監督チャン(チャンChangは別名、本名Yoo Hong-seung) 105分
タイム・リープが、タイム・ループにもなっている中国のSF映画。
詳しい内容は英語版Wikipediaに丁寧に書かれている。こうしたタイム・リープ物を考え語る際に、未来と過去の人物、あるいはパラレルワールドの人物が登場することが多いので、私自身、番号をつけて、X1とX2と区別して語るのだが、同じことは、このWikipediaの内容記述にもあてはまる。まあ、考えることは誰でも同じというべきか。
映画.COMの内容紹介――
ジャッキー・チェンがプロデュースを手がけ、息子の命を救うため過去へタイムリープしたシングルマザーの戦いを描いたSFアクションスリラー。タイムリープ装置の研究に長年にわたって取り組んできた女性物理学者シアティエンは、ついに生体組織を110分だけ過去にさかのぼらせることに成功する。さらなる研究のための追加資金も確保するが、そのニュースが世間に知れわたったために愛する息子ドウドウが誘拐され、命と引き換えに研究データを要求される。指示に従ったにも関わらずドウドウの命を奪われてしまったシアティエンは、息子を助けたい一心で未完成の装置を使い、命懸けで110分前の過去に向かうが……。
なおこの映画を語る前に、映画.COMにあった否定的コメントを否定しておく。
中国SFの貧困
中国では「三体」と言う立派なSF小説を生むに至ったものの、未だにこんな子供を殺し女を殴る蹴るの描写がエンターテイメントだと思ってるような感覚では到底しばらくの間は洗練されたSF映画などは出来そうも無い!SFXは資本力でカヴァー出来るがセンスだけは資本で賄う事が出来ない。SF映画のジャンルで中国が傑作を作るにはまだ時間が掛かりそうである。
はっきりいって洗練されたエンターテインメント映画だと思う。子どもが殺されるから、子どもを救うために母親が必死になるのであって(最終的に子どもは救われる)、子どもの死がなければ物語が始まらない。そもそも現実において平時において他国よりも子供を平気で殺している日本人がこんなことを書くことはおかしい。
また中国映画といっているが、たしかに言語はマンダリンだが、プロデュースはジャッキー・チェン(香港出身)で、主役のヤン・ミーの元夫は香港のスターで、ヤン・ミー自身いまも香港とのつながりがあるようだし、さらにいえば映画監督のチャンは韓国の映画監督――ミュージックビデオ出身の監督の映像は、きわめて洗練されたカメラアングルを誇るものとなっている。この映画、中国、香港、韓国のテイストがまざりあっていて、これをなにか中国映画の典型とみるのもどうかと思う。
またSF小説『三体』なんて、読んでないだろう。そもそも『三体』の日本語の翻訳、登場人物が漢字表記で、最初に、中国語読みのルビがふっていあるのだが、以後、ルビはほとんどない。できれば人物名は中国語読みしたいので、そのつど読み方を確認していたのだが、ある時点で、読み方がわからなくなった。そのため最初から、読み直し、全ページの人名に読み方を示すルビを手書きで書きまくってなんとかなったのだが、ルビなしの人物名表記はつらい。もっとも、こいつはどうせ漢字読みして平気なのだろうから、ひょっとしたら『三体』読んでいるかもしれないのだが。
ただ中国嫌いなのだろう。資本がどうのこうのと日本の凋落を棚にあげて金持ちの中国に文句をいっているクズである。資本力にものをいわせる人権無視の独裁国家である中国を嫌い批判する日本人の多くが、ほんとうに独裁政治を嫌うリベラルかというとそうではなくて、むしろネトウヨ・ファシストであることが多い。彼らが権力を握ったら、おそらくやることは中国の独裁政権と同じことをするだろう(ナチスがユダヤ人を迫害したように、彼らは韓国人、中国人を迫害するだろうから)。だからこういう中国嫌いの大半はネトウヨだから、早めに害虫駆除しておいたほうがいい――そもそも中国人差別の彼らは、香港の民主化運動を支援する意見を表明したのだろうか、むしろ民主化運動は危険だからという立場なので、考えていることは中国の独裁政権とかわりない(あと、この映画の子どもの死をとやかくいうコメントがけっこうあったが、これはネトウヨ軍団が、仲間の特定の意見にリードされて、その真偽とか適切性を確認することなく、ただ反復増幅させるという、あいもかわらぬバカげた戦術を駆使しているからかもしれない)
ところでこれを書いているときにCS(10月末)では『マッドマックス怒りのデス・ロード』(ジョージ・ミラー監督2015)を放送していた。この映画について、「未だにこんな子供を殺し女を殴る蹴るの描写がエンターテイメントだと思ってるような感覚では到底しばらくの間は洗練されたSF映画などは出来そうも無い! SFXは資本力でカヴァー出来るがセンスだけは資本で賄う事が出来ない。SF映画のジャンルで
なおCSでは『マッドマックス怒りのデス・ロード』のあとに、『ハッピー・デス・デイ』つづいて『ハッピー・デス・デイ・2U』を放送する。なにかの因縁なのだろうか。
映画『リセット』では、ヤン・ミーは、あいかわらず綺麗。テレビ・ドラマ『永遠の桃花』(2017)でヤン・ミーのファンとなった日本人が、この映画をみるようだ(『リセット』で、主人公の息子ドウドウ(豆砲)を演じた少年が、『永遠の桃花』でもヤン・ミーの息子役らしい)。私はテレビドラマのほうが見ていないのだが、日本でもリメイクされた『見えない目撃者』(森淳一監督、吉岡里帆主演)の中国版に主演、そこで知ることになった(ちなみに時間軸をさかのぼると、最初は韓国映画『ブラインド』(2011)、同監督が中国版をリメイク『見えない目撃者』(2016)、そして日本版リメイクとなる)。
次に掲げるのはAMAZONにあったレヴューなのだが、鋭いところを突いてる
並行世界に設定したのがわからん。内容は単なる過去へのタイムトラベルなんだけど。同じ人間が3人いる状態になるから、並行世界ということにしたのか?タイムトラベルでもその状態はありえる。
110分すると自動的に戻ってくるという設定だったと思うのだけど、映画の内容では、110分以上その世界に留まっていないとできないことばっかり。110分という設定は、多分、子供の生存時間からなのだと思うけど。
物理学者が並行世界に移動したら、急にプロ並みに拳銃の使い方が上手くなってるのもわからん。
転移した時は同じ状態だったとしても、その後はずれが生じ、いわゆるバタフライ効果によりずれは大きくなる。本作は主人公が行った行為時のみ変化するような設定なので、そこが変。他人の行動も環境も変化するのだから。この現象を上手く表さないと、SFファンには通用しない。
最近、ループものが多いのだけど、上記の点を上手につくっている(上手くごまかしてる)のはオール・ユー・ニード・イズ・キルくらい。
米国が失敗して中国の研究盗もうとするところは、今の米中対立の影響かなと思った。
ただし、このレヴューで語られるほど、いい加減な設定ではない。一つは同じ時間軸において110分前にさかのぼるのではなく、パラレルワールドの110分前という設定になる(こういう設定が可能かどうかは問題ではなく、この設定のなかで整合性がとれているかどうか、つまりゲームの規則に従っているかどうかが映画の出来不出来に関係する)。
まず最初に悲劇が起こる。そしてそれを防ぐために主人公の女性科学者(S1)は110分前の過去にさかのぼる。しかし同じ時間軸(T1)ではない。彼女(S1)がいた時間軸(T1)は、もう崩壊している。そのため別の時間軸(T2)の110分前に移動となる。いずれにせよ、最初に悲劇が起こる。二番目はアクションである(茶番といいうなかれ)。
別の時間軸(T2)でも同じ事件は起こっている。しかしT1から来た彼女(S1)は、このT2における自分自身(S2)に出会い、自分とすりかわる(ただこのT2におけるS2は、まだ悲劇を知らない無垢な存在なので、ほんとうはS1とすべきかもしれないが、また別のややこしさを生むかもしれないので、このままにしておく)。このT2におけるS2は、何も知らないのだが、T1からやってきた彼女S1は、二度目であり、敵の裏をかけるように立ち回ることができる。彼女S1が、T2では、科学者でありながら、拳銃を自由に操れるのはご都合主義的とはいえ、一度、タイム・リープすると戦闘力がますという設定になっている。正確に言うと狂暴化するという設定(ゲームの規則)。そのため、彼女は二度タイム・リープするとかなり狂暴になって、狂戦士化する(ヤン・ミーの三つの顔をみることできてファンは嬉しい)。そして三人の彼女の生き残りをかけた戦いになるが、その結末は、一応、設定を逸脱することのないというか設定から論理的に引き出せる説得力のあるものである(ゲームの規則に従っている)。ネタバレになるので、これ以上は書かないとしても。
あとバタフライエフェクトというのは、どんな些細なことでも、大きな出来事の引き金になるという理論だが、些細なことは大きなことに影響を及ぼさない。まあ私が風邪をひいたら日本における株価が暴落すると考えるのは楽しいことだが、およそありえないくだらないファンタジーともいえる。私が風邪をひいても私の暮らしている市の市長(特に顔見知りではない)は体調を悪くすることすらないだろう。バタフライエフェクトというのはご都合主義の極致だと思っている(とはいえバタフライエフェクト理論からすると、私の風邪と株価の変動が、私の健康状態と市長の健康状態が結びつかない理由は、無数に考えられる――無数の、ほんのささいなことが理由となり、それこそバタフライエフェクトの世界観である)。
もう一度確認すると、彼女が110分前の過去にもどったのだが、それは110分前のパラレルワールドである。そのパラレルワールドでも、彼女が後にした時間軸と同じことが起こっている。同じことが起こっている世界をパラレルワールドと呼ぶのか。ただ、このパラレルワールドは彼女がやってくることで変化しはじめる。これは鶏か卵かの問題となる――彼女が、もといた世界とは違うパラレルワールドにやってきたのか、あるいは彼女がやってきたので、その世界が元いた世界のパラレルワールドとなってゆくのか。ひょっとしたら、ここに映画のふかいたくらみがあるのかもしれないが、それが何であるのかはわからない。
とまれ110分前のパラレルワールドに行くことになって同じ110分を繰り返すことになると、これはループ物となる。そしてこの映画で興味深いのは110分前の世界に行くことで、狂暴化するという設定というかゲームの規則である。これをメタフォリカルに考えれば、私たちが自分の人生に何度耐えられるかの問題となる。
女性が強くなるのは母になるときである(伝統的なジェンダー観)。この映画でも息子を救うために、タイムリープ後の女性科学者の戦闘力は強化されている。母の必死の思いと狂暴化という二つの要因が彼女の戦闘力をあげた。そして二度タイム・リープした彼女が登場するとき、彼女の戦闘力はマックスに達する。こうした設定は、たんに物語を終わらせる仕掛けというにとどまらない反復的営為に関係する真実を伝えている。
たとえば私たちが、もう一度自分の人生を生きるとすればという設定は、荒唐無稽すぎてリアリティがないため(あるいはリアルすぎて)、話を単純化するために、たとえば一度読んだ本を二度読むと考えてみてはどうか。
最初は、なにもわからず、ただ最後まで読むしかない。しかし再読の場合、それがフィクションなら、結末がわかっているので、伏線の張り方とか、ミスリードする展開など全体の構成や作者の狙いみたいなものがみえてくるし、また最初に読んだときには気づかなかった細部にも配慮できるようになる。再読するあなたは洞察力が高まっている。しかしこれはあなたの内部の成長とか成熟ではない(子供の頃に読んだ本を大人になって読み返すという場合には、あなたの洞察力には成長の成果が関係するかもしれないが)。再読する行為そのものが自然と洞察力を高めるのであって、あなたの知力が高まったわけではない。
では、三度目はどうか。理論的には洞察力がさらに高まるはずである。もし読んでいるのがノンフィクションであるのなら、最初、ちんぷんかんぷんであっても、読む返すたびにだんだんわかってくる(典型的なのが教科書を読む場合である)。読書百遍というのは、この理論に基づくものだろう。しかし百回も読んだら飽きがきて、うんざりして、ほんとうに読んでいるのかどうかもわからないかもしれない。つまり3回めには飽きるという要素が入ってくる、あるいは強くなる。作品に敵意すらいだくかもしれない。2回目、あなたは優れた評論家・研究者である。3回目、あなたはパロディ作家あるいはパスティーシュ作家になっているかもしれない。これは再読することによって、逆に洞察力が弱まり、飽きが来て遊びの要素(パロディ、パスティーシュ、アダプテイション)が入り込む、あるいは作品を丁寧に読み解くのではなく、作品を攻撃する要素が加わる。
つまり2回目は洞察、3回目は攻撃。脱構築的に考えれば、これは、たんに洞察性が弱まったり劣化して攻撃性が生まれたというだけでなく、実は洞察(解釈、評論、研究)も、攻撃であって、洞察は、まだ未成熟の攻撃といえるかもしれないし、また逆に、洞察が攻撃と入れ替わるのではなく、攻撃もまた洞察の延長あるいは一部であると考えることもできる。
この映画が教えてくれるのは、攻撃性が高まるという設定は、なぜかは説明されないのだが、なにかリアリティがあり、それは、いまのべたことのように読み換えられることからもわかる。もちろんその読み換えだけがすべてではない。たとえばこれはタイムループ物の特徴のひとつを言い当てている――例えば、『ザ・ドア』ではタイムリープした主人公のあとにつづいてくる者たちは、あるいは主人公の前にタイムリープした者たちは悪人というか犯罪者であるというのも実に示唆的である。(タイム・リープと犯罪性は、つぎの映画『リピーターズ』とも関係する。2021年11月2日の記事参照)。
と同時に、タイムリープするたびに狂暴になるという映画の設定は、映画を終結させるために伏線ともなっているので、この映画では、タイムリープは人間を壊すというゲームのルールを設けたことになる。
この世界観は、読書体験におきかえると、読み返すたびに作品の鮮度が落ち、読者はあきがきて、作品を嫌うようになる。予備知識なしで、はじめて作品と向き合う時の読書が、もっともすばらしく、作品の魅力もマックスであるという考え方である。
ある意味で、これは伝統的な、また多くの観客なり読者が共有する観点でもあり、私は認めないが、ただ、映画そのものは、それにのっとって、最後に、時間の支配者となって、時間をいじくるのではなく(反ノーラン的世界観)、今をつかむことが重要であるというヴィジョンで閉じられる――それはそれで感動的な幕切れでもあるのだが。
この「この日をつかめ」ヴィジョンが語られるのは主人公と息子が、山のなかというか山の高台にとめたキャンピングカーの前で食事をするところである。ちなみにこの大自然の場面は、映画の最初のほうで、主人公が息子と急峻な山をロッククライミングする場面と通ずるものがある。こんな幼い子ドウドウ(豆砲)を、危険なロッククライミングにと驚くのだが、つぎの瞬間、息子が落下する。しかし、実は、これはヴァーチャルなロッククライミング装置でほんとうの岩山ではない。最後のキャンピングカーの場面も、ヴァーチャルという可能性もないわけではないが、それは示されない。ただ、ヴァーチャルな山登りのあと、主人公は会議に呼び出されて、研究所に向かう。このコロナ禍で、一般的となったリモート会議を、この未来ではしないのかと疑問に思ったが、私のこの疑問は映画の世界観とも関係していた。ヴァーチャルな山登りと事故による落下は、一回だけ示される。これに対して過去へとさかのぼるタイムリープは3回しめされ、大惨事を引き起こす(ヴァーチャルな落下の場面が主題的につながっている)。
時間の支配は惨劇をもたらし、これに対して空間は支配もされないし加工もされない――リモート会議による距離の無効化はない。時間は死だが空間は救いとなる。あるいは時間支配のアンチテーゼとして空間の温存がある。おそらくそれがこの映画の隠れた映画的ヴィジョンであろう。