Men(2022) アレックス・ガーランドAlex Garland監督・脚本、ジェシー・バックリー、ロリー・キニアほか。アメリカ・イギリス合作映画。100分。
エンドクレジットの最後にA24の表記が大きく画面にでるのだが、正直言って、A24、何考えとるんやと、思わず、画面にむかって声が出そうになった。
予想を超えるぶっとんだ映画だったのだが、映画.COMは次のように内容を紹介している:
夫の死を目撃してしまったハーパーは、心の傷を癒すためイギリスの田舎町へやって来る。彼女は豪華なカントリーハウスの管理人ジェフリーと出会うが、街へ出かけると少年や牧師、警官に至るまで出会う男すべてがジェフリーと全く同じ顔だった。さらに廃トンネルから謎の影がついてきたり、木から大量の林檎が落下したり、夫の死がフラッシュバックするなど不穏な出来事が続発。ハーパーを襲う得体の知れない恐怖は、徐々にその正体を現し始める。
ダニエル・クレイグ主演の「007」シリーズでビル・タナー役を務めたロリー・キニアが、同じ顔をした不気味な男たちを怪演。
ただし、これは映画をみてきた印象とは異なる。そもそも彼女は街に出ていない。村のなかにひとつあるパブと田舎の教会で人と会うだけであり、みんな同じ顔なら、彼女自身驚くはずだが、なんのリアクションもない。ひとりで何役もこなうロリー・キニアの演技が堂に入っていることもあって、みんな違った人物にみえる。彼女は最後まで顔が同じであること、同じ人物であることにリアクションしない。観ている側は、ようやく、同じ顔らしいと認識できるのだが、そのときは、事態はとんでもないことになっている。
まあ、みんな同じ顔にみえるということはよくあるのだが、この映画にかぎっては、みんな違って見えたのは私だけなのだろうか。
物語は離婚話をすすめるなかで、夫の自殺を体験した妻の女性が、そのトラウマを癒やすべく田園地帯のカントリーハウスをひとりで借り切って休暇をすごすことになるが、全裸で徘徊する変態男に襲われそうにることから事態は急展開する。夫の自殺の原因が自分にあるのではと苦悩する彼女は、しかし、教会で神父から夫を許さなかった彼女にも責任と諭され激高する。パブに行っても警察が全裸の変態男を釈放したことを知り憤慨する。そして夜、屋敷に忍び込む者がいて……、という展開となる。
ここまで、彼女が出会う、不動産屋、聖職者、そしてやや暴力的で変態的少年がロリー・キニーが演じていることに、彼女はなんの違和感もいだかない。それにつられて私も気づかなかった――牧師が不動産会社の男となんとなく似ているとは思ったが、「同じ顔」とは思わなかった。
彼女は夫との口論すえ、夫に殴られた彼女が激怒し夫を家から追い出す。締め出しを食った男は、事故か自殺かわからないものの上層階から転落して死亡。それがトラウマとなって苦しんでいる妻が、休暇中の田舎で、出会う男たちから責められる。
そこから男は弱い生き物だから、女も、ちょっと殴られたくらいで、男を許さないというのは、不寛容すぎる。謝罪の場を男に与えるべきであると牧師に説教され、また他の男たちも彼女の生き様には批判的である。
結局、男を責めるだけ責めて許そうとしない不寛容は女性には、反省して欲しい。そして本来繊細で弱い男には愛の手を差し伸べて欲しいというのがこの映画のメッセージであるかのようにみえる。実際、主役のジェシー・バックリーも、主人公の女性は、最終的に死んだ夫と再会(おそらく夢の中で)し、彼女の生き方を諭す牧師らと接触することで、みずからの内なるデーモンと折り合いをつけるのだと語っている。なるほど恐怖の一夜が開けた朝、家の前で腰を下ろしている彼女の表情からは、怒りや悲しみや恐怖とは無縁の満ち足りたものがうかがえる。だが、もしそうだとしたら、この映画はとんでもないクソ映画である。
男女差別によって人は死なないと思い込んでいるおめでたい****にはわからないだろうが、DVで殺される女性は多い。DV男は、暴力をふるったあと、たいてい謝罪する。そして謝罪を信じた女性は再び暴力にさらされ最後は殺される。謝罪や話し合いの機会を求めるDV男との直接対面が引き金になって殺人事件にまで発展することはよくある。加害者男性が、自身を、女性の理不尽な激怒と不寛容な姿勢の被害者に仕立て上げたうえで、悪しき女性を処刑するのである。謝罪を信ずるな、謝罪の機会を与えるな、は、いまやDV関連の事件では鉄則ともいえるものだが、それとは反対のことを、つまり男性に対し寛容になれ、女性は怒るなというメッセージを、ぬけぬけと牧師に語らせるのは(たとえその聖職者が悪魔の化身であっても――とはいえ悪魔であるとはどこにも示されないのだが)、映画としてやってはいけないことである。
あるいはセクハラ事件が発覚し、監督や俳優が映画会を追われ、映画が作れなくなった現状に対して、このままでは映画業界が破綻しかねないと、ゆきすぎた告発を憂慮し、謝罪の機会を設け謝罪を受け入れる寛容な姿勢を求めるメッセージが込められているのかもしれない。
ただし、この映画を、そうしたミソジニックで、ただただなさけないクソ映画としないためにも、もう少し大きな文脈においてみることも必要だろう。男性中心主義者のクソメッセージでもあることを決して忘れることなく、クソ映画になっていないこの映画の魅力的な部分を探ってみたい。
夫に自殺された妻のトラウマという物語は、またジェンダーの戦いという古くて新しい、ある意味、永遠のテーマをはらんでいる。
たとえば女性が一人、迫害して逃げ回るというホラー映画の定番的設定も、いくつかバリエーションがあって、近年では、女性がただ絶叫して逃げ回るだけでなく、女性が反撃して犯罪者集団やカルト集団を粉砕するという物語展開をみせるものがある(B級映画が多いのだが)。女性はただ弱いだけでなく、強く反撃能力をもっていることを知らせるという、フェミニズムの影響があるかもしれないが、同時に、このブログでも何度も述べているように、映画の主要なテーマのひとつが少女であるとするなら、少女が苦境を脱して何者にも、何事にも支配されない自由な身でありつづけること、そのために敵対する男性を打倒することは、映画の歴史そのものとともにあるといっていい。
この映画では主人公の女性が男性たちの犠牲になることはなく、むしろ男性たちをすべて倒すことで、女性の復讐という新ジャンルに属するとともに、自律する戦闘少女という映画ジャンルそのものにも属していると言えようか。その壮絶な戦いが、この映画のみどころでもあろう。壮絶というか、戦いは唖然とするほどぶっとんでいるが。
だが、この戦いは、たんにへんな村に迷い込んだ女性に襲いかかる変態村人集団ということではおさらまない異様さがある。それは女性と男性とのジェンダーの戦いという様相を呈してくる。
主人公の女性が訪れる教会の祭壇の前に置かれた石像というか巨大な頭部の石像は、これは典型的なグリーンマン(Green Man, Greenman)のそれである。グリーンマンというのは「中世ヨーロッパ建造物や遺跡などに現れる、葉で覆われた、あるいは、葉で形作られた人頭像」であり、豊穣をシンボライズしているとみられている。
映画のなかであらわれる全裸の男は、グリーンマンの化身であろう(個人的なことをいえば「グリーンマン」については一時期、本などを読んで調べたことがあるので、すぐにわかった)。興味深いのはこの石像というか石頭像の裏側に、裸の女性が自分の陰部を両手で空けている(おまんこぱっくりな)像が刻まれていることだ。
ちょっと興奮した(「おまんこぱっくり」だからではない)。これは、シーラ・ナ・ギグ(Sheela na Gig)の像だ。つまりイギリスやアイルランドの教会、城その他の建築物にみられる女性像で、「外陰部を大げさに表した裸体の彫刻」として説明されるのだが、みればわかるように、女性は自分の手で、おまんこをぱっくりさせている。映画に出てくるこの像は作り物なのだろうが、たとえ作り物でも、シーラ・ナ・ギグ像をまじまじと観たのは、生まれて初めてのことで、驚いた。グリーンマン像とこのシーラ・ナ・ギグ像とは背中合わせになっていて、決して、相手と対面することはない。このグリーンマンが、決して触れることも、交わることもできない女性に対して、なんとか接近しようとあがくこと、それも自分の影を踏もうとしてできないようなもどかしさを伴いながらあがくこと、まさにそれがこの映画のテーマのひとつとなる。
しかしグリーンマンの思索的で威厳のある顔に比べて、その背後に刻まれたシーラ・ナ・ギグは、おまんこぱっくりな(いい加減にやめないかという声も聞こえてきそうだが)、実に淫乱な姿となっている。禁欲的な男と、その男を誘う淫乱女という構造は、なにか男性中主義的な世界観をふんぷんとさせていないだろうか。つまり、主人公が休暇で滞在することになったこの村には、女を性的対象としてしかみない、ミソジニー男たちしかおらず、その世界観が、シーラ・ナ・ギグのおまんこぱっくりな姿に如実にあらわれていないか。
同じ顔の男たちといっても、ロリー・キニアが演じているのは、不動産会社の男、牧師、少年(演じているのは別人だがCGで顔はロリー・キニアになっている)の三人だけだと思うのだが、ちがっていたらお詫びする。彼らが同じ顔なのは、女から観れば、だめ男は、みんな同じだということであろうが、もうひとつ、男が最終的に、あるいはつねに求めているのは、女のいないユートピア、つまり単性生殖ユートピアであることを暗示している。つまり自分のクローンを、同じ顔の男たちを男は求めているのだ。
そう、この映画のさらにもうひとつのテーマは単性生殖である。タンポポの綿毛というか種子が映画のなかでは何度も出てくる。なにか自然現象のように生じたり、ときには主人公の女性の体内に入り込んで彼女を麻痺させるために不動産会社の男が、種子を吹き散したりする。タンポポについては、つぎの記事が興味深い事実を伝えてくれる――
https://gardenstory.jp/plants/42227
タンポポ(たんぽぽ)についてもっと知りたい! 特徴や種類についてご紹介(2020年4月22日)
セイヨウタンポポはもともと外来種ですが、現在では日本各地に分布。日本で確認されるタンポポの8割ほどがセイヨウタンポポか、その交雑種だといわれていて、普段見かけるタンポポも、多くがセイヨウタンポポになっています。(中略)タネの量が非常に多く、果実も小さく軽いので、風に乗って広範囲に広がり、アスファルトの隙間など、生活に身近なところにも多く分布しています。単為生殖によりクローン体をつくって多数に増える半面、環境適応力はニホンタンポポに比べてやや低いそう。
そう、タンポポは単性生殖でありその種はクローン体のもとなのである。
なおもうひとつ単性生殖/自己増殖のイメージを指摘すれば、主人公の女性が、廃墟となったトンネルの入口で、自分の声を反響させることである。自分の発した声がエコーとなって、トンネルの中で消えずに響き渡る(実際には、反対側に出口のみえるトンネルは、洞窟ではないので、エコーは生まれないらしいのだが)。単性生殖のタンポポ、自己増殖するエコー。音のクローン。そしてもうひとつの自己増殖体あるいは自己増殖の夢、クローンの夢――それが男たちの見果てぬ夢となる。
男性それも男性中心主義者のミソジニー男性にとって、最大の不幸は女から生まれることである。男性中心主義者にとって、蔑視している女性を通してしか男性が生まれてこないのは痛恨の極みとしか言えない。そのため、女性になること、いや生殖機能を女性から横領すること、そもそも男から生まれることこそ、男性中心主義者にとって見果てぬ夢となる。
付け加えればクローン(同じ顔をした男たち)は、科学者の男性の、女性を介さない自己増殖実現の夢の実現である。このブログでもクローンのもつ意味を考えたことがあるが、クローンとは何かについて、ジェンダー的観点からの最も基本的な解答とは、同じ顔をした男たちの生産、男性の自己増殖願望あるいは女性を排除したいミソジニー的ホモソーシャル願望の所産ということになる。
以下、ネタバレ注意 warning: spoiler
結局ラスト20分の衝撃映像といわれているのが、まさにこれで、男の身体に膣があり、そこから別の男が生まれてくるという、驚天動地の気色悪い映像がつづく。それはグリーンマンが、決して出会えない、あるいは所有できないシーラ・ナ・ギグにみずから変貌して、男の膣から男を出産するとでもいえようか。どんなにグロテスクにみえようとも、この単性生殖、この自己出産こそ、男性の見果てぬ夢である。おそらくこの村にいる男性中心主義者たちは、この夢を実現していて、女を介ささない自己増殖をしているのである。
この男から男が生まれるグロテスクな単性生殖・自己増殖願望のはてに、主人公の女性の、自殺した男性が現れる。そしてこの男性、元妻にむかってぬけぬけと、おまえが私を殺したのだと言う。そのとき彼女の手には、身を守ろうして手にした小型の斧が握られている。そこからどうなったのかは映画では描かれていない。
自己増殖する男たちの行為は、一種のデモンストレーションで、主人公の女性に危害を加えるためのものではないようだ。最初、牧師が彼女の首を絞めようとするのだが、それがはたせないとなると、彼女の前で、同じ顔をした男たちのひとりが、もだえはじめ、その身体から、男の膣からべつの男が胎児として生まれ落ちる。だが、男たちは彼女に対してなにもしない。最初は恐怖のあまり身構えていた彼女も、ただ男が男を産むだけで、なにもしないことに気づき、あきれ顔になり、うんざりした様子で、その場を離れるのである。
繰り返すが、これは彼女を襲うのではなくて、男も出産ができる、男は男を産むことができる、女から生まれないで男から生まれるということの誇示(デモンストレーション)にすぎない。ある意味、子どもじみた(男の子じみた)自慢・誇示・デモンストレーションである。
そして女性を排除できること、女性がいなくとも誕生できることを証明(デモンストレーション)したうえで、最後に生まれ出た自殺した夫が、元妻に、おまえが私を殺したのだとどや顔で伝える。と同時に、それはまた、女が私をどんなに傷つけ、あるいは殺しても、男は死なない。こうして男性のホモソーシャル連続体によって、あるいは単性生殖によって男性は永遠に生きる、どうか思い知ったか、という、まさに子どもじみた自慢にすぎないのである。
このあとこの元夫を彼女が斧で滅多斬りにしたか、あるいは謝罪を受け入れ和解したかは、わからない。実際問題、これが彼女の夢だったこともあるのだが、悪夢を通して彼女がどういう心境に達したかはわからない。
おそらく誰にもわからないのだろう。ただ、男性と女性との維持のはりあいというだけではすまされない、ある種の神話的・宇宙的なジェンダー対立の闇が、この映画の気色悪い映像と不気味なホラー的設定によってあぶりだされたのは確かである。
そしてもうひとつわかるのは、男はクソだということである。愛すべきクソなのか、許しがたい唾棄すべきクソなのかは判断のわかれるところだろうが、男のクソぶりを提示した映画は決してクソ映画にはならないだろう。というかこの映画をクソにしないためにも、このような読解は必要ではないだろうか。
【追記 ちなみに主人公のジェシー・バクリーの友人なのか妹なのか忘れてしまったのだが、その女性を演じているゲイル・ランキンは、映画をみている間は気づかなかったのだが、このブログでも触れたNetflixのドラマ『GLOW』で、Sheila the She-Wolf役の女性だった。人見知りをするレスラーでリングに立つのをいやがるのだが、電子機器には結構強いとか歌がうまいとか印象的な役どころだった。ちなみに彼女は、いよいよドラマ化された『キンドレッド』(全8話)に登場しているとのこと。
ちなみにロリー・キニアにはナショナル・シアター・ライブなどで舞台の演技を観ることが多く、顔をまちがえることはないのだが――『ハムレット』、『オセロー』(イアーゴー役)、マルクスを演じた『ヤング・マルクス』など映画館でみているのだが――、終盤まで、何役も演じていたことにまったく気づかず。
とはいえ、こういうことを書いているくらいだから、映画をけっこう面白がったのかといわれれば、確かに面白い映画ではあった。