2022年02月25日

天国の扉・地獄の扉

本日、CSで再放送している『シカゴ・ファイア』をぼんやりみていたら、こんな、なぞなぞ問答があって思わず耳を疑った。

天国に通ずるドアと、地獄に行くドアがあって、それぞれのドアに番人が一人立っている。あわせてふたりの番人のうちひとりは嘘つきである。さて、あなたは番人に1回だけ質問できる。では、どちらの番人にどんな質問をするか。

吹き替え版をみていたのだが、これが正確な言葉だったかどうか定かではないが、内容はまちがいない。このエピソードのなかでは、答えは示されなかったが、私は答えを知っている。このなぞなぞに出会うのは、これで2回めである。最初に出逢ったとき、これは、私が知らないだけで、けっこう名の知れたなぞなぞなのかもしれず、論理学とか数学などで説明がつくものではないかと予感した。その予感は、これであたっていたことがわった。

最初の出逢い、それはタブッキの『夢のなかの夢』の最初の夢のなかである。この夢は迷宮の創造者ダイダロスが見る夢で、迷宮から脱出するとき、牡牛の頭の男に出逢い、かれとともに、迷宮をさまよう。以下、関連個所を引用

けもの男がふたたび顔を上げ、胡乱(うろん)な眼でかれをみつめた。この部屋には扉がふたつあって、と男は言った。それぞれ扉の警備にあたる番兵が二人います。ひとつの扉は自由に、そしてもうひとつは死につながっているのです。番兵の一方は真実だけを言い、もう一人は嘘しか言わないのです。ですがぼくにはどちらが真実を告げる番兵で、どちらが嘘つきの番兵なのか、それにどちらが自由の扉で、どちらが死の扉なのかがわからないのです。
 わたしに付いてきなさい、とダイダロスは言った。わたしといっしょに来るがいい。
 かれは一方の番兵のそばに行くと訊ねた。きみの同僚の意見では、どちらが自由につながる扉かね? そこでかれは扉を変えた。事実、もしかれが質問したのが嘘つきの番兵だったら、こちらの番兵は、同僚のほんとうの指示を変えて、処刑台への扉を教えるだろう。ところがかれが質問したのが正直な番兵だったとしたら、こちらの番兵は同僚の嘘の指示を変えずにそのまま死への扉を指示するだろう。
                                   タブッキ『夢のなかの夢』和田忠彦訳(岩波文庫2013)18-19.



下線部のところがわかりにくい。私も岩波文庫の余白に、あれこれ表を書き込んでいた。悪戦苦闘していることがわかる。最初、翻訳に問題があるのかと考え、英訳と較べたら、英訳とまったく同じで、丁寧な逐語訳であることが想像できた。そうなるとあとは自分で考えるほかないのだが、それほどむつかしい話ではなかった。

天国に通ずるドアをXとして、その番人をAXとする。地獄に通ずるドアをYとしてその番人をBYとする。番人のうちどちらかは嘘つきである。

どちらでもいいのだが、たとえばAXに、こう質問する。あなたの同僚であるBYは、どちらが天国へのドアだと言いますか。こう訊けばいい。そのときAXがXのドアを示したら、それは地獄へのドアなので、ドアYから出ればいいのである。下線部の引用文中「かれは扉を変えた」というのはこのことを意味する。

AXは真実を言う人か、嘘つきなのか、二つの可能性しかないのだが、AXが真実しか言わないとする。そうすると、あなたの同僚BYはどちらが天国へのドアだといいますかと聞くと、BYは嘘つきだから、地獄に通ずるドアであるXを指示することになる。そうなると天国へのドアはYである。

では私が質問した相手AXが嘘つきだとしよう。あなたの同僚BYはどちらのドアを示しますかと質問すれば、BYは正直者なのでドアYを示すはずだが、AXは嘘つきなので、BYはドアXを示すと嘘をいう。したがって天国のドアはYとわかる。

つまり相手が正直者だろうと嘘つきだろうと、この質問をして、示される答え(ここでは示されたドア)は同じ。それは不正解なので、もう一つのドアが正解となる。

狐につままれたような話と思うかもしれないが、いまの例を使ってもう一度説明したい。Xが地獄ドア、Yが天国ドアという設定は同じにしよう。そこで番人BYに同じ質問をぶつける。もしBYが正直者なら、BYは、AXがXを指示すると答える。Xは地獄ドアなので、Yが正解となる。もしBYが嘘つきなら、BYは、AXがXを指示すると答える。Xは地獄ドアなので、Yが正解となる。どちらの番人に質問しても、またその番人が正直者だろう嘘つきだろうと、この質問では出てくる答えは同じ。その答えの反対が正解となる。

まあ説明すればするほど、単純な原理がややこしくなるので、タブッキの記述(波線部)がいかに簡潔で要を得ているのかがわかる。

これはタブッキが、自分で考えたのではなく、すでにある有名な話なのかもしれないと推測した。たとえばダイダロスといっしょ動く牛の頭の男は、ミノタウロスの変異体だろう。あるいは『夢のなかの夢』の最後にあるフロイトの夢には、肉屋がでてくるが、これはフロイトの『夢解釈』にある「肉屋の女房がスモークサーモンを欲しがった」夢を踏まえていることがわかって笑えるのだが、どの夢にも、踏まえているものがある。

だから、この天国の扉と地獄の扉にも元ネタがあるのだろうと思った。ただし、まだ探求の途で、迷宮論になにか利用できるはずと思うのだが……。『シカゴファイア』にも登場したので、少なくともアメリカ人でこのことを知っている者がいるということはわかった。

posted by ohashi at 21:22| 迷宮・迷路コメント | 更新情報をチェックする

2022年02月23日

『パラレル・ライフ』

パラレルライフ 2
『パスト&フューチャー』よりも古い映画だが、呪われた場所、呪われた運命があり、そこからいかに逃れることができるのか、逃れられないのかが主題となるのは韓国映画『パラレル・ライフ』(2010)でも同じである。

こちらの映画は、過去の事件にみられる法則性から未来の事件も予見できるという設定のために数学者と、彼が発見するエセ法則が導入されたのだが、『パラレル・ライフ』では、リンカーンとケネディが似たような人生を送ったということを一例とするような、人間誰しも、過去の誰かの人生と同じ人生を辿っているというパラレル・ライフ理論をもってきて、過去の事件の反復が起きかけている現在のなかで、過去の事件を解明し、宿命から逃れようとする主人公の苦闘が描かれることになる。

映画.COMの映画紹介:

仕事一筋の敏腕判事ソクヒョンは、美しい妻ユンギョンと愛娘のイェジンと幸せに暮らしていた。だがある日、何者かにユンギョンが惨殺され、ソクヒョンは失意の底に落ちる。事件の調査を進めるうちに、ソクヒョンは30年前に自分と全く同じような境遇に陥った男の存在を知り、異なる時代を生きる2人の人物が、一定の時間をおいて同じ運命を繰り返すという運命の法則“平行理論”の可能性を疑い始める。新鋭クォン・ホヨン監督がメガホンをとり、人気韓流ドラマ「宮廷女官 チャングムの誓い」のチ・ジニが主演を務める。


この映画に登場する韓国の女優はみんな美形で見とれてしまうのだが、みんなあっさり死んでしまうのは残念。また子役(女の子)が、ほんとうに天使。またさらにリンカーンとケネディが同じ運命を繰り返していたことの驚き(これについては、どこかで聞いたようなかすかな記憶がないわけでないが)。そして最大の驚きは、ゲーデル(あの不確定性定理の)が餓死していたことである。餓死といっても貧困ゆえの餓死ではないのだが。

さてこの映画の肝となっているパラレル・ライフ理論だが、これは二人の人生が似ているということだが、その前提にあるのは、二人がまったく違うということである。差異が大きければ大きいほど、類似性が目立つ。最初から似たもの同士だと、少しの違いでも目立ってしまい、類似性が打ち消されてしまうこともあるが、最初から差異が大きいと、少しの類似性でも、差異を打消し類似性が強調されることになる。これが重要な第一点。

第二点は、反復性。ひとつのシナリオが、時と場所、そして登場人物を変えて反復されること。AとBとCの三人が殺し合って、みんな死ぬという出来事があると、それから時を隔てて、違った場所で、XとYとZの三人が殺し合って死ぬことがあれば、AとBとCの三人とXとYとZの三人はパラレル・ライフになる。

第一点の差異を前提としての類似というのは、アダプテーションである。最近はやりのアダプテーション。いくつも本あるいは論集が出ている。かくいう私もかつて、アダプテーションの論集に寄稿させていただいたのだが、それが今月、その第二版が出版された(このことについては別の機会に詳しくは報告する)。アダプテーション流行だが、アダプテーションの基本は、差異のうえに類似性を確立することである。翻訳の場合は、いかに類似させるかが問題になるのに対し、翻案(アダプテーション)はいかにして差異のあるところに類似性を打ち立てるかである。翻訳の場合、分身そのものを、できれば、分身以上の本体そのものをめざすのに対し、翻案の場合はパラレル・ライフである。戦国時代の物語を、現代の日本の物語として作り直すことが翻案である。

いっぽう反復性のほうは、シナリオという言葉を使ったことからもわかるように、演劇性とかかわる。同じ人物あるいは同じ人物の行動なり運命を、異なる俳優が演ずる。演ずる者が異なっても、劇行為そのものは同じである。またシナリオといっても、それは骨組みであって、細部はとくに指定がないから、最初の劇と次の劇で、様相が変わることもある。そうなると翻案と上演は同じようなものになる。まあ、第一点のアダプテーション性と、第二点のドラマ性は、同じひとつの現象の捉え方の差異ということになるだろう。

第一のアダプテーション性は表層構造を問題にしている。同じ構造をいかに変化をもたせたうえで多彩に有意義に時に斬新に飾り立てるかがアダプテーションの成否を決定するのに対し、第二の反復性は、構造あるいは深層構造そのものに着目する。多様な要素がいかにして同じ構造を共有し、また多様な血肉化のなかに、いかなる共通構造が潜んでいるかが焦点となる。

第一のアダプテーション性を軸に考えると、パラレル・ライフといえる事例は、さがせば見つかるのだが、その時、差異が大きい関係であればあるほど意味深いが、ただ、そのような事例は可能性として存在することはわかるがみつけるのに時間がかかる(困難をともない、みつからないかもしれない)。

では逆に身近な事例となるとどうか。一例としてあげられるのは親子関係である。子どもが親と同じ人生をたどることはよくあることだ。たとえば親の後を継ごうとか親を見習う生き方をすれば、当然、子供の人生が親と似てくることは当然である。また親に反発をして親と同じ人生だけは辿るまいとする子どもがいても、つねに親のようにならないと意識しているわけだから、子供の人生は親の人生を反転させたものになる可能性がある。反転というのは輪郭が同じということだ。写真のネガとポジ、あるいは絨毯の表と裏。同じ輪郭を共有しながらも、表層はがらりとかわる。反転というかたちにアダプテーションとなるが、これもパラレル・ライフといえる。

こんなことを考えているのは、パラレル・ライフ理論の成立可能性についてではなく、パラレル・ライフ理論の物語解釈への適応性についてである。またそれがどのようなジャンル(文学的、映画的)を発生させるかを考えたいのである――すでにアダプテーション、演劇、反復、反転イメージなどを提出した。

この韓国映画『パラレル・ライフ』においては、主人公の敏腕裁判官が、30年前に自分と同じ若手敏腕裁判官一家に起こった事件(裁判官夫妻と子どもが殺される)を、自分の家族が反復再現しはじめていることに気づき、「異なる時代を生きる2人の人物が、一定の時間をおいて同じ運命を繰り返すという運命の法則“平行理論”の可能性を疑い始める」ということになる。この場合、主人公が自分や自分の家族に起こりつつあることから、30年前の事件と同じ悲劇的結末をいかに避けるかが物語の要となるのだが、30年前と現在との交錯は、前回の『パスト&フューチャー』と同じである。

また30年前の同じ経過をたどる事件をいかに防ぎ、その悲劇的結末からいかに避けるかについては、再び同じ事件、同じ人生を辿るのだから、ループ物といえなくもない。というか疑似ループものである。ただ、ループ物とちがうのは(とはいえループ物と同じとも言える部分があるのだが)、主人公は、ただの生まれ変わり、あるいは生き代わりではないので、事件の結末は知っていても、細部がどうであったかはわからず、ループ物で記憶を保持する主人公ならわかるような事件の細部が、この場合、見えてこなくなる。過去の事件の全容はわからず、調査し推理して、過去の事件を探ることが、現在おこりつつある事件の惨劇化を未然にふせぐことになる。また現在の事件経過をとおして、過去の事件に光が当たる面もある。まさに『パスト&フューチャー』の世界。ただし『パスト&フューチャー』の場合は、基本構造はわかるが、同じ構造を共有する複数の事件が間歇的に発生するその周期あるいは間隔の法則性を探ることがメインとなり、さらに同じ構造が中途半端にしか反復されていないことの謎と、その謎をとくことが未来に起こる惨劇から犠牲者を救うことにもなる。

ループ物の場合、反復される惨劇を防ぎ、変えようとするセカンド・チャンス的行為と構造性の優位というか、どうあがいても運命は変えられないという悲劇的宿命性とに二分されると思うのだが、この作品は、みればわかるように答えははっきりしている。ネタバレになるので、これ以上は書かない。

たった一度の人生は、実つは二度目、三度目、いやN度目であると考えることになかに人生の意味があると私は思うし、ループ物は、それを意識させる。忘れてしまっているかもしれないのだが、私の人生は、これで2回目、あるいは1万回めだという意識が私の人生を変えることになろう。

これに今回のパラレル・ライフ理論を加えると、私の人生は、誰かの人生と同じであるということになる。私の人生は、すでに誰かが一度経験したものであり、いま私は、それを新たに経験しつつあるという反復性、あるいは決まった人生は、どうあがいても変えられないといいう反復する人生の運命悲劇。それがもつ意味をさらに追究してみたい。
posted by ohashi at 20:11| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

真「御三家」

かつて御三家の一人といわれた西郷輝彦(有名人なので呼び捨て)が癌で亡くなられた。74歳。冥福を祈ることしかできないが、「御三家」について、

橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦

の三人といわれるが、私としては納得がいかない。子どもの頃、雑誌の表紙やテレビなのでみかけた御三家と思っていたのは

舟木一夫、西郷輝彦、三田明

だからである。いや私は、いまもこの三人、舟木一夫・西郷輝彦・三田明を御三家だったと思っている。橋幸夫は関係ない。

べつに橋幸夫が嫌いだということではない。年齢は、橋幸夫が1943年生まれで、舟木一夫が1944年生まれ、西郷輝彦と三田明が1947年生まれ。西郷と三田にとって橋幸夫は年上の兄のような存在で、別格。舟木一夫は1944年生まれで、橋幸夫と一歳違いだが、デビュー曲『高校三年生』では、すでに高校生ではなかったものの学生服姿でデビューして、若々しかった。橋幸夫とは年齢差があるような気がしていた。

橋幸夫のデビュー・ヒット作は『潮来笠』、演歌というか、股旅曲(またたびきょく)。「股旅」とは「江戸時代、博徒(ばくと)・芸人などが諸国を股にかけて旅をして歩くこと」。そして橋幸夫自身、着物に三度笠という出で立ちで歌をうたっていた。

いっぽう舟木、西郷、三田は、青春ソングあるいは青春歌謡で、橋幸夫の路線とは一線を画す。舟木、西郷、三田の三人が、それぞれ青春ソングを歌番組で歌っているところは子どもの頃、テレビで何度も見ている。橋幸夫だけは別格だった。だから「御三家」だの「四天王」だと言われても、橋が、残りの三人とテレビで共演しているのを、彼らがデビューして人気の絶頂にあった頃、見たことがない。

のちにレコード会社とか事務所の都合とか、なんだかよくわからないが、橋・舟木・西郷が御三家として活動し始めた頃、彼らは、テレビの第一線からはすでに姿を消していたように思う。舟木・西郷・三田が、いっしょに出演している番組は記憶にあるが、そこに橋幸夫がまじっている番組の記憶はない。別路線であるため当然のことだと思う。

その後、橋・舟木・西郷の、人工的な御三家は、G3Kとしていっしょに活動したこともあったらしいが、その頃は、それぞれ地歩を築いていた芸能人だったし、むりやりつけた「御三家」のわざとらしさは拭いきれなかったし、三田明がそこにいないのは、なんとも不自然だった。

その後2011年から14年にかけて、西郷、舟木、三田で「BIG3スペシャルコンサート」をスタートさせたのだが、これこそ、往年の真の御三家であった。BIG3という名前は、彼らこそが真の御三家であったことを雄弁に物語っている。これぞ真「御三家」。西郷輝彦・舟木一夫・三田明の歌こそ、青春ソングの金字塔であって、潮来笠は関係なかった。繰り返すが、橋幸夫が嫌いということではない。
posted by ohashi at 19:44| コメント | 更新情報をチェックする

2022年02月22日

『パスト&フューチャー』

パラレルライフ1

あまり知名度はないが、よくできたスペイン映画で過去と現在とが交錯するサスペンス物として『パスト&フューチャー 未来への警告』(2018)がある。タイトルは安っぽいが、原題はEl Avisoで「警告」という意味で、安っぽいSF映画じみたところはない。監督ダニエル・カルパルソルの映画は残念ながらみたことはないが、この映画の映像から判断するかぎり、有能な監督ではないかと思う。物語も謎ありサスペンスありで観ていて飽きがこない。

ふたつの事件が並行して語られる。原作をのぞいてみると(とはいえスペイン語の原作の英語訳をのぞいてみただけだが)、どちらが過去で、どちらが現在かは、年代も入っていて歴然としているのだが、映画のほうは心を病んでいる数学者の物語と、いじめにあっている少年の物語の、どちらが古くてどちらが新しいか最初のほうはよくわからない(マドリード郊外が舞台になっていて、スペイン人観客なら映像からどちらが新しいか古いかはわかるかもしれないがとしても)。

とりあえずWOWOWの映画紹介:

銃撃事件に巻き込まれた数学者の主人公が、過去にも同じような事件が発生していることを知り、これから起きる惨劇を予測する。数字のミステリーが独創的なSFスリラー。

時代は違うが、同じ場所で、同じような状況で起きた惨劇。そこに隠された法則とは……。事件に巻き込まれたことをきっかけに、過去にも似たような事件が繰り返されていたと知った数学者の主人公が、法則を調べる中でこれから起きるであろう惨劇を予測して……。「マーシュランド」のR・アレバロが主演、監督は「バンクラッシュ」「ワイルド・ルーザー」のD・カルパルソロと注目の布陣で送る異色のSFスリラー。10年後に10歳の子どもが被害者になると予測した主人公が、未来を変えようと奔走する姿が見ものだ。

Wikipediaによる簡単なあらすじ紹介:

2008年4月12日、数学者のジョンはガソリンスタンドで銃撃戦に巻き込まれる。その後、ジョンは1913年、1955年、1976年にも同様の銃撃事件が会ったことを知り、2018年に同様の事件が起こると予測する。


ガソリンスタンドに併設されている売店での銃撃事件に友人が巻き込まれた、数学者(ただし心を病んでいるみたいで常に薬を飲んでいる)が事件について調べてゆくと、同じ場所で、過去にも同様の事件が起きていることがわかる。間歇的に起こる事件には周期性というか法則性のようなものがあり、事件の被害者や関係者にも類似性が認められ、そのため10年後に同じ事件が起こると予測する数学者は、未来の事件を防ぐか、その事件の被害者になるかもしれない少年に警告しようとする。

そのため次のようなネット上の感想には、こちらが頭を抱えてしまう。たとえば

〇最後何もしなければ死ななかった
〇……これは究極の馬鹿野郎か、自殺かのどちらかにしか見えない。

なにもしなくても、どうあがいても、事件は防げないのではないか。その宿命に圧倒され死んでいくしかないのか、あるいは最後まで悪あがきをするのかが映画の物語の焦点となる。主人公は、なにもしなくても死ぬ運命にあったし、またどうあがいても死ぬしかなかったので、主人公を馬鹿呼ばわりしているお前が馬鹿としかいいようがない。

少しまともな感想がこれ:

映画をよく観る方なら大体予想が読めると思います。主人公数学者のジョンと事件.少年との謎が。B級~C級の間みたいな感じの作品。ストーリーが個人的には好きな類いなので観ました。時間も93 分で丁度良い。

映画の結末が予想できたというのは、だいたい頭の悪い人間がマウントしようとしてよく語る言葉。呪われた場所、宿命として事件から、逃れるか、逃れられないかという結末なら、映画をよく観ない人でもすぐにわかること。一般に宿命から逃れられないのだが。

あるいは

繰り返す同じ場所の殺人事件、その法則を見つけ出そうと足掻く主人公。導き出された法則に従って、次の犠牲者を救おうと自ら現場に踏み込むが…
緻密な計算と行き当たりばったりの行動に、なんとも齟齬を感じる結末。


緻密な計算というのは、実は、どうでもよいことで、主人公の数学者が過去から未来に反復されていく殺人事件に法則性を見出すというのは、たんに、その場所が呪われていて、周期的に事件が起こるという変な神秘性を避けて、なにか自然法則のようなものがはたらいているかのようなみせかけをつくるために、数学者による計算をもちだしてきたにすぎない。それをしなくても、事件現場が呪われた場所であるという設定は簡単にできる。ただ、主人公が未来の事件を防ぐ、あるいは未来の事件から関係者を救うという設定には、エセ数学的法則性が必要だったということである(さもなければ、胡散臭い占い師に未来の事件を予言してもらうしかないのだから)。

あと未来の事件を防ごうとして起こす主人公の行動は、どれも計算されていて、行き当たりばったりのいい加減なものではないことは確かである。

あまりいうとネタバレになるのだが、実は、数学者が目撃し、友人が撃たれた事件は、これまでの法則と違っているところがある。これはどう考えたらいいのかということになるが、実は、法則どおりだったことが最後にわかる。帳尻が会うのだが、これは『ファイナル・デスティネーション』シリーズを思い起こさせる。つまり最後に帳尻合わせの死が待っていたのである。

また、主人公が未来にどう警告するのかも、ひとつの見どころである。その方法は、韓国ドラマで、日本でもリメイクをされた『シグナル』のような過去からの連絡という荒唐無稽なものではない。

これに関して、なぞの警告を受け取った10歳の少年ニコとその母親について、

ニコの母親はどうかしてる。
これはこの映画見た人は皆思うハズ。泣きそうになりながら拒否していることを「克服してこい」と言って無理やりやらせるとかありえない。それがないとストーリー進まないけどさ。あれは酷いよ。


酷いのはおまえだ。たしかに10歳の少年が誕生日にガソリンスタンドの売店に行ったら死ぬという謎の警告は、観客にとっては(映画の論理からして)実現するとしか思えない未来の惨劇を伝えるもので、真実の警告だと思うし、それを根も葉もない迷信扱いして、むしろ迷信を信ずる愚を思い知らせるために10歳の少年の誕生日当日、彼をガソリンスタンドの売店にむかわせる母親はバカといいたくなる気持ちはわかる。

しかし縁起を担いだり迷信を信じたりして何もできなくなる愚かな子どもにしないために、あえて謎の警告を無視させることは、現実においては正しい教育法である。物語の展開と論理からはこの母親は愚かで責められるべきだが、現実において、この母親のしつけは、まちがっていない。

そしてこの映画の最後は、観客を苛立たせるこの母親の行動によって、10歳の少年は最終的に恐怖を克服できたのである。過去からの警告と母親の正しい判断によって、少年は救われる。おそらく救われたのは少年だけではない。この少年も、学校の教室の黒板に数式を書いていた場面から、数学の天才であることが暗示されていて、いうなれば、数学者の主人公の生まれ変わりかもしれないからだ。そして、これがこの映画の主題であることは、映画をよく観ない人でもわかることである。

posted by ohashi at 17:59| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする