2021年08月31日

『黒い箱のアリス』

前回の『タイムトラベラー』のタイム・トラベル物であるという点を考慮して、タイム・トラベルとかタイム・リープと呼ばれる設定のいくつかの特徴をまとめておくと、過去に戻って歴史を改変するというのは、タイムマシンをつかったSFによくある設定である。その場合、未来からやってきた者が、未来のことを知らない現時点を生きる者に情報を与える。多くの場合、未来からやってきた者は、過去の自分自身にいろいろ指示をあたえる。ところが『タイムトラベラー』では、36時間先の未来からやってきた自分は、記憶喪失になってしまっているので、現時点での自分が、あれこれ指示を出さねばならなかった。この設定は珍しいが、一般論として、タイムトラベル物では、同じ世界に、同じ人物が、少なくとも二人いる。そして片方が片方に指示を出している。未来からの自分が現在の自分に指示を出す。そして現時点での自分の運命を変えようとする。

もしそんなことが可能なら、しかし、本当に自分で自分の運命を変えてしまったら、自分はもとの自分に戻れないし、そもそも変わる前の自分と変わってからの自分を比較できないわけだから、運命が変わったかどうかもわからないのことにある。

ただ、それを厳密に(あるいは荒唐無稽に)考えなければ、一般論として、私たちは、未来から来た自分あるいは過去から来た自分に指示をあおいだり、指示を受けたりしている。これは私たちの内省的思考において、ごく当たり前のことであって、私たちは宇宙に一人いるわけではない。見えない分身がもう一人いて、その分身から絶えず情報と洞察をもらっている。私たちは自分の意識のなかでタイムトラベルができるし、私たちは自己の分身なくして行動も思考もできないのである。

こう考えればタイムトラベル物の設定は、私たちの意識における、もう一人の自分との交渉をわかりやすく示したものといえなくもない。

今回扱う『黒い箱のアリス』原題Black Hollow Cage(2017)は、無気味で静かな展開を特徴とする映画かと思うと、その静けさは、映画=メランコリック・スケープにふさわしく、交通事故で、妻を亡くし、また別の夫婦を犠牲にし、生き残った自分の娘も、片腕を失い、犬を自分の母とみている異常者になってしまっている男(娘の父親)の心象風景が映画だというふうにわかってくる。

日本での評判は、わかれている。

基本的に知名度の低い監督だし、登場する俳優たちについても、知らない者たちばかりで、しかも、あれこれ疑似科学的な説明をするSF映画でもなく、むしろファンタジーに近いので、予想した映画と異なるので腹をたてている者も多い。さらにいうなら幻想か現実かが曖昧になっている世界観なので、ついていけない、不快に思う者もいるようだ。

しかし、そのいっぽうで、この映画の静謐な世界とその無気味さを評価する者たちもいて、評価は分かれるのだが、私は、端的にいって、面白い映画だと思う。ネット上でいろいろなところで配信されているようだが、私はDVDで持っている。購入して損のない映画であると確信している。

映画.COMの紹介文

事故で母親と右腕を失った少女の身に起きる奇妙な出来事を鮮烈な映像で描き、ジャンル系映画を多数上映するシッチェスやプチョンなどの国際ファンタスティック映画祭で評価されたスペイン製SFスリラー。父親が起こした事故で母親を亡くし、自らも右腕を失った少女アリス。それ以来、彼女は周囲に対して心を閉ざし、人間の言葉を話す装置をつけた愛犬をママと呼ぶように。ある日、森で巨大な黒い立方体に遭遇した彼女は、その中から1通の手紙を発見する。手紙にはなぜか彼女自身の筆跡で「彼らを信じないで」と書かれていた。ほどなくして、森で倒れていたという姉弟を父親が家に連れて来るが……。ヒューマントラストシネマ渋谷、シネ・リーブル梅田で開催の「未体験ゾーンの映画たち2018」上映作品。
2017年製作/106分/スペイン  原題:Black Hollow Cage


あるレヴュー 高評価がだが、おバカレヴュー(一部省略)

森の中に父親&犬と住む義手少女の行動を観ているうちに、不思議な物体を通して彼女の現在&過去&未来が透視されてゆく―寡黙な語り口が特色の不思議譚で、出来れば事前情報を全く持たないで鑑賞した方が良い映画であります。【ここまではOK。引用者】

冒頭の“シムラ~後ろ、後ろ”シーンから、緊迫感と疑問符が鑑賞者に浮かぶ作劇となっていますが、ジグソーパズルの様に次第に全容が判ってくる映画ですので、セリフではなく映像で提示される情報を自力で組み合わせてゆきましょう。【ジグソーパズルが最後まで完成しない謎めいた映画。おまえに全容などわかってたまるか】

真面目な鑑賞が苦手な方は、ツッコミどころ満載のトンデモ作品として観ることもできる映画で、
良く観ると木製らしい立方体【それが何か?】
全ての犬飼いが絶対欲しい犬語翻訳機【犬語翻訳機はいんちきであることがわかるようになっている。】
バックを取りながらなかなか襲撃しない犯人【このバカ、この場面の意味がわかっていない】
警察を呼んじゃいけない理由は…
少女はともかく、ワンちゃん自身が母親と自覚しているのは何故?【だから犬語翻訳機なんかないの】
など次々と疑問が湧いてきますので、いろいろ考えながら終盤までなかなか走り出さない物語を見つめましょう。


映画の冒頭、顔を隠した謎の男が、建物に侵入し、屋敷の主である男(少女の父親)を撲殺する。交通事故で両親を失ったデイヴィッドが、事件を起こしたこの男に復讐に来るのだが、冒頭の侵入者は、デイヴィッドと勘違いしているレヴューアーがいるが、ちがう。セキュリティ厳重なこのガラス張りの屋敷に、なぜ簡単に入ってこれたのか。中から手引きする者もいないのに。この男の正体は映画の終わり近くになってわかるのだが、わかることでさらに謎が深まるのだが、この男が殺すのに躊躇するのは、サスペンスを盛り上げるためであろうが、ただ、それ以外にも理由がないわけではないところが、この映画の無気味なところ。

また別のレヴューアーは低い評価をこんなふうに書いている――

間が長すぎる…!奇妙で不穏な空気感を生み出すのに重要なんだろうけど退屈すぎてながら視聴になってしまいました。。雰囲気は素敵でした。あと犬が可愛い。
説明なしで観客の想像力に任せますっていう作品なので想像力豊かではない私にとってはちんぷんかんぷんでした。てことで考察をググりました我。これが分かればなるほどねってなる点をメモしておきます笑 以下参考までに!

●父親は交通事故を起こし妻とアリスの片腕を失った。
●その交通事故の相手がデイヴィッド家族
●姉弟の目的はデイヴィッドによる父親への復讐。
●未来から来たアリスが殺されることで父親は箱の存在を信じて行動。
●過去に戻った父親は姉弟を監禁し未来から来たアリスがデイヴィッドを殺害。

なお、このまとめも、完璧ではない。別のレヴューアーはこんなふうにまとめている。

ちょっと説明不足なこの映画は順を追って整理してみると、
①腕を失くしたアリスがSF的な義手をはめる所から物語が始まる。
②彼女が腕を上手く操れずに苛立ちを募らせていると森に黒い箱が現れる。
③森で怪我を負った姉弟が父親に助けられるが、彼らの目的は姉エリカの彼氏デイビッドによる父親への復讐。(デイヴィッドの親は自動車事故の被害者)
④黒い箱からのメッセージによりアリスはその警告を受けるが、父親は結局デイビッドによって殺される。
⑤途方に暮れたアリスは黒い箱に救いを求め、タイムリープ。
⑥過去に戻ったアリスは父親を殺される前のアリスと入れ替わり弟ポールまでは殺すが、やはり自分はエリカに殺されてしまう。
⑦それを見た現在のアリスは、父を黒い箱に連れてゆき彼を過去に戻す。
⑧過去に戻った父はエリカ達を監禁し、過去からきたアリスがデイヴィッドを殺害。


基本的流れは、確かにこの通りなのだが、しかし、何が起こっているのかよくわからないところもある。前回の映画『タイムトラベラー』について語ったとき、そうしたように、たとえばアリス1、アリス2と人物に番号をふって、その言動を順に追うことで、映画の内容を、私もまとめようとしてみたが、これはアリス1なのかアリス2なのか、わからいところが出てくる。父親1と父親2も、どちらかわかないところがある。ひょっとしてアリス3と父親3がいるのかもしれないと思うと、無気味感がいや増しに増す。

ただ、ここまで時間をとりすぎたような気がする。さっさと疑問点を列挙しながら、作品の特徴を考えることにしよう。

交通事故のことは、映画の終盤に明かされ、それによってなぜ少女が片腕をなくしているのか、母親が死んで犬になっているのか、父親がメランコリックなのかがわかるようになっている。事故は七ヶ月と一二日前に起こったこという設定である。

アリスが片腕をなくしていることも事故のせいだったとわかる。そのアリスが義手をつけ、木の棒を立てる(棒は大中小の三種類)練習をするのは、三本の棒と、三人家族が照応していて、タイムマシンで過去にもどり、事件を未然に防いで、失われた家族を取りもどすことを暗示しているかのようである。

ただし、これはあまり着目されていないのだが、アリスの義手は、自分の腕と神経接続しているわけではないので、彼女のサイキックパワーで動かされることになっている。となると義手を動かす訓練は、彼女がサイキックパワーを身につける訓練でもあるといえる。そしてそのサイキックパワーが、タイムトラベルを可能にするタイムマシンを作り上げる超能力ともなったと考えるレヴューアーもいた。うがった考えだと思うのだが、三本の棒をたてるのがやっとのサイキックパワーで、タイムマシンをつくったりあやつれるとも思えない。まあメタフォリカルな、あるいはシンボリックな意味があるとみるのは正しいとしても。

アリスの義手は、交通事故で失った片腕のかわりになるものであって、近未来の夢のテクノロジーである。現時点で、念動力で操作できる義手など存在しない。しかもアリスは、この義手(ならびに義手を使って者をつかむ訓練)を嫌がっている。そもそも、この鋼鉄とガラスでできたモダン建築の家そのものも、人間的温かみを欠いた抽象的・技術的存在であり、アリスの義手と同じように失ったもの(妻、家族の幸せ)を埋め合わせようとしてもできない、ある意味、ぶざまな物資的代用品である。

最終的にタイムマシンの存在を知った父親は、タイムマシンと親和性をもつアリスを過去の交通事故の直前に戻し、父親が車を運転できないように、車の鍵をアリスに捨てさせる。アリスに車の鍵のありかを教える父親は、彼女に義手の訓練をさせて、鍵の放棄をスムーズに行えるように訓練したともいえるのだが(実際、彼女は食パンの袋すら片腕で開けられない――とはいえ包丁で人を刺すことはできるが)、しかし鍵を棄てることぐらい、彼女は残っている左手できるだろう。彼女がタイムマシンで過去に旅立つというところで映画は終わる。過去の歴史改変ジャンルということになる。

もしアリスが過去の自動車事故を未然に防ぐことができたのなら、片腕を失った彼女は存在しなくなる。父親も娘二人で、鋼鉄とガラスの家に住むこともなくなる。他の家族(デイヴィッドの家族)をまきぞえにすることもなく、デイヴィッドに復讐されることもなくなる。すべてがリセットされる。この不幸な時間線は消える。幸福な家族生活がもどってくる?

しかし、交通事故前の夫婦生活は円満なものであったのか。疑問である。むしろ父親は妻と娘を事故を装って殺そうとしたのではないか。たまたま生き残ったアリスは、そのことを知っているのではないか。父親が母を殺したことと疑っているのではないか。

そしてこの映画でずっと気になっている、アリスのアドンロイド性。アリスの義手は、彼女のメトニミーではなくてメタファーではないのか。彼女そのものがテクノロジーの産物、義手と同じように失われた娘の代用物ではないか。実際、彼女の言葉からも、生身の人間というよりは、アンドロイド的なところがある。科学とテクノロジーは、『フランケンシュタイン』から『鉄腕アトム』にいたるまで、失ったかけがえのないものを取りもどすためのものではなかったか。もしアリスがアンドロイドなら、彼女はテクノロジーの側であり、タイムマシンとの親和性もなんとなく説明できる。また彼女のなかには、もとのアリスの記憶がのこっているとすれば、彼女の意識の中に、自分を殺した父親への憎しみが宿っていてもおかしくない。

父親にとって、過去の改変は、よろこばしいものではない。妻が彼にとってかけがえのない人であっても、あるいは憎しみの対象であっても(妻は憎くても、娘を愛していてもおかしくない)憎い妻を葬り去っても、愛する娘は片腕を失って失意の人生を歩み始めている。娘は犬を自分の母親だといいはって父親を苦しませる。、いずれにせよ、交通事故後の生活は、陰鬱なものでしかない。このような生活を、父親は終わらせたがっている。そこで未来から、あるいは過去から、どちらかはわかないが、やってきた自分に自分を殺させる。

そう、映画の冒頭でこの鋼鉄とガラスの館に侵入して父親を撲殺する不審な人物は、父親その人なのだが(だから厳重なセキュリティーにもかかわらず、簡単に入ってこれた)、その人物が自分を殺したとすれば、過去の自分を殺したら、未来の自分も自動的にいなくなるのではないかと、そこがおかしいと本気で怒っていたレヴューアーがいたが、未来から来た自分だとはどこにも示されていないので、自分の頭の悪さを本気で怒ったほうがいい。過去の自分が、未来の自分を殺したともいえるし、あるいはこれは一つの共通の時間軸ではなく、パラレルワールドの話かもしれなければ、別のパラレルワールドからきた父親が、この時間軸の父親を殺したともいえる。あるいは、未来の自分が過去の自分を殺したら未来の自分も消滅するということになるのだが、ただ、すでに存在した未来の自分は、過去の自分が殺されたからといって消滅しない。というか過去の自分が死ななかったからこそ、未来の自分がいるとすれば、過去の自分をいくら殺そうとしても、過去の自分は死ぬことはない。なぜなら未来の自分がいるのだからということになる。

これは卵と鶏の話であって、要は、どちらが先かわからない。そしてどちらが先かわからない以上、現状はかわらないのである。どちらを卵を殺しても、鶏を殺しても、結果は同じになるのである。

歴史改変物における、一つのルールは、どうあがいても歴史は変わらないということである。ひとつには、ラファティの「われシャルルマーニュをかく悩ませり」のように、歴史改変が起こっても、同じ時間軸であるなら、すべてが変わるために、ビフォアーとアフターが特定できないため、何がかわったかわからない、つまり何も変わらないということになるが、それよりも多いのは、どんなに悪戦苦闘しても、歴史はかわらなかったという結末である。

運命のようなもので、すでに起こってしまったことは、たとえタイムトラベルで過去にもどって歴史を変えようとしても変わらないということである。これはタイムトラベルという設定なき時代、あるいはそういう設定を使わなくても、予言というかたちで達成できる。

もし自分が、自分の息子に殺されそうになったとき、タイムマシンをつかって自分もしくは自分の使者が過去にもどり、生まれたばかりのその息子を、山中に棄ててくるように召し使いに頼む。これで、自分の息子がいなくなったのだから、自分は殺されずにすむと思ったら、自分の息子が襲いかかってきた。やっぱりだめだった。これがタイムマシン・ヴァージョン(過去はかわらないヴァージョン)。予言ヴァージョン(未来はかわらないヴァージョン【付記参照】)は、いま生まれた息子が将来、父親を殺すという予言が語られる。父親は、召使いに頼んで、この息子を山中に棄てさせる。だが父親はやがて息子に殺される。なぜなら赤ん坊を棄てるようにいわれた召使いは、それができず、異国の旅人にその赤ん坊を預け、その赤ん坊が長ずるにおよんで……。

『黒い箱のアリス』では、父親は知っている。たとえアリスが過去にもどって交通事故を防ごうとしても、防ぎきれなかった。たとえば自動車の鍵を棄てるつもりが、彼女はその義手では上手く指が動かず、鍵をつかめなかった、というような出来事が起こるのだ。

結局、アリスが過去にもどっても、交通事故は防げず、現在の事故後の陰鬱な日々、改悛と贖罪の日々があり、やがて自分は、この現実のなかで復讐者によって殺される、あるいは殺されるのを待つ日々(最悪の陰鬱な日々)を過ごすしかない。自分は復讐者もしくは自分自身に殺される。だがタイムマシンを発見したらしいアリスによって再びリセットされて、今度は復讐者のデイヴィッドを殺すことになるかもしれない。しかし、それでアリスを過去に送ることになるが、それによって事故は防げず……。

この映画のポイントは、この父親が、交通事故後のメランコリックな日々から、娘の力を借りて抜け出すことができるかもしれないという夢物語ではなく、この父親が何をしても死ねない不死の人になってしまったこと、いいかえれば、なんど殺されても死なないという拷苦の日々を余儀なくされているということである。

その理由は定かではないが、7か月と12日まえの交通事故にあることはいうまでもないとしても。そして、この映画のなかの100分足らずの出来事でわかるのは、父親の死ねなさ、死ねないまま死んだも同然の状態であること。まさに、べつの映画のタイトルを借りれば、父親の不死を記念する「ハッピーデスデイHappy Death Day」なのである。

ということは、これはタイムトラベル物(過去にもどったり、未来の自分が過去の自分に情報を伝える)のみならず、タイムループ物でもある。最初に侵入して父親を撲殺するのが実は同じ父親であったり、アリスが、夜みる謎の人がけは、実は未来からきた自分である。しゃべる犬は、実は、未来からきたアリスがスマホと犬の首のマイクを接続していて、犬がアリスの母親であるかのように、アリスに思わせていることがわかる。そしてこの家には父親とアリスだけでなく、未来からきたもうひとりのアリスも存在していることがわかる。そこに未来からきたかもしれないもう一人の父親もくる。

なにか自閉的世界がここに展開している感なきにしもあらずであり、さらにいえば、これが何度も繰り返されているという暗示がある――父親の不死性の暗示も、流血劇の終わりなき反復を暗示している。

そしてここに復讐者デイヴィッドと、彼に侵入の手引きをする謎の姉弟がいる。彼らがこの鋼鉄とガラスの屋敷のなで、グランギニョールのような殺人劇を繰り広げるのだが、これはその都度リセットされ、あらたな殺人劇を展開するかのようにみえる。

まるで、劇中劇のようなというレヴューアーがいた。なるほどと思ったのだが、

戯曲の様に全5幕に分かれて構成されているこの作品は、ちょっと油断すると直ぐに睡魔に襲われてしまうが、逆に言えばそれ程心地良く感じるカットが数多い。

森を写し出すカットは緑を存分に映えさせる見事な描写で、まるでシェイクスピアの演劇を観ているかの様に叙情的。

その森の中に立つ彼らの家の造りは映画『ショートウェーブ』に出てきた様な前衛的でハイセンスなデザイナーズハウスだが、中庭から屋内の人物の位置関係が一目でわかる構造には、監督であるサドラック・ゴンザレス=ペレジョンが観客にこの映画の劇中劇を示唆していたのではないだろうか?


正確にいうと、五幕構成ではなく、5章構成。ちゃんとChapterと字幕が出る。ただし、それを五幕と読み間違えたとしたら、それは創造的誤読で、五幕構成的な演劇構造との類似を見る、優れた洞察だと思う(もっとも現在の演劇で五幕構成の演劇は、長すぎてめったにおめにかかれないが)。実際、鋼鉄とガラスの建造物の正面は、横に長く、ガラス張りで、向こう側までみえる。この建物が、ある種の舞台のようになって、夜ごと、そこで起こる惨劇を観客は傍観することになる。このレヴューアーは、「緑を存分に映えさせる見事な描写で、まるでシェイクスピアの演劇を観ているかの様に叙情的」と、ほとんど意味不明のコメントをしている。シェイクスピア劇にこういう感想をもった人は前代未聞・空前絶後で、たぶん、ただの知ったかぶりのバカだと思うし、「劇中劇」についても、たぶん、その意味を知らないと思うのだが、ただし、舞台をみているような枠組み構造の指摘はなるほどと思った。

実際、この映画の出来事には、観客がいる。それは未来からやってきた自分が、過去の自分の動勢を観察するからである。しかし、コミュニケーションを取ろうとしても、なかなかうまくいかない。未来からの自分は、基本的に観客として、この舞台上の出来事/惨劇をただ見ているだけで、介入して惨劇を止めることはできない。またこれが舞台なら、舞台上演が夜ごと繰り返されるのと同様、惨劇も夜ごと繰り返される。これは出口なき、終わりなきループであることの暗示性を強めることになる。

こう考えると、原題のBlack Hollow Cage(黒い空ろな檻)が何を指しているかがみえてくる。アリスが森で出会う黒い箱は、中が空ろで、中に入ることが出来る(時には父親とアリスの二人も入ることできるらしい)。しかし、これは黒い箱であっても、檻という感じはしない。やはり黒い檻は、鋼鉄とガラスの建造物だろう(あるいは黒い箱と、鋼鉄の建造物とは照応しているということもできる)。四面のうち二面がガラスになっているこの建造物は、閉じ込められ感と、建造物の内部の空気、すなわし空虚感、空ろ感とを強くにじませることによって、まさに黒い空ろな檻は、この鋼鉄とガラスの建造物であることがわかる。

もちろん、タイムマシンも含め、すべてが交通事故で妻を、家族の団らんをなくした父親のトラウマから生まれた心象風景であるという説もある。それは、たとえば映画『スターフィッシュ』のようなものだと(『ショートウェーブ』より、はるかに素晴らしい映画だ)。すべてを心象風景とすると、タイムトラベルやタイムループ、あるいはタイムトラベルのパラドックスなど、すべてどうでもよくなるのだが、ただ、すべて心象風景という可能性はもちろん無視できないすぐれた指摘である。

そして、なんとなくわかる、あるいは予想できるタイムループ、あるいは終わりなき反復の暗示は、物語そのものが監獄であるという印象をあたえることになる。夜ごとの惨劇は、なぜ父親と娘が、この黒い空ろな檻に閉じ込められているのか、その原因を示すものでもある。

ならば、この映画は、ひとつの共有される主題の多様な展開であるとすれば、何度も語ってきているように、映画がめざすところのもののひとつは、メランコリック・スケープの提示である。

またひとつミステリアスなメランコリック・スケープの創造に成功した作品があらわれた。

付記
予言に反発しても、結局、予言通りになるという物語は、たくさんあるのだが、またそれがジャンルのルールのようになっているだが、ひとつ思い出されるのは、レオ・ペルッツの「アンチクリストの誕生」である(ペルッツ『アンチクリストの誕生』ちくま文庫、所収)。実質的に神のお告げといってよい夢のお告げで、生まれてくる自分の息子がアンチキリストになることを知った靴職人が、予言が実現することを必死で止めようと奮闘努力するのだが、結局、力及ばず、息子が生まれてくる。あきらかに将来アンチ・キリストになることが予感される人物として。

このジャンルのルールは、予言は変えることはできない、必ず実現するというものである。しかし、この作品で舞台となる18世紀から、作品が発表された20世紀初頭までの間にアンチキリストといわれる人物は存在しなかった(独裁者は数多くいたし、世紀の凶悪犯ともいえる人物はいたのだが、アンチキリストと言えるほどの人物はいなかった)。となると、アンチキリストは生まれなかったのではないか、ひょっとしたら父親である靴職人の奮闘努力が実を結んだのではないか、たとえ苦い物であってもハッピーエンディングを迎えられるのではないかと読者は期待し、そのぶん、父親の靴職人の冒険を応援したくもなる。

結局、息子は生まれる。最後の最後で、息子の名前があきらかになる。ジョゼッペ・カリオストロである、と。ずっこけると、比喩ではいっても、ほんとうにずっこける人はいないと思うのだが、もし、そのとき私が座って本を読んでいるのではなく、立って読んでいたら、ほんとうにずっこけていたかもしれない。え、カリオストロ。まあ種村季弘にとってカリオストロはアンチキリスト以上の存在だったかもしれないが、一般には、ただのケチな詐欺師でしょう。どこがアンチキリストなのか。あるいはこれをどう考えたらいいのか。

ひとつには、これは18世紀とか19世紀のヨーロッパ人の、ささいなことを重大事とみなす浅薄な幼児的精神に対するややパロディ的な揶揄かもしれない。若きヘーゲルは、1806年のプロイセン軍の敗北に続くイエナの戦いにおけるナポレオンの勝利を見て「歴史の終わり」と語っていた。これには、ヘーゲルは世界が終わった考えたいたわけではないと注釈がつくことが多いのだが、いやいや、本気で歴史の終焉とみていたのでしょう。世界が終わり、ワンダーランドが始まる、と。そして、いくらヘーゲルの若気のいたりとはいえ、とにかくイエナの戦いをもって、歴史の終わりというのなら、カリオストロは、キリストをしのぐ悪魔の化身、アンチキリストであっても全くおかしくない。視野狭窄のなかでの誇大認識。いかにも18・19世紀ヨーロッパの思考習慣との戯れが、ここにある。

歴史改変ものの傑作映画のひとつに『12モンキーズ』がある。パンデミックを起こして地球文明を破壊した学者の犯行を阻止するために送り込まれたエージェント/ブルース・ウィリスは、空港で、あと一歩のところで犯人をとり逃がし、警備員に射殺されてしまう。結局、過去を変えることはできなかったというジャンルの法則に縛られると、私のように、失敗を確信する。多くの観客がそうであろう。ところがメイキング映像をみると、監督のテリー・ギリアムは、希望を抱かせるしるしをいくつも最後の場面に埋め込んだと語っている――私も含め多くの観客は希望のしるしをみることはないとしても。監督の意図通りに観客がこの作品をみていたら、その結末は、エージェントの努力のかいあってか、犯行が、このあとすぐに、あるいは次回には必ず阻止されることを約束するものとわかる。

そう考えると、「アンチクリストの誕生」も、なるほど予言は成就し、父親である靴職人の努力はむなしかったといえるのだが、それだけが結末の意味ではないとわかる。アンチキリストは誕生したが、それはカリオストロであり、悪魔的人物としては矮小化された人物であることは否めない。となると靴職人の努力ゆえに、アンチキリストが、ここまで小者になったとはいえないか。アンチキリストから、ただの詐欺へ。靴職人の努力は無駄ではなかった。むしろ彼の勝利であった。アンチクリストがカリオストロであったことは。
posted by ohashi at 21:06| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2021年08月30日

『タイムトラベラー』

原題Curvature 2017 USA

タイム・トラヴェルとかタイム・ループ物の映画を集中的にみているのだが、名前の知られていない監督の作品だと、ただ、それだけで評価が下がるみたいで、ネット上で高評価が得られていない作品のひとつ。しかしそれは、うまく評価できない、評価のポイントがわからない、さらには真剣に見てないがゆえに評価しようがない、愚かなレヴューアーの、要は、自分の評価能力を棚に上げた勝手な評価に起因する。また評価を下げると、自分が偉くなるように思うみたいで、上から目線での偉そうなコメントが多くなる。

私ははこれをダンシアッドと呼ぶのがだが、それはともかく、この映画についての数少ないコメントがこれ。すべて映画.COMら。

結局タイムトラベルして、試作機を壊したかった未来の自分は過去に戻って??よくわからないまま終わり、ストーリー自体盛り上がりにも欠けた。主役リンジー・フォンセカは魅力的だが服装ずっと一緒で、その辺りも抑揚なし。


このタイムトラヴェルとタイムループのからくりは、なんとなくわかるのだが、同時に、わかりにくい。なぜ過去に戻るのか、このバカにはわからいみたいだ。あと「服装がずっと一緒」というのも、バカ丸出し。出来事は基本的に1日(正確には36時間 2017年6月2日と3日ということまでわかっている)に起こるので、着せ替え人形じゃないんだから、一日、服装は同じ。抑揚がないのは、てめえの頭のなかだろう。

もっとも気になるのは、大切な人の不慮の死があり、タイムマシーンの存在があるのであれば、普通は死を防ぐことに奔走しないかな?主人のタイムマシーンに対する見解があったとはいえ、タイムマシーンを壊すのにほぼ躊躇がないことに違和感を感じます。


映画をしっかりみろよ。夫が殺された(最初は自殺と思われた)のは2017年4月14日という設定。いまは2017年6月2日か3日。このタイムマシーン、36時間前の過去にしかいけないのに、どうして36時間以上前に起こった夫の死を防げる。映画がどんなに周到に舞台背景を構築しても、理解しようとしない観客の前では、もうお手上げである。この映画関係者に同情する。

またこれは主題にかかわることなのだけれども、このレヴューアーのように理解力ゼロではない観客ではない私たちは、タイムマシーンを壊すことは、映画のなかで意義のあることと理解できる。

タイム・マシンを考案した科学者(主人公の夫)が、その危険性を悟り、悪用されないために実験を中止、マシンを破棄しようとして、研究所の所長によって殺害されるというのが事件のはじまりである(事件の真相は映画の中盤まで隠されている)。たとえ36時間前にしか行けないタイムマシンですら、悪用されれば危険である。研究所の所長は、可能性をとことん追求するのが科学者であって、結果を考えるのは科学者の責務ではないと語る。

しかし、この所長の、科学研究の何物にも左右されない厳密・厳正なありようを主張する、ある意味、倫理的な立場も、実は、武器としての使用可能性が立証されれば、巨額の補助金が得られる、そのためには人殺しも辞さない、いかなる犠牲が出ようと問題ないという、利益優先の恥ずべき悪辣な非倫理的欲望を隠し持っている。一か月前に死んだ夫すら救えない限定的なタイムマシンでも、政治的暗殺には使うことができるし、歴史を変えてしまうことを簡単にできてしまう(『ターミネイター』フランチャイズの考えたである)。タイムマシンは子供じみた空想の産物である限り問題ないし、時間の克服は人類全体の夢かもしれないが、もし実現したら人類は破滅する。

まあタイムマシーンはドリームマシンであるとしても、この映画では科学者の暴走と科学研究の危険性という、ある意味、昔ながらのテーマを持っていることは確かである(ここであつかった『タイムチェイサー』の主題と同じ)。こんなことも理解できないのかと、このバカ、あほのレヴューアーにはうんざりする。映画.COMには、理解力・鑑賞力・洞察力のすぐれたレヴューアーがたくさんいるという印象だったが……。

あと余談だが、この映画のなかで主人公を助ける同僚の科学者アレックスを、ザック・エイヴェリーという俳優が演じているのだけれども、アメリカのサイトなどで、演技がどうの、この映画に登場する癌だと、ぼろくそに言われている。べつに演技が下手だと思わないし、ユダヤ系みたいで、ユダヤ人差別かと嫌な気分になったのだが、Wikipediaで調べたら、この俳優、今年2021年、ねずみ講の詐欺(a Ponzi scheme)でアメリカで逮捕されていた。かなり高額の詐欺で、世間の怒りを買っているようなので、この映画、そのとばっちりを食っている可能性がある。

映画の設定をネタバレ覚悟で、私なりに整理してみると、とはつまり、このバカ、ほんとうはこうだとつっこまれるのを覚悟の上でということだが、たくさんの人が見てない映画なので、つっこみもないだろう、ネタバレしても影響はないだろうと、自分勝手に予想しつつ。

主人公ヘレンを演ずるのはリンジー・フォンセカ。彼女が出ている映画はいくつかみているのだが、思い出せない。この映画で私にもわかる有名な俳優はリンダ・ハミルトン(『ターミネーター』フランチャイズの)。ヘレンは2017年6月2日めざめる。このヘレンをH1とする(番号は便宜的なもの)。H1に電話が買ってきて逃げろと言われる。電話をかけてきたのはもう一人のヘレンだった。このヘレンをH2とする。

以後直接出会うことのない二人がいるこの世界での36時間の出来事。それが、この映画である。なおH1には、この一週間の記憶がない。困ったH1は、同僚に頼り、夫の死の真相を突き止め、もう一人の自分H2が何をしようとしているのかも理解し、諸悪の根源たる研究所所長と直接対決するために、単身、研究所に乗り込む。いっぽう、もうひとりのヘレンH2は、H1に携帯で行動を指示。H1が山小屋に行ったことを見届けた後、翌日、ホームセンターで爆弾の材料を買いそろえ、自分の研究室にこもって爆弾を製造、H1に指示をあたえながら、H1が研究所にはいって所長と話している間、自分もこっそり研究所に入り込み、タイムマシンを破壊する。ただし、タイムマシンを破壊するまえに、自分を過去におくりこみ、タイムマシンを爆弾で破壊する。

え、ということはH1は、みずからを36時間前に送り込んだH2と同一人物であったということになる(ちょっと何を言っているんだがよくわからないという場合には、この映画をみていただきたい。見て損はない映画だと思う。たぶんネットでは無料配信されていると思う)。

ひとつ語り忘れていたのだが、このタイムマシンを使うと36時間のことを忘れてしまうという、限定的記憶喪失になるという設定になっていることである。H1が、みずからを36時間後の世界からやってきたとわからないのは記憶喪失になっているからである(だからH2は、H1にあれこれ指示を与える必要があった)。H1は映画の中で、あるいは36時間のなかで、夫の死の真相にたどりつくのだが、実は、H2は、すでに真相にたどり着いていたからこそ、タイムマシンを破壊し、自らを36時間前に送り込み、みずからH1になったということになる。

ではH2は、どのようにして真相にたどりついたのか。それは2017年5月27日から一週間、研究所を無断欠勤し、夫の使っていた山小屋に行き、その優れた洞察力と推理力によって、夫の遺物から夫殺害の証拠をみつけたのである。で次に、彼女は夫が望んでいたようにタイムマシンを壊すことを考える。ただ、そうなるとタイムマシンを壊したあと、逮捕されれば、たとえマシンを壊す正当性が認められても処罰はまぬがれないし、あるいは犯罪者として逃亡生活を余儀なくされる。そのため36時間前の過去に逃亡することになる。

過去への逃亡者となり、36時間前に逃れ、H1となった彼女は、記憶喪失にもなっているため、H2は、携帯でH1に指示を与え誘導して、彼女H1が自分H2と同じ理解に到達するようにする。またはっきりとは示されていないが、H2はH1を、囮として使ってタイムマシン破壊を成功させたところがある。実際、H2にとってH1が出現したことは、自分がタイムマシン破壊に成功したことの証拠でもあるのだから。またH1は所長の部屋に閉じ込められていてので、タイムマシン破壊に関与していないことは歴然としているため、H1はタイムマシンのなくなった世界で研究員として新たな人生を送ることになる(とはいえ、研究所が新しくなったのは気のせいかもしれないとしても、彼女のコンピュータ画面には開発中らしいタイムマシンの画像があるのだが)。自分が自分を利用して自分になるために自分を過去に逃亡させるという無限のタイムループが生じている過去の一時期からは、彼女は逃れることができた。そしておそらくねずみ講の同僚と、あらたな人生をおくるであろう。

何言っているのだかよくわからないといわれることは覚悟している。私も無い知恵を絞って、映画の内容を整理して考えてみた。たとえ整理して考えれば、そんなに面倒な話ではないとわかっても。ただ、映画はそうしたパズルで魅惑するものではない。

映画のはじまりは、実は36時間事件が発生する前の2017年5月27日である。

目覚めた彼女が、キッチンで朝食のためにコーヒーを入れる。彼女の住む家は、清潔なモダンな住宅だが、なにか冷たい感じがしないではない。彼女の目線が寝室のドアに行くことから予想されるように、この家では、なにか悲劇的なことが起こっていたのである。はたせるかな、この家の冷たさはモダン建築の冷たさではなく、夫が死んだあとの、彼女の孤独と寂寥感からきていることがわかる。

映画はメランコリック・スケープだという、私だけではない多くの人が抱いている考え方からすれば、夫亡き後の妻の荒涼たる心象風景が展開していたのだ。しかも、もう少しあとになってわかるのは、夫は、彼女に相談することなく、ひとりで悩みをかかえて自殺したということになっている。‘He rejected me.’と彼女は言う。夫に捨てられたかもしれないという怒りと悲しみのなか、夫の死の真相に近づいていき、夫が殺されていたという真相にたどり着くことによって、彼女はトラウマから解放される。

ある意味、夫の死の真相を追究し、その死を克服するというミステリー仕立てになっている。そこにタイムトラベルとかタイムループの要素を絡ませる必要があったのかどうか。絡ませなければありきたりなミステリーに終わってしまって顧みられないか、いや、絡ませたことによって、変な錯綜感が生まれ、映画の印象を拡散させてしまったのか、それは見るものによって意見が分かれるところだろうが。

皮肉なことに、彼女の夫は、タイムマシンができたら、過去と未来のどちらに行きたいかと尋ねられ、現在と答える。現在のこの幸せを手放したくない。過去にも未来にも、魅力はないと。これはまた、彼女にとって、夫との幸せだった時間が、永遠の現在として、心の中の引き出しの奥底にしまわれていることも意味している――映画の最後の映像からもわかるように。

付記 ちなみにこの映画の宣伝用のポスターは最低である。映画のなかに一度も出てこないコスチュームに身を固め銃をもっている主人公の姿は、この映画が派手なアクション映画であるような印象をあたえているのだが、中身は、まったくそんなことはない。ねずみ講に続く、これはもうひとつの詐欺である
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2021年08月22日

『(r)adius ラディウス』

原題:Radius 2017年製作/93分/カナダ映画
劇場公開日 2018年1月16日

映画.COMの解説:

半径15メートル以内に近づいた者を即死させてしまう男の運命を描いたSFシチュエーションスリラー。交通事故に遭い記憶を失ったまま目覚めたリアムは、助けを求めるため近くの町に向かう。しかし目に入るのは住民の死体ばかりで、ようやく見つけた生存者も、彼が近寄った途端に死んでしまう。やがてリアムは、自分の半径15メートル以内に立ち入った者が即死してしまうことに気づく。戸惑うリアムだったが、近づいても死なない女性ジェーンと出会い、同じく記憶喪失の彼女とともに、この現象について解き明かそうとする。主人公リアム役に「パシフィック・リム」のディエゴ・クラテンホフ。ヒューマントラストシネマ渋谷、シネ・リーブル梅田で開催の「未体験ゾーンの映画たち2018」上映作品。


ヒューマントラスト渋谷の映画は、みなくてよいものもあるのだが、この映画は、みてもソンはない映画で、賞こそとらなかったものの、複数の賞にノミネートされている。低予算のカナダ映画で、テレビドラマでもよいように思われるが、一見荒唐無稽のファンタジーにみえながら、けっこう凝った内容(形而上的、スピリチュアルな内容)の映画で、見た後もいろいろな余韻を残してくれる。

ネットのでの評判は、総じてよくない。しかし、レヴューアーがダンシアッド化しているだけで、頭の悪さにほとほとうんざりする。上から目線ではない。ほんとうに無知で知性も感性もそのかけらもないバカが、自分はバカではないと、批判的な意見を書いてうぬぼれている。

まあ、微笑ましいのは次の意見(AMAZONプライム・ビデオでもみることができるが、以下は、すべてAMZONのレヴューアーのもの)。

しかし主役のおっさんブサイクだな。
マークハミルをブタ鼻にしてネアンデルタール人みたいな歯にした感じ。
女の方は山口美江にちょっと似てる。


このコメントはひどい。主役のディエゴ・クラテンホフも、こんな言われ方しては、泣くに泣けない。このバカは、ディエゴ・クラテンホフが誰だか知らないのだ。

2013年から現在もつづくテレビ・ドラマ『TheBlacklistブラックリスト』を見たことがないのだろうか。いまもCSでは最新シーズンの第8シーズンを放送中だが、残念ながら私は熱心な、あるいは熱烈なファンではないので、それを見ていないのだが、その私でも、知っている。2013年から続く、このドラマの最初から、ディエゴ・グラテンホフはレギュラーとして出演していた。FBIのレスラー捜査官といえば、わかる人にはわかる。長寿ドラマだから、もう馴染みの顔。『ブラックリスト』にはコアなファンが多いのだが、このレスラー捜査官は、このドラマ・シリーズでは、本来はイケメンのジェイムズ・スペイダーが最初から海坊主なので、唯一のイケメンのレギュラーである。日本では女性ファンも多いと聞く。映画会社もディエゴ・グラテンホフが主演だから公開したのかもしれない(というか、宣伝文では『ブラックリスト』の名前を出していないので、たぶん何も知らないままプロモーションしたのだろうが)。

ただ、無知なレヴューアーにディエゴ・グラテンホフがぼろくそに言われるのは、認めたくないが、理由がないわけではない。この映画のグラテンホフは、『ブラックリスト』にみられる切れ者のイケメンFBI捜査官の面影というかオーラはゼロである――おそらく意図的にオーラを消している。あるいは親しみやすさが前面に出ている。それは、この映画が、記憶喪失物であるからで、このジャンルの常として、記憶喪失前と後では、人格も顔つきも変わる。で、記憶喪失になる人物は、ほとんどの場合、善人になっている。

ジェイソン・ボーン・シリーズを思い出してもらってもいいのだが、記憶喪失前は、最強のスパイ・エージェントとか殺し屋であっても、記憶喪失後は、凡庸な善人になる。記憶喪失になると、これまでの気負いとか気合いとか力みがとれてしまい、リラックスした凡庸だが、善良な人間に変わってしまう。しかも記憶が戻ったあとも、善良さは失われることはないというのがお約束のパタンである。

記憶喪失前は、聖人のような善良の鑑ともいえる人物で、誰からも尊敬されていたのだが、記憶喪失後は、過去の自分の善良さを忘れ、ワルになり、悪行の限りを尽くすようになるという設定がないのは、リラックスして善良な人間になるか悪人になるかの違いによると考えられるのだが、リラックスして悪人になるという世界観は、人間の本性に悪魔性とか獣性を前提とすることになって、耐えがたいものがあるためだろうか。

そこのところは不思議でしかたがない。フィリップ・K・ディックの短編に日本語訳題は忘れたが‘The Imposter’という作品があるのだが、その実写映画化(ゲイリー・シニーズ主演)では自身がアンドロイド爆弾であること忘れたアンドロイドが、テロの脅威にさらされた都市を自分を犠牲にしてまで守り抜こうとする話だった。自分の本性を忘れて、善きアンドロイドとなる話だった。

というかディックの作品を思い出しからには、それよりも思い出すべき話があった。シュワルツェネッガー主演/ポール・ヴァンホーベン監督の『トータル・リコール』である。あれも火星の反乱者たちのもとに、記憶を消されて送り込まれた工作員が、記憶が戻ったあとでも、反乱者の側にたって戦う話だった。

この映画『ラディウス』も、記憶喪失者の話である。記憶がなくなると、それといっしょに気合いとか気負いとか緊張感もなくなり、主人公も、もしかしたら基FBI捜査官だったかもしれないが、そのオーラがぬけた、気の抜けた、凡庸な中年のオヤジになっている。日本のバカ・レヴューアーからもぼろくそに言われるはめになる。しかし、記憶が戻ったあと……。

なお、いま引用したバカなレヴューアーだが、バカだから社会的抹殺したほうがいいということにはならい。同じ様な無知なるがゆえのバカなコメントは、私の方がたくさんしていると思うので、バカだから社会的に抹殺されるというのなら、私など、九つ社会的な命があっても足らないだろう。

しかし、以下のレヴューアーは社会的に抹殺・埋葬したほうがいい。

この映画は「自分に近づいた生き物は死ぬ」という設定が売りのはず。
開始20分までは、その設定がしっかりしており、さてどうなるんだろうと楽しみにしてましたが、
周りの生き物が死ぬと自覚をもった主人公が、物置に引きこもっていると、
突然知らない女性が近づいてきました。

「近づくな!」と警告するも案の定近づいてきましたが、
まさかの何も起きないという事態。

同じような状態の仲間なのかと思ったが、
それに触れるようなことは一切なく、その後二人で車で移動しますが、
すれ違う車のドライバーが死ぬこともなく、映画の趣旨が一瞬で消えました。

それに言及したり、考える様子もありません。

この後で色々出てくるのかもしれませんが、私は納得できないので
再生を辞めました。マジで糞映画。


25分くらいで見るのを辞めたということを、レヴューのタイトルで告げている。見るのを辞めるのは勝手だが、この作品を「マジでクソ映画」とけなすからには、最後までみたうえで批判すべきで、途中で見るのを辞めてしまっては正しい評価を下せない。まじ糞野郎だ(女かもしれないが)。

というのも、主人公のところに女が近づいてきても異変が起こらないのは、謎であっても、それが重要なポイントであることは映画のなかで強調されている。また「すれ違う車のドライバーが死ぬこともなく、映画の趣旨が一瞬で消えました」とあるが、車がすれ違うところは、たしかにそのときは驚くのだが、あとで、説明される。つまり二人がいっしょにいると異変が起こらないのである。二人が15メートル以上引き離されると異変が起こる。そのことは、その先、映画を見続けていればすぐにわかる。

また正直言って、この映画のほうが、マジ糞野郎(女性かもしれないが)よりも、はるかに頭がいい。バカが頭のいいほうをバカにするんじゃない。まじ糞野郎。まじ糞レヴュー。

まあ、この映画を最後まではみていれば、一見説明不足の不備と思えるところも、きちんと説明していることに気づくだろうし、気づけば、こんな糞レヴューは書かなかっただろう。いや、たんなる早とちりではないかということではない。けなすコメントを出すくらいなら、きちんと見届けるべきであって、それをしないというのは、勝手か、意図的に、早とちりして、商品をけなす、amazonの悪質レヴューアー(これからはマジ糞レヴューアーと呼んだほうがいい)と、やっていることは同じである。途中で見るのをやめたなら、けなすコメントはすべきではない。ともあれ、ああ、これがamazon文化。

ただし、すぐれた映画は、優れたレヴューを呼び寄せる。以下のレヴューは、なるほどと思い、教えられるところが多かったが、マジで超絶レヴューアー。全文の引用するに値する。

CTスキャン中に十字が顔に落ちるところで宗教映画だと気づかなきゃいけないやつですね。ご丁寧に川で洗礼を受けるシーンまで出てきます。雷が天啓なら、捕まるときに警官たちが倒れるのはまさにゲッセマネの再現。キリスト教圏の人であれば前半に生贄の山羊(スケープゴート)を屠った時点で最期が予期できるんでしょう。原罪の物語なのだから安直に見えた畳み方も必然です。とすればradiusとは手首に釘を打たれて磔になるときに背負ったあらゆる罪の重みがそこにかかるところの橈骨を意味しています。
ローズもリリーもマリア様の象徴なのでクリスマスの話をするんだとか、他にもいろんなサインが隠されているはずなのでそれらを探しながら見直すのも一興であり一神教。


CTスキャンにのなかにキリストChristの文字が入っていることは、確かにそのとおりで、また気づかなかったところでもある。

まさにこのレヴューアーの指摘どおりで(「ご丁寧に川で洗礼を受けるシーンまで出てきます。雷が天啓なら、捕まるときに警官たちが倒れるのはまさにゲッセマネの再現。キリスト教圏の人であれば前半に生贄の山羊(スケープゴート)を屠った時点で最期が予期できるんでしょう」)、以下、順に確認すると、小川、大河、池、沼は、随所に出てくるし、死者はみな溺死状態である。

主人公の半径15メートル以内に入ると、動物も人間も死ぬのだが、そのとき両目が水色に濁る。この死に方は不思議な死に方だが、これは溺死した人間の眼だという説があり、そうだとすれば、死者は溺死状態で、これは主人公の行動と関係する。と同時に、この水色に濁った死者の両目は、眼の鱗(うろこ)だといえなくもない。そうなるとキリスト教のシンボリズムでは、これは眼から鱗の鱗――聖パウロの物語を思い起こさせる。パウロはキリスト教徒迫害者だったが、天罰あるいは天啓によって眼が見えなくなり、やがて眼から鱗がとれたとき、キリスト教に改宗していた。これもまたこの映画の主人公の行動と関係する。

捕まるときに警官たちが倒れるのはまさにゲッセマネの再現というのも、その通りで、主人公を捕縛にきた警官たちとそれを見物している近隣住民たちが、主人公と女性が引き離されると、主人公の致死的なパワーが発動して、半径15メートル以内皆殺し状態となる。何も知らない警官たちは、女性を保護して、主人公からむりやり引き離す。彼女が主人公から15メートル以上離れてしまうと、主人公のパワーが復活し、周囲の警官や近隣住民たちがばたばたと倒れてゆく。これは映画のなかでも、見応えのあるスペクタクル・シーンでもある。

これをゲッセマネの再現というとき、別に聖書にイエスを捕縛しにきた刑吏たちが、イエスのパワーに圧倒されてばたばたと倒れるというようなことではない。そんなことは聖書に書かれていない。ただイエスのような主人公が、警察官に逮捕される場と、イエスが捕まったゲッセマネの園とが重なるということだ。なぜなら主人公逮捕は、裏切りによるものであった。助け、かくまってくれるものと主人公が信じていた男が警察に通報するのは、予想外の予期せぬ展開だったが、ユダの裏切りと重なるとみれば、それなりになっとくがゆく。

また、レヴューアーは「原罪の物語なのだから安直に見えた畳み方も必然です」と書いているが、そういう宗教的寓意の物語としてもみることができる映画。物語の転回も寓意性を考慮すると、必然性のない強引なもの、あるいは「安直なもの」にみえてしまうところでも、けっこう理に適った展開であるとわかる。

ひとつ気になったのは、レヴューアーが

radiusとは手首に釘を打たれて磔になるときに背負ったあらゆる罪の重みがそこにかかるところの橈骨を意味しています。

という説明。この映画の『(r)adius』というタイトルは、日本で勝手につけたもので、(r)は、数学で使う、半径の記号であるrを強調したものであろう。原題はただのRadius。このradiusには、「半径」という意味のほかに、「放射状の光輪」とか「放射状の車輪」という意味がある。光輪は、この映画では、宇宙人らしき存在が到来したらしい時の謎の強烈な光と、それ引き起こした草原の円形の黒焦げと関係しよう。稲妻のような天啓の光とみることもできる。

また車輪となると、過去の自分の存在の不確かさに苦しむ、記憶喪失の主人公が受ける劫罰(車輪の刑)を連想させるものかもしれない。迫害されたキリスト教徒あるいは彼らの同時人たる罪人は、十字架に磔にされただけでなく、車輪にも磔にされたのである。

そしてradiusには「橈骨(とうこつ)」という意味がある。解剖学については全く無知な私なので、どういう骨がよくわからないのだが、人間の肘から手首にかけての長い骨のよようだ(違っているかもしれないが、この骨がある部位は、そのあたりである)。ただし、イエス・キリストは、磔の刑になるとき、この橈骨に釘を打たれたのではなく、手のひらに釘を打たれている――これはイエスの磔刑図からはっきりと確認できる。

だから、磔刑の橈骨は関係がないような気がするのだが、レヴューアーの指摘によってなるほどとも思わされた。たとえ直接、釘を打たれていなくとも、磔刑になったとき、もっとも力がかかる骨の部位のひとつが、この橈骨だろう。そして、それは映画のタイトルの複数の意味のひとつだから、キリストの磔刑を思わずにはいられないし、まさにレヴューアーが書いているようなに、「磔になるときに背負ったあらゆる罪の重みがそこにかかるところの橈骨」という洞察に納得するほかはないとわかった。

では、この映画は、どのように読まれるべきなのだろうか。多層的な物語構造は、特定のこのレベルの読み方だけが正しいとはいえないし、またどれかひとつ、気に入った物語レベルだけに固執することも正しいとはいえないだろう。実は、どれかひとつのレベルに固執しても、おのおのレベルは、必ずしも自己充足的な豊かさを実現していないところがある。むしろ各レベルが共鳴あるいは共振することで、作品の豊かさが生まれるとでもいうべきか。なおレベルの数は、無限ではないが、かといって決まっているわけではないし、また決めてはいけないことは確認しておきたい。

たとえばこの映画で主人公の男性を助ける女性が登場する。彼女も記憶喪失なのだが、その彼女は、記憶がよみがえるにつれて、自分が、もうひとりの双子の姉を捜していたことを思い出す――見つからずに絶望して死のうとしていたこと、も。

いなくなった自分の双子の姉を捜すためにチラシまで印刷して配るのだが、しかしチラシを配る本人が、彼女とそっくりの人物の写真をチラシに載せて、その人物を捜しているというのは、もしそれが現実の出来事なら(たとえそうしたことはありうるとしても)、かなり混乱を引き起こすことになろう。しかし、これが寓意的なものであるのなら、記憶喪失の人間の自分探しは、自分とそっくりの顔をした人物を印刷したチラシを配って、手がかりを求めるようなものである。自分にとっては、双子の兄弟姉妹のような身内であっても他者となった自分と、自分自身との分裂、そして再会こそが、記憶喪失物語の要であるのだが、しかし、私たちたちは誰もが自分自身を失踪させ、自分と消えた自分との分裂に悩んでいる。私たちは、みな失われた記憶を求める記憶喪失者である。そうなると、記憶喪失物語は、程度の差こそあれ、私たちの人生の物語ともなりうるだろう。

キリスト教的寓意のレベルでみれば、レヴューアーが指摘してたように、この双子の姉妹、ローズにリリーは、ともに「マリア様」のシンボルであろう。あるいは、むしろ、この双子の姉妹は、聖書に登場する二人のマリアのことだと修正したい。イエスの母である聖母マリアと、マグダラのマリア。この二人のマリアは、双子ではないが、イエスに常に寄り添う同名の女性であって、聖母マリアの象徴は白ユリ、マグダラのマリアの象徴は赤いバラである(この花の象徴性には確実な根拠がある)。映画のなかでローズとリリーという名前の双子の姉妹は、聖母マリアとマグダラのマリア、二人のマリアに照応しているのである。となると、彼女が寄り添う、主人公の男は、イエスということになろうか。罪人にして救世主の。

ここから先はどうしてもネタバレを含むことになるので、この映画を御覧になる方は、ここで辞めておかれることを忠告しておきたい。

実は、すでに察しがつくことかもしれない、この記憶喪失の男は、残念ながら元FBIの捜査官ではなくて、シリアル・キラーである。しかし、記憶がよみがえり、自分が次々と女性を殺して、沼に沈めたシリアル・キラーであったという真実に直面しても、彼は、もとの犯罪者に戻ることはなく、むしろ自己のおぞましい行為を恥じ、後悔し、自死するに至る。半径15メートル以内に入ってくる人間や動物を自動的に殺してしまう超能力は、宇宙的超常現象らしいという、まあいい加減な説明めいたものが映画のなかで示されるが、その致死的パワーは、彼のシリアル・キラーとしてのこれまでの恐るべき人生のアレゴリーでもあろう。さらにいえば犯罪者から普通の人間にもどったとき、この彼の致死的パワーは、他人とのコミュニケーションを阻止してしまうことにもなって、誰とも話すらできないほど、彼を徹底した孤独状態に追いやることになる。その罪に劫罰が下されたとも考えることができる。

あるいはまた、主人公は、シリアル・キラーとしての過去の自分、自分の双子の兄弟ともいえるような存在と折り合いをつけねばならならい。記憶がよみがえるとは、失踪したもう一人の双子の兄弟姉妹との再会でもあった。

キリスト教的アレゴリーとしてみるのなら、この記憶喪失のシリアル・キラーは犯罪者だが、同時に救世主でもある。なぞの宇宙的超常現象による強烈な光線によって、あるいは異星人の到来にともなう強烈な光によって、地上に円形の漆黒の焼け焦げができるのだが、これは天啓のごとき強烈な光によって、同時に闇が浮き彫りになるとも、あるいは闇が焼き尽くされることともとれる。強烈な光が、主人公の闇の部分(シリアル・キラーとしての)を際立たせることになる(光、あるいは光の円盤の到来が、地上に黒々とした影を残す)と同時に、主人公の闇の部分を焼き尽くす(記憶喪失状態がもたらされる)ともいえる。

そしてキリスト教的アレゴリーとしてみるなら、この映画の物語は聖書物語のパロディなのかアダプテーションなのかが問題となる。それは、おぞましきシリアル・キラーに、イエス・キリストの影を重ね合わせようとしているかみみえるとき、これは暗黒のパロディなのか、それともアレゴリー性の強化・倍加なのかが問題となろう。

記憶喪失したシリアル・キラーがイエス・キリスト的な人物となんとなく重ね合わされるとき、これはある意味で、悪い冗談以外の何ものでもない。女性たちを次々と殺害して沼に埋めたシリアル・キラーと、天啓のごとき光線によって記憶喪失になり、半径15メートル近づく生物を死に至らしめるという致死力を手に入れた男は、確かに悪い冗談だが、同時にそれは、暗黒のパロディとも、光と影の分身関係とも、陰と陽とも、いまはもう使われなくなった写真のネガとポジのような関係、あるいは、まだ使える比喩としての絨毯の表と裏(同じ図柄を共有しているが、雰囲気は逆)の関係ともいえる。そしてこの関係は、キリスト的世界観と照応する。なぜならキリスト教の世界観の中心にあるのは罪人だからである。あるいはあらゆる宗教が、それこそ悪人正機説を包含しているといえるのかもしれない。そしてそもそもイエス・キリストが罪人そのものである。

イエスを罪人扱いするとは、なんという罰当たりな考え方だと非難されるかもしれないが、当時の体制側にとってみれば、イエスはテロリストそのものであり、その一党はテロリスト集団と変わらない。イエスはシリアル・キラーではない、人を殺すのではなく、人を助ける救世主だが、しかし、彼は信者を家族のもとから引き離し、家族そのものを否定し、また君主に対する裏切りを推奨していたのではなかったか。彼は破壊者として登場する。既存の文化と社会と宗教(いずれも腐敗していたからこそ、壊すにあたいするのだが)を壊す破壊者として。「破壊しに」と彼はいう。

したがって体制側にとってみれば、彼はシリアル・キラー以上に忌まわしい犯罪者・テロリストに他ならず、その捕縛に全力を挙げることになる。この映画で、不思議な致死力をもった謎の人物を逮捕しようと警察が全力をあげるとき、それはまさにエルサレムで官憲に追われるイエスの姿を彷彿とさせるのだ。またすでに述べたように、このイエスには、聖母マリアとマグダラのマリアが寄り添っている。

もちろん映画は、そんな抹香くさいというか、キリスト教くさい寓話としてのありようがすべてではない。UFOの強烈な光線にあてられておかしくなった人間の物語のSF(代表作は『未知との遭遇』)であり、なぞめいた記憶喪失者の前歴をめぐる犯罪ミステリーであり、安易な寓意性を許容しないがゆえに、ますます謎めくトワイライト・ゾーン的な謎物語(オリジナルシリーズを念頭においている)であり、また犯罪者の覚醒と贖罪の物語であり、そしてスケープゴートとして死んでゆくキリスト教的罪人の物語でもある。それらが共存している。すでに述べ、また指摘してように、そのどれか一つが中心というわけではないだろう。むしろ、共存と共鳴によって見る者に複雑な思いを抱かせること、知的にも情緒的にも文化的/宗教的にも興奮させること、それこそがこの作品のなんともいえぬ面白さだといってよいだろう。

たとえば、銃で撃たれた女性を必死の思いで病院に運んだ主人公は、当然のことながら手術室に運ばれてゆく瀕死の女性と15メートル以上離れることになる。手術室についてはいけないからである。となると女性と離れることで彼の致死パワーが炸裂して、病院内で大量虐殺が起こるはずだが……。ただ、その前に、彼女は、暴漢に襲われて逃げ出したので後ろから銃で撃たれたのである。ところが、病院で手術室に運ばれてゆく彼女の脇腹の傷口は、正面から撃たれたようにみえる。これはこの映画のミスとみなされるようなのだが、また真相はわからないのだが、ミスではないとみることもできる。

つまり宇宙からのUFOの飛来とか謎の放射状の光線というのは、このシリアル・キラーであった男が死ぬ間際に、あるいは死ぬ間際までにみていた現実逃避・真実回避の偽りのフィクションあるいは幻想であって、すべては単純に、彼は、自分で担ぎ込んだ女性を、実は撃っていたのである。だが同時に彼が現実逃避して脳内に展開していたこれまでのフィクションには、半径15メートル以内の生物皆殺しの致死パワーなど、現実の彼の行為を暗示する要素も多い。そしてそれは彼に精神的な罰として襲いかかり、また改悛の機会を彼に提供することにもなった。女性を殺そうとして、後悔し、病院に運んだ後、みずから責任をとったこの男の死の直前に脳裏に去来する幻想的物語というふうに映画全体を捉えるこもともできる。そしてその物語はまた、彼が女性を、そして全人類を救うために、命を落とすという、イエスのまねびにもなっている……。

興味があれば、見ていただきたい。途中で見るのを辞めるのは実に惜しい。
posted by ohashi at 01:11| 映画 | 更新情報をチェックする

2021年08月20日

市長の謝罪文

河村市長が職員向けに出した謝罪文書が話題になっている。批判が相次いでいる。

正確にいうと、これは、公的な謝罪文ではないだろう。メディア向けというか、全国民に向けての謝罪文ではない。あくまでも名古屋市長の職員向けの内部文書である。市庁の外にでて、ネット上でさらされることを予想していたかどうか、わからないが、それとは関係なく、この謝罪文で市長が何をしようとしているのか、作者の行為というものを考えてみたい。別に擁護するつもりはない。

字が汚いだの、殴り書きだの、二重線での訂正がわかる汚い文面だの、ひらがなが多く、謝罪文の体裁をなしていないだの、さんざん言われている。

(平仮が多いと云うのは、欠陥かどうか不明。漢字を知らない者に限って、辞書で調べ捲って矢鱈漢字が多い文章に成るし、手書きではなく、パソコンとかスマホに変換を任せると、此れ又、漢字が矢鱈多い文章に成るので、平仮名が多い文章と云うのは、書き手が、書き慣れている事の証拠とも言える。)

ただ、これは正式な謝罪文ではなく、市長が市庁職員幹部にむけたメモで、内容は、このたびの騒動でおおいにめいわくをかけたというもの。職員だけにみせるメモだから、手書きのほうがいい。これをPCで作成・印字したら、こころがこもっていない、よそよそしいという印象をあたえかねない。手書きがとうぜん。

また気心のしれた幹部職員たちなので、乱雑な走り書きのほうがよい。丁寧に一字一句楷書で書いていたら、これまたよそよそしい、心がこもっていない、外向きの文書と思われかねないので、手書きの走り書きしか選択の余地はない。

これをあらたまって机に向かって毛筆でもって書いたらな、逆効果。親しみが消える。仰々しく謝罪しているだけで、心がこもらない形だけのものと思われかねない。

まあ、上手い下手は別にして、ネットの画像でみるかぎり、この市長の字は達筆で、手書きのメモ程度の文書は書き慣れている感じはする。

要は一言でいえば、この謝罪メモは、飾らないところがいいのだ。そこに市長の親しみ深い、また飾らない率直な気持ちがあらわれている。まさにそこを狙ったパフォーマンスなのである。

もちろん、親しき仲にも礼儀ありという考え方はあろう。馴染みの幹部職員たちであっても、丁寧に、手書きで、きちんとした、書き損じなしの謝罪文を作成して配るべきではないのかという考え方はあろう。ネットでは、この考え方が圧倒的である。私も、そう思う。

だがこの市長に、これを言っても無駄である。親しくない仲にも、無礼を、むりやり押し込んで、暴力的に親しさを作り出すのが、河村市長の戦略だから。金メダル噛みによって、選手との近さ、親しさを演出。もちろんこれは逆効果で、いまに続くわけだが。そして、あえてきつい言い方をすれば、これは性犯罪者のレイプ行為である。レイプしておいてから自分が愛されていたと思い込むのだ。

河村市長にとって、親しき仲では、もっと無礼になる。私にとって、こうした親しさの押し売りほど不快なことはない。

結局、市庁の幹部職員は、河村市長にとっては、家族みたいなものである。その家族にむかって「今回、めいわくかけたで、許してちょ~よ」と、飾らず、親しみこめて、率直にあやまったというパフォーマンスである(名古屋弁で謝罪文を書けばいいと思うのだが、河村市長も名古屋人根性が身についている。名古屋弁は、手書きだろうとなんだろうと、紙を汚してはいけない恥部のような言語なのだから)。

その親しみの押し売りは、家族のいる茶の間を、パンツ一枚で歩いて、それが家族ならではの親しみの表現だと勘違いして、他の家族から嫌われている糞オヤジのひとりよがりでしかないのだ。

posted by ohashi at 22:12| コメント | 更新情報をチェックする

2021年08月18日

コロナ禍でのテレビドラマ

CSで放送している『NCIS ネイビー科学捜査班』の最新の18シーズン(2020)をみていたら、今週の回から、コロナウィルス感染が始まって、登場人物たちが、みなマスクをし、職場に入る時には手を消毒しているのをみて、驚いた。

驚く方が驚きかもしれないが、一昨年からはじまっているコロナ感染は、仕事や生活に大きな変化をもたらし、外出するときにはマスクを着用し、手洗い・うがいはの励行は国民の義務と化している。時折、マスクをせずに街中を歩いている人間をみつけると、下半身丸出しで歩いている変態の人間のくずに思えてしまうくらい、マスク着用はあたりまえのこととなった。

テレビ番組でも、スタジオ内でマスク着用はなくとも、出演者は距離をとって位置し、遮蔽板などが常備されるようになった。リモート出演も常態化しているのだが、しかし、テレビドラマだけは、なにかパラレルワールドから番組を移入してきたかのように、コロナ禍とは無縁の世界が展開している。すべてのドラマの時代設定が現時点を基点にしているのではないとしても、現時点におけるコロナ禍は、まるでなかったかのような世界が展開している。

感染爆発下で開催されたオリンピックと、過去最大の感染者と犠牲者を出しているときに開催されるパラリンピックという、このオリパラと双璧をなすのがテレビドラマにおけるコロナ感染無視である。テレビで感染予防を訴えても、現代の時代を扱うテレビドラマではコロナ感染の影も形もないユートピアを展示している以上、国民の意識がゆるむのは避けられない。

繰り返すがコロナ感染無視の二大愚行はオリパラとテレビドラマである。

もちろんテレビドラマのなかにコロナ感染を取り入れるのは、無謀な試みであるかもしれない。出演者全員がリモートで登場すると無理が生ずるし、出演者全員がいつもマスクを着用していたら、たとえレギュラーの顔はマスクをしていてもわかるのだが、それ以外の人物の顔はわからず困ったことになる――とりわけ刑事物ではマスクしている犯人を追うのはつらい。

そのため時折マスクを外す必要が生ずるし、話の展開によっては、密な状態が避けられないこともある。

コロナ禍が現実の生活に強いる不便さは、ドラマにおいては、二倍、三倍にもなる。さらにコロナ感染予防の観点から、危険な行動とか、まねしてはまずい行動もドラマ内で示すことになれば、非難さえされかねない。だから、コロナ禍はなかったことにしたほうが、無難かもしれないが、しかし、人類が直面している未曾有の災禍に対して、ここまで無視を決め込んでいいのだろうか。コロナ禍のない日常を撮影しているスタッフは、おそらく全員マスクして、コロナ禍予防万全の状態で、番組を製作しているはずなで、コロナ禍の影響は見ようとしなくても見えてしまうのである。

だから、たとえ部分的なものであってもコロナ禍をドラマに取り入れることの英断は、日本の政権における現実逃避と現実隠蔽が目に余る現在、どれほど褒めても褒めたりない。NCISでは、今回、マリア・ベッロ(ジャック・スローン捜査官)がチームを去ることが暗示されて衝撃だったし、エミリ・ウィッカシャム(ビショップ捜査官)も、まだ放送されていない最終話で、チームを去るらしいので、それも衝撃的なのだが、ドラマ内のコロナ禍の登場は、ジャック・ラカンの「リアル」の逆襲のように、それらをはるかに凌ぐ衝撃だった。

posted by ohashi at 20:16| コメント | 更新情報をチェックする

2021年08月15日

『ドント・ゴー・ダウン』

原題The Ascent    別題:The Stairs  トム・パットン監督 2019年UK映画

びっくりするようなスケールの大きさを予感させるポスターと、期待をいやがうえにも高める予告編とは、裏腹に、低予算のB級映画だが、タイムループのアイデアが面白ければそれでいいと思ってみてみた。

以前、ここで触れたC級映画『タイム・ルーパー』は、ニューヨークが舞台のはずだが、どうみても地方都市のダイナーとその隣の4,5階建てのビルとその屋上だけで完結してしまうチープ感漂う映画だったのだが、この『ドント・ゴー・ダウン』は、戦争物で、CGによる航空機やミサイルやヘリなどがあり、また本物の軍用車両(さすがに戦車はないのだが)が多数配されていて、チープ感はない(とはいえ英国本土ではない敵地での敵軍の軍用車両がみな英国製であるのは、まあしかたがないか)。

特殊部隊は全員がタイムループに巻き込まれるという設定は、なにやら日本の戦国自衛隊のタイムループ版かと思って期待したが(ポスターのせいでもある)、それとはまったく違う、こじんまりとした映画だった。


次のような映画の内容があった:

戦場で無限のタイムループに陥ったイギリス特殊部隊の運命を描いたSF戦争アクション。味方を助けるため東ヨーロッパの戦地へ送り込まれた6人のイギリス特殊部隊。民間人の犠牲を出しながらもミッションを遂行した6人は、脱出のためヘリコプターを目指し階段を上り始めるが、一向に出口にたどり着けない。やっと見つけたドアを開けると、そこは先程まで彼らがいた戦場で、目の前には戦っている彼ら自身の姿があった。ヒューマントラストシネマ渋谷&シネ・リーブル梅田で開催の「未体験ゾーンの映画たち2020」上映作品。


まあ、コロナ禍のせいで、この映画を映画館というかヒューマントラスト渋谷で見ることはなかったのだが、見なくてもいい映画だった。

この内容紹介もいいかげんで、場所は、東欧らしいところなのだろうが、任務は、味方を助けるためではない。敵の資料(なんと文書形式の書類)を奪ってくるのが任務。またその際、敵方にいる人間は、捕虜だろうが、民間人だろうが皆殺しにするという命令を受けている。はっきりとは述べられていないが、民間人は足手まといになるからということか。とにかく民間人を救出するのではなく、殺して放置するという、驚愕の命令を実行する部隊。

そもそもNATO軍(?)に有益な秘密情報を、戦地の周辺部の荒野で休息している分隊程度の部隊が持っているというのも解せないのだが、とにかく、任務遂行中に地元の民間人の、しかも魔女的な女性を殺したために、特殊部隊は呪いをうけ一人また一人と命を落としてゆくことになる。

また「脱出のためヘリコプターを目指し階段を上り始める」というのもいい加減なあらすじで、敵地からヘリコプターで脱出するのだが、ヘリは地上に着陸して特殊部隊を救出する。問題は本部(たぶん英国内ある)に到着した部隊が、建物のエレベーターに乗って上層階に行こうとすると、途中でエレベーターが故障で止まる。やむなく階段を上ることになるのだが、いつまでたっても階段の終わりがない――というミステリアスな展開となるのだが、なぜ上層階あるいは屋上に行こうとしているのか、明確な説明はない。特殊部隊の面々はトラックで本部に入っていくのであって、その敷地には高層ビルなどなく、また、なぜ屋上なのかも理由がない。ヘリは、広大な敷地のどこかに下りれば問題ないはずなので。

なおこの不思議な階段は、どこのビルにもありそうな階段で神秘感はないのだが、下へ降りてゆくと、死んだ魔女のような女性が待ち構えていて隊員を殺してゆく。上に行くしないのだが、出口はない。ようやくみつけた出口から外にでると……とういことになる。

荒野で休息している小部隊を攻撃し、そのとき捕虜の女性を殺してしまったので、呪いの無限ループがはじまったらしいと察する隊員たちは、小部隊の攻撃という原場面に何度も立ちもどりながら、その都度、無限ループから脱出する作戦を実行する。

ネット上にある、この映画評:

2020年2月16日投稿
戦地らしきところから指令部らしきところに戻った兵士達が階段を登った先の扉を開けたら戦地にいた先程までの自分達に遭遇するというのを繰り返す話。

あらすじには味方を助ける為にとか東ヨーロッパとかイギリス特殊部隊とか書かれているけど、どんな立場でどんな状況で何をしているのか良くわからない状態で話が始まる。
一応、敵陣の人間を皆殺しにして資料を回収とか言ってるけど、そんな様子ないし。

宗教的なことを口にし勝手にルールというか、どうすれば戻れるとか決めて実行しようとしていく面々。

全員でとか何とか言ってるけど、回り口説く同じ様なことをひたすら繰り返すけど、少なくとも今いる自分達と考えたら、既に死んだ奴か、スタントン狙いだと思うけどね。

しまいにはなんで理解しているのか、受け荒れているのか???

20分そこそこの作品ならまだ少しは評価出来るけど、長々やってこれはいただけない。


こういう否定的な映画評は、ふつうなら、映画を読めないただのバカがと決めつけてしまうところだが、今回は、さすがに、この評者に同意せざるを得ない。

予算のないB級映画でもかまわない。登場する俳優たち、だれひとりとして知らなくてもかまわない。アイデアが面白ければ、それでいいのだし、タイムループ物について考えようとする私にとっては格好の材料だったはずだが、アイデアがよくない。

任務を遂行して帰還しながら、またも同じ任務に立ち会わされる部隊の、これは戦争映画のお約束の敵中突破形式物語なのだが、ループするので、予想外の敵に遭遇して窮地に陥るとういことはない。また呪いを解くための方法も、みていたなんとなくわかるのだが、おそらく観客の誰もが想像する解決法にだけには、いたらないように、あの手この手の、無用な、そしてまったく無意味な方法をためしてみて、そのつど失敗するというのは、みていて、誰もがいらいらしてくる。

まあ、兵士たちは、敵であれ、味方であれ、たとえどんなに理不尽な命令でも上官の命令は絶対命令だと洗脳されているため、命令に従うのではなく正しい行動をするほうが重要であるという認識に到達するまでには、時間がかかったということのようんだが、そうした認識は観客全員が共有するものだろう。

逆にそうした認識に至らないのは、よほどの耄碌老人か小学生以下の子供か、知性が衰えたか、まだ未熟なのではという印象をもってしまうのである。また、どうでもいいアクションシーン、格闘シーンで、時間稼ぎをしているところがあって(たぶんそれは観客へのサービスと思っているのかもしれないが、もっと整合性のある脚本をつくるほうがサービスであることを監督は気づくべきだ)、とにかく、はっきりいって、いらいらさせる類の頭が悪さが際立つ物語となっている。

あまり思い出したくない映画で、ここまで書くのさえつらかった。

posted by ohashi at 20:05| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2021年08月14日

『タイム・チェイサー』

原題I’ll Follow You Down (2013年、カナダ映画)

タイムループ映画ではないが、タイムトラヴェル物は、少なくとも過去の反復という点で、タイムループの要素をもっているので、とりあげる。

『タイム・チェイサー』などという珍奇なタイトルをつけたものだから、本格的SF映画かと思って見て、予想が外れて落胆する視聴者が多くて、ネット上での評判は芳しくない。

しかし、原題はSF臭を消している。たしかに、この映画は、失踪した父親によって運命を狂わされた、息子と母親の話であって、忽然と消えた父親をめぐる省察と、父親との再会を夢見る息子の幻想というふうにとれなくもない。

逆に、SF映画としてみると、説明不足のところが多く、理系の人間ではない私にとっては、よくわからないところが多い。理系の視聴者なら、たとえ省略されていても、なんとなくわかるところでも、文系の人間にはお手上げである。ただ、だからといって筋が追えないわけではないとしても。

たとえばAmazonのレヴューにこんなのがあった:

5つ星のうち3.0 会話が説明的
 
数学や物理学が苦手で、相対性理論やタイムパラドックスが全く理解できなくても大方のストーリーは理解できるタイムトラベル作品だった。

好きなジャンルの作品だったが少し期待はずれだった部分は、ストーリーを映像で進行させるというより、会話シーンをわざと長尺にした上にやたら説明的でグダグダ感が否めなかった点だ。視聴者への配慮かもしれないがそんな親切は逆に要らない。

主役のエロル役は他レビュアーでも紹介している通り『シックスセンス』や『A.I.』の子役だったハーレイ・ジョエル・オスメントで現在32歳とのことだ。この作品当時は22~3歳だろうか、いきなり大人になってしまったが”オイタ”もしてある程度の活動自粛期間もあったのだから仕方ない。胸毛がモジャモジャであの子役のときからは考えられないような男性ホルモンが出まくっている。

時は戻せない。何かを捨てて何かを得る。取捨選択が人生だ。研究か家族か。
そして父親だけが全てを記憶している。


こんな愚か者(ジェンダーは不明)でも、いやだからこそ、しっかりとした大人としてこの世界を闊歩しているのだろう。パラレルワールドへ飛んでいってくれといいたくなるのだが、傑作なのが、「ストーリーを映像で進行させるというより、会話シーンをわざと長尺にした上にやたら説明的でグダグダ感が否めなかった点だ」というコメント。

知らない人間が読んだら、そういう映画かと勘違いするだろうが、演劇的映画みたいに、議論や説明が長々と続くということはない。「ストーリーを映像で進行させるというより、会話シーンをわざと長尺にした上にやたら説明的でグダグダ感が否めなかった点だ」と、まあステレオタイプのコメントを恥ずかしげもなくよく書いたものだ。こういうマウントしようとするバカを相手していたら、貴重な人生を無駄にする。映画を見失う。

実際、この映画では、説明は多いどころか、省略のほうがが多いのだ。当然である。タイムマシンを発明して、過去へ行ったということが、物語としてわかればいいのであって、タイムマシンの詳しい原理の説明などしなくていい。説明してもらっても、私を含む視聴者にはわからないのだから。事実、タイムマシンの設計図めいたものはあるのだが、出来上がったタイムマシンがどんなかっこうをしているのか、映画は見せようとしない。

したがって映像の力点は、父親が行方不明となり、残された家族の決して癒えることのない悲しみの日々の映像化に置かれる。映画とは、メランコリーの風景であると信じて疑わない私にとって、この映画がみせるメランコリー・スケープは、その美しさと憂愁で胸をうつ。その映像美こそが、この映画を感銘深い作品にしている。ネット上では、この映画の評価は低いが、ダンシアッドなど無視すれば、この映画、美しさと痛さとが共存する優れた映画だということはわかる――くたばれダンシアッド。

予備知識ゼロでみたので、主役の若者が、往年の子役スターであった、ハーレイ・ジョエル・オスメントであることに気づかなかった。どこかでみた顔ではあったが、最後まで思い出せず。とはいえ母親役のジリアン・アンダーソン(『Xファイル』の)、消えた父親役のルーファス・シーウェルはともに馴染みの俳優たちだったので、なにか安心してしまって、主役が誰か思い出せなくてもさして気にならなかった。

父親が出張から帰ってくるはずなのに、帰ってこない。なぞの失踪。それから12年。残された者たちのうち息子は、新たな人生に踏み出そうとしているが、母親のほうは、夫の帰りをいまも待ち続けながら、デプレッション状態から抜け出せず、ついには自殺をする。主人公は、幼なじみの聡明な女性と結ばれ、子どもできるが、突発的な流産によって子どもを失う。なにかがおかしい。この自分の人生は、父親の失踪以後、まちがった道を辿りはじめたという思いをつのらせる主人公は、父親が発明し設計図を残していたタイムマシンを完成させ、それを使って、父親がむかった過去の世界へ、具体的にいうと1946年のプリンストン大学へと時間旅行する――父親をどこまでも追って(このどこまでも追ってゆくというモチーフが原題のタイトルとなる)。

基本は家族の物語である。それも父親の失踪によって運命を狂わされた家族の。夫の帰還を待ち続けながら、かくも長き夫の不在に耐えきれないまま、自殺する妻と、その息子が乗り出す新しい人生。数学と科学の天才という設定の息子は、同じく科学者である祖父の援助もあって、父親がタイムマシンを作り、過去へ行って帰ってこれなくなった(どうも過去の世界で殺されたらしい)ということまでつきとめている。しかし自分に子どもができたことを知り、仕事や研究よりも、家族の愛を選び、父親失踪事件のわだかまりを超えて新たな人生を選ぶとき、謎の流産が妻を襲う。

父親の失踪あるいは死を忘れ、過去のわだかまりにけりをつけて、新たな未来に自分の人生を投ずることこそ重要で、過去にひっぱられていては何もできない。うじうじしすぎだという意見がネット上にもあるのだが、そうした批判に答えるべく、映画は主人公に、いま現在の世界は、どこかおかしい、まちがった世界であり、それを正すには、過去へもどるしかないという考え方を視聴者に求めている。

この、なにか狂った世界を正すために過去へともどるという考え方。おそらくここにあるのは、タイムトラベル物にある過去改変・歴史改変という、お約束の設定であり、それが暗示的に示されている。実際、過去へのタイムトラベルは、狂った現在を是正するためにあったのではなかったか――たとえば『ターミネイター』の世界では、人間と機械がともに現在において勝利するために過去を変えようとする。

またこの映画では、さらに、設定状の約束事の暗示のみならず、現在の狂いを、突発的な死とか流産が証左であるかのように暗示する。また過去に行った父親も、暴漢によって殺されるらしいのだが、原因は不明。監督はカナダ人だが、インド系の人である。そのため理系的・数学的能力に優れていて科学者や科学の天才が登場するSF映画にぴったりと、ステレオタイプで想像しがちだが、映画が示している世界観は、むしろ科学的というよりも、神秘的な要素を強く漂わせている。

過去に行って行方不明となった父親を捜す息子という、家族愛テーマのSF映画だが、それ以上の何かを示唆しているところがある。謎は、家族愛を超える、あるいは家族愛に寄り添う、いまひとのテーマを暗示する装置でもある。

というのもレヴューアーにも気づいてほしいのだが、タイムマシンを使って1946年という過去に戻った父親が、なぜアインシュタインに会いに行ったのか。観光旅行気分で過去にタイムトラベルし、有名人のアインシュタインを一目みたい会って話をしたいというミーハー気分で、いやあこがれの人物に対して抱く夢を科学者として実現させようとしたのか。父親がアインシュタインに会うというので息子は、いまさらアインシュタインに会って、何を教えてもらうのかと問うている――それは、この映画を21世紀で見ている私たちすべてが抱く疑問だろう。

断片的あるいは暗示的にしか映画のなかでは語られていないが、父親は、アインシュタインに、原子爆弾関連の理論上の発見を伝えようとしているふしがある。それは、原子爆弾関連のテクノロジーを飛躍的に高め、それを世界各国が手に入れたら原子力兵器の使用可能性が高まる、そんな情報らしいのだ。アインシュタインと原子爆弾とかアメリカのマンハッタン計画との関係は、わかっていないことが多いのだが、ただ戦後、アインシュタインが原爆に強く反対したことは確かである。アインシュタインにとって原爆が変えてしまった世界は、できることならもとにもどしたい世界でもあった。

これに対し父親は科学者の知的関心の赴くまま、原爆を改良する何らかの情報をつかみ、それがもたらす変化あるいは惨禍など気にもとめず、ただ無邪気に、あるいは科学者の性癖として、それをアインシュタインに伝えようとしている。倫理とか社会文化的・歴史的影響などは無視。科学のエキスパートとして、知の無制限の探究を続けるだけである。

このことに息子は驚く(あるいはそのあとの行動からして予期していなのかもしれない)。すぐにも2004年に戻るべきと語る息子に対して、暴漢に襲われないよう用心して、とにかくアインシュタインに会うと、言うことをきかない。そのため息子は予想外の行動に出る。

自分の科学上の発見に夢中になり、それを、三歳の幼児のように無邪気に、アインシュタインに伝えることしか眼中にない、つまりその科学上の発見が、以後、地球に惨状をもたらす可能性など、三歳の幼児のように無頓着で考えることもない、この父親は、ある意味、科学者の典型である(ただし、この映画では、ただの科学者ではなく、マッドサイエンティストであることを臭わせているのだが)。

しかし、これは科学者が悪魔の使徒だからということではない。科学者が考えるのは、あるいはどうしても考えがちなのは、すべてをロジックと数式上の問題に還元することであって、それ以外のことは科学的思考にとっての夾雑物にすぎない。また数式上の問題として解決することが最優先され、解決に到達すれば、他の一切は無関係なこととして消滅する。

数字上の問題にすぎないのなら、人は何百万の人間すら殺すことができる――アイヒマンについてアーレントが考えたように(役所仕事の一環ならばともアーレントは考えたのだが)。科学的ロジックの問題にすぎないのなら、人は地球を壊すこともできる。したがって、行為の帰結を多角的に検討するためには、論理以外の思考方法を導入すれことになる。

【なおこれは、さらに現代の問題として、規制とルールだけの問題だけなら、動物園は、飼育していたキリンですら公開処刑してライオンの餌にすることができる(2021年7月9日の記事参照)――見学者を募ったし、その映像はいまもネット上でみることができる。規制とルールの問題だけなら、名古屋出入国在留管理局は病気になった外国人女性を、動物のように殺すこともできる(コロナ感染者を自宅放置する管政権を凌ぐ非人道ぶりである。)】

もちろん専門家としての思考が破滅的な帰結をもたらすというのは科学者だけではない。政治家あるいは権力者の場合もそうである――すべてを敵と味方の区分、覇権、支持率に還元して思考するのだから。それゆえ、

ある専門家は、核ミサイルを発射させるボタンは大統領の親友の胸に埋め込むべきだと提言した。そうすれば、彼が核兵器を放つと決めた場合、自分の有人に身体的暴力を加えて、彼の胸を引き裂かなくてはならない。そのことを考えると決断に感情ネットワークが動員される。デイヴィッド・イーグルマン『あなたの脳のはなし』太田直子訳(ハヤカワ/ノンフィクション文庫2019)p.156.


ここでは核ミサイルがもたらす惨禍を、広島・長崎の記録映像とか、ヴァーチャルなシミュレーション映像を見せて、戦争回避を促してもよいようなものだが、そんなことには動じないような人間に、最後の手段として、親しい者、愛する者の死をつきつけるということである。

大統領の親友のかわりに、大統領の息子でもいいだろう。要は、決断と行動が、人命にかかわる問題であること、そして死は、ただのイメージではなく、自分にとって親しい者たちが、自分にとって愛する者たちが死んだとき、あるいは彼らを自分が殺してしまったとき、自分がどう反応するかという情動問題として受け止められたとき、はじめて、真剣な多角的検討課題がはじまることだろう。それはまた平和への希求を必然的にもたらすはずである。

この映画の暗示の、さらにまた暗示のレベルだが、アインシュタインは、広島・長崎の惨状をなんらかのかたちで見聞して、核兵器廃絶と平和実現へと邁進することになったが、そのアインシュタインに、彼自身が見切りをつけた原爆関連理論を補完する情報をもってくるという、空気を読めない、殺されてもおかしくない愚行に無邪気に走る父親も、その行為の重さを、息子の死をもって知ることになったのだ(息子に会うことなくアインシュタインに会った父親のほうは、会った当日の夜に謎の死をとげる――その意味は、諜報機関による謀殺から、天罰までさまさまであろう)。

最後はハッピーエンドである。父帰る。

本来なら父親は空港で出迎えられるはずなのだが、出迎えのないまま自宅に帰る(出迎えのないのは、放蕩息子の帰還のイメージがある、あるいは日本風にいうと菊池寛の『父帰る』のイメージ)。妻と息子、そして息子の長馴染みの女の子が、いつもとかわらぬ日常を送っている――彼らのその後の人生は望まし方向へとすすむことが予感される。父親は何事もなかったかのように帰宅を迎えられるのだが、その顔には憂愁が漂っている。死んだ息子が、幼い息子として生きていることの戸惑い。あるいは息子の死の衝撃が残っているのか。もはや、そこには無邪気な天才科学者の面影はない。幼年期が終わったのである。



posted by ohashi at 19:03| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2021年08月13日

『サボタージュ』

Sabotage 2014年アメリカ映画。
始めて見る映画で、テレビで視聴。日本公開時には見なかったのだが、映画館で見ておけば良かったと後悔。CSで見たのだが、翌日か翌々日、地上波のテレビ(テレビ東京)でも放送していて、結局、二回も見てしまった。CSが字幕で。地上波が吹き替えということになる。

予備知識なしで見たのだが、素晴らしい映画で、驚いた。それも監督・脚本がデイヴィド・エアーだということで納得。

ただし、癖が強い映画でもあって、好みは分かれるかもしれない。グロいところは、きっちりグロい。どのくらいグロいかというと、最後の方に出てくる、冷蔵庫に入れられた裸の血まみれの死体は、テレビ東京版では、首から上しか映さなかった。まあ、午後3時に居間で見るような映像ではないし、またその惨殺死体をみての女性刑事の極度に動揺したリアクションも、ほとんどカットされていた。茶の間に出せないくらいグロいのである。

このグロさとともに、映画そのものも基本的にノワールで、暗く残酷な話なので、評価は分かれる、あるいは好き嫌いは分かれるかもしれない。ネットでの評価も、かんばしくない。

たとえば、先は見えている、筋は読めるから、ただグロいだけの映画だいうコメント多い。しかし、私は先を読めなかったので、私よりも頭がいい人が多いのだとうらやましく、またねたましく感じたのだが、しかし、それにつづくコメントはおよそ頭のいい人間の記すようなコメントではものばかりで、先が読めるとういのは、バカのまぐれ当たりか、たんなる見栄か、もしかしたら内容が理解できなかったからかもしれない。

そもそもデヴィッド・エアーの脚本は、どれもひねりがきいていて、先が読めない。『U-571』(脚本のみ 2000)だって、まさあんな風にうまくいくとは誰も予想できなかったにちがないし、『トレーニング・デイ』(脚本のみ 2001)にいたっては、デンゼル・ワシントン扮する悪徳警官をめぐって、ワルだけれども実は事情があってという、どんでん返しを期待したら、最後まで、どんでん返しがなく、ただのワルだったでおわるという、このひねりのなさは強烈で、まったく先が読めなかった。

この映画と同年の戦争映画『フューリー』(監督/脚本2014)も、まさか最後に、ああした玉砕戦法になるとは誰が予想しえただろう。もっともこの映画『サボタージュ』も最後は玉砕なのだが。

そして比較的最近作『スーサイド・スクワッド』(2016)のぶっとびぶりの源流は、おそらくこの『サボタージュ』である。実際、この麻薬取締局の特捜班も、収監された犯罪者たちを取締チームのメンバーにしたところがあるし、まさにそれはスーサイド・スクワッドそのものともいえるだろ。そして、ハーレイ・クインの原型は、この映画のリジーだとは、映画をみた者、誰もが思うところだろう。

アーノルド・シュワルツェネッガーの映画復帰後の作品としては、たとえば『エクスペンダブルズ』シリーズとか、『ターミネイター』シリーズなど、どれもフラットなキャラクターのアクション・ヒーローとしてのシュワルツェネッガーしか登場させていない。唯一、歳をとっても元気なところをみせつけた『ラストスタンド』の田舎の保安官役は、シュワルツェネッガーらしさがうかがえるのだが、こうした作品のなかでこの『サボタージュ』だけが、生身の人間としてのシュワルツェネッガーを現前させている――生身のというは、傷つきやすく、トラウマも抱えながらも、強欲で冷酷で、復讐の鬼でもあるという多面性である。それはまた法の執行者でありながら無法者でもあるという、麻薬取締チームのリーダーでありながら、麻薬組織のリーダーにもみえるという二重性といってもいい。

この映画をみてシュワルツェネッガーの部下のひとりにサム・ワージントンがいて我が眼を疑った。部下といっても、麻薬取締の潜入捜査員なので、見た目は、完全にワル、無法者、ギャングそのものである。そしてそうした柄の悪い部下のひとりをサム・ワージントンが演じている。最初、ワージントンがまだ無名の若い頃の映画なのかとかないと思った。しかし、そうではない。彼が『アバター』の主人公を演じたのは2009年。『タイタンの戦い』が2010年、『タイタンの逆襲』が2012年。いずれも主役であり、私としてはクロエ・モリッツを目当てに見に行った(忘れもしない、いまはなき銀座にあった映画館――上映開始時間が、理由は不明ながら、30分遅れた)『キリング・フィールズ 失踪地区』(2011)でも主役だった。比較的最近ではテレビシリーズ『マンハント』でもユナボマーを追いつめる捜査官役という主役だった。その彼が、こんなひどい役をやっているとは。

気の強い女性刑事役のオリヴィア・ウィリアムズは、似たような役を連続テレビドラマで演じていた(『ケース・センシティヴ』――アマゾン・プライム・ビデオでみた)ので、とくに意外性はないのだが、この映画でレジー役の、ミレーユ・イーノス。まさに『スーサイド・スクワッド』のハーレイ・クインの原型のような、この下品で残忍でよこしまなぶっとび女を、ミレーユ・イーノスが演じていることが最大の驚きである。彼女の出演している映画やテレビドラマを全部見ているわけではないので、誤認があるのかもしれないがが、こうした役は、彼女には実に珍しい。こういう役柄の彼女をみるのは初めてである。

映画のなかでは、サム・ワージントンとミレーユ・イーノスは、夫婦という設定だが、ふたりとも、これまでにない汚れ役をシュワルツェネッガーのもとで、嬉々として演じているというところがある。

そして実際、これはキャスティングの意味論あるいは緩衝効果ともいうべきものがあって、この見た目も、精神も、言動もすべて薄汚い麻薬取締特別版――まさに収監中の犯罪者を動員して作ったような特別版――は、ふだん、こういう役をしない俳優たちが演じているという意識がもてないと、ただ薄汚いだけであり、嫌悪感しかもたらさないだろう。

この映画において麻薬捜査班のリーダーは、レジェンドだけれどもまた悪徳捜査官というアンチヒーローでもあり、その利己的性格、執念深さ、腐敗ぶりは、シュワルツェネッガーが演じているとわからないと、ただ、不快なだけである。その意味で、シュワルツェネッガーと、彼の部下となっている名だたる俳優たちのもつ意味は大きいといわざるをえないし、彼らの顔認証ができないと、この映画は、不快な嫌悪すべき映画かもしれない。だから、ネット上での低い評価もわからないわけではない。

とはいえ私は、この映画のグロさにひきつつも、先の見えない物語と、切れのいいアクションシーンなどに感銘をうけた――CSと地上波で同じ映画をつづけてみたくらいなので。

内容について:最初は3時間ほどの大長編映画だったところ、100分ほどの映画に編集して縮めたとのこと。およそ半分くらいに縮めたことになるが、縮めたことによって、弊害が出ているかどうか、わからならいが、ただ、短縮ヴァージョンだけでも、それほど違和感はない。やや変わった展開と思えないところもないのだが、もしそれが短縮したことによる結果だとしたら、むしろ短縮して良かったのではということもできる。

資料によるとアガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』が原作とのこと。しかし、これはまともに受け取ることはできない。孤島とか、それに類する閉じられた場所に、人びとが集められ、一人また一人と、人が殺されていくということはない。なるほど、麻薬取締班のメンバーが次々と殺されていくのだが、だからといって、それが『そして誰もいなくなった』を原作とした作品という理由にはならない。

閉じ込められて、ひとりひとり殺され、最後に全員死んでしまい、誰が殺したこのかわからないという作品と、麻薬組織の資金源をネコババしたために、組織から報復され、取締班のメンバーがひとりひとり殺されるという作品との間には、翻案であるともいえない、ゆるすぎる類似性しかないように思われる。

だからクリスティーの作品原作説は、無視していいようなのだが、真犯人は誰かということになると、そこだけはちょっと似ているような気がする。『そして誰もいなくなった』の真犯人の予想のできなさは、『サボタージュ』の真犯人の予想のできなさと通ずるところがある。犯人はすぐにわかるとういネット上のコメントは、バカのまぐれ当たりか、バカの見栄っ張りにすぎない。(なおアガサ・クリスティーつながりでいうと、クリスティーの謎の失踪事件を扱ったテレビ映画でクリスティを演じたのはオリヴィア・ウィリアムズである)

なお、これは私は見ていないのだが、ブルーレイ版には、別エンディングが納められてて、それを紹介しているネット上の記事を読むと、確かに、驚きの、また救いのないエンディングだが、それによって作品の内容が変わってしまうと、ネット上の記事にあるが、そんなことはない。

つまり真犯人は誰かについては、現行のエンディングでも、別エンディングでも同じである。そのネット上の記事は、109分の映画では真犯人はリジーだが、別エンディングからすると……と書いてあるのだが、109分の映画版でも、リジーは真犯人ではない。それはふつうに見ていればわかるし、109分の映画版でも、最後には、真犯人がわかり私たちは愕然とする。とにかく、別エンディングであれ、現行のエンディングであれ、真犯人は変わらない。そのことだけは、ここではっきりと述べておく。

この映画、冒頭で、麻薬取締班が組織の本拠地でその巨額の資金源を確保するのだが、次の瞬間、その資金の一部をネコババする。いっそのこと全部もらってもいいようなものだが、量が多すぎることもあるのだが、その、見方によってはほんの一部だけをネコババする。ただ、それでも急いで札束をばらしてビニール袋に小分けしてそれをトイレの配水管に流す。排泄物がつまっているトイレに。汚いことこの上もない。彼らがやっている汚い横領と、排泄物の汚さが響き合う。ここからはじまる、薄汚いを通り越した不潔で下品で腐りきった所業、言動の数々は、たんなる誇張なのだろうか。

潜入捜査をする以上、捜査官といえでも、ならずもののような姿格好と言動で存在をアピールするほかはない。だから捜査官なのか売人なのかわからないような設定というのはリアリティはある。日本でも暴力団を取り締まる刑事が、暴力団員に似てくるようなものである。これは日本の刑事ドラマでもおなじみのことである。

またDEA(麻薬取締局)の活動の実態については、何も知らないのだが、日本の麻薬捜査などもそうかもしれないが、闇があると言われている。たとえば麻薬の使用者とか売人や組織をあぶり出すために、捜査局そのものが麻薬を流通させることがあると言われている。餌を撒いて、よってきたカモを一網打尽にするようなものだが、これは、通常の犯罪捜査における犯罪誘発みたいなもので、麻薬中毒者を撲滅するのではなくて作り出しているのではないか。また警察組織内部に、押収した麻薬を売買して金儲けをする集団ができているというのも、アメリカなどの刑事ドラマではよくある設定である。そして芸能人などが摘発される日本の麻薬捜査の闇。冤罪まがいの摘発の犠牲になった芸能人も多いと思う。もっとも、こんなことを書いていると、ある日、突然、麻薬捜査官が私の家に現れ、私の家の片隅に麻薬を仕込み、それを自作自演で発見して、私を摘発することになるかもしれない。

公務員だから、ならず者ではないというのもおかしい。公務員のなかには、唾棄すべきならず者がいる。メキシコの麻薬組織のメンバーよりももっと残酷な人間以下の獣ののような連中が名古屋にいる。市長のことではない――市長は、ただのバカだ。

2021年3月6日、名古屋出入国在留管理局の施設に収容されていたスリランカ人の女性ウィシュマ・サンダマリさんが死亡した。出入国在留管理庁が調査報告書を公表したが、1人の命が失われたのに責任の所在も不透明なまま。処分が出され、名古屋入管の佐野豪俊局長と当時の次長への訓告、警備監理官ら2人への厳重注意で終わっている。

彼ら出入国在留管理庁の職員は、ならずものの殺人者といってもさしつかえない。実際、遺族に公開された、当時の録画映像では、管理官たちは、この女性を、まともな人間として扱わず、死ぬにまかせている。人一人殺しておきながら、厳重注意ですむのは、日本という人権無視の野蛮国だけだろう。もうこれで日本は、中国やミャンマーの人権無視を非難することもできなくなった。日本はほんとうにすごい。世界に冠たる人権無視の国だから。

日本にいて良かった。日本人の生まれてほんとうによかった。日本人は外国人を平気で殺し、さらにコロナ感染で苦しむ同胞の日本人をも見殺しにしている。日本、本当にすごい国である。

映画『サボタージュ』では、法の執行者たちがならず者であった。日本でも法の執行者たちのなかには、ならず者は多い。出入国在留管理庁とかその施設は、ならず者たちの巣窟である。そこの職員は、本来、収監者であったのだが、管理者として雇われていて、収容者を虐待し殺している。彼らはならず者班、もと収監者班、囚人班である。と、そう言われないような仕事をぶりを彼らはしているのだろうか。そこでの人権無視の実態は、絶対に暴かれ、断罪されねばならならない。

posted by ohashi at 03:48| 映画・コメント | 更新情報をチェックする

2021年08月10日

『タイム・ルーパー』

原題はTime Again。2011年アメリカ映画。88分。B級というよりもC級。本来ならZ級といいたいところだが、Zはゾンビあるいはゾンビ映画のことなので、まぎらわしいのでBかC級としておく。

私はネット上での感想は、あまり信用していなくて、褒めている作品については、これのどこが褒められるのだと文句をつけたくなるし、けなしているコメントがあると、映画を見たり理解するときのリテラシーがまったくないド素人めと思ったりするのだが、今回のこの映画に限っては、ネット上での映画評に基本的に同意。

hmhm[ふむふむ]というサイトは、映画のあらすじ結末のまとめサイトで、丁寧にあらすじを語っているので、内容を忘れたときにはほんとうに助かるし、おそらくは映画をみていなくても、見た気になる――たぶんこれが、このサイトの正統的な活用法なのかもしれないのだが。で、今回の映画の内容については詳しく知りたければ、このサイトにアクセスすることをお薦めする。

なおこのhmhm,では、詳しいあらすじ紹介の後に、コメントが追加されるのだが、これがひどい。この映画にはこんなコメントがついている。

ライターの感想
この映画は、リム刑事やウェイ、ニューたちとの銃撃戦に迫力があります。発砲音が本物のように聞こえて、やられた時の人の飛び方などこだわりが見えます。本格的すぎない演出で、現実的な印象を与えてきます。マーロは結果的に過去に3度戻ります。それぞれ違った展開など、ストーリーが念入りに作られている印象です。展開は早すぎないので、見やすくなっています。 マーロとサムがレストランで働く様子は、元気で明るいです。ジャックも温かくて、人と人とが優しく接することの大切さを教えてくれます。 長すぎない上映時間が丁度良く、ごろごろしながら観るのにも最適な映画です。


銃撃戦がメインの映画じゃないし、内容からしてそんなものなくてもいい。しかも銃撃戦決してリアルじゃない。いったい、この刑事の拳銃には何発銃弾が装填できるのかというくらい、一度に20発くらいを打ち合っている。これが最後だと弾倉を交換したあとも、緊迫がない無駄弾を20発くらい撃っている。まあ銃撃戦をみせる映画ではないから、リアルじゃないところも許せるのだが、まさか、それを褒める者がいるとは。

そもそも「ライターの感想」と銘打つぐらいだからプロの執筆者なのでしょう。その割には中学生レベルの作文でしかない(中学生の皆様、ごめんなさい。「もっとまともな文章は、小学生でもかけるぞ」と書くべきでした)。

このライターの感想は無視して、

過去に妹を殺された姉は、不思議な力を持つ老婆によって妹が死ぬ前の過去へタイムスリップする。妹を救い現在に戻れるのか!?って話
場所が1つのビルの中でのみっていう、小規模な過去改変系タイムスリップ映画。この人いる必要あった?てかこの人何者?みたいな人が多い。あと時間系は綿密な脚本が求められるのに、タイムパラドックスとかとかあんま考えられてなくて微妙。んーそこそこ楽しめはするけども、かなり微妙な映画でした。


TSUTAYAのサイトに、こんなコメントがあったが、まあ妥当な感想という他はない。もう少し辛辣なコメントもあるのだが、残念ながら、日本語の文章力がなくて、「しかし」という接続詞の用法がおかしいのだが、それは我慢するとして、

ひどい映画
この映画はかなりの低予算で作られています。
しかし高額な予算をつぎ込んだ映画=素晴らしい映画ではありません。
低予算でも良作はいくらでもあります。
しかしこの映画は最悪です。
カメラワーク、ストーリー、演技どれをとってもひどい出来です。
タイトルの通り、タイムループするのでせめてラストは、と期待していましたが駄目でしたね。
映画というよりサークルの出品物です。


サークルの出品物というのが、言い得て妙で、まさに、下手な学生映画レベル。まあシナリオは出来上がったのだけれども、これを水準以上の映画にする機材もなく、ロケ地もあてがなく、俳優を使って撮影するなど夢のまた夢。したがって、映画として完成すれば、こんな感じであると、近所のダイナーと倉庫を借りて撮影、知り合いに演じてもらってつくったデモテープみたいなものと考えれば一番いいのかもしれない。もし私たちが、本物のプロデューサーであり、送られてきたこのデモ映像をみて、本格的な映画として完成させたらどうなるのか、どの俳優に演じてもらったら迫力があり感動的な映画になるのかと想像をたくましくするのなら、それはそれで楽しいかもしれないが、別にプロデューサーでもない私たちにとって、この映画はイライラが募るばかりである。

主役は若い姉妹二人なのだが、ポスターなどでは、男性二人の顔しか出ていない。刑事と犯人の二人なのだが、この二人が、ある程度名の知れた俳優らしく、主役の二人の女性はまったく無名。また無名で、主役にふさわしい女優のオーラというものがまったく感じられない。たとえ演技が下手でもオーラがあれば、それで見ることができるのだが、まったくそれがない。

ただしタイム・ループ物というのは、たとえどんなに俳優がひどくても、撮影が雑でも、物語というかプロットの不思議さ、面白さで、思わず見入ってしまうことも事実。その意味で、この映画は、プロットによって助けられている。

ループ物の常で、実際、どこからループが始まったのかわからない。というか、それはわかるのだが、映画の作りとして、冒頭で観客は、ループが始まっているまっただなかに投げ込まれる。ループ物の常で、何時始まったのかわからないループと、はじまりがわかるループ、いずれであっても、映画の作りとしては、in medias res すなわち途中から始まっている。

たとえ私たちの自身も、一回しかない人生を生きているつもりでも、実際には、何度目かのループかもしれないという、面白さ、あるいは恐怖を、ループ物の映画は常に喚起することは、どんなに強調しても強調したりないだろう。

とはいえ、この映画は、過去のループ物の約束事を、なんの説明もなく使っているところがあって、そのあたりにシナリオの詰めが甘い。まさに学生映画のなかでも下手な部類にはいる作品である。

たとえば、冒頭、銃撃戦に巻き込まれた姉妹は、建物屋上から二人で飛び降りる。飛び降りて死ねば、現在の世界にもどることを知っているからである。しかし、なぜそんなことを知っているかの説明はない。説明はないが、タイム・ループ物の映画は、死ぬことで振り出しにもどるのが常である。

たとえば次に語ろうと思う『ハッピー・デス・デイ』では、主人公は、殺されると、その日の朝にもどる。死ねば、もとの世界にもどることがわかると、続編『ハッピー・デス・デイ2U』で主人公は、自暴自棄ににあってありとあらゆる死に方を試して、その日の朝にもどる。まさにブラックすぎる笑いを、この死んで後戻りの展開は提供してくれる。

あるいは同じくタイム・ループ物のSF『オール・ユー・ニード・イズ・キル』でトム・クルーズは、とことん死にまくる。何度死ぬか、数え切れない。

ただ、この二つの映画では、なぜ死ぬと元に戻るかの説明はある。また死なないことで、ループから解放されるということの説明もあるのだが、この『タイム・ルーパー』では、その説明はない。むしろ、こうしたタイム・ルーパー物映画のお約束と、無批判に戯れているだけである。

主役二人の女優にオーラがないし、妹のほうが姉にみえ、姉のほうが妹にみえるなど、他に女優がいなかったのかと思えてくる。やはりこれは、本当に女優に演技してもらう前の参考資料、デモ映画としか思えなくなる。見ている者たちのイライラはつのる。

二人の姉妹は、マーローとサムという、なんとなく男性の名前になっている。サムはサマンサの略だから必ずしも男性名ではないのだが、ではマーローは何の略なのだろうか。いや、そもそも、サムとマーローというのは心当たりがある。そう、サム・スペイドとフィリップ・マーローのことだ。古典的ハードボイルド探偵で、どちらもハンフリー・ボガートが演じたことがある。で、この二つの名前には、この映画のなかで、どんな含意があるのだろうかと、考えてみた。考えに、考えたが、答えがみつからない。まあ、ただのお遊びなのだろう。サムとマーロー――それがどうしたというレベルでの話でしかない。

この姉妹の姉が過去にタイムトラベルできるようになるのは、古代ローマの魔法のコインのおかげである。このコイン一枚で過去と現在を行き来できるという。まあSF仕立てではなく、魔法ファンタジー仕立て。彼女はタイムトラベルを何度もするので、魔法のコインもいよいよなくなることになる。またこの魔法のコインを、ギャングも狙っているという設定。

そもそもの始まりは、魔法使いのような年配の女性が、姉のほうをコインを使っていきなり過去に送り込むことである。タイム・ループ物語が立ち上がるといってもいい。

ただ、それにしても、多くの観客や視聴者が気づくことなのだが、この数枚ある魔法のコイン、日本人なら、眼に入るだけで、そのまま忘れないコインなのである。つまりこの魔法のコイン、日本の100円硬貨なのだ。な、なんと。

しかも、100の浮き彫りがある面を、堂々とみせている。ほんとうに一瞬、自分の目を疑ったくらいだ。

それにしても古代ローマ時代の魔法のコインに、なぜローマ数字ではなく、アラビア数字が見出せるのだ。古代ローマ人は、アラビア数字を知っているわけがない。なんという無知な映画。安すぎる映画。100円ショップで売っているような映画である。

posted by ohashi at 03:35| 迷宮・迷路コメント | 更新情報をチェックする

2021年08月08日

パンとオリンピック

なお前回の河村市長金メダル事件を書くために、始めて河村たかしについてのWikipediaの記事を読んだ。

そこに、これは河村市長の発言ではないのだが、こんな気になる記述があった。

河村のポピュリズム(大衆迎合主義)政治的な側面に対する批判もある。八木秀次高崎経済大教授は「市民に分かりやすい政策だけで、古代ローマの政治手法『パンとサーカス』だ。パンは減税、サーカスが敵を作り上げてやっつけることだ」と述べている(2010年2月7日産経新聞)。


その政治手法について、減税はパンかもしれないが、敵を作ることはサーカスではないだろう。

ちなみに「パンとサーカス」について、すでにご存知の方も多いと思うし、私も、それをもじって使っているが(この記事に触発されたのではない)、Wikipediaによれば

パンとサーカス(羅: panem et circenses)は、詩人ユウェナリス(西暦60年 - 130年)が古代ローマ社会の世相を揶揄して詩篇中で使用した表現。権力者から無償で与えられる「パン(=食糧)」と「サーカス(=娯楽)」によって、ローマ市民が政治的盲目に置かれていることを指摘した。パンと見世物ともいう。


まず、これはパンかサーカスかではなく、パンとサーカスという同じ目的のための手段であり、二段構え、あるいはダメ押し的に二つ並んでいる。場合によっては、どちらかひとつでもいいということを確認したい。

もうひとつ確認すべきは、古代ローマ時代に、いわゆる「サーカス」はないので、これは競技場あるいは闘技場で行われるスペクタクルのこと。つまり現在における等価物は、「サーカス」ではなく「オリンピック」である。

コロナ感染対策の無策ぶりと、棄民政策を批判されないように、オリンピックの馬鹿騒ぎを連日流して、大衆の注意と批判をそらすという、現政権がやっていることこそ、「パンとサーカス」ならぬ「パンとオリンピック」である。



posted by ohashi at 15:36| パンとオリンピック | 更新情報をチェックする

貸したら噛むわ、金メダル事件

8月4日名古屋市庁舎を表敬訪問した、ソフトボールの後藤希友(みう)選手の金メダルを河村たかし市長が噛んだことに対し、非難の声があがり、市長の謝罪声明後も、非難の声は、おさまりそうもない。

ここでは何があったのか、実際の出来事の底流にある論理みたいなものを確認したい。

ただし河村市長を弁護するつもりは全くない。この金メダル噛み事件、知れば知るほど、許しがたいものと思わずにはいられないし、そもそも大村・愛知県知事へのリコール運動時から、河村たかしのような、言論と表現の自由を弾圧する恥知らずで愚劣なファシスト政治家は辞めてしまえばいいと思っていたし、いまもその判断は変わりはない。だいたい河村市長は、リコール好きなようだから、今度は、自分がリコールされればいいのだ。

と、そう断った上で、自分なりに腑に落ちないところを整理してみたい。

そもそも自分の金メダルを他人にかけるというのは、どういうことだろう。

私自身あるいは多くの人は、金メダルは実際に見たことはないし、ましてや触ったこともない。そのため大きさやメダルのデザインを自分の目でたしかめ、もし許されるなら、実際に手で触れてみて、その感触とか重さなども確かめることができればと思う。

おそらくこれは誰の思いも同じだろう。ただし、では首にかけてもいいですよと言われても、さすがにそれは断る。私がとった金メダルではないし、該当する金メダルの分野とも無関係で(私はソフトボール選手ではない)、ましてや金メダルあるいはメダルそのものとも縁がないので、首にかけることは断る。

では、選手の側は、なぜ自分がとったメダルを、自分ではない人の首にかけるのだろう。

すぐに思い浮かぶのは、コーチの首にメダルをかけるようなこと。これは、コーチをはじめとする、世話になった人たちと喜びを分かち合いたいということ、あるいはそれ以上に感謝の気持ちを伝えたいということだろう。

この金メダルは、自分一人の力でとったのではなく、コーチの指導のおかげであって、コーチもこのメダルをかける資格はあるというような意味で。そうした資格は、たとえば選手を応援してきた家族にもあるかもしれない。先輩とか友人。応援団の面々。資金援助してくれた団体の、すくなくとも代表者や、ときには団体の面々も含まれるかもしれない。後藤選手の場合なら、トヨタ自動車の社長は、首に金メダルをかけてもらう資格があるのかもしれない。

したがって、もし私が選手からこのメダルを首にかけてみてはといわれても、私は、あくまでも一般人なのであって、たとえ心のなかで応援していたとしても、そのような感謝の気持ちには値しないし、おこがましいので、私としてはお断りする。まあ、当然のことだろう。

では河村市長はどうなのか。名古屋市から資金援助を受けていたのか。あるいは名古屋市が公的に支援を表明していたのか、それはわからないが、表敬訪問というかたちをとったとしたら、名古屋市にも感謝したいということになる。そのため河村市長が首に金メダルをかけてもおかしくはないことになる。名古屋市への感謝の気持ちであり、河村市長が名古屋市と名古屋市民の代表として、金メダルをかけさえてもらったということになる。

もちろん、そこで河村市長が、金メダルを噛むということは予想しなかったかもしれないが、河村市長にしてみれば、受け狙いか、お茶目なところを示したかったのか、金メダルを獲った選手がよくするように、金メダルを噛んだということだろう。

もちろん自分の金メダルならまだしも、他人の金メダルを噛むというのはやりすぎであることはまちがいない。

いつの頃からか、オリンピックで金メダルをとった選手が、昔、金貨が本物かどうか確かめるために噛んで判定した(純金の金貨は歯形がつくくらいやわらかい)ことの名残で、金メダルを噛むところをメディアに示すようになった。

金メダル=金貨には、噛む行為がセットになっている。またこれは金メダリストだけの特権で、銀メダルや銅メダルを獲った選手が、メダルを噛むことはない。またさらにいえば、現在の金メダルは純金製ではないので、思い切り噛んだりすると歯がかけるくらい堅いらしい(はっきり覚えていないが、銅に金メッキをしたのではなかったかと思う)。

また通常考えられるのは、メダルに接吻することである。日本人の習慣とは異なるものの、接吻行為は、全世界的に通用することかもしれないが、金メダリストは噛むほうを選ぶ。金貨と噛む行為との文化的歴史的結びつき、金メダリストだけに許される特権性のみならず、ここには金メダルに歯形を刻印するかたちをとる、強い所有権の主張が認められる。

河村市長も、自分も支援者の名古屋市民を代表して金メダルを首からかけた。そしてその所有を強固にするために、また受け狙いで、金メダルを噛んだということだろう。

これは、一連の行為の論理の確認であって、実際の行為の確認ではない。では実際には何が起こっていたのか。

President Onlineの「セクハラは突然やってくる――河村たかし市長の"金メダルかじり"のもつ本質的な問題点」 矢部 万紀子( 2021/08/07 15:15)という記事によると、河村市長から、

「せっかくだから、かけてちょうだい」と要求された後藤さんは、「あ、そうですね」と反応、市長に近づき、首にかけた。すると市長は、「あ、重てーにゃー、本当にこれ」とメダルを見ながら言い、取材陣の方を見て「重てゃーですよ」と言い、次に「なー」と言ってマスクを外し、「こうやって」とメダルを口に近づけ、そしてかんだ。報道陣に体を向けたままの、まさに一瞬の動作だった。


とある。ここで確認できるのは、後藤選手が、自分か、金メダルを市長の首にかけた、あるいはかけるようにしたのではなく、また表敬訪問の礼儀として、儀礼的に金メダルを市長にかけさせるのでもなく、ただ市長が「かけてちょうだい」と勝手に要求したということである。

この場合に、あなたの金メダルを首にかけてもいいですかと許可をとってはおらず、ただ、金メダルを、自分の首に「かけて欲しい」と、かけることもふくめ、要求しているだけである(コロナ禍で、こうしたことは許しがたいし、まるで、目下の者のように、かけさせるというのも問題がある)。

この記事はさらに、

河村市長が、自分からかけさせたのだ。当日の映像をあれこれ検索し、見つけた東海テレビの映像でわかった。「せっかくだから、かけてちょうだい」と市長が後藤さんに言っていた。だから後藤選手はメダルをかけた。そして市長はかみ、そのまま返していた。唖然としつつ思ったのは、「セクハラは、突然やってくる」ということだった。


とあるのだが、別に後藤選手の体のどこかに噛みついたわけではないので、これだけでセクハラにはあたらないと思うのだが、しかし、「セクハラ」と断定したい気持ちはわからないわけではない。というのも、Wikipediaの記述では、こうあるからだ。

後藤が「(金メダルを)持ちますか?」と問いかけると、「持たしてちょ。せっかくだから、かけてちょうだい」とリクエストした[139][140][141]。後藤から金メダルを首にかけてもらうと、手に取って「あぁ〜重てやぁ(重たい)な本当に、これ。重てやぁですよ。な。」と述べた直後、「こうやって…」と突然、自らのマスクを外して金メダルを噛んだ[140][141][142][143][144][145][146][147]。会場には河村の歯と金メダルが「カチッ」と当たる音が響いた[148][149]。メダル本体だけでなく、メダルリボンの一部も河村の口の中に入っていた[150][151]。噛んだ際には河村は首からメダルを外すと拭くことなくそのまま後藤に返し、後藤は頭を下げて両手でメダルを受け取った[149]。その後も後藤に対して「でかいな、でかいな」と繰り返したり、「旦那はいらないか」「恋愛禁止か」などの質問をしたりした[140][141]。【[]内の番号は、注の番号】


Wikipediaの記事がほんとうなら、「「でかいな、でかいな」と繰り返したり、「旦那はいらないか」「恋愛禁止か」などの質問をしたりした」というのは、いまでは絶対にしてはいけないセクハラ発言である。発言が女性に対して不快感を起こさせる可能性があるし、そもそも人間としても失礼であって、これは金メダリストでもある選手を、ただ見下げているだけである。

またWikipediaの記事がほんとうなら、後藤選手は、金メダルを持ちますかという聞いている。これはふつうのことであって、私も、金メダルの触感を確かめたいから、持ってみたい。しかし、その貴重な金メダルを首にかけようとは思わない。河村市長は、金メダルを手に取って、これを自分の首にかけてもいいかと許可を求めるのではなく、自分の首にかけろと、まるで下女に対するように、命じているのである。自分に奉仕させているのである。

【このやりとりがWikipediaの記述通りなら、「持ってみますか」という後藤選手の発言に対して、河村市長は、その上をいく、マウント行為をめざしたのだともいえる。たかが小娘が、金メダルを、持ってみますか?だと、市長である、この俺様に何を偉そうに言っているのだと一瞬、思ったにちがいない(もちろん、そう考えるのは河村市長だけで、後藤選手の発言に問題はない。むしろ彼女は、金メダリストとして、リコール不正の関係者で犯罪者に近い市長など見下すような高飛車な姿勢をとっても全然おかしくないと思うし、それは許されたはずだ)。

河村市長のことを、名古屋弁丸出しの庶民派のおじちゃんなどと甘く考えてはいけない。こういうクソジジイは、自分だけが正しいく、また自分は偉く、尊敬されて当然だと思い、プライドが傷つくことにひと一倍敏感な人間である。そしてまた、当然のごとく女性を蔑視している。そのため年下の若い女性から、金メダルを持ってみますかと、生意気なことを言われと思い込みプライドが傷ついたこの傲慢ジジイは、持たせてもらうといった下でにでることに我慢できず、金メダルをかけてもいいかと求めたのである、いや、おまえが私の首に金メダルをかけろと命じたのだ。ただの小娘、アスリートの金メダリストといっても、総体的に一般人よりも劣る人種なのだから、そのくらいのことをして当然なのだと、そう、まさに、市長にとっては全く自然な反応をしたのである。こいつはほんとうに唾棄すべき人間である。】

アスリートの皆さん、せっかく金メダルを獲っても、そして国民のヒーロー、ヒロインになっても、あなたが女だから、あなたがただのアスリートだから、という理由で、政治家の石頭の先生方には、あなたがを、ただの召使い扱いするだけですよ。

コロナ禍の爆発的感染のもとで、オリンピックに参加しているアスリートに対しては、私は、たとえ本人の責任ではないかもしれないが、反感しかもたないのだが、それでも河村による侮辱的な扱いに対しては、同情を禁じ得ない。早くリコール運動を起こして、あんなバカ市長や辞めさせた方がいい。

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2021年08月07日

『カンタベリ物語』

ジェフリー・チョーサー『カンタベリ物語』池上忠弘監訳、共同新訳版(悠書館2021.7.15)

この7月に上梓されたチョーサーの『カンタベリ物語』の新訳である。久しぶりの新訳であり、全挿話に、解説と訳注がつき、まさに二一世紀のスタンダード版ともいえる翻訳で、装丁も美しい。図書館に一冊はあるべき本であり、個人で蔵書として購入してもよい本であって、自信をもって推薦できる。

個人で蔵書? 『カンタベリ物語』の全訳だから、そんな薄い本ではないはずでしょう? そう全体で1000頁を超える。ならば、そんな分厚い本(聖書とか辞書を連想させる厚さである)、個人で簡単に買えるような値段ではなないはずで、ましてや、お金を持たない、あるいは本にお金を使いたくない若い人たちは、この本を買う/買えるはずがないと思われるのだが……。

だが驚くなかれ、1000頁を超えるこの本は、定価6800円なのである。つまり、この手の本は、1頁10円というの相場なので、1000頁を超えれば1万円を超えてもおかしくないのだが、それが1万円をきっている。りっぱな装丁の本で、安っぽいところはない。これだけでも推薦するに値する。

私は、チョーサーの専門家ではないが、『カンタベリ物語』は、大学院生時代から、原文でゆっくり読んでいて(個人で、あるいは読書会などで)、シェイクスピア研究者なら誰でも読む最初の「騎士の話」以外にも、前半から中盤にかけての物語は丁寧に読んだが、恥ずかしながら、最後の「教区主任司祭の話」は、全体が長く、散文で、しかも段落が超長く、つまらなそうなので、怖じ気づいたこともあって、まだ読んでいないのだが、今回、すくなくとも翻訳で、読むことができそうなので、このチャンスを喜んでいる。訳文は、どの話も、とても読みやすい。

池上忠弘監訳とあるが、正確にいうと監訳ではない。『カンタベリ物語』の全訳を企画された池上忠弘氏の亡き後、その遺志を汲んで、複数の専門家の方々が訳稿を完成されたものである。訳文を完成された編集委員の方のなかには、私が個人的に知っている方もいる。どなたも優秀な研究者であることは誰もが認めることだろう。

そして最後に、この本の価値をいささかたりとも、減ずることのない、あら探し。繰り返すが、これによってこの本の価値が下がるようなものでは決してない。

帯に「〈人間喜劇〉の一大絵巻」とあって、それはそれで、あらありきたりな惹句とはいえ、『カンタベリ物語』の世界を的確に表現しているのだが、「〈人間喜劇〉」には「コメディア・フマナ」とルビがふってある。それはそれ問題ないのだが、「一大絵巻」に「ページェント」とルビがふってあるのだが、このルビは「大絵巻」もしくは「一大絵巻」全体にかかっているように思われるのだが、本来なら「絵巻」だけのルビではないか。

ただ、問題はそこではなく、「ページェント」というのは何語なのだろうか。英和辞典ではpageantの訳語のひとつに「ページェント」が掲げてあるが、発音記号をみると「パジェント」である。おそらくほとんどの英和辞典でpageantの発音は「パジェント」となっている。これは昔、学生時代に英語の時間にpageantを「ページェント」と読んで、先生に「パジェント」と直された経験がある私としては、それ以来、「ページェント」が何語なのか、つねに疑問に思ってきた。なお日本では、中世(英)文学とかシェイクスピアの時代の文学文化を論ずるときには、口頭でも絶対に「パジェント」としか言わない。「ページェント」などと言おうものならド素人かと馬鹿にされる。

ただし、以上のことは、そんなに問題ではない。すごく違和感があったのは、「共同新訳版」という表記。日本語聖書の「共同訳」とか「新共同訳」を思わせる表記で、実際、本そのものも聖書のように分厚い。

ただし日本の聖書翻訳が、これまで珍奇な表現を考案してきたのは事実。たとえば「明治訳」とか「昭和訳」という表記を平気で使ってきた。しかし、平成の時代、あるいは令和の時代の翻訳を、平成訳とか令和訳というふうに表記することはまずないだろう。聖書翻訳だけが、珍奇な表現を勝手に使っている。そのため「共同訳」というのも、事情を知らないと理解できない変な表現である。

その聖書翻訳の、とんでもない表記の伝統を引き継いだのかどうかわからないが、「共同新訳版」というのは、違和感マックスである。複数の訳者の共訳であることと、新訳であることを伝えたかったのだろうが、「~監訳」という表記で、共訳であることはわかるし、新訳とか新訳版と、タイトルのなかで銘打っておけば、すむのではないか。それが「共同新訳版」とは? いっそのこと聖書みたいに「新共同訳新版」とでもしておいたらよかったのに。

とはいえ、だからといってもこの『カンタベリ物語』の新訳の価値が下がることは絶対にないのだが。


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2021年08月04日

モレッティ『ブルジョワ』

フランコ・モレッティ『ブルジョワ――歴史と文学のあいだ』田中裕介訳(みすず書房、2018)を読む必要に迫られて手に取った。もちろん、あえてここで言及するのだから、きわめてよくできた翻訳であり、誰にも自信をもって奨めることができる本である。

内容も、モレッティの他の本と同様に、きわめて興味深く、また私としては教えられることばかりだが、この『ブルジョワ』の読者としては、やや異端的な読者といわざるをえない私としては、最後のイプセンの章が、とりわけ興味深かった。

イプセンについては、これは読んだり見たりすれば、誰にでもわかることだが、必ずしも、充分に論じられていないこととして、資本主義時代のブルジョワの精神を扱っていることである。ノルウェーは、おそらく他のヨーロッパ諸国に比べて資本主義の到来が遅かったと推測できる。他のヨーロッパで、あらかた毒を振りまき、地獄を出現させ、腐敗し衰退しつつあった資本主義も、周辺国のノルウェーでは、新たな社会と経済体制の到来をもたらす、新鮮このうえない革新性の波となって押し寄せる。そこに生きたLarger-than-lifeといえる傑物たちの栄光と没落の悲劇世界を現出させたのがイプセンの現代劇だと思っている私としては(いや、誰もがそう思っているのだが)、モレッティの議論は、とりわけ参考になった。イプセンの数多の研究者たちには失礼ながら、それは、イプセンの世界をはじめて真正面から捉えた議論であった。

あとは、私の得意なあら探し。とはいえ翻訳とか本文についてではない。だから、残念ながら、このあら探しによっても、この本の高い価値は、いささかなりとも減ることはない。このことは断言しておきたい。

巻末に文献一覧があり、そこには日本語訳も併記され情報価値が高いものとなっている。

The Arabian Nights: Tales of 1001 Nights, Harmondsworth 2010.とあって、
〔大場正史訳『千夜一夜物語:バートン版』全11巻、ちくま文庫、2003-2004年〕


とある。ペンギン版の新訳の『1001夜物語』が書目としてあげてあるのだが、そこに、わざわざ「バートン版」と断っている日本語訳を出すのはいかがなものか。ペンギン版の新訳が依拠している写本と、バートン版が依拠する写本とは違っているはずだが、たとえ同じでも(この点は、まだ確認していない)、新訳の英語とバートン版の英語は異なることはいうまでもない。つまり、この新英語訳を日本語訳にしたものは出ていないのである。

あと、書目一覧には、複数の日本語訳がある原書も、一つしか示していないようなのだが、それはそれとしても、やはり、アラビアン・ナイトの日本語訳は、完訳版もふくめて、多数存在するので、ひとつだけというのはどうか。

まあ、大場訳『千夜一夜物語』を、あくまでも参考作品、参考翻訳として出しておけば、それはそれで問題ない。

私は昔、バートン版を完訳した大場訳を全部読んだのだが、たとえば、なぜ『千一夜物語』ではなく『千夜一夜物語』でなくてはいけないのかをめぐるバートンの議論など興味深く読んだ記憶がある(「千夜一夜」は「永遠と一日」みたいなものである)。それを思うと、新英語訳とバートン訳とは別物だという気がする。

ヘーゲルの本が書目一覧にあって、そのなかに『精神現象学』が掲げてある。この書目一覧では、日本語訳として、岩波のヘーゲル全集のなかの『精神の現象学』というタイトルの日本語訳が示されている。

ところが本文では『精神現象学』と表記している。『精神の現象学』ではなく、『精神現象学』である。一般には『精神現象学』という表記で通っているから、本文における『精神現象学』という表記は妥当なものと思うのだが、ではなぜ書目一覧で、わざわざ『精神の現象学』というタイトルの日本語訳を選んだのか? それしか日本語訳がなければ、それでいいのだが、『精神現象学』というタイトルの翻訳は、文庫本(たとえばちくま学芸文庫や平凡社ライブラリー)もふくめていろいろ出ている。なぜそれを記さないのか。そもそも、複数の日本語訳があっても、そのうち一つしか示さないという、選択は誰が決めたのか。

もちろん複数の日本語訳があるものの場合、すべてを網羅することは、不可能な事が多いので、どうしても選択的になるのだが、網羅的でなくても、一、二冊、あるいは数冊提示することは、そんなに変なことではない。

さもないと、一冊しか提示しない場合、それを最高の権威ある翻訳として示しているような誤解をあたえはしないか。『精神現象学』の翻訳の文庫版が、岩波の全集の翻訳に比べて劣っているとは思えない。もしそのような印象をあたえるなら、それは虚偽の情報操作である。

ちなみにニーチェの『道徳の系譜』には、複数の日本語訳が掲載されていて、一作品、一翻訳という原則はないことがわかる。あるいはヘーゲルの翻訳は最高のものがひとつしかないが、ニーチェのものは甲乙決めがたいというのか。そんなバカな。

要するに、いい加減なのだろう。

ただそれにしても、訳者あとがきと、また巻末の索引の直前の頁に、
編集 勝 康裕 (フリーエディター)

とだけ、堂々と記してある。

恥ずかしながら、どんな方は存じ上げないが、ここまで明記するというのは、みすず書房が編集をこの方に丸投げしたということなのだろうか。出版事情については、なにも知らないのだが、出版社が編集を外注することはあるのだろうが、外注先を明記するのは、礼儀なのだろうか、あるいはこの勝氏が有名な方で、その名前が明記されることは、本の価値を高めるのだろうか。

それにしても「フリーエディター」って、何? これはそもそも何語なのか。日本語?英語ではないでしょう。将来、日本語になるかもしれないし、英語になるかもしれないのだが。これは、フリーランスという意味なのだろうか。これから英語でも日本語でも、フリーランスという意味でフリーという語が使われるのだろうか? そうなって欲しくはないないのだが。

posted by ohashi at 03:43| 推薦図書 | 更新情報をチェックする