デヴィッド・O・ラッセル監督・脚本・製作。2022年製作。アメリカ映画。
豪華キャストをうたっている映画だが、それを強調することは、映画の内容そのものについては、映画会社としてもやや自信がないことの裏返しではないか。
ちなみに、この作品は、大戦間(第一次世界大戦と第二次世界大戦との間)の合衆国におけるファシズムの台頭と陰謀をあつかった疑似実録物であるため、ネットに巣食っている日本のファシストから酷評されている。一番傑作なのが、いまはファシズムの時代じゃないというもの。ファシズムが消滅したり無害化されているのが現代ならば、過去のファシズム台頭期をふりかえっても誰も傷つかないし、無害なら現代に対する政治的批判性もないわけだから、なにも目くじらをたてる必要なない。逆にいうと、現在のファシストやネオナチやそのシンパどもには、この映画のファシズム批判が突き刺さっているということである。
統一教会という反日カルト宗教団体と結託していた自民党の批判をまともにできない、おそらく自身も統一教会のメンバーであろうファシストたちの意見とは一線を画すことをお断りして、この映画について個人的感想をいえば、予想に反して、面白くなかった。
ロバート・デ・ニーロ演ずるギル・ディレンベック将軍(退役少将)というのは、スメドリー・ダーリントン・バトラー将軍がモデルになっていて、バトラー将軍は、第一次大戦後、戦争を不正な金儲け(racket)として糾弾したことで名高い。
この糾弾によって、電通ににらまれた将軍は、軍法会議にかけられたし、イタリアのファシストでメシアあるいはグレート・ファーザーと呼ばれた文鮮明についての言及で、統一教会と癒着していた合衆国議員から批判され、出世の道を閉ざされもしたのだが、この映画は、将軍の行動を、ファシストに利用されているふりをして、ファシストの陰謀をあぶり出すものとして捉えている。それがアメリカ史における、どれほど斬新な解釈か、ありふれた解釈なのか、わからないが、バトラー将軍をめぐるファシストの陰謀というのが、この映画における大きな陰謀となる。
それは映画を通してよく理解できるのだが、たとえば映画のエンドクレジットでは、バトラー将軍の議会あるいは聴聞会(?)でのスピーチの映像と、そのスピーチを作品中で、ディレンベック将軍を演じたデ・ニーロが完コピした映像が流されて、そのシンクロぶりに圧倒されるのだが、しかし映画のなかでは、デ・ニーロの完コピのスピーチはない。映画のあのときのスピーチは、実際に残された記録映像のスピーチ部分を完コピしたものだと示されれば感動するが、エンドクレジットだけのおまけにすぎない。ひょっとしたら映画の中でも使おうとしたのだが最終的にカットされたのか。いずれにしても、何をどう使うのか映画がそのものがゆれている観が否めない。何をしたかったのかわからないというよりも、総花的な展開で、余分なものがありすぎたり、必要なものがなさすぎたりする、そんな印象なのである――これを通常は「空回り」という。
主人公のバート・ベレンゼン医師を演ずるクリスチャン・ベールは、同じ監督の『アメリカン・ハッスル』では異様に太っていて驚かされたのだが、今回は、老け込んでよぼよぼになり、鎮静剤中毒でもあるポンコツ医師へと肉体改造しての登場である。彼がナレーションを担当して、このオフビートな世界像を、特定の視点からまとめあげるているのだが、なにか説得力に欠ける。実家が富豪である妻と彼が別れ、恋人と新しい人生を歩むとしても、戦傷により身体が不自由になっているうえに、寄る年波によって身体の自由がきかなくなっている医師に、生まれ変わった後の輝かしい未来は待っていないように思われる。
クリスチャン・ベール扮する医師が、第一次大戦中アムステルダムで出逢った黒人兵士(弁護士)と看護師(富豪の妹でもあるが)とのトリオで、陰謀に巻き込まれつつも、その陰謀を暴き、新たな人生を始めるこの映画では、医師/クリスチャン・ベール、看護師/マーゴット・ロビー、黒人弁護士/ジョン・デヴィッド・ワシントンの三人というかトリオで充分なので、それ以外に豪華キャストをそろえる必要はあったのか。
映画はオフビート感は横溢させてもエッジが乏しいがゆえに豪華キャストでごまかそうとしたのか。まあデ・ニーロ扮する将軍はいいとしても、ラミ・マレック扮するナチズムを信奉する富豪ほど、マレック自身に似合っていない役はない。ラミ・マレックの妻役のアーニャ・テイラー=ジョイは、スパイファミリーのアーニャと異なり、可愛げのまったくないいつもの役柄だが、べつに彼女でなくてはならないということもない。
陰謀とかファシスト勢力の動きをうかがっている政府側の人間にマイケル・シャノンと マイク・マイヤーズをもってくる必要はどこにあったのか。マイク・マイヤーズは、最初、誰かわからなかったのだが、観客にとって俳優の名前がすぐに出てこない役柄だったら、最初から名前のよくわからない俳優を起用してもいいのではないか。刑事役のマティアス・スーナールツは、『君と歩く世界』『ヴェルサイユの庭師』『フランス組曲』『リリーのすべて』さらには『レッド・スパロー』まで見ている私としては見間違えようもないのに、最後までわからなかった。私がひそかにファンであるアンドレい心のなかで拍手したが、それはともかく、テイラー・スウィフトにいたっては、いきなり最初から出てきたと思うと、いきなり死んでしまうという役で、だったら無理して出演しなくてもいいのではと思った(ただしマーゴット・ロビー、アーニャ・テイラー=ジョイ、アンドレア・ライブボロー、ゾーイ・ザルダナと、女優は、みんなこれまでのどの出演作においてよりも、美しく撮られていたることは誰もが認めるところだろうが)。
総じて、豪華キャストは、豪華キャストの無駄遣い感が強く、作品の魅力を増すというよりも、作品のよさを損なっているところが多い。
同監督の『アメリカン・ハッスル』と同じ、疑似実録物としての映画は、大戦間のアメリカを襲った陰謀に焦点をあてることで、実は、この時期がアメリカ史における黒歴史であるとともに転換期でもあったことを観客に思い起こさせることにある。
黒歴史であるというのは、帝国主義戦争であった第一次世界大戦とは異なり第二次世界大戦は、ナチズム・ファシズム対民主主義の戦いであったのだが、大戦以前にナチズムやファシズムが民主国家アメリカに浸透していたからである。ナチズムに傾倒する富豪が出てくる。また同じ富豪連中は同時にヒトラーと戦ってもよいと考える――戦争は金がもうかるからである。こうした資産増殖のためなら戦争をも辞さない親ファシストの大富豪たちに蹂躙された市民・国民の代表を、従軍して傷だらけの身になり身障者となった主人公が表象する。モンロー主義を守って他国の戦争には介入しなかったアメリカが、第一次世界大戦では他国の戦争に参戦する。以後、アメリカは海外派兵を繰り返し、たとえ勝利しても多くの犠牲者を出してきた。そして復員兵のなかには、多くの傷痍軍人たちがいた。戦争とは、死者以上に身障者の問題である。そしてこれがアメリカにとって悪夢のはじまりであった。
つまり大戦間のアメリカ社会の問題が、今のアメリカ社会の問題にもつながっているのである。度重なる海外派兵ゆえに国内には行き場のない傷痍軍人や復員兵があふれ社会問題化する--それも常に。とすれば、この映画の射程はけっこう広い。この悪夢へとアメリカが引きずり込まれていくはじまりが、まさに大戦間のこの時期(『グレート・ギャツビー』の時代でもある)だったのだ。
と、まあ、ストレートな演出ならば、そうなるところだろうが、またストレートな語り口でも充分に刺激的な内容だったと思う。題材が、ストレートな提示になじまないほどありふれたものということはなさそうなのだから。ところが、あえてオフビートな語り口へと舵を切ったために、テーマ性なりメッセージ性が弱まっている――それがよいという観客がいてもおかしくないし、まあオフビートな語り口ゆえにあぶりだされる政治性や社会諷刺があることを否定するものではないとしても。
問題は、『アメリカン・ハッスル』よりもさらに進化あるいは深化したオフビート性が、クリスチャン・ベールのさらに進化あるいは深化した肉体改造にもかかわらず、そしてオールスターキャスト(とはいえクセの強いオールスターなのだが)にもかかわず、空回りしているということなのだろう。
しかし、ここで忘れてならないのは、この映画全体が、『アメリカン・ハッスル』を進化あるいは深化させた結果、漫画となっているということだ。内容だけではない、絵柄そのものものも漫画なのである。
漫画といっても、アメリカン・コミックということではない。グラフィック・ノベルとか、バンド・デシネといった、アメリカン・コミックとは一線を画す、オフビートで芸術性も高い漫画のことである――メビウス、エンキ・ビラル、大友克洋といえばわかってもらえるかもしれない。
いっぽうでアメリカ映画では、アメリカン・コミックのスーパー・ヒーローが多数活躍する実写版がスター俳優たちを迎えて次々と製作され、スーパーヒーロー疲れといった現象すら起こっている。マーヴェルとかDCコミックのヒーローたちの実写版映画がSFファンタジーで未来志向的であるのとは対照的に、バンド・デシネ的世界の実写化を狙ったかのような『アムステルダム』は、過去志向で実録物かつノスタルジックである。スーパーヒーロー物の映画がCGを多用しスペクタクル性を横溢させた圧倒的な映像美と躍動で観客を魅了するのとは対照的に、『アムステルダム』では、汚れ疲弊した退嬰的世界を出現させるためにCGが使われている。そこではヒーローはボディビルディングによる均衡のとれた肉体美を誇ることはなく、むしろ、医療整形の繰り返しで異形化し壊れかかっているような脆い身体を誇示するしかなく、ヒーローと言うよりもアンチヒーロー化している。
そう考えれば『アムステルダム』は、アメリカン・コミックのスーパーヒーロー物の実写版へのアンチとして評価できる――あるいはバンド・デシネ的世界の実写版として評価できる。
もちろん題材も、アメリカの黒歴史を扱うという点でも、バンド・デシネ的世界に適合している。惜しむらくは、題材が、実録物としてノスタルジックなかたちで封印されることなく、現代のアメリカあるいは現代の世界の寓意とも化したことだろう。バンド・デシネはおもろしいとしても、アメリカン・コミックのスーパーヒーロー物がいかにくだらないとしても(私はそうした映画のどれも観たことがないし、観るつもりもない)、しかし、だからといって、いまバンド・デシネする意味はあるのかという気持ちは消し去ることができない。
2022年10月27日
グッド・ナース
2022年製作 121分 アメリカ
原題:The Good Nurse
この映画のなかで、ジェシカ・チャスティン扮するICU担当の看護師のエイミーが、心臓病の検査をうけたあと、医院で支払うお金が、健康保険に入っていないため980ドルといわれて驚いた。円安で1ドル150円で換算すると14万7000円。一回の検査だけで14万円というのは高い。日本で保険に入っていない場合でも、検査と診断で高くて1万を超える程度だろう。アメリカで病気になったら金持ち以外は破産する。
しかしこれはアメリカでの事情だとしても、医療の怖さはこの映画はしっかり堪能させてくれる。
チャールズ・カレンCharles Cullen(1960-)という、400人は殺したであろうというシリアル・キラーがアメリカにいたとは、恥ずかしながら知らなかった。看護師であるカレンは、インスリンの過剰投与あるいはジゴキシンのような心臓病薬を投与して患者を殺している。動機なき無差別殺人である可能性もある。
問題は、カレンの連続殺人がカムフラージュのように病院環境のなかでみえなくなってしまったことだろう。それは病院は病気を治す場であると同時に患者が死ぬ場でもある。そういう意味で病院において患者の死は日常茶飯事とまでは言えないが、ありふれた光景であり、出来事性はない。ふつうなら不審死である場合も、病院のなかでは自然死となる。
カレンが怪しまれて病院を辞めさせられてもすぐに別の病院に雇われていたのは、慢性的な看護師不足が原因である。そのうえさらに病院側でもいくら不審死をだし、また看護師が怪しいとにらんでも、病院の不祥事隠蔽体質により、そのことが表沙汰になることはない。結局、多くの病院を転々としても、その理由が隠されている以上、病院側も何もわからないまま雇い、問題が起きたら追放することを繰り返すだけである。病院は、ある意味閉鎖病棟であり、そのなかで400人も殺したシリアル・キラーが活動する屍人荘である。
映画の物語そのものは、ひねりはない。チャールズ・カレンという実在したシリアル・キラーを扱っている実録物映画なので、カレンについて知っている観客にとって、ひねりなど必要はない。私のように、カレンについて何も知らなかった無知な観客にとって、エディ・レドメイン扮するナースは、誤解され中傷を受けているが、ほんとうは善良なナースで、真犯人は別にいるのではないかと思ったりしたし、それほど、エディ・レドメインとジェシカ・チャスティンが扮する二人のナース間に生ずる化学反応に違和感はなかった。また犯人が家庭に善人面して入り込むというのも、お約束の展開だが、ミステリーではないので、ある意味、淡々として描かれ、そこを掘り下げたり広げたりすることがなかったのも、良い点にふくめられる。
このこともふくめこの映画は、ジェシカ・チャスティンとエディ・レドメインの超絶演技と、事件に向き合い真実をあぶり出そうとする緊張感、そして静謐な場面にこそふさわしいじわじわと迫りくる恐怖(ただし映画はミステリーでもホラーでもないが)によって観客を最後まで魅了する。静謐な場面が淡々とつづいたり、暗くてよく見えない場面が多かったりするが、それでもまったく退屈することはなく、かえって緊張感がたかまった。
最後まで動機をあかさない犯人を演ずるのは大変だという声もナット上にあったが、映画館で予告編をみたとき、エディ・レドメインとは気づかなかったくらい、レドメインは変貌していた。カレンの写真は多く残っているが、カレンの容貌や話し方などをできるかぎり再現しようとしたことがうかがわれる。あとカレンは、キラー・ナースと呼ばれていたらしい。映画はジェシカ・チャスティン扮するグッド・ナースと、エディ・レドメイン扮するキラー・ナースとの戦いであり、また友情の物語でもあった。
原題:The Good Nurse
この映画のなかで、ジェシカ・チャスティン扮するICU担当の看護師のエイミーが、心臓病の検査をうけたあと、医院で支払うお金が、健康保険に入っていないため980ドルといわれて驚いた。円安で1ドル150円で換算すると14万7000円。一回の検査だけで14万円というのは高い。日本で保険に入っていない場合でも、検査と診断で高くて1万を超える程度だろう。アメリカで病気になったら金持ち以外は破産する。
しかしこれはアメリカでの事情だとしても、医療の怖さはこの映画はしっかり堪能させてくれる。
チャールズ・カレンCharles Cullen(1960-)という、400人は殺したであろうというシリアル・キラーがアメリカにいたとは、恥ずかしながら知らなかった。看護師であるカレンは、インスリンの過剰投与あるいはジゴキシンのような心臓病薬を投与して患者を殺している。動機なき無差別殺人である可能性もある。
問題は、カレンの連続殺人がカムフラージュのように病院環境のなかでみえなくなってしまったことだろう。それは病院は病気を治す場であると同時に患者が死ぬ場でもある。そういう意味で病院において患者の死は日常茶飯事とまでは言えないが、ありふれた光景であり、出来事性はない。ふつうなら不審死である場合も、病院のなかでは自然死となる。
カレンが怪しまれて病院を辞めさせられてもすぐに別の病院に雇われていたのは、慢性的な看護師不足が原因である。そのうえさらに病院側でもいくら不審死をだし、また看護師が怪しいとにらんでも、病院の不祥事隠蔽体質により、そのことが表沙汰になることはない。結局、多くの病院を転々としても、その理由が隠されている以上、病院側も何もわからないまま雇い、問題が起きたら追放することを繰り返すだけである。病院は、ある意味閉鎖病棟であり、そのなかで400人も殺したシリアル・キラーが活動する屍人荘である。
映画の物語そのものは、ひねりはない。チャールズ・カレンという実在したシリアル・キラーを扱っている実録物映画なので、カレンについて知っている観客にとって、ひねりなど必要はない。私のように、カレンについて何も知らなかった無知な観客にとって、エディ・レドメイン扮するナースは、誤解され中傷を受けているが、ほんとうは善良なナースで、真犯人は別にいるのではないかと思ったりしたし、それほど、エディ・レドメインとジェシカ・チャスティンが扮する二人のナース間に生ずる化学反応に違和感はなかった。また犯人が家庭に善人面して入り込むというのも、お約束の展開だが、ミステリーではないので、ある意味、淡々として描かれ、そこを掘り下げたり広げたりすることがなかったのも、良い点にふくめられる。
このこともふくめこの映画は、ジェシカ・チャスティンとエディ・レドメインの超絶演技と、事件に向き合い真実をあぶり出そうとする緊張感、そして静謐な場面にこそふさわしいじわじわと迫りくる恐怖(ただし映画はミステリーでもホラーでもないが)によって観客を最後まで魅了する。静謐な場面が淡々とつづいたり、暗くてよく見えない場面が多かったりするが、それでもまったく退屈することはなく、かえって緊張感がたかまった。
最後まで動機をあかさない犯人を演ずるのは大変だという声もナット上にあったが、映画館で予告編をみたとき、エディ・レドメインとは気づかなかったくらい、レドメインは変貌していた。カレンの写真は多く残っているが、カレンの容貌や話し方などをできるかぎり再現しようとしたことがうかがわれる。あとカレンは、キラー・ナースと呼ばれていたらしい。映画はジェシカ・チャスティン扮するグッド・ナースと、エディ・レドメイン扮するキラー・ナースとの戦いであり、また友情の物語でもあった。
posted by ohashi at 00:25| 映画・コメント
|

2022年10月24日
大河フォルスタッフ
『鎌倉殿の13人』に関係するネット上の記事に、次のようなものがあった。実朝と和田義盛との関係をシェイクスピア『ヘンリー四世』2部作のハル王子とフォルスタッフのそれと同じだとのこと。
実朝と和田義盛との関係性に『ヘンリー四世』のハル王子とフォルスタッフを重ね合わせるというのは、作者(三谷幸喜)の意図でもあるというのだ。
なるほど言われみれば、その通りで、上記のインタヴューで、柿澤勇人の発言も、ハル王子とフォルスタッフの関係性によって、さらに説得力を帯びると思う。
もちろんシェイクスピアの『ヘンリー四世』と違うところもある。フォルスタッフは、ヘンリー四世の宮廷で政権を担う有力貴族あるいは騎士ではなくて、夜盗をも辞さないやさぐれていて飲んだくれの老騎士である(フォルスタッフのモデルとなった貴族サー・ジョン・オールドキャッスルのほうは、有力貴族で、御家人ならぬ反カトリック・反教皇勢力に慕われる存在として、各地の反乱に関わり、最後に処刑されたので、和田義盛に似ているところがある)。
一方、ハル王子は、実朝ほど純情ではなく、むしろ北条義時のように闇落ちするような王子であり、最後にはフォルスタッフとの関係を切り捨てる。よく言えば名家のボンボンが、アウトローの世界にあこがれて彼らと付き合うようなもの。しかしむしろ無頼の徒とか貧困層の実態を肌で感じ取り、その経験を国王となったときに国民統制に活かそうとする策士めいたところがあって、純情で繊細な貴公子といはいいたがい。もちろんフォルスタッフのほうでも、この王子との関係を利用して政権の中枢に潜り込もうとする野心をまぎれもなく抱いているのだが。
もちろん、こうした違いがあってこそ、関係性の類似は際立つともいえるので、問題はないのだが、前回の記事で、実朝=ゲイ説で触れた、実朝が和田義盛に魅かれるのも、ゲイ的な感性ゆえのことという私の主張は、10月25日の回「罠の罠」では退けられることになるのだろうか。なにしろ和田義盛には山のように子供がいるのだがら(劇中では息子は二人が登場するが、映像では何十人もの息子がいるような錯覚すらもたらす仕掛けになっていた【実際には息子は10ほどいた】)。これだけ子供をつくればゲイとはいえないのでは。
だが、反日カルト団体である統一教会のみなさんには残念なお知らせがあるのだが、実朝と和田義盛との関係性が、もしハル王子とフォルスタッフに影響をうけているとするならば、ふたりは同性愛で結ばれている。たんなる友情に留まらない同性愛の絆がある。
『ヘンリー四世』の冒頭、はじめてフォルスタッフが登場するときの台詞からすると、ハル王子とフォルスタッフは、同じベッドで寝ていたことがわかる。そこに性的関係が濃厚に匂わされている。シェイクスピアの『ソネット集』の三分の二は、中年の詩人が、若い貴族の男性をほめたたえる同性愛詩だが、この年上の中年男性が若い美少年に寄せる愛は、『ヘンリー四世』にも受け継がれているというか、『ソネット集』(創作年代ははっきりしない)と『ヘンリー四世』は、もしかしたらほぼ同じ時期にかかれ、またそうでなくても、同じような同性愛関係をテーマにしている。
そう、ハル王子とフォルスタッフは同性愛的関係にもあり、それは年上の中年もしくは老年の男が、自分よりも身分の高い貴公子、若き美少年に恋い焦がれる関係である。『鎌倉殿の13人』の場合は、方向は逆だが、しかし、身分が接近すれば、相思相愛の関係に発展しておかしくない。
とはいえ、反日カルト団体の統一教会のみなさんには、それほど悪い知らせではないかもしれないのは、実朝という人物がシェイクスピアの作品ともっとも強く結び付けられるとすれば、それは『ハムレット』であるからだ。悩める青年貴公子として実朝がハムレットと結びつくのではない。
統治者が死んだとき、世襲ならば、その子供・嫡男が後を継ぐべきところ、あろうことか、統治者の弟がしゃしゃりでて、後を継いでしまう。そのため死んだ統治者の息子は、統治者の地位につくことができず、不遇の身となってしまう。
これは源頼家とその子供である公卿(幼名善哉)と、その公卿に殺された源実朝の話ではない。『ハムレット』における先代ハムレット王が源頼朝、その弟クローディアスが源実朝、そして父の敵としてクローディアス(実朝)を殺すのがハムレット(公卿)である。ちなみに公卿は12歳で出家し、18歳で鎌倉にもどってくるが、ハムレットもが学業なかばで大学から故郷デンマークに帰ってくるし、父の仇討のとき、公卿と同じような年齢である可能性が高い。
ハムレットの宿敵クローディアスは、ハムレットの叔父であり、また(母が再婚したため)義父でもあるが、公卿にとっても実朝は、制度的に義理の父ともなっていた。公卿が殺した実朝は、自分の伯父であり、また義理の父であった。
実朝とハムレットが重なると面白かったのだが、実朝は、ハムレットに父の敵として殺されるクローディアスの立場である。そこが残念なところだろう。実朝=クローディアスといのは、あまり魅力的ではないが史実だからしかたがない。
しかし反日カルト団体の統一教会の皆さんが安心するのはここまでで、クローディアスは、基本的にゲイである。そもそも『ハムレット』において、大学生の息子がいるくらいの年齢になった兄がいるといのに、弟のほうは、おそらくずっと独身なのである――兄が死んでから、すぐに兄嫁の女性と結婚するくらいだから、一度も結婚したことがないか定かでないものの、長い独身期間があったことはいうまでもない。
柿澤勇人はミュージカル『ライオンキング』の舞台をみて俳優にあこがれたそうだが、また自身、『ライオンキング』の主役シンバとして舞台に立ったこともあるようだ--私は舞台をみたことはないのだが。ちなみにアニメ版『ライオンキング』では、主人公のシンバの父を殺す、父の弟(シンバにとっては叔父)のスカーは、兄の死後、ライオンキングの地位を引き継ぐのだが、兄の残したメス・ライオンたちのハーレムは引き継がず、ハイエナたちと暮らしている。そこには悪役のスカーが、ゲイであることの暗示がある。つまりアニメ版『らいおんキング』のスカーは、『ハムレット』のクローディアスであり、『鎌倉殿の13人』の実朝である。みんなゲイである。ただし『ライオンキング』の場合、ゲイの悪魔化が行なわれていることには問題があるとしても。
鎌倉殿の13人:実朝&義盛は「ヘンリー四世」に通じる? 柿澤勇人が思う“惹かれる理由 Mantweb. 2022/10/22 07:10
激しい権力闘争が描かれているNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(総合、日曜午後8時ほか)。殺伐とした展開が続いているが、その中で、視聴者の癒やしとなっているのは、三代目鎌倉殿・源実朝(柿澤勇人さん)と御家人・和田義盛(横田栄司さん)の関係性だろう。実朝は義盛邸に足しげく通い、義盛は実朝のことを親しみを込めて、「武衛(ぶえい)」改め「羽林(うりん)」と呼ぶ。2人のほっこりしたやり取りは見ていて心が和むが、なぜ2人はここまで惹(ひ)かれ合ったのだろう。
柿澤さんは「互いのピュアな部分に共鳴したのでは」と話す。
「実朝は鎌倉殿として君臨しているけど、実権はないし、一筋縄ではいかない御家人たちをどう束ねていけばいいのかすごく悩んでいる。もともと、争いを好まない性格ということも自身を苦しめています。そんな中、御家人の中で荒くれ者だけど、すごく純粋で、誰かを陥れようとか考えてない義盛に惹(ひ)かれていったのではないかと思います。一方の義盛も、実朝の純粋なところが気に入ったのではないでしょうか」
柿澤さんはそんな2人の関係性について、脚本の三谷幸喜さんが、シェイクスピアの名作劇の一つ「ヘンリー四世」のハル王子とフォルスタッフの関係性に通じるものがあると話していたという。フォルスタッフはハル王子の親友で、若き王子に悪事を勧める大酒飲みの老騎士だ。以下略
実朝と和田義盛との関係性に『ヘンリー四世』のハル王子とフォルスタッフを重ね合わせるというのは、作者(三谷幸喜)の意図でもあるというのだ。
なるほど言われみれば、その通りで、上記のインタヴューで、柿澤勇人の発言も、ハル王子とフォルスタッフの関係性によって、さらに説得力を帯びると思う。
もちろんシェイクスピアの『ヘンリー四世』と違うところもある。フォルスタッフは、ヘンリー四世の宮廷で政権を担う有力貴族あるいは騎士ではなくて、夜盗をも辞さないやさぐれていて飲んだくれの老騎士である(フォルスタッフのモデルとなった貴族サー・ジョン・オールドキャッスルのほうは、有力貴族で、御家人ならぬ反カトリック・反教皇勢力に慕われる存在として、各地の反乱に関わり、最後に処刑されたので、和田義盛に似ているところがある)。
一方、ハル王子は、実朝ほど純情ではなく、むしろ北条義時のように闇落ちするような王子であり、最後にはフォルスタッフとの関係を切り捨てる。よく言えば名家のボンボンが、アウトローの世界にあこがれて彼らと付き合うようなもの。しかしむしろ無頼の徒とか貧困層の実態を肌で感じ取り、その経験を国王となったときに国民統制に活かそうとする策士めいたところがあって、純情で繊細な貴公子といはいいたがい。もちろんフォルスタッフのほうでも、この王子との関係を利用して政権の中枢に潜り込もうとする野心をまぎれもなく抱いているのだが。
もちろん、こうした違いがあってこそ、関係性の類似は際立つともいえるので、問題はないのだが、前回の記事で、実朝=ゲイ説で触れた、実朝が和田義盛に魅かれるのも、ゲイ的な感性ゆえのことという私の主張は、10月25日の回「罠の罠」では退けられることになるのだろうか。なにしろ和田義盛には山のように子供がいるのだがら(劇中では息子は二人が登場するが、映像では何十人もの息子がいるような錯覚すらもたらす仕掛けになっていた【実際には息子は10ほどいた】)。これだけ子供をつくればゲイとはいえないのでは。
だが、反日カルト団体である統一教会のみなさんには残念なお知らせがあるのだが、実朝と和田義盛との関係性が、もしハル王子とフォルスタッフに影響をうけているとするならば、ふたりは同性愛で結ばれている。たんなる友情に留まらない同性愛の絆がある。
『ヘンリー四世』の冒頭、はじめてフォルスタッフが登場するときの台詞からすると、ハル王子とフォルスタッフは、同じベッドで寝ていたことがわかる。そこに性的関係が濃厚に匂わされている。シェイクスピアの『ソネット集』の三分の二は、中年の詩人が、若い貴族の男性をほめたたえる同性愛詩だが、この年上の中年男性が若い美少年に寄せる愛は、『ヘンリー四世』にも受け継がれているというか、『ソネット集』(創作年代ははっきりしない)と『ヘンリー四世』は、もしかしたらほぼ同じ時期にかかれ、またそうでなくても、同じような同性愛関係をテーマにしている。
そう、ハル王子とフォルスタッフは同性愛的関係にもあり、それは年上の中年もしくは老年の男が、自分よりも身分の高い貴公子、若き美少年に恋い焦がれる関係である。『鎌倉殿の13人』の場合は、方向は逆だが、しかし、身分が接近すれば、相思相愛の関係に発展しておかしくない。
とはいえ、反日カルト団体の統一教会のみなさんには、それほど悪い知らせではないかもしれないのは、実朝という人物がシェイクスピアの作品ともっとも強く結び付けられるとすれば、それは『ハムレット』であるからだ。悩める青年貴公子として実朝がハムレットと結びつくのではない。
統治者が死んだとき、世襲ならば、その子供・嫡男が後を継ぐべきところ、あろうことか、統治者の弟がしゃしゃりでて、後を継いでしまう。そのため死んだ統治者の息子は、統治者の地位につくことができず、不遇の身となってしまう。
これは源頼家とその子供である公卿(幼名善哉)と、その公卿に殺された源実朝の話ではない。『ハムレット』における先代ハムレット王が源頼朝、その弟クローディアスが源実朝、そして父の敵としてクローディアス(実朝)を殺すのがハムレット(公卿)である。ちなみに公卿は12歳で出家し、18歳で鎌倉にもどってくるが、ハムレットもが学業なかばで大学から故郷デンマークに帰ってくるし、父の仇討のとき、公卿と同じような年齢である可能性が高い。
ハムレットの宿敵クローディアスは、ハムレットの叔父であり、また(母が再婚したため)義父でもあるが、公卿にとっても実朝は、制度的に義理の父ともなっていた。公卿が殺した実朝は、自分の伯父であり、また義理の父であった。
実朝とハムレットが重なると面白かったのだが、実朝は、ハムレットに父の敵として殺されるクローディアスの立場である。そこが残念なところだろう。実朝=クローディアスといのは、あまり魅力的ではないが史実だからしかたがない。
しかし反日カルト団体の統一教会の皆さんが安心するのはここまでで、クローディアスは、基本的にゲイである。そもそも『ハムレット』において、大学生の息子がいるくらいの年齢になった兄がいるといのに、弟のほうは、おそらくずっと独身なのである――兄が死んでから、すぐに兄嫁の女性と結婚するくらいだから、一度も結婚したことがないか定かでないものの、長い独身期間があったことはいうまでもない。
柿澤勇人はミュージカル『ライオンキング』の舞台をみて俳優にあこがれたそうだが、また自身、『ライオンキング』の主役シンバとして舞台に立ったこともあるようだ--私は舞台をみたことはないのだが。ちなみにアニメ版『ライオンキング』では、主人公のシンバの父を殺す、父の弟(シンバにとっては叔父)のスカーは、兄の死後、ライオンキングの地位を引き継ぐのだが、兄の残したメス・ライオンたちのハーレムは引き継がず、ハイエナたちと暮らしている。そこには悪役のスカーが、ゲイであることの暗示がある。つまりアニメ版『らいおんキング』のスカーは、『ハムレット』のクローディアスであり、『鎌倉殿の13人』の実朝である。みんなゲイである。ただし『ライオンキング』の場合、ゲイの悪魔化が行なわれていることには問題があるとしても。
posted by ohashi at 10:13| コメント
|

2022年10月17日
BL大河
10月16日放送のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第39回「穏やかな一日」(演出:保坂慶太)において、[まさかのBL展開」というコメントがネット上に現われたが、なぜ、いまになって気付くのかと、ほんとうに呆れた。
というのも、大竹しのぶのサプライズ出演で話題になった9月11日の第35回「苦い盃」(演出:保坂慶太)は、皆無ではないがほとんどなかった。大竹しのぶのサプライズとその怪演について語られるのはいいとしても、実朝=ゲイ説について触れないのは、どうしてか。これは明らかに差別ではないのか。このブログで、視聴者の差別性について弾劾しようかと思っていた矢先だった。
9月12日つまり第35回「苦い杯」が放送された翌日、つぎような記事があった。その一部を引用すると――
この下線部のところに、執筆者は何の反応もしていない。私はこれを「ゲイ的要素の無視」と受け止めた。
大竹しのぶと実朝とのやりとりについては、もう少し詳しい記述が必要だろう。昨日、柿澤勇人のインタヴュー(下)という記事がネットに掲載された。その一部を引用する。
これが、その場面の正確な再現だとすると、このやりとりをとおして、ゲイの人間の、自殺にまでいたりかねない、苦悩の深さと、それに対する慰めの言葉に、実朝だけでなく、私自身、涙が出そうになった。そもそも視聴者は、実朝の悩みをどんな悩みだと思ったのだろうか。周囲が決めた政略結婚に抵抗できない自分の弱さ? しかし、そんな悩みは特殊な悩みで、「遥か昔から、同じことで悩んできた」といわる悩みではないだろう。また物語の展開からしても、政略結婚というよりも女性との結婚に躊躇しているか、むしろ積極的に嫌がっているかにみえる実朝、和歌をたしなみ女性的な京都の貴族文化になじみながら、同時に和田義盛のような男臭い坂東武者にいるとくつろぐ実朝は、どうみてもゲイでしょう。そして人知れず、ゲイであることの悩みをいだきながら苦しんできた実朝に、歩き巫女が現れる。彼女は、その超能力によって、実朝の悩みを見抜き適切な助言を与えるのである。
これを腐れネット民どもはスルーした。完全な無視である。そして無視は、その存在を抹消するがゆえに、差別よりもひどく許し難いと私は憤慨した。
しかし、どうもネット民が同性愛差別主義者かというと、そうでもないことが昨日の放送回でわかった。
こんな記事がネット上にアップされた(ほかにも同種の記事あり)。
まあ、今回、実朝が北条泰時(坂口健太郎)に恋心を抱いていたことがわかったのだが、このことは「苦い杯」の回には、わからなかったことだ。もちろん「苦い杯」回でも、北条泰時は実朝のすぐそばにいたのだが。
結局、BL(ボーイズ・ラブ)という表記も、タブーに触れるためにイニシャル表記にするという禁忌感丸出しなのだが、今回で視聴者・ネット民も同性愛についてはじめてわかったということらしい。彼らは、同性愛の存在を無視する差別主義者ではなかった。ただの無知なバカだったのだとわかった。その差別意識を弾劾しないでよかった。ただのバカを批判してもしょうがなかった。
たとえば上記の記事で、
というコメントがあった。バカかこいつは。同性愛差別は近代の産物。日本は男色の国である。明治時代になっても男色文化や男色の伝統は色濃く残った。森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』くらい読め。同性愛は、現代でも統一教会ではNGだが、昔は、OKだった。江戸時代、戦国時代、室町・鎌倉時代へとさかのぼればさかのぼるほど、同性愛はまぎれもなくOKだった。現代だったらOKだけれども鎌倉時代はNG、バカか、ぼーっと生きてるんじゃないぞと、あきれかえる。
【本能寺の変で、織田信長とともに討ち死にした小姓は、名前がわかっているだけでも18名いた。18名の小姓に囲まれての死。おそらく一人一人と肉体関係をもった「親衛隊」の力で桶狭間で勝利した織田信長の最期は18名の小姓に守られての幸福な昇天だったのではないだろうか。】
もちろん三谷幸喜の脚本は、意図的にアナクロニズムを採用していて、たとえ実朝がゲイであっても、現代のゲイの人間と同じ悩みをかかえていたとは思えない。そもそも同性愛とかゲイとかBLという概念自体が武家文化にあったかどうかも疑問である。ただ、そうした名称で指示される実践があったことはまちがいないとしても。
というのも、大竹しのぶのサプライズ出演で話題になった9月11日の第35回「苦い盃」(演出:保坂慶太)は、皆無ではないがほとんどなかった。大竹しのぶのサプライズとその怪演について語られるのはいいとしても、実朝=ゲイ説について触れないのは、どうしてか。これは明らかに差別ではないのか。このブログで、視聴者の差別性について弾劾しようかと思っていた矢先だった。
9月12日つまり第35回「苦い杯」が放送された翌日、つぎような記事があった。その一部を引用すると――
「鎌倉殿の13人」大竹しのぶが怪演 「全く本人に見えず」「あまりにハマっていて」
2022年09月12日15時47分 JCAST テレビウォッチ
NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」9月11日(2022年)放送回。鎌倉にりく(宮沢りえ)の愛息・北条政範(中川翼)の急死をめぐり、良からぬ疑惑が走り、疑惑がまたさらなる疑惑を呼び混乱がはじまった。またまた御家人同士の戦になる寸前である。(ネタバレあり)
そんななか、鎌倉殿である実朝(柿澤勇人)は、太郎・泰時(坂口健太郎)を連れて、和田義盛(横田栄司)と巴御前(秋元才加)の夫婦の家に行く。孤独な激務を忘れるためであろう。豪快な和田と過ごすと十分リフレッシュできそうだ。細かなことにこだわり、悩んでいる自分をいっときでも忘れることができるのだろう。何もかも忘れて一緒に酒を飲んだり遊んだりする相手にはピッタリの人である。実際、鎌倉殿はとっても楽しそうだ。
実朝たちはリラックスして平和な時間が流れていた。そして思いついたように和田が実朝を連れて行った場所は「占いの館」であった。
白髪頭のおばば巫女は、何やら水の入った皿に葉のついた枝を浸して、水をまき散らしながらぶつぶつつぶやいている。めちゃくちゃ怪しい。実朝の素性を当てたりするのだろうか?はたまた単なる息抜きシーンだろうか。どういう意味が込められた場面なのだろうと見入っていると、鎌倉殿とおばばの2人の場面に。そこでやっと巫女の役が大竹しのぶさんだと気づいた。まさに怪演。【中略】
そしてこの場面、実朝はおばば巫女に「雪の日には気を付けるべし」とアドバイスされる。きっとこの言葉は、後に響いてくるのであろう。覚えておかなくてはいけない。そして孤独な鎌倉殿が悩める気持ちをうちあけると、「自分だけの悩みではない」というおばば巫女の言葉に涙してしまう。「大竹しのぶさんの歩き巫女のおばば、鎌倉殿に救いの助言、よいなぁ」「大竹しのぶ女史が全く本人に見えなくて震えた」「巫女を演じる大竹しのぶさんがあまりにもハマっていて笑ってしまった」など、大竹さんのまさかの登場にSNSも賑やかだった。【以下略】【下線部強調、引用者】
この下線部のところに、執筆者は何の反応もしていない。私はこれを「ゲイ的要素の無視」と受け止めた。
大竹しのぶと実朝とのやりとりについては、もう少し詳しい記述が必要だろう。昨日、柿澤勇人のインタヴュー(下)という記事がネットに掲載された。その一部を引用する。
鎌倉殿の13人」柿澤勇人も驚き!大竹しのぶと9年ぶり共演の“縁”実朝に助言?「義時には気を付けろ」 スポーツニッポン新聞社 2022/10/16 06:00
【柿澤勇人について】大河ドラマ出演は以仁王役を演じた12年「平清盛」、森蘭丸役を演じた14年「軍師官兵衛」に続き、8年ぶり3作目。今回演じる源実朝は、源頼朝(大泉洋)と政子(小池栄子)の次男(第4子)。長男(第2子)・源頼家(金子大地)の弟。義時の甥にあたる。
建仁3年(1203年)、12歳にして3代鎌倉殿に就任。第34回「理想の結婚」(9月4日)、柿澤は“成長著しく”初登場。第35回「苦い盃」(9月11日)、実朝は後鳥羽上皇(尾上松也)の従妹・千世(加藤小夏)と結婚した。
そして、相撲の稽古の後に鹿汁をごちそうになり(第34回)、意気投合した和田義盛(横田栄司)の館を再び訪れた。食事の後、北条泰時(坂口健太郎)鶴丸(きづき)と一緒に、義盛に“面白い所”に連れていかれ、“おばば”こと名うての歩き巫女と対面。歩き巫女役の女優・大竹しのぶが事前告知なしにサプライズ出演だったこともあり、SNS上の大反響を呼んだ。
実朝は歩き巫女に「悩みがあるようだな」と見抜かれると「私の思いとは関わりないところで、すべて(結婚)が決まった」と告白。歩き巫女は「悩みは、誰にもある。おばばにもある。年を取って近頃、ヒジがアゴに付かなくなった」と実演、冗談めかしながら「これだけは言っておくよ。おまえの悩みは、どんなものであっても、それはおまえ1人の悩みではない。遥か昔から、同じことで悩んできた者がいることを、忘れるな。この先も、おまえと同じことで悩む者がいることを、忘れるな。悩みというのは、そういうものじゃ。おまえ1人ではないんだ。決して。気が晴れたか」と助言した。実朝は涙を拭い、笑った。【以下略】
これが、その場面の正確な再現だとすると、このやりとりをとおして、ゲイの人間の、自殺にまでいたりかねない、苦悩の深さと、それに対する慰めの言葉に、実朝だけでなく、私自身、涙が出そうになった。そもそも視聴者は、実朝の悩みをどんな悩みだと思ったのだろうか。周囲が決めた政略結婚に抵抗できない自分の弱さ? しかし、そんな悩みは特殊な悩みで、「遥か昔から、同じことで悩んできた」といわる悩みではないだろう。また物語の展開からしても、政略結婚というよりも女性との結婚に躊躇しているか、むしろ積極的に嫌がっているかにみえる実朝、和歌をたしなみ女性的な京都の貴族文化になじみながら、同時に和田義盛のような男臭い坂東武者にいるとくつろぐ実朝は、どうみてもゲイでしょう。そして人知れず、ゲイであることの悩みをいだきながら苦しんできた実朝に、歩き巫女が現れる。彼女は、その超能力によって、実朝の悩みを見抜き適切な助言を与えるのである。
これを腐れネット民どもはスルーした。完全な無視である。そして無視は、その存在を抹消するがゆえに、差別よりもひどく許し難いと私は憤慨した。
しかし、どうもネット民が同性愛差別主義者かというと、そうでもないことが昨日の放送回でわかった。
こんな記事がネット上にアップされた(ほかにも同種の記事あり)。
『鎌倉殿』鎌倉殿』でまさかの“BL展開”に視聴者から驚きの声 三谷幸喜の独自解釈脚本に集まる高評価 SmartFLASH 2022/10/17 15:30
10月16日、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第39回「穏やかな一日」が放送された。
主人公・北条義時(小栗旬)の傲慢なやり方に、御家人たちは不満を募らせる。義時は三代将軍・実朝(柿澤勇人)に対しても「私のやることに口を挟まれぬこと」と、脅しをかけて……と、「穏やかな一日」というタイトルとは裏腹に、不穏なストーリーが展開した。
しかし視聴者がもっとも驚いたのは、実朝が抱える「秘密」が明らかになったときだ。世継ぎをつくれない理由を、正室の千世に告白。さらに、北条泰時(坂口健太郎)に思いを込めた和歌を贈る場面も。SNSには
《鎌倉殿はすげえドラマだすげえドラマだと思ってたけど、まさかこのクライマックスで濃縮ど耽美BLをぶち込んでくるとは思わなかった変な声出た》
《ええ?! 鎌倉殿の13人見てたら推しの実朝さんがいきなり男性に愛の歌を送ってたんですが いやいや大河でBL?進んでるな?!》
と、驚きの声が多数。また
《叶うことは絶対にない…絶対に 切ない恋 現代だったらOKだけど 鎌倉時代はNGですよね》
《今回はあまりにも切ないお話に涙。実朝の恋は、割れて砕けてしまいました》
と、あまりに切ないストーリーに心が動いたという声も多くある。
「『吾妻鏡』には『されど源氏の正統、いまに縮りぬ。子孫、嗣ぐべからず』という実朝の言葉があります。自分には子をもうけることができないということです。実際、26歳で非業の死を遂げるまで、実朝に実子はいなかったとされています。泰時に思いを寄せるというのは、脚本の三谷幸喜さんの創作ですが、実朝の恋愛に関しては、後世、さまざまな推測がされています」(歴史ライター)
この回の『鎌倉殿~』では、『金槐和歌集』に収められた実朝の
「大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも」
という和歌が繰り返し紹介された。SNSには
《あーーー失恋アンサーソングを渡す鎌倉殿つらい…》
《和歌ってすごいなって思った今日の鎌倉殿。三谷幸喜の解釈がすごい》
と、歌人としても知られる実朝の心象を、和歌で表現してみせた三谷脚本を称賛する声も多数あった。
まあ、今回、実朝が北条泰時(坂口健太郎)に恋心を抱いていたことがわかったのだが、このことは「苦い杯」の回には、わからなかったことだ。もちろん「苦い杯」回でも、北条泰時は実朝のすぐそばにいたのだが。
結局、BL(ボーイズ・ラブ)という表記も、タブーに触れるためにイニシャル表記にするという禁忌感丸出しなのだが、今回で視聴者・ネット民も同性愛についてはじめてわかったということらしい。彼らは、同性愛の存在を無視する差別主義者ではなかった。ただの無知なバカだったのだとわかった。その差別意識を弾劾しないでよかった。ただのバカを批判してもしょうがなかった。
たとえば上記の記事で、
《叶うことは絶対にない…絶対に 切ない恋 現代だったらOKだけど 鎌倉時代はNGですよね》
というコメントがあった。バカかこいつは。同性愛差別は近代の産物。日本は男色の国である。明治時代になっても男色文化や男色の伝統は色濃く残った。森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』くらい読め。同性愛は、現代でも統一教会ではNGだが、昔は、OKだった。江戸時代、戦国時代、室町・鎌倉時代へとさかのぼればさかのぼるほど、同性愛はまぎれもなくOKだった。現代だったらOKだけれども鎌倉時代はNG、バカか、ぼーっと生きてるんじゃないぞと、あきれかえる。
【本能寺の変で、織田信長とともに討ち死にした小姓は、名前がわかっているだけでも18名いた。18名の小姓に囲まれての死。おそらく一人一人と肉体関係をもった「親衛隊」の力で桶狭間で勝利した織田信長の最期は18名の小姓に守られての幸福な昇天だったのではないだろうか。】
もちろん三谷幸喜の脚本は、意図的にアナクロニズムを採用していて、たとえ実朝がゲイであっても、現代のゲイの人間と同じ悩みをかかえていたとは思えない。そもそも同性愛とかゲイとかBLという概念自体が武家文化にあったかどうかも疑問である。ただ、そうした名称で指示される実践があったことはまちがいないとしても。
posted by ohashi at 22:35| コメント
|

2022年10月14日
『A Number』
作 キャリル・チャーチル
翻訳 浦辺千鶴
出演 戸次重幸、益岡徹
紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA
原作はもっているのだけれども、いつも挫折して途中で放棄していた。今回、紀伊國屋サザンシアターでの二人芝居をみて、はじめて戯曲の全貌を知ることができた。舞台が終わったとき、時計をみて驚いた。開演から70分しかたっていないのだ。いや、原書をもっているのだから、短い戯曲だということくらい見当がついていたのではと言われそうだが、最後まで読んだことがなかったこと、難解な作品の場合、終わりが途方もなく先にあるように思えてしまい、大長編戯曲だと勝手に思い込んでいた。
今回、舞台を最後まで見て、原書も読んでみて、また公演プログラムを読んでみてわかったことは、この作品は、まだわからないということだった。翻訳劇の日本語の台詞を通しても、演出家の上村聡史氏のコメントや、戸次重幸、益岡徹の二人の俳優の発言を呼んでも、またその熱演を通しても、そして私が原書を読んだ感想からしても、どこにも決定的な解釈はないように思われる。いや、そんな高級な話ではなくても、何が起こっていたのかについての認識そのものが、私も含め、各人各様であって、決定的なものがないということである。
ちょうどこの作品において、同じ遺伝子をもつクローンであっても、境遇とか生い立ちによて全く違った人格になるのと同じように、演出家、翻訳者、俳優、そして観客が、同じひとつの作品に接し、そこから真相を探り当てようとしながらも、各人各様の解釈しか出せないのである。
いや、クローンといっても、先に『デュアル』というクローン物のB級映画について語った時、この演劇作品は、念頭になかったのだが、クローンというテーマ自体、この『A Number』において、確かに前提とされているようなのだが――たとえば、息子が死んだとき、再婚して新たな息子を作ろうとしたのではなく、なぜ、死んだ息子と同じものを作ろうとしたのかという疑問、また後半終盤にある、遺伝子がどうのというセリフなどから、クローンがテーマとなっているらしいとわかるのだが、劇中、「クローン」という言葉は一度も使われていない――、この父と息子との濃厚な場面において息子がクローンであるというのは、あまたある可能性のひとつではないかということも考えられる。
クローンはメイン・テーマではなく、クローンのように増殖するテーマのひとつだとしたらと考えたらどうなるのだろう。いまここではこの点は追究しないが、いずれ考えてみたいことである。
それまではクローン問題にこだわっておきたい。
なぜクローンを作るのかという問題は、映画『デュアル』においては、不治の病にかかり余命いくばくもない子供(若い女性)が、自分の親や恋人を悲しませたくないために、自分自身のクローンを作って親や恋人といっしょにすごさせる。ところが、不治の病が治ってしまい、クローンが必要なくなる。しかしクローンはすでに親と暮らし始めている。不要になったクローンとはいえ、人間であるので、簡単に廃棄できない。また親やフィアンセは、クローンのほうを気にいっている。そのためオリジナルとクローンを戦わせ、勝者が生き残るようにさせる……、というのが映画の設定だった。
『A Number』 (以下ANとする)では、母親と息子を交通事故で失った父親が、死んだ息子を悼んで、息子のクローンをつくる。死んだ息子は4歳くらいだから、オリジナルとクローンの年齢差は、4,5歳となって、オリジナルとクローンは見た目はほぼ同じとなる。いま、私が自分のクローンを作ると、そのクローンが今の私と見た目が同じになる頃には、私は寿命がつきて死んでいる。なぜならオリジナルとクローンとの年齢差は70歳近くになるからで、クローンが70歳近くになる頃、私は死んでいるということである。
ANの場合、親が悲しまないように、親が、子供のクローンを作る。『デュアル』の場合は、親を悲しませないように子供のほうが自分のクローンを作る。ただし設定のリアルさを考慮すればANのほうがありうることである。そしてANにおける親と息子(ひとりはクローン35歳、もうひとりはオリジナルで40歳)の対話は、創造主と二人の子ども(アベルとカインだという説もある)の対話となるのだが、オリジナルの息子とクローンの息子は性格が異なる。私としては、父親とクローン/息子との対話は、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』におけるヴィクター・フランケンシュタインと彼が作った人造人間との対話だと考えたい。
ANにおいて父親は自分の手でクローンを作るのではないが、クローンを作った創造主として形容できる。そして子供であるクローンは、彼がつくった人造人間である。また父親がSalterと呼ばれのだが、Salterというのはイギリスの有名な秤メーカーであり、また医療機器とか手術とも関係のある名称で、父親の名前が医療とか医学を連想させるものとなっているのではないか。父親は医者や科学者ではないかもしれないが、医学や科学を連想させる名前となっている(この点は、まだ仮説ともいえない段階にとどまっている)。
ANにおいて父親は、母親と幼い息子が交通事故で死んだとき、なぜ、再婚して息子をつくるのではなく、息子のクローンを作ったのかと問われて、息子が完璧だったからと答えている。なるほど4歳頃の息子は、おそらく父子関係のなかで父親にとってもっとも可愛い時期にあって、その関係性を永遠にとどめておくためにクローンをつくったともいえる。
ところが実の息子(オリジナル)の証言によれば、父親は夜泣き叫ぶ4歳の息子を見捨てた。となると美しい息子との関係性を永遠にとどめておこうとするよりも(実際にクローンは人間で歳をとるから永遠に美しい息子であることはない)、失敗した息子の子育てを、新たにクローンを作って贖おうとしたのではないか。失敗を取り戻すためにクローンを作る。だが、そうなると見捨てられた息子はどうなるのか。『フランケンシュタイン』は見捨てられた人造人間が、生みの親たるフランケンシュタインに復讐する物語である。
このフランケンシュタイン物語のアダプテーションという路線で、ANを考えてみたい。それはまた『フランケンシュタイン』を、クローン物語としても読みなおす可能性を切り開くものともなろう。つづく
翻訳 浦辺千鶴
出演 戸次重幸、益岡徹
紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA
原作はもっているのだけれども、いつも挫折して途中で放棄していた。今回、紀伊國屋サザンシアターでの二人芝居をみて、はじめて戯曲の全貌を知ることができた。舞台が終わったとき、時計をみて驚いた。開演から70分しかたっていないのだ。いや、原書をもっているのだから、短い戯曲だということくらい見当がついていたのではと言われそうだが、最後まで読んだことがなかったこと、難解な作品の場合、終わりが途方もなく先にあるように思えてしまい、大長編戯曲だと勝手に思い込んでいた。
今回、舞台を最後まで見て、原書も読んでみて、また公演プログラムを読んでみてわかったことは、この作品は、まだわからないということだった。翻訳劇の日本語の台詞を通しても、演出家の上村聡史氏のコメントや、戸次重幸、益岡徹の二人の俳優の発言を呼んでも、またその熱演を通しても、そして私が原書を読んだ感想からしても、どこにも決定的な解釈はないように思われる。いや、そんな高級な話ではなくても、何が起こっていたのかについての認識そのものが、私も含め、各人各様であって、決定的なものがないということである。
ちょうどこの作品において、同じ遺伝子をもつクローンであっても、境遇とか生い立ちによて全く違った人格になるのと同じように、演出家、翻訳者、俳優、そして観客が、同じひとつの作品に接し、そこから真相を探り当てようとしながらも、各人各様の解釈しか出せないのである。
いや、クローンといっても、先に『デュアル』というクローン物のB級映画について語った時、この演劇作品は、念頭になかったのだが、クローンというテーマ自体、この『A Number』において、確かに前提とされているようなのだが――たとえば、息子が死んだとき、再婚して新たな息子を作ろうとしたのではなく、なぜ、死んだ息子と同じものを作ろうとしたのかという疑問、また後半終盤にある、遺伝子がどうのというセリフなどから、クローンがテーマとなっているらしいとわかるのだが、劇中、「クローン」という言葉は一度も使われていない――、この父と息子との濃厚な場面において息子がクローンであるというのは、あまたある可能性のひとつではないかということも考えられる。
クローンはメイン・テーマではなく、クローンのように増殖するテーマのひとつだとしたらと考えたらどうなるのだろう。いまここではこの点は追究しないが、いずれ考えてみたいことである。
それまではクローン問題にこだわっておきたい。
なぜクローンを作るのかという問題は、映画『デュアル』においては、不治の病にかかり余命いくばくもない子供(若い女性)が、自分の親や恋人を悲しませたくないために、自分自身のクローンを作って親や恋人といっしょにすごさせる。ところが、不治の病が治ってしまい、クローンが必要なくなる。しかしクローンはすでに親と暮らし始めている。不要になったクローンとはいえ、人間であるので、簡単に廃棄できない。また親やフィアンセは、クローンのほうを気にいっている。そのためオリジナルとクローンを戦わせ、勝者が生き残るようにさせる……、というのが映画の設定だった。
『A Number』 (以下ANとする)では、母親と息子を交通事故で失った父親が、死んだ息子を悼んで、息子のクローンをつくる。死んだ息子は4歳くらいだから、オリジナルとクローンの年齢差は、4,5歳となって、オリジナルとクローンは見た目はほぼ同じとなる。いま、私が自分のクローンを作ると、そのクローンが今の私と見た目が同じになる頃には、私は寿命がつきて死んでいる。なぜならオリジナルとクローンとの年齢差は70歳近くになるからで、クローンが70歳近くになる頃、私は死んでいるということである。
ANの場合、親が悲しまないように、親が、子供のクローンを作る。『デュアル』の場合は、親を悲しませないように子供のほうが自分のクローンを作る。ただし設定のリアルさを考慮すればANのほうがありうることである。そしてANにおける親と息子(ひとりはクローン35歳、もうひとりはオリジナルで40歳)の対話は、創造主と二人の子ども(アベルとカインだという説もある)の対話となるのだが、オリジナルの息子とクローンの息子は性格が異なる。私としては、父親とクローン/息子との対話は、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』におけるヴィクター・フランケンシュタインと彼が作った人造人間との対話だと考えたい。
ANにおいて父親は自分の手でクローンを作るのではないが、クローンを作った創造主として形容できる。そして子供であるクローンは、彼がつくった人造人間である。また父親がSalterと呼ばれのだが、Salterというのはイギリスの有名な秤メーカーであり、また医療機器とか手術とも関係のある名称で、父親の名前が医療とか医学を連想させるものとなっているのではないか。父親は医者や科学者ではないかもしれないが、医学や科学を連想させる名前となっている(この点は、まだ仮説ともいえない段階にとどまっている)。
ANにおいて父親は、母親と幼い息子が交通事故で死んだとき、なぜ、再婚して息子をつくるのではなく、息子のクローンを作ったのかと問われて、息子が完璧だったからと答えている。なるほど4歳頃の息子は、おそらく父子関係のなかで父親にとってもっとも可愛い時期にあって、その関係性を永遠にとどめておくためにクローンをつくったともいえる。
ところが実の息子(オリジナル)の証言によれば、父親は夜泣き叫ぶ4歳の息子を見捨てた。となると美しい息子との関係性を永遠にとどめておこうとするよりも(実際にクローンは人間で歳をとるから永遠に美しい息子であることはない)、失敗した息子の子育てを、新たにクローンを作って贖おうとしたのではないか。失敗を取り戻すためにクローンを作る。だが、そうなると見捨てられた息子はどうなるのか。『フランケンシュタイン』は見捨てられた人造人間が、生みの親たるフランケンシュタインに復讐する物語である。
このフランケンシュタイン物語のアダプテーションという路線で、ANを考えてみたい。それはまた『フランケンシュタイン』を、クローン物語としても読みなおす可能性を切り開くものともなろう。つづく
posted by ohashi at 20:08| 演劇
|

2022年10月13日
国賊はどっちだ
村上 誠一郎(1952- )自由民主党の衆議院議員(12期)に対し、自民党の党紀委員会は、]。2022年(令和4年)10月12日、銃撃され死亡した安倍晋三元首相を「国賊」と表現したことについて、党員としての品位をけがす行為に当たるとして1年間の党役職停止処分とすることを決めた。
これは村上議員が、2022年9月20日に国葬への欠席を表明し、安倍の政権運営についても「財政、金融、外交をぼろぼろにし、官僚機構まで壊して、旧統一教会に選挙まで手伝わせた。私から言わせれば国賊だ」と語ったことに起因する。【ここまではWikipediaの記述を基にしている】
自民党にも気骨のある議員がいるものだと、ほんとうに感心したのだが、あいにく、まわりが反日カルト教団とずぶずぶの関係にある国賊しかいないために、今回のような不当な処分がなされ、村上議員も国賊発言を撤回するにいたった。
しかし、いまや自民統一教会であることが露呈した国賊集団に、意図せずに所属してしまったために、こうなってしまうことはやむをえない。悪貨が良貨を駆逐するとでもいうべきか。汚辱にまみれた国賊集団のなかでは良識派は生きづらいどころか、抹殺されるしかない運命にあろう。
私は自民党支持者ではないが、自民党の良いところも認めてはいたが、自民統一教会となったからには、自民党はとことん蔑視するしかない。左翼リベラルだけでなく、まともな右翼も、反日カルト集団と結託している自民党を徹底的に批判し許していない。
今回の村上議員の処分は、いずれ未来において撤回され、村上議員が名誉回復する日があることを私は確信している。というかそういう日が来なければ、日本にとって明日は来ないのだから。
これは村上議員が、2022年9月20日に国葬への欠席を表明し、安倍の政権運営についても「財政、金融、外交をぼろぼろにし、官僚機構まで壊して、旧統一教会に選挙まで手伝わせた。私から言わせれば国賊だ」と語ったことに起因する。【ここまではWikipediaの記述を基にしている】
自民党にも気骨のある議員がいるものだと、ほんとうに感心したのだが、あいにく、まわりが反日カルト教団とずぶずぶの関係にある国賊しかいないために、今回のような不当な処分がなされ、村上議員も国賊発言を撤回するにいたった。
しかし、いまや自民統一教会であることが露呈した国賊集団に、意図せずに所属してしまったために、こうなってしまうことはやむをえない。悪貨が良貨を駆逐するとでもいうべきか。汚辱にまみれた国賊集団のなかでは良識派は生きづらいどころか、抹殺されるしかない運命にあろう。
私は自民党支持者ではないが、自民党の良いところも認めてはいたが、自民統一教会となったからには、自民党はとことん蔑視するしかない。左翼リベラルだけでなく、まともな右翼も、反日カルト集団と結託している自民党を徹底的に批判し許していない。
今回の村上議員の処分は、いずれ未来において撤回され、村上議員が名誉回復する日があることを私は確信している。というかそういう日が来なければ、日本にとって明日は来ないのだから。
posted by ohashi at 17:07| コメント
|

2022年10月11日
『グレート・ギャツビー』
すでに公演は終わったのだが、宝塚劇場でミュージカル『グレート・ギャツビー』(月組、小池修一郎脚本・演出、月城かなと、海乃美月ほか)を観た。コロナ禍で高齢者の私は家でおとなしくしていることが最善の策だと信じて観劇などを控えていたのだが、今回、誘ってくれチケットをとってくれた女性の厚意に感謝を示すべく、日比谷に出かけた。
久しぶりの宝塚劇場だったので、ただただまばゆいばかりの舞台に圧倒されると同時に、いかにも宝塚の舞台向けともいえる『グレート・ギャツビー』なのだが、アレンジが独特で、こてこての宝塚らしさがないところが面白かった。
3度目の上演とのことだが、実際のところ、2度の舞台化をみていれば『グレート・ギャツビー』に関する私の認識も、もっと早く変わっていたかもしれないと悔やまれた--ただし上演ごとに内容が改変されているので、今回がこれまでとは異なるアレンジをしている可能性もあるんだが。
この宝塚版『グレート・ギャツビー』を観て、あらためて作品の時代がアメリカの禁酒法の時代であることを思い知らされた。禁酒法といえばアル・カポネとかエリオット・ネスが活躍した時代、まさにドラマあるいは映画の『アンタッチャブル』の時代であるのだが、小説を読んでも、あるいは映画版でも、たとえば今回の舞台でみられたようなもぐり酒場で、ウィスキーやワインをコーヒーカップで飲むという場面は登場することはなかった。
まあ禁酒法の施行が厳格なものではなかったり、例外措置も設けられたりしたことから、たとえギャツビーの裏稼業が禁酒法と密接な関係があったとしても、禁酒法とその社会的文化的影響が前景化されることはなかったのかもしれない。逆にいえば、禁酒法時代を前景化した今回のアレンジが異様だが新鮮なものに感じ取られることになった。
そのため最初の方はアレンジの仕方もあって、『グレート・ギャツビー』がどんな物語だったのか必死で思い返すことになった。後半、ミュージカルも終盤になってくると、小説と同じ展開になるので、なんだか安心することになった。
休憩時間に、チケットをとってくれた女性と話をした。『ギャツビー』の映画版はみたことがあるかという話題になった。その女性はバズ・ラーマン監督の『華麗なるギャツビー』(2013)は観たことがあるのだが、ロバート・レッドフォード、ミア・ファーロー共演のジャック・クレイトン監督『華麗なるギャツビー』(1974)はまだ観たことがないということだった。年寄りの私は、ロバート・レッドフォードのギャツビーのほうに感銘を受けた世代であって、バズ・ラーマン版の『ギャツビー』は、デカプリオのギャツビーに、キャリー・マリガンのデイジーでしょう、ふたりとも童顔で、大人の男女の恋物語というよりも、少年少女の恋物語にみえてしまい、どうもピンとこないと話したのだが、そう語りながら、私は、ある発見をしていた。
宝塚版も、そうなのだ。禁酒法の時代、ギャングの元締めへと闇落ちしたギャツビーだが、それでもなお、少年の日に出逢った美しい少女デイジーへの愛を引きずっている。ギャツビーとデイジーだけは、外見はともかく、その内面は少年と少女のままなのである。
バズ・ラーマン版『ギャツビー』は、このことを童顔の二人、デカプリオとキャリー・マリガンの恋物語として示していた。キャスティングそのものに意味があったのだ。宝塚版もまた少年少女の恋物語というテーマで統一していた。ただし宝塚の舞台は、高齢の男女も中年の男女も、なんら困難を覚えることなく舞台化することができるのだが、幼子から10代までの若者の男女だけは、舞台化することはできない。そのため月城かなとと海乃美月の二人は大人の男女の魅力を発散することはできても、子供らしさだけは、どうすることもできないのだ。だからヴィジュアル的ではなく、台詞と歌に頼ることになる。とはいえ宝塚版は、禁酒法時代と少年少女の恋物語とい二つの要素によって、たとえ台詞と歌のレベルであっても、従来にない『ギャツビー』像を提示することにまちがいなく成功したのだが。
付記 1
近年、英米圏ならびにそれに影響をうけた日本においても‘Vulnerability’という言葉ないし概念がよく使われるようになった。「可傷性」とか「被傷性」などと訳されるのだが、その形容詞形が‘Vulnerable’つまり「傷つきやすい」という意味である。
私が生まれてはじめて、この‘Vulnerable’という英単語に出逢ったのが、ほかでもない『グレート・ギャツビー』なのだ。へーっと驚いているあなたは英語で『グレート・ギャツビー』を読んだことのない人だ。『グレート・ギャツビー』の冒頭、その第一節にこの単語は出てくる。
もっというと、昔々、どこかの大学が英文解釈の入試問題に、『グレート・ギャツビー』の冒頭の一節を出した(英文解釈問題としては難しいほうの部類にはいるだろう)。そのこともあって、この冒頭の一節は、私が英語の入試勉強を始めた頃、英文解釈の参考書に例文あるいは過去問として掲載されていた。そして『グレート・ギャツビー』をはじめて英語で読んだとき、冒頭の一節をみて、受験参考書にあった例文だと気づくことになった。私はVulnerableという単語を『グレート・ギャツビー』の冒頭の一節にあることを知らずに、その冒頭の一節で出逢っていたのである。
付記 2
今年の初めに上梓したテリー・イーグルトンの『希望とは何か』(岩波書店)では、引用文は、既訳のあるものは、すべてそれを使うという方針をたてた。そのため本文というか地の文と表記が異なったり、表記の不統一が生ずるのだが、そんなことなど気にすることなく、既訳を使った。
イーグルトンは『グレート・ギャツビー』からも数か所引用していた。『ギャツビー』の翻訳は数種類あるのだが、そのなかで私が選んだのは村上春樹訳である。これだけでも特筆に値することだと思うのだが、誰もなんとも言わない。おそらく読まれていないのだろう。
これももっというと、イーグルトンは『ギャツビー』の引用の後、ポール・オースターからも引用している。オースターのその作品で既訳は柴田元幸氏のものしかない。当然、柴田元幸訳を使わせてもらったのだが、そうなると、そのすぐ前の『ギャツビー』の引用は、村上春樹訳を使うしかないのではないか。たとえ柴田氏自身は、なんとも思わないかもしれないとしても、読者から何か声があがるのことを怖れたのだ。とはいえ、怖れる必要もなかった。私の翻訳は、そもそも誰も読んでいないのだから。
久しぶりの宝塚劇場だったので、ただただまばゆいばかりの舞台に圧倒されると同時に、いかにも宝塚の舞台向けともいえる『グレート・ギャツビー』なのだが、アレンジが独特で、こてこての宝塚らしさがないところが面白かった。
3度目の上演とのことだが、実際のところ、2度の舞台化をみていれば『グレート・ギャツビー』に関する私の認識も、もっと早く変わっていたかもしれないと悔やまれた--ただし上演ごとに内容が改変されているので、今回がこれまでとは異なるアレンジをしている可能性もあるんだが。
この宝塚版『グレート・ギャツビー』を観て、あらためて作品の時代がアメリカの禁酒法の時代であることを思い知らされた。禁酒法といえばアル・カポネとかエリオット・ネスが活躍した時代、まさにドラマあるいは映画の『アンタッチャブル』の時代であるのだが、小説を読んでも、あるいは映画版でも、たとえば今回の舞台でみられたようなもぐり酒場で、ウィスキーやワインをコーヒーカップで飲むという場面は登場することはなかった。
まあ禁酒法の施行が厳格なものではなかったり、例外措置も設けられたりしたことから、たとえギャツビーの裏稼業が禁酒法と密接な関係があったとしても、禁酒法とその社会的文化的影響が前景化されることはなかったのかもしれない。逆にいえば、禁酒法時代を前景化した今回のアレンジが異様だが新鮮なものに感じ取られることになった。
そのため最初の方はアレンジの仕方もあって、『グレート・ギャツビー』がどんな物語だったのか必死で思い返すことになった。後半、ミュージカルも終盤になってくると、小説と同じ展開になるので、なんだか安心することになった。
休憩時間に、チケットをとってくれた女性と話をした。『ギャツビー』の映画版はみたことがあるかという話題になった。その女性はバズ・ラーマン監督の『華麗なるギャツビー』(2013)は観たことがあるのだが、ロバート・レッドフォード、ミア・ファーロー共演のジャック・クレイトン監督『華麗なるギャツビー』(1974)はまだ観たことがないということだった。年寄りの私は、ロバート・レッドフォードのギャツビーのほうに感銘を受けた世代であって、バズ・ラーマン版の『ギャツビー』は、デカプリオのギャツビーに、キャリー・マリガンのデイジーでしょう、ふたりとも童顔で、大人の男女の恋物語というよりも、少年少女の恋物語にみえてしまい、どうもピンとこないと話したのだが、そう語りながら、私は、ある発見をしていた。
宝塚版も、そうなのだ。禁酒法の時代、ギャングの元締めへと闇落ちしたギャツビーだが、それでもなお、少年の日に出逢った美しい少女デイジーへの愛を引きずっている。ギャツビーとデイジーだけは、外見はともかく、その内面は少年と少女のままなのである。
バズ・ラーマン版『ギャツビー』は、このことを童顔の二人、デカプリオとキャリー・マリガンの恋物語として示していた。キャスティングそのものに意味があったのだ。宝塚版もまた少年少女の恋物語というテーマで統一していた。ただし宝塚の舞台は、高齢の男女も中年の男女も、なんら困難を覚えることなく舞台化することができるのだが、幼子から10代までの若者の男女だけは、舞台化することはできない。そのため月城かなとと海乃美月の二人は大人の男女の魅力を発散することはできても、子供らしさだけは、どうすることもできないのだ。だからヴィジュアル的ではなく、台詞と歌に頼ることになる。とはいえ宝塚版は、禁酒法時代と少年少女の恋物語とい二つの要素によって、たとえ台詞と歌のレベルであっても、従来にない『ギャツビー』像を提示することにまちがいなく成功したのだが。
付記 1
近年、英米圏ならびにそれに影響をうけた日本においても‘Vulnerability’という言葉ないし概念がよく使われるようになった。「可傷性」とか「被傷性」などと訳されるのだが、その形容詞形が‘Vulnerable’つまり「傷つきやすい」という意味である。
私が生まれてはじめて、この‘Vulnerable’という英単語に出逢ったのが、ほかでもない『グレート・ギャツビー』なのだ。へーっと驚いているあなたは英語で『グレート・ギャツビー』を読んだことのない人だ。『グレート・ギャツビー』の冒頭、その第一節にこの単語は出てくる。
もっというと、昔々、どこかの大学が英文解釈の入試問題に、『グレート・ギャツビー』の冒頭の一節を出した(英文解釈問題としては難しいほうの部類にはいるだろう)。そのこともあって、この冒頭の一節は、私が英語の入試勉強を始めた頃、英文解釈の参考書に例文あるいは過去問として掲載されていた。そして『グレート・ギャツビー』をはじめて英語で読んだとき、冒頭の一節をみて、受験参考書にあった例文だと気づくことになった。私はVulnerableという単語を『グレート・ギャツビー』の冒頭の一節にあることを知らずに、その冒頭の一節で出逢っていたのである。
付記 2
今年の初めに上梓したテリー・イーグルトンの『希望とは何か』(岩波書店)では、引用文は、既訳のあるものは、すべてそれを使うという方針をたてた。そのため本文というか地の文と表記が異なったり、表記の不統一が生ずるのだが、そんなことなど気にすることなく、既訳を使った。
イーグルトンは『グレート・ギャツビー』からも数か所引用していた。『ギャツビー』の翻訳は数種類あるのだが、そのなかで私が選んだのは村上春樹訳である。これだけでも特筆に値することだと思うのだが、誰もなんとも言わない。おそらく読まれていないのだろう。
これももっというと、イーグルトンは『ギャツビー』の引用の後、ポール・オースターからも引用している。オースターのその作品で既訳は柴田元幸氏のものしかない。当然、柴田元幸訳を使わせてもらったのだが、そうなると、そのすぐ前の『ギャツビー』の引用は、村上春樹訳を使うしかないのではないか。たとえ柴田氏自身は、なんとも思わないかもしれないとしても、読者から何か声があがるのことを怖れたのだ。とはいえ、怖れる必要もなかった。私の翻訳は、そもそも誰も読んでいないのだから。
posted by ohashi at 19:03| 演劇
|

2022年10月09日
『デュアル』
The Dual
どんな映画かと予備知識なしで観てみたら、どう受け止めるべきか、こちらのスタンスを決めかねて戸惑った。IMDbでの観客反応を見てみたら、低評価が多い(なかには憤慨している評価もある)が、同時に高評価も多数あり、まさに毀誉褒貶相半ばする映画といえようか。
そんななか監督の前作からの影響で“Deadpan dark comedy”という評言があり、なるほどと納得した。おそらくこれがこの映画を高く評価するときのスタンスと言えるだろう。
また、そうなるとIMDbにあった次の評言が生きてくる――What people find poor about this film is actually it's greatest quality.
ちなみにWikipedia日本版のこの映画の解説は、映画撮影前に書かれたらしく(どうしてそんなに早く書くのか、あるいは、どうしてそんな記事が必要なのか不明)、端的に間違っている、というか何が言いたいのかわからない――
私はIMDbへの投稿者のようにこの映画には憤慨などしていないが、この日本版Wikipediaの記述には憤慨した――なぜこんな記事が残っているのか、と。
“deadpan dark comedy”とは言い得て妙である。最後の場面【以下、ネタバレ注意:Warning: Spoilers】、生き残ったクローンのほうが(本人はオリジナルと言っているが、クローンであるのは、歴然としている)が、車を運転しながら、最後に車をとめて車内で号泣する。道路の真ん中に車を止めているので通行の邪魔になり周囲でクラクションが鳴り続ける。
なぜ彼女が号泣しているかというと、物語の流れから、オリジナルを殺して居座ることに成功したものの、置き換わった人生にうんざりしはじめ後悔の念が罪の意識(不正な方法でオリジナルを殺した)との相乗効果によって彼女を号泣させたのであろう(理由1)。
あるいはオリジナルとコピー(ダブル)との間に芽生えていた友情関係を、みずからの手で壊してしまったことで、失ったものの大きさに気づかされた彼女が号泣するしかなくなるということだろう――おそらくこの世で心を通わせることのできたであろう唯一の友を、自らの手で殺したのだから(理由2)。映画のエンドクレジットは、殺されたオリジナルが埋まっているであろう森の奥を映しつづけ、生と死、置き換わりと廃棄が映画の主題であることを暗示する。
しかし、もうひとつの、おそらくこれが最も明白な理由というものもある。コピーのほうが自動車の運転を習う機会がなくて、運転が下手。というか運転がほぼできない。いま彼女が乗る自家用車も、車体がまんべんなくへこんだりパネルがはずれそうになっていて、数限りなく接触事故あるいは交通事故を繰り返していたことがわかる。彼女の号泣の原因は、それである。車を運転できずに事故ばかり起こしている自分にいい加減嫌気がさしきて、号泣するしかなくなった(理由3)。
そう、この映画の物語は、クローンのほうがオリジナルよりも狡猾さにおいて上手だった。でもこのクローン、運転が下手すぎるというもの。なんだ、このテーマは。オリジナルかクローンのどちらが生き残るのかという緊張感のある物語の最後は、クローンのほうが運転が下手というのは、なんちゅう終わり方だ。そこが面白すぎる。
IDMbへの投稿者の評価では、“Tries hard to be deep but ends up being silly.”というのがあったが、だから低評価にするのではなく、まさにこの点が面白いところでしょう――繰り返すと、What people find poor about this film is actually it's greatest quality.
テーマの深い掘り下げがあることは確かである。上記の理由1と理由2も失われることがなく最後に現前しているところに、この映画の深さがある。と同時に、しれっと(deadpanで)バカな終わりをもってくることに対して、憤慨することなく、笑うことができないというのは知性も感情も貧弱すぎるのでは。
映画の冒頭は、オリジナルとコピーの生き残りをかけた決闘(テレビ中継あるいは動画撮影される)である。武器は、用意されたものから選ばれる。相手がクロスボウを選んだのに対して劣勢になるこちら側は、ようやくナイフを手にする。しかもこちら側は、盾にしたテーブル越しに片腕を出して相手を挑発する。どうしてこういう戦い方をするのかは、あとで主人公が決闘のトレーナーから教わる戦術によって明らかになる。クロスボウを撃たせて矢を使いつくさせる。矢がなくなったところで、相手の懐に飛び込みナイフでとどめを刺す。
冒頭での決闘(決闘裁判と字幕が出るが、映画『最後の決闘裁判』に影響をうけすぎ。もっとも『最後の決闘裁判』も原題がThe Last Duelだから「裁判」の文字はないものの、内容は真偽の決定だから「決闘裁判」でもよいのだが(歴史用語としても、決闘裁判が定着している)、こちらは裁判ではなくただの決闘であって正邪、真偽の審判とは関係ない)は、さらに決闘トレーナーとの練習の最終段階で、ゆっくりした動きと言葉によって決闘をシミレーションする場面へとつながる。彼女は相手(トレーナー)を木製の疑似ナイフで後ろから刺すかっこうをして、これで肝臓に致命傷を与えることになると言葉で説明するのだが、後ろから刺すわけだから、腎臓をひとつきということになるはずだが。と、まあ、それはともかく、こうしたシミュレーションを繰り返して、たぶん、ラストの壮絶な果し合いになだれ込むかと思ったら、決闘はなし。おいおい、決闘のアクションシーンはないのかとつっこみを入れたくなるとき、それがこの映画のたくらみであったことがわかる。決闘以前に決着はついてしまうのである。
あるいは彼女がトレーナーへのレッスン料が払えなくなるのではと心配すると、金銭以外にも支払う方法があるとトレーナーがいわくありげに彼女に告げる。そして決闘が一か月延期になったため、追加の一か月のレッスン料が払えなくなったとき、トレーナーは金銭以外の方法を示唆する。それは、何か? 窃盗によって金品を盗むのか、違法行為を請け負って報酬を得るのか、あるいは体で、セックスによって払うのかといろいろ想像を巡らせるのだが、答えは、彼女がトレーナーに無料でダンスの初歩的なレッスンをすること。ダンスを習得するチャンスがなくて困っていたトレーナーは初歩的レッスンを受けたことで、ダンス教室の初歩クラスに登録できたと、嬉しそうに彼女に告げる。え、それが、金銭以外に料金を支払う方法? 実際、彼女がトレーナーにダンスを教えるシーンは、なにか滑稽でみていて当惑の笑みがこぼれてしまうような場面である。
彼女がトレーナーとセックスするのかと思っていた助平親爺の私としては肩透かしどころではない、予想外の展開に唖然とするしかなかった。まさにアンチ・クライマックス、これぞベーソスBathos。この馬鹿馬鹿しさに観客が慣れて、それを面白がるようでなければ、観客のほうがDuncesである。
ただBathosだけでは片付かない気になる場面もある。トレイニング中に、通りの向こう側で自分を監視しているダブルの存在に気づいた彼女は、ガラス越しにクロスボウを撃つ。そしてダブルのいたところに駆けつけると、矢が刺さって死んだのは小犬だった。小犬は大きさといい、矢が飛んできたときの位置といい、彼女が狙った方向とか高さとはかけ離れていたので、彼女が目撃したダブルは、実在しているのではなく、彼女の幻覚ではなかったかという疑いが生じてくる。それ以後、現実と幻想との区別がつかない展開になるのではと予想したが、それはなかった。ただ、クローンのダブルとペットの小犬とが人間にとって同等の価値をもっているという暗示として受けとめるだけでいいのかと、今も疑っているが、ただ、クローンがペットだというのはこの映画の展開から生まれてくる優れた文明諷刺である。
最後の場面、彼女が車で外出するとき、その車は、まんべんなく接触事故の痕跡を残していていまにも壊れそうなポンコツ車であった。オリジナルの彼女は、ふつうに運転できるので、母親やフィアンセは、この運転の下手さ加減で彼女がクローンであることに気づいてあたりまえである。しかし母親もフィアンセも、最初から彼女(反抗的な娘で威圧的で感情の起伏に乏しいのがオリジナルな彼女)よりも、心優しいクローンのほうを気にいってしまっている。
しかし『ステップフォードの妻たち』のように、家父長的な男が、最初は、うるさい人間の妻よりも従順なロボットの妻を好むとしても、やはり最後は手におえない人間の妻の人間らしさが好ましいものと考えようになるのとは異なり、母親やフィアンセは、従順で大人しいからといってクローンのほうを最後まで愛し続けるのはどうかしているとしかいいようがない。
実際、IDMbには、この映画について、
という評言があった。そう、この映画のテーマの暗い笑いは、たんに女性の主人公のオリジナルとクローンとの戦いをめぐるものにとどまらない。人間的欠陥、いや人間臭さのない、善男善女のクローンだけを愛するような社会そのものが、どうやらクローン化しているという暗示を観客に届けようとしているのではないか。実際、映画の最初の決闘から、作中で決闘を経て生き残った者たちの集団セラピーなどからすると、生き残ったのは、みんなクローンである。主人公も生き残るほうは、本人はオリジナルと主張しているが、クローンであることは誰にでもわかる。そうなると彼女の母親やフィアンセも、すでに入れ替わっている可能性が高い。そう、この映画における人物は、ほとんどクローンなのである(ダンスがうまく踊れないトレーナーも、ひょっとしたらクローンなのかもしれない――クローンは運転が下手、ダンスが下手、なにか下手なものをもっているのだ)。
こうみるとこの映画の諷刺の対象はかなり広く、その洞察はかなり深い。クローンというのは、実際、問題で、細胞からクローンを作っても、細胞の成長を早める技術が開発されないと、本人とそっくいりなクローンを作るのは難しい。そう、私とそっくり同じのクローンがすぐに出来上がることはない。いま私が自分のクローンをつくり、今の自分の身替りにしようと思っても、私にそっくりなクローンが完成するのは、今から60年以上後のことで、その頃には私は死んでいる。もし私が20歳で自分のクローンを作りはじめたら、そのクローンが20歳になるのは、結局、20年後で、そのとき私は40歳。そのクローンは私の身替りどころか、私に、つまり親によく似た息子でしかない。だからクローンがすぐに表れるという設定には無理がある。
ただロボットであるのなら、これはすぐにできる。しかし、そうなると人間であるクローンと違って、ロボットは歳をとらないから、母親やフィアンセとともに年齢を重ねることができない。そのため成長促進する技術を実現させてクローンを早急につくることしかないということになる。
しかし、ロボットという分身という設定も捨てがたい。というのも、AI搭載のロボットと結婚する人間(男性がメイン)がふえているというに記事を読んだことがある。『ステップフォードの妻たち』の時代に逆戻りしているのだろうか。あるいはAIが人間らしい花嫁を造り出すことに成功しつつあるのか。
ただ、それにしてもパートナーをいくら愛していても、パートナーの身体的人間的欠陥を許容しなかったら、それは真の愛ではなくなる。パートナーの口が臭い、足が臭いことを許容してこそ、パートナーが計算に弱く字が下手であっても、パートナーがビーフカレーしか食べず納豆が嫌いであっても、それを許容することで、そこに夫婦愛も生まれる。欠陥のない完璧なパートナーを好むのなら、あなた自身がAI化している、つまりあなた自身が人間性を捨ててロボットになっていることになる。ピグマリオン神話では彫刻家ピグマリオンの愛ゆえに、彫像の女性が、人間の女性へと変貌を遂げる。AIの花嫁は、AIを愛するあなたを人間から彫像=ロボットに変えてしまうのである。
ただし、この映画が、その設定として、クローンのかわりにロボットあるいはアンドロイドによる身替り制度をすればよかったかというと、そうでもない。ロボットなら、不用になれば廃棄処分できる。しかしクローンは人間なので簡単に廃棄できないから、生き残りをかけてオリジナルとの決闘という設定――物語の軸となる設定――が必要となる。
と同時にクローンは人間なので、ロボットにはない自意識の目覚めがつねに起こりうる。実際、主人公のクローンは、主人公の母親やフィアンセに可愛がられ愛されるのだが、クローン自身は、だんだんそれがうっとうしくなる--もしペットが語れるなら、同じようなことを語るだろう。従順で親孝行な娘、フィアンセや夫の言いなりになる女性、そんな役割を演ずることが、このクローンにはうざったくなる――物言うペット。結局、オリジナルとの闘争で生き残っても、頑迷な母親と干渉的なフィアンセ/夫との挟み撃ちにあう人生が待っている。はたしてオリジナルに入れ替わって生きる人生にどんな意味があったのか。泣きたくなるではないか。これが最後の場面でクローンの彼女が号泣する理由であろう(理由4)。
これを映画は、静謐で物寂しい映像によって、何食わぬ顔で(deadpan)物語として展開する。IMDbには、“Poor man's Yorgos Lanthimos?”という評価もあったが、たしかに不条理感を強くすれば、Yorgos Lanthimosの世界に近づいたかもしれないが、このままでも、そのdeadpan性を充分にクセの興味深い映画という地位を失うことはないだろう。
どんな映画かと予備知識なしで観てみたら、どう受け止めるべきか、こちらのスタンスを決めかねて戸惑った。IMDbでの観客反応を見てみたら、低評価が多い(なかには憤慨している評価もある)が、同時に高評価も多数あり、まさに毀誉褒貶相半ばする映画といえようか。
そんななか監督の前作からの影響で“Deadpan dark comedy”という評言があり、なるほどと納得した。おそらくこれがこの映画を高く評価するときのスタンスと言えるだろう。
また、そうなるとIMDbにあった次の評言が生きてくる――What people find poor about this film is actually it's greatest quality.
ちなみにWikipedia日本版のこの映画の解説は、映画撮影前に書かれたらしく(どうしてそんなに早く書くのか、あるいは、どうしてそんな記事が必要なのか不明)、端的に間違っている、というか何が言いたいのかわからない――
『デュアル』(Dual, 2022) は、ライリー・スターンズ【Riley Stearns】が脚本、制作、監督する風刺的なSFスリラー映画である。本作は、主人公の女性が奇跡的に回復し、クローンを廃止することに失敗した後、彼女がすぐに死ぬことを知って自分自身をクローン化し決闘するよう裁判所に命じられるという話である。【この内容紹介に惑わされないように、というか、なんのことかさっぱりわからないのでまどわされるまでもない。】
この映画は2020年4月に発表され、カレン・ギラン、アーロン・ポール、ビューラ・コアレが出演する予定である。主要撮影は2020年10月に始まり、全シーンがフィンランドのタンペレで撮影される。【こういう未来時制の文がWikipediaに掲載されるのは珍しい。いまから2年以上前に書かれたもののようだ。それにしても撮影場所の特定に何の意味があるのだ。】
私はIMDbへの投稿者のようにこの映画には憤慨などしていないが、この日本版Wikipediaの記述には憤慨した――なぜこんな記事が残っているのか、と。
“deadpan dark comedy”とは言い得て妙である。最後の場面【以下、ネタバレ注意:Warning: Spoilers】、生き残ったクローンのほうが(本人はオリジナルと言っているが、クローンであるのは、歴然としている)が、車を運転しながら、最後に車をとめて車内で号泣する。道路の真ん中に車を止めているので通行の邪魔になり周囲でクラクションが鳴り続ける。
なぜ彼女が号泣しているかというと、物語の流れから、オリジナルを殺して居座ることに成功したものの、置き換わった人生にうんざりしはじめ後悔の念が罪の意識(不正な方法でオリジナルを殺した)との相乗効果によって彼女を号泣させたのであろう(理由1)。
あるいはオリジナルとコピー(ダブル)との間に芽生えていた友情関係を、みずからの手で壊してしまったことで、失ったものの大きさに気づかされた彼女が号泣するしかなくなるということだろう――おそらくこの世で心を通わせることのできたであろう唯一の友を、自らの手で殺したのだから(理由2)。映画のエンドクレジットは、殺されたオリジナルが埋まっているであろう森の奥を映しつづけ、生と死、置き換わりと廃棄が映画の主題であることを暗示する。
しかし、もうひとつの、おそらくこれが最も明白な理由というものもある。コピーのほうが自動車の運転を習う機会がなくて、運転が下手。というか運転がほぼできない。いま彼女が乗る自家用車も、車体がまんべんなくへこんだりパネルがはずれそうになっていて、数限りなく接触事故あるいは交通事故を繰り返していたことがわかる。彼女の号泣の原因は、それである。車を運転できずに事故ばかり起こしている自分にいい加減嫌気がさしきて、号泣するしかなくなった(理由3)。
そう、この映画の物語は、クローンのほうがオリジナルよりも狡猾さにおいて上手だった。でもこのクローン、運転が下手すぎるというもの。なんだ、このテーマは。オリジナルかクローンのどちらが生き残るのかという緊張感のある物語の最後は、クローンのほうが運転が下手というのは、なんちゅう終わり方だ。そこが面白すぎる。
IDMbへの投稿者の評価では、“Tries hard to be deep but ends up being silly.”というのがあったが、だから低評価にするのではなく、まさにこの点が面白いところでしょう――繰り返すと、What people find poor about this film is actually it's greatest quality.
テーマの深い掘り下げがあることは確かである。上記の理由1と理由2も失われることがなく最後に現前しているところに、この映画の深さがある。と同時に、しれっと(deadpanで)バカな終わりをもってくることに対して、憤慨することなく、笑うことができないというのは知性も感情も貧弱すぎるのでは。
映画の冒頭は、オリジナルとコピーの生き残りをかけた決闘(テレビ中継あるいは動画撮影される)である。武器は、用意されたものから選ばれる。相手がクロスボウを選んだのに対して劣勢になるこちら側は、ようやくナイフを手にする。しかもこちら側は、盾にしたテーブル越しに片腕を出して相手を挑発する。どうしてこういう戦い方をするのかは、あとで主人公が決闘のトレーナーから教わる戦術によって明らかになる。クロスボウを撃たせて矢を使いつくさせる。矢がなくなったところで、相手の懐に飛び込みナイフでとどめを刺す。
冒頭での決闘(決闘裁判と字幕が出るが、映画『最後の決闘裁判』に影響をうけすぎ。もっとも『最後の決闘裁判』も原題がThe Last Duelだから「裁判」の文字はないものの、内容は真偽の決定だから「決闘裁判」でもよいのだが(歴史用語としても、決闘裁判が定着している)、こちらは裁判ではなくただの決闘であって正邪、真偽の審判とは関係ない)は、さらに決闘トレーナーとの練習の最終段階で、ゆっくりした動きと言葉によって決闘をシミレーションする場面へとつながる。彼女は相手(トレーナー)を木製の疑似ナイフで後ろから刺すかっこうをして、これで肝臓に致命傷を与えることになると言葉で説明するのだが、後ろから刺すわけだから、腎臓をひとつきということになるはずだが。と、まあ、それはともかく、こうしたシミュレーションを繰り返して、たぶん、ラストの壮絶な果し合いになだれ込むかと思ったら、決闘はなし。おいおい、決闘のアクションシーンはないのかとつっこみを入れたくなるとき、それがこの映画のたくらみであったことがわかる。決闘以前に決着はついてしまうのである。
あるいは彼女がトレーナーへのレッスン料が払えなくなるのではと心配すると、金銭以外にも支払う方法があるとトレーナーがいわくありげに彼女に告げる。そして決闘が一か月延期になったため、追加の一か月のレッスン料が払えなくなったとき、トレーナーは金銭以外の方法を示唆する。それは、何か? 窃盗によって金品を盗むのか、違法行為を請け負って報酬を得るのか、あるいは体で、セックスによって払うのかといろいろ想像を巡らせるのだが、答えは、彼女がトレーナーに無料でダンスの初歩的なレッスンをすること。ダンスを習得するチャンスがなくて困っていたトレーナーは初歩的レッスンを受けたことで、ダンス教室の初歩クラスに登録できたと、嬉しそうに彼女に告げる。え、それが、金銭以外に料金を支払う方法? 実際、彼女がトレーナーにダンスを教えるシーンは、なにか滑稽でみていて当惑の笑みがこぼれてしまうような場面である。
彼女がトレーナーとセックスするのかと思っていた助平親爺の私としては肩透かしどころではない、予想外の展開に唖然とするしかなかった。まさにアンチ・クライマックス、これぞベーソスBathos。この馬鹿馬鹿しさに観客が慣れて、それを面白がるようでなければ、観客のほうがDuncesである。
ただBathosだけでは片付かない気になる場面もある。トレイニング中に、通りの向こう側で自分を監視しているダブルの存在に気づいた彼女は、ガラス越しにクロスボウを撃つ。そしてダブルのいたところに駆けつけると、矢が刺さって死んだのは小犬だった。小犬は大きさといい、矢が飛んできたときの位置といい、彼女が狙った方向とか高さとはかけ離れていたので、彼女が目撃したダブルは、実在しているのではなく、彼女の幻覚ではなかったかという疑いが生じてくる。それ以後、現実と幻想との区別がつかない展開になるのではと予想したが、それはなかった。ただ、クローンのダブルとペットの小犬とが人間にとって同等の価値をもっているという暗示として受けとめるだけでいいのかと、今も疑っているが、ただ、クローンがペットだというのはこの映画の展開から生まれてくる優れた文明諷刺である。
最後の場面、彼女が車で外出するとき、その車は、まんべんなく接触事故の痕跡を残していていまにも壊れそうなポンコツ車であった。オリジナルの彼女は、ふつうに運転できるので、母親やフィアンセは、この運転の下手さ加減で彼女がクローンであることに気づいてあたりまえである。しかし母親もフィアンセも、最初から彼女(反抗的な娘で威圧的で感情の起伏に乏しいのがオリジナルな彼女)よりも、心優しいクローンのほうを気にいってしまっている。
しかし『ステップフォードの妻たち』のように、家父長的な男が、最初は、うるさい人間の妻よりも従順なロボットの妻を好むとしても、やはり最後は手におえない人間の妻の人間らしさが好ましいものと考えようになるのとは異なり、母親やフィアンセは、従順で大人しいからといってクローンのほうを最後まで愛し続けるのはどうかしているとしかいいようがない。
実際、IDMbには、この映画について、
Everybody acts like robots.
という評言があった。そう、この映画のテーマの暗い笑いは、たんに女性の主人公のオリジナルとクローンとの戦いをめぐるものにとどまらない。人間的欠陥、いや人間臭さのない、善男善女のクローンだけを愛するような社会そのものが、どうやらクローン化しているという暗示を観客に届けようとしているのではないか。実際、映画の最初の決闘から、作中で決闘を経て生き残った者たちの集団セラピーなどからすると、生き残ったのは、みんなクローンである。主人公も生き残るほうは、本人はオリジナルと主張しているが、クローンであることは誰にでもわかる。そうなると彼女の母親やフィアンセも、すでに入れ替わっている可能性が高い。そう、この映画における人物は、ほとんどクローンなのである(ダンスがうまく踊れないトレーナーも、ひょっとしたらクローンなのかもしれない――クローンは運転が下手、ダンスが下手、なにか下手なものをもっているのだ)。
こうみるとこの映画の諷刺の対象はかなり広く、その洞察はかなり深い。クローンというのは、実際、問題で、細胞からクローンを作っても、細胞の成長を早める技術が開発されないと、本人とそっくいりなクローンを作るのは難しい。そう、私とそっくり同じのクローンがすぐに出来上がることはない。いま私が自分のクローンをつくり、今の自分の身替りにしようと思っても、私にそっくりなクローンが完成するのは、今から60年以上後のことで、その頃には私は死んでいる。もし私が20歳で自分のクローンを作りはじめたら、そのクローンが20歳になるのは、結局、20年後で、そのとき私は40歳。そのクローンは私の身替りどころか、私に、つまり親によく似た息子でしかない。だからクローンがすぐに表れるという設定には無理がある。
ただロボットであるのなら、これはすぐにできる。しかし、そうなると人間であるクローンと違って、ロボットは歳をとらないから、母親やフィアンセとともに年齢を重ねることができない。そのため成長促進する技術を実現させてクローンを早急につくることしかないということになる。
しかし、ロボットという分身という設定も捨てがたい。というのも、AI搭載のロボットと結婚する人間(男性がメイン)がふえているというに記事を読んだことがある。『ステップフォードの妻たち』の時代に逆戻りしているのだろうか。あるいはAIが人間らしい花嫁を造り出すことに成功しつつあるのか。
ただ、それにしてもパートナーをいくら愛していても、パートナーの身体的人間的欠陥を許容しなかったら、それは真の愛ではなくなる。パートナーの口が臭い、足が臭いことを許容してこそ、パートナーが計算に弱く字が下手であっても、パートナーがビーフカレーしか食べず納豆が嫌いであっても、それを許容することで、そこに夫婦愛も生まれる。欠陥のない完璧なパートナーを好むのなら、あなた自身がAI化している、つまりあなた自身が人間性を捨ててロボットになっていることになる。ピグマリオン神話では彫刻家ピグマリオンの愛ゆえに、彫像の女性が、人間の女性へと変貌を遂げる。AIの花嫁は、AIを愛するあなたを人間から彫像=ロボットに変えてしまうのである。
ただし、この映画が、その設定として、クローンのかわりにロボットあるいはアンドロイドによる身替り制度をすればよかったかというと、そうでもない。ロボットなら、不用になれば廃棄処分できる。しかしクローンは人間なので簡単に廃棄できないから、生き残りをかけてオリジナルとの決闘という設定――物語の軸となる設定――が必要となる。
と同時にクローンは人間なので、ロボットにはない自意識の目覚めがつねに起こりうる。実際、主人公のクローンは、主人公の母親やフィアンセに可愛がられ愛されるのだが、クローン自身は、だんだんそれがうっとうしくなる--もしペットが語れるなら、同じようなことを語るだろう。従順で親孝行な娘、フィアンセや夫の言いなりになる女性、そんな役割を演ずることが、このクローンにはうざったくなる――物言うペット。結局、オリジナルとの闘争で生き残っても、頑迷な母親と干渉的なフィアンセ/夫との挟み撃ちにあう人生が待っている。はたしてオリジナルに入れ替わって生きる人生にどんな意味があったのか。泣きたくなるではないか。これが最後の場面でクローンの彼女が号泣する理由であろう(理由4)。
これを映画は、静謐で物寂しい映像によって、何食わぬ顔で(deadpan)物語として展開する。IMDbには、“Poor man's Yorgos Lanthimos?”という評価もあったが、たしかに不条理感を強くすれば、Yorgos Lanthimosの世界に近づいたかもしれないが、このままでも、そのdeadpan性を充分にクセの興味深い映画という地位を失うことはないだろう。
posted by ohashi at 21:35| 映画
|
