2022年09月29日

国賊、国葬、国辱


安倍元首相の国葬が終わったのだが、凶弾に倒れた人間として、壮大な葬儀にこれほど似つかわしくない人物はないだろう。

たとえばケケネディ大統領、あるいはキング牧師は、ともに凶弾に倒れたのだが、その葬儀(ケネディ大統領の場合、大統領なのでアメリカでは国葬となった)は深い悲しみに包まれた。彼らには反対派もいたし、また彼ら自身、完全無欠な人間ではなかったが、長所が欠点をはるかに上回っていた。二人は、その死が惜しまれた偉大な人物だった。少なくとも二人は統一教会とは無縁だった。

安倍元首相の国葬の場合、たとえそれが国会の審議を経たうえでのことだとしても(実際、衆参両院で与党自民党(これからは自民統一教会と呼ぶが)が過半数を占めているので、国会による承認が得られることはまちがいなのだが)、国葬には値しないと考える日本人は数多く、世論調査の結果がどうでれ、それこそ全人口の過半数は存在するだろう(実際、世論調査では過半数を上回っているのだが)。

自民党の村上誠一郎は、安倍元首相の政権運営が「財政、金融、外交をぼろぼろにし、官僚機構まで壊した。国賊だ」と発言したが、よくぞここまで言ったと称賛の声が上がったと同時に、このことは国民の過半数以上が知っていることでもあった。

「森友・籠池泰典氏が安倍氏国葬をブッタ斬り「ウソを突き倒して国民をだました」(2022/09/28株式会社東京スポーツ新聞社)という記事(抜粋)によれば、

安倍晋三元首相(享年67)の国葬は賛否が分かれたまま開催された。安倍氏とは因縁浅からぬ仲の学校法人「森友学園」の籠池泰典理事長(69)は、国葬に値しないと主張した。

かつて政治団体「日本会議」の会員だった籠池氏は、旧統一教会が日本会議の中に入って活動しているのを知っており、何度も反対したが上層部にはねつけられてきたという。

「うまくすり寄って利用されていたんですよ。安倍さんはそれを知っていて自分の票のために利用した。そんな人が国葬なんてありえない」と語った。

安倍氏は北朝鮮の拉致問題解決を政権の最重要課題に掲げていた。しかし、籠池氏は「一丁目一番地のはずの拉致問題解決も何ら動きはない。首相を卒業してから北朝鮮に行くわけでもなく、文鮮明さんとそれだけ仲が良かったのなら、北朝鮮にアプローチくらいすればいいが、それもない」とバッサリ。

高く評価される外交面についても「ロシアとの北方領土返還の話も何を話していたのか。国民に期待感を持たせるだけで何のプラスもない」と酷評。さらに「私たちの森友事件でもそうだったが、堂々とウソを突き倒して国民をだましてきた。信じてきた保守の人間をもだましている」と指摘した。


そう、今回の国葬反対の意見は、礼節を欠いた左翼のクズによるものだけでなく、だまされ裏切られ憤慨している保守層によっても支持されているのだ。

「長崎・平戸市長が「反日勢力よ」と投稿 国葬反対する人を念頭に」(9/28 18:26配信 毎日新聞)という記事では

27日に開かれた安倍晋三元首相の国葬に出席した長崎県平戸市の黒田成彦(なるひこ)市長(62)が自身のツイッターに、一般献花者の多さに触れ「テレビよ、反日勢力よ。この静かな反撃を直視せよ!」と投稿した。国葬に反対する人たちを念頭に書き込んだとみられるが、黒田市長は「反安倍勢力を意味したもので、国葬に反対する人たちを指したものではない」と説明した。

江戸時代、長崎と平戸は世界に開かれた門戸であったが、いまや世界を知らないただの田舎に成り下がったようだ。だれが反日勢力なのだ。ネットでは「反日カルト団体」である統一教会とつるんでいた安倍元首相への怒りの声があふれている。

まあこの平戸市長も、統一教会から選挙援助を受けているだろうし、本人も統一教会かもしれない。そもそも献花した日本人も、たんにだまされやすい純朴な人間とか、自民統一教会について何も知らない自民党支持者ではく、統一教会の信者たちだろう。

安倍元首相の欠点を上回る業績は、すべて統一教会の支援によって実現していたにすぎない。統一教会という、反日カルト団体なくして何も実現できなかった。そして統一教会という反日カルト団体とつるんでいた安倍元首相こそ、裏切り者、国賊、売国奴にすぎない。

ちなみにアメリカではキング牧師の栄誉を称え、1986年よりキングの誕生日(1月15日)に近い毎年1月第3月曜日を、キング牧師記念日(Martin Luther King, Jr. Day)として祝日としている。移動祝祭日にしなくてもいいのだが、日本でも偉大なる安倍元首相の死を悼んで、国葬の日を、安倍首相記念日(Shinzou Abe Day)にしたらどうか。国賊を国葬にしたまさに9月27日こそ、日本人が自民統一教会によって侮辱された国辱の日として長く記念すべきである。
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2022年09月11日

エリザベス女王

9月8日にエリザベス女王が96歳で亡くなった。個人的なことをいうと、私の母とエリザベス女王は生まれた年が同じである。母のほうが、エリザベス女王よりも2か月ほど若い。エリザベス女王のほうが母よりも早く結婚している。私の母はエリザベス女王戴冠の年に結婚している。母は、エリザベス女王よりも20年ほど早く他界したが、エリザベス女王の元気な姿をテレビなどで見るたびに、そこに母の、生きていたら、そうであったかもしれない姿が重なった。そういう意味でエリザベス女王には親近感を抱いていた。女王崩御の報を受けて、母が二度目の死を迎えたという思いにとらわれた。

故エリザベス女王にとって、その子供の世代となると、70歳代前半から60歳代ということになろう。私の属する世代といってもいい。50歳代前半から以降は孫の世代ということになる。

日本の元号でいうと、母が生まれた1926年というのは、大正15年/昭和1年(寅年)にあたる。母はよく、自分の年齢と昭和の年号は同じだと言っていた。昭和20年には20歳ということだが、しかし、1926年生まれだと昭和20年(1945年)は、19歳にあたる。年号と同じというのはおかしいのだが、これは満年齢ではなく数え年で年齢を計算した結果。いまでは数え年はほとんど使われないから年号と同じというのは意味がないのだが、しかし、母の年齢と昭和の年齢とが満年齢でもほぼシンクロしていた(数え年では完全にシンクロしていた)。そして同じことはエリザベス女王についても言える。

エリザベス女王の生涯は、その途中まで母の人生とシンクロしていたというのは、個人的なことで、私にしか意味をもたないが、昭和ともシンクロしていたこと、昭和と共にあり、また昭和の延長線上にあったというのは、日本人としては興味深いことに思えるのだ。

1926年4月にエリザベス女王が、1926年12月に昭和が誕生した。2022年、エリザベス女王は、96歳でなくなった。昭和は1989年に終わるのだが、もし終わっていなかったら、今年は昭和97年にあたる。
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2022年09月08日

売国奴

「売国奴」という言葉は、人間の行為を有無をいわせぬかたちで弾劾するものであるのであり、それが発せられる状況というのは、全体主義とかファシズムの支配下にある状況であるか、あるいは戦時体制であって、暴力、抑圧、断罪など好ましくないイメージをともなうこともあって、使うべきではない言葉だと思う。

それを承知の上で、いえば、現在の日本で国民の怒りを買っているのは、自民党の議員が売国奴であったこと、またその売国奴の親玉でもある元首相の国葬が執り行われるということである。

これは自民党の議員の多くが、いかがわしい新興宗教団体から援助を受けていたこととに対しての怒りではない。また援助を受けていた宗教団体が違法行為をしていたことへの怒りでもない。いや、怒りはあるのだが、しかし、票のためなら、多少問題のある団体からでも支援を受けるというのは、もちろん許されることではないのだが、自民党にやめろと言ってもやめないのだがら、これはしかたがないと多くの国民が、そして支持者ならなおさら、あきらめえ黙認することだろう。

しかし今回の統一教会問題は、統一教会のいかがわしさ以上に、それが韓国の新興宗教団体であるということだ。しかも統一教会のいわゆる霊感商法は、違法行為のみならず、日本人を食い物にしている。霊感商法などで日本人を騙し、さらに日本人の信者から金をまきあげることで成り立っている統一教会は、完全に日本を植民地化している。そうした統一教会とつながっている自民党はまさに売国奴の巣窟なのである。

したがって自民党が、いくら、左翼・リベラル勢力と戦い抑え込むという共通の目的があって統一教会と連携した、その支援を受けたといっても全く説得力がない。これまで嫌韓政策をとってきた勢力、その頂点にいたかもしれない極右の元首相が、統一教会のことを、韓国の団体であっても親日派であると言い逃れても(実際、そこまでバカな言い逃れはしてないと思うが)、その親日派の団体が、日本人信者や日本人を食い物にしていること、日本人を金づるとしか考えていない悪辣な反日団体であることについて、どう説明できるのだろう。売国奴め。口を開けば呼吸するように嫌韓意見を垂れ流してきたネトウヨらは、日本人を食い物にしている統一教会と売国奴の自民党とが癒着していたことを、どう考えているのだろうか。

あるいは韓国嫌いの多くの保守的な日本人が、信頼を寄せている自民党が、あろうことか韓国の、日本人を蔑視している統一教会の手先となっていたこと、売国奴であったこと、しかも、統一教会との関係を断ち切ろうとしてないか、うやむやに済まそうとしている自民党に対する落胆、いや売国奴に対する怒りは大きい。ましてや日本の右翼勢力にとって、自民党と統一教会との癒着によって恥をさらされたようなものである。

したがって、怖いのは、恥をかかされた極右勢力が本格的な右翼テロと革命行動を起こすことだろう。統一教会問題について、左翼・リベラルからの批判など無視すればいいと考えている自民党の政治家たちは、自分たちこそ、売国奴として、右翼から狙われていることを忘れるべきではない。

実際、「つぎはお前だ」という脅迫文が政治家に送られているのだが、そうした愚かで許されるべきではない脅迫をする人間が、ほんとうにテロや殺害を実行するとは思えないのだが、ただ、それは待望姿勢の証左である点が怖い。つまりそうした脅迫文には、統一教会と癒着している政治家どもに対して、暴力的制裁を加えてほしいという願望が透けて見えるし、また、実際にそうした暴力的制裁が行なわれても、それを許してしまうような風潮ができあがりつつあることも、懸念されるところなのである。

実際、このままでは、みんな統一教会が悪いということになって、いろいろな計画や改革がとん挫する可能性がある。日本人を蔑視している統一教会の手先でもあった元首相が改憲を求めていたとするなら、改憲は、日本を弱体化する、あるいは日本を崩壊させる計略のひとつにみえてくる。男女共同参画プロジェクトの遅れも、原発推進政策も、みんな統一教会が裏で糸を引いているとも考えられるのだから。

もちろん私自身は、右翼テロを望んだりはしていない。右翼テロが本格化すると、まっさきに狙われるのが売国奴の自民党の政治家であることはまちがいないが、しかし、やがてテロの矛先は、野党の政治化、さらには左翼・リベラレル勢力に及ぶこともまちがいなため、暗黒時代の幕開けは防ぎようもなくなるからだ。

ただ、それにしても、北朝鮮ともつながっていた統一教会、日本人を金づるとして植民地扱いしていた統一教会と、どうして安倍元首相が連携しえたのだろうか。どこかに共鳴できるものがあったのだろうか。

実際それはあったとみるほかはない。統一教会は日本人を蔑視している。いまや世界一の感染者数を誇る日本のコロナ対策のずさんさ、まさに自民党の棄民政策ともいえる政策は、統一教会による日本人蔑視の姿勢とまったく同じではないだろうか。統一教会にとっても、安倍元首相にとっても、日本国民は搾取の対象でしかなかったのである。
posted by ohashi at 14:50| コメント | 更新情報をチェックする

2022年09月03日

嫌がるヒーロー

9月2日、世界文学・語圏横断ネットワーク 第15回研究集会に、コメンテーターとして招かれたというか発言を求められた。ハヴェルの『集中困難』と『ラルゴ・デゾラート』を扱った研究発表で、優れた研究発表だったから、とくに反論とか批判はなく、褒めるだけで、それでは時間がもたないから、研究発表の成果を踏まえた上で、思うことを簡単に付け加えた。

ただし私はハヴェルの専門家ではないし、チェコ語が読めるわけでもない。日本語で読んだのは、ハヴェルの作品は阿部賢一・豊島美波訳『通達・謁見』(松籟紗2021)の二作品で、あとは英語訳で読んだ。そのなかには今回の研究発表で扱われた『ラルゴ・デゾラート』のトム・ストッパード訳もある。

【『ガーデン・パーティ』はすでに翻訳があるのだが、私は持っていない。またゲイの『乞食オペラ』の翻案は、本そのものを研究室に置いていたのだが、退職の際に、家に持ち帰ったとき、他の本と紛れてしまい、いまも見つからず、したがって読んでいない。】

だから固辞すべきだったのだが、まあ、なにか事情があってのことだろう。幸か不幸か、英語訳を持っていたこともあって、ここで断れば、いろいろなところに迷惑をかけるのではないかと思うので、力不足を覚悟のうえで引き受けることにした(たぶん世界文学・語圏横断ネットワーク第15回研究集会のことは、ネット上で報告されていると思うので、興味のある方は参照されたい)。

なおその日の、世界文学・語圏横断ネットワーク第15回研究集会では後半が亡命作家をめぐるシンポジウムで、私の専門分野ではないドイツ語圏の話だったので、ただ聞かせてもらうだけだったが、それでも、研究集会が終わったあと、たまたま持っていたアンナ・ゼーガース『ハイチの宴』初見昇訳(新泉社1970)を読み始めたくらだから(10年か20年以上前に古書を購入していた。薄い本である)、そのシンポジウムからは、刺激をはじめとして多くのものを受け取ったことは確かである。

さてハヴェルの研究発表へのコメントだが、私は、とくに『ラルゴ・デゾラート』をめぐって、この作品が属するサブジャンルとして、「嫌がるか/嫌がるふりをしている指導者やヒーローを表舞台に出す」という演劇サブジャンルがあることを指摘した。

これは三国志で、劉備が諸葛亮孔明を軍師として迎えるために三度頼みに来たという、三顧の礼のようなエピソードなのだが、たとえば古くはソポクレスの『エピクテトス』がある(ちなみにトロイ戦争めぐる神話物語では、アキレウスもオデュッセウスも、最初は、出陣を嫌がっている。まあギリシアの武将たちは、集団的自衛権ゆえに参戦を余儀なくされるのであって、嫌がるほうが自然なのだ)。

またすぐに思い出すのはシェイクスピアの『マクベス』である。マクベスによって殺されたダンカン王の王子マルカムは、イングランドに亡命しているのだが、そのマルカムのもとに、マクベス討伐軍の司令官になってくれと、マクダフがやってくる。マルカムは自分がその任にないこと、自分は欠点の多い未熟な人間であるからと固辞する――最終的にはマルカムは、嫌がるふりをしていただけだとわかるのだが。

あるいはサルトルの『悪魔と神』。ドイツ農民戦争の時代を扱った歴史物だが、嫌がる武将(鉄腕ゲッツのこと――たぶんこのゲッツは、『ベルセルク』の主人公ガッツのモデルとなった人物)が最後に農民側の指導者となるべく出陣する。

【ちなみにこのサブジャンルについて思い浮かんだのは、もちろんハヴェルの『ラルゴ・デゾラート』の内容から判断してのことだが、同時に、専門分野でもないのにコメンテーターとなることを求められて、一度は固辞しても最終的に引き受けた自分の境遇ゆえかもしれないと、いま初めて思いついた。】

ただし『ラルゴ・レゾラート』では、嫌がる/嫌がるふりをするヒーローが説得のうえ出陣するというサブジャンルの設定を踏まえているようにみえながら、実は、そのような出陣こそ権力側が仕組んだ罠ではないかというひねりが加わる。

主人公をめぐる友人たち、支援者、そして女性たち(妻、愛人、ファン)も(彼女たちは、みなハニートラップを仕掛けているようにもみえてくる。honey-trapという語は、はっきりとは、わかないようだが、冷戦期に生まれた言葉らしい)。そうなるとこれは、抑圧するのではなく、生みだし、白日のもとにさらすことでコントロールするという、フーコー的生権力の問題にもつがなるものをもっている。

と、まあこんなことを指摘した。実は、恥ずかしいことながら、オンラインでコメントするとき、自分のコンピューターをへんにいじってしまい、画面から画像が消えた。自分の声が聞こえているのか、自分の顔がうつっているのかも確認できず、下手をしたら声も画像も消えてしまうという、とんでもない失態を演じてしまったのではないかと、はらはらしながら、用意した原稿を早口で読み上げたので、いつもながら悪い滑舌が、さらに悪くなった。一応、声も聞こえたようなので、コメンテーターとしての任は果たせたようなのだが、なさけない限りである。

そのこともあって、私のコメントは、いくつか誤解された。しかし、誤解はいつもあることなので気にしないというか、これもいつもあることなのだが、誤解が発見につながるという刺激的な展開がいつも待っている。

そのひとつが、『マクベス』についての誤解。私が触れたのはマクベスではなくマルカムのこと。マルカムと言ってもわからない人が多いのは当然なので、あえて固有名詞は出さなかったが、そのため私がマクベスについて言及したと誤解された。

しかし考えてみれば、これは誤解かどうかわかならい。『マクベス』の後半のマルカムとマクダフのやりとりについてはいつも気にかかっていた。読んでいると、早く終わって欲しいと思う場面である――舞台でみるとけっこう迫力のある場面であるとしても【私が観た蜷川版『マクベス』では、マルカム(柳楽優弥)とマクダフ(吉田鋼太郎)がほんとうに火花が飛びそうなやり取りを展開した】。教室で読む場合でも、できれば早く終わって、最後の場面にうつりたい長丁場。劇作術の点からいうと、マルカムとマクダフのやりとり(嫌がる(ふりをしている)ヒーローを説得して出陣させる展開)は、この間、マクベスを演ずる役者を楽屋で休ませておくための時間稼ぎでもある。時間稼ぎの場面なら、早く過ぎ去って欲しいとも思う。

しかし、私は、この場面は、嫌がる/嫌がるふりをするヒーローを出陣させるという興味深い場面であることを発見した。そしてこのことを語ったら、マルカムではなくマクベスについて語っているのだと誤解された。

おそらくそれは誤解ではなかったのだ。

なぜなら『マクベス』の前半では、マクベスが、夫人によってダンカン王殺害をそそのかされる。マクベスは優れた武将だが、国王暗殺までは考えていないものの、夫人による教唆によって犯行におよぶ。嫌がる主人公が国王殺害者になる。それに対して後半では、マルカムが、マクダフによって、マクベス討伐軍の大将になることを求められる。前半と後半は、パラレルになっている。マクベスとマルカムは表裏一体化している。どちらも前国王を殺してみずからが国王になるという運命のレールに載せられるのである。

後半のマルカムとマクダフの場面は、前半のマクベスとマクベス夫人のやりとりの鏡像にもなっている。そこからさらにいかなるインプリケーションが生まれるかはともかく、このパラレル関係に、ようやく気づくことができた。私も、すこしずつシェイクスピアが理解できそうになっていると、実感した。
posted by ohashi at 07:53| コメント | 更新情報をチェックする