Triangle(2009)
Dir. Christopher Smith; Cast: Melissa George/Jessジェス、自閉症の子を持つ若い母親; Michael Dorman/Gregグレッグ、クルーザーヨットのオーナー、ジェスと恋仲;Henry Nixon/Downyダウニー、グレッグの友人;Rachel Carpani/Sally サリー、ダウニーのガールフレンド;Emma Lang/Heatherヘザー、サリーの女友達;Liam Hemsworth(へムズワース一族の三男)/Victorヴィクター(ヴィックと呼ばれる)、グレッグの若い友人;以下略。
主役メリッサ・ジョージは、スター俳優のようだが、どのくらいの知名度・人気度があるのか不明。あとリアム・へムズワースは兄たちルーク、クリスが有名。この映画では、さほど重要な役ではない。
タイム・ループ映画の第二弾。
シーシュポスの神話タイム・ループ物(映画や小説)において、その原型ともいえる神話上の等価物は、シーシュポスが苦しむことになった罰である。
神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど恐ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった。(『シーシュポスの神話』清水徹訳、『新潮世界文学 49 カミュII』(1969)所収、p.386。訳文はそのまま使用。)
無意味な繰り返し、反復する運命あるいは罰、これこそがタイム・ループ物の意味である。同じ事の繰り返しは、罰であり、繰り返しから逃れることのできない世界とは地獄のことである。
カミュの『シーシュポスの神話』は、自殺の問題を取り上げるエッセイで始まり、最後に、自殺してもおかしくない最優先候補たるシーシュポスを取り上げる短いエッセイで締めくくられる。無意味の極みの労苦は、しかし、シーシュポスをして、おのが運命の無意味さ、くだらなさを笑わせるだけではない、むしろ、それ以上の、なんとも言えない幸福感を彼にもたらすことになる。「不条理」という言葉を有名にした著作だが、虚無的な内容とか思想は、そこにない。最後に語られるのは、幸福感であり、生の全面的肯定である。
無間地獄という歴史の牢獄、神なき世界の悲惨と虚無、宇宙の不条理の極み、この無意味さ、でたらめさ、それこそが、生の身体的喜び、このコントロールできない生のめくるめく歓喜と連動する。ああすばらしきこの出鱈目な世界。出鱈目だからこそ、生の純粋なそして無償の歓喜がわき上がる。この著書は、最後に、「すべてよし」という無償の全面肯定を宣言する(この肯定は、ロカンタンのシャンソンに対するそれよりも不条理であるがゆえに力強い)。
この短いエッセイの冒頭でカミュは、シーシュポスについて、主にホメーロスに依拠して、紹介しているが、この人物、いろいろなことをし、いろいろなことがふりかかるが、首尾一貫性がなく、矛盾し、実にいい加減で、平気で人間や神を裏切り、実に出鱈目な人物なのだ。そこが面白いし、カミュ自身、その出鱈目ぶりを肯定している。
ホメーロスの伝えるところを信じれば、シーシュポスは人間たちのうちでもっとも聡明で、、もっとも慎重な人間であった。しかしまた別の伝説によれば、かれは山賊をはたらこうという気になっていた。ぼくはここに矛盾をみとめない。(清水徹訳、p.386)
ただし、なぜ、矛盾を認めないのかカミュは何も説明を加えていないが、シーシュポスのこの相反する性格の共存、それこそが、シーシュポスの本質ならざる本質、本質を欠くシーシュポスの本質であって、そこをカミュは肯定する。肯定には、それ以上の説明は不要なのである。
実のところ、世界の不条理、世界の出鱈目ぶりと連動しているのは、シーシュポスという神話的人物である。彼こそが、世界の不条理を体現している。
そもそもシーシュポスが罰を受けることになったのは、黄泉の国から一時的に地上に戻る許可を得ても、地上で生の素晴らしさを味わうや(「この世の姿をふたたび眺め、水と太陽、灼けた石と海とを味わうや」p.386)、死の国に帰りたくなくなって神との約束を破ったからである。約束破り、契約の反古、裏切り、それがシーシュポスの本質なき本質、魂なき魂、人格なき人格なのだ。カミュが、シーシュポスを選んだのは、その悲惨な不条理の運命のためではない、その人物のなんともうれしいこの出鱈目ぶりだったのだ(カミュの短いエッセイ「シーシュポスの神話」の冒頭、シーシュポスを紹介する部分は、ほとんど読まれていない。というかこのエッセイ自体、有名ではあってもほとんど読まれていないのではないかと勝手に推測する)。
まあ、それにしても、このエッセイ集は最初占領下のフランスで出版されたものだが、いくら占領下で戦争の現実は希薄になっていただろうとはいえ、戦争の現実などなかったかのように、悲惨のきわみ(とはいえそれは戦争の悲惨ではなく、人間の死すべき普遍的運命のことでもあるのだが)における生の謳歌を書くというのは、カミュが、いつも、空気を読めていない、うわの空状態ではなかったかと思う(『ペスト』は戦後の作品である)。植民地下・戦時下のアルジェリアでアラブ人を殺害しておきながら太陽のせいだと主人公にいわせる『異邦人』にしろ、どこかカミュは現状認識が苦手で、うわの空である、強いて言えばカミュ自身がエトランジェである、あるいはシーシュポスのように出鱈目である。
しかし、さらなるいい加減さがある。カミュとは関係がない。カミュは、このエッセイのなかで紹介していないが、シーシュポスの父親はテッサリア王アイオロスである。アイオロス? アイオロスといえば風の神、風神のことか?と思うかもしれないが、テッサリア王アイオロスと風神アイオロスとは違う。だからシーシュポスも風神アイオロスの息子ではないが、往々にしてこれは混同される。ああ、なんという出鱈目ぶり。
バミューダ・トライアングル『トライアングル』は、メリッサ・ジョージを主役にした(とはえいよく知らない女優であって、私がもっているブルーレイのメイキングでのインタヴューでは魅力的な女優なのだが、映画のなかでは必死感と背中合わせの狂気が相まって彼女の容貌の癖の強さが印象的でスター女優的なオーラはないようなところがあるというか、それがオーラなのかもしれないが――勝手な感想)とはいえ、作品の面白さは、ループ物の常だが、世界の不思議に支えられ、さらには美しさと迫力のある映像表現によっても支えられている。
とりあえず最初から内容を語ってみると、自閉症の男の子の世話で疲れている若い母親の日常が描かれつつ、気づくと、その彼女が、大型ヨットでのクルージングへと招待されている。進行には、いくつか穴というか欠落あるいは省略があり、なかには最後になって、ようやく埋まる欠落箇所もある。実際、彼女は一人でヨットに乗り込むのだが、子供はどうしたのかと思う。学校に預けたということらしいが、土曜日に学校は開いていない。子供を預けるシーンなどない。ヨットのオーナーの友人からも、子供のことは不思議がられている。だが疑惑を残したまま出港。のんびりとしたクルージングが、にわかに大きな嵐に巻き込まれ(無気味な黒雲の映像には圧倒される)、大型のクルーザー・ヨットは転覆する。全員、海に投げ出されるが、一人を除いた、残り五人は、かろうじて転覆した船の船体のとりつき、救助を待つことに。と、そこに大型客船が突如現れる。彼らは近づいてきた客船に大声で呼びかけ、なんとか乗船することに成功する。
だが乗船した大型客船には乗客も乗組員もいない。五人は、船内を探索して、客船の関係者を捜すことになるが、彼らには不思議な出来事が次々と起こるようになる。また船内の客室区間は迷路のようになっていて全体像がつかめない。主人公の女性は、突如、オーナーの友人の男(リアム・ヘムズワース)に襲われる。だが彼はすでに大けがをしており、からくも逃げ出した彼女は、船内の劇場で残り三人と会うことになるが、ヨットのオーナーの男性は銃で撃たれ瀕死の重傷を負っている。しかも、彼女にはまったく身に覚えがないのだが、彼女が、そのヨットのオーナーを銃で撃ったという。根も葉もない濡れ衣であると彼女が弁解しようとする矢先、劇場の桟敷席にいた謎の人物から銃撃される。残り二人は銃弾に倒れ、からくも逃げ延びた彼女だったが、甲板でライフル銃をもった人物に追いつめられる。必死に逃げ、抵抗する彼女は、その謎の人物の攻撃をかわし、その人物を海に押し出すことに成功する。
と、そのとき、海から声をかける者たちがあらわれる。身を隠しながら彼女が観察すると、それは、転覆したヨットの船体に乗って、この大型客船に救助を求めている、さきほどまでの自分たちであった。驚き、彼女は身を隠す……。
ループのはじまりこうしてこの映画の物語が、タイム・ループ物であることがわかる。彼女のあとに、もう一人の自分が、それとは知らずに追いかけてきていることになる。彼女が、あとから来るのは偽物だと信じ、なんとしても偽物を抹消せねばという思いから、船内を捜して銃器の置いてある場所にたどりつく。と、わかるのは、先ほど、自分を襲ってきた謎の人物は、自分ではなかったか、と。実際そうなのだ、自分を襲ってきた人物は、自分よりも先に乗船していた自分だった。そして乗船した五人を抹殺しようとした。実際、四人まで殺害したが、残り一人、つまり自分によって、海へと押し出されて落ちた。そして今度は、自分が、あとから来た、まだ何も知らない五人を殺そうとしている……。
嵐で転覆するヨットの名前は、「トライアングル」である。それが映画のタイトルにもなっている。トライアングルは、嵐によって船舶や航空機が行方不明になるバミューダ・トライアングルを連想させるものとなっている。ちなみに作品のなかで船室からレコードプレーヤーにセットされたままで、曲の最後まできても、そこから先に進めないので、最後の部分をプレーヤーが無限に反復するという、昭和の時代によくあった演出がある――実はこれこそが、ループ物が終盤戦・エンドゲームであることを示す的確なメタファーでもあるのだが。
で、かかっている曲はグレン・ミラー・オーケストラが演奏する『錨を上げて』(Anchors Aweigh)という誰もが一度は聞いたことのある曲である。問題は、この曲ではなく、グレン・ミラーのこと。彼は1944年イギリス近海で乗っていた輸送機が姿を消して、以後、行方不明となった。グレン・ミラーは、海上で忽然と姿を消した人物であり、この映画の登場人物たちの運命を暗示する。
しかし、それだけではない、さまざまな三角あるいは〈三〉という数が生起する。いま述べたように、主人公の女性は、自分を襲ってくる謎の人物とたたくが、その人物もまた自分であり、そしていまもう一人の自分が乗船しようとしているところを発見する。主人公は三人いる。未来と現在と過去の三人の自分。その三人が三角関係のごとく、殺し合う。また彼女は途中で意識を失うが、やがて違う場所で目ざめることになる。それが三度起こる。
人間関係においても三角関係が生じている。主人公とヨットのオーナーは不倫関係に発展しそうなところがある(ヘテロの三角関係)。さらにヨットのオーナーと、その男友だちと、女友達の彼女とのヘテロ・ゲイの三角関係もある。あるいは、ネタバレになるかもしれないので(たとえ、すでに充分にネタバレをしているとしても)、語らないが、三角関係、愛と憎しみの三角関係は他にもあり、絡まり合っている。
船名で興味深いのは、もう一つの船、忽然と現れた、まるで幽霊船のごとき大型客船の名前である。アイオロス号。そう、風の神、風神の名前であり(とはいえ、風にまつわる名前を船につけるのは珍しい。英国で「タイフーン」という名前は軍用航空機の名前だった)、乗船した五人が、他の乗客や乗組員を捜すために、船室区画を歩き回るときに、通路の壁に飾ってあるのが、額に入った、この客船の写真。まさに幽霊船のようなこの船の船内に入ってきた五人は、この額の写真を見て、そこにある説明文を声に出して読む。船名はアイオロス号。名称は、ギリシア神話の風神からとった。そしてアイオロスの息子はシーシュポス。シーシュポスは約束を破ったために罰を受ける、と。
アイオロスは、バミューダ・トライアングルを連想させる名前なのだが、その息子、シーシュポスについても言及される(たとえシーシュポスは風神のアイオロスではなく、テッサリア王アイオロスの息子なのだが)のは、この船が未来永劫にわって業苦を繰り返す、地獄船であることの暗示であろう。つまり無限のループを暗示し、そのなかで、とりわけ主人公の女性は自分が殺し殺される恐怖にさいなまれていくという無間地獄の暗示がある。シーシュポスと同様に永遠に罰せられる主人公の女性。タイム・ループ物は、地獄の劫罰、逃れられない永遠の苦しみの物語、無間地獄の、Infernal Affairsである。
『シャイニング』先の『グラビティ 繰り返される宇宙』が、20世紀のSF映画『エイリアン』へのオマージュ的な要素(とりわけそのCGが構築した雰囲気と女性一人だけが生き残るという結末)をもっていたとすれば、この『トライアングル』にも、それがオマージュを捧げている映画がある。キューブリックの『シャイニング』である。これは私の勝手な思い込みではない。この映画のなかで、惨劇が起こり、そのバスルームに血のメッセージが描かれる船室こそ、なんと、237号室。そして船室区画には誰も乗客がいないことも、『シャイニング』のホテルを彷彿とさせる――もちろん『シャイニング』のほうはシーズン・オフだから宿泊客はいないのだが。
また客船の船室区画は、通路が複雑に交錯して、まるで迷路である。このことはまた、『シャイニング』におけるホテル内の迷路のような部屋と廊下、そしてもちろん、ホテルの外の庭園迷路(やがてジャックがそこにとらわれて凍死する場)を思い起こさせる。『シャイニング』のホテルが、死の迷宮であったとすれば、この『トライアングル』の客船アイオロス号、この乗客も乗組員も誰もいない幽霊船こそ、主人公がとらわれ抜け出せないループの迷宮、シーシュポスの運命そのものなのである。
なお、主人公の女性が銃撃されて逃げるときに、船内の消防消火設備に備え付けてあった大きな斧を手に取ることも『シャイニング』を彷彿とさせるという説もある(ジャックが手にして斧)。さらに映画内での説明はないが、客船に乗り込んだとき、船内の時計は、四人のもっている時計の時刻とずれているのだが、主人公の彼女の腕時計だけは、船内の時計の時刻とシンクロしている。おそらくそれは彼女がこの船の住人・乗客であることの暗示であり、『シャイニング』で死んだあとのジャックが、ホテルの壁に掛けられている古い集合写真の中心に写っていたように(つまりホテルが彼をその超常空間に取り込んだ)、彼女もまた、この古い客船にとらわれている、Resident Evilであり、このアイオロス号は、彼女のためだけの監獄船なのかもしれない。
アルファにしてオメガしかもこの船の船名「アイオロスAeolos」は、この船内ではAとOを組み合わせたロゴによっても表現されている。実際、船内のレストランにあるバンドの楽器にはAとOとを組み合わせたロゴが目立つ。このAとOは、ギリシア語ではアルファとオメガのAとO、そしてアルファにしてオメガは、最初と最後を意味して全体を意味するのだが、おそらくはウロボロスの蛇のように、自分の尻尾を飲み込む蛇のごとく、永遠のループの象徴なのかもしれない。
そして、ここでネタバレなのだが、映画をみてないと、なんのことかわからないと思うのであえて書くことにする。新解釈である。客船のレストランにあったバンドの楽器につけられた、このAとOを組み合わせたロゴは、実は、映画の終わりのほうで、彼女が車を走らせていた道路の脇の公園で行進しているブラスバンドのロゴでもある。楽器とかバンドのユニフォームに、このロゴが見える。バンドの行進演奏を見た直後に彼女は車で事故を起こす。そして朦朧とした意識のなかで、そのロゴを見た彼女が、命の消える直前にみた死の幻想(海での難破から幽霊船での殺戮など)、それがこの映画の全体であるというふうに解釈できないわけでもないのだ。つまりAとOのロゴによって、彼女は「アイオロス」号という船名を想起/創案し、アイオロスの息子シーシュポスの受難と同じ永遠に続くループの刑を予感したのかもしれない。映画全体が、この死にゆく彼女の脳裏に一瞬浮かんだ幻想の一大パノラマというような大げさものではないにしても、死ぬ間際で、彼女の脳内劇場で展開した恐怖の物語なのである。この恐怖の物語は、最初は、脱出の夢をかなえる願望充足夢だったのが、その幸福感もやがてついえ去り無間地獄にとらわれ悪夢へと変貌を遂げるのだ。ここまで考えるのは、考えすぎがかもしれないのだが、これが唯一の解答とは夢にも思わないが、ひとつの可能性としてはありえるだろう。
交通事故の直後、彼女にはタクシーが迎えに来る――呼んだわけではないのに。この無気味なタクシー・ドライヴァーは、死者を黄泉の国導く地獄の渡し守カロンのような存在だろう。彼女に残されているのは、死者の国へと旅立つことだけだった――交通事故で死んだのだから。しかし、港で彼女は、必ずもどってくるといってヨットハーバーのほうに出かける。そして死者の国に赴くべきところ、約束を破って、生者たちに混じって、クルージングにでかけてしまう。そして帰ってくるという約束を守らない――まさにシーシュポスである。
そしてこの約束を破って逃亡しても、それが許されることなく、地獄の監獄船にとらわれて、永遠に殺し殺されるループを体験することになる。この映画が提出するイメージでいえば、ループのゴミために投げ込まれる。
あるいは彼女は死すべき運命から免れたのかもしれないが、しかし、嵐の海で、結局、監獄船に捉えられ、海に放り出されたときにはじめて、死者の国へと赴くことになる。
そう、もしループの内側にいたら、それがループであることに気づく可能性はない。『ミステリー・ゾーン』の「幻の船」エピソード(またも船だ)では、ループに気づくのはナレーターと視聴者である。しかし『トライアングル』では、主人公はループに気づく。その衝撃性は、『グラビティ』の衝撃と、スケールこそ違うが同じ性質のものである。そして気づくということは、ループの外側にいるということである。あるいはループの裏側に出たことでもある。
そう主人公の女性は、メビウスの輪のように裏返る。自分が殺されるかかる犠牲者かと思いきや、殺す側、殺人鬼になっている。被害者から加害者への転身。あるいは死すべき運命を逃れたと思ったが気づくと死の世界から抜け出せなくなっている。メビウスの輪のような反転。だが、それがどこで反転したのかわからない。解放から捕縛へ、被害者から加害者への変換はまた、ループの外がにいる、あるいはループの外側からループを見ていることの条件であろう。
だがなぜ彼女には、ここまでの苦難と罰が降りかかるのだろうか。それは彼女が罪を犯したからである。それがどんな罪だったのかは、映画の最後のほうで明らかになる。それは語らないことにする。
なお、まとめのコメントは、すこし先に追加する予定。