2021年10月31日

『リセット 決死のカウントダウン』

原題 Reset 2017年中国映画。中国語の原題は読めず。
監督チャン(チャンChangは別名、本名Yoo Hong-seung) 105分

タイム・リープが、タイム・ループにもなっている中国のSF映画。

詳しい内容は英語版Wikipediaに丁寧に書かれている。こうしたタイム・リープ物を考え語る際に、未来と過去の人物、あるいはパラレルワールドの人物が登場することが多いので、私自身、番号をつけて、X1とX2と区別して語るのだが、同じことは、このWikipediaの内容記述にもあてはまる。まあ、考えることは誰でも同じというべきか。

映画.COMの内容紹介――

ジャッキー・チェンがプロデュースを手がけ、息子の命を救うため過去へタイムリープしたシングルマザーの戦いを描いたSFアクションスリラー。タイムリープ装置の研究に長年にわたって取り組んできた女性物理学者シアティエンは、ついに生体組織を110分だけ過去にさかのぼらせることに成功する。さらなる研究のための追加資金も確保するが、そのニュースが世間に知れわたったために愛する息子ドウドウが誘拐され、命と引き換えに研究データを要求される。指示に従ったにも関わらずドウドウの命を奪われてしまったシアティエンは、息子を助けたい一心で未完成の装置を使い、命懸けで110分前の過去に向かうが……。


なおこの映画を語る前に、映画.COMにあった否定的コメントを否定しておく。

中国SFの貧困
中国では「三体」と言う立派なSF小説を生むに至ったものの、未だにこんな子供を殺し女を殴る蹴るの描写がエンターテイメントだと思ってるような感覚では到底しばらくの間は洗練されたSF映画などは出来そうも無い!SFXは資本力でカヴァー出来るがセンスだけは資本で賄う事が出来ない。SF映画のジャンルで中国が傑作を作るにはまだ時間が掛かりそうである。


はっきりいって洗練されたエンターテインメント映画だと思う。子どもが殺されるから、子どもを救うために母親が必死になるのであって(最終的に子どもは救われる)、子どもの死がなければ物語が始まらない。そもそも現実において平時において他国よりも子供を平気で殺している日本人がこんなことを書くことはおかしい。

また中国映画といっているが、たしかに言語はマンダリンだが、プロデュースはジャッキー・チェン(香港出身)で、主役のヤン・ミーの元夫は香港のスターで、ヤン・ミー自身いまも香港とのつながりがあるようだし、さらにいえば映画監督のチャンは韓国の映画監督――ミュージックビデオ出身の監督の映像は、きわめて洗練されたカメラアングルを誇るものとなっている。この映画、中国、香港、韓国のテイストがまざりあっていて、これをなにか中国映画の典型とみるのもどうかと思う。

またSF小説『三体』なんて、読んでないだろう。そもそも『三体』の日本語の翻訳、登場人物が漢字表記で、最初に、中国語読みのルビがふっていあるのだが、以後、ルビはほとんどない。できれば人物名は中国語読みしたいので、そのつど読み方を確認していたのだが、ある時点で、読み方がわからなくなった。そのため最初から、読み直し、全ページの人名に読み方を示すルビを手書きで書きまくってなんとかなったのだが、ルビなしの人物名表記はつらい。もっとも、こいつはどうせ漢字読みして平気なのだろうから、ひょっとしたら『三体』読んでいるかもしれないのだが。

ただ中国嫌いなのだろう。資本がどうのこうのと日本の凋落を棚にあげて金持ちの中国に文句をいっているクズである。資本力にものをいわせる人権無視の独裁国家である中国を嫌い批判する日本人の多くが、ほんとうに独裁政治を嫌うリベラルかというとそうではなくて、むしろネトウヨ・ファシストであることが多い。彼らが権力を握ったら、おそらくやることは中国の独裁政権と同じことをするだろう(ナチスがユダヤ人を迫害したように、彼らは韓国人、中国人を迫害するだろうから)。だからこういう中国嫌いの大半はネトウヨだから、早めに害虫駆除しておいたほうがいい――そもそも中国人差別の彼らは、香港の民主化運動を支援する意見を表明したのだろうか、むしろ民主化運動は危険だからという立場なので、考えていることは中国の独裁政権とかわりない(あと、この映画の子どもの死をとやかくいうコメントがけっこうあったが、これはネトウヨ軍団が、仲間の特定の意見にリードされて、その真偽とか適切性を確認することなく、ただ反復増幅させるという、あいもかわらぬバカげた戦術を駆使しているからかもしれない)

ところでこれを書いているときにCS(10月末)では『マッドマックス怒りのデス・ロード』(ジョージ・ミラー監督2015)を放送していた。この映画について、「未だにこんな子供を殺し女を殴る蹴るの描写がエンターテイメントだと思ってるような感覚では到底しばらくの間は洗練されたSF映画などは出来そうも無い! SFXは資本力でカヴァー出来るがセンスだけは資本で賄う事が出来ない。SF映画のジャンルで中国アメリカとオーストラリアが傑作を作るにはまだ時間が掛かりそうである」とコメントしたら、ただのバカである。

なおCSでは『マッドマックス怒りのデス・ロード』のあとに、『ハッピー・デス・デイ』つづいて『ハッピー・デス・デイ・2U』を放送する。なにかの因縁なのだろうか。

映画『リセット』では、ヤン・ミーは、あいかわらず綺麗。テレビ・ドラマ『永遠の桃花』(2017)でヤン・ミーのファンとなった日本人が、この映画をみるようだ(『リセット』で、主人公の息子ドウドウ(豆砲)を演じた少年が、『永遠の桃花』でもヤン・ミーの息子役らしい)。私はテレビドラマのほうが見ていないのだが、日本でもリメイクされた『見えない目撃者』(森淳一監督、吉岡里帆主演)の中国版に主演、そこで知ることになった(ちなみに時間軸をさかのぼると、最初は韓国映画『ブラインド』(2011)、同監督が中国版をリメイク『見えない目撃者』(2016)、そして日本版リメイクとなる)。

次に掲げるのはAMAZONにあったレヴューなのだが、鋭いところを突いてる

並行世界に設定したのがわからん。内容は単なる過去へのタイムトラベルなんだけど。同じ人間が3人いる状態になるから、並行世界ということにしたのか?タイムトラベルでもその状態はありえる。

110分すると自動的に戻ってくるという設定だったと思うのだけど、映画の内容では、110分以上その世界に留まっていないとできないことばっかり。110分という設定は、多分、子供の生存時間からなのだと思うけど。

物理学者が並行世界に移動したら、急にプロ並みに拳銃の使い方が上手くなってるのもわからん。

転移した時は同じ状態だったとしても、その後はずれが生じ、いわゆるバタフライ効果によりずれは大きくなる。本作は主人公が行った行為時のみ変化するような設定なので、そこが変。他人の行動も環境も変化するのだから。この現象を上手く表さないと、SFファンには通用しない。

最近、ループものが多いのだけど、上記の点を上手につくっている(上手くごまかしてる)のはオール・ユー・ニード・イズ・キルくらい。
米国が失敗して中国の研究盗もうとするところは、今の米中対立の影響かなと思った。


ただし、このレヴューで語られるほど、いい加減な設定ではない。一つは同じ時間軸において110分前にさかのぼるのではなく、パラレルワールドの110分前という設定になる(こういう設定が可能かどうかは問題ではなく、この設定のなかで整合性がとれているかどうか、つまりゲームの規則に従っているかどうかが映画の出来不出来に関係する)。

まず最初に悲劇が起こる。そしてそれを防ぐために主人公の女性科学者(S1)は110分前の過去にさかのぼる。しかし同じ時間軸(T1)ではない。彼女(S1)がいた時間軸(T1)は、もう崩壊している。そのため別の時間軸(T2)の110分前に移動となる。いずれにせよ、最初に悲劇が起こる。二番目はアクションである(茶番といいうなかれ)。

別の時間軸(T2)でも同じ事件は起こっている。しかしT1から来た彼女(S1)は、このT2における自分自身(S2)に出会い、自分とすりかわる(ただこのT2におけるS2は、まだ悲劇を知らない無垢な存在なので、ほんとうはS1とすべきかもしれないが、また別のややこしさを生むかもしれないので、このままにしておく)。このT2におけるS2は、何も知らないのだが、T1からやってきた彼女S1は、二度目であり、敵の裏をかけるように立ち回ることができる。彼女S1が、T2では、科学者でありながら、拳銃を自由に操れるのはご都合主義的とはいえ、一度、タイム・リープすると戦闘力がますという設定になっている。正確に言うと狂暴化するという設定(ゲームの規則)。そのため、彼女は二度タイム・リープするとかなり狂暴になって、狂戦士化する(ヤン・ミーの三つの顔をみることできてファンは嬉しい)。そして三人の彼女の生き残りをかけた戦いになるが、その結末は、一応、設定を逸脱することのないというか設定から論理的に引き出せる説得力のあるものである(ゲームの規則に従っている)。ネタバレになるので、これ以上は書かないとしても。

あとバタフライエフェクトというのは、どんな些細なことでも、大きな出来事の引き金になるという理論だが、些細なことは大きなことに影響を及ぼさない。まあ私が風邪をひいたら日本における株価が暴落すると考えるのは楽しいことだが、およそありえないくだらないファンタジーともいえる。私が風邪をひいても私の暮らしている市の市長(特に顔見知りではない)は体調を悪くすることすらないだろう。バタフライエフェクトというのはご都合主義の極致だと思っている(とはいえバタフライエフェクト理論からすると、私の風邪と株価の変動が、私の健康状態と市長の健康状態が結びつかない理由は、無数に考えられる――無数の、ほんのささいなことが理由となり、それこそバタフライエフェクトの世界観である)。

もう一度確認すると、彼女が110分前の過去にもどったのだが、それは110分前のパラレルワールドである。そのパラレルワールドでも、彼女が後にした時間軸と同じことが起こっている。同じことが起こっている世界をパラレルワールドと呼ぶのか。ただ、このパラレルワールドは彼女がやってくることで変化しはじめる。これは鶏か卵かの問題となる――彼女が、もといた世界とは違うパラレルワールドにやってきたのか、あるいは彼女がやってきたので、その世界が元いた世界のパラレルワールドとなってゆくのか。ひょっとしたら、ここに映画のふかいたくらみがあるのかもしれないが、それが何であるのかはわからない。

とまれ110分前のパラレルワールドに行くことになって同じ110分を繰り返すことになると、これはループ物となる。そしてこの映画で興味深いのは110分前の世界に行くことで、狂暴化するという設定というかゲームの規則である。これをメタフォリカルに考えれば、私たちが自分の人生に何度耐えられるかの問題となる。

女性が強くなるのは母になるときである(伝統的なジェンダー観)。この映画でも息子を救うために、タイムリープ後の女性科学者の戦闘力は強化されている。母の必死の思いと狂暴化という二つの要因が彼女の戦闘力をあげた。そして二度タイム・リープした彼女が登場するとき、彼女の戦闘力はマックスに達する。こうした設定は、たんに物語を終わらせる仕掛けというにとどまらない反復的営為に関係する真実を伝えている。

たとえば私たちが、もう一度自分の人生を生きるとすればという設定は、荒唐無稽すぎてリアリティがないため(あるいはリアルすぎて)、話を単純化するために、たとえば一度読んだ本を二度読むと考えてみてはどうか。

最初は、なにもわからず、ただ最後まで読むしかない。しかし再読の場合、それがフィクションなら、結末がわかっているので、伏線の張り方とか、ミスリードする展開など全体の構成や作者の狙いみたいなものがみえてくるし、また最初に読んだときには気づかなかった細部にも配慮できるようになる。再読するあなたは洞察力が高まっている。しかしこれはあなたの内部の成長とか成熟ではない(子供の頃に読んだ本を大人になって読み返すという場合には、あなたの洞察力には成長の成果が関係するかもしれないが)。再読する行為そのものが自然と洞察力を高めるのであって、あなたの知力が高まったわけではない。

では、三度目はどうか。理論的には洞察力がさらに高まるはずである。もし読んでいるのがノンフィクションであるのなら、最初、ちんぷんかんぷんであっても、読む返すたびにだんだんわかってくる(典型的なのが教科書を読む場合である)。読書百遍というのは、この理論に基づくものだろう。しかし百回も読んだら飽きがきて、うんざりして、ほんとうに読んでいるのかどうかもわからないかもしれない。つまり3回めには飽きるという要素が入ってくる、あるいは強くなる。作品に敵意すらいだくかもしれない。2回目、あなたは優れた評論家・研究者である。3回目、あなたはパロディ作家あるいはパスティーシュ作家になっているかもしれない。これは再読することによって、逆に洞察力が弱まり、飽きが来て遊びの要素(パロディ、パスティーシュ、アダプテイション)が入り込む、あるいは作品を丁寧に読み解くのではなく、作品を攻撃する要素が加わる。

つまり2回目は洞察、3回目は攻撃。脱構築的に考えれば、これは、たんに洞察性が弱まったり劣化して攻撃性が生まれたというだけでなく、実は洞察(解釈、評論、研究)も、攻撃であって、洞察は、まだ未成熟の攻撃といえるかもしれないし、また逆に、洞察が攻撃と入れ替わるのではなく、攻撃もまた洞察の延長あるいは一部であると考えることもできる。

この映画が教えてくれるのは、攻撃性が高まるという設定は、なぜかは説明されないのだが、なにかリアリティがあり、それは、いまのべたことのように読み換えられることからもわかる。もちろんその読み換えだけがすべてではない。たとえばこれはタイムループ物の特徴のひとつを言い当てている――例えば、『ザ・ドア』ではタイムリープした主人公のあとにつづいてくる者たちは、あるいは主人公の前にタイムリープした者たちは悪人というか犯罪者であるというのも実に示唆的である。(タイム・リープと犯罪性は、つぎの映画『リピーターズ』とも関係する。2021年11月2日の記事参照)。

と同時に、タイムリープするたびに狂暴になるという映画の設定は、映画を終結させるために伏線ともなっているので、この映画では、タイムリープは人間を壊すというゲームのルールを設けたことになる。

この世界観は、読書体験におきかえると、読み返すたびに作品の鮮度が落ち、読者はあきがきて、作品を嫌うようになる。予備知識なしで、はじめて作品と向き合う時の読書が、もっともすばらしく、作品の魅力もマックスであるという考え方である。

ある意味で、これは伝統的な、また多くの観客なり読者が共有する観点でもあり、私は認めないが、ただ、映画そのものは、それにのっとって、最後に、時間の支配者となって、時間をいじくるのではなく(反ノーラン的世界観)、今をつかむことが重要であるというヴィジョンで閉じられる――それはそれで感動的な幕切れでもあるのだが。

この「この日をつかめ」ヴィジョンが語られるのは主人公と息子が、山のなかというか山の高台にとめたキャンピングカーの前で食事をするところである。ちなみにこの大自然の場面は、映画の最初のほうで、主人公が息子と急峻な山をロッククライミングする場面と通ずるものがある。こんな幼い子ドウドウ(豆砲)を、危険なロッククライミングにと驚くのだが、つぎの瞬間、息子が落下する。しかし、実は、これはヴァーチャルなロッククライミング装置でほんとうの岩山ではない。最後のキャンピングカーの場面も、ヴァーチャルという可能性もないわけではないが、それは示されない。ただ、ヴァーチャルな山登りのあと、主人公は会議に呼び出されて、研究所に向かう。このコロナ禍で、一般的となったリモート会議を、この未来ではしないのかと疑問に思ったが、私のこの疑問は映画の世界観とも関係していた。ヴァーチャルな山登りと事故による落下は、一回だけ示される。これに対して過去へとさかのぼるタイムリープは3回しめされ、大惨事を引き起こす(ヴァーチャルな落下の場面が主題的につながっている)。

時間の支配は惨劇をもたらし、これに対して空間は支配もされないし加工もされない――リモート会議による距離の無効化はない。時間は死だが空間は救いとなる。あるいは時間支配のアンチテーゼとして空間の温存がある。おそらくそれがこの映画の隠れた映画的ヴィジョンであろう。
posted by ohashi at 20:05| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2021年10月30日

『エンドレス 繰り返される悪夢』

英語代題目 A Day (たぶん韓国語のタイトルも同じ意味だと思われる)。2017年の韓国映画(日本公開2017年)。

韓国映画には、というか近年の映画の多くの例にもれずというべきか、時空をさまよう映画は多いが、これはタイム・ループ物の古典(というほど古い映画ではないが)的設定のなかで展開する映画。古典的設定というのは、たとえば『恋はデジャヴ』とか『ハッピー・デス・デイ』といったタイム・ループ物と同じように、同じ日を何度も繰り返し生きることになる。

映画.COMは、こんなふうに映画を紹介している。

目覚めるたびに悪夢の1日が繰り返されるタイムループに囚われた男の死闘を描いたサスペンススリラー。娘の誕生日で約束の場所へ向かっていた著名な胸部外科医ジュニョンは、その途上で娘のウンジョンが交通事故で亡くなっている現場に遭遇。激しい衝撃を受けた瞬間、ジュニョンは事故の2時間前に戻っていた。時間のループは延々と繰り返され、ジュニョンは娘を事故で死なせないよう策を講じるが、何度やっても娘の死という結果が変わることはなかった。


この映画ではループの始まりが設定されている。旅客機が着陸体勢をとりはじめるときに目覚める主人公は、娘の交通事故死を目撃した瞬間、ふたたび旅客機のなかにもどって目覚めている。ただし目覚めたときには、娘の事故死に出逢った記憶がある。そのため娘を交通事故死から救おうと何度も必死で試みるのだが、なんど試みても事故の瞬間にはまにあわない。運命は変えられないという思いが、主人公のみならず見ている側からも湧いてくる。それはそうで、空港から事件の現場にどんなに急いでも、先回りできないのである。

しかし映画は意外な展開をみせる。映画.COMは、こう紹介をつづける

そんな中、ジュニョンの前に、事故で妻を失い、同じように時間を繰り返しているミンチョルが現れる。愛する家族を亡くし、理由もわからずに時間に囚われてしまった2人は、悪夢の1日を変え、家族を救うために力を合わせこととなるが……。


もうひとりループしている人間が現れる。この男は、交通事故で妻を亡くす。一つの交通事故で、かけがえのない家族を失った二人が出会い、ともにループしていることがわかる。

主人公ひとりの力では運命は変えられないことがわかるので、これを打開するどういう展開が待っているのかと考えつつみていたら、まさか二人目のルーパーがいたとは。それも、タイム・リープできるような超能力者とか霊能者ではなく、またSF仕立ての未来人というのではなく、主人公と同じような境遇で、しかも交通事故で身内を亡くすという同一体験で結ばれた二人が登場するとは。ここから映画は俄然面白くなる。

一部ネタバレをすれば、実はタイム・リーパーは、それも同じような境遇の男はもう一人登場する。三人のタイム・リーパーの、三すくみとも三つ巴ともいえる関係性があかされることによって、なぜこの三人がタイム・リープを繰り返すのか、身内を失うという地獄を味わいつづけるのかが見えてくる。SF的説明はないが、心理的説明はある。

そしてこの映画、三人のループする男たちの物語が、実は彼らの子どもたちの意志の物語であることが最後にわかる仕掛けになっている。

そこが新機軸として面白い。もちろんタイム・リープ物としては、罪ある人間の贖罪が、繰り返す悪夢、繰り返す一日と関係する。地獄を経験することと、この地獄から最終的にどう脱出するかというタイム・リープ物の定番的展開が、三人のタイム・リーパーによって動かされる。これが新機軸であり、観る者を飽きさせない。

指摘すべきは二点。三人の男性は、三人三様の地獄を体験するのだが、同時に、このタイム・リープの間に、それぞれ他の二人の男性の悲しみや怒りを体験する。贖罪は、他者の心情の追体験によって構成される。そしてその学習を通して、望ましい解決がみえてくる。

反復、追体験、役割転換、心情の共有。タイム・リープ物の特徴を、私はブレヒトの有名な学習劇『処置』と重ね合わせて考える。ブレヒトの『処置』こそ、タイム・リープが考察と学びの場であることを示した最初の演劇ではなかったかと私は考えている。同じ悲劇的事件を、当事者たちが互いに他の役割を演ずることによって見えてくるものがある。それをこの映画は痛感させてくれる。

もうひとつ。映画はインチョン(仁川)でロケをしている。インチョン空港(仁川空港)から仁川大橋を経て、インチョンのビジネス街や繁華街への、何度も繰り返される移行は、インチョンという大都市の風景を観る者の刷り込む働きがある(最終的には、インチョンのさまざまな場所を観る者はめぐることになる)。インチョンの自由公園も登場する。インチョンという都市が、韓国においてどういうイメージをもっているか、なにもわからないが、ただ歴史的なことは脇に置くと、全般的に近代的かつ近未来的な明るい港湾・国際ビジネス都市である(ソウルの近郊住宅地という意味付けもあるようだが)。交通事故は正午に起こる。インチョンという都市そのものが、昼間の世界、正午の世界である。その正午の世界にある闇の部分が近代都市を侵食しはじめるものの、やがて和解が訪れる。あるいは正午の都市インチョンが、あるいはどのようなものであれ昼間が、抱える闇、恐ろしいというよりも悲しい闇、それと昼の世界との和解が映画を興味深いものにしている。
posted by ohashi at 20:22| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2021年10月25日

『ザ・ドア』2

後半から終盤にかけて、にわかに面白くなって、さすが原作がアキフ・ピリンチだけはあると感動すらする。『猫たちの聖夜』の猫ミステリ作家アキフ・ピリンチ。映画の原作は、猫ミステリー・シリーズとは異なり、また翻訳もされていないし、私自身、読んでもいないので、映画がどのようにアダプテーションしているのかわからないものの、映画から原作の面白さは伝わっているような気がする。

おそらく緊迫した展開のなかで、一方にあるのは、失敗した現在から失敗をまだ知らない過去への逃走という身勝手な犯罪的な行為、もう一方には、過去の失敗をなんとしても防ぎたいセカンド・チャンスを求める人間の切つない願望と苦悩、この両者の間でテーマ的な緊張関係が認められ、観る者の意識がはげしくゆさぶられるのである。

結末は、ある意味、予想どおりである。何処でもドアならぬ、5年を隔てる二つの世界をむすぶタイムマシン的な洞窟と扉を主人公はあえて破壊し、ふたつの世界の行き来はできなくなる。5年前の母と娘は5年後の世界に逃れ、5年後の世界からやってきた妻とダニエルは、この世界に取り残されるが、失った夫婦愛を取りもどすかにみえる。

Amazonのレヴューに次のようなものがある――

5つ星のうち4.0  因果の鎖は遡れない。もし遡れたら…こうなる!
2020年3月20日に日本でレビュー済み

前半は退屈ですが中盤から面白くなります。もし5年前に戻って人生をやり直せたら、果たして幸せになれるのか?というテーマ。この作品を通して、結果的にはそうとは限らないということを納得させられますし、そもそもタイムスリップ自体があり得ないということがよく理解できます。中々ショッキングな展開で、反面教師的な意味で見て損はないという感じでしょうか。



現実問題として、上を見てもキリがありませんし、下を見てもキリがありません。もっと幸せになれたかもしれないし、もっと不幸せだったかもしれません。どこの国の、いつの時代で、どの両親の元に誕生するかで人生の枠組みはほぼ決まってしまうようです。しかもこの選択のルールは神秘に満ち溢れ個人の手に余るものです。こういった現実を直視すれば、無理に人生を変えようとしない方が利口です。この作品の核心は大体こういうことだと思います。


私は親ガチャということを認めたくはないのだが、こういう意見があると、親ガチャが正しいののではないかと思えてくる。やはり馬鹿な親から生まれるから、こういう馬鹿な意見しか言えないのだろうし、やはり日本人に生まれたから、この程度のことしか言えないのかという批判に、このレヴューアーは理屈からして反論できない。お前がバカなのはお前の責任じゃない、お前の親がバカだから、親の顔が見たいといわれても、このレヴューアーは平気でいられるのだろう。まあ日本人だからバカなのはしかたがない。バカに生まれついたのだから、へたに意見など言おうとしないほうがいいと言われても、バカな日本人らしくへらへらとい笑っているのだろう。まあ、このバカが自説に従うのなら反論などできないのだから。

「こういった現実を直視すれば、無理に人生を変えようとしない方が利口です」というのなら、あなたは周囲にいる者たちの愚かな生き方や人生を無理に変えようとしてはいないか。そもそもバカなのは親と国籍のなせるわざで、運命みたいなもの、運命を変えようとしてもしかたがないのでは。つまり無理に人生を変えようとするのは利口ではないということは、無理に人生を変えようとして、あえいできた人たちの人生もまた変えてはならいなのでは。決まったことを変えてもしょうがないのなら、決まったことを変え続けようとする行為もまた決まったこととして変えない方が利口です。

このレヴューアーはこの映画に即して説教をしているので、この映画に話をもどすと、映画とか物語とは、どんなにあがいても運命は変えられないというのが定番の結末であるのだが、同時に、運命は変えられないかみにて、実は変わっていたというのも定番の結末であって、両者は往々にして共存する(以前映画『11モンキーズ』や短編「アンチクリストの誕生」について、このことを触れた)。

この映画ではファンタジー仕立てで、変えられない運命が変えられる。もちろんファンタジーだから、変えられた運命にはまたつけがまわってきて予期せぬ負の部分が立ち上がる。時分の人生を変え、死んだ娘を取りもどしたいという、悔悟の人生を送る父親の切なる願いが、逮捕をまぬがれて逃亡したいという犯罪者の身勝手な願望と重なってくる。もし自分の人生を変えられるのなら、犯罪者もまた罰を免れることになる。得るものがあれば失うものがある。いいかえると得るものには良性面と悪性面とがある。この危険と表裏一体化した願望を実現する装置を、この映画では最後に壊すことになる。

5年の時差のある両世界をつなぐドアは、悪魔も招き入れる危険なドアであり、最後にそれを破壊することで、世界は安定を取りもどす。

ただし、たんに危険な装置を壊したというたけではなく、そこにはさまざまな主題がからんでいる。

このドアを主人公が壊したのは、5年後の世界に逃れていった5年前の妻/母と娘がつかまらないようにしたためである。これを忘れてはならない。つまり娘を失ってから悔恨の日々と送る主人公は、娘の死をとおして、娘と妻への愛を5年後の世界において回復していた。だからこそ5年前の世界によき父親でありよき夫して帰還しえた。彼の人生は変わっていたのである--タイム・ループする以前に。そのご褒美であるかのように、あるいは奇跡が起こったかのように、5年前の世界にもどった彼は、家族から愛されるようになる。そして彼はその愛に応えるべく、危機の迫った5年前の妻と娘を、5年後の世界に逃がしてやる――主人公自身が犠牲となることで。こうして彼は一度は破綻していた人生をもとにもどしリセットしただけではない。修復された家族愛を、自己犠牲を通して最後まで全うしたのである。

こうしてドアの破壊は、ドアが悪用されないためにドアそのものを破壊するという社会的倫理にもとづく行動であると同時に、妻と娘との永遠の別れを覚悟しつつ、二人を守るための家族愛に基づく行為であるともいえる。いずれにせよ主人公の人生は、結局娘を失うことになって運命はかわらない、あるいは運命はかえてはならないかみえて、同時に、愛の奇跡というほどのものではないとしても、確実に変わっていたのである。

繰り返すと、主人公は、直接的ではないとしても、半ば自分の責任で娘を溺死させる。またそのことで妻とも離婚して5年たつ。しかし主人公にとって、娘への愛は冷めていて、娘は溺死する前にすでに死んでいたようなものだし、妻とは離婚する前にすでに家庭内離婚状態だった(近所の同じ画家仲間の女性と浮気をしていた)。しかし娘の死を契機に、娘への愛を取り戻し、妻と離婚することによって妻への愛も回復した主人公は、しかし、悔やんでも悔やみきれない、すでにとりかえしのつかない自分の人生をはかなみ自死を選ぶのだが、奇跡的に5年前の過去のもどり娘を助け家族の愛をとりもどす。失敗した人生をやりなおすことができた。

もちろん、そう簡単に過去の過失をなくし、人生をリセットできるのなら、人生の意味がなくなる。人生はやりなおしがきかないところに意味がある。いやそれどころか、簡単に人生がリセットできるのなら、それを悪用して、犯罪者が過去にもどって処罰を逃れることができる。犯罪者がべつの人生を選択して、そこで悪事のかぎりをつくすこともできる――処罰されることなく。タイムマシンができて過去へ移動できるなら世界は終わり、人間は破滅することは目に見えている。

しかしタイム・ループ物の設定の根底にあるセカンド・チャンスを求める狂おしい願いは、簡単に実現してはならないどころか、そもそも現実において、実現するはずもないのだが、実現しないがゆえに、手段と方法をかえて実現させずにはいられない――それが人間だから。たとえばファンタジーにおいて人間はタイム・ループを実現する。セカンド・チャンスの夢をみる。

映画におけるタイム・ループ物の流行(はたしてほんとうに人気があるのかどうかは別として)は、現在の格差社会において、格差が固定され、社会がますまる流動性を失い、親ガチャの時代なるがゆえに(「こういった現実を直視すれば、無理に人生を変えようとしない方が利口です」と説教をするネトウヨ的偽善者が出てくるがゆえに)、逆に、いつでもリセットがきくゲームと同様に、頻繁に出現することになったともいえる。タイム・ループ物の出現と流行は、タイム・ループできない現実と社会への絶望に由来する(それを絶望は無意味だ、現実は変えられない、格差はなくならない、あがいてもだめだ、あきらめるのが利口だと説教する者には、説教することによって何かを変えようとすること自体、おまえの言っていることと語っていることとの言行不一致だと嘲笑を投げかけてやれ)。

しかし格差社会の出現以前から、人間はタイム・ループを実現する領域をこしらえてきた。文学、それも小説ということで。タイム・トラベル、タイム・リープ、タイム・ループといったSFジャンルのことではない。そうしたジャンルの出現以前の小説というジャンルそのものが最初からタイム・ループ物として設定されていた。

たとえば

あなたは一語一語を追いながら、いつしかプルーストの世界に入り込んでゆく。目的地を知らされていない長期にわたる航海。しかしそれが、読書というものではなかっただろうか。二重人格の話とは知らずに『ジーキル博士とハイド氏』を読んだ一八八六年の読者。犯人を知らずに『アクロイド殺し』を読んだ一九二六年の読者。彼らと同じように、まったく新鮮な感動とともに、プルーストを読む愉しみ――それが読者を最後まで導いてゆくのではあるまいか。というより、それがなくて、どうして最後まで読み続けることができるのか。


とプルースト『失われた時を求めて①第一篇「スワン家のほうへⅠ」』(光文社古典新訳文庫2010)の「訳者前口上」で訳者の高遠弘美氏は述べる(p.13)。読者を作品世界へと誘うこの魅力的な文章を批判するつもりなどない。作品への導入のためのレトリカルな文章に対し、「ちなみに何も知らない無垢な読者というものは存在しませんよ」と批判するのはたやすいが野暮というものだろう。ただ、何も知らない読者がわくわくしながら作品の世界を読み進むというイメージが、よりにもよってプルーストの『失われた時を求め』を材料にして語られるのは何とも滑稽だといいたいのである。

通常の小説がなぜ過去形で語られるのかについていろいろな議論がある。読者にとっては、事件は読者のいまとここ、読者の現在で起こっているのであって、上記の引用のとおりである。読者は先がわからぬまますすむ。ところが小説の語りは過去形なのであって、事件はすでに終わっているらしい。ところが読者は事件が終わったことも、どう終わったことも、まったく知らされていない。では、いま読者というのはどういう立ち位置にいるのだろうか。それは二度目の(ことによるのn度目の)人生を送ったり目撃したりしているのだが、あいにく記憶喪失でいる――ただ、これが二度目(n度目)であることは意識しているということである。読者はタイム・ループしている。一度起こったことを再体験している。タイム・ループは小説の誕生とともに始まった。

ただし、こうしたことは通常の小説では、むしろ隠されている。読者は、事件の当事者あるいは原因であれ目撃者であれ、未知の展開を、ただ初めて体験するにすぎない。しかし、時々、これが二度目の出来事、回想色に強く彩られる作品が登場する。

プルーストの『失われた時を求めて』では、語られることは最初の人生ではなく第二の人生である。読者は、すでに終わったこと、とりかえしのつかないこと、変えられぬ運命のようなものをひしひしと感じながら、同時に、未知なるがゆえの多様な可能性を想起しながら先に進む。読者は、出来事についての記憶を喪失していながら、第二の出来事・人生を歩むタイム・ルーパーなのである――『失われた時を求めて』は、このことを記憶喪失の読者に片時も忘れさせない(なおこの洞察を私はアドルノ『プリズメン』(ちくま学芸文庫)から得ているのだが、詳しいことはいずれ)。なお、この長大な小説そのものがループ作品であることはいわずもがなのことではあるが、指摘しておく。

私たちは、自分の人生をどう生きているのだろうか。予言者でもない私たちは自分の人生の先行きや終わりはまったくわからない。そのため一度の人生を無我夢中でがむしゃらに、あるいは一度しかないのだから有意義に生きるか、運命は変えられない、なるようにしかならない、親ガチャだとして、なにもしないか、ひたすら与えられた責務だけをこなす受動的な人生かの、いずれかとなりそうなものだが、いくら運命は決まっているといっても、何もしない人生を西洋人(とりわけドイツ人)は許容するわけがない。

一度しかない人生だから有意義に生きるという考え方は、しかし、どうせなにをしても運命は決まっているという悲観論と矛盾対立することになる。もうひとつの考え方は、先に述べたEinmal ist Keinmal (アインマル・イスト・カインマル)。ドイツのことわざ。一度はものの数に入らない。反復ではないと意味がない。私たちはいま少なくとも二度目の人生を送っていると考えることで、たとえ結末は決まっていても、なにをしても同じかもしれないが、少なくとも二度目であるという意識は私たちの生き方に変化と意味をもたらすだろう。なにもしないで生きた一度きりの人生、無我夢中で生きた一度きりの人生、一度しかないかけがえなのない人生を有意義に生きようと頑張った人生、いずれも一度きりの人生は、生きたことにはならない。アインマル・イスト・カインマル。

そもそも、一度きりの人生だから有意義に生きようと思うとき、あるいは何をやっても運命は変えられないという思うとき、あなはたは、すでに二度目の人生を生きていたのではないのか。あなたは、タイム・ループしているのである。

あるいはこうも言える、恋はデジャヴ、人生もデジャヴ、と。

映画は、5年後の主人公が、5年後のからこの世界にやってきた元妻とともにプールの脇にたたずむところで終わる。SFというよりも、あるいは『ボディ・スナッチャー』というよりもファンタジーともいえるこの映画は、ここでその特徴を十全に発揮する。つまり、この映画の最後は、べつに説明はないし、そうでなければならないということもないのだが、夢オチの可能性を臭わせている。5年前の世界にタイム・スリップをして娘を助け、家族愛をとりもどす物語は、死んだ娘への断ちきれぬ思いが抱かせた夢あるいは幻想にすぎなかった。そして最後に夢から覚めた。

妻も同じである。娘を死なせた夫を許すことができず離婚したが、5年前の世界で娘が生きていることを知った元妻は、みずから5年前の世界で死んだ娘と再会をはたすのだが、その5年前の世界にいる過去の自分と葛藤状態になり、最後には、娘のためを思って娘を手放すことで、娘への利己的愛から真の家族愛に目覚め、また娘のためにみずから犠牲になろうとした元の夫を許す気持ちにもなったのではないか。たとえそれが夢のなかの出来事だったとしても。

娘を失って夫婦関係も解消した夫婦が、そのようなファンタジーを共有することで、再び夫婦愛を取りもどすことになった。前と同じように娘はいなくなったままだが、冷え切っていた夫婦愛が穏やかに復活した。それがこの映画の結末ではないだろうか。たとえ夢だったとしても、よい夢だった、と。また夢落ちでないなら、この夫婦がこれから暮らす郊外の住宅街は殺人鬼に乗っ取られている恐怖の住宅街ということになり、そんなところに誰が住めるというのだろうか。

失ったものは取りもどせない。もし簡単に取りもどせるようになったら私たちの倫理観はおかしくなるだろうし、私たちはみんな過去の自分を殺害する犯罪者になりさがる。しかしファンタジーのなかでなら夢のなかでなら(小説のなかで、映画のなかでなら)、失ったものは取りもどせる。もちろん夢から覚めたあとでは、喪失感がさらに強く私たちを襲うとしても、同時に、失ったものと出会えた夢やファンタジーや小説や映画は、私たちの精神を変えるのである。おそらく良き方向に。愛と許しの方向に。それがファンタジーの、そして死者の力である。映画とはまさにそのような治癒的なファンタジーという側面ももっているのである。そしてこの治癒的なファンタジーは、人生がデジャヴであることを実感させるのである。
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2021年10月23日

『ザ・ドア 交差する世界』

原題Die Tür 英語題 The Door

マッツ・ミケルセン主演のタイム・ループ映画。SFというよりはファンタジー・ミステリーで、途中までくると先が見えてあとは惰性で最後までと思うと意外な展開がまっている。そのため最後まで飽きさせない。101分のドイツ映画。

マッツ・ミケルセン主演なので、ドイツ映画なのに、終始、北欧のどこか、ノルウェーかスウェーデンの映画(ミケルセン出身のデンマークとも思わず)と終盤まで思い込んでいて、聞こえているドイツ語もすべて北欧の言語にしか聞こえないというボケ具合に自分で自分が恥ずかしくなったが、ただ、とくにどこの国とは設定されておらず(ドイツで撮影されたのだがドイツらしさは希薄になっている)、北ヨーロッパのどこかの国という基本設定らしく、私の混乱も理由がないわけではないとあとでわかった。

マッツ・ミケルセンがアリシア・ヴィキャンデルと共演した映画『ロイヤル・アフェア』で私は、かつてデンマークの公用語がドイツ語だったということを知った。その過去の歴史があってか、デンマークはドイツ語がけっこう通用するらしく、ミケルセンもドイツ語が話せるし、映画のなかでミケルセンはドイツ語で話しているのに、デンマーク語ではない北欧語とまちがえていた私はやはりバカだった。とはいえミケルセンのドイツ語を収録したヴァージョンと、ドイツ語の吹き替えヴァージョンのふたつがあるらしく、私がみたヴァージョンがどちらかは不明。

日本版Wikipediaには映画の内容が詳しく紹介してあるので、その一部を紹介すると

有名画家のダヴィッドは、妻マヤの留守中に隣人で愛人のジアとの情事を楽しんでいた。ところがその間に、1人娘のレオニーが自宅の庭のプールに落ち、後になって気付いたダヴィッドはレオニーを救出しようとするが既に事切れていた。5年後、娘が亡くなった要因の一つが愛人との情事であったことからも、幻滅した妻マヤから別れを告げられており、全てを失ったダヴィッドは娘と同死に方をしようと入水したが、友人のマックスに救助され死ぬことができず、とりあえずはマックスと酒を飲んでひとまず落ち着く。気晴らしに外に出たダヴィットは不思議な蝶に導かれるままに怪しいトンネルに入って行く。そして奥のドアをあけると、そこは5年前のレオニーが事故に遭う日であった。ダヴィッドはすぐに自宅の庭に駆けつけ、プールに落ちたレオニーを救い出す。……


娘が自宅のプールで溺死とその救出。ならびに死んだ娘が死の世界へと誘いというのは、ニコラス・ローグ監督の『赤い影』(Don’t Look Now 1973)を彷彿とさせるし、実際、その影響あるいはオマージュ的なシーンもある。ただし、死んだ娘からの死への誘いをふりきるかたちで主人公はタイム・ループする。

ただ、娘を救出したのだが、

ジアとの情事を終えて帰って来た「5年前のダヴィッド」がダヴィッドを泥棒と勘違いして襲いかかってくる。2人はもみ合いになり、ダヴィッドは誤って「5年前のダヴィッド」を偶然あった鉛筆で首を刺して殺してしまう。ダヴィッドは「5年前のダヴィッド」の死体を庭に埋め、この世界のダヴィッドとして生きて行くことにする。……


5年前の旧ダヴィッドは情事に行く前に自宅の電話が鳴るのだが放っておく。5年後の新ダヴィッドが電話を止めるのだが、情事の間中電話が鳴り続けていたのか、一端、やんだ電話が再びなり始めたのか、そのへん気になると気になり始めるのだが、ただ映画そのものは、そこをとくに掘り下げてはいないようだ。

5年前と5年後の世界を隔てる洞窟というか、洞窟の扉がどういうものか、なぜそこにあるのか一切説明はないので、そういうものとしてしか受け入れるほかはない。したがってこれは、ファンタジージャンルということになる。つまりSFではないしSF的でもない。ドラえもんの「どこでもドア」も科学的説明はないのだが、未来のテクノロジーという理由付けがあって、それでSFに分類されているとすれば、ここではそうした疑似説明もないので、ファンタジーというほかはない。

また、すりかわりが問題となるのだが、5年前の自分に5年後の自分がすりかわるので、偽物が本物にすりかわったわけではない。本物が本物になりすましたのである。さらにいえば過去の自分を殺しても、未来の自分が存在しうるのかというタイム・トラベルSFによるタイム・パラドクスは完全にスルー。ターミネイターは歴史をかえるために、サラ・コナーやジョン・コナーを殺しにこなくてもよいということになる(映画『ターミネイター』フランチャイズ参照)。

ともかく事故とはいえ、旧ダヴィッドを殺してなりすますことになった新ダヴィッド(歳上のダヴィッド)が、その後、たとえ自分の家族とはいえ、どう妻と娘と暮らしてゆくかが物語の焦点となってゆく。

興味深いのは、娘は父親に強い違和感を抱き、父親が入れ替わったと悟るのだが、同時に入れ替わった後の父親のほうを、自分を心底愛してくれるために、好きになる。妻も同じく違和感のある夫であっても、妻を愛する夫にこれまでにない愛を感ずるようになる。

こうなると、これはマルタン・ゲール物である。16世紀フランスのバスク地方北部の農民マルタン・ゲール(Martin Guerre 1524- 1560以降不明)は、失踪してから8年後帰還するが、帰還後から偽物ではないかという噂がたちはじめ裁判沙汰になるものの、本物と認定される。と、その直後、本物のマルタン・ゲールがあらわれ、偽のマルタン・ゲールは処刑されたというフランス史上有名な詐欺事件。

1982年にジェラール・ドパルデュー、ナタリー・バイ出演で映画化(『マルタン・ゲールの帰還』)されたが、私はこれを観ていない。むしろ1993年にはこれを翻案したアメリカ映画『ジャック・サマーズビー』(リチャード・ギア、ジョディ・フォスター出演)のほうが有名かもしれない。

ナタリー・ゼモン・デーヴィスが、その『マルタン・ゲールの帰還』(平凡社、平凡社ライブラリーに再録されたときは『帰ってきたマルタン・ゲール』とタイトルが変更)で指摘するように、本物か偽物かは、他人にはわからなくても、妻にはわかるはずである。おそらく妻は帰ってきたマルタン・ゲールが偽物とわかったのだろう。だが、夫が失踪中で未亡人にもなれず再婚もできず苦しい社会的立場であった妻にとって、失踪した夫よりも人格者である偽物の夫を受け入れることを選んだというのはありうることである。映画『ジャック・サマーズビー』では南北戦争で死んだマルタン・ゲールの戦友がなりすますのだが、戦争未亡人となった女性にとって再婚できないのは死活問題であり、偽亭主を受け入れることは、もし、いなくなった夫よりも偽者が善人であるなら、選択の余地はなかったのではないかとも考えられる。

この映画『ザ・ドア』において、なりすました新たな夫は、しかし、前の夫――この、妻や娘への愛がないどころか憎悪すら抱いていた夫――に比べると、はるかによい夫でありよい父親である。そのため妻や娘にも受け入れられるし、夫のための盛大な誕生日パーティはまた、この親と娘の家族との再出発・新生パーティでもあるのだろう。こうなると、このままよほどのことが起こらないかぎり、あとは問題を残しつつハッピーエンディングかと思うと、まだ残り40分くらいあり、まだ一波乱起こることが予想される。誕生パーティのその場で、ダヴィッドが入れ替わったのではないかと疑った友人マックスが、ダヴィッドの庭に埋められているダヴィッド本人をみつけ、真相を暴露しようとするのだ……。

後半の驚愕の展開というのは、いまと5年後をつなぐトンネルとかドアの存在が実は広くあるいは非合法なかたちで知られていて、多くの人間が5年後の未来からこの世界にやってきているということである。主人公にとって洞窟トンネルとかドアは偶然みつけたものである。そして5年前の自分に、泥棒とまちがわれて襲われて、5年前の自分を事故のようなかたちで殺したのも、すべて偶然のなせるわざであり、意図的なものではない。ところがこの5年前の世界の近隣住民たちは、5年後の未来からやってきて、住民とすりかわったらしいのだ--主人公と同じように〈元の住民=過去の自分〉を、主人公とはちがって意図的に殺して。

となるとこの郊外住宅地の住民たちは、全員がすり替わった住民、それも元住民を殺した殺人鬼たちであるという恐怖。ただし主人公のダヴィッドも、このことは途中から気づいているようで、とくに説明されないのだが、まだ殺されていない住民であるスーザンに対して愛おしげに分かれを告げたりしている。なぜそうするのか理由もなしに。また不穏な動きをみせるカップルなどもいる(彼らはこれから住民を殺して、すりかわる相談をしているのかもしれない)。

後半は『ボディー・スナッチャー』だと騒ぎ立ているレヴューアーたちがいるのには辟易する。なるほど前半は〈マルタン・ゲールの帰還〉だが、後半はにわかに一気に〈ボディ・スナッチャー〉に変わるように思われる。しかし、あなたは過去の自分を殺して、すりかわってはいないか。あるいは過去の自分を殺したいと思わないか(失敗した過去を抹消するために、あるいは失敗を知らない過去の自分とすりかわるために)。あなたは、他人の体を奪っている宇宙人ではないはずだ。あなたの体はあなた自身の体ではないか。あなたは本物になりすました本物である。あるいは本物になりすました本物ではなければ、あなたは偽物である。

『ボディ・スナッチャー』は、宇宙人が、つまりは共産主義者が、善良な市民の精神をうばって、その肉体に宿ってコントロールするという冷戦期パラノイア的幻想の産物であることはまちがいない。それに対して、過去の自分を未来の自分が殺す設定は、パラノイアとは無縁の形而上性を帯びている。私の人生は、ほんとうは二度目、あるいは二度目以上の人生、未来の自分に奪われたというよりも未来の自分が過去の自分に憑依している、おそらく複数回憑依している人生だと、あなた感じたことはないのだろうか。

Einmal ist Keinmal (アインマル・イスト・カインマル)――ミラン・クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』のなかで主人公のトマーシュが紹介しているドイツのことわざである。一度は、ものの数に入らない。それがどのような意味であろうともいい。私たちは、一度以上の人生を生きている。当然、私たちは、自分自身と少なくとも一度以上はすりかわっている。自分自身を何度も殺している。

映画の物語ではコミュニティー全体が未来からきたもうひとりの自分に乗っ取られているという可能性。この世界では、破綻し失敗した人生のなかで過去の過失を修復したいという切なる願いのなかで過去への扉が開かれるというだけではないようなのだ。失敗なり破滅あるいは犯行から、過去へと逃亡しようとする犯罪者もまた扉を開けてこの世界に逃れてきた。彼らは犯罪者なので、この世界の住民を殺すことなどいとも簡単にやってのけられる(たとえ、それは自分を殺すことなのだが――とはいえ自分以外の人間も必要に応じて殺しているようなのだ)。こうなると、悪に染まらず幸福なまま生きている自分が、犯罪者となった未来の自分に殺されるという理不尽な状況が生まれてくる。

ダヴィッドの妻は、隣人の夫妻が殺されるのを目撃し、その夫妻の娘と自分の娘を自宅にかくまって、警察に訴えるが、警察は隣人夫妻の娘を拉致監禁したとしてとりあってくれない。このあたりから実は警察もぐるになって、住民のすり替わりを監視・統御しているらしいとわかってくる。ダヴィッドのもとにも妻が電話をかけてくる。妻といっても、5年後の世界からこの世界にやってきた元妻であり、自分の娘が生きているこの世界に娘を引き取りにやってきたのである。だがそのためにはこの5年前にいるダニエルの妻は殺されねばならない。そこでダニエルは、五年前の世界の妻(せっかく夫婦愛を回復できた妻)を殺さねばならなくなる。郊外の住宅街を住民が拳銃を隠すことなく手にして歩いたら、どこの国の警官も注意するはずだが、この世界では警官も、すりかわりのための住民殺しを黙認しているようで、恐怖の住宅街である。

つづく
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2021年10月20日

『ダークレイン』

原題Los ParecidosThe Similar
2015年メキシコ映画 日本公開2015年 1時間25分

『パラドクス』の監督イサーク・エスバンの次回作は『ダークレイン』である。これはタイム・ループものでもループ物でもないのだが、興味深い映画なので触れておきたい。

興味深いけれども、ものすごく面白い映画ではないと思うのだが、ネット上の評判は、けっこう良い。しかし、この興味深い設定には腹をたてる人がいてもおかしくないと思うのだが、逆に若いレヴューアーには新鮮にうつるのかもしれない。

豪雨というか嵐で足止めされる長距離バスの待合所が舞台。最初から最後までこの待合所とトイレと発券事務室というほぼ同一空間で事件が展開するので、舞台劇に近いといってもいい。よくこういう演劇的映画に腹をたてたり嫌ったりすれる映画ファンがいるのだが、ネット上では、これも予想外に少ない。私は演劇的映画は大好きで、この映画も完璧に舞台化かできると思う。舞台化したら絶対に面白いと思うのだが、ただ、一部の設定には、腹をたてる演劇ファンはいるかもしれない。

もうひとつの特徴は、カラーだがモノクロに使い色調で待合所の内部が描かれ、雰囲気としては60年代のサスペンス・ミステリー・ドラマを強く連想させるものとなっている。おそらく60年代感、古きミステリー/サスペンス感は、タイトルの出し方とかエンドクレジットの形式、音楽の使用法にまで意図的に仕組まれているものと思う。

実際1968年10月2日の夜という設定であり、物語はほぼリアルタイムで進行する。過去の時代感覚を、過去の映画様式で再現しようとしているのである。

と同時に全体に安っぽいさが漂っている。これは低予算のB級映画臭がただよっているということではなく、意図的なものである。それは人間が個性をなくしてしまうことを表現する手段がそうである。これは一歩間違えばというより、間違わなくとも、茶番的喜劇的な仕掛けで、シリアスなミステリーとは全然相容れない(ちなみにこの映画のポスターとかDVDのジャケットには、顔に包帯をまいた家族の見るも恐ろしげな絵を使っていて、恐怖感をあおっているのだが、そうした場面は映画には一回も登場しない)。

そしてこの仕掛けの、よくいえば不条理な異化的な笑い、悪く言えば、意図はわかるが安易すぎるこの設定は、日本では『ミステリー・ゾーン』のタイトルで放送された、『トワイライト・ゾーン』のテレビドラマの世界を彷彿とさせる。この『ミステリー・ゾーン』/『トワイライト・ゾーン』の一挿話であったら納得できる。しかしノスタルジックな意図があるのかないのかわからないが、映画でそれをみせられると苦笑するか腹をたてるしかない。

たとえば、はっきりと覚えていないのだが『ミステリー・ゾーン』の初期の回で、面妖な顔(安っぽいかぶり物をしている)の宇宙人たちが、ある生物(最初、その姿はあかされない)をみて、その醜さに目を背け苦言を呈しつつ、互いに議論している場面があった。どんなにおぞましい生物かと思うと、最後にその正体があかされる。人間のかわいらしい赤ん坊なのである。結局、美醜の判断は生物によって異なるということなのだが、それを伝えるために「醜い」安っぽいかぶり物の宇宙人像が使われても、テレビのコント的形式のエピソードとしては、いかにも『ミステリー・ゾーン』的な風刺で違和感がないのだが、これに類することを映画のなかでやられても困る。つまりテレビのコント的な仕掛けを映画のなかで大々的に、そしてエンドクレジットまでやられてはたまらない。誰も、いらだたないのかと、私自身がいらだってしまった。

『パラドクス』ではフィリップ・K・ディックのSF小説『時は乱れて』が使われたが、今回はディックの小説のタイトルは言及もされないのものの、今回のほうがディック的SF世界へのオマージュというか、その世界そのものが使われているように思った。たとえば狂える少年の妄想の世界が現実化して、人間がそこから逃れられなくなってしまうような世界が、それである。

ただし、なるほどディックのSFには個人の妄想ファンタジーが実体化する、あるいは『火星のタイム・スリップ』のような自閉症の少年がいだくファンタジーが実体化し、そこから抜け出せなくなる恐怖が描かれているが、ディックの場合、むしろ、そこからいかに抜け出すかをめぐって組織される物語が重要になり、また私たちのディックへの関心もそこになる。

この世界が偽物であること、ヴァーチャルであり、シミュラクラであること、それをいかにみやぶるのかをめぐる議論(たとえば『高い城の男』における偽物と本物を見分ける議論)、偽物の世界からいかに脱出するかという行動こそが、ディックSFの醍醐味というか見所であり、そこにポストモダン的思想性も宿るのだが、この映画には、そうしたディックには関心がないようなのだ。

ディックの作品すべてに『シミュラクラ』というタイトルをつけてもいいといえるのだが、この映画の原題は類似のタイトルながら、しかし『シミュラクラ』というタイトルはこの映画には似つかわしくない。そのためディックにみられるような文化的社会的歴史的(晩期における宗教的)な広がりはなく、気味の悪いファンタジー止まりとなっている、

そう、そこが問題かもしれない。この映画の特徴は、ネタバレを極力避けたかたちで語れば上記のようになるのだが、しかし、重要な歴史的次元についてはまだ触れていない。

1968年10月2日のことである。

Wikipediaには、「メキシコにおける大量虐殺リスト」‘List of massacres in Mexico’という恐ろしい項目があって、そのなかで1968年10月2日は、メキシコシティにおける「トラテロルコ事件」と呼ばれる市民殺害が起こる日である。

次の項目――1971年6月10日「コーパス・クリスティの虐殺」――では、犠牲者は推計120人とされている。いっぽう「トラテロルコ事件」の犠牲者は推計40人から400人(300人から400人ともいわれる)で、メキシコ史における当局による最大の市民虐殺事件である。

ちなみに1971年の「コーパス・クリスティ虐殺事件」は、アルフォンソ・キュアロン監督の映画『ローマ』のなかで、学生運動家たちが当局と連携している自警団に殺されたエピソードで触れられていた。映画『ローマ』の冒頭は、床に水が流される映像で、これは水で掃除をしているところだとすぐにわかるのだが、やがてこれが、過去のおぞましい事件を洗い流そうとする黒歴史抹消という歴史修正主義の風潮あるいは政策を暗示しつつ、最後のクライマックスにおける海水浴場での高波にさらわれそうになる一家の場面へとつながっていく。過去の虐殺事件、その記憶を洗い流そうとする風潮、にもかかわらず消されずに留まる事件の記憶、そしてまた過去の激流に流され溺れそうになる庶民、にもかかわらず生き延びる庶民の力強さ、こうしたことが重層的に観る者に突き刺さったことは記憶に新しい。

いま衆院選挙戦のさなかだが、歴史修正主義者のクズどもが、過去の日本の歴史のみならず、自民党の安倍政権の腐敗の歴史をも洗い流そうとしている今、キュアロン監督の映画『ローマ』は、人ごとではないのだが、もうひとつオリンピックの年、オリンピックがらみの事件でもあった暗黒の歴史を扱ったのが『ダークレイン』なのである。

『ダークレイン』は、冒頭から1968年10月2日の出来事と明示される。そして映画のなかでも、「トラテロルコ」という名が何度も言及される。「トラテロルコの虐殺」(La masacre de Tlatelolco)と呼ばれる1968年10月2日にメキシコシティのトラテロルコ地区におけるラス・トレス・クルトゥラレス広場(三文化広場)で起こった軍と警察による学生と民間人の大虐殺事件の、まさにその夜にこの映画の事件は起こる。

このことに敏感に反応した日本のレヴューアーもいるが、こうしたレヴューアーは、たいていネトウヨで、政治的言及はこの映画にそぐわないと否定的なコメントしか残していないのだが、メキシコ人なら知らぬものがないこの日(実際メキシコにおいて10月2日は、いまでは「国民哀悼の日」となっている)を映画における出来事の日に設定したことについては、制作者の並ならぬ決意とメッセージ性がうかがえる。

といえ、個性の喪失という映画のテーマと付き合わせてみると、この映画を製作した側には、過去の事件に対する反省はあるかもしれないが(とはいえ上から目線の反省なのだが)、憤りや悲しみにもとづく政治的な批判性は希薄だといわねばらないない。むしろ、その逆かもしれない。

学生運動や反政府・反体制運動における抗議行動を、集団行動の優先ならびに個の喪失として批判する体制側の意見があったこと(それはいまもある)から、個性喪失への批判的眼差しは容易に想像はつく。実際、抗議運動に参加する人間は悪辣な指導者に騙されているか、もしくは脅されて参加しているにすぎず、また彼らひとりひとりは、個性を欠いた、あるいは放棄した無責任な存在であり、顔を隠して乱暴狼藉を働く無法者にすぎないという意見は、日本でも学生運動はなやかなりし頃には多かった。ヘルメットをかぶり手ぬぐいで顔の半分をマスクのように覆った抗議運動参加者たちに、顔を見せろと体制側の応援団は罵声を浴びせかけた。

しかし顔をみせたら最後、個人情報が徹底的にさらされ弾圧の標的にさらされるのであって、悪辣な体制側の抗議運動潰しには集団としてぶつかるほかないだろう。映画『Vフォーヴェンデッタ』(ジェームズ・マクティーグ監督、2005)では、全体主義化した近未来社会においてガイ・フォークスの仮面と装束がロンドン市民に大量に配られ、ガイ・フォークス化した市民たちが、顔と個性のない集団というか、全員がガイ・フォークスとなった集団としてが抗議運動に参加し、それが暴動へと発展し全体主義政権を倒すことになった(ロンドンの議事堂が爆破されて崩壊する映像は、ついにガイ・フォークスの夢がかなったと私は感動すら覚えた)。

全体主義政権が最も恐れることは国民が個性をなくして全体化することで政権を打倒することである。全体主義政権ほど国民の個性化を愛する政権はない。国民を個性化すること、つまり弱体化することで政権は安定するのだから。

こう考えれば『ダークレイン』に登場する少年は、たとえばディックの『火星のタイム・スリップ』に登場する自閉症の少年のように、恐怖の未来におびえ真実を見抜く超能力にめぐまれた、どこか聖なる輝きを帯びた不幸な天使的な存在ではなく、圧倒的に政権よりの保守的右翼少年なのだ(ネトウヨ予備軍みたいなものである)。ディックの小説に登場する少年には、どこか天使的な輝きがあるのだが、この映画の少年には悪魔的なものしかない。あるいは無邪気なるがゆえに悪を恐れぬ悪魔性とでもいうべきか。

そしてまた無個性という大きなテーマが最終的にみえてくると、この映画において、無個性はたんに容貌の問題ではなく、精神とか認識の問題とも関係するようになる。

映画に登場する医学生でトラテロルコに行かねばならないとあせっている男は、結局、会う者たちすべてを政府の回し者としてしかみない一面的なパラノイア的な認識能力しかなく、知的部分においても画一的な認識から飛び出てみることができない愚かさを示している、あるいは個性喪失をこうむっている。どうやらこの学生運動家の医学生が、最初に顔を失うらしいことと、あるいは同じ顔のモデルになっていること(ガイ・フォークスの仮面のように)と、彼の認識能力の画一性とは無関係ではないだろう。

いっぽう恐怖の一夜がすぎて、事件の現場検証をする警察官たちは、事件を、学生運動家のテロリスト的暴挙として片付けようとする。これも学生運動家と同一のパラノイア的画一的個別性無視の認識でしかない。この警察官たちに真相を語っても、彼らは聞く耳をもたないだろう。

こうしたことを考慮すれば、トラテロルコ虐殺事件は、すべて政府の陰謀としかみない学生や反体制的市民たちの画一的パラノイア的世界観と、すべてテロリストの政府転覆の陰謀としかみない全体主義政権の画一的パラノイア的世界観のぶつかり合いの結果生じたのであり、これは無個性的認識と無個性的認識のぶつかり合いでしかない。真実は、むしろオタクの幻想世界にある。無個性を見抜く個性的な眼差しによって、政治的衝突(無個性と無個性の衝突)を超越できる。

この監督は、10月2日の犠牲者を哀悼する気持ちはまったくないらしい。両論併記(中立性の主張)あるいは喧嘩両成敗的な超越的姿勢が、両論超越というかたちの体制擁護であることはこの映画監督には思いもおよばぬことらしい。あるいは、最初からそのつもりか。

そもそも喧嘩両成敗的な中立姿勢は、トラテロルコ虐殺事件当時からあった。政府は自己正当化に走り、メディアも過激な学生運動家の暴挙を非難、まさに犠牲者を責めるという卑劣な言論を展開し、自分たちも誤ったが、学生や市民も悪いという恥さらしな両論併記へと走っていた。オリンピックへの投資が政府の腐敗の大きな要因のひとつであるにもかかわらず、メキシコのメディアも、オリンピックを非難しないという政府よりの姿勢を示して、日本のメディアと同様の偏向ぶりに徹したのだが、こうした問題に対する解答が両論併記的喧嘩両成敗というのでは、犠牲者は二度も三度も殺されたようなののである。この映画監督が、ただの中立を気取る文学オタクあるいは映画オタクを隠れ蓑にして、反政府勢力をいまなお非難する右翼・政府応援団でないのなら、その証拠をほんとにみせてもらいたい。また応援団なら、できればオタクの宇宙のなかで、外に出られないまま、朽ち果ててもらいたい。そう願うのみである。

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2021年10月18日

『パラドクス』2

前回のネタバレのあらすじのなかでは紹介していなかったが、エンドクレジットの前に、登場人物たちの、ありえたかもしれないその後の人生の断片が、フラッシュフォーワード的に映し出されるのだが、最初にみたとき、誰が誰だかわからず、いい加減に映画をみていたことを痛感し、あらためて最初から見直すことになった。

まあ外国人の顔がみんな同じにみえてしまって困るというのは昭和の老人みたいで自分で自分を恥じたが、しかし同じ監督の次回作『ダークレイン』をみると、顔がなんとなく区別しにくいのは、案外意図的だったのかもしれないと、自分を恥じるのをやめた。

それはともかく、ありえたかもしれない人生は、映画『パラドクス』の本編において登場人物たちを襲う出来事に比べたら、異様なところがなく平凡な人生かもしれないが、幸せな人生である。ただロベルトだけは、本編でも悲惨な人生だったが、もうひとつの人生でも破滅しているというのは哀れすぎる。

なおロベルトは本編では10歳のとき出来事に襲われて35年間すごしたあと、再び出来事に襲われて35年経過するので、80歳で息をひきとることになるのだが、もう一つの人生では出来事が起こらなかったらという設定となる。

ただしもう一つの人生、ありえたかもしれない人生というのは、この映画の設定では、あるはスペイン語が分からないので、字幕が本当に正しいのかどうか判定できないのだが、正しいとしたら、もう一つの人生のほうが現実であって、無限につづく階段に閉じ込められたり、無限にループする道路に閉じ込められたりする世界は、嘘の世界ということになる。

ということは基本的にハッピーなもうひとつの人生が現実の人生であるというのなら、思い出されるのは、ライプニッツの最善説である。つまり神のつくったこの世界は、さまざまな他の可能な世界のなかで、最善・最高のものであるという考え方。もちろん私たちが生きているこの世界も最善の世界である。何を狂ったことをと、批判されても当然である。この世界のどこか最善なのだ、と。

ただしライプニッツは、もうひとつ弁神論というのを展開していて、この世に悪があっても、それは神の配慮によるもので、私たちが悪を克服したり駆逐したりして更なる高次の存在へと進化をとげる契機となるように神が仕組まれたということになる。

ただしこの最善説は、もうひとつのことを考えていない。つまりこの世を最善なものとするとき、最善ではない世界はどうなったのかという問題。もちろん却下されたり廃棄されたりした世界というのはどうなったのかという問題なのだが、最善ではない世界というのは、もちろん思弁的なもの、あくまでも実現しなかった可能性であって、それを実在したかのように扱うことはできないのだが、またライプニッツの時代には、それでもよかったのだが、SFによる異世界の創造あるいはパラレルワールド的な発想によって、いまの世界が最善であるとするなら、それは最善はではない無限のパラレルワールドの廃墟の上の成立しているというイメージが生まれてくる。

これは最善説の裏面というか暗示面だが、ここで発想を変えて、私たちがいま閉じ込められている世界が、可能なパラレルワールドのなかで最悪の世界であるという最悪説というものを措定する(実際、最善説よりも、この最悪説のほうが説得力がある――私たちの世界の腐敗の現実をみるにつけても)。そしてこの最悪説の裏面という暗示面は何かと考えてみると、おそらくそれは明るい希望である。つまり、いまのこの世界が最悪なら、これ以上は悪くならない、だからこの世界は、よくなるしかなく、今は最低でも明るい未来が待っているわけだから。もちろん、『リア王』のエドガーが語ったように、本当の最悪をみるまでは、これが最悪というなともいえる――最悪の最悪があるかもしれないという不安は払拭できないのだが。

ならば最善説の裏面とは、最善が実現するために棄てられた無数の可能性である。無限につづく二位以下の世界。採用されなかった世界の無限の廃墟のうえに最善世界が構築されているという、否定性の闇のなかに囲繞された最善世界。最善説の世界に生きる私たちは、たとえいうなら周囲に広がる飢えに苦しむ貧民層をみながら暮らしている一握りの富裕層みたいなものである。まともな人間なら神経がおかしくなる。

しかも最善説の世界とは、問題があって実現しなかった否定的世界は、問題があるものとしてそのまま放置され維持されなければならない。富裕層が貧民層を助け幸せにすることは、たとえ富裕層の側がそれを望んでもできない。なぜなら貧民層がなくなれば富裕層もなくなるからである。格差社会の怖いところは、弁別的差異を形成する一項として貧民層が存在し、弁別的差異の成立のためには貧民層は維持されることである。

個人的心理的レベルで考えると、いまの私たちが生きているこの世界は最善の世界かもしれない――たとえ個人的にみてさまざまな問題があるにしても。そしていまのこのささやかな成功と幸福の人生を実現したのは、私の努力ではなくて、破滅して私の負の人生の集積なのである。心象風景としては、私のささやかな幸福の周囲に、ありえたかもしれない私の成功の人生ではなく、ありえたかもしれない私の失敗の人生の瓦礫が無限のかなたにまで広がっているのである。そして恐ろしいのは、この広がりは私自身が求めこしらえたものでもある。私がこしらえたのは私の人生は、私がこしらえ、しかもつねに維持している無限の廃墟によってはじめて完成あるいは最善のものとなる。

あるいは別の心象風景では、いまの私とは別人の私が、無限にループする階段室に閉じ込められ、無限につづく荒野の一本道で生かされつづけている――私が死ぬまでは。あるいはまた別人の私が、永遠の晴天の午後がつづく荒野の一本道から出られなくなっている。おそらく別人の私は、私と人生をともにしている。私が死ぬまで、彼らは私の心象風景のなかに閉じ込められているのである。

こう考えると、いくらでも、いろいろなかたちで解釈できる映画『パラドクス』の空間的にループした迷宮世界とそこに閉じ込められた人物たちの世界に対してひとつの(決定的ではないが)有力な解釈を提供できる。

ただし、35年周期の世界から解放されても、ふたたび35周年の周期の世界に閉じ込められてしまう人物たちの生き様をみていると、そしてすでに前回でも触れた、閉じ込められても食料は無限に供給されて生かされるという監獄での囚人状態を思うに付けても、出所しても、すぐにまた収監される犯罪者のイメージあるいは辞めてもすぐに手をだしてしまうドラッグのイメージが、人物たちの運命と強く結びつく。

しかし、彼らの運命を常習的犯罪者とか薬物依存症患者のメタファーとだけ決めつけるのはやや軽薄すぎて、むしろ常習的犯罪者あるいは薬物依存症患者そのものがメタファーとなっている格差社会における貧困層を連想すべきかもしれない。そうなるとこの映画における閉じ込められる人々の運命は格差社会における貧困層のありようそのものといえるかもしれない。
ただし閉じ込められる前の彼らは、貧困層ではない。富裕層と貧困層の中間層ともいえる人びとであるが、そうであるがゆえにワンランク下への転落/追放が、ありえない可能性どころか身近な可能性そのものとなる。そして……

そしてグローバル化した世界において、先進国と途上国との格差がなくなるどころか格差がひろがる、あるいは途上国は、途上国状態あるいは低開発状態にとどめおかれ、永遠の現在に収監されるのと同様に、格差社会において貧困層は、貧困層として生かされることで富裕層の永遠の引き立て役となって生かされるのである。しかもこの格差社会における貧困層は、成り上がることはできないまま破滅してゆくのだが、生かさず殺さず状態の彼らが死滅することはない。彼らが消滅しても、中間層という予備軍がある。

結局、ワクチンによる遺伝子操作による人工調整という陰謀説(のひとつ)、あるいは親ガチャという、どの親に生まれるかで社会的ステータスが決まるという考え方も、不幸を維持することで成立する格差社会を照らす内部の鏡のような機能をはたしているというほかはない(親ガチャは、親が悪いわけではない――そういう仕組みをつくった社会が悪いのであって、親は変えられないが社会は変えられる。世界に冠たる劣等民族である日本人に生まれたことを嘆いてもしょうがない。日本人を変えることはできる)。

映画『パラドクス』の場面のひとつ、ループして終わりのない階段室の場面は、実際の建物の階段室を使って撮影されたとのこと。幸い、撮影期間中、住民あるいは従業員が、その階段を使うことはなかったようだ。建物には空き部屋が多く(それゆえ撮影も許可された)、居住者が少なく彼らが階段を利用しなかったということらしい。

この階段室は、ある意味、そこにあることはわかっていても誰も利用しない影の世界である。個人的レベルでいえば、あまり思い出したくない負の領域である。足を踏み入れたくない、踏み入れる必要もない無意識的領域である。社会的にいえば、ここは必要性があって維持されているものであっても、利用されたり顧みられたりすることがないゆえに、そこで何が行われているか時々不安になる闇の領域である――ひょっとして利用されない階段室にホームレスが住み着いてもおかしくないのだから。ロケ現場そのものが、この映画にとっては社会的意味をおびているのである。

posted by ohashi at 21:08| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2021年10月12日

『パラドクス』

原題 El Incidente 英語題目 The Incident
メキシコ映画 2015年メキシコ公開 2016年日本公開 101分
イサーク・エスバン監督

Amazonにあった以下のレヴューアーのコメントが、この映画のありようを、それなりに伝えている。とはいえ最初の3行は完全にオバカ・コメントなのだが。

5つ星のうち5.0  気の滅入る悪夢と伏線回収の秀逸さ。
2016年11月22日に日本でレビュー済み

人間ってさ。ずっと同じ場所にとどまり続けるっては、精神的にしんどいよね。
まして35年も同じ空間から出ることもできず、
たとえ食料と水は確保されてても、精神的にしんどいよね。

0幕)冒頭の老いたウェディング姿の老婆 →???
1幕)非常階段に閉じ込められた3人 →35年経過
2幕)ハイウェイに閉じ込められた4人 →35年経過

0幕で始まり、その後、交互に展開する1幕2幕の出来事が、
最期の0幕とむずびつくとき、なんとも言えない脳内での割符合い感が、非常に快感でたまらないです。
とにかく完成度に関しては近年稀に見る傑作ですが、後半は注意力を怠ると、何が何だかわからなくなってしまいます。
ポップコーンとコーラを片手に見る映画ではないですね。二度見おすすめです。色々伏線が散りばめられていますので。

CUBE、インターステラ、バタフライエフェクト、シャッターアイランド、SAWなど、
色々な作品からのインスパイアを受けた感じはします。ジャンルではSFコーナーにありましたから、ホラーではないです。

100分足らずの映画ですが、まる一日見続けたような脱力感が残りました。


「人間ってさ。ずっと同じ場所にとどまり続けるっては、精神的にしんどいよね。まして35年も同じ空間から出ることもできず、たとえ食料と水は確保されてても、精神的にしんどいよね。」――このコロナ禍でも自粛できない人間が多いなか、35年も閉じ込められて生きられるわけがない。そもそも水と食べ者が自動的に出てくる閉じられた空間などがほんとうにあると思っているのがおかしい。当然、それは、メタフォリカルな、あるいはアレゴリカルな空間であることは、バカでもわかるわい。たとえばこれは35年懲役刑に服する囚人の心的風景かもしれない。あるいはさらに……。

もどかしいので、ここで一挙にネタバレをして、この作品についてコメントしておく。この映画をみたあとで、以下のネタバレ・コメントを読んでほしい。なお、この映画については、考えられるかぎりの、その内容を記述することにするが、伏線を全部回収しきれてないことはわかっている。また、メタフォリカル・アレゴリカルな意味については、あくまでも個人的な一解釈にすぎない。

0幕)冒頭の老いたウェディング姿の老婆 →???
1幕)非常階段に閉じ込められた3人 →35年経過
2幕)ハイウェイに閉じ込められた4人 →35年経過

これを借りよう。

0.
映画の冒頭、動いているエスカレーターが映し出される。そのエスカレーターは、ウェディング・ドレス姿で横たわっている老いた女性を運んでいる。女性の手には赤い手帳が握られている。赤い手帳は重要。

次に結婚式の衣裳の若い男女が抱き合いながらホテルのエレベーターの前のところにくる。このエレベーターに乗るのかどうかわからないまま、つぎの場面へ。

1-1.
カルロスが赤いリュックを背負って自分の住居(コントミニアムの一室)に帰ってくる。帰宅すると弟のオリバーがうろたえている。弟は薬物の売買を刑事に自白して困っている。そこに待ち伏せしていたマルコ刑事が登場し、銃を向けて、二人を逮捕しようとするが、二人はマルコを倒して、階段室に逃げ、9階から1階へと駆け降りる。

後を追うマルコ刑事は、逃げる兄弟に発砲し、銃弾は兄のカルロスに命中する。ここまで超現実的なことは起こらない。すると爆発音が聞こえる。音だけ。あとでわかるが、この爆発音が出来事のはじまりの合図となる。兄弟とマルコ刑事は、出口のない階段室に閉じ込められていることを知る。9階から1階へ降りても、また9階になる。マルコ刑事が鍵を階段から下へと落とすと、鍵が階段の上から落ちてくる【これは当初、シナリオにはないアドリブ的な展開だったようだが、実に印象的な場面となった】。これで完全な出口のないループ空間に閉じ込められたことがわかる。【なおマルコ刑事は、ポケットのなかに小さなトランプカードが1枚入っていることを発見し、それを階段に捨てるのだが、この小さなトランプカードは、マルコ刑事の真のアイデンティティを暗示している。】

またさらに不思議なことに、階段室にあるベンダーは、そこに入っているポットボトルの水とサンドイッチなどが常に補充されて出てくることがあとでわかる。兄カルロスは死ぬが、兄の持ち物だった赤いリュックにあった物、フィリップ・K・ディックのSF『時は乱れた』などを含む小物も、定期的に同じものが出てくることがあとでわかる。

2-1.
場面はバカンスに出かける家族の出発光景へとかわる。ダニエル10歳とカミラの兄妹は、母サンドラと、母の新しい夫ロベルトの赤い車で、バカンスに出かける(バカンス先にはサンドラの別れた夫がいるか、別れた夫が経営するホテルらしい)。ダニエルはぐずぐずしているが、せかされて車に乗る。なおダニエルはこのとき、小さなトランプのセットから数枚引き抜いてポケットに入れる【小さなトランプカード】。またハムスターの籠もいっしょにもってゆく。

ダニエラの妹カミラはぜんそくもちのアレルギー体質だが、無神経な義父ロベルトは彼女に果物ジュースを飲ませ、それがもとで彼女が重度のアレルギー反応を起こす。さらにロベルトはうっかりしてカミラの吸引器を壊し【これはほんとうにうっかりなのか疑問。なにか意図的に壊したようにも見える。この無自覚な悪意は、すでに階段室でカルロスを射殺したマルコ刑事からもうかがえた。】、予備の吸引器を兄のダニエルはもってくるの忘れたために、母サンドラは自分の家に引き返すようロベルトに命ずる。苦しむカミラを乗せた車は、もときた道を自宅へともどる。

ここから異世界に入る。車はどこまでいっても同じところにもどってくる。目的地のホテルにも、また自宅にも帰ることができないまま、荒野の一本道から抜け出ることができない。途中で立ち寄ったガソリンスタンドか、車の運転中だったが忘れてしまったが、謎の爆発音がする。出来事が始まったのである。

カミラは死に。兄のダニエルと、発狂したかのような母サンドラ、そしてサンドラの新しい夫ロベルトが荒野の一本道に取り残される。

なおこの一家が目的地にむかうとき、車のなかに竹の断片がころがっている。この竹はなんだとロベルトかサンドラが、車外にそれを捨てる。捨てられた竹の断片が道路に転がるところをカメラは大写しにする。

1-2
マルコ刑事と、オリバーとが抜け出せなくなった階段室に映画はもどる。すると殺風景でなにもなかった階段室の壁には所狭しと落書きが描かれ、階段や踊り場はごみであふれている。あれから35年経過したことがわかる。

昼も夜もなく、ずっと電灯がついている階段室は、上にも下にも無限に続いている。こんなところが現実にあるわけがない。

またこの映画のなかでループは35年周期なのであって、35年を経たいま、新たなフェーズに入ろうとしている。なおこの階段室に閉じ込められた二人が生きていられるのは、ペットボトルの水とサンドイッチが無限に供給されるからである。糞尿はペットボトルのなかにいれて階段や踊り場に放置。上下に無限につづいているから糞尿入りのペットボトルやゴミで足の踏み場もなくなることはない。とはいえ階段室は、ほぼごみ屋敷化してはいるが(正確にいうと上層階(無限につづくというかループしているので、上も下もないのだが)はオリバーの居住区で、いろいろな物品が整理されすべてが清潔にたもたれているが、下層階は高齢化したマルコ刑事の居住区で、ほぼごみ屋敷である)。

さらにマルコ刑事は足腰もたたぬほどよぼよぼになっているが、オリバー(弟)のほうは、階段を上下する運動を怠らず、シャワー(ペットボトルに小さな穴をあける)も欠かさず体調を管理していて元気な青年のままである。なおふたりは、死んだカルロスの骨を壁に飾り、それを聖なるものとして崇拝している。

【階段室がなにか地獄のイメージになってしまっているのは、へたをすると映画『ドント・ゴーダウン』(2000)(原題は逆にThe AscentあるいはThe Stairs)の影響かもしれないのだが。】

2-2
荒野の一本道に閉じ込められた家族にも35年経過する。ここでは時間がたっても天候に変化はなく、昼夜の別なく太陽が輝いている。彼らが生きていられるのは、途中にあったガソリンスタンドの売店(コンビニのようなもの)がつねにスナック菓子や飲み物、そして作業着や生活必需品などを提供するからである。永遠の昼間。夜のない世界。抜け出せない荒野。35年たった今、ここでも別のフェーズへの移行がはじまろうとしている。

2-3
ロベルトの告白:昼間の荒野の世界で、老いたロベルトが、死の間際に、義理の息子ダニエルに自分の正体を告げ、忠告を与えることになる。実は自分の名はロベルトではなくルーベンといい、1949年、10歳の頃、ボーイスカウトの活動のようなもので、竹のいかだに乗って、教官と仲間のフアンと自分の三人で川を移動していたところ、教官の不注意で、仲間のフアンが死んでしまった。そしてそれ以後35年間、教官と二人でいかだの上でさまようことになった、と【車のなかに竹の断片があったのも、ルーベン/ロベルトがすでに35年間、いかだ生活をしていたことから来ていたのである】。

35年目、いかだから解放されたルーベンは、ロベルトという新しいアイデンティティを身につけ、赤い車で、サンドラ母、ダニエル(10歳)とカミラの兄妹を拾い、家族を形成することになった。ところが自分の不注意(あらかじめ仕組まれた悪意?)でカミラを死においやったので、出来事がはじまり、ふたたび35年間、この荒野の一本道に閉じ込められることになった。だがいますべてを思い出したロベルトは、義理の息子ダニエルに、こうアドヴァイスする。パトロール・カーには乗るな、と。パトロール・カーに乗ってしまうと自分の名前すら忘れ、別人格になってしまうから、と。

ロベルトの死後、ダニエルの前に、忽然とパトロール・カーがあらわれる。最初は忠告通り、乗ることはしないが、荒野での孤独な生活に耐えかね、パトロール・カーに乗り込んでしまう。車内のシートには警察官のバッジと装備品。そして赤い手帳がある。この赤い手帳は、ダニエルの新しいアイデンティティを記し、行動の方針なり、行動の展開などを記した台本のようなものとなる(死んだロベルトも同じデザインの赤い手帳をもっていた)。

パトロール・カーにのって、いよいよ荒野から抜け出ることができたダニエルだが、警察車両に乗った瞬間から彼は自分の名前を忘れ、新しいマルコ刑事というアイデンティティをみにつけることになる。

1-3
マルコ刑事の告白 荒野の一本道と、階段室での出来事は同時進行しているのだが、時間系列を整理すると

1)1949年ルーベン10歳、仲間が死んだため以後、35年間、ルーベンはいかだで過ごす。
2)1984年 ルーベンいかだから解放。ロベルトとなり、サンドラ母子(ダニエルとカミラ)を拾う。このときダニエル10歳。
3)1984年から2019年まで、ロベルト、サンドラ、ダニエル、荒野で過ごす。
4)2019年ロベルト死亡(サンドラはすでに死亡)。ダニエル、マルコ刑事となる。
5)2019年から2044年まで、マルコ刑事、オリバーと階段室ですごす。
6)2044年~ マルコ刑事/ダニエル死亡。オリバー、ベルボーイのカールとなる。


こうなるのだが、それにしても、3)の35年間と5)の35年間が映画のなかで同時進行なのは気になる。そのため2019年にダニエル/マルコは、1984年にタイムスリップしたようにもみえる。ただし、上記のように5)を2019年から2044年と設定しても、不具合はないのだが。

【なお(3)と(5)のそれぞれにおいて他を暗示するイメージがある。ダニエルが自宅で弾いているピアノの横の壁には、エッシャーの複雑にからみあう階段の絵が掲げてある。最初はピラネージの階段の絵かとも思ったが、二度目にみたらエッシャーだった。しかしピラネージの階段牢獄のイメージのほうがぴったりくるかもしれない。
 また階段室の壁の落書きには、一本道の落書きも存在していた。】

階段室での35年の終わりには老いたマルコ刑事(実はダニエル)は、オリバーに向かって、自分の正体をあかす。自分には妻と娘が3人いると話してきたが、そんなものはいない、と。これは乗り込んだパトロール・カーのなかにあった刑事の財布に妻と娘の写真があり、おそらく赤い手帳にも家族に関する情報があって、ダニエル/マルコは、そのように自分のアイデンティティを捏造したのである。あるいは完全にそう思い込むことになったが、35年たって真実にめざめたともいえる。

ダニエル/マルコ刑事は、最後に、オリバーに、自分には妻も娘もおらず、自分の名前はマルコではなくダニエルであると告げる。そうしてエレベーターには乗るなとオリバーに忠告して死ぬ。

忽然とドアが開いたエレベーターに、オリバーは忠告どおり乗ろうとしないのだが、階段室での孤独な生活に耐えかねてエレベーターに乗ってしまう。

エレベーター内にはベルボーイの制服と帽子、そして赤い手帳(!)が置いてある。ベルボーイとなったオリバーはカールと名乗ることになる。また赤い手帳には今後の行動指針や行動の内容が書かれているようで、まさに台本に近い。

0-2
と、そこへ結婚式をあげたばかりらしい若い新郎新婦がいちゃいちゃしながら入ってくる。カール/オリバーはベルボーイらしくふるまうのだが、また、蜂が一匹入ったアクリルの小箱をひそかに用意している(おそらく赤い手帳に書かれてある指示に従って)。また新婚夫婦とともに荷物をもってホテルの廊下に降り立ったカール/オリバーは、意味もなく荷物を下に落とす【とはいえほんとうに無意識の無償の行為かといもいえなくて、悪意がこもっているようにも思われる】。荷物を落とすなと叱りつつ荷物に手を伸ばした新郎は蜂に刺される【カール/オリバーが仕込んでおいた蜂】。アレルギーで蜂に刺されると死ぬかもしれないという新郎は、荷物の鞄にあった薬瓶が割れてしまったために重篤な状態に陥る……

と、ここで映画が終わる。


出来事というのは、3人か4人のグループにおいて、一人の不注意あるいは一人の悪意によって、仲間のひとりが死んでしまうと、死に追いやった者と、残りの者たちは、特定の空間(無限に広がる川、終わりになき階段、無限につづく一本道、動きつづけるエスカレーター、いうなれば一直線の迷宮【線路のイメージも出てくる】)にとらわれて35年すごすことになる。35年目に死をもたらした者(いいかえれば赤い手帳ももっている者)は、若い者に忠告を残して死ぬ。だがその忠告は守れるようなものではなく、むしろ、逆に、若い世代を罠に導くような忠告である。忠告を守らなかった若い者は、赤い手帳を与えられ、みずから人に死をもたらすものとなって35年間、閉じこめられ生活を送ることになる。

この35年周期の閉鎖空間への収監は、悪意があってもなくても、人を殺したときに発動する事態である。そのはじまりは謎の爆発音によって知らされる。

【チェーホフの戯曲『桜の園』では、途中で謎の崩壊音が何度も聞こえる。この謎の音が、この戯曲に現代演劇の評価を与えることになったのだが、それと同じくらい、この映画における爆発音(ただしそんなに大きな音ではない)の謎めいたところ無気味さは特筆に値する。】

0-3
なおここで、映画冒頭のエスカレーターで運ばれていく老いた花嫁衣装の女は、ふつうに考えると、カール/オリバーに夫を殺された花嫁のなれのはての姿であるといえる。しかし、彼女は赤い手帳をもっている。赤い手帳をもっているのは悪意ある加害者であり、この加害者は35年の閉鎖生活を経ることになる。となると、夫を殺したカール/オリバーとともに35年過ごした彼女は、今度は、カール/オリバーによって、忠告をあたえられ、その忠告を守らなかったがゆえに、赤い手帳を手に入れ、今度は加害者となる。そのため加害者となった彼女は35年の閉鎖生活をすごすことになり、20歳で結婚してから、カール/オリバーとともに35年、そして今度が加害者となって35年、合計で20年+70年で、彼女は90歳代である。それなら彼女の異様な年の取り方にも納得がいく。

ただし、彼女の老衰した姿は、単純計算すると22世紀における姿なのだが、しかし、この年老いた女性は、ひょっとしたらダニエルの祖母かもしれないという可能性が残る(祖母への言及は映画のなかにある)。階段室と荒野の一本道の世界が同時進行であったように、この映画の世界では、時はその関節がはずれている。一本道、無限軌道の無間地獄のイメージが強いのだが、時系列は整合性を失い乱れているのかもしれない。

【ああ、それにしてもフィリップ・K・ディックのSF小説『時は乱れて』は、サンリオSF文庫の初期の刊行物であり、なつかしくて、涙が出てきそうなのだが、Time Out of Jointがシェイクスピアの『ハムレット』にあるフレーズであることを知るようになってからは、小説の内容を忘れてしまった。いかにも初期ディック風のSFだったという記憶はあるのだが。】


映画のほんとうの最後、エンドクレジットの最後の映像は、籠から出てゆくハムスターの姿である。踊り車のなかにはいってひたすら駈けるしかなかった、ある意味、閉じ込められているこの存在(ハムスター)は、最後には、運命から逃れることができた。だが、映画の登場人物は、あるいは人間は逃れることができるのだろうか。

つづく
posted by ohashi at 11:14| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2021年10月11日

『タイム・ループ七回殺された男』

タイム・ループ物の映画について、無名の映画ばかりで恐縮だが、面白かったので紹介したい。ネタバレを含む。

原題:Inkarnacija ; 英語タイトル Incarnation
2016年製作/86分/セルビア映画。セルビア語

映画.comの解説

解説
記憶喪失の青年が謎の集団に殺害される場面を何度も繰り返しながら真相に迫っていく姿を描いたセルビア製サスペンススリラー。ある日突然、街角のベンチで目を覚ました青年。記憶を失い自分の名前さえわからない彼は、突如として現われた白いマスク姿の男たちに射殺されてしまう。次の瞬間、全く同じ状況で目を覚ました彼は、再び白マスクの男たちに追われて殺害される。さらに同じ場面を繰り返す内に、青年の脳裏に家族を殺された少年のイメージが浮かびはじめ……。WOWOWでは「タイム・ループ」のタイトルで放映。


一見すると謎が謎を呼ぶ展開で引き込まれつつ、最後まで見るとなんじゃこれはと思う視聴者が多いようで、評価は高くない。しかし評価する人も多い。

AMAZONのレヴューアーは、

5つ星のうち5.0  消化不良系ですが良い出来です
2018年6月24日に日本でレビュー済み
謎の部分が残るのでどうしてもモヤモヤが残ります。そこを少し考察するのもおつなものではないですか。
何よりラストまでがよく出来ていて面白いです。引き込まれるタイプの作風。
消化不良系は駄作ばかりですがこの映画は珍しいです。
多分ロケーションがいいんだと思います。もちろん演出も。
特に良いと思ったのは主人公のモノローグでした。何とも言えない案配の絶妙さでなかなかないです。
どこか文学的でありながら抑制が利いていて機械的といいますか。
厭世的でありながら希望も持ってるような、聞いていて気持ちが良かったです。
吹き替えで見たので声優さんの口調もぴったりハマってました。
モノローグがよくなければ★3ですね。


ちょっとずれているようなコメントだが、しかし、もやもやしたものが残っても、映画そのものよさから充分に鑑賞にたえる作品であることがわかる。

と同時に、ネット上には、明確に解釈したうえで評価しているサイトもある。私も自分なりにこうだと思ってみていたので、もやもやは残っていない。むしろ、セルビアの街並みの良さと、現地の空気感に酔いつつも、ループ物の設定をうまく活かした佳作であると思う。

ただ、その前に、おばかサイトを引用して、逆にこの映画の理解を深めたい。

感想
予告はよかったんだよなぁ。でも、本編は退屈でした。何だったのかよくわからない作品だ。映画作品には確実にメッセージがあるべきとか、訴えたい何かがあるべきとは思わない。

何の意味も感じないけど、映像美に惹かれるとか、役者に惚れ惚れしちゃうとか、音楽の使い方がいいとか。観方は人それぞれなんで、その人にとって楽しければいいのだ。

で、俺は個人的に時間移動系の映画が好きなので、今作を借りて鑑賞したのだが、その結果として得た感想が冒頭のものである。残念。


残念なのは、あんたの頭。その知性と感性の欠如はなんとかしたほうがいい。だいじょうぶ、訓練すればよくなるから。

同じレヴューアーは次のようなつっこみどころを指摘してる。

死にたいのに何でヒント残すんだよ

オチを知ったとき、主人公自身が自分を殺そうとしてたってことを知ったとき、
オイオイオイオイ
と思うどころか、軽く怒りを感じてしまった。だって、自分の記憶を消して、仮面たちに自分殺しを頼むのはいいとしよう。でも、じゃあ、あのループは何なんだよ。何でそんなことが、どういう原理で起きてるんだよ。

主人公は記憶を消すとあのループが起こるのを知ってたのか? 知ってなくても別にいい。そんなこと事前に知れるわけないんだから。でもおかしいのは、死にたいのに何で、記憶を消した後の自分が生き残りを促すようなヒントを残すんだよ。意味不明。

どうやって主人公を特定してたんだ?
あと、何度目かのループ後、主人公はまだ試していない、最後の一本の道を行く決意をする。そこは、4人の仮面たちが向かってくる方向だ。主人公は意を決して、そちらに向かっていく。いろいろ隠れたりするのもあってのなのか、仮面たちは主人公に気付かない。で、主人公は「そうか、奴らは俺の顔を知らない」ということに気付くのである。
オイオイオイオイ
そうだとしたら、一番最初の殺しとか、奴らはどうやってお前を特定したんだよ。アホか。顔を知らないんなら、殺せないじゃねーか。そのくせにお前、今まで何回射殺されてんだよ。ボケ、カス、イモ。


オイオイオイオイ、ボケ、カス、イモ――こういう連中は、頭悪いのに、人をののしるときの威勢の良さはけっこう天下一品で、正直、私にはうらやましいと思うところもあるのだが、それはともかく。

同じことは、このレヴューアーにもはねかえってくる。

以下ネタバレ。

主人公の青年は、六辻の真ん中にあるベンチで目覚めると、自分の名前すら思い出せない記憶喪失に陥っていることがわかる。と、そのとき白い仮面をつけた謎の殺し屋集団に銃撃されあえなく命を落とす。5,6分のシークエンス。と次の瞬間、ベンチでまた目覚めている。

主人公は白い仮面集団に襲撃におびえつつ、自分が誰なのかを必死で探るのだが、つねに白仮面集団に銃殺されて探求は一向に前進しないまま、何度もベンチで目覚めることになる。

ここから物語の展開をばらすことになるが、青年は、自分探しをしつつ、また少しずつ記憶ももどってきて、真相にたどりつく

実は、青年自身、白い仮面の殺し屋集団のひとり(もしかするとボスかそれに近い存在)だが、幼い子供までも射殺することになり、殺人に嫌気がさし、殺し屋集団から身を引くことになる。

そのために、まず白い仮面を苦労してはずす(なかなかはずれないようになっている)。そして医師に頼んで自分の記憶を消してもらうことにする。また、このとき白仮面集団に自分を殺すように殺人依頼をする。

先の引用で、どうして殺人集団に主人公がターゲットであることがわかったのかと疑問が呈されていたが、殺人集団は常時仮面をつけていて素顔は知らないらしい。またまさかメンバーの一人が自分を殺すよう依頼するとは考えないので、困惑すること必至なのだが、ベンチにいる男を殺す、そのベンチから逃げ出した男を殺すということなのだろう。

ただ、これはささいな問題で、大きな問題は、なぜ殺されると再びベンチで目覚めるのか。またなぜ自分の記憶を消しながら、自分が誰であるかの手がかりを残したのかということである。

いずれも説明されていないので、先の引用のレヴューアーが疑問にもつ(バカだから腹を立てる)のはもっともなことかもしれない。

しかし、ふつうに考えてみてもいい。それまで多くの人を殺してきた殺し屋が、自分のやっていることに嫌気がさして、それまでの記憶を消し、プロの殺し屋に自分を確実に殺させる。オイオイオイオイ、ボケ、カス、イモ――レヴューアーの品の悪さに感染してしまった。そんな虫のいい話があるか。いやなことはきれいさっぱり忘れて、あとは天国に召されましょう。そんな虫のいい話はあるか。日本じゃないんだぞ。

ちなみに日本では、池袋の路上で、後期高齢者でありなおかつ脚が悪いのに通常の自家用車を運転して、ブレーキとアクセルを踏み間違えて、人をはねて殺し(そのなかには若い母親と幼い娘もいた)、懲役の実刑判決が出たのに、自分の非を認めて謝罪することはなく、悔い改めもせず、老後の世話と面倒を家族にかけることなく、懲役刑に服することで、税金で老後の世話をしてもらう(高齢者だからさすがに労働の義務はないだろう)という、こんな虫のいいことがまかりとおっているのだ。もちろん、上級国民である被告の姿勢にいきどおっている日本人は多いのだが。

この映画にもどれば、もし神様がいるのなら、あるいは単に道義的に言っても、主人公に簡単に死なれては困るのだ。

何度も何度も殺され、殺される者の恐怖と苦しみをとくと味わい、さらに自分のやってきたことをしっかり思いだし、それと向き合うことで、悔い改めてもらうしかない。だからループが起こるのである。あるいはループは、神と私たち双方の意志の帰結である。

日本風というか仏教風にいうと、主人公は成仏できない。最初、主人公は、自分にむけてはりめぐらされた陰謀によって、自分自身が成仏できないのではと思っているかもしれないが、実は、成仏させてもらえないのである。

映画の最初のほうに成仏できなさのヒントはある。主人公がベンチでめざめたあと、そもそもここはどこか、道行く人に尋ねようとするが、主人公がまるで透明人間であるかのように、感知されない。そのくせ街で遊んでいる子どもたちには主人公の姿が見え、主人公と言葉を交わすことができる。いうまでもなく、大人にはみえない幽霊を、子供はみることができるのである(私の姪は、まだ幼い頃、家のなかで、そこにいる人は誰と彼女の両親に尋ねて、両親を震え上がらせたことがある――親子三人以外に誰もいなかったので)。

そう、この映画の主人公の青年は、成仏できないような、さまよえる亡霊という暗示がある。映画の最初にベンチで目覚めるとき、それは数えきれないほど殺さてきた後の目覚めではなかったのか。「七回殺された男」は、日本で勝手につけたタイトルである(七回とか七回殺されるというタイトルの本があることからの連想だろう)。七回どころではなく、無限回数、この男は殺されているのである。

と同時にただ殺されるだけでは済まない。自分のしてきたことを記憶喪失として闇に葬って成仏し天国に召されようとした男の虫のいい試みは徹底して打ち砕かれねばならない。

だから記憶を消し去った男が、もとの自分にも辿れるようなヒントを残して置いたというのは、矛盾した無意味な行為と、ボケ・カス・イモは指摘するのだが、これも、もし記憶消去に失敗したり、記憶消去が不完全になったときに、調整できるように、もとの自分にもどる手がかりを残しておいたのか、あるいは記憶消去のもつ不道徳さに疑問をもつ良心を残していた主人公が記憶回復の手がかりを用意していたのかもしれない。意識的か無意識的か、わかないにしても。

あるいはさらに、探偵が真犯人をみつけてみたら自分だったという、オイディプス王以来の推理物語の伝統にのっとって、自分探しと真相追及にむかうには、もとの真の自分への手がかりが物語上必要だったと身もふたもない理由があるのかもしれない。ともかく能動態・中動態・受動態にまたがる理由があれこれ考えられる。

ただ、いずれにせよ、主人公には、勝手に失くした記憶を、もう一度取り戻してもらうしかなく、その過程がスリルとサスペンスを招き入れるミステリーの醍醐味となる。

主人公にとって、このセルビアのベオグラードの街並みは、贖罪の街並み、あるいは天国に召されるまで罪人が身を清める煉獄だったのである。【煉獄的贖罪の街だが、ベオグラード、いい街である。】

もちろんこのこと(贖罪テーマ)は、ループ物においては、けっこうなじみのテーマとパタンでもある。

なおこの映画における主人公のループは早くて5,6分で終わる。長くても30分くらいか。都市における逃げ回りの短期間ループと反復は、『ラン・ローラ・ラン』を髣髴とさせるが、次に考えるのはループが35年周期の映画である。

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アフリカの諺

岸田文雄首相は8日、就任後初めての所信表明演説を衆院本会議で行った。「早く行きたければ一人で進め。遠くまで行きたければ、みんなで進め」とのアフリカのことわざを引用し、自著のサブタイトルにも採用した「分断から協調へ」の理念を強い口調でアピールした。

 実はこのことわざは今年6月、での所信表明で使用済み。岸田氏は2度も口にして独自色を演出したが、まさかの“二番煎じ”となった格好だ。首相は終盤、ことわざを紹介。「経済的格差、地域的格差などがもたらす分断を乗り越え、コロナとの闘いの先に新しい時代を切り開いていかなければならない。みんなで前に進んでいくためのワンチームをつくり上げる」と表明した。

 岸田政権は安倍政権の“二番煎じ”と揶揄(やゆ)する声も上がる。ことわざを用いて国民に分かりやすく自身の理念を伝えようとしたが、図らずも“本当の二番煎じ”になってしまった。【以下略】
スポーツニッポン新聞社 2021/10/09 05:30


岸田首相の所信表明演説で使われたアフリカの諺は、私は知らなかったのだが、政治家の演説などでよく使われる諺のようで、石川県小松市の宮橋勝栄市長が市議会での演説で使ってもおかしくないし、岸田首相が国会での演説で使ってもおかしくない。岸田首相が、これは自分で見つけてきたとか、自分しか知らない諺とでも言ったのなら、それは大きな恥をかいたところだが、そんなことを言ってない、ただ、有名な諺を引用したというにすぎず、この記事は、程度が低い。

このぶんだと、下手に諺を引用できない。それ以前に誰々がその諺に言及していたと調べればすぐに指摘されて、まるで独創性がないかのように思われるからだ。

もちろん岸田首相を弁護したり褒めるつもりはない。国民の声にも耳を傾けるいっぽうで、安倍晋三の声にも耳を傾ける最低の首相だと思っているので。

ただ、私としてはアフリカの諺の意味が、その諺にはじめて接したこともあって、よくわからない(よく知っていてなじんでいれば、違和感なく受け止めたのだろうが)。

「早く行きたければ一人で進め。遠くまで行きたければ、みんなで進め」


は、ほんとうにどういう意味なのだろう。

早く行くこと対比されるのはふつう遅く行くことである。ウサギとカメのたとえではないが、早いと遅いは対になる。ところがここでは早いと遠いとが対比されている。これは、背が高いと太っているとを対比するようで、対比の基準がわからない。

あるいは短距離走と長距離走とのアナロジーなのだろうか。短距離走の走者のスピードは速い。しかし長距離走走者は、ゆっくり長時間かけて走る。これは短距離なら全力疾走、長距離ならゆっくり時間をかけて行けということか。そこから何か意味を見出すということか。

しかし、諺では、短距離と長距離とが対比されているわけではない。一人と大勢が対比されている。一人=早い、大勢=遅いではなく、大勢=遠くである。やはり意味がよくわからない。

アフリカのことわざ27選というサイトがあって、そこでもこの諺が掲載されているのだが、その前後の諺とあわせてみてみると――

〇斧は忘れる、木は忘れない(ジンバブエ)
   加害者は忘れるが、被害者はずっと忘れないという意味。

〇早くいきたいならひとりで歩いてください、遠くへ行きたいなら、ほかの者と共に歩いてください。
   大きいゴールを目指すには、みんなで手を取り合った方が良いという意味。

〇もし自分は変化をもたらすには小さすぎる人間だと思ったら、締め切った部屋で一匹の蚊と寝てみなさない。
   一匹の蚊でも存在感があるのだから、ひとりの人間が小さい存在なわけがないという意味。


「早く行きたいなら……」の前後の諺が、あまりに感動的でついつい引いてしまったが、前後の二つの諺にくらべると、「早く行きたいなら……」は、意味がすぐにはわからないし、説明されてもなにか違和感が残る。

ただ違和感が少しなくなったのは、このアフリカの諺には英語ヴァージョンがあること、というかそもそも英語の諺ではないのかという疑いが生まれたときである。

If you want to go fast, go alone. If you want to go far, go together.


go fastとgo farが語呂合わせのように対比されている。本来、「早い」と「遠い」は、対になるような概念ではない。それが英語になるとfastとfarで本来は対にならないものが、なんとなく対であるように思えてくる。

そのうえfarには距離や時間の「遠さ、はるかさ」(far into the night深夜まで)だけでなく、程度の大きさを意味することもあって、そうなるとgo farは、たんに遠いところまでという意味だけでなく、なにかの限度を超えた独創的とか大規模なとか高度なという意味を帯びてくる。そうなると、「もし早く行きたければ、あるいは早く仕上げたい、早く結果をだしたいなら、ひとりでやれ。しかし、なにか優れたこと、限度を超えた独創的なこと、高度なことをしようと思ったら、みんなで力を出し合ってやったほうがいい」という意味になる。

つまり早いか遠いではなく、一人か大勢かであり、ひとりでインスタントにできることと、共同作業でできる大きなこと高度なこと独創的なこととが対比されていることになる。

要は「早いか遠い」かではなく、「単独作業か共同作業」かの対比である。それが英語版を考慮すると見えてくる、だから岸田首相のいう「分断から協調へ」ということにもなる。

わかったことはそれだけではない。この諺は、おそらくアフリカ産ではない。英語圏産であって、そのそっけなく単純でやや古風な言い回しによって、洗練されていない田舎風の諺(この場合はアフリカ的な諺)という趣をだしているのではないか。いまどき‘go far’とは言わない。つまりgo a long wayとかgo awayというような表現のほうがふつうなのをあえてgo fastとの対比でgo farにして、インプリケーションを増やした。これは英語圏の諺としかいいようがない。

サム・メンデス監督の『1917 命をかけた伝令』(1917, 2019)は、味方の部隊へと情報を届ける二人の伝令(最終的には一人になる)の敵中突破して目的地までたどりつく長い道のりを、ワンショットでとらえた異色の映画だが(主人公が途中で寝るので、そこで数時間がたつが、それ以外は映画の中の時間と観客が体験する時間は同じ)、この映画のなかで、思い出した、コリン・ファース演ずる将軍が詩の一節を朗読していた。それがキプリングの「勝者The Winner」(1888)という詩。

第一連だけを引用すると――

What is the moral? Who rides may read.
When the night is thick and the tracks are blind
A friend at a pinch is a friend, indeed, 困って動けなくなっている友はほんとう友
But a fool to wait for the laggard behind.遅れてくる者を待ってやるのはバカだ
Down to Gehenna or up to the Throne, 地獄へ行こうが天国に行こうが
He travels the fastest who travels alone. ひとりで行く者が最も早く行く


最後の‘He travels the fastest who travels alone. ’はリフレインで、全4連の詩の最後の行で、合計4回繰り返される。たしか、このリフレインのところを伝令を命じた将軍が口ずさんでいたように記憶する。

実は、アフリカの諺は、こういう、早く行くなら一人で行くにかぎる(連れがいれば足手まといになる)、先駆けとか、競争でトップになるのなら、なかよく手をつないで行くのではだめで、一人で一歩でも二歩でも先んじろ。そうでなければきびしい競争社会に勝てないという、キプリングその人というよりも、このキプリングの詩に盛り込まれたエートスに対するアンチとして生まれたのだという説もある。

「早く行きたいなら一人で……」の出所はキプリングかもしれないが、この諺そのものは、キプリングのこの詩のエートスへのアンチとして生まれたものということである。資本主義の熾烈な競争社会へのアンチでもあるため、その諺は、牧歌的世界からの資本主義・都市文明批判として偽りのアフリカ産・アフリカ銘柄をつけることになったのではと思っている。

ちなみに急いで付け加えると、キプリングのこの4連の詩は、連が進むにつれて、だんだんと内容がえげつなくなってきて(いや、第一連でも相当にえげつないのだが)、‘He travels the fastest who travels alone.’というリフレインには皮肉な意味が、あっというまに垢のようにこびりつく。

軍人のもつ自分だけが手柄をあげて世界から富を強奪し自分が支配者になるというデーモニッシュな軍人エゴイズムを突き放してうたった詩といえなくもない。すでにキプリングの詩そのものが、「早く行きたいあならひとりで行け」的な世界観へのアンチを宿しているのであるが。

このアフリカ産の諺には、競争社会への批判がこめられている。そして繰り返すと、これは英語圏でつくられた諺としか思えない。ネット上のあるサイトでは、「早く行くなら一人で行く」ことについて、わかりやすい説明をしたあと(足手まとい説)、では遠くにいくにはたくさんの人でいくのがいいということについては、まったく要領の得ない説明しかしていない。実際、たくさんいれば、遠くへ行けるということは、ふつうの常識的発想では説明などできないはずだ。

と同時に、この諺の肝は、スタンドプレイ、個人芸、競争に勝つことではなく、チームワーク、共同作業と協調作業を重視するということである。

当然、岸田首相が、この諺とともに提唱する「新資本主義」は「新社会主義」だという批判があらわれた。

楽天・三木谷氏 岸田首相の〝新資本主義〟を痛烈批判「新社会主義にしか聞こえない」
10/8(金) 16:52東スポWeb配信

楽天グループの三木谷浩史会長兼社長(56)が8日、自身のツイッターで岸田文雄首相を痛烈に批判した。

格差是正を重視する岸田首相は、〝金持ち優遇〟と揶揄される金融所得課税を引き上げ、中間層への手厚い分配を政策の柱に据える。それが同首相が呼ぶ〝新しい資本主義〟だ。

ところが、三木谷氏は「今までの新政権の発表は、新資本主義ではなく、新社会主義にしか聞こえない」とバッサリ。

続けて「金融市場を崩壊させてどうするのか??それとなぜこのような事が総裁選で議論されなかったのか??」と疑問を呈した。以下略


三谷氏の「新社会主義」という指摘は正しいと思う。資本主義は〈早く行くために一人で行く〉がモットーであるからだ。実際、このアフリカの諺を引用する政治家はアメリカではヒラリー・クリントン、アル・ゴア、バラク・オバマなど民主党の政治家であるようだ。だから本来なら野党の政治家が引用してもよいものである。表面的にはチームワークが大事ともとれるこの諺は、さらに踏み込んで社会主義の理念ともいえるものを示しているのだから。これも岸田首相の空気をよまない天然ボケのなせるわざか――そのくせ安倍晋三には忖度するという狡猾さをみせている最低の首相だが。

あと新資本主義ではなく新社会主義であることを指摘した慧眼の士である三谷にも、キプリングの「勝者」という詩の最後の連を、まさに勝者に捧げておこう(なお解釈によって別の読み方もできるが、どのような読み方にしても、「もっとも早く行く者は、ひとりで行く者」であることにかわりはない)。

友が得るのは労苦によるもの、あなたが得るのは略奪物
友の支援で勝利しながら、その支援などなかったことにして独り勝ち、
もっとも早く行く者は、たったひとりで行く者!
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2021年10月09日

『ある学問の死』3

表記の問題

G.C.スピヴァク『ある学問の死――惑星思考の比較文学へ』上村忠男・鈴木聡訳、みすず書房、2004

スピヴァク『ある学問の死』のなかで扱われているポストコロニアル文学の古典ともいうべき作品のひとつにタイーブ・サーレフの『北へ遷りゆく時』(1966)がある。

これは1969年という早い時期に英語に翻訳され、その翻訳がよかったことと内容の興味深さによって英語圏でもよく読まれた。日本語訳もある。

『北へ遷りゆく時/ゼーンの結婚』黒田寿郎・高井清仁訳、現代アラブ小説全集8(河出書房新社1978, 新装版1989)

【絶版でアマゾンでは取り扱っていないということだった。ちなんみに、アマゾンでは1989年と出版年が記してあるが、掲載してある写真は、1989年の新装版ではなく、1978の旧版の写真である】


が、それで、この現代アラブ小説全集全10巻は、いまは絶版のようだが、私にとっては、サーレフのこの作品に加え、マフフーズの『バイナル・カスライン(上・下)』(4.5)、またモサドに殺された作家カナファーノー『太陽の男たち/ハイファにもどって』(7)は、私にとって、ほんとうに宝物のような翻訳小説で、なかなか時間がないのだが、いまも、読み返してみたいと思う傑作である。

実際、この現代アラブ小説全集の翻訳作品は、名人芸的翻訳というのではないが、どれも、きちんとした明晰な翻訳で、原著の内容と良さを的確に伝えてくれているという確信めいたものを読者に与えてくれ、模範ともいえる翻訳となっている(事実、このような翻訳ができればいいと常々思っている)。

スピヴァク『ある学問の死』では、タイェブ・サリの『北部への移住の季節』というように翻訳している。

ただし、人名をそう表記し、タイトルをそう訳したからといって、それが、まちがいということではない。まちがいではまったくないし、それゆえ、それによって、このスピヴァクの翻訳の価値はいささかたりとも下がるわけではないのだが、そのことがやっかいなのである。

タイェブ・サリ『北部への移住の季節』というのは私個人としてはやめてほしいと思うし、日本語の既訳にあわせてサーレフ『北へ遷ゆく時』と表記してほしいと思う。

スピヴァクの共訳者のおふたりが、サーレフのこの小説とその日本語訳について知っているのか、知らないのか、それはわからないが、『北部への移住の季節』というタイトルにおける「北部」とは、主人公がスーダンから留学する英国のことも指しているから、北部は、絶対にまちがいではないのだが、誤解を生じさせる表現であることはまちがいなく、共訳者のふたりはこの小説の日本語訳についても知らないし、読んだこともないのかもしれない。

ただし、日本語訳について知っているし、読んでもいても、あえてタイェブ・サリ『北部への移住の季節』とされたのなら、その選択について、まちがってはいない。またそれによってスピヴァクの翻訳の価値が下がるわけではない。これだけは述べておく。

表記の問題はむつかしい。もちろん、今回の問題は「シェークスピア」か「シェイクスピア」か、「ハイデッガー」か「ハイデガー」か、「スピヴァック」か「スピヴァク」か、どちらが正しいか、よいかの問題ではない(私はどちらでもいいと思っている)

あるいはマクベスを、クベスと「」に強勢を置くか、英語の発音を反映して「マクベース」と発音することのどちらがいいかという問題ではない。私は日本語のカタカナ表記でも「マクベース」と発音すべきだと思うが、実際の日本の舞台では「クベス」が圧倒的に多いので、まあ、どちらでもいいと思っている。

これに対してローマ字表記の発音の場合、固有名詞は、どうしても、それが入り込む言語の影響を受けることである。同じことは漢字表記の漢字読みか中国語読みにするかという問題にもあてはまる。

漢字の場合、北京は「ペキン」と発音し、上海は「シャンハイ」と発音しながら、「武漢」は「ウーハン」ではなく「ぶかん」の発音が日本では定着している。まあ武漢が話題にのぼることはないほうがよいと思うし、武漢の存在は忘れ去られるくらいに、コロナ禍が終息すればいいと思うのだが、「ぶかん」という発音は国際的にはまったく通用しない。ではなぜ武漢だけ「ウーハン」ではなく「ぶかん」なのか、決まりも原因も定かではないように思われる。

外国人の固有名の英語読みも同じである。入門書『ジュディス・バトラー』竹村和子訳」 (シリーズ現代思想ガイドブック、青土社2005) の著者は翻訳ではサラ・サリーと表記されているが、ローマ字表記ではSara Salihなので、この人の名前はアラブ系で、「サーリフ」「サーレフ」と表記すべきものかもしれない。

ただしこのサラ・サリーではなくサラ・サーリフに関し詳しいことはわからないが、アメリカで生まれアメリカ人として教育をうけ生きてきて、周囲にも自分の名字が、英語読みされ「サリー」と呼ばれることを容認したり、自分から「サリー」と呼んでほしいと周囲に伝えたりしているかもしれない。そのため 著者名は「サリー」でということを著者あるいは出版社あるいは関係者から翻訳者に伝えられ、そのために「サリー」としたのかもしれない。

同じことは、中国からの留学生にもいえて、自分の名前を漢字読みしてよいと漢字読みを奨励したり、逆に中国語読みされたりすることを拒む留学生もいる(もちろん留学生それぞれであって、全員そうだということはない)。

受け入れ先の国の言語読みに自分の名前をあわせることはよくおこなわれているし、そのほうが受け入れ国に受けがいいこともある。

『NCISネイビー犯罪捜査班』の第18シーズンのなかのあるエピソードでは(最近見たのだが)、Proustという人物の名前ができてき、これを「プルースト」と発音するか「プラウスト」と発音するかでちょっともめる場面があった。なんとなく「プラウスト」という発音が主流になるような気配だったが、英語化して発音するほうが、英米人にとってはなじみやすいのだろう。

私がいいたいのは、「ハイデッガー」か「ハイデガー」か、「スピヴァク」か「スピヴァック」か、どちらがいいかということではなく、「ウォルター・ベンジャミン」か「ヴァルター・ベンヤミン」のどちらがいいかという問題なのである。

以前、イギリスにいたころ、セアラ・バーントハートという女優がどうのこうのといわれて、それは私が知らない女優さんの名前ですと答えたところ、セアラ・バーントハートだがと、もう一度言われた。知らないものは知らないのだが、ただ、その後、話を聞いてみてると、思い当たることがあった、ああ、それはサラ・ベルナールのことですか(とフランス語風に発音しつつ)発言したら、嫌な顔をされた。相手が本当に嫌な思いをしたかどうかはわからないし、嫌な顔をしたかどうかも第三者の目がないのでわからないのだが、その時私は、相手が嫌な顔をしたように思った。

それと同じで、私のようなアラブ系の文化や歴史についてほとんど何も知らないに等しい人間でも、AhmadとかSalihというは「アーマッド」ではなく「アフマド」、「サリー」ではなく「サーレフ」であるというぐらいのことは知っているが、そのことを英米人に伝えたら、なにか嫌な顔をされるのではないかという不安はある。ましてやアフマドやサーリフの姓を名乗っている本人にとっては、自分の名前が英語読みされることに、いちいち目くじらを立てていたら、嫌われる、嫌がられるという思いは強いかもしれない。

したがって英語読みした名前がふつうに流通して「アーマッド」は紅茶の銘柄になり、「サリー」ちゃんがふえているのだが、ただ、私としては「ハイデッガー」か「ハイデガー」は、どちらでもいいのだが、「ウォルター・ベンジャミン」はやめてほしい。「ヴァルター・ベンヤミン」にしてほしいと思うのである。

タイーブ・サーレフ(厳密にはアッ=タイーブ・サーレフ)の場合、英国の大学に学び、BBCに入社したこともあるらしく、半分英国人かもしれないのだが、またそれゆえにが、スピヴァクの『ある学問の死』における表記タイェブ・サリは、本人も容認する英語読みかもしれないので、まちがいではないのだが、それでも日本語訳にあわせて、タイーブ・サーレフにして欲しかった。

実際、この小説『北へ遷ゆく時』は、スーダンから英国に留学するムスタファ・サイードが主人公で、英国で「やらかして」(ネタバレになるので詳しいことは書かない)スーダンに帰ってくるのであって、英国で仕事をしている話ではない。英国留学中は、民族衣装などをまとって、エスニシティを前面に押し出した生活姿勢を崩さないのだが、帰国後は、土着文化を嫌い、英国風の生活様式をとりいれるというような例からはじまり、西洋と非西洋との文化対立と相克と融合と離反のひりつくような濃厚なドラマが展開する。この小説はコンラッドの『闇の奥』のアフリカ版であって、主人公にとっての闇は、英国社会なのである。そしてこれはさまざまな解釈に開かれているので、簡単に説明できないのだが、小説の終わりは、川でおぼれそうになったサイードの「助けてくれ」という叫びである。

この「助けてくれ」という叫びのニュアンスについて教えてくれたのが、スピヴァクの『ある学問の死』における、この小説の優れた読解であって、この意味からも、『北部への移住の季節』という間の抜けた(失礼)表題をつけている『学問の死』は、この小説理解にとっても、かけがいのない貢献をしてくれている。スピヴァクの読みの深さに圧倒される。

ちなみにタイェブ・サリ『北部への移住の季節』ではなく、タイーブ・サーレフの『北へ遷りゆく時』は、コンラッドの『闇の奥』のアフリカ版(英国が闇の奥となる)であり、そこにはハムレットやオセローの影が濃厚でもあり、西洋文化にも突き刺ささることが多い、ポストコロニアル小説の古典ともいうべき作品であり、当然、エドワード・サイードもこの作品を扱っている――『文化と帝国主義』(大橋洋一訳、みすず書房)のなかで。

スピヴァクの『ある学問の死』の共訳者のお二人は、それぞれの専門分野で立派な業績をあげられている研究者でもあるので、私(大橋)の翻訳したものなど、バカにして見向きもしないかもしれないが、大橋訳のサイード『文化と帝国主義』をみていただければ、サイードが詳しくサーレフの『北へ遷りゆく時』を論じていること、私の翻訳が、きちんと日本語訳の情報を示していることがわかったはずで、「タイェブ・サリ『北部への移住の季節』」という思わず吹き出してしまいそうな(失礼)表記は『ある学問の死』では出現しなかっただろうと思われる。

なおこれは自己宣伝だが、サイードの『文化と帝国主義』は二巻本としてみすず書房から刊行されていたが、今年の年末か来年のはじめに、一巻本の新装版としてみすず書房から刊行予定である。スピヴァクの『北へ遷りゆく時』論と、サイードの『北へ遷りゆく時』論とを比べてみるのも面白いかもしれないので、興味をもたれた方は、読んでいただければと思う。


付記:セアラ・バーントハートと、サラ・ベルナールについてのエピソードは、嘘である。バーントハート、ベルナールの話はこのブログの別のところで、英国で米国のテレビドラマをみてのこととして伝えている(それはほんとうの話)。英語読みされたので誰のことかわからなかった名前が、誰の名前であったのかどうしても思い出せなかったので、サラ・ベルナールの例をアレンジして使わせもらった。
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