2022年01月22日

エリート校

東海高校の生徒の凶行がまだ話題となって尾を引いているようだが、世間一般では、受験勉強と有名大学(具体的には東大)至上主義の抑圧によっておかしくなった生徒というイメージが定着しているように思われる。違っているかもしれないが、要は「車輪の下」症候群。

しかしエリート校の実態というのは、違うような気がする。もちろん東海高校については何も知らないから、あくまでも一般論だが、ネット上での東海高校の紹介とか卒業生のコメントなどをみると、東海高校も他のエリート校と同様な特質をもっているように思われる。もちろん確証はないのだが。また、私が高校生であった頃とは事情が異なると思うで、確証どころか、限られた証拠に基づく、推測にすぎないのだが。

エリート校は、生徒を受験勉強で締め上げているというイメージがあるかもしれないが、そういうことをするのは、三流校で、エリート校は放置放任主義である。エリート校で何よりも重んじられるのは、充実した高校生活であって、大学受験のための予備校化する高校生活を嫌う。教員も生徒も。優秀な生徒たちだから、受験勉強に専念させるのは、もったいない(受験勉強は各自、自発的にやりとげるので)、そのため高校生の可能性を最大限生かす活動を追究させるのである。

だから学校が受験勉強で生徒を押し潰したという非難ほど的外れなものはない。むしろ受験勉強以外のことを積極的にさせることで、大学に入っても、個性を開花させる準備あるいは開花の先取りをさせるのである。

私は大学でシェイクスピアの作品を原文で読む授業を担当していたが、その時、日本人研究者が解説と詳しい注釈(主に語注)をつけた版本を教科書として使用していた。はじめてシェイクスピアを原文で読む大学生のためには、妥当な教科書設定だと思う。ところが、ある学生から、この本は高校生の時に読んで勉強したと言われて驚いたことがある。高校の英語の授業ではない。自由研究というか、仲間との読書会なのか、詳しいことはわからなかったのだが、とにかく、高校生のときに、仲間とシェイクスピアの作品を原文で最後まで読んだというのだ――一般に大学生以上向けと思われている注釈本を使って。

ただ、それは私がエリート校での学習実践を知らなかったことで、同じようなことは、どこのエリート校でも行われているはずである。つまり大学生並みの学習を、すでに高校生の段階で、自主的に、あるいは自由に実践していたのであり、それは才知溢れる高校生の知的エネルギーを可能な限り高めるという、エリート校ならではの、教育目標のなせるわざである。

もちろん弊害もある。受験勉強ができなくなる。自分で塾とか予備校とか通信教育とか独学で受験勉強ができない生徒だっている――理由はなんであれ。そういう生徒にとって学校が面倒をみてくれないのは苦しい。また自由研究に専念しすぎて、受験勉強をする暇がなくなる。多くのエリート校の生徒で、受験に失敗して浪人生活を余儀なくされた生徒たちの不満は、この点にある。学校が受験勉強の指導をしないばかりか、自由研究に専念させて、受験勉強をおろそかにさせたということである。

大学側はどう思っているかについては、とくに公式見解などないので、あくまでも推測にすぎないが、というか私見にすぎないが、受験勉強にあけくれてかろうじて合格し、合格したら目標を亡くしてしまうような受験生よりも、充実した高校生活を送り、さまざまな知的経験を積み、また大学合格だけが目標ではないような、受験生というのは、大学としても大歓迎だろう。もちろん誤解のないようにことわっておけば、受験勉強が無意味だとうことは決してない。勉強の中身のみならず、勉学の習慣の涵養という面でも、受験勉強には意味がある。これを否定することはできない。ただ、医師になるために東大合格しか念頭にないというような学生は、東大の医学部としてもお断りだろう。日本中に医学部がは多くあるし、自分の目指す医学とか医療に適した学部は東大しかないということはないだろう。合格至上主義、東大至上主義というのは、東大そのものが嫌悪していることだと思う。

とはいえ受験指導をしないエリート校が、ずるいと感ずる高校生もいるかもしれない。それは受験指導しないから落ちこぼれもないのである。受験指導すれば落ちこぼれもでてくる。その際、受験指導体制が整っていれば、落ちこぼれ生徒にもケアをする体制もまた整っているはずである。ところが受験指導体制がないのだから、授業についていけなくなると、理由は何であれ成績不振になった場合には自助と自己責任しかない。そのため自分で這い上がれなかったら、ただ転落するしかなくなってくる。

この問題について、解決の道はまだ見出されてはいないことだけは確かだろう。

posted by ohashi at 06:59| コメント | 更新情報をチェックする

2022年01月20日

『ハウンター』

自分の人生が何度も同じことの繰り返しというか、自分を人生をループしていると感じててしまう症候群があって、それに捕らわれた人間は虚無感にとらわれて最後には自殺してしまうという話を、米国のテレビドラマ『ブル』で知った。とはいえどのエピソードだったか忘れてしまい、どういう名前の症候群だったかもわからずじまい。いまCSで『ブル』の再放送をしているが、シーズン3かシーズン4のなかのエピソード(ただし、その症候群は余談のように語られたので、その回の主題ではない)だったと思うので、シーズン1が始まったばかりの再放送では、私が探すエピソードに辿りつける日までにはまだ時間がかかりそうだ。

タイムループ物はセカンドチャンス物の場合、最初の過ちなり失敗を正すことにもなって、うまくいけばハッピーエンドとなるのだが、うまくいかないと失敗の連続で地獄である。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』は最後の勝利までに何度失敗したかわからない。失敗しても記憶は残るのという設定の場合、見かけは年をとらなくても、記憶が残っていれば精神的年齢を重ねることになり、疲労する。たとえ1年周期のループでも100回ループしたら、たとえ当人は1年しか年をとらないにしても、精神的には100歳の老人である。ル-プすることの疲弊感は、吉村萬壱『回遊人』が実に見事に描いている(この作品についていずれ語りたい)。

セカンドチャンスがあることは、夢だが、同じ失敗の繰り返しは地獄に閉じ込められているようなものである。賽の河原の話は知っているだろうか。反復は時として救いにもなるが地獄にもなる。

『ハウンター』Haunter(2013)は、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督作品だが、この監督の『Cube』(1997)『カンパニーマン』(2002)『スプライス』(2009)までは見ていたのだが、『ハウンター』は最近まで見たことはなかった。怖がりの私は『ハウンター』はけっこうどきどきしながら見た。

主演はアビゲイル・ブレスリン。彼女の映画は『私の中のあたな』(2009)『ゾンビランド』(2009)『ザ・コール』(2013)『8月の家族たち』(2013)と見てきているので、さすがに健忘症の私でもすぐにわかったが、彼女が脚光を浴びたのは、言うまでもなく『リトル・ミス・サンシャイン』(2006)。この映画のなかで、アメリカ映画などではよくあるのだが、どこの家族にもいる独身の親戚(オジサンやオバサン)をスティーヴ・カレルが演じていた。彼はプルースト研究家の大学の教員で最近恋人にフラれたばかりのゲイ男性という役柄だった。その彼に私は自分を重ねた記憶がある。私も、また、どこの家族にもいる独身のオジサンだからだ。

『ハウンター』はアマゾン・プライムでも見ることができるのだが、そのなかのレヴューで最低だったものがこれ、

よくあるタイムループもの、これと言った捻りもなく驚くような展開はない。ハリウッド映画お得意の家族愛をホラーにぶち込むと言うスタイルも眠気を誘います。
ホラー系に必要なのは大きな裏切り、そしてなるほどなぁと納得させるだけの細かいディテールが必要。それを放り投げたら何でもありになる。この映画は典型的な何でもあり映画である。
個人的には、この手のストーリーや展開は散々こすり倒されたものであり斬新さは皆無。あの程度のラストで感動できるピュアさもない薄汚れたオジサンには、ただただ眠かった。
謎を謎のままにしていいラストは、よほど高尚なものではいといけない。この映画にそんなカタルシスはない。結論から言えば駄作である。

結論から言えば、こいつの頭が駄作である。確かに分かりにくいところはある。しかし同時に、他のレヴューでもわからないという意見のほかに、作品の構造というか構成を的確に読み解いているレヴューもあって、私も気づかなかったことを教えられた。そうしたレヴューを読めば自分の理解力のなさを痛感させられるだろうし、また作品への理解が深まるだろうが、この駄作男は、それもせず、自分の頭が駄作であることを棚にあげて、映画が駄作だとほざいている。

映画のせいにするな。自分のせいにせよ。もちろん、こういうと、最近の起こった刺傷事件の高校生について社会のせいにするなと語ったあほな政治家と同じ次元のことを話していると言われそうだが、いや社会のせいという私の立場はかわらない。駄作男が。自分の駄作ぶりを棚に上げて映画のせいにしたこと自体、そうした発想を許す社会のありかたに問題があると私は思っている。ふつうなら、自分の頭の悪さをさらけだして、映画のせいにするというのは、恥ずかしくてできないはずなのに、それを堂々とやるというのは、社会によって自分の行為は認可されていると、この駄作男は自信をもっているからだろう。いつから、こんなことになってしまったのか。

それはともかく、この映画を駄作だというバカがいるいっぽうで、高く評価するレヴューアーは多い。また内容については、ネット上の「映画ウォッチ」というサイトには、実に丁寧なあらすじが掲載されていて驚く。映画をみたら、ぜひこの映画ウォッチで確認されたい。こんなに丁寧に筋を追っている記述はみたことがない。そしてそこまで綿密に筋を確認するのなら、感想でもなんでもいいからコメントしろよといいたくなる。

以下ネタバレ注意。Warning:Spoiler

アレハンドロ・アメナーバル監督・脚本の映画で『アザーズ』(The Others)という映画があったが(2001年製作のアメリカ・スペイン・フランス合作のホラー映画。ニコール・キッドマン主演)、構成はそれと似ている。つまり今風にいうと事故物件に新たに住人が住み始める。『アザーズ』では、すでにいる住人が、なぞめいた新たな住人に悩まされるのだが、実は、すでにいる住人のほうが、幽霊で、新たな住人が現実に生きている人びとということだった。

幽霊(死者)と生者との交流がドラマを、あるいは恐怖を生むことになるが、『アザーズ』の場合、幽霊が自分が死んだことを知らず、生者たちを幽霊と思い込んでいる。『ハウンター』も、実は、四人家族で暮らしている少女が、幽霊からの呼びかけに悩まされているという設定だが、少女は自分ならびに自分の家族がすでに死んでいることを自覚するようになる――これはけっこう早い段階で少女は気づくので、観客のほうが置いて行かれそうになる。実際、この少女リサ(アビゲイル・ブレスリンが演じている)は頭の回転が速すぎるというか利発すぎる。結局、幽霊からの呼びかけは、この家に新たに住み始めた住人(同じく四人家族)のひとりオリヴィアからのものだったとわかる。

ちなみに、これは少女が活躍する話であって、まさに映画の王道を行く設定であるともいえる。少女こそ、映画における中心的存在であるのだから。

リサはウィジャボード(Ouija board)で死者と交信しようとするのだが(実際には自分が死者なのだが)、相手の生きているオリヴィアはiPadで交信してくる。そこが面白い。リサが閉じ込められている世界は1985年である。オリヴィアのほうは映画の公開時と同じ2013年である。だからリサが、知るはずもないiPadの操作がわかるのは、おかしいという意見と、リサの才気煥発な頭の良さが物語の原動力となっていると肯定的にみる立場と二つに分かれるようだが、私はウィジャボードというのがあることを知らなかったが、コックリさんのようなものかと容易に推測できた。iPadに初めて接する人は、よほど文明度の低い暮らしをしていないかぎり、その使いかはたわかると思う。だから、そんな変な設定ではない。

リサは1985年の自分の誕生日前日の一日に閉じ込められている。この屋敷では過去に子供が両親を殺害するという事件が起きる。やがてその息子が長じて、連続殺人犯となって、街で拉致した女性をこの家で殺して焼却する。また、自身も死んで、亡霊となってこの家に憑りつき、新たな住人となった家族を殺す。それは父親に憑りつき、発狂した父親が家族を殺すのである――映画『シャイニング』のような物語となる。リサの家族も父親に殺され父親も死んだようだ。そしてここにループがはじまる。

ただひとまずループを差し置くと、リサは、自分に交信してきた2013年のオリヴィアと接触するようになる。と同時に連続殺人の最初の被害者フランシスと接触できるようになる。フランシスは1954年の世界に閉じ込められている。1985年を起点として、1954年はから始まる呪われた家の物語。そして2013年の現在、いまそこに住む家族に危機が迫るということになる。

リサは16歳になる誕生日の一日前の時間を延々と繰り返し生活を送っている。しかし彼女は、両親や弟が無自覚ながら、自分は、ループしている現実に覚醒する。そして自分も家族もみんな死んでいることに気づく――おそらく父親に家族全員が殺される記憶がかすかに残っているのだろう。そこまではいいが、なぜ同じ日を繰り返すのか。日本風にいえば成仏できなかった少女とその家族の話なのだが、成仏できないまま憑りついているということか。

ここで日本のネット上のレヴューアーが無視していることがある。映画の冒頭、タイトルがでるシークエンスは、蝶々が暗い保管棚の周囲を飛びまわる象徴的場面である。保管棚にはおびただしい数の瓶が置いてある。アルコール漬けの標本のような感じがするが、その中身は暗くてよくわからない。叫び声をあげている人間のイメージが瓶のなかに浮かぶこともあるが、それも定かでない。最後の蝶々は、ある瓶の側面にとまるのだが、その瓶のなかに同じ蝶々の姿が浮かび上がる。ガラスの側面を境にして蝶々が対照的にみえる。その後蝶々は飛び去って、朝、目覚める少女の顔になる。

映画『コレクター』(The Collector,1965)は蝶のコレクターの男性が、女性を拉致監禁するが、彼女を死なせてしまう(『ハウンター』のフランシスの運命と似ている)。映画は彼が連続殺人犯になってゆく未来を暗示して終わるのだが、『ハウンター』において連続殺人犯は、犠牲者たちをコレクションして展示しているとみることができる。生きているときは直接手を下した。しかし死んでからは直接手を下せないので、父親の精神を操って、その家族に凶行におよぶよう誘導したとみることができる。

ではどう展示するのか。蝶のように防腐処理をした死体を針でケースに止めるのか。あるいは博物館のようにジオラマ仕立てにして飾るのか。しかし静止した状態では面白くない。そこで動画状態、少なくとも生きている姿をとどめておきたい。そのために同じ一日を繰り返すことになる。一日を無限にループするのは、ある種の防腐処理のようなものである。そして誕生日前の一日に少女は永遠に閉じ込められる。永遠の相でみれば、これは静止状態であるが、人間の時間尺度にすれば一日であって、動くジオラマのように犠牲者たちは死ぬ前もしくは生前の日常を永遠に繰り返すことになる。

蝶は、少女と少女の家族、そしてそれ以前の、またそれ以後の、犠牲者たちがコレクション状態で、この家に閉じ込められていることの象徴でもあろう。また、ただ一匹で、この保管庫あるいは保管棚の周囲を飛ぶ蝶は、自分の状態に目覚めて、外部に出ようとする、あるいは出ることのできた少女の欲望というか意志のようなものの暗喩だとみることもできる。

物語は、少女の家族も、この家の悪しき亡霊に操られていたこと、自分たちが死んでいることを少女と同様に思いだし、この家から抜け出ようとする。また少女は、過去の犠牲者たちや未来の犠牲者候補たちと接触することができて、犯人を捕まえ、彼が犠牲者を焼いた地下の火炉で、犯人自身を焼くのである。そして翌朝目が覚めると誕生日の日になっている。時間的には終わりのないループ、空間的にはこの屋敷の異空間に捕らわれ、コレクションの展示状態になっていた彼女は、そこから逃れ翌日に到達できたのである。彼女には家族から誕生日プレゼントが贈られる。家族の愛を取り戻した彼女は、こうしてハッピーエンディングを迎える。とはいえ最初から死んでいるので、日本風にいえば無事に成仏できた。あるいは家族ともども天国に召されたということか。

無事に死ねた、成仏できたのだから、まさにHappy Birth Dayではなく、Happy Death Dayである。この表現は、映画『ハッピー・デス・デイ』よりも、この『ハウンター』のほうに当てはまる。

ただし、もちろん最後までリサを呼ぶ声は消えない。天国にめでたく召されたか、また閉じ込めれるのか、一抹の不安をかきたてて映画は終わる。

ひねりがききすぎているかもしれないが、よくできた映画で、観る者をいろいろな意味で刺激してやまない。

ただし、それだけかというとそうではない。最初のほうに同じ日が繰り返される日常がある。少女は、反復に気づいているし、観客もそれに気づく。そこからなにが生まれるかといえば、現実が芝居がかってみえることだ。映画『時をかける少女』の原作の筒井康隆の『時をかける少女』(ジュヴナイル)では、同じ日の繰り返しに主人公の少女が、誰もが芝居を演じているように感ずるところがある(原文を引用すると――「まるで、おしばいをしているみたい!」)。日常の反復性に覚醒した者には、ありふれた日常を包み込むリアルの皮膜がはがれて偽りの嘘っぽい芝居がかった内実をさらすところがみえてくる。少女が感ずるこの苛立ちと恐怖と虚無感。それはまた十代の思春期の男女が抱くフラストレーションそのものだろう。

つまりこの映画の少女のいらいらは、なにも連続殺人犯の奸計で一家が殺されたのに自分以外の家族が誰も気づいていないという特異な物語をもちださなくても理解できる。そこには、ありふれた、そしてより恐怖の度合いが強い、あるいは嫌悪すべき日常が隠されている。十代の少女(あるいは少年)にとって、家族生活そのものが、抑圧的で、親は、自分たちを閉じ込める悪魔にみえるだろう。連続殺人犯が憑りつく悪霊の家という設定は、真の原因から注意をそらさせる安全弁でしかない。得体のしれない慣習が伝統が家族愛という重圧が、自由を求め外部に出たい若者たちを閉塞させる。家族愛は彼らを閉塞させるしらじらしい茶番劇なのだ。そのためこの映画があばく真相は、実は日常的な光景そのものである。この虚偽の日常、しらじらしい慣習実践、おしばいをしているみたいな家族愛は、十代の男女が感ずる日常への嫌悪をたっぷりしみこませた心象風景にほかならない。
posted by ohashi at 23:26| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2022年01月19日

東海高校

1月15日の共通テスト時に東大農学部前の路上で、受験生二人と高齢の男性一人を刺して逮捕されたのが名古屋市の高校二年生ということで世間を騒がせている。名古屋の高校生あるいは私立高校生としてのみ報道されていたのだが文春オンラインでは名古屋の東海高校と特定されていた。未成年の高校生の名前を出すのはあってはいけないことで、両親が謝罪の声明を出したことも報じられたが、むろん名前は伏せられていた。名古屋の高校も声明を出したようだが、この場合、むしろ名前を出したほうがよいのではないか。りっぱな声明だったからよかったものの、もしこれが問題のある声明で、しかも高校名が伏せられていたら名古屋の高校全体が汚名を着せられかねなかっただろう。東海高校は、いまや名古屋市いえ愛知県のトップの高校なので、今回の事件で、高校に傷がつくとも思えない。

今回のような事件が起こると、予想通り、たとえば大学は自治を理由に警備をなおざりすべきではなく警備強化に努めるべきだとか、自分の責任を棚にあげて社会のせいにするのはよくないと、保守系の「政治家」が、紋切り型のコメントをする。

受験票をチェックせず、凶器をもった人間を大学構内に入れたなら、これは警備の手落ちを問題にされてもいのだが、正門前の路上での出来事であって、それは防ぎ得ないし、その責任は大学側にはない。また今回の事件は、自分の成績不振を苦にして(それにしてもまだ高校2年生であって受験をあきらめるのは早すぎる)、八つ当たり的な、通り魔的な犯行で、社会への復讐を目論んで犯行に及んでいるわけではないだろう。またなさけないのは、現在の政権を支持・維新することしか考えてない、自助・自己責任主張のクズ政治家は別にして、真の政治家なら、今回のような事件は、社会に責任があると強く主張し、市民の意識を覚醒させ問題解決へと歩を進めるべきである。逆に社会に責任はないと声高に主張するのなら、政治家であることやめてしまえ。

また、これは誤解のないようにというか、この高校生だけが誤解しているかもしれないのだが、これは共通テストであって、今回、東大で受験した学生は、東大を志望しているわけではない。たまたま東大を受験会場として割り当てられただけで、志望校はまちまである。私立大学を志望している受験生がいておかしくない。結局、犯行に及んだ高校生も、医師になることよりも、東大生になることを優先して、それがかなわないとなると暴発したということだろう。

なお、ここから先は、今回の事件とはまったく関係のない、どうでもいいことなので無視してもらってけっこうです。

今となっては想像もつかないかもしれないが、私が名古屋の中学生だった時、高校受験の滑り止めとして、東海高校を受験したことがある――東海高校を滑り止め? 何かの間違いではないかと疑われそうだが、本当の話である。

結果は、合格だったか補欠であって、不合格ではなかった。たぶん補欠合格だったと思う。したがって入学手続きをすれば、私は東海高校生であったかもしれない。

しかし東海高校は私立大学で授業料が高く、親も望んでいなかった。また仏教系の学校で男子校である東海高校は、小学・中学と公立の男女共学の学校だった私には違和感があった。また、当時、偏差値というのは、今ほど、取りざたされていなかったが、それでも、なんとなく高校の順位みたいなものがあって、私が志望し合格した公立高校は、東海高校よりも順位が上だった。また東海高校は受験のために訪れていながら、これは私が馬鹿だったのだが、名古屋市ではなく、三河地区にある高校とずっと、受験後も勝手に思い込んでいた。おそらくこれは三河地区(豊橋市)にある時習館高校という愛知県の名門高校と混同していたのかもしれない。

それから40年以上たってから、駒場から、本郷の文学部の英語英米文学専修課程に進学してきた3年生の歓迎コンパの席上で、名古屋市出身の学生と話をすることになった。出身校は東海高校だということだった。こちらの出身高校も聞かれたので、出身校の名前を言ったら、たいした高校じゃないな、というような顔をされた。私の母校の高校の名前を聞いたとたん、相手が優位にたったような気がした。まあ、それ以前に、生意気な感じの学生だったことは確かだが。

しかし、それは予期せぬことだった。滑り止めで受験した高校、今風にいうと偏差値が私の母校よりも低かった高校の出身者に、なにか鼻で笑われたようなそんな気がしたので、帰宅してからネットで調べてみた。

東海高校は偏差値では愛知県トップだった。これは全く予期せぬことだった。そして私の母校の高校はというと、没落していたというのは母校に失礼で、そこまでひどくはなかったが、偏差値で東海高校とはかなり差がついていた。知らなかった。不明を恥じるほかはない。

残念なのは、この事実を知っていれば、その学生に、東海高校は今でこそ愛知県トップの高校だが、昔は、私が滑り止めで受験したような高校で、たいしたことはなかったのだ――たいしたことはないというのは言い過ぎだが――と言ってやれたのに。とはいえ学生にマウントしようとする教員ほど愚かな人間はいないので、まあ、そんなことを言わなくてよかったのだが。

追記:
学生に対してマウントしようとする教員は最低であるが、同時に、出身校について、出身校の偏差値でマウントしようとするのも最低な行為であって、このことが上記の文章ではわかりにくかったかもしれない。出身校に愛着を持つ、出身校に誇りをもつことは、かまわないが、偏差値で見下そう、見下されるのがいやだという考えは、それこそ絶対に愚かである。そして出身校(高校)でマウントするような愚に、私自身も染まっていた可能性があるため、自戒をこめて上記の記事を記したことを、強調しておきたい。出身校でマウントしようする愚かな欲望が今回の凶行の原因のひとつであることはまちがいないと思っている。
posted by ohashi at 17:35| コメント | 更新情報をチェックする

2022年01月13日

外国人投票権

昨年の暮れ、東京都武蔵野市における外国人に住民投票権をあたえる条例が否決されたことは記憶に新しいのだが、たとえば「日本人と外国人を区別せず投票権を認める武蔵野市の住民投票条例案が21日、市議会本会議で否決された。市を二分した条例案は廃案になったものの……」というように報道されると、つまり「投票権」とだけ語られると、なにか国政選挙への参政権みたいに思えてしまって――実際に国籍がない者に、国政参政権はない――、外国人があたかも立候補したり地方自治体から国政にいたるすべての選挙に投票権をもったりするようなイメージ(そんなことはありえないのに)が一人歩きした観があり、否決されたのが当然というような風潮になったのは、なんともなさけない。

頭がおかしいし、基本的に頭の悪いネトウヨの暗躍があったとはいえ、住民投票権つまりアンケートに答える資格というか権利が、問題になれば、住民投票兼は認めるのが当然である。住民投票とアンケート調査は違うというかもしれないが、住民投票の結果が市政とか国政に影響をもつことはあるだろうが、法的拘束力はない――投票結果を無視しても法的に問題はないのである。外国人で一定期間以上居住し税金も払っていれば、住民投票権を与えるのは当然である。

私がイギリスに滞在していた頃は、居住していたイギリスの市に税金を払っていた。日本で居住していた市からは住民票を抜いて海外に出た。そうしないと居住地の市に税金をはらわなければならない。また帰国後、住民票をつくったので、私の住民票には、いまも「連合王国から転入」と書いてある。日本国民であり、本籍もあることを知らない人が私の住民票だけみれば、私は移民である。

それはともかく、イギリスでは税金を払っていた。まあ、公共サービスを受けているのだから税金を払うのはあたりまえだと思っていたから、それは気にしなかったし、苦にもならなかった。

ところが、たまたま、私の滞在期間中に、日本風にいえば市長選挙だったか市会議員の選挙があった。そしてそのとき私は自分には選挙権/投票権がないことを知った。税金を払っているのだから、選挙権もよこせと思ったことを憶えている。

私はイギリス国民ではないので、選挙権はないのが当然なのだが、そのときは、何だか、選挙権がなくて差別待遇を受けているような、そんな気がした。税金を払っているのだから、選挙権をよこせと反射的に思ったのである。

選挙権がないのは、基本的権利が奪われている感じがした。ただし、そんなに選挙が好きかというと、そんなことはない。もし選挙権があたえられたとしても、立候補はしなかっただろうし、投票もしなかっただろう。その地に10年くらい住んでいたら、いろいろな事情がわかっただろうが、観光客ではないとしても、いずれ日本に帰る私は、選挙があっても投票所には行かないだろう。ただ選挙権があるという事実だけで満足していられたと思う。

繰り返すが国籍がある国において選挙権があるのであって、帰化したり市民権を得るのではないかぎり、外国人には、外国において選挙権はない。このことは間違いないので、私が感じた選挙権のないことの差別感は、無責任な妄想そのものである。これに対して住民投票権は、すべての自治体が認めているわけではないとしても、あれば外国人にとっても、彼らの意見を尊重するということで日本が、あるいは自治体が、多様性を重んずる民主的な運営がなされている国家/自治体だという良いイメージを帯びることになろう。

住民投票権でネトウヨは、なにをがたがた言っているのかと、あきれるほかないのだが、彼らにしてもれば、たとえ住民投票権であっても、それを外国人に与えてしまえば、日本が乗っ取られるとでも考えているのだろう。これこそ悪辣な妄想である。そしてその妄想は、一種の投影であり、日本を乗っ取る外国人のイメージは、右翼のもっている実践と欲望の投影にすぎないだろう。

外国人が日本を乗っ取るという妄想は、日本を乗っ取る/乗っ取りつつあるという右翼勢力の自己イメージの投影であり裏返しである。右翼なら右翼らしく日本民族のゆるがぬ根幹であるとして、でんとかまえていればいいと思うのだが、それができなくて、外国人が乗っ取ろうとしているという被害妄想を抱くとは。外国人が侵略する、外国人が乗っ取ろうとしてるというのは、まさに日本の右翼が過去に外国人としてやろうとした/やったことではないだろうか。そして彼らは、いま、まるで外国人であるかのように日本を乗っ取ろうとしているのか――だからこそ、彼らは外国人による乗っ取りを恐れている。しかし彼らが抱く外国人のイメージは、彼ら自身の似姿にほかならない。彼らはいつか、外国人のように日本を乗っ取ろうとしている。彼らこそ、真に恐るべき外国人である。彼らとはもちろん******。

posted by ohashi at 13:16| コメント | 更新情報をチェックする

2022年01月10日

『タイムクルセイド』

タイム・ループ物のB級映画をみすぎていて、いつのまにかタイム・リープあるいはタイム・トラベル物の映画もいっしょに見てしまうことになった。そこで、純然たるタイム・リープ物映画ではないが、気になった映画について感嘆にコメントしておきたい。

『タイムクルセイド』はいかにもB級映画というイメージなのだが、それは誤解で、オランダで高い興行成績を収めたメジャーな映画である。

オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・ドイツの合作映画。オランダでは大ヒットしたとのこと。なお映画は、2時間5分のヴァージョンと1時間40分のヴァージョンがある(私が観たのは100分ヴァージョンのほう)。また使用言語は英語。英語のタイトルとしてはA March Through Time。

監督のベン・ソムボハールトはオランダでは有名な監督らしく、過去にその作品がアカデミー賞の外国部門賞を受賞したこともあるらしい。原作はオランダの女性作家テア・ベックマンの有名なジュヴナイルもしくはヤング・アダルト作品(『ジーンズの少年十字軍』(上・下)西村由美訳、岩波少年文庫2007)。原作のほうは読んでいないのだが、12世紀にタイムトラベルをするのは同じだが、その他の設定などは、原作とは大きく異なっているらしい。

原作の愛読者からは、原作のもつひねりや深さを活かしていないことへの不満があるようだが、それは原作を読んでいなくても、この映画の、いかにもハリウッド映画的なフォーマットの物語から充分に推測できることだが、ただ全体的にハッピーエンディングなので、家族向きの映画なのかもしれない。初等・中等教育の場で教材としても使えそうだし。

主役のジョニー・フリンはNHKでも放送していたBBCだったかのテレビ版『レミゼラブル』に出演していたし、未見だが英国のテレビ版『エマ』にも出演しているらしい。彼の母親で科学者のエマ・ワトソンは有名な女優だが、一応、中世の歴史再現性とタイムマシン装置のSF的設定においえ、金のかかっている映画であることはまちがいない。

少年十字軍について、ネットではこの映画で初めて知ったというレヴューがけっこうあったが、今はそういう時代なのか。私は子供の頃、少年十字軍の話を知り、ひどい話だと思ったことがある(もちろん現在では研究がすすんで、いろいろな説があるようで、ほんとに何が起こったのかわからないとしても)。この映画でも、12世紀の少年十字軍がたどった過酷な運命を再現しつつも、タランティーノの『ワンス・アポン・タイム・イン・ハリウッド』と同様、最終的な悲劇は回避されるので、映画ならではのファンタジーを成立させている――タイムトラベル物としては同じ時間軸の過去へ行くのではなくパラレルワールドの過去へ行くというファンタジーになる。過去ではなくパラレルワールドへというのは最近のタイムトラベル物にごくふつうにある設定である。

あと、オランダ人がみんな英語を話し、12世紀の住民たちも何不自由なく英語を話すという設定に違和感を抱かなければ、家族向きの映画として推薦できる。

12世紀に21世紀の青年(原作とは設定がちがう)がタイムトラベルしたので、当時としては目立つはずで、絶対に古文書に記録が残っているはずだということで、古文書を精査して、科学者(主人公の母)が主人公の居場所を突き止めるという設定は面白かった。

というのもこれはタイムパラドクスとも関係するが、過去に行って何をしようとも、歴史は変えられないという考え方である。未来からやってきた青年が、風変わりなよそ者として、奇跡を起こす物語が作られ伝承されるだけであって、タイムパラドクス的要素は、どんどん吸収されて新たな時間軸あるいはパラレルワールドができるだけで、いまの世界が崩れるわけではない。

あと、中世の彩色写本の、素人が描く漫画みたいな絵のなかに証言と真実が記録されているということは、映画の物語が、そうした偉人伝なり秘跡物語に等しい現代の寓話的存在であることを示唆しているとみることができる。映画ならではの自己言及的なメッセージである。
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2022年01月09日

『バック・イン・クライム 時空を超えた事件』

フランスを舞台にしたフランス語の映画(2013)なのに、どうしてBack in Crimeと英語のタイトルがついているのか不思議に思ったが、国際的市場で流通するときの英語タイトルのほかに、フランス語の原題があった。L’autre vie de Richard Kemp「リチャール・ケンプのもうひとつの人生」――これぞフランス映画のタイトルだと、ネット上でコメントしているアメリカ人がいたが、私もそう思う。

過去の未解決の連続殺人犯が時を経て新たな連続殺人を開始したかに思われる事件が発生する。捜査をすすめる捜査官リシャール・ケンプは夜、何者かに(おそらく真犯人)に橋から川に突き落とされ、水から川岸にあがってみると、そこは連続殺人が始まった10数年前の過去の世界だった。これまで犯人を捕まえられなかった彼は、事件を記憶している立場から、犯人に先んじて犯行を阻止したり、さらには犯人逮捕のために奔走する。そして……。

監督ジェルミナール・アルヴァレスについては不明。主役はジャン=ユーグ・アングラートといっても誰のことかと思うかもしれないし、比較的近年でも『シンク・オア・スイム』(2018)という、中年のおっさんたちのシンクロスイミングの映画にも出演していたのだが、そのときも気づかなかったのだが、今回調べて、『ベティー・ブルー』のゾルグだとわかった。え、あのゾルグ。『ベティ・ブルー』は、ゲイの映画で、あの男女のカップルは実はゲイ・カップルだと私は今も強く信じているのだが、あのゾルグだったとは。

しかし私のうっかりというか不覚はこれだけではない。ヒロイン役のメラニ・ティエリは、はじめて見る女優と思ったのだが、調べてみると、ヴィン・ディーゼル主演の『バビロンAD』(2008)のヒロインではないか。この映画は結構好きでDVDでもっている。そのケースを実際に手に取ってみてみると、ヴィン・ディーゼルの横にいるヒロインが彼女ではないか。なんたる不覚というか、いつものぼんやりというしかないのだが。

主人公の刑事は、10年前の世界では、競馬で資金をかせいで、ホテル住まいし、10年前の自分自身を観察しながら、連続殺人事件を防ぎながら、あるいは防ぐことに失敗しつつも、真犯人を追いつめてゆく。この展開にはけっこうサスペンスがあって、メランコリックな映像とともに、この映画の世界に観る者を引き込んでゆく。【この競馬で稼ぐというのは、タイムループ小説の傑作として評判の高い、ケン・グリムウッドの『リプレイ』を彷彿とさせるのだが】

あとこの映画では未来の世界で知り合いになった女性と10年前の過去の世界で再会し、そこで相思相愛のなかになって、やがて10年後に結ばれるという、かつてSF作家の梶尾真治氏がエッセイのなかで使った言葉を借りれば「タイムトラベル・ロマンス」(梶尾真治『タイムトラベル・ロマンス――時空をかける恋-物語への招待』(平凡社、2003)でもある。

最後に結ばれる男女は、女性のほうは10年前に彼とであって、人生が変わった女性の10年後の姿であろうが、男性のほうは未来からきた男性なのか、10年前の男性の10年後の姿なのかは観客に想像させるようになっていて、そこの余韻を観客は楽しめばいいのかもしれない。

ただ、問題はそこではない。セカンドチャンスを与えられた主人公が、一度目は失敗と挫折で終わった事件捜査を、解決に導き、さらに新たな女性とも結ばれるというハッピーエンディングは、まるで夢のようである。

気になるのは、未来の世界で、たぶん犯人に川へと突き落とされる、その後川岸に自力で這い上がるのは、水(羊水)から生まれる、つまり再生のイメージでもあるのだが、10年前に再生した彼が、最後には、犯人といっしょに川のなかに落ちる。ここには暗合というか符号があって、タイムリープとも関係するつながりがあるのかもしれないが、この点を掘り下げるよりも、むしろ、夢物語の要素をみたほうがいいだろう。

そう夢なのだ。彼がやってきた未来の世界では連続殺人犯は逮捕されず、また殺人犯の挑発にのった担当捜査官(主人公)は橋から川に落とされて、おそらくは死亡したのであり、死ぬ間際に、あるいは死んでから、夢見た、失敗のない人生のファンタジー、それがこの映画の物語内容であるともいえる。このことは、おそらく、多くの人が感じることであろう。無念の死を迎える主人公が最後に夢見た別の人生のハッピーエンディング――それがこの映画の幸福な結末をむかえつつもメランコリックなせつなさをたたえた映像となって観る者に感銘をあたえるのではないだろうか。
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2022年01月08日

『エンド・オブ・ザ・フューチャー』

Narcopolis 2015 UK

監督のジャスティン・トレフガルネについては不明。ジョナサン・プライスが出演しているので、メジャー映画かと一瞬思うのだが、ジョナサン・プライスはメジャー映画にも出演するし(最後にみたのはローマ教皇の役(主演)だった)、マイナーというかインディ系というかB級映画にも出演する--そう、これはB級映画によく出演するジョナサン・プライス、つまりB級映画(プライスは仕事を選ばない主義かもしれない)。

刑事役で主演のエリオット・コーワンは、テレビドラマ『スパニッシュ・プリンセス』(2019、ちなみにこのプリンセスとは、キャサリン・オヴ・アラゴンのこと)でヘンリー七世を演じていたが、主にテレビで活躍している俳優のようだ。あとジェームズ・キャリスが悪役(黒幕のボス)で登場する――いったい誰だと思われるかもしれないが、『バトルスター・ギャラクテカ』で、いま名前が出てこないのだが、レギュラーの裏切り者で、つねに内面世界が描かれる科学者というとわかるだろうか。ここでもけれんみたっぷりの演技で見ているものを苛立たせる。

父親と息子の話で、幼い天才的な息子が、長じてから、過去へのタイムトラベルで父親を救おうとし、父親のほうは未来に行って息子を救おうとするという、ウロボロス的構造になっているのだが、またその意味はわかるのだが、からくりというか、細部の整合性が、いまひとつ私にはわからなかった。これは私の問題で、映画の問題ではないのだが、しかし、ネット上のレヴューでは、わかっている人間はいないように思われた。

ただ息子と父親のウロボロス的探求物語は、未来において安全な薬物を提供する企業の世界支配を阻止できるか否かの物語ともなる。映画の冒頭、安全な麻薬を提供する企業のトップがテレビのインタヴューを受ける。なぜそうした安全を保証された合法的麻薬を販売することになったのかという問いに、自分が幼い頃、両親が薬物依存症で死んだ。そうした悲劇を繰り返さないためにも、安全な薬物を製造販売することに決めたのだ、と。そして物語は、この企業が安全な薬物を製造販売しはじめる過去へと飛ぶ(いまからすれば、過去とはいえ近未来なのだが)。

原題Narcopolisは「麻薬都市」と訳せるのだが、polisはpoliceと似ていて、NarcopolisNarcopolice「麻薬警察」とも読めるというか、そこにつながっている。実際、映画自体、警察権力と未着した企業が世界を制覇をたくらむのである――合法的な薬物を通して、住民を薬物依存にすぐことで。

薬物をめぐるこの無気味さは、なにか既視感があった。薬物依存を嫌う人間あるいは勢力が、国民を薬物依存に陥れる……。そうこれはナチスドイツのペルビチンと同じ話だ、と。

第一次世界大戦後のドイツのワイマール時代には危険な薬物はとくに取締り対象とならなかったのだが、ナチス・ドイツ時代になって薬物撲滅運動が起こる。ナチスドイツの負の遺産のひとつが、環境保護運動とか動物保護運動(菜食主義など)を推進したことであり、これは現在の環境保護運動に批判的な反対勢力がつとに持ち出す例としても名高い。つまり菜食主義の主張あるいは強制は、ナチスのような全体主義的施策と同じではないかと言いがかりをつける時のよい口実、実例となってしまっているのだ(もちろん、この問題をどう考えるかは、エコクリティシズムとかアニマル・スタディーズにおいても検討されているのだが、ここでは触れない)。

ナチスの薬物撲滅運動は自然浄化・現実浄化運動の一環だが、問題は、ナチスが薬物を厳しく取り締まりながら、同時に、国民に安全なもの、合法的なものとして薬物を与え、さらに自国の軍隊にもこれを投与することで、薬物兵士をつくりあげたことだ。そして総統自身、薬物依存症であった。

有名なのがペルビチンと呼ばれる覚せい剤で、これは一般市民も処方箋なしに購入できる薬であったため、安全で、合法的な薬物として一般に浸透していった。主婦もこれを服用すると元気になって、家事を元気にこなすことができるようになった。当然、ペルビチンを服用した兵士たちは、超人的な働きで、電撃戦を戦い抜くことができた。ヒトラーも、敗北の報告などで意気消沈していても、主治医テオドール・モレルが処方する薬物で元気を取り戻した……。一般市民から兵士、総統にいたるまで薬物漬けであった。薬物を取り締まる側が、結局のところ、安全な薬物と称して薬物を蔓延させた(ちなみにネット上では、ペルビチンを服用して元気になったあと、もとに戻るというようなことを書いている記事があったが、何日も一睡もせずに活動し続けたあと、薬が切れると、もとにもどるどころか、数日、死んだように眠りつづけることが報告されているようで、覚せい剤はあきらかに身体を害することになった)。

この話の元ネタは、ノーマン・オーラ―『ヒトラーとドラッグ――第三帝国における薬物依存』須藤正美訳(白水社2018)であり、CSのディスカバリーチャンネルだったかどうかうろ覚えだがナチスドイツの敗北を扱った番組で、ナチスの薬物依存を取り上げていたのも、この本の影響であろう。英語訳が2016年。ドイツ語原書が2015年刊行。そして2015年というと、この映画の製作年。この本が、映画に影響を与えたのかもしれない。たとえ影響を与えなかったとしても、2015年頃に同じ問題が意識が、映画関係者のなかで共有されていた可能性はある。くりかえすが、薬物撲滅運動を推進する側が、合法的薬物で薬物依存を蔓延させ世界を支配するという物語は、これまで聞いたことがない新機軸であるからだ。

ペルビチンという名の覚せい剤はメタンフェタミンという有機化合物から作られたものだが、このメタンフェタミンを合成したのは日本人であり、日本ではヒロポンという名で販売されていた。この覚せい剤ヒロポンは戦時下の日本でも使われ、戦後も多くの犠牲者を出した。ただ、それにしても、日本で『天皇とドラッグ――大日本帝国における薬物依存』といったような本が、たとえ確かな資料に基付いていたとしても、今の日本で、刊行できるかどうかは怪しいだろう。その意味で『ヒトラーとドラッグ――第三帝国における薬物依存』(なおこのタイトルは日本語訳で付けたもの)は刊行されたこと自体、大きな意義があったものといえよう。
posted by ohashi at 22:08| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2022年01月02日

くたばれ忠臣蔵

元日のテレビをみていたら、最近の10代の若者たちに認知されない言葉として『忠臣蔵』がトップにきたのを知って驚いた。と同時に、思わず、快哉の拍手をしてしまった。

まあ昔(とはいえいつ頃のことか?20世紀末までか?)は、テレビドラマで『忠臣蔵』が取り上げられたり、定期的に映画化もされて、忠臣蔵の物語は、一般にかなり浸透していた。それが最近は『忠臣蔵』のテレビドラマも映画化作品もなくなった。いまや『忠臣蔵』は絶滅危惧種か、もしくはすでに消滅しているのかもしれない。

だが私にとってそれは正月早々良いニュースである。

私は名古屋市出身の人間である。愛知県の人間は、いまはどうか知らないが、子どもの頃から、吉良上野介は、『忠臣蔵』では極悪非道の人間に描かれているが、実は、良い殿様だったという話を聞かされて育っている。まあ尾張の人間(名古屋市中心の地域)は、三河の人間をバカにしているのだが(私は、そんなことはないが)、それでも、吉良上野介の善政と名君ぶりは、その悲劇的な死とともに、語り伝えられている――まあ、あんな名君なのに非業の死を遂げてしまい三河の人間がバカだと尾張の人間があざ笑って、吉良=名君説を語り継いでいるとは、思いたくない、それでは尾張の人間は悪辣すぎる)。

だから私などは『忠臣蔵』に接するたびに、まさに抑圧され非業の死をとげた無念の名君のことが頭から去らない。吉良上野介の名君ぶりは、虚構かもしれないが、しかしでは、浅野内匠頭の側に、名君ぶりをうかがわせるような逸話が残っているかどうか――残っているのは、これも虚構かもしれないが、浅野内匠頭が切腹したという知らせに領民たちが大喜びをしたという逸話である(Wikipedia参照)。もちろん信憑性に乏しいのだが、信憑性のとぼしい名君神話と、信憑性の乏しい馬鹿殿逸話は、忠臣蔵の物語の圧倒的支配下においては、逸脱的・対抗物語性ゆえに真実味を増しているように思われる。

赤穂義士は江戸の町民には人気があったかもしれないが、忠臣蔵やそれに類する物語で描かれる浅野内匠頭は、その人間的美徳が褒められても、領民との関係はまったく見えてこないというか、そんなものは最初からなかった、領民にはたとえ憎まれてはいなかったとしても(いや実際には頭のおかしい色好みの殿様として憎まれていたかもしれないが)、愛されてもいなかったのではないだろうか。

私は頭のおかしい播磨赤穂藩の浅野内匠頭によって不当なまでにおとしめられ最後は非業の死を遂げた吉良上野介のためにも『忠臣蔵』は上演禁止、映画化禁止、テレビドラマ化禁止にしてほしいと思っている――そこで描かれるのは社会主義プロパガンダよりもたちの悪い偏向的物語なのだから。

ただ、禁止措置をとらなくても、いまや『忠臣蔵』は絶滅危惧種である。このままほうおっておけば安からに絶滅してくれる。

なお、愛知県人の抱いている『忠臣蔵』への不満と、ある意味、悲憤にかられた『忠臣蔵』論として、清水義範『上野介の忠臣蔵』 (文春文庫 2002)をお薦めする。Amazonの読者レヴューでは評判が良いのだが、どれも、この本を面白い冗談と受けとめているから評判がよいにすぎない。なかには、冗談だからもっと面白くしてもよかったという主旨のレヴューもあった。『忠臣蔵』による洗脳はかくも強いものかと絶句。むしろ『忠臣蔵』のほうが、真実を糊塗する悪い冗談だと、なぜ思わないのだろう。

posted by ohashi at 04:36| コメント | 更新情報をチェックする

ウクライナ問題

正月のワイドショーをみていたら、ウクライナ問題が取り上げられていて、そもそもソ連崩壊後のNATOとの関係において、ウクライナはNATOとロシアのとの緩衝地域となるはずで、ウクライナには手を出さないというのがNATOとロシアのとの取り決めだった。それを反古にして、ウクライナを西側に取り込もうとしていて、ロシアが怒っているという情勢分析があった。

ただ専門家でもない私の勝手な感想だが、ウクライナは、ソ連時代には、ソ連の軍事力の重要な一翼を担ったのだが、そもそもロシアは好きではなかったようなところがある。ウクライナ語は、スラヴ系の言語で、ロシア語と大差ないのかもしれないが、ロシア語ではなくウクライナ語というものが存在する。同じ国、同胞かどうかわからないのだ。

思い出すのは、ショーロホフの長編『静かなるドン』である(ヤクザ映画の話ではない――ちなみに私が読んだ翻訳のタイトルは『静かなドン』)。中学生か高校生の頃に読んだので、内容はほとんど忘れているが、第一次大戦勃発からロシア革命が起こり、その後社会主義政権が確立する頃までを、ウクライナのドン・コサックの主人公を中心にして描く、大長編小説である。

第一次世界大戦に従軍したドン・コサックの主人公は、戦闘シーンでは、馬に乗って槍をもって戦うので、戦国時代の話かとものすごい違和感をもった記憶がある。第一次世界大戦で馬と槍。なんたるアナクロニズムと思ったのだが、ペキンパーの映画『ダンディー少佐』の最後に、アメリカの北軍がメキシコに進駐したフランス軍と国境の川のなかで激突する場面があるが、そこでは槍をもった騎馬兵が登場し、たとえ銃器による発砲があっても、騎馬兵の槍というのが、いかに有効な武器になるかを映像で確認できた。

それはともかく、『静かなドン』が当時の中学生か高校生だった私にとってもすごいと思われたのは、社会主義リアリズムの作家ショーロホフが、ソ連建国期の壮大な叙事詩ともいえる長編小説のなかで、革命後に反革命軍である白衛軍に身を投ずるドン・コサックの主人公の生き様を描いたことである。革命を推進したり、革命後の社会を防衛するのではなく、つまりは革命万歳というプロパガンダ的作品ではなく、革命を潰そうとする側の人間を描いたことである。雪解け前の言論統制の厳しい時代に、よくこのような作品が書けたものだと驚いた――逆にいえば、プロパガンダ臭くないところが、世界的によく読まれた理由かもしれないとも考えた。

主人公は、第一次世界大戦に従軍、その後、白衛軍に身を投じ、ロシア各地を転戦し、やがてすべてを失って故郷の村に帰ってくる――そこで小説は終わる。革命政権の樹立はもはや揺るぎないものとなり、主人公は敗残の身となって帰ってくる。歴史の帰趨は定まった。もはや社会主義政権はゆるぎないものとなった。それを敵対勢力の側から、間接的に描くことによって、革命を賛美し正当化するという戦略なのかとも考えた。

少し物心がついてくると、ショーロホフが『静かなドン』を発表し始めた時期は、ロシア・フォルマリズムの全盛期でもあったことがわかるようになった。ショーロホフはリアリズム作家である、つまりは文学的には保守的な作家であった。いっぽうロシア・フォルマリズムは前衛的な文学・文学理論運動として存在した。ソ連当局は、最終的にショーロホフの大衆受けするリアリズム文学を選択し、ロシア・フォルマリズムを抑圧することになった。ショーロホフも政治的に曖昧なところがあったが、ロシア・フォルマリズムの難解で革命的な文学観・言語観に比べれば政治的に肯定的な評価を下せたのだ(ショーロホフは『静かなドン』が出始めた頃、ゴーリキーの口ききで最高指導者のスターリンと会っている)。

と、まあ、そんなことも考えたのだが、しかしソ連の崩壊後に、またウクライナの独立を期に、『静かなるドン』についてのみかたも変わった。というか、そんなにひねったみかたをしなくてもよいのではないかと思うようになった。ショーロホフは、ドン・コサックではないけれども、コサックの文化から影響を受け、コサックに共鳴するものがあった。またコサックは革命当初から、ロシアの社会主義政権とは敵対していたし、ドン・コサックではないとしても、日本軍に協力したコサックもいた。また第二次世界大戦ではソ連はナチスドイツに相当ひどいめにあったのだが、それでもドン・コサックのなかにはナチスに協力する者も出てくる。

結局『静かなドン』は、裏面から描かれた革命建国物語というよりも、正面から描かれた反革命運動物語であり、また正面から描かれたドン・コサック敗北へのレクイエムであったのではないか。その後ショーロホフは、ソ連公認ともいえる社会主義リアリズムの作家として、革命政権への敵意を隠蔽して、ソ連当局の文化政策の庇護者としてパッシングして生涯を終える。

ドン・コサック・イコール・ウクライナ人ということにはならないかもしれないが、ウクライナとロシアとの関係は、革命当初から微妙なものというか緊張関係があって、ソ連崩壊後に、独立を達成したウクライナが、その次にNATOに加入するのは、べつにNATOからの働きかけがなくとも当然の成り行きだったともいえるかもしれないのだ。

そのことをいま『静かなドン』は語りかけてくるような気がしてならない。
posted by ohashi at 00:55| コメント | 更新情報をチェックする

2022年01月01日

松岡和子氏「朝日賞」受賞

1月1日の朝日新聞紙上で、2021年度の朝日賞の受賞者4名が発表され、そのうちの一人に松岡和子氏のお名前があった。「シェークスピア全戯曲の翻訳」というのが受賞理由である。それは当然といえば当然のことであって、受賞を心から喜びたい。この受賞は、演劇関係者、演劇愛好家、演劇研究者、文学愛好家、文学研究者、翻訳者、評論家……誰にとっても喜ばしいだけでなく有益な効果をもたらすものだと信じている。

松岡和子氏の翻訳のすばらしさは私があえて書くまでもない。と同時に、そのすばらしさを褒めちぎりたいのだが、あることが邪魔をする。それは表記の問題である。松岡氏は「シェークスピア」の全戯曲を翻訳したのではなく、「シェイクスピア」の全戯曲を翻訳したのである。

「シェークスピア」と「シェイクスピア」の二つの表記が存在する。私は、どちらでもいいと思っているし、二つの表記をひとつに統一する必要はないと思っているが、では、今度、「シェークスピア」についてのエッセイとか論文とか本を書いてくれと出版社に言われたら、いえ、「シェークスピア」ではなく「シェイクスピア」にして欲しいと言うだろう。やっぱりこだわっているのかと言われそうだが、私がこだわるのは勝手であって、問題は統一して欲しくないということだ(ちなみに現在の出版界では「シェイクスピア」という表記が一般的であって、「シェークスピア」という表記の本を出す出版社はいないので、これはあくまでも仮定の話)。

付け加えると、「ジェームズ」と「ジェイムズ」、「ジェーン」と「ジェイン」というような二つの表記が存在し、文学関係者(愛好家、批評家、研究者)は、どちらかという後者が好みなのだが、実際の発音(英語ではなく日本語の場合)はどうかというと、「時計」とか「先生」を「トケイ」とか「センセイ」と発音する日本人はほとんどいなくて、たいていは「トケー」とか「センセー」と発音している。私も、日本語では「シェークスピア」と発音していると思う。だったら「シェークスピア」でいいのでは。いや、英語の二重母音の感覚を残したいとか、あるいは物心ついたときから「シェイクスピア」の表記に接し、それに慣れたので、いまさら「シェイクスピア」という表記を手放したくない。

もし私が朝日新聞にシェイクスピアについての記事を書くことになれば、「シェークスピア」という表記に統一されてしまうだろう。それは仕方がないことだが、では、シェイクスピア研究の本とかシェイクスピア学会の本とか、そういう「シェイクスピア」表記の本に、メディアの関係者が一文を寄せる場合、そのときは「シェイクスピア」という表記に統一されるということになるのだが、そういうケースは圧倒的に少ない。そうするとメディアが決めた表記法にシェイクスピア関係者が従わされるケースの方が多いわけだから、なにか不公平感、強制感は拭い去れない。

朝日新聞の33ページというべきか33面というべきか、そこには「朝日賞のみなさん」として受賞者の功績を紹介する記事が書かれている。

松岡氏の紹介記事は、こんなふうに始まる――

こんなへりくだった言葉が必要だろうか――。客席でみるシェークスピア劇の女性のセリフに、常々引っかかっていた。自らが訳した「ロミオとジュリエット」は、ヒロインの言い回しを、従来の「お供をします」から「ついて行く」などと改めた。現代を生きる人らしい言葉遣いは、その後の訳者も踏襲している。


面白いというか魅力的な書き出しだが、ただ「常々引っかかっていた」と感ずるのは誰のことか、最初わからない。この記事を書いた記者のことかと思うと、そうではなくて、松岡氏自身のことらしい。となるとこの記事の冒頭は、松岡氏に取材したうえで、記者が松岡氏になりすまして書いたものということになる。なりすましというと人聞きが悪いが、要は、直接話法ではないが、間接話法の距離感をなくすために、地の文でありながら、発言内容をそのまま伝えて、あたかも記者=執筆者が、取材された人物になりすましたかのように書く、中間話法、描出話法と呼ばれるものである。

記事の最後は

日本人3人目、女性初の労作は、演劇界の結晶だ。(記者名)


で閉じられる。これは完全に記者のコメントで、松岡氏の発言ではない。しかし、では今回朝日賞を受賞された他の3名も同じ様に、全部ではなくとも、その一部で描出話法で紹介されているかというと、どれも簡潔に、なおかつわかりやすく、興味深く書かれているのだが、描出話法の部分はない。この松岡氏の記事だけ、冒頭で描出話法が使われている。まあこまかなことに目くじらを立てるつもりはないが、なりすまし的エクリチュールは、警察がつくる供述書みたいで(実際に容疑者とか犯人が書くのではなく、警察官が書いて、本人の了承を得る)、なにか違和感がある。それは、記者その人も対象となるような、決まった表記法、話法、文体に、画一的に押し込めようとするメディアそのものの威圧的な姿勢を感じさせてしまうのだ。

この記事において「シェークスピア劇」と冒頭で表記しながら、「英文学を志すならと大学でシェイクスピア研究会に入るも一度は挫折した」とあって、ここでは「シェイクスピア」の表記がある(ただ、それにしても研究会に入って「挫折した」?――研究会が思っていたこととちがって落胆したというのならわかるが、なにを挫折したのだろうか、というか、取材した記者の解釈がおかしい)。しかしシェイクスピア研究会がたった一つしかないのなら固有名詞として「シェイクスピア」の表記は必要だろうが、シェイクスピア研究会など、どこの大学にもひとつくらいありそうだし、巷にもシェイクスピア研究会はあっておかしくないのだから、これは固有名詞というよりも普通名詞ではないか。とすれば、「シェークスピア研究会」でもよかったのでは? 

というか、問題はそこではなく、松岡氏の翻訳は、ちくま文庫に「シェイクスピア全集」ととして、「シェイクスピア」の表記で入っているのであって、繰り返すが松岡氏は「シェークスピア」ではなく「シェイクスピア」の戯曲を翻訳されたのである。むしろこの点に敬意を表すべきではないか。あるいは今回は、決まった表記を無視して「シェイクスピア」で統一する柔軟さを発揮してもよかったのでは。

二つある表記をどちらかひとつに統一する必要はない。たった二つでも多様性に入る。多様性とは、複数の可能性なり現象を記録するだけのことで終わってはむなしすぎる。むしろ寛容さ、柔軟さを実践することが、多様性から求められていることではないだろうか。
posted by ohashi at 18:22| コメント | 更新情報をチェックする

新年あけましておめでとうございます

毎年書いているが、いつからか、「新年あけましておめでとうございます」という表現がめっきり減ってしまった。旧年があけて、新年となるのだから、「新年あけまして」というのは理屈にあわないと言い出した悪魔がいて、それに同調する愚か者たちがいっぱいあらわれて、いつのまにか「新年あけましておめでとうございます」という表現が絶滅危惧種になってしまった。

実のところ、「あけまして」は、漢字で書くと「明けまして」となって、「開ける」でなく「明ける」であって、ドアとか障子の開け閉めの「開ける」ではないから、「新年ではなく旧年が開ける」という理屈は意味が通らないともいえる。ただ「明ける」は「夜が明ける」のイメージもあって、「夜が明ける」⇒夜が消える、「旧年が明ける」⇒旧年が、夜が明けるように、明けるということであって、新年が明けるのはおかしいという理屈なのだが、だからといって、「新年があける」が不条理な表現ということにはならない。

なぜなら日本語には原因のみならず結果を明示する表現があるからだ。典型的なのは、「お湯を沸かす」という表現。これは一度沸かしたお湯を、もう一度沸かす、再沸騰という意味ではなく、水を沸かしてお湯にするという意味である。もちろん、「水を沸かす」とも言えるのだが、どちらかというと「お湯を沸かす」という表現のほうが一般的であるように思う。

これと同じで、「旧年があけて(開けて?)おめでとうございます」というべきであって、「新年あけましておめでとうございます」というのはおかしいということのほうが、おかしい。また、もし「新年あけましておめでとうございます」という表現がほんとうにおかしいというのなら、「旧年あけましておめでとうございます」といえばいいかというと、誰も、そんなことはしなかった――そもそも、これは漫才のネタみたいな話であって、まともにとるほうもどうかしているのだが、どうかしている人間が多くて、「新年あけましておめでとうございます」という長くつづいてきた表現が、絶滅寸前にまで追い込まれた。ああ、愚かさに歯止めなし。

とはいえ、最近は、「新年明けましておめでとうございます」という表現が復活しているように思う。萌しではなくて、ほんとうに復活。漫才ネタなら、それはそれで面白いのだが、それを日本語表現を変えるほどの衝撃として受け止めた頭のおかしい人間たちには、自らの愚をほんとうに反省してほしいと思う。
posted by ohashi at 11:05| コメント | 更新情報をチェックする