11月11日、劇団昴の公演『ラビットホール』を観る。デイビッド・リンゼイ=アベアー作、訳・演出:田中壮太郎、会場:Pit昴/サイスタジオ大山。キャスト:岩田翼、あんどうさくら、坂井亜由美、町屋圭祐、要田禎子。5人芝居。
この作品は映画版があり、日本でも公開された。『ヘドヴィグ・アンド・アングリー・インチ』(2001)のジョン・キャメロン・ミッチェル監督の映画『ラビット・ホール』がそれで、日本での公開時に見そびれたので、ブルーレイ版で観た。評判の映画だったが、ゲイの話ではなく、子供を失った夫婦の話で、それをゲイの寓意と読み取ることにも躊躇があって、映像美はべつにして、内容は、あまり印象に残らなかった。そのため劇場版(こちらのほうが原作だが)を観ることにも躊躇があって、気づくと、公演が始まっていてが、チケットがまだ残っていたようなので、金曜日(5回目のコロナワクチン接種の翌日)に観ることができた。
【なお幼い息子を交通事故で失った夫婦の話だが、これをゲイの人間の悲哀とメランコリーの寓話と読み直すことができないわけではない。そのような解釈は、不可能ではないのだが、今回は試みない。】
観てよかったし、『ラビットホール』の原作はこうだったのかと正直驚き、また納得もした。映画版では多くの人物が登場するし、犬も登場する。いっぽう劇場版では、夫妻の邸宅のダイニングとリビングという一間でアクションが展開する(犬は吠え声だけ)。登場人物も5人のみ。そこでの4人の家族(夫婦と、妻の妹と母親)の会話で、この一見、どこにでもありそうなアメリカ中流家庭に何が起こり、その余波がどうつづいているのか、わかるような仕掛けになっている。
劇場版における会話のなかにちりばめられた情報というか、劇場版が、台詞というかたちをとって保存している情報が、映画版では、その情報をもとに形成されたホログラムのように立体視されるとでもいえようか――とはいえ舞台という立体的空間が二次元情報の基盤となり、映画という二次元スクリーンが、ホログラム的な立体像の場となるというのは、やや無理のある比喩かもしれないのだが。
あるいはこの作品にそくしていうと、映画版と劇場版は、パラレルワールドになっていて,基本的人間関係に違いはないが、細部は異なっており、ふたつのヴァージョンが補完しあっている。たとえば劇場版では、子供を失った親たちが、苦しみや悲しみを語ることで、子供の喪失を残り超えていく支援の会で知り合った女性と夫との関係が、劇場版での台詞では、誤解されやすいがあくまでも精神的に支えているだけの関係でしかなかったのだが、映画版では、その女性と夫とは一線を超えそうになる。つまり不倫に近いものだった。
主人公ともいえるベッカ(たぶんレベッカの略称)/あんどうさくらの妹イジーは、映画では強烈な個性のわりには出番が少なく影も薄いのだが、劇場版でのイジー/坂井亜由美は、姉とのからみをとおして、大きな存在感を漂わせていた。姉妹の母親、ナットは映画版では米国では有名な女優ダイアン・ウィーストが演じていたが、むしろその変人ぶりでは劇場版のナット/要田禎子のほうが目立っていた。
ベッカの夫ハウィーは、映画版ではアーロン・エッカートが演じていて、けっこう癖の強い夫だが、劇場版の岩田翼の夫は、好人物で、不穏な感じはしない。もっとこれは、私たちがたぶんCSを見るとき、おそらく必ずみているというかみてしまうチューリッヒ自動車保険のCMで岩田翼の顔をみているからかもしれないからであって、演出上は、妻と同様、いらつき気が短く、息子の死というトラウマから立ち直っていない夫なのかもしれないのだが。
この家族の四歳の息子を事故で死なせてしまった少年ジェイソンは、劇場版のジェイソン/町屋圭祐は、鈍感(というのもアルジャーノンが入っている気がしたので)だが純情というような役回りだったが、映画版を今見直して、なんとマイルズ・テラーが演じていたので驚いた。これが彼のデビュー作のようだ。マイルズ・テラーとは誰だと思われるかもしれないが、『セッション』のドラマー、最近では『トップ・ガン――マーヴェリック』にも出演している俳優といえばわかるだろうか(個人的には彼が出演していたボクシング映画『ビニー』とか涙なくしてはみれない映画『オンリーザブレイブ』での役柄が好きでもあるのだが)。映画版のジェイソン/マイルズ・テラーは、劇場版と同じく高校生だが、内向的な面と普通の高校生との二面生をもちつつも、ややサイコパス的な臭いもする不思議な少年で、この演技が着目されたのは、わかるような気がする。
ちなみに劇場版のジェイソンが書いているのはSF短編小説で雑誌に掲載予定。いっぽう映画版のジェイソンが描いているのはコミック。パラレルワールドの描き方については独創性を感ずるのだが、あの絵柄はアメリカンコミックでもグラフィク・ノヴェル(バンドデシネ的な)でも通用しないと思うのだが、あくまでも個人的な趣味で描いているという設定のようで、印刷刊行するつもりはないらしい。
小説からコミックへという設定の変更は、映画表現におけるなじみやすさを考慮したものだろうが、劇場版の息子の映像が入ったビデオテープを消してしまうという設定は、映画では携帯の動画を消すというように設定が変えられていた。死んだ人間を思い出すことのできる録音テープとかビデオテープを誤って消してしまうというのは、こうした物語では定番の設定である(現実にもよくあることなのだが――私自身の家族にも同じことが起こった)。ただそれにしても今風に設定をかえるとして、携帯の動画をどうしたらまちがって消すことができるのだろうか、スマホ初心者の私にはわからない。そういう初心者が誤って消してしまうのだと言われそうだが。またいまやビデオテープの時代でもないので、これはやむをえない設定変更なのだろうか。
四歳の息子を失ったこの夫婦に、やがて、その悲しみや怒りを克服して前にすすむ時が訪れるというのこの劇なり映画を観る者が当然抱く予想となるのだが、はたして観客を納得させるかたちで、夫婦が克服できたかどうかと言われると、むしろ克服などできてないというようにも思われる。
原作の戯曲も、またその映画化作品が評判になったのは、夫婦が悲しみを克服したかにみえる結末ゆえにではなく、たとえ克服できなくとも、そのプロセスが丁寧に描かれているからであろう。子供を失ってから8ヶ月めの夫婦にどのようなことが起こるのか。それを丁寧に提示していることがこの作品(劇場版であれ映画版であれ)の特徴であるといえる。
もちろん言うまでもなく映画的テーマ・物語のうち、特筆されるべき二つとは、メランコリーの風景、そして何物にも回収されない少女というテーマ・物語である(後者は、この作品のタイトル『ラビット・ホール』から、不思議の国のアリスが想定されていることからもみてとれる。アリスは映画的世界の女神である)。したがってメランコリーからの脱出より、むしろメランコリーの光景を丁寧に描くことに、映画の力点があるので、悲しみの克服ではなく克服へと至る/至らないプロセスこそ重要であるのはいわずもがなのことかもしれないとしても。
【映画の永遠のテーマのひとつが少女であるというのは、もっと強調されてよいと思うのだが、同時にこれは空気のような当然のこととして共有されているのかもしれない。比較的最近の例としては、『千夜、一夜』(久保田直監督、2022年)がある。夫が失踪してから30年も待ち続ける妻を演ずる田中裕子は、夫を待つという口実のもとに、再婚の話を拒み続け、誰にも(老親にも)支配されない自由な女を全うする、つまり誰のものでもない少女でありつづける。そしてこれは田中裕子という女優がこれまで映画のなかで演じてきた少女性の物語の延長線上にもあることは忘れてはならない。】
たとえば、また息子を作ればいいというのは、何の慰めにもならないどころか、新しい子供をつくることへの抵抗感を生み、セックスレス夫婦になることも理解できた。この映画のなかでは子供を失ったショックで、夫婦はセックスレスになるのだが、それはまた妻が少女化することも意味していた。少女といえば、この妻の妹の方が少女というか不良少女らしさを醸し出しているのだが、その妹が妊娠したと知った姉つまりこの作品の主人公は、子供を育てた大人の女性として妹のことを心配もし、また軽蔑したりもするのだが、しかし姉である彼女自身が、スーパーで、見知らぬ女性をひっぱたいたりして、子供っぽい妹に近づいてゆく。逆に妊娠した妹が成熟した女性となるのと反比例して。
ただいずれにしても作品のタイトル『ラビット・ホール』(劇場版のタイトルは『ラビットホール』と中丸がない)から、主人公の女性がアリスという少女の同位体であることが暗示されている。つまり主人公は、何物にも支配されず、何物のにも還元されることのない悲しみと怒りをかかえた少女としてのアリスなのだが、この少女性は、映画版のニコール・キッドマンよりも、劇場版のあんどうさくらのほうが適役のように思えた――個人的な感想として。
また少女性とはべつに、死んだ息子の代用あるいはその不可能性については、10月に観たキャリル・チャーチル作『A Number』を思い出す。
そこでは、幼い息子を失った父親が、息子のクローンを作る。また子供をつくればいいというのは選択肢には入らない。かけがえのない息子の代用となるものは、もうひとりの息子ではない――その証拠に、長男が死んだあと、次男が生まれても、次男に長男の名前はつけないのがふつだろう(詳しいことを聞く機会は失われたのだが、私の父は長男だということだったが、名前には太郎とか一郎といった長男の名前がついておらず、次男系の名前がついていた。つまり私の父には死んだ兄がいた)。もし代用となるものがあるのなら、それはクローンである。ただし科学技術が発達し、人間のクローンをつくることが倫理的に容認されている場合の話だが。
これもクローン映画『デュアル』では、不治の病で若くして死ぬことになった娘が、両親と許婚者のために自分のクローンを残すことになった。クローン物のB級映画『エリザベス・エクスペリメント』(2018年、『エリザベス∞エクスペリメント』の邦題もあり。原題は
Elizabeth Harvest)ではマッドサイエンティストが作るのは若くして死んだ自分の妻だった。かけがえなのない愛する人を失ったとき、そのクローンを作るというSF的設定は、いまの現実にとって、つまり人間のクローンをつくることが許されてない現実にとって、子供が死んだので、また子供をつくることは選択肢にはいらないばかりか、死んだ子供の代用はないことを意味する。ならば、悲しみは癒やされることはない。
その癒やされることのない悲しみを克服する方法は、ないわけではない。時間の解決。あるいは普遍化。そして必然化。
必然化あるいは理由付けというのは、たとえば幼い子供は事故によって偶然命を奪われたのではなく、神によって天使として召されたのだというように意味付けることである。劇場版でも映画版でも主人公の女性は、こうした考え方を軽蔑している。あるいは偶然の事故ではなく意図的な犯罪であったという理由付けもある。海運王オナシスが、24歳の息子の命を奪った航空事故が偶然の事故ではなく意図的な犯罪行為であることを証明した者に大金を払うと宣言したように、たとえ犯罪の犠牲者としてでも意味づけられれば救われるのかもしれない。このオナシスの例はこの作品のなかで主人公の母親が話す逸話(知らなかったが、けっこう有名な話のようだ)である。
意味づけられれば救われるという考え方もあれば、意味がないほうが救われるという考え方もある。私たちが生きているこの世界に究極の意味があると救われると考える人と、そんな究極の意味がほんとうにあれば、私たちの自由が奪われ、生きにくくなると考える人もいるだろう。
普遍化というのは、どんな大きな悲しみでも、それは誰もが経験することだという考え方。ひとりで大きな悲しみを背負い身動きがとれなくなっている時、誰もが同じことを経験してきた、あなたひとりの悩みや悲しみではない。みな同じ悲しみや悩みをかかえて生きているというのは、慰めにもなるだろう。もちろんこの作品では、主人公の母親は、自分の息子(30歳を超えた息子で、主人公の兄)を失ったことと、主人公が4歳の息子を失ったこととを同列において比較することで、主人公から猛反発される。主人公の悲しみは、何物にもかえがたい悲しみであって、その特異な個別性をなし崩しにするような発想は、死んだ息子に対しても、また自分自身に対しても一種の冒涜のように感じられるのである。
普遍性あるいは一般性の相のもとで考えることの同位体が時間による解決という考え方である。愛する者の死は、時がたつにつれてその痛みが消えてゆく。時の解決というのは、たとえ受動的なものであれば、悲しみの克服である。劇場版で語られたかどうか、映画版とまざってしまって定かでないのだが、主人公の母親がいう印象的な例え話としては、大きな悲しみは大きな石の塊のようなものであるが、時がたつとそれは徐々に小さくなる。だが、小さくなっても、それは消えない。ポケットの中の小さな小石として残る、と。これは悲しみは時の経過とともに癒えるのだが、完全になくなるわけではないということになる。
主人公も、この例え話に、ある程度、説得されているようにみえるのは、悲しむ人は、悲しみを癒やしたい、あるいは悲しみを消したいと願っているのだが、同時に、悲しみが完全に消えることまでは願っていない。悲しみは愛する人の記憶そのものであって、その記憶は消したくはない。あるいはトラウマに悩む人はまた、過去の忌まわしい記憶が再発することを一方で望んでいる。トラウマの完全な消滅は願っていない。悲しみは、克服したいが、同時に、小さくなっても残していたい。なぜなら悲しみであれトラウマであれ、それはアイデンティティの一部、個性を保証するものであるからだ。身体に傷を負う者が、痛みはなくなっても、その傷跡をつねにいじっているようなものである。
しかし、この作品は、さらに予想もつかない解決案をぶつけてくる。パラレルワールドである(原作発表当時、マルチヴァースという言葉はなかったと思う)。この宇宙には、いまある宇宙と同じような宇宙が無限にあって、そうした宇宙では、親子が息子と幸せに暮らしていることもありうる、と。パラレルワールドは、量子力学をもちださなくても説明できる可能性として示される。もし宇宙が無限の広がりなら、その無限の空間のなかでは何でも起こりうる、あるいはあり得るからである。無限の空間は、すべてを一様に均してしまう一方で、あらゆる奇跡を可能にする。この無限の宇宙では、私たちの世界と寸分たがわぬ世界あるいは同じような世界があってもおかしくないのである――無限の宇宙であるのなら。
問題は、だからといって幼い息子を失った悲しみは癒えるのかということである。この宇宙には、幼い息子が死なずに両親とともに暮らしている世界があるかもしれない。たぶん、理論的には、そうなるだろう。だが、そう考えることで、どうして救われるのだろうか。
これは大局的にみるのとは少し違うような気がする。たとえば、いま、このときどんな深い悲しみに襲われようとも、いま世界が終わるのように感じても、長い人生という視点からみれば、いずれ思い出に変わる一エピソードに過ぎないと考えることで、癒やされることもあろう。ただ、時がすべてを解決するとすれば、そのときまでに耐え忍ぶしかないし、結局それに耐えられないかもしれないので、時の癒しの考え方はまちがっていないとしても癒しの特効薬ではない。
また喪に服す者は、悲しみを消し去りたいと願いつつも、悲しみを失いたくはない。悲しみがなくなる未来は、到来して欲しくないとも願っている。となると、大局的にみれば大きな衝撃もいずれいやされ消えるという考え方は、なにか未来だけを優先して現在の独自性を消去するかのようにもみえてくる(もちろん、いまとここから抜け出したいという願望を充足させるという面は無視できないとしても)。
これに対してパラレルワールドは、理論的にはあり得ても、私たち自身にとって関係のない現象なのだが、救いめいたものはある。これもまた大局的な価値観なのだが、たとえばいまの私がどんなに不幸にみえても、私よりももっと不幸な人間はたくさんいる。そう思って自分を慰めるというのは、なにか差別的で卑しい心性のように思える。また、逆に、今の不幸な私よりも、もっと幸福な人間もたくさんいるだろうと思うと、悔しいというか妬ましい思いがわき上がり、自分の下劣な品性を思い知って自己嫌悪に陥りそうになる。
ところがパラレルワールドの考え方は、私よりも不幸な人間や私よりも幸福な人間も、実は私自身なのである。他人事ではなくわたくし事なのである。となると、あきらめるしかない。私よりも不幸な私をあざ笑うこと、あるいは私よりも不幸な私の身代わりになること、いずれも意味がないし、不可能である(パラレルワールドは簡単に横断などできない)。そもそももう一人の自分をさげすんだり、妬ましく思ったりしても意味がない。自分は自分でしかなく、もし私が深い悲しみのなかにあるのなら、それは私の割り振られた運命なのだから、受け入れるしかない。また私がこの運命を受け入れることで、私よりも幸せな私自身も確保されるのだとしたら、私は、私自身に奉仕することになる。
これは、パラレルワールドの存在がいくら科学理論的に証明できるとはいえ、結局、神による試練だとか、神慮といった宗教的運命観と選ぶところがないというのなら、その通りである。ただ、これは私と私の悲しみの個別独自性を、変形したり消去することなく、温存するというか、持続可能な形で維持できる考え方である。つまり悲しみが癒やされる癒やされることはないということが、悲しみを癒やすことになるのだ。私と私の悲しみは、唯一無二のものであって、いかなるかたちで普遍化も一般化もできないし、また遠い将来に回顧されるような良き思い出的な、ささやかな一挿話に終わってほしくないと願っている私にとって、パラレルワールド宇宙は、大局的な視点によっても消え去ることのない、というか大局的な視点によってはじめて可能になる私の個別性ゆえに、望ましいものとなる。
パラレルワールドにちらばる複数の私が、私の一回性や個別性を確保するという特異な関係から、救いとなるような諦観が生まれるのは皮肉といえば皮肉なことである。
もちろん、パラレルワールド観を消し去っても、同じことはいえるだろう。私よりも不幸な私や私よりも幸福な私はいたかもしれないが、いまの私は、どちらでもないのだから、この運命を受け入れるしかない。私よりも不幸な私には涙を禁じ得ないし、私よりも幸福な私には、その幸福が長続きするよう心から祈る。そしていまとここの私は、ありえたかもしれない私のことを念頭におきつつ、いまの自分に向き合うしかない。これが運命だったのだと。偶然であれ必然であれ、私はこの運命と向き合うしかないのだ、と。
結局のところ、これは神の摂理など神が与えた試練だのという宗教的解釈の延長線上にしかないのかもしれない。ただ、運命を意味付け正当化するような宗教的解釈とは異なり、逃避することなく現実と自分自身の境遇に向き合う姿勢だとも言えるのだが、しかし、実は宗教的解釈も不幸に意味づけることで不幸を消去するのではなく、なぐさめつつも、不幸を忘れず、不幸と向き合うことを求める呼びかけかもしれないのだ。神のあたえた試練という宗教的解釈とパラレルワールドのひとつであるという科学理論的解釈――後者は、この作品に唐突にぶちこまれた世界観・宇宙観の様相を呈することはすでに述べたとおりだが、偽装された宗教的解釈であり、逆に宗教的解釈も偽装された疑似科学理論的解釈なのであって、両者は連携しているとみることもできる。
パラレルワールド観は、また自分自身の運命と向き合うほかに、自分自身の運命を突き放してみる、ある種の超越的な観点も提供してくれる。私よりも不幸な無限にありうる私、私よりも幸福な無限にありうる私――こうなると今の私は無限の可能性のうちの、ささやかな一つに過ぎない。貧乏くじを引いたようななものなのだが、これが私に割り振られた役どころというのであれば、そしてそれは他のパラレルワールドの私とは取り替えることのできないものであれば、このかけがえのない役どころ、この運命を最後まで演じきることが私の使命であり、それが私を私とするアイデンティティなのだ。これは大局的にみながら、みずからの運命を、いかなる意味付けも拒む偶然としてみなすことで突き放しつつ、そこに回帰する。いうなればシナリオを演ずるようなものである。この世界は最後まで決められているシナリオであり、私にできることは、そこでの役柄を最後までやりとげることである。なんという悲しい諦念なのだろうか。しかし、この演劇的世界観は、私を役柄とみなすことで、自身と距離を置くことで、救いが生まれるのである。
映画版では、子供をなくした親の支援の会で知り合った女性(劇場版であやしい関係ではないかと目撃者からの話が紹介されるだけであるが)が、話のなかでなく、実際に登場し、主人公の夫と深い仲になりそうになる。サンドラ・オーが演じているのだが(サンドラ・オーを私は『キリング・イヴ』よりも遙か昔『ブルーイグアナの夜』(2000)の頃から知っていて、アジア系であるがゆえかどうかわからないのだが20年以上も前と今とであまりかわらない不思議な女優である)、彼女と意気投合するなかで、大麻を吸って支援の会に出かけるのだが、子供を失った胸中を告白する夫婦の話を聞いて、大麻の影響からは大笑いをするのである――笑っていることを気取られないようにするのだが、それもむりとわかって退席する。
子供を失い悲嘆に暮れる夫婦の告白は、べつに滑稽な話ではなく、大笑いするのは全く場違いであるのだが、このエピソードは重要である。薬物の効果とはいえ、深刻な話を笑いとばすのは、悲劇から距離を置くことになる。そしてこの距離化、あるいは超越化は、克服し、前に進むための第一歩となる。
ただし、薬物による作用によって笑い転げたとしても、作用が消えれば笑い事ではなく、憂鬱な現実がつづいているだけである。しかし、一瞬垣間見られたこの笑い事ですませる可能性は、観客に考えさせられる材料を提供する。実際、劇場版であれ映画版であれ、夫が最後に話す、以前と同じ日常生活を取りもどすために、子供の死を克服したかのようにふるまう演技的可能性は、悲しみの真の克服ではないと同時に実はそれが克服でもありまぎれもなく前に進むことだという二重性を帯びるのだが、それがこのドラマの到達点なのである。
ここで勝手に思い出したのは映画『日々是好日』(大森立嗣監督、2018年公開)における茶道の考え方。禅における「日々是好日」の解釈とは異なるかもしれないが、茶道においては日々の葛藤や悲哀などはとうに克服され心安らぐ日々に到達したかのようにふるまうことが重要で、そうすることで平穏な日々が得られるということだった。
たとえ歴史が終わっていなくても、歴史が終わったふりをすることで、歴史を終わらせる。悲しみを克服できていないのに克服できたかのようにふるまうことで悲しみが克服できてしまうということである。これは演技によって虚偽を生きたりするということではない。あるいは演技によって真のありようを忘れてしまうという自己欺瞞の話でもない。そうではなくて克服できないものを克服するということは、闇を抱えながら、悲しみを抱えながら、それが克服できているかのようにふりをすること、悲しみとともに生きることが悲しみを克服することである。ウィズ(with)悲しみ(軽薄な言い方を許してもらえるのなら)こそが悲しみの克服なのである。
劇作でも映画でも、夫婦は死んだ息子の思い出がつまっている邸宅を売り払うことはしなかった。そこで生きること。そして途絶えていた近所づきあいを始めることで、前に進もうとする。おそらくそれは可能であろうという予感で終わる(映画版では、実現した近所づきあいの復活が、映像化もされるのだ)。夫婦の日々に、平穏な日常が回帰した。ただし、その日常にはぽっかり穴が開いている。それまでは、その穴を塞ごうとする悪戦苦闘、その穴にはまってしまうことを回避すること、あるいはその穴に引きずり込まれることを望んでいたりと、その穴に苦しめられた。言い方を変えれば、幼い息子の事故死以後、夫婦や親族の生活は、ささいなことで感情の爆発を繰り返すことになった。また夫婦の絆は切れそうになった。不穏な日々がつづく。だが、その穴とともに生きうることを選択するようになることで、その穴は克服され、平穏な日々が復活するのである。
ラビットホールとともに生きる人生。
だが、救いは、もうひとつあった。(つづく)