私の業績リストから省いていた翻訳書が一つあった。今年も、このコロナ禍のなかで翻訳を出版できることになったので、私の長い翻訳者人生もつづくことになったのだが、そんな長い翻訳歴だから、一冊くらい翻訳業績リストからはずしても、さして問題になるわけでもない。そしてリストから省いたので、その存在自体も私の記憶から省かれた。
私が大学の助手(現在では助教と呼ばれている職)の頃、私が院生だったときの助手の方で、すでに大学教員になり、研究者としても批評家としても翻訳者としても華々しい活躍をされていた方が、思索社の翻訳の仕事を、私と、私の前任者の助手二人にまわしてくれた。
その方は、思索社の翻訳の仕事をすでにされていて、思索社ともつながりができていた。そして同じ助手を経験した三人(私を含む)に翻訳の仕事を回してくれたのである。ありがたいと思ったし、初めての翻訳でもあったので身が引き締まる思いもした。
私は個人訳だったが、私の前任者の助手二人は、最終的に翻訳タイトルが『王権の呪術的起源』となったフレイザーの翻訳を担当することになった。人類学のフレイザーの本邦初訳の本となるものだった。あの『金枝篇』のフレイザーである。正直、うらやましいなと思ったのは事実。
これは、Amazonで今も「ジェイムズ・G・ .レイザー (著)『王権の呪術的起源』 折島正司 (翻訳) 黒瀬恭子(翻訳)、思索社、1986/2/1」として新品ではなく中古品が売られている。Amazonでは「.レイザー」という変なミスプリントになっているが、「フレイザー」と正しく表記されていれば今でも買う人がいてもおかしくない。実際、翻訳で読んでみたが、講義録として「です・ます調」で訳されていて、わかりやすく、また内容的にも本の成立的にも『金枝篇』につながり、『金枝篇』のエッセンスを伝えるものでもあって、実に面白い。もしフレイザーを読んだことがなければ、これは、フレイザー入門としては最適の本である。
これに対して私にまわってきた本は、原書のタイトルをみるとMedusaとある。あのギリシア神話のメデューサ/メドゥーサ、あのゴルゴン三姉妹のひとりで、その顔を観る者を石に変えるという、あの神話のモンスター、ギリシア神話の話かと思うと、よくみるとThe Medusa and the Snailとあって、Medusaの最初が大文字になっているのは、本のタイトルだからで、これは小文字のmedusaつまり「クラゲ」のことである。snailは「カタツムリ」のこと。え、私にまわってきたのはギリシア神話の神話学・人類学の本ではなく、「クラゲとカタツムリ」という本、生物学の本なのだ。
フレイザーの本の翻訳なら業績になるが、生物学の本では業績にならない。なんという貧乏くじだと落胆した。いや翻訳料が入るからいいじゃないかと言うなかれ。これは思索社に限ったことではないが、今とは違って、当時は、こういう学術系の本は、基本的に翻訳料・原稿料はなかった。翻訳を出させてもらえれば、それだけでありがたいことで、翻訳は自分の業績なり学問的な功績になるのだから、翻訳料などなくてもかまわない。そもそも売れることはないしという理屈だったと思う。
だから翻訳料は最初からないものと思っている。だが、業績にもならないとなると、ほんとうに貧乏くじだと落胆した。
ただしこの『クラゲとカタツムリ』の著者ルイス・トマスは、けっこう有名な人で、そのエッセイも人気があって、私の翻訳の前にも、また後にも日本で翻訳が出版されている。人気のある著者である。Wikipediaによると、
Lewis Thomas (November 25, 1913 – December 3, 1993) was an American physician, poet, etymologist, essayist, administrator, educator, policy advisor, and researcher.以下略。
とあるが、日本版がないのは惜しいというか、よかったというべきか。
内容は一般読者向けのエッセイ集である。たとえば、こんなエッセイがあった。第二次大戦の沖縄戦で、アメリカ軍の兵士二人がジープの下敷きになって、重傷を負い這い出せなくなったとき、救出作業が長引いて、心配する仲間たちが声をかけると、その兵士ふたりは、重傷なのにもかかわらず、最後まで、痛くない、平気だと答え続けて死んでいったという。この例から、生物は死が確実になると痛みを感じなくなるのではないかと考える著者は、捕食者の餌食になる動物も、最期の時は痛みから解放されるのではと推測する。捕食・被捕食者からなる自然界において、これは合理的メカニズムかもしれないと著者はコメントする。
あるいは朝食を食べないと死ぬというようなアンケート結果なりCMがアメリカであったが、これはとんでもない詐欺であって、朝食を抜いたからといって死ぬことはない。むしろ朝食が食べられないほどの体調不良だから、数年後に病で死を迎えることになったのである。死ぬのは朝食を抜いたせいではなく、病気のせいであるというコメントがあった。
だから、面白い本なのだが、しかし理系のエッセイというのは英語ではほとんど読んだこともなくてく、いま手元の原書があるのだが、そこにある当時の書き込みをみると、かなり悪戦苦闘していたことがうかがえる。
また今となってははっきりと憶えていなくて、勘違いかもしれないが、出版社にもなにかごたごたがあり、翻訳作業も、モチヴェイションでのせいではなく、助手を辞めて大学教員になったこともあって、助手の時とは異なる忙しさのために、遅れたというよりも、ただ放置されることになった。とはいえやがて出版社のほうのごたごたも収まり、新しい編集者となって、翻訳作業が一挙に完成へと導かれた。
1986年の2月に、フレイザーの『王権の呪術的起源』が、そして3月に私のルイス・トマス『歴史から学ぶ医学――医学と生物学に関する29章』が出版された。この二つの本は、思索社がこれまで出版してきた、人類学と科学というふたつのジャンルに属するものであって、思索社のレパートリーとしては王道的なラインアップともいうべきものであった。
出版後まもなく、読者からの手紙がきた。私の翻訳を丁寧に読んでもらったのは、ありがたい限りだが、不適切な翻訳部分を何枚もの便箋に羅列してあった。まあ私としても翻訳者としては駆け出しだし、慣れない理系のエッセイでもあったので、間違いとか不適切な翻訳があることは予想できた(予想というは、自分でわかっていながら誤訳する人はいないからである)。また用語にしても、専門家からみたらおかしいと思うことはあるだろうと予想できた(駆け出しの翻訳家だったら――いまでは専門家のいう訳語というものは、どうでもいいというか、あてにならないことが、まさにいまだからわかるのだが、当時の私にはそこまでの思いはなかった)。
指摘は、英語の読み違いということではなく、訳語とか用語に関するものであった。しかし、編集者は、こうした科学物をこれまでに担当し出版しているベテランの編集者である。その人物が、私の訳稿をチェックしているから、たとえ見落としがあるとしても、これほど数多くの不適切な用語・訳語があるとは思えない。
ただ、指摘はありがたいので、もし再版することがあれば、編集者と、指摘をひとつひとつ検討して修正・訂正すべきところは、極力直すことを心に決めて、しかし、再版されることはないだろうから(その予想は当たっていた)、私は、その読者からの手紙を捨てた。
第2章
私は在籍中、最後の数年の大学院の授業では、動物論というかアニマル・スタディーズを扱っていた。2018年にはシカゴ大学出版局から、Critical Terms for Animal Studies(Chicago U.P., 2018)が出版された。このCritical Termsシリーズは、私にとって思い出のシリーズであって、実は、このシリーズの最初の一冊Critical Terms for Literary Studiesを私は共訳で翻訳して平凡社から上梓している。その最新刊がアニマル・スタディーズであるのは何かの縁かもしれないと、平凡社に翻訳出版の話をして承認された。
若い院生とか研究者たちとの共訳となり、現在、訳稿は、すべて出来上がっている。一応、私は監訳者として、すべての章の原稿をチェックしたが、そのときだった。
ある章の訳文を確認していたら、ルイス・トマスの文章の引用があった。観察者は、どのようなことがあっても、観察対象に変化を及ぼしてはならないし、また変化を及ぼすことはないというルイス・トマスの発言が、しかし、そうともいえないのではと批判されていた。量子力学の不確定性原理というような話ではなくても、観察者の存在は、観察される動物なり人間の行動や意識を変えることは充分に予想されることである。
それはともかくルイス・トマスのどの本の引用だったかと各章末の文献リストを調べてみた。この章の翻訳担当者は、既訳をすべて調べていて(既訳のチェックは各章の担当者に私が要求したことでもあったのだが)、とくにルイス・トマスの翻訳本は記載されてなかったので、原著を読んだときには、ルイス・トマスそのものを忘れていたし、各章の訳者の翻訳を最初にチェックしたときも、とくに調べなかったのだが、今回、念のために調べたら、Lewis Thomas, The Medusa and the Snailとあった。
抑圧されたものが回帰した。
最初、私は無視しようと思った。その章の翻訳者が気づかなかったのだから、無視しても問題にはならない。しかし、抑圧されたものの不意打ちに向き合うべきだという、なにか倫理的な義務感のようなものが私のなかに沸いてきて、ほうっておけなくなった。その章の翻訳者も驚くだろう――彼女の翻訳した章の文献リストには、突如、私の翻訳が登場しているのだから。
その章の翻訳者の見落としを責めるつもりはまったくない。もしこれが私のべつの翻訳だったら、絶対に許さない、万死に値する見落としなのだが。そもそも原題「クラゲとカタツムリ」という本が『歴史から学ぶ医学――医学と生物学から学ぶ29章』という本に化けたのだから、私以外に気づく者などいるはずもない。私以外に……。
現状では、フレイザーの『王権の呪術的起源』(折島正司・黒瀬恭子訳)は、Amazonでは、本の表紙の図像すらなくて、レヴューアーからの評価もコメントもない。これに対して『歴史から学ぶ医学――医学と生物学から学ぶ29章』は、その本の洒落たカバーの写真が掲載されている。原書にある著者の肖像写真をフューチャーしながら、読者には理由がわからないだろうクラゲの絵(原書にあるものだが)も、まさに浮いたかたちで描かれている。Amazonでの評価は星5つ。残念ながらレヴューアーのコメントはない。
折島さん、黒瀬(山本)さん、あのときの思索社の翻訳では、私の翻訳のほうが、Amazonでの評価は高いのですが。そちらは評価すらないのですが、と、誇らしげな顔をしたいところだが、待った。『王権の呪術的起源』はAmazonでは3600円で売られている。もとの定価(2300円)よりも高く。ところが私の『歴史から学ぶ医学――医学と生物学から学ぶ29章』(もとの定価2000円)は、610円で売られている。安っすい! 負けた……。
まあ子どもの喧嘩じゃないのだから、勝ち負けの問題ではないのだが、それにしても負けた感が強い。また翻訳業績リストから外そうか……。