2021年12月08日

誰が翻訳しているのか?

あるいは翻訳者の人数は重要だ

最近というか、現在、翻訳中の本において、ジュディス・バトラーのBodies That Matter(1993)が引用されていたので、日本語訳でも確認するために、『問題=物質となる身体』(以分社2021)を購入購入した。

定価(税抜で)4200円。全体がおよそ420頁なので、こういう人文書としては標準的値段設定(つまり1ページ10円)で、安くはないが、高いということはない。

また内容は優れた翻訳で、この難物を(著者自身、難解な本であることを認めている)、ここまで丁寧で明確な日本語に仕上げられたことに対しては、ただただ頭が下がる。今後、長く読まれるべき優れた翻訳だと思う。

だから、こんなことを書いても、この翻訳の価値を少しも下げるものではないし、まただからこそ書かせてもらうのだが、いったい、この翻訳は誰が訳しているのだ。

Amazonで調べたときには、「佐藤嘉幸(監訳)竹村和子(訳)越智博美(訳)」とあって、それで何とも思わなかったのだが、現物を手に取ってみると、カバーとか帯とか表紙には「佐藤嘉幸監訳 竹村和子、越智博美ほか訳」とある。

「ほか訳」?

つまりこの三人以外にも翻訳者がいるということだが、奥付には「佐藤嘉幸 監訳」とあるだけで、「ほか」が誰なのかわからない。

「訳者あとがき」をみると、序章を除いて全8章の翻訳分担が書かれている。そこで分担については無視して、名前が載っている翻訳者について列挙すると、

佐藤 嘉幸 監訳
越智 博美
河野 貴代美
竹村 和子
三浦 玲一(監訳者以外、50音順)

と5名の翻訳者の名前がみえる。ところが本書で略歴を紹介されている翻訳者は佐藤・竹村・越智の三氏のみである。また著者もふくめ監訳者・訳者の生年が書いていない。これは趣味あるいは主張がおありなのだろうから、文句は言えないが、私は、言いかげんにしろとはっきり非難する。

女性の生年を記載しないのは、欧米の出版業界の悪習だと思うのだが、著者が望んでいるのなら、それもしかたがないのだが、バトラーの生年月日は、Wikipediaにも明記されている。また竹村和子氏は亡くなられているのである。訳者紹介に生没年を記載して、それを墓碑銘と同じ扱いにして追悼すべきではなかったか。

カバーや帯や表紙に三人の名前しかないのは、それはしかたがないことかもしれない。三人とも著名であって、残りのふたりが「ほか」になってもしかたがないかもしれないが、しかし、訳者紹介のところで紹介すべきではなかったか。河野貴代美と三浦玲一のお二人である。

とりわけ三浦玲一氏は亡くなられているのである。氏の最後の仕事だったかもしれない本書で、生没年を記して、追悼すべきではなかったか。

しかし「訳者あとがき」を読むと、驚くべきことが書いてある。下訳者がいるのである。しかも分担まで書いてある。以下、分担と所属は省いてお名前だけを列挙すると

西 亮太
宮永 隆一朗
山下 芳典(50音順)

とある。この三人で第2章から第5章を担当している。

私が翻訳を始めた頃は、下訳者というのは消滅しつつあった。ただベストセラー本の一刻を争う翻訳出版の場合、下訳者を使って、著名な翻訳家の名前で出すというようなことは、今でも行われているかもしれない。また私にとって先輩あるいは先生にあたる世代では、署名な教授が学生に翻訳させて自分の名前で出版するということは、ごくありふれたことのようだったが、いまでは、そうした慣習もなくなったと思っていた(もうこれから下訳者などというのは消えてなくなるのだと語っていた先輩もいた)。

事実、私は、全部自分で翻訳しているし、また翻訳の協力を仰いだ時には共訳者として明記して翻訳を上梓している。

また下訳者をゴーストライターと同じようなものとみれば、たとえばタレントなど自分で文章を書く能力がないから、ゴーストライターに書いてもらい、それを手なおしてして自分の本として出す場合、ゴーストライターのほうが文筆力があることになるが、こと本書の翻訳の場合、5名の翻訳者のチームは、正直言って、ベストメンバーで、バトラーの難解な本の翻訳者として、彼らを凌ぐ翻訳者がいるとはとても思えない。

文章など書いたことがないタレントがゴーストライターを使って本を書くというのはわかる。しかし下訳者よりも、明らかに翻訳力が上と思われる翻訳者たちが(下訳者の人たち、失礼をお詫びします)、なぜ、下訳者を使うのか。

一刻を争う事態だったのか。しかし、1993年出版の本で、2011年に竹村さんが亡くなられ、2014年にバトラーから「日本語版への序文」をもらい、それから、いったい何年たっているのだ。まあ、私も最近翻訳したイーグルトンの『文化と神の死』も出版までに時間がかかったから、批判するつもりはないのだが、ただ、まるでせっぱつまっているかのようなこの人海戦術は、いったいどうしてなのか。

またさらにいうと下訳者の翻訳がりっぱなものだったとしたら、共訳者としないのは、下訳者を奴隷扱いしている。また下訳者の翻訳が使い物にならず、大幅な手直しをしたとしても、それでも下訳者は共訳者として扱うべきである。下訳者を根絶することは簡単なことである。共訳者として敬意を表せばいいのだから。

しかし、これだけではない。翻訳者、下訳者のほかに、注作成者がいる。これも分担を省略して、お名前だけ列挙すれば

青木耕平
五十嵐舞
市川昭子
山崎亮介
山下義典(50音順)

「注」とだけあって、原注なのか訳注なのか、両方なのかわからないのだが、原注も訳注も情報のゆきとどいたきわめてりっぱなものがついている。これに匹敵するのは、私の翻訳(共訳者がいる)であるイーグルトン『文化の神の死』くらいだろう。だから「注」に関しては、翻訳の本文と同様、問題はないのだが、ただ、それは翻訳者=下訳者チームが作るべきものだろう。またもし注作成者がリサーチをしただけならば、それは協力者であって、訳者あとがきで触れるだけでいいのだが、「注」の原稿を書いたのなら、それは翻訳者あるいは共訳者のひとりとして明記すべきではないか。そしてそんなにせっぱつまっていたのなら、そのせっぱつまりぐあいを読者にも、また協力者という名前で奴隷扱いされている下訳者にも、協力者としての名目で奴隷扱いされている注作成者にも説明すべきである。

たとえ下訳者にも注作成者にも高額の謝礼がなされているとしても(ただの推測だが)、そんなお礼よりも共訳者として扱うことのほうが、はるかに重要であることを、明記しておきたい。

ただ、こんなことを延々と書いてくると、翻訳そのものがひどいものだと思われかねないが、翻訳そのものは素晴らしいものであることは断言できる。ただ、翻訳者も、翻訳者の数も重要である。共訳者も重要である。このことを指摘しておきたい。

いや、最後にひとつだけ。バトラーのこの本は1993年と古い本であり、この翻訳書の解説も、1993年当時の古いパラダイムに沿って書かれた力作であるにすぎず、21世紀のいまとここがまったく反映されていない。コロナ禍のことではない。21世紀になって、あるいはここ10年にアメリカなので盛んになった「新唯物論New Materialism」に、バトラーのこの身体bodiesと物質matterの議論は確実につながっている。Matter物質が重要matterなのだ。新唯物論の側でも、まさにそのようにバトラーのこの本を認識している。物質論、物質性への新たな視座への導入としてバトラーのこの本は、決して古くはない。このことだけは付け加えておきたい。
posted by ohashi at 17:40| コメント | 更新情報をチェックする