2022年07月30日

甘利明=梶原景時説なら

7月30日のNEWSポストセブンの記事
安倍元首相の追悼演説が頓挫した甘利明氏に「まるで『鎌倉殿』の梶原景時」説 あまりの人望のなさに驚きの声も

 8月の臨時国会で実施予定だった安倍晋三・元首相の追悼演説が先送りされることになった。麻生派の甘利明・前幹事長が演説することに、安倍派をはじめ自民党内から批判の声が相次いだためだ。

 きっかけは甘利氏が7月20日のメールマガジンで書いた内容だった。甘利氏は安倍派について「『当面』というより『当分』集団指導制をとらざるを得ない。誰一人、現状では全体を仕切るだけの力もカリスマ性もない」と指摘した。

 これに安倍派が猛反発。翌日の同派会合で最高顧問の衛藤征士郎氏が「こんなに侮辱されたことはない」と憤慨。派内からは「甘利氏こそカリスマ性がない」「小選挙区で落ちて有権者の支持も得られないのに何を言うか」などと批判する声が相次いだという。

中略
 そんななか永田町では今、NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の登場人物になぞらえて、「甘利明=梶原景時説」が飛び交っているという。ベテラン政治ジャーナリストは言う。

「権力闘争が好きな政治家たちはけっこうあのドラマに嵌まっているのですが、ちょうど『鎌倉殿』では最高権力者だった源頼朝が死に、13人の御家人が合議制で進めていくことが決まりました。新体制において、頼朝が忠臣として高く評価し、頼朝の妻である政子の信任も篤かった梶原景時がイニシアチブを握ろうとしますが、他の御家人たちから嫌われていたため猛反発を食らい、あっさり失脚に追い込まれた。

 今回の甘利氏の追悼演説が決まったところから党内の反発に頓挫するまでの流れや置かれた立場が非常に似ているとして、甘利=梶原説が飛び交っているのです。有能すぎるゆえ、周囲からは疎まれるということでしょうか」

 梶原景時に復権の機会は与えられなかったが、甘利氏の場合は果たして。【終わり】


甘利による安倍派についてのコメント――「『当面』というより『当分』集団指導制をとらざるを得ない。誰一人、現状では全体を仕切るだけの力もカリスマ性もない」――が、安倍派についてのことだとしも、自民党全体の、ひいては日本の指導層についてのコメントでもあり、みんな小物だという皮肉ではなく、安倍元首相がいかに偉大であったかを語るレトリカルなコメントとして受けとめるのが普通ではないか。

それを安倍派は、親分亡きあと、みんな小物がばかりだと、喧嘩を売っていると、そのコメントをとらえているのだが、言いがかりにほかならず、こうなったら何を言っても、悪意ある曲解をされるだけである。ただ、見方を変えれば、それだけ甘利の人望がないかわけで、実際、甘利は国民の敵ナンバーワンみたいなところがある。選挙の実績がそれに追い打ちをかけた。

ただ面白いのは、NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』において、1週間前の放送された回(「名刀の主」)で、頼朝と妻政子の信任も篤かった梶原景時が、御家人たちから嫌われていたため猛反発を食らい、あっさり失脚に追い込まれ、最終的には追放処分の後、上洛中、一族郎党ともに殺害された(ドラマでは景時は追っ手を差し向けられ奮戦して討ち死にすることを望んでいたという解釈だった)。

ただし甘利=梶原景時であるとすれば、安倍元首相=源頼朝である。『鎌倉殿の13人』では、頼朝の冷酷な独裁者ぶりが顕著で、実際に、源一族や自分の兄弟を次々処分する様は、「みんな頼朝が悪い」あるいは頼朝を演じた大泉洋に脚光をあてて「みんな大泉のせい」と、ネットでも盛り上がっていた。

ところが頼朝が落馬して死んでしまうとを空気が変わった。その冷酷な非情さは急に忘れ去られ、偉大なる指導者で、非業の死をとげた悲劇の主人公であり、また鎌倉殿であった頃には絶対に見せなかった人間的素顔が、死後に、急に表の顔となり、あれほど嫌われていた頼朝=大泉が聖人化してしまった。

ドラマというか物語の世界でなら、それもいいだろうと思うというか、ありがちの展開だと思うが、死後の生と生前とのギャップを楽しむこともできる。しかし、これが現実に起こるとは。

つまりあれほど国民から嫌われていた安倍元首相が(「みんな安倍のせい」と誰もが思っていた)、また安倍元首相の虚偽を追究する側が正義の味方(もちろんよい意味で)として輝いていたのに、襲撃後には、突如として、元首相の死を招いた悪魔的勢力として批判され、その一方で非業の死を遂げた安倍元首相は、ひたすら株を上げるというか、いまや聖人と化している。まさに『鎌倉殿の13人』における頼朝の生前と死後の格差あるいは変容を彷彿とさせるではないか。

まあ統一教会との関係が、聖人化へのエスカレーションにブレーキをかけていることが、現状では、救いと言えば救いなのだが。
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2022年07月29日

レタスは食物繊維が少ない

7月28日につぎのようなネット記事があった。

E・レシピ
「レタス」が豊作!火を通してたっぷり食べる人気のレタス大量消費レシピ7選

豊島早苗 2022/07/28 00:00

今年はレタスが豊作です!

夏のレタスはみずみずしく腸内環境を整える食物繊維が豊富なので体の内側から綺麗になるためにたくさん食べたい野菜のひとつ。【記事の冒頭のみ、引用】


レタスは、食物繊維が豊富? 何を寝ぼけたことを書いているのだろうか。このライターは。

レタスは食物繊維が乏しい野菜である。以下は、どのうようなネット記事や文献にも書いてあることなので、出典を明示する必要はないのだが、

レタス 
100gあたり:1.1g(水溶性食物繊維0.1g、不溶性食物繊維1.0g)
1個あたり(300g):3.3g(水溶性食物繊維0.3g、不溶性食物繊維3.0 g)


である。ちなみに「日本人の食事摂取基準(2020年版)」は、一日に摂取する食物繊維の目標量を以下のように定めている。

男性 18~64歳:21g以上、65歳~:20g以上
女性 18~64歳:18g以上、65歳~:17g以上


もし、目標量をレタスで満たそうとすると、男性の場合、3食、レタス一個を丸ごと食べても、摂取できる食物繊維は、およそ10グラムで、目標量の半分以下である。三食、レタスを丸ごと2個たべて、ようやく目標量に到達するか、しないかである。

先ほどのライターの無知は、非難されるべきものだが、その原因はわからないわけではない。食品業界では、いまでは影をひそめつつあるが、それでも残っている比較方法として、レタスと較べることで、食物繊維の量を示すことが行なわれてきた。はっきりいって、詐欺である。レタスは食物繊維が少ないのだから、ほとんどの野菜が、レタスよりは食物繊維の量が多い。それをあたかもレタスが食物繊維が多いかのように示すことで、レタスのさらに上をゆく食物繊維の量とは、すごい、と感心させるのである。

そうした比較において、食物繊維は、レタス一個の~倍と表記してある。レタス一個というのは、もしレタスに食物繊維が豊富なら、ものすごい量ということになるが、レタスは、食物繊維が少ないのだから、レタ一個よりも食物繊維が多くてもたいした量ではないのだ。

レタスとの比較という詐欺まがいの方法は、なくなりつつあることはたしかだ。しかし、時折、レタスは食物繊維が多いという大ボケのライターが現れる。恥を知れ。

なお、レタスは食物繊維が少ないからといって、レタスに対する評価が低くなるわけではない。レタスには、その食物繊維量の少なさをしのぐ、長所がいろいろあって、レタスはいろいろな面で推奨できることは付け加えておかないといけない。
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2022年07月28日

カクシンハン公演

2022年7月27日(水)~7月31日(日)のカクシンハン・プロデュース シン・シェイクスピア シリーズ第一弾である『シン・タイタス』(シアター・アルファ東京)での公演が、関係者にコロナ感染者が出たとのことで、全公演中止となった。

カクシンハン(木村龍之介氏による演出)公演の『タイタス・アンドロニカス』は、以前、観たことがあるが、今回は、「シン・」がつくことから、新たな演出・構成によるカクシンハン版の『タイタス』(松岡和子氏による翻訳)で、しかも「シアター・アルファ東京」という新しくできた、また私にとってもはじめての劇場での公演で、金曜日の公演チケットを購入していたのだが、いつ、だれが、どこでコロナ感染してもおかしくないこの感染爆発期に、公演中止となるのは、残念だが、想定されていた事態でもあるので、次回の公演に期待したい。

木村氏は、今年の3月、まつもと市民芸術館 小ホールで、『リア王』を演出された。公演名『KING LEAR -キング・リア-』。リア王には、俳優であり演出家でもある串田和美氏を迎えての、カクシンハンのメンバーも出演していても、カクシンハン公演ではない公演で、観た人の感想では、とてもよかったとのことだが、残念ながらコロナ禍における自粛生活のため松本まで行くことができなかった。とはいえその頃は体調が絶不調で、観劇はそもそも不可能であったのだが。

まあ、ありえないことだとしても、『シン・タイタス』ともども、いずれ東京で上演してもらえればと、切に願っている。

posted by ohashi at 11:14| 演劇 | 更新情報をチェックする

2022年07月15日

説教されたら終わり

一週間以上も前の話だがテレビ東京の番組『あちこちオードリー』(7月6日午後11時6分~)において「私の教訓どうですが? 芸能界が生きやすくなる参考書を作ろう」というコーナーで、ゲストの藤田ニコルが「マネージャーから説教さえているタレントは売れない」という教訓を出して、他の出演者から感心されていた。

一見すると何を当たり間のことを思われるかもしれない。マネージャーに説教されるのは、そのタレントの素行とか演技やパーフォーマンスに欠陥とか問題があるからで、そうした不良タレントは売れないし消えて行くしかない。当然のことである。問題のあるタレントが売れない。当たり前すぎる。

しかし藤田ニコルが述べていたのは、もっと別のことだった。新人タレントがマネージャーから「絶対に爪痕を残してこいよ」とか、「なんで絡みに行かなかったんだ」などと説教をされているのを、藤田ニコルはよく目にするという。ここでのタレントは、バラエティ番組に出演するようなタレントということのようだ。またタレントへの説教とは、マネージャーが自分の好きなタレントを作り出そうとしているだけで、そのタレントの個性を伸ばそうとかしているわけではない、そういう類の説教である。

だからやたらとタレントに説教したがるマネージャーは、結局、自分好みのタレントにしようとしているだけで、タレントの個性を見出し育もうとしているわけではなく、結局、タレントをダメにしているのだと藤田ニコルはいう。

またいっぽうで、マネージャーからの説教されっぱなしというか、説教を許してしまい、そのうえその説教に従おうとするタレントは、自分の良さ成り個性なりを失い、ダメになっていくということだろう。

藤田ニコル自身は、マネージャーから一度も説教されたことはないとのこと(彼女のタレント力の高さからして、彼女に説教しようとするマネージャーはいないと思われるのだが、また、説教をして自分色に染め上げようとするマネージャーが幸いにもいなかったともいえるだろう)。しかしもし説教されても、彼女は「反抗します」という。「だって現場に出てないじゃん。何が分かるの?」と。説教されたら反発し、反抗し、説教させないような気概をもてば潰されずに済むのである。

これには確かに考えさせられた。その深い洞察に圧倒された。

なぜなら私自身、説教する側でもあったし、また同時に説教される側でもあった、そしてまた今も説教する側/説教される側という二面性をひきずっているのだから。

大学教員であった頃は、指導学生・院生を、自分色に染め上げたいという願望がなかったわけではない。私自身と同じような考え方や発想をし、嗜好や趣味なども同じで、世界観や文化観、そして研究分野や研究方法も同じ、まさに自分のクローン人間のような研究者に学生・院生を仕立て上げたいという願望はなかったわけではない。しかし私自身の指導力のなさも手伝って、この願望は成就しなかった。しかし成就しなくてよかったとも思っている。

私の指導学生・院生のなかで研究者や教育者になった者たちで、私の後継者ともいえる人物はひとりもない。だからといって彼らが優秀ではないということではない。むしろ逆で、彼らは私の後継者におさまるには、優秀すぎ、個性豊かでありすぎるか、自己実現をじゅうぶんに成し遂げていた。これは彼らがもともと優秀であったことと、そのうえさらに彼らにとって、私が、同一化したいカリスマ的な鏡像でなかったことによる。学生を自分色に染め上げなくてよかったと思う(もともと染め上げるような才覚など私にはないのだとしても)。

【もちろん一部の私立大学では指導教員のクローンのような学生・院生でなければ、母校に留まれず排除されるとは、よくいわれていることである。ただし、こうしたパワハラ、アカハラめいたやり方は、一概に間違っているとはいえなくて、自分自身の歩むべき道を見出せず、自己実現に対する不安をかかえる学生・院生に、指導教員が、同一化できる対象、すなわち指導教員というモデルをひとまず提示することは、たとえそれがアイデンティティなりモデルの押し付けであっても、自己実現へとつながる可能性もある。このことは誰も否定できないように思われる。もちろんだからといって、それが絶対に正しく有効な方法であるともいえないとしても】

一方で説教される側であるというのは、どういうことか。まあ、未熟な欠陥人間である私だが、高齢者になっても、他人からあれこれ説教されるということは、実際にはない(両親は死んでいるし、私に説教できる家族とか親戚縁者はいない)。では、どういう場合かというと、翻訳とか執筆の場合である。

たとえば翻訳の場合は、校閲者とか編集者からのダメだしを私は積極的に受け入れる。自分では、なかなかわからない欠陥や不備は、校閲者や編集者からの指摘なくして、修正できないからだ。またダメだしにいちいち反発したり抵抗したりすると、貴重な指摘をもらえなくなる。そうなると最終的に不利益をこうむるのは私自身である。むしろ、ダメ出しはほんとうにありがたく受け入れる。そしてもちろん、自分自身に対しても、自分からダメだしすることは当然多い。

ところがダメだしも限度を超えることがある。それは校閲者や編集者が、自分好みの翻訳に変えようとするときである。困ったことに優秀な校閲者や編集者であればあるほど、自分色に染め上げようとしてダメ出しをすることが多くなる。

ある出版社の翻訳をしたときに、校閲者から文体までダメだしをされはじめて、さすがに私も不快になりはじめた。誤訳の指摘とか、表現の不備への指摘は重要だが、文体へのダメ出しは、これはダメ出しする人間の好みの問題だろう。おまけにその校閲者は原文すらまちがっていると言い始めた――実際には原文はなんら間違っていないのだが。最初は、いろいろな指摘をありがたく受け止めた。ゲラの裏側まで使って、いかにこの表現がまちがっているかを延々とメモ書きしてくる校閲者に対して、いっぽうでうんざりしながらも、尊敬の念を抱くこともした。

しかし、途中から、これは校閲者が、翻訳を自分色に染めようとしているのだというふうに感じ始めた――実際にそうだったかどうかはわからないにしても。そうなってくると、だったら、最初から、お前が翻訳して、お前の名前で出版しろよといいたくなった。また私の文体が気にいらないので、私に、あれこれ指示をだし、ダメ出しすることに、この校閲者は、快感というか面白みを感じているのかもしれないという気もしてきた。

となれば、もうやっていられない。のらりくらりと仕事を遅らせ、締め切りを守らず、締め切りを延ばしてもらい、忙しさを口実に作業を放棄して、最終的に、しびれを切らし憤慨した編集者から、もう翻訳はやめませんかと提案され、その提案を、残念な気持ちをあらわらにしつつ、実は、内心喜んで受け入れた。原書は、難解で、どんなに推敲してもわかりやすい訳文にならなかったので、出版されなくて、よかったとも思っている。だが、すべて訳した原稿はコンピューターのなかに入っているので、いつかべつの出版社を探して翻訳を出す機会もあろうかと思っている。

【この出版社から、ある学術研究書を出版する予定の執筆者が出版助成金を求めてきた。ある委員会が、内容を検討して助成金を決定した。ちなみに、私は、助成金を決定した委員会のメンバーではない。ところが本が出版されない。原稿はそろっているのに、出版社が、原稿にダメ出しを繰り返して、出版のめどがたたないという。しかし翻訳だったら、原書の内容と翻訳が異なるとか、誤訳が多いとか、読みにくいとか、いろいろなダメ出しはつけられるが、研究書の場合、なにが出版を止めている理由になるのだろうか。委員会の複数のメンバーが、原稿を読んでOKを出した研究書だから、細かなミスとか不備はあっても、全体的に優れた研究書であるはずだ。それなのになぜ出版しないのか。校閲者や編集者は、その著者よりも優れた研究者だというのだろうか。おそらく校閲者や編集者が執筆者を助けるのではなく、自分好みの本にしようと執筆者にダメ出しを行なっているのだろう。その執筆者も他の出版社だったら本が出せたのかもしれない。なお、その後どうなったのかは、知らないのだが。】

藤田ニコルの指摘ように、自分色に染め上げようと説教してくる者に対して反発し、それを許さないことは正解だったとあらためて思う。藤田ニコルの慧眼にあらためて感銘をうけたというか、感謝したいと思う。

私が学生・院生に説教をして、自分色に染め上げようとしなかったことも、私の反発が正当化されるものだと信じている。

つづく
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2022年07月10日

Liberty Freedom Tyranny is dead 3

最後に、だが決して軽んずべきことではないこと。

書き忘れていたが、今回の事件を民主主義への挑戦だ、民主主義を消し去ろうとする暴挙として捉える論調がメディアに支配的だが、たしかに、それはそうだが、同時に、真の民主主義への挑戦は、これから始まろうとしている。いや、日本の民主主義の余命もほとんどなく、消滅へのカウントダウンはすでに始まっている。

極右の政治家が暗殺されたことを契機に、日本のファシストは、反対勢力への弾圧を強め、批判的言辞を封じ込め、日本の平和主義を抹殺して、戦争のできる国へと一挙に変えようとしている。今回の事件を民主主義への挑戦だと非難している彼らこそが、民主主義を抹消しようとしている。彼らは、この極右の腐敗した政治家への批判を、すべて民主主義への挑戦としてとられ抑圧し、言論の自由を封殺しにかかっている。彼らこそ、民主主義の敵である。

しかも、凶弾に倒れた政治家を聖人へと祭り上げ、その遺志を継ぐべく、改憲と防衛力増強へと一挙に進むべく、国民の死者への追悼感情を利用する。民主主義への挑戦といえる凶弾に倒れた政治家の遺志を実現すべく投票所に向かう国民が、国民自身の自由と人権を剥奪する政治に、知らぬ間に加担することになる。国民の大半がよかれと思ってすることが、気付くと集団自殺へとつながっていた。悪魔はいるものである。私が悪魔だったら、高笑いしていることだろう。国民が民主主義を守るという名目のもと、民主主義を捨てて、反民主主義勢力の言いなりになっているのだから。

とはいえ、善意で無垢の日本国民の大半が、民主主義を守ろうとし、また死者への追悼行為を通して、知らぬうちに自分の首を絞めてしまうということを、私は本気で信じているわけではない。日本国民の大半は、そんな素朴な人間ではない。むしろしたたかで悪辣・残酷であって、死者を弔い死者の遺志を実現させようとする善意に満ちた行為にただ酔いしれているとは思えない。そういうふりをしてむしろファシストたちに喜んで加担しているのだ。貧困率が高い日本の現状のなかで、軍事費を倍増すれば、貧困層がさらに増えることなど承知のうえである。貧困層は日本人ではないと彼らは思っているのだから、これを機に、貧困層を抹消できればよいと考えている。

あるいは戦争になっても、戦うのは愛国者たる自分たちではなく、非国民たる左翼・リベラル勢力であり、彼らを戦場に駆り立て、人間の盾となって守らせればいいと本気で考えている。それがだめなら貧困層を戦場に送ればいいと考えている。さらにそれでもだめなら、障害者を戦場に送ればいいと考えている(ロシア軍が、その先鞭をつけてくれた)。

もしこのまま改憲が実現すれば、感情に流されて愚かな選択をした結果だと、改憲勢力は非難されるかもしれないが、彼らの冷酷な計算は、感情に流されるよう国民を煽動しつつ、感情に流されることの悪を否定することになろう。それは理性や合理性からとうてい望めない、美しい人間的感情の発露であるということにして。

結局は、悪魔は地獄の底から湧いて出るのでもなく、また宇宙のどこかに隠れているのでもなく、日本人の、すべてではないが、多くの者たちの集団的意志そのものとして存在している。かくして、悪魔としての日本人は、同胞を迫害し(貧困層や身障者を蔑視し迫害し)、自国民だけでなく他国民を迫害する、世界に冠たる悪辣な民族として、まさに地球上の癌として、おそらくもし神が存在するなら(まあ存在しないと思うが)、また歴史の意志として、いずれ抹消されるだろう。

かくして、日本も、中国やロシアや北朝鮮と同類の国になろうとしている。これからは中国やロシアや北朝鮮といった非民主国を日本は非難できなくなるだろう。敵こそ我が友。中国やロシアや北朝鮮の支配層を悪魔と呼ぶのにやぶさかではないが、日本も、そうした悪魔と連携していたことがわかる日が間近に迫っている。

メディアの報道では、キャスターがみんな喪服で登場し、それはやりすぎではないかという指摘もあったが、喪に服すのは正しい行為である。彼られは極右の政治家の死を悼んでいるつもりだろうが、実際には、あるいは結果として、日本の民主主義の死に対して喪に服しているのだから。

posted by ohashi at 18:51| コメント | 更新情報をチェックする

Liberty Freedom Tyranny is dead 2

日本の極右の政治家が命を落としたことについては、一見、頭のおかしくなった人間の逆恨みの犠牲になった、無辜の犠牲者という側面があって、原因は、その極右性ではないようなのだが(とはいえ統一教会との関係によって恨まれたのなら、その極右性は全く無関係とはいえないのだが)、しかし、国会で虚偽証言を連発し、責任があれば辞任すると豪語しながら、官僚やメディアに忖度させ、公文書を改ざんし、データをねつ造するという不正を繰り返し、反対勢力を徹底して抑圧して戦後最長在職期間を誇った首相となった人間に天罰が下ったかのような今回の事件は、一瞬、神様は、この世にいるのかという思いを私に抱かせた。

おりしも英国の首相が度重なる不祥事と虚偽説明の責任をとって辞意を表明したばかりである――しかも首相の無責任ぶりを批判してすでに辞任した閣僚もいた。首相をめぐる不祥事と首相の無責任ぶりに閣僚が辞任するというのは、日本では考えられないことであり、逆に、英国は、もちろんいろいろ問題のある国ではあるとはいえ、民主主義がまだ生きている先進国であり、いっぽう首相の度重なる不祥事と虚偽発言にもかかわらず一強体制すら作り上げた日本は、世界に冠たる後進国というより劣等国である。

今回の事件は、巨悪を眠らせない、神様の配慮のようだと思ったが、むしろ、そういう考え方が甘かった。いまメディアでは、この極右政治家の死に対して追悼一本やりであり、その政権の功罪を冷静に指摘する声はメディはでは紹介されることもなく、政権を美化し、極右政治家を聖人化・神格化する論調一本やりとなっていて、はっきりいって、メディアこそが、巨悪を眠らせる張本人となっている。

もちろん、この極右政治家の問題点を指摘する政治家もいるが、批判にさらされ、攻撃の対象となっていて、極右政治家を批判することが、暗殺テロを招くとでもいわんばかりの、言論統制・言論封殺がすでに実現しつつある。実際、犯人は、自身が恨んでいる「宗教団体」の名前を語ったはずなのだが、警察は、誰に、なんのために忖度しているのかわからないが、「統一教会」の名前は伏せている――警察も自民党に配慮しているかのようだ。

いよいよ日本が全体主義国家の馬脚を現しつつある。

結局、この襲撃暗殺事件で改憲勢力や軍国主義勢力は力を得て日本を全体主義国家にすることはまちがいない。ワクチン陰謀論を叫ぶ馬鹿どもに、今こそ、ある意味、さらなる陰謀の可能性を指摘してもらいたいところだが、今回の事件で利益を得るのは、左翼・リベラル勢力でもなければ、外国勢力ではなく、極右勢力であることはまちがいない。陰謀論者なら、この極右政治家を犠牲にすることで、大きな勝利を勝ち得ようとしたのではないかと主張してもいいところだろう(実際、警備体制の不備が指摘されているが、暗殺者に凶行を容易にするようなフォーメーションがとられていたと、陰謀論者なら主張するかもしれない)。

ただ襲撃されなくとも、災害とか事故で死んだとしても、同情票とか感情票ともいうべきものが、改憲派勢力に有利にはたらくことはいうまでもない。ましてや襲撃され暗殺されたとなれば、たとえその動機が政治的に微妙なものであっても(「統一教会」問題は不問にふされるだろう)、犠牲者を神格化し社会を一挙に全体主義化するには格好の口実となる。

左翼・リベラル勢力は、こうしたテロを絶対にしない。すれば、ファシストを勢いづかせるだけであることは、歴史が証明しているのだから。陰謀論で考えれば、極右勢力が、頭がおかしくなった人間を利用して、極右政治家を殺し、その責任を左翼・リベラルをはじめとする反ファシズム勢力になすりつけようとしたのだろう。偽旗作戦である。

とはいえ、ワクチン陰謀論に比べたら、まだ信憑性のありそうな、こんな陰謀がほんとに仕組まれたとは思わない。

とすれば言えることはただひとつ。神様はいないが、悪魔はいるということだ。悪魔をみた。終わりが始まりつつある。
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2022年07月09日

Liberty Freedom Tyranny is dead

とは、ならないようだ。

日本で極右の政治家が襲われて命を落とすというのは珍しい。

今回の事件に政治的背景があるのかないのか定かではないし、現時点では、どうやら政治姿勢とは関係なく、頭のおかしい人間による政治家への殺傷事件のようで、これは基本的に、与野党関係ないのだが、どちらかというと野党の有名政治家が巻き込まれることが多いようだ。だから与党の極右の政治家が巻き込まれたというのは珍しい。

現時点での報道によると政治的背景とか政治的姿勢によるものではないようだが、ほんとのところはわからない。実際、安倍元首相は、左翼・リベラル勢力から嫌われていただけでなく、右翼からも明らかに嫌われていた(嫌っていたのは一部の右翼なのか、大半の右翼なのかはわからないが、この極右の政治家は、右翼の側からも確実に嫌われていた)。もちろん嫌う人間が、則、このような凶行に及ぶということはないとしても。

政治家が襲われて命を落とすというのは、戦前の日本ではよくあった。それは日本がファシズム体制に移行する際の徴候のようなものだったが、ただ、戦前の日本で襲われたのは、左翼の政治家ではなかった(左翼の政治化・活動家は、特高による取り締まりがきつかったので、わざわざ殺傷テロの対象にしなくともよかったのだ)。では、どのような政治家がテロの対象になったのかといえば、それは腐敗している政治家もしくは腐敗していると思われていた政治家(実際はどうであれ)であった。

ファシズム化への途上にある、あるいはすでにファシズム体制が完成している今の日本では、極右の政治家が殺されるのは、とにかく珍しいと言えるのだが、腐敗した政治家が殺害テロの対象となって命を落としたといえば、これは戦前の日本と同じであって、珍しくもなんともない。戦前では、こうした腐敗した政治家にかわって軍部が、あるいは軍部に支えられた天皇親政体制が日本を刷新し新秩序を立ち上げるのだとファシストは考えていた。

ただし腐敗した政治家に正義の鉄槌を下すということは、今回のあてはまるのか、あてはまらないのか、どちらともいえないのだが、腐敗した政治家は、正義の観点からすれば許し難い存在だが、超越性の観点からすれば、憧憬の存在である。つまり腐敗と不正の淵源であることはわかっている、不正と腐敗は公然の秘密にもかかわらず、罰せられることのないまま、いまに至るまでのうのうと生きている。それどころか人に説教まで垂れている。この極右の政治家は、まさに法を超越しているのだ。法を作るが、みずからはそれに従う必要はない。まさに専制君主である。それゆえ常人にはないオーラがそこにある。この超人を殺すること。それはまさに神を殺すに等しい。神を殺しえた偉業に男は陶酔しているに違いない。

これはトランプ前大統領と同じである。アメリカ国民として実業家としてのトランプは不正の塊である。トランプが大統領になる前、トランプが、いかに実業家として不正を繰り返しているかを告発するドキュメンタリー映画があった(『ホール・イン・マネー! 大富豪トランプのアブない遊び』日本公開2016年)。社会正義を求めるまっとうな映画だったが、それはトランプを落選させるどころか、当選させるのに貢献したのではないか。数々の不正にもかかわらず罰せられることのないトランプは、法を超越している。立法者だが、みずからは法に従う必要はないし、従わなくても罰せられることはない。税金など払っていない。アメリカ国民ではなくて神なのだから。かくしてトランプの無法者性は超越性へと反転し、支持者をますます多く集めることになった。かたや日本版トランプあるいは不正と腐敗の巣窟たる極右の政治家は、根強い支持者を集めた一方で、みずからの殺害者を招いたのである。



とはいえ真相は、もちろんまだ解明されていないし、今後、解明されるかどうかわからない。そのため極右の政治家の死に対しては、それをいかに活用するかが今後の重要な問題だろう。安倍元首相の死を活用する? 敵対勢力がそうするのではない、おそらく支持者たちが、日本のファシストたちがそうするのである。

今回の参議院選挙は、北朝鮮にミサイルを発射してもらわなくてもいいような、自民党勝利の予想が出ていた。ただし北朝鮮も選挙運動に期間中に合わせて1発だけ、発射していたようだが。自民党が勝利し、改憲へとまっしぐらに進む途がみえたのは、なんといってもプーチン大統領に負うところが大きい。プーチンによるウクライナ侵攻によって、参議院の自民党を中心とした、維新までも含むファシズム勢力が、軍備増強と改憲をすすめ、日本をファシズム体制にする可能性が、夢ではなくなりつつある。

実際、自民党の政治家たちは、プーチン大統領に足を向けて眠ってはいけないほどの恩義がある。敵こそ我が友。プーチンによるウクライナ侵攻がなければ参議選での勝利は確定しなかった。いや、貧困率が高い後進国の国民を見殺しにして、軍備を増強し、日本を戦争ができる国に変えるなどと、それこそ観念論にすぎないことを声高に主張するというバカはできなかったことだろう。

そして今回の極右政治家の殺害事件である。政治的背景があろうがなかろうが、たんなる頭のおかしくなった男の殺人衝動の、不幸にも犠牲になったのかもしれないという可能性は、絶対に却下されるだろう。そのかあり反安倍の敵対勢力を叩くことに日本のファシズム勢力は専念するだろう。言論ではなく、暴力によってねじ伏せることは、民主主義を破壊するものだとメディアも政治家もコメントしている。それはそうなのだが、またこの極右の政治家が、日本の民主主義を尊重していたとは思われないことは不問にふするとしても、反安倍勢力の言論を封じ込めようとするファシストどものしていることは、それ自体で、民主主義の息の根を止める暴挙であることはまちがいない。

今回の事件がなければ、極右の政治家が死んでくれなかったら、参議院選の勝利は確実にならなかったし、改憲の実現はなかっただろう。有権者はもともと憲法問題には関心がなかったのだが、これを機に、弔い合戦だの同情票だのというかたちで、自民党支持者や改憲支持者が増えることは、なさけないことに予想できるのだから。

日本のファシストたちがよく言いうのは、正義や権利を求める声をあげる人たちを批判して、社会的風潮なり流行に感情的に流されているということなのだが、今回の事件によって、自民党と維新が勝利し、改憲に至るとき、それが感情に流されたものではないと堂々と公言できるのかどうか問うべきであろう。今度は、改憲論など、今回の銃撃事件による衝撃によって、感情に流されて盛り上がっているにすぎないと、ファシストたちを徹底的に批判すべきだろう。

実際のところ、この頭のおかしい元自衛官(とはいえ自衛官であったことと今回の事件とがどうつながるかは未知であるのだが、つまり全く関係ないともいえるのだが)に対しても、日本のファシストたちや安倍を指示する極右勢力は、足を向けて眠れないだろう。この元自衛官がいなければ、安倍元首相は、聖人にも、英雄にもならずに、ただの懲罰を逃れてタカ派の意見を述べ続け、憲法に従おうともしなかった一極右政治家として生涯を終えるしかなかったのだから。

やがてこの極右政治家の命を奪った銃弾(めいたもの)によって開いた衣服の穴が一般公開されるだろう。

また安倍元首相の遺書が公開され、それによれば全財産のなかから、国民ひとりひとりに補助金を配布するよう書かれているというフェイク情報が垂れ流されるだろう。そんな遺書など最初からないのだが、もうなんでもありのでっちあげによって、反対勢力の一斉排除がすすむだろう。それはまちがいない。

結局、日本は、そのとき化けの皮をはがされるだろう。よく中国を批判し、またロシアを非難できたものあと唖然とする。やっていることは最低の中国、最低のロシアとまったく同じなのだから。まさに最低の日本である――というかそうなる日はすぐそこに迫っている。

【シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』のなかで、シーザー暗殺後、最初は暗殺者たちの正義を支持していた民衆が、アントニーの巧みな話術と人身操作によって、暗殺者たちを追放する暴徒と化していくところがあった。それは衆愚政治の残酷さ、あるいは不条理を鋭く指摘するシェイクスピアのリアリズムが際立っているところでもあったのだが、同時に、衆愚政治というのは革命の騒乱による民衆の暴徒化によるものと考えられていた――まあ、なんとなく。しかし、今回の事件と想定される余波を考慮すると、あれは、革命騒ぎの混乱の表象というよりも、権力にあやつられ感情に流されて暴徒となるものの、政権の手先となって反対勢力を迫害する暴力装置として機能するという暴徒=民衆の恐ろしさの表象ではないかという気がしてくるのである。Liberty Freedom Tyranny is Deadというキャシアスの叫びは、束の間のもので、そのすぐ後、ファシズムの嵐が到来するのである。】


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2022年07月03日

『ココディ ココダ』

少し前の映画だが、タイムループ物のひとつに数えられているスウェーデン・デンマーク合作の異色作で、日本におけるネットでの評判は、当然のことながらよくない――当然というのは、多くのことが説明されないまま終わるからである。

もちろん私もすべて理解したということはできなのだが、わかることとわからないことを律儀に整理し、この映画を考察するときの手がかりとしたい。

映画。COMの解説

長編デビュー作「いつも心はジャイアント」で注目されたスウェーデンのヨハネス・ニーホルム監督が、時間のループに陥りサイコパスや人喰い犬からエンドレスに襲撃される夫婦を描いたSFホラー。愛娘を亡くした夫婦は関係を修復するためキャンプに出かけるが、3人のサイコパスと人喰い犬に襲われて惨殺されてしまう。しかも時間のループに巻き込まれ、この恐ろしい運命を何度も繰り返すことになり……。1960年代のデンマークで人気を博したロック歌手ペーテル・ベッリが殺人者役を演じた。「シッチェス映画祭ファンタスティック・セレクション2020」(20年10月30日~11月12日、東京・ヒューマントラストシネマ渋谷ほか)上映作品。
2019年製作/86分/G/スウェーデン・デンマーク合作


これだけでは何のことかわからないので、少し肉付けしながら内容を確認したい。

冒頭、ブリキでできた古いオルゴールのようなおもちゃというよりも骨董品に見入っている女の子がいる。ショーウィンドーにあるそれを、女の子は両親に自分の誕生日プレゼントして買ってもらったらしい。この骨董品のようなブリキのオルゴールに描かれている人物と犬があとで重要になる。

またこのとき女の子と、その両親は、顔にウサギのメークをしている。これがよくわからない。なにかのお祭りなのかゲームなのか。周囲の人は、ウサギメークをしていないので、この親子だけの習慣かゲームなのか。またなぜウサギなのか、まったくわからない。

場所は、デンマークのユトランド半島の先端にある港町スカーエンSkagen。実在するこの港町は観光の町でもあり、魚介類が名物。親子は、ヴァカンスで、やってきて、そこでムール貝を食べるのだが(正確にはムール貝のピザ)、母親はアレルギー反応を起こし病院へ運ばれる。夫婦は病院で一夜を過ごすが、翌日、誕生日を祝うはずの娘は、母のベッドの脇のベッドで謎の死を遂げていた。

母親が突然体調不良になって食中毒アレルギーになるのは驚きだが、8歳の誕生日に娘が突然死するのも驚きである。ただ夫婦は、夜、病院のベッド上にテントのようなものを張り(これが結局なんであったのかは不明。個室なので周囲の患者のベッドと区分するためのカーテンのようなのものではないらしい)、そのなかで仲良くひそひそ話をしている。セックスはしていないが、セックスをしたのではないかという暗示がある。そしてここが重要なのだが、この夫婦、いちゃいちゃしていて、すぐ隣のベッドで寝ていた娘の異変に気付かなかった――あるいは二人のテント内でのセックスに娘が気づいてショックを受けた。このことがのちの悪夢的展開の原因となる。

3年後。仲のよかった夫婦の関係も、娘の突然の死を契機に崩壊しはじめる。冷めた夫婦関係を修復しようと、夫婦は車でキャンプ旅行に出かける。夫婦は、険悪な関係にある。そしてキャンプ場をみつけられないか、たどり着けなかった夫婦は、道路わきの空き地にテントを張って一夜を過ごすことになる。

夜、尿意をもよおした妻が、森の入口で用をたしていると、ネコがあらわれ、それに気をとられていると、おそろしい殺人犬の襲われ殺されてしまう。この時、最初のブリキのオルゴールの胴体に描かれていた三人と同じ扮装の三人が登場する。またオルゴールに描かれた犬も登場する。

妻が惨殺されるところを、何もできずにテントのなかから見るしかなかった夫は、テント内の荷物から武器となるナイフを探すが、そこに殺人犬をけし掛けられ、必死の思い出、犬をナイフで刺殺する。と、そのことに怒った三人組が夫である男を殺す。ここで、終わる。ココディ、ココダ。一体これは何か?

ブリキのオルゴールが奏でる音楽は、スウェーデンの有名な童謡というかナースリー・ライムであるようだ。ナースリー・ライムは、英語圏ならばマザーグースの歌というジャンル名があり、またそれは「童謡」とのみいいきれないのだが、以下、面倒なので、いちおう「童謡」と表記する。

さて、その歌詞はわかっている。

Vår tupp är död
Vår tupp är död, vår tupp är död,
Vår tupp är död, vår tupp är död,
Han kan inte sjunga kokodi kokoda
Han kan inte sjunga kokodi kokoda
Kokokoko koko kokodi, kokoda
Kokokoko koko kokodi, kokoda.


「ココディ ココダ」はリフレインとなっている。

ちなみにこの童謡の英語訳は以下のとおり

Our rooster's dead
Our rooster's dead, our rooster's dead,
Our rooster's dead, our rooster's dead,
He'll no longer sing kokodi, kokoda,
He'll no longer sing kokodi, kokoda,
Kokokoko koko kokodi, kokoda
Kokokoko koko kokodi, kokoda.


「ココディ ココダ」は日本語で言う「コケコッコー」という擬音語であるようだ。

意味は、私たちの飼っていた雄鶏が死んだ。雄鶏は、もうコケコッコーとは鳴かないだろう――というただ、それだけのこと。何が面白いのかと思うのだが、その擬音語もふくめてその歌は、子供の頃から慣れ親しんでいるノスタルジアも手伝って強く情動に訴えるものがあるのだろう。そして、この懐かしくもまた日常的な単純な童謡が、森にすむ不気味な妖精あるいは妖怪のような三人組による、みるも無残な夫婦殺害を導くという恐怖――それがホラー映画としての、この映画の狙いであろう。

事実、骨董日のようなオルゴールの胴体には、雄鶏の姿も描かれていて、この胴体に描かれているイラストが、まさにこの童謡の内容を描いたものだとわかる(正確には童謡と関係があるらしいとわかる)。

もちろんオルゴールから、あるいは童謡から抜け出てきたような三人組による夫婦殺害は一回では終わらない。妻は再び尿意で目覚め外で用をたして殺される。時間がループして、同じ惨劇が繰り返される。

ループ物の暗黙の約束事というのは、時間が巻き戻るというか、同じ出来事が一定時間内に反復されることで、それが閉域をつくりだす。一定の場所から、なにをしても、何が起こっても抜け出せなくなる。明日なき現在。出口なき監獄。こうなると、それは、主人公たちへの罰であるかのように思えてくる。なぜ罰を受けるのか。原因となる罪がはっきりしないまま、罰を受け続けるというという、カフカ的な不条理(あるいは旧約聖書的な不条理、さらにはギリシア悲劇的なハマルティアのもたらす惨劇)が生起する。

ループ物ではないが、たとえば毎回、脱出しようとして失敗するという、カルト的人気を誇ったテレビドラマ『プリズナーNo.6』を私は思い出すが、映画ファンなら、晩餐会にきた客が屋敷から出られないまま数日を過ごすと言うブニュエルの『皆殺しの天使』を思い出すかもしれない(実際のところ『皆殺しの天使』というのは、この映画『ココディ ココダ』のタイトルとしてもふさわしいのだが……。ただし映画は「皆殺し」などいう強い言葉ではなく、童謡のリフレインという無垢のイメージをちらつかせ、殺人の惨劇をつきつけるというポーカーフェイスを特徴とするのだが)。これらはループ物ではないが、現在のループ物のルーツというか、現在のループ物が受け継ぐことになる主題群を携えている作品であるといえよう。問題の解決は、閉じ込められ脱出できなくなった理由を探ることで得られる。おそらくそれは犯してはならない禁忌を破り、そのうえ自分の侵犯行為をも忘れてしまったことに起因するのだ。

ブリキのオルゴールの胴体面のイラストから抜け出できたような地獄の三人組は、イラストにはない犬の死骸を運んでいる。これが最初から気になるのだが、最後のループにおいて、これまでのループを記憶している夫は、妻をむりやり車に乗せて、その場から立ち去り、街道をひた走り、ついに夜明けを迎えることになる。地獄の三人組の追跡をかわし、ようやくループから脱することができるかと思われた瞬間、夫婦の乗った車が、道路を横切っていた犬をはねて殺してしまう。車は衝撃で道路脇の大きな水たまりに落ちて止まる。そう、このとき死んだ白い犬を、地獄の三人組は運んでいたのである。

犬をはねて殺したことで、ループから脱け出せたというのは、いかなる理屈なのかと解せないのだが、おそらく、犬殺しに直面したことで、夫婦は地獄から救われたのである。つまりこの夫婦は、犬をはねて殺していたのだが、それに気づかなかったか(おそらく深夜の街道での出来事なので、それはありうる)、あるいは忘れていたのだ。つまり事故であっても、それと気づかずに殺していた。そしてそれと気づかずに殺していたことを忘れてしまっていたのだ。

殺された犬の復讐のために地獄の三人組が襲ってきても、なぜ襲われるのかわからないのは、犬殺しのことに気づいていないからであり、それに気づくことで、地獄の三人組は、襲ってこなくなる。

くどくどと述べたのは、これは、この夫婦にとって同じことはすでに起こっていた。つまり8歳の誕生日を迎える娘が、知らないうちに死んでいた。たとえ夫婦が意図的に殺したのではないとしても、娘の異変に気づかないまま、いつのことかもわからないまま、娘が死んでいた。そう、犬と同様に、娘も死んだことがわからなかった。事故とはいえ犬を殺したことに無自覚だった夫婦。病室でいちゃついていて同じ病室にいた娘の死に無自覚だった夫婦。こうなると地獄の三人組に森で惨殺されることの繰り返しは、殺された犬のための復讐であると同時に、死んだ娘の無自覚な親への復讐あるいは罰なのかもしれない。

映画のなかでは事実そうなのだ。というも映画の最後は、娘が、ブリキのオルゴールの取っ手を回転させて音楽を奏でているという不気味な映像で締めくくられる。ブリキのオルゴールの側面に描かれているイラストの三人組が、地獄の三人組の原型であったことが、あらためてわかる。そして死んだ娘は、オルゴールを回しながら、自分の死に無自覚だった両親に罰をあたえているのではないか。

この解釈がたんなる妄想ではない証拠として、映画のなかで娘の死後と、ループの途中(最後から二番目のループ)の2度あらわれる影絵芝居を上げることができる。素朴(とはえい実際には手の込んだ特撮なのだが)な影絵では、ウサギの親子が登場する。娘が登場していたときのウサギ顔のメーク(いや同時に両親もウサギ顔のメークをしていた)から、影絵のウサギの親子は、映画の親子の表象であることがわかる。

最初の影絵では、うさぎの子どもが、大きな鳥(雄鶏のようにも、不死鳥のようにもみえる)に抱えられて空を飛びまわっていたのだが、ウサギの両親が鉄砲でその鳥を撃ち落としてしまっため、娘のウサギも悲観して死んでしまうというもの。

【この影絵ではウサギの子と鳥とがなかよく空を飛ぶことから、自由に動き回っていた子供が、口うるさい両親によって自由を束縛されるか自由を失うという暗示がある。そのため娘は両親を恨んでいたともとれる。ちなみに鳥は、映画一般において、人間の魂を表象する。鳥は自由な幼な心そのものともいえる。またさらにウサギは飛び跳ねることから、西洋では鳥の仲間だと思われていたこともある。鳥とウサギは結構結びついていたのだ。】

もうひとつ影絵は、ループのさなか、母親がテントの外にでるとあたり一面雪が積もっていて、不思議におもって森をさまようと、乗ってきた車が壊され放置され、そこに現われた白い猫の後を追うと、森のなかの一軒家に導かれ、そのなかで影絵をみせられる。ただし、そのとき母親は急速に歳を取ってしまう。おそらくこれは未来の出来事で、影絵の内容も、夫婦の未来にかかわるものであろうと想像がつく。こちらの影絵は、娘が死に、鳥は籠の鳥となって元気を失って死んでいくのだが、その死体の燃やす炎のなかから蘇る。まさに不死鳥であって、この夫婦も娘の死を乗り越えて先に進むことが暗示される。とはいえ、それを観ているのは老いた母親なんで、これは過去の可能性だったのかもしれない。つまり娘の死後、夫婦仲が悪くなっても、娘の死に無自覚であったことを反省して悔悟したなら、夫婦ともに、新しい人生を歩むことができたのに、それができないまま歳を重ね、離婚もしてしまったというつらい真実を、未来の老いた母親はつきつけられているのかもしれない。

【なお不死鳥は、「ココディ ココダ」をリフレインにもつ童謡とも関係するかもしれない。雄鶏が死んだと嘆いている童謡は、復活への願いとして、不死鳥を含意するかもしれない。また死んだ雄鶏はイエスの象徴でもあろう。】

最初の影絵は、出来事の総括のようなところがあるのだが、総括としても、こんな素朴な影絵で、尺をとるなといらいらしたおぼえがある。二番目の影絵によって、実は、この影絵は、8歳の幼い娘(実はこの娘、8歳にしては幼すぎるのだが)の視点から出来事の解釈であるということに気づかされることになる。無自覚、無神経な両親の犠牲になった娘からの、両親への批判的まなざしが、このウサギの影絵となってあらわれたのだ。そしてこの映画全体も、8歳の娘の心象風景として構成されているのではないか。おそらく他の解釈も成立する可能性があると想像つつも、この解釈もまた有力な解釈のひとつではないかと思う。

そして、童謡のリフレインをタイトルのつかったホラー映画。古風なブリキのオルゴールに描かれている絵本的な絵柄の人物と動物とが、地獄の三人組となって飛び出て情け容赦のない殺人を繰り広げるというホラー映画。幼児的無垢の世界とホラーとのありえないような、あるいはよくある(本当は怖い童謡の世界)組み合わせこそ、この映画の狙いどころではなかったのではないか。

映画から解釈に使えそうなヒントを拾い上げ、それを奇をてらうことのない推測のふるいいにかければ、こうなるのではないかという覚書として記した。

ある映画サイトでは、この映画と類似の映画をいくつか紹介していた。ひとつはタイムループ物に属する映画。もうひとつは、旅行中の夫婦が、理不尽な暴力によって殺害されるか、殺害されそうになる映画。ただし、後者の映画ジャンルのなかで、幼児性とホラー性とを組み合わせた映画はなかった。

posted by ohashi at 22:24| 映画 | 更新情報をチェックする

2022年07月01日

『BLINK』3

池袋のアウルスポットでの公演、フィル・ポーター『BLINK』(荒井遼演出・大富いずみ訳)、Wキャスト:西村成忠・湯川ひな/広田良平・黒河内りくを観ることができた。7月3日まで上演中。私が観たのは〈広田亮平・黒河内りく〉版だが、優れた演出のため、おそらくどちらを観ても(また両方観ても)満足できるものと思う。お薦めの公演である。

3 所有の欲望から同一化の愛へ

 『BLINK』のなかで、若いジョナがすることは、覗きであり、覗きの対象である女性の居場所がわかってからは、ストーカーにおよび、女性宅への住居侵入までしている。しかし彼の行為の犯罪性・違法性が、許されることはないとしても、不快なものにならず、嫌悪の対象とならないのは、ひとつにはソフィーが実は密かに自ら仕組んだことであって、ジョナがソフィーの見えざる手によって翻弄されているのであって(6月29日の記事参照)、ソフィーの策略がなければジョナがそこまでしないだろうと思われるからである。

またいまひとつに、ジョナがソフィーの生活をのぞき見する道具となったのが、ベビーモニターであって、覗きとか監視よりも、介護や世話というケアにむすびつく器具であって、そこに攻撃性や暴力性など犯罪とむすびつく要素が感じられないということもあげられる。ベビーモニターというものを私は使ったことも、そもそも実物を手に取ってみたこともないのだが、モニターそのものは、正方形の画面をもつ、スマホの半分くらいの大きさの器具のようだ(英国での上演資料画像からも、それが確認できる)。今回の舞台のようにタブレットを使うことは、モニターはスマホとかタブレット・パソコンに接続もできるだろうから、おかしくはないのだが、本物のベビーモニターだと観客(私のような)にはそれがなんであるかわからなかったと思うので、妥当な選択でもあると思う。おそらくベビーモニターが、日本よりも普及している英国での上演では、本物のベビーモニター越しの覗きは、ほほえましさを喚起していたかもしれない。そしてもしそうなら、ジョナの行為は、こうして完全に解毒化される。

だが、最大の理由は、ジョナが、ソフィーを性的な窃視対象とするのではなく、同一化の対象とすることだろう。覗き見からストーカーへといたる過程から推察できるのは、若い女性のプライバシーに土足で入り込み、無防備な状態の彼女の秘密を掌中に収めることで、彼女をコントロールしようとする(たとえ現実にコントロールするのではないとしても)、そうした所有の欲望だが、ジョナが劇中で実際に行なうのは、想像のなかで、窃視対象である彼女と共有する空間の開拓であり、彼女の経験をみずからの経験にする、あるいは同じ経験を彼女と共有することである。

彼女の居場所がわかったあと、彼女の後を付け回すのだが、それは彼女と同じ経験を共有する試みなのである。彼女と同じ公園のベンチに座り、彼女の乗る同じバスに少し離れて座り、彼女が訪れる美術館を、彼女と一定の距離をとりながら見てまわる。そこにあるのは、彼女を監視して統御する所有するおぞましい欲望ではなくて、彼女との一体化あるは彼女との共存を求める願い、同一化の願望であって、それが彼を変態的犯罪者性から救っているともいえる。

また、そうなるのは、二人が都会に暮らす孤独な若い男女であり、すでに孤独を独自のかたちで共有していて、この二人が奇しくも観る/観られるという関係性において遭遇したとき、そこに愛が生まれることは、まあ、自然な成り行きなのかもしれない。というのも、そもそも自分が観られるように仕組んだのは、彼女自身であって、彼女がそうしたことの動機には、彼女がかかえていた深い孤独が影を落としていた。つまりこの若い男女が、惹かれあう素地はすでにできていたのである――孤独をとおして。

結局、ソフィーが、自身を観られるように仕組んだということは、彼女が知らないうちに尾行される被害者ではなくて、尾行されていることを知っている行為者であることを意味する。彼女は、ストーカー行為に誘うというか、ストーカー行為をあおっている。ジョナのほうは、そうとは知らずに、彼女との経験の共有を求めて、彼女に寄り添おうとしている。それはまた、二人の関係が、追いかけられ、逃げたり、また逆に追いかけたりするという追う者/追われる者との関係であるともいえる。演出の荒井遼氏が、この芝居には「目」のモチーフがあると明言しているように、目のドラマ、あるいは視線のドラマともいえるこの劇は、同時に追跡のドラマでもある。そのことがよくわかるのが、演出の荒井氏が付け加えた、二人の男女の追いかけっこのシークエンスである。視線のドラマと追跡のドラマ。このふたつは、絨毯の表の模様と裏の模様にように、同じ構図の二つのヴァージョンである。

もちろん視線のドラマにせよ、追跡のドラマにせよ、そこには、演劇全般についての深い省察あるいは演劇についてのメタコメンタリーがあることはいうまでもない。そしてそれは暗闇のなかから身をひそめてじっと見つめる者(観客のこと――とはいえ舞台からみると観客席は闇に包まれているのではなく、けっこうよく見えることもあるのだが)は、第4の壁を通して、人物の秘められた心のうちや行動をのぞきみるという窃視的欲望だけにとりつかれているのではなく、目の前にみているものに、自らを寄り添わせたり、時に同一化したり、そこを基軸に共有できる演劇空間を創造したりという、同一化の欲望にもとりつかれている。観客は人物の秘密が暴露されることの快感に酔いしれるだけでなく、人物の秘密のなかにみずからをすべりこませることの快感に酔いしれることも多い。観客は人物の下に見るだけでなく、上に観ることもあるのだ。

このことは距離の問題とも関係する。観られる者たちの秘密に肉迫したい、あるいは相手を対象化しコントロールしたいという欲望、この窃視的欲望のめざすところは距離の消滅である。できれば、相手に直接接触し相手を統御すること(最終的に殺したりレイプしたりすること)のためにも距離を消そうとする所有の欲望に対して、同一化の欲望は、それこそ距離を消滅させたい(同一化のために)欲望の最高度の発現と思われるかもしれないが、同一化のためには距離が必要となる。また、この同一化が、崇拝的同一化、憧れによる同一化であるのなら、距離を介在させること、それも大きければ大きいほど効果があがるように距離を介在させることは、必要条件となる。

『BLINK』のなかでは、観る観られる関係にあった二人は、最終的に直接出逢う。だが、それは終わりのはじまりであり、距離がなくなったことによって、愛がさまたげられるようなところがある。結局、愛の再開のためには、再び距離をとってベビーモニターでの監視行為が必要となったのである。つづく
posted by ohashi at 01:09| 演劇 | 更新情報をチェックする