2023年03月30日

ペンギン池への故意の落下

連日、ネットを騒がせているのが、3月24日放送の日本テレビ「スッキリ」(月~金曜前8・00)において、動物テーマパーク「那須どうぶつ王国」(栃木県)からの生中継でお笑いコンビ「オードリー」の春日俊彰(44)がペンギンのいる池に故意に落ちた問題。

3月27日にMCの加藤浩次が謝罪。ペンギン池に落下 「春日君に対してもフリという形で追い込んでしまった」と述べた。

どちらの放送も見ていないので、あくまでも報道記事を読んでの感想でしかないが、27日の番組側の謝罪(MCの加藤浩次の謝罪も含む)は、真相を丁寧につたえ、責任を明らかにした真摯なもので、謝罪としては、りっぱなものだったように思う。

ネットでは、謝罪するMCの加藤の仏頂面が真率さを疑わせるというような記事もあったが、おそらくそれは悪意のある記事あるいは事実をねじ曲げるような記事で無視してもいいと思うのだが、仮にそれが本当だとしたら、それは番組でシナリオどうりのことを命じられたままにしただけで、自分が責め負うのはおかしいという気持ちの表れだったということだろう。ただ字面で見る限りMC加藤の謝罪は、責任を転嫁せず、批判を真摯に受け止めていて、そこに批判すべきものはないように思う。

なお春日俊彰の謝罪はない。また先輩芸人からの要請に従っただけという同情論から、さらには芸人が打ち合わせ通りに暴れることへの批判に対する批判などが芸人側からあった。

最近、監訳した『アニマル・スタディーズ――29の基本概念』(平凡社、2023)が出版された私としては、この問題について、3点だけコメントしておきたい。

1今回の件は、動物問題とは関係なくあってはならないことである。
2命じられたまましたからといって許されるものではない。
3反撃する可能性もある。

1
いくらお笑いととるためとはいえ、動物がいる池に飛び込むというのは、絶対にやってはならないことである。これは良識いや常識からいっても当然のことである。

また、ことの是非を動物問題にしないで欲しい。『アニマル・スタディーズ――29の基本概念』の監訳者である私からいうのも変かもしれないが、これは動物問題ではない。多くの動物問題がそうなのだが、人間の良識というか常識で解決できる問題を、動物問題の専門家にしか理解できない、素人は口出しできないといって放置する姿勢こそが、動物問題を引き起こし、問題を放置することになる。専門家しかわからない、あるいは専門家なら解決できるという姿勢こそが、問題解決を先送りする口実となっていることは声を大にして何度も語っておきたいことである。

今回の問題も、動物の専門家でなくても、理解できることである。たとえペンギンが、たまたまいなかった池でも、そこに飛び込むのは、管理された池の環境を破壊することになりかねない。また、これは人の財産を無断で傷つけ、ことによると破壊するという犯罪行為になる。またその不潔さ、その破壊性は、回転寿司の商品を汚したりする行為の不潔さや破壊性となんらかわりはない。お笑い芸人が、いくら笑いを取るためとはいえ、回転寿司に置かれている醤油入れをなめたりはしないだろう。もし番組内で、池に落ちることをまえもって打ち合わせしていたとしたら、ネット上で、回転寿司をはじめとして飲食店で不潔ないたずらをする愚か者と全く同じ心性をしているとしかいえないし、それは観ていて面白いことでも何でもない。

2
先輩芸人にふられたから断り切れなかったという同情論ほど愚かしいものはない。

だったら先輩芸人から人を殺せといわれたら、人を殺すのかということになる。またそのとき言われたとおり人を殺したとしたら、先輩にいわれたからではなく、自分でも人を殺すことに正当性認め、また殺される人間が殺されるに値すると評価したからだろう。人に言われたからといって違法行為をする場合、人のせいにするのはまちがっている。違法行為の責任は自分でとるべきである。その意味でも春日は一刻も早く謝罪したほうがいい。

たとえば、芸人がビルの屋上の端っこを歩き、先輩芸人から足をすべらせるなとフラれた場合、どうするか。配送ですかと言って、ビルから落下して、アスファルトの歩道に自分の脳漿をぶちまけるのか。先輩芸人が責任を問われるのか。

たとえ先輩芸人に追いつめられたからといって、そのとき、いや、いまみると人が歩道を歩いているから飛び込むのは危険だし、ていうか、飛び降りたら死んでしまうでしょうと、乗り突っ込みで逃れる手もある。もちろん、たいして面白くもない乗り突っ込みだったと先輩芸人から叱られるかもしれないのだが。とにかくどんな無茶ぶりでも、それを逃れて笑いをとる方法というのはある。

同じように、なす動物公園のペンギン池でも、足を滑らせるなというフリがあっても、いやいや、いまはだめでしょう、ペンギンたちが池にいますからといって、断ることもできる。もちろん、ペンギン池に飛び込むか飛び込まないかをネタすること自体、不謹慎だとあとで非難されるだろうが、それでも飛び込まかったことで、救われるものは、ペンギンたちだけではないはずだ。

いや、春日にそんな器用なまねはできない。いわれたことをするだけの不器用な芸人だからと同情する者もいるだろう。しかし、そういうことに「不器用」という考え方を使ってほしくない。不器用だったら、いわれたとおりのことをしない。不器用だから違法行為をしないのである。不器用だから反省し謝ってしまうのである。もし春日がほんとうに不器用だったとしたら、いくら人を殺せといわれても、人は殺さなかっただろう。言い逃れもしなかっただろうし、それ以上に、沈黙を決め込むこともしなかった。黙っていれば、いずれ忘れ去れるというのは、なんという器用な処し方なのだろうか。

3
もちろん今回の事件は、放送局側、番組制作側に、動物軽視があったことは確かだろう。番組側は、ペンギン池にペンギンがいなかったら飛び込むことにしていたともとれるのだが、おそらくペンギン池に、ペンギンがいたら飛び込まなかったことだろう。むしろペンギンがいたから飛び込んだ。ペンギンがあわてふためくところを動画に収めることができれば最高なので、ペンギンがいることところに飛び込んだにちがいない。

この点で、番組側は動物園を騙したといえるだろう。ペンギンがいるところに飛び込んだりしませんと約束していながら、ペンギンがいるところをねらって飛び込んだのだ。

動物園も、ペンギンも被害者だが、しかし、番組側も、覚悟を決めて、動物園制度そのものが、また日本動物園水族館協会(JAZA)が動物虐待とは自信をもって言えない制度であり団体であることを告発することもできる。動物園というのは、今も昔も問題のある場所でりあり制度であった。動物園側に、動物を飼育・管理することの意義がどういうものかを弁明させればいい。多くの問題があぶり出され指摘されるだろう。動物の権利と動物の解放をどう考えるのか。保護という名目での虐待でないと言い切れるのか。

今回の事件を動物問題を口実に回避するのでなく、今回の事件を口実に動物問題を考えることができればと思う。テレビ局側の動物軽視と動物虐待は断固糾弾しなければいけない。と同時にとは動物園側も純然たる被害者とはならないだろう。だが、それが動物問題について動物園側からも有益な見解が引き出せる契機となるだろう。動物園側は、アニマルウェルフェアを主張しつつも、そもそもの根幹からして動物園という制度がそれと矛盾しないかと、常に自省しているはずだからである。

これが『アニマル・スタディーズ――29の基本概念』の監訳者としての私の見解である。


参考資料

加藤浩次 「スッキリ」で謝罪 ペンギン池に落下 「春日君に対してもフリという形で追い込んでしまった」
スポーツニッポン新聞社 によるストーリー • 2023年3月27日

 お笑いコンビ「極楽とんぼ」の加藤浩次(53)が27日、MCを務める日本テレビ「スッキリ」(月~金曜前8・00)に生出演。24日放送の「スッキリ」で、動物テーマパーク「那須どうぶつ王国」(栃木県)からの生中継でお笑いコンビ「オードリー」の春日俊彰(44)がペンギンのいる池に故意に落ちた問題を受け、謝罪した。

 冒頭、森圭介アナウンサーが経緯説明。「まず番組冒頭でお詫びです。金曜日、那須どうぶつ王国からの中継でペンギンのいる池に出演者が入る場面がありました。動物がいない池に入る可能性については打ち合わせをしていましたが、本番では動物への安全性、衛生面への配慮が不足した危険な放送となりました。その責任は番組にあります」とし、岩田絵里奈アナウンサーが「改めて那須どうぶつ王国及び視聴者の皆様に深くお詫び申し上げます」と謝罪した。

 加藤は「僕からも一言言わせていただきます。今回の件については経緯をまず説明したいと思います。番組スタッフと那須どうぶつ王国の方と事前の打ち合わせにした際、池に落ちていいんですか?と、こういうロケだからこういうことはあります、ということは説明していた。那須どうぶつ王国の方から動物に危害が加わらなければ、池に落ちても大丈夫ですよという旨のことは聞いていたと。動物が池に入っていない状態だったらいいですよ、というニュアンスですよね。そこでスタッフも那須どうぶつ王国の方たちも納得して番組にいった」と説明。

 しかし、「当日の打ち合わせで僕自身、しっかりスタッフと打ち合わせすることを怠ってしまっていた。そこに対しては本当に反省しなきゃいけない部分だと思っています。スタッフとしっかり話をしていれば、僕はもうちょっとできたかなと思うんだけど、僕自身も池に落ちていいんだという部分だけで進んでしまった。実際に春日君に対してもフリという形で追い込んでしまったというか、春日君が落ちなきゃいけないという状況に追い込んでしまった部分もあると思います。そこは反省しないといけない部分だと思います。実際、そこに動物がいたということで…那須どうぶつ王国の方たちは取材に対して、快くOKしてくれた気持ちをくめず、不快な思いをさせてしまったし、関係者の方たちにも迷惑がかかっていると思います。動物に危害が加わらなければ入ってもいいですよと言われていたのに、危ない形になってしまった。視聴者の皆さんが見ていて、危ない、不快に思われたということが実際にあったと思います。そこに関しても、僕は謝罪しなければならないし、番組のMCとして配慮が全く足りなかったと思います。番組をご覧になった皆さん、不快に思われた皆さん、本当に申し訳ありませんでした」と頭を下げた。【以下略】
posted by ohashi at 20:29| コメント | 更新情報をチェックする

2023年03月28日

『ラーゲリより愛を込めて』

『ラーゲリより愛を込めて』についてのAallcinemaの紹介記事の一部

第二次世界大戦終了後にシベリアに抑留され、極限状況の中で過酷な日々を送りながらも、人間の尊厳を失うことなく仲間たちを励まし懸命に生きた実在の日本人、山本幡男の感動の実話を描き大宅壮一ノンフィクション賞と講談社ノンフィクション賞をW受賞した辺見じゅんのベストセラー『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』を「ヘヴンズ ストーリー」「64-ロクヨン-」の瀬々敬久監督が映画化。主演は「硫黄島からの手紙」「母と暮せば」の二宮和也。共演に北川景子、松坂桃李、中島健人、寺尾聰、桐谷健太、安田顕。
 第二次世界大戦終了後、シベリアの強制収容所(ラーゲリ)に抑留された山本幡男は、ほかの大勢の抑留者たちとともに飢えと寒さと重労働に苦しめられていた。過酷な日々に耐えられず次々と仲間が死んでいく中、日本にいる妻や4人の子どもとの再会を信じ、懸命に生きていく山本。そんな彼は、戦争で心に傷を負った松田や、軍人時代の階級を振りかざす相沢、子犬のクロをかわいがる心優しい青年・新谷など、劣悪な環境下で希望を失っていく仲間たちも懸命に励まし続けるのだったが…。

なぜ『ラーゲリより愛を込めて』が2023年日本アカデミー賞で最優秀賞を受賞しなかったのか。それを考えてみたい。べつに批判するつもりはない。日本アカデミー賞の選考基準に疑問を呈するつもりもない。理由をあれこれ推測することを通して、映画の特質などがあぶりだせればと思う。

二宮和也が主演男優賞を受賞したが、最優秀賞を受賞しなかったのは、2015年に最優秀主演男優賞(『母と暮らせば』)を受賞していたからか。しかし、それをいうなら妻夫木聡だって、過去に最優秀主演男優賞(『悪人』)で受賞していたから、一度最優秀主演男優賞をもらったら次はないということではないだろう。また二宮和也の演技というか力演に問題があるわけでもなかいから、今回は、『ある男』に多くの賞を与えるという目的があり、それにそうかたちで最優秀賞が決定済みという可能性がある。べつに不正を告発しようとか、『ある男』は受賞にふさわしくないとかいうつもりは全くない。優勝枠とでもいうべきものに、残念ながら『ラーゲリより愛を込めて』は入らなかったということである。

たとえば優秀助演賞を誰にするかという場合、『ある男』は窪田正孝しかいない。作中の人物としての重要度からしても窪田正孝しかない。実際、この映画(あるいは原作も)では、窪田正孝が主人公ということもいえなくもない。弁護士役の妻夫木は、死んだ窪田の足跡を追う語り手でもあって、主人公とはちがうという見方もできる。

いっぽう『ラーゲリより愛を込めて』では助演男優が多すぎる。松坂桃李、中島健人、桐谷健太、安田顕は、いずれも優秀助演男優賞を受賞してもおかしくない存在感をかもしだしていたし、主人公と収容所生活をともにし、また遺書をとどけてきた4人で、いずれも甲乙付けがたい。誰を優秀助演男優賞に選んでも、不満が出そうだ。となれば、一人も優秀助演男優賞を選べないということになる。

最優秀主演女優賞は『ある男』に、主役たる女性はいないし、『ラーゲリより愛を込めて』についても同じである。そうなると最優秀助演女優賞になるのだが、『ある男』では安藤サクラが、『ラーゲリより愛を込めて』では北川景子がいるが、これもふたりの演技に優劣がついたというのではなく、作品の性質が異なり、それが『ラーゲリより愛を込めて』の北川景子を退ける要因となったということである。

『ある男』も、『ラーゲリより愛を込めて』も原作と異なる部分がある。『ある男』の場合、とくに結末については、原作を読んでいた私は、原作の結末そのもの、ならびに原作で使えそうな結末など、すべて使っていても、まだ映画は終わらなかったので、どうなることかと緊張してみていたが、最終的に映画の結末は原作と異なるものの、原作の「精神」を活かした納得のできる終わり方であった。

『ラーゲリより愛を込めて』のほうは、原作というか実際にあった出来事を映画のために変えている。それは許されることだと思うし、映画は史実の忠実な反映(だかそれは可能なのか?)ではなく、史実と虚構の中間に成立するものだと思うので、脚色や潤色はむしろ積極的に進めてほしいと考えているのだが、史実を変えることに抵抗もあろう。原作がフィクションであれば、それを変えることに抵抗はあっても、事実の改変ではないので、容認されることは多い。いっぽう事実なり史実を変えることは真実を隠蔽することになり容認されないことも多い。事実や真実よりも虚構のほうが、真実を伝えやすいという重要な観点は、残念ながら万人が共有するものではないだろう。『ラーゲリより愛を込めて』における、映画的効果のための事実の改変については、それを認めない立場もあるだろう。事実や史実に基づく場合、この問題が常についてまわる。そのため『ラーゲリより愛を込めて』は、『ある男』よりも分が悪いということかもしれない。原作を改変していると言われることと、史実を改変していると言われることの、どちらが批判としては厳しいか。答えは歴然としている。

そのため、もちろん安藤サクラは最優秀助演女優賞にふさわしい演技だったことはまちがいないが、『ラーゲリより愛を込めて』から優秀助演女優賞を出すことは、最初から避けられていたとみるべきだろう。

『ラーゲリより愛を込めて』の北川景子が演ずる二宮/山本の妻山本モジミは、映画のような良妻賢母とは違った生き方をしたという指摘もある。また映画では遺書をとどけるのは4人だが、史実では6人いた。またそれよりももっと映画化しにくい、あるいは映画化不可能な史実としては、6人が遺書を届ける前に、別ルートで遺書は妻に届いていたということがあげられる。こうなってくると映画の感動は丸つぶれである。もちろん、このことは映画では描かれていない。

『ラーゲリより愛を込めて』は、近年の日本の軍国主義映画では描かれることのなかった日本の軍隊の闇の部分を赤裸々に描いている。このことも重要な特徴として挙げられる。そしてこのことがファシズム化した現在の日本の文化において、この映画が批判されかねない要因ともなろう。日本アカデミー賞の選考者たちは、無難な方向に逃げた。『ラーゲリより愛を込めて』を優秀主演男優賞のみとして、あとは『ある男』が各最優秀賞を総ざらいすることにまかせたのである。

『ラーゲリより愛を込めて』ではソ連の過酷な強制収容所の実態が描かれる。実際、このような情況に10年以上も耐え帰国できたのは奇跡に近いといっていい。もし私自身が同じ様な情況に置かれたら、強制収容所のなかで確実に死んでいるだろう(病気になる前に、過酷な労働条件のもと一気に衰弱して)。ロシア人の国際法違反、残忍さが、余すところなく伝えられる【この映画の公開を機に、当時の強制収容所の所員か所長だった人物に取材した記事があったように思うが、取材をうけたロシア人は、収容所では、人道的な管理がおこなわれ、収容者は快適な日常を営んでいたと話すばかりで、残虐行為、国際法違反の実態は語られなかった。こいつこそ、強制収容所に入れて改心させたほうがいいと思ったのだが、プーチン政権のロシアでは、下手なことをいうと、首が飛ぶのだろうから、どんなに踏み込んだ取材でも真実を引き出すのは無理だろうとわかる。】

と同時に、日本の軍隊組織の非道さも確実に伝わってくる。

強制収容所では、収容者の統率管理に便利なように、日本の軍隊の階級制度を維持し、将校や下士官に、強制労働の監督や宿舎内の生活の管理をまかせていた。つまり将校や下士官はふんぞりかえって労働を全くせず収容者たちを叱りつけ鞭打つだけのことをし、配給された食料の上前をはねるのである。戦争が終わったのに、そのような階級制度を利用して収容者たちを監督・統治するソ連側もファシストのクズなら、戦争が終わったのに軍隊の階級制度にあぐらをかき、ソ連側のご機嫌をとろうとする将校や下士官もクズである。

将校や下士官は、他の収容者たち(元兵卒)を、お前たちのような腰抜けがいたから日本は戦争に負けたのだと罵倒するのだが、実際には、日本の軍隊(皇軍)に、こういう腐った将校や下士官しかいなかったから、日本は戦争に負けたのである。このことは明らかであり、私が子どもの頃観ていた日本の戦争映画では、こうした腐りきった日本の軍隊の階級制度はふつうに描かれていたが、日本がファシズム化してからは、あまり描かれなくなった(まあ戦争映画そのものがなくなったのだが)。

また『ラーゲリより愛を込めて』では、銃剣を使う訓練というか人を殺す訓練として捕虜になった中国人(兵士ではなく民間人のようにもみえる)を殺す場面が出てくる。捕虜の虐殺は国際法違反であるが、こうした捕虜処刑の証言は、けっこう残っていて、日本の軍隊がいかに残虐だったかを伝えている。

さらに捕虜虐殺を命じられた兵士は、命令にしたがっただけなのに、戦後戦犯として処罰され、それを命じた上官は刑を免れるという不条理が生まれる。この映画でも暗示されているが、捕虜虐殺を命じた上官たちは保身のために部下を連合国側に売った可能性がある。彼らは早々と帰国し、のうのうと生き延び、いっぽう冤罪のようなかたちで戦犯とされた者たちは強制収容所で過酷な重労働にあえぐという、美しい日本人の皇軍の真の現実が描かれる。またこれが戦後日本の真相であろう。善人は異国の地で強制労働にあえぎ、悪人が何食わぬ顔をして構築する――虚妄の国を。

おそらく『ラーゲリより愛を込めて』は、二つの面からアカデミー賞にふさわしくない映画だったのだろう。ひとつは、史実を改変したこと(だが、これは史実にインスパイアされたというふうにぼかしておけば簡単に許されることだし、またそのようにぼかさなくても容認できることなのだが)、そして日本の真実をつきつけたこと(実はだから史実にインスパイアされた映画とは言いたくなかったのだろう)。

真実というのは、皇軍の浅ましい姿だけではない。すべての映画が現時点の日本を描く必要性はないのだが、この映画は、コロナ禍の日本を描く稀有な映画である。つまり2022年の結婚式のシーンで、参加者が全員マスクをしている。日本のテレビドラマは、現在を舞台にしていても、コロナ禍の現実を、いまなおかたくなに描こうとはしない(マスク姿の片山右京をみたことがあるか)。この映画は、2022年の、いやコロナ禍の現実を描いている。その真実へのこだわりは、新鮮な驚きとともに胸に刺さった。

そしてこうした真実を、不都合な真実として嫌悪するネトウヨを代表とする美しい日本人たちがいることだろう。そのために、『ラーゲリより愛を込めて』は、物議を醸し出さないためにも、日本アカデミー賞からはずれてもらわなくてはいけなかった。むしろ二宮和也が優秀主演男優賞を受賞したことが奇跡だったのかもしれない。映画は、闇から闇へと葬られてもおかしくなかった危険性(あくまでもネトウヨにとっての危険性なのだが)をはらんでいた。しかし、それ闇へと葬りたくなかった人たちもいたということだろう。
posted by ohashi at 23:17| 映画 | 更新情報をチェックする

2023年03月23日

「コインランドリー」は英語

『エブ・エブ』を観た人なら誰でも気づくのは、coin laundryがアメリカではりっぱな英語らしいということである。

『エブ・エブ』を観ていると、頭のなかで、ああコインランドリーが舞台の映画だと認識するのだけれど、ある時点で、COIN LAUNDRYの文字がでかでかと建物の入口の上部にみえてくる、しかも、一瞬ではなく、思わせぶりにすこし時間をかけて。アメリカでもコインランドリーというのだと、驚いた。あるいはその提示の仕方からして、ちょっと変わった言い方でしょうと観客に訴えかけるものだったのか――つまり中国系アメリカ人が店の名前に変な表現を使っているという含意なのか。

ネット上にこんな記事をみつけた。

coin laundry (コインランドリー)は和製英語ではなかった!
2019/6/13 『受験英語』

この記事”Inside The Newly Opened La Quinta Inn & Suites In The Oil Center“を読んでいたら”customer accessible coin laundry room”という英単語が目に飛び込んできた。コインランドリーはてっきり和製英語だと思い込んでいたので、アメリカでもコインランドリーって言うのを知って驚かされた。留学中は、washer machineとしか言ってなかったのでなおさらである。ネットで検索するとニュースサイトでも普通にcoin laundryという単語が使われている。wikiで調べてみると、アメリカではlaundromatという単語がより一般的で、イギリスでは、launderetteやlaundretteと言うとのことである。ごくまれに、washateriasという単語も使われると書いてある。

このサイトによると、coin-operated laundry (coin-op laundry)、self-service laundry、coin washという単語がコインランドリーという意味で使われている。ただ、このサイトのアメリカ人のように、coin laundryなんていう英単語は使ったことが無いという人間もいるので、アメリカではlaundromat、イギリスではlaunderetteを使うようにした方が無難かもしれない。日本の場合は当然coin laundryの一択しかない。

要は、アメリカにはcoin laundryという表現がある。ただし一般的ではないかもしれないし、全く認知されないかもしれないということ。

しかし『エブ・エブ』の人気で、coin laundryという表記が定着するかもしれない(あるいはすでに定着しているのかもしれない)。

またcoin laundryは和製英語という考え方自体が間違っている可能性も出てきた。coin laundryというのは和製英語とは思えないほど、もっともらしい英語表現になっているのだから。解明が待たれる。
posted by ohashi at 00:08| コメント | 更新情報をチェックする

2023年03月12日

『トップガン・マーヴェリック』2

『トップガン・マーヴェリック』は今年に入って初めて観た。コロナ禍で映画館に足を運ぶのがためらわれたのと、映画に登場するF-18戦闘機があまり好きではないからだった。

今回、テレビでも放送された(地上波かBSだったか忘れた)こともあって、多少のネタバレがあっても許されるだろうと思い、自由に感想を記すことにした。


3.『633爆撃隊』

映画『633爆撃隊』は、航空映画・戦争映画史上に残る名作映画で、第二次大戦に使われた英国のモスキート爆撃機の実機が空を飛ぶ迫力ある映像と、最後に、ミッションを達成するが部隊は全滅、隊長とペアを組む爆撃手一人だけが生き残るという悲劇的内容によって記憶されている。

トップガンというのは、ヴェトナム戦争時に優秀なパイロットを集めてその技能を錬磨する訓練校として開設されたもので、卒業生は、出身の部隊に戻り、同僚に技能を伝授することを求められた。教官養成学校、いうなれば「師範学校」、それがトップガンである。

前作『トップガン』でトップガンは、ただ優秀なパイロットを養成するだけで、卒業生たちが、みんな同じ空母でミッションをこなすというのも本来ありえないことだった。今回も卒業生たちが集められ、困難で危険なミッションをこなすために訓練されるという、これも本来ありえないことである。

そのミッションとは、敵国の原子炉が稼働する直前に、その原子炉をピンポイント爆撃で破壊するというもの。しかも原子炉は渓谷の奥地にあり、対空ミサイルや対空レーダーをかいくぐって低空飛行で接近し爆弾を投下するのはミッションとして不可能に近い。そのため危険な訓練を繰り返すことは、そのミッションともども映画『633爆撃隊』を彷彿とさせる。

『633爆撃隊』ではノルウェーのフィヨルドの奥にあるドイツ軍の燃料基地(V1とV2の燃料)に対するピンポイント爆撃ミッションを、英軍のパイロットたちが、高速で運動性の高い木製爆撃機モスキートをつかって果敢に挑むことになる。そのさまは『トップガン・マーヴェリック』の訓練ならびにミッションと重なる。いや、その攻撃シーンは、ジョージ・ルーカス監督の『スター・ウォーズ』第1作(全体ではエピソード4)におけるデス・スターの対空砲火と帝国軍のタイファイターの攻撃をかいくぐりながらの、反乱軍Xウィングによる危険きわまりない攻撃と同じだという主張がされるかもしれない。それも正しい。なぜならジョージ・ルーカス監督は、『スター・ウォーズ』の最後の攻撃シーンを、『633爆撃隊』のそれからインスピレーションを受けたと語っているからである。

ちなみに『スター・ウォーズ』(第1作)と『トップガン・マーヴェリック』の類似点もこの最後の爆撃ミッションに見出せる。『トップガン・マーヴェリック』では、「マーヴェリック」に遅れていた「ルースター」が「考えるより行動せよ」の言葉を思い出して爆撃に成功するのだが、これは「ルーク・スカイウォーカー」がコンピュータによる照準をやめて「フォース」を信じて攻撃し成功するのと同じである。

4.『ディヴォーション-マイ・ベスト・ウィングマン』

航空機による攻撃中、攻撃を受けて機体が敵地に不時着したり、撃墜されてパイロットだけ落下傘降下したりする映画はけっこうある。そうした場合、敵地で敵に包囲されたあと、いかに脱出するかが物語の中心になる。「敵中突破」が、ほとんどの戦争映画のお約束的設定であることを思い起こせば、『トップガン・マーヴェリック』でも、ミッションに成功したあと敵地に降下したトム・クルーズ/マーヴェリックが、いかにして敵地から脱出するかが、観客にとっても重要な関心事となる。

ちなみに、以前、このブログで、映画『ディヴォーション』について語るなかで、朝鮮戦争を扱った映画『トコリの橋』に触れたが、あの映画の衝撃性と悲劇性は、敵地に不時着したジェット戦闘機F9Fパンサーのパイロットを救出するために飛来したヘリコプターも攻撃され大破、戦闘機のパイロットとヘリコプターのパイロットが共産軍に包囲され殺されることにあった。敵中突破への期待が裏切られ、悲劇的結末を迎えるのだ。

この映画『トコリの橋』は、朝鮮戦争中、撃墜されて不時着したパイロットを救助すべくヘリコプターが飛来するも、パイロットが墜落時の衝撃で変形した機体に挟まれて抜け出せず絶命するという、実際にあった事件から着想を得ていたかもしれない。

その実際にあった事件とは、アメリカ海軍で初のアフリカ系アメリカ人パイロット、ジェス・ブラウン少尉の戦死である。ブラウン少尉の機体は、地上の敵兵の銃弾があたり炎上、敵地である雪山に不時着。その後、少尉からの連絡が途絶えたため、少尉のウィングマンであったトム・ハドナー大尉も同じ雪山に不時着。ブラウン少尉が機体から出られなくなっていることを発見。救出のヘリコプターが到着してもブラウン少尉を機体から引きずり出せず残しておくしかなかった。のちにハドナ-大尉は、この僚機のパイロット救出のために、みずからも不時着した行為によって、戦死したブラウン少尉とともに、名誉勲章を大統領から授与されている。

Netflix映画『ディヴォーション』は、米海軍初の黒人パイロットの戦死までを扱っているのだが、雪山への不時着、僚機のパイロットのさらなる不時着。そこからの脱出の試みなど、まさに『トップガン・マーヴェリック』におけるミッション遂行後の敵中突破の物語を彷彿とさせる。

『トップガン・マーヴェリック』では、雪の敵地に降下したトム・クルーズ/マーヴェリックを追って、みずからもパラシュート降下したのはマイルズ・テラー/ルースターだったが、『ディヴォーション』で、ジョナサン・メジャーズ(『アントマン&ワスプ-クアントマニア』の)/ジェス・ブラウン少尉を救出するために自らも雪山に不時着するのは、トム・ハドナー大尉だが、大尉を演ずるのは、誰あろう『トップガン・マーヴェリック』で「ハングマン」を演ずるグレン・パウエルなのである。『トップガン・マーヴェリック』では癖の強い役どころであったグレン・パウウェルも『ディヴォーション』では癖のない好人物を演じている。

もちろん『ディヴォーション』は『トップガン・マーヴェリック』のあとに作られた映画なので、『トップガン・マーヴェリック』に影響を与えてはおらず、むしろ『ディヴォーション』のほうが『トップガン・マーヴェリック』から影響を受けたようにもみえる。ただ、『ディヴォーション』は朝鮮戦争時代の実話の映画化であり、その実話が『トップガン・マーヴェリック』に影響を与えたのかもしれない。同じ実話を共有する(一方はインスピレーション源、いまいま一方は準拠すべき史料として)ことで、『トップガン・マーヴェリック』と『ディヴォーション』の一部が奇しくも似ることになった。

つづく
posted by ohashi at 09:55| 映画 | 更新情報をチェックする

2023年03月11日

『トップガン・マーヴェリック』1

『トップガン・マーヴェリック』は今年に入って初めて観た。コロナ禍で映画館に足を運ぶのがためらわれたのと、映画に登場するF-18戦闘機があまり好きではないからだった。

今回、テレビでも放送された(地上波かBSだったか忘れた)こともあって、多少のネタバレがあっても許されるだろうと思い、自由に感想を記すことにした。

1.ダークスター

映画の最初は、実験機でマッハ9やマッハ10を超えるというような話になって唖然。SFファンタジーかと我が眼を疑った。人工衛星などが成層圏外の飛行でマッハ10を超えることは珍しくないが、大気圏内の高層でこれまで実験機が出した最高速度はマッハ6くらいで、マッハ10というのは想像を絶する速さ。

されにエンジンもタービンジェットからラムジェット(その発展型のスクラムジェットが使われた)というのも驚いた。ジェットエンジンは、吸引した空気を圧縮機で圧縮してからそこに燃料を噴射して点火する。しかしマッハを超えた高速飛行をすると空気圧縮装置がなくても吸引した空気が圧縮される。そのため圧縮機にタービンといった機構が不要になる。ラムジェットあるいはその発展型のスクラムジェットは、ターボファンジェットより機構が簡単である。ただしマッハ3を超える速度で飛ばないと使えない。

これが実験機ダークスターで使われている。ちなみにこのダークスター、架空の実験機だが、実際に使われていてもおかしくないほど、けっこう洗練されたかたちをしている。ロッキードではSR-71の後継機となるような無人の偵察機S-72を開発。このSR-72とダークスターはそっくりである。違いは、ダークスターは有人機なのに、SR-72は無人機ということ。Wikipedia日本版の記述を参照。

最高速度マッハ6を発揮する双発の極超音速無人偵察機として計画されており、1960年代にスカンクワークスが開発した戦略偵察機SR-71(こちらは有人)の後継機として扱われている。(中略)全長は30mほどで、極超音速飛行時に用いられるデュアルラムジェットエンジンの他に、離陸後にマッハ3まで加速する為に使われるジェットエンジンを搭載している。(中略)開発計画は2013年に公表され、試作機の完成は2018年を、実戦配備は2030年を予定している。


映画のなかではダークスターが開発中止、かわりに無人機開発の方針が出されるのだが、方針転換に不満なトム・クルーズや開発チームが、マッハ9とか10といった速度記録を出せば予算が降りると考え、急遽、むりな速度記録挑戦に及ぶというの物語の流れとなる。

冷静に考えれば、有人の超音速機は、AIを搭載した無人機にとってかわられて当然である。マッハ10を出そうかという軍用機、それも有人軍用機を、もし採用したら維持費が莫大なものとなりパイロットの訓練費用もばかにならない。そのため無用の長物化は避けられないだろう。開発中止は賢明な選択である。しかし映画のなかでは開発チームとテストパイロットのトム・クルーズは、軍の方針に逆らい有人航空機にこだわっている。しかし無人機のAIか人間のパイロットか、どちらが優れているかというのは映画のテーマのひとつでもあるのだが、その後の物語のなかで深化しているように思えない。

なおマッハ10を達成したダークスターは、さらに速度更新をめざすトム・クルーズの無茶な挑戦によって空中分解を起こす。なんとか脱出してパイロットであるトム・クルーズは助かるのだが、マッハ10で脱出というのは、特殊な脱出装置を装備していないと、たとえ脱出しても死はまぬがれない。そうなのだ。この映画の弱点のひとつが射出方法である。

マッハ10で飛行するダークスターからの通常の射出座席による脱出は、おそらく不可能であろう。機が減速すればいいのだが、映画ではマッハ10で空中分解を起こしているように思われる。射出方法に対する無知は、映画の終わりのほう、パイロットが戦闘機から脱出するとき高度が足りないから上昇する場面に端的あらわれている。いまのジェット戦闘機が装備している射出座席というのは緊急時にパイロットを座席ともども機外に爆薬によって放り出す装置である。しかもゼロ・ゼロ射出座席。つまり高度ゼロ、速度ゼロでも射出できる。そのため地上で停止し駐機していても、座席をパラシュートが開く高さまで飛び出させることができる。このことを映画は知らないように思われる。

映画そのものは、マッハ10の速度記録を出すことに成功するものの、その直後、機体が分解し、パイロットは脱出して、なんとか地上に降り立つという物語に固執している。この展開を、映画は、どうしても織り込みたかったのだろう。

なぜか? そう、なんとなく既視感というか、思い出されることがある。危険なテスト飛行をして、機体が壊れ、からくも脱出に成功したパイロットが、ぼろぼろになって地上に降り立つ……。

2. チャック・イェーガー

チャック・イエーガー(チャックは愛称)という伝説のアメリカ空軍パイロットをご存知だろうか。ヒコーキ・ファンなら知らぬ者はいないと思われるのだが。Wikipedia日本版を引用すると:

チャールズ・エルウッド・イェーガー(Charles Elwood Yeager 、1923年2月13日 - 2020年12月7日)は、アメリカ陸軍及びアメリカ空軍の軍人。退役時の階級は空軍准将。

公式記録において世界で初めて音速を超えた人物として知られる。


ベルX-1で世界で初めて音速を超えた男、チャック・イェーガーは、第二次大戦中、陸軍航空隊においてP-51に搭乗しエース・パイロット(エース・パイロットは敵機を5機以上撃墜したパイロットのこと)となる。戦後は、陸軍航空隊から発展したアメリカ空軍に入り、テストパイロットとして活躍、その後、空軍のテストパイロット学校の校長も務める。

これは『トップガン・マーヴェリック』でトム・クルーズ演ずるピート「マーヴェリック」ミッチェル大佐の経歴と重なるのではないか。実際、『トップガン・マーヴェリック』の冒頭、トム・クルーズ/ミッチェル大佐は海軍のテスト・パイロットである。しかも趣味でP-51の手入れしている。P-51は俳優トム・クルーズが実際に所有している機体のようだが、イメージとしては作中のクルーズ/ミッチェル大佐を、チャック・イェーガー(第二次大戦中の乗機はP-51)と結びつけるはたらきをしている。

ウィキペディアによるとイェーガーは「1963年12月10日、NF-104による高度記録達成に挑んだが、トラブルにより機は墜落するも無事生還を果たした」とある。マッハ10の記録達成後、機が墜落するも無事帰還を果たしたトム・クルーズ/ミッチェル大佐と似ていないだろうか。

『ライトスタッフ』(1983)という映画を観たことがあれば、映画の最後で、サム・シェパード扮するチャック・イェーガーは、ウィキペディアの引用にあったようにNF104で高度記録を達成するも、機体に不具合が生じ、墜落する機体からからくも脱出して、傷を負いながらも無事地上に降り立つ。これぞ、ライトスタッフ(適正な資質)の持ち主、選ばれしパイロットの鑑とでもいわんばかりに。

『ライトスタッフ』ではアメリカのマーキュリー計画に従事したパイロットたちの話がほとんどで(そういえば『トップガン・マーヴェリック』で、チェスター・ケイン海軍少将を演じていたエド・ハリスは、『ライトスタッフ』ではジョン・グレンを演じていた)、宇宙飛行をしなかったチャック・イェーガーは、異質の存在である。ただ、にもかかわらず、ライトスタッフを持つパイロットたちの一人でもある。そうマーヴェリック(一匹狼とでも訳せようか)。このチャック「マーヴェリック」イェーガーこそ、『トップガン・マーヴェリック』におけるトム・クルーズ/ピート「マーヴェリック」ミッチェル大佐のモデルとでもいえよう。トム・クルーズ/ピート「マーヴェリック」ミッチェル大佐は、海軍版イェーガーであり、また21世紀版イェーガーである。

そして『トップガン・マーヴェリック』の最初のダークスターのパートは、まさに『ライトスタッフ』の最後のイェーガーの記録達成と墜落脱出シーンへのオマージュとしても準備されいるのではないだろうか。

つづく
posted by ohashi at 23:01| 映画 | 更新情報をチェックする

2023年03月09日

R-1 やらせ疑惑

こんな記事があった:

『R-1』やらせ疑惑だけじゃなかった…物議醸す出場者への無礼な“もう一つのミス”
『女性自身』の意見 •3月8日 14:35

田津原理音(29)が21代王者に輝いた今年の『R-1グランプリ』(関西テレビ・フジテレビ系)。一方で、得点の誤表示による“やらせ疑惑”が広く波紋を呼んだばかり。

「決勝1stステージのトップバッターは、Yes!アキトさん(32)でした。彼のネタを5人の審査員が採点した結果、合計456点を獲得。しかし、出場者の順位を表示するステージ中央のモニターに、一瞬だけ『田津原理音 470点』の文字が映し出されたのです。しかも、7番目に登場した田津原さんの得点『470点』だったため、“デキレースでは”との疑いが視聴者の間で広まってしまったのです」(テレビ局関係者)

騒動を受けて、関西テレビは公式サイト上に経緯や原因を報告。まず、《優勝された田津原理音さんをはじめ出場者の皆さまのファーストステージの得点、さらにはファイナルステージでの決選投票の結果は、生放送内での審査員の厳正な審査によるもので、リハーサル時に前もって審査をしていたことや、あらかじめ優勝者を決定していたという事実は一切ございません》と疑惑を否定。

その上で、《本番前に行った得点発表のリハーサル内の動作確認において使用した、仮のデータ「田津原理音 470点」が、システム上に残っていたことに起因するものです》と説明している。【以下略。】

実際にR1決勝がやらせなのかどうか、判断する材料はないが、しかし、やらせではなく単なるミスだという弁解にも説得力はない。

まあ「田津原理音 470点」という表示が、実際のパフォーマンスの素晴らしさと一致していたから、つっこんだ追求はないようだが、やらせ、出来レースであった可能性は捨てきれない。

5人の審査員全員を買収するのはむつかしいとか、スタッフ全員をまきこんでの八百長は発覚する可能性が高いということで、やらせを否定する弁解があったが、お粗末な弁解である。

審査員5人全員を買収する必要はない。一人だけ買収すればいい。その審査員の点数だけを「中の人」が操作すれば、その一人の審査員の点数次第で優勝が決まるだろうから、特定の出演者を優勝させることは簡単である。

こんなことを考えたのは、ほかでもない2022年12月18日に放送されたテレビ朝日のバラエティ番組『くりぃむナンタラ』第46回「次の審査員は俺だ-1グランプリ!」を観たからである。

いうまでもなく12月18日のM1グランプリのすぐあとに放送されたこの番組では、上田晋也長、長谷川忍(シソンヌ)、ヒコロヒー、山里亮太(南海キャンディーズ)の4人がM-1グランプリのような番組で審査員を務めたらどうなるのかという企画で、実際に芸人のパフォーマンス(錦鯉、マジメニマフィン、JP、原口あきまさ、ゴンゾー、こまつ、おぼん・こぼん)のネタを観たあと、4人が自分の出した点数にもとづいてコメントするものだった。ポイントは、有田哲平が4人の評点を勝手に決めて、4人はその評点に従って感想を述べなければならないということである。

スタジオでも大いに受けたパフォーマンスに対して、有田から低い点数を割り振られたゲスト(審査員)が、苦し紛れに適当なコメントをするのが笑いのポイントとなる。あるいはどうみてもひどいパフォーマンスに対し、有田から高得点を割り振られたゲストも悪戦苦闘しながら褒めまくらなければならない。

この企画は、審査員の出す評価を、べつのところで操作・決定してるという、とんでもない想定で笑いをとっているのだが、今回のR-1の不祥事からわかることは、審査員を買収して、審査員に評点を決めさせるのではなくて、彼等の意志とは無関係に、べつのところで評点を操作できるという可能性である。

実際、審査員が何もしなくても「田津原理音 470点」の文字をモニターに出せるということは、審査員の出す評点を自由に操作できるという可能性の証明ではないだろうか。

また5人の審査員全員を買収しなくても一人だけ買収すればなんとなるのだから、この方式で出来レースはけっこう簡単に実現できる。

もうひとつ、「田津原理音 470点」の文字がモニターに出たのは、システム操作のうえのミスということになっているが、これもミスではないだろう。おそらく、こうしたやらせに怒ったスタッフが、あえて、モニターのミスを起こして、実態を知らしめたということではないだろうか。

私がスタッフで、良心が残っていたとすれば、「中の人」によるこうした勝手な出来レースは、芸人に対しても失礼だし、審査員の評価をないがしろにするものであって許しがたい、そのため不正を臭わせるような「ミス」を絶対に周到に意図的に起こすと思う。

今回、優勝者は、そうした操作がなくても、優勝していただろうから、優勝者に対しても失礼なことである。「中の人」のしわざかどうか、わからないが、「中の人」あるいはそれに類する人たちが弾劾されてしかるべきである。
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2023年03月03日

『ボーンス・アンド・オール』追記

『ボーンズ・アンド・オール』のルカ・グァダニーノ監督が、ティモシー・シャラメと組んで彼を一躍有名にした映画『君の名前で僕を呼んで』(17)は、そのタイトルで『ボーンズ・アンド・オール』の世界を解く鍵を手渡していたことが、今となってはわかる。

「君の名前で僕を呼んでCall me by your name」は、映画の最後で、ティモシー・シャラメの年上の恋人が電話口を通して彼にささやきかけてくる言葉である。

私が、たとえば、男性で名前が「ベン」だとしよう。相手も男性で名前が「ジョン」だとしよう。私が相手に「君の名前で僕を呼んで」と頼んだら、それは相手のジョンが、私ベンのことをジョンと呼ぶことである(たとえ話とはいえ、日本語の名前にしないのは、日本語だと、よけいなインプリケーションが生まれるかもしれないから)。

逆でもいい、「君の名前で僕を呼んで」と相手のジョンから言われた私ベンは、ジョンのことを「ベン」と呼ぶことになる。

いずれにしても、「君の名前で僕を呼んで」とは、一方の名前が、他方の名前を吸収する、包み込む、覆い隠す……ということである。そう、一方の名前が、他方の名前を食べてしまうといってもいい。

所有の欲望と同一化の欲望に愛は二分されるとするならば、これは、つまり吸収すること、食べてしまうことは、所有の欲望と同一化の欲望の合体である。二つの分裂する欲望が一体化する。そこに愛の究極の姿がある。おそらく実現するのが難しい愛の姿が。

そのため『ボーンズ・アンド・オール』で、死に行くティモシー・シャラメが、「ぼくの体を骨まで食べて」と頼むのは、「君の名前で僕を呼んで」と同じことを言っているのである。

『君の名まで僕を呼んで』と『ボーンズ・アンド・オール』は同じことを言っている。ちがいは、愛する相手を食べたティモシー・シャラメが今回は、愛する相手に食べられるということある
posted by ohashi at 23:02| 映画 | 更新情報をチェックする

2023年03月02日

『ボーンズ・アンド・オール』

『ボーンズ アンド オール』(原題: Bones and All)は、2022年製作のアメリカ合衆国・イタリア合作の恋愛ホラー映画。『君の名前で僕を呼んで』のルカ・グァダニーノ監督がティモシー・シャラメと再び組むことになった映画で、ティモシーのファンなら、これはみないほうがおかしい。

昭和歌謡に『骨まで愛して』という曲があったが、この映画は、骨まで全部食べて欲しいという死にゆくリー/ティモシー・シャラメの願いをタイトルにしている。

というので、初日に映画館へ。

人肉を食べる衝動を抑えられない特殊な性向の持ち主たちの物語という、衝撃的な内容なのだが、彼らは予想したより異常な人間ではない。この映画のティモシー・シャラメは、ぶっとんだ若者という印象を最初に受けるが、その印象は映画のなかでは徐々に修正され緩和される。後半で彼はふつうの青年である。

いっぽうテイラー・ラッセルは人肉を食べるということで異様な女の子だが、『エスケープ・ルーム』(2019続編は21)とか『ロスト・イン・スペース』(18-21)などに登場していた彼女にはスターのオーラがあったのだが、この映画では、オーラが消えている。もしこの映画で初めて彼女に接する観客がいたら、なぜ、このように平凡な彼女が相変わらず美しいティモシー・シャラメとからむのか不思議に思うかもしれない。

しかし、これは映画の欠陥ではなくむしろ特性であろう。『君の名前で僕を呼んで』のルカ・グァダニーノ監督は、題材をセンセーショナルにみせることよりも、この映画のように、たとえセンセーショナルな題材でも、それを平凡な日常性のなかに取り込むことで、対照性を掘り下げる、あるいは同じもののセンセーショナルな、もしくは対照的な裏面をこしらえることに優れているのではないか。

たとえばティモシー・シャラメが故郷の実家に帰ったものの、近くに湖の岸辺でテント生活するようになったと言われ、テイラー・ラッセルが会いにいく場面がある。予想されるのはティモシー・シャラメが大自然に抱かれ隠者のようにテント暮らしをしているさまだが、実際に行ってみると、湖畔の彼のテントのまわりにも無数のテントがあり、その一帯は完全に俗化していて観光地のようにみえる。すぐ脇には駐車場もある。観光バスなんかも来ていたかもしれない。あるいはトレーラーパークのようなところかもしれず、多くのテントはホームレスの人びとの住処なのかもしれないが、いずれにせよ静かな隠遁生活とは全く無縁の環境だったが、そうした環境とは対照的に孤独な青年が周囲に紛れて暮らしているのである。

あるいは最後のほうの惨劇の場面。それが起こっている建物の外壁が、惨劇の途中、何度も映し出される。落ち着いた住宅街のレンガの壁の邸宅は、そのなかで血まみれの惨劇が起こっているとは予想だにできない静謐さをたたえている。実際、邸宅を外から映し出すシーンには音はない。静謐な日常と阿鼻叫喚の惨劇。しかしこのふたつは対照的でありながら、同時に一体化して、両者が絨毯模様の裏表を形成しているのである。

おそらく人肉食も、愛のセンセーショナルな裏面であろう。冒頭の場面。学校で孤立しているテイラー・ラッセルにやさしく声をかけて、ホームパーティに誘ってくれたクラス・メイトの指を、テイラー・ラッセルは思わず食べてしまう(指の肉をしゃぶって、ほぼ骨だけにしてしまう)。

これは彼女が、親切なクラス・メイトを憎んでいるわけでもなく、また食いしん坊でこらえ性のない彼女が思わず親友の指を食べてしまったということではく、ただ好きだから思わず食べてしまったということだろう。

この映画のなかでマーク・ライランス(テレビドラマ『ウルフ・ホール』のトマス・クロムウェルを演じた彼は私に強烈な印象を残しているのだが)は、人肉食ピープルのなかで唯一、不気味なサイコパス性を顕在化していて高い評価を得ているのだが、その彼も、テイラー・ラッセルを見出し、彼女を人肉食へと誘い、高齢の女性の死体をいっしょに食べるのだが、彼は、その死んだ女性をたまたまみつけただけではいだろう。おそらく彼は、その高齢の女性を愛していた。そして彼女の死によって彼女を食べることで、その愛を全うしたととれないことはない。

ティモシー・シャラメが食べる相手は男性なのだが、どれも同性愛で結ばれたか結ばれる男性を食べている。そして仲良しのクラス・メイトの指を食べたテイラー・ラッセル。人肉食と愛は、対立し相容れないものではなく、同じものなのだ。だから致命傷を負って死に行くティモシー・シャラメは、テイラー・ラッセルに骨まで食べてくれと頼むのである。

愛を同一化の欲望と所有の欲望で説明することがある。これは同性愛と異性愛の説明法でもある。たとえば男性である私が、同性と同一化したいと思う時は、私は異性愛者である。私は同性と一体化し異性を所有しようとしている。これが異性愛者の定義。

もし男性としての私が、異性に一体化し、同性を所有しようとしていたら、私は同性愛者である(ただ、この同性愛者は「オカマ」ということになるが、その他の同性愛者についてうまく説明できない)。

しかし所有と同一化を峻別して愛について説明することには解せないところもある。私が男性として男性と一体化したというときには、男性のありかたを模倣し演技するということになる(ジェンダーのパフォーマンス性)。しかし模倣という根源的な距離を前提とする行為ではなく、無媒介的な心身共の一体化の欲望もあるのではないか。愛する人を所有するというのは、愛のありようのすべてではないだろう。愛する人に所有されたい、あるいは愛する人と一体化したいという欲望、所有と一体化の同時共存こそ愛の極致ではないか。そのためにも所有を、相手を隷属化。所有と一体化が融合することで、愛の極北を実現できる。これは相手を文字通り食べることだ。それによって愛を全うできる。

となると静謐な日常の裏面あるいはメタファーが血の惨劇であったのと同じように、愛と人肉食は表裏一体化し、愛のメタファーが人肉食になっているとみることはできる。

愛は戦争であったり、愛は戦いであったり、愛は狂気であったりと、さまざまなメタファーがこれまで生まれてきた。映画は、愛が人肉食であることをその全体で示している。

新しいメタファーが加わった。いや人類学的にみて、愛する者を食べるというのは古代からある習慣であって、メタファーとしては由緒正しいいにしえのものかもしれないが。
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