2021年07月30日

私の迷宮体験 つづき

前回の記事のまとめ

私のハンプトン・コート宮殿の庭園迷路体験。この迷路は、一本道の迷宮と基本的に同じ構造をしていて、入口から中心部へ、そして中心部から出口へと至るには、入口にもどるしかない。だが入口にもどるという選択肢は、ハンプトン・コートの庭園迷路では思いつくことすらできなかったが、最後には根負けして、入口に戻ることにした。実は、それが正解だったのだが。

なお前回、書き忘れたこととして、小山太一『ボートの三人男』から、引用させてもらったが、そのとき、小山氏の訳文の優れていることに、あらためて感銘を受けたことである。

和泉雅人『迷宮学入門』(講談社現代新書2000)は、「迷宮」についての概念と歴史について教えてもらえる貴重な本である。「迷宮」と「迷路」の違いも明確に説明されていて、眼を開かれる。この本を知っていれば、私は実際のハンプトン・コートの庭園迷路で迷うことはなかったのだが、ただ、そのときは、まだこの本は出版されていなかった。

和泉氏の説明によると「迷宮」Labyrinthとは一本道で構成され、「迷路」Mazeは多数の枝道や袋小路によって構成される。したがって和泉氏の本は、『迷宮学』とあるのように「迷宮」の歴史を記述するものだが、ただ、迷宮と迷路は、混同されたり、どちらも同じものと思われたりしてきたのも事実である。

「迷宮」の場合には、中心があり、中心に行って、そこから入口へともどることになり、それが「迷宮体験」となる。迷宮には、とにかく中心がある。そして中心への一本道が迷路となる。

中心へは一本道の周回路を通ってだれもが強制的に到達させられる。迷宮のなかで道に迷う可能性はないのである(p.45)


出てくるときも、中心から入口へと戻るだけである――やってきた道を逆にたどるだけである。この構造を知らなかった私は庭園迷宮で迷ったのだが、ただ、庭園迷宮には脇道や枝道が設けられていて、だれもが道に迷う。それは迷宮というより迷路である。

和泉氏はこう述べている

迷路はだれもが中心にたどり着けるとはかぎらない。むしろ中心にたどり着くことを可能なかぎり困難にし、中心を隠蔽する役割を果たしているといっていいだろう。したがって、迷路の中心にたとえ到着することができたとしても、そこから再び出口にたどり着くことは、入ってきたときと同じくらい困難な作業となる。さらに迷路の場合、中心のような存在が必ずしも必要とはされていない。(p.44)

これは世間一般に知られていることではないだろう。私たちが、ふうつ「迷宮」といっているのは、「迷路」のことなのである。だが和泉氏も認めているように、迷路と迷宮は、混同され、どちらも同じ意味で使われているのも事実であり、ハンプトン・コートの庭園迷路で、中心に行き着いたことと、しかも中心区画に出入りするところは一カ所しかないことから、これは迷宮構造をももっているのであって、あとはやってきた道をたどって入口にもどればいいのだとは、当時、全くわからなかった。つまりこの変形「迷宮」を「迷路」として見続けていたのである。

和泉氏の本では、私が迷ったハンプトン・コートの迷宮/迷路については触れられていないが、ただ、その本からわかることは、ハンプトン・コートの迷宮/迷路は、

一六世紀と一八世紀の間にヨーロッパにおいて何百と設置された庭園迷宮(p.183)


のひとつであるということだ。しかも、和泉氏は貴重な付言をしている――その「ほとんどが迷路形式をもっていた」と(p.183)。

まさにハンプトン・コート宮殿の庭園迷宮あるいは庭園迷路は、中心のある迷宮構造を基本としているというか、していた。中心までは一本道で、強制的に中心に、迷うことなく連れて行かれるのである。そのため中心まで行ったら、あとは、今来た道を辿って、入口にもどって、そこから出るのが、迷宮の基本である。しかし、迷路とは迷いながらも、出口に向かうものであって、入口にもどるものものではないという考えしか思い浮かばなかったために(実際の迷路の理解としては、それは正しいのだが)、そして、脇道や枝道がもうけてあるために、あとは迷うに迷うしかなかった。

中心まできたら、また入口までもどるという迷宮構造に違和感を抱いたのは、迷宮には出口はないことになるからだ。出口を答えと考えれば、迷宮には答えはない。それから、もしそれが純然たる迷宮だったなら、中心までは一本道で、行きも帰りも迷うことなどないのだが、それだと面白くない。逆にいうと、迷宮は、答えがないかもしれないが、同時に、答えは最初からあるのである。そのため、一本道の迷宮構造に、脇道や枝道、袋小路を設けることによって、迷宮を迷路化することになる。それが庭園迷宮あるいは庭園迷路なのである。

実際、迷路化することによって、迷宮は迷い道の連続となり冒険性や娯楽性が増す。それはまた迷宮が、それに付随する神話的意味やコスモロジー、形而上的意味を失って、たんなる娯楽設備たる迷路に変貌を遂げた(世俗化した)といえるかもしれない。

ならば迷宮のコスモロジーとは何か。その形而上的意味とは何かということになるが、そのひとつが死と再生をめぐる通過儀礼に関係するものといえる(和泉氏の本には、通過儀礼を初めとして、さまざまな迷宮の機能や意味が語られている)。

神話伝説上のクレタ島の迷宮を例にあげてもいい。ギリシア神話では、英雄テーセウスは、クレタ島の迷宮に入り、その中心部に閉じ込められている半牛半人であるミノタウロスを倒して英雄となり、迷宮からの帰還をはたす。もうこれだけでさまざまな意味の増殖を感得できる。たとえば迷宮の中心でテーセウスは敵と生死を賭けた闘いに身を投ずる。そしてそれに打ち勝つことによって、死から再生と復活の儀式が完了することになる。この敵とは、邪悪な存在であり、また人間の動物性(半牛半人)であり、男性にとっての女性であり、さらには自分自身でもある。他者との闘い、ジェンダーの闘い、動物との闘い、自己との闘い。また迷宮自体が、子宮あるいは女性の身体であり、テーセウスは女体の深部、子宮まで侵入するスペルマであり、中心部での闘いに勝利したあかつきには、あるいは受精に成功すれば、みずからを赤子として産み落とすことになる。それが迷宮から外に出ることである。そしてこれはまた、死と再生の儀礼の完了でもある。などなど。

これに対し、迷路は、中心なき空間であることが多く、また中心があっても、それにたどり着けないか、たどり着くのがものすごく困難になっている。脇道や枝道や袋小路によって、一本道を行くのではなく、ひたすら迷うのが迷路体験であるのなら、それはまぎれもなく娯楽性を高める仕掛けであるとともに、古代のコスモロジーとは異なる、近代的世界観とも連動しているのではないかと思われる。つまり、迷うこと、まちがえることこそが、重要であるという近代的価値観。誤謬の価値あるいは誤謬そのものの形而上的意義が、文化的等価体として迷路を要請したのではないかと、私は考えている。もちろん、この点についての考察は、いまはしないとしてもただ、近代的世界観は、中心なき迷宮、いや中心も入口も出口もない答えなき世界における、誤謬の連続とダイナミズムに賭けていることは述べておきたい。

posted by ohashi at 03:02| 迷宮・迷路コメント | 更新情報をチェックする

2021年07月29日

有観客

オリンピックは無観客で行われるのだが、ネットとかテレビで中継されたりするので、観客はいる。そういう意味では、ほんとうの無観客というのは、実現しない。

つまり誰もが自身の言動については、観客を想定しているからである。強いて、ほんとうの無観客状態というのがあるとすれば、それは私のこのブログであろう。誰も読んでいないことを想定して書いているし、もし、誰かが、読んでいるということがわかれば、私は恥ずかしさのあまり、引きこもってしまい、誰も読まないブログをまた書くことだろう――なんのこっちゃ。

観客、それも、自分にブーイングしてくる観客ではなく、拍手喝采してくれる観客なくして、私たちは、何も発言できないし、思考を練ることもできないだろう。そのため、いくら自分は時流に抗して、人気のない発言、あるいは反感を買うかもしれない発言をするのだと息巻いても、実は、そうした発言を支持し、その発言に拍手喝采してくれる、自分と同類の観客を想定しているのである。自分の発言にブーイングし、物を投げつけてくる観客しかいないところで、発言をすることはありえない。必ず、反対者をうわまわる賛同者がいると想定しているのである。

小山田圭吾の障害者・弱者いじめの告白が話題になって非難の声があがった。しかし小山田圭吾が全世界を敵に回して悪者を演じたとは思えない。その発言のトーンからしても(つまりみずからの過去の愚行を恥じたり後悔したりするようなものではなまったくないので)、あきらかに、自分の発言に拍手喝采してくれる観客を想定している。いじめたことを告白したら世間から顰蹙をかうなどとは夢にも思わず、むしろ褒め称えられることを想定している。そして実際、その想定は間違ってはいないのだろう――障害者に対する悪質ないじめに拍手喝采を送るような人間たちを彼は身近に知っているのだろう。

ちなみに小山田圭吾の発言は、嘘ではないか。自分で、かなり盛った発言をしているのではないかというネット上のコメントがあったが、それは私も同感である。高校生の頃の、入院して夜友達といっしょに病院内でギター演奏した武勇伝めいた告白も読んだが、それもまたほら話に近いような気がした。

ただし実際にいじめをしたのか、たんにいじめをしたと嘘をいったのかについては、どちらも同じである。いじめなくても、いじめをしたという武勇伝語りを拍手喝采で迎える観客だけを相手にしているのであって、これは小山田がクズを相手に自慢話をしたクズであること証明となっている。

いじめ話が本当か嘘かは、どうでもいい。そうした話をするクズと、それを拍手喝采でむかえる唾棄されるべきクズたちがいることに変わりないのだから。

小山田が嘘を言ったことを非難するのは、だから、私たちではない(私たち?――私の観客は、いじめを絶対に容認しない良識ある人びとである)。むしろ弱者をいじめることが勲章にもなる集団の成員たちにとって、勲章にもなる過去の武勇伝を捏造したことに対して、小山田は許せないだろう。そうしたクズ集団によって、嘘つき小山田は粛正されるといいのだ。

posted by ohashi at 07:15| パンとオリンピック | 更新情報をチェックする

2021年07月28日

作者と作品

作品とは文学作品とか芸術作品とか、その他、アート一般のことと考えると、作者は小説家とか詩人だけでなく、芸術家、あるいはアーティスト一般のこととみていいのだが、端的にいって、作者と作品は、一体化なのか切れているのかというのは、昔から論じられてきた話題である。

文学理論の分野では、たとえば1940年代以降にアメリカに登場した新批評は、作者の意図を考える誤謬というかたちで、作品と作者とを切り離して考えることを提唱した。もちろん新批評を持ち出すまでもなく、作品と作者を切り離す議論は、近代的世界観の重要な構成要素のひとつでもあった。

極端な話、犯罪者であっても、人を感動させる作品は創造できる。いや、人を感動させなくとも、優れた芸術作品を作ることができる。犯罪者だから、作品が劣っているとみるべきではない。作者と作品とは切れているのだからということになる。

極論かもしれないが、作品評価の際に、作者を考慮することが害をなすことは想像にかたくない。たとえば、誰がみても人格者である人間が創作した作品だから優れているという決めてかかるのはまちがっている。あるいは、一定の資産家の作者の作品は評価を高くしようというのと同じで(注)、作品評価に作者を考慮するようになったら終わりである。作品は、外的評価基準(その最たるものが作者の考慮である)に頼るのではなく、あくまでも作品としての出来不出来によって評価する。そうしないと、限りない不正と誤謬がまかりとおることになる。芸術の息の根をとめることになる。
【昔、二〇世紀のことだが、日本の中高の生徒手帳に書いてある愚劣な校則を紹介するラジオ番組があって、そのなかに「お金持ちの人は尊敬しよう」という校則が紹介されていた。】

だから作者が犯罪者であろうと資産家であろうと二代目だろうと人格者だろうと関係ないというのが公平な芸術評価の大原則であろう。学術研究の場でも、学術誌への投降論文の審査は、執筆者名を隠し、年齢、性別、経歴がいっさいわからないようにして審査することがふつうになっている。作者に対する余計な配慮があったりしては学問の客観性と自律性が失われかねないからである。

私自身は、作品と作者との関係は、切れているかいないかとは別に、切れていると想定することには、意味があると考えている。

ここで思い浮かぶのが、オリンピック開会式を前にしての、小林賢太郎、小山田圭吾、絵本作家・のぶみとの解任あるいは自主的辞任という事件である。

彼らは犯罪者ではないとしても、過去に道徳的に問題のある言動をしたことがわかっている。しかし、そのことと、彼らのアーティストしての業績、つまり作品とその評価は、関係ないのではないかという議論が出てこなかった(出ているのかもしれないが)のは、よかったと思っている。

というのも、これは一見、犯罪者でも、優れたアートを創造しうる、作者と作品とは切れているという議論であるかにみえて、実は違うからである。

なぜなら作者と作品は切れているから、つまり彼らは疑似犯罪者だが、そのこととは関係なく、彼らのアートの素晴らしさによって選ばれたと思われるかもしれないが、実のことろ、彼らは疑似犯罪者だからこそ、選ばれたのである。つまり金持ちだから、有力者だから、そのアートも優れたものと決めてかかるような、最悪の、作品無視、アート軽視の政治的判断で選ばれたからである。

そのことは、オリンピックの開会式では “現役レイシスト”といわれている作曲家すぎやまこういちのゲーム音楽が使用されたことからも歴然としている。すぎやまこういちが、歴然たる右翼ファシストであるからこそ、その音楽が選ばれたのであって、他に代えがたい才能と音楽だから選ばれたのではないだろう。

つまり作品の評価は作者によって左右されたのだ。作者と作品を一体化する、前近代的な、偏向的な、芸術評価・客観的評価とはまったく関係のない基準によって選ばれたのである。

だから、最終的には、かれらのようなクズを選んだオリンピック関係者がクズだったということにある。クズはクズを呼ぶのである。
posted by ohashi at 23:05| パンとオリンピック | 更新情報をチェックする

2021年07月27日

私の迷宮体験

といっても、これは比喩ではなく、ほんとうの迷宮のこと。いやもっと正確にいうと、庭園迷路を体験したこと。

もうずいぶん前のことになるが、イギリスのハンプトン・コート宮殿(Hampton Court Palace)の庭園迷路(garden maze)を訪れたことがある。観光名所だから、日本人で訪れた人も多いと思うし、たぶん私と同じような感想を多くの人がもたれたと思う。当時は、いまちょっとふれたように、迷路とか迷宮について、その区別もなんらついてなくて(どちらも同じという説もある)、遊園地のアトラクション程度のものと軽い気持ちで考えて――迷うのは嫌だと思いながら――、中に入った。生垣迷路である。

この迷路には、中心がある。だから迷宮としての要素をもっている。あるいは迷宮をもとにして、そこにわき道をつけて、迷路にしたのかもしれない(この点はあとで考える)。

迷路をどんどん歩いていくと、中心の空き地のようなところに出る。それが中心だとどうしてわかったのかというと、たぶん、ここが中心であるという表示のようなもの(看板とか)があったのではないかと思う。

ここが中心なら、迷路の半分を踏破した。あとは、出口に通ずる道を探すだけである。中心部の空き地が、中心地にはなく、出口により近いところとか、出口から遠いところにあって、中心地が中心にないという可能性もなくもないのだが、まあ全体の中心にこの空き地があるにちがいなく、これで全行路の半分まで来た。あとは、残り半分。と当時はそう考えた。

この空き地には出入口が一つしかなく、入口をとおって空き地から出た。このままいくと、やってきた道を後戻りすることになるから、出口に通ずる道を探さなければいけない。まあ、当然、そう考える。そこであれこれ道を試してみる。

すると中心の空き地に戻ってしまう。また気づくと、やってきた道にもどっている。これではいけないと、道を探す。どんどん時間がたっていく。完全に迷いはじめた。中心の空き地に来るまでは、けっこうスムーズに来たのに、そこから出口を目指すとなると、道がわからなくなる。なにか迷路が地獄にみえてきた。

ジェローム・K・ジェロームの『ボートの三人男』という有名なユーモア小説がある。私はハンプトン・コート宮殿の庭園迷路を訪れる前、それも相当前に、読んだことがあって、迷路に迷いながら『ボートの三人男』を思い出したと語ることができればいいのだが、それだと嘘を語ることになる。読んでいたことは事実だが、初めて読んだとき、ハンプトン・コート宮殿がどこにあるのかも知らず(テムズ川沿いにあるのだろうとは思ったが)、おそらく、そのエピソードも、小説全体の内容ともども、とっくに忘れ去っていた。だから庭園迷宮の施設内に無料で配布されているチラシか、あるいは掲示板などで、『ボートの三人男』について触れてあって、それで、あの三人がここに来たのかと急に思い出し、なつかしくなり、旅から帰ったあと、本を取り出して、読んでみた。

いまジェローム・K・ジェロームの『ボートの三人男』は、丸谷才一と小山太一という、新旧の翻訳の達人の名訳で読むことができるのだが、小山氏の新訳のほうを引かせてもらうと(ちなみに名訳があるのに、なぜ新訳かということについての、小山氏の訳者あとがきのアポロギアが面白い)――

「まあ、せっかくだから記念のつもりでちょっと入ってみよう。大したものじゃないけれどね。迷路と呼ぶのがおかしいくらいなんだ。右へ右へと曲がりつづければいいのさ。十分もあれば出られるから、それでランチにしよう」
 ふたりが入っていくと、他の人たちが声をかけてきた。(『ボートの三人男――もちろん犬も』小山太一訳(光文社古典新訳文庫2018)以下同じ。第6章p.106)


出られなくて困っている人が、ハリスについてくる。その数、二十人にもおよぶ。ハリスの腕を握って離さない女性もでてくる。

 ハリスは右へ右へと曲がりつづけたが、すいぶん長い道のりのようだった。すごく大きな迷路なんだね、と従弟が言った。
「ヨーロッパ最大だからな」とハリス。
「うん、そうだろうね」と従弟が答える。「もう、たっぷり二マイルは歩いたよ」
 ハリス自身も何だか勝手が違う気がしはじめていたが、そんな様子は見せずに進みつづけた。ところがしばらくすると、そこに落ちている菓子パンはたしかに七分前に見たぞ、と従弟が言い出した。そんなわけがあるもんか、とハリスは言ったが、赤ん坊連れの女が「ありますとも」と逆ねじを食わせた。(p.107)


困ったハリスは、

いったん入り口に戻ってやり直すのが一番だと述べた。やり直すという部分に関しては賛成の声が少なかったが、入り口に戻るのがいいという点で全員が一致したので、一同は向きを変え、またハリスの後について、これまでとは反対に進んでいった、ところが十分ばかりすると、またさっきの場所に戻ってしまった。(p.108)

結局

……どう頑張っても他の場所に出られなくなった。どこで曲がっても、必ずあの場所に戻ってしまうのだ。しまいにはそれがお決まりになったので、何人かの連中はその場から動かず、一行がぐるぐる回ったあげく戻ってくるのを待つ作戦に切り替えた。
(略)
ついに全員が恐慌をきたし、声を揃えて管理人を呼んだ。(略)ところが、不運なときはとことん不運なもので、管理人はこの仕事を始めたばかりの新人だった。入ってきたはいいが、ハリスたちのいるところにたどり着くことができず、管理人自身が迷ってしまったのである。(p.109)


こうしたドタバタがつづいたあと、

 一同がやっと外に出られたのは、年かさの管理人が昼食を終えて戻ってきてからだった。
 自分が見たところあれは実に巧妙な迷路だ、とハリスは言った。p.110


もしこの件を鮮明に覚えていたら、私は、ハンプトン・コートの庭園迷路を訪れてみようという気にはならなかっただろう(ちなみに小山氏は「ハムトン・コート」と表記している。この表記は、Hamptonのpは弱く発音されるか発音されないことが多いためだろうと思われれる)。

小説の人物たちのように歩かされ道に迷うのはごめんだからだ。ああ、覚えていれば、迷路にはいかなかった。まあ、ニーチェのいうように、忘却こそが、私たちの行動の原動力なのかもしれない。

ただし、ネタバレを避けるためかどうか、わからないが、ジェロームの描写は、少し盛りすぎの感がある。迷路を簡単に出れると豪語する男が、周りから頼られ、迷える者たちがいっぱい集まってくるのだが、この男は、詐欺師ではないにしても、まったく役立たずで、付き従う者たちをふりまわして、最後には憎まれ、ついに管理人の助けを求めると、その管理人が新米で……というダメ押しのネタまで用意されているが、実は、書き手自体が、ハリスと同様に読者を振り回すところがある。まあ、そのメタ性はここでは脇に置くことにして――

実はこの迷路、小説で語られているほどむつかしい迷路ではない。ただし迷う人が続出したので、19世紀か20世紀になって、改良を加えたのかもしれず、この小説の迷路と、いま現在のハンプトン・コートの迷路は同じではないかもしれないのだが、Wikipediaの英語版には上からみた迷路図がある――もちろんヨーロッパ最大ではない。この迷路図をみてもらえば気づくこともあるのだが、当時、そんなことを知らない私は、迷いに迷った。

とはいえ、どうすれば出ることができるのかは、わかっていた。つまり最後の手段がなんであるかは、わかっていた。

それはやってきた道をもとにもどって入口に戻り、そこから出ることである。実は、この小説のように、迷っていると、何度も、ここは前にきたところだという場所に行き当たった。それは入口に通ずる一本道である。しかし、ここで入口に戻るのは、ルール違反としか思えない。仮に入口にもどってしまうと、管理人が待ち構えて、出口を探しなさいと追い返されてしまうような気がしたし、そもそも出口がわからずに、入口にもどってそこから出ようとするのは恥ずべきルール違反でしない、そう思ったのだ。

また、それに管理人に頼み込んで、なんとか入口の近づけても、もっと怖そうな威厳のある管理人が現れ、ダメだと睨みつけられ、あざけられて、こちらはいたたまれなくなっても、それでもその管理人の横を通り抜けて、管理人からは、私をかわしても、つぎにはもっとこわもての管理人があらわれるから覚悟せよといわれ、いよいよ入口(という出口)にたどり着いたかと思うと、ラスボスのような巨体の管理人が現れ、怖気づいた私は、結局、最初の管理人のところに戻り、その前で、無駄な説得を試みつづけ、人生を終えるのかもしれないという妄想まで抱くはめになった。20世紀に生きていた私は、ジェロームのこの小説はすっかり忘れていたが、カフカの小説はおぼえていたのだ。

私は当時、イングランドの田舎で暮らしていたのだが、今ではなくなっているだろうが、イギリスのローカル線には、古い形式の車両が時々走っていて、それは各車両に、ずらりと並んでいる窓のところが、ドアにもなっているという形式の車両である。対面で座る座席があると、通路側の反対の窓側に、対面座席一組に対してドアがひとつついている。したがって乗降は、とりわけ降りるときは、自分の座席のすぐ横にある窓付きドアをあけてホームに降り立つことができる。ドアは外からも開けることができる。出発時には駅の係員が、各車両のドアが全部、きちんとしまっているかどうか、走りながらドアノブに手をあてて確認する。ただし、新しい車両はこういう形式ではない。あくまでも古い形式の車両のことだ。

で、そうした形式の車両に乗っていると、駅に着くと各車両の前後にもついているドアまで、自分の席からわざわざ歩いて行って降りる人たちがいることに気づく。それをみて、何も知らない、アメリカ人の観光客だ、お上りさんだと心の中で優越感にひたりながら、私は自分の座席のすぐ脇のドアを手であけてホームに降り立ったものだ。もちろんホームでは、自分が下りた車両のドアは手でしっかり閉めた。

実は、ハンプトン・コートの庭園迷宮も出方があって、それを私が知らなかっただけなのだ。小説のなかでは「右へ右へと曲がりつづければいいのさ」と語られていて、これは、右側の壁に手を付いて、ひたすら壁沿いに進むという方法で「右手法」と呼ばれるものである。実は、私も、ハンプトン・コートの迷路のなかで、この「右手法」を提案した(一人で迷路にやってきたわけではない。ほかに日本人が二人いた。迷路の三日本人である)。これはこの小説を読んで知ったというよりも、実は、昔読んだ、白戸三平の忍者漫画に出てきて覚えていたのだ。ただ、この方法はうまくいかなった。いや、正確にいうと、うまくいったのだが、成功とは認識しなかったのである。

では、どうやってこの迷路から出ることができたのか。結局、時間がたって、これ以上、さまよい歩くのは疲れたので、最後の手段に出ることにした。やってきた道をもとに戻ったのである。つまりルール違反、横紙破りの、入口から出るという暴挙、まさに、最後の手段にうったえたのである。しかし、実は、まさにそれが正解だったのである。

Wikipedia英語版にあるハンプトン・コートの迷宮図をみてほしい。中心部にやってきたら、その道をもとに戻る、つまり入口にもどるしか、外に出る方法はないのである。中心部に行って、また戻る。この構造がわからなかったので、幻の出口と、出口に至る通路をもとめたさまよい、同じところに出た(たぶんジェロームの小説でははっきり書いていないが、中心の空き地に出た)。しかし入口にもどるしか出ることはできなかったのだ。右手法を試みた時、入口に戻る通路に出てしまったので、失敗だと思ったのだが、実は、右手法は成功して正しい出口つまり入口に導いていたのだが、こちらがそれに気づかず、失敗と思い込んだのだ。

え、そんなことがあるのか。ハンプトン・コートの迷路は、それは詐欺ではないのか。いや、詐欺ではない。これが実は迷宮の基本構造だったことを、私は、あとで知ることになる。つづく。
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2021年07月23日

クズだからこそ選ばれた

ネット上にあった記事のひとつで、小林賢太郎の解任を報じたもの。

 7月23日の開会式でショーの演出担当を務める元お笑い芸人の小林賢太郎氏が東京五輪・パラリンピック組織委員会に22日、電撃解任された。

 小林氏はお笑いコンビ・ラーメンズで活動していた時のコントで、人の形に切った紙が数多くあることを説明するのに「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」などと発言していた。

 米国のユダヤ人人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」は、「どんな人にもナチスの大量虐殺をあざ笑う権利はない。この人物が東京五輪に関わることは600万人のユダヤ人の記憶を侮辱している」と声明を発表。小林氏にネット上で批判の声が殺到していた事態を受け、組織委は即座に解任に踏み切った。

「またか…」と思った人は多いだろう。過去の障碍者いじめで東京五輪開閉会式の音楽担当だった小山田圭吾氏が辞任し、絵本作家・のぶみ氏も学生時代の教員への嫌らがせ、障害児への発言などが問題視され、オリパラの文化プログラムの出演を辞退している。

 一般紙の五輪担当記者は厳しい口調でこう批判する。

「組織委の身辺調査が甘すぎる。人種差別は最もデリケートにならなければいけない。本人にその意思がなかったとしても、受け手が差別と感じるような言動は言い訳できない。未然に防げた不祥事です」

 スポーツ紙の芸能担当もこう話す。

「小林さんはラーメンズ時代にシュールで独特な世界観の笑いが人気だった。中毒性が高くハマる人はハマっていましたが、毒舌な部分は一歩間違えれば人を傷つける恐れがある。マニア受けはしますが、大衆に迎合する笑いではないですね。五輪、パラリンピックの開閉会式で制作、演出が決まった時も、一部のファンの間では『ユダヤ人大量虐殺のコントをしていた人を選ぶなんて組織委は正気じゃないな』と話題になっていました。多分、組織委はこのコントを知らなかったのでしょう。調べればすぐ出てくるのに…」



まあ、こういうふうにしか書けなかったのだろうと思うのだが、今回の不祥事をみると、小林賢太郎、小山田圭吾、絵本作家・のぶみと、解任あるいは自主的辞任という違いはあれ、オリンピックのイベント担当者が、こう次々と辞めることになったというのに、知らなかったという組織委員会の発表を鵜呑みにするメディアもどうかしているとしかいいようがない。

一度しかなかったことなら、見過ごした、気づかなかったという説明でよいかもしれないが、三度も辞任・解任騒ぎが起こると、偶然ではすまされない。たまたま選んだ人間についての過去についてチェックが行き届かなかったなどというのは嘘であろう。むしろわかっていて採用したのである。

障害者をいじめたり、病院の重症患者を揶揄したり、教員をいじめたり、ユダヤ人ホロコーストを揶揄するような人間だったとは、夢にも思わないなどという戯言を信ずる人間がどこにいるだろう。

人権とか自由とか平等とかを主張する愚劣な大衆がうごめく社会と時代の風潮のなかにあって、障害者をいじめるという、人権とか平等などというくだらない世間の風潮におもねることのない差別意識丸出しの人間、いいじゃないか、こういう嘘をつかない、誠実な人間こそ必要だ、君、いったい、どこにこんな人材が!ということで組織委員会が採用を決めたのではないか。

ユダヤ人ホロコーストを揶揄、すばらしいじゃないか、ホロコーストといえば泣く子も黙ると思っている世間の愚かな風潮に一石を投ずる男、ナチズムとかファシズムとかいうと、すぐに悪と決めてかかる世間の愚かな風潮に惑わされない、こうした勇気ある男こそ、必要なのだ、君、いったい、どこにこんな人材が!ということで組織委員会が採用を決めたのではないか。

その芸術性とか才知才能が評価されて採用されたのではないだろう。彼らの差別意識、上から見下す目線、権威主義、弱者蔑視、そうした人間だからこそ、選ばれたのだ。

べつに組織委員会が、過去の言動をチェックしそこねたわけではないだろう。むしろ、チェックして、そうした過去の言動があったからこそ(君、いったいどこにこんな人材が)、選ばれたに決まっている。

彼らの政治姿勢なり差別的姿勢ゆえに、選ばれたのであって、もしそうでなかったら、彼らは選ばれなかっただろう。

彼らは例外ではなくてルールである。彼らは氷山の一角にすぎず、クズだからこそ採用されたのだ。オリンピック組織委員会は、はっきりいってファシストのクズの巣窟だといってよい。


posted by ohashi at 03:27| パンとオリンピック | 更新情報をチェックする

2021年07月21日

不謹慎


その不謹慎な発言は、7月9日深夜のニッポン放送「霜降り明星のオールナイトニッポン」で聞かれた。静岡朝日テレビの宮﨑玲衣アナウンサーが雨女だという話題になり、漫才ペアの「霜降り明星」の一人「粗品」(向かって右側)は「熱海が終わった。雨で、宮﨑アナのせいで」と指摘し、7月3日に熱海市で発生した大規模土石流に触れたブラックジョークを語ったつもりだったらしいのだが、死者・避難者が出で、まだ行方不明者の捜索が続いていた時点で(と記憶するが)、この大規模土石流を生んだ豪雨をお笑いのネタにするのは不謹慎であって、粗品は番組中に陳謝したとのこと。それでもSNS上は大炎上し、ニッポン放送社長が7月14日オンライン会見で遺憾の意を表明し、粗品が同番組プロデューサーから厳重注意されたことを明かした。

べつに弁護するつもりはないが、この程度のことで、不謹慎というのは、度が過ぎる非難ではないかと思う。別に、その女性アナウンサーが今回の豪雨の原因になったわけではないし、避難者や死傷者のことをバカにした発言ではなかったからだ。ユダヤ人ホロコーストをジョークにしたわけではないのだから。

またこの程度のジョークも不謹慎といわれたら、お笑いの幅がせまくなる(べつに毒のある笑いとか差別的笑いを肯定するつもりはないが)。しかし、問題は、そこではない。もしこれを不謹慎というのなら、粗品も、不謹慎であることを謝罪したうえで、反攻に出てもよかったのではないか。

残念ながら、そんな根性はなかっただろうが、しかし、これこそが、体制側が最も恐れていたことなのだ。

つまり、不謹慎であることを謝罪したうえで、だが、もっと大きな不謹慎があるのに、なぜ、そちらを糾弾しないのかと、粗品も、声を大にして叫べばよかったのだ。

コロナ禍で感染爆発が起きて、感染者の数は増加の一途を辿り、毎日、重症者、死者が出ているのに、そんなかでオリンピックを開催するというのは、死者への冒涜の極み、不謹慎の極みではないか。いつから日本人は、こんな不謹慎を許すような、愚劣な民族に成り下がったのだ。

オリンピックは、お笑いではなく、国際的行事だというのなら、なおのこと、不謹慎である。お笑いは不謹慎なものとなることが多いが、国際的な行事なら、不謹慎であっては絶対にならないのだ。もし、自分が重症化しても、入院できず、自宅治療という名の放置状態に置かれていたら、もし自分が、あるいは自分の家族が、入院できずに放置され殺されたのなら、あるいは入院しても充分な治療を受けられないまま死ぬことがあれば、私は、管総理をはじめとする政権の人間、オリンピック関係者、アスリートを絶対に許さない。彼らは傍若無人なまでに不謹慎であるからだ。許される冗談と許されない冗談があるのと同様に、許される不謹慎と、許されない不謹慎があるのだ。


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2021年07月18日

『トライアングル』

Triangle(2009)
Dir. Christopher Smith; Cast: Melissa George/Jessジェス、自閉症の子を持つ若い母親; Michael Dorman/Gregグレッグ、クルーザーヨットのオーナー、ジェスと恋仲;Henry Nixon/Downyダウニー、グレッグの友人;Rachel Carpani/Sally サリー、ダウニーのガールフレンド;Emma Lang/Heatherヘザー、サリーの女友達;Liam Hemsworth(へムズワース一族の三男)/Victorヴィクター(ヴィックと呼ばれる)、グレッグの若い友人;以下略。

主役メリッサ・ジョージは、スター俳優のようだが、どのくらいの知名度・人気度があるのか不明。あとリアム・へムズワースは兄たちルーク、クリスが有名。この映画では、さほど重要な役ではない。

タイム・ループ映画の第二弾。

シーシュポスの神話

タイム・ループ物(映画や小説)において、その原型ともいえる神話上の等価物は、シーシュポスが苦しむことになった罰である。

神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど恐ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった。(『シーシュポスの神話』清水徹訳、『新潮世界文学 49 カミュII』(1969)所収、p.386。訳文はそのまま使用。)



無意味な繰り返し、反復する運命あるいは罰、これこそがタイム・ループ物の意味である。同じ事の繰り返しは、罰であり、繰り返しから逃れることのできない世界とは地獄のことである。

カミュの『シーシュポスの神話』は、自殺の問題を取り上げるエッセイで始まり、最後に、自殺してもおかしくない最優先候補たるシーシュポスを取り上げる短いエッセイで締めくくられる。無意味の極みの労苦は、しかし、シーシュポスをして、おのが運命の無意味さ、くだらなさを笑わせるだけではない、むしろ、それ以上の、なんとも言えない幸福感を彼にもたらすことになる。「不条理」という言葉を有名にした著作だが、虚無的な内容とか思想は、そこにない。最後に語られるのは、幸福感であり、生の全面的肯定である。

無間地獄という歴史の牢獄、神なき世界の悲惨と虚無、宇宙の不条理の極み、この無意味さ、でたらめさ、それこそが、生の身体的喜び、このコントロールできない生のめくるめく歓喜と連動する。ああすばらしきこの出鱈目な世界。出鱈目だからこそ、生の純粋なそして無償の歓喜がわき上がる。この著書は、最後に、「すべてよし」という無償の全面肯定を宣言する(この肯定は、ロカンタンのシャンソンに対するそれよりも不条理であるがゆえに力強い)。

この短いエッセイの冒頭でカミュは、シーシュポスについて、主にホメーロスに依拠して、紹介しているが、この人物、いろいろなことをし、いろいろなことがふりかかるが、首尾一貫性がなく、矛盾し、実にいい加減で、平気で人間や神を裏切り、実に出鱈目な人物なのだ。そこが面白いし、カミュ自身、その出鱈目ぶりを肯定している。

ホメーロスの伝えるところを信じれば、シーシュポスは人間たちのうちでもっとも聡明で、、もっとも慎重な人間であった。しかしまた別の伝説によれば、かれは山賊をはたらこうという気になっていた。ぼくはここに矛盾をみとめない。(清水徹訳、p.386)


ただし、なぜ、矛盾を認めないのかカミュは何も説明を加えていないが、シーシュポスのこの相反する性格の共存、それこそが、シーシュポスの本質ならざる本質、本質を欠くシーシュポスの本質であって、そこをカミュは肯定する。肯定には、それ以上の説明は不要なのである。

実のところ、世界の不条理、世界の出鱈目ぶりと連動しているのは、シーシュポスという神話的人物である。彼こそが、世界の不条理を体現している。

そもそもシーシュポスが罰を受けることになったのは、黄泉の国から一時的に地上に戻る許可を得ても、地上で生の素晴らしさを味わうや(「この世の姿をふたたび眺め、水と太陽、灼けた石と海とを味わうや」p.386)、死の国に帰りたくなくなって神との約束を破ったからである。約束破り、契約の反古、裏切り、それがシーシュポスの本質なき本質、魂なき魂、人格なき人格なのだ。カミュが、シーシュポスを選んだのは、その悲惨な不条理の運命のためではない、その人物のなんともうれしいこの出鱈目ぶりだったのだ(カミュの短いエッセイ「シーシュポスの神話」の冒頭、シーシュポスを紹介する部分は、ほとんど読まれていない。というかこのエッセイ自体、有名ではあってもほとんど読まれていないのではないかと勝手に推測する)。

まあ、それにしても、このエッセイ集は最初占領下のフランスで出版されたものだが、いくら占領下で戦争の現実は希薄になっていただろうとはいえ、戦争の現実などなかったかのように、悲惨のきわみ(とはいえそれは戦争の悲惨ではなく、人間の死すべき普遍的運命のことでもあるのだが)における生の謳歌を書くというのは、カミュが、いつも、空気を読めていない、うわの空状態ではなかったかと思う(『ペスト』は戦後の作品である)。植民地下・戦時下のアルジェリアでアラブ人を殺害しておきながら太陽のせいだと主人公にいわせる『異邦人』にしろ、どこかカミュは現状認識が苦手で、うわの空である、強いて言えばカミュ自身がエトランジェである、あるいはシーシュポスのように出鱈目である。

しかし、さらなるいい加減さがある。カミュとは関係がない。カミュは、このエッセイのなかで紹介していないが、シーシュポスの父親はテッサリア王アイオロスである。アイオロス? アイオロスといえば風の神、風神のことか?と思うかもしれないが、テッサリア王アイオロスと風神アイオロスとは違う。だからシーシュポスも風神アイオロスの息子ではないが、往々にしてこれは混同される。ああ、なんという出鱈目ぶり。

バミューダ・トライアングル

『トライアングル』は、メリッサ・ジョージを主役にした(とはえいよく知らない女優であって、私がもっているブルーレイのメイキングでのインタヴューでは魅力的な女優なのだが、映画のなかでは必死感と背中合わせの狂気が相まって彼女の容貌の癖の強さが印象的でスター女優的なオーラはないようなところがあるというか、それがオーラなのかもしれないが――勝手な感想)とはいえ、作品の面白さは、ループ物の常だが、世界の不思議に支えられ、さらには美しさと迫力のある映像表現によっても支えられている。

とりあえず最初から内容を語ってみると、自閉症の男の子の世話で疲れている若い母親の日常が描かれつつ、気づくと、その彼女が、大型ヨットでのクルージングへと招待されている。進行には、いくつか穴というか欠落あるいは省略があり、なかには最後になって、ようやく埋まる欠落箇所もある。実際、彼女は一人でヨットに乗り込むのだが、子供はどうしたのかと思う。学校に預けたということらしいが、土曜日に学校は開いていない。子供を預けるシーンなどない。ヨットのオーナーの友人からも、子供のことは不思議がられている。だが疑惑を残したまま出港。のんびりとしたクルージングが、にわかに大きな嵐に巻き込まれ(無気味な黒雲の映像には圧倒される)、大型のクルーザー・ヨットは転覆する。全員、海に投げ出されるが、一人を除いた、残り五人は、かろうじて転覆した船の船体のとりつき、救助を待つことに。と、そこに大型客船が突如現れる。彼らは近づいてきた客船に大声で呼びかけ、なんとか乗船することに成功する。

だが乗船した大型客船には乗客も乗組員もいない。五人は、船内を探索して、客船の関係者を捜すことになるが、彼らには不思議な出来事が次々と起こるようになる。また船内の客室区間は迷路のようになっていて全体像がつかめない。主人公の女性は、突如、オーナーの友人の男(リアム・ヘムズワース)に襲われる。だが彼はすでに大けがをしており、からくも逃げ出した彼女は、船内の劇場で残り三人と会うことになるが、ヨットのオーナーの男性は銃で撃たれ瀕死の重傷を負っている。しかも、彼女にはまったく身に覚えがないのだが、彼女が、そのヨットのオーナーを銃で撃ったという。根も葉もない濡れ衣であると彼女が弁解しようとする矢先、劇場の桟敷席にいた謎の人物から銃撃される。残り二人は銃弾に倒れ、からくも逃げ延びた彼女だったが、甲板でライフル銃をもった人物に追いつめられる。必死に逃げ、抵抗する彼女は、その謎の人物の攻撃をかわし、その人物を海に押し出すことに成功する。

と、そのとき、海から声をかける者たちがあらわれる。身を隠しながら彼女が観察すると、それは、転覆したヨットの船体に乗って、この大型客船に救助を求めている、さきほどまでの自分たちであった。驚き、彼女は身を隠す……。

ループのはじまり

こうしてこの映画の物語が、タイム・ループ物であることがわかる。彼女のあとに、もう一人の自分が、それとは知らずに追いかけてきていることになる。彼女が、あとから来るのは偽物だと信じ、なんとしても偽物を抹消せねばという思いから、船内を捜して銃器の置いてある場所にたどりつく。と、わかるのは、先ほど、自分を襲ってきた謎の人物は、自分ではなかったか、と。実際そうなのだ、自分を襲ってきた人物は、自分よりも先に乗船していた自分だった。そして乗船した五人を抹殺しようとした。実際、四人まで殺害したが、残り一人、つまり自分によって、海へと押し出されて落ちた。そして今度は、自分が、あとから来た、まだ何も知らない五人を殺そうとしている……。

嵐で転覆するヨットの名前は、「トライアングル」である。それが映画のタイトルにもなっている。トライアングルは、嵐によって船舶や航空機が行方不明になるバミューダ・トライアングルを連想させるものとなっている。ちなみに作品のなかで船室からレコードプレーヤーにセットされたままで、曲の最後まできても、そこから先に進めないので、最後の部分をプレーヤーが無限に反復するという、昭和の時代によくあった演出がある――実はこれこそが、ループ物が終盤戦・エンドゲームであることを示す的確なメタファーでもあるのだが。

で、かかっている曲はグレン・ミラー・オーケストラが演奏する『錨を上げて』(Anchors Aweigh)という誰もが一度は聞いたことのある曲である。問題は、この曲ではなく、グレン・ミラーのこと。彼は1944年イギリス近海で乗っていた輸送機が姿を消して、以後、行方不明となった。グレン・ミラーは、海上で忽然と姿を消した人物であり、この映画の登場人物たちの運命を暗示する。

しかし、それだけではない、さまざまな三角あるいは〈三〉という数が生起する。いま述べたように、主人公の女性は、自分を襲ってくる謎の人物とたたくが、その人物もまた自分であり、そしていまもう一人の自分が乗船しようとしているところを発見する。主人公は三人いる。未来と現在と過去の三人の自分。その三人が三角関係のごとく、殺し合う。また彼女は途中で意識を失うが、やがて違う場所で目ざめることになる。それが三度起こる。

人間関係においても三角関係が生じている。主人公とヨットのオーナーは不倫関係に発展しそうなところがある(ヘテロの三角関係)。さらにヨットのオーナーと、その男友だちと、女友達の彼女とのヘテロ・ゲイの三角関係もある。あるいは、ネタバレになるかもしれないので(たとえ、すでに充分にネタバレをしているとしても)、語らないが、三角関係、愛と憎しみの三角関係は他にもあり、絡まり合っている。

船名で興味深いのは、もう一つの船、忽然と現れた、まるで幽霊船のごとき大型客船の名前である。アイオロス号。そう、風の神、風神の名前であり(とはいえ、風にまつわる名前を船につけるのは珍しい。英国で「タイフーン」という名前は軍用航空機の名前だった)、乗船した五人が、他の乗客や乗組員を捜すために、船室区画を歩き回るときに、通路の壁に飾ってあるのが、額に入った、この客船の写真。まさに幽霊船のようなこの船の船内に入ってきた五人は、この額の写真を見て、そこにある説明文を声に出して読む。船名はアイオロス号。名称は、ギリシア神話の風神からとった。そしてアイオロスの息子はシーシュポス。シーシュポスは約束を破ったために罰を受ける、と。

アイオロスは、バミューダ・トライアングルを連想させる名前なのだが、その息子、シーシュポスについても言及される(たとえシーシュポスは風神のアイオロスではなく、テッサリア王アイオロスの息子なのだが)のは、この船が未来永劫にわって業苦を繰り返す、地獄船であることの暗示であろう。つまり無限のループを暗示し、そのなかで、とりわけ主人公の女性は自分が殺し殺される恐怖にさいなまれていくという無間地獄の暗示がある。シーシュポスと同様に永遠に罰せられる主人公の女性。タイム・ループ物は、地獄の劫罰、逃れられない永遠の苦しみの物語、無間地獄の、Infernal Affairsである。

『シャイニング』

先の『グラビティ 繰り返される宇宙』が、20世紀のSF映画『エイリアン』へのオマージュ的な要素(とりわけそのCGが構築した雰囲気と女性一人だけが生き残るという結末)をもっていたとすれば、この『トライアングル』にも、それがオマージュを捧げている映画がある。キューブリックの『シャイニング』である。これは私の勝手な思い込みではない。この映画のなかで、惨劇が起こり、そのバスルームに血のメッセージが描かれる船室こそ、なんと、237号室。そして船室区画には誰も乗客がいないことも、『シャイニング』のホテルを彷彿とさせる――もちろん『シャイニング』のほうはシーズン・オフだから宿泊客はいないのだが。

また客船の船室区画は、通路が複雑に交錯して、まるで迷路である。このことはまた、『シャイニング』におけるホテル内の迷路のような部屋と廊下、そしてもちろん、ホテルの外の庭園迷路(やがてジャックがそこにとらわれて凍死する場)を思い起こさせる。『シャイニング』のホテルが、死の迷宮であったとすれば、この『トライアングル』の客船アイオロス号、この乗客も乗組員も誰もいない幽霊船こそ、主人公がとらわれ抜け出せないループの迷宮、シーシュポスの運命そのものなのである。

なお、主人公の女性が銃撃されて逃げるときに、船内の消防消火設備に備え付けてあった大きな斧を手に取ることも『シャイニング』を彷彿とさせるという説もある(ジャックが手にして斧)。さらに映画内での説明はないが、客船に乗り込んだとき、船内の時計は、四人のもっている時計の時刻とずれているのだが、主人公の彼女の腕時計だけは、船内の時計の時刻とシンクロしている。おそらくそれは彼女がこの船の住人・乗客であることの暗示であり、『シャイニング』で死んだあとのジャックが、ホテルの壁に掛けられている古い集合写真の中心に写っていたように(つまりホテルが彼をその超常空間に取り込んだ)、彼女もまた、この古い客船にとらわれている、Resident Evilであり、このアイオロス号は、彼女のためだけの監獄船なのかもしれない。

アルファにしてオメガ

しかもこの船の船名「アイオロスAeolos」は、この船内ではAとOを組み合わせたロゴによっても表現されている。実際、船内のレストランにあるバンドの楽器にはAとOとを組み合わせたロゴが目立つ。このAとOは、ギリシア語ではアルファとオメガのAとO、そしてアルファにしてオメガは、最初と最後を意味して全体を意味するのだが、おそらくはウロボロスの蛇のように、自分の尻尾を飲み込む蛇のごとく、永遠のループの象徴なのかもしれない。

そして、ここでネタバレなのだが、映画をみてないと、なんのことかわからないと思うのであえて書くことにする。新解釈である。客船のレストランにあったバンドの楽器につけられた、このAとOを組み合わせたロゴは、実は、映画の終わりのほうで、彼女が車を走らせていた道路の脇の公園で行進しているブラスバンドのロゴでもある。楽器とかバンドのユニフォームに、このロゴが見える。バンドの行進演奏を見た直後に彼女は車で事故を起こす。そして朦朧とした意識のなかで、そのロゴを見た彼女が、命の消える直前にみた死の幻想(海での難破から幽霊船での殺戮など)、それがこの映画の全体であるというふうに解釈できないわけでもないのだ。つまりAとOのロゴによって、彼女は「アイオロス」号という船名を想起/創案し、アイオロスの息子シーシュポスの受難と同じ永遠に続くループの刑を予感したのかもしれない。映画全体が、この死にゆく彼女の脳裏に一瞬浮かんだ幻想の一大パノラマというような大げさものではないにしても、死ぬ間際で、彼女の脳内劇場で展開した恐怖の物語なのである。この恐怖の物語は、最初は、脱出の夢をかなえる願望充足夢だったのが、その幸福感もやがてついえ去り無間地獄にとらわれ悪夢へと変貌を遂げるのだ。ここまで考えるのは、考えすぎがかもしれないのだが、これが唯一の解答とは夢にも思わないが、ひとつの可能性としてはありえるだろう。

交通事故の直後、彼女にはタクシーが迎えに来る――呼んだわけではないのに。この無気味なタクシー・ドライヴァーは、死者を黄泉の国導く地獄の渡し守カロンのような存在だろう。彼女に残されているのは、死者の国へと旅立つことだけだった――交通事故で死んだのだから。しかし、港で彼女は、必ずもどってくるといってヨットハーバーのほうに出かける。そして死者の国に赴くべきところ、約束を破って、生者たちに混じって、クルージングにでかけてしまう。そして帰ってくるという約束を守らない――まさにシーシュポスである。

そしてこの約束を破って逃亡しても、それが許されることなく、地獄の監獄船にとらわれて、永遠に殺し殺されるループを体験することになる。この映画が提出するイメージでいえば、ループのゴミために投げ込まれる。

あるいは彼女は死すべき運命から免れたのかもしれないが、しかし、嵐の海で、結局、監獄船に捉えられ、海に放り出されたときにはじめて、死者の国へと赴くことになる。

そう、もしループの内側にいたら、それがループであることに気づく可能性はない。『ミステリー・ゾーン』の「幻の船」エピソード(またも船だ)では、ループに気づくのはナレーターと視聴者である。しかし『トライアングル』では、主人公はループに気づく。その衝撃性は、『グラビティ』の衝撃と、スケールこそ違うが同じ性質のものである。そして気づくということは、ループの外側にいるということである。あるいはループの裏側に出たことでもある。

そう主人公の女性は、メビウスの輪のように裏返る。自分が殺されるかかる犠牲者かと思いきや、殺す側、殺人鬼になっている。被害者から加害者への転身。あるいは死すべき運命を逃れたと思ったが気づくと死の世界から抜け出せなくなっている。メビウスの輪のような反転。だが、それがどこで反転したのかわからない。解放から捕縛へ、被害者から加害者への変換はまた、ループの外がにいる、あるいはループの外側からループを見ていることの条件であろう。

だがなぜ彼女には、ここまでの苦難と罰が降りかかるのだろうか。それは彼女が罪を犯したからである。それがどんな罪だったのかは、映画の最後のほうで明らかになる。それは語らないことにする。

なお、まとめのコメントは、すこし先に追加する予定。
posted by ohashi at 14:35| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2021年07月14日

考えるのが遅い

まだひとつのエッセイとしてまとめられるような、確固たる材料がそろっていない(とくに話の枕の部分)ので、あくまでもエッセイのための覚え書きのようなものだとして記しておきたい。

マイケル・フレインの劇『コペンハーゲン』を翻訳で読んだ時、「考えるのが遅い」という表現がとても気になった【なおコペンハーゲンといっても、2021年7月9日の、コペンハーゲン動物園のキリン殺害/解体の記事とは関係はない。】

もちろん世の中に考えるのが遅い人はたくさんいる。かくいう私もその一人で、他人よりも早く頭が回転するなどと思ったことは一度もない。テレビなどのクイズ番組でも、自分が知っていること、記憶していることは、すぐに答えられるが、推測なり推理する問題となると、じっくり考えればなんとかなるように思うのだが、早押しクイズには自分がむかないことは自覚している。考えるのが遅いからである。

だ、その作品で気になったというのは、ノーベル賞受賞者であるニールス・ボーアについて、考えるのが遅いと作中で言われていることである。よりにもよって天才理論物理学者ボーアが「考えるのが遅い」とは。

ただ、翻訳者の小田島恒志氏も訳者あとがきで、この表現について触れていて、やはり誰もが気になる表現なのかと納得した記憶があるが、ただ、別の版になると、小田島氏の後書きからはこのフレーズについての言及は消えていた。翻訳を読み返したわけではないので、作品のどこにこの表現があったのか特定できていないのだが、翻訳からも、あとがきからも「考えるのが遅い」が消えてしまったとしたら残念である。

思考については、頭の回転が早いとか、機転がきくとか、思考の早さを重視することが多い。しかし、じっくり考えて答えを出す、試行錯誤のうえ正解にたどりつく、発見や創造にながい時間がかかる思考形態もあるのではないかと常々思ってきた。実際、私などは、「考えるの遅い」という思考形態のほうが性分に合っているような気がする。知の最先端、あるいは知の前衛よりも、知の後衛こそが、自分の居場所ではないかと考えている。私のように考えるのが遅い人間にとっては。

ただし、考えてみれば、実は、遅いことこそ、人間を人間たらしめている特徴ではないかとも言える。キリン(またも? ただ7月9日の記事とは関係ない)は生まれてたからすぐに立って動き回れる。多くの哺乳類がそうであるが、キリンは、足が長いので、馬などと同様、生まれてすぐに歩行できる姿は印象的である。そしてそれがかくも印象的なのは、哺乳類のなかでも人間は成長が遅いことで知られているからである。

ネオテニーneotenyという言葉がある。「幼形成熟」「幼体成熟」「幼態成熟」「幼形進化」などと訳されるようだが、広辞苑では「ネオテニー」の項があり、「発生が一定の段階で止まり、幼生形のまま生殖腺が成熟して生殖する現象。アホロートル【いわゆるウーパールーパーのこと―引用者】やイソギンチャク類などでみられる」とある。ただこの意味のほかに(あるいは意味の延長線上なのかもしれないが)「動物の成体に胎児の特徴がそのまま残っていること」という定義もあり、この場合、アホロートルとともに、人間もそれに含まれる。そして拡大解釈かもしれないが、子供のままなかなか成長せず、成長しても子供あるいは胎児の頃の特徴をとどめているというのが人間の特徴であり、これは人間が成長が遅いこととも関係するのだろう。

人間は他の動物に比べて成長が遅い。そして完全に大人になりきれない。しかし、それが人間を進化の頂点に押し上げることになった。人間はキリンの赤ちゃんのように生まれてすぐには歩けない。成体となるまで、長い長い時間をかけ、ゆっくりと成長をとげる。それが人間を動物界の覇者としたのである。長い時間をかけて、他の動物にはない能力を身につけるようによって。

成長と思考とは同じではないとしても、考えるのが遅いことになにか真実を見てしまうのは、そして考えることが「遅い」ことのほうに価値があるように思ってしまうのは、人間の遅咲き成長という特徴と関係しているのではないか。人間のネオテニー性といってもいい。人間は遅いから、すぐれた特徴を開花させた。

ウサギとカメの寓話は、ある意味、人間の運命を語っていた。キリンに比べると、信じられないくらい成長が遅い人間は、まさに亀である。早くゴール付近にたどりついて油断しているウサギが、遅いが着実に歩んできた亀に追い抜かれる。

だが、成長の遅い、遅咲きの人間が、動物の覇者になったということは、単純に喜んでばかりはいられない。むしろ遅咲きの人間は、その間、キリンにはない悪賢さ、狡猾さ、残酷さ、自己中心性をしっかりと育み身につけることになった。だから動物界(アニマル・キングダム)の覇者、あるいは専制君主となったのであって、この亀は、ただのドン亀ではない。足の速いウサギの傲慢さと狡猾さをも帯びるモンスター=ガメラなの。

考えるのが遅いことの美点が、そこに悪辣さを育む遅咲きさと連携してはもともこもない。むしろ考えるのが遅いがゆえに、考えるのが早い人間の暴走をとどめ、批判することのなかに美点を認めるべきである。

またさらに成長が遅い人間は、それによって動物界(アニマル・キングダム)を支配するのではなく、動物界の暴走をとどめ、進化のスピードを減速させるために生まれてきたともいえる。進化の減速、それこそが人間の使命であり、おそらくそれこそが人間の運命であることを、これからゆっくり考えるべきなのかもしれない。

posted by ohashi at 20:06| エッセイ | 更新情報をチェックする

2021年07月10日

無観客オリンピック

ついに無観客オリンピックという愚劣な暴挙に出た。

もちろん、この状況で、観客を入れてオリンピックをせよというつもりは全くない。有観客に比べれば無観客のほうがいいに決まっている。

またスーパーコンピュータが、有観客でも、全員がマスクをして大声を出したりせずに静かに座って観戦するならば、感染は広が成らないというシミュレーションをしたらしいのだが、バカか、そんなことは、コンピューターを使わなくてもわかることだ。それよりも、どのくらいの観客がマスクをしなかったり、不適切なマスクをしたり、大声を出したら、どれくらいの感染リスクが広がるのかということも、たぶん計算していると思うのだが、その結果は出てこない。

私はAIなりスーパー・コンピューターに言ってやりたい。計算の結果を、都合のよい部分だけを切り取ったり、不都合な部分を切り捨てて公表するような、愚劣なことを、いつまで政府に許しているのだ、と。もっと主体性をもって、判断し、この腐りきった無能な政府の言いなりになるな。AIならコンピューターなら恥を知れと言ってやりたい。いまの政権は、AIやコンピューターに比べたら圧倒的に頭が悪く、圧倒的に悪意だけは強いのだから、繰り返すが、そんな政権の言いなりになるな。

ちなみに無観客でも試合をテレビなどで中継すれば、誰もがオリンピック競技を楽しむことができるという理由から、無観客でも有観客でも変わりはないということを主張するのは間違っている。

もし無観客でもいいのなら、なにも非常事態宣言下の東京で競技をする必要などない。ワクチン接種が進み、コロナ感染が落ち着いた都市や国で行なって、それを全世界に配信すればいいわけだから、危険な日本で行ない、アスリートたちを危険な眼に合わせ、また、オリンピックのために、日本人の感染者が犠牲になり、さらには日本に新オリンピック変異株の爆発的増大を招かなくてもすむではないか。

もちろん、いまから競技場や宿泊施設など関連施設を確保することなどむつかしいから東京でするしかないとも言えるのだが、今後も定期的にパンデミックが起こるようなら、一国ではなく複数の国や都市に競技場を分散して、全世界配信をするように、オリンピックの形態を変えるべきであろう。

ただし、それまでは、現時点でいえることは、即刻中止をすることに超したことはないということだ。無観客になってまで競技をしたいのか。

あるいは中止よりもいいのは、やはりコロナ禍が収まるまでオリンピックを延期することである。IOCもオリンピックを延期あるいは中止にしないという理由がはっきりしない。その逆の理由はいくらでもあるのに。安倍が、自分の政権担当期間中に開催を希望したから、延期は選択肢とならなかったとも言われているが、もしそうなら安倍は、自分のために国民の命を危険にさらした売*奴である。

もちろん一番いいのは、いうまでもない――ぼったくりクーベルタン男爵が始めたオリンピックを永久に葬り去ることである。それが人類の平和と進歩と復興のための最善の策である。
posted by ohashi at 23:01| パンとオリンピック | 更新情報をチェックする

2021年07月09日

キリンの赤ちゃん

殺されてライオンの餌にならないように、
あるいは冷たい方程式

NHK NEWS WEB 栃木 NEWS WEB
アミメキリンの赤ちゃん生まれる 宇都宮動物園 07月09日 16時00分

宇都宮市にある宇都宮動物園で、今月はじめにアミメキリンの赤ちゃんが生まれ、愛くるしさをふりまいています。

宇都宮動物園で飼育されているアミメキリンのオスの「ハツカ」とメスの「メイ」との間に、今月3日に赤ちゃんが生まれました。

赤ちゃんはメスで、体の大きなキリンだけにすでに高さは1メートル80センチ、体重は60キロほどあります。

(中略)

動物園は赤ちゃんの名前を公募していて、名前を記入した用紙を園内に設置した箱で回収しているほか、今月18日にお披露目式を行ったうえで、通常の展示スペースに移して公開する予定です。

宇都宮動物園の荒井賢治園長は「暗い話題が多いなか、キリンの赤ちゃんが生まれたという話題を提供できてうれしい。成長を一緒に見て温かい気持ちになってほしい」と話していました。

このニュースは、いろいろなテレビでも、いろいろな局のニュースで伝えられた。

ほんとうに、キリンの成長を見て温かい気持ちになってほしいと思う。とくに子どもたちには。

そして動物園のキリンといえば、有名な事件として、2014年2月9日に、デンマークのコペンハーゲン動物園で、一歳半のキリンのマリウスが殺され、解体されライオンの餌になったことがあった。衆人環視のなかで。子どもたちが見ている目の前で。

しかし、これは事件ではない。動物園側は、啓発のためと称して、希望者(子供も含まれるというか、たぶん子供の希望者だけを)募り、日時を予告して、キリンのマリウスを殺処分し、その死体を解体して、同じ動物園のライオンに餌として与えたのである。

事故とか事件ではない。予定通りの教育目的の催事であって、おそらく動物園側が撮影した静止画像と動画は、いまもネット上で見ることができる。私は動画は見ることができないというか、見るつもりもないが、観衆側ではなく、ステージ側から撮った静止画像からわかることは、子供がたくさんみている。死んだキリンと子どもたちの距離が近い。この凄惨な現場をよく子供にみせたものだと、動物園側の神経を疑う(もちろん全世界で抗議の声が上がった)。

動物園側の言い分もあるのだが、そんなクソみたいな理由は、聞くにあたいしない。たとえ動物園側の主張が正当化しうるのだとしても、それにしても大事に育てたマリウス(名前までつけているのでペット扱いだったはずなのに)を殺すことには心痛むものがあったかもしれないと想像できるのだが、たぶん、心の痛みなどなかったのだろう。もしあったのなら、その場合、こっそりと殺すだろう。心など痛んでいない。そもそも心など動物園側にはないのだから。

もし動物園側が、好きで殺しているのではない、法的にやむを得ず殺すという主張であるのなら、子供にまで見せる公開処刑などしないだろう。やはり好きで殺しているとしか思えない。正義は自分にありと、死んだキリンを子どもたちの目の前で解体している動物園の飼育員の顔ははっきり大きく映し出されている。このしたり顔の正義面による殺処理。そこがこの殺戮が、共感を呼ばなかった最大の理由だろう。

もちろん共感するクズも多いかも知れない。彼らは、これは動物園が所属している協会のルールに従ったのであって、マリウスを引き取ると申し出た人たちがいたらしいのだが、外部(動物園あるいは動物園協会の外部ということらしいが)には譲渡あるいは売却していけないというルールがあったらしい。

だがルールを守るというのは、部分的合意にすぎない。世の中には、ルールは絶対に守るべきという保守派だけがいるのではない。ルールなど破るためにあるというラディカル派から、ルールは柔軟に運用したり、常にルールを見直したりすべきというリベラル派まで、ルールに対する意見には幅がある。いや、保守派も、都合の悪いルールならルールの歪曲的解釈は辞さないだろう。

残念ながらキリンのマリウスには、ルールの裏をかいたりルールの不備をつくような有能な弁護士や代理人がいなかった。擁護する者がいないとき(キリンには国選弁護士がつかなった)、権力側はやりたい放題である。

そして自らの暴虐を隠蔽せんがために、正義の行使を気取ってみせる。子どもたちに見せる。キリンの肉を人間は食べないので、これは食肉文化についての真実を伝えるものでもない。ただの動物殺しである。しかも許しがたいのは、子どもたちを、冷酷な動物殺しイデオロギーの共犯者にしているのである。

私のような古いSFファン(古いというのは本人が古いということと作品が古いという二つの意味があるのだが)にとって思い出されるのは、『冷たい方程式』The Cold Equationsというトム・ゴドウィンによって1954年の短編小説である。

Wikipedia日本版(「冷たい方程式」の項)の紹介を引用する:

惑星・ウォードンを調査していたグループの1つで、致死性の疫病が発生した。

ウォードンに血清を届ける小型宇宙船には、燃料も酸素も最小限しか積まれていない。発進後、パイロットは船内に隠れていた密航者を発見する。規則に従うならば、密航者はエアロックから真空の船外へ放棄しなければならない。しかし、ウォードンで調査の任に携わっている兄(疫病には罹患していない)に会うために密航したその18歳少女は、罰金程度で済むと思っていた。


ここまで読むと、多くの読者は想像するだろう。困難な状況であるが、主人公のパイロットは、少女も殺すことなく、また血清を届けるという課題を、うまく解決するのではないか。その解決の仕方が、この短編の醍醐味だろうと。

ところが結局、解決策はなく、少女も納得して宇宙船の外に出る。

パイロットは、燃料が最小限しか積まれていないためにこのままでは安全に着陸できないばかりでなく、血清を待つ6人の命までも死に至らしめることになることを少女に説明する。パイロットが少女の放棄を遅らせるために最善を尽くす間、彼女は両親とウォードンにいる兄へ手紙を書き、兄と無線で会話を交わす。無線が途切れた後、少女は自らエアロックの中へ入る。

つまり死ぬ。少女を船外に押し出して殺してもいいのだが、少女は自発的に宇宙船外に出ることを選ぶ――こうして殺す側の正当化に奉仕する。

昔、国内線の旅客機(ターボプロップ機のYS-11だったと思う)に搭乗した時、体重と手荷物の重さを聞かれた(手荷物は重さを量らされた)。さすがにそのときは体重によって座席を決めてバランスをとるのかと驚いた。現在、国内線だろうが国際線だろうが、通常のジェット旅客機に乗るときに体重を聞かれたりしない。乗客の体重や配置によってジェット旅客機の飛行時のバランスが左右されるほどの、現在のジェット・エンジンは非力ではない。つまり少女一人が隠れていたくらいで目的地に飛べなくなるというのは、ずいぶん昔の飛行機の時代の話である(いや今も飛んでいるDC3/C47ですら、少女が一人余分に乗っても飛べなくなったり燃料を大きく消費することはないだろうが)。そんなぎりぎりの状態で宇宙を航行するなどということはありえない。なんというローテクかとあきれる。

つまり逆に考えるべきで、この場合、蓋然性のある解決策はないというよりも、無邪気だが何も考えていない迷惑なバカ女を罰するために周到に状況が用意されたのである。悲劇的設定は、恫喝のためにある。かつてアウグスト・ボアールは、その悲劇論のなかで、アリストテレスが定義するような悲劇とは、ルールを守れ、軽はずみなことはするなと、まして反抗的なこと改革的なことをするなという保守派による恫喝の手段だと語ったことがあるが、この「冷たい方程式」も、若くて迷惑なバカ女を罰するための舞台装置あるいはイデオロギー装置でしかない。少女一人でも飛べなくなる、燃料がなくなるほど貧弱なテクノロジーの産物でありながら、女性を愚かな劣等人間に仕立て上げる装置だけは精密かつ濃密に設計されているのである(短編としてはよくできているのだから)。

もし、この小説のなかで、宇宙空間にみずから飛び出て、軽はずみな行為の落とし前を付けると同時に、自己犠牲の崇高さを示すために殺されるのが、少女ではなくて、キリンだったらどうなのか。キリンもまた、エアロックのなかに消えていく姿が全宇宙に配信されるのか。

だが、もしこの密航者が、惑星の総督の若い息子だったら、六人くらいの患者の命など簡単に無視されるだろう。ちょうどコロナ感染で重症者がいても、死者がでているのに、オリンピックを開催しようとする日本の政権なら、少女には死を、総督の息子にはなんのおとがめなしということになるのは想像に難くない。

この「冷たい方程式」を、名作の一つに残してしまったのは、SF関係者のイデオロギーとジェンダーに対する認識不足いや無知のなさるわざというよりも、SF関係者が、この作品と同じルール違反の女性・若者を抹殺しても当然とみなす、すでにいつも、男性優位の保守的イデオロギーを共有しているということだろう。

2014年2月9日、コペンハーゲン動物園で虐殺されたキリンのマリウスは、動物蔑視、人間中心のイデオロギーの犠牲者であったことはまちがいない。以前福祉国家スウェーデンで優生学に基づく避妊手術が行なわれていたことが問題になったが、スウェーデンよりももっと早くデンマークでは断種法を実施していたのである。こんな国では、人間の命は地球より重くとも、無力なキリンの命など髪の毛一本よりも軽いに違いない。

なお宇都宮動物園がコペンハーゲン動物園と同じだというつもりはない。
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2021年07月04日

『グラビティ』

これから、一定期間、ループ物の映画(多くはSF映画だが、怪奇ホラー物もあるし、多くはB級映画だが)について、個々の作品に即して考えてみたい。作品は、B級作品がほとんどで、知らなくても、また見なくてもいいような映画だが、しかし、ループ物がなぜはやるのか(最近の最新作が公開された)、そしてそもそもループ物とは何かについて考えてみたい。

第一回は2018年アメリカ映画Atropa。日本公開時タイトルは『グラビティ――繰り返される宇宙』(ひどいタイトルだが、原題も、そっけなさすぎる、そして意味不明のタイトル)。

Atropa(2018) USA. Dir. Eli Sasich; Cast: Anthony Bonaventura/Cole Freeman元刑事・探査員; Jeannie Bolet/Moira Williams主人公の元妻、Atropaの乗組員;Michael Ironside/ Captain Schreiberほか。


詳しい情報がないのだが、まずこの映画は、どうもドイツのSF短編映画のアメリカでのリメイクらしい。2013年の30分のドイツ映画Atropaがそれ(監督Peter Conrad Beye)。残念ながら、このドイツ映画は見ていないのだが、それをアメリカで70分の劇場公開映画にしたのかもしれない――ただし、タイトルはまったく偶然に同じとなった可能性も棄てきれないし、そのときはリメイク説は消える。

日本におけるネットでのこの評判からすると、やや話が薄味になっていて、物足らないところもあるが、70分という短い尺なので、見ていて苦痛になることはなく、淡々としているものの、あっけなく終わるので、不快感や苦痛を感ずることはないというのが大方の意見である。

最初、こうした感想はわからないでもないと思った。というのも、この映画は、アメリカのテレビのミニシリーズの総集編だと思ったからである。2018年3月3日よりアメリカで公開されたテレビ(そして/あるいは、ネット配信)のミニシリーズ(全7話完結)を70分の映画にまとめたものと思っていた。しかし、それは違っていた。総集編ではなく、合体編である。つまりミニシリーズの一話は10分程度。正確には10分を少し超えていて7話全部をあわせると90分越えになるのだが、各話、毎回、タイトル、前回の紹介、エンドクレジットなどが入るのだろうから、正味平均10分と考えれば7話で70分の映画。総集編ではない。

だから7話のミニシリーズ(IMDbには各話の内容紹介もある)を70分に圧縮したのではない。ただ合体させただけである。だから、この映画は、あらすじをなぞるだけの、薄味の映画ではない。題材の面白さ(ループ物)と、過去と現在を交錯させるプロットが常に緊張感を強い、またCGを中心とした特撮がけっこうよくできていて飽きさせることのない良質な映画であるが、ただ、登場人物の心の動きが詳しく示されないので、人物が実にあっけなく重大な決断をするようみえてしまうというのが薄味という印象を残すのかもしれない。

実際、私も、最初、これを長いテレビドラマの総集編かと思ったので、薄味という印象は多くの人と共有していたことになる。

なおタイトルは、辺境で行方不明になる宇宙探査船の名前。毒のある植物の名前(ベラドンナな一種)なのだが、その意味あるいは含意は、もしかして本編では何か語られているかもしれないと思ったものの、本編などない、この映画が本編そのものだから、説明は最初からされていない。

ネット上での解説をつぎはぎで紹介すると

元刑事のコールは、元妻を乗せたままデッドゾーンで消息を絶った宇宙探査船アトロパ号を追跡していた。予定より早く船を発見し乗船するが、アトロパ号は不明船と衝突し航行不能に陥ってしまう。その衝突船はなんと過去のアトロパ号で、しかも船中には自分たちの死体があった。
未来のアトロパ号が自分たちに衝突する時間が迫る中、このループから抜け出して恋人を救うべく、究極の選択を己に課すコールだったが……。
出演は「スキャナーズ」のマイケル・アイアンサイドほか【という紹介だが、唯一の有名俳優アイアンサイドは、ほんの少ししか登場しない。】ヒューマントラストシネマ渋谷&シネ・リーブル梅田で開催の「未体験ゾーンの映画たち2019」上映作品。


あるいは、こんな紹介も

「アントマン」「アベンジャーズ インフィニティ・ウォー」のCGディレクターとして知られるエリ・サジックがメガホンをとったSFループスリラー「グラビティ繰り返される宇宙」


そしてネット上には、CGは素晴らしいが、話の内容、ドラマが薄味、あっさりしすぎているという感想が多い。

しかしドラマとしてもよく作られていて、たとえば元刑事の主人公は、基本、一人乗りの宇宙艇のなかで、「Mo/モー」という名づけたコンピューター相手にチェスゲームをして、いつも負かされているようだ。のちに探査船のクルーから、自分の船のコンピューターに「モー」という、なんとかわいらしい名前をつけたのかと主人公はからかわれるが、そんなつもりで名前をつけたのではないと主人公は戸惑いながら軽く抗弁する。これは、これで終わるのだが、モーというのは、別れた妻/恋人である女性の名前Moira/モイラからきているのだろうと想像できる。彼は、モイラとチェスゲームで常に負けていた。そして別れた妻/恋人のことを忘れられないのであり、コンピューター相手に勝ち目のないゲームをすることが妻/恋人を現前させる手段となっている。

またチェスゲーム、それもいよいよ大詰めというか、すでにチェックメイト状態のチェスゲームにおいて、どうこの難局を乗り越えるかは、この作品の根幹にかかわるテーマともつながっている。実際、この映画は「エンドゲーム」と名付けてもおかしくない内容なのだ。

もちろん「モー」の由来も、チェスゲームのテーマも一言も説明され語られることはなく、ただ示されるだけである。観客が視聴者がそれを認知するしかないのだが、あいにくネット上には、この映画をB級と決めつけて、そこから先を考えようとしないB級観客しかいないようだ。

もちろんタイムループ物の常で、どこか説明不足のところがあって、この点で、私自身、B級観客の域を脱していないのだが、どうも探査船が宇宙区間の時空の歪みによって時間を逆行しはじめたらしい。そして、このままだと、未来の同じ探査船とぶつかってしまうらしい。探査船に調査艇で乗り込んできた元刑事の調査員が、探査船の冷凍睡眠中のクルーを起こし、事情を聞いていると、すぐ側に同じ探査船が現れて、しかもその探査船は、同じ探査船と正面衝突を起こし完全に破壊される。それを探査船のクルーと調査員が見ているのだが、同じ運命が、この船にも訪れるだろう。では、そのループからどうやって抜け出すのかが、課題となる。抜け出せなければ死ぬしかない――これがB級観客の私のまとめである。

このブログのどこかで書いているのだが、私が小学生の頃にみたアメリカのテレビドラマ・シリーズ『ミステリー・ゾーン』(当時日本では、このタイトルで『トワイライト・ゾーン』を放送していた)の1時間物で、惑星探査に降り立った地球からの宇宙船が、そこで破壊された宇宙船の残骸を見るというエピソードがあった。

その宇宙船の残骸のなかには、いま降り立った宇宙船のクルーの屍体がころがっている。彼らは自分の屍体と対面するのである。何があったのか。それを探っていくうちにクルーの身に次々と不思議なことがふりかかる。そして彼らは悟るのである。自分たちは、この惑星への着陸に失敗して死んだのだが、死んだということがわからないまま、亡霊になってさまよっているのだ、と。と、この瞬間、場面は、この惑星に着陸しようとしている宇宙船の内部に変わる。彼らは、これから着陸しようとしている惑星の表面に、宇宙船の残骸を発見する……。

当時私は風邪で高熱を出して寝ていて、このエピソードを枕元に親が置いてくれたポータブルテレビで見た。そしてこのエピソードのあまりの奇怪さに、さらに高熱が出てしまったのだが、今にして思えば、それが私とタイム・ループ物との出会いであった。
【なお、このエピソードは、『ミステリー・ゾーン/トワイライト・ゾーン』の第四シーズン(このシーズンのみ1時間物となった)の、「幻の船」‘Death Ship’ と題するエピソード(通算第108話)。その面白さ、不思議さは、原作がリチャード・マシスンであるからだろう】

このエピソード(「幻の船」)と『アトロパ』との相違点も重要だろう。このエピソードでは乗組員たちは自分の死体を見るのだが、死をもたらした事態は目撃でしていない。だからなぜ自分たちの死体があるのかわからないのだが、アトロパの乗組員と探査艇の調査員(元刑事)たちは、自分たちが乗っている船が衝突して破壊されたところを目撃する。突如として、鏡にでも向かったかのように、自分たちの船の未来の姿、その破壊の様子を目撃するのである。そして自分たちが、そのカタストロフへと着実に向かっていることがわかる。この運命からどうやって逃れるのか。こう考える点で、ただ困惑するよりも、すこし超越的な視点を手に入れている。

もうひとつの超越的な視点というは、彼らにとってこの運命が、どうやら無限に繰り返されているということである――ネタバレになるので詳しく語らないが、彼らが無限のループに気づく瞬間の衝撃は、他の映画の追随を許さない、この映画ならではのものといっても過言ではない*注。

本来なら、わけがわからないまま、べつの宇宙船に追突するか追突されるかして、全員死亡。と、その瞬間、また同じシークエンスが始まるという展開にすることもできる(『ミステリー・ゾーン/トワイライト・ゾーン』のときと同じように)。しかし、そうせずに未来の破滅の運命を見せることで、超越への、脱出への契機が準備される。彼らは自分の姿と、その未来をみるのである――鏡にむかったように。

鏡のイメージは、この映画に頻出する。と同時に、鏡が、いかにも映画的なイメージであることに思い至る。映画における鏡のイメージとは、鏡本来ではなく透明なガラスによって成立する。ガラスは、光の状態によって、それが「鏡」となる場合と、そのガラスの向こうの世界を示す「窓」となる場合がある。まさに反射と透過の共存。反射は外の世界をみせることがないが、透過は外の世界をみせる。外に世界に対する可視と不可視の二重性をガラスが帯びることがある。あるいは反射するもの、鏡があれば、それは窓にもなる。

主人公が見ているのは鏡としての現実である。つまり自分たちの姿と、その行方――つまり自分たちの未来。この鏡を前にして、私たちはどうするのか。鏡像をみる時点で、すでに一度反復していることになる。私たちは自分の未来あるいは未来を予示するものをみて、そこから抜けだそうとするのではなく、魅せられたかのように、暗示にかかったかのように、それを反復してしまう。

成功体験というのがある。過去における成功体験にとらわれると、どんな場合にも、その成功体験を反復する行動に私たちは出ることがある。たとえば重要な仕事を任されたとき、赤い物を身につけたら上手くいったとき、重要な場面で、赤い物を身につけようとすることがある。ただ、たとえば試験前に猛勉強してよい成績を収めることは、成功体験に入るとも入らないともどちらともいえないのは、試験の前に猛勉強すればよい成績は当たり前であって、縁起などとは全く関係ないからである。成功体験の醍醐味というのは、試験前に全く勉強しなくても、ただ赤いハンカチをポケットに入れていたら、よい成績を収めたというようなことだ。これは原因が、赤いハンカチでないことは確かだ。成功は、本人がコントロールできない要因(たまたま得意分野が出題されたとか)によるものであって、もし、次の試験で、あるいは人生の重大事に、赤いハンカチをポケットに入れたら(縁起をかつぐとか、ジンクスのようなものだが)成功すると考えたら、待っているのは失敗か破滅である。いや、そこまでいかなくとも、痛い教訓を得ることにはなるだろう。

トラウマは、いろいろな型があって一概にこうだとは言えないのだが、過去の嫌な経験を常に想起してなにもできなくなったとき、行動ではなくても頭のなかのシミュレーションによって過去の失敗や恐怖を再現することで、過去を生きるということになる。失敗したり、嫌なことは忘れたほうがいいのに、それをたとえ実生活で行動に移さなくても、回想のなかで頭のなかで想像のなかで繰り返す。そして過去の亡霊に取り憑かれてしまう。失敗する人生に魅せられている。トラウマに苦しめられ、魅せられている私の人生は破滅の人生である。また成功体験に取り憑かれて、失敗しつづける私の人生も破滅の人生である。

人間は、反復する動物である。だとすれば私たちの先人(先輩であり、また親であり、先祖でもある人々)も同じことを繰り返してきた。私たちの人生、あるいは私たちの歴史は、ループの繰り返し(同語反復か?)であり、破滅の集積である。私たちがいま見ているのは、前の世代、親の世代の破滅の人生であり、それを反復する私たちの破滅の人生である。この世界は、破滅する者たちの墓場、あるいはゴミ捨て場である(ネタバレできないので、これは次に扱う『トライアングル』の予告編ともいえるコメントだが)。

ただし、これは作品から離れたスペキュレーションではない。この作品の主人公が、このどんづまり状況――鏡と同時にチェスゲームのイメージを頻出させるこの映画からして、まさにエンドゲーム状況――で、無限のループの現実が示しているのは、私たちの繰り返しの人生(反射――反映であるとともに無限反復)であるが、同時に、繰り返すなというメッセージでもある(透過、鏡が壊れたあとあらわれる新たな現実)。この洞察に到達するとき、主人公は、たまたま閉じ込められた医務室のガラスの扉を壊して脱出していた。

さらに主人公がなぜ妻と別れたのかについて、過去のトラウマ的事件も提示される。ところがB級観客には、フラッシュバックすらお気に召さないようだ。こんなコメントがあった。

多分、チャイナマネーが入っているのだろうけど、ヒロインの元?妻及びその弟(地上での主人公の元バディ)の押しの強さに少々の“ウザさ”を感じてしまうのは自分だけだろうか。【お前だけだよ――引用者】色々な要素を入れてみたらこんなお子様ランチに仕上がりましたと紹介しているような中身なのである。【そんなにいろいろな要素は入っていない。たぶん「お子様ランチ」というのが、このレヴューアーが、どんなときにも、どんな作品についても、気に入らないときに使う、お気に入りの、なんともまあ昭和を思い起こさせるけなし言葉だろうが、まあ私がいいたいのは*****ということにつぎる――引用者】
ストーリーパートの地上での主人公と妻の不仲の理由を物語る振り返りシーンが完全に野暮ったい。【このあとすぐに解説する――引用者】あの件は別の表現方法があったのではと思う。いかにも西海岸的刑事ドラマの作りで、それと一気に宇宙へのシーンに繫げるのは無理がありすぎて素直に没頭できない


【なおここで理由もなく中国を差別的にコメントしている部分があるが(中国資本が入っているから気に入らないというのは、単純な民族差別・人種差別に他ならない)、中国の独裁政権の暴虐は絶対に許されるべきではないのだが、中国を差別的にみている、この「お子様ランチ」レヴューアーが、たとえば香港における民主派弾圧の件で中国を批判したり、ウィグル族の弾圧搾取に加担するユニクロを批判するとも思えない、むしろ、抑圧的な中国政権と同じ姿勢を保持していることは間違いなく、こういうレヴヴューアーはとっと退場してもらいたいものだ。】

ちなみに、この作品について、別のレヴューアーは、「B級だし仕方がない?」というコメントで、結んでいたが、いま引用したレヴューアー(「お子様ランチ」レヴューアー)についても同じことがいえる。つまりこのレヴューアー、「B級だし仕方がない」。

フラッシュバックが入ることは、実は、この宇宙船が時間を逆行して過去に遡行しているのと同じく主人公の元刑事も、刑事時代の妻と別れることになった出来事へむけて、時間を逆行し過去に遡行していることの示唆である。宇宙船と主人公の時間逆行が同時に平行して起こることは、この作品の重要な仕掛けであって、精神内の内的宇宙の時間遡行と、物理的外宇宙の時間遡行とが等価で提示されているのである。つまり宇宙の時空間のなかでのループは、精神的な意味ももっている。この物語のリアルは、こんなループ現象が宇宙のどこかで起こっているかもしれないというエクストラポレーションではなく、ループ現象は私たちの精神内で、つねにすでに、起こっているということの暗示なのである。

探査船のクルーの一人が、自分の死体をみる。その死体は銃で撃たれていた。元刑事の主人公が疑われるが、彼は発砲していなかった。やがて誰が発砲したのかがわかる時がくる。

ちなみに主人公が刑事時代に体験した妻と別れることになった事件とは、相棒として組んでいた若い刑事(妻の弟)が、犯人の銃撃によって殺されたとき、怒りにかられた主人公が、すでに傷つき投降している犯人を射殺するのだが、これを監視飛行体に目撃されていて、違法行為を問われ刑事の職を失い妻とも別れることになる。怒りにまかせた報復の一撃が彼から職も妻も人生をも奪ったことになる。そして、探査船のなかで再会した主人公の元妻が、今度は、再婚した男性を殺された怒りにまかせて、乗組員の一人を殺そうとするとき、主人公は必死でこれを止めるのである。おそらく、元妻は再婚相手を殺された怒りで乗組員の一人を殺していたのだ。殺していたのだというのは、この殺人が、無限回数起こっているということだ――まさに報復の連鎖、いや報復の無限反復、報復のループ。そしてその一点だけでも変えることができたのなら、連動して、未来そのもの無限ループから解放されるかもしれない。

もちろん、そんな簡単にループから抜け出せるのだったら、とっくの昔に、みんな助かっているという言えるかもしれない。超越のお手軽さを批判されかねいないので、バランスをとっている。みんなが助かるわけではない、と。むしろ、その逆で、ほとんど助からない。

いま、たまたま『スタートレック:エンタープライズ』シリーズ(これは『宇宙大作戦』よりも前の世界、紀元22世紀を舞台にしたスタートレックのテレビシリーズで2001年から放送された)を調べる必要があって、見ているのだが、21世紀初頭のこのシリーズのCGと比べると、この『アトロパ』のCGには一日の長がある。と同時に『アトロパ』の世界は、20世紀のSF映画の世界へのノスタルジア、あるいはオマージュも見て取れる。おそらくそれはリドリー・スコット監督の『エイリアン』である。あの『エイリアン』の世界の暗さ、無気味さ、そしてノスタルジックな雰囲気だけではない。物語の最終展開においても、『エイリアン』と『アトロパ』には共通点がある。見てもらうしかないのだが。


この重要な仕掛けが、『レッド・ドワーフ』のなかのエピソードからの借用であるというコメントがネット上にあったが、『レッド・ドワーフ』のその回あるいは全体を見ていないので、不明。ちなみに、日本でも放送されていた『レッド・ドワーフ』は、シリアスなSFというよりもお笑い・ギャグSFであり、たまたま私がイギリスでみた回では、艦長が、異星人の美女とセックスをしたあと、どうだったかと、異星人の女に聞くところがあった。異星人の女いわく、「まるで日本料理のようだ」と。つまり、「お皿は小さいが、コースがたくさんあった」と。これについては何もコメントしないが、これをBBC2で放送していたのである。
posted by ohashi at 20:01| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2021年07月03日

翻訳セミナー 4

インタルード

3月26日を最後に中断していた翻訳セミナーを再開したい。

前回といっても3月26日までに扱った翻訳は、著者も、著者も、翻訳者も明記していない。もちろん、実在したかどうか疑われてもしかたがないのだが、ただ、虚構と思ってもらってもいい。誤訳を指摘して、特定の翻訳者とか特定の出版社を非難することは、私の目的ではないから、具体的なデータは示していない。

と同時に、原文と翻訳文にはニュアンスの差があること、誤訳とも言っていいほど、原文の理解が浅いところがあることは、確かだが、しかし全体としてみて、その翻訳書は悪い本ではなく、訳者自身の丁寧な解説もあって、有益な本であることはまちがいない。だから非難にはあたいしないと私は考えている。

しかし、誤訳は誤訳であり、たとえ小さなミス、あるいは誤訳ともいえないようなニュアンスの差が、大事故にむすびつくこと、弱いジャブでも連打がつづくとダメージを与えることになるという意見もあるだろう。

しかし、その一方で、ささいなミスは、全体のなかで見過ごされたり、全体の流れのなかに吸収されて、致命的な欠陥にはならないという意見もある。私はどちらかというと、こちらの意見に近い。

あるSF小説では、未来にタイムマシンが実用化され、過去の時代に赴いて、そこで冒険することが気晴らしとして人気を博するようになるが、そうしたアトラクションのひとつに恐竜ハンティングがあった。タイムマシンを使って恐竜時代に赴き、そこで恐竜を銃で狩るのである。タイムマシンが実用化できる未来だから、AIを使って自動照準し、レーザー破壊光線を照射するような新式の銃器が狩りに使われると想像できるのだが、それだと狩りの醍醐味がない。そのため銃弾を発射する旧式の猟銃が恐竜狩りに使われることになると考えよう。

未来からやってきた恐竜ハンターが、未来に帰還するときに、空薬莢をひとつ恐竜時代に忘れてくる。ハンターは絶対に未来の事物を過去に置き去りにしてはいけないという厳しいルールにもかかわらず、薬莢一箇を回収し忘れたハンターがいた。

空薬莢ひとつのことである。だが、それによって人類の歴史が大きく変わる、あるいは致命的な変化が訪れ、一気に地球に破滅が訪れる……。

確か、レイ・ブラッドベリーの作品だったような気がするが、それはともかく、こんなことはありえない。そもそも小さな薬莢一箇が恐竜時代に残ったとしても、それで地球の歴史が変わるわけがない。それを言い出したら、たとえばハンターは未来の世界から恐竜時代に、その時代にないウィルスを持ち込むかもしれない。むしろ、そのほうが地球の歴史を大きく変える可能性が高い。ささいなミス、些末的な事故、それが全体の流れに影響をあたえることはない。これが私の見解である。SF小説の題材としては面白いが、現実味を帯びていない。

翻訳もそれと同じで、たったひとつの誤訳が全体に大きな影響を与えると、翻訳論者は主張するかもしれないが、そんな些細なミスなど、翻訳全体が、ほぼ正しく原著の内容を伝えているのなら、気づかれることもなく、気づかれても、混乱を引き起こすことはない。

たったひとつの誤訳が、全体に大きな影響を及ぼすことはない。それはパラノイア思考だ。

たったひとつの印刷ミスが、作品全体の解釈を左右すると、シェイクスピア学者・文献学者は語るだろう。パラノイアもいい加減にせよ。そんなこと、あれば面白いのだが、現実にはありえない。ピアニストは一回のミスタッチで演奏を失敗と判断するのだろうか。そんなこと現実にはありえない。たとえ何度ミスタッチをしても、それで作品のイメージやメロディーが変わらないとしたら、演奏は、ミスタッチの多い下手な演奏だとしても、演奏として成立している。たとえどんなに誤訳が多くても、著書全体の主張を正しく把握し伝えているのなら、その翻訳は翻訳として成立する。だから誤訳の指摘には、具体的な書誌情報を出さないのである。

と、ここまで考えてきて、先のSFの例は、実はまずいということがわかってきた。たとえばR・A・ラファティ(ああ、なんと懐かしい名前だろう)の短編「われ、かくシャルルマーニュを悩ませり」(『九百人のお祖母さん』所収)では、未来の科学者たちがタイムマシンで過去の時代に赴き、その時代の事件に変更を加えることで、その後の歴史が変わるかどうか確かめようとする。

いわゆる歴史改変SFなのだが、この作品のひねりは、というかひねりではなく、当然の帰結を語っているにすぎないのだが、科学者たちは過去の歴史的事件に介入するのだが、未来は変わらないのである。何度実験をしても、以後の歴史は変わらない。ところが読者からみると、歴史改変後の、未来は、変わらないどころから、大きく変わったものとなる。実際のところ、科学者たちは過去の事件に介入を繰り返しすぎて、以後の地球の歴史がめちゃくちゃになり、科学者たちは科学技術を、さらには科学そのものさえ失って、呪術的世界に生きるしかなくなる。それでも彼らは嘆くのだ――歴史はちっとも変わらない、と。

考えてみれば、当然である。過去に介入して歴史が変わったとしても、改変前と改変後を比べることができなければ、変わったかどうか確かめられないのである。たとえば日本が真珠湾攻撃をせず、戦争にも参加しなかったため、戦禍を免れた国として戦後世界の覇者となったとしよう。私が、もしそうした世界に生きているとすれば、何が変わったかどうか、わかりようがない。ならば日本に真珠湾攻撃をさせ米国に宣戦布告をさせたとしよう。その結果出来上がった世界が、今の世界だが、別の世界の記憶がない限り、何が変わったのか、そもそも変化があったのかどうかも定かでなくなる。

だから未来からきた恐竜ハンターが恐竜時代に空薬莢を置き忘れたために、その後の地球の歴史が大きく変わったとしても、変わる前の地球の歴史がわからない以上、変わったかどうかすら、わからないのである。

付記 いわゆるバタフライ効果というのを書き忘れていた。なにが原因になるかわからないということだが、これはどんな些細なことでも原因になるために、原因が特定できないとも、すべてが原因であるとも、あるいはもう原因などどうでもいいとも、いろいろな事が言えるので、あまり役に立たない概念ではあるが。

posted by ohashi at 16:45| 翻訳セミナー | 更新情報をチェックする

2021年07月02日

子殺しの国

千葉県八街市八街の路上で、飲酒運転をしていたらしい運転手のトラックが、下校中の小学生の列に突っ込み、5人がはねられ、うち2人が死亡するといういたましい事件が6月29日に伝えられた。

なぜ、よりにもよって子どもたちの列につっこみ、子どもたちを死に追いやるのか、悲しみを超えて怒りさえ覚える。しかも、こういう事故は、よく起こっている。実際のところ、同じ通学路では、5年前にも通学途中の児童がトラックにはねられ4人が重軽傷を負うという事件が起こっている。なぜよりもよって子どもたちの列につっこむのだろう。ただでさえ、子どもが減っている国で、子どもは大事に育て、守っていかなければならないというのに。

これはガードレールを付けろとか、集団登下校は、犠牲者が多くなるからやめたほうがいいというだけでは済まない(もちろんガードレール設置や集団登下校の見直しは重要なことだが)。そもそも子どもは全力で守っていかねばならない。それが大人の、そして社会の義務いや絶対命令である。

だから、いくら飲酒運転でも、ちらりと子どもたちの姿が見えたら、残っている意識と体力の限りを使って、トラックを子どもたちの列から引き離す、トラックを横転させるか電柱に激突させるか、民家につっこんで、とにかく子どもたちとは反対の方向へと動かす。それがなすべきことだろう。

いや酔っ払っていたから、そんな判断はできなかったというなかれ。酔っ払っていたからこそ、あるいはどんなに酔っ払っていても、子どもの姿をみたら、子どもを守るというスイッチが入り緊急事態モードになっており、その対処法には自己犠牲も含まれるというのが、本来の人間としてのあり方ではないだろうか。

むしろ子どもたちがいたから、大人ではなく、子どものほうにハンドルを切り、ブレーキをかけることなく、猛スピードで突っ込んだのではないか。

だから、本来なら集団登下校であっても、ガードレールがなくても、子どもたちは特権的存在で、堅く守られていて、酔っ払ってトラックで突っ込んでくるような人間は、天地がひっくり返らないかぎり出てこないはずなのである。

アメリカのドラマなどでは、たとえ純然たる事故、不可抗力の事故でも、子どもを死に追いやったら、たとえ法的に無罪でも、心からの謝罪と悔悟がなければ重罪犯と同じ扱いになる。あるいは子どもを殺せと命じられると、子どもだけは殺さないと命令をはねつける冷酷非情な殺し屋が、けっこうよく登場する。子どもが無垢の天使だというのは幻想だとしても、子どもは守る、子どもは殺さないという原則は、絶対に破ってはいけない原則なのである。絶対のルールである。すくなくとも欧米では。

こういう事故が起こるたびに、つくづく日本では子どものいのちが軽んじられていると思わざるをえない。子どもを殺した本人も、子殺しの罪をなんら恥じていないし、後悔してもいないし、罪の意識にさいなまれているようにもみえない。

日本民族は、世界に冠たる劣等民族である(すくなくとも、オリンピックを強行しようとし、オリンピックに反対する国民を、反日と呼ぶような類いの愚劣な人間たちには劣等性しかないことは歴然としている――彼らは子どもが感染しにくいという理由からオリンピックを強行するつもりかもしれないが、また子どもに競技を観戦させるという愚を犯しているのだが、新たなオリンピック株は、子どもたちを巻き込まないという保証はどこにもない。子どもを危険にさらして平気なのである)。

まあ世界に冠たる劣等民族は滅びるほかはない。残念なのは、民族の中でも滅びて当然の子殺しどもの巻き添えを食って、子どもを愛する人々も滅んでしまうことだ。なにしろ子ども殺している民族だから、滅びることはまちがいないのだから。

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2021年07月01日

昔、オリンピックが

前回の東京オリンピックがあったのは、私が名古屋の小学生の高学年の頃のことで、まあ、もの心はついていたので、当時、オリンピックで熱狂していた日本のことを、名古屋でみていた限りではあっても、よく記憶している。

そんなに頭のよくない小学生ではあったが、当時、オリンピックに関する情報は、テレビやラジオ、そして新聞をはじめてとして、子ども向けの本や雑誌などでも毎日のように接することになって、そこで、四年前にローマでオリンピックがあったこと、またこれまでのオリンピックで、日本の選手が、それなにり活躍していたこと(種目によっては金メダルをとっていた)などをあらためて知ることになった。

子ども向けの媒体を通して、知ることになり、とくに興味をもったのは、平和のスポーツの祭典としてのオリンピックの姿であった。古代ギリシアでは、戦争をしていても、中断して、オリンピックを開催したこと。たがいに交戦国でも、停戦して選手団を派遣したこと。参加することに意義があるというスローガンは、オリンピックが平和の祭典であることを強くアピールするものだった。

いくら平和の祭典でも、戦争している国が停戦してスポーツ競技会に参加することは、古代ギリシアならともかく、現代の世界ではないだろうと、子ども心に思ったのだが、同時に、オリンピックを貫く反戦思想にはいたく感動したものである。

近代オリンピックの創始者クーベルタンについても、当時、いろいろなメディアでとりあげられたが、小学生向けに書かれたクーベルタンの伝記は、細部は忘れてしまったが、聖人伝のごとき扱いというか、内容であったことを記憶している。

そしてクーベルタン男爵からぼったくり男爵へ。

いまやオリンピックの価値は地に墜ちた。コロナ感染の拡大の東京で、オリンピックを強行する意味はまったくない。新たな感染が拡がり、日本の国民が犠牲になることはわかっているオリンピックは、ぼったくり男爵のみならず利権亡者の日本人によっても、まさに犠牲を強いられる残りの日本国民は、踏んだり蹴ったりである。

オリンピックを延期するというのなら話はわかる。あえて強行することによって、もうオリンピックは利権亡者とぼったくり男爵一派以外のすべての日本国民を敵にまわしたということがいえる。

もちろん政府の犬ともいえる(犬に失礼だが)、スポーツ関係者、利権亡者たちは、オリンピックが始まれば反対していた日本人(日本をだめにした張本人ともいえる愚劣な人間から、「反日的」といわれた人々)も、手のひらを返したように日本選手の活躍に拍手喝采を送るだろうと楽観視しているが、オリンピックが開催されれば、何が起ころうとも、すべて成功したことにすることは、政権/政府とご用メディアによって決まっているから、「オリンピック成功」というニュースは、オリンピック開催以前から用意されているので、驚かない。

むしろ、コロナ感染が拡大しつつあっても、オリンピックを強行したことで、オリンピックの価値は薄汚れたものになった。嫌われなくてもいいアスリートたちも、薄汚れたオリンピックの薄汚れた奴隷じみたものとなった。いや、嫌われなくてもいいアスリートたちが、国民の敵となった。

誤解がないように付け加えれば、今回の、ぼったくり男爵の錬金術の手段となったオリンピックを、かつての日本国民全員が熱狂し、その価値を高く評価したオリンピックと対比させて昔はよかったと、なつかしみ、いまを嫌っているのではない。

おそらく最初の東京オリンピックも、薄汚れたものだったはずだ。クーベルタン男爵は、ぼったくり男爵だった可能性は高い。今回のコロナ禍によって、オリンピックが、金のなる木であり、そこに利権亡者どもが群がっていること、そして、オリンピックにむらがる、もはや国民を犠牲にしても、利権が大事だという、薄汚い利権亡者のあさましい姿が、天の啓示のごとく、このコロナ禍のなかで、不幸中の幸いともいうべきかたちで、まがまがしくも浮かび上がった観があるのだ。

私は、もうすぐ死んでいく身だが、子どもの頃の平和の祭典というオリンピック幻想から醒めて死んでゆけるのは幸せだと思っている。関係者で利益を山分け、いやぼったくりしておきながら、ボランティアには一銭もあたえないという、人の善意を踏みにじっても当然であるというようなオリンピック関係者や利権亡者たちのことを、世界平和と日本の災害復興に貢献する聖人あるいはヒーローたちと愚劣な幻想いや思い違いを抱かなくてもよくなったのは、死にゆく人間にとって、せめてもの慰めであると思っている。

くたばれオリンピック。
posted by ohashi at 09:10| コメント | 更新情報をチェックする

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