2023年01月25日

『ドント・ウォーリー・ダーリン』 


昨年見た映画だが、ここで振り返る。

オリヴィア・ワイルド監督の映画の第二作にあたる『ドント・ウォーリー・ダーリン』は、フローレンス・ピュー主演の映画としては、夫に尽くす従順な可愛い若妻という役どころは最初違和感がある。おかしい、と。実際、たとえば『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』の末娘のエミリーとか、『ブラック・ウィドウ』でのスカーレット・ヨハンセンの妹分としての役どころをみていると、専業主婦で家事と料理に専念し、夫が仕事から帰ってくれば、料理と肉体
いや、そもそも時代がいつなのかもよくわからない。ミッドセンチュリーモダン(Mid-Century-Modern)というのは家具とかインテリアの様式を指す用語のようだが、同時にまた、1940年代から60年代のアメリカの文化を意味するといってよく、古き良きアメリカの典型が、まさにこの時代である。しかも、その時代を舞台にした映画というのなら、それでもいいのだが、どこかわざとらしさが、人工性が感じ取られ、それはなぜか、何が仕組まれているのか、その謎が映画のテーマとなる。

『ステップフォード・ワイフ』(1975)の21世紀版リメイクである。実際には2004年にリメイクされているのだが、それはオリジナルの映画がもっていた社会風刺性と和解的帰結がうやむやになった焦点の定まらぬ映画だったが、今回の映画では、状況は悪化、もはや和解の余地はなく、戦争といってもよいような悲惨さが隣り合わせになっているともいってよい。つまり映画の解決は、男性側も含む覚醒ではなくて、永久に救いがたい男性に見切りをつけた女性が、闘争と逃走の果てに実現するもとなっている。和解なし、休戦もない。

主役のフローレンス・ピューが、これまで若妻を演じ映画となると、『レディ・マクベス』(16)がある。ニコライ・レスコフの『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を19世紀のヴィクトリア朝のイギリスを舞台にして翻案したテレビ映画版だが、妻を物・財産としか扱わない男性中心社会に放り込まれた若妻が、義父や夫に復讐するという、原作にないフェミニズム的要素を強烈に付与した物語だった。

【ちなみにいつも思うのだが、愛人とともに夫を殺す悪女を「マクベス夫人」と呼ぶのは、いったいどういう誤解あるいは曲解が働いているのかと、レスコフに対して猛烈に腹がたつ。このクソ・ロシア人が、というと民族差別と思われるかもしれないが、ロシアにおけるこうした誤解・曲解例は他にもけっこうある。ともかくシェイクスピアのマクベス夫人は夫を殺していない。彼女はアガメムノンを殺したクリュタイメストラーとは違う。かつて松岡和子氏がどこかで書いていたが、シェイクスピアの『マクベス』において、マクベス夫妻は異様なまでに夫婦仲がよいのである。】

レスコフの原作は、犯罪が発覚してシベリアに流刑になるところまで話が進んでいくのだが、『レディ・マクベス』のほうは、夫と義父と愛人を殺しても犯罪を暴かれず君臨することになる若き女主人の姿で閉じられる――一人で館において(使用人たちは逃げ出している)。彼女は、悪女だが解放の闘士でもあり、『ドント・ウォーリー・ダーリン』におけるフローレンス・ピューの変貌を予感させるものとなる。

彼女が若妻を演じたもうひとつの映画はNetflix映画の『アウトロー・キング』。メル・ギブソン監督・主演の『ブレイブハート』の後日譚というか続編で、スコットランドの国王で独立戦争を戦った英雄、ロバート・ブルースの物語。『ブレイブハート』のなかでイングランドの王子(のちのエドワード二世)は、クリストファー・マーローの芝居『エドワード二世』の影響もあってか、ゲイの王子だったが、『アウトロー・キング』では「プリンス・オブ・ウェールズ」とのみ呼ばれて(実際、エドワード二世は、皇太子の時は、初代のプリンス・オブ・ウェールズだったのだが)、ゲイ的性格は捨象され、非道きわまりない悪役になっているのだがおもしろい。まあそれはともかく、『アウトロー・キング』で主役のロバート・ブルースを演ずるのがクリス・パイン。そしてその妃役が、フローレンス・ピューだったので、『ドント・ウォーリー・ダーリン』でクリス・パインが登場するとき、誰もが『アウトロー・キング』のことを思い浮かべずにはいれない――その落差とともに。なにしろ『アウトロー・キング』でスコットランドの英雄を演じたクリス・パインが、『ドント・ウォーリー・ダーリン』では、アリス/フローレンス・ピューの夫が務める謎の企業というか集団の指導者なのだが、同じカリスマ的指導者としても、こちらは気色悪さが前面に出ているからだ。

それはさておき『ステップフォードの妻たち』においては、ロボットあるいはアンドロイドのような妻は嫌だと夫のほうが目覚めるのだが、『ドント・ウォーリー・ダーリン』では妻のほうが、ロボット/アンドロイド状態から目ざめることになり、夫の方は妻を隷属状態におき、妻から仕事も人生も奪うことに、なんの痛痒も感じない。まさに夫はサイコパス化している。ここまでアメリカの男女対立が悪化したのかと驚く。そもそも『ステップフォードの妻たち』における、ハッピーエンドの生ぬるさが、『ドント・ウォーリー・ダーリン』の惨状を生んだともいえるのだが、見る者は、男女どちらであれ、ジェンダー対立の悪化におののきつつも、女性の隷属からの解放には快哉をあげたいのではないだろうか。

事実、舞台となる仮想現実(すみませんネタバレでした)に選ばれたミッド・センチュリー・モダンの時代とは、古き良きアメリカとはいえ、それはまたアメリカの繁栄を背景として父権制がその女性支配をマックスに強化した時代でもあったのだが、やがて、映画のなかの仮想現実でも、そして現実でも、第一波のフェミニズムの出現、女性たち(とくに中流階級の妻たち)から異議申し立てによって、ミッド・センチュリー・モダンの虚飾は剥がされ、男性の自己満足は打ち砕かれることになる。ミッド・センチュリー・モダンは悪しき男性独裁の世界だったのだ。そしてミッド・センチュリー・モダンの愚劣があったからこそ、次のフェミニズムの時代が用意されたのだともいえるのだ。

ちなみに『ドント・ウォーリー・ダーリン』が設定している真の時代は、現代である。現代はどうなのか。妻が仕事で遅くなって帰ってこないから、夕食も食べていないという夫が登場する。仕事で妻の帰宅が遅くなるのはわかっているのだが、自分で料理くらい作ればいいし、材料がなければ買いに行けばいいし、今は宅配の時代でもあるから料理を注文してもいいはずだ。それを妻が帰ってこないから夕食を食べられない⇒裏をかえせば妻が料理を作る義務がある、どんなに疲れて帰ってきても妻が料理を作れ、そもそも妻は家で料理を作っていればいい、外出するな、社会進出するな――こうした前提は、とっくに消えたはずなのに、亡霊のように、いまもバカ男たちにつきまとっているということだろう。こうした亡霊的前提にとりつかれた男が登場したとき、映画を見ていて私は、心の中で叫んでしまった、「おまえは日本人のバカ男か」と。

この映画は、アメリカいや世界の男性が日本人のバカ男みたいになったら、どんなディスとピアがあらわれるかを全世界に警告しているのだと私は確信している。

posted by ohashi at 13:22| 映画 | 更新情報をチェックする