2021年12月16日

『クマ王国の物語』

ディーノ・ブッツァーティの『シチリアを征服したクマ王国の物語』のアニメ版映画が日本でも来年1月14日から公開されることになった。試写会の案内があったが、もちろん行く予定はない。

原作は翻訳で読んだことがある。ディーノ・ブッツァーティ『シチリアを征服したクマ王国の物語』天沢退二郎/横山暁子訳(福武文庫、2008)を、以前に読んだことがある。本ももっている。これがアニメ映画になったのかと感慨深いが、なぜ、そんな児童向け童話を読んでいるのかと問われそうだが、アニマル・スタディーズ関連で動物物語には興味がある。そしてアニマル・スタディーズ関連の研究では、個々の動物についても専門的探究をすることがふつうだが、私の場合、対象は「熊」である。そのため熊に関するものには何であれ興味がある(ただし日本の熊事情については私など足元にも及ばない専門家からマニアまで多くの人がいるので、そこに介入するつもりはない。私の関心は、西洋における熊表象である)。

きっかけはアーサー王伝説においてアーサー王が死ぬときに熊になったというエピソードである。そもそも熊は、西洋人が実物のライオンを目にする前は、百獣の王と考えられていたし、直立歩行できる熊は人間にもっとも近い動物と考えられていた。シェイクスピアの時代のイングランドには「熊いじめ」という娯楽があったのだが、しかし、鎖につながれた熊いじめの熊の図像は、当時のウォリック伯家の家紋でもあって、ただの見世物の熊以上の象徴性を担っていた。などと話しはじめるときりがないからやめるが。

ブッツァーティの『クマ王国の物語』は、それにしても不思議な物語である。そもそもシチリアに熊はいない。山の多いシチリアには熊がいてもおかしくないとしても、熊がいた頃の昔々の話という設定とはいえ、完全に文明化された(船舶、汽車、サーカス、カジノ、銀行強盗などの)19世紀か20世紀の世界での物語になっている。熊は擬人化されているともいえるのだが、同時に、この物語の熊は、アレゴリー性をともないつつも、同時に、熊そのものでもある。ちょうど、チャペックの『山椒魚戦争』の山椒魚がナチスのアレゴリーであることは確かだが、『白い病』の病は、ファシズム化のアレゴリーかもしれないが、それ以上に、感染症そのものでもあるのと同じように、この熊は、もし熊が言葉をしゃべることができたのならという熊たちそのものである。

しかし、それよりもずっと気になっていたのは、この物語の主人公の熊の王の名前であるレオンツィオ。シシリア王のレオンツィオ? 私が知っている似たような名前の王は、シェイクスピアの『冬物語』に登場するシチリアの王レオンティーズである。まったく偶然だろうか。ブッツァーティがシェイクスピアのこの劇から霊感をえたのだろうか(この芝居と小説の物語はまったく違うから、パクリとかいうことではない)。

さらに気になるのは熊である。『冬物語』にはボヘミアの海岸に熊が出てくる。ボヘミアには熊がいる。この熊がシェイクスピアの時代に熊いじめのために捕獲されイングランドに売られてきた。しかしボヘミアには海岸などない。どうしてこうなったのか。一般にはシェイクスピアが『冬物語』の典拠としたのが、当時の作家ロバート・グリーンの中編『パンドスト』であり、本来ならシチリアの海岸に熊が登場するところ、シェイクスピアはボヘミアとシチリアの設定を入れ替えたので、ボヘミアの海外に熊が出没することになった。

問題は熊である。ボヘミアか、シチリアかよくわからないが、そこには熊がいる。そしてボヘミアの王の名前はパンドストだが、シェイクスピアはこれをシチリア王のレオンティーズに変えた。ブッツァーティの物語ではシチリアにレオンツィオという熊の王がいる。この連関を説明できる情報資源がないものだろうか。ずっと不思議に思っている。アニメ映画の上映を機になにかわかるといいのだが。

なお『シチリアを征服したクマ王国の物語』は、物語の随所に詩が登場する、物語と詩が同居している作品である。同じように詩が織り込まれている小説・物語というと、たまたま思い浮かぶのが、たとえばノヴァーリスの『青い花』であり、またこれは詩が織り込まれてはいないのだが、短篇と詩が交互にでてくるブレヒトの『暦物語』がある。これら三作品の翻訳を較べてみると――

ノヴァーリスの『青い花』(『ノヴァーリス作品集 第2巻』今泉文子訳、ちくま文庫、2006)は、散文の部分の翻訳は、実にみごとな訳文で、散文の部分が詩想にあふれ、さながら散文詩ともいえる完成度の高さを誇っているのだが、随所に織り込まれている詩の翻訳が、私の勝手な感想だが、なにか散文的で、原文が韻文とはとても思えない無味乾燥な翻訳となっている――意図的なものかもしれないし、原文の韻文を翻訳する場合、定型詩の形で翻訳しないとすれば、散文を行替えするだけのものとなってしまい、散文性はどうしてもぬぐえないことは分かっているのだが。

ブレヒトの『暦物語』(丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫、2016)は、短篇と試作品が交互に登場するのだが、試作品の翻訳は、たんに行替えしたのではない、口調の良さがあり、また詩的な想像力をかきたてるもので、短篇の散文とおのずとコントラストが生まれていて素晴らしい。

そしてブッツァーティの『クマ王国物語』に織り込まれた詩は、子供のための新聞に連載されたとき人気がでて子どもたちが口ずさんだということらしいから、耳に心地よい定型詩なのかもしれない。翻訳では、スピード感のある語り口が、地の部分とのコントラストを際立たせていて、違和感なく読める。

最後に、

ブッツァーティの『タタール人の砂漠』は、同種の作品、ジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』とかクッツェーの『夷荻を待ちながら』と較べて、一番肩すかしをくらったというか、え、その終わり方でいいのかとがっかりした記憶があるが、むしろ、その素朴さこそ評価すべきだったのかもしれないと、この『シチリアを征服したクマ王国の物語』をあらためて読んで思ったことを記しておきたい。
posted by ohashi at 16:04| 文学 | 更新情報をチェックする

2021年12月13日

『文化と神の死』3

イギリスに滞在していた頃、知人のイギリス人夫妻と話をしていたとき(ちなみに夫妻は私が日本の大学の教員であることを知っている)、夫のほうが、うちの家内は方向音痴で、彼女は、さしずめProfessor of no geographyだと冗談めかして語ったことを覚えている。そんな風にprofessorという語を使うのかと感心したが、本の装丁をはじめとして、なんであれデザイン関係については私は全く美的センスがないので、いうなれば「プロフェッサー・オヴ・ノーセンス」というは英語として意味が通じないだろうから、Professor of no aestheticsである。

そのため本の装丁には私は自分から口出したことはないし、すべて編集者あるいは出版社に任せている。またこれまでの経験で、任せて全く問題なかったというか、私が下手に口出しをしたらとんでもないことになっていただろうとは予測がつく。また翻訳に関しても、私がかかわった翻訳書の装丁は、どれも素晴らしいもので、私としては残念に思った装丁はひとつもない。

今回『文化と神の死』の装丁は、黒いカバーに黒い太い帯、そこに白地の文字という、ある意味、単色だがインパクトの大きなものとなっている。私は本書の訳者あとがきを書いている時点で、装丁がどうなるかは知らされていなかった、というかそのときはまだ何も決まっていなかったと思う。だから、これから書くことは、訳者あとがき執筆の時点で、知っていれば、書いたであろうこととなる。

イーグルトンの宗教論である『宗教とは何か』(大橋洋一・小林久美子訳、青土社、2010)は、実は、白いカバーに太い白い帯の装丁である。カバーの文字は黒だが、太い帯のほうの黒文字のほかに、赤字あるいは赤褐色の文字で、真っ白な本という印象はないのだが、しかしカバーも帯も白地であり白い本であることは変わりない。

今回の本は、この『宗教とは何か』の続編ではない。あるいはイーグルトンの宗教論二篇のうちの一篇というわけでもない。『宗教とは何か』の原題はReason, Faith and Rvolution: Reflections on the God Debate(2009)で、当時盛り上がっていた「神論争」への介入でもあることを示している。

そして今回の『文化と神の死』の原題はCulture and the Death of Godで、特に前後編とか正編続編というわけでもない。しいて言えば、イーグルトンの著作のなかで、神(God)という言葉をタイトルに含めている2冊ということになる。また内容からすると、『文化と神の死』のほうは、『宗教とは何か』についての、長い、歴史的・思想史的・文化史的な脚注という側面がある。そういう意味ではペアになる本かもしれないが、実際のところは『宗教とは何か』は神論争(ドーキンスらによる宗教批判)の時代の産物であり、『文化と神の死』は、宗教の社会的文化的機能を積極的に評価するポストモダンの宗教擁護の思潮を背景とした本である。もちろんイーグルトンは、そうした宗教擁護に対して、神を殺し、聖書の革命性を骨抜きにするものとして批判しているのだが。

たとえそうでも、緊密な関係のある正編と続編でもないが、また、本編と長い注釈編でもないが、なんとなくペアとして考えてもおかしくない二著作なのだが、今回の『文化と神の死』の黒ずくめの装丁によって、強く結び合わされ、運命の二著となった観がある。

『宗教とは何か』は、科学者・合理主義者による神殺しが、いかに浅薄なものか、神は、あるいは宗教は、姿かたちを変えても生き延びている――「神は死なない」――がテーマであった。それが白い本となった。これに対し『文化と神の死』は、訳者あとがきにも書いたように「神は死なない」テーゼが皮肉な展開をたどることになる。それはポストモダニストによる神あるいは宗教の復権である。だが、これこそが、いよいよ神を殺すことになったと著者は考える。それが黒い本の主張で、あたかも「神の墓」か「神の棺」のような黒い箱は、内容をパフォーマンスしている。

実際のところ、『宗教とは何か』を翻訳出版したときは、『文化と神の死』の原著は出版されていなかったので、ペアになるかもしれない本が、それも黒い装丁として世に出ることなど、誰一人として予想していなかった。それがいまこうしてペアになる本を私が翻訳(共訳)でき、そのことを歴史的に画するかのように、対照的ペアとしての黒い装丁の本となったことには深い感慨を禁じ得ない。

ただし急いで付け加えなければいけないのは、今回の黒い本は、カバーの色こそ黒でも、文字のレイアウトなどは、白い前作とは全く異なる。帯も前作は全体の6割になる白い帯だったのが、今回の帯は、7割、あるいは8割に迫ろうかという幅広になって、第二のカバーに迫る大きさとなっている。白い本の帯には赤い文字が入っていたが、今回の黒い本のカバーや帯に赤い文字はない。また本体において、章の扉が黒地に白文字というデザインは、前作も今回も同じである。この差異と同一性のバランスはまた、本そのものの内容とも連携していて、今回の翻訳がたんなる続編ではないことを示している。

訳者あとがきでは、前作を読んでいなくとも本作を読むことに問題はないことを力説したが、これは続編ではないことを強調し、また前作を読まねばわからないという誤解を払拭しつつ、敷居を低くする狙いがあったのだが、正直いえば、この機会に前作も読んでほしい。いやすぐに読まなくても、前作を購入して、今作と並べて、装丁面における、白と黒のペアならぬペア、差異と同一性の戯れを楽しんでほしいし、それが内容とも連携していることを読んで確かめていただければと願っている。

posted by ohashi at 22:05| 『文化と神の死』 | 更新情報をチェックする

2021年12月08日

誰が翻訳しているのか?

あるいは翻訳者の人数は重要だ

最近というか、現在、翻訳中の本において、ジュディス・バトラーのBodies That Matter(1993)が引用されていたので、日本語訳でも確認するために、『問題=物質となる身体』(以分社2021)を購入購入した。

定価(税抜で)4200円。全体がおよそ420頁なので、こういう人文書としては標準的値段設定(つまり1ページ10円)で、安くはないが、高いということはない。

また内容は優れた翻訳で、この難物を(著者自身、難解な本であることを認めている)、ここまで丁寧で明確な日本語に仕上げられたことに対しては、ただただ頭が下がる。今後、長く読まれるべき優れた翻訳だと思う。

だから、こんなことを書いても、この翻訳の価値を少しも下げるものではないし、まただからこそ書かせてもらうのだが、いったい、この翻訳は誰が訳しているのだ。

Amazonで調べたときには、「佐藤嘉幸(監訳)竹村和子(訳)越智博美(訳)」とあって、それで何とも思わなかったのだが、現物を手に取ってみると、カバーとか帯とか表紙には「佐藤嘉幸監訳 竹村和子、越智博美ほか訳」とある。

「ほか訳」?

つまりこの三人以外にも翻訳者がいるということだが、奥付には「佐藤嘉幸 監訳」とあるだけで、「ほか」が誰なのかわからない。

「訳者あとがき」をみると、序章を除いて全8章の翻訳分担が書かれている。そこで分担については無視して、名前が載っている翻訳者について列挙すると、

佐藤 嘉幸 監訳
越智 博美
河野 貴代美
竹村 和子
三浦 玲一(監訳者以外、50音順)

と5名の翻訳者の名前がみえる。ところが本書で略歴を紹介されている翻訳者は佐藤・竹村・越智の三氏のみである。また著者もふくめ監訳者・訳者の生年が書いていない。これは趣味あるいは主張がおありなのだろうから、文句は言えないが、私は、言いかげんにしろとはっきり非難する。

女性の生年を記載しないのは、欧米の出版業界の悪習だと思うのだが、著者が望んでいるのなら、それもしかたがないのだが、バトラーの生年月日は、Wikipediaにも明記されている。また竹村和子氏は亡くなられているのである。訳者紹介に生没年を記載して、それを墓碑銘と同じ扱いにして追悼すべきではなかったか。

カバーや帯や表紙に三人の名前しかないのは、それはしかたがないことかもしれない。三人とも著名であって、残りのふたりが「ほか」になってもしかたがないかもしれないが、しかし、訳者紹介のところで紹介すべきではなかったか。河野貴代美と三浦玲一のお二人である。

とりわけ三浦玲一氏は亡くなられているのである。氏の最後の仕事だったかもしれない本書で、生没年を記して、追悼すべきではなかったか。

しかし「訳者あとがき」を読むと、驚くべきことが書いてある。下訳者がいるのである。しかも分担まで書いてある。以下、分担と所属は省いてお名前だけを列挙すると

西 亮太
宮永 隆一朗
山下 芳典(50音順)

とある。この三人で第2章から第5章を担当している。

私が翻訳を始めた頃は、下訳者というのは消滅しつつあった。ただベストセラー本の一刻を争う翻訳出版の場合、下訳者を使って、著名な翻訳家の名前で出すというようなことは、今でも行われているかもしれない。また私にとって先輩あるいは先生にあたる世代では、署名な教授が学生に翻訳させて自分の名前で出版するということは、ごくありふれたことのようだったが、いまでは、そうした慣習もなくなったと思っていた(もうこれから下訳者などというのは消えてなくなるのだと語っていた先輩もいた)。

事実、私は、全部自分で翻訳しているし、また翻訳の協力を仰いだ時には共訳者として明記して翻訳を上梓している。

また下訳者をゴーストライターと同じようなものとみれば、たとえばタレントなど自分で文章を書く能力がないから、ゴーストライターに書いてもらい、それを手なおしてして自分の本として出す場合、ゴーストライターのほうが文筆力があることになるが、こと本書の翻訳の場合、5名の翻訳者のチームは、正直言って、ベストメンバーで、バトラーの難解な本の翻訳者として、彼らを凌ぐ翻訳者がいるとはとても思えない。

文章など書いたことがないタレントがゴーストライターを使って本を書くというのはわかる。しかし下訳者よりも、明らかに翻訳力が上と思われる翻訳者たちが(下訳者の人たち、失礼をお詫びします)、なぜ、下訳者を使うのか。

一刻を争う事態だったのか。しかし、1993年出版の本で、2011年に竹村さんが亡くなられ、2014年にバトラーから「日本語版への序文」をもらい、それから、いったい何年たっているのだ。まあ、私も最近翻訳したイーグルトンの『文化と神の死』も出版までに時間がかかったから、批判するつもりはないのだが、ただ、まるでせっぱつまっているかのようなこの人海戦術は、いったいどうしてなのか。

またさらにいうと下訳者の翻訳がりっぱなものだったとしたら、共訳者としないのは、下訳者を奴隷扱いしている。また下訳者の翻訳が使い物にならず、大幅な手直しをしたとしても、それでも下訳者は共訳者として扱うべきである。下訳者を根絶することは簡単なことである。共訳者として敬意を表せばいいのだから。

しかし、これだけではない。翻訳者、下訳者のほかに、注作成者がいる。これも分担を省略して、お名前だけ列挙すれば

青木耕平
五十嵐舞
市川昭子
山崎亮介
山下義典(50音順)

「注」とだけあって、原注なのか訳注なのか、両方なのかわからないのだが、原注も訳注も情報のゆきとどいたきわめてりっぱなものがついている。これに匹敵するのは、私の翻訳(共訳者がいる)であるイーグルトン『文化の神の死』くらいだろう。だから「注」に関しては、翻訳の本文と同様、問題はないのだが、ただ、それは翻訳者=下訳者チームが作るべきものだろう。またもし注作成者がリサーチをしただけならば、それは協力者であって、訳者あとがきで触れるだけでいいのだが、「注」の原稿を書いたのなら、それは翻訳者あるいは共訳者のひとりとして明記すべきではないか。そしてそんなにせっぱつまっていたのなら、そのせっぱつまりぐあいを読者にも、また協力者という名前で奴隷扱いされている下訳者にも、協力者としての名目で奴隷扱いされている注作成者にも説明すべきである。

たとえ下訳者にも注作成者にも高額の謝礼がなされているとしても(ただの推測だが)、そんなお礼よりも共訳者として扱うことのほうが、はるかに重要であることを、明記しておきたい。

ただ、こんなことを延々と書いてくると、翻訳そのものがひどいものだと思われかねないが、翻訳そのものは素晴らしいものであることは断言できる。ただ、翻訳者も、翻訳者の数も重要である。共訳者も重要である。このことを指摘しておきたい。

いや、最後にひとつだけ。バトラーのこの本は1993年と古い本であり、この翻訳書の解説も、1993年当時の古いパラダイムに沿って書かれた力作であるにすぎず、21世紀のいまとここがまったく反映されていない。コロナ禍のことではない。21世紀になって、あるいはここ10年にアメリカなので盛んになった「新唯物論New Materialism」に、バトラーのこの身体bodiesと物質matterの議論は確実につながっている。Matter物質が重要matterなのだ。新唯物論の側でも、まさにそのようにバトラーのこの本を認識している。物質論、物質性への新たな視座への導入としてバトラーのこの本は、決して古くはない。このことだけは付け加えておきたい。
posted by ohashi at 17:40| コメント | 更新情報をチェックする

2021年12月06日

『文化と神の死』2

最近上梓した翻訳、テリー・イーグルトンの『文化と神の死』(大橋洋一・畑江里美訳、青土社、2021.12.10)を購入された方、あるいはこれから購入されるかもしれない方にむけて書いている。訳者あとがきには、書かれていないことが中心となる。

タイトルについて

私が訳者あとがきを書いているときには、まだ本書の翻訳タイトルは決まっていなかったように思う。翻訳書のタイトルをどうするかについては、やや紆余曲折をたどった。というのも原題Culture and the Death of Godは、〈Culture:文化〉と、〈the Death of God:神の死〉という二つの話題を組み合わせたタイトルだと、疑問の余地なくわかるのだが、これを日本語にそのまま翻訳すると〈文化と神の死〉となるものの、このとき、「と」が何と何を結びつけている、あるいは区分しているか、曖昧になる。つまり「〈文化〉と〈神の死〉」か、「〈文化と神〉の〈死〉」か、ふたつの可能性がでくる。原題では死ぬのは神であるが、日本語に訳すと、文化も神といっしょに死ぬという意味も生ずる。

いや、そんなふうに受けとめるのはバカだと思われるかもしれないが、しかし、昨今の社会情勢をみるにつけても、「文化」も死ぬ/死んだとみなす読者は決してバカではない。むしろ優れた洞察力・知力を備えた読者ともいえる。

またさらに、「文化の死」という意味に実際に受けとめる読者はいないとしても、「文化の死」ともとれる可能性が見えてしまうのは、読者にとって、不快とはいかなくても、気がかりではないだろうか。

編集者も、私と同意見で、「文化と神の死」とした場合の、日本語のやや両義的なところは問題視していた。そして出版社で検討の結果、『文化と神の死』となった。なんだというなかれ。こうなったのは、私のほうによい代案がなかったことも原因のひとつだが、ただ、編集者の躊躇が無視されたということではないと思う。社内では発言力のある地位につかれている編集者なので、その躊躇を押し切ったのは、おそらくご自身であったのだと思う。

私としては、よい代案がなかったこともあり、これはこれで原著のタイトルの直訳であり、翻訳書の原著がわかりやすいこと、また、「文化の死」と受け止める読者は別にして、ほとんどの読者がタイトルから内容を推測できるという点で、結果として、これでよかったのではないかと思っている。

訳者あとがき執筆時に、タイトル以外に決まっていなかったもうひとつのことがある。それは本の装丁である。 つづく
posted by ohashi at 15:19| 『文化と神の死』 | 更新情報をチェックする

2021年12月05日

『文化と神の死』1

久しぶりに翻訳を出すことができた。

テリー・イーグルトン『文化と神の死』大橋洋一・畑江里美訳、青土社、2021。

奥付には11月25日印刷、12月10日刊行とあるが、すでに書店には並んでいることと思う。これは購入された方のための記事(数回連載予定)であり、またこの記事を読んで購入意欲をかき立てられればとも思うが、それは期待薄とも思っている。

なお今回は、献本の数量を限った。ただでさえ人付き合いが悪いうえに、大学も定年退職したし、年賀状もまったく出さなくなったので(たとえいただいても返事の年賀状も出していない)、当然、献本の数も少なくなった。ところが献本数を限っても、結局、献本金額が原稿料を上回ったので、今回は、いや今回も赤字である。この翻訳を刊行して私に入る収入はない。まあいつものことなので驚くことではないのだが。

あと特記すべきは、今回は編集者と最初に翻訳を刊行の打ち合わせを大学の研究室で行なってからは、以後、一度も会うことなく作業を進めた。共訳者の畑江さんとも、翻訳作業が始まってからは、今に至るも一度も会ってない。同じ青土社から翻訳を刊行した、ジュディス・バトラーの『分かれ道』は、共訳者の岸まどかさんがアメリカ在住だったので直接会うことなく作業をすすめたが、編集者とは直接何度も会っていた。今回は完全にリモート状態での作業で、初めての体験なのだが、とくに不便を感ずることもなかった。これからも、たとえコロナ禍が収まったとしても、リモート状態での本作りは続くかもしれない。

原著はTerry Eagleton, Culture and the Death of God(2014)で、そう2014年の本である。翻訳刊行までにずいぶん時間がかかっているが、翻訳原稿は正確には覚えていないのだが、共訳者の原稿ともども、2年くらい前にできていた。ただ、コロナ禍その他のせいで、出版まで待たされた。その間、私は、いろいろな方から献本として単著、論文集、翻訳などをいただいたのだが、普段なら、ただありがたくいただくだけなのだが、今回は、どうしてこの人たちの本が、このコロナ過の大変な時期に、何事もなかったように出版され、私の原稿は、どうしてずっと待たされているのだと、焦燥感に駆られていた。実のところ、まだ待たされている原稿があるのだが、それらに先立って、年内に今回の翻訳を刊行できたことに対して青土社にはほんとうに感謝している。

なお在職中は、翻訳を引き受けてもなかなか翻訳がはかどらず、編集者の方、出版社に迷惑をかけっぱなしだったのだが、そのぶん、翻訳が完成すると、あっというまに本になった。スピード感をもってというのは政治家のいうお決まりのフレーズだが、私にとっても、翻訳原稿の完成から刊行までのスピード感は身をもって体験していたといっていい。ただ、これは私の翻訳が尋常でないほど遅れたせいであって、通常は、そんなに早く本にはならない。私の異例の遅れが、異例に早い刊行を可能にしたにすぎない。

ところが退職後、時間が出来て、翻訳がはかどり、早く翻訳が完成するようになったのだが、そのぶん刊行までに待たされることになり、そのうえコロナ禍によって、さらに待たされることになった。本来なら早くしてほしいと要求、督促してもいいのだが、過去の悪業ゆえに、さすがにそれができなくなった。これまで出版社をさんざん待たせておきながら、ちょっと時間的余裕ができて早く翻訳が終わったくらいで、偉そうに何をせかしているのだと言われかねない。そして待たされることのつらさを実感したので、過去に私が、翻訳の遅れでどれほど迷惑をかけることになったのかを痛感することになった。

つづく――ただし、なさけない話はこのくらいにして、次回はタイトルと装丁について。
posted by ohashi at 20:56| 『文化と神の死』 | 更新情報をチェックする