2022年08月19日

『スパイ・ファミリー』と『ジ・オフィス』

お盆休み(とはいえ私自身にお盆休みはないのだが)のような機会に、親戚の者と会うことがあった。そのとき、10代も後半の女の子が、自分の母親のことを「かあちゃん」と呼んでいて、ちょっと驚いた。もっと子供の頃は「ママ」とか呼んでいたので、私の知らない間に、成長過程で、母親のことを、どういうわけか「かあちゃん」と呼ぶようになったらしい。

そこで、その子に私は、「あなたのお母さんのことを、かあちゃんなんて呼ばないほうがいい。呼ぶなら「ハハ」と呼びなさい。お父さんのことは「チチ」、お母さんのことは「ハハ」と呼ぶと言い。ふだんから、「ねえハハ」とか「ねえチチ」とか言っていると、あらたまった場でも「母が」「父が」とふつうに出てくるから、しっかりした子にみられていいよ」と話したら、その場にいた誰もが唖然としている。

あ、これはやばいと思った私は、「ごめん、ごめん、スパイ・ファミリーじゃないからね、おかしいよね」と言ったら、さらに、もっと引かれてしまい、「いやだなあ、スパイ・ファミリーか!と、つっこんでくれなきゃ」と言ったら、もはや修復できなほどにすべっていることがわかり、「へんなこと言って、ごめん。忘れて」と、その場から逃げた。

【ちなみに、いうまでもないことながら、今年の10月から続編というか第二シーズンが予定されている連続アニメドラマ『Spy×Family』で、一人娘でテレパスの幼いアーニャが、スパイの父親と、殺し屋の母親のことを、日常的に「チチ」「ハハ」と呼んでいる。この一家は血はつながっていない。】

もし、この時、私が「変なことを言ってごめん」と引き下がらなくて、『Spy×Family』について説明をしはじめ、人気アニメぐらい原作のコミックは読まなくても、観ておいたほうがいい、いろいろなところで配信もしているから観るのは簡単だとか、あれこれ説明しはじめたら、そしてそれが説教じみたものになり、さらには自分の失敗を取り繕うために、自己正当化の弁解を攻撃的におこうなうようになってたら、私は、どんなにか嫌な人間に思われることだろう。嫌な人間というよりも、軽蔑されて、唾棄されるべき愚か者と思われてもおかしくない。さしずめそれはと、ここで、私は、20年も前の伝説的連続テレビドラマを思い出した。

BBCの連続テレビ・ドラマ『ジ・オフィス』(The Office, 2001~2003)を、またそれも主役ともいえる、支社のマネージャー、デイヴィッド・ブレントのことを。

社会現象を起こしたともいわれる伝説のコメディは2019年にアマゾン・プライムで配信されてから初めて観た。そして今年の夏も観なおした。英国ならではの、実にあくどいコメディだが、何度見ても笑える。

Wikipediaによると

イギリスのロンドン郊外の町スラウにある製紙会社ウェーナム・ホッグの支社を舞台に、リッキー・ジャーヴェイス(演出と脚本も務めている)が演じる無神経な上司によって振り回されるオフィスの日常をドキュメンタリー・タッチで描いたシニカルなシチュエーション・コメディ番組である。


おそらくリッキー・ジャーヴェイスよりも、役名のデイヴィッド・ブレントで知られている主人公のアウトっぷりで人気が出たこのドラマは、30分のシットコム仕様なのだが(中心人物だけでなく、同じ職場でのさまざまな人間模様が描かれる)、同時にドキュメンタリー仕様でもあって(ブレントは常にカメラを意識しているし、個々の人物への単独インタヴューもあり、そしてテレビコメディに特有の笑い声は入っていない)、両者の合体が新鮮なのである。

もちろん現在観ると、連続ドラマが始まると、すぐマーティン・フリーマンが登場し、思わず眼をひかれ、これがドラマであることを知るのだが、実は、この『ジ・オフィス』こそ、当時、あまり名前の知られていなかったマーティン・フリーマンの出世作であって、リアル・タイムで観ていた視聴者は、マーティン・フリーマン(今から観ればこのドラマで最も名の知れた俳優である)を俳優として認識しなかった可能性が高い、つまりドキュメンタリーとして観ていたのであろう。

【ちなみに副主任のギャレス・キーナンを演じているマッケンジー・クルックが出演している映画を私は数多く観ているのだが、どんな役だったのか認知できていない。】

そしてその中心にいるのが、デヴィッド・ブレント(リッキー・ジャーヴェイス演ずるところの)であり、彼の魅力がこのドラマを根底から支えているといってもいい。しかし魅力といっても、負の魅力であり、それもアンチヒーローやダークヒーローの魅力ではまったくない、それ以下の、どうしようもない小物であることの、変な、まさに負の魅力なのである。

実際、そのキャラクターは、卑小で、卑屈で、卑猥で、卑劣で、卑怯でと、「卑」が付く二字熟語なら、なんでもあてはまりそうで、その最たるものが、常にカメラを意識していて、カメラをちら観しながら、時折浮かべる卑屈な笑いで、この瞬間こそ、彼の魅力が全開する瞬間である。そしてその瞬間は一つの回のなかに何度も訪れる。

ああ、この蹴飛ばしてやりたいダメ男、無能なのに威張りくさった、セクハラ、パワハラ全開の、絶対に反省しないめげない男、つねにマウントしてないと満足しないコンプレックス男が、なぜ面白いのだろう。笑えるのだろう。そこがある意味、謎である。

シェイクスピアのフォルスタッフのような存在なのか。大ぼら吹きで、絶対に非を認めず、謝ることもなく、自己正当化にあけくれ、どんな批判をもすりぬけ、どんなに汚名を着せられてもへこたれない、太った老騎士のことを思い出すが、しかしデイヴィッド・ブレントは、フォルスタッフよりもはるかに小物である。ブレントは、卑俗で、低俗で、自分が好かれていると思っている、実のところ嫌われ者であって、フォルスタッフとは根本において異なるのである。

テリー・イーグルトンが以前、その著Humourのなかで、このデイヴィッド・ブレントの笑いと魅力について、うまく説明していたことを思い出した。この本、翻訳の予定はあるのだろうか。もちろん読んだのだが、いま手元にないので、確認できないのだが、確認できたら報告したい。

結局、この夏、テレビ媒体で観て楽しんだのは、『Spy×Family』と、この『ジ・オフィス』(二度目)であった。どちらも笑えた。ただし、『ジ・オフィス』は、心温まるコメディでは決してない。だから誰にでも奨められるテレビ・コメディではないことだけは念を押しておきたい。
posted by ohashi at 21:27| コメント | 更新情報をチェックする

2022年08月17日

ドーベルマン事件

2022年5月、木更津市内の住宅から、ドーベルマン2頭を盗んだとして、窃盗などの罪に問われている岡島愛被告(29)ら男女4人の裁判が8月15日からは始まった。初公判で被告の4人は、起訴内容を認めたという報道があった。

メディアにおけるこの事件の扱いというのは、動物愛護の観点からとはいえ、飼い主を騙してドーベルマンを連れ去ることは犯罪であり許されない、さらには動物愛護を目的とするからといって、動物を勝手に盗むという暴走行為は許されないというものだった。

しかし、この事件、たとえば子供がかわいいからといって、男女の4人のグループが、身代金を要求することなく、ただ拉致して育てようとしたというのと同じような犯罪事件ではない。

そもそも単純に考えても、この事件、劣悪な環境にあるドーベルマン犬を飼い主のもとから引き離し保護しようとした善意の行為である。

いやこれは違法行為につながった善意の行為であり、善意とか正義は往々にして暴走し無自覚な違法性を招来すると反論されるかもしれないが、では、虐待されている幼い子供を、児童相談所の職員が強制的に親から引き離して保護した場合はどうか。

虐待されている子供を救いだしても罪に問われないのに対して、劣悪な環境で買われている犬を救いだしたら違法行為になるという、その違いは何か。

それは子供には人権が認められているのに、犬あるいは動物には権利が認められていないからである。

言いかえると、子供は親の財産ではないのに対し、飼われている動物は、現行法では私有財産だということである。そして現行法では他人の財産を奪うことは犯罪である。

だから人が飼っているドーベルマンを奪うのは許されざる犯罪行為である。そのため報道では(裁判ではどうなるかわからないが)、この一点、つまり窃盗行為だけに集中して容疑者を断罪しているように思われた。

というのも、ドーベルマンが実際にどのような環境で飼われていたについては、報道では明らかにされなかったからだ。飼い主(高齢者)の自宅の外からの映像があるだけで、それだけでは何も判断できない。もし問題のない状態で飼われていたら、メディアはそれを積極的に報道するはずである。逆に不適切な環境下で飼われていた映像が出れば、容疑者の窃盗行為の悪質性が揺らぎかねないから、映像が表に出ることはないだろう。高齢者の飼い主に関する情報が皆無なのも同じ理由からだった。

窃盗行為の犯罪者を、無責任な若者たちと悪人化し、そのついでにうっとうしい動物愛護団体をバッシングすることをメディアが狙うなら、容疑者たちに同情が集まることだけは避けねばならない。

今回の飼い主から動物を引き離すという動物愛護活動そのものがラディカルといえるのは、動物が財産(比喩的な意味ではなく法的な意味で)であるという法体系の根幹を揺るがす行為でもあったからだ。また動物が私有財産であっていいのかと問題提起する行為でもあったからだ。

ちなみに、人類史において財産として扱われ、その権利が認められなかった者たちがいる。奴隷であり、女性であり、子供だった。奴隷制は消滅したが、いまでも家族としての女性や子供を自分の財産だと勘違いしている男性は多い。だが、そうした勘違いは、今では違法行為である。

是枝裕和監督『万引き家族』(2018)という映画は、親が子供に万引きをさせて生計をたてているというだけの映画ではない。観た人ならわかるように、あの家族は、血の繋がっていない家族であり、盗まれ、万引きされて、いっしょに暮らすようになった家族だった(「万引き家族」というタイトルの、これがもう一つの意味)。映画の中心となるのは、劣悪な家庭環境にあった幼い女の子が、親から引き離されて連れてこられ、そこで幸せに暮らしはじめてから起こる事件である。この女の子と、今回のドーベルマンとは同じである。前者が現代の家族のありように対して問題提起をしていることがすんなりと受け入れられているのに対し、ドーベルマンの拉致・保護は、メディアにおいて唾棄すべき窃盗行為として擁護の言葉も聞かれないのはどうしたことなのかと、私は問いたいのである。

【ただし『万引き家族』もまたその問題提起が過激で批判されたことを忘れてはならない。パルムドール受賞の際に、当時の安倍首相が祝辞を送らなかったこと、またその後ネトウヨからのこの映画のバッシングが起こったことは記憶に新しい。まあ、いまから考えれば、統一教会の手先であった安倍首相が、血のつながらない家族を擁護するような――家族の伝統的なあり方に疑問を投げかけるような――映画を批判するのは当然であった。哀れなのは、ネトウヨたちで、彼らの親分たる安倍首相が、実は彼らが嫌う韓国の(よりにもよって日本人を金づるとしか考えていない)統一教会の手先であることを知らずに、追随していたのだから。】

もし虐待されている子供を私がみかけ、その子の親には内緒でその子を自分の家に連れてきて保護した場合(もちろん、そのあとすぐに警察とか児童相談所に通報した場合)、私が罪に問われることはないかもしれないが、しかし、その子が、また親元に帰されてしまい、数年後虐待で殺されるという悲劇は起こるかもしれない。子供はまだまだ法律で守られていないし、法改正の必要性は消えていない。

これが動物となると、もっと悲惨で、飼育動物とかペットを私有財産と認めている限り、虐待や冷遇による動物の死は常態化するしかない。動物の権利宣言が生まれたにもかかわらず、動物の権利を認めないという庶民感覚は根強い――あなたは、「動物の権利宣言」の存在を知っているか。

だが、ペット動物や飼育動物が私有財産ではなくなり、彼らの権利が認められる日は近いと、私は確信する(私が生きてその日をみられるかどうかは、自信がないのだが)。またその日が来なければ、私たち人間の社会は暮らすに値しない。

ドーベルマン事件の被告は、現在の法体系のなかでは犯罪者となるしかないのだが、いずれ、彼らの名誉が回復される日のあることを私は確信している。
【動物論に関するコメント1】
posted by ohashi at 10:03| コメント | 更新情報をチェックする

2022年08月05日

テロか?

安倍元首相が、左からも右からも嫌われていたという印象を生前もっていたのだが、ここにきて、つまり統一教会との関係が改めてクローズアップされるにおよんで、その理由が明確になったかに思われる。

自民党、とくに安倍派と、統一教会とのずぶずぶの関係は、これまで報道されなかったわけではないが、報道されるたびに、それが大きな話題にならないよう、ひたすら無視されるという状態が続いてきたようだ。そのため安倍元首相と統一教会との関係は公然の秘密であるとはわかっていても、その先があいまいなままだった。

もちろん政党が、共通の理念なり思想をもつ政治団体の支援を受ける、あるいは利用することは違法ではない。しかし、その政治団体が、たとえば麻薬売買によって活動資金を得ていることとがわかったら、不法な手段による資金調達を理由に、政党は、その政治団体とは絶縁しないと、あとで重大な責任を取らさられることになる。

しかし宗教団体であれば、活動資金が、会員・信徒による自発的寄付というかたちをとるため、違法性が問いにくい。というか合法的な資金調達となって批判できない。また信教の自由を理由に宗教団体の関係が問題視されることはない――たとえ、宗教団体の活動と実態が、違法すれすれの反社会的なものであったとしても。

自民党は統一教会との関係を、まさにこのようなものとして言い逃れてもよかった。それができないのは、統一教会の反社会性が、違法性に近いことは明白であり、またさらにその霊感商法が過去において何度も批判の対象となってきたためである。そのため自民党としては統一教会とは一切関係がないと居直ることになる。

しかしもっと大きな問題がある。それは統一教会が韓国の宗教団体であることだ。しかも統一教会は、韓国の信者を食い物にしているかもしれないが、それよりも、日本人の信者から莫大な金額を巻き上げている。そして信者であろうがなかろうが日本人は良い金づるなのである。

日本の嫌韓派なら激怒してしかるべきなのだが、その嫌韓主義の音頭をとっていたというか嫌韓派の指導的存在であった、安倍元首相が、あろうことか、その反日の統一教会から支援を受けていた、あるいは、おそらく統一教会の走狗となっていたというのは、どういう冗談なのだろうか。

嫌韓派の安倍元首相が、反日の統一教会とずぶずぶの関係だったとは。

おそらくその嫌韓姿勢なり嫌韓政策は、統一教会との関係から国民の眼をそらすカムフラージュだったかもしれないが、なんであれ、安倍元首相が、嫌韓を打ち出しながら、韓国の反日的宗教団体とつながっていたとは、右翼勢力にとっては許し難いことであり、安倍元首相ははっきりって売国奴である。

付け加えれば安倍元首相は統一教会に選挙協力させて、教会を利用しているつもりだったのかもしれないが、むしろ教会のほうが、安倍一派を利用して日本に保守反動的政策を実現させたのではないかとも思えてくる。韓国の反日団体の手先が安倍元首相だったのだ。

おそらくこう考えた極右は安倍元首相をはじめとする統一教会とつるんでいる政治家を排除するのではないか。統一教会との関係をあいまいにする、自民党をはじめとする与野党の政治家は、うかうかしていると明日は我が身である。

実は、それがほんとうに怖い。極右勢力が、韓国の反日団体とつながっている右翼政治家を売国奴として処刑しはじめ、右翼革命を起こしたら、改憲を待たなくとも日本の社会はファシズム体制となる。統一教会とつながっているというより統一教会の走狗となっている日本の政治家のせいで、右翼革命=ファシズム体制が実現するという恐怖はただの妄想ではない。

いや、右翼革命はすでに始まっていた。安倍元首相の襲撃犯の男は、襲撃直後の報道では、元自衛官であり、安倍元首相とは政治的信条を同じくしていること、宗教団体に入会した母親が多額の金を教会に献金し破産したこと、そのため同団体の制裁⇒同団体とつながっている安倍元首相の襲撃となったことを伝えた。統一教会の名前は、政治的圧力からか、警察はすぐには出さなかったようだ。しかし、要はこれは、現時点で容疑者の男は、ネトウヨであったこと。極右思想の持ち主であったこと。統一教会は日本人の生活を破壊する韓国の反日団体であり、その統一教会とつるんでいる安倍元首相は売国奴で許せないと考えて、犯行に及んだということである。

これは売国奴を処刑した極右のネトウヨ青年による革命的テロということである。これが引き金となって、売国奴の政治家を処刑する右翼テロが始まりだしたら、日本にとっての暗黒時代は戸口に迫り始めたことになる。この危惧が、たんなる妄想であることを、ほんとうに祈るばかりである。
posted by ohashi at 12:20| コメント | 更新情報をチェックする