2022年04月28日

犬の力

ジェーン・カンピオン監督のアカデミー賞作品賞受賞映画『犬の力』のタイトルは、一見するとポジティヴな意味にとれる。犬のもつ優れた能力が暗示されているかにみえる。

本日、テレビでも紹介されていたが、京都大学で行なった研究で、犬は飼い主の敵からはおやつをもらうのを拒否するが、猫は、そのような習性はないという。ただし、ネット上では、この研究を紹介する記事があり、その日付が2021年11月15日とあって、実験は昨年にことだったようだが、犬は飼い主に否定的・敵対的に接する相手を避けることがわかったという。これぞ人間に忠実な犬の力。犬は人間の友達であり、また人間の守護者でもある。まさに、これぞ犬の力。

しかしカンピオン監督の映画のタイトルである「犬の力」とは、聖書からの引用で、実は否定的な意味をもっている。手元にある新共同訳聖書の『詩編』22:21には

わたしの魂を剣から救い出し
わたしの身を犬どもから救い出してください。


とあって、残念ながら、「犬の力」とは訳していないのだが、出典はここ。本のタイトルなどにも使われる「犬の力」という表現を保存しておいてほしかった。欽定訳聖書AVでは

Deliver my soul from the sword; my darling from the power of the dog.


ああ、「犬の力」。しかし、この邪悪な犬の力というのは、狼とかハイエナのような人間とは敵対し群れをなして生息するイヌ科の動物であって、人間に飼われている犬ではないだろう。

そもそも聖書は、犬にはきつくあたっている。聖書における犬のイメージは、決してよいものではない。犬好きの人間なら、邪悪な力を言わんとするとき「犬の力」とは絶対に言わないだろう。

しかし例外もある。犬に冷たい聖書のなかで、犬が人間の友として描かれる物語がある。旧約聖書の外典である『トビト書』である。

これは、たとえば犬というのはプログラム化された機械仕掛けのおもちゃみたいなもので、共感なり同情の対象ではないと言い放ったデカルトが、実は、犬を飼っていて、散歩の友にしていたとか、その著作で犬について否定的なコメントしか残していないフロイトが、チャウチャウ犬を飼っていて、犬といっしょの写真が残されていることなどを知ると、別に犬派でもなんでもなくても、何かほっとするような気がするのと同じかもしれない。

同じことは聖書にいえて、犬に風当たりが強い聖書のなかで犬が登場する物語は、なにかほっとするものがある。『トビト書』とは、

旧約聖書外典の一つ。セプトゥアギンタ (ギリシア語訳) とウルガタ訳聖書には含まれている。著作年代については前 350~後 138年にわたって多くの説があるが,前 170~150年頃に書かれたとするのがほぼ妥当であろう。場所としては小アジアのアンチオキア,あるいはローマ,あるいはアレクサンドリアのディアスポラのユダヤ人社会と推定される。内容は殺された同胞を埋葬するなどの善行にもかかわらず盲目になったトビト,結婚初夜に次々と7人の夫が悪魔に殺された彼の親族の娘サラ,父トビトの命でサラのもとに行き,天使ラファエルの助けでサラとめでたく結婚する息子のトビア,トビトの目の回復などの物語を中心に死者の埋葬,逆縁の掟,敬親,施しなどをすすめている。【ブリタニカ国際大百科事典】


とはいえ犬が登場するのは『トビト書』のなかの次の箇所

……こうして、二人は父に別れて旅立った。そのとき、トビアスの犬も彼らについて行った。5:16

……二人が一行に先立ってすすんで行くと、犬も後からついて走った。11:4

「トビト書」新見宏訳、関根正雄訳『旧約聖書外典 上』(講談社文芸文庫、1998)所収、p.171、184.


え、これだけ。これでは、犬がどんな性格で何をしたのか、わからない。そもそも、犬について、とりたてて何かが書かれているわけではない。しかし後年、この物語が絵画として描かれたとき、画家たちは犬を忘れたり無視したりはしなかった。

【ちなみにトーマス・マンも忘れていなかった。その短篇「トビーアス・ミンダーニッケル」‘Tobias Mindernickel’を読めばわかる。ただし『トビト書』のような心温まる奇跡的物語ではないので、読むとき取扱い注意。】

トビアスと天使.jpg

トビト書.jpg

この二点の絵画は、『トビト書』の物語を描いたものだが、片隅に犬が描かれている。犬に冷淡な聖書において、犬が脇役として存在を誇示しているのは――たったこの程度でも――奇跡とは言わないが特筆に値する。トビアスの犬は、大天使ラファエルの旅の仲間となり、奇跡を目撃する、忠犬であり、うがった見方をすればトビト、トビアス親子もまた、神の忠実な僕=忠犬だし、それをいうならラファエルもまた忠犬であろう。聖書が描こうとしなかった、肯定的な「犬の力」がここにある。
トビアスと天使ラファエル.png

ロンドンのナショナルギャラリー所蔵のこれも『トビト書』を描いた『トビアスと天使』と題された絵画。アンドレア・デル・ヴェロッキオ(英: Andrea del Verrocchio, 本名 Andrea di Michele di Francesco de' Cioni 1435年頃- 1488)作。

ヴェロッキオ? 誰だと思うかもしれないが、レオナルド・ダ・ヴィンチが若かりし頃、人気のあった画家で、レオナルドは、その工房で働いていた。左下のふわふわとした毛並みの犬は、レオナルドが描いたと推測されている。もしそうなら、これは部分的であれ、レオナルドが描いた最初の絵画なのである。おそらくその犬は、絵画の注文主が、フィレンツェで飼っていた愛玩犬だったかもしれない。



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2022年04月23日

遊星から惑星へ

4月22日の『チコちゃんに叱られる!』で、興味深い問題があった。ネット上のNHKのページによると

……今回の疑問は……ジグソーパズルはなぜ作られた?惑星はなぜ「惑う星」と書く?穴があったらのぞきたくなるのはなぜ?みなさんわかりますか?……
https://www.nhk.jp/p/chicochan/ts/R12Z9955V3/


とある。「惑星はなぜ「惑う星」と書く?」という問題は、さらに昔は「遊星」という語も使われたが、「惑星」に統一されたという事実へとつながってゆく。

惑星が「惑う星」となるのは、Wikipediaによると、

漢字の「惑星」という呼称は、長崎のオランダ通詞・本木良永が1792年(寛政4年)、コペルニクスの地動説を翻訳する際に初めて用いた漢訳語(和製漢語)と考えられている。天球上の一点に留まらずうろうろと位置を変える様子を「惑う星」と表現したことから来たと言われている。つまり天動説が主流であったころ星座を形作る夜空の星々が北極星を中心に天球上の定位置で大空を回るのに対し、一部の金星や火星などは日ごとに位置を変え明らかに不規則な動きをするため「惑わす星」と見えたのである。


しかし私自身は、個人的なことだが、「惑星」は、「惑わす星」ではなく、ふらふら、うろうろ、天空上を行ったり来たりする放浪する星であるというように理解していた――フィリッツ・ライバーのSF『放浪惑星』The Wanderer(1964、1965ヒューゴー賞受賞)を読んで以来。

ちなみに放浪者とは惑星のことである。実際、Wikipediaにも

英語「planet(プラネット)」の語源はギリシア語の『プラネテス』(「さまよう者」「放浪者」などの意)。

と説明している。

それはいいとしても、さらに「惑星」は「遊星」とも言ったことがある。再びWikipediaの説明によると

惑星は、古くは遊星(ゆうせい)とも言った。「遊星」と「惑星」はともに江戸時代にまでさかのぼる言葉であり(ただし古い例では「游星」となっている)、他に「行星」の表記も使われた。

明治期に学術用語の統一を図る際に、東京大学閥が「惑星」、京都大学閥が「遊星」を主張した。結局東大閥が勝ち、天文学の分野では「惑星」の表記に統一された。しかし、機械工学における「遊星歯車機構」など異分野の用語として用いられるほか、フィクション内の表現として「遊星」の名が使われる例もある(例:『遊星からの物体X』、『遊星仮面』、遊星爆弾(『宇宙戦艦ヤマト』)、移動遊星(『21エモン』)、スタント遊星(『ファイブスター物語』)など)。


そう「惑星」という表記に統一された後も、「遊星」という語が使われていた、とりわけ、SF分野において(もちろんSFで「惑星」の語も普通に使われていたのだが)。Wikipediaが例にあげているSF映画『遊星からの物体X』の原題はThe Thingで、これは1951年のSF映画『遊星よりの物体X』のリメイクで、英語のタイトルはThe Thingだけで、「遊星」使用と関連付けるのは無理。

『遊星よりの物体X』のほうの原タイトルはThe Thing from Another World。「別世界よりの」という意味になるのだが、Worldは具体的には「惑星」のことであり、「惑星」と同義語の「遊星」を使ったタイトルにしたことは、間違いではない。また現在、「遊星」を辞書で調べると「惑星に同じ」としか書いていないが、「遊星」は「惑星」よりもイメージ喚起力のある語で、必ずしも単純な同意語ではないと思う。Wikipediaの例を全部「惑星」にしたらどうか。「惑星からの物体X」「惑星仮面」とすると、なんだか散文的になる。「遊星」のほうが韻文的あるいはファンタジー的ではないか。

『チコちゃんに叱られる!』では、天文学用語として「遊星」ではなく「惑星」が選ばれる経緯として東大閥と京大閥との争いと和解というような物語を設定し、それを再現ドラマを見せていたが、その真偽はともかく、私が興味をもったのは、その学術会議が昭和18年という戦時下でおこなわれたことだった。

洋の東西を問わず、前の世界大戦下において、学術分野にとどまらない、けっこういろいろな分野で、文化活動が行なわれてた、しかも戦争プロパガンダとは無縁の形で。これはどういうことなのだろうかと不思議に思っていた。まあ天文学用語の統一に関する学術会議に、軍部はいちいち目くじらなどたてなかったとは予想がつく。それにしても外地で激戦が繰り広げられつつも日本本土への空襲は昭和19年からで、まだ始まらなかった時期とはいえ、また統制経済で市民生活が大きなダメージをこうむっていたとはえ、結局は、民間人にとって戦争は他人事ではなくても、それに近い、真剣で深刻な思考の対象ではなかったのではないかという気がする。

これは、砲撃とミサイル攻撃下のウクライナという設定ではと想像するよりも、コロナ過というパンデミックとの戦いのなかでも、文化活動が行われていることの同時共存現象とでも言えるようなものかもしれない。

後年の歴史家たちが、2022年のコロナ過での日本の生活を調査するとき出逢うのは、おそらく、自粛を続け、不自由を我慢する庶民・市民あるいは高齢者の苦しい生活ぶりの記録であり、さらには感染者を見舞う重症化する患者と無症状の患者との境遇の差異がわかる記録であり、政権のコロナ対策のずさんさであり、ワクチンは国民を殺すためのものという陰謀論の蔓延であろうか。しかし、いっぽうで、そうしたものとは一切関係なく、映画はつくられ演劇が上演され、イヴェントも繰り広げられる。コロナ過以前とまったく同じように。

街ではほとんど人がマスクを着用しているのに、テレビや映画では、同時代を使っていながら、そこにコロナ過の影はまったくない。

文化は政治と社会に意図的に背をむけなくとも、自立するしかないのだろうか。経済関係者は人の命よりも経済的収益を目指して犠牲者の数など気にしないのだが、文化関係者もコロナ過での死者など関係なく、コロナのない世界を現前させつづけるのだろか。未来の歴史家がコロナ過での日常を調査するとき、コロナ過の悲惨な日常にあえぐ人々の記録と、コロナ禍などなかったような別世界の記録の共存に不思議な思いをするほかはないのだろうか。ちょうど、私が第二次世界大戦下での、日常のなかに別世界の記録であるような文化活動がまじっていて違和感を感じたのと同じように。

文化は、たとえそのすべてがそうだというわけではないとしても、遊星からの物体Xなのだろうか。
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2022年04月22日

生娘をシャブ漬け

もう周知の事実だが、吉野家の伊東正明常務は、早稲田大学社会人教育事業室が開催した社会人向けの「デジタル時代のマーケティング総合講座」で、若い女性をターゲットとしたマーケティング手法を「生娘をシャブ漬け戦略」と表現し、「田舎から出てきた右も左も分からない若い女の子を無垢・生娘のうちに牛丼中毒にする。男に高い飯を奢ってもらえるようになれば、絶対に(牛丼を)食べない」といった発言をしたという。受講者が目撃情報として語ったことがSNS上で拡散された。

吉野家は18日、公式サイトに謝罪文を掲載。発表文では、「当該役員が講座内で用いた言葉・表現の選択は極めて不適切であり、人権・ジェンダー問題の観点からも到底許容できるものではありません」との見解を示した。

以下、日刊スポーツ 「吉野家が「生娘をシャブ漬け戦略」不適切発言の常務を解任
[2022年4月19日12時20分]」の記事から一部を引用すると、

牛丼チェーンの吉野家は19日、不適切発言をした子会社吉野家の伊東正明常務を解任したと発表した。

吉野家は「当社は、昨日開催いたしました臨時取締役会において当社執行役員および子会社である株式会社吉野家常務取締役の伊東正明氏の取締役解任に関する決議を行い、2022年4月18日付で同氏を当社執行役員および株式会社吉野家取締役から解任しましたのでご報告します。本日以降、当社と同氏との契約関係は一切ございません」とした。


教育現場では、説明なり主張を印象的にするために、くだけた物言いをしたり、やや下品な言い方をしたり、まあ、えげつない表現をあえて使うことはよくある。美辞麗句を連ねたり修辞的用法を駆使するよりも、こうした発言のほうが印象深いことがある。度を超すと聴衆が引いてしまい逆効果になるが、慎重かつ大胆に、そして冗談というくくりのなかで、下品で差別発言ぎりぎりのことを話すことは、手練れの講師の力量の証左となる。

今回、実際の発言内容は記録されていないので、趣旨として伝えられていることとなるが、はたして、ほんとうに「シャブ漬け」と「牛丼中毒」のどちらかを語ったのか、あるいは両方とも語ったのかわからないところもあるのだが、それにしても、料理、接客、店の雰囲気など、客に好印象をあたえリピートしてもらうということを、ややくだけた下品な言い方をしようとしても、私には、「生娘をシャブ漬けにする」という表現は思いつかない。

そもそもこれはドラッグディーラーあるいはヤクザの発想でしょう。熾烈な競争ビジネスの第一線で戦っている人ならではの、厳しく不気味なたとえだと、感銘すら受けた。

語った本人も、面白い眼のさめるような冗談を放ったと得意げであったにちがいない。もちろん発言内容は、吉野屋の発表にあったように、「人権・ジェンダー問題の観点からも到底許容できるものでは」ないのだが、冗談として語られたのなら、冗談としての性格を重視したい。

というのも冗談は、ただのおふざけではない。フロイトがいうように、私たちは、普段言えないような本音のようなものを冗談として語ることがよくある。冗談は、冗談ではない。むしろ普段は隠れているか抑圧されている願望や主張や評価を表に出すのが冗談である。冗談という口実のもとに、タブーを語ることができるし、忌まわしい願望なり考えを口にできる。つまり冗談とは真実(不都合な真実)を語る装置である。冗談だけが真のコミュニケーションを可能にする。

こう考えれば、冗談として語られる問題発言は、そこにまぎれもない真実があると見なければならない。冗談として語られる問題発言を、容認できない発言として排除するのではなく、真実の発言として重視しなければいけない。

そう考えれば、今回の「生娘をシャブ漬けにする」という発言は、発言した当人あるいは牛丼の吉野家に限定される戦略ではなく、外食産業、食品業界全体の戦略の真実を語っているのではないか。

実際、外食産業はリピート客を増やすために、客シャブ漬けにするような中毒性の料理を提供してないだろうか。

食品業界における添加物の使用は、人間をなんらかの中毒症状にしていないだろうか。味覚だけでなく、見た目もふくめての中毒症状。たとえば砂糖は、ただでさえ中毒性があるのだが、添加物によって、必要以上の砂糖の摂取が日常的に可能になる。あるいは塩分も、添加物を介して摂取しやすくなる。糖分も塩分も摂取しすぎれば、健康被害をもたらすことは明らかである。

これは、良い物を提供してリピート客を増やすのではない。危険なものを提供し中毒にさせてリピート客をふやすのである。

シャブ漬けにされる生娘は、もちろん、私たち全員にあてはまるメタファーである。そしてここにあるのは、牛丼の吉野家に限ったことではなく、外食産業、食品業界全体のシャブ漬け戦略、中毒化戦略なのである。むしろ、このことに注意喚起してくれた、この問題発言に対して感謝すべきとまで言いたいのである。

もちろん吉野家を免罪するつもりはない。「カーニズム」のイデオロギー発信拠点のような牛丼業界のドンともいえる吉野家にとって、客をシャブ漬けにするとは、肉食の問題をなしくずしにして、消去することを意味する。吉野家に限らない。牛丼・肉食中毒にすることで、「カーニズム」のもたらす倫理問題と健康問題をなきものとすることができる。

ちなみに吉野家の「生娘シャブ漬け戦略」が展開された時期は、牛丼の健康被害が取りざたされた時期と重なるのではないか。たとえ正確に重ならなくても、健康被害批判をかわす切り札が牛丼中毒戦略であったであろうことは想像にかたくないのである。

この問題発言を重要な契機として、外食産業と食品業界の「シャブ漬け戦略」について真剣に考えるべきであって、これは常務取締役を解任すればすむというような小さな問題ではないのである。
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2022年04月19日

セカンドチャンス2

『デジャヴ』(韓国テレビ映画)

セカンド・チャンス物の物語・映画の基本は、最初は悲劇、二番目は喜劇。喜劇というのはハッピーエンディングということだが、この原則に反する異色作があるので触れておきたい。

面白い、セカンド・チャンス物、あるいはタイム・ループ物というかタイム・リープ物ではあっても、2004年の65分の韓国テレビ映画(KBS)で、知る人は少ないと思う。韓国映画や韓国テレビに詳しくない私が、なぜ知っているのかというと、『韓流ロマンスドラマ名作選 デジャヴ』というDVDが販売されているからである(レンタル、購入可能、配信はされていないようだ)。

女優としてハン・ジミン(『虐待の証明』2018)が出演。彼女と結ばれるのがキム・フンス。今から見ると、どちらも若いという幼い感じがするし、二人のことを知らなくとも、演技者としてはまだ未熟な感じがしないでもない。だから、それほどお薦めの映画ではないのだが、セカンド・チャンス物としてみると予想を裏切るところがあって面白い。

AMAZONのDVDの通販ページによる紹介。購入者のレヴューはない。

トップ韓流スターに愛されてきた、ハン・ジミン主演の美しいメロドラマ。善良でおっちょこちょいなドング(キム・フンス)は友達との飲み会の後、野宿をすることに。目を覚ましたドングはいつものように出社し、同じ証券会社に勤める恋人スヨン(ハン・ジミン)と愛情を深めていく。ある日、彼はスヨンの交通事故を目撃して、助からないかもと聞かされ病院で気を失う。眠りから目を覚ましたドング。そこは飲み会の夜、野宿した場所だった…。


こうしてタイムリープして二番目の数日が始まる。ただしドング/キム・フンスは、自分がタイプリープして数日前に戻ったことを知らないため、最初、何が起こっているのかわらない。交通事故で瀕死の重傷を負った恋人が、奇跡的に生き延びて、すでに会社に出勤していると勘違いする。また、タイム・リープした数日前の世界は、もといた世界とはどこかちがっていて、ドング/キム・フンスとスヨン/ハン・ジミンは、会社の先輩・後輩であっても、恋人どうしではなく、ドングの片想いのようだ。

なるほど最初の数日間シークエンスは、恋人のスヨンが交通事故で瀕死の重傷を負い生死の境をさまよっているところで終わる。最初は確かに悲劇である。しかし、交通事故にあう前のカップルは、相思相愛で、軽薄なラブコメ・カップルであり、観ていて恥ずかしくなる、あるいはうんざりするほどの、いちゃいちゃぶりである。この部分で、もう観るのをやめる、気の短い視聴者がいてもおかしくないと思う。つまり演出がよくないと思うので(いまでこそ、スターのふたりも、この時期、新人に近い)。

しかしタイムリープして数日前にもどってからの物語では、男性社員ドングはただ片想いなだけで、相手の女性スヨンは、支店長に気にいられてプロポーズされ、それを受けるところまでいくので、三角関係にすらならない苦い恋の敗北が待っている。女性への片想いと、気付いてくれない相手への焦燥感、そして絶望と諦念という男性社員ドングの目線で描かれる物語は一挙に深刻さをまし、暗い色調を帯び始める。

そうタイム・リープ前の軽いラブコメ部分は、ある種のフリであり、その軽佻浮薄な陽気さは、意図的に仕組まれたものだったのだ。後半において映画の強度がマックスになる。映画とはメランコリーの風景というのは私の持論(正直言えば私だけのものではない)だが、まさに後半のこの映画はメランコリーの風景全開となる。韓国映画としても、ここでお得意のお涙頂戴的センチメンタル度全開となる。最初は喜劇、二番目は悲劇になる。どうやらこれではセカンドチャンス物になりえない。

そうセカンドチャンス物ではない。なるほど前半では、恋人の彼女が交通事故に巻き込まれる。【以下ネタバレWarning:Spoiler】タイム・リープしたあとは、彼女を交通事故から救おうとするとなれば、王道のタイム・リープ、タイム・ループ、セカンド・チャンス物だが、二番目の世界は、彼女は恋人ですらなく、支店長と婚約してしまうのであう。この男性社員ドングにとって、彼女スヨンを助けることなど、念頭にはない。ただし、最初の世界と似たような展開になっていることを自覚したドングは、スヨンを交通事故から救うべく、彼女を押しのけ、みずからがトラックに轢かれるのである――これぞ映画的転回。最初、彼は、彼女が轢かれるところを傍観するしかなかったのだから。

ドングは一命をとりとめ、その気持ちに気づいた彼女スヨンは、ドングと結ばれることになる。最初は悲劇で終わる喜劇、二番目は喜劇で終わる悲劇。ということになる。

ただし最後の結末は、曖昧にぼかす仕掛けが講じられている。実は最初の悲劇に終わる軽薄なラブコメの部分は、交通事故で重傷を負った男性社員の見た夢(あるいは、超越的存在によって見させられた夢)であって、現実は、二人は恋人ですらない会社の先輩・後輩であり、男性側の自己犠牲によって女性を助けることになり、それによって、二人が結ばれるであろうということかもしれない(あるいは暗い想像をすれば、男性は交通事故で死ぬが、その最後に女性と恋人になっている夢を見る/見させられる)。

タイムリープはしていない。ただ現実と夢物語のふたつの世界があるだけである。実際、男性は酔って路上で寝ていたのであって、全体がタイムリープというよりも夢落ちであるという可能性も匂わされている。

したがって実は、後半が最初の悲劇部分(男性は自身が交通事故に巻き込まれる)、そして前半のラブコメが、喜劇的セカンドチャンスの部分とみることもできる。そうなると大堂のパターンからははずれていないことになる。

興味があればご覧あれ。
posted by ohashi at 08:13| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2022年04月18日

セカンドチャンス

タイム・ループ物の小説、映画、漫画、アニメなどをずっと考えている。いろいろな角度からの考察に開かれているジャンルだが、今回は、セカンド・チャンスと反復の問題としてタイム・ループをみてみる。

フロイトは『快感原則の彼岸』のなかで孫が行なっていたフォルト・ダ・ゲームについて報告し分析している。生後18か月の孫は、糸巻を小児用ベッドから放り投げ、「オー、オー、オー」と声をだし、糸巻の糸をたぐりよせて糸巻の本体があらわれると、「アー、アー、アー」と声をだし、この一連の動作を何度も繰り返したとして、これを「Fort・Daゲーム」と名付けた(「オー」という声はFort(行ってしまった、なくなった)を、そして「アー」という声はDa(そこにあった)を意味する)。

フロイトの分析によれば、この遊びは、自分の世話をしてくれる母親がいなくなる寂しさや不安を、糸巻を投げ、たぐりよせることを通して、緩和させるものである。糸巻の本体が、いったん投げると見えなくなっても、糸をたぐりよせればふたたび出現するように、母親も、いなくなっても、かならずまた現われる……、こうして幼児は、みずからを納得させ、寂しさを紛らわせるのだという。

ただフロイトの分析では、糸巻は母親なのだが、しかし、母親がいないとまだなにもできない幼児が、糸巻を母親に見立てて、遠くに投げるという発想をするのだろうか。むしろ糸巻は幼児そのものであり、母親は、幼児=糸巻を遠くに投げ捨ててしまっても、かならず糸をたぐりよせて糸巻=幼児をひきあげてくれるというほうが、幼児の空想としては蓋然性が高い。

ただ、糸巻が母親なのか幼児なのか、決着はつかいかもしれないが、重要なのは、消失と回帰という現象を幼児が演出することである。失われたものが回帰する。なくなったものが出現する、その快感と興奮――いないないばあ遊びに子供は敏感に反応することを思い出してもい。次にくるのは、喪失と回帰を自らの演出することである――大人から面白い玩具を示されると、次に子供はその玩具を手に取っていじりまわす、ときには分解し、ときには壊してしまう。「Fort・Daゲーム」についてフロイトが述べた言葉を借りれば、子供は、場面の支配者になろうとするのである。糸巻が自分なのか母親なのかは関係ない。糸巻の消失と再帰を自分の手でコントロールすることで、不安は解消され、快感すら覚える。子供はもはや大人や状況の犠牲者ではない。状況を創造しコントロールできる以上、状況の支配者である。

フロイトの『快感原則の彼岸』は、戦争神経症とかトラウマについての話である。このとき問題となるのは、嫌なことがあって、それを思い出すたびに苦しい思いをするとき、最良の克服手段は、忘れることである。忘れれば、あるいは意識に昇らせなければ、私たちは、その嫌なことに苦しむことはない。

ところが私たちは、嫌なことを忘れることができないばかりか、みずからすすんで嫌なことを思い出してばかりいる。そして苦しんでいる。これはなぜか。反復と場面の支配者への願望が、これを解くカギとなる。

たとえば男女どちらでもいいのだが(あるいは異性愛・同性愛どちらでもいいのだが)、恋人の裏切られたとしよう(たんにフラれたというのではなく、ひどい裏切られ方をしたということである)。その場合、心の傷をいやすのは、この一件を忘れることである。また世の中には不実の男女だけでなく、誠実な男女も多い(数からすればこちらのほうが多いだろう)。そのため自分を絶対に裏切らない誠実な男女を恋人に選ぶことも重要である。

ところがプレイボーイやプレイガール的男女を恋人に選んだ者は、裏切られてもなお、次に同じようなプレイボーイやプレイガールを恋人にしがちである。どうせまた裏切られることはわかっているのに。裏切り者的な男女のほうが、危険な香りと緊張感をにじませていて、魅力的にみえるということはあるだろう。と同時に、一度、そうした男女に惚れて失敗した者は、セカンドチャンスにかけようとする。一度失敗したのだら、二度目は、失敗しない。経験から学ぶことをした。相手の裏切りも予想できるから、先回りして、それを防ぐもしくは先手をとって相手の試みを挫く。最初は悲劇。二度目は、ハッピーエンディング。これがセカンドチャンス願望だろう。

物語とか映画のループ物のなかで、一回のループで終わるものは、ループ物と言わないことが多いのだが、しかし一回のループの成否がループの反復(同語反復だが)を決定するので、やはり一回でもループ物といってもいいだろう。一回のループ物の別名はセカンドチャンス物。最初は悲劇、二番目は喜劇。これがセカンドチャンスもの最良の結末となる。

藤子・F・不二雄の『未来の想い出』(1991)は、作者を彷彿とさせるような漫画家が、人気漫画家として成功するも、さしたる感慨もないばかりか落胆と幻滅の日々を送らざるをえず、おまけにスランプになってしまう。そんななか出版社主催のゴルフコンペに参加した主人公は、ホールインワンを出した驚きのなか心臓発作に襲われ死んだかに思えたのだが、過去にタイムリープしていた。そしてそこで人生をもう一度やり直す。二度目の人生は、最初の人生の失敗の教訓を生かし、幸福な人生となる。

浮気者型の男女を恋人にした男女が、次も同じような浮気型男女を恋人にすることが多いのは、セカンドチャンスを狙っているのである。つまり一度は失敗したが、二度目は自分でコントロールして裏切られることがないようにできると自信をもつのである。だが、そんなにうまくいくはずがない。二度目も裏切られ苦汁をなめる。はたからみていると、浮気型の男女を恋人にしたら絶対に裏切られるに決まっているのだから、どうしてもっと誠実な男女を選ばないのかと思うのだが、それでは最初の失敗から逃げるだけで克服はできない。同じような男女を恋人に選んで二度目に相手を屈服させてこそ、勝利といえるのである。もちろん結果は眼に見えている。二度目だが三度目だろうが、裏切られるつづけるのである。最初は悲劇、二番目は喜劇どころか茶番に終わる。

賭けごとにも同じことがいえる。大損をしたなら、賭けごとから手を引くのが、最良の方法であり、それこそが賭け事を克服する唯一の方法ともいえるのだが、賭け事にはまる人間は、次こそはと、賭け事をやめる気配はなく、毎回、次は勝てると思いつつ、負けてゆくのである。

セカンドチャンスで浮気型の恋人探しとはちがい、賭け事の場合は、自分ではどうにもならない偶然的要素に翻弄されることが多いので、状況の支配者どころか、運任せの受け身の姿勢を余儀なくされるのだが、逆にそうであるがゆえに時には賭け事に勝つこともある。大金を手にすることある。それでやめればいいと思うのだが、そうした場合、往々にして賭け事を続けて、結局、すべてを失うというのが定番である。なぜか。

賭け事の場合、一度成功すると、それが忘れられなくなって、結局、もうけたお金を全部つぎ込んで負けてしまうということもあろう。しかし、成功体験が破滅を導くこともあるかもしれないが、また、成功することが物足らない、むしろ失敗し、悔しい思いをし、絶望しながらも、次のセカンドチャンスにかすかな希望をつなぐ、苦杯、苦渋、苦悩、苦難の反復がなければ、なにか物足らなく、たんなる成功は、たとえそれがどんなに大きなものでも、欲求不満をもたらすしかないもの、そう失敗にすぎなくなる。失敗しないと満足しなくなる。だから成功しても、それは無視するしかない。失敗するために生まれてきた。失敗のなかに人生最高の輝きある……。

賭け事の場合、セカンドチャンスの失敗の周期は短いので、失敗しないと物足らないことは実感できるが、浮気男や女に恋して最後には裏切られる場合、その周期は、賭け事よりは長い。下手をすると数十年後に裏切られるということになれば、一生の間に、一度の裏切りは数ではないとすれば、二度しか裏切られないとなると、裏切られ中毒になるかどうかはっきりしないこともあるが、理論的には、ギャンブル中毒と同じで、裏切られ中毒はありうる。誠実な人と結婚し、もはや相手が裏切らないとなると落胆するのである。そうしたとき思う、あの裏切られる日々、信頼しきっていて油断したために裏切られ、絶望のどん底に落とされ、目の前が真っ暗になったあの瞬間はもうないのだろうか……。

裏切られない人生なんて、裏切られ悲嘆に沈むことのない人生なんて、人生じゃない。もう頭がおかしくなるほど裏切られたい、絶望したい。だがこうなると「場面の支配者」になるというフロイト的な願望はどうなるのだろうか。

おそらく「Fort・Daゲーム」は、「場面の支配者」になって、状況に翻弄されるのではなく、状況をコントロールする側になって、不安を解消したい、厳しい現実から逃避したいという願望の所産だけではない。それはゲームである以上、何度も繰り返される、リセットされてすぐに次の動きが来る。その永久運動への心構えであり、現実逃避ではなく現実直視のゲームではないか。同じことを繰り返す。いなくなったと思ったみつかる。だが、それでおさまらずに、またいなくなる、またみつかる、またいなくなる……。

それは絶望と希望、希望と絶望のゲームであって、絶望があるがゆえに希望があると同時に、希望があるがゆえにはげしい絶望も味わえる。この絶望と希望の永久反復、それが絶望するために生まれてきた人間の運命なのである。

いいかえると何度でもつづくセカンドチャンス。それなくしては人生など無味乾燥な営みにすぎない。

これは倒錯的人生観なのだろうか。絶望が人生の喜びであり、次は成功すると失敗を繰り返し、いつのまにか失敗していないと満足しない、失敗中毒になることが、人間の運命だというのは、ただの虚無的な人生観とでもいうべきものなのか。

実はここに最後のどんでん返しがある。なぜなら、失敗中毒――成功を希求しながらも、失敗することに慣れっこになってしまい、失敗しないと満足しないような失敗中毒--、この心的傾向こそ、ほかでもない、信仰と名付けられているものだからだ。

それはたとえば救世主が絶対に到来しないがゆえに信仰が成立していることとも関係がある。世界は必ず救われる、救世主は必ず現れるという確信はまた同時に救世主などいない、地球は救世の星では決してないという懐疑と背中合わせとなっている。この懐疑なくして信仰はありえない。懐疑ゆえに信仰がある。救世主は希求される。だがほんとうに救世主があらわれても、信心深い人々は、それはまがいものとして排除することだろう。そして救世主待望の習慣に再び戻ることだろう。信仰と賭け事は似ている。負け続けることが明日への活力なのだから。
posted by ohashi at 20:07| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2022年04月14日

ひつまぶし

4月14日の『秘密のケンミンSHOW 極』で、愛知県の「ひつまぶし」を取り上げていた。大学生になるまで名古屋で過ごしていた私にとって、「ひつまぶし」には思い出がある。

とはいえ現在のような「ひつまぶし」、たとえばわざわざ引用するには及ばないとは思うが、Wikipediaの説明

蒲焼にしたウナギの身を切り分けた上で、お櫃などに入れたご飯に乗せ(まぶし)たものを、食べる側が茶碗などに取り分けて食べるのが基本的なスタイルであり、これが料理名の由来(由来には異説もあり。後述)となっている。そのまま通常の鰻飯として食べてしまうこともできるが、一般的にワサビや刻み海苔・刻みネギなどの薬味、出汁やお茶などが添えられて提供されるため、それらを食べる側の好みに合わせて取り分けた鰻飯に掛けたり、お茶漬けにすることにより、味の変化を楽しみながら食べることができるようになっている。


熱田の蓬莱軒で出しているような、こういう高級料理の「ひつまぶし」ではなく、もっと質素な「ひぶまぶし」の思いである。

実際、『秘密のケンミンSHOW極』のゲストであった田川涼成氏が番組中で述べていたこととなのだが、私の子供の頃、「ひつまぶし」というのは、貧乏人の食べるウナギ蒲焼だと思っていた。

というのも、子供の頃に食べていた「ひつまぶし」というのは、ご飯に、ウナギの蒲焼をほぐしたというか刻んだものを混ぜ込んで、それに蒲焼のたれをかけて食べるもので、味は、予想通りだと思うが、蒲焼を刻んだものを入れているので、蒲焼は少しの量で、たくさんのご飯が食べられるかである(お茶漬けにするということは当時はしなかった)。

当然、子供としては、こんな刻んだ蒲焼がまぜこんであるご飯ではなく、大きな蒲焼を一枚白米の上に載せた「うな重」が食べたいと心のなかで思っていた。これはウナギの蒲焼を節約して食べる、貧乏人の料理だと、心の中で嘆いていた。

田山涼成氏も番組で同じことを言っていた(「貧乏人の料理」だとは言っていなかったが)。

だから「ひつまぶし」については、あまりいい思い出がない。ところが気づくと、蓬莱軒のそれのような、白米がみえないほどぎっしりウナギの蒲焼を乗せた高級料理が話題になり人気となっていた。私も熱田の蓬莱軒に行ってはじめて「ひつまぶし」を食べたときには、子供の頃のそれとはまったく異なっていて驚いた。

私が驚いたのは、広辞苑の定義にあるようなひつまぶしであった。

ひつまぶし【櫃まぶし】
飯に細かく切った鰻をまぶした料理。1杯目はそのまま。2杯目は薬味をのせ、3杯目は薬味とともに茶漬けにして食べる。名古屋市のものが有名。商標名。


なお広辞苑の定義で「鰻をまぶした」というのは、どういうことを言うのかよくわからないのだが。

子供の頃の「ひつまぶし」ではなく、今の「ひつまぶし」が好きなのは、家庭でも簡単に食べられることである。もちろん蓬莱軒のような老舗の「ひつまぶし」を家庭で再現するのは不可能だといても、こだわらなければ、市販の蒲焼、市販の蒲焼のたれ、出汁、刻みネギ、ワサビ、そして白米があれば、簡単に「ひつまぶし」は用意できる。味も予想通りのものができる、というか失敗はしない(ウナギの蒲焼は市販されているものでも高価なので、まあ、簡単に毎日食べるようなものではないとしても)
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2022年04月13日

東大入学式 2

前回の「東大入学式」の記事において、「河瀨直美に祝辞を述べさせることは、彼女が擦り寄った安倍首相夫妻のお友達のロシアのプーチンや、プーチンの手下のドボルニコフ司令官とかセルゲイ・ラブロフ外相に祝辞を述べさせるような暴挙である。何を突拍子もないことと言うなかれ。河瀨直美も、今のロシアの権力者にも共通の愚行があるではないか。フェイク・ニュース、それもすぐにばれるフェイク・ニュースという愚行が。」と書いた。もちろん、しょうもない冗談である。しかし、河瀨直美監督の祝辞は、まさにプーチン擁護の祝辞だったことまでは、その時、知らなかった。

河瀨直美監督HGの祝辞は、東大公式サイトに掲載されていることは知らなかった。知っていても読むつもりはなかった――頭が腐るので。

以下、つぎのような記事がネットに出た。
ハフポスト日本版 4月13日 12:58

河瀨直美監督の東大入学式での祝辞、国際政治学者から批判相次ぐ。「侵略戦争を悪と言えない大学なんて必要ない」

河瀨監督の祝辞は、東京大学公式サイトに全文が掲載されている。

それによると河瀨監督は、奈良県吉野町の金峯山寺(きんぷせんじ)の管長と対話した際のエピソードを紹介。管長が本堂の蔵王堂を去る際に「僕は、この中であれらの国の名前を言わへんようにしとんや」とつぶやいたと明かした。

この言葉の真意を正したわけではないとした上で、河瀨監督は菅長の思いについて以下のように想像していると話した。

<例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?>

こうした見方を紹介した上で「自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要がある」と新入生たちに訴えた。「自制心を持って」侵攻を拒否することを促していた。


【なおこの記事のつづきは、参考までに最後に引用している。私のくどい批判文を好まない方は、最後の引用だけを読まれることをおすすめする】

なるほど、人間誰しも人殺しになる可能性はある。河瀨直美監督も人殺しになる可能性はある。私も人殺しになる可能性はある。だから、人殺しの犯罪者をただ一方的に断罪するのではなく、自身も犯罪者となる可能性を考慮し、犯罪の本質を把握したうえでの批判ではないと、犯罪を抑止し犯罪の再発を予防するのはむつかしい、ということは、そんなにまちがっていない。

実際、日本も過去の歴史において他国への侵略を行なってきた。またこれからも日本が他国への侵略を行なう可能性は皆無とはいえまい。そのためロシアのウクライナ侵攻を非難する前に、日本を憲法改正におって戦争のできる国にかえる勢力(河瀨監督が擦り寄っている安倍元首相も含まれる)への監視と批判を怠ってはならないというのであれば、それはまちがったことではないだろう。

しかし、今起こっていることは、たとえば、ある集団が、バットとかナイフ、手製の武器めいたものをもって、別の集団が暮らしている集合住宅に押し入り、そこに暮らす住人にと大喧嘩になり、とくに住人のなかでも、喧嘩に加わってはいない幼い子供たちや体の弱った老人たちを無差別に殺しまくっている……、そんな状況の時に、人間だれしも、気にいらない相手の家に不法に侵入し、家屋損壊と住人への暴行をする可能性があるのだから、この侵入者を非難する前に、自分たちの破壊的性向を反省したほうがいいと、のたまうようなものである。こういうのを問題の完全なすりかえというのである。

「それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?」という河瀨直美の論法は、たとえばホロコースト否定派のそれとまったく同じである。反吐がでる。

そもそも「悪」を存在させることで、安心しているというのは、「私」とか「私たち」にぶつける言葉ではなく、プーチンに対してぶつける言葉である、プーチンは、ウクライナはネオナチに支配されている、そのためウクライナのロシア系住民を保護するために侵攻するのだと宣言している。しかしどちらがネオナチだ。ロシア寄りの政権が倒れたあとリベラルな政権に変ったウクライナを、ネオナチよばわりするプーチンのロシアのほうが、誰が見てもまぎれもなくネオナチそのものであり、戦争犯罪もいとわないその残虐性からいってもナチスの親衛隊とか絶滅部隊を彷彿とさせるではないか。ウクライナをネオナチあるいはナチスという悪として存在させることで安心しているのは、そもそもプーチンであって、その犯罪性をみずして、相対化するのは、最終的にプーチン擁護でしかない。

かりに百歩譲って、私もまた、河瀨直美を安倍一族・プーチン擁護の悪とみなして安心しているとしても、そして私も人殺しになりうる可能性があり、ぶっ殺してやりたいと心のなかで思っているとしても、私は河瀨直美を殺してはいなし、またほぼ確実なこととして、殺すことは絶対にないだろう。しかしプーチンは、ウクライナを悪とみなして安心しているだけではなく、ウクライナを現実に殺しにかかっているのである。つまり安心しているだけなら、まだ罪は軽い。安心して人殺しに走ることは大罪である。

しかも「「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?」の「私」とは、むろん言語表現上の「彼ら、一般人」と同じ意味である。あるいは修辞として、河瀨本人ではなく、「私たち一般」のことである。しかし、ここでは河瀨直美自身ではないか、この「私」とは。

なぜならオリンピック反対のデモ参加者を、金をもらって動員された偽物の反対者とすることで、反オリンピック思潮を偽物・虚妄・演出された虚構として、悪としてでっちあげて安心していたのは、おまえではないかのか。「「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?」、そう河瀨直美は悪を存在させて安心しているのである。

【ちなみにデモ参加者が金をもらって参加しているというフェイク・ニュースは、実は、由緒正しいフェイク・ニュースかもしれない。私が子供の頃、今から半世紀も前のことだが、日本でデモ隊が警官隊と衝突を繰り返していた日々、保守派で自民党支持者だった私の父親は、ああしたデモ(学生デモも含む)は、みんな金で動員されて参加しているのだという、おそらく右翼メディアから仕入れた、根拠のない情報を、何も知らない息子の私に話して聞かせたのである。おそらくは、この金で動員されたという話の起源は、もっとさかのぼるのだろうが。ちなみに、父親を嫌っていたが、信頼していた息子の私は、この話を小学校だったか中学校だったかのクラスメイトに話した。はじめて聞く話だと驚くクラスメイトに対して私は鼻たかだかだったが、今思い出すと、これをPCに入力しているまさに今この時、恥ずかしくて死にたくなる。右翼の印象操作の片棒をかつがされ、無垢を失った子供の日々をどうしてくれるのだ。まあ、その後、いろいろな事情もあり、私は父親と口を利かなくなったのだが。】

そして河瀨直美の発言「例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?」では出ました「正義」の言葉が。

なるほど現在のネット社会では、ゆきすぎた「正義」が、あるいは「正義」をふりかざすことで過剰な「正義ファシズム」が横行している。また意見や見解、思想、信条の多様性を重視する立場からも、絶対的正義の押し付けに反対する意見もある。しかし今回のウクライナ侵攻は、正義と正義のぶつかりあいなのだろうか。ロシアが一方的にウクライナに侵攻し、その口実として、ウクライナをロシア系住民迫害者としてのネオナチであると断定し、このネオナチの正義と、犠牲となったロシア国民の救出という正義の対立という構図をでっちあげたのではないか。侵略者と侵略された側との戦いを、正義と正義とのぶつかり合いにすりかえることで、ロシア側の侵略者・戦争犯罪者という立場が正義の立場にすりかえられるのである。それは、みずからの野蛮行為を正当化するロシアの詭弁にすぎないのであり、このすりかえと詭弁を、河瀨の言う「正義と正義のぶつかりあい」は無批判になぞっている。そもそも河瀨の言説はロシアというかプーチン擁護の言説なのである。

またたとえばネット上での正義ファシズムみたいなものは、ネトウヨのお家芸と思われるかもしれないが、そもそも「正義」を振りかざす立場を批判してきたのは、ネトウヨに至る保守反動勢力であることを忘れてはならない。たとえPC(ポリティカル・コレクトネス)に今も反発しているのはネトウヨである。ハラスメント批判によって人間関係の分断が起こると批判するのもネトウヨである。20世紀の後半の日本では「正義の味方」というフレーズで、社会批判・政治批判の言説を揶揄していたのは、不正を批判される側であった保守反動勢力である。河瀨の言説も結局、これに帰着する。ウクライナ側の「正義」だけを強調して、ロシアを一方的に叩くのは、まちがっている。「正義」の行き過ぎだし、「正義の味方」となることで安心しきって物事の本質を見誤っている。そもそも「正義」なんて、そんなにありがたいものなのですか……。河瀨の言説は、右翼保守反動勢力の典型である。

裁判においてロシアという被告が侵略戦争の責任者として裁かれている。そこに河瀨弁護士が登場、最終弁論において、「戦争を止めるにはどうすればよかったのか。なぜこのようなことが起こってしまったのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、安心していないだろうか?」と述べた。ロシアに殺されたウクライナの民間人やその親族・知人・関係者たちは、この河瀨弁護士の最終弁論をどんな気持ちで聞くだろうか。そしてこの恥しらずロシア擁護を、大学一年生に対してぶつけ、彼らの輝きに泥を塗った河瀨直美の厚顔無恥に唖然としない人間がいるだろうか。

東京オリンピック2020において、開会式の作曲担当だった小山田圭吾が、過去に障害のある同級生へのいじめに関わっていたとして辞任したこと。開閉会式のショーディレクターだった小林賢太郎が、過去にユダヤ人ホロコーストをコントで揶揄していたことを理由に開会式直前で解任されたことは、記憶に新しい。2021年7月23日、2020年東京オリンピック開会式の各国入場行進曲として『ドラゴンクエスト』「序曲ロトのテーマ」が使用されたすぎやまこういちが右翼イデオローグであったことを知らぬ者はいない。こういう連中が東京オリンピック2020で重用されたのであり、河瀨直美も右翼イデオローグであるからこそ、オリンピック映画製作をまかされたのだろう。河瀨直美は安倍一族である。

なお、先に引用したネット上の記事には続きがある。一部省略して引用するが、河瀨直美の祝辞に対する批判については、私は全く同感である。しかも、どの批判も、簡潔に、ずばりと本質を突いているので頭が下がる。

以下、参考までに

この祝辞に関して国際政治学者からは批判の声が相次いでいる。

慶應義塾大学の細谷雄一教授は、ロシア軍がウクライナの一般市民を殺戮している一方で、ウクライナ軍は自国の国土で侵略軍を撃退していると解説。

河瀨監督の祝辞を念頭に「この違いを見分けられない人は、人間としての重要な感性の何かが欠けているか、ウクライナ戦争について無知か、そのどちらかでは」と厳しく批判した。

今回の祝辞があった東京大学の池内恵教授も「通俗的な理解するとこうなるという例。新しい学生が変えていってください」とTwitter上で批判。「侵略戦争を悪と言えない大学なんて必要ないでしょう」と、東京大学の入学式のあり方にも疑問を投げかけた。

東京外国語大学の篠田英朗教授は、前述の池内教授のツイートを引用した上で「『どっちもどっち』論を、超越的な正義として押し付けようとする人々が、この社会で力を持っている」とTwitterで警告を発した。


以上。
posted by ohashi at 22:54| コメント | 更新情報をチェックする

2022年04月12日

東大入学式


本日、日本武道館で行われた東京大学の入学式に映画監督の河瀨直美が祝辞を述べたというニュースが入ってきた。東京大学に限らない。どこの大学の入学式であれ、こんな人間に祝辞を述べる資格などない。東京大学、いったい何を考えているのか。

2018年、2020年東京オリンピック公式記録映画の監督に決定したとき、私は、持っていた河瀨直美監督の映画のDVDをすべて捨てた。監督が安倍夫妻に取り入って、東京オリンピック公式記録映画の監督になったことで私は見下げ果てたのだが、だからといって祝辞を述べてはいけないということにはならないだろう。

しかし事件があってから、恥知らずにも堂々と祝辞を述べに出てくるとは。もしほんとうに事件と無関係なら、むしろ自粛することによってみずからの潔白を主張するような余裕すらあっていいだろう。それができない権力亡者に成り下がったとしか思えない。

そもそも河瀨直美は、東大出身者ではない。誤解のないよういいえば、東大出身者でなければ祝辞を述べてはいけないなどとバカなことを言っているのではない。ただ東大出身者だからということで大学関係の行事にゲストによばれ、祝辞など述べさせられることもある。だから東大内部に彼女の崇拝者なり支援者なりがあって卒業生だからということでゲストによんだなら、しかながないところがある。しかしそうではないとしたら、内部の人間であれ外部の人間であれ、彼女を押しこんだ者は恥を知れといってやりたい。

またそもそも河瀨直美は大学すら出ていない。専門学校卒業である。大学卒業者でなければ大学生に祝辞を述べてはいけないなどとバカなことを言っているのではない。ただ大学卒業生でない人間が大学生に祝辞を述べる場合、その人間は権威と威光がある人格者であることが前提である。そしてこの前提が悪用されることがある。人格者でない人間に祝辞を述べさせて、人格者であるかのような立場に祭り上げることである。もし東大内部にそのようなことを企図した人間がいたら、恥を知るべきである。もし外部から、彼女を押しつけられたら(私は、こちらのほうを信じたい)、東大も、権力に屈しすぎだろうと同情しつつ、東大生の名誉を守るべきだったと批判したい。

河瀨直美に祝辞を述べさせることは、彼女が擦り寄った安倍首相夫妻のお友達のロシアのプーチンや、プーチンの手下のドボルニコフ司令官とかセルゲイ・ラブロフ外相に祝辞を述べさせるような暴挙である。何を突拍子もないことと、言うなかれ。河瀨直美も、今のロシアの権力者にも共通の愚行があるではないか。フェイク・ニュース、それもすぐにばれるフェイク・ニュースという愚行が。
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2022年04月08日

『希望とは何か』7bis

前回の記事『希望とは何か』7の内容と重複するというか屋上屋を架すような記事なので、むりに読まれなくてもかまわない。むしろ、こんな記事は書かないほうがよかったと思われるにちがいなのだが。

ノースロップ・フライ(カナダ出身)は英米圏の文学批評分野において、アメリカの新批評が、その歴史的使命を終えたあと、そしてフランス現代思想の構造主義が英米圏を席捲する前の一時期、唯一本格的で英米文学に留まらないスケールの大きな文学理論を構築した聖職者であり文学研究者であって、その主著『批評の解剖』の見事な翻訳がまだ出版され前から、翻訳紹介されて日本でもよく読まれた。

個人的なことだが、大学院の入試面接のとき、大学院では、どのような研究をするつもりかと聞かれ、いくつか手短に話したなかで(これは想定される質問ではあったので、答えは用意していたのだが)、ノースロップ・フライが行なっているような批評研究をしたいと答えた記憶がある。のちに指導教官となる小津次郎教授は、ああ、フライねと言ったきりで、フライのことを知っているのか知らないのかもよくわかない、曖昧な顔というか、あまり嬉しそうな顔をしなかった(と私は感じたのだが)。そのためまずいことを言ってしまったのかと悔やんだが、幸い入学できた。

やがて大学院で、小津次郎先生のシェイクスピア・エリザベス朝演劇の授業を受けることになったのだが、ある時、先生は、授業の最後に、突然、いまノースロップ・フライが日本に来ていて、これから学士会館(今はなき学士会館分館)でセミナーと歓迎会をするので、みんな残って出席するようにと言われた(もちろん都合が悪ければ院生は帰ってもよかったのだろうが、私も含め全員が、そのまま学士会館の会議室に移動した)。フライ教授夫妻は、日本英文学会が全国大会時に招かれて来日したのだとあとでわかった。

ノースロップ・フライ夫妻を囲んで、学士会館の小さな会議室でのセミナーが行なわれた。出席者は駒場と学外からの名の知れた先生方数名と、私たち院生だけだったが、冒頭で簡単な歓迎スピーチをした小津先生が、英語で、フライ教授にはわが英文科も恩恵を被っていて、これまで何度も教授の文章を大学院入試問題に使わせてもらった(とそのあと版権上の問題がどうのと面白いことを話されたのだが、今は覚えていなかった。またその部分がとくに受けたわけでもなかったのだが)と語って、私は驚いた。フライのこと知ってんじゃんと内心思いつつ。

セミナー後、場所を食堂にうつして、そこで歓迎の夕食会をもよおしたのだが、私の記憶にあるのは、私と同期の正岡和恵さん(まだ成蹊大学英語英米文学科教授なのかどうかわからないが)が、フライ夫人と熱心に話し込んでいたことだけで、私自身も、フライ教授に、なにか簡単な質問めいたものを個別にしたように思うのだが、何を話したのか記憶にはない。【なお正岡和恵さんには「シェイクスピアと犬」という優れた論文(2021)がある。明らかに私よりも高い生産性を誇る研究を今もされている。】

ただ、大学院ではフライ的な批評研究をしようと意気込んでいた私が、フライ本人と出逢うチャンスを手にしたくせに、案外、あまり感激していない点、違和感を抱かれるかもしれないのだが、その時点で、私にもわかっていたのだが、フライ自身は高齢の大御所的存在(実際にはその後、カナダを代表する知識人にまでなるのだが)であって、仰ぎ見るような存在ではあっても、熱狂的に教えを請いたいような存在ではなくなっていた。本人をまぢかで観ることができたのは、よかったとしても、握手した手を洗わないでおこうというような気持ちが起こることはなかった。

そのフライだが、どこかで、シェイクスピアの『リア王』に触れ、劇作家自身、この救いのない芝居を書いたものの、それでなにか世をはかんで自殺するということはなくて、おそらく「やったね」とみずらかの作品の芸術的出来栄えに満足し、絶望などしていなかったに違いないというようなことを書いていた(「やったね」とは書いていなかったのだが)。

身もふたもないことをいえば、たしかに、『リア王』がいかに絶望的な悲劇を語る作品だとはいえ、作者も、役者も、その戯曲にかかわったらからといって自殺などしないし、廃人になったり自暴自棄になったりして生きる気力を失ったりするわけではないから、いかに救いがない作品とはいえ、ほんとうに救いがないわけではない。暗い絶望的世界観が披露されても、それはビジネス絶望でしかない、ということになる。

しかし、これはまがいものの絶望ということなのか。そうではあるまい。シェイクスピアは『リア王』を通して甘い期待を抱くことの愚を伝え、幻想を打ち破るリアルなるものに観客の注意を喚起しようとしたということはできる。

絶望について語る、絶望的状況を提示する、絶望を体験する、絶望をパフォーマンスする――すべて、絶望を関われば関わるほど、絶望を提示する技術が洗練されるように思われる。絶望技術のエラボレーション。それはもう絶望とは無縁の、希望の領域の出来事である。絶望をつきつめればつきつめるほど、逆説的に希望が湧いてくるのである。カミュがいうように(『希望とは何か』で引かれている)、絶望の文学は、ありえない。それは言葉の矛盾なのである。

シェイクスピアは空前絶後の絶望的悲劇芸術を完成させた。その悲劇芸術が高い完成度を誇れば誇るほど、絶望は遠のく、あるいは絶望を遠ざけることになる。フライの言明の趣旨はこういうことだろう。唯一の問題は、それはなにもフライ自身でなくても誰もが言いうるこということだが。

ちなみにこんな文章を書いてしまったらイーグルトン自身は、気にいらないに違いない。というのもフライは、テリー・イーグルトンのことが嫌いだからである。個人的にどうのこうのということではない。聖職者であり保守的な文学研究者であるフライが、マルクス主義批評家のイーグルトンを好きなはずはない。批判的文章を残している。

これに対し、イーグルトンが引用するフライの文章がすごい。フライは、自分と他の批評家たちとを比べて見てた場合、とくに自分が優れているとは思わない、ただ、自分には天才が備わっていたと述べているのだ。このバカがとは書いていないが、それに類するインプリケーションをもってイーグルトンは引用している(『批評とは何か』青土社)。参考までに。
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2022年04月07日

『希望とは何か』7

『リア王』と希望

シェイクスピアの『リア王』を翻訳で読んだの中学生の時である。中学生の頃の私は学校から帰ると文学全集(当時、ブームだった)を読みふけっていて、それこそトルストイの『戦争と平和』とかドストエフスキーの『罪と罰』とか『カラマーゾフの兄弟』、あるいはショーロホフの『静かなドン』、そして『千夜一夜物語』(最後の夜まで読んだ)と、毎日、活字(当時は活版印刷だった)の海に溺れそうになっていた、というよりの勉強もせずに読んでいたので、完全に溺れていた(親は、本を読んでいれば学校の勉強しているものと思い込んでいたので、とくに勉強をせよとは言われなかった)。そのためシェイクスピアの戯曲の翻訳を読んだとき、戯曲だから長編小説よりも活字の数が少ないので、一作品をあっというまに読めた。いわゆる四大悲劇は全部、一日で読んだ。ものすごいハイスピードで読んだと思うが、まとまった作品を短時間で読める快感にひたった。

しかし大学の授業で、『リア王』を英語で読んだときには、全体の筋立をまったく覚えていなかった。そのため初めて読む作品とかわらなかった。なぜそんなことになったのか。記憶力なさすぎると我ながら反省したが、『リア王』は、シェイクスピアの他の悲劇に比べると、完全ダブルプロットで、筋が入り組んでいる。したがって翻訳で読みとばしたときには、複雑な構成を理解できないまま、結末までたどり着き、そしてすぐに次の『マクベス』を読み始めたので、読んだと言っても、字面を追っただけで、感動もしなかったのだと思う。そして内容はすぐに忘れた。それに比べて大学生で授業で一年間かけて読んだ時には、新鮮な驚きと深い感動をもって『リア王』を読むことができた(英語は難しいところがいっぱいあったというより、理解できなかったところが多くあったが、それでも琴線に触れる障害にはならなかった)。

『リア王』には問題点(とはいえ作品の欠陥とは言い切れない、むしろ作品の卓越性の根拠にもなっているのだが)は多くあって、そのひとつに、最後の締めの台詞が、この大悲劇のまとめの言葉としては、あまりにテンションの低い、ありふれた教訓となっていることがあげられる――「思っていることを素直に言おう」というのが締めくくりの台詞、なんだ、これは?と思う人がたくさんいても不思議ではない。イーグルトンは、その『シェイクスピア』(平凡社ライブラリー)で、この何の変哲もないありふれた台詞を、身体と言語記号との関係――相克と調和――という観点から読み解いて、私をほんとうに驚かせてくれた。

そして今回『希望とは何か』では……

しかし「希望」について語るのに、なぜわざわざシェイクスピアの『リア王』なのか。それが問題である。なぜなら『リア王』はシェイクスピアの悲劇のなかでも、もっとも絶望的な作品、救いのまったくない作品に思えるからだ。いったい、それの、どこに希望があるのか。

『リア王』が絶望的な悲劇となっていることと、その構造が昔話的であることとは関係がある。シェイクスピア劇の根底には、おとぎ話的構造があるという指摘は昔からあるが(たとえばCatherine Belsey, Why Shakespeare? 2007【著者は昨年2021年亡くなられた】)、とりわけ『リア王』は、老いた国王が、三人の娘を愛情テストをし、もっとも父親思いの末娘を忘恩の娘と誤解し追放することで、その後、艱難辛苦を舐める……という物語は、まさにおとぎ話。そしておとぎ話であるからには、ある種の理想的な世界が前提とされり、いかに悪が栄えようとも、いかに苦難の人生であろうとも、いかに大きな災厄に襲われようとも、最後には幸福が訪れるという希望の物語であることが、おとぎ話の前提である。

おとぎ話というイメージから醸成される期待の地平を、ひとつひとつ裏切り、壊してゆくのが『リア王』である。それゆえ受容者(観客、読者)にとっては、たんに悲劇的物語を傍観するのではなく、自身が、衝撃を受ける側になる。受苦は登場人物だけでなく観客もまた体験する。

あるいはラカン的想像界、現実界の考え方を使えば、おとぎ話的世界は、ある意味、すべてが都合よく望むままにすすむ想像界である(芸術作品としての戯曲であることを考慮すれば象徴界か)。しかし想像界に私たちが安住することを、この戯曲は許してくれない。予想を裏切る衝撃的な出来事は生まれ、私たちは言葉を失いかねない。まさに現実界の衝撃、あるいは抑圧された現実界の回帰が生まれる。

したがって『リア王』は、期待を裏切り、希望をひとつひとつ潰しにかかる以上、反希望の芝居、救いがまったくない芝居ということができる。

救いがまったくない芝居。だが、ほんとうに救いがまったくないのか。希望のかけらはひとつもないのか。

これは『リア王』のなかの有名な場面のひとつだが、ある人物(エドガー)が、自身の落ちるところまで落ちた境遇をかえりみて、もうどん底にきたのだから、あとは這い上がるしかないと、なにか晴れやかな気持ちで述懐すると、そこに、両目をえぐり取られ、眼が見えなくなって召使の手をひかれてやってくる父親がやってくる。エドガーは、これをみて「これが最悪だと言っていられるうちは、まだ最悪ではない」と嘆く。

どん底まできたのだから、あとは上昇するしかないというのは、ヨーロッパ中世の運命の車輪のイメージからくるものであり、またおとぎ話的な世界観でもある。どん底まで落ちればあとは這い上がるしかない。実際、観客もそう期待する。そしてさらなるどん底へと突き落とされる。期待は裏切られ、おとぎ話的世界はこなごなになる。だから甘い期待を抱いて生きるのは愚かである。オプティミズムは罰せられるのである。

ただし「これが最悪だと言っていられるうちは、まだ最悪ではない」という台詞には、言葉で「これが最悪だ」と言っていられる限り、まだほんとうの最悪ではないという意味にもなる。イーグルトンが『希望とは何か』で着目するのもこのことである。

もしほんとうにこれが最悪であるなら、言葉も出てこないし、生きる意欲は失われ、嘆く気力さえ消え失せるだろう。ほんとうの最悪は、言語表現の極北どころか、言語表現を彼方にある。逆に、これが最悪だと言っていられるうちは、まだ最悪ではないのであり、そこにかすかな希望がある。

前回の記事で、「想像力は死んだ、想像せよ」というフレーズについて考えたように、「想像力が死んだ」とい言える限り、想像力は完全に死んでいない、まだかすかに息がある。想像することは、まだ、ほんのかろうじてであれ、可能なのである。「これが最悪だと言っていられる限り、それは最悪ではない」は、たんに落ちるところまで落ちたのだから、あとは這い上がるしかないという、根拠のない甘い考え、オプティミズムだけを意味するのではない。「これが最悪だと言っていられる限り」、人間にはまだ言語能力がある。言語能力があるかぎり、最悪は回避される、最悪は消滅できる。最悪を見据えて生き続けることができる。希望はあるのである。この土壇場の、ぎりぎりの希望、それがイーグルトンが『希望とは何か』で私たちに伝える希望なのである。

「想像力は死んだ、想像せよ」というのは、「想像力は死んだ、【想像力は死んだと言える限り、あるいは、想像力は死んだと、想像力にもとづくメタファー表現ができる限り】想像力はまだ生きている」と読み換えることができる。そして『リア王』をふりかえれば、まさにこのことがあてはまる場面がある。

リア王は、冒頭で追放した末娘のコーディーリアに、最後には助けられる。娘にみずからの過ちを詫びる――和解する老王と娘。だが、このおとぎ話的結末に観客が安住することを戯曲は許さない。戦いに敗れ捕虜となった老王と娘に、暗殺命令が下る。通常なら、これはクライマックスとなるハッピーエンディングを盛り上げるためのサスペンスでしかないだろう。はらはらドキドキさせながら、結局うまくいくだろうという観客の甘い期待を裏切って、リアにとって残された唯一の救いであったコーディリアは殺される。彼女の遺体を抱きかかえてリアが登場する。コーディーリアとの再会で正気をとりもどしていたリアは、絶望のあまり再び狂気にとりつかれたかのようにみえる。

しかし最後の瞬間、リアは、コーディーリアがまだ息をしているという幻覚にとらわれる。彼女はまだ生きているという思い込んだままリアは息絶える。

「コーディーリアは死んだ、コーディーリアはまだ生きている」

かくして老王と娘は、天国で結ばれるとか、あまりに悲惨な運命に対してシェイクスピアは、たとえ事実とは反することであれ、リアに救いとなるような幻覚を抱かせたのだとか、狂気のリアは、コーディーリアが生きているという幻想なくしても死にきれなかったのではないかとか、いろいろ解釈はできる。

しかし、そうしたメロドラマティクな観点に一理あることは否定できないが、同時に、むき出しの真実が、ここにあるのではないだろうか。「コーディーリアは死んだ、コーディーリアは生きている」という台詞はないのだが、この言明どおりの展開を戯曲は形成する。それは「コーディーリアは死んだ」と言葉で表現でき認識できる限り、その言表行為の瞬間と、その余韻のなかで、コーディーリアはまだ息をしているのである。「死んだ」といえる限り、「まだ死んでいない」あるいは「かろうじて、息をしているのである」。コーディーリアの死を嘆くことができる限り、コーディーリアは死んでいないのである。

戯曲はいっぽうで言葉にならない悲劇に直面しながらも、それを言語表現によって伝えることができる限り、悲劇はまたかろうじて克服できるのである。だとすれば言語芸術としての悲劇が伝えているのは、言語表現を不可能にするブラックホールのような悲劇ではなく、悲劇が土壇場でかろうじて、ほんとうにかろうじて克服できることである、つまり言語芸術としての悲劇が使えるのは希望なのである。
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2022年04月06日

『希望とは何か』6

脱構築と希望

ずいぶん前のような気がするが、文学理論の入門講義のなかで、脱構築について説明する際に、私は、こんなことを話していた。昔配ったプリントは電子化しているので、今、記憶を確かめることができる。

「メタファーは殺される」という文なりフレーズがあるとする。
これはつまり、メタファーは、否定、否認、却下、抹消されるということ。

しかし、生き物ではなく、無生物や概念に対して「殺される」という語句を適用するとき、その「殺される」は、メタファーとなり、全体がメタファー表現となります。ということはメタファーは「殺されていません」。残念な表現・文です。

これはメタファーを否定し抹消するその瞬間に、メタファーを登場させるメタファー表現を使うという矛盾です。

メタファーは不要とされながら、メタファーを使うことによって必要であると証明されてしまう言行不一致の実例でもあるのです。

メタファーは不要といいながら、自分でメタファー表現を使っている矛盾

「殺される」というメタファーは、あるいはメタファー表現は死角に入っている。

メタファーは「殺される」というメタファー表現で、結局、メタファーは、否定されているのか肯定されているのか、死んでいるのか生きているのかわからない幽霊となる。

メタファーは殺されるのか殺されないのか決定不可能undecidableである。


脱構築について説明するとき、その基本は矛盾の指摘であると話す。「メタファーは殺される」という一文で、メタファーは殺されているのか活かされているのか決定不可能である。もちろんこうした矛盾を指摘することで、あなたが相手の怒りを買い、どんなに悲惨な人生をあゆむことになっても私は責任はとりませんからと、断るのだが。

あるいは「イズムは嫌いだ」「イズムにはコミットしない」というようなフレーズなり一文があるとする。

これを世界で初めて口にした人に対しては問題ないが、こうした言い方は誰もが一度ならず聞いたことがあるはず(もしそうでなかったら、ぼっーと生きてんじゃないぞと言われてもしかたがないだろう)。つまり「イズム化」してもおかしくない常套的な意見である。そしてまた「~イズム」がどんな場合にも悪であるとも言えないとすれば、「イズムは嫌いだ」というのは、「反イズム」の表明であり、みずからが「反イズム」といいう「イズム」に陥っていることになる。このことは重要で、みずからの「イズム」(ここでは「反イズム」的姿勢に無自覚なまま、あるいは自らの「反イズム」を死角として、他人のイズムだけを批判することほど、愚かで、また有害なものはないということになる。

しかし、同時に「反イズム」というのは、それ自体、「イズム」ではあっても、一理あるというか重要な姿勢であることはまちがいない。したがってみずからの「反イズム」というイズムに気づかずに「イズム」批判をするのは、愚かかもしれないが、同時に、誰もが犯す過ちかもしれない。先ほどの「メタファー」は殺されるも同じことで、否定されるメタファー表現を、みずから実践してしまうことは、愚かさの証拠というよりも、誰もが日常的に行なっていることであって、寛容になれとか大目に見よということではなく、言述行為に生ずる矛盾は、コミュニケーションにとって有害でもあり、また有益な働きをするのではないか。矛盾の指摘だけではなく、矛盾の効能みたいなものを考えてもいいのではないか……。

と、ここまでが脱構築の授業で話してきたイントロである。

しかし、今回、さらなる別角度から、こうした矛盾現象について語れるのではないかという気がしてきた。希望という観点である。

メタファーは重要なもので、私はメタファーが駆逐されたり亡くなったりするのはよくないことかと思うのだが、ただ一般には、なぜメタファーが殺されるのかピンとこない人も多いと思うので、前回の「想像力は死んだ」にもどそう。おそらく「想像力」というのはメタファーよりも明確に善いものとされているように思うので。

そうなると「想像力は死んだ」というのは、「死んだ」というメタファー表現が想像力なくしてありえないものなので、想像力は死んでない、つまり矛盾することになる。しかし、矛盾を指摘して終わりではない。

想像力というのが、もし言語道断の悪辣なものであるのなら、「死んだ」といいながら想像力の働きを維持しているという矛盾なり裏切りは許し難いものであり、この矛盾は強く指摘しなければならない。

しかし想像力は、よいものである。となると「死んだ」という表現のなかに、想像力の痕跡が残っていることは、よいことではないか。想像力消滅という暗いニュースの映像のなかで、消滅した想像力が、それでもぴくぴくとかろうじて体を動かしているのをみるようなものである。

矛盾というのは、一般に、虚偽、ごまかし、隠蔽、欺瞞の温床だが、同時に、生と死の共存、対立するものの共存であり、決して滅びることのない、その片鱗の残存をも意味することがあり、希望の温床ともなる。

イーグルトンが『希望とは何か』の最終章で語る、Hope against Hopeとは、まさにこのように脱構築的観点か指摘されるうる消去できぬ矛盾の存在のなかに、希望の光をみることとつながっている。そしてこのような希望の在り方は、脱構築によってのみ浮上するだけではない。文学作品そのものが、これまでずっと語ってきたことでもある。つづく

posted by ohashi at 19:56| 『希望とは何か』 | 更新情報をチェックする

2022年04月05日

『希望とは何か』5

イマジネーション・デッド、イマジン
イーグルトン自身が考える希望観については、その最終章に披瀝されるのだが、それはたとえば、Imagination Dead Imagineとでも言えるような絶望のなかのかすかな希望あるいは絶望にのみこまれつつも最後の一手のようなものと考える。

Imagination Dead Imagineはサミュエル・ベケットの散文作品(1965)であり、それ自体、興味深いテクストなのだが、ここではタイトルのみにこだわることにしたい。

ちなみに私がイギリスで生活していた頃、いまもそうかどうかわからないが、庶民の日常生活を構成するあらゆる事物が、がたがきていて、よく壊れた。ただし、よく壊れるのだが、すぐに直してくれるという点で制度そのものはまだ健在だった。

そんなとき電話が通じなくなった。電話は日本からもよくかかってくるので、この状態が続くと日本の家族とか知人に余計な心配をかけることになりかねない。そこで電話局に通報して一刻も早く直してもらうことにした。自宅の電話は使えないから、町の公衆電話を使った(ちなみに携帯とかスマホがまだない時代の話である)。

電話が通じなくなったと言おうとして‘My telephone is’と言いかけたが、さて次に何とつづけたらいいか言葉が出てこない。今、冷静に思い返せば、いろいろな言葉、フレーズを思い浮かべることができるが、その時はあせって、思わず‘My telephone is dead.’と言ってしまった。

しまった!なんて稚拙な表現を使ったのだと後悔したが、それで完璧に通じて、その日のうちに復旧してくれた(フラットのある建物の電話設備の点検時に切られたスイッチをもとにもどし忘れたというそれだけのことのようだった)。だから、それでいいようなものだが、その時は、私としては「僕の電話がね、死んじゃったの」という、まともな大人なら言いそうにない表現を使ったと思い恥ずかしくなった。まあ相手は外国人だからと大目にみてくれるかもしれないとしても。

しかしその時はわからなかったのだが、 ‘My telephone is dead’というのは立派な英語である。私自身、それが思わず口をついて出たというのは、どこかで耳にした、どこかで読んだかして、記憶されていたからだろう。別に子供じみた表現ではないし、それでスムーズに相手に伝わったのだから常套的表現であった。実際、その時は知らなかったのだが、これは英和辞典などに例文としても掲載されている。

Imagination dead imagineのdeadというのも機能しなくなったということでMy telephone is deadのdeadと同じである。そのことを言わんとしてどうでもいい思い出話をと怒らないで欲しい。それは想像力が死んだ、枯渇した、働かなくなったのに、どうして想像できるのかという問いとも関係する。

もし「想像力は死んだ、想像せよ」が『希望とは何か』で最終的に語られる希望のイメージなら(と、私は考えるのだが)、なぜ、すべてが失われ可能性がなくなったときに、なぜ想像できるのかが問題になるはずである。まあ、やけくそで、だめでもともとで、とにかく「想像する」のだという根性論に通ずるものがあるかもしれない。あるいは旧約聖書の『ヨブ記』にあるいように、「たとえ神が私を殺すとしても、私は神を信仰する」という無根拠・無償の信仰・信念とどこかでつながるものがあるのかもしれない。どちらもイーグルトンは首肯するかもしれないが、また、希望とは、なんとかなるさというオプティミズムとは異なり、根拠のあるものだという説もイーグルトンは紹介している。そうImagination dead imagineのimagineを可能にする根拠は、このフレーズのなかにある。

Imagination deadのdeadは、機能不全、不可能になったということを「死んだ」と表現するメタファーである。生きているものは死ぬ。しかし生物以外のものについて、「死んだ」というのはメタファーである。My telephone is deadも、ある意味、幼児が使うような稚拙なメタファー表現かもしれないが、一般には、メタファーとして意識されることのないありきたりなフレーズと化しているとしても。

想像力が枯渇する、働かないという思いに嘘偽りはないとしよう。しかし、そのことを「死んだ」というメタファーを使うことで、かろうじて想像力は、その土壇場のぎりぎりのところで消滅間近の瀬戸際で生きていた。この最後の想像力の一片、このなけなしの想像力、日常的なフレーズのなかに埋没しつつもかろうじて息づいていた想像力のひとかけら、これがあるかぎりに、想像力は絶滅していない。そしてこのミニマムな想像力を賭けることはできるだろう。ほんとうにゼロになることはない。なにかが残る。その微小な可能性にすがることができる。

だからこそ「想像力は死んだ」⇒「死んだ」といえるかぎり想像力はまだかろうじて生きている⇒この最少の想像力があるかぎり、想像はできる。

あるいはこうも言える。何かが死んだといえる限り、それは死んでいないとも。希望はないと言える限り、希望はあるのだ、と。 つづく

posted by ohashi at 23:17| 『希望とは何か』 | 更新情報をチェックする

2022年04月04日

『敵こそ我が友』

前に「敵こそわが友」というタイトルで記事を書いた。この「敵こそわが友」というフレーズで思い浮かべていたのは、

『敵こそ、我が友 ~戦犯クラウス・バルビーの3つの人生~』
MON MEILLEUR ENNEMI(仏)/MY ENEMY'S ENEMY(英) 2007年/フランス映画/1時間30分監督:ケヴィン・マクドナルド


である。2008年に銀座テアトルシネマ(今は亡き)で観た。フランス語のタイトルは「我が最良の敵」、英語のタイトルは「わが敵の敵(⇒敵の敵は味方ということか)」。日本語のタイトル「敵こそ我が友」とは微妙に違うような気がするが、私はこの日本語の表現が面白いと思って記事のタイトルと主題を示すフレーズとして使った。

とはいえこのドキュメンタリー映画も面白いものだった。

映画.comの紹介

ナチス・ドイツ親衛隊に所属して"リヨンの虐殺者"の異名で恐れられたクラウス・バルビー。しかし彼はその後も戦犯として裁かれることなく、アメリカ陸軍情報部のために対ソ連のスパイ活動を行ったエージェント・バルビーとして、続いて南米ボリビアで軍事独裁政権の誕生に関わったクラウス・アルトマンとして、歴史の影で暗躍を続けた。3つの人生を生きた男の数奇な運命を検証することで戦後史の裏側を照らし出したドキュメンタリー。


ネット上にあった、ある映画評

映画は、かなりシンプルに、記録映像、写真、関係者のインタビューを中心に、時代順に進んでいきます。


ドキュメンタリー映画だから、これはあたりまえのこと。映画の特徴でもなんでもない。この映画評は、クラウス・バルビーについての紹介(適切なもの)が続き、そして

ナレーションもなく、音声は記録映像部分以外はインタビューでつなぎますので、統一感がなく、テーマミュージック(フランス映画らしく、ちょっと哀愁の漂う洒落た感じのシャンソンです)も最初だけで本編の間ほとんど音楽なしです。インタビューには英語もありますがフランス語も多く、字幕をジッと見つめていないとすぐ置いて行かれます。それでいて映像もドラマティックに作った部分がないので、内容に強い興味がないと、見続けるのがちょっと辛い。フッと居眠りして目を開けたら話が見えなくなっていたりします。


てめーが興味がないだけだろう。映画の内容は興味深いものだったし、進行も緊迫感に満ちていた。そして

記録映像の残り具合やインタビューの取りやすさからでしょうけど、南米に行ってから、それもフランスの引き渡し要求以後の部分が長くなっています。3つの人生というサブタイトルから見ても、3つめが長くなってバランスを崩している感じがしますし、後半をもう少しまとめた方がよかったかも。


三つの人生というは日本で勝手につけたサブタイトルで、もとの映画に責任はない。そしてエラそうに上から目線で「後半をもう少しまとめた方がよかったかも」だと。途中で居眠りしていたくせに、なにを偉そうに。あるいは後半だけ起きていて、時間がたつのが遅かったのか。映画評の的確な内容のまとめも、どうせ何かの資料を読んでまとめただけだろう。上映中、居眠りをしていただけだろうから(ただし、このレヴューアーには、映画を観る前から、内容は想定済みで、目新しい情報がなかったからかもしれない。とはいえ、よくわかっている馴染の内容のとき人は居眠りはしないものだ)。

最後に、このレヴューアーは、こんな感想を述べている。


率直に言って、もう少し見せる工夫をして欲しい映画ですが【またまた上から目線ですか?手慣れた構成で、予備知識ゼロの観客もついてけるような工夫は凝らされていたと思うのだが】、こういう堅いドキュメンタリーをいまどき8週間上映する(今日から7週目。9月19日まで)銀座テアトルも立派かなとも思います。


私はこの映画を銀座テアトルで観た。こいつの、上から目線の鼻もちならない皮肉にはうんざりする。私が観たとき、客席はほぼ満席だった。人がたくさん入ったから長い期間上映しただけの話なのだが、気にいらない「堅いドキュメンタリー」長く上映すること自体が悪であるようなこいつの口ぶりは、ファシストのものである。今風の言い方をすればプーチン風である。

なお、このHGレヴューアーには関心がなかったのかもしれないが、クラウス・バルビーを主題とする映画は、20世紀末から進んでいる第二次世界大戦のナチス占領下における、ナチス戦争犯罪への協力者と協力状況の洗い直しの一環であるともいえる。この洗い直しのなかで、ヴィシー政権下のフランスの状況が浮かび上がり、そして中立国であったスイスのナチス協力問題も露呈されることになる。多くのフランス人はユダヤ人を差別していたから、ナチスに協力した。また戦後はバルビーはアメリカに利用された。黒歴史は続く。この映画は、まさにこうした漆黒の闇の歴史に光をあてているのである。面白くないはずがない。

あとこのドキュメンタリー映画がフランス映画だというレヴューアーはいても、監督がケヴィン・マクドナルドであることに言及しているものは私が読んだかぎりネット上にはなかった。

ケヴィン・マクドナルドは英国の(正確にいえばスコットランド出身の)映画監督で、ドキュメンタリー映画と劇映画の両方を撮る、ある意味、特異な監督である。ドキュメンタリー映画としては『ミュンヘン・テロ事件の真実 』One Day in September (1999)、『運命を分けたザイル』Touching the Void (2003)、『ボブ・マーリー/ルーツ・オブ・レジェンド』Marley (2012)、『ホイットニー 〜オールウェイズ・ラヴ・ユー〜』Whitney (2018)などがある(私の観た映画に限っているが)。

劇映画には『ラストキング・オブ・スコットランド』The Last King of Scotland (2006)(衝撃的な映画だった)。『消されたヘッドライン』State of Play (2009)(メディア、ジャーナリズム物)。『第九軍団のワシ』The Eagle (2011)(宮崎駿が東北を舞台にアニメ化しようとしたローズマリー・サトクリフの同名の小説の実写化)。『わたしは生きていける』How I Live Now (2013)(主役のシアーシャ・ローナンが英国にやってきたアメリカ人少女(この設定には違和感があった)を演じた映画。あまり評判にならなかったが、シアーシャ・ローナンのファンである私はけっこうおもしろかった)。『ブラック・シー』Black Sea (2014)(ジュード・ロウ主演の映画だが残念ながら未見)。『モーリタニアン 黒塗りの記録』The Mauritanian (2021)(監督の特異なドキュメンタリーと劇映画が合体したかのような劇映画)。
 
ケヴィン・マクドナルド監督は英国アカデミー賞を受賞したドキュメンタリー(再現映像を使う)で一躍有名になったと思うのだが、私というよりも日本人観客とっては『ラストキンブ・オブ・スコットランド』で知られるようになった。ジェイムズ・マカヴォイが狂言回し的役割なのだが、なんといっても独裁者イディ・アミンを演じた フォレスト・ウィテカーの不気味さが秀逸で、ウィテカーがそのレパートリーに変質者的人物を加えるようになったはじまりの映画かもしれない。また『ブラック・シー』以後、作品がなかったような気がするが、『モーリタニアン 黒塗りの記録』(2021)で復活した観があるのは、ファンとしては、嬉しい限りである。

『敵こそ我が友』も、ケヴィン・マクドナルド監督のドキュメンタリー映画として、ファシストを告発すると批判的になる日本のファシズム勢力の雑音に邪魔されることなく見直していい時期だと思う。

【追記:『ラスト・キング・オブ・スコットランド』の原作ジャイルズ・フォーデン『スコットランドの黒い王様』(新潮社1999)は、いまは駒場の武田将明先生が、大学院生時代に翻訳したものである。博士課程に入ったばかりか、入る前に出版した翻訳だと思うが、このこと自体驚異的である。いまでも博士前期課程の大学院生が長編小説の翻訳を名だたる出版社(新潮社)から出版するということはまずない。武田先生の早熟ぶりに圧倒されるのだが、もうひとつAmazonのこの本のサイトには、映画化に際して、武田先生が自分の翻訳を2か所訂正するコメントを掲載している。ご覧いただきたい。Amazonにそういうシステムがあったのか。Amazonにどう頼めば、翻訳者からの訂正を掲載してもらえるのか。武田先生の手腕には圧倒される。】
posted by ohashi at 01:50| 映画・コメント | 更新情報をチェックする

2022年04月03日

プラモデル T-80

恥ずかしながら、この二、三か月、私はプラモデルを作っていた。中国のプラモデル・メーカーであるトランペッター製のロシアの戦車T-80である。

部品が1000個近くあるのだが、それを聞くと、どんなに大きなプラモデルを作っているのかと呆れる向きもあろうかと思うのだが、1/35の縮尺で、ミリタリーの戦車モデルとしては標準の大きさである。両手に乗るくらいのサイズ。

そもそもロシアの戦車は、そんなに大きくない。アメリカの主力戦車、M1A2エイブラムズよりも小さいのではないか。ただ小さい分、軽快な運動性を誇り、プラモデルの箱絵でも、ジャンプしているロシアの戦車が描かれることもある。バイクレースでジャンプするオートバイ同様、戦車がジャンプするのである(たぶんエイブラムズにはできないことである)。

また実際、第二次世界大戦中にロシアのT-34ともに戦った重戦車KV-1とT-80は同じくらいか、もっと小さいかもしれない。今は放送しなくなったが少し前までCSでロシアの軍事兵器を紹介するアメリカのドキュメンタリー番組があったが、そのなかで巨漢のレポーターは、T-80の操縦席に乗り込めず、ほぼ上半身を出したまま戦車を操縦することになった。またそこに登場する本物の戦車兵は、小柄だった(ちなみにこの番組でT-80がカッチョイイと思った私は、T-80のプラモデルを注文していた)。

また部品が1000近くあっても、たとえばキャタピラーは、一体成型ではなく、ひとつひとつくみ上げるタイプなので、それだけで200から300くらいのパーツを使う。1000のパーツはそんなに驚くほどのものではないし、すでに述べたように、モデルも大きいものでもない。

とはいえパーツの多さは、たとえ外形だけに限られていても(つまり、戦車の内部は造られていない)、簡単な短期日の完成を阻むものであるので、あせらず、暇をみては、少しずつ組み立てた。もし毎日没頭して組み立てたら、しなければいけない仕事に支障をきたすだけでなく、日常生活そのものにも支障をきたすことはわかっているので、絶対に没頭しないよう心がけている。

そしてロシア軍のウクライナ侵攻が始まった。

こうした陸海空の兵器のプラモデルというのは、兵器そのものの特徴ある形態やデザイン面でも造型意欲を掻き立てるものであって、兵器モデルはプラモデルのなかでも(ガンダムモデルを除けば)花形といってもいい。ただし、それは平和なときの話。

ウクライナ侵攻でロシア軍の戦車がウクライナの街を破壊しつくして廃墟にし、民間人の虐殺に貢献してることを想像するだけでも、ロシアの戦車のプラモデルを組み立てる意欲は消えた。おそらく、この未完のプラモデルは、早晩、廃棄されることだろう。

ただ、べつに老化を防ぐということだけでなくとも、手を動かしていたい、こまかな手作業をつづけていたいという意欲はあって、そうだ同じ戦車プラモデルで、ウクライナのT-84がトランペッター製品にあったと思いだし(T-84はロシア軍のT-80をもとに開発された)、注文購入しようとして、AMAZONや、プラモデル通販サイトを覗いてみて、愕然とした。

プラモデル通販サイトでは、ウクライナのT-84戦車が、人気で、注文数が増加していることがわかった。まあプラモデルファンなら誰でも同じことを考えることがわかったし、それ以上に、私がそんなことを考えたこと自体、恥ずかしくなった。

戦争の惨劇がウクライナで続いているときに、そんなかたちで戦争と戯れるのはまちがっている。もしロシア軍の戦車が日本に侵攻していたら、民間人として作るべきはロシアのT-80 のプラモデルだろう。大急ぎで組み立てて、それを、戦車を回避する方法、あるいは有効な攻撃法を探ることに役立てることができるかもしれない――そんなことで役立つとは思えないとしても。ロシアのT-80はやめてウクライナのT-84を組み立てみようというのは、毎日ウクライナの惨状が報道されている国に住んでいるのに、緊張感も倫理観も想像力もすべてがなさすぎる。あまりに能天気である。恥を知るべきである。

実際のところ、今の私にはプラモデルを作っている時間的余裕はまったくないのだが、もし余裕ができたとしても、おそらく自動車かバイクのプラモデルを作ることだろう。
posted by ohashi at 19:05| コメント | 更新情報をチェックする

2022年04月02日

『希望とは何か』4

2022年3月10日に岩波書店よりテリー・イーグルトン『希望とは何か』を翻訳出版した(単独訳)。この翻訳について、裏話といってもたいした話ではないのだが、まあ裏話めいたエピソードを断続的に記しておきたい。

メニッポス的諷刺について

すでにイーグルトンの『希望とは何か』が、「希望」という異例のテーマであることに戸惑いを感じている読者も多いかもしれない。このことはすでに『希望とは何か』2(2022年3月)で述べた。

べつにむつかしく考えなくていい。イーグルトンは希望についての哲学的・神学的・思想的そして文学的な観点について列挙しながら、「希望とは何か」(本書のなかで最長の第2章のタイトルがこれである)について語っている。そこはむつかしくない。私の翻訳がうまく訳し切れているとしての話だが。

むしろむつかしいのは、議論があっちへ行ったりこっちへ来たりと、議論が、なにかとりとめもなく放浪している感じがするというところだろう。キルケゴールの『死に至る病』(つまり絶望)についても、まとまったページが割かれている。もちろん、話題にそってその都度発揮されるイーグルトンの記述の瞬発力ははんぱではなく、キルケゴールの『死に至る病』についての記述は、凡百の啓蒙書を凌ぐ。嘘だと思うなら、ほんとうに『死に至る病』についてのなんらかの解説書・解説文と、本書の記述を読み比べていただきたい。

ただし、絶望の話までして、どうなるのかとか、第3章の終わりは、希望もなければ絶望もしない、ただ享楽的に破滅と戯れる「バカップル」アントニーとクレオパトラの話で締めくくられるのも、その話は本当に面白いのだけれども、なぜ、ここでという疑問は残る。

私は訳者あとがきのなかで、本書が「メニッポス的諷刺」の体裁をとる記述であることをくどいほど指摘した。最初は、あとがきで書くことがなくて、無い知恵を絞って苦し紛れでメニッポス的諷刺の話をしたというところもないわけではないが、今となっては、実に的確な指摘ではないかと、我ながら、自分の慧眼に驚いている。

私は近代のメニッポス的諷刺の典型としてヴォルテールの『カンディード』やサミュエル・ジョンソンの『ラセラス』を考えているのだが、それは主人公が、なんらかの叡智を求めて旅をし、いろいろな哲人・賢者の話を聞くことにある。彼ら賢人たちが説く思想はどれも一理あるものだが、同時に、どれも限界を抱えていることがわかる。結局、絶対的な真理などないことを納得した主人公は自分なりにゼロから物を考えることを決意する。

このメニッポス的諷刺の、物語ではなく、論説面でのヴァリエーションというのは、百科全書形式とかアナトミー形式と呼ばれるもので、これは諷刺性というよりも網羅性を重視する。なんらかの主題について、多様な観点を、網羅的に過不足なく、可能な限り、その全体像を俯瞰できるように語ることが重要になる。多様な観点について優劣はつけない。超越的な絶対的な観点というものは示さない。俯瞰図が提供できればいい。百科全書形式というのは言い得て妙である。

だから『希望とは何か』の読者は、イーグルトンという観光案内人のあとをついて、希望についてのさまざまな観点について、みてまわるというように考えてもらえればいい。そのため、重複とか似たような例がつづいたり、議論が反復的になったり、超越的な観点がなくても、読者は気にしないでいただきたい。観光地をめぐると考えていただければよい。

また、この観光案内人、皮肉な笑いや諷刺的笑い、さらにナンセンスな笑いおよぶユーモア感覚に優れているのだが、いつものようなユーモアは、ないわけではないが、今回は控えめになっている。

しかし個々の事例についての、つっこみはいつも優れていて、なるほどと納得させられるのだが、同時に、この観光案内人、いろいろな希望観について紹介してくれるのだけで、どの希望観が優れているとか、どの希望観にコミットすべきかについては、語ってくれない。

もちろん、これがメニッポス的諷刺あるいは百科全書形式の特徴なのである。最終的解答が示されることはない。あるいは最終的結果は読者が選ぶしかない。そしてそのことの最悪の結果は予想できる。メニッポス的諷刺の対象となるのは、どちらかというと先端的で流行をいく現象なり事物なり思想である。そして諷刺の対象になるのだから、そこで語られ展示されたものは、どれもがクズであるという暗示がある。だから、全部廃棄しても問題ない。どれも知らなくても支障はきたさない。かくして従来通りの保守的な観点が守られることになる。先端的知であれ叡智であれ、新奇な流行現象であれ、そんなものはすべてゴミ芥、あぶくのようなもので、コミットするにおよばない。コミットしないほうがいい。従来の保守的観点なり姿勢こそが素晴らしいという暗示されるのである。

あるいは百科全書的に展示された網羅的知は、学ぶべき対象などではなく、廃棄すべきゴミなのである。そしてゴミを片づけることのできる語り手は、読者であるあなたは、賢人や哲人の所説にまどわされることのない最高の叡智を身に着けた超越的な人間ということになる(実際には、こうした所説を提供できるような知恵も力もありませんと、読者であるあなたは謙虚な姿勢をとることになるが、もちろん、内心では、このクズがと最高度の傲慢さで、メニッポス的諷刺の対象を嘲笑することになる)。

しかし、『希望とは何か』の案内人は読者をこうしたところに導こうとしているのではない。読者は心配するには及ばない。観光地案内が終わったあと、この案内人は、自分の希望観を最後に披露してくれるからだ。つづく
posted by ohashi at 19:15| 『希望とは何か』 | 更新情報をチェックする

2022年04月01日

『希望とは何か』3

2022年3月10日に岩波書店よりテリー・イーグルトン『希望とは何か』を翻訳出版した(単独訳)。この翻訳について、裏話といってもたいした話ではないのだが、まあ裏話めいたエピソードを断続的に記しておきたい。今回は第三回目

既訳の使用について

今回、個人としての初の試みとして、原書中に引用されている語句や文について、既訳のあるものは、すべてそのまま使用することにした(既訳があることを知らずに見落としたものもあったかもしれないが、既訳があることを知っていながら、その訳文を採用しないということはしなかった)。

これまでも私自身、既訳のあるものは、一部、それをそのまま使ったりしたこともあったが、既訳はすべて使ったということはなかった。その意味で初めての試みだったが、それなりに苦労はあった。

いや、自分で訳すのではあく、他人が訳したものをそのまま使ったのだから、苦労などないはずと思われるかもしれないが、けっこう苦労した。

最初は、そのつもりはなく、既訳のあるものも、すべて自分で訳しなおすつもりだったが、途中で、既訳をそのまま使ったら(もちろん出典は明記する)、訳文にも変化がでて、多様性を実現できるのではないかと思えてきた。

【注記:もちろん私の翻訳の場合、引用文あるいは言及のある文献で既訳のあるものは、たとえ自分で訳しなおす場合でも、そのページ数を記載することを原則としているので、該当箇所の既訳を探したあと、その既訳をただ参考にするか、そのまま使用するかは、労力の点で大差はない(もちろん、使用した場合はその旨を明記する)。

もうひとつ、既訳の該当箇所は、これまで該当ページだけを記載していたが、その本を持っているか閲覧できるなら意味があるが、そうでなければ、あまり意味もないことがわかった――ただし既訳をそのまま使うなら、使用箇所を明記するためにページ情報は必要となる。また最近では電子書籍も増えているので、該当ページ情報は意味がなくなる。そのため、今回は、可能な限り、該当ページが、その著作のどういうところにあるのかも、該当ページとともに記載することにした。たとえば、二三六頁(第4章)というように。

なお、既訳情報までも丁寧に記載する、私の翻訳方法は、翻訳出版の敷居を必要以上に高くするのではないかと危惧する向きもあろう。それはそのとおりで、どの翻訳も、既訳のあるものは、私がしたようなこと(最低限でも既訳の出版状況と該当ページの記載)をすべきだと要求するつもりはない。どの翻訳もそのようなことをしたなら、私の翻訳の読者サービスや情報提供が他の翻訳に比べて格段に優れていることが見えにくくなる。敷居の向こうにある格違いの翻訳は私の翻訳だけでいい。】

最初は、すべて既訳のあるものないものの、すべて自分で翻訳するつもりで、全体の半分くらいまで翻訳作業をしていた。そこですでに自分で翻訳したところと既訳とを比較してみた。正直言って原文の解釈について既訳から教えられたところもあったが、ただ全体として既訳のほうが完成度が高かった。これは私の翻訳能力が劣っているということもあるが、まだ下書き段階の私の翻訳文と、推敲と校閲を経て何度もチェックが入ったうえで出版された既訳とでは、気合と費やされた労力が違う。既約の完成度が高いのは当然といえば当然である。このこともあって、最初から引用文で既訳のあるものは、それを使うことにした。

そこまではいいとしても、既訳を使うことにもリスクはあった。原書では、一部を切り取って引用するわけだが、その際、前後関係から隔離された引用文は、独特のオーラのようなものを帯び始めることになる。そのため元の文脈においては、目立たなかった意味なりニュアンスが、浮上し強調されることになる。そうなると、既訳の訳文では、新たに生ずるオーラなりニュアンスなりを伝えきれないという事態にもなる。しかし、こういう場合、そこは無視して既訳を使うことにした。ひとつは解釈がまちがっているわけではないこと。またすべての引用文の既訳がそうであるわけではないこと。またニュアンスをかぎとる読者の読解能力の高さを信頼してよいと判断したからである。

なお『希望とは何か』は、コンパクトな希望学大全といった趣があって、希望に関する数多くの引用に彩られているのだが、その引用で既訳のあるものすべてを使うといっても、けっこうな量の引用なので、具体的にどのようにして調べ確認したのかと苦労話を期待されるかもしれない。

調べることはけっこう苦労した。ひとつの引用の出典を調べ、日本語訳を突き止めるのに一日がつぶれたということはよくあった。しかしそれ以外に苦労はしなかった。日本語訳は図書館で調べればよいのだが、ただ、このコロナ過で大学図書館が開いていないことも多かったというか、実際どうなのか部外者にはよくわからなかった。またどこの図書館であれ、そこへの移動というのは、自粛生活中の身にとっては、けっこう抵抗があった。そこで入手できる既訳はすべて購入した。

唯一の例外は、キケロ―からの引用(第2章、原注96)。これは大学の図書館にいけばあるだろうが、タイミングと自粛生活から遠くまで足を運びたくない。古書でばら売りにもされているのだが、一冊でもバカ高い値段がついていて、とても貧乏人の私には手を出せない。『キケロ―選集12』(岩波書店)が欲しかったのだが、しかたなく、編集者の方に、岩波書店で保管されているであろうこの本を閲覧させてもらえないかとお願いした。早くて15分、長くても1時間で該当箇所は見つけるからとも伝えた。するとありがたいことに、コロナ過で、わざわざ出向いてもらう必要はない。本を送るから、×月×日までに返してもらえばよいといことだった。

本が届いた。思ったより分量のある著述だったが、20分くらいで引用されている箇所をみつけた。日本語訳は、英語訳よりもニュアンスをくんだ丁寧な翻訳だった。該当箇所とページも分かったので、その日のうちに返送した。

日本語訳を使わせていただいた本は、キケロ―の選集以外、すべて私が所持している。そう、使った既訳の本は、すべて手元にある。もちろんもともと持っていた本があるので、新たに購入したといっても多額の書籍費を費やしたわけではない。とはいえ、この経費と翻訳を献本した経費をあわせれば、完全に赤字になることはまちがいない。昨年末のイーグルトンの『文化と神の死』(青土社)と、今回の『希望とは何か』は、ともに赤字である。翻訳を出せば出すほど貧乏になっていることはまちがいない。

まあ、それはともかくとして、一つの著述に対して複数の既訳があった場合どうするかは迷った。たとえば原書ではシェイクスピアからの引用が多いのだが、シェイクスピアの既訳は複数ある。私は個人的にどれも名訳だと思っているので、特定の既訳だけを集中的に使用するという理由はない。そしてどの既訳を使っても、なんとなく角がたつようなところもある。

ただし、岩波書店から出版される本である。岩波文庫のなかには、シェイクスピア作品も、絶版のものも含めていくつか入っている。そのためシェイクスピアに限らず、岩波文庫にあるものは、優先的に既訳として使うことにした。実際、著者イーグルトンが引用する文章のほとんどが、岩波文庫に入っていたということにもなった。シェイクスピアに限ると、『マクベス』は木下順一訳、『リア王』は野島秀勝訳、『アントニーとクレオパトラ』は本多顕彰訳を使うことになった。どれも訳文として問題はないというかすぐれている。本多顕彰訳(絶版)は、固有名詞の表記が、やや古臭いのだが、そのままとした。

そして岩波文庫にないシェイクスピアの『冬物語』は、一番新しい日本語訳として、松岡和子氏のちくま文庫版を使うことになった。岩波文庫版と一番新しい松岡和子訳というのであれば、まあ、誰からも文句は出ない――いや、文句を言う人などいないと思うのだが、自分なりにバランスのとれた選択だったと自負している。
posted by ohashi at 18:00| 『希望とは何か』 | 更新情報をチェックする