もしそんなことが可能なら、しかし、本当に自分で自分の運命を変えてしまったら、自分はもとの自分に戻れないし、そもそも変わる前の自分と変わってからの自分を比較できないわけだから、運命が変わったかどうかもわからないのことにある。
ただ、それを厳密に(あるいは荒唐無稽に)考えなければ、一般論として、私たちは、未来から来た自分あるいは過去から来た自分に指示をあおいだり、指示を受けたりしている。これは私たちの内省的思考において、ごく当たり前のことであって、私たちは宇宙に一人いるわけではない。見えない分身がもう一人いて、その分身から絶えず情報と洞察をもらっている。私たちは自分の意識のなかでタイムトラベルができるし、私たちは自己の分身なくして行動も思考もできないのである。
こう考えればタイムトラベル物の設定は、私たちの意識における、もう一人の自分との交渉をわかりやすく示したものといえなくもない。
今回扱う『黒い箱のアリス』原題Black Hollow Cage(2017)は、無気味で静かな展開を特徴とする映画かと思うと、その静けさは、映画=メランコリック・スケープにふさわしく、交通事故で、妻を亡くし、また別の夫婦を犠牲にし、生き残った自分の娘も、片腕を失い、犬を自分の母とみている異常者になってしまっている男(娘の父親)の心象風景が映画だというふうにわかってくる。
日本での評判は、わかれている。
基本的に知名度の低い監督だし、登場する俳優たちについても、知らない者たちばかりで、しかも、あれこれ疑似科学的な説明をするSF映画でもなく、むしろファンタジーに近いので、予想した映画と異なるので腹をたてている者も多い。さらにいうなら幻想か現実かが曖昧になっている世界観なので、ついていけない、不快に思う者もいるようだ。
しかし、そのいっぽうで、この映画の静謐な世界とその無気味さを評価する者たちもいて、評価は分かれるのだが、私は、端的にいって、面白い映画だと思う。ネット上でいろいろなところで配信されているようだが、私はDVDで持っている。購入して損のない映画であると確信している。
映画.COMの紹介文
事故で母親と右腕を失った少女の身に起きる奇妙な出来事を鮮烈な映像で描き、ジャンル系映画を多数上映するシッチェスやプチョンなどの国際ファンタスティック映画祭で評価されたスペイン製SFスリラー。父親が起こした事故で母親を亡くし、自らも右腕を失った少女アリス。それ以来、彼女は周囲に対して心を閉ざし、人間の言葉を話す装置をつけた愛犬をママと呼ぶように。ある日、森で巨大な黒い立方体に遭遇した彼女は、その中から1通の手紙を発見する。手紙にはなぜか彼女自身の筆跡で「彼らを信じないで」と書かれていた。ほどなくして、森で倒れていたという姉弟を父親が家に連れて来るが……。ヒューマントラストシネマ渋谷、シネ・リーブル梅田で開催の「未体験ゾーンの映画たち2018」上映作品。
2017年製作/106分/スペイン 原題:Black Hollow Cage
あるレヴュー 高評価がだが、おバカレヴュー(一部省略)
森の中に父親&犬と住む義手少女の行動を観ているうちに、不思議な物体を通して彼女の現在&過去&未来が透視されてゆく―寡黙な語り口が特色の不思議譚で、出来れば事前情報を全く持たないで鑑賞した方が良い映画であります。【ここまではOK。引用者】
冒頭の“シムラ~後ろ、後ろ”シーンから、緊迫感と疑問符が鑑賞者に浮かぶ作劇となっていますが、ジグソーパズルの様に次第に全容が判ってくる映画ですので、セリフではなく映像で提示される情報を自力で組み合わせてゆきましょう。【ジグソーパズルが最後まで完成しない謎めいた映画。おまえに全容などわかってたまるか】
真面目な鑑賞が苦手な方は、ツッコミどころ満載のトンデモ作品として観ることもできる映画で、
良く観ると木製らしい立方体【それが何か?】
全ての犬飼いが絶対欲しい犬語翻訳機【犬語翻訳機はいんちきであることがわかるようになっている。】
バックを取りながらなかなか襲撃しない犯人【このバカ、この場面の意味がわかっていない】
警察を呼んじゃいけない理由は…
少女はともかく、ワンちゃん自身が母親と自覚しているのは何故?【だから犬語翻訳機なんかないの】
など次々と疑問が湧いてきますので、いろいろ考えながら終盤までなかなか走り出さない物語を見つめましょう。
映画の冒頭、顔を隠した謎の男が、建物に侵入し、屋敷の主である男(少女の父親)を撲殺する。交通事故で両親を失ったデイヴィッドが、事件を起こしたこの男に復讐に来るのだが、冒頭の侵入者は、デイヴィッドと勘違いしているレヴューアーがいるが、ちがう。セキュリティ厳重なこのガラス張りの屋敷に、なぜ簡単に入ってこれたのか。中から手引きする者もいないのに。この男の正体は映画の終わり近くになってわかるのだが、わかることでさらに謎が深まるのだが、この男が殺すのに躊躇するのは、サスペンスを盛り上げるためであろうが、ただ、それ以外にも理由がないわけではないところが、この映画の無気味なところ。
また別のレヴューアーは低い評価をこんなふうに書いている――
間が長すぎる…!奇妙で不穏な空気感を生み出すのに重要なんだろうけど退屈すぎてながら視聴になってしまいました。。雰囲気は素敵でした。あと犬が可愛い。
説明なしで観客の想像力に任せますっていう作品なので想像力豊かではない私にとってはちんぷんかんぷんでした。てことで考察をググりました我。これが分かればなるほどねってなる点をメモしておきます笑 以下参考までに!
●父親は交通事故を起こし妻とアリスの片腕を失った。
●その交通事故の相手がデイヴィッド家族
●姉弟の目的はデイヴィッドによる父親への復讐。
●未来から来たアリスが殺されることで父親は箱の存在を信じて行動。
●過去に戻った父親は姉弟を監禁し未来から来たアリスがデイヴィッドを殺害。
なお、このまとめも、完璧ではない。別のレヴューアーはこんなふうにまとめている。
ちょっと説明不足なこの映画は順を追って整理してみると、
①腕を失くしたアリスがSF的な義手をはめる所から物語が始まる。
②彼女が腕を上手く操れずに苛立ちを募らせていると森に黒い箱が現れる。
③森で怪我を負った姉弟が父親に助けられるが、彼らの目的は姉エリカの彼氏デイビッドによる父親への復讐。(デイヴィッドの親は自動車事故の被害者)
④黒い箱からのメッセージによりアリスはその警告を受けるが、父親は結局デイビッドによって殺される。
⑤途方に暮れたアリスは黒い箱に救いを求め、タイムリープ。
⑥過去に戻ったアリスは父親を殺される前のアリスと入れ替わり弟ポールまでは殺すが、やはり自分はエリカに殺されてしまう。
⑦それを見た現在のアリスは、父を黒い箱に連れてゆき彼を過去に戻す。
⑧過去に戻った父はエリカ達を監禁し、過去からきたアリスがデイヴィッドを殺害。
基本的流れは、確かにこの通りなのだが、しかし、何が起こっているのかよくわからないところもある。前回の映画『タイムトラベラー』について語ったとき、そうしたように、たとえばアリス1、アリス2と人物に番号をふって、その言動を順に追うことで、映画の内容を、私もまとめようとしてみたが、これはアリス1なのかアリス2なのか、わからいところが出てくる。父親1と父親2も、どちらかわかないところがある。ひょっとしてアリス3と父親3がいるのかもしれないと思うと、無気味感がいや増しに増す。
ただ、ここまで時間をとりすぎたような気がする。さっさと疑問点を列挙しながら、作品の特徴を考えることにしよう。
交通事故のことは、映画の終盤に明かされ、それによってなぜ少女が片腕をなくしているのか、母親が死んで犬になっているのか、父親がメランコリックなのかがわかるようになっている。事故は七ヶ月と一二日前に起こったこという設定である。
アリスが片腕をなくしていることも事故のせいだったとわかる。そのアリスが義手をつけ、木の棒を立てる(棒は大中小の三種類)練習をするのは、三本の棒と、三人家族が照応していて、タイムマシンで過去にもどり、事件を未然に防いで、失われた家族を取りもどすことを暗示しているかのようである。
ただし、これはあまり着目されていないのだが、アリスの義手は、自分の腕と神経接続しているわけではないので、彼女のサイキックパワーで動かされることになっている。となると義手を動かす訓練は、彼女がサイキックパワーを身につける訓練でもあるといえる。そしてそのサイキックパワーが、タイムトラベルを可能にするタイムマシンを作り上げる超能力ともなったと考えるレヴューアーもいた。うがった考えだと思うのだが、三本の棒をたてるのがやっとのサイキックパワーで、タイムマシンをつくったりあやつれるとも思えない。まあメタフォリカルな、あるいはシンボリックな意味があるとみるのは正しいとしても。
アリスの義手は、交通事故で失った片腕のかわりになるものであって、近未来の夢のテクノロジーである。現時点で、念動力で操作できる義手など存在しない。しかもアリスは、この義手(ならびに義手を使って者をつかむ訓練)を嫌がっている。そもそも、この鋼鉄とガラスでできたモダン建築の家そのものも、人間的温かみを欠いた抽象的・技術的存在であり、アリスの義手と同じように失ったもの(妻、家族の幸せ)を埋め合わせようとしてもできない、ある意味、ぶざまな物資的代用品である。
最終的にタイムマシンの存在を知った父親は、タイムマシンと親和性をもつアリスを過去の交通事故の直前に戻し、父親が車を運転できないように、車の鍵をアリスに捨てさせる。アリスに車の鍵のありかを教える父親は、彼女に義手の訓練をさせて、鍵の放棄をスムーズに行えるように訓練したともいえるのだが(実際、彼女は食パンの袋すら片腕で開けられない――とはいえ包丁で人を刺すことはできるが)、しかし鍵を棄てることぐらい、彼女は残っている左手できるだろう。彼女がタイムマシンで過去に旅立つというところで映画は終わる。過去の歴史改変ジャンルということになる。
もしアリスが過去の自動車事故を未然に防ぐことができたのなら、片腕を失った彼女は存在しなくなる。父親も娘二人で、鋼鉄とガラスの家に住むこともなくなる。他の家族(デイヴィッドの家族)をまきぞえにすることもなく、デイヴィッドに復讐されることもなくなる。すべてがリセットされる。この不幸な時間線は消える。幸福な家族生活がもどってくる?
しかし、交通事故前の夫婦生活は円満なものであったのか。疑問である。むしろ父親は妻と娘を事故を装って殺そうとしたのではないか。たまたま生き残ったアリスは、そのことを知っているのではないか。父親が母を殺したことと疑っているのではないか。
そしてこの映画でずっと気になっている、アリスのアドンロイド性。アリスの義手は、彼女のメトニミーではなくてメタファーではないのか。彼女そのものがテクノロジーの産物、義手と同じように失われた娘の代用物ではないか。実際、彼女の言葉からも、生身の人間というよりは、アンドロイド的なところがある。科学とテクノロジーは、『フランケンシュタイン』から『鉄腕アトム』にいたるまで、失ったかけがえのないものを取りもどすためのものではなかったか。もしアリスがアンドロイドなら、彼女はテクノロジーの側であり、タイムマシンとの親和性もなんとなく説明できる。また彼女のなかには、もとのアリスの記憶がのこっているとすれば、彼女の意識の中に、自分を殺した父親への憎しみが宿っていてもおかしくない。
父親にとって、過去の改変は、よろこばしいものではない。妻が彼にとってかけがえのない人であっても、あるいは憎しみの対象であっても(妻は憎くても、娘を愛していてもおかしくない)憎い妻を葬り去っても、愛する娘は片腕を失って失意の人生を歩み始めている。娘は犬を自分の母親だといいはって父親を苦しませる。、いずれにせよ、交通事故後の生活は、陰鬱なものでしかない。このような生活を、父親は終わらせたがっている。そこで未来から、あるいは過去から、どちらかはわかないが、やってきた自分に自分を殺させる。
そう、映画の冒頭でこの鋼鉄とガラスの館に侵入して父親を撲殺する不審な人物は、父親その人なのだが(だから厳重なセキュリティーにもかかわらず、簡単に入ってこれた)、その人物が自分を殺したとすれば、過去の自分を殺したら、未来の自分も自動的にいなくなるのではないかと、そこがおかしいと本気で怒っていたレヴューアーがいたが、未来から来た自分だとはどこにも示されていないので、自分の頭の悪さを本気で怒ったほうがいい。過去の自分が、未来の自分を殺したともいえるし、あるいはこれは一つの共通の時間軸ではなく、パラレルワールドの話かもしれなければ、別のパラレルワールドからきた父親が、この時間軸の父親を殺したともいえる。あるいは、未来の自分が過去の自分を殺したら未来の自分も消滅するということになるのだが、ただ、すでに存在した未来の自分は、過去の自分が殺されたからといって消滅しない。というか過去の自分が死ななかったからこそ、未来の自分がいるとすれば、過去の自分をいくら殺そうとしても、過去の自分は死ぬことはない。なぜなら未来の自分がいるのだからということになる。
これは卵と鶏の話であって、要は、どちらが先かわからない。そしてどちらが先かわからない以上、現状はかわらないのである。どちらを卵を殺しても、鶏を殺しても、結果は同じになるのである。
歴史改変物における、一つのルールは、どうあがいても歴史は変わらないということである。ひとつには、ラファティの「われシャルルマーニュをかく悩ませり」のように、歴史改変が起こっても、同じ時間軸であるなら、すべてが変わるために、ビフォアーとアフターが特定できないため、何がかわったかわからない、つまり何も変わらないということになるが、それよりも多いのは、どんなに悪戦苦闘しても、歴史はかわらなかったという結末である。
運命のようなもので、すでに起こってしまったことは、たとえタイムトラベルで過去にもどって歴史を変えようとしても変わらないということである。これはタイムトラベルという設定なき時代、あるいはそういう設定を使わなくても、予言というかたちで達成できる。
もし自分が、自分の息子に殺されそうになったとき、タイムマシンをつかって自分もしくは自分の使者が過去にもどり、生まれたばかりのその息子を、山中に棄ててくるように召し使いに頼む。これで、自分の息子がいなくなったのだから、自分は殺されずにすむと思ったら、自分の息子が襲いかかってきた。やっぱりだめだった。これがタイムマシン・ヴァージョン(過去はかわらないヴァージョン)。予言ヴァージョン(未来はかわらないヴァージョン【付記参照】)は、いま生まれた息子が将来、父親を殺すという予言が語られる。父親は、召使いに頼んで、この息子を山中に棄てさせる。だが父親はやがて息子に殺される。なぜなら赤ん坊を棄てるようにいわれた召使いは、それができず、異国の旅人にその赤ん坊を預け、その赤ん坊が長ずるにおよんで……。
『黒い箱のアリス』では、父親は知っている。たとえアリスが過去にもどって交通事故を防ごうとしても、防ぎきれなかった。たとえば自動車の鍵を棄てるつもりが、彼女はその義手では上手く指が動かず、鍵をつかめなかった、というような出来事が起こるのだ。
結局、アリスが過去にもどっても、交通事故は防げず、現在の事故後の陰鬱な日々、改悛と贖罪の日々があり、やがて自分は、この現実のなかで復讐者によって殺される、あるいは殺されるのを待つ日々(最悪の陰鬱な日々)を過ごすしかない。自分は復讐者もしくは自分自身に殺される。だがタイムマシンを発見したらしいアリスによって再びリセットされて、今度は復讐者のデイヴィッドを殺すことになるかもしれない。しかし、それでアリスを過去に送ることになるが、それによって事故は防げず……。
この映画のポイントは、この父親が、交通事故後のメランコリックな日々から、娘の力を借りて抜け出すことができるかもしれないという夢物語ではなく、この父親が何をしても死ねない不死の人になってしまったこと、いいかえれば、なんど殺されても死なないという拷苦の日々を余儀なくされているということである。
その理由は定かではないが、7か月と12日まえの交通事故にあることはいうまでもないとしても。そして、この映画のなかの100分足らずの出来事でわかるのは、父親の死ねなさ、死ねないまま死んだも同然の状態であること。まさに、べつの映画のタイトルを借りれば、父親の不死を記念する「ハッピーデスデイHappy Death Day」なのである。
ということは、これはタイムトラベル物(過去にもどったり、未来の自分が過去の自分に情報を伝える)のみならず、タイムループ物でもある。最初に侵入して父親を撲殺するのが実は同じ父親であったり、アリスが、夜みる謎の人がけは、実は未来からきた自分である。しゃべる犬は、実は、未来からきたアリスがスマホと犬の首のマイクを接続していて、犬がアリスの母親であるかのように、アリスに思わせていることがわかる。そしてこの家には父親とアリスだけでなく、未来からきたもうひとりのアリスも存在していることがわかる。そこに未来からきたかもしれないもう一人の父親もくる。
なにか自閉的世界がここに展開している感なきにしもあらずであり、さらにいえば、これが何度も繰り返されているという暗示がある――父親の不死性の暗示も、流血劇の終わりなき反復を暗示している。
そしてここに復讐者デイヴィッドと、彼に侵入の手引きをする謎の姉弟がいる。彼らがこの鋼鉄とガラスの屋敷のなで、グランギニョールのような殺人劇を繰り広げるのだが、これはその都度リセットされ、あらたな殺人劇を展開するかのようにみえる。
まるで、劇中劇のようなというレヴューアーがいた。なるほどと思ったのだが、
戯曲の様に全5幕に分かれて構成されているこの作品は、ちょっと油断すると直ぐに睡魔に襲われてしまうが、逆に言えばそれ程心地良く感じるカットが数多い。
森を写し出すカットは緑を存分に映えさせる見事な描写で、まるでシェイクスピアの演劇を観ているかの様に叙情的。
その森の中に立つ彼らの家の造りは映画『ショートウェーブ』に出てきた様な前衛的でハイセンスなデザイナーズハウスだが、中庭から屋内の人物の位置関係が一目でわかる構造には、監督であるサドラック・ゴンザレス=ペレジョンが観客にこの映画の劇中劇を示唆していたのではないだろうか?
正確にいうと、五幕構成ではなく、5章構成。ちゃんとChapterと字幕が出る。ただし、それを五幕と読み間違えたとしたら、それは創造的誤読で、五幕構成的な演劇構造との類似を見る、優れた洞察だと思う(もっとも現在の演劇で五幕構成の演劇は、長すぎてめったにおめにかかれないが)。実際、鋼鉄とガラスの建造物の正面は、横に長く、ガラス張りで、向こう側までみえる。この建物が、ある種の舞台のようになって、夜ごと、そこで起こる惨劇を観客は傍観することになる。このレヴューアーは、「緑を存分に映えさせる見事な描写で、まるでシェイクスピアの演劇を観ているかの様に叙情的」と、ほとんど意味不明のコメントをしている。シェイクスピア劇にこういう感想をもった人は前代未聞・空前絶後で、たぶん、ただの知ったかぶりのバカだと思うし、「劇中劇」についても、たぶん、その意味を知らないと思うのだが、ただし、舞台をみているような枠組み構造の指摘はなるほどと思った。
実際、この映画の出来事には、観客がいる。それは未来からやってきた自分が、過去の自分の動勢を観察するからである。しかし、コミュニケーションを取ろうとしても、なかなかうまくいかない。未来からの自分は、基本的に観客として、この舞台上の出来事/惨劇をただ見ているだけで、介入して惨劇を止めることはできない。またこれが舞台なら、舞台上演が夜ごと繰り返されるのと同様、惨劇も夜ごと繰り返される。これは出口なき、終わりなきループであることの暗示性を強めることになる。
こう考えると、原題のBlack Hollow Cage(黒い空ろな檻)が何を指しているかがみえてくる。アリスが森で出会う黒い箱は、中が空ろで、中に入ることが出来る(時には父親とアリスの二人も入ることできるらしい)。しかし、これは黒い箱であっても、檻という感じはしない。やはり黒い檻は、鋼鉄とガラスの建造物だろう(あるいは黒い箱と、鋼鉄の建造物とは照応しているということもできる)。四面のうち二面がガラスになっているこの建造物は、閉じ込められ感と、建造物の内部の空気、すなわし空虚感、空ろ感とを強くにじませることによって、まさに黒い空ろな檻は、この鋼鉄とガラスの建造物であることがわかる。
もちろん、タイムマシンも含め、すべてが交通事故で妻を、家族の団らんをなくした父親のトラウマから生まれた心象風景であるという説もある。それは、たとえば映画『スターフィッシュ』のようなものだと(『ショートウェーブ』より、はるかに素晴らしい映画だ)。すべてを心象風景とすると、タイムトラベルやタイムループ、あるいはタイムトラベルのパラドックスなど、すべてどうでもよくなるのだが、ただ、すべて心象風景という可能性はもちろん無視できないすぐれた指摘である。
そして、なんとなくわかる、あるいは予想できるタイムループ、あるいは終わりなき反復の暗示は、物語そのものが監獄であるという印象をあたえることになる。夜ごとの惨劇は、なぜ父親と娘が、この黒い空ろな檻に閉じ込められているのか、その原因を示すものでもある。
ならば、この映画は、ひとつの共有される主題の多様な展開であるとすれば、何度も語ってきているように、映画がめざすところのもののひとつは、メランコリック・スケープの提示である。
またひとつミステリアスなメランコリック・スケープの創造に成功した作品があらわれた。
付記
予言に反発しても、結局、予言通りになるという物語は、たくさんあるのだが、またそれがジャンルのルールのようになっているだが、ひとつ思い出されるのは、レオ・ペルッツの「アンチクリストの誕生」である(ペルッツ『アンチクリストの誕生』ちくま文庫、所収)。実質的に神のお告げといってよい夢のお告げで、生まれてくる自分の息子がアンチキリストになることを知った靴職人が、予言が実現することを必死で止めようと奮闘努力するのだが、結局、力及ばず、息子が生まれてくる。あきらかに将来アンチ・キリストになることが予感される人物として。
このジャンルのルールは、予言は変えることはできない、必ず実現するというものである。しかし、この作品で舞台となる18世紀から、作品が発表された20世紀初頭までの間にアンチキリストといわれる人物は存在しなかった(独裁者は数多くいたし、世紀の凶悪犯ともいえる人物はいたのだが、アンチキリストと言えるほどの人物はいなかった)。となると、アンチキリストは生まれなかったのではないか、ひょっとしたら父親である靴職人の奮闘努力が実を結んだのではないか、たとえ苦い物であってもハッピーエンディングを迎えられるのではないかと読者は期待し、そのぶん、父親の靴職人の冒険を応援したくもなる。
結局、息子は生まれる。最後の最後で、息子の名前があきらかになる。ジョゼッペ・カリオストロである、と。ずっこけると、比喩ではいっても、ほんとうにずっこける人はいないと思うのだが、もし、そのとき私が座って本を読んでいるのではなく、立って読んでいたら、ほんとうにずっこけていたかもしれない。え、カリオストロ。まあ種村季弘にとってカリオストロはアンチキリスト以上の存在だったかもしれないが、一般には、ただのケチな詐欺師でしょう。どこがアンチキリストなのか。あるいはこれをどう考えたらいいのか。
ひとつには、これは18世紀とか19世紀のヨーロッパ人の、ささいなことを重大事とみなす浅薄な幼児的精神に対するややパロディ的な揶揄かもしれない。若きヘーゲルは、1806年のプロイセン軍の敗北に続くイエナの戦いにおけるナポレオンの勝利を見て「歴史の終わり」と語っていた。これには、ヘーゲルは世界が終わった考えたいたわけではないと注釈がつくことが多いのだが、いやいや、本気で歴史の終焉とみていたのでしょう。世界が終わり、ワンダーランドが始まる、と。そして、いくらヘーゲルの若気のいたりとはいえ、とにかくイエナの戦いをもって、歴史の終わりというのなら、カリオストロは、キリストをしのぐ悪魔の化身、アンチキリストであっても全くおかしくない。視野狭窄のなかでの誇大認識。いかにも18・19世紀ヨーロッパの思考習慣との戯れが、ここにある。
歴史改変ものの傑作映画のひとつに『12モンキーズ』がある。パンデミックを起こして地球文明を破壊した学者の犯行を阻止するために送り込まれたエージェント/ブルース・ウィリスは、空港で、あと一歩のところで犯人をとり逃がし、警備員に射殺されてしまう。結局、過去を変えることはできなかったというジャンルの法則に縛られると、私のように、失敗を確信する。多くの観客がそうであろう。ところがメイキング映像をみると、監督のテリー・ギリアムは、希望を抱かせるしるしをいくつも最後の場面に埋め込んだと語っている――私も含め多くの観客は希望のしるしをみることはないとしても。監督の意図通りに観客がこの作品をみていたら、その結末は、エージェントの努力のかいあってか、犯行が、このあとすぐに、あるいは次回には必ず阻止されることを約束するものとわかる。
そう考えると、「アンチクリストの誕生」も、なるほど予言は成就し、父親である靴職人の努力はむなしかったといえるのだが、それだけが結末の意味ではないとわかる。アンチキリストは誕生したが、それはカリオストロであり、悪魔的人物としては矮小化された人物であることは否めない。となると靴職人の努力ゆえに、アンチキリストが、ここまで小者になったとはいえないか。アンチキリストから、ただの詐欺へ。靴職人の努力は無駄ではなかった。むしろ彼の勝利であった。アンチクリストがカリオストロであったことは。