2022年12月30日

『トゥモロー・モーニング』

Tomorrow Morning (2020) ニック・ウィンストン監督 イギリス映画

どうしてこの映画はつまらないのだろうか、それを分析しなければならないと思いつつ、みていたはら、ますますつまらなくなって、結局、楽曲がよい子守唄となって、そのまま眠ってしまった。

とはいえ途中で目が覚め、気を取り直し、目を見開いてみようとして、再びに眠りのなかへ。とこうしたことを何度も繰り返しながら、最後には、早く終わってくれと思うようになった。

結婚前夜(ならびに至る過程)と離婚前夜(ならびにそれに至る過程)とが交互というか交錯して提示されていて、興味深い構成であり、そこからどんなものが生まれてくるのか期待感が高まったのだけれども、歌は超絶的に上手いのだが、めりはりがなく一本調子で退屈で嫌い。物語も予定調和的で先が見えるので嫌い。悲壮感も悲哀もなく、声がよい歌が上手いということが、なにか重大な欠陥にみえてきて嫌い……。

そもそも作品中で歌うのは、サマンサ・バークスとラミン・カリムルーだけで、彼らが結婚し離婚するかもしれない二人を演ずる――ひょっとして、ふたりの友人や家族なども歌っていたかもしれないが(眠っていたのでよくわからない)。この二人はどんなに歌がうまくても、正直言って、主役になるふたりではない。写真うつりはよいので、写真で見る限り問題ないかもしれないが、映画館の大画面で見ると、この二人の顔のアップは、みていてつらい(私が、この映画を観た翌日(12月29日)に観たシアター・コクーンのシェイクスピア『ジョン王』においてジョン王を演じた同じくミュージカル・スターの吉原光夫のほうが見栄えがはるかに上である)。

しかも、このふたり作品中の役どころとしては、ラミン・カリムルーが優秀なコピーライターであり、サマンサ・バークスは女性のモダン・アーティストであり、その作品が高額で売れるアーティストでもある。

しかし映画のなかではラミン・カリムルーは、そのムキムキの筋肉と片腕全体のタトゥーによって、とてもコピーライターには見えない。サマンサ・バークスが、どんな作品をつくっているのか一度もあかされないが、その胸の大きさによって、とてもモダン・アーティストにはみえない。
【誤解のないように付け加えれば、タトゥーをした筋肉ムキムキのコピーライターが絶対にいないということではない。ただ、そうした筋肉もりもりのタトゥー男のコピーライターは、いても、数はまったくもって少ないだろうということだ。蓋然性の問題である。実際、映画ではトレーニングジムでのシーンを入れている。筋肉フェチ、トレーニング好きという設定にしておかないと、キン肉マンのコピーライターの存在がリアリティを失うからであろう。】

では、彼ら二人が何に見えるのかといえば、答えは簡単である。彼ら二人はミュージカル・シンガーにしかみえないのだ。

もし二人がそれぞれ単独リサイタルを開き、この映画のなかの曲を歌いあげれば、歌のうまさでは定評のあるシンガーなのだから、拍手喝さいとなり、私のような聴衆を眠らせることもないだろう。下手な演技と下手な顔の演技では全く興ざめである。

いや、それだけではない。映画のなかで彼ら二人が歌うとき、歌声はあとから挿入することになる、つまりアフレコとなる。彼らが大声で歌い上げるとき、彼らの表情が歌っている表情になり、彼らのポスチャーが歌っているポスチャーなればいいのだが、つまり歌うことと身体とがシンクロするのならいいのだが、この映画の場合、シンクロしていないことが多い。つまり顔に作り笑いをはりつけたような表情で動きまわり、そのとき歌い上げる声が響き渡る。その顔は歌っている顔ではなくて、作り笑いの笑顔という場合、違和感を通り越して不快感すら抱かせるのだ。

顔は、シンクロナイズドスイミングの選手のような作り笑いのままで、歌声だけがそれにアフレコされている。ここに人形があるとしよう。人形の顔とか表情は作り笑い。人形の頭のなかに仕込んだスピーカーから大音響で歌声が聞こえることをイメージしていだければよい。それを人形ではなく、人間が、それも、作り笑いだろうがなんだろうが、基本的にうっとうしい顔をした人間がしたら……。嫌い。

ステージならそういうことは起こらない。たとえ実際に歌わず口パクだけだったとしても、それは歌をうたっている、ときには全身全霊で歌い上げるというかたちなるのだから、違和感はない。作り笑いのままでは、歌は歌えないのだから。

そう作り笑いのまま、あるいは、とってつけたような深刻な顔で、そこにアフレコの歌だけが流れるという、この映画のつくりは、まったくいただけない。嫌い。ステージでは、この嫌な部分は回避できるだろう。もし演技なしのリサイタルだったら、その場合も、この嫌な部分は回避できるだろう。映画だけが、嫌い。

実際のところ、この映画には先行する劇場版がある。劇場版は、二組の男女、一組は結婚を控えた男女、もう一組は離婚を控えた男女の、4人が繰り広げるミュージカルで、最後に、この二組のカップルが、実は同一のカップルであることがわかるというサプライズが待っている。この仕掛けにすると、結婚する男女と、離婚する男女との間に断絶があっても気にならない。つまり、仲の良いカップルと仲の悪いカップルが対比されるだけで、どうして仲が悪くなったのかについての説明は不要だし詮索もされない――ミュージカルが進行中は。

映画版は、この仕掛けを採用してない。実際、サプライズを維持することは映画の場合むつかしいだろう。むしろ映画版が、同じ一組カップルの結婚前夜と離婚前夜にしたのは、賢明な選択ともいえる。しかし、そうなるとなぜ、この男女の仲が険悪になったのかについての説明が不十分なのは気になる。嫌い。コピーライターと女性アーティストに見えないことも、説明不足とリアリティ欠如に輪をかける。嫌い。

しかし、これは好みの問題かもしれない。私はミュージカルが嫌いではないのだが、本当は嫌いではないかと自分を疑いたくなるほどの映画であることは事実。しかし、それ以上に問題がある。

最近、ジェンダーの戦いを描く映画が多い。実際、ジェンダー対立は、克服されたどころかむしろ悪化の一途をたどるように思われる社会全般の情勢と映画の傾向が顕著であるなか、この映画の予定調和的進行と、「子はかすがい」という古臭い結婚生活観は、今という時代に、この映画が、ことによると舞台ミュージカルやミュージカル映画が適切に対応できていなことの証左ではないのかという思いをぬぐい切れないのである。正直言って反吐がでる嫌いな映画である。

posted by ohashi at 19:14| 映画 | 更新情報をチェックする

2022年12月21日

駅員を怒鳴る

「新幹線停電で駅員を怒鳴りつける人への違和感 石原良純「詰め寄っても、どうにもなんないよね」」の見出しで、以下のようなネット記事があった。

J-CASTニュース – 12月19日

19日の「モーニングショー」は、18日午後1時ころに起きた停電による新幹線の大混乱について伝えた。

……「きのう(2022年12月18日)午後、東海道新幹線で架線の異常があり、東京駅と新大阪駅の間で最大でおよそ4時間運転を見合わせました。運転を再開した後もダイヤは大幅に乱れ、東京駅に終電が到着したのは今朝の3時でした」と司会の羽鳥慎一。

……時間をさかのぼり、18日午後8時くらいの品川駅、新幹線の改札付近の映像。動けないほど人が殺到する中、駅員に向かって「お前らしっかりせえ、アホ!」「オイ!死人が出るぞ!」などと怒鳴りつけている人もいた。

別の映像では、「エスカレーター止めてください」「危ない!」と叫ぶ複数の女性の声が。エスカレーター付近に人が殺到し、利用者が危険を感じ、駅員が対応する事態となっていたという。

影響を受けたのはおよそ11万人。JR東海によると、停電は、豊橋駅から名古屋駅の下り線で列車に電力を供給するトロリ線をつりさげるための「吊架線」が切れたことによるもの。なぜ切れたのかについては調査中だという。

石原良純(気象予報士、タレント)「なぜ起こったか分からないっていうのは困りますよね。経年劣化だったらまた同じことがどこかで起こるかも知れないし。でも、駅員さんに怒鳴っていた人いたけど、駅員さんに詰め寄ってもどうにもなんないよね」

以下略


石原良純氏のコメントに全面的に賛成する。

事故で列車や電車が止まったとき、駅員に詰め寄って怒鳴る人がよくいるのだけれども、その駅員のせいで列車が止まったならまだしも、そんなことはないわけだし、足止めをくって迷惑しているというのなら、早く復旧してほしい旨を伝えるのはよいとしても、怒鳴ることはないと思う。駅員を怒鳴るというまったく無意味な言動は絶対にやめてほしいと思わずにはいられない。

実際、私の身近にも、そうした駅員を怒鳴ることを習慣にしている愚か者がいた。私の父である。

私が高校生だった頃、父といっしょに名古屋の地下鉄ホームに停車している車両に乗りこんだ。比較的混んでいて、席は空いてなくて、私も父も立った。ところがその地下鉄車両、ホームに停車したままで動こうとしない。なにか事故があって地下鉄の電車が動かない。私が乗っている車両から離れたところにいる駅員に、乗客の何人かが詰め寄って説明を求めているところが見えた。

すると私の父が無言のまま車両を出て、その駅員のいる方向に歩きだし、近づいたかと思うと、いきなり、その駅員を大声で一喝したのである。

え、え、何。私はその光景を見て驚いた。駅員の態度が悪いとか、説明が要領を得ないとか、なにか原因があって怒鳴るというのは、わからないではない(とはいえ、それで怒鳴ることが正当化されるわけではないのだが)。ところが近づいたらいきなり怒鳴るというは、理不尽にもほどがある。

結局、その駅員に詰め寄り説明を求めたあと、父は私のいる車両にもどってきた。なにか意気揚々とした感じで。その時、私は、罪もない駅員を無意味に怒鳴るというのは、どういう卑しい人間なのかとあきれかえり、それが自分の父親だと思うとほんとうに恥ずかしくなり、父が私の近くにもどってきたときも、自分はこの人の身内でもなければ関係者でもないとほんとうに知らないふりをして、周囲をごまかそうとした。恥ずかしさで身がすくむ思いだった。

思い返すと、父はこれまで母に、駅員を怒鳴ったことをよく話していた。私にはその光景は現実味を欠いたものでしかなかったが、それを今、間近に見たことの衝撃で、私は、おののいたといってもいい。この人は、どういう人なのだろう。駅員を怒鳴るという行為が習慣になっているこの人は、いったいどういう人間なのだ。以後、私は、父と電車に乗ることを極力避けるようになった。

posted by ohashi at 11:09| コメント | 更新情報をチェックする

2022年12月10日

『MEN同じ顔の男たち』

Men(2022) アレックス・ガーランドAlex Garland監督・脚本、ジェシー・バックリー、ロリー・キニアほか。アメリカ・イギリス合作映画。100分。

エンドクレジットの最後にA24の表記が大きく画面にでるのだが、正直言って、A24、何考えとるんやと、思わず、画面にむかって声が出そうになった。

予想を超えるぶっとんだ映画だったのだが、映画.COMは次のように内容を紹介している:

夫の死を目撃してしまったハーパーは、心の傷を癒すためイギリスの田舎町へやって来る。彼女は豪華なカントリーハウスの管理人ジェフリーと出会うが、街へ出かけると少年や牧師、警官に至るまで出会う男すべてがジェフリーと全く同じ顔だった。さらに廃トンネルから謎の影がついてきたり、木から大量の林檎が落下したり、夫の死がフラッシュバックするなど不穏な出来事が続発。ハーパーを襲う得体の知れない恐怖は、徐々にその正体を現し始める。

ダニエル・クレイグ主演の「007」シリーズでビル・タナー役を務めたロリー・キニアが、同じ顔をした不気味な男たちを怪演。

ただし、これは映画をみてきた印象とは異なる。そもそも彼女は街に出ていない。村のなかにひとつあるパブと田舎の教会で人と会うだけであり、みんな同じ顔なら、彼女自身驚くはずだが、なんのリアクションもない。ひとりで何役もこなうロリー・キニアの演技が堂に入っていることもあって、みんな違った人物にみえる。彼女は最後まで顔が同じであること、同じ人物であることにリアクションしない。観ている側は、ようやく、同じ顔らしいと認識できるのだが、そのときは、事態はとんでもないことになっている。

まあ、みんな同じ顔にみえるということはよくあるのだが、この映画にかぎっては、みんな違って見えたのは私だけなのだろうか。

物語は離婚話をすすめるなかで、夫の自殺を体験した妻の女性が、そのトラウマを癒やすべく田園地帯のカントリーハウスをひとりで借り切って休暇をすごすことになるが、全裸で徘徊する変態男に襲われそうにることから事態は急展開する。夫の自殺の原因が自分にあるのではと苦悩する彼女は、しかし、教会で神父から夫を許さなかった彼女にも責任と諭され激高する。パブに行っても警察が全裸の変態男を釈放したことを知り憤慨する。そして夜、屋敷に忍び込む者がいて……、という展開となる。

ここまで、彼女が出会う、不動産屋、聖職者、そしてやや暴力的で変態的少年がロリー・キニーが演じていることに、彼女はなんの違和感もいだかない。それにつられて私も気づかなかった――牧師が不動産会社の男となんとなく似ているとは思ったが、「同じ顔」とは思わなかった。

彼女は夫との口論すえ、夫に殴られた彼女が激怒し夫を家から追い出す。締め出しを食った男は、事故か自殺かわからないものの上層階から転落して死亡。それがトラウマとなって苦しんでいる妻が、休暇中の田舎で、出会う男たちから責められる。

そこから男は弱い生き物だから、女も、ちょっと殴られたくらいで、男を許さないというのは、不寛容すぎる。謝罪の場を男に与えるべきであると牧師に説教され、また他の男たちも彼女の生き様には批判的である。

結局、男を責めるだけ責めて許そうとしない不寛容は女性には、反省して欲しい。そして本来繊細で弱い男には愛の手を差し伸べて欲しいというのがこの映画のメッセージであるかのようにみえる。実際、主役のジェシー・バックリーも、主人公の女性は、最終的に死んだ夫と再会(おそらく夢の中で)し、彼女の生き方を諭す牧師らと接触することで、みずからの内なるデーモンと折り合いをつけるのだと語っている。なるほど恐怖の一夜が開けた朝、家の前で腰を下ろしている彼女の表情からは、怒りや悲しみや恐怖とは無縁の満ち足りたものがうかがえる。だが、もしそうだとしたら、この映画はとんでもないクソ映画である。

男女差別によって人は死なないと思い込んでいるおめでたい****にはわからないだろうが、DVで殺される女性は多い。DV男は、暴力をふるったあと、たいてい謝罪する。そして謝罪を信じた女性は再び暴力にさらされ最後は殺される。謝罪や話し合いの機会を求めるDV男との直接対面が引き金になって殺人事件にまで発展することはよくある。加害者男性が、自身を、女性の理不尽な激怒と不寛容な姿勢の被害者に仕立て上げたうえで、悪しき女性を処刑するのである。謝罪を信ずるな、謝罪の機会を与えるな、は、いまやDV関連の事件では鉄則ともいえるものだが、それとは反対のことを、つまり男性に対し寛容になれ、女性は怒るなというメッセージを、ぬけぬけと牧師に語らせるのは(たとえその聖職者が悪魔の化身であっても――とはいえ悪魔であるとはどこにも示されないのだが)、映画としてやってはいけないことである。

あるいはセクハラ事件が発覚し、監督や俳優が映画会を追われ、映画が作れなくなった現状に対して、このままでは映画業界が破綻しかねないと、ゆきすぎた告発を憂慮し、謝罪の機会を設け謝罪を受け入れる寛容な姿勢を求めるメッセージが込められているのかもしれない。

ただし、この映画を、そうしたミソジニックで、ただただなさけないクソ映画としないためにも、もう少し大きな文脈においてみることも必要だろう。男性中心主義者のクソメッセージでもあることを決して忘れることなく、クソ映画になっていないこの映画の魅力的な部分を探ってみたい。

夫に自殺された妻のトラウマという物語は、またジェンダーの戦いという古くて新しい、ある意味、永遠のテーマをはらんでいる。

たとえば女性が一人、迫害して逃げ回るというホラー映画の定番的設定も、いくつかバリエーションがあって、近年では、女性がただ絶叫して逃げ回るだけでなく、女性が反撃して犯罪者集団やカルト集団を粉砕するという物語展開をみせるものがある(B級映画が多いのだが)。女性はただ弱いだけでなく、強く反撃能力をもっていることを知らせるという、フェミニズムの影響があるかもしれないが、同時に、このブログでも何度も述べているように、映画の主要なテーマのひとつが少女であるとするなら、少女が苦境を脱して何者にも、何事にも支配されない自由な身でありつづけること、そのために敵対する男性を打倒することは、映画の歴史そのものとともにあるといっていい。

この映画では主人公の女性が男性たちの犠牲になることはなく、むしろ男性たちをすべて倒すことで、女性の復讐という新ジャンルに属するとともに、自律する戦闘少女という映画ジャンルそのものにも属していると言えようか。その壮絶な戦いが、この映画のみどころでもあろう。壮絶というか、戦いは唖然とするほどぶっとんでいるが。

だが、この戦いは、たんにへんな村に迷い込んだ女性に襲いかかる変態村人集団ということではおさらまない異様さがある。それは女性と男性とのジェンダーの戦いという様相を呈してくる。

主人公の女性が訪れる教会の祭壇の前に置かれた石像というか巨大な頭部の石像は、これは典型的なグリーンマン(Green Man, Greenman)のそれである。グリーンマンというのは「中世ヨーロッパ建造物や遺跡などに現れる、葉で覆われた、あるいは、葉で形作られた人頭像」であり、豊穣をシンボライズしているとみられている。

映画のなかであらわれる全裸の男は、グリーンマンの化身であろう(個人的なことをいえば「グリーンマン」については一時期、本などを読んで調べたことがあるので、すぐにわかった)。興味深いのはこの石像というか石頭像の裏側に、裸の女性が自分の陰部を両手で空けている(おまんこぱっくりな)像が刻まれていることだ。

ちょっと興奮した(「おまんこぱっくり」だからではない)。これは、シーラ・ナ・ギグ(Sheela na Gig)の像だ。つまりイギリスやアイルランドの教会、城その他の建築物にみられる女性像で、「外陰部を大げさに表した裸体の彫刻」として説明されるのだが、みればわかるように、女性は自分の手で、おまんこをぱっくりさせている。映画に出てくるこの像は作り物なのだろうが、たとえ作り物でも、シーラ・ナ・ギグ像をまじまじと観たのは、生まれて初めてのことで、驚いた。グリーンマン像とこのシーラ・ナ・ギグ像とは背中合わせになっていて、決して、相手と対面することはない。このグリーンマンが、決して触れることも、交わることもできない女性に対して、なんとか接近しようとあがくこと、それも自分の影を踏もうとしてできないようなもどかしさを伴いながらあがくこと、まさにそれがこの映画のテーマのひとつとなる。

しかしグリーンマンの思索的で威厳のある顔に比べて、その背後に刻まれたシーラ・ナ・ギグは、おまんこぱっくりな(いい加減にやめないかという声も聞こえてきそうだが)、実に淫乱な姿となっている。禁欲的な男と、その男を誘う淫乱女という構造は、なにか男性中主義的な世界観をふんぷんとさせていないだろうか。つまり、主人公が休暇で滞在することになったこの村には、女を性的対象としてしかみない、ミソジニー男たちしかおらず、その世界観が、シーラ・ナ・ギグのおまんこぱっくりな姿に如実にあらわれていないか。

同じ顔の男たちといっても、ロリー・キニアが演じているのは、不動産会社の男、牧師、少年(演じているのは別人だがCGで顔はロリー・キニアになっている)の三人だけだと思うのだが、ちがっていたらお詫びする。彼らが同じ顔なのは、女から観れば、だめ男は、みんな同じだということであろうが、もうひとつ、男が最終的に、あるいはつねに求めているのは、女のいないユートピア、つまり単性生殖ユートピアであることを暗示している。つまり自分のクローンを、同じ顔の男たちを男は求めているのだ。

そう、この映画のさらにもうひとつのテーマは単性生殖である。タンポポの綿毛というか種子が映画のなかでは何度も出てくる。なにか自然現象のように生じたり、ときには主人公の女性の体内に入り込んで彼女を麻痺させるために不動産会社の男が、種子を吹き散したりする。タンポポについては、つぎの記事が興味深い事実を伝えてくれる――

https://gardenstory.jp/plants/42227
タンポポ(たんぽぽ)についてもっと知りたい! 特徴や種類についてご紹介(2020年4月22日)

セイヨウタンポポはもともと外来種ですが、現在では日本各地に分布。日本で確認されるタンポポの8割ほどがセイヨウタンポポか、その交雑種だといわれていて、普段見かけるタンポポも、多くがセイヨウタンポポになっています。(中略)タネの量が非常に多く、果実も小さく軽いので、風に乗って広範囲に広がり、アスファルトの隙間など、生活に身近なところにも多く分布しています。単為生殖によりクローン体をつくって多数に増える半面、環境適応力はニホンタンポポに比べてやや低いそう。


そう、タンポポは単性生殖でありその種はクローン体のもとなのである。

なおもうひとつ単性生殖/自己増殖のイメージを指摘すれば、主人公の女性が、廃墟となったトンネルの入口で、自分の声を反響させることである。自分の発した声がエコーとなって、トンネルの中で消えずに響き渡る(実際には、反対側に出口のみえるトンネルは、洞窟ではないので、エコーは生まれないらしいのだが)。単性生殖のタンポポ、自己増殖するエコー。音のクローン。そしてもうひとつの自己増殖体あるいは自己増殖の夢、クローンの夢――それが男たちの見果てぬ夢となる。

男性それも男性中心主義者のミソジニー男性にとって、最大の不幸は女から生まれることである。男性中心主義者にとって、蔑視している女性を通してしか男性が生まれてこないのは痛恨の極みとしか言えない。そのため、女性になること、いや生殖機能を女性から横領すること、そもそも男から生まれることこそ、男性中心主義者にとって見果てぬ夢となる。

付け加えればクローン(同じ顔をした男たち)は、科学者の男性の、女性を介さない自己増殖実現の夢の実現である。このブログでもクローンのもつ意味を考えたことがあるが、クローンとは何かについて、ジェンダー的観点からの最も基本的な解答とは、同じ顔をした男たちの生産、男性の自己増殖願望あるいは女性を排除したいミソジニー的ホモソーシャル願望の所産ということになる。

以下、ネタバレ注意 warning: spoiler

結局ラスト20分の衝撃映像といわれているのが、まさにこれで、男の身体に膣があり、そこから別の男が生まれてくるという、驚天動地の気色悪い映像がつづく。それはグリーンマンが、決して出会えない、あるいは所有できないシーラ・ナ・ギグにみずから変貌して、男の膣から男を出産するとでもいえようか。どんなにグロテスクにみえようとも、この単性生殖、この自己出産こそ、男性の見果てぬ夢である。おそらくこの村にいる男性中心主義者たちは、この夢を実現していて、女を介ささない自己増殖をしているのである。

この男から男が生まれるグロテスクな単性生殖・自己増殖願望のはてに、主人公の女性の、自殺した男性が現れる。そしてこの男性、元妻にむかってぬけぬけと、おまえが私を殺したのだと言う。そのとき彼女の手には、身を守ろうして手にした小型の斧が握られている。そこからどうなったのかは映画では描かれていない。

自己増殖する男たちの行為は、一種のデモンストレーションで、主人公の女性に危害を加えるためのものではないようだ。最初、牧師が彼女の首を絞めようとするのだが、それがはたせないとなると、彼女の前で、同じ顔をした男たちのひとりが、もだえはじめ、その身体から、男の膣からべつの男が胎児として生まれ落ちる。だが、男たちは彼女に対してなにもしない。最初は恐怖のあまり身構えていた彼女も、ただ男が男を産むだけで、なにもしないことに気づき、あきれ顔になり、うんざりした様子で、その場を離れるのである。

繰り返すが、これは彼女を襲うのではなくて、男も出産ができる、男は男を産むことができる、女から生まれないで男から生まれるということの誇示(デモンストレーション)にすぎない。ある意味、子どもじみた(男の子じみた)自慢・誇示・デモンストレーションである。

そして女性を排除できること、女性がいなくとも誕生できることを証明(デモンストレーション)したうえで、最後に生まれ出た自殺した夫が、元妻に、おまえが私を殺したのだとどや顔で伝える。と同時に、それはまた、女が私をどんなに傷つけ、あるいは殺しても、男は死なない。こうして男性のホモソーシャル連続体によって、あるいは単性生殖によって男性は永遠に生きる、どうか思い知ったか、という、まさに子どもじみた自慢にすぎないのである。

このあとこの元夫を彼女が斧で滅多斬りにしたか、あるいは謝罪を受け入れ和解したかは、わからない。実際問題、これが彼女の夢だったこともあるのだが、悪夢を通して彼女がどういう心境に達したかはわからない。

おそらく誰にもわからないのだろう。ただ、男性と女性との維持のはりあいというだけではすまされない、ある種の神話的・宇宙的なジェンダー対立の闇が、この映画の気色悪い映像と不気味なホラー的設定によってあぶりだされたのは確かである。

そしてもうひとつわかるのは、男はクソだということである。愛すべきクソなのか、許しがたい唾棄すべきクソなのかは判断のわかれるところだろうが、男のクソぶりを提示した映画は決してクソ映画にはならないだろう。というかこの映画をクソにしないためにも、このような読解は必要ではないだろうか。

【追記 ちなみに主人公のジェシー・バクリーの友人なのか妹なのか忘れてしまったのだが、その女性を演じているゲイル・ランキンは、映画をみている間は気づかなかったのだが、このブログでも触れたNetflixのドラマ『GLOW』で、Sheila the She-Wolf役の女性だった。人見知りをするレスラーでリングに立つのをいやがるのだが、電子機器には結構強いとか歌がうまいとか印象的な役どころだった。ちなみに彼女は、いよいよドラマ化された『キンドレッド』(全8話)に登場しているとのこと。
 
ちなみにロリー・キニアにはナショナル・シアター・ライブなどで舞台の演技を観ることが多く、顔をまちがえることはないのだが――『ハムレット』、『オセロー』(イアーゴー役)、マルクスを演じた『ヤング・マルクス』など映画館でみているのだが――、終盤まで、何役も演じていたことにまったく気づかず。

とはいえ、こういうことを書いているくらいだから、映画をけっこう面白がったのかといわれれば、確かに面白い映画ではあった。
posted by ohashi at 17:53| 映画 | 更新情報をチェックする

2022年12月09日

エルメスの毛布

ヘンリー王子夫妻のNetflixのドキュメンタリー番組について、日本のテレビでもとりあげられていたが、そのことに触れた以下のようなネット記事があった。

デーブ・スペクター氏 ヘンリー王子夫妻ドキュメンタリー番組にツッコミ「泣いてる後ろにウン十万の毛布」
スポーツニッポン新聞社– 12月9日 16:17

 放送プロデューサーのデーブ・スペクター氏が9日、日本テレビ系「情報ライブ ミヤネ屋」(月~金曜後1・55)に生出演し、英王室を離脱したヘンリー王子とメーガン妃のドキュメンタリー番組にツッコミを入れた。

 ネットフリックスで8日に公開された「ハリー&メーガン」は、ヘンリー王子夫妻が王室との亀裂が深まっていく様子を夫妻の視点で描いている。ところが、制作された2本の予告編ではさっそく、物議を醸す演出やフェイク動画の存在が取り沙汰されているという。

 映像では、夫妻がパパラッチに追われていることを象徴する姿として、大勢のカメラマンが待ち構える場面が使われているが、この姿は実は映画「ハリー・ポッター」シリーズの先行試写会イベントのもので、夫妻とはまったく無縁だった。夫妻と長男を隠し撮りしたかのような映像も使われたが、取材許可を得て撮影されたものだった。合計2分の予告編で、フェイクと疑われるものが4カ所もあったという。

 こうした映像について、デーブ氏は、「番宣と同じなので、多少脚色した、オーバーな印象を与えないといけない」としつつ、「ただ、間違いがあってはいけない」と指摘。「これだけ2人が肉薄されて、細かくチェックされるわけですから、メディアに。少しでも誤解を与えるものは最初から省くべきだったのに、入ってるわけですから、失態ですよね」と首をかしげた。また「正しい映像や写真を付けないと、全体の信ぴょう性がなくなりますね」とも話した。

 デーブ氏は既に本編を見たという。「個人的に見た時に完成度は高いので、特になれそめ、デートのエピソードは楽しく。作りはいいんですよ、さすがに」。映像部分に関して評価はしたものの、「だけど、中立性に欠けていますよね」と苦言を呈した。

 デーブ氏は予告編の中に、気になるシーンがあったという。パパラッチに追い回されたとされるメーガン妃が、ソファに座って顔を覆って泣いている場面。「“私はかわいそうでしょう?”と、メーガン妃がさっきのシーンで泣いているんですけど、その後ろをよく見ると、ウン十万もするエルメスの毛布が置いてあるわけですから、どこがかわいそうかな?っていう」とツッコミ。(以下略)


このエルメスの毛布についてのコメントは、デーブ氏の個人的な意見ではなく、番組そのものも(私はリアルタイムで番組を視聴していた)用意していたので、ネット上ですでに言われていることを伝えたに過ぎないのだろう。

ただ、それにしてもネット上のつっこみ、気が狂っているとしか思えない。

もし、「私はお金がなくて困っている」と嘆いているとき、その後ろに高価なエルメスの毛布が置いてあるのなら、どこが貧乏なのだと批判されても当然である。

しかし悲しいことがあっても裕福な暮らしをしていれば気にならない、慰められるとでもいうのか。あなたの愛する家族が死んだとしても、贅沢な暮らしをしていれば悲しくなくなるのか。暴漢にナイフで刺されてもエルメスの毛布がそばにあれば、痛くないとでもいうのだろうか。

貧乏で悲しんでいるのなら裕福で贅沢な暮らしをすれば癒やされるだろう。しかし、それ以外の悲しみが、裕福で贅沢な暮らしで癒やされるはずもない。

そもそもメーガン妃が泣いているシーンで、彼女の後ろにエルメスの毛布が置いてあるというのは(Hの文字でエルメスだとわかる)、Netflixの演出であろう。Netflixが毛布を用意したわけではなく、この構図の画像が効果的であるとして採用したはずである。エルメスの毛布を使うような裕福な暮らしでも消し去り慰めることのできない深い悲しみ。それが演出の意図であろう。

悲しみの深さや大きさを効果的に伝える演出だったはずが、ただのバカか悪意あるつっこみしか眼中にないネット上のクズどもの前にはまったく逆効果だったわけだが、愚かなのは、ネット民というクズ人類であることはまちがいない。

ほんとうに、ばかばかしいくだらない言いがかりが最近は多い。嘆かわしいことに。

posted by ohashi at 22:03| コメント | 更新情報をチェックする

2022年12月04日

『守銭奴』

11月30日東京芸術劇場プレイハウスでモリエール『守銭奴』(翻訳:秋山伸子、演出:シルヴィウ・ブルカレーテ、主演:佐々木蔵之介)を観る。

シルヴィウ・ブルカレーテ演出の『真夏の夜の夢』は、コロナ禍での自粛中で観ることはできなかったが、ブルカレーテと佐々木蔵之介のコラボとしては前回の『リチャード三世』もよかったのだが、今回の『守銭奴』は、それをさらに上回るポップな舞台となっていて、また、佐々木蔵之介の舞台を全部見ているわけではないので、軽々しいことは言えないのだけれども、ベストなパフォーマンスのうちの一つであることはまちがいないと思う。

ただしポップなといっても、チラシとかポスターにあるような佐々木蔵之介がまるでロックバンドのスター/ヴォーカリストに扮するような設定とはなっていない。このポスターから連想されるような舞台を期待した観客は肩すかしをくらうのだが、佐々木蔵之助演ずる守銭奴は、高齢だが元気いっぱいの老人であって、モリエール劇の設定を崩してはいない。

モリエールの『守銭奴』は、『タルチェフ』とか『ドン・ジュアン』などと並ぶ代表作のひとつなのだが、内容を忘れていて、私個人にとっては新作の芝居をみるのと同じであった。全体の半分以上が室内劇で、カーテンのような薄い幕を移動させて舞台空間に変化をもたせている。これは、迷宮のような空間で秘密裡に事がすすむのだが、しかし陰謀は観客にはもちろんのこと周囲の登場人物にもどこか筒抜けになっているという隠蔽と開示の二重性を、半透明の薄い幕を壁に見立てることで見事に再現したともいえる。そしてここに17世紀のフランスの新古典主義演劇のテイストが感じられるとは言えないだろか。

内容を忘れていたのだが、劇も終盤になってから、ようやく思い出すことができた。それは、離ればなれになっていた家族が再会するというローマの新喜劇の定番的な設定が明らかになったときである。

シェイクスピアも使っていたこの一族再会の大団円は、最初は奇跡的な再会として感動もするのだが、デウス・エクス・マキナを多用したエウリピデスと同じように、ローマの新喜劇も一族再会を多用することにこだわっていることと知ると、その理由は何かと理解に苦しみ、しらけてしまう――生き別れになった親子兄弟姉妹が、気づくと同じ一ブロックのなかに互いに何も知らずに暮らしていたという設定は繰り返されると鼻につく。

今回の舞台でも、この取って付けたような一族再会の部分は、異化効果をもたらすレヴュー形式のようなものとなっていて、違和感満載の異物と化すような演出をなされていた。たとえ取って付けたような設定でも、この一族再会(まさに喜劇におけるデウス・エクス・マキナの等価物)はカオス的なまでに混乱の極に達した物語に決着を付ける重要な喜劇的装置なのだが、今回の演出は、このご都合主義を認めていないどころか茶化しているようなところがある。

となると、この一族再会設定の対極にあるものとして、そんなロマンチックな奇跡物語など歯牙にもかけない主人公の強欲ぶり吝嗇ぶりが、逆に強烈に際立つことになる。

守銭奴の主人公は、その強欲ぶりというかドケチぶりによって、奇跡的・ご都合主義的奇跡物語に絡め取られないリアルの論理を体現することになる。歩くリアル。そうなると主人公は浮ついた偽善的ロマンスを粉砕するリアルそのものではないだろうか。

ただし西欧の喜劇の伝統からすると、「守銭奴」は、大言壮語したり威張り散らすアラゾン型の人物で、最終的には、つっこみ担当のエイロン的人物にしてやられるのであるが、こうしたステレオタイプ的なストックキャラクターでつくる芝居(その起源はアリストパネスらのギリシアの旧喜劇)に、一族再会というローマの新喜劇とを合体させたのがモリエールの『守銭奴』といえるだろう。問題は、ギリシア旧喜劇起源のアラゾン型人物の喜劇と、ローマ新喜劇の一族再会物とが、うまく融合していないこと。たがいに異物として相手を退けているところがある。それは二系列の喜劇の伝統の緊張関係というよりも統合の失敗それも意図的な失敗といえようか。それは仕組まれた分裂なのである。

おそらくそれは資本主義社会の、たがいにまじわることのない両面ともいえるだろう。一族再会物語にみられるご都合主義的なハッピイエンディングと、それとは別次元の貨幣経済における非人間的強欲さとが、その実、資本主義社会の両面いや両輪なのだ。問題は両輪にもかかわらず、たがいに敵どおしであるかのようにこの運命の両輪はふるまっていることなのである。そうした偽善をモリエールはこの芝居でついているのかどうか私には判定できなとしても。

付記:「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一には、いわゆる「妾」が3人いたことが知られている。人格者として知られ、自ら、儒教に範をとる道徳的資本主義を説いた渋沢のこの事実は、渋沢存命中には多くの知識人を動揺させたという。

しかし資本主義というのはそういうものだろう。どんなに道徳的資本主義あるいは商道徳を力説しようとも、資本主義の、その「生めよ増やせよ」の思想は、男性中心主義、つまり女性の身体の容赦なき搾取を前提としていた不道徳極まりないものであった。さすがに渋沢は日本資本主義の父である。日常的に女性の搾取を実践することが資本主義の実践そのものであることを知っていたのである。徳と身体搾取との関係は追求されねばならない。それが資本主義の本質なのだから。そして徳と身体搾取との併存のなかに真実があることを常に念頭においておかねばならない。異物の併存のなかの真実、それがモリエールの教えかもしれないのだから。
posted by ohashi at 14:47| 演劇 | 更新情報をチェックする