2021年12月13日

『文化と神の死』3

イギリスに滞在していた頃、知人のイギリス人夫妻と話をしていたとき(ちなみに夫妻は私が日本の大学の教員であることを知っている)、夫のほうが、うちの家内は方向音痴で、彼女は、さしずめProfessor of no geographyだと冗談めかして語ったことを覚えている。そんな風にprofessorという語を使うのかと感心したが、本の装丁をはじめとして、なんであれデザイン関係については私は全く美的センスがないので、いうなれば「プロフェッサー・オヴ・ノーセンス」というは英語として意味が通じないだろうから、Professor of no aestheticsである。

そのため本の装丁には私は自分から口出したことはないし、すべて編集者あるいは出版社に任せている。またこれまでの経験で、任せて全く問題なかったというか、私が下手に口出しをしたらとんでもないことになっていただろうとは予測がつく。また翻訳に関しても、私がかかわった翻訳書の装丁は、どれも素晴らしいもので、私としては残念に思った装丁はひとつもない。

今回『文化と神の死』の装丁は、黒いカバーに黒い太い帯、そこに白地の文字という、ある意味、単色だがインパクトの大きなものとなっている。私は本書の訳者あとがきを書いている時点で、装丁がどうなるかは知らされていなかった、というかそのときはまだ何も決まっていなかったと思う。だから、これから書くことは、訳者あとがき執筆の時点で、知っていれば、書いたであろうこととなる。

イーグルトンの宗教論である『宗教とは何か』(大橋洋一・小林久美子訳、青土社、2010)は、実は、白いカバーに太い白い帯の装丁である。カバーの文字は黒だが、太い帯のほうの黒文字のほかに、赤字あるいは赤褐色の文字で、真っ白な本という印象はないのだが、しかしカバーも帯も白地であり白い本であることは変わりない。

今回の本は、この『宗教とは何か』の続編ではない。あるいはイーグルトンの宗教論二篇のうちの一篇というわけでもない。『宗教とは何か』の原題はReason, Faith and Rvolution: Reflections on the God Debate(2009)で、当時盛り上がっていた「神論争」への介入でもあることを示している。

そして今回の『文化と神の死』の原題はCulture and the Death of Godで、特に前後編とか正編続編というわけでもない。しいて言えば、イーグルトンの著作のなかで、神(God)という言葉をタイトルに含めている2冊ということになる。また内容からすると、『文化と神の死』のほうは、『宗教とは何か』についての、長い、歴史的・思想史的・文化史的な脚注という側面がある。そういう意味ではペアになる本かもしれないが、実際のところは『宗教とは何か』は神論争(ドーキンスらによる宗教批判)の時代の産物であり、『文化と神の死』は、宗教の社会的文化的機能を積極的に評価するポストモダンの宗教擁護の思潮を背景とした本である。もちろんイーグルトンは、そうした宗教擁護に対して、神を殺し、聖書の革命性を骨抜きにするものとして批判しているのだが。

たとえそうでも、緊密な関係のある正編と続編でもないが、また、本編と長い注釈編でもないが、なんとなくペアとして考えてもおかしくない二著作なのだが、今回の『文化と神の死』の黒ずくめの装丁によって、強く結び合わされ、運命の二著となった観がある。

『宗教とは何か』は、科学者・合理主義者による神殺しが、いかに浅薄なものか、神は、あるいは宗教は、姿かたちを変えても生き延びている――「神は死なない」――がテーマであった。それが白い本となった。これに対し『文化と神の死』は、訳者あとがきにも書いたように「神は死なない」テーゼが皮肉な展開をたどることになる。それはポストモダニストによる神あるいは宗教の復権である。だが、これこそが、いよいよ神を殺すことになったと著者は考える。それが黒い本の主張で、あたかも「神の墓」か「神の棺」のような黒い箱は、内容をパフォーマンスしている。

実際のところ、『宗教とは何か』を翻訳出版したときは、『文化と神の死』の原著は出版されていなかったので、ペアになるかもしれない本が、それも黒い装丁として世に出ることなど、誰一人として予想していなかった。それがいまこうしてペアになる本を私が翻訳(共訳)でき、そのことを歴史的に画するかのように、対照的ペアとしての黒い装丁の本となったことには深い感慨を禁じ得ない。

ただし急いで付け加えなければいけないのは、今回の黒い本は、カバーの色こそ黒でも、文字のレイアウトなどは、白い前作とは全く異なる。帯も前作は全体の6割になる白い帯だったのが、今回の帯は、7割、あるいは8割に迫ろうかという幅広になって、第二のカバーに迫る大きさとなっている。白い本の帯には赤い文字が入っていたが、今回の黒い本のカバーや帯に赤い文字はない。また本体において、章の扉が黒地に白文字というデザインは、前作も今回も同じである。この差異と同一性のバランスはまた、本そのものの内容とも連携していて、今回の翻訳がたんなる続編ではないことを示している。

訳者あとがきでは、前作を読んでいなくとも本作を読むことに問題はないことを力説したが、これは続編ではないことを強調し、また前作を読まねばわからないという誤解を払拭しつつ、敷居を低くする狙いがあったのだが、正直いえば、この機会に前作も読んでほしい。いやすぐに読まなくても、前作を購入して、今作と並べて、装丁面における、白と黒のペアならぬペア、差異と同一性の戯れを楽しんでほしいし、それが内容とも連携していることを読んで確かめていただければと願っている。

posted by ohashi at 22:05| 『文化と神の死』 | 更新情報をチェックする