少し前の映画だが、タイムループ物のひとつに数えられているスウェーデン・デンマーク合作の異色作で、日本におけるネットでの評判は、当然のことながらよくない――当然というのは、多くのことが説明されないまま終わるからである。
もちろん私もすべて理解したということはできなのだが、わかることとわからないことを律儀に整理し、この映画を考察するときの手がかりとしたい。
映画。COMの解説
長編デビュー作「いつも心はジャイアント」で注目されたスウェーデンのヨハネス・ニーホルム監督が、時間のループに陥りサイコパスや人喰い犬からエンドレスに襲撃される夫婦を描いたSFホラー。愛娘を亡くした夫婦は関係を修復するためキャンプに出かけるが、3人のサイコパスと人喰い犬に襲われて惨殺されてしまう。しかも時間のループに巻き込まれ、この恐ろしい運命を何度も繰り返すことになり……。1960年代のデンマークで人気を博したロック歌手ペーテル・ベッリが殺人者役を演じた。「シッチェス映画祭ファンタスティック・セレクション2020」(20年10月30日~11月12日、東京・ヒューマントラストシネマ渋谷ほか)上映作品。
2019年製作/86分/G/スウェーデン・デンマーク合作
これだけでは何のことかわからないので、少し肉付けしながら内容を確認したい。
冒頭、ブリキでできた古いオルゴールのようなおもちゃというよりも骨董品に見入っている女の子がいる。ショーウィンドーにあるそれを、女の子は両親に自分の誕生日プレゼントして買ってもらったらしい。この骨董品のようなブリキのオルゴールに描かれている人物と犬があとで重要になる。
またこのとき女の子と、その両親は、顔にウサギのメークをしている。これがよくわからない。なにかのお祭りなのかゲームなのか。周囲の人は、ウサギメークをしていないので、この親子だけの習慣かゲームなのか。またなぜウサギなのか、まったくわからない。
場所は、デンマークのユトランド半島の先端にある港町スカーエンSkagen。実在するこの港町は観光の町でもあり、魚介類が名物。親子は、ヴァカンスで、やってきて、そこでムール貝を食べるのだが(正確にはムール貝のピザ)、母親はアレルギー反応を起こし病院へ運ばれる。夫婦は病院で一夜を過ごすが、翌日、誕生日を祝うはずの娘は、母のベッドの脇のベッドで謎の死を遂げていた。
母親が突然体調不良になって食中毒アレルギーになるのは驚きだが、8歳の誕生日に娘が突然死するのも驚きである。ただ夫婦は、夜、病院のベッド上にテントのようなものを張り(これが結局なんであったのかは不明。個室なので周囲の患者のベッドと区分するためのカーテンのようなのものではないらしい)、そのなかで仲良くひそひそ話をしている。セックスはしていないが、セックスをしたのではないかという暗示がある。そしてここが重要なのだが、この夫婦、いちゃいちゃしていて、すぐ隣のベッドで寝ていた娘の異変に気付かなかった――あるいは二人のテント内でのセックスに娘が気づいてショックを受けた。このことがのちの悪夢的展開の原因となる。
3年後。仲のよかった夫婦の関係も、娘の突然の死を契機に崩壊しはじめる。冷めた夫婦関係を修復しようと、夫婦は車でキャンプ旅行に出かける。夫婦は、険悪な関係にある。そしてキャンプ場をみつけられないか、たどり着けなかった夫婦は、道路わきの空き地にテントを張って一夜を過ごすことになる。
夜、尿意をもよおした妻が、森の入口で用をたしていると、ネコがあらわれ、それに気をとられていると、おそろしい殺人犬の襲われ殺されてしまう。この時、最初のブリキのオルゴールの胴体に描かれていた三人と同じ扮装の三人が登場する。またオルゴールに描かれた犬も登場する。
妻が惨殺されるところを、何もできずにテントのなかから見るしかなかった夫は、テント内の荷物から武器となるナイフを探すが、そこに殺人犬をけし掛けられ、必死の思い出、犬をナイフで刺殺する。と、そのことに怒った三人組が夫である男を殺す。ここで、終わる。ココディ、ココダ。一体これは何か?
ブリキのオルゴールが奏でる音楽は、スウェーデンの有名な童謡というかナースリー・ライムであるようだ。ナースリー・ライムは、英語圏ならばマザーグースの歌というジャンル名があり、またそれは「童謡」とのみいいきれないのだが、以下、面倒なので、いちおう「童謡」と表記する。
さて、その歌詞はわかっている。
Vår tupp är död
Vår tupp är död, vår tupp är död,
Vår tupp är död, vår tupp är död,
Han kan inte sjunga kokodi kokoda
Han kan inte sjunga kokodi kokoda
Kokokoko koko kokodi, kokoda
Kokokoko koko kokodi, kokoda.
「ココディ ココダ」はリフレインとなっている。
ちなみにこの童謡の英語訳は以下のとおり
Our rooster's dead
Our rooster's dead, our rooster's dead,
Our rooster's dead, our rooster's dead,
He'll no longer sing kokodi, kokoda,
He'll no longer sing kokodi, kokoda,
Kokokoko koko kokodi, kokoda
Kokokoko koko kokodi, kokoda.
「ココディ ココダ」は日本語で言う「コケコッコー」という擬音語であるようだ。
意味は、私たちの飼っていた雄鶏が死んだ。雄鶏は、もうコケコッコーとは鳴かないだろう――というただ、それだけのこと。何が面白いのかと思うのだが、その擬音語もふくめてその歌は、子供の頃から慣れ親しんでいるノスタルジアも手伝って強く情動に訴えるものがあるのだろう。そして、この懐かしくもまた日常的な単純な童謡が、森にすむ不気味な妖精あるいは妖怪のような三人組による、みるも無残な夫婦殺害を導くという恐怖――それがホラー映画としての、この映画の狙いであろう。
事実、骨董日のようなオルゴールの胴体には、雄鶏の姿も描かれていて、この胴体に描かれているイラストが、まさにこの童謡の内容を描いたものだとわかる(正確には童謡と関係があるらしいとわかる)。
もちろんオルゴールから、あるいは童謡から抜け出てきたような三人組による夫婦殺害は一回では終わらない。妻は再び尿意で目覚め外で用をたして殺される。時間がループして、同じ惨劇が繰り返される。
ループ物の暗黙の約束事というのは、時間が巻き戻るというか、同じ出来事が一定時間内に反復されることで、それが閉域をつくりだす。一定の場所から、なにをしても、何が起こっても抜け出せなくなる。明日なき現在。出口なき監獄。こうなると、それは、主人公たちへの罰であるかのように思えてくる。なぜ罰を受けるのか。原因となる罪がはっきりしないまま、罰を受け続けるというという、カフカ的な不条理(あるいは旧約聖書的な不条理、さらにはギリシア悲劇的なハマルティアのもたらす惨劇)が生起する。
ループ物ではないが、たとえば毎回、脱出しようとして失敗するという、カルト的人気を誇ったテレビドラマ『プリズナーNo.6』を私は思い出すが、映画ファンなら、晩餐会にきた客が屋敷から出られないまま数日を過ごすと言うブニュエルの『皆殺しの天使』を思い出すかもしれない(実際のところ『皆殺しの天使』というのは、この映画『ココディ ココダ』のタイトルとしてもふさわしいのだが……。ただし映画は「皆殺し」などいう強い言葉ではなく、童謡のリフレインという無垢のイメージをちらつかせ、殺人の惨劇をつきつけるというポーカーフェイスを特徴とするのだが)。これらはループ物ではないが、現在のループ物のルーツというか、現在のループ物が受け継ぐことになる主題群を携えている作品であるといえよう。問題の解決は、閉じ込められ脱出できなくなった理由を探ることで得られる。おそらくそれは犯してはならない禁忌を破り、そのうえ自分の侵犯行為をも忘れてしまったことに起因するのだ。
ブリキのオルゴールの胴体面のイラストから抜け出できたような地獄の三人組は、イラストにはない犬の死骸を運んでいる。これが最初から気になるのだが、最後のループにおいて、これまでのループを記憶している夫は、妻をむりやり車に乗せて、その場から立ち去り、街道をひた走り、ついに夜明けを迎えることになる。地獄の三人組の追跡をかわし、ようやくループから脱することができるかと思われた瞬間、夫婦の乗った車が、道路を横切っていた犬をはねて殺してしまう。車は衝撃で道路脇の大きな水たまりに落ちて止まる。そう、このとき死んだ白い犬を、地獄の三人組は運んでいたのである。
犬をはねて殺したことで、ループから脱け出せたというのは、いかなる理屈なのかと解せないのだが、おそらく、犬殺しに直面したことで、夫婦は地獄から救われたのである。つまりこの夫婦は、犬をはねて殺していたのだが、それに気づかなかったか(おそらく深夜の街道での出来事なので、それはありうる)、あるいは忘れていたのだ。つまり事故であっても、それと気づかずに殺していた。そしてそれと気づかずに殺していたことを忘れてしまっていたのだ。
殺された犬の復讐のために地獄の三人組が襲ってきても、なぜ襲われるのかわからないのは、犬殺しのことに気づいていないからであり、それに気づくことで、地獄の三人組は、襲ってこなくなる。
くどくどと述べたのは、これは、この夫婦にとって同じことはすでに起こっていた。つまり8歳の誕生日を迎える娘が、知らないうちに死んでいた。たとえ夫婦が意図的に殺したのではないとしても、娘の異変に気づかないまま、いつのことかもわからないまま、娘が死んでいた。そう、犬と同様に、娘も死んだことがわからなかった。事故とはいえ犬を殺したことに無自覚だった夫婦。病室でいちゃついていて同じ病室にいた娘の死に無自覚だった夫婦。こうなると地獄の三人組に森で惨殺されることの繰り返しは、殺された犬のための復讐であると同時に、死んだ娘の無自覚な親への復讐あるいは罰なのかもしれない。
映画のなかでは事実そうなのだ。というも映画の最後は、娘が、ブリキのオルゴールの取っ手を回転させて音楽を奏でているという不気味な映像で締めくくられる。ブリキのオルゴールの側面に描かれているイラストの三人組が、地獄の三人組の原型であったことが、あらためてわかる。そして死んだ娘は、オルゴールを回しながら、自分の死に無自覚だった両親に罰をあたえているのではないか。
この解釈がたんなる妄想ではない証拠として、映画のなかで娘の死後と、ループの途中(最後から二番目のループ)の2度あらわれる影絵芝居を上げることができる。素朴(とはえい実際には手の込んだ特撮なのだが)な影絵では、ウサギの親子が登場する。娘が登場していたときのウサギ顔のメーク(いや同時に両親もウサギ顔のメークをしていた)から、影絵のウサギの親子は、映画の親子の表象であることがわかる。
最初の影絵では、うさぎの子どもが、大きな鳥(雄鶏のようにも、不死鳥のようにもみえる)に抱えられて空を飛びまわっていたのだが、ウサギの両親が鉄砲でその鳥を撃ち落としてしまっため、娘のウサギも悲観して死んでしまうというもの。
【この影絵ではウサギの子と鳥とがなかよく空を飛ぶことから、自由に動き回っていた子供が、口うるさい両親によって自由を束縛されるか自由を失うという暗示がある。そのため娘は両親を恨んでいたともとれる。ちなみに鳥は、映画一般において、人間の魂を表象する。鳥は自由な幼な心そのものともいえる。またさらにウサギは飛び跳ねることから、西洋では鳥の仲間だと思われていたこともある。鳥とウサギは結構結びついていたのだ。】
もうひとつ影絵は、ループのさなか、母親がテントの外にでるとあたり一面雪が積もっていて、不思議におもって森をさまようと、乗ってきた車が壊され放置され、そこに現われた白い猫の後を追うと、森のなかの一軒家に導かれ、そのなかで影絵をみせられる。ただし、そのとき母親は急速に歳を取ってしまう。おそらくこれは未来の出来事で、影絵の内容も、夫婦の未来にかかわるものであろうと想像がつく。こちらの影絵は、娘が死に、鳥は籠の鳥となって元気を失って死んでいくのだが、その死体の燃やす炎のなかから蘇る。まさに不死鳥であって、この夫婦も娘の死を乗り越えて先に進むことが暗示される。とはいえ、それを観ているのは老いた母親なんで、これは過去の可能性だったのかもしれない。つまり娘の死後、夫婦仲が悪くなっても、娘の死に無自覚であったことを反省して悔悟したなら、夫婦ともに、新しい人生を歩むことができたのに、それができないまま歳を重ね、離婚もしてしまったというつらい真実を、未来の老いた母親はつきつけられているのかもしれない。
【なお不死鳥は、「ココディ ココダ」をリフレインにもつ童謡とも関係するかもしれない。雄鶏が死んだと嘆いている童謡は、復活への願いとして、不死鳥を含意するかもしれない。また死んだ雄鶏はイエスの象徴でもあろう。】
最初の影絵は、出来事の総括のようなところがあるのだが、総括としても、こんな素朴な影絵で、尺をとるなといらいらしたおぼえがある。二番目の影絵によって、実は、この影絵は、8歳の幼い娘(実はこの娘、8歳にしては幼すぎるのだが)の視点から出来事の解釈であるということに気づかされることになる。無自覚、無神経な両親の犠牲になった娘からの、両親への批判的まなざしが、このウサギの影絵となってあらわれたのだ。そしてこの映画全体も、8歳の娘の心象風景として構成されているのではないか。おそらく他の解釈も成立する可能性があると想像つつも、この解釈もまた有力な解釈のひとつではないかと思う。
そして、童謡のリフレインをタイトルのつかったホラー映画。古風なブリキのオルゴールに描かれている絵本的な絵柄の人物と動物とが、地獄の三人組となって飛び出て情け容赦のない殺人を繰り広げるというホラー映画。幼児的無垢の世界とホラーとのありえないような、あるいはよくある(本当は怖い童謡の世界)組み合わせこそ、この映画の狙いどころではなかったのではないか。
映画から解釈に使えそうなヒントを拾い上げ、それを奇をてらうことのない推測のふるいいにかければ、こうなるのではないかという覚書として記した。
ある映画サイトでは、この映画と類似の映画をいくつか紹介していた。ひとつはタイムループ物に属する映画。もうひとつは、旅行中の夫婦が、理不尽な暴力によって殺害されるか、殺害されそうになる映画。ただし、後者の映画ジャンルのなかで、幼児性とホラー性とを組み合わせた映画はなかった。
posted by ohashi at 22:24|
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