2022年05月30日

死刑執行人もまた死す

ネット上で、以下の記事をみつけた。

チェコでナチス高官暗殺80年式典、ウクライナ紛争に絡めた演説も【AFPBB News 2022/05/28 12:15】

【5月28日 AFP=時事】旧チェコスロバキアの空挺部隊がホロコースト(Holocaust、ユダヤ人大量虐殺)の立案に携わったナチス・ドイツ(Nazi)の高官ラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Heydrich)を暗殺して80年を記念する行事が27日、チェコの首都プラハで行われた。式典ではウクライナ紛争に言及する演説が多かった。

スロバキアのヤロスラウ・ナジ(Jaroslav Nad)国防相は、ロシアのウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin)大統領がウクライナ侵攻を開始する際に使用したのと全く同じ表現を使い、ハイドリヒの暗殺はチェコスロバキアを「非ナチ化するための特別軍事作戦」だったと述べた。

さらに「プーチン氏はまるで1930年代のアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)のようなのに、ウクライナを非ナチ化する特別軍事作戦を実施するとよくも言えたものだ」と非難。

空挺部隊は1942年5月27日、プラハで車に乗っていたハイドリヒを銃と爆弾で襲撃。ハイドリヒは、その時のけがが元で数日後に死亡し、部隊はナチスとの銃撃戦の末に自決した。

ナチスは報復として、リディツェ村とレジャーキ村を壊滅させ、1万5000人を拘束。殺害または強制収容所に送り込んだ。【記事の一部のみ引用】


このラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ(Reinhard Tristan Eugen Heydrich, 1904年3月7日 - 1942年6月4日)については、有名すぎて、説明するまでもないと思いつつも、念のため確認しておけば、暗殺された当時ベーメン・メーレン保護領(チェコ)の副総督の地位にあったが、有名なのはその地位だけではなく、「ナチス第三の男」としての、「最終解決」の推進者としての、またいわゆる「絶滅部隊」を組織した人物としての限りない冷酷さゆえであった。

映画との関係でいうと、ハイドリヒを扱った映画に『ナチス第三の男』(The Man with the Iron heart 2017)がある。ジェイソン・クラーク演ずるハイドリヒは、本人には似ても似つかない風貌なのだが、不気味さは出ていた。

『謀議』(Conspiracy 2001)は「最終解決」計画を決定したヴァンゼー会議を扱った映画。会議場とその周辺だけに舞台を限定し、休憩をはさみながらの会議の進行を追ったリアルタイムの演劇的映画(激論が交わされることはないのだが、大量の死体処理の煩雑な手続きをめぐって会議が紛糾するといった、些末だが背筋が寒くなるような議題の数々に冷たい迫力があった――会議場の外は冬の雪景色だった)。ハイドリヒを演じたのはケネス・ブラナー、もちろん似ていない。アイヒマンを演じたのはスタンリー・トゥッチ、もちろん、こちらも似ていない。

ちなみに「最終解決」は「最終的解決」と訳すべきだと、しょうもないことを言ってきたバカがいたが(ちなみに、私の知っている編集者や校閲者の方々ではない)。英語でいうFinal Solutionの訳語に私が初めてであったとき、それは「最終解決」であったので、以後、それを今でも使っている。「最終的解決」といった間延びした表現を私は好まない。というか最終的に、どちらでもいいのだが、「最終的解決」は、毎日、いたるところで、起こっていることだが(つまり普通名詞)、「最終解決」はナチスによるユダヤ人絶滅である(つまり固有名詞)というニュアンスの違いを私はだいじにしたい――これが最終回答。

ハイドリヒは、その風貌と、その冷酷さから、「金髪の野獣」とあだ名され、「金髪のジークフリート」とも呼ばれた。ナチスは、金髪碧眼のアーリア系人種を理想としたのだが、ナチスの幹部に、これにあてはまる人物はいなかった――大袈裟な物言いをすれば、ハイドリヒを除いて、ということになる。その意味で、その残忍さも手伝って、ハイドリヒは、ナチスのシンボル的典型的人物といっても過言ではなかった。

ハイドリヒの残忍さについては、絶滅部隊を組織したことでも名高い。「絶滅部隊」というのは私が知っている意訳のひとつで、とくにこの語にこだわるつもりはないが、ドイツ語で「アインザッツグルッペン(Einsatzgruppen)」という。ドイツの保安警察と保安局が国防軍の前線の後方で「敵性分子」(特にユダヤ人)を銃殺するために組織した部隊である。国防軍本隊が侵攻したあと、この絶滅部隊が、ユダヤ人のみならず住民を虐殺した(というか、この絶滅部隊が殺したのは、ユダヤ人であろうがなかろうが、みんなユダヤ人扱いとなったので、現実には犠牲者のなかには民間人も多数含まれていたはずである)。そしてこれは、現在のロシアのソンビZ軍が、ウクライナでしていることを思い起こさせる。

ハイドリヒは、まさに万死に値する人間だが、今回のハイドリヒ暗殺80周年記念式典で、ハイドリヒ殺害の再現ドラマをみせるというのは驚いた。とはいえ、おそらくその現場となったところでは、ハイドリヒは負傷して運び出されたというのが歴史的事実。つまり銃弾を撃ち込まれてその場で死亡したわけではないので、再現ドラマも、凄惨なものとはならなかったと想像できる。

あと襲撃した空挺部隊はナチスとの銃撃戦の末に自決。またナチスは報復として、空挺部隊を匿ったとされるリディツェ村を壊滅させた(これはナチスが全世界にむけて公表した)、さらに1万5000人を拘束し殺害した。つまりこの暗殺によって、多くの民間人も報復にあい、命を失うことになり、またハイドリヒを殺害してもホロコーストを止めることはできなかったことを考えると、多くの犠牲を出した無謀な作戦だったと言えないくもないというか言える(今の日本だったら、隠れナチス・ファシストたちから、思慮を欠いた暗殺計画として批判のみが声高に叫ばれるであろう)。

ハイドリヒ暗殺作戦は、エンスラポイド作戦(Operation Anthropoid)と命名されたが、チェコ亡命政府と英国との合同作戦ということもあり、報復のために住民が、さらにはハイドリヒの死を悼んで、ナチスによってさらなる虐殺が行われたこと(ハイドリヒ作戦)ことも、作戦の無謀・無思慮を非難することにはつながらす、ナチス、ファシズムの暴虐ぶりを非難し、そしてファシズムと戦う勇気(生還の見込みのない特攻作戦であったために)を称賛する方向に吸収された観がある。

なお映画では第二次世界大戦中にすでにフリッツ・ラング監督による『死刑執行人もまた死す』(Hangmen Also Die 1943)が作られている。ただしこの暗殺事件を題材にしていても再現映画ではなく独自の設定の物語となっている。タイトルのHangmenが複数形なのに注意。

比較的最近では、『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』(Anthropoid 2016)が、この暗殺作戦(エンスポサイド作戦)を再現した歴史ドラマとなっている。キリアン・マーフィが珍しく、癖のない好感度の高い有能なリーダー(ヨゼフ・ガプチーク曹長)を演じている。

このハイドリヒ襲撃・殺害事件の記憶は、プラハの春を弾圧するワルシャワ条約機構軍(ソ連軍)の介入によって、プラハの市民たちのなかによみがえる。ワルシャワ条約機構軍の戦車をはじめとする軍用車がプラハ市内に侵攻したときの写真が多く残されている。ジョセフ・クーデルカが残した数々の写真が有名だが、2011年東京都写真美術館で開かれた「ジョセフ・クーデルカ プラハ侵攻1968」展を観たとき、会場で図録の代わりに販売されていたのが、『ジョセフ・クーデルカ プラハ侵攻 1968』(阿部賢一訳、平凡社、2011年)だったが、この大きな本が、これで3000円代なら安いものだとさっそく購入したのだが、とにかく大きくて重たい。持って帰るときに苦しい思いをした記憶がある。それはともかく、この本に収録された写真のなかに、また展覧会でもみることができたのだが、プラハの市民が侵攻してきた戦車に、白いペンキで、鍵十字を描いた写真があった。なかには鍵十字ではなく、マンジ(卍)になっているものもあったが、まあ二つはとくに区別しないのだろう。メッセージは明確である。ワルシャワ条約機構軍は、ナチスと同じファシストだということなのである。ナチス=全体主義と戦ってきた、あるいはこれからも戦うというソ連の主張の虚偽を白日のもとにさらしたのである。おまえたちこそナチスだ、ファシストだと。

そして現在。ハイドリヒ襲撃・暗殺事件の80周年記念式典で、記事にあるように、「スロバキアのヤロスラウ・ナジ(Jaroslav Nad)国防相は、……ハイドリヒの暗殺はチェコスロバキアを「非ナチ化するための特別軍事作戦」だったと述べ」「さらに「プーチン氏はまるで1930年代のアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)のようなのに、ウクライナを非ナチ化する特別軍事作戦を実施するとよくも言えたものだ」と非難することになった。

非ナチ化のためにウクライナに侵攻するというプーチンの主張のばかばかしさ、相手にする価値もない、狂気のオーラもない、知性のかけらもない、独りよがりの幼児病的な虚言など、信ずる者など誰もないだろう。ただ問題は、しかし、こんなバカのために、ウクライナの人びとは、ウクライナの兵士たちは命を失い、そしてロシアの兵士もまた、大義なき(あるいは愚劣きわまりない最低の大義のために)命を失うという不条理がまかりとおっていることなのである。

posted by ohashi at 23:13| コメント | 更新情報をチェックする

2022年05月29日

『砂の器』アズ・ナンバー・ワン

ネット上に、「没後30年“松本清張”作品で好きなドラマ・映画ランキング、1位は「中居正広を俳優として初めて認識」」という記事があった(『週刊女性PRIME [シュージョプライム] 』2022/05/28 06:00)

松本清張作品についてのアンケートによるベストテン作品を発表したもの。

1位が『砂の器』(280票)となったが、ポイントは、原作の小説ではなく、ドラマ化されたり映画化されたりした作品のランキングであること。(ちなみに2位は『点と線』)

『砂の器』は、1960年・読売新聞夕刊に連載。
1972年に松竹映画化・丹波哲郎、丹波哲郎、加藤剛、森田健作。
2004年にTBS系テレビドラマ・中居正広、松雪泰子

映画、テレビドラマを考慮すれば、『砂の器』がベスト・ワンであることに違和感はない。監督:野村芳太郎、脚本:橋本忍、山田洋次、音楽監督:芥川也寸志という映画版『砂の器』が傑作であることは誰もが認めることだろう。

映画、ドラマ化のベストテンなので、原作は無視してもいいのだが、記事では原作についても触れていて、原作を映画やドラマ化と同等の傑作扱いにしているが、記事を書いた人間は、ほんとうに原作を読んだことがあるのか。

松本清張の『砂の器』は、映画版とは比べ物にならないくらいの駄作である。映画版で感動してから、原作を読む読者ならわかるだろうが、感動をもたらす部分は、すべて映画版で付加したところであって、原作には感動を呼ぶ要素など存在しない。

そもそも犯人の和賀英良は、映画にあるようなピアニスト兼作曲家ではない。電子音楽の作曲家兼パフォーマーであって、重厚なクラシック音楽のピアニストではない。映画版では和賀英良は、別れた父親と、みずから作曲した音楽(タイトル『宿命』)のなかで出逢っているのだと語られるが、原作では、前衛的な電子音楽などを作っているような人間は、肉親愛を欠き、血も涙もないない反自然的・人工的アンドロイドのようなもので、だからこそ、父親を捨て、平気で殺人を犯すことができるという設定となっている。父親との永遠の別れの代償としての音楽における再会などという戯言を松本清張は信じてないというか、構想すらしていない。

しかも電子音楽の作曲だからといって、電磁波とか超音波を使って殺人を行なうというのは、どういう飛躍なのだろうか。超音波によって人が殺された例は、この『砂の器』が、最初で最後、空前絶後である。小説のなかで語り手は、超音波で人は殺せるのだと力説しているのだが(説得力はない)、そうまでして、前衛芸術家が、電子音楽家が憎いのか、彼らをアンドロイド化しないと気が済まないのかという、松本清張の妄執めいたものすら感じられるのだ。

もちろんモダンの社会の、あるいは高尚かつ権威ある共同体の、しらじらしい自己充足状態が、過去の封建的怨霊の闇の侵食を前にして、もろくも崩れ去るときに、まさにそのインターフェイス上に事件(多くの場合、殺人事件)が発生する。

【ここから先は本来なら、たとえメタファーとしてであれ、語ってはいけないことなのだが、松本清張にとって、近現代の日本の社会的身体は、健康的で美しい、その外見の下に、あるいはその外見そのものが、病に冒されているのである。『砂の器』における病の選択と、松本清張の社会観はつながっているとみることができる。】

ともあれ、松本清張の世界のダイナミズム、ただし図式的すぎるダイナミズムのなかで、悪辣な犯人が血も涙もないアンドロイドになるのは当然の結果であり、しかも殺人手段も、素手によるものでも凶器を使うものでもない、超音波というこれまた実体を欠いた不可視の抽象的現象であり、悪を観念性・抽象性・脱身体性へと収斂させてゆくその徹底ぶりは空恐ろしくなる――超音波殺人というSFすらびっくりの蓋然性無視の姿勢を貫かずにはいられないほど、あるいは蓋然性を犠牲にせずにはいられないほど、モダニズムを松本清張は憎くてしかたがないのである。

反モダニズム姿勢の幼稚なまでの暴走が原作の欠陥であることを見抜いていたのは、映画版『砂の器』の製作者たちである。犯罪小説としての対立構造は、なにもモダニズムをアヴァンギャルドを敵に回さなくとも、充分に成立しうるのであり、これがわかっている映画版製作者たちは、原作のなかで抑圧されていた可能性を十全に開花させたと言ってよいだろう。

長編小説の映画化は、ほとんどの場合、単純化さらには劣化なのだが、『砂の器』に限っては、映画化のほうが原作を凌駕しているといってもいい。原作は駄作だが、映画化は傑作である。あるいは原作のひどさを前にして、原作のもつ可能性をうずもれさせたくはなかったというのがアダプテーションの動機だったのかもしれない。

【付記:ベストテンには入っていないのだが松本清張作品のうち、もっとも映画・テレビドラマ化が多いのは、「地方紙を買う女」である。映画化1回、テレビドラマ化は9回を数える。おそらく今後も続くだろう。理由はよくわからないが。

比較的最近、CSで、そのいくつかを放送していた。原作は短篇なので、2時間ドラマにするには、原作をふくらませることになるが、その過程で、ドラマ化はやりたい放題である。つまりほとんどのドラマ化が、原作のドラマ化とはいえないほど加工変形されていて、なぜ地方紙を買うのか、その理由すら定かでないものもあるのだから】
posted by ohashi at 20:10| 映画・コメント | 更新情報をチェックする

2022年05月28日

レイ・リオッタ

レイ・リオッタ(Ray Liotta、1954年12月18日 - 2022年5月26日)が亡くなった。享年67歳。私よりも十歳くらい年上かと思っていたら、私の方が年上だったとわかり驚いている。ネット記事では『グッドフェローズ』のレイ・リオッタと紹介しているのだが、私にとってレイ・リオッタは、『サムシング・ワイルド』(1986)のレイ・リオッタである。

リアル・タイムで観た映画ではない。90年代にイギリスでテレビで放送されたものを観た。『サムシング・ワイルド』は、ジェフ・ダニエルズ、メラニー・グリフィス、レイ・リオッタの三人の芝居で、小ぶりの映画でもあって、テレビでみるにもちょうどよいスケールであった。主演の三人は、1986年当時、あるいは1990年代初期には、まだそれほど名前を知られていなかったと思うし、レイ・リオッタにいたっては、これが映画デビューではないが、主役クラスとしては初出演映画であった(演劇クラスでいっしょだったメラニー・グリフィスの推薦で出演が決まったとのこと)。

だから私にとっては知らない俳優3人のドラマで新鮮な感じがした。しかも、この映画は、80年代のカルト映画のひとつでもあり、さらにいえば、監督がジョナサン・デミ。そう、『羊たちの沈黙』が話題となり人気を博したことから、デミ監督の過去の作品がテレビでも放送されることになったのだ。

小ぶりの映画といったが、しかし、ラブコメめいた始まりから、ダークサイドへと落ちてゆく展開に緊迫感があり、演出も緻密かつ繊細で、今見ても、これがカルト映画となったことは納得できるように思う。そして何よりも、この映画におけるレイ・リオッタの強烈な印象――邪悪で卑劣極まりなく、兇悪そのもので、しかもセクシー――は、まさに圧巻であり、トラウマになってもおかしくないほどであった。

以後、レイ・リオッタはクセの強い悪役を多く演ずることになるが、悪役以外の役も演じて、幅広い役柄をこなせる俳優となった。『グッドフェローズ』は、出世作といわれているが、またすぐれた映画だと思うが、レイ・リオッタのアグレッシヴな感じは、役柄から抑えられているところがある――不穏な感じは相変わらずだが。

比較的最近ではテレビドラマ『シェイズ・オブ・ブルー ブルックリン警察』でジェニファー・ロペスと共演していたことは知っていた。映画では『マリッジ・ストーリー』(内容は「離婚物語」だったが)に弁護士役で登場したときは、恰幅がよすぎて、誰だかはすぐにわからなかったが、クセの強さは相変わらずで、そこから誰だかを認識できた。

そう私にとってレイ・リオッタは、最後にまでサムシング・ワイルドたったというか、サムシング・ワイルドとしてしか想起できない貴重な存在・俳優だった。

冥福を祈りたい。
posted by ohashi at 17:52| コメント | 更新情報をチェックする

2022年05月20日

ゾンビ軍団

カンヌ国際映画祭の開幕を報じる2022年5月18日の朝日新聞の記事より、

開幕作品は、2018年に日本でヒットした「カメラを止めるな!」をリメイクをした仏映画「キャメラを止めるな!」。フランスでのタイトルは当初「Z」だったが、「Z」はロシア支持を表すとしてウクライナの映画界が抗議。「COUPEZ(カット!)」に改められた。……


「COUPEZ」に改められる前の映画のタイトル「Z」というのは、もし、『カメラを止めるな』のリメイクであるこの作品(リメイク版の内容について私は何も知らない)が、元の作品の設定をそのまま引き継いでいるのなら、この「Z」というのは、ゾンビのZだろう。

しかもウクライナ側からの抗議が、ゆくりなくもあぶりだしたのはロシア軍が、ゾンビ軍団であるという忌まわしい事実である。

実際、このZは、ロシア側が勝手にもりあがっている勝利のシンボルであるどころか、ゾンビの頭文字ではないかと、全世界が気づき始めるのではなかろうか。

ロシア軍団がゾンビ軍団であるのは、その兵士たちが民間人を残酷に殺害しまくる非人間の極みのようなゾンビにほかならないからである。ロシアとウクライナとの戦争を、ウクライナ側から見ている私たちは、戦争がまるで宇宙からの残酷な侵略者との戦いであるかのように思えてならない*。いいかえればロシア軍は冷酷無情で、残酷な戦争犯罪を躊躇せずに行なう冷血なソンビ戦士であるということだ。

と同時に、ロシア軍はまた、勇猛果敢な戦士であるどころか、ウクライナ軍の抵抗によって戦意を喪失し多大の犠牲を出している生ける屍状態ともなっている。彼らはウクライナ全土で、目的を失い、なすすべもなく、意気阻喪した、すでに死んだも同然の軍隊なのである。そうゾンビ軍団。

【*いまCSでアーロン・エッカート主演の映画『世界侵略: ロサンゼルス決戦』Battle: Los Angeles(2011)を繰り返し放送している。公開時、映画館でも見た映画。エイリアン軍団と戦う海兵隊の小隊の話だが、SFとはいえ、通常の戦争映画と変わりはないという感想は誰もがもったことだろう。なにもSF仕立てにして、面白くしただけではという思いはあった。

しかしCSで今この映画がをみると、このエイリアンとの戦いこそがウクライナにおける戦争のリアルではないかという気がするようになった。というのも容赦なく民間人を殺しまくる残忍なエイリアン軍団と熾烈な戦いを繰り広げ、多大の犠牲を出しながらも、民間人を守り抜き、敵中突破しようとするアメリカ海兵隊の兵士たちの戦いは、残酷なエイリアンのようなロシア軍、そうゾンビのようなロシア軍、ロシアZ軍と戦うウクライナの兵士たちに見えてくるのだから。】
posted by ohashi at 21:46| コメント | 更新情報をチェックする

2022年05月09日

大河ドラマの「紀行」

Mantanweb5月9日の記事

鎌倉殿の13人:根強い人気証明 本編終了後の“紀行なし”に「寂しい」の声 余韻楽しむ派「何か足りない」「やっぱり最後は」

俳優の小栗旬さんが主演を務めるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(総合、日曜午後8時ほか)第18回「壇ノ浦で舞った男」が5月8日に放送された。同回では本編終了後、おなじみの「紀行」がなく、SNS上では「事前に聞いてはいたが本当に紀行なしだった」「紀行がないの、変な感じ」「紀行を見ながら本編を振り返る時間がないのが寂しい」といった声が視聴者から上がった。

第18回に合わせた紀行は、予習用として先行公開されていた。同コーナーで“余韻を楽しむ派”からは、「何か足りないと思ったら紀行がないのか!」「やっぱり最後は紀行で締めてほしい」「直後に振り返ることのできる紀行はやっぱり必要だな…」「紀行って、クールダウンにぴったりなので、ないと何だか締まらないものなんだと初めて気づいた」「心が静まらない」「あれ好きなんだけだなぁ」といった感想が書き込まれ、根強い人気を証明した。


大河ドラマの紀行コーナーは昔からあるのだが、今の私自身、信じられないことなのだが、子供の頃、私は、この「紀行コーナー」が大嫌いだった。好きだったのではなく、嫌いだった。

好きな人の気持ちはわかる。この記事に書かれているようなことだろう。8日の放送回で、紀行コーナーがなくなってはじめて、その意義というか、その良さに気づいた視聴者も多かったのだろうと想像がつく。

それはいいのだが、子供の頃の私は、大河ドラマの最後の紀行コーナーがほんとうに嫌いだった。いまとなっては、その理由は、自分でも定かではないのだが、「どうしてこんなことをする(こんなコーナーをドラマの最後にもってくる)?」という気持ちだったように思いう。

今はそんな気持ちはない。ドラマのあと、どんな場所を紹介してくれるのか、紀行コーナーを逆に楽しみにしていると言ってもいい。だから、子供の頃、なぜ、あんなに嫌いだったのか、ほんとうにわからない。ただ嫌いだったという、その理由ではなく、その感情のほうはいまでも覚えている。昔は嫌いだったのになあと、今でも時々思うことがある――紀行コーナーを見ながら。

ただ、それではすまないので、回想と想像をめぐらせてみた。

子どもだったので、ドラマの世界に没入したかったか、没入しすぎていたのではないか。たとえば、壇ノ浦の戦いなら、それを観て、またその後の義経の運命の極まりをみる。今回なら、義経(菅田将暉)が、戦闘マシーン的なモンスターぶりから脱却して、静御前を追いかける子供っぽさを残しながらも、兄との深刻な不仲に悩み、平宗盛の願いをかなえて、息子との再会させる、そして旅の途中で出逢った民衆と旧交を温める、それも里芋の煮つけで、というようににわかに人間味というか人情味が増し、こうしたエピソードが、これから義経を待つ悲劇の夜の前の一条の残光のようにみえるというところでドラマが終わる。このあと紀行コーナーがあると、にわかに夢から醒めたような気持ちになる。物語の世界から、突然、現実の世界へと引き戻される、あるいはラカン風にいえば現実界が暴力的に侵入してくる。それが子供の頃には耐えられなかったのではないかと思う。

それをいうのなら、CMはどうか。ドラマを中断してCMが入るたびに、物語の世界から現実へと引き戻される。それは嫌じゃなかったのか。CMだらけでドラマに集中できないとい思っていたかもしれない。あるいはCMによる中断で、物語の展開への期待が高まったり、緊張からの解放が実現したりすることを知り、CMの意義を認めていたのかもしれない――とはいえ子供に、そこまで智慧がまわったかどうかわからない。

ただ言えることはNHKだからCMが入らないということ。NHKだから、CM抜きでドラマに没入できた。ところがドラマの最後になって、次の番組とかニュースになるのではなく、同じ番組が完全に終わっていないときに、「紀行コーナー」で勝手に、現実に戻されることを嫌ったのだろうか。

子供というのは、そんなものなのだろうか。なぜあんなに紀行コーナーを嫌ったのか、まだ、釈然としないのだが。
posted by ohashi at 18:13| コメント | 更新情報をチェックする

2022年05月08日

『十字架への献身』2

Parallel Lives

17世紀スペイン・バロック演劇の巨匠カルデロン(シェイクピアの次の世代ともいうべき劇作家)の作品に『十字架への献身』という神秘劇がある。日本でも翻訳上演されたらしい。スペイン黄金世紀演劇の専門家しか知らないような劇がどうしたのかと言われそうだが、この劇は、カミュが翻訳上演したこともあり、そのおかげでカルデロンの作品のなかではかなり有名な作品となっている。

カミュの翻訳La Dévotion á la croixは、『カミュ全集7 十字架への献身・精霊たち・夏』(新潮社1973)の冒頭に収められ読むことができる。訳者、塩瀬宏氏の短い解題によれば、

カルデロン・デ・ラ・バルガの手になるこの神秘劇の翻訳をカミュが手がけたのは、友人である演出家マルセル・エランの慫慂(しょうよう)によるものであった。スペイン語によく通じていたとは言い難かったカミュは、翻訳にあたって、まず、スペイン国籍の友人たちに原文を朗読してもらい、台辞の音調と色調を把握することに努めた後、友人たちの作成した仏語への逐語訳を参照しつつ、この訳稿を作りあげていったのだという(p.270)


このような手順を踏んだなら、いっそのこと内容とか設定を現代に置き換えた翻案にしてもらったら、面白かったと思う。ただ、塩瀬氏のコメントを読むと、たとえ逐語訳ではないとしても、翻案ではなく、翻訳に留まってこそ、この作品の魅力と現代的意味が増すと考えこともできる。塩瀬氏は、こう述べている。

……双子でありながら、おのれの出生の秘密を知らぬままに愛しあい、愛の情熱のおもむくままに、おそるべき罪を重ねる主人公の男女二人が、十字架にみちびかれ浄められ救済されるに至るというこの劇の単純きわまりない構造は、安手の合理主義に心理の綾糸をからめて仕上げた態のもっともらしい近代劇に慣れ親しんだ観客を瞠目(どうもく)さす。(p.270)


モダニズム派というか現代劇派ともいうべき塩瀬氏にとっては、この劇は「単純きわまりない構造」をもつ(良い意味で)ということだが、シェイクスピアとその前後の時代の演劇に関心がある私にとっては、カルデロンのこのバロック演劇は、けっこう曲者であると思っている。私にとって、どのような古典劇(広義の)も単純なきわまりないものではないので、そこのところがモダニズム的関心が強い専門家と違うところなのだが、とまれ、カルデロンのこの劇は単純であるがゆえに起爆力をもつと、塩瀬氏は評価する

……この偉大さにまで到達したナイヴテの劇の異様な美が、われわれの持つ近代劇の超克という課題への、ひとつの大きな鍵を提出しているのだ……。(p.270)


そう、この作品の単純さ、純朴さ、ナイーヴさが、さかしらな近代劇、行き詰まった近代劇を粉砕する起爆力をもつということだ。そのため、変に現代的にする翻案ではなく、あくまでも翻訳として、オリジナルなままの純朴さを保持することが、近代劇にはない、力強さを発現させて、近代劇を乗り越える事件となる。あるいは言い方をかえれば、この素朴な作品が、近代劇を飛び越えて、脱近代劇としての現代劇と連携する。

同じ理屈で、英国演劇においてシェイクスピア劇が疲弊し陳腐化した近代劇を乗り越えて現代劇のインスピレーションになった、シェイクスピアこそ、われわらが同時代人だということになる。

ただ問題なのは、ナイーヴさということ。カルデロンも、シェイクスピアも、ナイーヴな劇なのだろうか。純朴な田舎者が、洗練された都会人にはないものをもっているという理屈は、田舎者を蔑視してはいないか。カルデロンも、シェイクスピアも、近代劇が失った何かを、世界観を、人生観を、演劇戦略を保持しているがゆえに、脱近代劇的な現代劇への資格をもつというべきではないか。

【なお、いくらカルデロン劇が素朴ではないとはいえ、ホーフマンスタールによるカルデロンの『人世は夢』の翻案である『塔』を読むと、カルデロンの単純さが輝いて見える。なにしろホーフマンスタールのこの『塔』は、ほんとうにめんどくさい複雑な劇になっていて、途中で読むのをやめたくなるからだ(『ホーフマンスタール選集4』(河出書房1973)所収、『世界文学全集81ホフマンスタール/ムージル』(講談社1976)所収)。ホーフマンスタールのこの翻案に比べればたしかにカルデロンの原作のほうは素朴かもしれない。】

カルデロンのこの作品は、古いカミュ全集でなければ読めないということはなく、佐竹謙一訳『カルデロン演劇集』(名古屋大学出版局2008)で読むことができる。

実際、読んでみると、たとえば『ロミオとジュリエット』を彷彿とさせるような家同士の対立とか、父親の命で修道院に入れられる娘とか、『ヴェローナの二紳士』を思わせるような山賊になる主人公とか、『お気に召すまま』の男装するヒロインとか。シェイクスピア劇を彷彿とさせる要素に事欠かない。これは私がシェイクスピアに関心があるということだけではなく、カルデロンもシェイクスピアも同じ物語要素をリサイクルしながら使っているということだろう。おそらく、後発のカルデロンは、シェイクスピア以上に、たんに素朴に既存の物語要素を無批判に使うのではなく、あえてこれみよがしに使っているのである。

その結果、主人公とその恋人は、波乱万丈の人生を送る。しかもその強度が高まり、世俗性が極大化する。それはまた主人公たちの生の救済不可能性ともつながってくる。主人公は、山賊に身を落とすのだが、シェイクスピア劇とは異なり、旅人や村人を殺しまくり、義賊として擁護されたり救われたりする可能性がほとんどなくなる。彼の恋人も、修道院に閉じ込められたジュリエットのようなものだが、偶然にも修道院からの脱出に成功し、ロザリンドのように男装して、山賊となり、そして、殺しまくる。もはやこの二人に救いはないかのようにみえる。俗の極み。世俗の汚れに、とことんまみれるのである。そしてこのことは、救済を予感させる約束事をあえて廃棄することによって強調されるのである――ある意味、マニエリスム的である。そして最後に、不可能が確定的であればあるほど奇跡的な救済が訪れる――まさにバロック的に。

ただし主人公は、いくら救済から遠のくとはいえ、極悪非道な人間ではない。劇的物語と劇行為を仔細に眺めれば、主人公の不運な境遇が現在の悲惨へと彼を陥れたことがわかる。そのあたりは翻訳者の佐竹謙一氏が作品解題で、簡潔にかつ網羅的に指摘されているところで、「他の宗教劇と同様に聖と俗との要素が入り混じり、そのなかで魂の救済につながる十字架の現実離れした奇蹟が浮き彫りなる」(p.3)ために劇的展開が周到に仕組まれているのである。

ここであえて私の勝手な感想を付け加えさせてもらえれば、この山賊に身を落とし、村人や民衆の敵となって殺される主人公は、どこかイエス・キリストの生涯と似てはいないだろうか。この民衆の敵となる山賊のどこに、聖性があるのか。この世俗の汚れから逃れられなかった若者こそ、もっともイエスに遠い存在ではないか。しかし同時に、イエスの生涯を連想させる要素もある。出生の秘密と神秘。反体制的なところ。民衆の憎しみの対象となって処刑されるところなど。最後の奇蹟は、どのような罪人ですら神は見捨てないという恩寵の神秘の顕現というよりも、主人公が世俗界のイエスである可能性、主人公の容貌にイエスの面影を浮かび上がらせるものとなろう。

イエスの生涯と、この劇の主人公の短い生涯とは、陰と陽の関係、あるいは主人公はイエスの陰画である。陰画というのが、いまやそれが存在しなくなり無意味なメタファーであるというのなら、絨毯の裏と表の関係にあるというべきか。絨毯の模様は、裏と表では、印象はまったく異なるが、同じ図柄を共有している。イエスの生涯が絨毯の表とするなら、この劇の主人公の生涯は、絨毯の裏である。この劇は私たちに、絨毯の裏側の世界をずっとみせている。表はイエスの聖なる生涯。そしてこの裏側の世界は、主人公の世俗にまみれた世界。そしてそこに含意されていること、それは聖と俗とは、二つの選択肢ではなくて、同じものの両面であるということ――絨毯の表と裏――であるということだ。さらにいかえれば、俗なる世界と対立する聖なる世界というは存在しない。聖と俗とは同じものであり、俗世界は、聖なる世界でもあるということである。

イエスの生涯と主人公の生涯とはパラレルな関係にある。このパラレルな関係は、明白なアナロジーで支えられているというよりも、あるかなきかの微妙な、見過ごされ無視されてもおかしくない大雑把な、あるいは微細すぎるアナロジーで支えられている。しかし、たとえいくらそこはかとないパラレル関係であっても、パラレル関係がある以上、ふたつの世界(聖と俗)は繋がっている、いや同じものである。同じものの裏と表にすぎない。私のこの世俗にまみれた穢れた身体は、しかし、聖なる身体と背中合わせになっている。聖なる世界と俗なる世界は、別個のもの、ふたつの選択肢ではない。ひとつの選択肢。選ぶことも逃げ出すこともできない、宿命としての聖なる世界なのである。

神秘劇とは、私たちの身体が、私たちの生き様が、私たちのこの俗世間が、目を凝らせば、聖なる世界の偽装か変装か、あるいは、ただこのままで、聖なる世界かもしれないことを伝える媒体であり、それは、聖なるものの顕現あるいは聖なるもののありかを探る視力の鍛練と試練の場を提供するのである。イエスは天上に召されて神とともにいるのではない。あなたのすぐ隣にいる男女(性別は関係ない)、あるいはあなた自身(性別は関係ない)のなかに、いやそのものとして存在しているのである。
posted by ohashi at 16:59| 演劇 | 更新情報をチェックする

2022年05月07日

『十字架への献身』1

The Road Taken and Not Taken

5月6日より、オードリー・ヘプバーンのドキュメンタリー映画『オードリー ・ヘプバーン』(Audrey ヘレナ・コーン監督2020年製作)が公開されるが、オードリー・ヘップバーン主演の映画のなかで、彼女の生き様というか、彼女の晩年のユニセフ活動と直接つながっている映画といえば、『尼僧物語』(The Nun's Story 1959)であることは誰もが認めることだろう。どんなアンケートだったか忘れたが、あるアンケートで、この映画『尼僧物語』を推したら、誰も、オードリー主演の映画(とそれに類する映画)、古い時代(1950年代)の、映画芸術史・文化史に残らないような映画作品を推す者はいなくて、私の回答だけが、空気を読まなさすぎて、宙に浮いたのだが、それでもこの映画は今見ても、優れた映画で、私もリアルタイムで見るほど歳とってはいないのだが、最初に見たとき、オードリーのラブコメ映画とは全然違う、シリアスな映画に驚いたことは記憶に新しい。

もちろん欠点もある。『尼僧物語』で描かれるアフリカの世界は、当時のハリウッド映画の限界とはいえ、観ていて恥ずかしくなるようなオリエンタリズム全開で、これが今では許し難い欠陥といえるものだろう。

Wikipediaから、そのあらすじのほんの一部を引用する。

ベルギーに住む有名な医者バン・デル・マル博士の娘であるガブリエルは尼僧になる決意をし、家を出た。恋人への思いも断ち切り、修道院入りする。

修道院で志願者となったガブリエルは修道女の戒律を学び、五日後には修道志願女となり数ヶ月に及ぶ厳しい戒律生活に身を投じる。……

戦争が始まり中立国のベルギーに対してドイツ軍は砲撃を加える。しかし常に尼僧は全てに対して慈悲の心を持たなければならず、ベルギー降伏後も、尼僧は地下運動に参加してはならぬ、と厳重にいましめられる。……

そんな最中、彼女の父が……殺されたとの一報を受け取り、思いは一気に加速、葛藤の末、遂に決断する。 敵への憎しみを抑える事が出来ない。憎しみに満ちた胸に十字架をかけ続ける事は出来ない。彼女はマザー・エマニュエルに全てを語り、自分の還俗を申し出る。

尼僧の衣を脱ぎ、平服に着替えて、修道院に別れを告げて、ガブリエルは祖国・ベルギーと同胞への思いを胸に、俗世間に帰っていくのだった。


【ちなみにこの映画がアカデミー賞に複数の部門でノミネートされながら、ひとつも受賞に至らなかったことで、この映画そのものに、問題があるようなレヴューがネットにあったのだが、映画に問題はない(すでに述べたオリエンタリズムは当時の映画では不問に付されたはず)。受賞できなかったのは、『ベンハー』が多くの部門で受賞をかっさらったからだ。】

厳格な規律を守る修道院における敬虔な信仰生活をとるか、苦難にあえぐ俗世間の人々を救うことに人生を捧げるか、本来なら、この二つの願望は、対立矛盾することはないのだが、聖と俗との二項対立となって、主人公に選択を迫ることになる。

もちろん聖職者は、僧院の奥ノ院で瞑想生活に明け暮れるのではなく、貧しき人々、虐げられた人々を救済する社会活動に従事している(あるいはそれも宗教生活におけるルーティーン化している)、だから尼僧となっても、あるいは尼僧となることによってこそ、世の人々を救うことができるともいえる。

しかし現実はそうではない。聖と俗は、ますます乖離し、対立する。聖なる生活は、俗世間へ救いの手を差し伸べるものではなく、俗世間の汚れを怖れ、ますます超俗的となり、俗世間からの逃避場所にすらなっている。しかしそうなると、聖なる生活が俗なる世界へ手を差し伸べることはできなくなる。宗教は民衆からかけ離れたものとなってゆく。

みずから犠牲になっても世界を救済したいという主人公の願望は、もはや聖職者となることを許さない――本来なら、主人公こそ聖職者にふさわしい慈愛に満ちた精神の持ち主であるにもかかわらず。

聖と俗の対立は、近代社会が聖性を失ってから生じたものであろう。聖なる世界は永遠の真理を信奉する世界である。永遠の真理に従って生きるのが聖なる生活である。いっぽう俗世間にあるのは、具体的・個別的・一時的・暫定的な真理である。確かなものはなにもなく、すべてが流動的な無常の世界である。しかし近代は後者、すなわち俗なる世界を選んだ。永遠の真理など息がつまる。息がつまるどころか、個別的・具体的な事例に対してなんら対処できない。たとえ限定的で一時的なものであっても、つまり傷つきやすい真理でもあっても、それが社会問題の解決を可能にし、進化を促す原動力ともなる。叙事詩の神話的永遠の真理よさらば。小説の具体的で個別的で薄汚く俗にまみれた世界こそ、神々ではなく人間の生きる世界である。近代は小説的世界を選択した。とはつまり俗なる世界を人間の生息場所としたのである。

おそらくこれが『尼僧物語』を間接的に支える世界観であろう。聖なる世界は、人々のために尽くしたい、世界を救いたいと願う敬虔な若い女性の願望をかなえてくれる世界ではい。宗教生活はヒューマニズムの器とはなってくれないのである。

あるいは、こうも考えられる。主人公は最後に修道院を去る。そのとき音楽は流れない。ただ沈黙の画面のなかオードリー・ヘップバーンが姿を消してゆくだけである。しかし、これこそが、ある意味、宗教者の鑑ともいえる生き方である。厳格な規律や戒律にみずからを縛って、制度的機構に守られていること、それが神への奉仕だと自己欺瞞に陥っている宗教関係者よりも、僧院を去る彼女のほうがはるかに敬虔な宗教者であり、おそらく神に祝福される生き方――人びとを救う――を選択したともいえるのだから(実際、修道院に残る人びとは戦争を生き残るだろうが、修道院を去る彼女には死の運命が待っていることが暗示されているようにも思われる)。

ただし、ここまでの主張を映画は、見直してみないといけないのだが、していないように思われる。むしろ、聖と俗の対立と緊張関係こそが、人間の倫理的生き方と倫理的選択の原動力として重視されているのだ。聖と俗は通底しない。聖と俗は対立状態に入って久しい。それは平時には顕在化しないが、有事には顕在化すると映画は伝えている。べつに有事と戯れるつもりはない。有事になると可視化される緊張関係が、実は、私たちの平時の日常に隠れていることを映画は伝えているのである。

【なお、女子修道院の内部とそこでの生活がどういうものは、何も知らないのだが、この映画の力強さは、修道院生活の実際のありようを衝撃的なまでのリアルさで伝えているように観客に思わせるところがある。それは、修道院のなかの信仰生活を記録するドキュメンタリー映画製作の欲望を掻き立てるものでもあって、たとえば『大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院』(Die grosse Stille フィリップ・グレーニング監督、2005年/169分/フランス・スイス・ドイツ合作)のようなドキュメンタリー映画の嚆矢ともいえるのかもしれない。】つづく
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2022年05月03日

敵こそ我が友 2


毎日、ウクライナでの悲惨な状況が報道され、多くの人が心を痛めている昨今、4月12日の東大の入学式に映画監督の河瀨直美のスピーチを思い出すと、よく、あんな恥知らずのことが言えたものだとあきれるし、東大生に対してだからというのではなく、どこの大学生に対してであれ、あのスピーチは、大学生に対する侮辱以外の何物でもない。しかし問題は、スピーチの内容が、暴言に近いものだとか、あからさまな煽動的プロパガンダというのではなく、むしろ一見、深い真理を語っているかにみえることだ。むしろ、それのどこが問題なのかといぶかる人がいてもおかしくないくらいに。

あらためて、前回の記事の一部を繰り返させてもらうと、

東京大学公式サイトに全文が掲載されている河瀨監督の祝辞によれば、

それによると河瀨監督は、奈良県吉野町の金峯山寺(きんぷせんじ)の管長と対話した際のエピソードを紹介。管長が本堂の蔵王堂を去る際に「僕は、この中であれらの国の名前を言わへんようにしとんや」とつぶやいたと明かした。

この言葉の真意を正したわけではないとした上で、河瀨監督は菅長の思いについて以下のように想像していると話した。

<例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?>

こうした見方を紹介した上で「自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要がある」と新入生たちに訴えた。「自制心を持って」侵攻を拒否することを促していた。


「金峯山寺(きんぷせんじ)の管長」の話は、やや舌足らずで、何をいいたいのかよくわからないところもあるし、管長の言わんとするところを推測・想像しているだけであり、またそのつぶやきも、たとえ直接話法でも、ほんとうに正確に伝えられているかもわからないので、管長については一切不問にする。たとえ河瀨監督の発言を批判するとしても、管長を批判するつもりは毛頭ないことを断っておきたい。

河瀨発言における主張:「例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?」、「自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要がある」と新入生たちに訴えた。「自制心を持って」侵攻を拒否すること」というのは、一見リベラルな平和主義的主張のようにみえる。

実際、過去に他国を植民地化し、さらに帝国主義的植民地拡大のために他国を侵略したのは、ほかでもない日本である。日本の帝国主義的野望は戦後の平和憲法下においても消滅していなかったどころか、ウクライナでの戦争を機に、タカ派右翼は声高に軍備拡張を、核保有を、防衛費GDPの2パーセント増額を叫ぶしまつである。河瀨監督の言葉は、こうした右翼自民党の軍拡派に対して、おまえたち恥を知れと批判しているのだろうか。

「自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要がある」そして「自制心を持って」侵攻を拒否すること」を河瀨監督は訴えたとしたのなら、それは自民党の恥知らずな軍拡派に対しても向けられるべきである。だとすれば、河瀨発言は歴史に残る自民党批判ともなって後世に語り継がれてもおかしくはない。

だが、ほんとうのそうか。悪名高いオリンピック関係者という安倍一族のポチのひとりの河瀨監督に、そんなことができるのか。いや、そんな勇気があるのかということではなく、最初から、そんな批判など意図していなかったのである。

そもそも「ロシアという国を悪者にすることは簡単である」という主張からして、ロシアを擁護する気満々である。ただし、あからさまではない。ロシア擁護を、どの国も侵略者になる可能性があるという、ある意味、まっとうな普遍的な真実によって、批判を回避するかたちで強化しているのである。

これは、誰もが人殺しになる可能性があるから、殺人犯を無罪にせよという理屈である。誰もが万引きをしているか、万引き願望があるから、万引き犯を許せとか。誰もが異民族に対しては反感をもっているから、ナチスのホロコーストを許せというようなものである。断固として、このような理屈を容認してはならない。

杓子定規な道徳観で、人間の犯罪を断罪するのではなく、柔軟に、その原因や行為の妥当性などを慎重に冷静に考慮するというのは、文学的な姿勢でもある(文学が許す唯一の道徳主義とは、反道徳主義という道徳主義なのだから)。しかしこれは悪人を野放しにすることではなく、悪人とは何か、悪人の真実を理解すること、ひいては私たち自身を理解することを通して、悪のない未来を目指すことである。文学からユートピア志向を差し引けば、文学ではなくなる。

また両論併記(ロシアの正義とウクライナの正義)による価値の相対化、そしてこの相対化へと突破した後に、相対化を普遍化することによって、正義を相対化し、悪をなしくずしにするという、ある意味、使い古された戦略を、恥知らずな河瀨監督は堂々と披露したのである。

「自制心を持って侵攻を拒否すること」という河瀨監督の主張は、ロシアが中国が侵攻してくるという可能性を過大評価し、防衛費の増額を迫る、自民タカ派のくずどもへ冷水を浴びせかける強烈な批判たりえているのだろうか。

そんなことはない。河瀨の主張は、ロシア様、プーチン様を責めてはいけないということのなのだから。プーチン様を独裁者・侵略者・戦争犯罪者として悪人呼ばわりすること、また平和を唱え戦争犯罪を批判する耳障りなリベラルな平和主義に、「自制心を持って」訴えないことこそ重要だとというのがその主張なのだから。

そもそも河瀨の主張は、批判行為そのものを悪として断罪しているのである。だが、そうなるとプーチンを刺激したNATO拡張主義への批判も禁ずることになるし、NATO諸国のみならず日本の、さらには北朝鮮や中国による、戦争を長引かせて軍備拡張の口実にすることで、覇権主義を助長する行為にも目をつぶることになる--「敵こそ我が友」、そうプーチンによる戦争はありがたいものなのだ(ウクライナ市民は虐殺に耐えてもらうしかないちおうことであろう)。

あるいは悪・対・善、不正・対・正義の二項対立をくずし、みんな悪人だから、悪は存在しない、悪の断罪は愚かだという河瀨の主張は脱構築的批判の展開ではないかと思われるかもしれない。だが、特定の悪人はいない。みんな悪人だ。悪人をでっちあげて、自分は善人だと安心しているというのは、脱構築的批判ではなくた、ただ、それだけのことである。

脱構築的批判というのは、おそらくこうなる。プーチン一人を悪人とし、ロシアを悪辣な侵略者として祭り上げることで、自分を正義の味方と安心しているという河瀨の主張は、それ自体、ロシアを一方的に批判することが悪、冷静に自制心をもってロシアだけを非難しないことが善であるという、誰にもわかる二項対立に依拠しているのであって、悪を存在させることで安心しているのは河瀨自身であり、こんな奴に、悪を存在させて安心しているなどと批判されたくはない。

それもまた河瀨という悪を存在させていることで安心しているのではということに対していえば、悪を存在させることなくして、私たちはなにも判断できないのである。悪を存在させなければ私たちは一歩も動けない。だから悪を存在させることは必要悪である。ただそれが必要悪であること、悪は常に捏造されることを自覚し、自制心を持って、みずからの判断と行動を律することは重要である。そうでないならば、つまり悪を存在させて安心している者は愚かであり、自分はそのような愚か者ではないという無自覚こそ、極悪そのものである。結局のところ、自分の悪辣さを無自覚で、大学生にご託宣を述べている河瀨こそが、悪を措定して安心している張本人であり、こいういう無自覚な愚か者に偉そうな口をきいてほしくない。

もし河瀨に希望を託すなら、ウクライナをナチスと同一視し、そんな誰が見てもありえない悪を存在させて安心しているプーチンにこそ、河瀨は、その「悪の捏造による安心理論」をぶつけるべきではなかったか。まあ安倍一族の河瀨には最初から無理だっただろうが。

posted by ohashi at 09:38| コメント | 更新情報をチェックする

2022年05月02日

『ハードコア』

映画.COMの映画紹介

『ハードコア』Hardcore Henry(2015) 劇場公開日 2017年4月1日

サイボーグ化された男性が愛する妻を救うべく壮絶な戦いに身を投じる姿を、主人公の一人称視点のみで描いた新感覚アクション。ロシア出身の新人監督イリヤ・ナイシュラーが制作したプロモーション映像がネット上で大きな反響を呼び、クラウドファウンディングによって長編映画化が実現。2015年トロント国際映画祭のミッドナイト・マッドネス部門でプレミア上映され、ピープルズチョイス・ミッドナイトマッドネス賞を受賞した。見知らぬ研究施設で目を覚ましたヘンリー。彼の身体は事故によって激しく損傷しており、妻と名乗る女性エステルによって機械の腕と脚が取り付けられる。さらに声帯を取り戻す手術に取り掛かろうとした時、施設を謎の組織が襲撃。脱出を試みたもののエステルをさらわれてしまったヘンリーは、超人的な身体能力を駆使して救出に向かう。「第9地区」のシャルト・コプリー、「イコライザー」のヘイリー・ベネット、「レザボア・ドッグス」のティム・ロスらが出演。
2016年製作/96分/R15+/ロシア・アメリカ合作


コロナ過直前の日本の映画館でみた、最後ではないが、最後から数番目の映画だった。評判の映画で、面白い映画ではあったが、不満も残った、というか、一人称映画から予想されるような驚異の感覚はあっても、閉塞感すらあり、解放感はなかった。まさにそこが問題であった。

一人称映画の古典は、1947年、ハードボイルド小説の第一人者であるレイモンド・チャンドラーの原作を映画化した『湖中の女』であり、探偵のフィリップ・マーロウの一人称語りの小説のスタイルを、そのまま映像化した作品。評判はよくなかったと聞いている。その映画を観ていないので、不人気の理由はわからないが、今回の『ハードコア』をみて、なんとなくその理由がわかったような気がした。

ちなみに『ハードコア』をPOV映画といって、POVに「一人称」と訳語をつけているバカがいるが、POVはPoint of Viewの略で「視点」という意味。文学研究でも使う、けっこう由緒正しい用語。映画の場合、特定の人物の視点で映像を構成することで、「視点映画」といって、英語でもPOV movieと言ったりする。しかしPOV=一人称ではない。もし特定の人物の視点による映像が、映画全体にみられるとき、それが一人称映画ということになる。

【ちなみに監督はインスピレーション源となった映画は『ストレンジ・デイズ/1999年12月31日』(キャスリン・ビグロー監督1995)だと言明している。ある映画紹介によると、この映画は「他人の五感を記録し、第三者に疑似体験させるバーチャル装置「スクイッド」をめぐって、元警官が陰謀に巻き込まれていく近未来サスペンス。冒頭の約3分30秒に及ぶPOVショットが見どころのひとつといっていい」とある。とはいえ、POVショットは一部だけ。また、映画のなかの元警官の主人公を、レイフ・ファインズ(『シンドラーのリスト』とか『イングリッシュ・ペイシェント』の頃の)が演じていたと聞くと、観たくなるでしょう、私は20世紀に観た。キャスリン・ビグロー監督の、ある意味、絶頂期の映画で、私は、いくらジェシカ・チャスティンの力演があったとはいえ『ゼロ・ダーク・サーティ』以後、キャスリン・ビグロー監督作品は見ていないのだが(いや嘘だった、『デトロイト』は観た)。この『ストレンジ・デイズ』は、今なお高く評価されてもおかしくない映画。】

実際、この『ハードコア』のジャンルは英語でいえばThe First Person Action Filmである。強いて言えば、全編、一人称による視点映画ということになる。

問題は、面白い映画とはいえ、一人称性から得られる主人公との一体感がないということだった。ロール・プレイ・ゲームのようなものと考えればいいといっても、ロール・プレイ・ゲームではない。

なぜならロール・プレイ・ゲーム、もっといえば、ファーストパーソン・シューティングゲーム(First-person shooter、略称FPS)で、次々と襲ってくるゾンビを自動小銃とかレーザー銃で殺しまくっているのは、私自身である。他の誰でもない。正確にいえば、ゲーム世界のアバターと私とが一体化する、あるいはアバターに私が憑依して動いているということになるが、ゲームではアバターの姿かたちはまったくわからないというか、それは私自身と同じかたちと想定できるので、ゲーム世界で行動している人物とプレイしている私は同一である。

なぜ、そんなことをいうかというと、この映画のなかで観客である私は、あるいは観客の一人一人は、主人公の内側に入るというか主人公と一体化するのだが、その主人公がどんな姿形をしているかわからないために、もどかしさのみ残る。あるいは捕らわれ感、閉塞感のみが残る。

つまりFPSで戦っているのは私だが、映画のなかで戦っているのは私ではない。なぞの人物ヘンリーであり、私は、そのヘンリーのなかに捕らわれていて、何もできないまま、ただヘンリーの暴走をみているしかない。エヴァの乗っているシンジ君よりも、ひどい境遇である。

映画ではカメラが主人公の眼となって、主人公の前面というか主人公が顔をむける前面しか見えない。主人公の顔は、鏡面となっているものに反射した像が時折ちらりとみえることがあるが、それ以外に、主人公がどんな顔をしているのか知る手掛かりはない。つまり主人公の顔や、主人公の姿かたちはわからない。

だが一人称映画だから、それはしかたがない。あなた自身だって、鏡か、それに類するものがなければ、自分の顔も、自分の姿かたちもわからないのだからと、言われるかもしれない。実は、それは違う。なるほど、私は自分の前面しか見えないのだが、自分の顔や姿かたち、後姿だって知っている。鏡や写真やその他の手段によって、自分の全体像は直接自分の眼で見ることはできなくても、想像はできる。

なるほど、その想像は、ひとりよがりななもので、自分では、やせ形の長身で姿勢のいい、また温和な表情の知的な雰囲気をたたえた紳士だと自分のことを想像していても、他人に眼からみれば、猫背で変な歩き方をする険しい顔つきのサイコパス的な中年の親爺であるということはある【これは私自身も含めて、特定の人物を念頭に置いた描写ではない】。自分で想定している自己像(往々にしてそれは理想化されているか、逆に実際よりも劣化したものかのいずれかだろうが)と他人の眼からみた姿とは、ずれる、それも大きくずれることは多い。だが、それでも、私は自分の全体像を知っている、あるいは全体像を持っていると言ってもいい。

したがって私の自己像とは、前方のみの現実像と全方位から俯瞰的にもみられた虚構像からなりたっている。そこから私たちの現実は、リアルなものとフィクションから出来ているともいえる。このフィクションは自分勝手な妄想かもしれないものも、私たちの世界観の重要な構成要素である。

そのため、私は、たとえばトム・クルーズ主演の映画をみて、自分とトム・クルーズを一体化させることができる。自分が持っている全体像を、トム・クルーズのイメージに置き換えればいいのである。正確なところ、私は、この世界で一人称で生きていない。一人称的VOPで生きてない。私は。この世界で、「私」という名の三人称で生きている。

よく小説の語り手は傍観者(三人称小説)か共犯者(一人称小説)かのいずれかである言われるのだが、この二者択一は存在しないかもしれない。私たちは、自分自身に対しても、共犯者であると同時に傍観者でもあるのだから。【なおこれは犯罪の傍観者は、犯罪の共犯者と同じというような議論とは全く違う】

私は、前方しか見えない限定的視野をもって生きているのではなく、自分自身を全方向からみながら、またさらに自分自身を俯瞰的にもみながら生きているのである。繰り返すと、私のもつ私とは三人称なのである。だから三人称映画のトム・クルーズのほうが私には一体化しやすい(実際にほんとうに一体化するかどうはべつにしても)。これに対し、姿かたちもわからず、顔つきもわかない人物に私が一体化できるわけがない。むしろ私は、その得体のしれない人物の身体という牢獄のなかに閉じ込められ苦しむという閉塞感しか抱かないだろう。一体感はむりである。

この映画では、主人公は、顔がわからない(クレジットされているのはスタントマンの名前だけである)。また記憶喪失にもなっていて、どんな過去をもち、どのような人格かもわからない。さらに主人公はアドロイド的な超能力ももっているらしい。そして敵方のテレキネシスによって無理やり宙に浮かばされたりする。もう、どうなっていることやら。こんな人物に観客はどう一体化できるというのだろう(繰り返すと、私はスーパーマンやスーパーガールに一体化できる。たとえ地球人でなくとも、その姿かたちが可視化され、その来歴や性格を示す物語的提示がなされている三人称映画のなかでなら一体化はできるのである)。

ここにこの映画とその不満とがある。この映画において、スクリーン上の映像は、観客ひとりひとりの視界と完全に一体化しているのに、観客は、それを自分個人の私的視界にできなくて、一歩引いて、あるいは眼球を身体内へと180度回転させて、自分はどんな人物のなかに閉じ込められているのだろうと、自意識的に思索を始めるのである。観客の視界が映画の視界と一体化することはない。映画理論でいうと、観客の眼差しが、映画のカメラの視界に縫合(スーチャー)されることはないのである。

では、この映画はいったいどういう映画だったのか。

Wikipediaにおけるストーリー紹介を引用する。とはいえ予告編のようなストーリー紹介でしかないが。

近未来。主人公であるヘンリーはロシア高空に存する研究施設で目を覚ます。極度の重傷を負い、記憶を失っていた彼はエステルという自分の妻を名乗る女性によってサイボーグ手術が施され、切断された手足の修復などが行われていた。

失った声帯の修復が行われようとしていた矢先、研究所がエイカンという念力を扱える男と重武装した彼の部下たちによって襲撃され、ヘンリーはエステルと共に地上に脱出するも待ち構えていたエイカンの部下によってエステルは拉致され、自分は追われる身となる。 声帯を失っており、声すら出せず訳もわからない状況で彼はジミーという男に窮地を救われる。エイカンの部下の追撃によってジミーはすぐに死亡してしまうが直ぐに全く性格の違うジミーが現れ、ヘンリーをサポートする。

ジミーは過去にエイカンの元で働いていたがエイカンの手によって全身麻痺の後遺症が残るほどの重傷を負い、復讐のために自分のクローンを量産していたのだった。

ジミーの話でエイカンが死人をサイボーグに改造して量産することで世界を牛耳ろうと目論んでいたことを知ったヘンリーはジミーと協力し、エステルを奪回するためにエイカン一味に戦いを挑む。


と、まあ、こんな物語を展開するのがこの映画だが、映画表現としては、これもWikipediaによれば、

ほぼ全シーンが主人公・ヘンリーの視界として、スタントマンの頭部に固定されたGoPro Hero 3を用いて撮影されているため、主演男優・女優のクレジットはない。監督のナイシュラーもスタントマンを務めた。


とあって、この映画では、名もなき、顔もなき、姿なきスタントマンがブランドスポットであり影の主役あるいは中心なのである。この見えないスタントマン、いやスタントマンは見えているのだけれども、それはたとえば主人公の身体として認識されるだけで、スタントマンの身体は見えないまま、まさに見えないスタントマンに、観客は一体化するのである。つまり一体化できない者に私たちは一体化させられる。こうして映画は、演技者のものからスタントマンのものへと移行する。その意味で、もしかしたらスタントマンが主役となった世界ではじめての映画なのかもしれない。

ちなみにスタントマンが主役のテレビドラマシリーズがあり日本でも放送された。『俺たち賞金稼ぎ!!フォール・ガイ』(The Fall Guy)。アメリカでは1981年10月4日から1986年5月2日まで全5シーズン112話が放映された。

日本では1984年にシーズン1が、1990年にシーズン2が放送されただけである。本職は映画のスタントマンだが、開いている時間に賞金稼ぎをしているという設定で、主役はリー・メジャース(『600万ドルの男』)だった。タイトルのTheFall Guyだが、辞書などでは「だまされやすい人、カモ」「人の罪を追わされる人、スケープゴート、身替り」とい語義が説明してあるが、身替り=スタントマンということなのだろう。フォール・ガイと聞いて、いきなりスタントマンを思い浮かべる英米人はいないと思うが、スタントマンならフォール・ガイだと連想する英米人はいるのかもしれない

なおfall guyの正確な語源は不明だが、fallは「落下」とか「秋」とは関係ないらしい。だが、たとえそうでもスタントマンは落ちる人間なのである。

たとえばターセム・シン監督の『落下の王国』(The Fall,2006)は、重傷を負ったスタントマンの男性が、同じ病院で治療中のオレンジの木から落ちて腕を骨折した少女に語る、悪と戦うスーパーヒーローの物語を描いたもの。少女はお転婆で木から落ちて大怪我をしたのではない。オレンジ収穫のために子供でも危険な作業に駆り出されるのだ(あるいは子供だから高い木に登らされ働かされる)。そう、カリフォルニアにおける二大産業、映画とオレンジ、この二つの産業の犠牲者・負け犬たち――半身不随となったスタントマンと移民労働者の子ども――が、絶望の淵で、ファンタジーを紡ぐことでかろうじて希望をつなぎとめる。まさに涙なくしては観ることができない映画だった。

ここかわかるのは、スタントマンと落下はつながっていることだ。そもそも高所からの落下というのは、よくある危険なスタントである(また映画自体が上下運動、落下運動を組織あるいは演出することを映画的特質とみなしている――ある意味、映画は〈落下の王国〉なのだ)。事実、映画の草創期、多くのスタントマンが落下のスタントで命を失ったり大怪我をしたことが伝えられている――『落下の王国』もまさに、映画の暗黒史に材を得ているのだ。

『ハードコア』の主人公ヘンリーはどうか。彼は記憶を失ったまま実験室で目覚めるが、その実験室は飛行中の航空機のなかにあることがわかり、そこを襲撃されることで、地上へと落下する。これが映画の始まりだった。主人公は落下する男、フォーリング・ガイなのである。そして続くめまぐるしいアクションの連続では、落下運動、あるいは浮遊運動が大きな割合を占める。

すでに述べたように、観客は、この主人公と一体化させられるのだが、主人公の顔も姿かたちもわからないので、一体化はかなりむつかしい。しかし、顔も姿かたちもわからない存在こそ、スタントマンのありようであって、観客は、主人公と一体化できないが、スタントマンとは、メタフォリカルなかたちで一体化するのである。身体のイメージなき自己像を得ることによって。

この映画は、スタントマンが主役である。

なぜなら、この映画は、GoPro Hero 3を頭部に付けて動きまわる、落下したり、はじきとばされたりするスタントマンのパーフォーマンスなくして完成しなかったのだから。ただし、その一人称性は、疑似一人称性でもあって、現実における私たちの自己認識とは異なるために、観客は、自分が超人的な能力を発揮して敵を倒すというようなイリュージョンを抱けない。また観客は自分の顔や姿かたちをイメージとして与えられないため、自己の身体からは疎外される。この疎外感はまた、身体的存在でありながら自己の身体を認識されないスタントマンの悲哀ともつながる。

つまり観客は物語の主人公(スタントマンが身替りになっている)とは一体化できないが、そのことによって、主人公の身替りであるスタントマンとは一体化しているのである。

この映画は、もうひとつの「落下の王国」である。この映画はスタントマンが描き、作り上げていると同時に、スタントマンを描き、作り上げている。ある意味、スタントマンが作り上げてきた影の王国、落下の王国、映画の王国を浮上させたのでる。
posted by ohashi at 23:14| 映画 | 更新情報をチェックする

2022年05月01日

『恋人の嘆き』セカンドチャンス 3

シェイクスピアの詩のなかに『恋人の嘆き』(A Lover’s Complaint、1609)と題された物語詩がある。ある意味、難解で、またシェイクスピア劇の台詞の韻文とも異なり、作者についても以前はシェイクスピア以外の詩人が想定されていて、問題作ではあるのだが、しかし、現在では、シェイクスピアの真作品(Canon)とみなされ、研究もすすんでいる。

実は、日本においては、単行本からネット上に挙げられているものまで数種の翻訳があり、研究も盛んである。

私にとって、この作品を読むときに欠くことのできない文献は、以下のものである。

高松雄一/川西進/櫻井正一郎/成田敦彦(著)『シェイクスピア『恋人の嘆き』とその周辺』、英宝社、1995年


これは、1991年の日本シェイクスピア学会におけるパネル・ディスカッションをもとにして、参加者4人の本格的論考4編と、シェイクスピア『恋人の嘆き』の原文とその翻訳と注釈(成田篤彦訳)、さらに関連作品を二篇の原文と翻訳(成田篤彦・櫻井正一郎訳)を、巻末に加えた、きわめて充実した内容の本であり、『恋人の嘆き』について原文から解釈・批評まで深く知ろうと思えば、これ一冊で済むという有益かつ貴重な本である。執筆者も、私にとっては、仰ぎ見るような大先輩方えある(というか先生にあたる方々である――高松先生の授業には出たのだが、ほかの方々もチャンスさえあれば、私が受講生であったとしてもおかしくない方々)。そして四半世紀前の本とはいっても、決して色褪せてはいない。

【なお、本書において、「当時にあっても、強固なカトリックの信者はいたが……表立った組織としてのカトリシズムはもう存在していなかったと見ていいだろう」(p.14)という一文があるのだが、現在のエリザベス朝文学・演劇分野におけるカトリシズム研究の復興と人気を知っている読者は、ここまで言い切れるものではないと批判するかもしれないが、1995年当時は、この認識でよかったし、まただからといって全体の論や解釈が古くなったということは全くないのである。】

さらにもうひとつ特筆すべきは、私が持っている物理的にも色褪せてないないこの本は、高松雄一・川西進・成田篤彦の連名で、献本していただいたことである。櫻井正一郎氏は、高名な研究者で名前はもちろん存知あげているが、個人的に面識はないので、献呈者に名前がなくても不思議ではない。

そのどこが特筆すべきかといわれそうだが、実は、今だったら、高松雄一・川西進・成田篤彦の三氏は(高松先生は亡くなられたが)、私に本を贈ろうとはされなかったと思うからだ。べつにこの三人の大先輩に不義理をしたとか喧嘩したとかいうことではない。1995年には私は前途あるシェイクスピア研究者だったかもしれないが、2022年の私は、前途もなければ、シェイクスピア研究者でもなくなっているからである。

それはともかく、この詩がどういう内容なのかについて、成田篤彦氏によれば、作品の構成は次のようになる。

1-4 詩人は娘の嘆きの声を聞き、身を横たえてこれに耳を傾ける。
5-56 娘の登場。詩人による取り乱した娘の描写。
57-60 「近くで牛に草を食ませる老人」の登場。詩人による老人の紹介。老人、娘に近づきわけを尋ねる。
71-84 娘、愛を与えた若者に裏切られた嘆きを老人に語る。
85-147 娘による若者の描写。若者の外見・立居振舞の美しさ、乗馬に秀でていたこと、弁舌が巧みであったこと、多くの娘に慕われたことが語られる。
148-177 若者が不実であることがわかっていながら、余りにも巧みな弁舌に騙されたことに対する娘の嘆き。
177-280 その巧みな弁舌を駆使した口説きが、若者自身の直接話法の形で示される。
281-329 再び娘の口から、若者がいかに偽りに満ちつつもいかに魅力に溢れていたか、またその魅力を前にすれば、自分は再び道に迷いかねないことが告げられて、作品が終わる。
『シェイクスピア『恋人の嘆き』とその周辺』pp.70-71.原文の漢数字は算用数字に変えた。


Wikipediaの説明はひどすぎるので、成田氏の簡潔にして要を得たこのまとめで、内容について理解していただけると思う。

この詩の最大の問題は、その最後である。「再び娘の口から、若者がいかに偽りに満ちつつもいかに魅力に溢れていたか、またその魅力を前にすれば、自分は再び道に迷いかねないことが告げられて、作品が終わる」というのは、この娘、自分を騙した男を恨んでいるようにみえて、そうではなく、また騙してほしいと願っているようなのだ。経験から何も学んでいない。学ばないどころか、騙され悲嘆に沈むことに快感すら覚えているようなのだ。

成田篤彦氏の翻訳で、その最後の部分をみてみたい。

「……
あゝ、私は穢れてしまった。でも、わたしはわからない。
今一度、こんなことがあったら、わたしはどうするだろう。
あゝ、あの目に宿る穢れた雫、
その頬に輝く偽りの炎、
心臓から轟く作りものの雷鳴、
空ろな肺腑の吐く悲しげな吐息、
本物らしくは見えるが、借り物にすぎぬ
あの人のすべての仕種が、
欺かれた者を再び欺き、
悔い改めた者を再び迷わせる。」(321-329)


これで終わり。これは「饅頭怖い」みたいな話で、男が、ひどい奴だと嘆いているこの女性は、ほんとうは、いまもその男が好きでたまらないというか、そもそも騙されてもいないし、ふられてもいないのではないかとも思われる。ただストレートに気持ちを伝えることがはばかれるので、好きだというかわりに嫌いだと言い、素晴らしい人だというかわりに偽物の不実な詐欺師と嘆いてみせているにすぎないのではないか。

この解釈もありだと思うのだが、ただ、この方向に進み過ぎると、たとえばレイプされた女性が、実は、ほんとうはレイプして欲しかった、自分にはレイプ願望があるのだと告白して、男性の性暴力を許容してしまうような、悪辣な男性中心主義、セクシズム的主張へと陥りかねない。実はシェイクスピア自身、たんに男性だけを悪者にして安心する姿勢【©河瀨直美】を批判し、女性だって男性の詐欺行為や暴力の犠牲者ではなく、共犯者だと、まさにセクシズム的主張を展開する寸前にいるのかもしれない――たとえそのようなシェイクスピアは読みたくないと思っても、それが冷厳な事実かもしれない。

この可能性あるいは危険性は常に念頭に置きながらも、ここまで、セカンドチャンスとしえ考えてきた願望・行為からも、この詩の最後に、あらあれる女性の、あのすばらしいしい誘惑の日々、騙されつづけた偽りの愛の日々よ、もう一度という、ある意味唐突に表れる願いについて、考えることができるのではないか。

セカンドチャンス論(論とは言えない、ただの覚書程度のものだが)のなかで、例としてあげたのは、「浮気者型の男女を恋人にした男女が、次も同じような浮気型男女を恋人にすることが多いのはなせか」、それは「セカンドチャンスを狙っているからである」。「一度は失敗したが、二度目は自分でコントロールして裏切られることがないようにできると自信をもつのである」と。ならば『恋人の嘆き』のこの女性も、もう一度、あの人に誘惑されたい、恋も二度目なら、騙されているとわかっていながら、相手と戯れることができる、相手に復讐できるかもしれないし、冷静に燃え上がることもできる……。と考えているとみることはできる。もちろん、逆に、ふたたび手玉にとらえることになるのだろうが。

そう、そんなにうまくいくはずがない。どうせ、二度目も裏切られ苦汁をなめる。はたからみていると、浮気するに決まっている男、軽い気持ちで誘惑しているにすぎない男、恋人にしたら絶対に裏切られるに決まっているこんな男を、『恋人の嘆き』の女性は、相手の不実を嘆いたうえで、なぜ最後の土壇場になって、恋焦がれているのだろうか。最初の失敗から逃げるだけで克服はできない。相手を屈服させてこそ、勝利といえるのである。もちろん結果は眼に見えている。二度目だが三度目だろうが、裏切られつづけるだろう。最初は悲劇、二番目は喜劇どころか茶番となる。

ここで同じことは賭け事に言えると考えた。賭け事にはまる人間は、次こそはと、賭け事をやめる気配はなく、毎回、次は勝てると思いつつ、負けてゆくのである。それはビギナーズラックにみられるような成功体験があって、それが忘れられなくて賭け事にはまるともいえるのだが、しかし基本は失敗があって、次は成功するという思いで、失敗し続けるのである。ビギナーズラックあるいは成功体験とは、失敗が原動力となっている倒錯性を隠蔽する口実にすぎない。『恋人の嘆き』の女性も、あのすばらしい誘惑の日々よ、もう一度と願っているからにみえるのだが、実は、もう一度、騙されて苦しい思いをしたい、悲嘆にくれる日々をもう一度繰り返したいと願っているのではないか。悲劇や悲哀の克服ではなく、その反復を願っているのではないか。まさに文字通りに。最初は悲劇、二番目も悲劇。No悲劇、No人生。

賭け事の場合も、運よく成功して大金を獲得したときこそ、危機が訪れる。損失を取り戻して願いがかなったのだから、賭け事をやめる潮時となる。だが、それこそが最も恐れ、最も望まなかったことであって、再び賭けをはじめ、失敗しつづけ、せっかく獲得した大金もすべて失ってしまう。こうしてギャンブル中毒になる。しかし、この世俗の沼に沈んだようなギャンブル中毒こそ、世俗に穢れたものであるからこそ、マイナス面が一挙に裏返るような敬虔な信仰への回路である。あるいは同じことの表裏ともいえるものである。

男に捨てられても懲りることなく再び男に捨てられ続ける女、捨てられる人生が常態となるマゾヒズムの倒錯性こそ、信仰のありようと似ている。負け続けなければ満足しないがゆえにギャンブル中毒になる人間のありようは、裏切りと懐疑にさいなまれつつも、あるいはそうであるがゆえに、神を信じ続け、救世主の到来を希求する信仰者のありようと似ている。もし宗教とか信仰を馬鹿にしようと思う者がいたら、このギャンブル中毒の例を、また捨てられるのが嬉しいマゾ女の例を出すだろう。だが、それは神への冒涜であるとともに、最高の強度に到達する信仰のありかたでもあって、信仰者は、このメタファーを否定はしないだろう。そこが宗教のむつかしさであり、一筋縄ではいかない深みなのである。賭博は神聖であり、恋人の嘆きは信仰という絶望のメタファーそのものなのである。

実はシェイクスピアの長詩『恋人の嘆き』で使われている語句には宗教的意味を含意するものが多いことは、つとに指摘されている。『シェイクスピア『恋人の嘆き』の周辺』でも、丁寧な語注によって、あるいは論考によって、このことは指摘されている。この詩は、いろいろに解釈できようが、一つの解釈は、神と人間の関係、信仰のありようをめぐる省察であり、それがプレイボーイに捨てられたおぼこ娘の嘆きという下世話の極致の物語をとおして語られるのである。そう、下世話の極致が神聖なものとつながっている。それは絨毯の表と裏の図柄と同様に、どんなにかけ離れているかみみえて、同じ図柄を、同じ構造を共有しているのである。

『恋人の嘆き』は、そのまさに結びの複数行――偽物の男にまた騙されたい、惑わされたいと願う、愚かな娘の不条理な願望の吐露――で、女性の経験全体を絶望的かつ倒錯的な信仰へと変換するといってよい。いや、絶望的かつ倒錯的な信仰があるのではない。そもそも信仰とは絶望的かつ倒錯的であって、プレイボーイに愛されたいと願う、愚かな娘との関係こそ、神と人間との典型例であることを、この詩は伝えようとしている。

【なおプロテスタントの読者は、この詩に、そこはかとなく漂う信仰へのメタ視線を感じとって、宗教性もこの詩の一部であることを認識するだろうが、カトリックの読者は、ここに見捨てられた女性の嘆きと誘惑された日々への回帰願望のなかに、カトリック信徒が置かれている苦しい立場や苦難の嘆きをみるかもしれない。】
posted by ohashi at 23:18| エッセイ | 更新情報をチェックする