2022年11月28日

「寒い、寒いぞ、寒いんだよ!」

11月27日に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のなかで、生田斗真扮する源仲章の斬られてからの断末魔の叫び「寒いんだよ!」が話題になっているのだが、生田斗真自身、そのセリフをもらったときの戸惑いを語っている。

<鎌倉殿の13人>“仲章”生田斗真「台本読んでびっくり」 断末魔の叫び「寒いんだよ!」 「こんなにもすてきなせりふ」と感謝も  11/27(日) 20:51配信 MANTANWEB

 俳優の小栗旬さんが主演を務めるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(総合、日曜午後8時ほか)第45回「八幡宮の階段」が11月27日に放送され、源仲章(生田斗真さん)の最期が描かれた。

 鶴岡八幡宮の大階段で、義時(小栗さん)と間違われて公暁(寛一郎さん)に斬られ、命を落とした仲章。

 同役を演じた生田さんは「台本を読んでびっくりしたんですけど、仲章の最期の断末魔というか、最期のせりふが『寒い、寒いぞ、寒いんだよ!』というせりふなんです」と明かす。

 その上で「普通はやられたときのシーンって、『なぜだ!』とか『貴様!』とかそういうせりふのような気がするんですけれど、三谷(幸喜)さんのセンスというか独特の感性で、こんなにもすてきなせりふというか、すてきなシーンをいただいて、冥利に尽きるなという思いでやらせていただきました」と感謝。

 「あんなに大きな階段のセットも、ワクワクするような撮影になりましたし、すごくいい日に、思い出深い日になりました」と振り返った。

なお他にも生田斗真の次のようなコメントを掲載しているネットニュースもあった。

また、最期の台詞「寒いんだよ!」に込められた思いについて「仲章は太刀持ちの役割を半ば強引に義時から奪い取るような形で務めるわけですけど、『思ったより寒かった』というのもあると思うんですよね。本当に寒くて、『なんでこんなに寒いんだよ、こんなんじゃ代わるべきじゃなかったな』という怒りもあるだろうし、その『寒いんだよ』の裏には『俺じゃないだろ!なんでお前、間違えたんだよ。なんで俺が斬られなきゃならないんだよ!』という思いもあった。そして、こんなところで自分の人生は終わってしまうのか、こんなはずじゃなかったんだという悲しみの叫びでもあると思います」と明かしていた。

ここにあるのは、「寒い」のメタファー的な解釈であり、また雪の降る一月の外気温の寒さへの言及である。

ただ、私のような老人の感想をいうと、ドラマのなかで「寒い、寒い」と言って死んでいく人物は、けっこういたと記憶する。

それは、たいてい、外気温が低くない状況のなかで発せられるがゆえにけっこう印象的であり、またそれは100パーセント、メタフォリカルな内面感情でもなくて、身体的・生理的現象であるかにも思えて、不思議な感じがしたものである。さらにいえば、ドラマにおいて、死に際のセリフのお約束というか約束事のセリフの一つであるようにも思え、それ以上の詮索を阻む観がある――約束事だからしょうがないというような。

今回、この問題に対する解答はないのだが、ドラマのなかで「寒い」といって死ぬ人物は、近年はみかけなくなったが(生田斗真の記憶にはなかったようなのだが)、昔はけっこういたことは繰り返し述べておきたい。

その証拠として、Yahoo知恵袋で、こんな質問をしていた人がいた。

yahoo!知恵袋
hkv********さん  2014/5/14 19:56

人が死ぬ時、寒い? 暑い?
映画とかドラマでたまに「寒いよ~」とかいって死んでいく人いるけど、
ふつう「寒く」感じるのは発熱とかで体温上昇する時じゃないですか?

死ぬとゆうことは体温下がるわけだから逆に「暑い…あ~つい!!、
クーラー入れんかい!!」とかほざいて死んでいくのが普通だと思うのですが…

体温下がるとやっぱ「寒く」感じるんすかね。それとも死ぬ間際だけ
体温上がってぽっくり逝ってから体温下がる仕組みなんですかね。

死んだご経験のある方、回答お願い。


これは『鎌倉殿の13人』における源仲章の死についてコメントしているのではない。それ以前の「寒いよ~」と言って死んでゆく人物たちへの言及である。ドラマにそういう人物がいることを、記憶している人がいることの、これは記録でもある。

ちなみに、このYahoo知恵袋の質問に対する回答は5件あるのだが、「死んだご経験のある方、回答お願い」と呼びかけたものだから、ほんとうに死んで脳機能が停止した5人が回答してきて、読むに堪えないバカ回答で、なにも参考にならなかったことを付記しておく。


posted by ohashi at 23:35| コメント | 更新情報をチェックする

2022年11月26日

『ラン・スイートハート・ラン』

Run, Sweetheart, Run (2022) シャナ・フェステ監督、エラ・バリンスカ、ピルウ・アスペックほか。

アマゾン・プライム・ビデオで配信しているこの映画を最近見ることになった。いや、参りました。

主役のエラ・バリンスカは、劇場版の『新チャーリーズ・エンジェル』(エリザベス・バンクス監督)の三人の一人で、ダイアナ妃にもなったクリスティン・スチュアートではなく、この映画の主役ともいえる見習いのエージェントで、英国の俳優でインド系で『アラジン』にも出ていたナオミ・スコットでもなく、残り一人といえばわかるだろうか。『ラン…』で彼女は『チャーリーズ・エンジェル』以上に熱演していて、それなりに見ごたえのある映画ではあるのだが。

ちなみにタイトルは『ラン、ローラ、ラン』のもじりだが、『ローラ』のほうは、SF的設定のないループ物で、ローラは三回、同じ出来事を反復する。「ラン」は「走れ」という意味である。いっぽう『スイートハート』は、悪魔のような男というよりも、悪魔そのものから一夜逃げ回っている映画なので、「ラン」は「逃げろ」という意味である。

主人公のチェリーは幼い娘がいるシングルマザーの女性で、秘書として勤めている企業の上司に騙されて、悪魔的な男性に生贄として捧げられたことを知ったあと、夜の街を、警察にも頼れないまま血だらけになり必死に逃げ回る。相手の男は単に凶暴なレイプ魔にとどまらず、犠牲者を追いまわし追い詰めることに快感を見出している。しかも、このレイプ魔は徐々に超能力を増してきて、寓意的存在になりおおせている。つまり女性を苦しめ支配することに快感を見出す性差別主義の権化のような悪魔なのである。

逃げ回る彼女は、敵の裏をかき、謎の支援者もみつかり、みずからリスクを冒しながら、敵たる悪魔を倒することになる。いうなれば彼女は戦闘少女。子供がいてもシングルマザーの彼女は、最終的にどんな男にも支配されない、所有されない、独立した自由な主体として映画の主要なテーマを体現する――少女が、戦う少女が、男性の支配から逃れるというテーマ。

この意味でB級映画のフォーマットにのっとりながら、そこに女性の直面する悪夢と希望とを盛り込んだ女性監督によるフェミニズム映画といえなくもない。

また、下着一枚で夜の街を逃げまわる女性の絶望的な状況は、見るに耐えられないところがあるのだが、それ以上に衝撃的だったのは、この映画が、女性の月経を、これ以上はないほどに直接的に描いていることだった。女性の生理の出血をこれほどあからさまに示した映画を私は見たことがない

主人公の女性にとって恐怖の一夜は、生理がはじまった日でもあり、タンポンを切らしていた彼女は、タンポンを購入するまで、パンツに血をにじませ、太ももに血をしたたらせるしかない。トイレに入り、パンツを下げると、そこに生理の血がべっとりついているという映像を私は生まれて初めて見た。

もうひとつ彼女を追いまわす悪魔的・吸血鬼的男は、彼女の血の匂いを追っているという説明があった。日本語字幕で見ていたので、英語で、どう語っていたか聞き逃しているのだが、日本語字幕では、彼女の体から発散している生理の血が臭いとあった。英語でそこまで直接的な言い方をしていたかどうか不明だが、ただ、私は女性の生理の血が臭いということは経験したことがないから、何とも言えない。ただ、ペットとして飼われている犬や猫の生理の血がかなり臭いことは知っている。人間の女性もそれと同じなのか。

そもそも人間の排泄物は、どんなものでも、匂いをかげば臭いことはまちがいない。映画のなかで動物的な嗅覚をもっているレイプ魔の男が、常人では感知できない生理の血のにおいをかぎ分けられるということだろうか。

フロイトは、女性の真実を知ることができるのは女性自身ではなく男性であると考えた。当事者ではない男性が客観的な第三者の目線で女性を冷静に観察できるという理屈である。だが、これは全面的な真理とはいいがたい。女性が描く女性、女性が示す女性は、男性がなしえないかたちで、女性の真実を体現させていることがある。女性はみずからの真実を、男性が把握しえないリアルとして提示できる。女性の真実のなかには男性の統御をすり抜ける、男性に衝撃を与えるような真実、男性のとっては驚愕的なリアルが含まれることも忘れてはならないだろう。

この映画は、そうした女性のリアルに直面させてくれる稀有な機会を提供してくれる。きつい映画だけれども。
posted by ohashi at 23:04| 映画 | 更新情報をチェックする

2022年11月23日

『管理人』 

紀伊國屋ホールでハロルド・ピンター『管理人』を観る。
演出:小川絵梨子、翻訳:小田島創志、キャスト:イッセー尾形、木村達也、入野自由。

不思議なことに、誰も(演出家も、俳優たちも)、この芝居がどんな芝居なのか、わかっていないのに、上演していることが、プログラムからわかる。このプログラム1500円というのは高い。チケットを会わせると1万円を超える。出費の多さを知人に愚痴ったら、演劇関係者もたいへんだから、そのくらいは大目にみてやるべきという答えが返ってきた。コロナ禍で大変なことはわかるのだが。

「不思議なことに」と書いたのは、この上演関係者が、この劇について統一的あるいは持続的なヴィジョンを持っていないのに、公演自体は、迫力のある熱のこもったもので、小田島創志氏の新訳も見事なものだし、重厚な演出もピンター作品の寓意性よりもリアリズムを重視して成功しているようにみえるし、三人の俳優たちの演技のぶつかりあいは、1時間40分の上演時間を短く感じさせるほど緊張感が持続したのは特筆すべきことだと思う。

プログラムには作品の細部に対する鋭く優れた指摘があふれている。だが全体像を誰もつかんでいない。もちろん私にもこの作品の全体像がみえているわけではないだのが、それにしても、全体像をもたずしてよく上演できるものだとあきれると同時に、全体像がない上演がなぜ熱く感銘を与えるのか不思議である。そもそも細部についての指摘は、何が細部かとわかっていることであり、細部があれば全体像もわかっているはずである。その全体像とは何か。

おそらく、細部の指摘というのではなくて、関係者がそれぞれ自分なりの全体像をぶつけているだけにすぎないのではという気がしてくる。細部なき全体。そして、そうしたてんでんばらばらな全体像の集合のさらに高次の全体像というのがない。なるほど、演出家が、翻訳家が、演者たちが、それぞれ勝手な全体像、作品のヴィジョンを提出し、それにあわせて上演を方向付けて上演を台無しにするよりはましかもしれないが、嘘でもいいから誰か統一的な全体像を示してくれと言いたい。

そんな統一像にこだわるのは、頭が古いのではないか。器官なき身体。統一像なき小さなヴィジョンの集合こそ面白がるべきだと反論されるかもしれない。しかし、ピンターの作品は、それなりに明確なヴィジョンを示しているとも言えるので、それをくみ取れない――たとえ暫定的でも仮説的なものであっても――くみ取れない上演は、観客に満足感をあたえないのではないか。

とりあえず今回の公演を観て、私なりに考えたことを短くまとめておく。これは『管理人』とは、どういう演劇作品かについて考えたことのショーター・ヴァージョンである。

ピンターは、壊れた人間に興味がある。というか壊れた人間を舞台に登場させることが多い。『管理人』に登場する三人の男性は、三人とも壊れている。

ホームレスのデイヴィス(イッセー尾形)を連れてくるアストンは、ロボトミー手術を受けたらしく、前頭葉を失ったせいで言動に覇気がなくなっている。家の中はガラクタや新聞を初めとする書類で一杯で、ゴミ屋敷である。アストンにとって、デイヴィスは拾ってきたガラクタのひとつである。ガラクタ収集、ゴミ屋敷化は、アストン自身が壊れていることからくる言動の所産であり、壊れたアストンとメトニミー的関係になるのだが、同時に、アストンの内面風景とも考えられ、ガラクタを蒐集したゴミ屋敷は、アストンのメタファーでもある。【そもそも蒐集というのは、喪失と対になっている。失ってとりもどせないものを人は集めるのである。蒐集とは無の蒐集である。】

デイヴィスは、アンダークラスとしての体験と高齢化によって心身ともに壊れている。アストンの蒐集するがらくたの一つに位置づけられる。キャラクター的にはシェイクスピアでいえばフォルスタッフ的な大言壮語する乞食の王様である。『じゃじゃ馬ならし』に登場するクリストファー・スライのほうがフォルスタッフによりも近い(多少シェイクスピアを知っているからといってフォルスタッフなど出すなと言われそうだが、フォルスタッフとハル王子の関係は、最近では大河ドラマ『鎌倉殿の13人』において実朝と和田義盛の関係にみることができる(これは作者の意図でもある。また和田義盛の最期もフォルスタッフの最期と似ている))。この程度のことは誰かが指摘おくべきである。

三人のなかでミック(木村達成)は謎の存在である。一応、アストンの弟ということになっているが、実在しているのかどうかも定かではない。アストンの部屋にはベッドが二つしかない。デイヴィスに割り当てられたベッドはミックのベッドだろう。そしてミックが生きていればアストンはデイヴィズ(乞食の王)をそのベッドに寝かせない。ミックは死んでいるという可能性は劇の最後まで解消されることはない。もしそうならデイヴィスは、アストンの集めているガラクタの一つであるとともに、ミックの身代わりでもあろう。いやそもそもガラクタを集めること自体、失われた何かを回収することでもある。そしてそういうことをすること自体、当人が壊れていることの証左である。

アストンの弟ミックは、三人のなかでいちばんまともなように思われるが、壊れかかった家を豪華ホテルに改築したいという無意味な夢をもっている点で壊れている。

そう、アストンとデイヴィスは壊れていて、ミックもどこか壊れている。失われた自己、そこから生ずる壊れた自己について、アストンは自分なりの小屋を建てれば回復できると考えているし、デイヴィスにいたっては、15年前にシドカップに置いてきた書類があれば、自己のアイデンティティを取り戻せると考え、公言もするのだが、でまかせであろうことは誰にもでもわかる。

自分が何かを失っている、壊れている、だからその状態を改善するための口実あるいは改善する魔法のような物体なり建物を求める。しかし、そんなふうに考えるあるいは希求すること自体、当人が壊れていることの証左でもある。

しかし、この三人を誰が笑えるだろう。私たちもまた、この三人と同様に、何かの口実を設け、何かを言い訳にして、今日よりもすばらしい明日がくることを願っている、無駄な望みをいただいている、まさに壊れた人間なのである。そう、人間は壊れている。壊れていることが人間性なのである。

ショーター・ヴァージョンにするはずが、長くなる気配があるので、とりあえず、このへんで辞めておく。

追記:ロボトミー手術は、凶暴で手に負えない精神病患者に対し、前頭葉を切除することでおとなしくさせるという、現在では行われていない非人道的手術だが、精神病患者だけではなく、同性愛者に対しても行われた。この作品に、同性愛的含意があるのかどうか定かではないのが、男三人しか登場しないこの作品において同性愛的特徴は明白ではあるのだが。
posted by ohashi at 11:09| 演劇 | 更新情報をチェックする

2022年11月18日

Blaming the Victim

以下のような記事があった:

池袋暴走事故の遺族中傷 被告側「別の遺族に対するもの」と無罪主張
朝日新聞社 2022/11/16 19:10
|

 東京・池袋で2019年に起きた車の暴走事故で妻子を亡くした松永拓也さん(36)を、ツイッター上で誹謗(ひぼう)中傷したとして、侮辱罪に問われた無職の油利(ゆり)潤一被告(23)=愛知県扶桑町=の初公判が16日、東京地裁であった。被告側は投稿自体は認める一方、投稿は別の事故の遺族について述べたもので「松永さんを侮辱する意図はなかった」として無罪を主張した。

 検察側の冒頭陳述によると、被告は今年3月、松永さんのツイッター投稿に対し、松永さんの妻子の実名にも言及しながら、「金や反響目当て」「男は新しい女作ってやり直せばいい」などと返信したとされる。

 被告は秋葉原などで殺傷事件を起こすと思わせる投稿を8月にしたとして偽計業務妨害罪にも問われ、こちらの起訴内容は認めた。【以下略】

このような裁判があることを全く知らなかったが、それにしてもひどい。加害者である上級国民の家族を責めるというのなら話はわかる(だが、そうした行為を容認するつもり全くないのだが)、よりにもよって被害者のほうを責めるとは。

結局それが上級国民を守り利することがわからないのか。というか,、わかっていてそういうことをしているのだろう。こういうネトウヨは、ほんとうに最低国民である。いや、国民の名にも値しない。トランプ派みたいなものである。早く日本から消えてなくなればいいのに。

そしてまたこの最低国民がうそぶいたのが、「男は新しい女作ってやり直せばいい」という返信内容。すでに『ラビットホール』とか『A Number』に関する記事で触れたように、子供を失ったからといって、妻と、あるいは再婚して子供を作るというのは、選択肢に入らないし、またそれで何か救われることにもならないのだ。「男は新しい女作ってやり直せばいい」ということが、倫理的にも現実的にも何の解決にもならないことは、私たちは忘れてならないことだと思う。この最低国民のことは、忘れても。
posted by ohashi at 02:00| コメント | 更新情報をチェックする

2022年11月17日

『ラビットホール』2

劇場版でも映画版でもそうだが、主人公の女性は、つねに料理をつくり、お菓子をつくり、妹や母や、夫にふるまっている。たんに日常生活において主婦がつくる料理というのではなく、特別の菓子やパンやごちそうを作っている。劇場において誕生日のケーキがホールで出てくるのは、衝撃的とまではいわないが、印象深い。幕間に、私の近くに座っていた男女が、面白いことに、ケーキを公演ごとに毎日作るか買ってきて出していることを、なにか異様な大盤振る舞いのように語っていた。ホールのケーキを購入したり作ったりすることなど、劇団にとって簡単なことだろう(またそこまで貧乏な劇団とも思えない)。

ただ、言えることは、映画版でも同じように料理や菓子が出てくるのだが、劇場版のほうがインパクトは強いのだが、登場人物はつねに何か食べている。食べ物がテーブルのうえに載っている。

イーグルトン『希望とは何か』のなかで、絶望の文学に対するカミュの所見を引用している――「もし絶望が発話や理由付けを促すとすれば」とアルベール・カミュは論評している、「そしてとりわけ言語が記述を生み出すとすれば、同胞関係が確立され、自然物は正当化され、愛が生まれているのである。絶望の文学というのは、名辞矛盾である」(第4章参照)と。

引用はややわかりにくいが、絶望の文学というものが、絶望とか、その理由とか、説明を次々と生み出すのなら、それは人間関係を求め、正当化を行うなど、活発な言語活動を行っていることになる。ということは、絶望して何も出来なくなるというのではなく、絶望から行動が思索が生まれている。絶望の文学とは、絶望していないのであって、名辞矛盾だというわけである。

かつてノースロップ・フライは、シェイクスピアの『リア王』について、こんなことを語っていた。シェイクスピアの劇作品のなかでももっとも絶望的な、救いのないこの悲劇は、読者や観客を確かに意気消沈させるのだが、原作者のシェイクスピアは、みずからのヴィジョンに打ちひしがれていたかもしれないが、同時に、芸術的達成そのものに満足していたはずだと。もっとも絶望的な作品が、芸術作品としてはもっとも満足のいくものとして喜びと希望を与えるのである――作者にとって。

こんなふうに考えれば、実は、真の絶望というのは存在しない。あるいは救いがないと思われる現象なり事象にも、見方によっては、つねに、どこかに希望の種子は、いや、希望そのものが存在している。

『ラビットホール』(劇場版のタイトル、映画版のタイトルは『ラビット・ホール」)は、幼い子供を交通事故で失った夫婦は、絶望のふちで呻吟し、絶望の沼というか穴というかラビットホールにはまって抜け出せなくなっているわけではない。妻が日常的に作る料理や菓子は、どんな絶望のさかなにも、生の意欲が、生きるための希望がうごめいていることの証左である。

これは人間には生存欲求があるという生物的事実の確認ではない。料理と言うよりも菓子がクローズアップされることが重要であろう。料理は必要悪である。しかし菓子は、必要を超えた、生存のためだけではない、なんらかの贅沢あるいは文化的活動である。余剰あるいは過剰な何かである。必要を超える過剰がある限り、そこには生ける屍としての存在には満足しない、絶望に打ちひしがれることのない、前に進む、元気が、強固な意志が、敗北することをいさぎよしとしない抵抗の意志が認められるのである。

劇場版では、公演ごとにケーキをとりわけて食することになろう。怒りや悲しみや後悔や絶望があるかぎり、食欲もある。いやただの食欲ではなく、特別なケーキを、贅沢な何かを食したいという欲望がある。デプレッションの時にこそ、実は食欲が、それも美食への渇望がある。ある意味で、私たちは絶望を美食として食べることで生きているのかもしれない。

********

劇場版について一言。

今回は、公演を忘れないようにクリアファイルにチラシを挟んでおいたのだが、そのクリアファイルごと、どこかにやって公演のことを忘れてしまっていた。公演がはじまってからあわててチケットを購入したので、余っている席の当日券を購入するようなかたちになった(当日券ではないのだが)。

東武東上線の大山駅近くのPit昴には、コロナ禍のさなかには足を運んでいないが、それ以前にはよく行っていた。だから小さな劇場というかスタジオであることはわかっていたので、どこに座ってもよく見えるはずで、見えにくい席あるいは悪い席はないのだろうと考えていた。

今回はダイニング・キッチンとリビングが一体化したステージで、それが半円型に客席のほうにせり出している。観客席と舞台とは近い。そして三段の観客席は、どこにすわってもステージがよく見えるし、前の人の頭で見えにくいということもない。ただ、私の席は、半円型にせり出した舞台の脇から観る位置にあって、基本的に演技は正面から観られることを前提としているで、舞台の脇から観る席は、良い席ではないことがわかった。

しかし、それが実に良かった。今回の舞台美術は、松岡泉氏によるものだが、私にとって、そのお仕事としては、東京芸術劇場でのシェイクスピアの『お気に召すまま』の舞台美術がとりわけ印象深く記憶に残っている。なぜならその『お気に召すまま』は、坂口健太郎や満島ひかりらが健闘していたにもかかわらず、演出家の精神年齢が中学二年生レベルで(中学生の皆さん、中学生が悪いということではなく、大人にもかかわらず中学生であることは悪いという意味です)、悲惨な舞台だったのだが、唯一良かったのはというか感銘を受けたのは松岡泉氏の大胆な舞台美術であった。それは演出がひどかったこともあって、ますます輝いてみえたのだが……。

今回の舞台美術は、大胆なというよりも落ち着いた室内の情景にみえる――オーソドックスな、そしてリアルで瀟洒な家具調度を備えた室内。私は、その半円型の舞台の脇からみることになったのだが、思わぬ効果に驚いた。たとえば二人の人物が会話するとき、私の座っている位置からは、片方の人物の背中というか後ろ姿しかみえない。その後ろ姿のむこうに話しかけているもうひとりの人物の姿が真正面からみえる。この変な奥行き感は、舞台を正面の座席からみるのとは異なる、絵画性の強い構図を出現させることになって、その美しさに魅了された。しかも、後ろ姿の人物のその向こうに正面からみたもうひとりの人物が見えるという構図は、舞台に近い最前列(とはいえ半円型の舞台を取り囲む座席は3段しかないのだが)にいるにもかかわらず、舞台との距離を大きく感じさせることにもなった。そして私は思った。ホッパーの絵のようだ、と。

もちろん、エドワード・ホッパーに幼い息子を失った夫婦の日常を描く絵画があるわけではない。ただ、この戯曲の世界を、もしホッパーが描いたとしたら、こんなふうにみえるのではないかと想像できるような画像が、私の特殊な座席位置からの視界に出現したというということである――それには松岡泉氏の瀟洒なダイニングとリビングを再現した舞台美術も大いに貢献してる。

ホッパーの絵は、窃視画といえるのだが、ただ、それは細い穴とか隙間から直前の光景をこっそりのぞき見るのではなく、望遠鏡あるいは望遠レンズで観たような景色や情景で、遠くの出来事だから音・音声は全く聞こえてこない静寂の世界でもある。そんな世界がホッパーの絵だ。なにかが起こっているが、それがなんであるか最初のうちはわからない。戯曲のほうは台詞を通して情報が伝わってくるから、ホッパーの静寂の世界からはかけ離れてゆくが、最後に、ふたたびホッパーの絵画にもどるような気がする。息子を失った悲しみや喪失感を克服しようとあがきながら、最後に、癒やされることのない喪失感、空白、あるいはラビットホールを抱えながら生きてゆく夫婦の平穏で静謐な日常が戻ってくる――ただし、どこかにぽっかり空いた見えない穴(ラビットホール)を抱えた日常が。

休憩を入れての二時間のドラマだったが、知的にも、情動的にも、そして絵画的にも揺さぶられることの多い劇的体験だった。
posted by ohashi at 09:54| 演劇 | 更新情報をチェックする

2022年11月16日

フレンチキス

ネット状に次のような記事があった。

「フレンチキスしかしてない」島田珠代が交際6年の恋人の話、見取り図らも恋愛トーク
お笑いナタリー 2022/11/16 13:31

本日11月16日(水)放送の「上田と女が吠える夜」(日本テレビ系)に見取り図、島田珠代がゲスト出演する。

今回のテーマは「彼氏ダンナが好きすぎるヤツ」 。島田珠代は交際6年になる恋人について「フレンチキスしかしてない」と明かし、MCのくりぃむしちゅー上田 から「それ付き合ってないですよ」とツッコまれることに。また恋人のために内緒でしている努力も明かす。【以下略】

いや、フレンチキスしているのだったら、セックスもしているだろ。フレンチキスというのは舌と舌をからませる濃厚な接吻のことで、それをするような仲なら深い仲といっていい。「フレンチキスしかしていない」というのなら、その場合、どれほど濃厚な性行為を前提としているのかと恐ろしくも成ったのだが……、

気を取り直して、冷静になった。これはいまだに日本にはびこっている誤用だと気づいた。

ためしにWikipediaで「フレンチキス」を調べてみると:

フレンチ・キス(French kiss)とは、いわゆるディープキスのこと。

ディープ・キス - 一方の者の舌が他方の舌に触れ、通常、口の中に入る接吻のこと。英語ではFrench kissと呼ぶ。
軽いキス - 日本語でフレンチ・キスというと「軽いキス」を示す場合があるが誤用であり、本来は「深くて濃厚なキス」のことを指す[1]。詳しくはディープ・キスの項目を参照。


とある。いまもなくならない誤用。ためしにディープ・キスの項目も調べてみる:

ディープ・キス(英: Deep kiss)またはフレンチ・キス(French kiss)は、一方の者の舌が他方の舌に触れ、通常、口の中に入る接吻の一形式である。

舌を使ったキスは、ロマンスまたは性的な性格があり、唇、舌、口など接触に敏感で性感を高める部位を刺激する。この行為は快感を与え、非常に愛情的で、性感を高める。挨拶や友情を表す短いキスのような他のキスとは異なり、舌を使ったキスは、長く、激しく、情熱的であることが多い。
【中略】
「フレンチ・キス」の語源
フレンチ・キスという言葉は、第一次世界大戦後にイギリスで誕生した。[1]当時のフランスは性に奔放な国として有名であり、当地に行った兵士が帰国後にその実情を皮肉ってこの言葉を作ったと考えられている。
【中略】
「フレンチ・キス」の誤用
日本では、フレンチ・キスが「唇に軽く触れるキス」、「コミュニケーション程度の軽いキス」といった意味合いで使われることがあるが誤用である。それらはバード・キスと呼ぶのが正しいとされる。

とある。なぜ日本で、誤用が生まれたのかの説明はないが、いくら言葉が生き物であり、言葉の意味とは用法であるとヴィトゲンシュタインみたいなことを言っても、日本だけにこの誤用がはびこると、「フレンチキス」の場合はとんでもないことになる。全世界的にみて「フレンチキス」は「ディープ・キス」のことなので、軽いキスの意味でこの語を使うと、とんでもないことになるのは目に見えている。

上田もMCならそれは誤用だと訂正しろよ。

posted by ohashi at 19:51| コメント | 更新情報をチェックする

2022年11月15日

『ラビットホール』

11月11日、劇団昴の公演『ラビットホール』を観る。デイビッド・リンゼイ=アベアー作、訳・演出:田中壮太郎、会場:Pit昴/サイスタジオ大山。キャスト:岩田翼、あんどうさくら、坂井亜由美、町屋圭祐、要田禎子。5人芝居。

この作品は映画版があり、日本でも公開された。『ヘドヴィグ・アンド・アングリー・インチ』(2001)のジョン・キャメロン・ミッチェル監督の映画『ラビット・ホール』がそれで、日本での公開時に見そびれたので、ブルーレイ版で観た。評判の映画だったが、ゲイの話ではなく、子供を失った夫婦の話で、それをゲイの寓意と読み取ることにも躊躇があって、映像美はべつにして、内容は、あまり印象に残らなかった。そのため劇場版(こちらのほうが原作だが)を観ることにも躊躇があって、気づくと、公演が始まっていてが、チケットがまだ残っていたようなので、金曜日(5回目のコロナワクチン接種の翌日)に観ることができた。

【なお幼い息子を交通事故で失った夫婦の話だが、これをゲイの人間の悲哀とメランコリーの寓話と読み直すことができないわけではない。そのような解釈は、不可能ではないのだが、今回は試みない。】

観てよかったし、『ラビットホール』の原作はこうだったのかと正直驚き、また納得もした。映画版では多くの人物が登場するし、犬も登場する。いっぽう劇場版では、夫妻の邸宅のダイニングとリビングという一間でアクションが展開する(犬は吠え声だけ)。登場人物も5人のみ。そこでの4人の家族(夫婦と、妻の妹と母親)の会話で、この一見、どこにでもありそうなアメリカ中流家庭に何が起こり、その余波がどうつづいているのか、わかるような仕掛けになっている。

劇場版における会話のなかにちりばめられた情報というか、劇場版が、台詞というかたちをとって保存している情報が、映画版では、その情報をもとに形成されたホログラムのように立体視されるとでもいえようか――とはいえ舞台という立体的空間が二次元情報の基盤となり、映画という二次元スクリーンが、ホログラム的な立体像の場となるというのは、やや無理のある比喩かもしれないのだが。

あるいはこの作品にそくしていうと、映画版と劇場版は、パラレルワールドになっていて,基本的人間関係に違いはないが、細部は異なっており、ふたつのヴァージョンが補完しあっている。たとえば劇場版では、子供を失った親たちが、苦しみや悲しみを語ることで、子供の喪失を残り超えていく支援の会で知り合った女性と夫との関係が、劇場版での台詞では、誤解されやすいがあくまでも精神的に支えているだけの関係でしかなかったのだが、映画版では、その女性と夫とは一線を超えそうになる。つまり不倫に近いものだった。

主人公ともいえるベッカ(たぶんレベッカの略称)/あんどうさくらの妹イジーは、映画では強烈な個性のわりには出番が少なく影も薄いのだが、劇場版でのイジー/坂井亜由美は、姉とのからみをとおして、大きな存在感を漂わせていた。姉妹の母親、ナットは映画版では米国では有名な女優ダイアン・ウィーストが演じていたが、むしろその変人ぶりでは劇場版のナット/要田禎子のほうが目立っていた。

ベッカの夫ハウィーは、映画版ではアーロン・エッカートが演じていて、けっこう癖の強い夫だが、劇場版の岩田翼の夫は、好人物で、不穏な感じはしない。もっとこれは、私たちがたぶんCSを見るとき、おそらく必ずみているというかみてしまうチューリッヒ自動車保険のCMで岩田翼の顔をみているからかもしれないからであって、演出上は、妻と同様、いらつき気が短く、息子の死というトラウマから立ち直っていない夫なのかもしれないのだが。

この家族の四歳の息子を事故で死なせてしまった少年ジェイソンは、劇場版のジェイソン/町屋圭祐は、鈍感(というのもアルジャーノンが入っている気がしたので)だが純情というような役回りだったが、映画版を今見直して、なんとマイルズ・テラーが演じていたので驚いた。これが彼のデビュー作のようだ。マイルズ・テラーとは誰だと思われるかもしれないが、『セッション』のドラマー、最近では『トップ・ガン――マーヴェリック』にも出演している俳優といえばわかるだろうか(個人的には彼が出演していたボクシング映画『ビニー』とか涙なくしてはみれない映画『オンリーザブレイブ』での役柄が好きでもあるのだが)。映画版のジェイソン/マイルズ・テラーは、劇場版と同じく高校生だが、内向的な面と普通の高校生との二面生をもちつつも、ややサイコパス的な臭いもする不思議な少年で、この演技が着目されたのは、わかるような気がする。

ちなみに劇場版のジェイソンが書いているのはSF短編小説で雑誌に掲載予定。いっぽう映画版のジェイソンが描いているのはコミック。パラレルワールドの描き方については独創性を感ずるのだが、あの絵柄はアメリカンコミックでもグラフィク・ノヴェル(バンドデシネ的な)でも通用しないと思うのだが、あくまでも個人的な趣味で描いているという設定のようで、印刷刊行するつもりはないらしい。

小説からコミックへという設定の変更は、映画表現におけるなじみやすさを考慮したものだろうが、劇場版の息子の映像が入ったビデオテープを消してしまうという設定は、映画では携帯の動画を消すというように設定が変えられていた。死んだ人間を思い出すことのできる録音テープとかビデオテープを誤って消してしまうというのは、こうした物語では定番の設定である(現実にもよくあることなのだが――私自身の家族にも同じことが起こった)。ただそれにしても今風に設定をかえるとして、携帯の動画をどうしたらまちがって消すことができるのだろうか、スマホ初心者の私にはわからない。そういう初心者が誤って消してしまうのだと言われそうだが。またいまやビデオテープの時代でもないので、これはやむをえない設定変更なのだろうか。

四歳の息子を失ったこの夫婦に、やがて、その悲しみや怒りを克服して前にすすむ時が訪れるというのこの劇なり映画を観る者が当然抱く予想となるのだが、はたして観客を納得させるかたちで、夫婦が克服できたかどうかと言われると、むしろ克服などできてないというようにも思われる。

原作の戯曲も、またその映画化作品が評判になったのは、夫婦が悲しみを克服したかにみえる結末ゆえにではなく、たとえ克服できなくとも、そのプロセスが丁寧に描かれているからであろう。子供を失ってから8ヶ月めの夫婦にどのようなことが起こるのか。それを丁寧に提示していることがこの作品(劇場版であれ映画版であれ)の特徴であるといえる。

もちろん言うまでもなく映画的テーマ・物語のうち、特筆されるべき二つとは、メランコリーの風景、そして何物にも回収されない少女というテーマ・物語である(後者は、この作品のタイトル『ラビット・ホール』から、不思議の国のアリスが想定されていることからもみてとれる。アリスは映画的世界の女神である)。したがってメランコリーからの脱出より、むしろメランコリーの光景を丁寧に描くことに、映画の力点があるので、悲しみの克服ではなく克服へと至る/至らないプロセスこそ重要であるのはいわずもがなのことかもしれないとしても。

【映画の永遠のテーマのひとつが少女であるというのは、もっと強調されてよいと思うのだが、同時にこれは空気のような当然のこととして共有されているのかもしれない。比較的最近の例としては、『千夜、一夜』(久保田直監督、2022年)がある。夫が失踪してから30年も待ち続ける妻を演ずる田中裕子は、夫を待つという口実のもとに、再婚の話を拒み続け、誰にも(老親にも)支配されない自由な女を全うする、つまり誰のものでもない少女でありつづける。そしてこれは田中裕子という女優がこれまで映画のなかで演じてきた少女性の物語の延長線上にもあることは忘れてはならない。】

たとえば、また息子を作ればいいというのは、何の慰めにもならないどころか、新しい子供をつくることへの抵抗感を生み、セックスレス夫婦になることも理解できた。この映画のなかでは子供を失ったショックで、夫婦はセックスレスになるのだが、それはまた妻が少女化することも意味していた。少女といえば、この妻の妹の方が少女というか不良少女らしさを醸し出しているのだが、その妹が妊娠したと知った姉つまりこの作品の主人公は、子供を育てた大人の女性として妹のことを心配もし、また軽蔑したりもするのだが、しかし姉である彼女自身が、スーパーで、見知らぬ女性をひっぱたいたりして、子供っぽい妹に近づいてゆく。逆に妊娠した妹が成熟した女性となるのと反比例して。

ただいずれにしても作品のタイトル『ラビット・ホール』(劇場版のタイトルは『ラビットホール』と中丸がない)から、主人公の女性がアリスという少女の同位体であることが暗示されている。つまり主人公は、何物にも支配されず、何物のにも還元されることのない悲しみと怒りをかかえた少女としてのアリスなのだが、この少女性は、映画版のニコール・キッドマンよりも、劇場版のあんどうさくらのほうが適役のように思えた――個人的な感想として。

また少女性とはべつに、死んだ息子の代用あるいはその不可能性については、10月に観たキャリル・チャーチル作『A Number』を思い出す。

そこでは、幼い息子を失った父親が、息子のクローンを作る。また子供をつくればいいというのは選択肢には入らない。かけがえのない息子の代用となるものは、もうひとりの息子ではない――その証拠に、長男が死んだあと、次男が生まれても、次男に長男の名前はつけないのがふつだろう(詳しいことを聞く機会は失われたのだが、私の父は長男だということだったが、名前には太郎とか一郎といった長男の名前がついておらず、次男系の名前がついていた。つまり私の父には死んだ兄がいた)。もし代用となるものがあるのなら、それはクローンである。ただし科学技術が発達し、人間のクローンをつくることが倫理的に容認されている場合の話だが。

これもクローン映画『デュアル』では、不治の病で若くして死ぬことになった娘が、両親と許婚者のために自分のクローンを残すことになった。クローン物のB級映画『エリザベス・エクスペリメント』(2018年、『エリザベス∞エクスペリメント』の邦題もあり。原題はElizabeth Harvest)ではマッドサイエンティストが作るのは若くして死んだ自分の妻だった。かけがえなのない愛する人を失ったとき、そのクローンを作るというSF的設定は、いまの現実にとって、つまり人間のクローンをつくることが許されてない現実にとって、子供が死んだので、また子供をつくることは選択肢にはいらないばかりか、死んだ子供の代用はないことを意味する。ならば、悲しみは癒やされることはない。

その癒やされることのない悲しみを克服する方法は、ないわけではない。時間の解決。あるいは普遍化。そして必然化。

必然化あるいは理由付けというのは、たとえば幼い子供は事故によって偶然命を奪われたのではなく、神によって天使として召されたのだというように意味付けることである。劇場版でも映画版でも主人公の女性は、こうした考え方を軽蔑している。あるいは偶然の事故ではなく意図的な犯罪であったという理由付けもある。海運王オナシスが、24歳の息子の命を奪った航空事故が偶然の事故ではなく意図的な犯罪行為であることを証明した者に大金を払うと宣言したように、たとえ犯罪の犠牲者としてでも意味づけられれば救われるのかもしれない。このオナシスの例はこの作品のなかで主人公の母親が話す逸話(知らなかったが、けっこう有名な話のようだ)である。

意味づけられれば救われるという考え方もあれば、意味がないほうが救われるという考え方もある。私たちが生きているこの世界に究極の意味があると救われると考える人と、そんな究極の意味がほんとうにあれば、私たちの自由が奪われ、生きにくくなると考える人もいるだろう。

普遍化というのは、どんな大きな悲しみでも、それは誰もが経験することだという考え方。ひとりで大きな悲しみを背負い身動きがとれなくなっている時、誰もが同じことを経験してきた、あなたひとりの悩みや悲しみではない。みな同じ悲しみや悩みをかかえて生きているというのは、慰めにもなるだろう。もちろんこの作品では、主人公の母親は、自分の息子(30歳を超えた息子で、主人公の兄)を失ったことと、主人公が4歳の息子を失ったこととを同列において比較することで、主人公から猛反発される。主人公の悲しみは、何物にもかえがたい悲しみであって、その特異な個別性をなし崩しにするような発想は、死んだ息子に対しても、また自分自身に対しても一種の冒涜のように感じられるのである。

普遍性あるいは一般性の相のもとで考えることの同位体が時間による解決という考え方である。愛する者の死は、時がたつにつれてその痛みが消えてゆく。時の解決というのは、たとえ受動的なものであれば、悲しみの克服である。劇場版で語られたかどうか、映画版とまざってしまって定かでないのだが、主人公の母親がいう印象的な例え話としては、大きな悲しみは大きな石の塊のようなものであるが、時がたつとそれは徐々に小さくなる。だが、小さくなっても、それは消えない。ポケットの中の小さな小石として残る、と。これは悲しみは時の経過とともに癒えるのだが、完全になくなるわけではないということになる。

主人公も、この例え話に、ある程度、説得されているようにみえるのは、悲しむ人は、悲しみを癒やしたい、あるいは悲しみを消したいと願っているのだが、同時に、悲しみが完全に消えることまでは願っていない。悲しみは愛する人の記憶そのものであって、その記憶は消したくはない。あるいはトラウマに悩む人はまた、過去の忌まわしい記憶が再発することを一方で望んでいる。トラウマの完全な消滅は願っていない。悲しみは、克服したいが、同時に、小さくなっても残していたい。なぜなら悲しみであれトラウマであれ、それはアイデンティティの一部、個性を保証するものであるからだ。身体に傷を負う者が、痛みはなくなっても、その傷跡をつねにいじっているようなものである。

しかし、この作品は、さらに予想もつかない解決案をぶつけてくる。パラレルワールドである(原作発表当時、マルチヴァースという言葉はなかったと思う)。この宇宙には、いまある宇宙と同じような宇宙が無限にあって、そうした宇宙では、親子が息子と幸せに暮らしていることもありうる、と。パラレルワールドは、量子力学をもちださなくても説明できる可能性として示される。もし宇宙が無限の広がりなら、その無限の空間のなかでは何でも起こりうる、あるいはあり得るからである。無限の空間は、すべてを一様に均してしまう一方で、あらゆる奇跡を可能にする。この無限の宇宙では、私たちの世界と寸分たがわぬ世界あるいは同じような世界があってもおかしくないのである――無限の宇宙であるのなら。

問題は、だからといって幼い息子を失った悲しみは癒えるのかということである。この宇宙には、幼い息子が死なずに両親とともに暮らしている世界があるかもしれない。たぶん、理論的には、そうなるだろう。だが、そう考えることで、どうして救われるのだろうか。

これは大局的にみるのとは少し違うような気がする。たとえば、いま、このときどんな深い悲しみに襲われようとも、いま世界が終わるのように感じても、長い人生という視点からみれば、いずれ思い出に変わる一エピソードに過ぎないと考えることで、癒やされることもあろう。ただ、時がすべてを解決するとすれば、そのときまでに耐え忍ぶしかないし、結局それに耐えられないかもしれないので、時の癒しの考え方はまちがっていないとしても癒しの特効薬ではない。

また喪に服す者は、悲しみを消し去りたいと願いつつも、悲しみを失いたくはない。悲しみがなくなる未来は、到来して欲しくないとも願っている。となると、大局的にみれば大きな衝撃もいずれいやされ消えるという考え方は、なにか未来だけを優先して現在の独自性を消去するかのようにもみえてくる(もちろん、いまとここから抜け出したいという願望を充足させるという面は無視できないとしても)。

これに対してパラレルワールドは、理論的にはあり得ても、私たち自身にとって関係のない現象なのだが、救いめいたものはある。これもまた大局的な価値観なのだが、たとえばいまの私がどんなに不幸にみえても、私よりももっと不幸な人間はたくさんいる。そう思って自分を慰めるというのは、なにか差別的で卑しい心性のように思える。また、逆に、今の不幸な私よりも、もっと幸福な人間もたくさんいるだろうと思うと、悔しいというか妬ましい思いがわき上がり、自分の下劣な品性を思い知って自己嫌悪に陥りそうになる。

ところがパラレルワールドの考え方は、私よりも不幸な人間や私よりも幸福な人間も、実は私自身なのである。他人事ではなくわたくし事なのである。となると、あきらめるしかない。私よりも不幸な私をあざ笑うこと、あるいは私よりも不幸な私の身代わりになること、いずれも意味がないし、不可能である(パラレルワールドは簡単に横断などできない)。そもそももう一人の自分をさげすんだり、妬ましく思ったりしても意味がない。自分は自分でしかなく、もし私が深い悲しみのなかにあるのなら、それは私の割り振られた運命なのだから、受け入れるしかない。また私がこの運命を受け入れることで、私よりも幸せな私自身も確保されるのだとしたら、私は、私自身に奉仕することになる。

これは、パラレルワールドの存在がいくら科学理論的に証明できるとはいえ、結局、神による試練だとか、神慮といった宗教的運命観と選ぶところがないというのなら、その通りである。ただ、これは私と私の悲しみの個別独自性を、変形したり消去することなく、温存するというか、持続可能な形で維持できる考え方である。つまり悲しみが癒やされる癒やされることはないということが、悲しみを癒やすことになるのだ。私と私の悲しみは、唯一無二のものであって、いかなるかたちで普遍化も一般化もできないし、また遠い将来に回顧されるような良き思い出的な、ささやかな一挿話に終わってほしくないと願っている私にとって、パラレルワールド宇宙は、大局的な視点によっても消え去ることのない、というか大局的な視点によってはじめて可能になる私の個別性ゆえに、望ましいものとなる。

パラレルワールドにちらばる複数の私が、私の一回性や個別性を確保するという特異な関係から、救いとなるような諦観が生まれるのは皮肉といえば皮肉なことである。

もちろん、パラレルワールド観を消し去っても、同じことはいえるだろう。私よりも不幸な私や私よりも幸福な私はいたかもしれないが、いまの私は、どちらでもないのだから、この運命を受け入れるしかない。私よりも不幸な私には涙を禁じ得ないし、私よりも幸福な私には、その幸福が長続きするよう心から祈る。そしていまとここの私は、ありえたかもしれない私のことを念頭におきつつ、いまの自分に向き合うしかない。これが運命だったのだと。偶然であれ必然であれ、私はこの運命と向き合うしかないのだ、と。

結局のところ、これは神の摂理など神が与えた試練だのという宗教的解釈の延長線上にしかないのかもしれない。ただ、運命を意味付け正当化するような宗教的解釈とは異なり、逃避することなく現実と自分自身の境遇に向き合う姿勢だとも言えるのだが、しかし、実は宗教的解釈も不幸に意味づけることで不幸を消去するのではなく、なぐさめつつも、不幸を忘れず、不幸と向き合うことを求める呼びかけかもしれないのだ。神のあたえた試練という宗教的解釈とパラレルワールドのひとつであるという科学理論的解釈――後者は、この作品に唐突にぶちこまれた世界観・宇宙観の様相を呈することはすでに述べたとおりだが、偽装された宗教的解釈であり、逆に宗教的解釈も偽装された疑似科学理論的解釈なのであって、両者は連携しているとみることもできる。

パラレルワールド観は、また自分自身の運命と向き合うほかに、自分自身の運命を突き放してみる、ある種の超越的な観点も提供してくれる。私よりも不幸な無限にありうる私、私よりも幸福な無限にありうる私――こうなると今の私は無限の可能性のうちの、ささやかな一つに過ぎない。貧乏くじを引いたようななものなのだが、これが私に割り振られた役どころというのであれば、そしてそれは他のパラレルワールドの私とは取り替えることのできないものであれば、このかけがえのない役どころ、この運命を最後まで演じきることが私の使命であり、それが私を私とするアイデンティティなのだ。これは大局的にみながら、みずからの運命を、いかなる意味付けも拒む偶然としてみなすことで突き放しつつ、そこに回帰する。いうなればシナリオを演ずるようなものである。この世界は最後まで決められているシナリオであり、私にできることは、そこでの役柄を最後までやりとげることである。なんという悲しい諦念なのだろうか。しかし、この演劇的世界観は、私を役柄とみなすことで、自身と距離を置くことで、救いが生まれるのである。

映画版では、子供をなくした親の支援の会で知り合った女性(劇場版であやしい関係ではないかと目撃者からの話が紹介されるだけであるが)が、話のなかでなく、実際に登場し、主人公の夫と深い仲になりそうになる。サンドラ・オーが演じているのだが(サンドラ・オーを私は『キリング・イヴ』よりも遙か昔『ブルーイグアナの夜』(2000)の頃から知っていて、アジア系であるがゆえかどうかわからないのだが20年以上も前と今とであまりかわらない不思議な女優である)、彼女と意気投合するなかで、大麻を吸って支援の会に出かけるのだが、子供を失った胸中を告白する夫婦の話を聞いて、大麻の影響からは大笑いをするのである――笑っていることを気取られないようにするのだが、それもむりとわかって退席する。

子供を失い悲嘆に暮れる夫婦の告白は、べつに滑稽な話ではなく、大笑いするのは全く場違いであるのだが、このエピソードは重要である。薬物の効果とはいえ、深刻な話を笑いとばすのは、悲劇から距離を置くことになる。そしてこの距離化、あるいは超越化は、克服し、前に進むための第一歩となる。

ただし、薬物による作用によって笑い転げたとしても、作用が消えれば笑い事ではなく、憂鬱な現実がつづいているだけである。しかし、一瞬垣間見られたこの笑い事ですませる可能性は、観客に考えさせられる材料を提供する。実際、劇場版であれ映画版であれ、夫が最後に話す、以前と同じ日常生活を取りもどすために、子供の死を克服したかのようにふるまう演技的可能性は、悲しみの真の克服ではないと同時に実はそれが克服でもありまぎれもなく前に進むことだという二重性を帯びるのだが、それがこのドラマの到達点なのである。

ここで勝手に思い出したのは映画『日々是好日』(大森立嗣監督、2018年公開)における茶道の考え方。禅における「日々是好日」の解釈とは異なるかもしれないが、茶道においては日々の葛藤や悲哀などはとうに克服され心安らぐ日々に到達したかのようにふるまうことが重要で、そうすることで平穏な日々が得られるということだった。

たとえ歴史が終わっていなくても、歴史が終わったふりをすることで、歴史を終わらせる。悲しみを克服できていないのに克服できたかのようにふるまうことで悲しみが克服できてしまうということである。これは演技によって虚偽を生きたりするということではない。あるいは演技によって真のありようを忘れてしまうという自己欺瞞の話でもない。そうではなくて克服できないものを克服するということは、闇を抱えながら、悲しみを抱えながら、それが克服できているかのようにふりをすること、悲しみとともに生きることが悲しみを克服することである。ウィズ(with)悲しみ(軽薄な言い方を許してもらえるのなら)こそが悲しみの克服なのである。

劇作でも映画でも、夫婦は死んだ息子の思い出がつまっている邸宅を売り払うことはしなかった。そこで生きること。そして途絶えていた近所づきあいを始めることで、前に進もうとする。おそらくそれは可能であろうという予感で終わる(映画版では、実現した近所づきあいの復活が、映像化もされるのだ)。夫婦の日々に、平穏な日常が回帰した。ただし、その日常にはぽっかり穴が開いている。それまでは、その穴を塞ごうとする悪戦苦闘、その穴にはまってしまうことを回避すること、あるいはその穴に引きずり込まれることを望んでいたりと、その穴に苦しめられた。言い方を変えれば、幼い息子の事故死以後、夫婦や親族の生活は、ささいなことで感情の爆発を繰り返すことになった。また夫婦の絆は切れそうになった。不穏な日々がつづく。だが、その穴とともに生きうることを選択するようになることで、その穴は克服され、平穏な日々が復活するのである。

ラビットホールとともに生きる人生。

だが、救いは、もうひとつあった。(つづく)

posted by ohashi at 19:31| 演劇 | 更新情報をチェックする

2022年11月13日

ハンコ押さない法相

葉梨康弘法相の失言問題と更迭をめぐり、たとえば次のようなネット記事があった。

スポーツ報知
青木理氏、失言で「更迭」された葉梨康弘前法相に断…「人間としての限りない精神の退廃」
報知新聞社 2022/11/13 08:29

TBS系「サンデーモーニング」(日曜・午前8時)は13日、「法相は死刑執行のはんこを押す時だけニュースになる」などの不適切な発言で批判を受けた葉梨康弘法相(63)=衆院茨城6区、当選6回=が11日に首相官邸で岸田文雄首相(65)に辞表を提出、受理されたことを伝えた。事実上の更迭とみられる。

 コメンテーターでジャーナリストの青木理氏は今回の問題に「死刑問題は僕、かつて、かなり集中的に取材したことがあったんですけど」とした上で「死刑制度を肯定するにせよ否定するにせよ、国家の名の下に人の命を奪うっていうのは、これ以上の最高度の国家の権力の行使って基本ないんです」と明かした。

 その上で「それを冗談にするって政治家っていう以前に人間としての限りない精神の退廃っていうか、これはすさまじい精神の退廃だと思う」と断じていた。【以下略】


青木氏のコメントは、その通りであり、メディア全体の論調も一致してそうした主張を行っている。それについて問題ないのだが、老人の癖として、個人的な昔話をさせてもらうと――

中学生の頃だったと思うのだが、社会科の授業で、死刑制度の話になり、そのとき先生の口から、裁判で死刑が確定しても、実際のところ、法務大臣は死刑執行のハンコを押さないことが多いと話してくれた。中学生だった私は、そういうものかと驚いた。

Wikipediaによると「執行までの期間」は、「死刑判決確定後6ヵ月以内に、法務大臣が執行を命令しなければならない(刑事訴訟法475条2項)が、平成15年9月12日から平成27年7月27日までの実績では平均5年4か月だった」とある。

6ヶ月以内に法務大臣が執行を命じないのは、再審請求が行なわていたり、共犯者の刑が確定してないというような理由があるらしいのだが、法務大臣がハンコを押そうとしないことも、その理由のひとつであろう。

中学の社会科の先生の話だと、法務大臣職は長期にわたって続けるものではない。内閣改造にともなって交代する役職だから、自分が法務大臣になっている短期間に、死刑執行という人殺しになりたくないというのは人情としてわからないわけではないとのことだった。

死刑囚にとっては、何時死刑執行されるかわからい日々を長く経験することは拷問に近いことだろうが、同時に、極悪非道な犯罪者にして国民の敵でもある死刑囚とはいえ、その死に関わることは、たとえどんなに死刑執行の正当性を信じていたとしても、尋常ではない覚悟と強靱な精神を必要とするだろう。ちなみに死刑制度の不条理は、死刑囚が一定期間あるいは時には長い年月を経て改悛し真人間になってから殺すことにある。死刑は悪人ではなく善人を殺す制度なのである。

ネット上には、「歴代法務大臣の死刑執行命令数」というのがあって、執行を命じていない法務大臣は、任期が短かった法務大臣を除いても、存在している。しかも、そうした記録は、古くても1980年以降であって、それ以前の記録は、ネット上では見つからなかったのだが、おそらくハンコを押さなかった法務大臣は、けっこうな数いたと推測できる。たとえ職責に反することとはいえ、良心のかけらは、そうした法務大臣には残っていたのではないか。それが私の中学の社会科教員の発言にもつながったのではないかと思う。

逆にいうと、平気でハンコを押す大臣が増えたことも問題ではないか。ベケットの『ゴドーを待ちながら』は、死刑執行の時を待っている死刑囚の心象風景にも思えてくる。待ちの苦しみを和らげてやろうと法務大臣は死刑執行を早めているというのは真の理由ではないだろう。なかには嬉々として死刑執行のハンコを押す自民統一教会の法務大臣もいたはずである。腐敗し不正に荷担している自分の所業に向き合うことなく、正義による死刑執行を信じて疑わない精神異常者が。

葉梨前法務大臣は、死刑執行に対し無神経だったのだが、当人はハンコを押す前に更迭させられた。しかし繰り返すが嬉々として(つまり義務を果たすことに自己満足して)ハンコを押し続け、死刑執行命令数の多さを自らに対する勲章みたいに考えていた法務大臣もいたはずで、それは、自民統一教会のなかに蔓延するようになっていた、死刑に対する感覚の麻痺、人を殺す経験の苛烈な重さへの無自覚の結果ではないのかと、私はそう思わずにはいられない。

葉梨前法務大臣の失言は氷山の一角なのである。
posted by ohashi at 15:27| コメント | 更新情報をチェックする