2023年01月25日

『ドント・ウォーリー・ダーリン』 


昨年見た映画だが、ここで振り返る。

オリヴィア・ワイルド監督の映画の第二作にあたる『ドント・ウォーリー・ダーリン』は、フローレンス・ピュー主演の映画としては、夫に尽くす従順な可愛い若妻という役どころは最初違和感がある。おかしい、と。実際、たとえば『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』の末娘のエミリーとか、『ブラック・ウィドウ』でのスカーレット・ヨハンセンの妹分としての役どころをみていると、専業主婦で家事と料理に専念し、夫が仕事から帰ってくれば、料理と肉体
いや、そもそも時代がいつなのかもよくわからない。ミッドセンチュリーモダン(Mid-Century-Modern)というのは家具とかインテリアの様式を指す用語のようだが、同時にまた、1940年代から60年代のアメリカの文化を意味するといってよく、古き良きアメリカの典型が、まさにこの時代である。しかも、その時代を舞台にした映画というのなら、それでもいいのだが、どこかわざとらしさが、人工性が感じ取られ、それはなぜか、何が仕組まれているのか、その謎が映画のテーマとなる。

『ステップフォード・ワイフ』(1975)の21世紀版リメイクである。実際には2004年にリメイクされているのだが、それはオリジナルの映画がもっていた社会風刺性と和解的帰結がうやむやになった焦点の定まらぬ映画だったが、今回の映画では、状況は悪化、もはや和解の余地はなく、戦争といってもよいような悲惨さが隣り合わせになっているともいってよい。つまり映画の解決は、男性側も含む覚醒ではなくて、永久に救いがたい男性に見切りをつけた女性が、闘争と逃走の果てに実現するもとなっている。和解なし、休戦もない。

主役のフローレンス・ピューが、これまで若妻を演じ映画となると、『レディ・マクベス』(16)がある。ニコライ・レスコフの『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を19世紀のヴィクトリア朝のイギリスを舞台にして翻案したテレビ映画版だが、妻を物・財産としか扱わない男性中心社会に放り込まれた若妻が、義父や夫に復讐するという、原作にないフェミニズム的要素を強烈に付与した物語だった。

【ちなみにいつも思うのだが、愛人とともに夫を殺す悪女を「マクベス夫人」と呼ぶのは、いったいどういう誤解あるいは曲解が働いているのかと、レスコフに対して猛烈に腹がたつ。このクソ・ロシア人が、というと民族差別と思われるかもしれないが、ロシアにおけるこうした誤解・曲解例は他にもけっこうある。ともかくシェイクスピアのマクベス夫人は夫を殺していない。彼女はアガメムノンを殺したクリュタイメストラーとは違う。かつて松岡和子氏がどこかで書いていたが、シェイクスピアの『マクベス』において、マクベス夫妻は異様なまでに夫婦仲がよいのである。】

レスコフの原作は、犯罪が発覚してシベリアに流刑になるところまで話が進んでいくのだが、『レディ・マクベス』のほうは、夫と義父と愛人を殺しても犯罪を暴かれず君臨することになる若き女主人の姿で閉じられる――一人で館において(使用人たちは逃げ出している)。彼女は、悪女だが解放の闘士でもあり、『ドント・ウォーリー・ダーリン』におけるフローレンス・ピューの変貌を予感させるものとなる。

彼女が若妻を演じたもうひとつの映画はNetflix映画の『アウトロー・キング』。メル・ギブソン監督・主演の『ブレイブハート』の後日譚というか続編で、スコットランドの国王で独立戦争を戦った英雄、ロバート・ブルースの物語。『ブレイブハート』のなかでイングランドの王子(のちのエドワード二世)は、クリストファー・マーローの芝居『エドワード二世』の影響もあってか、ゲイの王子だったが、『アウトロー・キング』では「プリンス・オブ・ウェールズ」とのみ呼ばれて(実際、エドワード二世は、皇太子の時は、初代のプリンス・オブ・ウェールズだったのだが)、ゲイ的性格は捨象され、非道きわまりない悪役になっているのだがおもしろい。まあそれはともかく、『アウトロー・キング』で主役のロバート・ブルースを演ずるのがクリス・パイン。そしてその妃役が、フローレンス・ピューだったので、『ドント・ウォーリー・ダーリン』でクリス・パインが登場するとき、誰もが『アウトロー・キング』のことを思い浮かべずにはいれない――その落差とともに。なにしろ『アウトロー・キング』でスコットランドの英雄を演じたクリス・パインが、『ドント・ウォーリー・ダーリン』では、アリス/フローレンス・ピューの夫が務める謎の企業というか集団の指導者なのだが、同じカリスマ的指導者としても、こちらは気色悪さが前面に出ているからだ。

それはさておき『ステップフォードの妻たち』においては、ロボットあるいはアンドロイドのような妻は嫌だと夫のほうが目覚めるのだが、『ドント・ウォーリー・ダーリン』では妻のほうが、ロボット/アンドロイド状態から目ざめることになり、夫の方は妻を隷属状態におき、妻から仕事も人生も奪うことに、なんの痛痒も感じない。まさに夫はサイコパス化している。ここまでアメリカの男女対立が悪化したのかと驚く。そもそも『ステップフォードの妻たち』における、ハッピーエンドの生ぬるさが、『ドント・ウォーリー・ダーリン』の惨状を生んだともいえるのだが、見る者は、男女どちらであれ、ジェンダー対立の悪化におののきつつも、女性の隷属からの解放には快哉をあげたいのではないだろうか。

事実、舞台となる仮想現実(すみませんネタバレでした)に選ばれたミッド・センチュリー・モダンの時代とは、古き良きアメリカとはいえ、それはまたアメリカの繁栄を背景として父権制がその女性支配をマックスに強化した時代でもあったのだが、やがて、映画のなかの仮想現実でも、そして現実でも、第一波のフェミニズムの出現、女性たち(とくに中流階級の妻たち)から異議申し立てによって、ミッド・センチュリー・モダンの虚飾は剥がされ、男性の自己満足は打ち砕かれることになる。ミッド・センチュリー・モダンは悪しき男性独裁の世界だったのだ。そしてミッド・センチュリー・モダンの愚劣があったからこそ、次のフェミニズムの時代が用意されたのだともいえるのだ。

ちなみに『ドント・ウォーリー・ダーリン』が設定している真の時代は、現代である。現代はどうなのか。妻が仕事で遅くなって帰ってこないから、夕食も食べていないという夫が登場する。仕事で妻の帰宅が遅くなるのはわかっているのだが、自分で料理くらい作ればいいし、材料がなければ買いに行けばいいし、今は宅配の時代でもあるから料理を注文してもいいはずだ。それを妻が帰ってこないから夕食を食べられない⇒裏をかえせば妻が料理を作る義務がある、どんなに疲れて帰ってきても妻が料理を作れ、そもそも妻は家で料理を作っていればいい、外出するな、社会進出するな――こうした前提は、とっくに消えたはずなのに、亡霊のように、いまもバカ男たちにつきまとっているということだろう。こうした亡霊的前提にとりつかれた男が登場したとき、映画を見ていて私は、心の中で叫んでしまった、「おまえは日本人のバカ男か」と。

この映画は、アメリカいや世界の男性が日本人のバカ男みたいになったら、どんなディスとピアがあらわれるかを全世界に警告しているのだと私は確信している。

posted by ohashi at 13:22| 映画 | 更新情報をチェックする

2023年01月23日

『アバター』

昨年見た映画だが、ここで振り返る。

3D映画は、一時期、盛んに製作され、映画館に行くたびに新たに3D映画用のメガネをに購入しなくていいように、自分でも一つ購入したのだが、いまでは、それがどこにあるのか、捨てたのかどうかもわからない状態が象徴しているように、3D映画そのものが人気が薄れ需要がなくなって今に至るのだが、キャメロン監督の『アバター』の続編は、3D映画の驚異を今一度思い起こさせる、高度に進化した映像処理によって、私たちに再び3D映画用メガネを購入させることになった。

3D映画は、観客席への突出観を実現するために無理な演出というか映像処理をして、かえってうっとうしがられたり、逆に、普通に撮られた映像を、無理矢理3D化しただけの、驚異的な立体感を得られない映像の映画を作ったりと、3D映画が嫌われる要因は多々あった。実際、3D映画なのに、2D映画版で見たことは何度もある(そのほうが料金が安く、うっとうしい3Dメガネともおさらばでき、しかも、映画そのものをじっくり楽しむことができるという、いいことづくめでもあった)。

そんななか、これまでにない3D映像で私たちを唖然とさせたのがゴダールの『さらば、愛の言葉よ』で、物語は、あるのかないのかよくわからなかったが、映像のほうは、これまで見たこともない、ある意味、前衛アート性を誇っていて、見る者を圧倒した。

繰り返すが映画の中に統一的な物語はなく、断片的な物語の寄せ集め、まあ一種のコラージュのようなもので、謎めいているところが妙に惹かれるところでもあった。たとえば、英文学研究者なら気づくのだが、そこにはメアリー・シェリーと夫のシェリー、そしてバイロンが登場し、例の有名な怪談話につながる物語が垣間見える。しかし、その物語はまた未完成のまま、その断片が取り込まれたにすぎないという印象を受ける。あるいは犬。時々犬が、まさに狂言回し的に登場して、妙に印象的だったりする(実際、映画は、「パルム・ドール賞」ならぬ、「パルム・ドッグ賞」を受賞しているのだが)。

物語のコラージュは、映像のコラージュとも響き合っていて、3D映像によって、これまで見たこともない映画空間が形成される。凡百の3D映画は、現実の事物の存在感を映画のなんかで再現する、イリュージョン性を追求しているのだが、ゴダールのこの映画は観客を映画が提供する3Dの世界に没入させるのではなくて、現実にはない映画ならではの異様な、あるいは驚異的な空間を出現させるようにしている。

これは伝統的な遠近法を最大限駆使して立体感を出そうとする前近代的絵画とは異なり、現実のイリュージョンではなく、絵画そのものから発生する立体感を出そうとした近代絵画を思わせる。通常の3D映画は、映画のイリュージョンを現実とみまごう立体映像で補完あるいは強化しようとするとすれば、ゴダールの映画は逆に映画のイリュージョンのまやかしを徹底的に追求して、ありえないというか、映画でしか作り出せない世界を構築する。まさに現実の模倣ではなくて、現実(映画的現実)そのものになろうとして。

しかしゴダールの前衛的な3D映画と通常の3D映画は対極にあるのではない。たとえばフランスの印象派以降の近代絵画に刺激を与えた日本の浮世絵、とりわけその風景画は、遠近法を西洋にはないほど極端に使用したことで衝撃を与えたのであって、遠近法を使いつつ遠近法を異化するということで近代絵画に脱遠近法の可能性を提示したとすれば、おそらくキャメロン監督の『アバター――ウェイ・オブ・ウォーター』のような極限的な3Dイリュージョン映画は、浮世絵がそうであったように、脱イリュージョン的ゴダール的な3D映画への道すじに乗っているということもできよう。

ゴダール的3D映画を、天才の一代限りの作品として終わらせるのではなく、後継者の作品を絶対にみてみたいと思うのだが、その思いは、3D映画の衝撃と魅力を復活させたキャメロン監督のこの映画によって、夢物語ではなくなりつつあるのだ。



『アバター――ウェイ・オブ・ウォーター』の物語は、前作の『アバター』とその後を語るものとはいえ、前作と同じパターンを踏襲している。もちろんそれゆえ安心してみれるし、同時に斬新感はないのだが、驚異的3D映像が私たちに退屈になる暇を与えないとしても。

3時間を超える映画が終わるとき、主人公は、これからは逃げるのではなく戦うのだという決意を表明する。これによって、この作品には続編があるとわかるのだが、前作でも、今作でも、実は、充分に戦ってきた。まだ、あるいは、このうえさらに戦うのかと驚くことになるのだが、ただ今回の戦いは、前作とは設定は同じでも様相を異にしている。

アメリカの大衆文化における海兵隊擁護あるいは海兵隊員のヒーロー崇拝には、うんざりするのだが、キャメロン監督は、帝国主義の先兵たる海兵隊をはっきり批判する,ある意味、稀有な監督でもある。実際、海兵隊を悪く描く前作は、アメリカの右翼から批判された。今回も設定は同じであるので、海兵隊が悪役となっている。しかし前作とちがって、世界情勢が変化している。つまり惑星パンドラを侵略し橋頭堡を築き、そこから惑星の征服のために原住民や自然環境を破壊する、悪辣な資源開発企業RDA社の先兵となる海兵隊は、アメリカの海兵隊というよりも、ウクライナに侵攻しているロシア軍にしかみえない。

この海兵隊=ロシア軍とその軍事テクノロジーが、原住民の抵抗によって破壊され、敗退を余儀なくされるとき、私たちは、ロシア軍に勝利するウクライナ軍の夢をみているとしかいいようがない。今回は、海兵隊がロシア軍によって消えた感がある。

パンドラの原住民、とりわけ海の部族が心を通わせるトゥルクンが地球でいうクジラと同類であることは誰にでもわかるが、その巨大で、人間よりも知能が高いトゥルクンを、1リットルにも満たない脳髄物質(不老不死の効果があるらしい)のために殺すという所業は、かつて街灯の油を得るために巨大なクジラを殺していた米国の捕鯨への批判であろう――食用にもしなかったのである。だが、そのことを知るアメリカ人は多くないだろう。むしろ、アメリカ人は、いまも捕鯨を国民的伝統として守ろうとする世界に冠たる劣等民族である日本人の所業への批判とみるだろうが。

キャメロン監督の信条は、「女性が世界を救う」であった。『エイリアンズ』とか『タイタニック』を見ればわかる。

そして『アバター』においてキャメロン監督は、動物との交流と共存なくして人間は存続できないというヴィジョンを提出しているように思われる。フェミニズムから動物へといいうのは、米国におけるリベラリズムのメインの路線である。右翼にとってみれば、反米的な要素が満載の映画である。しかし、その映画はスペクタクル巨編として観客の目を奪う。きわめてラディカルなテーマが、ラディカルに印象深い映像によって供される。テーマそのものには批判的な観客も、映像の強度には沈黙するほかはない。

こう考えるのなら、3D映像は、内容には反対の立場の人々を沈黙させるか説得するための手段ということになろう。言い方を変えれば、ある種のおめこぼしをねらう、賄賂のようなものである。これは芸術における手段と目的の問題を再考する契機ともなるだろう。芸術は手段が目的化したものと言われる。言葉によって何かを伝えるコミュニケーション行為において、手段である言葉を磨き、その可能性を広げるのが文学だとすれば、文学は手段を目的化するものである。しかし、芸術が当初の目的を無視して手段そのものを目的化するとはいえ、しかし、当初の目的そのものが失われたわけではないだろう。形式とか媒体のすばらしさを強調することによって、メッセージを伝えることを容易にするという方法論も存在するからである。
posted by ohashi at 11:10| 映画 | 更新情報をチェックする

2023年01月17日

『ダイブ』

La Caída/Dive

Amazon Primeで独占配信の映画。アルゼンチン・メキシコ映画(2022年)となっているのは、監督の女性(ルシア・プエンソ)がアルゼンチン出身だからということか。メキシコを舞台にした映画で、ぼんやり暇つぶしで視ようと思うと、そのシリアスぶりに驚き、思わず最後まで見入ってしまう映画だった。

オリンピックをめざすメキシコの高飛び込み選手の女性が遭遇するセクハラ・スキャンダルというのが映画の物語。なんといっても主役のカーラ・ソウザの引き締まった身体、切れの良いその運動能力が、まさにオリンピックに出場するアスリートそのもので圧倒される。本物のアスリートが引退して女優に転向したと思ってしまうほどに。

観客が、私と同じように、そのような印象を受けたなら、この映画は成功しているといってよい。というのもカーラ・ソーザ、初めて見る女優と思っていたら、すでにテレビで出会っていた。彼女が有名になったのは、『殺人を無罪にする方法』への出演なのだが、このテレビシリーズを私は最初から最後まで熱心に視ていたわけではなく、CSなどで放送中に時々ぼんやりと視ていたというだけなのだが、いま見直してみると、彼女、第1話から、それも冒頭から出ている。アナリーズ・キーティング教授に選ばれた6人か7人の学生のひとりで、ということは、ほとんど全話に出演していておかしくないレギュラーのひとり。どうして思い出せなかったのかといえば、それは『ダイブ』の彼女には、『殺人を……』の頃の面影はなく、完全にアスリートになりきっていたからである(3年間、トレーニングを積んだという情報もある)。

実際、高飛び込みの映像は、スタントウーマン(あるいはアスリート)を使ったのだろうが、しかし、CGでもスタントウーマン/アスリートでもなく彼女が実際に飛び込んでいるとしか思えない映像もある。そのまま競技会やオリンピックに出場してもおかしくないハイレベルなパフォーマンスを彼女はみせてくれる。とにかく、水しぶきがあがらない、それは見事な飛び込みをみせてくる。

高飛び込みのソロ/シングルでも優勝できるマリエル/カーラ・ソウザは、年齢的に最後のオリンピック出場を目指しているが、14歳の少女と組んでペアの高飛び込みに挑戦することになる。ところが相方の少女の母親が、コーチが娘にセクハラをおこなっていたと訴える。そのコーチは、マリエル自身のコーチでもあって、すぐれた選手をこれまで生み出してきた有能なコーチでもある。涙ながらに無実を訴えるコーチと、コーチの無実を信ずるマリアンだったが……。

という展開で、これ以上はネタバレになるので書けない。

実際にメキシコの高飛び込み選手に対するセクハラがあったかどうか、いまのところ私は確かめていないのだが、ただ、某国(日本ではない)では女性アスリートの7割くらいがセクハラ被害を受け、そのうち6割くらいがトレーナーやコーチからのセクハラだとも言われている実情を念頭に置けば、今回の事件は、メキシコのみならず世界のどこで起こっていてもおかしくない普遍性を帯びる。またスポーツ界だけでなく、いろいろな分野で、こうした事件は起こっているし、その告発も近年相次いでいる。おそらく誰もがこの映画を見ながら、自国で起こっているセクハラ、パワハラ疑惑について考えざるをえない。

次回、そのことを考える。
posted by ohashi at 16:27| 映画 | 更新情報をチェックする

2023年01月03日

スターの誕生日 1月3日

「1月3日、有名人の誕生日:メル・ギブソンからフローレンス・ピューまで」
のタイトルで以下のような記事があった。

コレクトミーCollectme編集部 – 1月3日

1月3日は、映画にとって特別な日です。この日、多くの映画スターが誕生日を迎える。

まずは、本日2023年1月3日に67歳を迎えるメル・ギブソンから。リーサル・ウェポン・シリーズ、ホワット・ウーマン・ウォント、サインなど多くのヒット作に出演し、ブレイブハートやアポカリプトなどの優れた監督でもある彼は、今でもハリウッドで最も高く評価されているスターの一人である。

『ブラック・ウィドウ』のイェレナ・ベローヴァ役やミニシリーズ『ホワイエ』の出演で一般にも知られている美しいフローレンス・ピューが、27歳の誕生日を迎えた。


この記事、まずメル・ギブソンのところで『ホワット・ウーマン・ウォント』という作品が例に上がっている。一瞬、そんな作品があったのかと考えたが、これは日本では『ハート・オブ・ウーマン』という日本独自のタイトルでよく知られている作品だろうと思った。原題はWhat Women Want。カタカナにするのなら、『ホワット・ウィメン・ウォント』でしょう。

しかし、それよりもむしろフローレンス・ピューで伝えられているミニシリーズの『ホワイエ』というのは何だ?

そもそも「『ブラック・ウィドウ』のイェレナ・ベローヴァ」というのは誰のことだ。

Yelena Belovaは日本では「ヤレナ・ベラーヴァ」、「イリーナ・ベロワ」、「エレーナ・ベロワ」(映画版)など、表記に揺れがあるが、「イェレナ・ベローヴァ」はない。しかし、もともと揺れのある表記なので、これ以上は問題にしないが、ただ、12月の暮れに、映画『ドント・ウォリー・ダーリン』(フローレンス・ピュー主演)を観たばかりの私にとって、主役でもない映画を紹介するだけのこの記事は、その薄っぺらさに唖然とする。

フローレンス・ピューのシネマとグラフィー:

『フォーリング 少女たちのめざめ』The Falling(2014)
『レディ・マクベス 17歳の欲望』Lady Macbeth (2016)
『トレイン・ミッション』The Commuter(2018)
『アンソニー・ホプキンスのリア王』King Lear(2018)
『アウトロー・キング スコットランドの英雄』Outlaw King(2018)
『呪われた死霊館』Malevolent(2018)
『ファイティング・ファミリー』Fighting with My Family(2019)
『ミッドサマー』Midsommar(2019)
『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』Little Women(2019)
『ブラック・ウィドウ』Black Widow(2021)
『ドント・ウォーリー・ダーリング』Don't Worry Darling(2022)
『聖なる証』The Wonder(2022)

テレビ:ミニシリーズ
『リトル・ドラマー・ガール 愛を演じるスパイThe Little Drummer Girl』(2018)
『ホークアイ』Hawkeye(2021)


テレビのミニシリーズを除くと、『呪われた死霊館』はつい最近まで〈死霊館シリーズ〉と勘違いしていたため、まだ見てない。『トレイン・ミッション』は(おそらく映画館で)観たのだが、その当時、フローレンス・ピューのことを知らなかったので、どこで出ていたのか記憶にない。あとは観ているのだが、シェイクスピアの『リア王』のコーディリアから、殺し屋や殺人鬼、さらには女子プロレスラーまで演ずることのできる女優は、めったにいない。その意味で才能のある若手俳優である。本年度公開の『ドント・ウォーリー・ダーリン』は彼女の最高の演技と称賛されたかと思うと、次の『聖なる証』でも、これまでで最高の演技と称賛されるという具合に評価は右肩上がり。グレタ・ガーウィク監督の『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』では若草物語の四人姉妹のうち末娘のエミリー役なのだが助演女優賞にノミネートされた。

そのため主役でもない『ブラック・ウィドウ』だけを紹介し、あとはテレビのミニシリーズひとつを紹介するという記事は、頭がおかしいか、書いた人間がまったく映画や映画スターについてまったく無知なのか、あるいは完璧に無能なのかわからないがひどすぎる。

フローレンス・ピューが出演している『ホワイエ』というミニシリーズは、今現在、私は見つけられなかった。まさかとは思う、ほんとうにまさかとは思うのだが、彼女が出演しているミニシリーズ『ホークアイ』を、『ホワイエ』と間違えたのかもしれない。まさか、そんなミスはしないと思うのだが……。

フローレンス・ピュー主演の英国のミニシリーズには、『リトル・ドラマー・ガール 愛を演じるスパイ』(2018)がある。もしテレビのミニシリーズに言及するのなら、あるかどうかわからない、そして主役でもない『ホワイエ』ではなく、この『リトル・ドラマー・ガール』だろう。

この記事を書いた人間、ほんとうに無能すぎる。即刻、交替させたほうがいい。
posted by ohashi at 23:07| 映画・コメント | 更新情報をチェックする

2023年01月02日

『ジョン王』

Bunkamuraシアターコクーン 翻訳 松岡和子、演出 吉田鋼太郎、ジョン王:吉原光夫、フランス王:吉田鋼太郎、私生児:小栗旬ほか。
2022年12月29日に。


私にとっては久々のシアターコクーンだったが(つまりコロナ禍で観劇を控えていたのだから――老人で基礎疾患がある身にとっては、たとえ5回のワクチン接種と今年1回のインフルエンザ接種でも、感染は怖いので)、シアターコクーンといえば、舞台奥のドアが開かれると、建物の搬入口と歩道がみえるという独特の構造を持っている。もちろん、そんなドアはめったに開くことはないのだが、開幕前にドアが開いてしまった。そして遠くの歩道と、停車したトラックからの搬入作業が丸見えになった。

通常の公演で、そのドアが開くことはない――開ける必然性もないのだから。ただ一度か二度、何の公演だか忘れてしまったが(蜷川演出だったと思う)、開いたの見たことがある。そのドアが今回、開け放たれた。

そして開演直前になって、遠くの歩道からパーカーとジーンズ姿の一人の青年が近づいてきて、搬入作業中のトラックを横を通り、開口された舞台奥から舞台の中に入ってくる。開演直前の舞台には上から死体に模せられた人形が落ちてくる。入ってきた青年は珍しそうにその死体=人形や舞台装置を携帯で撮影する。芝居が始まったのである。外からやってきたその青年は小栗旬。いったん舞台から消えるがすぐに私生児フィリップとなって登場する。

この仕掛けというか掴みは面白いし、刺激的である。私生児フィリップという存在は、『ジョン王』の特質を決定づける興味深い存在だが、演出では、外部から到来する第三者的目線の持ち主として立ち上げる。それがまた作品全体を上演する根拠となる枠取りの機能も果たすことになる。
【埼玉会館大ホール、名古屋の御園座、梅田芸術劇場ドラマシティーでも、同じように舞台奥の扉が開くのだろうか、あるいは別の演出法が選ばれるのだろうか?】

となると、この枠取りは最後まで機能するのかどうか、それは劇場で確かめてもらいたい。今回、私は、知人といっしょに見に行ったのだが、「カーテンコールがやはり残念でしたね。……小栗旬は結局素に戻ることなく、あの姿のまま観客に印象付けられて、かっこよすぎ」というコメントをあとからメールでもらったので紹介だけしておく。


『ジョン王』の上演に際して、ジョン王を演ずる予定だった横田栄司の降板があって、吉原光夫と交代したわけだが、小栗旬の私生児フィリップと吉原光夫のジョン王とのやりとりをみていると、もしこれが小栗旬と横田栄司だったら、やはりNHK大河ドラマの余韻が強く残っている時期なので、どうみても北条義時と和田義盛との対話となっていてシェイクスピアの芝居そのものに入り込めなかったのではないか。実際、大河のあとの第二ラウンドを見に来た観客も多かったであろうから――北条義時に殺された和田義盛だったが、この舞台では立場が逆となって横田ジョン王が、フィリップの生殺与奪権を握ることになるのだから、あるいは今回もまた北条=フィリップ=小栗旬が横田ジョン王を翻弄するのだろうかなど、いろいろな思いが観客の頭のなかをよぎるに違いないのだ。

まさか横田本人が、こうしたことを見越して自分から降板を申し出たとか、外部から圧力がかかって交替を余儀なくされたというようなことはないとは思うのだが、しかし、結果的に吉原光男=ジョン王でよかったのではないかという思いにとらわれた。吉原光夫は、声も容姿も良いので、これからさらにもっと注目され活躍すると思ったのは、私だけではないだろう。
【ミュージカル俳優は、歌がすべてで、容姿は二の次というのは、『トゥモロー・モーニング』(2022年12月30日の記事参照)がいまだに依拠している古き伝統で、むきむきタトゥー男で貧相な容姿の男が、歌がうまいだけでスター扱いされるというのは、完全に時代遅れになっているしきたりにすぎない。】

とはいえジョン王のキャラクターについては、前半は、りりしく勇猛果敢な強い王で、ローマ教皇に破門されても意に介さないたくましさを誇示し、それにふさわしい客観的相関物として吉原光夫の高貴で威厳のある国王像が機能していたのだが、後半になるとジョン王像がぶれはじめ、前半とは異なる、妥協的でご都合主義的な、シェイクスピアが得意な弱い王(ウィーク・キング)になってしまう。ジョン王は前半と後半で別人となる。前半では教皇に破門されても平気であったのに、後半では教皇と和解する。アーサーをひそかに殺そうとする。そのどれもに失敗して病に倒れるか毒殺される。すでに母親エリナー妃は死に、有力貴族からは離反され、アーサーの死が殺人か自殺かうやむやになって、後半はカオスの度合いが強くなる。

ジョン王の後半における変貌を念頭に置くとなると、ぶれまくり、保身に走る、ご都合主義的国王像には、横田栄司のほうがふさわしかったといえるかもしれない(後半の吉原光夫の演技だだめだったということでは決してない)。



ただ前半と後半にジョン王の性格が異なることはあるが、それは共作ゆえにとか、作者の若書きゆえにということではなく、最初から意図されたブレなのだろうと思う。要は、シェイクスピアはジョン王の時代の年代記を、その絶頂期から没落期までを圧縮して舞台化しようとしたまでであって、当時わかる範囲で、史実を舞台に再現しようとしたまでであろう。

だが、かつて、こういう時代があったことを、舞台における再現を通して知ってほしいと願っただけではないだろう。そのような無償の知は、当時、この劇の上演に関係した者たちは夢にも思わなかったにちがいない。

それというのも、法王庁との闘い、国内の教会財産の没収など、ジョン王のしたことは、なんとなくヘンリー八世の所業とよく似ている。もっと正確にいえば、ジョン王の生涯と功績は、ヘンリー八世のプロトタイプになっているということだ。これは私の単なる思い付きではない。当時、ジョン王とヘンリー八世は類似性によってつながれていた。当時のプロテスタントの文人、ジョン・ベイルは『ジョン王King Johan』という芝居を書いて、ジョン王を顕彰した――ローマ教皇と対立するプロト・プロテスタントの英雄として。
【ベイルの『ジョン王』は、トマス・クランマーの館で上演されたようで、その手書きの台本が残っている。ちなみにトマス・クランマーとは誰だと思われるかもしれないが、2022年に『ヘンリー八世』の舞台をご覧になっていれば、後半、王の寵愛をうけるプロテスタント派の高位聖職者であるとわかるはず。この松岡和子翻訳/吉田鋼太郎演出の『ヘンリー八世』でクランマーを演じたのは、金子大地――源頼家の。大河の影がここにも。】

したがって、この作品でシェイクスピアが提示しているジョン王が君主だった戦乱の時代は、ヘンリー八世からエリザベス女王へとつづくチューダー朝の宗教戦争と内乱の危機の時代とアナロジーによって結ばれているのである。ジョン王の時代は、同時代でもあったのだ。

このことはまた今回の演出にもあてはまる。そもそも現代の日本において『ジョン王』の世界は、無関係なものである。またもし『ジョン王』が頻繁に上演される有名な作品だとすれば、たとえ内容に現代日本との関連性はなくとも、英米圏における人気作品を通して、その文化的社会的状況を把握することは有意義であろう。しかし、『ジョン王』はめったいに上演されることのない作品で、私もこれまで『ジョン王』を舞台であるいは映像でも観たことがなかったし、また今後、死ぬまで『ジョン王』を観ることはないだろう――これが最初で最後の舞台で観る『ジョン王』である。

そのため、この『ジョン王』が現代の私たちの「いま」と「ここ」とに、どのよううな関係があるのかといえば、私利私欲に動かされるあさましい格差社会のありようがまさにそれであり、さらにいえば戦争によって多くの命が奪われている、あるいは奪われそうになる時代という点であろう。多くの人間が戦争で死んでいるというのに、あるいはコロナ禍で死者が増えているというのに、目の前に死体がころがっているのに、私たちは、それが見えてない、あるいは見て見ぬふりをしているのだ。『ジョン王』の世界は、21世紀のグローバル・ノースの日常でもあるといっても過言ではない。

シェイクスピアの時代に、ジョン王の時代の現実が、ヘンリー八世からはじめる宗教改革の時代の現実と重なる。ジョン王の時代がヘンリー八世の時代のプロトタイプであること。ポスト・ヘンリー八世時代のいまのなかにジョン王時代が透けて見える……。ジョン王の時代は、ヘンリー八世時代の対位法的カウンターパートだともいえる。しいて言えば、ジョン王の時代は、ポスト・ヘンリー八世時代がなり得たかもしれない地獄の変奏でもあろう。

そしてこうした二重性は、シェイクスピアの『ジョン王』のなかに、現代の日本あるいは世界の情勢との関連性を見出す演出の冴えというか洞察の深さともつながっている。ジョン王とヘンリー八世は、シェイクスピア時代の感覚では似ていたし、シェイクスピアは類似性の発掘と照射に力をいれているように思われる。

史実のジョン王とヘンリー八世は似ているところがある。シェイクスピアの『ヘンリー八世』と『ジョン王』は、残念ながら演劇作品としては全く似ていないのだが、それでも『ジョン王』と『ヘンリー八世』、この二つの作品を、松岡和子訳/吉田鋼太郎演出によるすぐれた舞台でみることができたのは、2022年の貴重な体験として特記すべきことがらだといえる【コロナ禍で途中で上演が中止になった『ヘンリー八世』は、今年、彩の国さいたま芸術劇場で再演され、『ジョン王』は、彩の国シェイクスピアシリーズの最後を飾る作品だったのだが、コロナ禍で最初から上演中止となった。ようやく2022年12月26日から上演にこぎつけたことに対しては感慨深いものがある】。

『ジョン王』の背後にはポスト・ヘンリー八世時代がある。『ジョン王』上演の背後に、いま起きている戦争の惨禍がある。


小栗旬演ずるところの私生児フィリップは、『ジョン王』の世界においては、第三者の目あるいは他者の目として超越的な視座を確保している。王侯貴族の戦争と外交的駆け引きを私利私欲に突き動かされた愚行であると見抜いているのだから。

と同時にシェイクスピア劇の中の批判者は誰も超越的な地位を確保できない運命にある。たとえば『お気に召すまま』では結婚や男女の恋愛に批判的な道化のタッチストンは、結局、最後には結婚する。いっぽう厭世的でシニカルなジェイクィーズは最後には仲間たちから離れ隠遁生活を送ることを選ぶのだが、それによって彼の超越的視線は消滅する。批判する対象から離れてしまうからである。いずれにせよ、シェイクスピア劇で安全堅固で侵入されることのない超越的な場とか姿勢は許されることはない。

事実、私生児フィリップも最初のうちは英仏両国の戦争、意地の張り合い、私利私欲の交錯などに鋭い評言を与え続け、その歯に衣着せぬ直言に感嘆の念すら覚えたのだが、後半になるとその鋭い舌鋒にも陰りがみられはじめ、さらに軍事組織の要職に就くようになると思うように戦果をあげることができなくなる。

そういえば私生児フィリップは、両国の戦略や策略を私利私欲に動かされた狂気の沙汰と批判するセリフのなかで、自分が批判していられるのも、私利私欲の世界に、まだはまっていないからであり、もし、この世界にとりこまれてしまったら、自分だってどうなるかわからないと、超越的視座にある賢者的人物にふさわしからぬ述懐をする。結局、私生児フィリップも、この世界のインサイダーとなるにおよんで超越性を失うことになる――シェイクスピア的人物の常として。

『ジョン王』の最後を締めくくるのは、この私生児フィリップのセリフなのだが(このことは、作品における彼の重要性の証左ともいえることだ)、それは彼の敗北宣言であり、またこの敗北、この失意を通して、国策や戦略において賢明であることを説く内省的弁明でもあって、超越性は失われている。

もちろんそれでいいのだが、ただ、そうなると作品が内側に閉じてしまい、その作品から外に出る人物が誰もいなくなる。つまり外に出る人物--まさに舞台で観客に語りかけるような人物が典型なのだが--が、作中世界と観客の世界をつなぐ働きをするはずが、そうした人物による繋ぎがなくなってしまうのである。作品は自己完結して、現代性、同時代性はなくなる。『ジョン王』は、ひとつの歴史的骨董品として終わるしかない。それもあまり人気がないがゆえに値がつきにくい、むしろ安い骨董品として終わるしかない。

ネタバレ注意/ Warning: Spoiler

今回の上演というか演出では、私生児フィリップは内在性と外在的超越性の二重性を帯びる人物となっている。シアターコクーンの舞台奥から外(建物の搬入口と歩道)へと通ずる開口部からふらっと入ってきた現代日本の青年が、『ジョン王』の舞台、その演劇的世界に取り込まれ、私利私欲渦巻くその世界にどっぷりつかるしかなくなった瞬間、戦争という現実が彼を舞台から超出させる/解放することになる。

カーテンコールのなか、私生児フィリップだけは、素に戻ることはないまま演技をつづけている――つまりその場で身じろぎもせず固まっているのである。彼は、シアターコクーンにおける俳優でもなければ観客でもなくなってしまう。私たちの世界そのものから超越した存在となっている。私たちは小栗旬に拍手を送りたいのだが、肝心な小栗旬は私生児フィリップのままなで、素にもどってくれない。そしてカーテンコールが終わり、演者たちが舞台から完全に消えたとき、おもむろに私生児フィリップは、現代日本の青年に戻り、開け放たれた舞台奥の入口/出口から、外の歩道へと消えていくのである。

これは小栗旬に拍手を送れない設定なので、演出上の工夫としては失敗しているとみなす向きもいよう。しかし、舞台の奥の開け放たれた開口部からやってきて、またそこから帰っていくという演出は、衝撃的で、なおかつ問いかけることの多い優れた演出ではないかと圧倒された。

『ジョン王』の舞台では、劇中人物たちは、外から紛れ込んだ日本人の青年が扮する私生児フィリップを同じ世界の一員として扱っていたのだが、最後のカーテンコール、劇中人物が素の役者にもどっても、ひとり素にもどることのないこの人物は、もはやシアターコクーンンが存在している世界の一員ではないと私たちは了解すべきなのだろう。仲間にみえて、実はエイリアンだったという設定は、『ジョン王』の外にも波及している。

この日本人の青年、最後に舞台奥の開口部からみえる現実の歩道へと去っていくこの日本人青年は、私生児フィリップでもなければ小栗旬でもなく、現代日本の青年でもないように思われる。私には、彼が、未来から到来した使者のように思えてならない。あるいはベンヤミンのいう「歴史の天使」かもしれない。

彼は私たちのほうに顔を向けながら、彼方へと、あるいは未来へと飛び去って行く。この死体がころがっていても平然と生きている私たちの日常に対して、何かを語り掛けよとする表情をみせながら、あるいは、あきれかえって物が言えないとでもいいたげな顔をしながら、この歴史の天使は、未来へと消えていくのである。


ジョン王とヘンリー五世が交錯している。いや交錯はそれだけではない。劇中世界でいえばイングランドとフランスが領土的・政治的に交錯する。過去と現在が、現在と未来が交錯する。和と西洋とが混じる和洋折衷の舞台。あるいはオール・メールの配役だからこそ、男性と女性との交錯がみえてくる。西洋風と和風との和洋折衷も、そうした交錯のひとつ。その他、交錯は数え上げたらきりがないのだが、セリフと歌との交錯――ミュージカルにまではなっていないのだが。歌は反戦フォークソング。ただし昭和の反戦フォークソングは、歌詞を聞いていても、それが反戦歌だとはわかりにくい叙情性とか叡智あふれるメッセージ性が顕著で、予想されるようなプロパガンダ性はないことは付け加えておかねばならない。そしてこうしたフォークソングの使用は、昭和と冷和【「冷和」は意図的に使用】の交錯を生むことにもなる。そしてそれは蜷川演出へのオマージュとともに(上から何かが落ちてくるというのも蜷川演出へのオマージュなのだが)、蜷川演出と吉田演出の交錯を生む。そして舞台奥の扉を開けることで、現実の空間と舞台の虚構空間が交錯する。


劇場から出るときに、私の近くに小さな男の子がいて、母親(と思われる)に「よくわからなかったけれども、おもしろかったよ」と話していた。おそらくこの感想は、多くの大人の観客の感想と同じだろうと思われたのだが、ただし、そもそもなぜ小さな子どもが劇場にいたのか。よりにもよってシェイクスピア劇に。まあ低年齢層にも観劇のチャンスをあたえるという劇場側の取り組みの一環なのかもしれない。あるいは『ジョン王』に出演している子役の男の子の関係者(家族、親戚、友人、出身劇団のメンバー)かもしれないのだが、気づくと子供がいるというのは、今回の『ジョン王』の特徴でもある。

シェイクスピアの全作品中でセリフのある人物は、約1000人。途方もない数と思われるかもしれないが、そんなに驚く数ではない。仮にシェイクスピアの全作品を35とする(計算というか概算しやすいようにこう決める)。シェイクスピアの一作品の登場人物の平均数は20~30(『ジョン王』ではセリフのある人物は25人くらいいる)。ときには40~50くらいのこともある。そこで、20人×35で、700人。30人×35で1050人。まあ1000人というのは概数だが妥当な数だとわかるはず。

このなかで子供は、5,6人。少なすぎる。まあシェイクスピア劇は子供とは無縁の世界の出来事を提示しているといえようか。

登場する子供たちは、みんなかわいげがなくて、小生意気で、そして死ぬ。『リチャード三世』には、エドワード四世の子供で、リチャードの手下に殺される兄弟が登場する。『マクベス』ではマクダフの子供がマクベスの手下によって殺される――小生意気な子供だが、母親を守って死ぬ――とはいえ母親も殺されるのだが。あるいは『冬物語』におけるマミリアス。父親と母親との不和に対して悲嘆のあまり死んでしまう。そして今回の『ジョン王』のアーサー。

アーサーの死をめぐるごたごた。王の腹心のヒューバートに殺されたかと思うと、助けられるが、みずから城壁から飛び降りて死ぬというの自殺なのか事故死なのかわからないうえに、貴族たちからは他殺と受け止められ、貴族たちの王からの離反を決定づける。物語の展開からしても、すっきりしないのである。

しかしそれを脇において考えれば、アーサーの悲運は、この劇と今回の演出に影を落としている。あるいは大人のドラマに、子供のドラマが交錯する。城壁から落下するアーサーは、上から死体が降ってくるという今回の吉田演出の源泉的イメージともいえる。飛び降りるアーサーは、劇中に何度も降ってくる死体の一部(メトニミー)かもしれないが、同時に、劇中に降ってくる死体の代表あるいは中心でもある(メタファー)。このアーサーの印象的な死は、戦禍のなかで犠牲になる無辜の民への鎮魂歌的機能をはたしている。

今回、アーサー役は、子役ふたりのWキャストなのだが、実はアーサーは、ジョン王とも、そして私生児フィリップともつながる、あるいは彼らのWキャストのひとりであるかのように思えてくる。『ジョン王』の影の主役とまで言ってもいい存在感をこのアーサーは放っている。

Wキャストの子役のうち一人しか見てないわけだが、シェイクスピアの長台詞をよどみなく、一度も噛んだりすることなく、よく通る声で劇場に響かせる、その演技力は二人に共通しているものと確信している。そして子供の口をとおして松岡和子氏の見事な翻訳のセリフを聞くことができただけで、涙こそ流さなかったが、体が震えるような感動を覚えた。

シェイクスピアの『ジョン王』は、アーサーのドラマ、そしてシェイクスピア劇では珍しく子供のドラマでもある。これから50年は、『ジョン王』の上演を観ることができないと思うと、今回観ることができたのは、言葉にいえないほどの幸運であった。
posted by ohashi at 15:49| 演劇 | 更新情報をチェックする

2023年01月01日

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