どんな映画かと予備知識なしで観てみたら、どう受け止めるべきか、こちらのスタンスを決めかねて戸惑った。IMDbでの観客反応を見てみたら、低評価が多い(なかには憤慨している評価もある)が、同時に高評価も多数あり、まさに毀誉褒貶相半ばする映画といえようか。
そんななか監督の前作からの影響で“Deadpan dark comedy”という評言があり、なるほどと納得した。おそらくこれがこの映画を高く評価するときのスタンスと言えるだろう。
また、そうなるとIMDbにあった次の評言が生きてくる――What people find poor about this film is actually it's greatest quality.
ちなみにWikipedia日本版のこの映画の解説は、映画撮影前に書かれたらしく(どうしてそんなに早く書くのか、あるいは、どうしてそんな記事が必要なのか不明)、端的に間違っている、というか何が言いたいのかわからない――
『デュアル』(Dual, 2022) は、ライリー・スターンズ【Riley Stearns】が脚本、制作、監督する風刺的なSFスリラー映画である。本作は、主人公の女性が奇跡的に回復し、クローンを廃止することに失敗した後、彼女がすぐに死ぬことを知って自分自身をクローン化し決闘するよう裁判所に命じられるという話である。【この内容紹介に惑わされないように、というか、なんのことかさっぱりわからないのでまどわされるまでもない。】
この映画は2020年4月に発表され、カレン・ギラン、アーロン・ポール、ビューラ・コアレが出演する予定である。主要撮影は2020年10月に始まり、全シーンがフィンランドのタンペレで撮影される。【こういう未来時制の文がWikipediaに掲載されるのは珍しい。いまから2年以上前に書かれたもののようだ。それにしても撮影場所の特定に何の意味があるのだ。】
私はIMDbへの投稿者のようにこの映画には憤慨などしていないが、この日本版Wikipediaの記述には憤慨した――なぜこんな記事が残っているのか、と。
“deadpan dark comedy”とは言い得て妙である。最後の場面【以下、ネタバレ注意:Warning: Spoilers】、生き残ったクローンのほうが(本人はオリジナルと言っているが、クローンであるのは、歴然としている)が、車を運転しながら、最後に車をとめて車内で号泣する。道路の真ん中に車を止めているので通行の邪魔になり周囲でクラクションが鳴り続ける。
なぜ彼女が号泣しているかというと、物語の流れから、オリジナルを殺して居座ることに成功したものの、置き換わった人生にうんざりしはじめ後悔の念が罪の意識(不正な方法でオリジナルを殺した)との相乗効果によって彼女を号泣させたのであろう(理由1)。
あるいはオリジナルとコピー(ダブル)との間に芽生えていた友情関係を、みずからの手で壊してしまったことで、失ったものの大きさに気づかされた彼女が号泣するしかなくなるということだろう――おそらくこの世で心を通わせることのできたであろう唯一の友を、自らの手で殺したのだから(理由2)。映画のエンドクレジットは、殺されたオリジナルが埋まっているであろう森の奥を映しつづけ、生と死、置き換わりと廃棄が映画の主題であることを暗示する。
しかし、もうひとつの、おそらくこれが最も明白な理由というものもある。コピーのほうが自動車の運転を習う機会がなくて、運転が下手。というか運転がほぼできない。いま彼女が乗る自家用車も、車体がまんべんなくへこんだりパネルがはずれそうになっていて、数限りなく接触事故あるいは交通事故を繰り返していたことがわかる。彼女の号泣の原因は、それである。車を運転できずに事故ばかり起こしている自分にいい加減嫌気がさしきて、号泣するしかなくなった(理由3)。
そう、この映画の物語は、クローンのほうがオリジナルよりも狡猾さにおいて上手だった。でもこのクローン、運転が下手すぎるというもの。なんだ、このテーマは。オリジナルかクローンのどちらが生き残るのかという緊張感のある物語の最後は、クローンのほうが運転が下手というのは、なんちゅう終わり方だ。そこが面白すぎる。
IDMbへの投稿者の評価では、“Tries hard to be deep but ends up being silly.”というのがあったが、だから低評価にするのではなく、まさにこの点が面白いところでしょう――繰り返すと、What people find poor about this film is actually it's greatest quality.
テーマの深い掘り下げがあることは確かである。上記の理由1と理由2も失われることがなく最後に現前しているところに、この映画の深さがある。と同時に、しれっと(deadpanで)バカな終わりをもってくることに対して、憤慨することなく、笑うことができないというのは知性も感情も貧弱すぎるのでは。
映画の冒頭は、オリジナルとコピーの生き残りをかけた決闘(テレビ中継あるいは動画撮影される)である。武器は、用意されたものから選ばれる。相手がクロスボウを選んだのに対して劣勢になるこちら側は、ようやくナイフを手にする。しかもこちら側は、盾にしたテーブル越しに片腕を出して相手を挑発する。どうしてこういう戦い方をするのかは、あとで主人公が決闘のトレーナーから教わる戦術によって明らかになる。クロスボウを撃たせて矢を使いつくさせる。矢がなくなったところで、相手の懐に飛び込みナイフでとどめを刺す。
冒頭での決闘(決闘裁判と字幕が出るが、映画『最後の決闘裁判』に影響をうけすぎ。もっとも『最後の決闘裁判』も原題がThe Last Duelだから「裁判」の文字はないものの、内容は真偽の決定だから「決闘裁判」でもよいのだが(歴史用語としても、決闘裁判が定着している)、こちらは裁判ではなくただの決闘であって正邪、真偽の審判とは関係ない)は、さらに決闘トレーナーとの練習の最終段階で、ゆっくりした動きと言葉によって決闘をシミレーションする場面へとつながる。彼女は相手(トレーナー)を木製の疑似ナイフで後ろから刺すかっこうをして、これで肝臓に致命傷を与えることになると言葉で説明するのだが、後ろから刺すわけだから、腎臓をひとつきということになるはずだが。と、まあ、それはともかく、こうしたシミュレーションを繰り返して、たぶん、ラストの壮絶な果し合いになだれ込むかと思ったら、決闘はなし。おいおい、決闘のアクションシーンはないのかとつっこみを入れたくなるとき、それがこの映画のたくらみであったことがわかる。決闘以前に決着はついてしまうのである。
あるいは彼女がトレーナーへのレッスン料が払えなくなるのではと心配すると、金銭以外にも支払う方法があるとトレーナーがいわくありげに彼女に告げる。そして決闘が一か月延期になったため、追加の一か月のレッスン料が払えなくなったとき、トレーナーは金銭以外の方法を示唆する。それは、何か? 窃盗によって金品を盗むのか、違法行為を請け負って報酬を得るのか、あるいは体で、セックスによって払うのかといろいろ想像を巡らせるのだが、答えは、彼女がトレーナーに無料でダンスの初歩的なレッスンをすること。ダンスを習得するチャンスがなくて困っていたトレーナーは初歩的レッスンを受けたことで、ダンス教室の初歩クラスに登録できたと、嬉しそうに彼女に告げる。え、それが、金銭以外に料金を支払う方法? 実際、彼女がトレーナーにダンスを教えるシーンは、なにか滑稽でみていて当惑の笑みがこぼれてしまうような場面である。
彼女がトレーナーとセックスするのかと思っていた助平親爺の私としては肩透かしどころではない、予想外の展開に唖然とするしかなかった。まさにアンチ・クライマックス、これぞベーソスBathos。この馬鹿馬鹿しさに観客が慣れて、それを面白がるようでなければ、観客のほうがDuncesである。
ただBathosだけでは片付かない気になる場面もある。トレイニング中に、通りの向こう側で自分を監視しているダブルの存在に気づいた彼女は、ガラス越しにクロスボウを撃つ。そしてダブルのいたところに駆けつけると、矢が刺さって死んだのは小犬だった。小犬は大きさといい、矢が飛んできたときの位置といい、彼女が狙った方向とか高さとはかけ離れていたので、彼女が目撃したダブルは、実在しているのではなく、彼女の幻覚ではなかったかという疑いが生じてくる。それ以後、現実と幻想との区別がつかない展開になるのではと予想したが、それはなかった。ただ、クローンのダブルとペットの小犬とが人間にとって同等の価値をもっているという暗示として受けとめるだけでいいのかと、今も疑っているが、ただ、クローンがペットだというのはこの映画の展開から生まれてくる優れた文明諷刺である。
最後の場面、彼女が車で外出するとき、その車は、まんべんなく接触事故の痕跡を残していていまにも壊れそうなポンコツ車であった。オリジナルの彼女は、ふつうに運転できるので、母親やフィアンセは、この運転の下手さ加減で彼女がクローンであることに気づいてあたりまえである。しかし母親もフィアンセも、最初から彼女(反抗的な娘で威圧的で感情の起伏に乏しいのがオリジナルな彼女)よりも、心優しいクローンのほうを気にいってしまっている。
しかし『ステップフォードの妻たち』のように、家父長的な男が、最初は、うるさい人間の妻よりも従順なロボットの妻を好むとしても、やはり最後は手におえない人間の妻の人間らしさが好ましいものと考えようになるのとは異なり、母親やフィアンセは、従順で大人しいからといってクローンのほうを最後まで愛し続けるのはどうかしているとしかいいようがない。
実際、IDMbには、この映画について、
Everybody acts like robots.
という評言があった。そう、この映画のテーマの暗い笑いは、たんに女性の主人公のオリジナルとクローンとの戦いをめぐるものにとどまらない。人間的欠陥、いや人間臭さのない、善男善女のクローンだけを愛するような社会そのものが、どうやらクローン化しているという暗示を観客に届けようとしているのではないか。実際、映画の最初の決闘から、作中で決闘を経て生き残った者たちの集団セラピーなどからすると、生き残ったのは、みんなクローンである。主人公も生き残るほうは、本人はオリジナルと主張しているが、クローンであることは誰にでもわかる。そうなると彼女の母親やフィアンセも、すでに入れ替わっている可能性が高い。そう、この映画における人物は、ほとんどクローンなのである(ダンスがうまく踊れないトレーナーも、ひょっとしたらクローンなのかもしれない――クローンは運転が下手、ダンスが下手、なにか下手なものをもっているのだ)。
こうみるとこの映画の諷刺の対象はかなり広く、その洞察はかなり深い。クローンというのは、実際、問題で、細胞からクローンを作っても、細胞の成長を早める技術が開発されないと、本人とそっくいりなクローンを作るのは難しい。そう、私とそっくり同じのクローンがすぐに出来上がることはない。いま私が自分のクローンをつくり、今の自分の身替りにしようと思っても、私にそっくりなクローンが完成するのは、今から60年以上後のことで、その頃には私は死んでいる。もし私が20歳で自分のクローンを作りはじめたら、そのクローンが20歳になるのは、結局、20年後で、そのとき私は40歳。そのクローンは私の身替りどころか、私に、つまり親によく似た息子でしかない。だからクローンがすぐに表れるという設定には無理がある。
ただロボットであるのなら、これはすぐにできる。しかし、そうなると人間であるクローンと違って、ロボットは歳をとらないから、母親やフィアンセとともに年齢を重ねることができない。そのため成長促進する技術を実現させてクローンを早急につくることしかないということになる。
しかし、ロボットという分身という設定も捨てがたい。というのも、AI搭載のロボットと結婚する人間(男性がメイン)がふえているというに記事を読んだことがある。『ステップフォードの妻たち』の時代に逆戻りしているのだろうか。あるいはAIが人間らしい花嫁を造り出すことに成功しつつあるのか。
ただ、それにしてもパートナーをいくら愛していても、パートナーの身体的人間的欠陥を許容しなかったら、それは真の愛ではなくなる。パートナーの口が臭い、足が臭いことを許容してこそ、パートナーが計算に弱く字が下手であっても、パートナーがビーフカレーしか食べず納豆が嫌いであっても、それを許容することで、そこに夫婦愛も生まれる。欠陥のない完璧なパートナーを好むのなら、あなた自身がAI化している、つまりあなた自身が人間性を捨ててロボットになっていることになる。ピグマリオン神話では彫刻家ピグマリオンの愛ゆえに、彫像の女性が、人間の女性へと変貌を遂げる。AIの花嫁は、AIを愛するあなたを人間から彫像=ロボットに変えてしまうのである。
ただし、この映画が、その設定として、クローンのかわりにロボットあるいはアンドロイドによる身替り制度をすればよかったかというと、そうでもない。ロボットなら、不用になれば廃棄処分できる。しかしクローンは人間なので簡単に廃棄できないから、生き残りをかけてオリジナルとの決闘という設定――物語の軸となる設定――が必要となる。
と同時にクローンは人間なので、ロボットにはない自意識の目覚めがつねに起こりうる。実際、主人公のクローンは、主人公の母親やフィアンセに可愛がられ愛されるのだが、クローン自身は、だんだんそれがうっとうしくなる--もしペットが語れるなら、同じようなことを語るだろう。従順で親孝行な娘、フィアンセや夫の言いなりになる女性、そんな役割を演ずることが、このクローンにはうざったくなる――物言うペット。結局、オリジナルとの闘争で生き残っても、頑迷な母親と干渉的なフィアンセ/夫との挟み撃ちにあう人生が待っている。はたしてオリジナルに入れ替わって生きる人生にどんな意味があったのか。泣きたくなるではないか。これが最後の場面でクローンの彼女が号泣する理由であろう(理由4)。
これを映画は、静謐で物寂しい映像によって、何食わぬ顔で(deadpan)物語として展開する。IMDbには、“Poor man's Yorgos Lanthimos?”という評価もあったが、たしかに不条理感を強くすれば、Yorgos Lanthimosの世界に近づいたかもしれないが、このままでも、そのdeadpan性を充分にクセの興味深い映画という地位を失うことはないだろう。