本日、テレビでも紹介されていたが、京都大学で行なった研究で、犬は飼い主の敵からはおやつをもらうのを拒否するが、猫は、そのような習性はないという。ただし、ネット上では、この研究を紹介する記事があり、その日付が2021年11月15日とあって、実験は昨年にことだったようだが、犬は飼い主に否定的・敵対的に接する相手を避けることがわかったという。これぞ人間に忠実な犬の力。犬は人間の友達であり、また人間の守護者でもある。まさに、これぞ犬の力。
しかしカンピオン監督の映画のタイトルである「犬の力」とは、聖書からの引用で、実は否定的な意味をもっている。手元にある新共同訳聖書の『詩編』22:21には
わたしの魂を剣から救い出し
わたしの身を犬どもから救い出してください。
とあって、残念ながら、「犬の力」とは訳していないのだが、出典はここ。本のタイトルなどにも使われる「犬の力」という表現を保存しておいてほしかった。欽定訳聖書AVでは
Deliver my soul from the sword; my darling from the power of the dog.
ああ、「犬の力」。しかし、この邪悪な犬の力というのは、狼とかハイエナのような人間とは敵対し群れをなして生息するイヌ科の動物であって、人間に飼われている犬ではないだろう。
そもそも聖書は、犬にはきつくあたっている。聖書における犬のイメージは、決してよいものではない。犬好きの人間なら、邪悪な力を言わんとするとき「犬の力」とは絶対に言わないだろう。
しかし例外もある。犬に冷たい聖書のなかで、犬が人間の友として描かれる物語がある。旧約聖書の外典である『トビト書』である。
これは、たとえば犬というのはプログラム化された機械仕掛けのおもちゃみたいなもので、共感なり同情の対象ではないと言い放ったデカルトが、実は、犬を飼っていて、散歩の友にしていたとか、その著作で犬について否定的なコメントしか残していないフロイトが、チャウチャウ犬を飼っていて、犬といっしょの写真が残されていることなどを知ると、別に犬派でもなんでもなくても、何かほっとするような気がするのと同じかもしれない。
同じことは聖書にいえて、犬に風当たりが強い聖書のなかで犬が登場する物語は、なにかほっとするものがある。『トビト書』とは、
旧約聖書外典の一つ。セプトゥアギンタ (ギリシア語訳) とウルガタ訳聖書には含まれている。著作年代については前 350~後 138年にわたって多くの説があるが,前 170~150年頃に書かれたとするのがほぼ妥当であろう。場所としては小アジアのアンチオキア,あるいはローマ,あるいはアレクサンドリアのディアスポラのユダヤ人社会と推定される。内容は殺された同胞を埋葬するなどの善行にもかかわらず盲目になったトビト,結婚初夜に次々と7人の夫が悪魔に殺された彼の親族の娘サラ,父トビトの命でサラのもとに行き,天使ラファエルの助けでサラとめでたく結婚する息子のトビア,トビトの目の回復などの物語を中心に死者の埋葬,逆縁の掟,敬親,施しなどをすすめている。【ブリタニカ国際大百科事典】
とはいえ犬が登場するのは『トビト書』のなかの次の箇所
……こうして、二人は父に別れて旅立った。そのとき、トビアスの犬も彼らについて行った。5:16
……二人が一行に先立ってすすんで行くと、犬も後からついて走った。11:4
「トビト書」新見宏訳、関根正雄訳『旧約聖書外典 上』(講談社文芸文庫、1998)所収、p.171、184.
え、これだけ。これでは、犬がどんな性格で何をしたのか、わからない。そもそも、犬について、とりたてて何かが書かれているわけではない。しかし後年、この物語が絵画として描かれたとき、画家たちは犬を忘れたり無視したりはしなかった。
【ちなみにトーマス・マンも忘れていなかった。その短篇「トビーアス・ミンダーニッケル」‘Tobias Mindernickel’を読めばわかる。ただし『トビト書』のような心温まる奇跡的物語ではないので、読むとき取扱い注意。】
この二点の絵画は、『トビト書』の物語を描いたものだが、片隅に犬が描かれている。犬に冷淡な聖書において、犬が脇役として存在を誇示しているのは――たったこの程度でも――奇跡とは言わないが特筆に値する。トビアスの犬は、大天使ラファエルの旅の仲間となり、奇跡を目撃する、忠犬であり、うがった見方をすればトビト、トビアス親子もまた、神の忠実な僕=忠犬だし、それをいうならラファエルもまた忠犬であろう。聖書が描こうとしなかった、肯定的な「犬の力」がここにある。
ロンドンのナショナルギャラリー所蔵のこれも『トビト書』を描いた『トビアスと天使』と題された絵画。アンドレア・デル・ヴェロッキオ(英: Andrea del Verrocchio, 本名 Andrea di Michele di Francesco de' Cioni 1435年頃- 1488)作。
ヴェロッキオ? 誰だと思うかもしれないが、レオナルド・ダ・ヴィンチが若かりし頃、人気のあった画家で、レオナルドは、その工房で働いていた。左下のふわふわとした毛並みの犬は、レオナルドが描いたと推測されている。もしそうなら、これは部分的であれ、レオナルドが描いた最初の絵画なのである。おそらくその犬は、絵画の注文主が、フィレンツェで飼っていた愛玩犬だったかもしれない。