として戦地にかり出されて、内地では女性が男性の仕事を肩代わりするようになったというのは、第一次世界大戦のときのことで(英国兵士は大陸にかりだされ、長い塹壕戦を耐えることになる)、第二次世界大戦では、ドイツが早々と大陸の諸国家を侵略、占領したために、英国も空と海での戦いはあっても、地上戦に兵士が投入されるのは、ノルマンディー上陸以降のことである。ダンケルクでは大陸から兵士が撤退してきた。第一次世界大戦と同じように男手がなくなったというわけではない。女性だけの劇団が英国各地を巡業したことに対しては、もう少し説明があってしかるべきではないかと思った(脚本の問題だが)。
またバトル・オブ・ブリテンは1940年のことで、1943年とか44年にはもう空襲はなかったと思うのに、劇中ではその時期になっても空襲に見舞われているのは、歴史的にみてあり得ないと思ったのだが、ただ、調べてみると、バトル・オブ・ブリテン以降も、ドイツは散発的に英国本土を空襲していたようで、歴史的事実を無視していたわけではないとわかった。
前半は劇団と演劇を作るメタドラマ。そして後半は、まさに舞台裏での劇団員どうしの愛と葛藤、そして戦争による犠牲というテーマが、7人の劇団員それぞれの運命の転変として示され、最後に『ヘンリー五世』の上演で幕を閉じられる。
「われら幸運な少数」というのは、シェイクスピアの『ヘンリー五世』のなかで、歴史的なアジンコート/アジャンクールの戦いの前に、兵士たちを鼓舞する演説のなかにある言葉。その日は、聖クリスピンの祭日で、この戦いに勝利して、これからも毎年この日に集い、戦いの思い出話に花を咲かせようとヘンリーは語りかける。そしてイングランドにいて、戦いに参加しなかった多くの者たちを悔しがらせてやろうじゃないか。「われら幸運な少数、兄弟の一団なのだ」と。
【ちなみに第二次世界大戦におけるアメリカ陸軍の対ドイツ戦勝利と終戦までを描くスティーヴン・スピルバーグとトム・ハンクス製作総指揮によるBBC/HBOのテレビドラマシリーズ(2001年製作)のタイトルが『バンド・オブ・ブラザース』(原題: Band of Brothers)だった。あと「聖クリスピンの祭日」(10月25日)は、迫害により殉教した双子のローマ人、クリスピヌスとクリスピニアヌスを祝う日。なお『われら幸運な少数』では、演出家のヘティが、クリスピンという人物に語りかける報告/書いた手紙が、劇全体の物語という体裁をとっている。そしてここから悲劇も生まれる】
『ヘンリー五世』では、これから戦う兵士たちを鼓舞するために使われたフレーズが、この『われら幸運な少数』では、劇団の最後の上演作品のなかで、1500回上演をおこなった7人劇団の、ある意味、偉業を回顧するフレーズとして使われる。
『ヘンリー5世』では戦争の始まりを告げるフレーズだったが、『われら幸運な少数』は、戦争の終わりを確認する感慨深い総括の名句となる(もちろん、戦禍を生き延びたという意味での「われら幸運な少数」という意味、逆にいえば多数の戦争犠牲たちを追悼する思いも込められている)。
かくして最初のほうは、いや前半は、どうなることかと心配と違和感にさいなまれていた私のような観客も、最後には、深い感慨にとらわれ、戦争とレズビアン共同体を主軸とするメタドラマについて、破壊と再生のテーマについて、歴史性と共時性について、思いをはせることにもなった。となれば、これがこの劇の狙いだったのかもしれない――素人芝居に不安を抱きながら、最後には感動的な舞台を目撃するという、まさに劇的な変容を実感する望むべき最高の舞台を、私たち観客は提供されたのである。
【追記:ちなみに、劇中で引用されるエリオットの「はじめに終わりあり、終わりにはじめあり」(この言葉通りではなく、ただ、その要旨を伝えれば、こうなるのだが)は、あえていうまでもないかもしれないが、『四つの四重奏』の「リトル・ギディング」からの引用。そのことはプログラムに記しておいたほうがよかったかも。】
第二次世界大戦下のロンドン。実在した女性だけのツアー劇団、“オシリス・プレイヤーズ”。この作品では「アルテミス・プレイヤーズ」として描きます。
シェイクスピア、バーナード・ショー…イギリス演劇を多くの国民に観てもらう為、戦時中の娯楽の乏しさを認めた政府からガソリンの割り当てを得て、国内各地、時には村の牧草地を舞台にしながら1500回もの講演を実現したアルテミス・プレーヤーズ。へティとフローラは空襲のサイレンが鳴り響くなか、劇団員を募る。RADA(英国王立演劇学校)出の女の子、車のタイヤを直せるだけで演技経験のない若い女性、出たがりの老婦人、酔っ払いの舞台女優、ドイツから亡命ユダヤ人親子、混血の小間使い…。空襲を避けながら、稽古と旅公演は続く。【以下略】
もし、この通りの内容の芝居なら、面白くないはずがない。今回、時間がなくて予習できなかったのだが、充分に面白いはずと、期待に胸ふくらませて大山のスタジオに。
ところが最初のうちは、どうしても芝居に入り込めなかった。翻訳劇だからではない。私はシェイクスピア劇も含め、翻訳劇のほうをたくさん観ている。
【コロナ禍によって私の観劇体験は、大きな断然を迎えるのだが、コロナ禍前には、千葉哲也氏の演出の舞台ではジョー・ペンホール『いま、ここにある武器』(2016)を観ている(千葉氏自身も演じておられた)。また作品の予習がまにあわず、会場の「風姿花伝」まで炎天下のなかを歩きながら、原書をかろうじて最後まで読んだことを覚えている。】
また翻訳が悪いということは絶対にない。シェイクスピアからの引用は福田恆存訳を使っているが、よくこなれた訳でわかりやすくまた格調もあり違和感はない。
劇団を率いる演出家役のヘティは、英国ではジュリエット・スティーヴンソンが演じているようだが(原書による情報)、日本版は彼女ほど癖のありそうな人物ではない。またへティを助けるフローラもふくめ、新たに成立する劇団のメンバーは、サイスタジオのある東武東上線大山駅近辺の主婦たちがコスプレをしているようにしか見えない。
これは演じている人たちのせいではなく、脚本のせいでもある。ゼロから劇団を立ち上げるために、オーディションをおこなうのだが(そう、この劇の前半も後半も、いかにして演劇作品を作り上げるか、また作られたかをめぐるメタドラマなのだが)、どの応募者もポンコツばかりで、オーディションが彼女たちをふるいにかけたとは、とても思えないのだ。
実際、オーディションで残った者たちも、ポンコツなのである。またやむにやまれず、プロの女優にも参加を懇願するのだが、彼女はアルコール依存症に近い存在で劇団の中心メンバーになるどころか劇団の足を引っぱりつづける。
シェイクスピアの『夏の夜の夢』で、職人たちがリハーサルを経て余興の芝居を演ずるさまをどうしても思い出してしまう。あれはド素人が悲劇を演ずるつもりでドタバタ喜劇を上演してしまうというメタドラマだったが、おそらくこの芝居、『真夏の夜の夢』の職人たちのドタバタ劇を踏まえているのだろう。
だとすれば、こんなポンコツばかりの劇団で、まともな芝居ができるはずがない。いや、ポンコツ七人組の劇団が上演する芝居は、おそらく目も当てられないひどいものとなるのだろう。面白そうな芝居と期待していた私たち観客は、複雑な思いにとらわれ始める。劇団員がひどすぎる、これでは惨憺たる失敗しか待っていないだろう、と。
劇団員がひどすぎるというのは、舞台でのこの芝居の設定である。だから現実に演じている劇団昴の劇団員のことではない。しかし、こうしたシナリオの展開が、目の前のパフォーマンスに影響を与えてしまう。この芝居は大丈夫なのかと私たちは思う。この芝居とは第二次世界大戦中に7人の劇団が上演しようとする『マクベス』のことだが、同時に、劇団昴の劇団員が今上演している『われら幸福な少数』のことにも思えてしまうのである。
戦時下で『マクベス』を演ずるのは、悪辣な専制君主を倒す物語が、ヒトラーのナチス・ドイツと戦う英国民の戦意高揚につながると考えてのことだが、素人の女性だけの劇団ではたして『マクベス』を上演できるのかと心配しつつみていると、ダイジェスト化された『マクベス』の、それでも最後の戦いの場面になると緊迫感と荘重さが一挙に増してマクベスが倒されたとき爆発的な勝利感覚が生まれ、ドラマが無事に成立したという安堵感に襲われる。
そして演者たちが英国国旗の小旗を舞台でふる。シェイクスピア劇を舞台にかろうじて実現したとしても、それにしてもなんという安っぽい戦意高揚プロパガンダへ協力したのかという不満も残る――だが、この不満は、ようやくこの芝居にのめりこめたことの証しなのだが。
*
第二次世界大戦下の英国でシェイクスピア劇を上演するという芝居は、有名なところで『ドレッサー』(The Dresser ロナルド・ハーウッドの1980年のイギリスの舞台劇。1983年に映画化)がある。老シェイクスピア俳優と、その付き人の男との楽屋でのやりとりがメインの芝居だが、設定は空襲によって上演が中断されたりする第二次大戦下のイギリス。ちなみに日本での初演の際には、付き人役が同性愛者であるという設定を外したのだが、『われら幸福な少数』が第二次世界大戦中にシェイクスピア演じた劇団物語のレズビアン版とすれば(エクスプリシットにレズビアン的要素が存在する)、『ドレッサー』は明らかに、そのゲイ版である。
『ドレッサー』のほうは最初から戦時下での巡業公演であることが既定の事実として設定されているが、『われら幸福な少数』は、政府からの助成金獲得など巡業実現に至るまでの苦労が詳細に描かれていて、そこに『ドレッサー』にはないディテールの重みが加わっている。とはいえ『ドレッサー』ではドサ回りとはいえプロの劇団の話であるのに対し、『われら』は素人劇団の話であって、そこに大きな落差がある。もちろん芝居としては素人劇団の話のほうが面白くなるのだが、繰り返すと、素人劇団の話なので、そのとばっちりで、素人劇団の話を上演する劇団の芝居までもが不安定な素人芝居にみえてしまうという、ありがたくない副次効果が生まれてしまうのである。
*
前半は、アルテミス・プレーヤーズ立ち上げのための『マクベス』上演というクライマックスでひとまず終わるが、後半は、空襲のなか各地で公演をつづけ劇団員が疲弊してゆくさまが描かれる。そして、戦争が終わり、劇団も解散することになる。最後に『ヘンリー五世』を上演することによって。
戦争で男性が兵隊として戦地にかり出されて、内地では女性が男性の仕事を肩代わりするようになったというのは、第一次世界大戦のときのことで(英国兵士は大陸にかりだされ、長い塹壕戦を耐えることになる)、第二次世界大戦では、ドイツが早々と大陸の諸国家を侵略、占領したために、英国も空と海での戦いはあっても、地上戦に兵士が投入されるのは、ノルマンディー上陸以降のことである。ダンケルクでは大陸から兵士が撤退してきた。第一次世界大戦と同じように男手がなくなったというわけではない。女性だけの劇団が英国各地を巡業したことに対しては、もう少し説明があってしかるべきではないかと思った(脚本の問題だが)。
またバトル・オブ・ブリテンは1940年のことで、1943年とか44年にはもう空襲はなかったと思うのに、劇中ではその時期になっても空襲に見舞われているのは、歴史的にみてあり得ないと思ったのだが、ただ、調べてみると、バトル・オブ・ブリテン以降も、ドイツは散発的に英国本土を空襲していたようで、歴史的事実を無視していたわけではないとわかった。
前半は劇団と演劇を作るメタドラマ。そして後半は、まさに舞台裏での劇団員どうしの愛と葛藤、そして戦争による犠牲というテーマが、7人の劇団員それぞれの運命の転変として示され、最後に『ヘンリー五世』の上演で幕を閉じられる。
「われら幸運な少数」というのは、シェイクスピアの『ヘンリー五世』のなかで、歴史的なアジンコート/アジャンクールの戦いの前に、兵士たちを鼓舞する演説のなかにある言葉。その日は、聖クリスピンの祭日で、この戦いに勝利して、これからも毎年この日に集い、戦いの思い出話に花を咲かせようとヘンリーは語りかける。そしてイングランドにいて、戦いに参加しなかった多くの者たちを悔しがらせてやろうじゃないか。「われら幸運な少数、兄弟の一団なのだ」と。
【ちなみに第二次世界大戦におけるアメリカ陸軍の対ドイツ戦勝利と終戦までを描くスティーヴン・スピルバーグとトム・ハンクス製作総指揮によるBBC/HBOのテレビドラマシリーズ(2001年製作)のタイトルが『バンド・オブ・ブラザース』(原題: Band of Brothers)だった。あと「聖クリスピンの祭日」(10月25日)は、迫害により殉教した双子のローマ人、クリスピヌスとクリスピニアヌスを祝う日。なお『われら幸運な少数』では、演出家のヘティが、クリスピンという人物に語りかける報告/書いた手紙が、劇全体の物語という体裁をとっている。そしてここから悲劇も生まれる】
『ヘンリー五世』では、これから戦う兵士たちを鼓舞するために使われたフレーズが、この『われら幸運な少数』では、劇団の最後の上演作品のなかで、1500回上演をおこなった7人劇団の、ある意味、偉業を回顧するフレーズとして使われる。
『ヘンリー5世』では戦争の始まりを告げるフレーズだったが、『われら幸運な少数』は、戦争の終わりを確認する感慨深い総括の名句となる(もちろん、戦禍を生き延びたという意味での「われら幸運な少数」という意味、逆にいえば多数の戦争犠牲たちを追悼する思いも込められている)。
かくして最初のほうは、いや前半は、どうなることかと心配と違和感にさいなまれていた私のような観客も、最後には、深い感慨にとらわれ、戦争とレズビアン共同体を主軸とするメタドラマについて、破壊と再生のテーマについて、歴史性と共時性について、思いをはせることにもなった。となれば、これがこの劇の狙いだったのかもしれない――素人芝居に不安を抱きながら、最後には感動的な舞台を目撃するという、まさに劇的な変容を実感する望むべき最高の舞台を、私たち観客は提供されたのである。
【追記:ちなみに、劇中で引用されるエリオットの「はじめに終わりあり、終わりにはじめあり」(この言葉通りではなく、ただ、その要旨を伝えれば、こうなるのだが)は、あえていうまでもないかもしれないが、『四つの四重奏』の「リトル・ギディング」からの引用。そのことはプログラムに記しておいたほうがよかったかも。】
posted by ohashi at 18:23| 演劇
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