韓国映画『工作 黒金星と呼ばれた男』(2018)は、いまではネット上で、あるいはCSでも見ることができるのだが、これを映画館でみたとき、驚いたのは、韓国の保守勢力と北との癒着の事実あるいは蓋然性であった。
南北朝鮮と捉えたときに南の保守層は、反共政策を強化・継続して北との敵対関係を維持あるいはあおるものと一般的に考えられ、これに対してリベラル勢力は、北との宥和をめざすものだと一般的に考えられている。北にとって、どちらの政策が好ましかといえば、北に対する敵対勢力である。北をコントロールしている一族にとって、彼らの延命をはかるには、北に敵対的な勢力が南にあったほうがよい。へんにリベラルな宥和政策をとられると、彼らの存続があやうくなる。
いっぽうでリベラル勢力との対立を強いられる南の保守勢力は、北と結託して、北が強攻策にでてもらえると、北からの脅威を強調することによって、南のリベラル勢力を撃退できる。つまり南の保守勢力と北の支配層との利害は一致するのである。
だから南の保守勢力が守勢にまわりそうなときには、北にお願いしてミサイルを発射してもらう。それによって南に危機感と北への敵対感情があおられれば、北の支配層は、安泰であり、南の保守層にも利するところがある。
そういう意味からすると、最近の北の日本海へのミサイル発射は、日本の政治情勢との関係でとらえるのが一番わかりやすいし、妥当だろう。脱原発で、イージスショアを潰した河野自民党総裁が誕生したら困る日本の保守層にとって、北がミサイルを発射してくれることは、ありがたいことにちがいない。北の危機と脅威をみせつけることによって、河野の政治姿勢の甘さを自民党党員にみせつける効果があるからだ。
北のミサイル発射が日本の右翼保守層に偶然利するということではない。彼ら売国奴は、絶対に北と連携して、ミサイル発射を仕組んでいるとしか考えられない。地獄のような安倍政権の第二次政権初期において北朝鮮はさかんにミサイルを発射していた。いままた、日本の保守層を守るためにせっせと北朝鮮はミサイルを発射している。このことは私たちの脳裏に刻み、子孫につたえるしかない。忘却の歴史ではなく、記憶の歴史が存続する限り、北と日本の保守層とのつながりは、かならずやいつか暴かれるにちがいないからだ。
2021年09月28日
タリバン文化
タリバンが実効支配しているもうひとつの国は日本である。その女性蔑視政策は、タリバン支配のアフガニスタンと日本は世界の双璧をなしている。
おそらくタリバンの女性蔑視政策に反対する日本人に対して、タリバンは、自民党の総裁選における女性候補について言及するかもしれない。女性の指導者などもってのほかという彼らの主張にまっこうから刃向かうような女性候補者の存在に、彼らが憤るということではない。むしろ彼らは、よろこんで、女性候補のことを、それみたことかと嬉しそうに言及するにちがいないのだ。
高市早苗候補は、自分が右翼にみられることを嫌っていたようだが、私も彼女は右翼ではないと思う。右翼どころか、極右、いやそれ以上のたんなるファシストに違いない。タリバンなら、それみたことか。女性の政治指導者は、国民に愛と平和を自由をもたらすなどと思うのはとんだ筋違いだ。高市の政治姿勢からもわかるように、彼女が指導者になったら、男性の独裁者以上に、戦乱と憎悪と国家統制をもちこんで、右傾化を強め、国民を徹底的に抑圧するだろう。彼女は典型的なそして極悪・凶悪な全体主義者であって、その悪は男性の独裁者をはるかにしのぐ。女性の政治指導者を選んだら、こうなるだろうという、よい見本。それが高市なのだとタリバンに言われるにちがいない。
ただし、タリバンは、高市総理が将来誕生することを危惧するとか恐れるということはないだろう。むしろタリバンは高市が大好きだろう。現在の政治からみえてくるのは、独裁者や全体主義者の敵は、独裁者や全体主義者ではなく、リベラレル勢力である。女性を解放するような勢力である。もしいつの日にか、高市総理が誕生し、日本が全体主義化したら、タリバンとは、けっこう仲良くやっていけるにちがいない。
地獄が来ないことを祈るばかりである。
おそらくタリバンの女性蔑視政策に反対する日本人に対して、タリバンは、自民党の総裁選における女性候補について言及するかもしれない。女性の指導者などもってのほかという彼らの主張にまっこうから刃向かうような女性候補者の存在に、彼らが憤るということではない。むしろ彼らは、よろこんで、女性候補のことを、それみたことかと嬉しそうに言及するにちがいないのだ。
高市早苗候補は、自分が右翼にみられることを嫌っていたようだが、私も彼女は右翼ではないと思う。右翼どころか、極右、いやそれ以上のたんなるファシストに違いない。タリバンなら、それみたことか。女性の政治指導者は、国民に愛と平和を自由をもたらすなどと思うのはとんだ筋違いだ。高市の政治姿勢からもわかるように、彼女が指導者になったら、男性の独裁者以上に、戦乱と憎悪と国家統制をもちこんで、右傾化を強め、国民を徹底的に抑圧するだろう。彼女は典型的なそして極悪・凶悪な全体主義者であって、その悪は男性の独裁者をはるかにしのぐ。女性の政治指導者を選んだら、こうなるだろうという、よい見本。それが高市なのだとタリバンに言われるにちがいない。
ただし、タリバンは、高市総理が将来誕生することを危惧するとか恐れるということはないだろう。むしろタリバンは高市が大好きだろう。現在の政治からみえてくるのは、独裁者や全体主義者の敵は、独裁者や全体主義者ではなく、リベラレル勢力である。女性を解放するような勢力である。もしいつの日にか、高市総理が誕生し、日本が全体主義化したら、タリバンとは、けっこう仲良くやっていけるにちがいない。
地獄が来ないことを祈るばかりである。
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2021年09月24日
『ある学問の死』2
フロイトの英訳者
たとえ、それがあっても、書物全体の価値をいささかとも下げることのない、変なところを指摘することに、はまっている。繰り返すが、それを指摘したからといって、その本の価値が下がるということはまったくなく、また本の内容を褒めることすらあれ批判するつもりなどまったくないことをお断りしておきたいのだが、そうした本のひとつに
和泉雅人『迷宮学入門』(講談社現代新書、2000)がある。
この本は入門書あるいは新書として、実によくまとまっていて、限られたスペースのなかで「迷宮」について多くのことを教えてもらったし、また豊富な図版も見ていて楽しだけない。いろいろな文献で頻繁に使われる迷宮図をすべて網羅しているといってもいいくらいで、以後、どんな迷宮図をみても、この本のここにあったと確認できるほどのもので、図版の豊かさにも圧倒される。もちろん本文の記述も、明晰かつ的確で、さらなる思索へと導いてくれるものであって、誰にでも自信をもって奨めることができる名著である。
そして、指摘したいのは、この本の価値を少しも下げることのない、次のようなことである。
最後のあとがきで著者は、感謝の言葉を述べている
と、感謝の言葉はつづくのだが、図書館のスタッフにも感謝を捧げる著者の義理堅い、あるいは感謝の念を忘れない良心的な称賛すべき姿勢には、ただただ頭が下がるのだが、しかし、どうして姓だけなの。姓だけだと呼び捨て感が強いのだけれども、せっかく感謝をささげるのだから、どうしてフルネームにしないのか。姓だけだと、同姓の人とまぎれるかもしれないし、ジェンダーもわからない。私だったら、名字だけで感謝されるのはいやである。いや、これには深い事情がといわれるかもしれないが、深い事情があるのなら、最初から書かなければいいのであって、図書館のスタッフその他に感謝の言葉を述べるのは義務ではないのだから。
こんなことにばかり気が向いてしまっているので、前回のように、スピヴァクの『ある学問の死』のエラーコインみたいなミスをとりあげることになった。
だからといって、この翻訳書の価値が下がるということは絶対にない。また、もうひとつ取り上げようと思っていたのは、ミスではなくて、表記についての考え方の違いについてであって、私なりの考えを披露したいと思っていたのだが、その前に、イーグルトンの原書の、変な索引をとりあげた勢いで、著者も翻訳者も編集者も責任はないだろう、変な訳注について気づいてしまった。とはいえそれはAIがするようなミスでもないのだが。
もう一度、前回とりあげたとんでもない訳注(割り注形式)を思い出すと:
「ヴィクトリア朝期イギリスを代表する知識人グループ」というとんでもない記述は忘れることにしても、この注を翻訳者であり英文学者である鈴木聡氏が書いていないこと、またおそらく全責任をとるという上村忠男氏も書いていないこと、さらには編集者や校閲者が書いていないことは、今引用した訳注からも歴然としている。
それはヴァージニア・ウルフのことをヴァージニアとファーストネームで呼んでいるのだ。おまえの友達か?おそらく、鈴木先生も、上村先生も、学生が論文などのなかでヴァージニア・ウルフのことをヴァージニアとファースネームで書いていたら、やめるように注意するだろう。編集者や校閲者も、同じような苦言を呈することだろう。この訳注を書いた人間は、頭がぶっとんでいる。誰なのか知らないが。
【「父の死後、ヴァージニアの家に……」とあるのだが、「父レズリー・スティーヴンの死後」とあれば、つづくヴァージニアもエイドリアンも、ともにスティーヴンの姓を共有しているために、ファーストネームだけでよい。おそらく参考にした記述をまとめるときの不手際だろうが、不手際であることにかわりはない】
以下は、ぶっとんでいる訳注ではないが、また同じ人物が書いたのかどうかももちろんわからないのだが、こんな本文がある。
この本文の「アリクス・ストレイチー」なる人物に
という訳注が割り注で入っている。
おそらく私程度の、たいした教養もない読者は、「アリクス・ストレイチー」って誰と不思議に思うにちがいない。私程度の、たいした教養もない読者にとって、英語版フロイトの著作集の翻訳者というのは、全体の監修者でもあるジェイムズ・ストレイチーなのだから。
フロイトの著作の英語版はStandard Editionといって、ドイツ語の著作集よりもはるかに権威のある著作集でもあった(かつては、あるいはいまもという人もいよう)。またフロイトの用語の英語訳については、翻訳者のジェイムズ・ストレイチーの翻訳が、これまでずっと称賛されたり批判されたりしていて、ジェイムズ・ストレイチーの名前はフロイトの名前ともに多くの読者の頭にこびりついている(もちろんジェイムズ・ストレイチーが有名なのは、ブルームズベリー・グループの一員であった作家の兄リットン・ストレイチーの弟だからでもあるのだが)。
ところがここにきて急にアリクス・ストレイチーなる人物が登場してきた。誰のことか。男か女かもわからない。Alexは男子名でAlixは女子名だが、いきなり「アリクス」と言われても、間違いではないがぴんとこない。
彼女はジェイムズ・ストレイチーの妻アリクス・ストレイチーで、夫ともに精神分析家で、フロイトに要請されて夫ともにフロイトの著作の翻訳をした。スタンダード・エディションも彼女と夫との共訳ということになっている。
フロイトの英語訳者といえばジェイムズ・ストレイチーであるという固定観念に縛られいた私程度の教養しかない読者には、英語訳者はアリクス・ストレイチーだと言われると、驚くほかはなく。夫の影にかくれて、翻訳者としての偉業もかすんでしまっているのだが、むしろ彼女こそが、英語訳をすべてこなした真の英語翻訳者なのか。そのことを(おそらく近年の研究の成果もあってのことだろう)、スピヴァクは、私たちに、フロイトの英訳者はアリクス・ストレイチーであると宣言したのかもしれない。私はこのとき自分の不明を恥じて、スピヴァクの前にひれ伏したくなった。
ちなみに『ある学問の死』の原書には索引(内容索引、人名索引)がついていて、そこにはAlix StracheyどころかStracheyという名前すら載っていない。これにはちょっと驚いた。翻訳をたよりに原書の場所をさがした。
この『ある学問の死』の翻訳というか日本語訳文についてはなんら問題ないことは原文を参照すればわかるのだが、問題は、スピヴァクはthe Stracheys(p.73)と、つまり「ストレイチー夫妻」とだけしか書いていないことだ。
夫ジェイムズを押しのけて真の影の主役翻訳者アリクスを前面に出して読者を驚かせる――私など、ひれ伏しそうになったのだが――、そんなことをスピヴァクはしていない。ただフロイトの英語訳著作集の翻訳がストレイチー夫妻の共訳であるということを述べているだけである。だから日本語翻訳者がアリクスの名前だけを出すことについては問題があり、もしそれに正当な理由があるのなら、それこそを割り注で説明すべきである。
なおこうした処理は、共訳のお二人、上村氏と鈴木氏がなされたこととは夢にも思わない。謎の「ヴァージニア、ブルームズベリー・グループ=ヴィクトリア朝」の訳注を書いた、どこかのバカは、脇役に執着していて、ヴァージニア・ウルフの弟で精神分析家のエイドリアンを出してきたり、ジェイムズ・ストレイチーを差し置いて、これも精神分析家のアリクス・ストレイチーを出しきたりと、脇役の精神分析家大好きの変わり者であろう。
というか、そういうふうにみえるほど、基本的な知識も教養も欠如しているのだ。
問題は、この変わり者によって、お二人の共訳がそこなわれてはいないかということである。せっかくよい翻訳が泥を塗られている、そんな気がしてならないのだ。
なおthe Stracheysと本文にあるので、原書の索引も、その項目を出すべきであった。もしスピヴァクが作成していたら、必ず、入れているはずである。しかし原書の索引作成者はthe Stracheysが誰のことかわからず、索引から落としている。原書の索引が、あてにならないことは、ここからもわかるはずである。
たとえ、それがあっても、書物全体の価値をいささかとも下げることのない、変なところを指摘することに、はまっている。繰り返すが、それを指摘したからといって、その本の価値が下がるということはまったくなく、また本の内容を褒めることすらあれ批判するつもりなどまったくないことをお断りしておきたいのだが、そうした本のひとつに
和泉雅人『迷宮学入門』(講談社現代新書、2000)がある。
この本は入門書あるいは新書として、実によくまとまっていて、限られたスペースのなかで「迷宮」について多くのことを教えてもらったし、また豊富な図版も見ていて楽しだけない。いろいろな文献で頻繁に使われる迷宮図をすべて網羅しているといってもいいくらいで、以後、どんな迷宮図をみても、この本のここにあったと確認できるほどのもので、図版の豊かさにも圧倒される。もちろん本文の記述も、明晰かつ的確で、さらなる思索へと導いてくれるものであって、誰にでも自信をもって奨めることができる名著である。
そして、指摘したいのは、この本の価値を少しも下げることのない、次のようなことである。
最後のあとがきで著者は、感謝の言葉を述べている
本書の成立過程ではさまざまな方々にご援助をいただいた。慶應義塾大学図書館のレファレンス、ILLスタッフの榎沢(現、日本橋学館大学図書館司書)、藤田、内山、城戸、昆、岡本をはじめとする諸氏には心からお礼を申し上げたい。また原稿のモニターをしてくださった木藤、榎沢、中村の諸氏にはほんとうにご面倒をおかけした。……(pp.225-226)
と、感謝の言葉はつづくのだが、図書館のスタッフにも感謝を捧げる著者の義理堅い、あるいは感謝の念を忘れない良心的な称賛すべき姿勢には、ただただ頭が下がるのだが、しかし、どうして姓だけなの。姓だけだと呼び捨て感が強いのだけれども、せっかく感謝をささげるのだから、どうしてフルネームにしないのか。姓だけだと、同姓の人とまぎれるかもしれないし、ジェンダーもわからない。私だったら、名字だけで感謝されるのはいやである。いや、これには深い事情がといわれるかもしれないが、深い事情があるのなら、最初から書かなければいいのであって、図書館のスタッフその他に感謝の言葉を述べるのは義務ではないのだから。
こんなことにばかり気が向いてしまっているので、前回のように、スピヴァクの『ある学問の死』のエラーコインみたいなミスをとりあげることになった。
だからといって、この翻訳書の価値が下がるということは絶対にない。また、もうひとつ取り上げようと思っていたのは、ミスではなくて、表記についての考え方の違いについてであって、私なりの考えを披露したいと思っていたのだが、その前に、イーグルトンの原書の、変な索引をとりあげた勢いで、著者も翻訳者も編集者も責任はないだろう、変な訳注について気づいてしまった。とはいえそれはAIがするようなミスでもないのだが。
もう一度、前回とりあげたとんでもない訳注(割り注形式)を思い出すと:
ブルームズベリ―・グループ:父の死後、ヴァージニアの家に、弟のエイドリアンを中心にケンブリッジ出身の学者・作家・批評家が集まって形成されたヴィクトリア朝期イギリスを代表する知識人グループ。
「ヴィクトリア朝期イギリスを代表する知識人グループ」というとんでもない記述は忘れることにしても、この注を翻訳者であり英文学者である鈴木聡氏が書いていないこと、またおそらく全責任をとるという上村忠男氏も書いていないこと、さらには編集者や校閲者が書いていないことは、今引用した訳注からも歴然としている。
それはヴァージニア・ウルフのことをヴァージニアとファーストネームで呼んでいるのだ。おまえの友達か?おそらく、鈴木先生も、上村先生も、学生が論文などのなかでヴァージニア・ウルフのことをヴァージニアとファースネームで書いていたら、やめるように注意するだろう。編集者や校閲者も、同じような苦言を呈することだろう。この訳注を書いた人間は、頭がぶっとんでいる。誰なのか知らないが。
【「父の死後、ヴァージニアの家に……」とあるのだが、「父レズリー・スティーヴンの死後」とあれば、つづくヴァージニアもエイドリアンも、ともにスティーヴンの姓を共有しているために、ファーストネームだけでよい。おそらく参考にした記述をまとめるときの不手際だろうが、不手際であることにかわりはない】
以下は、ぶっとんでいる訳注ではないが、また同じ人物が書いたのかどうかももちろんわからないのだが、こんな本文がある。
この言葉は、わたしたちが慣れ親しんできた居住空間をuncannyなものにするであろうか。いうまでもなく、わたしがここで思い浮かべているのは、英語の日常語における“uncanny”ではなくて、アリクス・ストレイチーがフロイトの用語“unheimlich”をそう訳したもののことである。それは、わが家同然に居心地のよいものが、なにか“unheimlich”なもの――無気味なもの/疎遠なもの――に一変することを意味している。p.126(スピヴァク『ある学問の死』上村忠男・鈴木聡訳(みすず書房2004))
この本文の「アリクス・ストレイチー」なる人物に
英語版フロイト著作集の訳者。
という訳注が割り注で入っている。
おそらく私程度の、たいした教養もない読者は、「アリクス・ストレイチー」って誰と不思議に思うにちがいない。私程度の、たいした教養もない読者にとって、英語版フロイトの著作集の翻訳者というのは、全体の監修者でもあるジェイムズ・ストレイチーなのだから。
フロイトの著作の英語版はStandard Editionといって、ドイツ語の著作集よりもはるかに権威のある著作集でもあった(かつては、あるいはいまもという人もいよう)。またフロイトの用語の英語訳については、翻訳者のジェイムズ・ストレイチーの翻訳が、これまでずっと称賛されたり批判されたりしていて、ジェイムズ・ストレイチーの名前はフロイトの名前ともに多くの読者の頭にこびりついている(もちろんジェイムズ・ストレイチーが有名なのは、ブルームズベリー・グループの一員であった作家の兄リットン・ストレイチーの弟だからでもあるのだが)。
ところがここにきて急にアリクス・ストレイチーなる人物が登場してきた。誰のことか。男か女かもわからない。Alexは男子名でAlixは女子名だが、いきなり「アリクス」と言われても、間違いではないがぴんとこない。
彼女はジェイムズ・ストレイチーの妻アリクス・ストレイチーで、夫ともに精神分析家で、フロイトに要請されて夫ともにフロイトの著作の翻訳をした。スタンダード・エディションも彼女と夫との共訳ということになっている。
フロイトの英語訳者といえばジェイムズ・ストレイチーであるという固定観念に縛られいた私程度の教養しかない読者には、英語訳者はアリクス・ストレイチーだと言われると、驚くほかはなく。夫の影にかくれて、翻訳者としての偉業もかすんでしまっているのだが、むしろ彼女こそが、英語訳をすべてこなした真の英語翻訳者なのか。そのことを(おそらく近年の研究の成果もあってのことだろう)、スピヴァクは、私たちに、フロイトの英訳者はアリクス・ストレイチーであると宣言したのかもしれない。私はこのとき自分の不明を恥じて、スピヴァクの前にひれ伏したくなった。
ちなみに『ある学問の死』の原書には索引(内容索引、人名索引)がついていて、そこにはAlix StracheyどころかStracheyという名前すら載っていない。これにはちょっと驚いた。翻訳をたよりに原書の場所をさがした。
I am, of course, not thinking of the English word “uncanny,” but of the Stracheys’ translation of Freud’s word unheimlich. . . . (pp.73-74)
この『ある学問の死』の翻訳というか日本語訳文についてはなんら問題ないことは原文を参照すればわかるのだが、問題は、スピヴァクはthe Stracheys(p.73)と、つまり「ストレイチー夫妻」とだけしか書いていないことだ。
夫ジェイムズを押しのけて真の影の主役翻訳者アリクスを前面に出して読者を驚かせる――私など、ひれ伏しそうになったのだが――、そんなことをスピヴァクはしていない。ただフロイトの英語訳著作集の翻訳がストレイチー夫妻の共訳であるということを述べているだけである。だから日本語翻訳者がアリクスの名前だけを出すことについては問題があり、もしそれに正当な理由があるのなら、それこそを割り注で説明すべきである。
なおこうした処理は、共訳のお二人、上村氏と鈴木氏がなされたこととは夢にも思わない。謎の「ヴァージニア、ブルームズベリー・グループ=ヴィクトリア朝」の訳注を書いた、どこかのバカは、脇役に執着していて、ヴァージニア・ウルフの弟で精神分析家のエイドリアンを出してきたり、ジェイムズ・ストレイチーを差し置いて、これも精神分析家のアリクス・ストレイチーを出しきたりと、脇役の精神分析家大好きの変わり者であろう。
というか、そういうふうにみえるほど、基本的な知識も教養も欠如しているのだ。
問題は、この変わり者によって、お二人の共訳がそこなわれてはいないかということである。せっかくよい翻訳が泥を塗られている、そんな気がしてならないのだ。
なおthe Stracheysと本文にあるので、原書の索引も、その項目を出すべきであった。もしスピヴァクが作成していたら、必ず、入れているはずである。しかし原書の索引作成者はthe Stracheysが誰のことかわからず、索引から落としている。原書の索引が、あてにならないことは、ここからもわかるはずである。
posted by ohashi at 01:48| 翻訳セミナー
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2021年09月21日
索引は誰が作る?
私は、翻訳を出すときは、索引をつけるようにしている。出版社にとっては迷惑な話かも知れないが、これまでに索引をことわられたことはない。もちろん出版社に迷惑をかけないように自分で作っている(共訳の場合も、自分でつくっている)。時には出版社の側で索引を用意すると言ってくれることもあるが、私は、自分で作るからと断っている。それでも、これまで、一冊か二冊は、出版社の編集部で作った索引があるが、それをのぞけば、私の翻訳は、自分で索引を作っている。
いまでは索引をつくるアプリとかソフトがあるのかもしれないが、私の場合は、全部、手作業である。生まれて初めて自分の翻訳に索引を作りはじめた頃、見本としたのが、自分が翻訳している原書の索引だった。つまり私の作る作品は、日本の本の通常の索引ではなく、やや洋書よりの索引だったのだ。
原書(洋書)についている索引の項目を日本語に直して五〇音順にならべる。ページ数は原書の頁そのままである。ほんとうに大昔は項目ごとにカードを作って、それに書き込んでいたが、さすがにコンピュータが使えるようになってからは、項目の並び替えも簡単にできる文書ファイルで索引は用意できた。
ゲラが最終段階になると、ゲラに原書のページ数と頁の区切りを大きく、はっきりみやすいように書き込む。そしてあとは索引にとりあえず記載した原書の頁を、ゲラのページ数に置き換える。手作業である。
索引用のアプリとかソフトでは、そんなことは手作業でなくて一瞬にしてできると思われるかもしれないが、先に述べたように私の作品は原書の索引をまねている。つまりたんに人名なら人名だけを拾うのではなく、「宗教」とか「自然」とか「絶滅危惧種」とか「世界動物の権利宣言」といった項目の場合、その項目に関係する部分、その項目をトピックとして論じている部分の頁をも索引に入れている。そのため「世界動物の権利宣言」というフレーズがなくとも、それを扱っている頁があれば、その頁が記載される。要は内容索引をつくることにしたのである。これが原書(洋書)の索引に寄せた索引という意味である。
それはけっこう手間がかかると思うかもしれないが、内容作品はすでに原書の索引でつくられているから、ただ項目名を翻訳し原書の頁を書き込んでおくだけである。人名索引も内容索引となっているものも多く、たとえば「ニーチェ」という語が出てこなくても、ニーチェを論じている頁があれば、その頁が索引に記載される。
こうなってくると、もう単純に単語とか人名を機械的に拾うだけではすまなくなる。コンピュータの仕事ではなく、人間の仕事である。それが面倒でも、コンピュータを出し抜ける楽しい作業となった。
ところがあるときから、この内容索引は、やめることが多くなった。面倒だということもその理由のひとつだが、原書に付けられている内容索引が、信用できなくなった、あるいは信用できないケースが出てきたからである。もっといえば、原書の索引は誰が作っているのかということが気になり出しからである。裏を返せば、原書の索引は、著者とか編集者がつくっていないのではないと確信できることが多く、そうなれば、内容索引、さらには通常の人名索引などの項目は、あてにならないとわかってきたのである。
その一例を示す前に、付け加えておくと、たとえばナボコフの『青白い炎』は、いまでは岩波文庫で富士川義之先生の翻訳で読むことができるのだが、これは架空のアメリカの詩人が書いた長編詩の全文(翻訳の場合には、長編詩の英語と、その日本語訳も付く)と、その詩作品について、その詩作品よりも長い註釈を付けた、ある種前衛的なとんでもない作品なのだが、富士川先生の名訳で、実は、最後まで読めてしまい、貴重な読書体験をすることができる。
この本の最後には、解説・注解付きの索引がつく。正確にいうと、その索引は内容索引もかねている。私のつくる索引は、簡単な訳注の変わりにもなることもねらっていて、人名には、生年ならびに、あれば没年、そして簡単な説明――小説家とか詩人とか、社会学者とかいうような――を付けている。そして内容索引にもなっていることになる。
実は、ナボコフの『青白い炎』の索引は、学術書とか翻訳書にある注解付き内容索引のパロディみたいなものかもしれない(私が作るような索引のパロディなのかもしれない)のだが、とにかく内容作品と注解付き索引は、注解書とか翻訳書には多い。
今、私の手元にはハンナ・アーレントが編集し序文を書いたベンヤミンの英語訳評論集Illuminations(1969)があるのだが、この翻訳に付いている人名索引は、実に的確な注解付き索引となっている。アドルノはまだ存命中なのだが、ドイツ人、哲学と社会学の教授とある。ボードレールとベートーヴェンには生没年の記載はあるが注解はなし。有名人だから。この注解付き索引は、いまも、私が作る索引の手本となってくれている。そして、このベンヤミンの英語訳評論集の索引は、翻訳者か編集者が作ったもので、信頼性が高い。
しかしナボコフの『青白い炎』の内容/注解索引は、出版事情を知っているナボコフが、あえて、凡庸な、なくてもいいような索引をパロディとして作ったのではという疑いを私はもっているのだが、一般に洋書の索引は、あてにならないものが多いといえるのかもしれない。
かつては私も原書の索引を翻訳して、索引を作っていたが、いまでは自分で人名を拾ったり、内容索引の場合も、自分で項目を選んだりするか、あるいは内容索引は作らないようにするとか、いろいろ工夫をするようになった。私の索引造りも、相変わらず手作業だが、内容は多少は進化したのかもしれない。
今度、Terry Eagleton, Culture and the Death of God(2014)の翻訳を共訳で出版することになったのだが(順調にいけば年内――翻訳出版が遅くなったのは、私の怠慢もあるがコロナ禍のせいでもある)、その索引もすでに作り終えたのだが、原書の索引のなかに
という奇妙な項目があった。数字は該当ページを示す。Bumptiousというのは「バンプシャス」という人名なのか。しかし、そんな人名出てきた記憶はないし、Bumptiousというのは、どうみても「傲慢な」とか「押しの強い」という形容詞にみえる。
George Iというは「ジョージ一世」のことだから、ジョージ一世が傲慢だという悪口なのか、あるいはジョージ一世のあだ名なのか。しかしあだ名としても、あだ名のをほうを固有名詞よりも先に出して項目とするというのはなんとも変な話ではないか。ちなみにジョージ一世のことを非難したりあだ名で呼んでいた箇所は、本文にはなかったように思う。
本文の該当箇所を調べてみた:
下線部のところだけみてもらえればと思うが、Bumptiousはジョージ一世(George I)とは関係なく、つぎの一文の主語であるheを修飾する形容句の一部である。
つまり傲慢なのはジョージ一世ではなく、その文の主語である「彼」である。具体的にいうとジョン・トーランド(17世紀から18世紀にかけて活躍したアイルランドの自由思想家・理神論思想家)のことである。
ちなみに、その索引は、ジョージ一世の項目はない。まあ、歴史的には重要人物でも、本文中の論述において大きな役割を果たしてはいないので、なくてもいいようなものだが、それにしてもBumptious, George I.という項目にはあきれかえる。
これは絶対に、この索引を、著者や編集者あるいは校閲者が作っているのではないことの証拠であろう。ここまでするのは尋常ではない。そもそも人間業ではない。おそらくAIが機械的に拾って、とんでもないミスをしでかしたということだろう。ただ、それにしても、イェール大学出版局ともあろうものが、このミスに気づかないというのは、索引そのものが、軽んじられているのか、いい加減なものなのかもしれない。
私が作る作品は、手作りなので、AIに頼っていないぶん、たとえミスがあっても、こんな人間離れしたミスはしていないので、ご安心を。また私の索引は、外部に依頼してもいないので、けっこう信頼のおけるものであることは、ここに自信をもって告げておきたい。
いまでは索引をつくるアプリとかソフトがあるのかもしれないが、私の場合は、全部、手作業である。生まれて初めて自分の翻訳に索引を作りはじめた頃、見本としたのが、自分が翻訳している原書の索引だった。つまり私の作る作品は、日本の本の通常の索引ではなく、やや洋書よりの索引だったのだ。
原書(洋書)についている索引の項目を日本語に直して五〇音順にならべる。ページ数は原書の頁そのままである。ほんとうに大昔は項目ごとにカードを作って、それに書き込んでいたが、さすがにコンピュータが使えるようになってからは、項目の並び替えも簡単にできる文書ファイルで索引は用意できた。
ゲラが最終段階になると、ゲラに原書のページ数と頁の区切りを大きく、はっきりみやすいように書き込む。そしてあとは索引にとりあえず記載した原書の頁を、ゲラのページ数に置き換える。手作業である。
索引用のアプリとかソフトでは、そんなことは手作業でなくて一瞬にしてできると思われるかもしれないが、先に述べたように私の作品は原書の索引をまねている。つまりたんに人名なら人名だけを拾うのではなく、「宗教」とか「自然」とか「絶滅危惧種」とか「世界動物の権利宣言」といった項目の場合、その項目に関係する部分、その項目をトピックとして論じている部分の頁をも索引に入れている。そのため「世界動物の権利宣言」というフレーズがなくとも、それを扱っている頁があれば、その頁が記載される。要は内容索引をつくることにしたのである。これが原書(洋書)の索引に寄せた索引という意味である。
それはけっこう手間がかかると思うかもしれないが、内容作品はすでに原書の索引でつくられているから、ただ項目名を翻訳し原書の頁を書き込んでおくだけである。人名索引も内容索引となっているものも多く、たとえば「ニーチェ」という語が出てこなくても、ニーチェを論じている頁があれば、その頁が索引に記載される。
こうなってくると、もう単純に単語とか人名を機械的に拾うだけではすまなくなる。コンピュータの仕事ではなく、人間の仕事である。それが面倒でも、コンピュータを出し抜ける楽しい作業となった。
ところがあるときから、この内容索引は、やめることが多くなった。面倒だということもその理由のひとつだが、原書に付けられている内容索引が、信用できなくなった、あるいは信用できないケースが出てきたからである。もっといえば、原書の索引は誰が作っているのかということが気になり出しからである。裏を返せば、原書の索引は、著者とか編集者がつくっていないのではないと確信できることが多く、そうなれば、内容索引、さらには通常の人名索引などの項目は、あてにならないとわかってきたのである。
その一例を示す前に、付け加えておくと、たとえばナボコフの『青白い炎』は、いまでは岩波文庫で富士川義之先生の翻訳で読むことができるのだが、これは架空のアメリカの詩人が書いた長編詩の全文(翻訳の場合には、長編詩の英語と、その日本語訳も付く)と、その詩作品について、その詩作品よりも長い註釈を付けた、ある種前衛的なとんでもない作品なのだが、富士川先生の名訳で、実は、最後まで読めてしまい、貴重な読書体験をすることができる。
この本の最後には、解説・注解付きの索引がつく。正確にいうと、その索引は内容索引もかねている。私のつくる索引は、簡単な訳注の変わりにもなることもねらっていて、人名には、生年ならびに、あれば没年、そして簡単な説明――小説家とか詩人とか、社会学者とかいうような――を付けている。そして内容索引にもなっていることになる。
実は、ナボコフの『青白い炎』の索引は、学術書とか翻訳書にある注解付き内容索引のパロディみたいなものかもしれない(私が作るような索引のパロディなのかもしれない)のだが、とにかく内容作品と注解付き索引は、注解書とか翻訳書には多い。
今、私の手元にはハンナ・アーレントが編集し序文を書いたベンヤミンの英語訳評論集Illuminations(1969)があるのだが、この翻訳に付いている人名索引は、実に的確な注解付き索引となっている。アドルノはまだ存命中なのだが、ドイツ人、哲学と社会学の教授とある。ボードレールとベートーヴェンには生没年の記載はあるが注解はなし。有名人だから。この注解付き索引は、いまも、私が作る索引の手本となってくれている。そして、このベンヤミンの英語訳評論集の索引は、翻訳者か編集者が作ったもので、信頼性が高い。
しかしナボコフの『青白い炎』の内容/注解索引は、出版事情を知っているナボコフが、あえて、凡庸な、なくてもいいような索引をパロディとして作ったのではという疑いを私はもっているのだが、一般に洋書の索引は、あてにならないものが多いといえるのかもしれない。
かつては私も原書の索引を翻訳して、索引を作っていたが、いまでは自分で人名を拾ったり、内容索引の場合も、自分で項目を選んだりするか、あるいは内容索引は作らないようにするとか、いろいろ工夫をするようになった。私の索引造りも、相変わらず手作業だが、内容は多少は進化したのかもしれない。
今度、Terry Eagleton, Culture and the Death of God(2014)の翻訳を共訳で出版することになったのだが(順調にいけば年内――翻訳出版が遅くなったのは、私の怠慢もあるがコロナ禍のせいでもある)、その索引もすでに作り終えたのだが、原書の索引のなかに
Bumptious, George I. 28
という奇妙な項目があった。数字は該当ページを示す。Bumptiousというのは「バンプシャス」という人名なのか。しかし、そんな人名出てきた記憶はないし、Bumptiousというのは、どうみても「傲慢な」とか「押しの強い」という形容詞にみえる。
George Iというは「ジョージ一世」のことだから、ジョージ一世が傲慢だという悪口なのか、あるいはジョージ一世のあだ名なのか。しかしあだ名としても、あだ名のをほうを固有名詞よりも先に出して項目とするというのはなんとも変な話ではないか。ちなみにジョージ一世のことを非難したりあだ名で呼んでいた箇所は、本文にはなかったように思う。
本文の該当箇所を調べてみた:
It is also possible that he had an affair with the sister of George I. Bumptious, intemperate and pathologically indiscreet, a champion of Judaism and an apologist for Islam, he probably invented the term ‘pantheist ’ along with the title ‘freethinker’.
下線部のところだけみてもらえればと思うが、Bumptiousはジョージ一世(George I)とは関係なく、つぎの一文の主語であるheを修飾する形容句の一部である。
つまり傲慢なのはジョージ一世ではなく、その文の主語である「彼」である。具体的にいうとジョン・トーランド(17世紀から18世紀にかけて活躍したアイルランドの自由思想家・理神論思想家)のことである。
ちなみに、その索引は、ジョージ一世の項目はない。まあ、歴史的には重要人物でも、本文中の論述において大きな役割を果たしてはいないので、なくてもいいようなものだが、それにしてもBumptious, George I.という項目にはあきれかえる。
これは絶対に、この索引を、著者や編集者あるいは校閲者が作っているのではないことの証拠であろう。ここまでするのは尋常ではない。そもそも人間業ではない。おそらくAIが機械的に拾って、とんでもないミスをしでかしたということだろう。ただ、それにしても、イェール大学出版局ともあろうものが、このミスに気づかないというのは、索引そのものが、軽んじられているのか、いい加減なものなのかもしれない。
私が作る作品は、手作りなので、AIに頼っていないぶん、たとえミスがあっても、こんな人間離れしたミスはしていないので、ご安心を。また私の索引は、外部に依頼してもいないので、けっこう信頼のおけるものであることは、ここに自信をもって告げておきたい。
posted by ohashi at 17:07| エッセイ
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2021年09月07日
『ある学問の死』1
G.C.スピヴァク『ある学問の死――惑星思考の比較文学へ』上村忠男・鈴木聡訳、みすず書房、2004
中断していた翻訳セミナーを再開したい。とはいえ、今回扱う本は、原著も難物で、誰が訳しても、うまく訳せない代物なのだが、けなすためではない。むしろ推薦図書として語ってもいいくらいである。ただし難物。もちろん私がこれをしのぐ翻訳ができるということはまったくない。誰が訳しても、むつかしい原著との、ごく簡単な比較を通して、翻訳とはほんとうに難しいものだということを確認したい。AIには手が出せない領域である。
なお、手始めに翻訳そのものとは関係ない話題を2題。今回はそのうち1題。あまりにくだらないミスなので、この翻訳の価値を下げるものではないことは明言しておきたい。それに古い本でもあるし、このミスは、ひょっとしてネットなどで話題になったかもしれず、新しい版(があるかどうか確認していないが)では、そのミスは訂正されていると思うので、あくまでも昔こんなことがありましたという笑い話として、知らない人は読んでもらいたい。
このミスは、たとえていうならエラーコイン、エラー紙幣のようなものである。たとえば50円硬貨の真ん中に開いている穴がずれていたり、コインの両面に同じ模様が刻まれていたりするのがエラーコイン。あるいは印刷がずれている紙幣がエラー紙幣。ほんらい、こうしたコインや紙幣は、事前にチェックされて、市場に出回らないのだが、奇跡的にチェックを逃れ市場に出回り、珍しいため、高額で取引されたりするもの。それと同じと考えていいようなミスが、『ある学問の死』のなかにある。
p.54に割注のなかにこんな驚愕すべき訳注がある。
実は、これは小さい字の割注で、私は読んだときに気づかなかった。しかし、東京大学の英文研究室に所属する大学院生のひとりは、当時、教員だった私に、こんなひどり注がついているのですよと、このページを指摘してくれた。
たしかに、その割注を読んで、思わず「あっ」と声が出た。たしかにひどいと、私もその大学院生にもらした。
ブルームズベリ―・グループについては、たとえば、ランダムハウス英語大辞典の定義
とある。もちろん説明の仕方や盛り込む情報はいろいろあれど、20世紀初頭に活躍したグループであって、断じて、ヴィクトリア朝期イギリスの知識人グループではない。ヴィクトリア朝期というのはヴィクトリア女王の在位期間とすれば1837-1901年。ブルームズベリ―グループは、この時期には属していない。
東大の大学院生があきれかえるのは、よくわかる。むしろ笑ってしまうくらいに、ありえないミスである。
ただ、そのとき、この訳注を書いたのは、二人の訳者のうち、英文学が専門の鈴木聡氏の責任ということになるので、鈴木氏を個人的にも知っている私としては、全力で、鈴木氏を弁護した。鈴木先生は、几帳面な人で、人一倍、正確さと緻密さを重んずいる人で、どんなにうっかりしても、ブルームズベリ―グループを、ヴィクトリア朝期の知識人グループなどと書くわけがない。たとえ鈴木先生を拷問しても、あるいは鈴木先生にお金を積んでも、このような訳注を書かせることはできない。こんな訳注を書いたら、英文学者として、永久にアウトだからである。
これは本気で述べている。もし、誰かが、天地神明に誓って、これは鈴木さんが書いた訳注だと語っても、嘘をつくなら、もっと、もっともらしい嘘をつけと、私は絶対に信じない。鈴木氏の名誉のために言っておくが、絶対に鈴木氏が書いてはいない。
では、誰が書いたのか。訳者あとがきには「最終責任は上村にある」と書かれているが、「最終責任は」云々というのは、ほとんどの場合、リップサービスである。だから上村氏には責任はないだろう。
では、誰が、この訳注を書いたのか。英文学者にとって、ブルームズベリ―・グループは基本的常識の範囲内だが、英文学が専門ではない者にとっては、やはり未知の情報かもしれない。では、それは東京外国語大学の協力者(学生・院生?)かということになるが、東京外国語大学出身の優秀な学生を多く知っている私としては、彼らに責任があるとは思えない。
べつに犯人捜しをするつもりはないし、そもそもくわしい事情など知る由もないので、なにか確定的なことをいうつもりはないが、ただ、このあり得ないミスが印刷してある本は、珍しいという点でも価値がある。その後の版で、このミスがなおっていたとしら、なおのこと訂正前の版はもっていると価値があるだろう(値打ちではなく、価値。べつに本としての稀覯本みたいに価格があがるわけではないとしても)。
中断していた翻訳セミナーを再開したい。とはいえ、今回扱う本は、原著も難物で、誰が訳しても、うまく訳せない代物なのだが、けなすためではない。むしろ推薦図書として語ってもいいくらいである。ただし難物。もちろん私がこれをしのぐ翻訳ができるということはまったくない。誰が訳しても、むつかしい原著との、ごく簡単な比較を通して、翻訳とはほんとうに難しいものだということを確認したい。AIには手が出せない領域である。
なお、手始めに翻訳そのものとは関係ない話題を2題。今回はそのうち1題。あまりにくだらないミスなので、この翻訳の価値を下げるものではないことは明言しておきたい。それに古い本でもあるし、このミスは、ひょっとしてネットなどで話題になったかもしれず、新しい版(があるかどうか確認していないが)では、そのミスは訂正されていると思うので、あくまでも昔こんなことがありましたという笑い話として、知らない人は読んでもらいたい。
このミスは、たとえていうならエラーコイン、エラー紙幣のようなものである。たとえば50円硬貨の真ん中に開いている穴がずれていたり、コインの両面に同じ模様が刻まれていたりするのがエラーコイン。あるいは印刷がずれている紙幣がエラー紙幣。ほんらい、こうしたコインや紙幣は、事前にチェックされて、市場に出回らないのだが、奇跡的にチェックを逃れ市場に出回り、珍しいため、高額で取引されたりするもの。それと同じと考えていいようなミスが、『ある学問の死』のなかにある。
p.54に割注のなかにこんな驚愕すべき訳注がある。
ブルームズベリ―・グループ:父の死後、ヴァージニアの家に、弟のエイドリアンを中心にケンブリッジ出身の学者・作家・批評家が集まって形成されたヴィクトリア朝期イギリスを代表する知識人グループ。
実は、これは小さい字の割注で、私は読んだときに気づかなかった。しかし、東京大学の英文研究室に所属する大学院生のひとりは、当時、教員だった私に、こんなひどり注がついているのですよと、このページを指摘してくれた。
たしかに、その割注を読んで、思わず「あっ」と声が出た。たしかにひどいと、私もその大学院生にもらした。
ブルームズベリ―・グループについては、たとえば、ランダムハウス英語大辞典の定義
((the Bloomsbury Group))ブルームズベリー・グループ:20世紀初頭(1907-1930)にBloomsburyに集まった文学者・知識人の集団。
とある。もちろん説明の仕方や盛り込む情報はいろいろあれど、20世紀初頭に活躍したグループであって、断じて、ヴィクトリア朝期イギリスの知識人グループではない。ヴィクトリア朝期というのはヴィクトリア女王の在位期間とすれば1837-1901年。ブルームズベリ―グループは、この時期には属していない。
東大の大学院生があきれかえるのは、よくわかる。むしろ笑ってしまうくらいに、ありえないミスである。
ただ、そのとき、この訳注を書いたのは、二人の訳者のうち、英文学が専門の鈴木聡氏の責任ということになるので、鈴木氏を個人的にも知っている私としては、全力で、鈴木氏を弁護した。鈴木先生は、几帳面な人で、人一倍、正確さと緻密さを重んずいる人で、どんなにうっかりしても、ブルームズベリ―グループを、ヴィクトリア朝期の知識人グループなどと書くわけがない。たとえ鈴木先生を拷問しても、あるいは鈴木先生にお金を積んでも、このような訳注を書かせることはできない。こんな訳注を書いたら、英文学者として、永久にアウトだからである。
これは本気で述べている。もし、誰かが、天地神明に誓って、これは鈴木さんが書いた訳注だと語っても、嘘をつくなら、もっと、もっともらしい嘘をつけと、私は絶対に信じない。鈴木氏の名誉のために言っておくが、絶対に鈴木氏が書いてはいない。
では、誰が書いたのか。訳者あとがきには「最終責任は上村にある」と書かれているが、「最終責任は」云々というのは、ほとんどの場合、リップサービスである。だから上村氏には責任はないだろう。
では、誰が、この訳注を書いたのか。英文学者にとって、ブルームズベリ―・グループは基本的常識の範囲内だが、英文学が専門ではない者にとっては、やはり未知の情報かもしれない。では、それは東京外国語大学の協力者(学生・院生?)かということになるが、東京外国語大学出身の優秀な学生を多く知っている私としては、彼らに責任があるとは思えない。
べつに犯人捜しをするつもりはないし、そもそもくわしい事情など知る由もないので、なにか確定的なことをいうつもりはないが、ただ、このあり得ないミスが印刷してある本は、珍しいという点でも価値がある。その後の版で、このミスがなおっていたとしら、なおのこと訂正前の版はもっていると価値があるだろう(値打ちではなく、価値。べつに本としての稀覯本みたいに価格があがるわけではないとしても)。
posted by ohashi at 01:22| 翻訳セミナー
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2021年09月03日
『ラン・ローラ・ラン』
タイム・ループ映画の傑作というのは、いくつもあって、たとえば『時をかける少女』は、そうした映画のひとつだが、時間旅行あるいは時間反復には、「駆ける」イメージが強い、さらにいえば身体の移動・運動のイメージがあって、これに女性あるいは少女の身体とくれば、映画の王道ともいうべきモチーフとなる。
タイム・ループ映画の傑作として『時をかける少女』を思い出したので、もうひとつの少女がかける映画を思い出した。『ラン・ローラ・ラン』(1998)である。
ドイツ語の原題はLola renntだが英語のタイトルRun Lora Runのほうが有名で、トム・ティクヴァ監督の出世作にして代表作である。
この映画で、ローラは20分間、3回走る。同じ道すじを(寄り道もするが)、同じ目的をもって、3回走る。一回目、ローラは、予定された時間に間に合わず、ボーイフレンドを救えない。こんなはずではなかったという、ローラの悔しい思いのなか、映画は、ローラ疾走のはじまりに戻る。ローラは再び階段を駆け下りて、父のところへ行く……。
なぜ物語がループするかについての説明はない。多くのタイム・ループ映画が、SF的な設定のなかでタイム・ループの起こる理由を説明しようとする(『時をかける少女』もSFである)。しかし『ラン・ローラ・ラン』は、何の理由も説明もなく、ローラは最初にもどり走りはじめるのだが、しかし説明がないほうが、リアリティがある。
なぜなら、私たちは、あるいは私たちの時代は、タイムマシンをもっていなくても、つねに頭のなかでタイム・ループしているからである。まさにローラのように、取り返しのつかない失敗に直面して、後悔のなか、ああすればよかった、あるいはもしこうなっていたら、失敗は回避できたと、頭のなかで繰り返す――過去の始まりの時点にもどって、もう一度、出来事を検証することは、誰もが、また私のように失敗と不幸しか伴わない人生を送る者にとってはとりわけ、頭のなかで常に行っていることだ。
おそらく成功したときは、もう一度出来事を振り返って、別ヴァージョンの進行と結果を想像することはないだろう。とはいえ、フロイト的に考えれば、成功した者も、無意識のうちには失敗していた可能性を想起して冷や汗をかいている。落第したり受験に失敗したりする悪夢をみるのは、合格した者か、一度も落第したことのない者だけらしい(ほんとうに落第した者は、落第する悪夢をみないということだ)。
となると結局、成功した者も、失敗したかもしれない可能性を悪夢として夢にみる。早く抜けだしたいと思いながら、失敗を繰り返す悪夢にうなされつづける。人間、誰しもループを夢にみるということか。
これはフロイトのいう反復強迫とも関係する。私たちは嫌なことを経験したとき、それを早く忘れたほうがいいのに、嫌なことを何度も思い出す。それも物語のように、はじめと中と終わりがあるかたちで思い起だす。すんでしまったことをあれこれ思い起こしても、何も始まらないのに、何度も思い出して、その都度、嫌な思いをする。何度も思い出せば、嫌なことに免疫ができそうなものだが、トラウマとして残るこの嫌なことは、歴史を知らない。それは、いつまでも新鮮で、それは、たったいま起こったかのように、新鮮なまま、その強度をいささかなりとも減ずることなく、私たちに嫌な思いをさせる。私たちは、いつでもタイム・ループしているのである。
ともあれ、この映画のなかで、ローラが3回も走ることは、失敗し、もはや死にゆく、あるいは死をみとる者がみる、いまひとつ可能性の夢であり、二回目の夢も実は満足のゆくものではなかったので、ハッピーエンドを求めて三回までも夢にみるということになる。
ネタバレだが、三回目は、奇跡的にすべてがうまくいく。ローラも、ふつうならどうやっても捻出できない大金を、奇跡的な幸運に恵まれて作ることができる。恋人とも生きたまま結ばれる。だが、これは映画の撮影上の理由から、人も車もまだ姿をみせない早朝のロケしかできなかったためらしいのだが、二人が生きて再会するは、なんとも寒々とした、人っ子一人いない死の街角という風情なのだ。おそらく再会のハッピーエンドでは、二人はもう死んでいるのだろう。再会は生者の喧噪の街角ではなく、死者の、あるいは真空の街角で起こる――あたかも、それが死ぬ直前に夢に見た再会の幻であるかのように。それがこの映画のひとつの解釈でもある――実際問題として、この映画の恋人二人には、たとえいくらハッピーエンディングが用意されていても、どうみても明日はないように思われるのだから。
『ラン・ローラ・ラン』をみてアメリカのホラー・タイムループ映画『ハッピー・デス・デイ』Happy Death Day(2017)を思い出すのは、すこし異様に思われるかもしれない。なにしろ続編(『ハッピー・デス・デイ2u』Happy Death Day 2U(2019))もつくられたこの映画では、主人公の女子大生は、月曜日に殺されるたびに、同じ月曜日をやりなおすことになる(典型的なタイム・ループ物)。その女子大生は、自分を殺す犯人をつきとめて、犯人を出し抜くこと(正確には犯人を死に追いやること)で、次の火曜日を迎えることになる。それだけでじゅうぶんに面白い映画だったが、続編がつくられたときには、なぜタイム・ループが起きたのか、SF的な説明が加わることになった。
そのため、どこが、非SF映画である『ラン・ローラ・ラン』と同じなのかと批判されそうだし、この映画のなかで言及されるのが、もう一つの傑作タイム・ループ映画『恋はデジャブ』であって、『ラン・ローラ・ラン』は影も形もないといわればその通りである。
だが、『ラン・ローラ・ラン』は、この映画に影響を残している。それは主人公の女子大生が見知らぬ男子学生の部屋で目覚め(酔い潰れて、この男子学生に介抱されて、彼女が、彼のベッドを使わせてもらうことになったということなのだが――ちなみに彼女の初期設定はビッチである)、唖然として驚き、不可解な思いを抱きながら、彼女が自分の女子寮の部屋へと帰るとき、彼女のキャンパス内の歩み(その途中で彼女はいくつかのイヴェントや学たちに出会う)、そのビッチ・ウオーキング、それを正面から捉える映像は、この映画のトークンといっていい。そのウォーキングが、何度も繰り返される(このウォーキングには全裸ヴァージョンもある)。続編でも、彼女がふたたびループにとらわれると、このウォーキング・シーンが登場する。まさに映画のトークン。『時をかけるビッチ』。
実のところ『ラン・ローラ・ラン』は、『時をかけるビッチ』と言っていいのだが。その内容からして。
『ラン・ローラ・ラン』の影響は明らかである。ローラの動きは、右から左への(全部がそうではないが)横移動であり、その見事な走りっぷりは、まさに時をかける少女(いや、時をかけるビッチ)ともいうべき身体的な存在感・運動感をみなぎらせている。いっぽう『ハッピー・デス・デイ』では、基本的に左から右への移動で、走るのではなく、闊歩するウォーキングで、それも横移動というよりも縦移動、人物を正面からとらえるか、一人称的にカメラが人物になりきるかのいずれかであるのだが、それでも、この映画における身体的な存在感・運動感を引き受けることは否めない。そして、こうした少女的女性の身体運度の強度は、『恋はデジャブ』には見出せないのである。
なお『ハッピー・デス・デイ』とその続編については、日をあらためて簡単に論ずることになろう。
タイム・ループ映画の傑作として『時をかける少女』を思い出したので、もうひとつの少女がかける映画を思い出した。『ラン・ローラ・ラン』(1998)である。
ドイツ語の原題はLola renntだが英語のタイトルRun Lora Runのほうが有名で、トム・ティクヴァ監督の出世作にして代表作である。
この映画で、ローラは20分間、3回走る。同じ道すじを(寄り道もするが)、同じ目的をもって、3回走る。一回目、ローラは、予定された時間に間に合わず、ボーイフレンドを救えない。こんなはずではなかったという、ローラの悔しい思いのなか、映画は、ローラ疾走のはじまりに戻る。ローラは再び階段を駆け下りて、父のところへ行く……。
なぜ物語がループするかについての説明はない。多くのタイム・ループ映画が、SF的な設定のなかでタイム・ループの起こる理由を説明しようとする(『時をかける少女』もSFである)。しかし『ラン・ローラ・ラン』は、何の理由も説明もなく、ローラは最初にもどり走りはじめるのだが、しかし説明がないほうが、リアリティがある。
なぜなら、私たちは、あるいは私たちの時代は、タイムマシンをもっていなくても、つねに頭のなかでタイム・ループしているからである。まさにローラのように、取り返しのつかない失敗に直面して、後悔のなか、ああすればよかった、あるいはもしこうなっていたら、失敗は回避できたと、頭のなかで繰り返す――過去の始まりの時点にもどって、もう一度、出来事を検証することは、誰もが、また私のように失敗と不幸しか伴わない人生を送る者にとってはとりわけ、頭のなかで常に行っていることだ。
おそらく成功したときは、もう一度出来事を振り返って、別ヴァージョンの進行と結果を想像することはないだろう。とはいえ、フロイト的に考えれば、成功した者も、無意識のうちには失敗していた可能性を想起して冷や汗をかいている。落第したり受験に失敗したりする悪夢をみるのは、合格した者か、一度も落第したことのない者だけらしい(ほんとうに落第した者は、落第する悪夢をみないということだ)。
となると結局、成功した者も、失敗したかもしれない可能性を悪夢として夢にみる。早く抜けだしたいと思いながら、失敗を繰り返す悪夢にうなされつづける。人間、誰しもループを夢にみるということか。
これはフロイトのいう反復強迫とも関係する。私たちは嫌なことを経験したとき、それを早く忘れたほうがいいのに、嫌なことを何度も思い出す。それも物語のように、はじめと中と終わりがあるかたちで思い起だす。すんでしまったことをあれこれ思い起こしても、何も始まらないのに、何度も思い出して、その都度、嫌な思いをする。何度も思い出せば、嫌なことに免疫ができそうなものだが、トラウマとして残るこの嫌なことは、歴史を知らない。それは、いつまでも新鮮で、それは、たったいま起こったかのように、新鮮なまま、その強度をいささかなりとも減ずることなく、私たちに嫌な思いをさせる。私たちは、いつでもタイム・ループしているのである。
ともあれ、この映画のなかで、ローラが3回も走ることは、失敗し、もはや死にゆく、あるいは死をみとる者がみる、いまひとつ可能性の夢であり、二回目の夢も実は満足のゆくものではなかったので、ハッピーエンドを求めて三回までも夢にみるということになる。
ネタバレだが、三回目は、奇跡的にすべてがうまくいく。ローラも、ふつうならどうやっても捻出できない大金を、奇跡的な幸運に恵まれて作ることができる。恋人とも生きたまま結ばれる。だが、これは映画の撮影上の理由から、人も車もまだ姿をみせない早朝のロケしかできなかったためらしいのだが、二人が生きて再会するは、なんとも寒々とした、人っ子一人いない死の街角という風情なのだ。おそらく再会のハッピーエンドでは、二人はもう死んでいるのだろう。再会は生者の喧噪の街角ではなく、死者の、あるいは真空の街角で起こる――あたかも、それが死ぬ直前に夢に見た再会の幻であるかのように。それがこの映画のひとつの解釈でもある――実際問題として、この映画の恋人二人には、たとえいくらハッピーエンディングが用意されていても、どうみても明日はないように思われるのだから。
『ラン・ローラ・ラン』をみてアメリカのホラー・タイムループ映画『ハッピー・デス・デイ』Happy Death Day(2017)を思い出すのは、すこし異様に思われるかもしれない。なにしろ続編(『ハッピー・デス・デイ2u』Happy Death Day 2U(2019))もつくられたこの映画では、主人公の女子大生は、月曜日に殺されるたびに、同じ月曜日をやりなおすことになる(典型的なタイム・ループ物)。その女子大生は、自分を殺す犯人をつきとめて、犯人を出し抜くこと(正確には犯人を死に追いやること)で、次の火曜日を迎えることになる。それだけでじゅうぶんに面白い映画だったが、続編がつくられたときには、なぜタイム・ループが起きたのか、SF的な説明が加わることになった。
そのため、どこが、非SF映画である『ラン・ローラ・ラン』と同じなのかと批判されそうだし、この映画のなかで言及されるのが、もう一つの傑作タイム・ループ映画『恋はデジャブ』であって、『ラン・ローラ・ラン』は影も形もないといわればその通りである。
だが、『ラン・ローラ・ラン』は、この映画に影響を残している。それは主人公の女子大生が見知らぬ男子学生の部屋で目覚め(酔い潰れて、この男子学生に介抱されて、彼女が、彼のベッドを使わせてもらうことになったということなのだが――ちなみに彼女の初期設定はビッチである)、唖然として驚き、不可解な思いを抱きながら、彼女が自分の女子寮の部屋へと帰るとき、彼女のキャンパス内の歩み(その途中で彼女はいくつかのイヴェントや学たちに出会う)、そのビッチ・ウオーキング、それを正面から捉える映像は、この映画のトークンといっていい。そのウォーキングが、何度も繰り返される(このウォーキングには全裸ヴァージョンもある)。続編でも、彼女がふたたびループにとらわれると、このウォーキング・シーンが登場する。まさに映画のトークン。『時をかけるビッチ』。
実のところ『ラン・ローラ・ラン』は、『時をかけるビッチ』と言っていいのだが。その内容からして。
『ラン・ローラ・ラン』の影響は明らかである。ローラの動きは、右から左への(全部がそうではないが)横移動であり、その見事な走りっぷりは、まさに時をかける少女(いや、時をかけるビッチ)ともいうべき身体的な存在感・運動感をみなぎらせている。いっぽう『ハッピー・デス・デイ』では、基本的に左から右への移動で、走るのではなく、闊歩するウォーキングで、それも横移動というよりも縦移動、人物を正面からとらえるか、一人称的にカメラが人物になりきるかのいずれかであるのだが、それでも、この映画における身体的な存在感・運動感を引き受けることは否めない。そして、こうした少女的女性の身体運度の強度は、『恋はデジャブ』には見出せないのである。
なお『ハッピー・デス・デイ』とその続編については、日をあらためて簡単に論ずることになろう。
posted by ohashi at 23:01| 映画 タイムループ
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