2021年11月12日

抑圧されたものの帰還


私の業績リストから省いていた翻訳書が一つあった。今年も、このコロナ禍のなかで翻訳を出版できることになったので、私の長い翻訳者人生もつづくことになったのだが、そんな長い翻訳歴だから、一冊くらい翻訳業績リストからはずしても、さして問題になるわけでもない。そしてリストから省いたので、その存在自体も私の記憶から省かれた。

私が大学の助手(現在では助教と呼ばれている職)の頃、私が院生だったときの助手の方で、すでに大学教員になり、研究者としても批評家としても翻訳者としても華々しい活躍をされていた方が、思索社の翻訳の仕事を、私と、私の前任者の助手二人にまわしてくれた。

その方は、思索社の翻訳の仕事をすでにされていて、思索社ともつながりができていた。そして同じ助手を経験した三人(私を含む)に翻訳の仕事を回してくれたのである。ありがたいと思ったし、初めての翻訳でもあったので身が引き締まる思いもした。

私は個人訳だったが、私の前任者の助手二人は、最終的に翻訳タイトルが『王権の呪術的起源』となったフレイザーの翻訳を担当することになった。人類学のフレイザーの本邦初訳の本となるものだった。あの『金枝篇』のフレイザーである。正直、うらやましいなと思ったのは事実。

これは、Amazonで今も「ジェイムズ・G・ .レイザー (著)『王権の呪術的起源』 折島正司 (翻訳) 黒瀬恭子(翻訳)、思索社、1986/2/1」として新品ではなく中古品が売られている。Amazonでは「.レイザー」という変なミスプリントになっているが、「フレイザー」と正しく表記されていれば今でも買う人がいてもおかしくない。実際、翻訳で読んでみたが、講義録として「です・ます調」で訳されていて、わかりやすく、また内容的にも本の成立的にも『金枝篇』につながり、『金枝篇』のエッセンスを伝えるものでもあって、実に面白い。もしフレイザーを読んだことがなければ、これは、フレイザー入門としては最適の本である。

これに対して私にまわってきた本は、原書のタイトルをみるとMedusaとある。あのギリシア神話のメデューサ/メドゥーサ、あのゴルゴン三姉妹のひとりで、その顔を観る者を石に変えるという、あの神話のモンスター、ギリシア神話の話かと思うと、よくみるとThe Medusa and the Snailとあって、Medusaの最初が大文字になっているのは、本のタイトルだからで、これは小文字のmedusaつまり「クラゲ」のことである。snailは「カタツムリ」のこと。え、私にまわってきたのはギリシア神話の神話学・人類学の本ではなく、「クラゲとカタツムリ」という本、生物学の本なのだ。

フレイザーの本の翻訳なら業績になるが、生物学の本では業績にならない。なんという貧乏くじだと落胆した。いや翻訳料が入るからいいじゃないかと言うなかれ。これは思索社に限ったことではないが、今とは違って、当時は、こういう学術系の本は、基本的に翻訳料・原稿料はなかった。翻訳を出させてもらえれば、それだけでありがたいことで、翻訳は自分の業績なり学問的な功績になるのだから、翻訳料などなくてもかまわない。そもそも売れることはないしという理屈だったと思う。

だから翻訳料は最初からないものと思っている。だが、業績にもならないとなると、ほんとうに貧乏くじだと落胆した。

ただしこの『クラゲとカタツムリ』の著者ルイス・トマスは、けっこう有名な人で、そのエッセイも人気があって、私の翻訳の前にも、また後にも日本で翻訳が出版されている。人気のある著者である。Wikipediaによると、

Lewis Thomas (November 25, 1913 – December 3, 1993) was an American physician, poet, etymologist, essayist, administrator, educator, policy advisor, and researcher.以下略。


とあるが、日本版がないのは惜しいというか、よかったというべきか。

内容は一般読者向けのエッセイ集である。たとえば、こんなエッセイがあった。第二次大戦の沖縄戦で、アメリカ軍の兵士二人がジープの下敷きになって、重傷を負い這い出せなくなったとき、救出作業が長引いて、心配する仲間たちが声をかけると、その兵士ふたりは、重傷なのにもかかわらず、最後まで、痛くない、平気だと答え続けて死んでいったという。この例から、生物は死が確実になると痛みを感じなくなるのではないかと考える著者は、捕食者の餌食になる動物も、最期の時は痛みから解放されるのではと推測する。捕食・被捕食者からなる自然界において、これは合理的メカニズムかもしれないと著者はコメントする。

あるいは朝食を食べないと死ぬというようなアンケート結果なりCMがアメリカであったが、これはとんでもない詐欺であって、朝食を抜いたからといって死ぬことはない。むしろ朝食が食べられないほどの体調不良だから、数年後に病で死を迎えることになったのである。死ぬのは朝食を抜いたせいではなく、病気のせいであるというコメントがあった。

だから、面白い本なのだが、しかし理系のエッセイというのは英語ではほとんど読んだこともなくてく、いま手元の原書があるのだが、そこにある当時の書き込みをみると、かなり悪戦苦闘していたことがうかがえる。

また今となってははっきりと憶えていなくて、勘違いかもしれないが、出版社にもなにかごたごたがあり、翻訳作業も、モチヴェイションでのせいではなく、助手を辞めて大学教員になったこともあって、助手の時とは異なる忙しさのために、遅れたというよりも、ただ放置されることになった。とはいえやがて出版社のほうのごたごたも収まり、新しい編集者となって、翻訳作業が一挙に完成へと導かれた。

1986年の2月に、フレイザーの『王権の呪術的起源』が、そして3月に私のルイス・トマス『歴史から学ぶ医学――医学と生物学に関する29章』が出版された。この二つの本は、思索社がこれまで出版してきた、人類学と科学というふたつのジャンルに属するものであって、思索社のレパートリーとしては王道的なラインアップともいうべきものであった。

出版後まもなく、読者からの手紙がきた。私の翻訳を丁寧に読んでもらったのは、ありがたい限りだが、不適切な翻訳部分を何枚もの便箋に羅列してあった。まあ私としても翻訳者としては駆け出しだし、慣れない理系のエッセイでもあったので、間違いとか不適切な翻訳があることは予想できた(予想というは、自分でわかっていながら誤訳する人はいないからである)。また用語にしても、専門家からみたらおかしいと思うことはあるだろうと予想できた(駆け出しの翻訳家だったら――いまでは専門家のいう訳語というものは、どうでもいいというか、あてにならないことが、まさにいまだからわかるのだが、当時の私にはそこまでの思いはなかった)。

指摘は、英語の読み違いということではなく、訳語とか用語に関するものであった。しかし、編集者は、こうした科学物をこれまでに担当し出版しているベテランの編集者である。その人物が、私の訳稿をチェックしているから、たとえ見落としがあるとしても、これほど数多くの不適切な用語・訳語があるとは思えない。

ただ、指摘はありがたいので、もし再版することがあれば、編集者と、指摘をひとつひとつ検討して修正・訂正すべきところは、極力直すことを心に決めて、しかし、再版されることはないだろうから(その予想は当たっていた)、私は、その読者からの手紙を捨てた。

第2章

私は在籍中、最後の数年の大学院の授業では、動物論というかアニマル・スタディーズを扱っていた。2018年にはシカゴ大学出版局から、Critical Terms for Animal Studies(Chicago U.P., 2018)が出版された。このCritical Termsシリーズは、私にとって思い出のシリーズであって、実は、このシリーズの最初の一冊Critical Terms for Literary Studiesを私は共訳で翻訳して平凡社から上梓している。その最新刊がアニマル・スタディーズであるのは何かの縁かもしれないと、平凡社に翻訳出版の話をして承認された。

若い院生とか研究者たちとの共訳となり、現在、訳稿は、すべて出来上がっている。一応、私は監訳者として、すべての章の原稿をチェックしたが、そのときだった。

ある章の訳文を確認していたら、ルイス・トマスの文章の引用があった。観察者は、どのようなことがあっても、観察対象に変化を及ぼしてはならないし、また変化を及ぼすことはないというルイス・トマスの発言が、しかし、そうともいえないのではと批判されていた。量子力学の不確定性原理というような話ではなくても、観察者の存在は、観察される動物なり人間の行動や意識を変えることは充分に予想されることである。

それはともかくルイス・トマスのどの本の引用だったかと各章末の文献リストを調べてみた。この章の翻訳担当者は、既訳をすべて調べていて(既訳のチェックは各章の担当者に私が要求したことでもあったのだが)、とくにルイス・トマスの翻訳本は記載されてなかったので、原著を読んだときには、ルイス・トマスそのものを忘れていたし、各章の訳者の翻訳を最初にチェックしたときも、とくに調べなかったのだが、今回、念のために調べたら、Lewis Thomas, The Medusa and the Snailとあった。

抑圧されたものが回帰した。

最初、私は無視しようと思った。その章の翻訳者が気づかなかったのだから、無視しても問題にはならない。しかし、抑圧されたものの不意打ちに向き合うべきだという、なにか倫理的な義務感のようなものが私のなかに沸いてきて、ほうっておけなくなった。その章の翻訳者も驚くだろう――彼女の翻訳した章の文献リストには、突如、私の翻訳が登場しているのだから。

その章の翻訳者の見落としを責めるつもりはまったくない。もしこれが私のべつの翻訳だったら、絶対に許さない、万死に値する見落としなのだが。そもそも原題「クラゲとカタツムリ」という本が『歴史から学ぶ医学――医学と生物学から学ぶ29章』という本に化けたのだから、私以外に気づく者などいるはずもない。私以外に……。

現状では、フレイザーの『王権の呪術的起源』(折島正司・黒瀬恭子訳)は、Amazonでは、本の表紙の図像すらなくて、レヴューアーからの評価もコメントもない。これに対して『歴史から学ぶ医学――医学と生物学から学ぶ29章』は、その本の洒落たカバーの写真が掲載されている。原書にある著者の肖像写真をフューチャーしながら、読者には理由がわからないだろうクラゲの絵(原書にあるものだが)も、まさに浮いたかたちで描かれている。Amazonでの評価は星5つ。残念ながらレヴューアーのコメントはない。

折島さん、黒瀬(山本)さん、あのときの思索社の翻訳では、私の翻訳のほうが、Amazonでの評価は高いのですが。そちらは評価すらないのですが、と、誇らしげな顔をしたいところだが、待った。『王権の呪術的起源』はAmazonでは3600円で売られている。もとの定価(2300円)よりも高く。ところが私の『歴史から学ぶ医学――医学と生物学から学ぶ29章』(もとの定価2000円)は、610円で売られている。安っすい! 負けた……。

まあ子どもの喧嘩じゃないのだから、勝ち負けの問題ではないのだが、それにしても負けた感が強い。また翻訳業績リストから外そうか……。
posted by ohashi at 03:10| エッセイ | 更新情報をチェックする

2021年11月08日

国民審査

今回の選挙で、自民党に勝利をもたらしたのは、コロナ感染者の急激な減少と、北朝鮮のミサイル発射であることは、火を見るよりも明らかである。

まあ、いずれ、2021年のオリンピックから衆院選挙にいたる時期におけるコロナ患者の減少は、虚偽であったという報告がでることだろう(100年先かもしれないが)。デジタル化の遅れによって報告に混乱が生じて、コロナ患者の現象が、ほんとうはゆるやかな減少にとどまっているのに急激に減少したかのようなみえたこと。また死者も、コロナによる死者を他の疾病による死者にふくめて、デジタル化の遅れによって、誤ってカウントしていたため、減少したかのようにみえた。といった情報が、ほとぼりの冷めた頃に出てくる決まっている。デジタル化の遅れが、コロナ患者が減少したかのような錯覚を引き起こした――そうならないためにもマイナンバーカードをと、腐った政権が繰り返すことだろう。

北朝鮮のミサイル発射、選挙後は、ぴたりと止んだのはどうしたことか。私は自民党と北朝鮮との密約を疑っているが、密約などなくとも、北朝鮮が、自民党を勝たせるためにミサイルを発射したことは、火を見るよりも明らかである。北朝鮮のような独裁国家にとって、北朝鮮に友好的な政権が誕生するのは都合が悪い。北朝鮮に敵対的な政権のほうが、従来通り、軍事力を強化し、国民の統制を継続でき、北朝鮮の政権が安泰だからである。

ワクチン陰謀説を信じている馬鹿者どもは、もっとわかりやすい陰謀説をなぜ広めなないのだ。まあ、私はワクチン陰謀説そのものが陰謀だと思っているのだが。

それはともかく本題を。

衆院選挙のときは最高裁判所裁判官の国民審査も同時に行い、審査用の紙が投票所で配られる。私は、毎回に全員に×をつけている。

お遊びとか、趣味とか、気まぐれではない。ちゃんとした理由はあるものの、まあ、そんなことをするのは私だけかと思っていたが、300万人から400万人の投票者が、×をつけている。投票者数全体からみると個々の裁判官に差はあるのだが、8パーセントから6パーセントの間に収まっている。そんなに大きな差がない。ということは、おそらく私のように全員に×をつける投票者も一定数いることがわかる――おふざけでしている人もいるのだろうが。

もちろん私が全員に×をつけるのは、政権の明白な憲法違反(解釈の余地がある違反ではなくて、明白なもの)を許している最高裁裁判官に裁判官をつづける資格などまったくないからである。政権の憲法違反を許す最高裁裁判官は万死に値すると確信するので、私は全員に×をつけるのである。

最高裁判所裁判官は憲法の番人だといわれている。だが、今も昔も、最高裁の裁判官は、政権の、自民党の番人、いや番犬にすぎない。自民党の番犬は罷免すべきである。

国民審査において、憲法違反を放置している役立たずの番人(つまり最高裁裁判官の全員)に×をつけることは、私は大いに提唱したいして、運動として広がってもいいと思っている。すくなくともそう考えている国民は、すでに数百万単位でいるわけだから。

posted by ohashi at 19:03| コメント | 更新情報をチェックする

2021年11月07日

『ランダム 存在の確率』

原題: Coherence 2013年アメリカ映画。88分。監督ジェームズ・ウォード・バーキット。

これはとくにタイム・ループ物の映画ではないのだが、パラレルワールドに行き、まったく同じ世界、まったく同じ自分に出会うという趣向は、タイム・ループ物に近いので、やや無理があるが、タイム・ループ映画にしてしまう。

なおアマゾン・プライムをはじめとして、いろいろなところで配信されているようなので今は簡単に視聴可能。私はDVDでみたのだが、DVDで購入する価値のある映画だと思っている。日本での、ネット上の評判はよくないのだが(海外では評判はよい)。

アメリカのSFスリラー映画と言っても、彗星が地球に接近すると不思議なことがおこる。そのなかを通ると、パラレルワールドに行ってしまう不思議な空間が地上に生まれるという設定。とくにそれ以上の科学的説明はない。

ウィキペディアによる内容紹介は以下のとおり。

あらすじ
ミラー彗星が地球に最も接近する日、エムは恋人のケヴィンと伴に、友人リーとマイクのホームパーティーに訪れる。ワインと料理を囲み、久々に集まった男女8人は、彗星にまつわる奇妙な出来事の話題で盛り上がる。すると突然、停電で部屋が真っ暗になり、パニックになる8人。不安に思ったエムたちは、隣家の様子を見に行くことに。しかし、エムたちが目撃したのは、まったく同じ家に住む、まったく同じ自分たち。さらには、家の前に置かれた謎のアイテムと、自分たちの写真。次々に起こる不可解な現象に戸惑う8人。彼らは徐々に互いに疑心暗鬼になり始め、やがて別世界の自分たちが、同じ空間に同時に存在するという驚愕の事実を目の当たりにする。


あらすじの常だが、これだけで、この映画の魅力は伝えられない。まずこの映画は、同じような設定の『The Loop永遠の夏休み』も、この映画のような工夫をすればもっと面白くなったというくらい洗練されている。というのも『The Loop』と同様に、閉じ込められた8人が、自分と出逢う話である。『The Loop』のほうは、自分の死体と出逢うという衝撃的展開になるが、この映画では停電で閉じ込められた8人の男女が、自分たちのドッペルゲンガーと出逢う話である(ウィキペディアの紹介のように)。ただし、そこまでわかるのに緊迫の展開があり、状況がわかっても、さらなる展開が待っている。

ホームパーティに招かれた8人が、近くの家に、まったく同じ8人がいるらしいとわかる。彗星接近による超常現象によってパラレルワールドにいる人間が共存することになったということのようだ。しかし彗星が去ったときに、生き残るのはどちらのパラレルワールドになるかという問題が生まれる。相手の8人を出し抜き、彼らを消滅させるよう計画をねる。しかし、実はあちらの彼らのほうが先手をうっていて、あちらの人間がすでにこちらにまぎれこんでいた。ドッペルゲンガーなので区別がつかなくなる。しかし、それだけではない。さらに驚愕の事実が……。つまりいまいる8人も、実は、もとからいる8人ではなく、複数のパラレルワールドからやってきているということがわかる。

こうなると元いた世界にもどる、あるいは8人が本来の世界で、あるいは8人のいる世界が生き残れるのかという問題が、心理的な陰影を帯びることになる。そもそも、たとえもとの世界に戻れたとしても、そのもとの世界の8人も、いろいろなパラレルワールドの寄せ集めではないという保証などどこにもない。これはパラレルワールドをもちださなくても、人間社会は、エグザイルの群れであり、みんなパラレルワールドに住んでいるといえなくもない。コミュニティなど存在しない。あるのは孤独な個別的な個の寄せ集めにすぎない。あるいはエグザイルとしての私は、どうしても周囲になじめない――まるで私がパラレルワールドに紛れ込んでしまったかのように……。

彗星とパラレルワールドという設定は、私たちの社会と個人のありようの暗黒面のメタファーとなっているとすれば、そのなかで生存のための妄想的な欲望の成就もまた見出せるのである。

たとえば、主人公といえる女性(エミリー・バルドーニが演じている――とはいえ彼女については時々アメリカのテレビドラマにゲスト出演しているのをみるくらで、私個人は、よく知らない女優なのだが)は、嫉妬と疑心暗鬼、生存の不安に引き裂かれたいまいるグループに嫌気がさして家の外にでると、そこには複数のパラレルワールドから来たとおぼしき8人が暮らす家が点在している――これはタイムループ的設定を空間化したといってもいい。彼女は集団の様子をひそかにさぐり、そのなかでもっとも良好な人間関係にあると思われる集団のなかにまぎれこむ(そこにいるもうひとりの自分を殺して)。

この最後の展開は衝撃的なのだが、彼女が演劇関係者として、演出家であり女優であり、しかも有名女優のアンダースタディを要求されてプライドからそれを断り、最終的に演劇関係の職を失ったこともわかっているので、彼女のなりすまし行為は、ある意味、演出家で演技者である彼女の願望充足という面もある――事実、なりすましたあと緊張のあまり失神し、翌朝をむかえるとき、すべてが夢であったかもしれないという暗示が生まれるのである。とはいえ夢ではなかったという証拠(指輪)もでてきて、おそらくなりすました彼女に罰が下るであろうという結末が暗示されて終わる。

しかし、この映画のへんな魅力は、ミステリアスな面だけではない。8人の男女がホームパーティの場で、それぞれの過去があばかれてたり、現在のどろどろの人間関係が浮き彫りになるという展開は、彗星さえ出てこなかったら、良質の舞台劇的なビター・コメディになってもおかしくなかった。

私が思い出すのは映画館でみたイタリア映画『おとなの事情』(Perfetti sconosciuti 2016)である。「7人の男女が集まった食事会で、スマートフォンの通話やメールの履歴をさらけ出すゲームをきっかけに、夫婦や友人間にさまざまな疑惑が巻き起こっていく様を描いたワンシチュエーションコメディ」(ウィキペディア)。もちろんこの映画はヒットして、世界各国でリメイクされた。日本でも2021年テレビドラマでリメイク。実際、彗星さえ出てこなかったら、この映画は、『おとなの事情』のプロトタイプともいえる良質のコメディとなっていたかもしれないのだ。

もちろん『おとなの事情』のような複雑な人間関係がからみあう面白さは、この『ランダム』の狙いではないだろうが、それにしても男女8人のディナーでの会話、また異変が起こってからの対応などが、なにか自然で、あくどさ、わざとらしさがない(いい意味で)。こうしたミステリー・サスペンスの常で、物語の展開に沿って、ヒステリックになったり、パニックになったりを、へんに誘導的であったり、ミスリードしたり、教訓をたれたり、突然深淵な哲学を開示したりと、わざとらしさが満開となり、観ている側が辟易することはよくある。しかしこの映画では、それがない(いい意味で)。各人物の対応が、パニックになっていても冷静で、感情がたかぶっても、頑固さをつらぬいたりしないなど、とにかくわざとらしさがない。

しかも、このわざとらしさのなさは、伏線を回収する計算し尽くされた設定ならびに物語との対比から、ますます際立つのであって、演出そして演技には大いに感銘をうけた。

ただ、それもそのはずで、この映画では監督は俳優たちに台本を渡さず、その日の撮影の到達目標のようなものを書いたメモだけを渡して、あとはアドリブでの演技を要求したとのこと。なかには彗星が接近して超常現象が起こるという映画の設定すら知らなかった演者もいたという。たしかにこの映画には、計算したシナリオでは出せない、こまかな意外性と蓋然性とがにじみ出ている。それもアドリブ演技のゆえだろう(この映画のなかでエミールと呼ばれている男は、実は、共同脚本のライターでもあって、彼がまじることで、出来事や演技が脱線しすぎないように調整したとのこと)。

とにかくこの映画は、謎の状況とその解決という知的な面と、俳優たちのアドリブ演技の自然らしさと緊張感、そこにかもしだされるオーセンティックな日常性といった面で、充実した映画体験を観る者に与えてくれるのでる。

しかもメタ的要素も忘れられていない。この映画の設定では、家の周囲にある漆黒の闇の部分を通りぬけると、もといた世界から、パラレルワールドにとばされてしまうのだが、その闇の部分は、夜の戸外の場面は全体に暗いから、よくわからない。しかし観客は漆黒の闇には最初から遭遇している。

映画は、小刻みに暗転を繰り返す。とりわけ最初の方は。これはフェードアウトとはちがい、一定の時間場面が展開したあと、暗転となり、次の場面へとつづく。暗転すると、その間、時間が経過し、なにかが変化したという印象をうけるが、暗転前と暗転後で、ほとんど時間差がないような場面も多い。そう、この種の暗転は、その前と後で時間が経過する、あるいは何かが変化するように思えてならないのだ。たとえば舞台なら、長い暗転は、舞台の模様替えである。そしてこれが一般的なので、短い、一瞬暗くなるだけでも、なにか変化が起こったのではないかと錯覚する。そして、なにも変化が起こっていないと……。

――実は、これがこの映画の深いたくらみである。つまり連続したシークエンスを、何度も暗転で区切ると、実際には何の変化がないのに、何か変化が起こったように思えてしまう。そしてこの映画の設定では、確かに起こるのだ。

男女八人が、気が付くと、ほぼ全員、別のパラレルワールドからやってきた人間に入れ替わっている。どこでそんなことが思うのだが、それは、この小刻みな暗転とともに起こっていたのだ。断片と断片のあいだに連続性はないのだが、それが連続しているかに思えてしまう(映画は、連続を断片化することによって、連続ではないようにみせてしまう)。そしてその変化は、暗転の前後でおこる。暗転――漆黒の闇。映画のなかで語られるパラレルワールドへはじきとばし、またパラレルワールドを招きよせる闇は、映画の暗転それ自体のメタファーにもなっている。デジタル撮影の現在では想像もつかないかもしれないが、フィルム映画というのは、黒い境界帯で区切られた静止画を、映像の断片を、高速でつなぎ合わせることで、動画にするものだった。暗黒帯が、断片をつなぐ。

私たちの世界は映画のように出来ている。断片の寄せ集めなのに、それが連続している時空体であるかのように錯覚している。私たちの人生もまたしかり。私たちの共同体もまたししかり。

IMDbでは、映画のなかで、こめかみのあたりを切ったヒューは、傷口に絆創膏をあてられ手当てされるのだが、その絆創膏が、それ以後の場面で、あったりなかったりすることをGoof(失策)として指摘している。たぶん、そうだろう。細切れに撮影するために、絆創膏の存在をうっかり忘れてしまうということか。

しかし、この映画の設定では、絆創膏があったりなかったりすることで、それが別人であることを暗示している。実際、映画のなかでも、絆創膏の種類が違うと指摘されてもいるのだ。だから、貼った絆創膏があったり、なかったりすることは、失策であると同時に、映画のなかでは、なりすまし、すりかわり、パラレルワールドの交錯の証左となるのである。映画の傷口は治療されたり放置されたりしながら断片性と全体性(お望みなら映画の原タイトルをつかってCoherence首尾一貫性)の点滅を、どこまでも光と闇の交替と点滅をやめることはないのである。
posted by ohashi at 02:52| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2021年11月03日

『The Loop 永遠の夏休み』

原題 Mine Games 監督リチャード・グレイ。1時間32分。2012年アメリカ映画。

おそらくこの映画も、誰もがみたくてたまらない映画ではないと思うので、ネタバレを気にせずに書いてもいいようなものだが、まあ、それはしない。

タイム・ループ映画である。『永遠の夏休み』などという日本語のタイトルがついているので、これはタイム・ループ映画の古典的傑作アニメ『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(押井守監督1984)が、そうであるような、楽しい時間(たとえば夏休み)がリピートされる、どちらかというと明るい映画かと思ったら、まったく違うので、観る人(そんなにいないと思うが)は要注意。

原題はMine Games。訳せば鉱山ゲームあるいは坑道ゲーム(ただし、それ以外の意味もある)。7人の若者が避暑にやってくる森と湖に囲まれたロッジ(キャビン?)の近くに廃坑になった鉱山の入口をみつけ、その坑道を探険していくうちに恐怖の事件に巻き込まれていくというもの。

最初、この映画は、怖がらせるものの、惨劇にいたる寸前で終わるか、惨劇を回避して終わる。まあ、寸止めの映画かと思った。そう思ったのは、けっこう寸止めはつづくこともあるが、登場する7人の若者たちの、精神年齢がまるで小学生のような言動に対するイライラ感ともつながっている。この小学生のような若者たちだからこそホラーになるともいえるのだが、同時に、この小学生たちにはホラーは似合わないともいえるので。とまれ、最終的には、約束の惨劇になりホラー映画となる。

ただし同じ2012年にアメリカで公開された『キャビン』(The Cabin in the Woods――ちなみにこのタイトルはまた、この映画『永遠の夏休み』のほうにもあてはまる)にみられたような、最初ホラー映画のパロディ/パスティーシュかと観客を誘導しながら、気付くとジャンルがSF化していて、最後に人類滅亡にいたるというようなとんでもない展開は、この映画にはない。

この映画がタイム・ループ映画といえるのは、彼ら七人が巻き込まれる惨劇が、すでに起こっているからである。彼らのうち三人は坑道のなかに自分の死体を発見する。また最後に登場人物の二人は、このロッジにやってくる自分たちの車をみる。すでに起こった事件を、自分たちが反復することになり、さらに次の自分たちも到着する……。

これはループ物の映画『トライアングル』(英・オーストラリア映画2009)と同じような設定である。つまり殺されてリセットされてもう一度同じ日とか同じ事件を繰り返すのではなく、同じ事件が不条理なまでに反復されていくのであり、そこで人は、前の事件で殺された自分と、これから殺されに来る未来の自分とに出会うことになる。

ただ『トライアングル』風のタイム・リープでは、これまで殺された人びとというか、同じ人物の死体がやまのように放置されるのだが(『トライアングル』の見どころのひとつ)、この映画では、放置される死体は、それぞれ一体なので、事件は二度目であることが暗示される。延々と起こっているわけではない。一見、n番目の事件であるように思われるのだが、だったら死体が山のように積み重なっているはずで、また監禁されて出られなくなった同一人物も山のようにいるはずなのだが、それはない。しかも映画の最後になくてもいい場面をひとつ付け加えたために、この事件は次回で終わるという暗示もある――というか次回は起こらないという暗示もある。

SF映画『グラビディ 繰り返される宇宙』(2018)では、宇宙に時空間が変調をきたしている領域があり、そこに紛れ込むと永遠に同じ惨劇を繰り返すという設定なのだが(遠い未来のSFなので、そんなものかと納得してしまうのが不思議なところ)、ワシントン州南部のギフォード・ピンチョット国立森林公園でのロケで、廃坑が貧弱すぎて、超自然現象が発生するとか異世界に通じているという雰囲気が希薄なような気もして、なぜ同じ事件が反復されるのか、なっとくできないまま終わる。細部は丁寧に作り込まれ、伏線も回収されるので惜しい気がする。

なお、この映画は、昼間の光景は明るく緑が目に染みるくらいの大自然感が横溢しているのだが、夜の戸外とか、坑道の中の場面は、暗すぎて、ほんとうに暗すぎて、よく見えない。予告編では、もう少し明るくして暗くて見えに部分をなくしているのだが。これは多くのレヴューアーが指摘する映画の欠点である。

ただ、こんなふうに書いてしまうと誰もこの映画を観なくなる可能性があるのだが、しかし、今見ると見どころはある。イーサン・ペックが出演しているのである。その低い声は2012年も健在だった。イーサン・ペックって誰かと思うかもしれないが、『スタートレック:ディスカバリー』シーズン2で若きスポックを演じたといえば、わかるだろうか。たぶん彼の深く低い声でスポック役に選ばれたのではないかと思う。また、さらにいえば、イーサン・ペックは、グレゴリー・ペックの孫としても有名である
posted by ohashi at 18:32| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2021年11月02日

『リピーターズ』

原題Repeaters 2010年カナダ映画。1時間。

映画『ハッピー・デス・デイ2U』のなかで、もっとも印象的なシーンといえるのは、殺されても死んでも同じ日の朝に目覚めることを知った主人公の女性が、死と戯れるなかで、スカイダイビングするところである。グループでのスカイダイビングで、つぎつぎと飛行機から飛び出すメンバーのなかで最後に彼女はパラシュートなどの装備品を付けず、インストラクターが驚くなかドレス姿で優雅に空中に飛び出す。地上では彼女のボーイフレンドが女性とデート中で、ふたりが座るベンチの前に、彼女がまるで嫌がらせをするかのように落下してきてきて、ぺしゃんこになる。彼女が肉の塊と化す瞬間にほとばしる血がベンチのふたりにかかる(彼女の死体は映されることはない)。と、次の瞬間、彼女は同じ日の朝に目覚めている(夢ではなく無限にループしているのである)。

なにをしても死ぬことはないなら、死と戯れるしかない。いや、自分の死と戯れるのなら、まだ罪はない。さらに……。

ループ物の映画なり物語のもつ、背徳的な可能性は2010年のカナダ映画『リピーターズ』で追究される。

薬物依存症の厚生施設でくらす者たちが、外出許可をもらい、それぞれ家族のもとに会いにいく。施設長が、薬物依存で迷惑をかけた家族に謝罪してくるようにという課題を彼らに課したからである。主人公のカイルは、母校でもあり妹も通う高校の外で妹に話かけるが、すげなくあしらわれる。見回りの教員(Wikipediaのあらすじでは校長となっている)には追い払われる。カイルと仲のよいソニアは、病気療養中の父親の病院を訪れるが、父親との過去の因縁があって面会を躊躇して会わないまま帰ってくる。二人の友人マイケルは収監中の父親に面会にいくが、おまえのせいで刑務所に入ったのだと父親に罵倒され帰ってくる。その日のグループセラピーで近親者への謝罪の経験を話すように言われた三人は、最悪の結果を話すのを拒否する。その夜、嵐が到来。停電になるが、そのとき三人は感電して一時的に意識を失う。意識をとりもどすと翌朝になっているが、その日は、前と同じ日だった。こうして三人だけが、毎日、同じ水曜日を経験するというループに入る。

彼ら三人(カイル、ソニア、マイケル)は、同じ水曜日を繰り返していること、しかも死んでもまたすべてリセットされ同じ水曜日を生きることを発見する。

通常のループ物なら、このループから脱け出すようにあがく。とはいえなぜ三人だけがループするのか理由がわからない。韓国映画『エンドレス』では、娘の交通事故死を防ぐという必死の思いの行動が繰り返されるが、このカナダ映画の三人は、この水曜日をどう生きるのかヴィジョンはない。最初の最悪の外出日を繰り返すか、そうしないかのいずれかでしかなく。そうしない場合、何をするのかわからない。ミッションがない。場所がミッション・シティ(Mission City)なのに。

【ちなみに「ミッション・シティ」という地名は、ちょっとあざといくらいに寓意的な意味をこめようとした結果つくられた地名にちがいないと映画の最後まで信じていたが、カナダに実在する市であることを知った。ロケもそこでおこなわれた。ただし、寓意的に意味がこめられていることはまちがいないだろう。】

そのため、同じ水曜日をどうすごすのか、これまでのループ物にない可能性があらわれる。マイケルが提案するように、何をしても許される、そしてたとえ殺されても、また同じ日の朝に目覚めるのなら、好き放題のことができる。強盗、窃盗、レイプ、殺人と、悪の限りをつくしても、すべて一日が終わればリセットされる。こう提案し、実行するマイケルに同調してカイルとソニアも無軌道な犯罪行為に参加する(それはまた彼らが施設に来る前の違法行為や犯罪的行動を暗示もしている)。

しかし、カイルもソニアも、これをやめる。ひとつは犯罪行為を続けても同じ水曜日がリセットされるならいいが、もしループが終わり木曜日になったら、彼らは木曜日には重犯罪者となって警察に追われ処罰されるだろう。またもちろんふたりは、このループが終わり、このループから脱け出せることを願っている。マイケルのようにループが永遠に続き、毎日犯罪をつづけられることを願っているわけではない。ちなみにマイケルの暴走ぶりというかその違法行為のエスカレートぶりは実は面白い。また彼の暴走がないと出口のみえないループに対して観客は退屈しかねいない。

最終的にループから解放される鍵は、彼ら自身にあった。ちなみに彼らは映画のなかで全部で9回ループする。鍵は、どこか外部にあって、それをみつけだせばいいということにはならず、彼らの内部にあった。彼らが、みずからの目的を成就したことで、ミッションが完了したことになり、木曜日が、明日がやってくる――ミッションがなんであったかも、それでわかる。

だが、それまでのあいだ、ループを繰り返す彼らは、まさに出口なき、そして文字通り明日なき日常を生きることになる。ここがこの映画のオリジナリティであろう。つまりループするなら(すべてリセットされるなら)、何をしても許される(つまり悪も許される)という可能性である。ループ物にあるリセット可能性が悪事を可能にしてしまうとうことである。そしてまたループから脱け出せないことの閉塞感が、厚生施設に収容されている元犯罪者たちの明日なき日常と重ね合わせられる。『ハッピー・デス・デイ』が回避しているこうした可能性を、この映画は最大限生かし、前科者、元受刑者、犯罪者の家族らが直面する苦しい出口なき世界をみごとに表象している。

映画のひとつの使命は、メランコリックな心象風景の創出であるとするなら(私の個人的な意見だが、しかし、同様な意見は珍しくはないので、個人的ということすらほんとうは恥ずかしい)、この映画はみごとにそのミッションを果たしているといえる。

【ネタバレ Warning:Spoiler とはいえこの映画(私は監督も俳優も誰も知らない――唯一知っていてもおかしくないのはカイルの妹役の女優だが、この映画では端役にすぎない)をどんなことをしても観てみたいという人はそんなに多くない、ひょっとしたら一人もいないかもしれないので、ネタバレは関係ないかもしれないが--最後にループから脱け出せるのはカイルとソニアの二人だけある。悪の限りを尽くしたマイケルは、この最後のループのなかで死んでしまうので、再び同じ水曜日に目覚めることになる(これが映画の最後の場面)。悪の限りをつくしたマイケルは、父親に謝罪し和解する機会はなかった。彼がそのミッションを完遂できるまで、マイケルにとってのループは続くのある。】

posted by ohashi at 19:06| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする