2023年02月26日

献本

『アニマル・スタディーズ――29の基本概念』大橋洋一監訳、平凡社、2023年2月24日が刊行され、本日の朝刊の一面の下部に広告が出た。まあ出てあたりまえなのだが、献本はまだしていない。

比較的最近、私自身、献本されたのだが、そのとき献本者から、発売前にお送りすることができず申し訳ありませんといったメモのようなものが入っていた。

そういうものかと思った。まあ刊行されたから1ヶ月か2ヶ月たってから献本するというのは遅すぎる気がするし、そのときは詫び状のようなものを添付すべきかもしれないのだが、刊行前に献本が届かなくても問題ないのではないか。あるいはそういう習慣なのかとそのときは思ったのだが……。

その影響もあってか、今回の翻訳については、完全に校了してから急いで献本リストを作り、刊行前に献本してもらおうと出版社に送ったら、刊行前なので、著者とか翻訳者には見本刷りを渡すが、献本は刊行後になると言われた。

それもそうだと思い、ならばあのお詫びメモは何だったのかと不思議に思った。とはいえ、そのメモのようなものはなくしてしまったので、私が内容を読み間違えた可能性もある。最近ボケが激しいので。

そうボケといいうのは、確かで、ここで書こうとしたのは、そんなことではなくて、今回の翻訳については私からの献本は、これまで刊行した翻訳よりも少ないものとなることの通知とお詫びである。アポロギアというほどりっぱなものではないが、事情についての理解を乞いたいと思う。献本を期待している方がいたら、残念ながら、たぶんあなたのもとには献本は届きません。すみません。

今回の翻訳は1万円を超える本なので個人で購入する人は少ないと思う。図書館などで購入してもらうことを狙っていて、初刷りの部数は多くない。私を含む20人くらいの共訳なので、ひとりひとりの原稿料も少ない。800ページを超える本なので、分厚くて重い。送料も高くなる(書籍代と送料は献本者の負担である)。そうなるとたくさん献本はできない。

私は自分で翻訳した本を、多くの人に献本することにしている。翻訳書は、私が書いた本ではなく、他人が書いた本であって、私は、著者の代理であり、また広報担当者でもある。だからできるだけ多くの人に原著者の発言なり議論なりを知って欲しいと思うので、献本はついつい多くなる。いっぽう私が本を書いたとしたら、献本はしない。それなら書けなければいいと言われるかもしれないのだが、まさにその通り、おそらく書くことはないかもしれない。

まあ監訳者である私と、20人の翻訳者が所属しているか所属していた東京大学文学部・大学院人文社会系研究科の英語英米文学研究室と現代文芸論研究室の先生方ならびに研究室には訳者全員から献本予定。それ以外に、もしもらえると思っている方々がいれば、たぶん献本は届きません。お詫びします。

いきなり不景気な話で申し訳ないが、以後、この翻訳について毎日なにかコメントをしておこうと思う。

posted by ohashi at 16:13| 『アニマル・スタディーズ』 | 更新情報をチェックする

2023年02月25日

罰当たりな行為 つづき

前に、いま世間を騒がせているスシローの迷惑動画について、フランソワ・オゾン監督の映画『ぼくを葬(おく)る』(2006)に登場した悪質ないたずら行為と関連づけてコメントした。

その映画におけるいたずら行為とは、カトリックの教会には「聖水盤」あるいはそれに類するものが設けられているが、そこに悪ガキ二人がおしっこをするという罰当たりなものだった。やっていることは回転寿司スシローに対する迷惑行為とかわらないというか、どっちもどっちである。

今回のスシローへの迷惑行為行為(まだ続いているというか新たな動画も出現した)に対する論評として、以前の飲食店へのバイトテロと関連づけながら、仲間内だけの動画でもネット時代には全国いや全世界に拡散し、飲食店や飲食業界に与えるダメージも大きくなれば、またバッシングも過激化していたずらをした本人の今後の人生を破壊するとという指摘が相次いだ。そして再発を防ぐために全世界に発信しているという意識を覚醒させること、またバッシングの過激化を抑制することなどが求められている。と同時に再発というかこの手のいずらはどうしても防げないので、回転寿司という形態そのものを見直すべきだという意見もあった。

私は回転寿司にはめったに入らなくて、昨年の9月下旬、JR武蔵浦和駅の構内にある回転寿司に入ったのが最後だった。午前11時すぎでほかに客はいなかったが注文できた。回転寿司といっても皿にのった寿司ネタは動いておらず、タブレットというかタッチパネルで注文する店で、値段も3段階に分かれていた。注文すると、新幹線に似せた移動体がすしの皿をのせて席まで直行してきた。直行レーンで注文を運ぶ方式だったが、この方式を取り入れている店は多く、将来的にどの回転寿司でもこうなるのがよいのではないかと思った(回転寿司という名称はなくなるかもしれないが)。【あとなぜ新幹線のかたちをした容器なのか不思議に思った(早さをアピールするメタファーなのか)。ただ、その理由はホームに出てからわかった。JR武蔵浦和駅は新幹線が止まる駅ではないが、ホームのすぐ横のレールを新幹線(東北新幹線、新潟新幹線)が絶えず通過していて、新幹線は身近な存在だった】

回転寿司は別形態にして、いたずらを防ぐしかないというのが私の意見だが、ただ、映画『ぼくを葬る』から言えることは、回転寿司あるいは飲食店全般における、その種の迷惑行為・いたずらは、昔から、日常化していたのではないかということだ(今と違って店員が店のなかで絶えず目を光らせていたときには、いたずらを防げたかというと、おそらく、そうでもなく、いたずら充分に可能だったはずだ)。ネット社会になって動画が拡散することで注目されることになったが、行為そのものは昔からあったと思われる。

このことを、飲食業界は公表すべきだあるとか、あるいはいたずら行為の当事者がもっと告白して世間の認識を新たにすべきだとかいっても、どちらも無理だろうが、ただ、飲食業界には公表できない闇がある。食の安全性(塩分過多、糖分過多、カロリー過多、添加物過多)と不潔ないたずら行為のターゲットになっていること。前者は改善できるかもしれないが(とはいえそれは可能性であって、蓋然性はゼロだが)、後者は昔からある伝統的行為でもあるので(Old Customs Die Hard!)防ぎようがない。

私たちに求められているのは自己防衛しかないのだろうか。というかとにかく自己防衛から始めるほかはない。
posted by ohashi at 11:30| コメント | 更新情報をチェックする

2023年02月23日

検定ではなく検閲


東京書籍の教科書訂正、文科相「大変遺憾」…検定手続きは「適切に行われたと認識」
読売新聞  2023年2月21日 20:09

教科書会社最大手「東京書籍」が発行した高校地図の教科書に約1200か所の訂正があった問題で、永岡文部科学相は21日の閣議後記者会見で「今回の事案が生じたことは大変遺憾だ」と述べ、再発防止を強く指導する考えを明らかにした。一方、文科省の教科書検定に合格していたことについて「訂正箇所の多さが検定の不適切さを示すものではない」として、問題はなかったとの認識を示した。

大量の訂正があったのは同社の「新高等地図」(全192ページ)。2021年3月に教科書検定に合格し、22年4月から全国の高校生が使い始めた後、誤記や位置の誤り、索引の誤りなどが見つかった。

永岡文科相は、検定合格後の対応について「教科書会社の責任で索引などの校正を行う必要がある」と教科書会社側の責任を強調。「検定手続き自体は適切に行われたと認識している」と述べた。


今回の事件は、文科省の検定のありかたについて私たちに貴重なことを教えてくれる。

検定が実際にどういう手順でおこなわれているのかまったく何も知らないのだが、一般論として、どんなときにも、不適切箇所のひとつやふたつ見落としはあるだろう。今回の事件のように、数が多すぎると、異常が正常にみえて、無視されるということも考えられる。とはいえ1200カ所の不適切箇所というのは、サンプリングすればひっかかる確率が大きいと思われるので、やはり手抜き作業と批判されることになるだろう。

おそらく検定作業は教科書の現物を手に取っておこなわれるのではなく、電子化された教科書のデータをもとに検索をかけながらするのではないかと予想する。また地図帳のように、通常の教科書のように文字ではなく、画像が中心となる教科書の場合、検索がしにくいということもあるだろう。もちろん検定作業の実際について何も知らないので推測にすぎないのだが。

しかし、検定作業が手抜きでずさんだったということではなく、そもそも検定といっても、教科書として不備はないのかといった基礎的な確認などどうでもいいのであって(それは今回の事件からもわかる)、検定の目的は、政府の見解に沿った内容になっているのか、反対制的内容が盛り込まれていないか、政府に批判的な内容になっていなかという、データではなくイデオロギーを精査することにある。

これは、端的にいって検定ではなく検閲である。政府、いや自民党と統一教会、略して「自民統」に都合のよういような内容の教科書を作ること、そうした教科書だけを認定することが何よりも重要なのである。検閲作業にとって、索引で示されるページが本文になかったりずれていたりするということは、どうでもいいことで、まさに「教科書会社の責任で索引などの校正を行う必要がある」ということになる。

しかし教科書会社が正しく校正をおこなっているかを審査するのも検定作業ではないかと思うのだが、それを放棄する検定作業とはいったい何か。繰り返すが、これは検定ではなく検閲である。検閲だから、些細なことは教科書会社に丸投げしてもかまわないのである。検閲だから、「自民統」の意向にかなった内容になっているかチェックがはいる。また検閲だから、反政権に対する批判を摘み取ることが何より重視される。つまりその他のことはどうでもいいのである。
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2023年02月21日

死んだ人を悪く言う

2023年(令和5年)2月13日、松本零士氏が、急性心不全のため東京都内の病院で死去。85歳。発表は2月20日。

弔いの言葉はどれも美しい。以前務めていた大学で現役の教授が定年前に亡くなられた時、学生や大学院生が寄せた追悼文が、どれも目頭が熱くなるほど美しく感動的であったことに驚いたことがある。ふだん気の抜けた文章しか書かないあの院生が、こんなりっぱな追悼文を書くとはとほんとうに驚いた。

人の死を悼む言葉、弔う言葉、葬る言葉は、どれも美しい。それは使える語彙や表現形式が構成する情動の圏域が否定的で不純な感情を許容しないからだろう。いいかえれば追悼文は死んだ人を悪く言わないという原則に貫かれている。そこから故人は、たとえ聖人とはほど遠い人物であっても、どうしても聖人化される。そう、言説のジャンルの構築力によって故人は全員、聖人になる。

故人の聖人化には、死んだ人間は怖くないから誹謗中傷から正当な批判まであらゆる攻撃にさらされることへの恐怖と防衛がすけてみえる。しかしだからといって故人を埋葬してそこに純白の汚れ一つシミ一つない墓を建てるのはどうかと思う。むしろ死を機会に都合の悪い真実こそ暴くべきではないだろうか。

松本零士(偉い人なので呼び捨て)については、べつに新情報をもっているわけではないが、たとえばWikipediaにも書かれているいるように、創作・著作権について、悪い意味で、厳しい姿勢をとっていた。

Wikipediaの「松本零士」の記事には、「創作・著作権に対するスタンス」と題された項目があり、「この節は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため、中立的でない偏った観点から記事が構成されているおそれがあり、場合によっては記事の修正が必要です。議論はノートを参照してください。(2006年11月)」と但し書きがあるものの、「松本零士」への遠慮もあって、腰の引けた記述になっているが、問題のありかはわかる。

今後、この項目は、聖人化のあおりをうけて削除されるか不快なほど聖人化される、さもなくば松本零士のえげつなさを徹底的に暴く記事になるかのいずれかであろう。

以下、一部を引用する:
創作・著作権に対するスタンス

日本漫画家協会著作権部責任者やコンピュータソフトウェア著作権協会理事などの役職を持つ立場にあることもあって、著作権に対し敏感な面があり、過去に著作権関連のシンポジウムで「孫子の時代まで自分の著作権を守りたいというのが心情だ」と述べたこともあるほか、自らが過去に漫画の中で使用した台詞等の表現を「創作造語」と称し、それに似た表現を他者が無断で使うことに否定的な見解を示している。

松本が著作権に強硬なのは、『宇宙戦艦ヤマト』や戦争ものなどを描く際には戦没者や民族感情に細心の注意を払って配慮しているのに、自分のあずかり知らぬところで、第三者によって自分の創作が意図に反した使われ方をされるのが我慢できないことが一因だという。 2002年には自らが原作のテレビアニメ『SPACE PIRATE CAPTAIN HERLOCK』がダビデの星を敵のデザインに使ったことから、ユダヤ人感情に配慮して一時製作中止にさせたこともあった。

権利関係に非常にシビアである印象を持たれるが、作家に対する敬意があり無断で使うのでなければ他の漫画家やミュージックビデオ、広告等に自作のキャラクターを使うことには寛容である[42][44]。自作を笑いのネタにしたパロディ的な引用にも、松本自身が「面白い」と思えば快く許諾する傾向にある。但し「面白くない」と感じたパロディ的な引用には非常に厳しく、名指しで非難したり、担当編集者や漫画家自身を呼びつけて説教することもあるという。【以下略】


作品は子供と同じで、親元から離れたら独自に進化を遂げるとか、社会によって育まれ成長するという面があることを忘れてはならない。また盗作については、厳しく対応すべきであって、2006年の槇原敬之に対する盗作非難については、私は個人的意見として槇原敬之が盗作したと思っているので松本零士の判断と行動は正しかったと信じている。

しかし、著作権問題について、裁判まで起こしても、いずれの裁判も敗訴しているので、たいした問題ではなかったと思うかも知れないが、実際には、裁判沙汰になった著作権問題はいうまでもなく、それ以外の著作権問題でも、多くの人が泣かされてきたであろうことは想像にかたくない。上記の引用でも「但し「面白くない」と感じたパロディ的な引用には非常に厳しく、名指しで非難したり、担当編集者や漫画家自身を呼びつけて説教することもあるという」とあるが、おそらくはこんなものではなかったはずだ。

ディズニーは、子供がディズニーキャラクターを落書きしても、それに著作権料を要求するとジョークで言われるのだが、しかし、ディズニーの著作権管理は強圧的・独裁的で、そのせいもあってディズニーキャラクターのパロディは存在しない。

松本零士の著作権パラノイアは、ディズニーに次ぐあるいはそれに匹敵するものであったことは銘記されなければならない。ディズニーも松本零士もその裏の顔には誰もが震え上がるはずだ。歴史はこのことを埋葬するのではなく、白日の下にさらすべきであろう。
posted by ohashi at 10:08| コメント | 更新情報をチェックする

2023年02月20日

『デヴォーション』

日本ではNetflixの配信だけとなった映画『デヴォーション――マイ・ベスト・ウィングマン』(Devotion, 2022)を、何の予備知識もなく観てみた。

朝鮮戦争を背景とした航空機映画、まあ『トップガン』の朝鮮戦争版を観るくらいの軽い気持ちで観てみたのだが、序盤、私のような航空機マニアは海軍の戦闘機の迫力ある飛行シーンで圧倒されrる。主人公たちが最初に訓練飛行で乗るのがF8Fベアキャット(F8Fの最後のFはグラマン製を示す)で驚いた。ベアキャットが飛行しているのを生まれて初めて観た。本物なのかCGなのかわからないのだが、ベアキャット好きの私としては(作っていないプラモデルを複数所有している)感激することひとしきり。

ベアキャットというのは、いわゆる「太平洋戦争」でグラマン社がつくった米海軍用戦闘機であるF4FワイルドキャットとF6Fヘルキャットの後継となる艦上戦闘機で、ただ大きくて頑丈なだけの主力戦闘機ヘルキャットとはちがい、日本の零戦に倣って航空性能に優れ、そのうえ高速という究極の艦上戦闘機であった。太平洋戦争には間に合わなかったが。ちなににアメリカのエアレースでは、このベアキャットの改造機が、マスタングの改造機と並んで、毎回優勝候補機となり実際何度も優勝していた。

ベアキャットは、ヘルキャットと異なりスマートだが、それでも小型でずんぐりむっくりしているのだが、小型であるために長距離侵攻して地上攻撃という任務には適さないため、戦後はF4Uコルセアと艦上戦闘機を交代することになる(F4UのUはチャンス・ヴォート社製を示すもの。F4Fワイルドキャットとは異なる戦闘機)。

コルセアの飛行シーンも迫力があったが、本物かCGかよくわからなかった。ただ、コルセアは6機が、まだ飛行可能な本物だったようで、地上攻撃シーン以外は、本物の飛行シーン。実際に飛んでいるコルセアを観られるのは、これが人類史上最後となるだろうという予感はある。ちなみに韓国のプラモデルメーカー、アカデミーはこの映画にちなんで1/48のF4U-4のプラモデルを発売。作る暇はないかと思われるが、ひとつ購入した。

本物かCGかわからないが飛行シーンは迫力があったが、空母の甲板でのシーン、その艦橋などは、作り物とすぐにわかるもので、空母の名称「レイテ」というのも、いかにも嘘っぽかったし、朝鮮戦争ではジェット機が登場しているのだが、空母「レイテ」にはコルセアとA-1スカイレーダーしかいないのもおかしいのではないか。空母がアングルドデッキになっていないか。アングルドデッキになっていたら着艦に失敗しても、そのまま飛び抜けてしまえばよく、機体が大破することもなかったのにと、いろいろ疑念がわいてきた。

そこで調べてみた。空母レイテは実在した。エセックス級空母の三番艦で、ジェット機の運用能力は付与されず搭載するのはプロペラ機に限られていた。コルセアとスカイレーダーしか搭載していなかったのは嘘でも演出上の工夫でもなかった。もちろんアングルドデッキ化もされていない。

またもうひとつの疑念も調べるなかで解消できた。それはタイトル。「デヴォーション」(献身)というのは、『トップガン』のような航空機映画にしては重すぎるのではないかという疑念。そうこの映画は『トップガン』のような映画ではなく、アメリカ海軍でアフリカ系アメリカ人として初めて戦闘機パイロットとなったジェス・ブラウンの、いうなれば伝記映画であった。

予備知識も歴史的知識もないのは怖いことで、映画のなかでジェス・ブラウンがbehind the enemy lineに不時着したあとも、救援ヘリがかけつけて救出されるものと思い込んでいた。『トコリの橋』のような結末ではないだろうと予想していた。

朝鮮戦争はアメリカにとって忘れられた戦争なのかもしれないが、『トコリの橋』The Bridges at Toko-ri(1954)も忘れられているとしたら、やむをえないとしても残念である。朝鮮戦争終結後すぐに製作されたこの映画は、まだ現役だった海軍のジェット戦闘機F9Fクーガーを使って戦争時の地上攻撃を再現した迫力のある航空機映像と、その悲劇的結末で名高い映画だった。ウィリアム・ホールデン扮する海軍パイロットは、地上攻撃の際に撃墜され敵地に不時着するが、救援ヘリの到着もむなしく、北朝鮮軍に包囲され、ヘリのパイロット(ミッキー・ルーニーが演じていた)ともども戦死する。映画『デヴォーション』は、この『トコリの橋』を意識して製作された可能性もあるし、『トコリの橋』自体が、ジェス・ブラウンの戦死を、史実よりも劇的にして、さらに白人パイロットの物語に作り替えた可能性もある。

またジェス・ブラウンがパイロットになれたのは合衆国の人種隔離政策が1948年に撤廃されたからだが、しかし、それ以前にも、黒人パイロットだけの空軍(陸軍航空隊)部隊があったこととはよく知られており、この部隊(通称タスキーギ・エアマン)のことをジョージ・ルーカス製作総指揮/アンソニー・ヘミングウェイ監督の映画『レッド・テイルズ』(2012)が、あるいはテレビドラマ『タスキーギ・エアマン』(1995)が描いていたが、日本ではどちらも公開されていない。ジョージ・ルーカスも制作費を集まることができず自腹で払うことになったというのだが、「黒人差別」は、決して終わっていないことがこれでわかる。

この『デヴォーション』でも、米海軍初のアフリカ系アメリカン人パイロットの生涯という映画なのに、それが隠蔽されて、朝鮮戦争を背景とした航空機映画と、どこかのバカが(私ですが)勘違いするような宣伝のされ方をしている。まあ日本人は自分が白人だと思い込んでいる黒人だからしょうがないのかもしれないが。

ただ『デヴォーション』でジェス・ブラウン役のジョナサン・メイジャーズ。顔はごついのだが、差別に苦しみ、またそれを克服しようとする繊細かつ強靱な精神の持ち主である主人公を熱演していて感銘を受けたので、彼が悪役として登場している『アントマン&ワスプ:クアントマニア』(2023)を覗いてみた。

アメリカのコミックのスーパー・ヒーロー物の映画は、めったにというか全く観ないし、観る気もおきないのだが、この『アントマン……』では、アントマンとワスプが、いくら大きくなったり(ゴジラ級に大きくなる)小さくなったりしても、存在感でミシェル・ファイファーとマイケル・ダグラスに圧されているし、ジョナサン・メイジャーズの征服者カーンは、神にも等しいパワーの持ち主であるともに人間味のある孤独な青年としての一面もみせるという、精神性においても巨大と極小の間を揺れ動き、ひと味違うヴィランとなっていて、彼の存在が、この映画を救っているように思う。それでも救いきれていないところもあるのだが。
posted by ohashi at 13:01| 映画 | 更新情報をチェックする

2023年02月19日

罰当たりな行為

いま世間を騒がせているスシローの迷惑動画と、フランソワ・オゾン監督の『すべてうまくいきますように』(2021)が最近公開されたのを機に、急に思い出したことがある。それはフランソワ/オゾン監督の映画『ぼくを葬(おく)る』(2006)のなかの一場面である。

カトリックの教会には「聖水盤」あるいはそれに類するものが設けられている。Wikipediaにおける記述を引用する:
聖水は司教・司祭により聖別され、洗礼その他の秘跡に用いるために用意される。聖水盤(洗礼盤)に入れ、教会堂の入口に置かれることが多い。これは信徒が受洗したことを常に忘れないようにするためである。信徒は教会に入る際に聖水に指を浸して十字を切り、ミサは司祭による聖水撒布と祝福から始まる。【以下略】

「信徒は教会に入る際に聖水に指を浸して十字を切り」とある。『ぼくを葬る』のなかで主人公(この作品も代表作だが、そのほかに『わたしはロランス』のロランス役のメルヴィル・プポーが演じている)が教会にいると、近所の悪ガキ二人が、あろうことかその聖水盤にむかって小便をする。小便しやすいように台かなにかをもってきて、その上に立って小便をする。なんちゅう罰当たりなことをするのかと驚く――そのあとで何も知らない老婦人がやってきて聖水盤に指をひたして十字を切るが、指についた水に違和感を抱いているらしいことを、子どもたちが影で見ていて笑っている。なんちゅう罰当たりなことをするのか。

それを目撃した主人公は、この行為に憤慨するのでもなく子供もたちを叱るのでもなく、ただ微笑ましい光景とみていて、幼なじみの男の子のことを思い出す。おそらく主人公も同じ様な罰当たりないたずらを子供の頃していたのであろう。

スシローの迷惑動画も、これに類する罰当たり行為だということに思い至る。どちらも悪質ないたずらだが、当事者はどちらもあくまでもいたずらであって許されるものと思い込んでいる。ときには微笑ましいと受け取る者もいるだろうと想定されているかもしれない。

つまり今回のスシローの迷惑動画は、頭のいかれた高校生(と、おそらくその親)が非常識ないたずらをして株価を下げる大損失を会社にもたらし社会的にも回転寿司業界の評価を下げた点で許されるものではないのだが、それは特殊な例ではなく、むしろ日常茶飯事化していたいたずらであることが今回露呈したといえるかもしれないのだ。

そう、日常茶飯事化。罰当たりないたずらは日常茶飯事となっている。そのため外食産業もきちんと防衛策を講ずるとともに、外食産業のありかたについても見直しがされるべきだろう。またいっぽうで、特殊例ではなく一般例でもあるなら、その高校生を許してやってもいいということになる。特例ならば、その愚かな高校生へのバッシングはエスカレートするいっぽうだが、一般例ならば、許しの可能性もゼロではなくなるだろう。
posted by ohashi at 08:59| コメント | 更新情報をチェックする

2023年02月18日

『バビロン』 雑感 2

映画『バビロン』は、映画がサイレントからトーキーへと移行する変換期に生きた俳優やプロデューサーの生き様を扱っているのだが、そのなかでブラッド・ピット扮するサイレント映画のスター、ジャック・コンラッドは、なぜトーキーの映画に出演するようになると観客から笑われてしまうのか。ジャック・コンラッド/ブラッド・ピット自身、映画のなかでその理由を理解するのに苦しんでいる。

映画『バビロン』は、前回述べたように21世紀版『雨に唄えば』という面があるのだが、『雨に唄えば』も、サイレントからトーキーへの転換期を扱っている。主役のジーン・ケリー扮するドン・ロックウッドは、往年のスター、ジョン・ギルバートに触発されたというか、ギルバートをモデルにしたと言われている。『バビロン』のジャック・コンラッド(ブラッド・ピット扮する)もジョン・ギルバートがモデルだと言われている。

ジョン・ギルバートは(1897-1936)は、ルドルフ・ファレンティノと並ぶ人気スターだったがトーキー時代になると、その甲高い声が観客の失笑を買い、人気は急落したといわれている。サイレント時代には俳優の声や発声は問題にならなかったが、トーキー時代には俳優の姿と声との間に不均衡というか落差があると観客の失望と失笑を生むことになったというのは、わからないわけでもない。

だが『雨に唄えば』では、声の問題は主役のジーン・ケリーではなく、常にコンビを組んでいた女優のほうに移行している。映画会社は彼女の甲高い子どもじみた声を必死で隠そうとするが、最後に彼女の声の真実が露呈する。これはいじめではないかと思うかもしれないが、そもそもその女優自体が意地悪な女という設定で、その悪辣ぶりによって反感をかい、最後に意趣返しをくらうという展開になる。

しかしジーン・ケリーに、声の問題を付随させなかったのは当然といえば当然である。ミュージカルの歌って踊る主役に声の問題を付随させるのはむつかしいというか不可能であって、悪役の女優のほうに移行させたことは当然のことである。ただ『雨に唄えば』では、主役の俳優もまたトーキーに変わると、声の問題ではなくても、笑われている。サイレント時代にはセリフはどうでもよかった。ラブシーンで男性が「お前は大嫌いだ、死んでしまえ」と語ってもサイレント映画なら、そのセリフは拾われずに、ロマンティックな字幕にとってかわられる。このサイレント時代の習慣が抜けきらなかったドン・ロックウッド/ジーン・ケリーは、ラブシーンで「アイラヴユー」を3回繰り返して求愛のセリフにしてしまうと、トーキーの観客の失笑というか爆笑をかう。たしかに時代劇で織田信長が濃姫に「好き、好き、好き」と3回繰り返して求愛したら失笑どころかあきれられる。サイレント時代に俳優はセリフを覚えることもしなかったのだが、トーキーとなって声の質、発声法、そしてセリフの内容そのものが重要になってくる。これについていけなくなった俳優は退場するしかない。

『バビロン』でもジャック・コンラッド/ブラッド・ピットは、トーキー時代になって出演した映画で観客に笑われるのが、その原因がわからない。モデルとなったジョン・ギルバートの場合、声に問題があったようだが、映画ではそれは排除されている。実は、観客のなかにも、ジャック/ブラッド・ピットが出演映画のなかでなぜ笑われるかよくわからない者が多いのではないか――私のように。この部分、『雨に唄えば』と全く同じ展開をするので、ブラッド・ピットの台詞回しがトーキー映画にふさわしくないから笑われたと推測される。決定的な答えは、ブラッド・ピットが映画評論家の女性に相談するときに得られる。それは身もふたもない答えなのだが、ジャック/ブラッド・ピットは、もう時代遅れになったということだった。

ここにあるのは時代に取り残されて消えてゆくしかない者たちの悲哀である。『バビロン』は転換期の悲劇をストレートに解釈している。トーキーになって声が失笑をかったという他愛もない神話を採用していない。実際のところ、外見と声との落差は失笑をかうかもしれないが、声とは発声法は簡単に変えられる。窒素ガスを吸わないかぎり、人間は甲高い声から低音まで使い分けられる。『雨に唄えば』はコミカルなミュージカルだから声の問題を面白おかしく物語にすることができたが、声はふつうは問題にならない。たとえ地声が甲高くても、滑稽ではない声を作ることは簡単にできる。事実『雨に唄えば』で、その甲高い声が笑われる役を演じたジーン・ヘイゲンは、あえて声をつくっているだけで、自身の声は落ち着いたものであったという。

『雨に唄えば』と『バビロン』でモデルとなったジョン・ギルバートは、トーキー時代になって甲高い声が笑われたというが、繰り返すと、声の質とか発声法を芝居のなかで変えることはできる。むしろそれをしなかったことが重要で、結局、彼は、サイレント時代の癖を放棄することはなかったということだ。夏目漱石の『こころ』では自殺する「先生」は「明治の精神に殉ずる」と述べるのだが、それと同じように、ジョン・ギルバートも、ジャック・コンラッド/ブラッド・ピットも「サイレント時代の精神に殉じた」のであろう。

ジョン・ギルバートはトーキー時代に人気が落ちアルコール依存症になり心臓発作で39歳で死亡。おそらく自殺である(実際に、あるいは比喩的に)。『バビロン』ではジャック/ブラッド・ピットは自殺する。おそらくこれが『バビロン』における解釈である。サイレント時代の人気俳優だったジョン・ギルバートは、トーキー時代の映画に適応できず、あるいはなじめず、サイレント時代の精神に殉じたのだ、と。『バビロン』は、サイレント時代のハリウッドの精神に殉じた俳優の聖人伝である。
posted by ohashi at 22:01| 映画 | 更新情報をチェックする

2023年02月11日

『バビロン』雑感 1

シェイクスピアの生まれ故郷ストラットフォード・アポン・エイヴォンで暮らしていたころ、私は毎日のように「ファティ・アーバックルズ」Fatty Arbuclesという店というかレストランを横目に見ながら歩いていた。

はじめて「ファティ・アーバックルズ」の看板を目にしたとき、これがどういう意味なのかわからなかった。「ファティFatty」というのは太っているという英語だとわかったが、「アーバックル」は、私の知っている英単語ではなかった。というか英語なのかどうかもわからなかった。

いまでこそ、こういうときはスマホで検索して「ファティ・アーバックルズ」が何であるのか瞬時にしてわかるのだが、1990年代前半のことである。わからなければ人に聞くか、文献で調べるしかなかった。人に聞くというのは、そんなことも知らないのかとあきれられることが嫌で(日本でも英国でも、よほどのことがないかぎり質問はしない)。いっぽう文献で調べることは、ついつい忘れがちで、はじめてその意味がわかったときは、数ヶ月先のことだった。

Fatty Arbacklesというのは、アメリカのダイナーを模した店内でアメリカの定番料理を安く提供するというレストランチェーンであった。このチェーン店は今はなくなり、したがってストラットフォード・アポン・エイヴォンのファティ・アーバックルはもうないのだが、アーバックルというのは無声映画時代にアメリカの人気喜劇俳優(Roscoe (Fatty) Arbuckle 1887年3月24日-1933年6月29日)。Fattyというのは、その体型からついたあだ名。また殺人罪で告訴されたというロニー・アーバックルのハリウッド・スキャンダルについても知った。

日本版ウィキペディアにはこうある:
パラマウント社(当時はフェイマス・プレイヤーズ=ラスキー社)に移籍した1921年、女優ヴァージニア・ラッペへの強姦殺人(故殺)容疑で起訴される。これはサンフランシスコの高級ホテルのセント・フランシスホテル(現在のウェスティン・セント・フランシス)のスイートルームで開催されたパーティーの主宰者のロスコーが、駆け出しの女優だったラッペに対して犯行に及んだと報道された事件で、当時のハリウッド、また全米を震撼させた出来事の1つである。パーティの後、3日後にラッペは膀胱破裂に起因する腹膜炎で死亡。これにより様々な情報、憶測が新聞を通じて大々的に報じられた。当初からロスコーは「そのような事実は無かった」と訴え、結局、証拠不十分により無罪を評決されている。しかし、無罪を勝ち取ったにもかかわらず、悪評を払拭することが出来なかった(当時は金の力で無罪を勝ち得たと見る向きが大半であった。今日では冤罪であったことが証明されている)。この事件により世間のハリウッドに対する風当たりは厳しくなり、アーバックル作品が各都市で上映禁止となり、フィルム自体も破棄された。

このようなことがあったにもかかわらず、アーバックルの名を冠したチェーン店をつくるというのは、①それだけ根強い人気があったのか、②イギリス人がつくるアメリカンなレストラン/ダイナーなのでアーバックルにまつわる事件を知らなかったわけではないにしても無頓着だったのか、さらには③微妙な評判の人物をあえてレストラン・チェーンに選んだのか。ちなみにストラットフォード・アポン・エイヴォンには今も「ミストレス・クウィックリーMistress Quickley」という名前のレストランがあるが、『ヘンリー四世』第一部・第二部でフォルスタッフが入り浸っている居酒屋(日本風にいうと)の女主人がミストレス・クウィクリーで、レストランにこの名称を使うのはかなり微妙というか勇気がいることでもあって、上記③の可能性もないわけではない。

『バビロン』では、アーバックルの名前は出していないが、巨漢の喜劇俳優は女性を圧死させるという場面が登場し、そこが批判されてもいる。なぜならアーバックル事件について、アーバックル自身が最終的に無罪あるいは冤罪と証明されたところまで描かないことによってアーバックルに対し不当な扱いをしていることになるからだ。しかしドキュメンタリーなら、このような描き方は非難されて当然だが、あくまでも虚構であり、無声映画からトーキーへと変わる時代のハリウッドの狂騒とスキャンダルを戯画的描く映画としては、アーバックル事件を彷彿とさせる事件は、はずすことのできない物語要素であろう。

無声映画からトーキーへと変わる時代を背景にした有名なミュージカル映画に『雨に唄えば』(1951)があるが、この映画『バビロン』は、21世紀版『雨に唄えば』を目指しているところがある。主人公が、かつて働いていたハリウッドの映画スタジオを観光客として訪れたあと、映画館に入って観るのが当時封切られた映画『雨に唄えば』だった。そしてこの『雨に唄えば』のなかにも、ハリウッドで毎夜開かれるパーティに体格のよい人気俳優がやってくる。これが「ファティ・アーバックル」を意味していることは歴然としている。21世紀版『雨に唄えば』は、アーバックル事件を、さらにもっと下品で低俗でカオス的なスキャンダルとして提示した。それがハリウッドに対する敬意を欠き真実をねじ曲げた悪辣な戯画だというのなら、そうした歪曲も戯画も許さないハリウッドはどこまで神聖な聖林だというつもりなのか。

私はハリウッドを聖なる場所だと考えている。そして映画『バビロン』を、ハリウッドの狂騒と狂気に殉じた聖人伝だと私は考えている。だか私が考える聖人たちにとってのハリウッドは、ホーリー・ウッドどころか、ホーリー・シットな、下品・下劣・低俗の極みの世界であった。そこに敬意を表するべき聖性などない。むしろ聖性のなさこそが、聖性のゼロ度こそが、聖性へと至る出発点でもあったと私は考える。

実際のアーバックルは無声映画の時代を超えてトーキーの時代への生き延びることができなかった。それだけで彼は無声映画に殉じたともいえるのだが、スキャンダラスな事件に責任はなく無罪となってしまったことで、その殉ずる姿勢にひびが入ってしまった。彼はむしろ、その巨体によって、悪意はなかったにしても、女優の膀胱を破裂させて殺人罪で死刑になることこそ、ハリウッドに殉じた人気俳優にふさわしい運命ではなかったか。この運命に見放された実在の彼は生半可な殉教者として生涯を終えるしかなかった。

圧死の張本人としてアーバックルを描くことは、実在のアーバックルに敬意を表していないという寝ぼけたことをいう映画評論家は、無声映画とハリウッドに殉じたアーバックルを二度殺していることになる。つづく

posted by ohashi at 14:32| 映画 | 更新情報をチェックする

2023年02月08日

『ノースマン』

知り合いの女性が、この映画『ノースマン』を観たというので、予告編でしかこの映画を知らなかった私は、男臭い暴力的な北欧神話的世界の映画が好きなのかなと、その女性の意外な一面を見たように思ったのだが、予備知識ゼロでこの映画を観て、シェイクスピアその他の英国演劇の研究者でもあった彼女がこの映画を観た理由がわかった。

主人公の名前が「アムレット」、そうシェイクスピアの『ハムレット』が題材としたサクソ・グラマティクスの『デンマーク人の事績』(Gesta Danorum)におけるデンマークの王子のことで、これはヴァイキング版『ハムレット』ともいえる作品だからだ。

このサクソ・グラマティクスの物語を映画化した作品としてガブリエル・アクセエル(『バベットの晩餐会』で有名な)監督によるPrince of JutlandRoyal Deceitの別題でも知られる, 1994)がある。日本公開されたかどうか知らないが、私はDVDで観た。アムレット/ハムレットをクリスチャン・ベールが演じ、クローディアスにあたる王の役をガブリエル・バーン、母親をヘレン・ミレン、オフィーリアにあたる役をケイト・ベッキンセールが演じていたことを今も覚えている。

今回のヴァイキング版『ハムレット』とは異なり、主人公は、復讐をめざしていても、トリックスター的な性格であり、正面衝突による解決を避けている。おそらくこの特徴的なトリックスター的性格は、シェイクスピアの『ハムレット』において、ハムレットの佯狂(狂ったふりをすること)に継承されたとみることができる。またサクソの原作でもこの映画Prince of Jutlandでもデンマークを追放されたアムレットは西のブリテン島へと赴くのだが、『ノースマン』では、アムレットは東にウクライナに行く。サクソ・グラマティクスの物語との差異化をめざしたと監督は語っているらしいのだが、主人公の国が侵略されるシーン(侵略された国というより侵略された村というイメージなのだが)、あるいは主人公がバーサーカー(ベルセルク)となって戦う地域、どれもロシアに侵略されたウクライナの地を思い浮かばずにはいられない。戦乱の地と犠牲なる農民・民衆の映像は現代との共鳴を狙っているのだろう。

ちなみに、この映画には、私がいつもかわいげのない女と悪口を言っている(だが、そのぶん大好きなのだが)アーニャ・テイラー=ジョイが登場している。最近、出演作が多い彼女だが(『ザ・メニュー』『アムステルダム』『ラストナイト・イン・ソーホ』など)、彼女のことは『スプリット』で初めて見たと思っていたのだが、今回、『ノースマン』の監督ロバース・エガースが着目された映画『ウィッチ』(2015)で出会っていたことを確認した。『ウィッチ』は、どこの映画館で観たのかも覚えているのだが(新宿武蔵野館)、内容はよく覚えていなくて、主役がアーニャ・テイラー=ジョイだったことも、『ノースマン』を観ることがなかったら気づかなかったかもしれない。それはともかく今回は主人公と結ばれる役の彼女は、アメリカの女優だが、北欧系あるいはスラブ系の顔立ちをしていることを改めて確認することになった。

ロバート・エガースは、前作の『ライトハウス』のような、ピリオッド映画かもしれないが、ぶっとんでいる映画とは異なり、復讐物(なにしろ『ハムレット』の材源でもある物語だから)というジャンルに属するエンターテインメント映画となっている。また主人公アムレットの宿敵である叔父の一族・郎党も、兄の国を奪ったにもかかわらず、結局、アイスランドへ追われてそこで細々と雌伏の生活を営んでいるという意外な展開をする。アムレットと母親(『ハムレット』でいえばハムレットとガートルード)の関係も予想外の展開をみせる――ちなみに母親役のニコール・キッドマンは、パク・チャヌク監督の『イノセント・ガーデン』(2015)という『ハムレット』のアダプテーション映画でも「ガートルード役」だった。

ただ今回『ノースマン』を観て思ったことがある。シェイクスピアの『ハムレット』におけるというか、シェイクスピアにおける異教的要素である。

シェイクスピアにおけるキリスト教的要素、あるいは20世紀末から盛んに論じられるようになったカトリック的要素について研究は多い。『ハムレット』では煉獄の存在を前提としているのだが、煉獄を認めるのはカトリックである(プロテスタントは煉獄は認めない)。ただキリスト教的要素はあって当然だが、戯曲の題材として選ばれたのは異教的世界が多い。

キリスト教以前のローマ時代を舞台にした戯曲を別としても、『ハムレット』の原典は異教時代のデンマークである。『マクベス』は魔女という異教的存在が登場する(たとえ魔女の登場が、魔女狩りの時代である17世紀のはじめに創作された戯曲ゆえに偶然ではないとはいえ、また魔女的なものはカトリック的なものと連動しているとはいえ)。『リア王』は異教時代の伝説上のブリテンが舞台である。『オセロー』では同時代のベニスとかキプロス島が舞台だが、そこにキリスト教徒かどうかわからないムーア人が将軍として登場し、異教的要素がキリスト教的世界観に混在するようになる。

今求められるのは異教とシェイクスピアの研究ではないか。そんなことを映画『ノースマン』を観て思った。
posted by ohashi at 17:11| 映画 | 更新情報をチェックする

2023年02月05日

隠れ同性愛者

2月3日のNHK「チコちゃんに叱られる」では、子供はなぜ親から叱られても同じことをしつづけるのかをテーマのひとつに取り上げていて、それは親から注目され叱ってもらうことが嬉しいからということだった。まあ、それは自分自身や、子供たちの言動をみるにつけ納得できることである。いたずらをして親から叱られることが、親との交流となる。もちろん親が激しく叱り体罰でも与えたならば子供は一度でそれをやめるだろうから、叱り方の程度にもよるが、親が叱ってもひっぱたいたりしない、思い罰をあたえることはないとわかっているとき、叱られる行為を子供は心置きなく繰り返す。

首相秘書官の差別発言が問題になったが、彼らの精神年齢は5,6歳児と同じだから、叱られるとわかっている内容の発言を嬉々として繰り返す。しかも叱られるといっても,たかが知れているから、失う物もなにもないから、平気である。いや今回秘書官は更迭されたのではないかと言われるかもしれないが、更迭されてもといた省庁に戻るだけである。しかも,よくぞ言ったと英雄視されて。更迭など屁でもない。しかも同性愛に対してなら差別発言をむしろ肯定する推すような勢力の一員なのだから、褒められるために差別発言をする。そして叱られても軽い叱られ方だから、むしろ注目を浴びたことで満足感も得られる。

以下、その経緯を確認してみる。

荒井勝喜首相秘書官「LGBT見るのも嫌」と差別発言 即更迭に動くも岸田政権には大打撃! 日刊ゲンダイDIGITAL2023年2月4日

経産省出身の荒井勝喜首相秘書官(55)は3日夜、LGBTや同性婚に関し、「見るのも嫌だ。隣に住んでいたらやっぱり嫌だ」と記者団に語った。発言はオフレコが前提で、その後に陳謝、撤回したが、岸田首相周辺の差別的な発言に政権への打撃は避けられない。

荒井氏はまずオフレコの取材に応じ、「同性婚なんか導入したら、国を捨てる人も出てくる。首相秘書官室全員に聞いても同じことを言っていた」とも発言。

この後、報道各社が問題視すると実名での取材を受け、「誤解を与えるような表現をして大変申し訳ない」と陳謝した。
(中略)
岸田首相はすぐさま火消しに走った。4日午前、荒井氏の更迭の意向を明らかにした。


ジェンダー・スタディーズを学んだ者として、言えることは、同性愛者は、全人口の1割程度と言われている。彼らが同性婚をすること、同性愛者であることを公言することが、どうして不快なのだろうか。同性愛を差別する愚か者どもは、その一割の同性愛者が全人口を汚染すると考えているのか。同性愛は感染症ではない。もしあなたが異性愛者である場合、同性愛者に接して、同性愛に目覚めるということがあるだろうか。

そもそも同性愛者について気持ち悪いと思っているのなら、同性愛に感染することはないだろう。気持ち悪い同性愛者がいるのなら、それで同性愛は封じ込められる。同性愛が全人口に感染することはないだろう。

多くの人は、異性愛者で、同性愛には共感しないが、しかし同性愛者としての性向・嗜好については、尊重するしかないと思っているだろう。ところが荒井は、「同性婚なんか導入したら、国を捨てる人も出てくる。首相秘書官室全員に聞いても同じことを言っていた」と語っている。

これは自分の気に入らない者がいたら、嫌気が差して国を捨てることも辞さないということか。まあ、救いがたい差別者の心的傾向がこれであろう。たとえば私の隣に自民党の政治家の秘書官になっている人間がいたら、心の底から軽蔑する。あるいは周囲に自民統一教会の人間しか住んでいなかったら、彼らを反日の売国奴めと私は心から軽蔑するが、だからといって、すぐに引っ越して、その汚れた地域を逃れようとは思わない。彼らが、よほど反社会的な生活をおくっていれば話は別だが、そうでなければ、会えば挨拶するし、政治的姿勢が違っても、いろいろなことを相談することに躊躇はない。私以外の家族が仲良くすることについてもなんら問題はない。

これは私が人一倍寛容だということではなく、ほぼ誰でも同じだろう。それが「同性婚なんか導入したら、国を捨てる人も出てくる」という姿勢は、不寛容な嫌悪感の表明であろうし、裏を返せば、国を捨てるか、もしくは同性愛者を皆殺しにするかのいずれかということになる。

「首相秘書官室全員に聞いても同じことを言っていた」というのは、「みんながそう言っている」「偉い人が言っていた」などという根拠のない強調表現だろうが、「全員」という強調することで、この愚か者は、すべてを十把一絡げにして抹殺するテロリスト、反対者を粛正する独裁者と全く同じ感性をしている。「国を捨てる」という過激な決断は、邪魔者、醜い者をすべて抹殺するというテロ行為と表裏一体関係にある。

「同性婚なんか導入したら、国を捨てる人も出てくる。首相秘書官室全員に聞いても同じことを言っていた」というのなら、同性婚を導入した後、首相秘書官室全員は、国外退去してもらいたい。首相秘書官室全員が日本を去ったらどうなるのか。日本がよくなる。

ジェンダー・スタディーズを学んだ者からすると、同性愛者に対する過剰な差別感情は、差別する者が、自分のなかにある同性愛的欲望を恥じているからである。隠れ同性愛者、あるいは自身の同性愛的欲望を自覚しつつも抑圧している人間が、極端な同性愛差別に走ることはよくあるのだ。

同性愛差別発言をする愚か者どもに対しては、おまえ自身の欲望に忠実であれ、おまえは誰よりも同性愛的欲望が強いのだからと、自覚を促すことにしくはない。隠れている同性愛者を救出すること。それが同性愛差別をやめさえ、差別に苦しむ同性愛者を救うことになるのだ。

あともうひとつポストコロニアル・スタディーズを学んだ者としては、こう付け加えておきたい。西洋中心の帝国主義的発想(オリエンタリズムといってもいいのだが)というか偏見では、日本あるいは東洋は、同性愛者の国である。もちろん偏見である。日本には、同性愛差別が厳然とあるのだから。ただ、にもかかわらず、オリエンタリズムでは、日本は同性愛の国なのである。日本人はほぼ9割が同性愛者とみられている。政府が同性婚を導入する前から、海外からは日本は同性愛の国である。偏見で差別的な目でしか物事を見ない荒井のような*****は、西洋の同じく差別的偏見によれば、もうすでにりっぱな同性愛者なのですよ。おそらく首相秘書官室全身もまた同性愛者の群れなのですよ。偏見で差別する者は、偏見で差別されるがいい。
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2023年02月01日

『She Said』

『She Said /シー・セッド その名を暴け』(2022)マリア・シュラーター監督

J・M・クッツェーの『動物のいのち』のなかで、主人公の小説家エリザベス・コステロは、現在おこなわれている動物の食肉処理について、ホロコーストと同じであると批判する(この小説はけっこうめんどくさい設定になっているのだが、ここではそれは問わないことになる)。この批判(ホロコーストで殺されたユダヤ人を、食肉処理場で殺される動物に比較すること)については非難の声が上がる。

人間の死を動物の死に例えることの不適切さは、ユダヤ人を軽んじているのか、動物を軽んじているのか決定しがたいのだが、いずれにせよ、この批判によって、エリザベス・コステロの主張の隠れたテーマが明らかになる。つまりコステロは、ホロコーストと動物の食肉処理との間には、大量の命を奪うという共通点があるというだけではない。むしろ大量死が無視されていることこそ、ホロコーストと食肉処理との間にみられる共通点だということである。

第二次世界大戦中、ユダヤ人が強制的に連行され収容所で殺害されていることを知らないヨーロッパ人は多かったかもしれないが、同時に、たとえ詳細は知らなくともユダヤ人が大量虐殺されていることを知っていたヨーロッパ人も多かったはずだ。ユダヤ人をかくまった「善き人」がいたことからも、たとえ間接的であれホロコーストの事実は知られていた。そして、それは無視された。そして戦後、強制収容所が解放されたとき、そこで繰り広げられていた惨劇を知り恐れおののいた――初めて知ったかのように、わざとらしく。なぜなら、ホロコーストを知り心を痛めていても怖くて非難できなかったという人ばかりではなく、ホロコーストをむしろひそかに支持していた人びともいて、数からいえばこちらのほうがはるかに多かったのだ。

これと同じことが動物の食肉処理においておこなわれている。日々、多くの動物の命が奪われている。しかし、あたかもそれが当然のことのように受け止められ問題視されない。あるいは見て見ぬふりをされる。このオープン・シークレット状態、見て見ぬふり状態こそ、ホロコーストと動物の食肉処理をつらぬく共通要素である。このことを『動物のいのち』のエリザベス・コステロが訴えたかったことである。

そして同じことは、映画『She Said/シー・セッド その名をあばけ』がテーマとするセクハラをどう報道するかという問題ともつながっている。

映画そのものは、セクハラの具体的な行為、レイプあるいはレイプ的なシーンは登場しない。幸福だった若い女性たちと、セクハラ後の彼女たち変貌した絶望の姿とが映し出されるだけで、中核は映像的には不在である。そこで何があったのか、主犯は誰であったのかは想像がつくし、その想像は荒唐無稽な妄想ではなくて客観的事実と変わりない。

しかし、その空白を、法的にも、映画表象的にも埋めることができない。映画の表現が、空白をかかえた破線状になるほかはないし、二次元的比喩から三次元的比喩に移行すれば、映画も言説も、中心に空白をかかえたドーナツ状――幾何学図形でいうトーラス状――である。その空白を外部から埋めるのは、想像的捏造あるいは違法行為となる。内部から、当事者が埋めるほかはない。映画のタイトルShe Saidは、モデルとなった二人の記者が書いた本のタイトルからとられているが、そこでいうSheとは犠牲者となった女性たちのことであり、彼女たちが証言してくれることで、空白が埋まり、オープン・シークレットであった犯罪が、客観的犯罪として立件されるようになったといってもいい。She SaidのSheとは、したがって空白そのものでもある。She Saidとは空白が声を出したということである。

そのためアシュレー・ジャッドが本人役で登場することにも、たんに本人登場という趣向というのではない、大きな意味がある。ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラ被害にあった女優たちの名前はいくつかあがっていた。アシュレー・ジャッドやローズ・マッゴーワン、グウィネス・パルトローなどである。映画のなかで彼女たちの名前が言及され写真なども提示されている。ときには彼女たちの電話の声なども聞かれている。しかし、それられはすべて、空白をシニフィアンとする記号にすぎない。月を指す指の、指先にすぎない。しかしアシュレー・ジャッドが本人として登場するとき(それは劇的な演出がなされるのだが)、空白が埋まりはじめる、あるいは空白が声をもちはじめるのである。

その意味で、困難と障害を克服して真相を暴くメディアの人間の悪戦苦闘を描く映画のジャンのひとつとして、もしかしたら飽きられてしまうかもしれない、この作品が、記者による事件の解明ではなくて、当事者による声、空白の叫びを軸にしているところは、重要な特質として、どれほど強調しても強調したりないように思えてくる。

またこの意味から、セクハラ問題は、ホロコーストや動物の食肉処理による虐殺と同じ構造をもっているということをあらためて思い知らされた。ちなみに、この三つのトーラス構造体のなかで、空白が言葉を持たないのは動物の食肉処理である。これをどう解決するから最後の課題となるのかもしれない。

【ローズ・マッゴーワンは、この映画では写真と声の出演だけだったが、彼女の存在はセクハラ事件以前から私は知っていた。彼女が出演した映画『ハード・キャンディ』(Jawbreaker 1999)は、シェイクスピアの『マクベス』を学園物に翻案したアダプテーション映画だったし、なんといっても彼女は『プラネット・テラーin グランド・ハウス』(ロバート・ロドリゲス監督、2007)では主演を、『デス・プルーフinグランド・ハウス』(クウェンティン・タランティーノ監督、2007)でも前作と同じ役名で重要な位置にいた。ちなみにWikipediaの彼女に関する項目では、ワインスタイン告発については何も触れていない。ああ、ここでも無視か。

ちなみに『She Said』では英国の女優が大きな存在感を発揮していた。サマンサ・モートンとジェニファー・イーリーという二人の女優が印象的な役どころでこの映画に大きく貢献していたことは誰もが認めることと思う。また、セクハラ取材にうごいた記者のひとりミーガン・トーウィを演ずるキャリー・マリガン(このところフェミニズム系の映画への出演・主演が多い)も英国の女優である。ちなみに彼女と組んで取材するジョディ・カンター役のゾーイ・カザン(エリア・カザンの孫)と比べると、キャリー・マリガンのほうが先輩で、ゾーイ・カザンのほうが後輩にみえるが、実際の年齢ではふたりはほぼ同じ。ゾーイ・カザンのほうが実は年上なのだが、映画のなかではそうはみえないところがおもしろい。実在する二人の記者の年齢差はわからないのだが。】


posted by ohashi at 20:13| 映画 | 更新情報をチェックする

2023年 2月 記事リスト

2月3日 『She Said』 2月1日付
2月5日 隠れ同性愛者 2月5日付
posted by ohashi at 01:07| 記事リスト | 更新情報をチェックする