今回、舞台でみることで、読んでいるだけでは気づかなかったことを気づかせてもらったり、舞台によってはじめて発見したことなどが、いつものことながら、あったので、それを断片的に記しておきたい。
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『終わりよければすべてよし』では、デュメイン兄弟(兄:河内大和、弟:溝端淳平)という、名前すら忘れていた二人の登場人物が意外に重要な役割というか存在感のある人物像を形成していて、その魅力を発見した。もちろん、彼らが憤慨し、罠にかけて、そのバケの皮をはいでやろうとするパローレスとの関係性によって、その存在もますます際立つことになるのだが。
このパローレス、ほら吹き兵士(ミレス・グロリオースス)という原型のシェイクスピア版であり、その嘘と本性があばかれて笑いぐさとなるために、まさにフォルスタッフの劣化版ということになるが、横田栄司が演ずることで、フォルスタッフに匹敵する存在感を獲得することになった。
以前、横田英司が『お気に召すまま』のオリヴァー(主人公オーランドーの兄)を演じた舞台(2017年1月~2月、シアタークリエ、マイクル・メイヤー演出)のことを書いたが、そのくりかえしにもなるが、せっかく横田栄司を起用して『お気に召すまま』を上演するのだから、オリヴァーのようなあまり魅力のない人物よりも、もっとほかの人物を演じてもらったほうがよかったのではと舞台を見る前に思ったのだが、実際の舞台をみると、さすがに横田栄司、最初はケチな悪役だが、やがて主人公と和解するオリヴァーというくせの弱い役柄ながら、信じられないほどの魅力的な人物となって登場し、舞台を席巻したことは、いまも記憶に新しい。演ずる役者によって、地味な役柄も、大きな魅力を獲得するものだと実感したのだが、今回も、劣化版フォルスタッフで終わっていたパローレスが、悲劇的な哀愁すら感じさせる人物になりおおせていた。
その演技をべつにして、台本上の機能を考えれば、もちろんこのパローレスは、バートラム(藤原竜也)と同じく、まんまと騙される道化的役割を演ずるのだが、バートラムに激しい非難が向けられないように機先を制して、みずからが騙され恥をかかされることで、バートラムにとっての(とはいえ、ある意味、父権制における男性全員の)スケープゴートとなっている。
パローレスの大ほら吹きと、その処罰によって、同じくらい、あるいはそれ以上に罪があるバートラムの犯罪性や愚行が、緩和されるか、あるいは目立たなくなる。
そう考えると横田栄司版パローレスは、そのふくらみのある存在によって、バートラムへの批判をみずから一身に引き受けるスケープゴートであるとともに、実は、騙されたことがわかっても、ろくに反省もしなければ、みずからの愚行を後悔もしないバートラムに対する強烈な生ける鉄槌となっているところもある。
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話はそれるが、シェイクスピアの『空騒ぎ』と、チェーホフの『三人姉妹』とを交互に論じなが、両者の特質を相互に照らし合うような語りができないものかと常々考えている。なにを血迷ったかと言わないでほしい。『空騒ぎ』と『三人姉妹』を知っている人なら、両作品の設定が似ていることに気づかれることだろう。姉妹がいる地方都市。そこに駐留する軍隊。軍人との恋。やがて去って行く軍隊。どちらも、一抹の悲哀が、あるいは最後に影をひそめていた絶望感がにじみ出る……。チェーホフの『かもめ』は『ハムレット』をふまえていたが、さすがに『三人姉妹』は、『空騒ぎ』をふまえてはいないだろうが、偶然であれ、似たような情感を漂わせている。つまり絶望感がハンパではないのだ。
しかし風刺とか批判を通り越した、ある種の絶望感それもジェンダー差異にもとづく絶望感は『終わりよければすべてよし』においては『空騒ぎ』よりも強く、その諦念と背中合わせの絶望は、まさにチェーホフ劇の世界にもつうずるものがある――『空騒ぎ』よりも強く。
そもそも『空騒ぎ』と『三人姉妹』とをパラレルにして語ろうという試みは、シェイクスピアの喜劇をチェーホフ劇に寄せようとした試みなのだが、その根底にあったのは、『終りよければすべてよし』にみられる「嘆き」が、チェーホフ劇にある「嘆き」に通底するという思いがあったからかもしれない。とはいえほんとうは『空騒ぎ』ではなく『終わりよければすべてよし』だったのかもしれない。ただし、どちらのシェイクスピア喜劇も、チェーホフ劇にそっくりだということではない。その趣はまったく違うことは断っておかねばならないし、だかこそパラレルに語ることは、無謀ともいえる力業なのであって、今に至るも実現できていないのだが。
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ヘレン(従来はヘレナだったが、松岡さんの翻訳では「ヘレン」となっている。その理由には説得力があるので、以下、ヘレンにする)は、父である医師あるいは科学者の娘として当時の女性としては珍しい知識と教養を身につけているのだが、実は、科学者・魔術師の娘が、その才覚で、みずからの人生を切り開くという設定は、おとぎ話ではけっこうよくある設定である。その可能性を、おとぎ話すぎるということなのかわからないが、シェイクスピアは次回作の『尺には尺を』では、あっさり切り捨てて、画策するのは男性(修道士に変装した公爵)にしている。『シンベリン』では王女が画策するが、ただし男装している。『テンペスト』においては、魔術師の娘という設定にもどったかのようだが、彼女にはヘレナのような知識も教養も才覚もない、無垢な乙女である。結局、魔術師・科学者の娘が、父親から学んだ魔法で自立して人生を切り開くというような話は、チャペックの『マクロプロス事件』を待たねばならなかったということか(ちなみにディズニーのアニメ版(1991)の『美女と野獣』は、ベルは科学者の娘である。実写版(2017)も設定は同じだったようだが定かではない)。
『終わりよければすべてよし』では、前半で王の病を治したヘレンは、自分のもとから逃げていった夫バートラムを追いイタリアに行くのだが、後半、いよいよ彼女の才覚が発揮されて、ベッドトリックを含む、さまざまな画策によって、バートラムとの愛を成就させるその活躍ぶりがみれると予想するのだが、たしかに後半のヘレンは、その自信みちた態度で、有無をいわせぬかたちで自らの計画を実行させるのだが、しかし、舞台でみると、後半は、前半にくらべて彼女の存在感は弱い。
むしろ彼女の身代わりとなるダイアナのほうが、後半、劇行為の中心的存在となって、劇の、今風にいうとエモい部分を、まあいうなればアフェクト効果を、一身にひきうけるようなところがある。そもそも彼女の名前が独身の女神ダイアナ(ギリシア神話ではアルテミス)と同じであるということ、しかもこの女神は魔女の起源ともいえるところがあって、この劇の不可思議な神秘的効果の淵源となっているようだ。ダイアナの存在の大きさは、もっとヘレン/石原さとみが見たかったという軽い失望とともに、今回の舞台をとおしての発見であった。
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そのヘレンがイタリアに逃げたバートラムを負っていくのだが、名目上は、巡礼の旅にでるということだった。
以前フランス映画『サン・ジャックへの道』(2005年コリーヌ・セロー監督)をみたことがあって、退職後は、サン・ジャックへの巡礼路を歩いてみたいという夢をみごとに打ち砕かれた(その巡礼路は、実に過酷な道で、私の老後の体力ではとてもむりだと、映画をみてわかったからだが――もちろんその頃にはコロナ禍など想定していなかった)。
『終わりよければすべてよし』はフランスで始まるお話なので、フランス語として「サン・ジャックSaint Jacques」という呼称になるが、英語では「セイント・ジェイムズSaint James」。スペイン語では「サンティアーゴSantiago」となる。これはイエスの使徒、聖ヤコブのことであり、その墓がスペインのイベリア半島の北西部ガリシアにある。それは「サンティアーゴ・デ・コンポステーラ」と呼ばれるところで、キリスト教圏ではエルサレム、ローマとならんで三大巡礼地のひとつとなっている(なお、なぜキリスト教徒でもない私が、その巡礼路をたどってみたいと夢見たのかというと、サンティアーゴについての断章的エッセイを書いたことがあるからである。それは、黄金伝説とか、『オセロー』(のイアーゴの名前にも、サンティアーゴは引き継がれている)、新大陸における植民地征服などについて論ずるものだったというか、そんなだいそれたものではなくて、感想めいたものだったが)。
で、ヘレンが、サン・ジャック/サンティアーゴ・デ・コンポステーラへ巡礼に行くといって出かける先がイタリア半島である。ほんらい西にいくべきところ、東に行っている。
シェイクスピア劇は地理的に正確で詳しいところもあれば、地理的にいい加減なところもあって、これは最悪な例のひとつ。いや、サンティアーゴ・デ・コンポステーラに行くといって、実はイタリア半島に行くというのなら話はわかるが、ヘレンは、ごくふつうにサン・ジャックへの道をたどっているようにみえるし、また彼女が出会うひとたちもヘレンが巡礼の途上にあることをそのまま受け入れている。さらにいうと、イタリア半島に入ったらな、巡礼の目的地はイベリア半島の僻地ではなく、法王がいるカトリックの大本山ローマではないか。だからフィレンツェの人びと(と思われるのだが)は、ヘレンが巡礼の途上にあるというときローマへ行くのだと自然となっとくしたのか。実は、なっとくのいく説明は劇中にはなく、すべてがあいまいなままであるが。
フランスから西へいくべき、あるいは行っているヘレンが東に行ってしまったという地理的誤謬の例として、これはよく引き合いに出されるところである。
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これは翻訳とも上演とも直接関係ないことなのだが、
寝取られ亭主は、頭に角が生えるというのは、シェイクスピア劇ではおなじみの言い伝えで、『終りよければすべてよし』にも出てくるのだが、また実際にそんなに角が生えた人などいたわけではないのだが、その言い伝えでは、どんな角が想定されているのかと調べたことがある。
日本の赤鬼・青鬼のような額から頭頂部のどこかに突起状の小さな瘤(こぶ)みたいのが生えるのかと思っていたら、調べると、そんな小さなものではなく、りっぱな鹿の角のようなものだった。頭部よりも大きな2本の角。それが寝取られ亭主の頭に生える角だった。
これには驚いたが、今回、松岡さんの翻訳で『終わりよければすべてよし』を読んでみると、寝取られ亭主の頭に生える角と鹿の角をむすびつける台詞があって、自分のうかつさを思い知った。寝取られ亭主に生える角は、鹿の角であることは、『終わりよければすべてよし』からもはっきりとわかるのである。前に読んで気づかなかったのか、さもなければ、大げさな比喩としか思わなかったのだろう。
なお「寝取られ亭主」のことを英語では‘cuckold’といい、これは「妻が不義を働く」という動詞でもある。受け身になると「寝取られる」という意味なる。辞書によれば、これはカッコウが自分の卵を他の鳥の巣に産むことからきた言葉だということらしい。
関東圏ではテレビ朝日で土曜の深夜12時30分頃から(正確にいえば日曜日の午前0時30分から)放送している『アニマルエレジー』という番組がある。いつの放送回だったか忘れたがカッコウのこの習性をとりあげた回があった【番組ホームページのバックナンバーで調べたところ、1月16日にオオヨシキリを取り上げた回だった。その頃も、今と同じ放送時間だったかは不明】。
別の鳥の巣(オオヨシキリの巣)に産み落とされたカッコウのヒナは、孵化するとすぐに、その巣にあったほかの卵を巣の外に落とす。そしてヒナは自分だけとなって、親代わりの別の鳥(オオヨシキリ)から餌をもらいつづける。このオオヨシキリは、自分のヒナでもない、カッコウのヒナに餌をあたえつづけるが、カッコウのヒナは成長が早く、いつしか巣の中で親代わりのオオヨシキリよりも大きくなってしまう。当然、体型もオオヨシキリとは違っている。しかしそれでもオオヨシキリは、自分よりも倍くらいの大きさの「ヒナ」に餌をあたえつづけるのである。
この映像をみて、オオヨシキリも、自分のヒナではないと早く気付けよ、頭悪すぎるというようなことは思わず、自分のヒナでもないヒナに、それも自分よりも倍以上大きなヒナに必死で餌をあたえる親(がわりの)鳥オオヨシキリと、カッコウのヒナの姿をみて、ただただ唖然とするほかはなかった。
もしチャンスがあれば、ぜひ、この映像をみていただきたい。無料で動画がみれるかもしれない。そして不条理な映像に言葉を失うと思う。
つづく
2021年05月28日
『終りよければすべてよし』 2
posted by ohashi at 00:53| 演劇
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