2022年3月10日に岩波書店よりテリー・イーグルトン『希望とは何か』を翻訳出版した(単独訳)。この翻訳について、思うところをいくつか断続的に記しておきたい。
今回は第2回目、題して「希望?」
2021年12月にはテリー・イーグルトンの『文化と神の死』(青土社)を翻訳出版した。これはけっこう大部な本で、しかも哲学的神学的で地味に難解な本かもしれず、その時点で読者が期待をもって手にするような本ではなかったかもしれないが、今回の『希望とは何か』の出版によって、興味をもたれる読者もいるのではないかと考える。
と同時に『文化と神の死』は、宗教的転回をし、また文化ならびに文化研究について考察しつづけているイーグルトンの、いかにもイーグルトンらしい本で、イーグルトンを知っている読者なら、たとえ手に取らないとしても、さして違和感をもたないに違いない。
ところが、この『希望とは何か』については、え、何? イーグルトン、希望?といぶかる読者もいるようだ。イーグルトンを知っている読者なら、なおさらそうかもしれない。
たとえばイーグルトンの『唯物論とは何か』――もし翻訳出版されるなら『マテリアリズムとは何か』となるかもしれないが――、『倫理とは何か』、『悲劇とは何か』、『犠牲とは何か』、『文化とは何か』、『ユーモアとは何か』という本なら*、読者も安心するかもしれないが、『希望とは何か』というのは、あまりにイーグルトンらしからぬ、またこのご時世におもねるような、あるいは自己啓発本めいたもののようで、多くの読者にとって違和感マックスかもしれない。
しかも原著は2015年。なぜあの時点で、「希望」なのかという違和感は私も抱いていた。そうしたこともあって、あのような、訳者あとがきの冒頭となった。
また私自身、最初はこの本をとくに翻訳したいとは思わなかった。岩波書店から依頼されなかったら、私としては、この本を翻訳しなかったと思うのだが、いまは、この翻訳をしてよかったと思う。岩波書店にも感謝したい。比較的薄い本だが、「希望学大全」とでもいうべき本であり、「希望」について改めて考えることができた。
*ここに列挙した本は、未訳のイーグルトンの著作のタイトルを、少しアレンジして示している。『文化とは何か』は、すでに松柏社より翻訳出版されているのだが、原著のタイトルはThe Idea of Culture。その後、イーグルトンはCultureという本も出していて、そちらの本を指している。
2022年03月20日
『希望とは何か』1
2022年3月10日に岩波書店よりテリー・イーグルトン『希望とは何か』を翻訳出版した(単独訳)。この翻訳について、裏話といってもたいした話ではないのだが、まあ裏話めいたエピソードを断続的に記しておきたい。
今回は第1回目。
著者イーグルトンは本書でスペインの作家エンリーケ・ビラ=マタスの小説Dublinesque(英語訳のタイトル)から引用している(翻訳p.207)。このDublinesqueは日本語訳がなく、どう訳してよいか最後まで迷った。『ダブリン風』というのは芸のない訳し方だと思われるかもしれないが(もし日本語訳が今後出版されるとすれば、「タブリン風」というタイトルだけは選択されないだろう)、この訳題にも、一応、正当的な理由はある。
というのも小説のなかで、Dublinesqueは、フィリップ。ラーキンの詩のタイトルでもあると書かれている。そこでラーキンの詩の翻訳では、‘Dublinesque’をどう訳しているのか、本を取り寄せて調べてみた。
この本がラーキンの詩集の唯一の翻訳かどうか、また新たな翻訳が出版されたかどうか、なにも知らないのだが、この詩集にかぎっていうと、‘Dublinesque’という詩のタイトルは「ダブリン風」と訳されていた。まあ誰にとっても、これは無難な訳題なのだろう。
ところでエンリーケ・ビラ=マタスについて、私は日本で翻訳が出始めた頃はなにも知らなかった。ただ大学院の授業で、現代文芸論に所属する院生が、『バートルビーと仲間たち』(木村榮一訳、新潮社、2008)について熱く語る研究発表をしたときに、いくらアメリカ文学やメルヴィルは専門外とはいえ、「バートルビー」をタイトルにした外国文学について知らなかったことについて、自分の不明を恥じたし、また、その研究発表から作家と作品に興味をもった。
その後、日本語訳と英語訳を入手し、以後、私にとって、愛読書のひとつとなった。昨年はビラ=マタスの短篇集『永遠の家』が翻訳出版された。この『ダブリン風』もいつか翻訳されることを期待している。
ちなみに訳者あとがきを書いているとき、そこで触れられている「メニッポス的諷刺」には、『バートルビーと仲間たち』も含まれることに気づいて、本文中の引用で、既訳のあるものは、それを使うという、今回の翻訳の方針について、訳者あとがきのなかで、気の利いたことを書こうとして、以下のような、たいして気の利いたわけではないことを書いてしまった――
恥ずかしながら、この引用での「先達への業績への畏敬……」は、意味が通らないわけではないが、「先達の業績への畏敬……」とすべきだったと今になって気付いた。
それはさておき、実は、上記の引用では、以下の下線部を削除していた。
別に校閲者や編集者から指摘されたわけではなく、自分の意志で、削除した。もともと自虐的なコメントは嫌いではないというか大好きなのだが、読者にとっては、どうでもいい事柄で、訳者だけが面白がっていても読者には不快かもしれないと思って。
今回は第1回目。
著者イーグルトンは本書でスペインの作家エンリーケ・ビラ=マタスの小説Dublinesque(英語訳のタイトル)から引用している(翻訳p.207)。このDublinesqueは日本語訳がなく、どう訳してよいか最後まで迷った。『ダブリン風』というのは芸のない訳し方だと思われるかもしれないが(もし日本語訳が今後出版されるとすれば、「タブリン風」というタイトルだけは選択されないだろう)、この訳題にも、一応、正当的な理由はある。
というのも小説のなかで、Dublinesqueは、フィリップ。ラーキンの詩のタイトルでもあると書かれている。そこでラーキンの詩の翻訳では、‘Dublinesque’をどう訳しているのか、本を取り寄せて調べてみた。
『フィリップ・ラーキン詩集』児玉実用・村田辰夫・薬師川虹一・坂元完春・杉野徹訳(国文社1988)
この本がラーキンの詩集の唯一の翻訳かどうか、また新たな翻訳が出版されたかどうか、なにも知らないのだが、この詩集にかぎっていうと、‘Dublinesque’という詩のタイトルは「ダブリン風」と訳されていた。まあ誰にとっても、これは無難な訳題なのだろう。
ところでエンリーケ・ビラ=マタスについて、私は日本で翻訳が出始めた頃はなにも知らなかった。ただ大学院の授業で、現代文芸論に所属する院生が、『バートルビーと仲間たち』(木村榮一訳、新潮社、2008)について熱く語る研究発表をしたときに、いくらアメリカ文学やメルヴィルは専門外とはいえ、「バートルビー」をタイトルにした外国文学について知らなかったことについて、自分の不明を恥じたし、また、その研究発表から作家と作品に興味をもった。
その後、日本語訳と英語訳を入手し、以後、私にとって、愛読書のひとつとなった。昨年はビラ=マタスの短篇集『永遠の家』が翻訳出版された。この『ダブリン風』もいつか翻訳されることを期待している。
ちなみに訳者あとがきを書いているとき、そこで触れられている「メニッポス的諷刺」には、『バートルビーと仲間たち』も含まれることに気づいて、本文中の引用で、既訳のあるものは、それを使うという、今回の翻訳の方針について、訳者あとがきのなかで、気の利いたことを書こうとして、以下のような、たいして気の利いたわけではないことを書いてしまった――
本文中にも引用があるエンリーケ・ビラ=マタスの本文では触れられていない『バートルビーと仲間たち』――書けなくなった詩人・作家に関するまさにメニッポス的諷刺的総覧――に影響を受けた訳者は、既訳をただ書き写すことに、無上の喜びと、先達への業績への畏敬と感謝の念をいだいていた。p.241
恥ずかしながら、この引用での「先達への業績への畏敬……」は、意味が通らないわけではないが、「先達の業績への畏敬……」とすべきだったと今になって気付いた。
それはさておき、実は、上記の引用では、以下の下線部を削除していた。
本文中にも引用があるエンリーケ・ビラ=マタスの本文では触れられていない『バートルビーと仲間たち』――書けなくなった詩人・作家に関するまさにメニッポス的諷刺的総覧――に影響を受けた、あるいはすでにバートルビー化しているかもしれない訳者は、既訳をただ書き写すことに、無上の喜びと、先達への業績への畏敬と感謝の念をいだいていた。
p.241
別に校閲者や編集者から指摘されたわけではなく、自分の意志で、削除した。もともと自虐的なコメントは嫌いではないというか大好きなのだが、読者にとっては、どうでもいい事柄で、訳者だけが面白がっていても読者には不快かもしれないと思って。
posted by ohashi at 16:27| 『希望とは何か』
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2022年03月19日
ウォリック
1週間前になるが、CSのディスカバリー・チャンネルで『トップ・ギア』(再放送)をぼんやりみていたときのこと。ジェレミー・クラークソン、リチャード・ハモンド、ジェームズ・メイの三人組がまだ司会をしていたシーズン20の回だったと思うが、ゲストにWarwick Davisが出ていた。字幕では「ワーウィック」・デーヴィス(表記がデービスだったかどうか覚えていない)。しかし番組中では明らかに「ウォリック」と呼んでいるのに、なぜ字幕が「ワーウィック」なのか。
Warwickは「ウォリック」と発音することを無視して、「ワーウィック」と表記した昭和の時代から始まった悪習なのだろう。私が10代の頃は、「ディオンヌ・ワーウィック」という女性歌手をテレビでもよくみていた。
Wikipediaによれば:
この情報が真実なら、彼女の本名Warrickは「ウォリック」と発音するにちがいない。バカペディアはこれを「ワーリック」としているが、Warは「ウォー」でしょう。「ワー」と表記するのはただのバカである。彼女は芸名にするとき、Warrickではなく、より一般的なWarwickにしたのだろう。つまりここからもWarwickは「ウォリック」と発音することがわかる。
バカペディアによれば、
とある。だいたいバカペディアは、人物名の発音を原語読みに偉そうに訂正することが多いくせに、ここでは「Warwickは本来「ウォリック」と読む」と、なんてバカ慎ましいコメントをしてるのはなぜか。
まあWarwickを「ウォーウィック」(「ワーウィック」という読み方は問題外)ではなく「ウォリック」と読ませるのは特殊例であろうが、有名な例なので、一般的な発音慣習のなかで淘汰されずに残ったといえるだろう。たとえば東京の「渋谷」という地名は、「しぶや」と発音する。「渋谷」(地名、姓名)は「しぶや」「しぶたに」という二種の発音があるらしいのだが、東京の「渋谷」は知名度が高いので日本全国で「しぶや」と発音される。
同様にWarwickも知名度が高いので「ウォーウィック」と読む英米人はいない。地名でもあって、私自身、英国で暮らしていた頃、「ウォリックシャー」に住んでいた(「ウォリック」は、その州都)、住所の一部にも当然「Warwickshire」は入っていた。これを「ウォーウィックシャー」と読んだり発音したりすることはなかった。
【Warwickの発音を知らないバカな字幕制作者は、磔にして火あぶりにせよとか、一刻も早く回顧せよとか、地獄に落としてしまえと書けないのは、同様な愚かな間違いは私自身何度もしてきたので、あまり強く非難できないからである。】
シェイクスピアの『ヘンリー六世』と『リチャード三世』という初期歴史劇の第一・四部作の世界を題材にしたアニメ『薔薇王の葬列』が現在年放送されているが(原作の漫画は2013年から連載開始)、そこには「ウォリック伯爵」が登場する。
そろそろ「ワーウィック」という発音というか呼び方を絶滅させる時期ではないだろうか。
Warwickは「ウォリック」と発音することを無視して、「ワーウィック」と表記した昭和の時代から始まった悪習なのだろう。私が10代の頃は、「ディオンヌ・ワーウィック」という女性歌手をテレビでもよくみていた。
Wikipediaによれば:
ディオンヌ・ワーウィック(Dionne Warwick、本名 Marie Dionne Warrick マリー・ディオンヌ・ワーリック、1940年12月12日 - )
この情報が真実なら、彼女の本名Warrickは「ウォリック」と発音するにちがいない。バカペディアはこれを「ワーリック」としているが、Warは「ウォー」でしょう。「ワー」と表記するのはただのバカである。彼女は芸名にするとき、Warrickではなく、より一般的なWarwickにしたのだろう。つまりここからもWarwickは「ウォリック」と発音することがわかる。
バカペディアによれば、
ワーウィック・デイヴィス(Warwick Davis、本名:Warwick Ashley Davis 、1970年2月3日 - )は、イギリスのテレビ・映画俳優で芸能事務所社長。Warwickは本来「ウォリック」と読む。
とある。だいたいバカペディアは、人物名の発音を原語読みに偉そうに訂正することが多いくせに、ここでは「Warwickは本来「ウォリック」と読む」と、なんてバカ慎ましいコメントをしてるのはなぜか。
まあWarwickを「ウォーウィック」(「ワーウィック」という読み方は問題外)ではなく「ウォリック」と読ませるのは特殊例であろうが、有名な例なので、一般的な発音慣習のなかで淘汰されずに残ったといえるだろう。たとえば東京の「渋谷」という地名は、「しぶや」と発音する。「渋谷」(地名、姓名)は「しぶや」「しぶたに」という二種の発音があるらしいのだが、東京の「渋谷」は知名度が高いので日本全国で「しぶや」と発音される。
同様にWarwickも知名度が高いので「ウォーウィック」と読む英米人はいない。地名でもあって、私自身、英国で暮らしていた頃、「ウォリックシャー」に住んでいた(「ウォリック」は、その州都)、住所の一部にも当然「Warwickshire」は入っていた。これを「ウォーウィックシャー」と読んだり発音したりすることはなかった。
【Warwickの発音を知らないバカな字幕制作者は、磔にして火あぶりにせよとか、一刻も早く回顧せよとか、地獄に落としてしまえと書けないのは、同様な愚かな間違いは私自身何度もしてきたので、あまり強く非難できないからである。】
シェイクスピアの『ヘンリー六世』と『リチャード三世』という初期歴史劇の第一・四部作の世界を題材にしたアニメ『薔薇王の葬列』が現在年放送されているが(原作の漫画は2013年から連載開始)、そこには「ウォリック伯爵」が登場する。
そろそろ「ワーウィック」という発音というか呼び方を絶滅させる時期ではないだろうか。
posted by ohashi at 16:56| コメント
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2022年03月16日
『デジャブ』
これはトニー・スコット監督、デンゼル・ワシントン主演の映画『デジャヴ』ではなくて、2017年韓国映画『デジャブ』데자뷰/DEJA VUのこと。『今日も僕は殺される』(3月13日)をタイムループ物と勘違いしたのだが、これも同じく同じく勘違いした。ホラーとサスペンス物とを合体したような映画。タイムループ物ではないのだが、よくできた映画で87分間、けっこう緊張感をもって観ることができたのだが、ネット上の評判が悪すぎる。そのため、ここで長めにコメントしておくことにした。誰も観ないかもしれない映画についての、誰も読まないコメントを。
たとえば
というようなコメントが多い。おまえの頭の裾野のほうが、よっぽど荒れていて、日本人にとって恥だと言ってやりたいところだが、ネット上にはバカばっかりではない。
幸い、こんなコメントもあった――
私としては、このレヴューアーと同じ意見である。2015年の韓国映画『オフィス檻の中の群狼』について言及しているとこらかしても、私よりも明らかに韓国映画を良く見ているこのレヴューアーの判断基準からしても、この映画『デジャブ』は、悪い映画ではない。
ネット上には昨今の日韓関係からするという但し書きをつけてけなしているバカがけっこういるのだが、映画の内容は日韓関係とは全く無関係だし、日本の保守反動勢力が自分たちが韓国から批判されて憤っているだけで、多くの日本人は韓国、韓国文化、韓国映画は嫌いではないし、多くの日本人は、日本の保守反動勢力を嫌っているのだから、彼らに影響をうけた連中が、あるいは彼らそのものが、政治的に映画をけなすのは恥をさらすようなものである。
ただし、ひとつだけ挙げた(頭の裾野が荒れているバカレヴューアーの)否定的評価は、実は、それなりに映画の特徴をついているのだが、問題は、だからこの映画が素晴らしいとはならないことである。
たとえば「キャラクターもチープで感情移入できない/復讐者を憐れめない…/加害者も憐れめない…/主人公も憐れめない…」とあるのだが、これは正しい指摘なのである。あなたは頭がいい。頭の裾野が荒れているだけである。
なぜならこの映画の登場人物は全員悪人なのだから。たとえあやふやな記憶に苦しめられる可憐な乙女である主人公に対しても、最終的にわかるのは悪女であったということである。しかし、それは映画の欠点ではない。映画の古典的イメージについていえば、昭和の時代とともに失われた考え方かもしれないのだが、人物のアクドさ、クセの強さこそ、映画的人物であることのあかしなのである。だから全員悪人の映画は、映画的強度がマックスといえるかもしれない。いうまでもなくこの『デジャブ』はノワール系の映画であることからしても全員悪人なのは当たり前のことなのだ(ちなみに、これは『オフィス』の影響なのか、あるいは建設業者のステレオタイプのイメージの誇張かもしれないのだが、主人公の女性の婚約者は、建設業では現場監督というか現場責任者のような立場なのだが、部下を殴る。そして彼自身、会社役員の上司から殴られる。この企業は、ブラックを通り越してならず者企業である)。
逆に観る者の同情をひくような人物こそ、映画的にみれば観客におもねるチープな人物にすぎない。観客を苛立たせ、憤らせる、クセの強い人物が、映画の中心にいる。このことが頭の裾野が荒れている者にはわからないのは残念なことである。
映画のネタバレあらすじのまとめサイトhmhm(ふむふむ)から一部を引用すると
そしてネタバレなのだが、たぶん詳しい説明があってこそのまとめであるため、ネタバレにもならないかもしれないので、ここでさらに引用すると――
いずれ映画をみることがあれば、以下の記述を読めば納得してもらえると思うのだが、人物関係には二つの三角関係から成立する。ひとつは主人公の女性と、そのフィアンセの男性、そしてその男性の悪い友人(「ヤクザ」と字幕が出るのだが、「マフィア」と同じく、比喩的に語られているのか、ほんとうに「ヤクザ」なのか不明。反社会的勢力の一員ということなのだろうが)との三角関係。つまりこの悪い男が、自分の友人の婚約者の女性を奪おうとして緊張関係が生まれる。ただし、実は、主人公の女性のフィアンセの男も、その友人と同じく、かなり悪い男(部下を殴る、不正を金で解決しようとするのはそのほんの一端である)で、むしろ主人公の女性は、二人の仲を裂くというよりも、二人の仲を緊密にするような役割をになっている。
ちなみに「カメラに向かって鹿の生血を飲むって何だよ!(笑)」という頭の裾野が荒れている人物のコメントで触れられている場面は、ふたりのホモソーシャル男性が、実は、善人と悪人ではなく、ふたりとも悪人あるいは変態的狂人であることを示す驚愕的場面なのだが、二人は実は仲が良くて殺した野生の鹿を生き血をふたりで飲みあうような関係だと語る人物の言葉にかぶせて、口を鹿の血で赤く染めた二人の人物の映像が登場する。このとき二人ともカメラ目線なのである。ここを頭の裾野が荒れているレヴューアーは突いているのだが、指摘は正しい。ただしこれは映画的演出であって批判されることではない。ドゥルーズの用語でいえば、もしこれが「運動イメージ」なら、二人の男が殺した鹿の血をすするときに絶対にカメラ目線ではありえない。しかし「時間イメージ」なら、カメラ目線はありうる。つまりそれは二人の狂気を語る人物の意識のなかで加工されたイメージであり、客観的なものと主観的なものとがまじりあっているイメージなのだから。またいうまでもなく、二人の男が向かい合って黙々と鹿の生き血を吸っているよりも、誰に対してかわからないが、カメラにむかってこれみよがしに、彼らの狂暴な行為を誇示している、現実にはありえないクセの強い演出こそ、映画的なのである。
【なおドゥルーズの『映画論』における「運動イメージ」と「時間イメージ」の違いは、きわめて単純化していうと、文法用語でいう「直接法」と「接続法」の違いだと理解することができると思う。】
もうひとつの三角関係は、車にはねられて死亡した女子高校生、行方不明になったその女子高校生を探す兄の刑事。そしてこれは最後の最後でわかるのだが、その刑事の友人で、刑事の妹とも親しい精神科医。車にはねられ、まだ息のあるうちに埋められた女子高校生のために兄とその友人が、最初の三角形の三人に復讐する物語がこの映画ということになる。
そう、この最後の最後で明らかになる影の三角関係が、最初の三角関係に重なるというか復讐をとげることになる。よくできている物語構成ではないか。ちなみに最後に事件に深く関与していたことがあかされる精神科医は、映画のなかでは、さほど目立たないのだが、韓国映画では、良く知られた俳優が演じているため、私のように韓国映画にうとい人間ではない韓国映画ファンは、この俳優がこんな目立たない役で終わるはずがないと、その役割の重要性を最初から感知していたかもしれない――キャスティングの意味論と私が呼ぶ現象である。
表の三角関係に、影の三角関係が重なるというか襲い掛かり復讐をする。また表の三角関係のなかの主人公である女性は、影の三角関係のなかの車にはねられた女子校生のカウンターパート的存在であり、主人公と殺された女とが出会うときに物語は大団円を迎える。またそれは殺され埋められた女が掘り起こされることと、主人公の女性が埋葬された記憶を掘り起こすプロセスとパラレルになる。埋められた死体の露呈と、抑圧された記憶の意識内における回帰とが重なる。主題的にも計算されつくされた展開である。
また二つの三角関係については、偶然でもなければ私が勝手にそう決めつけているわけでもない。二重性、ぶれは、この映画の構成原理なのであって、このことはホラー的要素とサスペンス的要素との共存と、最終的にホラー的要素がサスペンスの枠組みのなかで暗示的に解決することからもいえるのである。二重性の刻印は映画のすみずみにまで押されている。
【なお主人公の女性と埋められた女子校生とがパラレルになることで(ここにもある二重性)、主人公の被害者性が高まり、かろうじて観客の共感を得ることになるが、最終的に、彼女は共犯者だったことがわかる。】
ただし、こうした重なり合い、パラレル化を、この映画は「デジャブ」と呼んでいるようなところがある(映画の中で、この言葉は一度も使われないのだが)。ある出来事が過去の出来事と類似しているようにみえたり、はじめての経験なのに、過去に経験したことのように感ずるのが「デジャブ」であって、おぼろげな過去の出来事を思い起こすとか、トラウマ的に過去の出来事が想起されることは「デジャブ」ではない。だが映画では、主人公の女性が、過去の出来事をぼんやり思い出すことを(ぼんやりとは、薬物によって記憶があいまいになり、さらには夢と現実との境目がわからなくなるからだが)、デジャブと考えているところがあり、この点、多くの観客が違和感を抱いたところかもしれない。
とはいえ主人公の女性に抑圧された記憶がよみがえってくるような時には、映像がぶれるという映画的な処理がなされている。物が二重にぶれてみえることで、表と裏、光と影、夢と現実、虚偽と真実とが重なる予兆を示すことになる――二重性のドラマが展開するのだ。
また主人公の女性は、死んだ女子校生のイメージに絶えずつきまとわれるのだが、そのはじまりは、鏡にうつった女子高校生の姿だった(ただし主人公の女性は気づいていない)。この鏡のイメージは強烈で、鏡から抜け出た女子高生が主人公の女性を襲うようなパターンが反復される。と同時に、主人公の女性にとって、この恐怖の女子校生は鏡の中の自分自身でもあって、結局、自分の真の姿に向き合うことで彼女は真相を知ることになるともいえる。このあたりも優れた演出である――鏡像との戯れと二重性。
この映画は、工事現場で、そこに居合わせた4人が下敷きになって死ぬことで終わりを告げる。その4人とは、
1)主人公の女性のフィアンセで女子高校生を車ではねて隠蔽工作を行った男(女子高生の兄で刑事の男に拷問を受けて殺される)
2)最終的に工事現場の地下に埋められていた女子校生の死体、
3)その女子校生を探していた兄の刑事。そして
4)主人公の女性をフィアンセから奪おうとした反社の男で、女性のフィアンセによって殺された。この4人である。
しかしほんとうにそうか。4)の男性は殺されたらしいのだが、誰が殺したのか、その死体はどこにあるのか、映画のなかで説明されていない。主人公の女性が、観客の眼からみれば第一容疑者なのだが、同時に、観客の眼から見ればたぶん彼女が犯人ではない。4)の人物の友人でり、彼女のフィアンセである男性が一番怪しいのだが、彼が殺したかどうか説明はない。むしろ工事現場で死んだのは4)の男性(あるいはこの男性の死体)ではなくて、主人公の女性ではないだろうか。
というのも過去の記憶が、薬物によって曖昧になってしまったという状態は、記憶喪失状態のひねりであって、記憶喪失物の常で、記憶を失う人物は、いくら過去において恐ろしい犯罪者とかプロの殺し屋であったとしても、善人に生まれ変わる。彼女も過去においては共犯者であったかもしれないが記憶を失ったあとは善人になる(だからフィアンセの交通事故を警察に告発することいなる)。そのため工事現場の崩落事故を生き延びたと考えたくなるが、また殺されて埋められた女子校生というカウンターパートと運命を伴にして、そこで工事現場で死亡したともとれる。
映画の最後で崩落事故を伝えるニュースの映像とコメント(字幕)からは、すくなくとも日本語字幕を信ずる限りでは、はっきりしないのだが、また私が見落とした可能性も大きいのだが、ただすくなくとも、このニュース映像は、たんに観客に向けての情報提供以上の意味をもっている。
つまりこのニュースをみている関係者がいるということである。もし主人公の女性が生き延びたのなら、彼女が見ているのかもしれないが、もうひとり、確実に観ている人物がいる。それがすでに述べた、影の三角関係を構成する、刑事の友人の精神科医である(正確にいうと、その精神科医の机のうえにある幼馴染三人組(のちの女子高校生・のちの刑事・のちの精神科医)の写真を通して、それがわかるのである)。
これで女子校生を殺した三人組をすべて破滅に導いた影の三角関係の存在があきらかになる。そしてひょっとして、この唯一の生き残りかもしれない精神科医が、友人の兄妹のために復讐をはたしたのではないかという可能性が示唆されるのである。
すくなくとももう一度見る価値の映画であることはまちがない。二重性とは反復と関係するのだから。
たとえば
演出が安っぽ過ぎて笑えた
カメラに向かって鹿の生血を飲むって何だよ!(笑)
全体的にスリラー演出迫力ないわぁ
音楽だけ盛り上げれば迫力でるわけじゃないことを再認識
キャラクターもチープで感情移入できない
復讐者を憐れめない…
加害者も憐れめない…
主人公も憐れめない…
韓国映画のてっぺんが非常にレベルが高いのは重々承知だが、しっかり裾野は荒れてますな
というようなコメントが多い。おまえの頭の裾野のほうが、よっぽど荒れていて、日本人にとって恥だと言ってやりたいところだが、ネット上にはバカばっかりではない。
幸い、こんなコメントもあった――
個人的には面白かった。
サスペンスかホラーかどっちつかずの方向性も、個人的には「両方の要素があっていいじゃん」と好意的に捉えられる。
同じ韓国だと「オフィス」なんかが似た雰囲気の映画だったが、パッケージがサスペンスっぽいので肩透かしを喰らう方が多いのだろう。
ところどころ安っぽい演出は気になるが、伏線を貼って回収していく韓国らしい緻密なサスペンス要素はお見事。緊張感もあって面白かった。ヒロインも美人。
私としては、このレヴューアーと同じ意見である。2015年の韓国映画『オフィス檻の中の群狼』について言及しているとこらかしても、私よりも明らかに韓国映画を良く見ているこのレヴューアーの判断基準からしても、この映画『デジャブ』は、悪い映画ではない。
ネット上には昨今の日韓関係からするという但し書きをつけてけなしているバカがけっこういるのだが、映画の内容は日韓関係とは全く無関係だし、日本の保守反動勢力が自分たちが韓国から批判されて憤っているだけで、多くの日本人は韓国、韓国文化、韓国映画は嫌いではないし、多くの日本人は、日本の保守反動勢力を嫌っているのだから、彼らに影響をうけた連中が、あるいは彼らそのものが、政治的に映画をけなすのは恥をさらすようなものである。
ただし、ひとつだけ挙げた(頭の裾野が荒れているバカレヴューアーの)否定的評価は、実は、それなりに映画の特徴をついているのだが、問題は、だからこの映画が素晴らしいとはならないことである。
たとえば「キャラクターもチープで感情移入できない/復讐者を憐れめない…/加害者も憐れめない…/主人公も憐れめない…」とあるのだが、これは正しい指摘なのである。あなたは頭がいい。頭の裾野が荒れているだけである。
なぜならこの映画の登場人物は全員悪人なのだから。たとえあやふやな記憶に苦しめられる可憐な乙女である主人公に対しても、最終的にわかるのは悪女であったということである。しかし、それは映画の欠点ではない。映画の古典的イメージについていえば、昭和の時代とともに失われた考え方かもしれないのだが、人物のアクドさ、クセの強さこそ、映画的人物であることのあかしなのである。だから全員悪人の映画は、映画的強度がマックスといえるかもしれない。いうまでもなくこの『デジャブ』はノワール系の映画であることからしても全員悪人なのは当たり前のことなのだ(ちなみに、これは『オフィス』の影響なのか、あるいは建設業者のステレオタイプのイメージの誇張かもしれないのだが、主人公の女性の婚約者は、建設業では現場監督というか現場責任者のような立場なのだが、部下を殴る。そして彼自身、会社役員の上司から殴られる。この企業は、ブラックを通り越してならず者企業である)。
逆に観る者の同情をひくような人物こそ、映画的にみれば観客におもねるチープな人物にすぎない。観客を苛立たせ、憤らせる、クセの強い人物が、映画の中心にいる。このことが頭の裾野が荒れている者にはわからないのは残念なことである。
映画のネタバレあらすじのまとめサイトhmhm(ふむふむ)から一部を引用すると
紹介:デジャブ(2017年韓国)ひき逃げ事故を起こしてから、恐ろしい幻覚を見るようになったジミン。警察や同乗していた婚約者からは、事故などなかったと言われるのだが…。
そしてネタバレなのだが、たぶん詳しい説明があってこそのまとめであるため、ネタバレにもならないかもしれないので、ここでさらに引用すると――
簡単なあらすじ ①婚約者・ウジンが女子高校生を撥ねた。その交通事故を隠匿したせいで繰り返し同じ夢を見るジミンは、警察にウジンの罪を話す。しかしウジンが撥ねたのはシカだった。ジミンの幻覚はエスカレートしていく。 ②遺体は別の場所に隠されていた。ジミンはウジンに薬を盛られ、そのせいで幻覚を見ていた。被害者はインテ刑事の妹、インテ刑事はウジンを殺し、自分もビルの崩落で死亡。
いずれ映画をみることがあれば、以下の記述を読めば納得してもらえると思うのだが、人物関係には二つの三角関係から成立する。ひとつは主人公の女性と、そのフィアンセの男性、そしてその男性の悪い友人(「ヤクザ」と字幕が出るのだが、「マフィア」と同じく、比喩的に語られているのか、ほんとうに「ヤクザ」なのか不明。反社会的勢力の一員ということなのだろうが)との三角関係。つまりこの悪い男が、自分の友人の婚約者の女性を奪おうとして緊張関係が生まれる。ただし、実は、主人公の女性のフィアンセの男も、その友人と同じく、かなり悪い男(部下を殴る、不正を金で解決しようとするのはそのほんの一端である)で、むしろ主人公の女性は、二人の仲を裂くというよりも、二人の仲を緊密にするような役割をになっている。
ちなみに「カメラに向かって鹿の生血を飲むって何だよ!(笑)」という頭の裾野が荒れている人物のコメントで触れられている場面は、ふたりのホモソーシャル男性が、実は、善人と悪人ではなく、ふたりとも悪人あるいは変態的狂人であることを示す驚愕的場面なのだが、二人は実は仲が良くて殺した野生の鹿を生き血をふたりで飲みあうような関係だと語る人物の言葉にかぶせて、口を鹿の血で赤く染めた二人の人物の映像が登場する。このとき二人ともカメラ目線なのである。ここを頭の裾野が荒れているレヴューアーは突いているのだが、指摘は正しい。ただしこれは映画的演出であって批判されることではない。ドゥルーズの用語でいえば、もしこれが「運動イメージ」なら、二人の男が殺した鹿の血をすするときに絶対にカメラ目線ではありえない。しかし「時間イメージ」なら、カメラ目線はありうる。つまりそれは二人の狂気を語る人物の意識のなかで加工されたイメージであり、客観的なものと主観的なものとがまじりあっているイメージなのだから。またいうまでもなく、二人の男が向かい合って黙々と鹿の生き血を吸っているよりも、誰に対してかわからないが、カメラにむかってこれみよがしに、彼らの狂暴な行為を誇示している、現実にはありえないクセの強い演出こそ、映画的なのである。
【なおドゥルーズの『映画論』における「運動イメージ」と「時間イメージ」の違いは、きわめて単純化していうと、文法用語でいう「直接法」と「接続法」の違いだと理解することができると思う。】
もうひとつの三角関係は、車にはねられて死亡した女子高校生、行方不明になったその女子高校生を探す兄の刑事。そしてこれは最後の最後でわかるのだが、その刑事の友人で、刑事の妹とも親しい精神科医。車にはねられ、まだ息のあるうちに埋められた女子高校生のために兄とその友人が、最初の三角形の三人に復讐する物語がこの映画ということになる。
そう、この最後の最後で明らかになる影の三角関係が、最初の三角関係に重なるというか復讐をとげることになる。よくできている物語構成ではないか。ちなみに最後に事件に深く関与していたことがあかされる精神科医は、映画のなかでは、さほど目立たないのだが、韓国映画では、良く知られた俳優が演じているため、私のように韓国映画にうとい人間ではない韓国映画ファンは、この俳優がこんな目立たない役で終わるはずがないと、その役割の重要性を最初から感知していたかもしれない――キャスティングの意味論と私が呼ぶ現象である。
表の三角関係に、影の三角関係が重なるというか襲い掛かり復讐をする。また表の三角関係のなかの主人公である女性は、影の三角関係のなかの車にはねられた女子校生のカウンターパート的存在であり、主人公と殺された女とが出会うときに物語は大団円を迎える。またそれは殺され埋められた女が掘り起こされることと、主人公の女性が埋葬された記憶を掘り起こすプロセスとパラレルになる。埋められた死体の露呈と、抑圧された記憶の意識内における回帰とが重なる。主題的にも計算されつくされた展開である。
また二つの三角関係については、偶然でもなければ私が勝手にそう決めつけているわけでもない。二重性、ぶれは、この映画の構成原理なのであって、このことはホラー的要素とサスペンス的要素との共存と、最終的にホラー的要素がサスペンスの枠組みのなかで暗示的に解決することからもいえるのである。二重性の刻印は映画のすみずみにまで押されている。
【なお主人公の女性と埋められた女子校生とがパラレルになることで(ここにもある二重性)、主人公の被害者性が高まり、かろうじて観客の共感を得ることになるが、最終的に、彼女は共犯者だったことがわかる。】
ただし、こうした重なり合い、パラレル化を、この映画は「デジャブ」と呼んでいるようなところがある(映画の中で、この言葉は一度も使われないのだが)。ある出来事が過去の出来事と類似しているようにみえたり、はじめての経験なのに、過去に経験したことのように感ずるのが「デジャブ」であって、おぼろげな過去の出来事を思い起こすとか、トラウマ的に過去の出来事が想起されることは「デジャブ」ではない。だが映画では、主人公の女性が、過去の出来事をぼんやり思い出すことを(ぼんやりとは、薬物によって記憶があいまいになり、さらには夢と現実との境目がわからなくなるからだが)、デジャブと考えているところがあり、この点、多くの観客が違和感を抱いたところかもしれない。
とはいえ主人公の女性に抑圧された記憶がよみがえってくるような時には、映像がぶれるという映画的な処理がなされている。物が二重にぶれてみえることで、表と裏、光と影、夢と現実、虚偽と真実とが重なる予兆を示すことになる――二重性のドラマが展開するのだ。
また主人公の女性は、死んだ女子校生のイメージに絶えずつきまとわれるのだが、そのはじまりは、鏡にうつった女子高校生の姿だった(ただし主人公の女性は気づいていない)。この鏡のイメージは強烈で、鏡から抜け出た女子高生が主人公の女性を襲うようなパターンが反復される。と同時に、主人公の女性にとって、この恐怖の女子校生は鏡の中の自分自身でもあって、結局、自分の真の姿に向き合うことで彼女は真相を知ることになるともいえる。このあたりも優れた演出である――鏡像との戯れと二重性。
この映画は、工事現場で、そこに居合わせた4人が下敷きになって死ぬことで終わりを告げる。その4人とは、
1)主人公の女性のフィアンセで女子高校生を車ではねて隠蔽工作を行った男(女子高生の兄で刑事の男に拷問を受けて殺される)
2)最終的に工事現場の地下に埋められていた女子校生の死体、
3)その女子校生を探していた兄の刑事。そして
4)主人公の女性をフィアンセから奪おうとした反社の男で、女性のフィアンセによって殺された。この4人である。
しかしほんとうにそうか。4)の男性は殺されたらしいのだが、誰が殺したのか、その死体はどこにあるのか、映画のなかで説明されていない。主人公の女性が、観客の眼からみれば第一容疑者なのだが、同時に、観客の眼から見ればたぶん彼女が犯人ではない。4)の人物の友人でり、彼女のフィアンセである男性が一番怪しいのだが、彼が殺したかどうか説明はない。むしろ工事現場で死んだのは4)の男性(あるいはこの男性の死体)ではなくて、主人公の女性ではないだろうか。
というのも過去の記憶が、薬物によって曖昧になってしまったという状態は、記憶喪失状態のひねりであって、記憶喪失物の常で、記憶を失う人物は、いくら過去において恐ろしい犯罪者とかプロの殺し屋であったとしても、善人に生まれ変わる。彼女も過去においては共犯者であったかもしれないが記憶を失ったあとは善人になる(だからフィアンセの交通事故を警察に告発することいなる)。そのため工事現場の崩落事故を生き延びたと考えたくなるが、また殺されて埋められた女子校生というカウンターパートと運命を伴にして、そこで工事現場で死亡したともとれる。
映画の最後で崩落事故を伝えるニュースの映像とコメント(字幕)からは、すくなくとも日本語字幕を信ずる限りでは、はっきりしないのだが、また私が見落とした可能性も大きいのだが、ただすくなくとも、このニュース映像は、たんに観客に向けての情報提供以上の意味をもっている。
つまりこのニュースをみている関係者がいるということである。もし主人公の女性が生き延びたのなら、彼女が見ているのかもしれないが、もうひとり、確実に観ている人物がいる。それがすでに述べた、影の三角関係を構成する、刑事の友人の精神科医である(正確にいうと、その精神科医の机のうえにある幼馴染三人組(のちの女子高校生・のちの刑事・のちの精神科医)の写真を通して、それがわかるのである)。
これで女子校生を殺した三人組をすべて破滅に導いた影の三角関係の存在があきらかになる。そしてひょっとして、この唯一の生き残りかもしれない精神科医が、友人の兄妹のために復讐をはたしたのではないかという可能性が示唆されるのである。
すくなくとももう一度見る価値の映画であることはまちがない。二重性とは反復と関係するのだから。
posted by ohashi at 20:55| 映画 タイムループ
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2022年03月13日
『今日も僕は殺される』
The Death of Ian Stones(2007)
87分の英国・米国合作映画。タイム・ループ物映画かと思い――日本語のタイトルそのものは、まさに『ハッピー・デス・デイ』の男性版としか思えなかったこともあり――、観てみたが、違った。
重厚かつスタイリッシュな映像をたたみかけてくる導入部、主人公の男性が殺され気づくと、パラレルワールドで生きている。パラレルワールドというのは、場所や環境や状況は変わっても同じ人物がまるで、あるエピソードのアダプテーションかのように反復される。その圧倒的な謎と神秘に期待は膨らむが、途中から、失速する。
人間の死に瀕したときの恐怖の感情を糧に生きているハーヴェスターという闇の一族(clan)に属する主人公は、一族を裏切ったために、彼らに付け狙われることになる。ハーヴェスター一族は現実改変能力をもっていて、彼らが主人公の青年を殺しては、べつの現実に蘇生させて、また殺すのは、どうやら裏切り者への懲罰らしい。青年を、この拷苦を救ってくれる鍵を握る一人の女性がいて……。
なんとう安っぽい設定なのだ。まあ『ダーク・シティ』のような映画と思えばいいのだが、それよりも設定がうすっぺらい。『アンダーワールド』のようにシリーズ化を狙っていたようなふしもあるが(最後に主人公は、逆に人間になりすましたハーヴェスター一族を狩りだすハンターとなっていくのだから)、これ一作で終わっている。
『華麗なるペテン師たち』にレギュラーで出ていたジェイミー・マーレイが魔女的な役で出ているが、それ以外に知っている俳優はいない。
ただ、それにしても劇場公開映画というよりも、テレビドラマあるいはテレビ映画的なところがあって、イギリスでは、こういうドラマがよく作られている。面白い設定とも思えないのに、繰り返しつくられるのはどうしたわけか(とはいえすぐに類似した作品のタイトルが出てこないのだが)、これはほんとうに謎である。
87分の英国・米国合作映画。タイム・ループ物映画かと思い――日本語のタイトルそのものは、まさに『ハッピー・デス・デイ』の男性版としか思えなかったこともあり――、観てみたが、違った。
重厚かつスタイリッシュな映像をたたみかけてくる導入部、主人公の男性が殺され気づくと、パラレルワールドで生きている。パラレルワールドというのは、場所や環境や状況は変わっても同じ人物がまるで、あるエピソードのアダプテーションかのように反復される。その圧倒的な謎と神秘に期待は膨らむが、途中から、失速する。
人間の死に瀕したときの恐怖の感情を糧に生きているハーヴェスターという闇の一族(clan)に属する主人公は、一族を裏切ったために、彼らに付け狙われることになる。ハーヴェスター一族は現実改変能力をもっていて、彼らが主人公の青年を殺しては、べつの現実に蘇生させて、また殺すのは、どうやら裏切り者への懲罰らしい。青年を、この拷苦を救ってくれる鍵を握る一人の女性がいて……。
なんとう安っぽい設定なのだ。まあ『ダーク・シティ』のような映画と思えばいいのだが、それよりも設定がうすっぺらい。『アンダーワールド』のようにシリーズ化を狙っていたようなふしもあるが(最後に主人公は、逆に人間になりすましたハーヴェスター一族を狩りだすハンターとなっていくのだから)、これ一作で終わっている。
『華麗なるペテン師たち』にレギュラーで出ていたジェイミー・マーレイが魔女的な役で出ているが、それ以外に知っている俳優はいない。
ただ、それにしても劇場公開映画というよりも、テレビドラマあるいはテレビ映画的なところがあって、イギリスでは、こういうドラマがよく作られている。面白い設定とも思えないのに、繰り返しつくられるのはどうしたわけか(とはいえすぐに類似した作品のタイトルが出てこないのだが)、これはほんとうに謎である。
posted by ohashi at 21:01| 映画 タイムループ
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2022年03月12日
3.11
2011年の東日本大震災から今年で11年目だが、今年がとくに感銘深いのは、11年前と同じ日付であるからだ。
2011年3月11日は金曜日であった。私は11年前の3月11日の金曜日の記憶は鮮明にある。
二日前から思い出してみよう。
2011年3月9日水曜日
この日、アレハンドロ・アメナーバル監督の映画『アレキサンドリア』(Agora 2009)を新宿のピカデリーで観た。レイチェル・ワイズが伝説の女性科学者・哲学者ヒパティアを演じたこの映画に私は少なからぬ衝撃を受けた。キリスト教徒(の兵士)を悪辣なファシストとして描く演出は新鮮であり、また納得できるものであった――ヒパティアの生涯が、いまなお世界に吹き荒れる宗教ファシズム(そして日本の専売特許になりつつある家父長制・男女不平等の暴力)の重要なエピソードでもあったことがわかったのだから。また彼女が魔女として生きながら体中の肉をそぎ落とされて処刑されたという伝承を知る者にとっては、その最期は、たとえ直接描かれることはなくても、観たくないものだったが、映画では、キリスト教に改宗し兵士となったかつての弟子が、彼女が残虐な拷問を受けるまえに、彼女を刺殺し、彼女を拷問死から救うという物語に変えていて泣けた。その弟子はマックス・ミンゲラが演じていた――今亡きミンゲラ監督の息子である。
この映画は、もうひとつの点でも、記憶に残っている。上映中に地震があった。上映が中止されるほどの大きな地震ではなかったが、今から思えば、翌々日の大地震の予兆でもあった。
3月10日木曜日
この日は、年度内の最期の教授会の日だった。それはいいのだが、同時に、東大の合格発表の日と重なった。もちろん合格発表の日であったことは知っていたが、いつものように赤門から構内に入ろうとして、発表を見にきた人たちで歩道が渋滞状況になっているところに巻き込まれてしまった。これは予想しなかったことで、引き返そう、別ルートをとろうとしても、人の流れに逆らうのはものすごくむつかしいことがわかった。
実際、教授会にまにあうかどうか心配になったが、なんとかぎりぎりで間に合った。
この年、予備校などのコマーシャルで、赤門前でインタヴューしている映像を使ったものがあったが、それは、この合格発表の日のときの映像である。つまり東日本大震災の一日前であった。
3月11日金曜日
この日は、姪といっしょに映画を観ていた。『ナルニア国物語/第3章: アスラン王と魔法の島』The Chronicles of Narnia: The Voyage of the Dawn Treader。2010年アメリカ公開。日本公開は2011年2月25日。
場所は神奈川県相模原市橋本の駅の近くのシネコン。地震発生の2時45分というのは、映画のなかで船が大きな嵐にもまれてたいへんな目にあっているというところだった。そのとき、私の座っている椅子が前後に揺れ始めた。一瞬、何が起こっているのかわからず、なにか映画のなかの船の揺れが観ている側にも影響を与え、椅子席が大きく揺れているような錯覚をあたえたのかと勝手に考えたが、鈍い私の頭にも、これが大きな地震の揺れではないかということがわかってきた。
地震が収まるまで、椅子にすわって様子を見ておこうとしたが、上映は中止になり、館内が明くるなり、観客が出口に殺到した。私は自分の席に留まっていた。冷静に地震の推移を観察していたというのではなく、どうしてよいかわからなかったのだが、すでに出口近くにいた姪の、私を呼ぶ声に目が覚めたようなかたちになり、急いで出口へ。
係員が廊下で待機するように指示したので、そこにたたずんでいると、大きな余震が二度三度訪れた。すこし収まったときに、係員の誘導で外に出たが、そのとき私は3Dのメガネをもったままだったので係員にメガネを渡したことを憶えている。
その映画は、実はあれから観てない。結末間際だったと思うが、観ていない。また映画そのものも、続編が作られる予定だったが、いまだに作られていない。『ナルニア国物語』フランチャイズは、未完のまま3作で終わっている。
だが、苦境は地震に体験したことだけでなく、その後であった。
相模原市の橋本駅周辺は、地震の影響で、完全に停電したのである。映画館から駅にもどる途中、駅のエレベーターに閉じ込められた人たちを救出する消防署員が活動していた。信号も止まっていた。商店街もすべて停電。店員が歩道に出てきていて様子をみている。そして電車も止まっていた。
駅のトイレには長蛇の列ができている。特に尿意をもよおしたわけではないが、トイレが簡単に使えないは心配であった。駅周辺でたたずんでいると、警察官が来て、近くの小学校に避難所があるから、そちらに移動するようにと言われた。地図などで場所を捜して行くと、小学校の体育館が開放されていた。小学校のトイレも使うことができた。ここで電車が動くまで様子を見るほかはないと決めて、余震で天井が揺れている体育館のパイプ椅子に座った。
しかし日が暮れても電車は止まったままで、この体育館で一夜を過ごすことになるのか覚悟を決める他はないと思ったのだが、夜になると、この体育館は近隣住民の避難場所となるので、そうでない人は隣の小学校の体育館に移動してほしいと言われた。
停電している住宅街・商店街は、ほんとうに真っ暗で、道路だけは、信号が機能していないので徐行している車のライトで明るいのだが、それ以外の場所は漆黒の闇である。したがって、案内された隣の小学校の体育館に到着したときはほっとしたのだが、すでに到着した人々が電気ストーブの周りを占拠していて、あとから到着した私たちは、体育館でも、ストーブから遠い、壁際に陣取るしかなかった。
到着すると、乾パンとバナナ一本と水が配られた(水はペットボトルではなかったような気がする)。神奈川県相模原市には、わたしのようなよそ者にも、寝る場所と食べ物をあたえてくれたことにほんとうに感謝しつつ、4,5枚パッケージされた乾パンを一枚とバナナ一本で夕食をすませたい。マットレスと毛布も支給された。
乾パンは、この難民生活が長引くかもしれないと心配して、一枚しか食べなかった。残りは翌日のためにのけておくことにした。と同時に、気づいたのが、こうした難民生活を余儀なくされると、ふだん大食らい私でも、乾パン一枚とバナナ一本でもうお腹いっぱいで、体が完全に省エネ・モードに移行したことを実感できた。
やはり未体験の試練は、慣れるまでに、精神的なダメージが大きく、食欲もなくなり、体も省エネ・モードに移行することが、ほんとうに実感できた。
深夜、12時近くになって京王線が復旧したというアナウンスがあって、けっこう多くの人が駅に向かった。私は京王線が復旧しても,その先がどうなっているかわからないので、夜をあかすことにした。いっしょにいた姪も私の妹も、横浜線を利用するので、京王線は関係ない。翌朝になれば電車も復旧するという見通しもあったので、とにかく寝ることにした。毛布一枚では寒い感じもしたが、体育館内には暖房が効いていることと、体が省エネ・モードになっているので、毛布一枚で充分に暖かかった。
実は、このとき、東京とか神奈川県全体が停電していたと思っていた私に、テレビを観ることができる携帯を持っていた姪が見せてくれた映像に、私は愕然とした。地震の被害を伝えるニュースを流すテレビ局そのものは、とくに停電していないようだったし、東京の風景も、帰宅難民につじての報道があっても、街は煌煌と照らされているようだった。
そうなると橋本周辺だけが完全停電で、周辺住民も来訪者も、難民生活を余儀なくされているのではないか。なんという運の悪さだと頭を抱えた。とはいえ体が省エネ・モードになっているので、憤ったり、嘆いたりするエネルギーはなくなっていた。
また一人で難民生活を送るのはつらかったかもしれないが、妹と姪といっしょだったので、あまり寂しさを感じなかったことも事実だった。
3月12日土曜日
とはいえ、妹と姪は、翌朝、早く起きて、ぐずぐずしている私を置いてきぼりにしそうなったので、なんとう薄情な母と娘だとあきれつつ、急いで追いつき、駅にむかったが、妹と姪は、駅直前で、先に行ってくれ、ここでお別れしようと言い出した。こちらは一刻も早く帰宅したかったこともあり、なにが解せないまま、駅前で別れたのだが、あとで聞くと妹と姪の母娘は駅近くの食堂で、ゆっくり朝食を食べてから帰宅したとのことだった。私も朝食に誘ってほしかった、ぞ。
橋本駅で京王線の始発に乗り、新宿まで。ところが山手線が動いていない。しかたなく新宿駅構内の放送を便りに、副都心線が動いているらしいことを知り、新宿三丁目まで歩いた。そして動きはじめた副都心線に乗り、私鉄に乗り継いで帰宅することができた。この間、昨日の乾パン1枚とバナナ一本以外、なにも口にしていないのに、まったく平気だった。やはり帰宅するまで、省エネ・モードはつづいていたのだ。
そう、帰宅してマンションについたらエレベーターが止まっていて、階段を上るしかなかったのだが、10階近い階段を歩いて登ることができた。省エネ・モードにもかかわらずというか、省エネ・モードになったがゆえにか。
いま世界は難民であふれている。11年前の東日本大震災で、疑似難民体験した私は、難民状態のつらさあるいは衝撃について、その一端に触れたように思う。また省エネ・モードがあることを実感した。しかしこれは生き延びる人間の知恵ということではないように思う。ショックで、生きる意欲がなくなり、エネルギーを必要としなくなったのだ。ゾンビ化といってもいい。これ以上、ゾンビを生み出すことのない世界はいつくるのだろうか。
2011年3月11日は金曜日であった。私は11年前の3月11日の金曜日の記憶は鮮明にある。
二日前から思い出してみよう。
2011年3月9日水曜日
この日、アレハンドロ・アメナーバル監督の映画『アレキサンドリア』(Agora 2009)を新宿のピカデリーで観た。レイチェル・ワイズが伝説の女性科学者・哲学者ヒパティアを演じたこの映画に私は少なからぬ衝撃を受けた。キリスト教徒(の兵士)を悪辣なファシストとして描く演出は新鮮であり、また納得できるものであった――ヒパティアの生涯が、いまなお世界に吹き荒れる宗教ファシズム(そして日本の専売特許になりつつある家父長制・男女不平等の暴力)の重要なエピソードでもあったことがわかったのだから。また彼女が魔女として生きながら体中の肉をそぎ落とされて処刑されたという伝承を知る者にとっては、その最期は、たとえ直接描かれることはなくても、観たくないものだったが、映画では、キリスト教に改宗し兵士となったかつての弟子が、彼女が残虐な拷問を受けるまえに、彼女を刺殺し、彼女を拷問死から救うという物語に変えていて泣けた。その弟子はマックス・ミンゲラが演じていた――今亡きミンゲラ監督の息子である。
この映画は、もうひとつの点でも、記憶に残っている。上映中に地震があった。上映が中止されるほどの大きな地震ではなかったが、今から思えば、翌々日の大地震の予兆でもあった。
3月10日木曜日
この日は、年度内の最期の教授会の日だった。それはいいのだが、同時に、東大の合格発表の日と重なった。もちろん合格発表の日であったことは知っていたが、いつものように赤門から構内に入ろうとして、発表を見にきた人たちで歩道が渋滞状況になっているところに巻き込まれてしまった。これは予想しなかったことで、引き返そう、別ルートをとろうとしても、人の流れに逆らうのはものすごくむつかしいことがわかった。
実際、教授会にまにあうかどうか心配になったが、なんとかぎりぎりで間に合った。
この年、予備校などのコマーシャルで、赤門前でインタヴューしている映像を使ったものがあったが、それは、この合格発表の日のときの映像である。つまり東日本大震災の一日前であった。
3月11日金曜日
この日は、姪といっしょに映画を観ていた。『ナルニア国物語/第3章: アスラン王と魔法の島』The Chronicles of Narnia: The Voyage of the Dawn Treader。2010年アメリカ公開。日本公開は2011年2月25日。
場所は神奈川県相模原市橋本の駅の近くのシネコン。地震発生の2時45分というのは、映画のなかで船が大きな嵐にもまれてたいへんな目にあっているというところだった。そのとき、私の座っている椅子が前後に揺れ始めた。一瞬、何が起こっているのかわからず、なにか映画のなかの船の揺れが観ている側にも影響を与え、椅子席が大きく揺れているような錯覚をあたえたのかと勝手に考えたが、鈍い私の頭にも、これが大きな地震の揺れではないかということがわかってきた。
地震が収まるまで、椅子にすわって様子を見ておこうとしたが、上映は中止になり、館内が明くるなり、観客が出口に殺到した。私は自分の席に留まっていた。冷静に地震の推移を観察していたというのではなく、どうしてよいかわからなかったのだが、すでに出口近くにいた姪の、私を呼ぶ声に目が覚めたようなかたちになり、急いで出口へ。
係員が廊下で待機するように指示したので、そこにたたずんでいると、大きな余震が二度三度訪れた。すこし収まったときに、係員の誘導で外に出たが、そのとき私は3Dのメガネをもったままだったので係員にメガネを渡したことを憶えている。
その映画は、実はあれから観てない。結末間際だったと思うが、観ていない。また映画そのものも、続編が作られる予定だったが、いまだに作られていない。『ナルニア国物語』フランチャイズは、未完のまま3作で終わっている。
だが、苦境は地震に体験したことだけでなく、その後であった。
相模原市の橋本駅周辺は、地震の影響で、完全に停電したのである。映画館から駅にもどる途中、駅のエレベーターに閉じ込められた人たちを救出する消防署員が活動していた。信号も止まっていた。商店街もすべて停電。店員が歩道に出てきていて様子をみている。そして電車も止まっていた。
駅のトイレには長蛇の列ができている。特に尿意をもよおしたわけではないが、トイレが簡単に使えないは心配であった。駅周辺でたたずんでいると、警察官が来て、近くの小学校に避難所があるから、そちらに移動するようにと言われた。地図などで場所を捜して行くと、小学校の体育館が開放されていた。小学校のトイレも使うことができた。ここで電車が動くまで様子を見るほかはないと決めて、余震で天井が揺れている体育館のパイプ椅子に座った。
しかし日が暮れても電車は止まったままで、この体育館で一夜を過ごすことになるのか覚悟を決める他はないと思ったのだが、夜になると、この体育館は近隣住民の避難場所となるので、そうでない人は隣の小学校の体育館に移動してほしいと言われた。
停電している住宅街・商店街は、ほんとうに真っ暗で、道路だけは、信号が機能していないので徐行している車のライトで明るいのだが、それ以外の場所は漆黒の闇である。したがって、案内された隣の小学校の体育館に到着したときはほっとしたのだが、すでに到着した人々が電気ストーブの周りを占拠していて、あとから到着した私たちは、体育館でも、ストーブから遠い、壁際に陣取るしかなかった。
到着すると、乾パンとバナナ一本と水が配られた(水はペットボトルではなかったような気がする)。神奈川県相模原市には、わたしのようなよそ者にも、寝る場所と食べ物をあたえてくれたことにほんとうに感謝しつつ、4,5枚パッケージされた乾パンを一枚とバナナ一本で夕食をすませたい。マットレスと毛布も支給された。
乾パンは、この難民生活が長引くかもしれないと心配して、一枚しか食べなかった。残りは翌日のためにのけておくことにした。と同時に、気づいたのが、こうした難民生活を余儀なくされると、ふだん大食らい私でも、乾パン一枚とバナナ一本でもうお腹いっぱいで、体が完全に省エネ・モードに移行したことを実感できた。
やはり未体験の試練は、慣れるまでに、精神的なダメージが大きく、食欲もなくなり、体も省エネ・モードに移行することが、ほんとうに実感できた。
深夜、12時近くになって京王線が復旧したというアナウンスがあって、けっこう多くの人が駅に向かった。私は京王線が復旧しても,その先がどうなっているかわからないので、夜をあかすことにした。いっしょにいた姪も私の妹も、横浜線を利用するので、京王線は関係ない。翌朝になれば電車も復旧するという見通しもあったので、とにかく寝ることにした。毛布一枚では寒い感じもしたが、体育館内には暖房が効いていることと、体が省エネ・モードになっているので、毛布一枚で充分に暖かかった。
実は、このとき、東京とか神奈川県全体が停電していたと思っていた私に、テレビを観ることができる携帯を持っていた姪が見せてくれた映像に、私は愕然とした。地震の被害を伝えるニュースを流すテレビ局そのものは、とくに停電していないようだったし、東京の風景も、帰宅難民につじての報道があっても、街は煌煌と照らされているようだった。
そうなると橋本周辺だけが完全停電で、周辺住民も来訪者も、難民生活を余儀なくされているのではないか。なんという運の悪さだと頭を抱えた。とはいえ体が省エネ・モードになっているので、憤ったり、嘆いたりするエネルギーはなくなっていた。
また一人で難民生活を送るのはつらかったかもしれないが、妹と姪といっしょだったので、あまり寂しさを感じなかったことも事実だった。
3月12日土曜日
とはいえ、妹と姪は、翌朝、早く起きて、ぐずぐずしている私を置いてきぼりにしそうなったので、なんとう薄情な母と娘だとあきれつつ、急いで追いつき、駅にむかったが、妹と姪は、駅直前で、先に行ってくれ、ここでお別れしようと言い出した。こちらは一刻も早く帰宅したかったこともあり、なにが解せないまま、駅前で別れたのだが、あとで聞くと妹と姪の母娘は駅近くの食堂で、ゆっくり朝食を食べてから帰宅したとのことだった。私も朝食に誘ってほしかった、ぞ。
橋本駅で京王線の始発に乗り、新宿まで。ところが山手線が動いていない。しかたなく新宿駅構内の放送を便りに、副都心線が動いているらしいことを知り、新宿三丁目まで歩いた。そして動きはじめた副都心線に乗り、私鉄に乗り継いで帰宅することができた。この間、昨日の乾パン1枚とバナナ一本以外、なにも口にしていないのに、まったく平気だった。やはり帰宅するまで、省エネ・モードはつづいていたのだ。
そう、帰宅してマンションについたらエレベーターが止まっていて、階段を上るしかなかったのだが、10階近い階段を歩いて登ることができた。省エネ・モードにもかかわらずというか、省エネ・モードになったがゆえにか。
いま世界は難民であふれている。11年前の東日本大震災で、疑似難民体験した私は、難民状態のつらさあるいは衝撃について、その一端に触れたように思う。また省エネ・モードがあることを実感した。しかしこれは生き延びる人間の知恵ということではないように思う。ショックで、生きる意欲がなくなり、エネルギーを必要としなくなったのだ。ゾンビ化といってもいい。これ以上、ゾンビを生み出すことのない世界はいつくるのだろうか。
posted by ohashi at 01:36| コメント
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2022年03月01日
ウクライナ侵攻
2月24日にロシアがウクライナに軍事侵攻してから5日経過した。
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ウクライナとロシアは昔から仲が悪かった。昔というのがどのくらいの昔かは私には特定できないが、少なくともロシア革命の頃から仲が悪かった。プーチン大統領が、ロシアとウクライナとは歴史的にみて一体化していたといくら主張しても、ウクライナとロシアは対立関係にあった。ロシア革命直後は、ウクライナのほうがロシアに侵攻していたし、第二次世界大戦時にはウクライナはドイツとロシア双方と戦っていた。
今回のウクライナ・ロシア戦争というのは、何回目なのだろうか。
(すでにこのブログでも書いたが)ショーロホフの『静かなるドン』というロシアの社会主義リアリズムを代表する大河小説は、ロシア革命前後の激動の時代を、ドン・コサックである主人公を通して描くという、斜めからみた、あるいは裏側からみたロシア革命史であり、ひねった建国神話的叙事詩というふうにみられてきた。ショーロホフはウクライナ人ではなかったし、コサックでもなかったのだが、しかし、今から見ると、この小説は、革命政権下で、弾圧されていくドン・コサックの運命を通して、コサックのみならず、コサックと縁が深いウクライナの運命をも暗示したとみることができる。
ロシアの属国だったウクライナは、ロシア革命によって、自国の独立を夢みて、一部蜂起すらしたのだが、時代の流れには勝てず、ロシアに併合されソヴィエト連邦の一員となるが、その後、ウクライナ人は、ロシアの政権によってジェノサイドともいわれる迫害を受け、コサックの共同体も消滅する。『静かなるドン』は、歴史から消えゆくドン・コサックのレクイエムであると同時に、ソ連に併合され再び属国化してゆくウクライナの(あるいはそれに類する国々の)レクイエムであるという側面を色濃く残している。
2
ロシアとウクライナの対立構図を強調しすぎると、ロシアとウクライナが旧ソ連邦を構成した有力共和国であることを忘れる危険性がある。ロシアのような帝国主義的・覇権主義的大国が、冷戦時代も含め、行なってきたのは、敵と戦うのではなく、味方を叩くことばかりだった。ハンガリーとかチェコに、ワルシャワ条約軍(ロシア軍)が侵攻し、支配した。敵と戦うのではなく、味方を弾圧した。
これは敵対勢力があることによって、独裁的軍事政権が存在意義を主張でき政権が安定することを意味する。敵がいるからこそ、反抗的・批判的な見方を裏切り者として叩くことができる。敵がいるからこそ、軍拡に大義名分がたつ。敵がいるからこそ、政権が安定する。敵こそわが友。この関係は冷戦時代から変わっていないのではないか。
北朝鮮にとって、南に友好的な政権ができたときほど、危険なことはなかった。そのため、北朝鮮に友好的な韓国の政権に難癖をつけ対立姿勢を強化した。そうしないと北の独裁政権の存在意義がなくなるからである。敵こそわが友。友こそわが敵。
日本の岸田政権がコロナ過対策と新しい資本主義で失速しはじめると、すかさず北朝鮮は日本海にむけてミサイルを発射する。別にしめしあわせているのではないだろうし、日本の保守が北朝鮮と連絡をとりあっているということでもないだろうが、日本に政権交代が起こり、北朝鮮との対立姿勢を弱めることほど、北朝鮮にとって都合の悪いことはないだろう。北朝鮮に敵対的な政権が日本に続く限り、北朝鮮は安泰なのである。敵こそわが友。いずれ参院選の頃にまたミサイルが発射されるだろう。
NATOがある限り、ロシアの独裁的軍事政権は安泰である。安泰であるどころか、ソ連崩壊によって失ったベラルーシとウクライナを、再び、ロシア側に併合することができる。冷戦の終わりは、ソ連の崩壊であり、ロシアは、EUの一員、NATOの一員とも思えるような立ち位置にあった。だが、そうなるとプーチンのような独裁者がロシアに居座る意味はない。そのためプーチンはNATOという敵を再利用した。そして自らの政権基盤を盤石なものにするだけでなく、ウクライナを裏切り者として処罰し併合することに乗り出す口実のために大いに活用したのだ。敵こそわが友。
3
ロシアでは反戦デモが起こっているという。実際のところ、ロシア人で、ウクライナがNATOに加盟したり、EUに加盟することに憤っていたり、自国の安全が脅かされると本気で心配している人がいるのだろうか。ウクライナがEUに加盟してくれるなら、ロシアだってその勢いでEUに加えてくれることを望むロシア人も多いのではないか。もっともロシアは独自の歴史をもつ大国だから、イギリスと同じく、EUとは距離を置くかもしれないとしても。
プーチンの大ロシア主義にしても、たとえ本人は本気でそう思っていたとしても、同時に、それは建前の主張であって、本音はべつのところにあるのではないか。おそらくプーチンにとってロシアという国は美味しいのである。自分で思うとおりに動かせ、自分の資産をふやすことができる。結局、国民のことを考えているわけでもなく、国家のありようを懸念しているわけでもなく、ましてやマルクス=レーニン主義など聞いたこともないプーチンは、私利私欲で動き、そのために自国民を、そして同盟国を犠牲にしているのではないか。
日大の前理事長のようなものである。用心棒に統治・支配権を渡してはいけない。たんなる用心棒だから、理念も良心もひとかけらもなく、私利私欲に基づく強権政治しか眼中にしない。用心棒をトップに据えたら、食い物にされる。プーチンも、結局ロシアという国を食い物にしているのではないか。食い物にしつづけるためにも、うっとうしいウクライナを抑圧しようとしたのではないか。
求められているのは、ロシア人とウクライナ人とが手をとりあって、そしてもちろん国際社会を構成する私たち全員が、プーチンという悪魔を国から追い払うことだろう。
1
ウクライナとロシアは昔から仲が悪かった。昔というのがどのくらいの昔かは私には特定できないが、少なくともロシア革命の頃から仲が悪かった。プーチン大統領が、ロシアとウクライナとは歴史的にみて一体化していたといくら主張しても、ウクライナとロシアは対立関係にあった。ロシア革命直後は、ウクライナのほうがロシアに侵攻していたし、第二次世界大戦時にはウクライナはドイツとロシア双方と戦っていた。
今回のウクライナ・ロシア戦争というのは、何回目なのだろうか。
(すでにこのブログでも書いたが)ショーロホフの『静かなるドン』というロシアの社会主義リアリズムを代表する大河小説は、ロシア革命前後の激動の時代を、ドン・コサックである主人公を通して描くという、斜めからみた、あるいは裏側からみたロシア革命史であり、ひねった建国神話的叙事詩というふうにみられてきた。ショーロホフはウクライナ人ではなかったし、コサックでもなかったのだが、しかし、今から見ると、この小説は、革命政権下で、弾圧されていくドン・コサックの運命を通して、コサックのみならず、コサックと縁が深いウクライナの運命をも暗示したとみることができる。
ロシアの属国だったウクライナは、ロシア革命によって、自国の独立を夢みて、一部蜂起すらしたのだが、時代の流れには勝てず、ロシアに併合されソヴィエト連邦の一員となるが、その後、ウクライナ人は、ロシアの政権によってジェノサイドともいわれる迫害を受け、コサックの共同体も消滅する。『静かなるドン』は、歴史から消えゆくドン・コサックのレクイエムであると同時に、ソ連に併合され再び属国化してゆくウクライナの(あるいはそれに類する国々の)レクイエムであるという側面を色濃く残している。
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ロシアとウクライナの対立構図を強調しすぎると、ロシアとウクライナが旧ソ連邦を構成した有力共和国であることを忘れる危険性がある。ロシアのような帝国主義的・覇権主義的大国が、冷戦時代も含め、行なってきたのは、敵と戦うのではなく、味方を叩くことばかりだった。ハンガリーとかチェコに、ワルシャワ条約軍(ロシア軍)が侵攻し、支配した。敵と戦うのではなく、味方を弾圧した。
これは敵対勢力があることによって、独裁的軍事政権が存在意義を主張でき政権が安定することを意味する。敵がいるからこそ、反抗的・批判的な見方を裏切り者として叩くことができる。敵がいるからこそ、軍拡に大義名分がたつ。敵がいるからこそ、政権が安定する。敵こそわが友。この関係は冷戦時代から変わっていないのではないか。
北朝鮮にとって、南に友好的な政権ができたときほど、危険なことはなかった。そのため、北朝鮮に友好的な韓国の政権に難癖をつけ対立姿勢を強化した。そうしないと北の独裁政権の存在意義がなくなるからである。敵こそわが友。友こそわが敵。
日本の岸田政権がコロナ過対策と新しい資本主義で失速しはじめると、すかさず北朝鮮は日本海にむけてミサイルを発射する。別にしめしあわせているのではないだろうし、日本の保守が北朝鮮と連絡をとりあっているということでもないだろうが、日本に政権交代が起こり、北朝鮮との対立姿勢を弱めることほど、北朝鮮にとって都合の悪いことはないだろう。北朝鮮に敵対的な政権が日本に続く限り、北朝鮮は安泰なのである。敵こそわが友。いずれ参院選の頃にまたミサイルが発射されるだろう。
NATOがある限り、ロシアの独裁的軍事政権は安泰である。安泰であるどころか、ソ連崩壊によって失ったベラルーシとウクライナを、再び、ロシア側に併合することができる。冷戦の終わりは、ソ連の崩壊であり、ロシアは、EUの一員、NATOの一員とも思えるような立ち位置にあった。だが、そうなるとプーチンのような独裁者がロシアに居座る意味はない。そのためプーチンはNATOという敵を再利用した。そして自らの政権基盤を盤石なものにするだけでなく、ウクライナを裏切り者として処罰し併合することに乗り出す口実のために大いに活用したのだ。敵こそわが友。
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ロシアでは反戦デモが起こっているという。実際のところ、ロシア人で、ウクライナがNATOに加盟したり、EUに加盟することに憤っていたり、自国の安全が脅かされると本気で心配している人がいるのだろうか。ウクライナがEUに加盟してくれるなら、ロシアだってその勢いでEUに加えてくれることを望むロシア人も多いのではないか。もっともロシアは独自の歴史をもつ大国だから、イギリスと同じく、EUとは距離を置くかもしれないとしても。
プーチンの大ロシア主義にしても、たとえ本人は本気でそう思っていたとしても、同時に、それは建前の主張であって、本音はべつのところにあるのではないか。おそらくプーチンにとってロシアという国は美味しいのである。自分で思うとおりに動かせ、自分の資産をふやすことができる。結局、国民のことを考えているわけでもなく、国家のありようを懸念しているわけでもなく、ましてやマルクス=レーニン主義など聞いたこともないプーチンは、私利私欲で動き、そのために自国民を、そして同盟国を犠牲にしているのではないか。
日大の前理事長のようなものである。用心棒に統治・支配権を渡してはいけない。たんなる用心棒だから、理念も良心もひとかけらもなく、私利私欲に基づく強権政治しか眼中にしない。用心棒をトップに据えたら、食い物にされる。プーチンも、結局ロシアという国を食い物にしているのではないか。食い物にしつづけるためにも、うっとうしいウクライナを抑圧しようとしたのではないか。
求められているのは、ロシア人とウクライナ人とが手をとりあって、そしてもちろん国際社会を構成する私たち全員が、プーチンという悪魔を国から追い払うことだろう。
posted by ohashi at 22:29| コメント
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