2023年05月31日

Jアラート

またもJアラート。本州では警告音が響かなかったのだが、沖縄方面では、Jアラートが発信された。

北朝鮮の打ち上げに失敗した人工衛星/ミサイルについて、延々とニュースで取り上げる必要はない、他に取り上げるべき出来事があるのにという意見もネットで見受けられたが、また、それはその通りだと思うのだが、たとえ失敗した打ち上げにせよ、また関係する領域が沖縄地方に限られるとしての、それを大々的に取り上げることこそ、政権が強く望んでいることだろうから、メディアも政府の意向に沿って過剰報道をやめることはないだろう。

そう、北朝鮮がミサイルを発射してくれる限り、Jアラートが発信される限り、自民党の政権は揺らぐことはない。前回のJアラートはいつだったかを思い出してもいい。統一地方選挙中ではなかったか。自民党政権が危うくなるときに北朝鮮はミサイルを発射してくれる。

今回は、岸田首相の秘書官である長男の不祥事によって、せっかく上がった内閣支持率が下降に転じようかというときに、北朝鮮がミサイルを発射してくれた。長男の不祥事問題と弾道ミサイルの脅威、岸田政権にとって、マイナス要因をうわまわる支持要因といってもよい。

ただし、自民党政権に毎回、神風が吹くということではない。神風は予測もできなければ制御もできない。だからこそありがたい神風なのだが、北朝鮮のミサイルがそれと同じということではない。なぜなら自民党は、統一教会という、北朝鮮との回路をもっているからだ。

自民党政権が危うくなれば、北朝鮮にミサイル発射を要請できる。北朝鮮の脅威があるかぎり自民党政権は安泰である。また北朝鮮にとっても、敵対的な政権のほうが、将軍様の支配を確固たるものにできる。韓国の一つ前の政権、文政権は、北朝鮮に友好的な政権だったが、北朝鮮にとって友好的な政権ほど、みずからにとって都合の悪いものはない。だから北朝鮮は文政権を非難しつづけた。

北朝鮮のミサイルがあるかぎり、そしてプーチンがウクライナへの侵略戦争をつづけるかぎり、日本の自民統一政権は安泰だろう。そうして日本は、軍事面だけは強い三等国になりさがりつづけるだろう。
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2023年05月24日

芥川賞・直木賞の選評

数週間前のことだが、北方謙三が新聞の連載インタビューだったかで直木賞の選考の舞台裏のようなことを書いていて、正直、あきれた。

そもそも芥川賞と直木賞は、選考委員が選評を受賞作品が掲載される雑誌に載せているが、あれは完全に名誉毀損である。実際、数年前に、芥川賞・直木賞候補作になることを辞退すると公言した作家がいたが、それはまっとうな主張であって、頼みもしないし許しもしないのに勝手に評価をして、賞がもらえるならまだしも、受賞作と比べて低評価されたらたまったものではない。選考委員にそれをする資格があるのか。芥川賞と直木賞の選考委員にはそれをする資格は絶対にない。

いや、いろいろな文学賞では選考委員が候補作に優劣をつけ、選評を公表しているではないかと思うかも知れないが、ほとんどの文学賞は、作品を応募する。そしてその文学賞に応募した時点で、選考委員にぼろくそにけなされても、それは覚悟の上である。コンペティションというゲームに参加する以上、それは了解済みのこととなる。

ところが芥川賞や直木賞は、応募作品に優劣をつけているのではない。その年に発表された作品のなから候補作を選び、そしてそこから受賞作を選ぶ。候補作を選ぶのは文藝春秋社の社員からなる選考スタッフで、最終候補作を5、6作品まで絞り込む。選考委員は、その5、6作品から受賞作を決めるのである。

つまり当該年度に発表された全作品を対象となっているかにみえるが、選考委員が読むのは、ふるいにかけられた(しかし、そのふるいにどれだけ権威があるのは、そのふるいがどれだけ公平なのかは証明できない)候補作5、6作品だけである。

作家にとってみれば、候補作に選ばれる、さらには受賞することは栄誉であっても、候補作に選ばれなかった作家にしたら、求めもしないのに勝手に落選させられたら、たまったものではない。たとえ候補作に選ばれても、受賞作の引き立て役としてけなされたら、これもたまったものではない。自分から応募していれば話は別である。自分から応募してないのに、応募したかのように扱われ、けなされる。たまったものではない。

Wikipediaの記事(「芥川賞」)によると、「最終候補作が決定した時点で候補者に受賞の意志があるか確認を行い、最終候補作を発表する」とある。新人作家にとって最終候補作に選ばれるのは嬉しいことで、辞退する者はいないと思うので、最初は、というか一定期間まで、候補作に選んでもよいかと意向を問うことはしなかったと思うのだが。

とにかく選考委員による選評が問題なのである。最終候補作に選ばれても、受賞作の引き立て役として欠点をあれこれ指摘されたら、たまったものではない。それなら最終候補作に選ばれなかったほうがよいくらいだろう。またそれは、たとえ途中で意志を確認するとはいえ、最初からコンペティションに参加するつもりのなかった者を、強制的にコンペティションに参加させることは失礼極まりないことである。

繰り返すが、これは作品を応募する文学賞の場合とは異なることである。またその年の発表された全作品に選考スタッフは目をとおしているとしても、コンペティションを意識して書かれていない作品をコンペティション参加作として扱う時点で、すでに強制的であるとの批判は免れ得ない。

では、どうするか、選評をやめることである。そうすれば最終候補作に選ばれたこと自体が名誉なこととなる。選考委員は、ただ受賞作を発表するだけでいい。勝手に選んだのだから、理由を公表する必要はない。

そんな賞があるかというなかれ。たとえば映画のアカデミー賞は、まさにその形式である。投票によって候補(作)が選ばれる。ノミネートというかたちで。

アカデミー賞ではノミネートされること自体、名誉なことである。そしてグランプリも受賞作・受賞者が発表されるだけであって、受賞理由についてのコメントはいっさいない。それでいいのであって、受賞理由を明かせば、それによって他のノミネート者・作品をどうしてもけなすことになり、ノミネートの価値が下がってしまうからだ。

そして選評がなくても、大きなセレモニーがおこなえる。エンターテインメント業界のやることだから,スケールの大きなセレモニーは簡単にできる。

芥川賞・直木賞も、映画のアカデミー賞を見習うべきである。選考委員の偉そうなコメントほど不愉快なものはない。彼らは何様と思っているのか。

芥川賞・直木賞は、文藝春秋社の20名の社員による選考スタッフだけで決めてもよいと思うし、実際そうなのだろう。選考委員は、ただのお飾りである。そのお飾りが、なにを偉そうに優劣をつけるコメントしているのかと、私は毎年怒りを覚えている。とはいえ、芥川賞・直木賞の選評を読むことは不愉快なので、ずいぶん前から読むのをやめているのだが。
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2023年05月19日

《気持ち悪い》は差別


以下の記事をみて驚いた。これは純然たる同性愛差別ではないか、と。

「ザ少年俱楽部」「裸の少年」も《冷静に考えると気持ち悪い》…ジャニーズ性加害問題で番組名に批判殺到 5/18(木) 15:35配信 日刊ゲンダイDIGITAL

 ジャニーズ事務所創業者のジャニー喜多川氏(2019年死去、享年87)によるタレントへの性加害問題は、同事務所だけでなく、少年を“売り物”にしてきたメディア側にも批判の声が集まっている。

 目下、やり玉にあがっているのが、ジャニーズJr.が主体の番組だ。2000年9月から放送中のNHKの音楽バラエティ番組『ザ少年倶楽部』【中略】テレビ朝日系『裸の少年』は、01年4月からスタート。こちらも、ジャニーズJr.をメインとした番組で、今年4月からタイトルを「♯裸の少年」に変更。【中略】

「『ザ少年俱楽部』はJr.が主演できて全国にお披露目できる“露出の場”として人気。【中略】『裸の少年』はもともと深夜枠からスタートし、当時はタレントがパジャマ姿で登場していました。20年にはジャニーズJr.内のユニット『美 少年』が、番組内で合宿し、その様子と彼らの公演『パパママ一番 裸の少年 夏祭り!』を収めた番組初のDVDは話題になりました。公演名は、ジャニー喜多川氏が名付けたと報じられています。しかし、今回の騒動を受けてファンの一部や一般視聴者から、これらの番組に対し、Jr.を使って少年の“性的イメージ”を思い起こされる内容や名称に批判が出ています」(エンタメ誌ライター)

《私はジャニーズグループのファンで昔から気持ち悪いと思ってたし裁判の件も知ってたから言ってたんだけど ジャニーズは「パパママ一番 裸の少年 夏祭り!」と「ザ少年倶楽部」の名前は変えて欲しい》

《オタクは慣れすぎてなんも思わんくなってるけど冷静に考えると「裸の少年」とか「少年倶楽部」ってめちゃ気持ち悪い番組名やんな》

《ジャニーズJr.が出演する番組のタイトルが「裸の少年」っつうのも、そろそろシンドいよな。昔から気持ち悪いタイトルだなとは思ってたんだけども。。。》

 《NHKの ザ少年倶楽部も テレ朝の裸の少年も なんとか対応を!! 世間への悪印象しかないです》【以下略】


ジャーニー喜多川のタレントへの性加害は絶対に許してはいけないし、ただのセクハラ老人を美談の主人公に祭り上げ、性加害を隠蔽してきて、被害者を多く出したジャニーズ事務所とメディアの罪は限りなく重いことは、あえて言うまでもない。

また海外メディアに取り上げられ全世界に向けて報じられたから重い腰を上げた日本のメディアの多くは、その後進性を世界に晒したこと(それは日本の国益を限りなく損じたこと)を反省してほしいのだが、ここにきて。「少年倶楽部」とか「裸の少年」という番組のタイトルを「気持ち悪い」とする、悪辣なネット民の反応が出てきてことは、座視できない重要な問題と言わざるを得ない。

「冷静に考えると気持ち悪い」? 冷静に考えたら気持ち悪いのは、こいつらの頭のほうだ。

たとえば男性が女性を暴力的に犯すレイプ事件が発生したとしよう。これは許しがたい性犯罪である。では、だからといって、異性愛つまり男女がおこなう性行為は気持ち悪いものなのか。女性の性的魅力を暗示あるいは明示するテレビ番組とか小説などは、気持ち悪いものなのだろうか。

同意なき暴力的な性行為は犯罪である。しかしだからといって異性愛そのものが犯罪ということにはならなし、それが気持ち悪いということにもならない。

同じく、年少者へのセクハラ、パワハラへの一環として性加害行為は犯罪である。しかしだからといて同性愛そのものが犯罪ということにはならないし、それが気持ち悪いということにもならない。

冷静に考えれば、少年愛は、昔から、美しいものとされてきた。少年の身体の性的魅力は異性愛者も同性愛者も認めるところだろう。たとえすべてではないとしても裸の少年は美しいし、少年倶楽部は、ホモセクシュアルにつながる性的欲望を育む揺籃機関でもある。裸の少年と少年倶楽部というネーミングを気持ち悪いというのは、たんなるホモフォビアであり同性愛差別以外の何物でもない。

レイプがあるからといって、異性愛を気持ち悪いもの、あるいは犯罪的なものとみなすことはない。だったらレイプがあったからといって、同性愛を気持ち悪いもの、犯罪的なものとみなすことは理不尽である。いや、異性愛はノーマルだから、気持ち悪くない。同性愛が気持ち悪いのは、それがアブノーマルだからどいう主張があらわれたのなら、それは同性愛者差別以外のなにものでもない。

また何であれ、それが「気持ち悪い」というのは差別の言語であって、絶対に使ってはならない用法である。

「少年倶楽部」と「裸の少年」が「気持ち悪い」という主張は、そもそもが差別的であるからやめるべきであり、ましてやそれが同性愛を否定するような思想に基づくものであるとすれば、なおのこと、それは差別思想に基づくものとして強く非難され弾劾されねばならない。どうせ、彼らネトウヨどもは、統一教会と自民党のまわし者だろうが。

繰り返せば、少年愛は、美しいものである。気持ち悪いものでは絶対にない。

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2023年05月16日

シベリア

2023年5月16日正午からのTVKの番組『猫のひたいほどワイド』で、パン菓子というか洋菓子というか和菓子というか、「シベリア」を紹介していた。

しかも、横浜桜木町の老舗パン屋コテイベーカリーからの生中継で、観ていて興奮した。というのもコテイベーカリーがシベリア発祥の店と思いこんでいたからだが、Wikipediaによると(とはいえ要領を得ない記事なのだが)、発祥の地ではないようだ。

「1916年(大正5年)創業の横浜のコテイベーカリーによれば、誕生は明治後半から大正初期頃で、当時はどこのパン屋でも製造していたとの記録がある。コテイベーカリーでは、大正5年の創業以来、シベリアの製法を変えていない」とWikpediaにはある。

若いレポーターならびにMCは、シベリアについて知らないようだったが、私のような年寄りにはなつかしいパンというか菓子である。

Wikipediaによれば

シベリアとは、羊羹(ようかん)または小豆の餡子(あんこ)をカステラに挟み込んだ日本の菓子である。……羊羹や小豆餡はサンドイッチのように、スライスしてカステラに挟み込んでいるのではなく、トレーにカステラを敷いてから融けた状態で流し込み、さらにその上にカステラを被せるので、羊羹とカステラが癒着しているのが大きな特徴である。

また

首都圏を中心とした東日本と中部地方では広まっており、近畿以西の西日本ではあまりなじみがないと言われているが、高知県では地元メーカーが作っており、山崎製パンのものも含めてスーパーマーケットなどで幅広く売られている。

とある。

 首都圏に生まれていないが私が知っているのは中部地方生まれであるからで(私の記憶では、真ん中の羊羹は、黒いだけでなく緑色のものもあった)、比較的最近、近くのスーパーで売られていた(そのときはリバイバル商品かと思ったが)。なつかしくて購入した。甘い物は私には毒なのだが。

TVKの番組内ではコテイベーカリーのシベリア(さらにコロッケパンとマヨネーズパンも)を試食していたが、コテイベーカリー版のシベリアは羊羹の部分が大きい。それにあわせてカステラの部分も大きく、予想外に大きな菓子となっていた。

また味も、出演者にとっては予想外のものだったらしく、あまり甘くないという感想が聞かれたが、それもコテイベーカリー独自の製法によるものかもしれない。ふつうは予想どおりの味である。

番組では、なつかしいとか冷やして食べるとおいしいといったコメントが視聴者から寄せられていたが、消えずにいまもつくられているのはすばらしい。

またさらにシベリアの分類不可能性も私にとって楽しい。羊羹を使っているから和菓子かというとそうでもなく、カステラを使っているので洋菓子ともいえる。和洋菓子というべきか、あるいは和菓子でも洋菓子でもないというべきか。パン屋で売られているそれは、パンではない。菓子パンでもない。シベリアと銘打っているがシベリアとは関係がないようだ。シベリア産あるいはロシア産でもない。日本の菓子なのだが無国籍的である。

そして今なお製造されているのに、出会うと、動物の絶滅種に出会ったかのように、昔なつかしいという感想が出る。古くて、しかもいまなお新しい。消滅したと思っていても、残存している。この脱境界的なところが、たまらなく嬉しい
posted by ohashi at 13:55| コメント | 更新情報をチェックする

伝説と胡蝶

映画『レジェンド&バタフライ』(大友啓史監督、2023)が5月12日からアマゾンプライムで配信となった。映画館でみなくとも、この配信でなら観る人も多くいると思うのだが、ただ、それにしても映画そのものは、公開前には、バンドワゴンに乗ろうとした連中によるひたすら絶賛の推薦言説(推薦の言葉を寄せた愚か者たちは大恥をかいたわけだが)。公開直後も、バンドワゴンに乗り遅れまいと絶賛の嵐。それが興行成績がふるわないとわかると今度は一転して批判のオンパレード。そして、決して箸にも棒にもかからない駄作ではないので、良いところもいっぱいある映画なのだが、そのよいところすら、欠陥扱いにする、麗しきネット民の愚劣な暴挙。まあ今回の配信に対するアマゾンにおけるレビューでは、低評価もあるが、そんなにひどい映画ではない、良作で東映が記念作品として作っただけあるというような評価がけっこう多いのは救いといえば救いだと思う。

まあ、そのためネタバレのようなことを書くことも可能になったのは、ありがたい。

というのも、『ヴィレッジ』の記事でも書いたのだが、水平方向のバンジー(われながら命名が下手すぎるのだが)の例として、『レジェンド&バタフライ』を例に挙げようとしたが、ネタバレになるかもしれないと避けた。そのかわりにビアスの「アウルクリーク橋の事件」とかカザンザキスの『最後の誘惑』などをあげるにとどめたのだが、これで堂々と例にあげることができる。

映画のタイトルの「レジェンド&バタフライ」は、信長がレジェンド=伝説、濃姫が帰蝶と呼ばれていたというか本名かもしれず、バタフライ。いうなれば「信長と濃姫」ということらしい。

しかしこのタイトルはまた、この映画の本能寺のシーンを思わせるものであった。

というのも信長の死体が見つからなかったので、信長は、本能寺にあった秘密の地下通路からかどうかはわからないが、とにかく逃げ延びたのではないかという「伝説」があるからだ。この「伝説」の真偽は別として、「伝説」があったことは事実。

そして映画では本能寺を一人逃げ延びた信長が、安土城に帰り、濃姫を連れだし、二人で海外へ脱出する。「せかいののぶなが」の世界となる(映画『せかいのおきく』参照)。もちろん、そんなにとんとんびょうしに海外へ脱出できるわけもなく、信長も濃姫も、南蛮船に乗船してからも、マントの下は本能寺での血塗られた寝間着姿で、濃姫も安土城の寝室からそのまま出奔した姿のままである。そのためたとえ二人が最後に南蛮人の服装になり海の彼方の浄土を目指すことになっても、これはめでたしめでたしで終わる話ではなくて、幻想であろうと察しがつく。

そうなのだ。最後は本能寺にもどる。カザンザキスの『最後の誘惑』では自分が十字架にかけられていたことを確認したイエスは、「ことはなせり」と満足して死んでゆく(『ヴィレッジ』の記事参照)。信長も、すべてが幻想であったことをさとり、「是非に及ばず」と、頸動脈を刀で斬って自害するのである。

最後の最後で現実に引き戻される、このバンジージャンプのような効果は、中国の故事でいう「邯鄲の夢」である(『ヴィレッジ』の記事参照)。

と同時に「邯鄲の夢」と似たような逸話として「胡蝶の夢」がある。夢の中で蝶としてひらひらと飛んでいたところ目が覚めたが、自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも実は夢でみた蝶こそがほんとうの自分で、今の自分は蝶が見ている夢なのかという荘氏による説話。夢と現実の区別のつけがたさ、自己と他者との区別のつけがたさのたとえなのだが、辞書などではたいてい、そこから派生した意義も載っている。つまり自他の分別不可能というのはわかりやすい教義ではない。夢と現実の不可分性も同様。そこで夢と目覚めの関係から、蝶になって飛び回った楽しい経験も一瞬の夢にしかすぎなかった⇒人生のはかなさ のたとえにも「胡蝶の夢」が使われるようになった。こうなると「邯鄲の夢」と区別がつかなくなる。ふたつの夢がまざりあう。

『レジェンド&バタフライ』の最後も、基本的に「邯鄲の夢」と同じ構造である。本能寺を逃れ異国へと旅立つ長い日々も、本能寺が燃え落ちる直前に信長がみた夢にすぎなかった。それはまた濃姫との夢のような異国への旅の至福の日々であり、いずれ醒めるはかなき夢にすぎないが、同時に、夢とは思えぬ現実味があった(この点、映画は夢と現実との映像差がない)。「胡蝶の夢」にも通ずるものがある。

ちなみに濃姫の名前は帰蝶といわれているが、「胡蝶」であったともいわれる。濃姫は「蝶」であった。「バタフライ」

「レジェンド&バタフライ」

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2023年05月13日

『デスパレート・ラン』

原題はThe Desperate Hour。84分の映画で、事件は、ほぼリアルタイムで進行する。

娘をスクールバスに乗せて送り出し、学校を休むらしい高校生の息子を家に残して、日課になっているらしいジョギングに出かけた母親が、森のなかでの携帯でのやりとりならびに携帯でみるテレビニュース(ネットニュースかもしれないが)を通して、町の高校で銃乱射事件が起こっていることを知る。

息子が高校に行ったらしいことがわかると、息子の安否を気遣い、なんとしても町の高校に行って確かめなくてはと思うのだが、町まで走っていくと時間がかかるし、くじいた足には負担がかかりすぎる。迎えの車を頼むがなかなかこない、心配と不安で頭がおかしくなりそうになるが、そこに警察から電話がかかってくる…………。

ほぼ全編、主役で母親役のナオミ・ワッツの一人芝居といってよく(あと登場人物は小学生の娘と高校生の息子)、残りは携帯を通しての声しか聞こえてこない。いわゆるワン・シチューション・ドラマで、森の中のジョギング中に事件が起こり、それを携帯を手段にして事件の内容をつかみ、事件を解決にまで導く。こう書くと超人的な母親と思われかもしれないが、森のなかで急ぐ余り足をくじいてしまい、ランの大半は足をひきずっているため、疾走感はあまりないし、ただ息子のことが心配で興奮して必死になっているだけで、警察の対応のじゃまをしてしまうこともあり、まさにふつうの母親ならそうなるであろうという像からかけ離れたものとはならない。

また携帯でしか情報を得ることができないため、フラストレーションがたまるが、それは、もし現実のなにか大きな事件に遭遇した私たちが抱くフラストレーション感と同じものである。そういう意味でリアリティがあって、84分間、飽きさせない。緊迫感をもって最後まで観ることができた。

問題は、この映画のアメリカでの評価が著しく低いことである。

フィリップ・ノイス監督の映画は、『デッド・カーム』(1988)、『ブラインド・フューリー』(1989)、『パトリオット・ゲーム』(1992)、『硝子の塔』(1993)、『今そこにある危機』(1994)、『セイント』(1997)、『ボーン・コレクター』(1999)、『愛の落日』(2002)、『裸足の1500マイル』(2002)、『ソルト』(2010)までは観ていた。私には久しぶりのノイス監督の映画である。ナオミ・ワッツの一人芝居、ワン・シチュエーション映画で、小ぶりとはいえよく出来た映画だと思った。

【ノイス監督の映画としては、大作娯楽映画以外にも、感銘深い映画がある。たとえば『裸足の1500マイル』(ケネス・ブラナーが悪役を演じていた)。この映画で、1500マイルを歩いた少女二人(だったか)の老人となった今の姿が最後に映し出されたとき私は感極まって泣いた。『愛の落日』はマイケル・ケインと、ブレンダン・フレイザー(!)との共演で、グレアム・グリーンの『おとなしいアメリカ人』の映画化。この映画については、機会があれば語りたい。】

では、なにがアメリカの観客の多くに気に入らなかったのだろう。ナオミ・ワッツ一人芝居の映画で、どうみても低予算の映画だったからか。映画館の料金は、映画製作費にかかわらず一律である。超大作の娯楽映画も、安上がりのこの映画も同じ料金ならば、この映画はお得な映画ではなくて、割高な映画である。それに腹をたてたのだろうか。

しかし映画の面白さは、製作費に比例するものなのか。超大作でもつまらない映画もあれば、低予算でも面白い映画はある。『カメラを止めるな』は、低予算映画で、なおかつ有名な俳優が一人も出演していないにもかかわらずアイデアの面白さで大ヒットした。ただそれは例外的で、総じて、製作費は面白さに比例するのなら、低予算映画は、娯楽大作映画よりもヒットしなばかりか、観客の怒りを買うことになるのか。

ただ『デスパレート・ラン』は、一人芝居ということもあり、テレビ映画として放送してもいいものかもしれない。テレビでみればいいものを、わざわざ金を出して映画館に行く必要はないということでアメリカの観客の多くは怒っているのか。

しかしこの映画の大半は、ナオミ・ワッツが森のなかを走っているシーンを地上だけでなく、上空からもドローンでとらえていて、とくに上空からのカナダの森の美しさに目を奪われる――こんな紅葉シーンは日本でもめったにお目にかかれないというか、カナダにこんなみごとな紅葉があるのかと驚く。映画館の大スクリーンでこそ、この映画の映像美が際立つ。

と同時にナオミ・ワッツが携帯でのナビゲートを頼りに道なき森をさまようとき、森そのものが、出口のない迷路をさまよう彼女の心象風景にもみえてくる。森は、圧倒的な存在感で、生のリアルな自然であることを主張するが、同時に、母親が息子を助けるために駆け抜けねばならない美しい障害としても大きな存在感をもって立ちはだかる。

脚本はクリス・スパーリングで、もうひとつの一人芝居『[リミット]』(原題Buried(2010))の脚本でも名高い。ライアン・レイノルズ主演の『[リミット]』は、棺桶に入れられ埋められた男が、この絶体絶命の状況からどうやって脱出するのか、しかもリアルタイムでという、まさに興味津々という映画だったが、これに比べると、銃乱射事件が起こった高校に急行する母親の物語は、驚異と不可能感が、それほど強くない。携帯で情報を収集しながら森を走り抜けるしかない母親の物語は、最終的に事件の現場に行って息子の安否を確認するという展開しか観客に思い浮かばないため、驚異感も緊迫感も希薄といえば希薄である。

このゆるさにアメリカの観客は低評価を与えたのか。そうかもしれないが、実際、なにか事件が起こったとき、私が知りうるのはごく限られた情報でしかない。報道も詳しいことを教えてくれないというか、警察などの発表以上のことを報道が教えてくれるわけではない。そのためこの映画でナオミ・ワッツが陥るところの、限られた情報に振り回され、あとは忍耐強く待つしかないというフラストレーション状態は、ある意味、一般的さらには普遍的なものといえよう。

そのためこの映画は、困難な状況からの脱出というよりも、知覚と認識を限られた一人称映画的なところがある。そのため、一人称映画に対するフラストレーションと同じものを観客が感じたともいえなくもない。

つまり以前、『ハードコア』という一人称映画について語ったことをここで確認すれば、私たちは自分の目で前方しか見ることはできないが、だからといって、私たちは自分の姿形、あるいは後ろ姿を想像できないわけではない。鏡とか写真を通して、私たちは自分の顔かたちや全体像を想像できる。また周囲の人間たちを手がかりとして自分の姿も想像できる。私たちの頭は、前方だけでなく、全方位を認識し、自分自身の全体像も構築できる。もちろんそれは想像の産物であって正確なものでないばかりか、妄想にすぎないとしても。そのため前方しか見えない一人称映画は、私たちの知覚や認識のありようをリアルにとらえてはない。むしろ一人称映画は、人物の全体像がわからないがゆえにフラストレーションがたまる。観客は、一人称映画の当事者に感情移入はできないのである。

私たちの自己認識は、子どもの頃と同じ、三人称である(子どもは自分の「私」ではなく「太郎くん」「ハナちゃん」と呼ぶ)。それが一人称映画となると、私たちは他人の脳と一体化して、その他人の経験を自分のものと共有できるとう思うのは単純すぎる。一人称映画は、むしろの他人の脳のなかに閉じ込められて身動きできないような閉塞感を生み出すものだ。私たちは、トム・クルーズやスカーレット・ヨハンセンが出演している映画において、彼等と一体化できる(たとえそれが自身を理想化する妄想だとしても)。つまり自分の全体像と自分が置かれている世界がわからないと、特定の人物と一体化できないし、その人物に感情移入できないのである。

そうなると『デスパレート・ラン』は、三人称映画でありながら、主人公を一人称映画の主体であるかのような状況に置く。また一人称映画では、一人称の主体は自由に行動できても、そこに入り込んだ観客には限定的な自己像や世界像しか与えられない。しかし、この映画では、主人公も限られた情報による限られた現実把握しかできないため、一人称映画の主役の脳内に入ったかのような印象をうける。そしてその状態は観客にも感染する。

広大な森、海と空と森とが接する海辺の道路、こんな広々とした空間のなかで、自分がどこにいるのかわからず、起きている事件の全容も、ドローンのように俯瞰的に全体を把握することはできないのである。そこに観客は望まぬ閉塞感も押しつけられたと感ずるのではないか。

しかも、事件は、学校における銃乱射事件である。たとえよその国でも起こっているかもしれないとしても、圧倒的にアメリカで起こる確率の多い事件、いうなればアメリカのお家芸である(アメリカの銃所持擁護者どもは、こうした乱射事件が、世界各地で起こっていると思っているかもしれないが、起こっているのはほぼアメリカだけ。彼等は恥を知るべきである)。そしてアメリカの市民たちは、こうした事件の頻発にうんざりを通り越して絶望しているかもしれない。銃乱射事件抑止のための解決策は今のところはなく、この問題に出口は見えない。この問題を、娯楽映画の題材としてリアルな物語構成によって観客に押しつけてくることへの拒否感が、この映画の低評価を招いたのではないか。

いまのところ、これが私の暫定的結論である。
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2023年05月12日

奇妙なニュース

読売新聞 2023年5月11日 21:59
中学生の個人情報が載った書類、突風で飛ばされ紛失…担任が家庭訪問で持ち出し中

 山梨県甲斐市教育委員会は9日、市立中学校の生徒1人の個人情報が記入された書類を紛失したと発表した。8日、担任教諭が家庭訪問の際に突風で書類を飛ばされたためで、市教委は再発防止に努めるとしている。

 発表によると、教諭は家庭訪問のため、学年やクラスなどが載った書類の写しを持ち出した。市内の路上で、書類を持ち生徒宅に電話しようとしたところ、強風に遭い、飛散した。すぐに拾い集めたが2枚見つからず、そのうちの1枚に名前や生年月日など、個人が特定される情報が載っていたという。

 市教委は「今後、個人情報管理に関する校内規定の見直しについて、マニュアルなどを作成する」とコメントした。

 甲府地方気象台によると8日、同市近くの韮崎の最大瞬間風速は22・5メートルだった。


このニュースを読んで不思議な感じがした。今でも家庭訪問をしているのだということ。
私の子どもの頃は家庭訪問があった。ただし小学校だけ。中学校では担任の家庭訪問はなかった。それが今、中学校で家庭訪問。あるいはこれは常態化した家庭訪問ではなくて、なにか特殊な事情があって、一生徒のためだけに家庭訪問をおこなったのか。不思議である。

また昔なら電話ボックスから電話したのだろうが、いまや携帯電話の時代。路上で歩きながらでも電話できる。とはいえ相手の家に携帯で電話するときには、立ち止まって、外部の音が入らないような場所を選んで電話すると思うのだが。

そして8日に韮崎の最大瞬間風速が22・5メートル。これはすごい。強風である。こんなときに出歩かない方がいい。

あと学校では今、タブレットやパソコン、また携帯にデータを保存しておかないのだろうか。紙媒体というか書類を持ち歩いていることにも驚きを禁じ得ない。
posted by ohashi at 00:50| コメント | 更新情報をチェックする

2023年05月11日

『シン・仮面ライダー』

『シン・ゴジラ』(庵野秀明総監督、樋口真嗣監督、2016)では、ゴジラの世界(とりわけ第一作の『ゴジラ』の世界)が〈エヴァンゲリオン〉の世界に吸収され変容を遂げたという印象が強かった。ゴジラは、自衛隊が総力を挙げて迎撃する〈使徒〉のひとつとなる。〈使徒〉は『エヴァンゲリオン』においては複数存在していたが、『シン・ゴジラ』は、ゴジラだけではないかと言われそうだが、ゴジラは姿を変えて二度上陸する。それも〈モスラ〉がイモムシから蛾へと変態するように、ゴジラもまた最終的に変態・進化する。ゴジラへの最終攻撃は、複数の新幹線爆弾によって動きを封ずるものだったが、その攻撃の規模の大きさは、〈エヴァンゲリオン〉の世界に通ずるものがあった。

『シン・ウルトラマン』(樋口真嗣監督、2022)では、ウルトラマンの世界がエヴァンゲリオンの世界に入り込んだかにみえたが実際には相互嵌入という奇妙な事態になった。そもそもエヴァンゲリオンの世界のルーツがウルトラマンの世界にあったからで、両世界は親和度を高めることになった。つまりどこまでがエヴァンゲリオンの世界でどこまでがウルトラマンの世界なのか判別しがたくなったのだ。エヴァの世界がウルトラマンの世界に吸収されたようにもみえるし、エヴァの世界がウルトラマンの世界を吸収したようにもみえたのだから。

そしてこのシンクロ状態は、ウルトラマンの世界の奇怪さを浮き立たせるとともに、エヴァンゲリオンの心象世界をいやがうえにも喚起することになった。

ウルトラマンの世界には、怪獣だけでなく、人間サイズから巨人サイズへと変化でき流暢な日本語を話す宇宙人が登場する。この宇宙人、西日のさす四畳半の畳の間で人間化したウルトラマンと膝をつき合わせて話をするといった(これと全く同じシーンは登場しないのだが)昭和の日常感にどっぷりと使った変な宇宙人であり、この変な宇宙人が触発させるのは、エヴァンゲリオンの内向的心象風景であった。映画は、ウルトラマンの世界に端を発するこのシュールな不条理空間を定着させる。それはまた、現代の日本映画では稀有な空間とその映像の出現でもあった――とはいえその映像のルーツはウルトラマンなのだが。

仮面ライダーの世界とエヴァンゲリオンの世界とのシンクロ率は低い。『シン・仮面ライダー』(庵野秀明監督、2023)では、『シン・ゴジラ』の場合と異なり、仮面ライダーはエヴァンゲリオンの世界に入り込まない。むしろエヴァンゲリオンの世界が、仮面ライダーの世界のなかにもぐりこみ、気づくと、仮面ライダーの世界をエヴァンゲリオン色に染め上げてしまう。仮面ライダー1号である本郷猛/池松壮亮と、仮面ライダー2号である一文字隼人/柄本佑は、エヴァンゲリオンの登場人物にも見えてくる。そして仮面ライダー0号も登場するとなると、これは、エヴァ零号機、エヴァ初号機、エヴァ弐号機とその搭乗員が織りなす『エヴァンゲリオン』のドラマの21世紀仮面ライダー版ではないか。あるいは仮面ライダーの世界が内側から侵食されて、エヴァンゲリオンの世界に変態したのではないか。

実際、気づくと『シン・仮面ライダー』では、『エヴァンゲリオン』で特徴的だった日常的な街並み――電柱にからみつく網状体のような電線の束――が、およそSFとはそぐわない陳腐な日常性の記号となり、いつしか主人公も、無機質な工場地帯、それに隣接する港湾施設を背景として黙想することになる。エヴァンゲリオンの世界さながらに。

繰り返すと、エヴァの世界に入り込んで暴れまくったゴジラから、エヴァの世界とウルトラマンの世界が合わせ鏡のように相互に反映しあった『シン・ウルトラマン』の世界を経て、仮面ライダーの世界に吸収されたエヴァの世界が、仮面ライダーの世界を内側から突き破って、その世界を占拠したと、そんなふうに図式的に語れぬことはない。

いずれにせよ、〈シン・シリーズ〉の「シン」は、「シンクロ」の「シン」でもあって、エヴァンゲリオンの世界と、ウルトラマン世界、あるいは仮面ライダーの世界とのシンクロが毎回図られているといえようか。

ウルトラマンの世界とエヴァの世界のシンクロ率は高かった。仮面ライダーの世界とエヴァの世界のシクロ率は高くはない。そのため途中でシンクロを断ち切って、仮面ライダーの世界を一人歩きさせたようなところがある。しかし、それでも所々、エヴァの世界が侵食するところあり、まぎれもないエヴァ的な心象風景が出現することになった。

このシンクロの試みはいつまで、どこまで続くのだろうか。

繰り返すが「シン」は「シンクロ」の「シン」である
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2023年05月10日

『ゲイ短編小説集』異聞

異聞というほどのものではないというか、異聞とは縁もゆかりもない話かもしれないが。

平凡社の編集者の方から、この短編小説集がどのような経緯で企画されたのか教えて欲しいとのこと。

そして気が付いた、すっかり忘れていたこと、を。

これは現在『レズビアン短編小説集』として販売されているアンソロジー(当時は『女たちの時間』(1998)というタイトルだった)と同時に、いうなれば姉妹版として『ゲイ短編小説集』を刊行する予定だったが、私の怠慢で、出版が1999年と一年遅れ、姉妹版としての意味が薄れたというようなことを、私は、訳者あとがきで書いていた。

ふつうの翻訳ならば、編集者の方が、この本は翻訳してどうですかと話をもちこんでくる。私が翻訳を引き受けるということになるし、過去、そうなっていたのだが、『ゲイ短編小説集』は企画ものなので、誰かが企画したのである。しかも利根川真紀先生(法政大学)と私でレズビアン短編小説集とゲイ短編小説集を出すことにした以上、ふたりで相談したのか。記憶にない。なぜ二人になったのかも覚えていない。ふたりが提案した編集者の方が誰なのか、ふたりに提案した編集者が誰なのかも記憶にない。レズビアン短編小説集とゲイ短編小説集では、担当している編集者が違う。

もう何もかも忘れている。完全に記憶喪失になっている。こうも完全に忘れてしまうのだろうか。

また思い出したら報告することにして、今回、あらためて『ゲイ短編小説集』を手に取ってぱらぱらとめくってみた。20年以上前の出版である。時の流れを痛感した。というのも、今では考えられない豪華メンバーに翻訳を依頼しているからだ。現時点で、このメンバーで、この翻訳アンソロジーはつくることができないと思う。

選ばれた作品をみると、明白なゲイ小説もあるが、同時に、ゲイ小説かどうか疑わしい作品もある。むしろ、クィア短編小説集とでもいうべき作品もある。そうした作品は、ソフトなゲイ的性格を漂わせているため、そこが奇妙な魅力となって短編小説集全体を輝かせているのではないかと思う。

なお、のちに『クィア短編小説集』を『ゲイ短編小説集』の続編として刊行。こちらは、「クィア」という語なり概念が、一般に浸透していないこともあって、『ゲイ短編小説集』よりは売れていない。「ゲイ」の言葉が入っていない分、書店では買いやすいはずなのに。残念ながら。

【ちなみに、身も蓋もないことを言えれば、『ゲイ短編小説集』の好調な売れ行きは、Amazonあってのことである。このことをAmazonに就職した卒業生に話したことがあるが、彼はその意味がわからなかったようだ。こういうことである。書店やブックフェアではまったく売れなかったこの本も、Amazonではよく売れた。Amazonなら、人目をはばかる本が買えたからである――とはいえ、そんなにいかがわしい本ではないのだが、ただ、好奇心で覗いてみるというだけでも、人前で、同性愛なるものと接触することにははばかられたのだ。いま、そうした情況が消滅していることを、ひたすら願うのみである。】

訳者あとがきを読んでみると、変に深入りをしていないが、同時に、シャープな議論を展開して思考の糧を提供するような論説となっていて、けっこう迫力がある。気負いもあるのだが、ああ、20年以上の私は今と違って頭が明晰だったとわかる。人間、歳をとるにしたがってバカになる。

個々の作品の解説も、けっこうシャープで、昔の私はほんとうに頭がいい。今の私が、そのおこぼれをもらいたくなった。昔の私と今の私が同一人物であるということすら信じられない。

ただ、そのなかで、オスカー・ワイルドの『幸福の王子』の解釈が今の私の注目を惹いた。とりわけ、この作品を、死にゆく者と、それを看取る者との最後の交流というかたちでみるというのは、今なお新鮮な解釈だと思った。実際、そうした解釈は、他にみたことがない。映画作品なども参照し、例示しているのだが、それらは必ずしも『幸福の王子』の物語とシンクロしてないように思われる。

ただし死にゆく者と看取る者というのは、ゲイ小説におけるひとつの典型的人間関係を示している。たとえばエイズ小説におけるパートナーとの関係。あるいは病気でなくても、ひたすら破滅に向かうパートナーと、彼を世話しまた助け、最期を看取るもうひとりの男。

【一例として書き忘れたのだが、病人と、その最後を看取る人という構図は、最近の映画では『エゴイスト』にみることができる。もちろん、そこでは死んだパートナーの母親の最後を看取る男という関係なのだが、それは死んだパートナーへの贖罪という意味もこめられていようが、そこにはまたゲイ文学における原型的関係の影をみることもできる。2023年5月14日 付記】

だが、それだけではない。今にして思うと、このどうしても死へと赴く者と、それを看取る者との関係には、当時、病床にあった母と、大学の帰りに毎日病院を見舞った私との関係が色濃く反映している。だから、『幸福の王子』ではなく、こうした『幸福の王子』の解釈を思いついたのだ。今から20年以上も前の私は、今とちがって悲しんでいた,今よりもずっと苦しんでいたのである。

posted by ohashi at 20:09| コメント | 更新情報をチェックする

2023年05月09日

『せかいのおきく』

阪本順治監督・脚本作品。出演:黒木華、菅一郎、池松壮亮、佐藤浩市、眞木蔵人、石橋蓮司ほか。

江戸時代は、世界の先端をいく循環型社会で、そこには自然と共生していたかつての日本の姿があるという宣伝文句は、その通りなのだろうが、年配の観客は総じて、これは遠い昔の江戸時代の話ではなく、昭和の時代の話だという感想を抱くようだ。

私もその一人。若い人には想像もできないかもしれないが、食べて糞便として出したものを食べ物を作るための肥やしに使うという、この江戸時代の循環型社会は、昭和の時代まで残っていた。💩

農村は、人糞を肥やしに使うため、ウンコ臭かったし、肥料用の人糞をため込む肥溜めが畑のあちこちにあり、子供の頃、遊んだりするときには、肥壺、肥溜めに落ちないように注意していた。💩

街中でも、汲み取り式便器の家には、汲み取り屋がきていたし、のちにポンプで糞尿を吸い取るバキューム・カーが、いつも、街のどこかに止まって作業中で、私たちはその光景を目にとめると、なるべく近づかないように避けた。臭いからである。💩

そう、循環型社会は、昭和の時代にも残っていた。それがどうしてなくなったのかというと、人糞を肥料に使うことの危険性が強く叫ばれたからである。💩

たとえば人糞には寄生虫や寄生虫の卵が含まれている。人糞を肥料にすると作物に土の中に寄生虫の卵がばらまかれ、それを人間が食すると腸のなかで卵が孵化して寄生虫が増える。昔、検便といえば、便の中には、寄生虫がいるかどうかの検査だった。循環型社会の弊害がこれだった。💩

江戸時代では、糞便・屎尿そのものが質や量で金銭的取引の対象とされた。昭和では糞便処理業者に、その作業に応じて金銭は支払われただろうが、糞便そのものに値がついていたわけではない。そう、江戸時代には糞尿に等級がついていた。武家屋敷のものは高く長屋のものは低かったらしい。しかし本来、糞尿は、階級差・等級差を超えてというか、それらを無効化する水平化下原理そのものだった。ウンコから見れば、王侯貴族も庶民も変わりないはずが、等級付けされたということ自体、唖然とすることだった。💩

とはいえ社会全体がウンコ臭い昭和時代は昔のことで、高齢者だけがそれを覚えているにすぎない。かつて「明治はとおくなりにけり」と詠じた歌人がいたが、昭和、いやウンコも遠くなりにけりということか。    💩

この映画が私たちに残す課題は、搾取されまた見下される汚穢屋(くみとり業者)の若者と、浪人の娘との青春というか恋物語と、ウンコ臭さとがどう切り結ぶかである。糞便が農作物を育てるように、排斥されたもの、打ち捨てられる死体が、生者を支え存続させているということか。💩

浪人の父を殺され、みずからも命を絶とうとして果たせなかった娘に、未来は閉ざされているように思うのだが、そのどん底の境遇で、汲み取り業者の青年と出会う(正確には再会だが)ことで、生きる希望が生まれてくる――モノクロの映像も時々色づくことからも、光と色彩の時代の到来を予感させる。時あたかも、幕末、古い時代が滅び、その廃墟から新たな時代が芽吹こうとしてたところだった。💩

それはわかるのだが、ウンコの存在が気にかかる。四民平等となる水平化=民主化への予感をウンコが演出しているのか。💩

あるいはカタルシスともウンコは関係しているのか。💩

それこそ便秘のように、いまは答えが出せないように思われる。💩💩💩💩
posted by ohashi at 15:12| 映画 | 更新情報をチェックする

2023年05月08日

有敵関係

友敵関係とは、ドイツ語表記だとFreund-Feind Verhältnisと語呂合わせめいた音になって面白いのだが、日本語では意味はわかるが音の面白さは消える。『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』 「友敵関係」の説明によると、

友敵関係
C.シュミットが『政治的なものの概念』 (1927) において提起した概念。政治の本質は友-敵の対立状況において根源的に表われると彼は考える。……彼はワイマール時代のドイツの政治的混乱を解決するためには国家にとっての真の敵,つまり共産主義勢力の一掃が必要であると説いた。彼にとって政治の本質は例外状況である戦争に現れるのである。この概念はナチズムの思想に受継がれ,やがてはヒトラーの独裁を正当化する根拠にもなった。


まあ敵か味方/友かに分けて考える思考なり政治である。もし自分が友とされたら悪い気はしないが敵とされたら怒りを感ずるだろう。

もちろん友とされても怒りを感ずることはある。少し前にあったオフレコ問題。オフレコで物を言うとは、相手を自分の仲間・同類と考えて問題発言を語ってしまうこと(問題発言でなければオフレコと釘をさす必要もない)。オフレコと言われた相手は、発言者の仲間・同類と思われているということである。これを嬉しいと思うこともあろうが、おまえと同類ではないと怒りを感ずる者もいよう。同性愛者に対する差別発言をオフレコとして言われた場合、そういう差別意識を共有していない私は憤慨し、また同類と思われたくて、その問題発言を公けにすることになろう。

いっぽう自分自身を敵とみなされた場合はどうか。最初から敵対関係にあればとくに怒りもわかないが、友と思っていたら敵視されたとなるとかなり衝撃を覚えることになる。

L・グルーエン編/大橋洋一監訳『アニマルスタディーズ――29の基本概念』(平凡社、2023)を上梓したが、そのなかで、「人新世Anthropocene」をどう表記するかで迷った。日本語では、「じんしんせい」と「ひとしんせい」のふたつの読み方がある。両方の読み方がこれから併存するのか、あるいは、いずれどちらかひとつに統一されるとしても、どちらなのか。私個人としては特に情報もなく、予測もできないし、どちらかひとつにすることで党派争いに巻き込まれることも嫌だと思っている。

本文中は「人新世」とだけ表記し、読み方は読者にまかせることにした。しかし索引をつくるとなると「じんしんせい」としてサ行におくか、「ひとしんせい」としてハ行におくか決断を迫れられた。私の決断は、決断しないことだった。「人新世」を「じんしんせい」として読む項目と「ひとしんせい」と読む項目のふたつの項目を用意した。索引としては異例のことだと思うが、現時点で、表記がひとつではない場合、大胆にして最善の策であると思っている。

いまや中堅の研究者である知人が、昨年上梓した翻訳のなかで「人新世」を「じんしんせい」と表記していた。私が尊敬しているその知人に「じんしんせい」という表記が一般的なのかと質問した。もし、そのとき、そうだという答えが返ってきたら私は躊躇なく「じんしんせい」の表記に統一するつもりだった。ところが回答は、「じんしんせい」が絶対に良い読み方とも思わないが、次善の策として「じんしんせい」を採用したというか、「ひとしんせい」という読み方が嫌だからというような、煮え切らない答えだった。そこで私は両方の読み方を索引でとることにした。

話はここで終わらない。

その知人には『アニマル・スタディーズ』の翻訳を出版されてからすぐに贈呈した。すると彼は、索引を調べて「人新世」が「ひとしんせい」と読まれていることを知り、私に、あなたは敵だったのですねとメールをよこしてきた。

これは彼自身が私のことを最初から敵扱いしていた証拠ではないか。

なぜなら、もし私のことを友/味方と思っていたら、「人新世(じんしんせい)」という項目を確認して、あらためて私のことを友/味方だとみなして、それで終わりであったはずだ。ところが、最初から「人新世(ひとしんせい)」という項目を探して、それがみつかると、やはりこいつは敵だったのかと確認したのである。繰り返すが、それは彼が私のことを最初から敵と思って証左である。私としてはかなりショックを受けた。友と思っていた相手から、敵と思われているのはつらいことである。

ちなみに、「じんしんせい」と「ひとしんせい」の両方の読み方を索引では採用し、「人新世」の項目がサ行にもハ行にもあるとその知人に伝えたら驚いていた。まあ、慧眼な彼にしてみれば、両方を表記するというのは、実は中立的であるかにみえて、隠れたかたちでどちらか一方を支持することであると指摘したかもしれない。両論併記ほどたちが悪いものはない。しかし彼からはそこまでの指摘はなかった。

最後に、友敵関係は、カール・シュミットによれば政治的操作である。その知人は、私を敵とみなしていたようだが、そうすることでどういう政治を目指していたのか、考えると、恐ろしくなる。
【その知人は、このブログは絶対に見ないので、この記事は、内密に】
posted by ohashi at 17:57| 『アニマル・スタディーズ』 | 更新情報をチェックする

2023年05月06日

『自然という書物』展

町田市立国際版画美術館における企画展『自然という書物――15~19世紀のナチュラルヒストリー&アート』(2023年3月18日~5月21日)に行ってきた。4月の終わりに。ちなみに65歳以上無料になるシルバーデーをねらったが、あいにくその日は天気がわるくて、行けなかった。

西洋近代における人間と動植物(鉱物も)との関係を博物誌の発展を通して探るという展示だった。人間と動植物の関係史というのは、ある意味、壮大なテーマで、一美術館の企画展示でそれをカバーすることなどできなのだが、今回の展示は、博物学・自然史の発展を、その書物を通してみることで、人間と動植物との関係に間接的に光をあてるという試みだった。そしてその試みは成功しているといえるのではないだろうか。

というのも展示物のほとんどは書物である。15世紀から19世紀にいたる書物における動植物画や自然描写を、書物の本体を通して観ることは実に貴重な体験であり、どの展示も、いつまでみていても見飽きない感動があった。

したがって今回の展示は、博物学や自然史の変遷を、その媒体である書物を通して示してくれるところに特徴がある。博物学の本は、本の精華である。大判の本に緻密に描かれた動植物の図像は、学術的であるとともに美術的であり視覚芸術の独立した一分野を形成している。それをガラスケースの中に入っているとはいえ、当時の本を通してみることの素晴らしさはたとえようがない。

総じて博物学の本は大判である(今回、フォリオ版よりも大きいというか、その倍もある本を私は初めて見た)。展示してあった小説の挿絵とか絵本のような本と比べるとその大きさには圧倒される。そして驚異的なことは、この大判の本に印刷された緻密な動植物画だけではない。その活字もまた、実に綺麗で整っていて、当時の最高の印刷技術を駆使してた印刷されていることがわかる(私が写真版を通して親しんでいるシェイクピア時代の演劇本や物語本は、印刷が実に安っぽいものであることを、今回の展示を通して痛感した)。

とにかく博物学の書物は、その活字とその図版とともに書物の最高峰である。こうした図入りの博物学本に魅了される人がいるのは当然のことと納得した。

今回の展示には、アニマル・スタディーズに関心があるから訪れたのかと思われるかもしれないが、それも確かにあるのだが、同時に、私は博物学関係の本の翻訳者でもあり、博物学は昔から興味があった。

展示の図録の最後にはゆきとどいた参考文献のページがあって、今回の展示に関係した美術史や博物史について日本で手に入る翻訳文献は網羅してあり有益性の高いものとなっているのだが、その中には、「リン・L・メリル(著)、大橋洋一(他訳)『博物学のロマンス』、国文社、2004年」が載っている。

やむをえず「(他訳)」となってしまっているが、共訳者は、原田祐貨さんと照屋由佳さんである。共訳だが、おふたりに訳してもらい、私は名前を貸しただけということのではなく、私も翻訳し、全体の翻訳をチェックしている。

19世紀英国の博物学人気を扱った本には、他にもリン・ハーバー『博物学の黄金時代』(異貌の19世紀)高山宏訳、国書刊行会1995があり(もちろん図録にも掲載されている)、学術的に権威があるのは、高山宏先生のこの翻訳のほうである。

では私たちの翻訳『博物学のロマンス』は、だめなのかというとそんなことはない。ただ著者が在野の研究者というかアマチュアで、その論述も通常の専門家のそれとは違ってややナイーヴなところがある。しかし、実は、そこが面白いところで、『博物学のロマンス』を手に取られた読者は、楽しい読み物として充足感を得ることはまちがないと思う。

私にとってアマチュア性は悪い言葉ではない。私は永遠にアマチュアでありつづけることを願っている。

追記
展示されている大判の古書は、版画博物館が所蔵しているもの以外にも日本各地の大学や美術館から借り出されたものがある。いかにもそうした本をもっていそうな大学や美術館や施設が載っているリストの中で、明星大学を見出して違和感を感ずる人もいるかもしれないが、明星大学には、西洋の古書のりっぱなコレクションがあって、こうした博物学の豪華本を所蔵していてもおかしくない。私が驚いたのは、放送大学図書館が、豪華本をけっこうたくさんもっていたことだ。べつに高価な古書をもっていてかまわないのだが。
posted by ohashi at 21:16| 『アニマル・スタディーズ』 | 更新情報をチェックする

2023年05月04日

『ヴィレッジ』2

『ヴィレッジ』が二一世紀の日本版『ハムレット』であることに(意図的か否かはべつにして)私は確信をもっているが、『ハムレット』における劇中劇「ゴンザーガ殺し」が、ハムレット自身が追究する殺人事件のアナロジーになっているとすれば(劇全体とはメトニミカルな関係になる)、『ヴィレッジ』における能「邯鄲」は、主人公の運命そのもののアナロジーになっている(劇全体とはメタフォリカルな関係)という違いがある。

『邯鄲』については以下を参照。

能・演目事典https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_059.html
昔、中国の蜀という国に、盧生(ろせい)という男が住んでいました。……楚の国の羊飛山に偉いお坊さんがいると聞き、どう生きるべきか尋ねてみようと思い立ち、旅に出ます。

……盧生は邯鄲という町で宿を取りました。その宿で、女主人に勧められて、粟のご飯が炊けるまでの間、「邯鄲の枕」という不思議な枕で一眠りすることにしました。

……盧生が寝ていると、誰かが呼びに来ました。それは楚の国の皇帝の勅使で、盧生に帝位を譲るために遣わされたと言うのです。盧生は思いがけない申し出に不審がりながらも、玉の輿に乗り、宮殿へ行きました。

……盧生が皇帝になって栄華をほしいままにし、五十年が過ぎました。宮殿では、在位五十年の祝宴が催されます。……盧生が面白く楽しんでいると、……一切が消え失せます。気づけば宿の女主人が、粟ご飯が炊けたと起こしに来ていて、盧生は目覚めます。皇帝在位五十年は夢の中の出来事だったのです。

……五十年の栄華も一睡の夢であり、粟ご飯が炊ける間の一炊の夢でした。盧生はそこでこの世はすべて夢のようにはかないものだという悟りを得ます。そしてこの邯鄲の枕こそ、自分の求めていた人生の師であったと感謝して、望みをかなえて帰途につくのでした。【……は省略箇所を示す。また原文とは異なる行換えをしている】


映画のなかでは黒木華が、簡略化したかたちで「邯鄲」の内容について説明している。この能「邯鄲」は、主人公の運命のメタファーになっているのだが、映画を観ていると、途中までそのことに気づかない。というか気づかないからこそ、物語の展開が意外性にとみ、スクリーンから目が離せなくなる。

50年も経てから、実はそれは一瞬の夢幻であったと、いまとここに引き戻される。この下でも上でもなく水平方向のバンジージャンプ効果は、文学や文化的領域において、けっこう前例あるいは実例がある。

フロイトは「善悪の彼岸」のなかで、孫による糸巻きを使って遊びについて報告している。幼児は、糸巻きを放り投げて眼前から消してしまうが、握っていた糸をたぐり寄せて糸巻の本体を出現させて喜んでいた。しかもそれを何度も繰り返す。

フロイトの解釈では、幼児にとってその糸巻きは母親の代用である。母親は幼児の前から姿を消し幼児は不安になるが、母親は幼児のもとに必ず戻ってくる。母親不在の不安を紛らわすために幼児は糸巻きを放り投げたぐり寄せるという遊びをする。幼児はこうして、無力な存在から糸巻き=母親の消失と出現を司る場面の支配者となる。

しかし幼児が、糸巻きを母親に喩え、糸巻き=母親をたぐり寄せるというのは、無力な幼児のファンタジーとしては無理があるのではないか。むしろ糸巻きは幼児のことである。幼児は糸巻きのように親から放り出されるかもしれないが、親はかならずたぐり寄せてくれるというファンタジーではないかという解釈もある。

そしてこのファンタジーには幼児が想像することのできない別の面もある。いくら親から距離を置き、離れていこうとしても、逃れることはできず、最後に連れ戻されるかもしれないという不安あるいは運命への予感が。

そしてこのことはフロイト自身の精神分析学とも関係する。精神分析にとって、子どもは親の親である(ワーズワスの名言みたいな話だが)。私たちはいくら年齢を経ても幼児時の体験の影響下にあり、そこから逃れられない運命にあるというのが精神分析の基本概念である。幼児こそが人間の基盤にあり、幼児の遊戯からの議論こそ、精神分析における議論の基本型でもあった。成熟しても、老年になっても、幼児期に引き戻される人間。

ただどんなに離れてもあるいは変化しても成長しても引き戻されるという水平方向のバンジー効果は、なんといっても、その突然さ、不意打ちによって印象づけられる。不意打ちなければ、バンジー効果はない。

アンブローズ・ビアスの「アウルクリーク橋での出来事」【訳題は数種あり】は、古典的な例といえるだろう。アウルクリーク橋で絞首刑になる南軍将校が、ロープが切れて川に落下、追跡を必死に逃れて自分の家にたどり着いたと思ったその瞬間、首の縄が絞まり絶命するという結末。絞首刑の失敗と必死の長い逃避行は首が絞まる瞬間に垣間見た幻想にすぎなかった。これは、長い時間が一瞬の夢であるという邯鄲の世界観ともいえるが、どんなに離れても唐突に引き戻されるという、これも邯鄲の世界観のいまひとつのかたちともいえる。落下したと思ったら引き戻されるという、まさにバンジージャンプ効果。

類似の例は、たとえばいまでもカルト的人気をほこる連続テレビドラマ『プリズナーNo.6』をあげることができる。主人公は毎回、監視の裏をかき避暑地の遊園地のような牢獄から逃れようとするが脱獄成功と思ったやさき発見され引き戻される。あるいは囚われの身からの脱却ならば、いまも人気がありすぎるループ反復物のドラマを例にあげることができる。たとえば同じ一日を繰り返すという境遇に陥った主人公は、どのような努力や冒険を試みても、同じ一日の朝に目覚めるしかないのである。

しかし『ヴィレッジ』の情況に近いのは、カザンザキスの『最後の誘惑』であろう。

マーティン・スコセッシによって映画化もされたこの小説では、十字架にかけられたイエスは不思議な力で十字架から解放されマグダラのマリアを結婚し、子どもや孫ももうけて、その寿命を全うせんとしている。そこに、かつての弟子たちが訪れる。映画版を思い出していただきたい。やってきたユダ(ハーヴェイ・カイテルが演じていた)はイエスに向かって、この裏切り者がと罵るのである。

本来ならイエスは十字架で息絶え、三日後に復活して救世主となるはずだった。救世主になると信じて、ユダは裏切り者の汚名をきたのに、のうのうと生きながらえ幸せな余生を送りいま臨終の時を迎えるとは、なんというていたらくだ。イエスよ、おまえは私たち全員の期待を裏切ったのだ、と。イエスは最後の力を振り絞って、家の外にでる。屋敷の外ではローマ軍によってユダヤ人が虐殺される惨劇がくりひろげられている。こんなはずではなかった。自分は何という過ちを犯していたのだと絶望するイエスは、次の瞬間、自分が十字架にかけられていることを知る。すべては悪魔がみせた幻だったのだ。自分はまだ十字架にいる。事は成就した。イエスは満足して死ぬのである。

『ヴィレッジ』における片山優/横浜流星の運命もこれであろう。犯罪者の子として蔑まれいじめられ借金を重ねる母親との二人で、夢も希望もないその日ぐらしを余儀なくされている片山/横浜流星は、中井美咲/黒木華の尽力もあってゴミ処理場の広報係となり、テレビにも出演するようになる。そして順風満帆の未来が開けたと思われた矢先、ゴミ処理場への不法投棄が発覚、彼自身の過去における加担も暴かれそうになる。「邯鄲」の世界さながら、未来への栄光が約束された境遇の変化は、一瞬の夢、幻にすぎなかった。

と同時にゴミ処理場の社長で、村を牛耳っている村長大橋修作/古田新太から、片山は、父親が謀殺されたことを知り、大橋/古田新太を殺し、その屋敷に火を放つ。それはゴミ処理場に反対した父の遺志を継ぐことなく、ゴミ処理場で働くことになった自己を、その偽りの境遇から解放し、父の遺志を継ぎ、父を殺した大橋/古田新太への復讐することにもなった。映画最後の片山優/横浜流星の、すがすがしい笑顔は、自身が復讐を遂げたことに対する、満足感の表明であろう。

と同時に、長い回り道を経て、本来の使命に目覚めたのは、『最後の誘惑』のイエス・キリストのようによかったとはいえ、その使命が復讐であるため、ハムレットがそうであったように、復讐者には、地獄落ちの運命が待っている。映画の最後は、片山優/横浜流星の憑きものがとれたような笑顔と、刑事・大橋光吉/中村獅童による逮捕を予感させるものとなっている。

因習と閉鎖性に束縛された村社会から逃避にしようとしても、また罪深い過去の暗黒から脱却し未来を志向しようとも、村と過去と闇にひきもどされる。まさに運命悲劇。

主人公は、結局、みずからの犠牲によって村社会を変えることができたのか。ひとつには村を支配していた大橋一族を抹消できたことで、彼は正義の鉄槌を下した革命の闘士である。と同時に、ゴミ処理場に産業廃棄物を不法投棄したり死体を埋めたりする闇の営みと同じことを、主人公がしたといえなくもない――実際、過去に不法投棄を強制的に手伝わされた主人公は、新たな殺人と放火によって重罪犯となる。アリストテレスの言葉を使えば、この映画で、復讐を遂げた主人公に対して、私たちはカタルシスを感ずるのだが、その行為に対しては、同情しつつまた恐れるしかない。憐憫と恐怖。古典的な感慨だが、この映画にはぴったりくる。

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2023年05月03日

蒟蒻の天麩羅

テレビで群馬のこんにゃくパークを紹介していた。

群馬県甘楽郡甘楽町にある「こんにゃくパーク」は、「こんにゃく・白滝工場ゾーン」「ゼリー工場ゾーン」「バイキング・おみやげゾーン」と3つのゾーンがつながっていて、工場見学とこんにゃく料理の食べ放題バイキングが呼び物とのこと。工場見学、バイキングともに無料。

こんにゃく料理のメニューの中で「秘密のタコさんこんにゃく」の唐揚げというのがあって、驚いた。タコは入っておらず、ただタコのような食感が楽しめるこんにゃくで、ビーフシチュー、酢豚、肉じゃがなどに使えるのだが、もうひとつ唐揚げでもおいしいとのこと。

こんにゃくの唐揚げ!? 

そういえば、と思い出した。

昔、読んだ、織田作之助の小説『夫婦善哉』の冒頭

 年中借金取が出入りした。節季はむろんまるで毎日のことで、醤油屋、油屋、八百屋、鰯屋、乾物屋、炭屋、米屋、家主その他、いずれも厳しい催促だった。路地の入口で牛蒡、蓮根、芋、三ツ葉、蒟蒻、紅生姜、鯣、鰯など一銭天麩羅を揚げて商っている常吉は借金取の姿が見えると、下向いてにわかに饂飩粉をこねる真似した。


天ぷら(天麩羅)の種類のうち、べにしょうが(紅生姜)の天ぷら、スルメ(鯣)の天ぷらは、関西にあることを前から知っていたし、食べたことはないが味は想像できた。ただし、ひとつだけ異様な天ぷらがあった。それがコンニャク(蒟蒻)の天ぷらである。

『夫婦善哉』は1940年(昭和15年)の作品である。当時の関西にはコンニャクの天ぷらがあったのか、あるいは今でも関西にはそれがあるのか。水っぽいコンニャクの天ぷらの味や食感については想像を絶した。

それが、コンニャクの唐揚げがあると知り、ならばコンニャクの天ぷらがあってもおかしくないと考えた。

そして……

ネットでも調べてみたら、コンニャクの天ぷらのレシピはいろいろあがっている。味をつけたコンニャクを天ぷら粉で揚げるということのようだ。結局、私だけが知らなかったということなのか。「天ぷら屋にあるコンニャクの天ぷらが好きで、自分でも作っている」というようなコメントすらあった。天ぷらの定番メニューということのようだ。

織田作之助の『夫婦善哉』を読んだのは昔のこと、それもネット時代以前のことである。コンニャクの天ぷらに疑問をもったとしても、今のように、すぐにネットで調べてわかるということなかった。調べるには、それなりに時間と労力を必要とした。だから疑問をもちつつも、調べる最優先事項ではなかったため、いつしか頭のなかから消えていったのだった。

とにかくネット上のレシピを参考にして、自分でもコンニャクの天ぷらを作ってみようと思う。

posted by ohashi at 21:08| コメント | 更新情報をチェックする

2023年05月02日

『ヴィレッジ』1

藤井道人監督といえば、主要メディアが怖じ気づいて報道しなかった、もしくはメディアそのものが加担していた安倍政権の不正と腐敗に鋭く切り込んだ映画『新聞記者』(2019)で社会派のイメージが強いが、今回の映画『ヴィレッジ』は、ゴミ処理場問題と閉鎖的な村社会の問題を扱っているとはいえ、具体的な事件とか現象と直接シンクロするわけではなく、神話的・伝承的次元において日本の社会(村社会)の闇を探るという作品であって、あくまでもアイロニカルな運命悲劇である。

しかも全体はシェイクスピアの『ハムレット』である。『ハムレット』のような復讐悲劇という漠然とした比較の問題ではない。物語は『ハムレット』とかなりシンクロしている。

父親はかつて放火事件を起こして死ぬのだが、ゴミ処理場に反対していた父親は謀殺された可能性がある。そして父親の死後、片山優/横浜流星は、母の片山君枝/西田尚美と二人暮らしをするのだが、この母親はギャンブル好きで借金をかかえ息子に迷惑をかけている。謎の死をとげた父親と、問題のある母親――『ハムレット』の世界である。

ゴミ処理場は完成し、村長の大橋修作/古田新太が社長となって村に繁栄をもたらすとともに村の世界を牛耳っている。そして村長の庇護のもと、片山/横浜流星は、そのゴミ処理場で働いている。クローディアスの支配下で冷遇されるハムレット。

幼なじみの中井美咲/黒木華はオフィーリアであろう。シェイクスピアのオフィーリアは、父親の行方がわからなくなり不安と恐怖で発狂するが、黒木オフィーリアは、東京で心の病を患い、故郷へ帰りゴミ処理場に就職し、幼なじみの片山を助けるのだが、彼女の場合、すでに心を病んでいたという設定である。

映画ではゴミ処理場の社長の暴力的な息子、大橋透/一ノ瀬ワタルが行方をくらますのだが、観ている側は殺されてて埋められたのだろうと察しがつく。『ハムレット』では、国王クローディアスの片腕である廷臣ポローニアスが殺され行方知らずとなる。大橋透/一ノ瀬ワタルは、クローディアスの片腕ポローニアスとなっている(パーソナリティは異なるのだが)。

『ハムレット』では、ハムレット自身、父親の復讐をはたそうとするが、敵の目を欺くためか、あるいは自身が復讐行為そのものに懐疑的であったためか、頭がおかしくなったふりをする。『ヴィレッジ』でも横浜流星は、父親が反対していたゴミ処理場の職員となって働き、メディアでとりあげられる広報担当として活躍することになり父親が望まなかったような人生を送り、復讐など微塵も考慮していないかにみえる。だが最後には復讐をとげる。ハムレットと同じように。

なお刑事の大橋光吉/中村獅童は、『ハムレット』におけるフォーティンブラスであろう。

そして極めつけは、演劇、あるいは劇中劇の存在。『ハムレット』といえば、演劇の演劇、そのメタシアター性である。旅役者たちがデンマークのエルシノア城にやってくる。ハムレットは旅役役者たちをつかって宮廷で劇を上演し、王クローディアスが、劇の内容に動揺することを確認し、国王が罪であることを確信する。

『ヴィレッジ』においては「薪能」(たきぎのう)が象徴的な役割をはたしている。具体的には『邯鄲』と『羽衣』の舞台をみることができる。とりわけ『邯鄲』は、『ヴィレッジ』全体の縮図となっている観がある重要な能である。

そう、物語内部に仕込まれる演劇性(『ハムレット』では劇中劇、『ヴィレッジ』では薪能)が、両作品に共通しているのである。

もちろん『ハムレット』との類似性を監督が意識していたからどうか確証はない。意識していてもおかしくないし、そうだとすればこの作品はシェイクスピア『ハムレット』の世界を現代日本に置き換えた優れた翻案ということになる(黒澤明『悪い奴ほどよく眠る』以来の)。また意識していなかったとしても、それはそれで興味深い。復讐物語という設定のなかで、キャラクター、細部、全体の流れなど構築してゆくと、いつしか『ハムレット』に似てくるというのは、興味深いことではないだろうか。

いずれにせよ、能面を手に取って見つめている横浜流星の図像は、この映画の内容を象徴するものだが、それはまた道化師ヨリックの頭蓋骨を手に黙想するハムレットの図像と、とてもよく似ているのである。

【なお「邯鄲の枕」に関するWikipediaには、能で使われる「憂いを持つ気品ある男の表情を象った「邯鄲男」と呼ばれる能面が存在し、能『邯鄲』の盧生役のほか、能『高砂』の住吉明神などの若い男神の役でも使用される」とある。この能面こそが、映画のなかで横浜流星が手に取っているものだ。なお能「邯鄲」については、次の記事「『ヴィレッジ』2」を参照】。


posted by ohashi at 22:28| 映画 | 更新情報をチェックする