作 キャリル・チャーチル
翻訳 浦辺千鶴
出演 戸次重幸、益岡徹
紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA
原作はもっているのだけれども、いつも挫折して途中で放棄していた。今回、紀伊國屋サザンシアターでの二人芝居をみて、はじめて戯曲の全貌を知ることができた。舞台が終わったとき、時計をみて驚いた。開演から70分しかたっていないのだ。いや、原書をもっているのだから、短い戯曲だということくらい見当がついていたのではと言われそうだが、最後まで読んだことがなかったこと、難解な作品の場合、終わりが途方もなく先にあるように思えてしまい、大長編戯曲だと勝手に思い込んでいた。
今回、舞台を最後まで見て、原書も読んでみて、また公演プログラムを読んでみてわかったことは、この作品は、まだわからないということだった。翻訳劇の日本語の台詞を通しても、演出家の上村聡史氏のコメントや、戸次重幸、益岡徹の二人の俳優の発言を呼んでも、またその熱演を通しても、そして私が原書を読んだ感想からしても、どこにも決定的な解釈はないように思われる。いや、そんな高級な話ではなくても、何が起こっていたのかについての認識そのものが、私も含め、各人各様であって、決定的なものがないということである。
ちょうどこの作品において、同じ遺伝子をもつクローンであっても、境遇とか生い立ちによて全く違った人格になるのと同じように、演出家、翻訳者、俳優、そして観客が、同じひとつの作品に接し、そこから真相を探り当てようとしながらも、各人各様の解釈しか出せないのである。
いや、クローンといっても、先に『デュアル』というクローン物のB級映画について語った時、この演劇作品は、念頭になかったのだが、クローンというテーマ自体、この『A Number』において、確かに前提とされているようなのだが――たとえば、息子が死んだとき、再婚して新たな息子を作ろうとしたのではなく、なぜ、死んだ息子と同じものを作ろうとしたのかという疑問、また後半終盤にある、遺伝子がどうのというセリフなどから、クローンがテーマとなっているらしいとわかるのだが、劇中、「クローン」という言葉は一度も使われていない――、この父と息子との濃厚な場面において息子がクローンであるというのは、あまたある可能性のひとつではないかということも考えられる。
クローンはメイン・テーマではなく、クローンのように増殖するテーマのひとつだとしたらと考えたらどうなるのだろう。いまここではこの点は追究しないが、いずれ考えてみたいことである。
それまではクローン問題にこだわっておきたい。
なぜクローンを作るのかという問題は、映画『デュアル』においては、不治の病にかかり余命いくばくもない子供(若い女性)が、自分の親や恋人を悲しませたくないために、自分自身のクローンを作って親や恋人といっしょにすごさせる。ところが、不治の病が治ってしまい、クローンが必要なくなる。しかしクローンはすでに親と暮らし始めている。不要になったクローンとはいえ、人間であるので、簡単に廃棄できない。また親やフィアンセは、クローンのほうを気にいっている。そのためオリジナルとクローンを戦わせ、勝者が生き残るようにさせる……、というのが映画の設定だった。
『A Number』 (以下ANとする)では、母親と息子を交通事故で失った父親が、死んだ息子を悼んで、息子のクローンをつくる。死んだ息子は4歳くらいだから、オリジナルとクローンの年齢差は、4,5歳となって、オリジナルとクローンは見た目はほぼ同じとなる。いま、私が自分のクローンを作ると、そのクローンが今の私と見た目が同じになる頃には、私は寿命がつきて死んでいる。なぜならオリジナルとクローンとの年齢差は70歳近くになるからで、クローンが70歳近くになる頃、私は死んでいるということである。
ANの場合、親が悲しまないように、親が、子供のクローンを作る。『デュアル』の場合は、親を悲しませないように子供のほうが自分のクローンを作る。ただし設定のリアルさを考慮すればANのほうがありうることである。そしてANにおける親と息子(ひとりはクローン35歳、もうひとりはオリジナルで40歳)の対話は、創造主と二人の子ども(アベルとカインだという説もある)の対話となるのだが、オリジナルの息子とクローンの息子は性格が異なる。私としては、父親とクローン/息子との対話は、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』におけるヴィクター・フランケンシュタインと彼が作った人造人間との対話だと考えたい。
ANにおいて父親は自分の手でクローンを作るのではないが、クローンを作った創造主として形容できる。そして子供であるクローンは、彼がつくった人造人間である。また父親がSalterと呼ばれのだが、Salterというのはイギリスの有名な秤メーカーであり、また医療機器とか手術とも関係のある名称で、父親の名前が医療とか医学を連想させるものとなっているのではないか。父親は医者や科学者ではないかもしれないが、医学や科学を連想させる名前となっている(この点は、まだ仮説ともいえない段階にとどまっている)。
ANにおいて父親は、母親と幼い息子が交通事故で死んだとき、なぜ、再婚して息子をつくるのではなく、息子のクローンを作ったのかと問われて、息子が完璧だったからと答えている。なるほど4歳頃の息子は、おそらく父子関係のなかで父親にとってもっとも可愛い時期にあって、その関係性を永遠にとどめておくためにクローンをつくったともいえる。
ところが実の息子(オリジナル)の証言によれば、父親は夜泣き叫ぶ4歳の息子を見捨てた。となると美しい息子との関係性を永遠にとどめておこうとするよりも(実際にクローンは人間で歳をとるから永遠に美しい息子であることはない)、失敗した息子の子育てを、新たにクローンを作って贖おうとしたのではないか。失敗を取り戻すためにクローンを作る。だが、そうなると見捨てられた息子はどうなるのか。『フランケンシュタイン』は見捨てられた人造人間が、生みの親たるフランケンシュタインに復讐する物語である。
このフランケンシュタイン物語のアダプテーションという路線で、ANを考えてみたい。それはまた『フランケンシュタイン』を、クローン物語としても読みなおす可能性を切り開くものともなろう。つづく
2022年10月14日
『A Number』
posted by ohashi at 20:08| 演劇
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