5月14日に、彩の国さいたま芸術劇場で、シェイクスピア『終わりよければすべてよし』(翻訳:松岡和子、演出:吉田鋼太郎)をみることができた。
まずは松岡和子さんによるシェイクスピア全演劇作品の翻訳という、まさに偉業にたいし限りない祝福を送りたいと思う。そして今回の公演が全作品翻訳の末尾を飾る見事な舞台であることを報告できるのは、私にとっても限りない喜びである。
またどんなに楽しんで翻訳をされていても、あるいは翻訳で苦労することも喜びのひとつであるとしても、37作品というのは、途中で、翻訳作業に、飽きがきてもおかしくない分量だし、また翻訳のレベルを下げない精神の緊張を維持しつづけること、それ自体が、たとえ翻訳作業をどんなに楽しまれ、苦しい思いをされなかったとしても、偉業であることはまちがいない。
以前、松岡和子さんとは、劇場でごいっしょしたことがあり、そのとき彩の国シェイクスピア・シリーズが話題になり、今後の上演スケジュールについてお聞きしたところ、『終わりよければすべてよし』がシリーズ最後の作品となり、それで完結するということだった。そしてこの話は松岡さんご自身が、何度も、人からも聞かれ、また人にも話していることと推測されるのだが、私がつっこみを入れることを予想されて(私にはそのつもりなどなかったが)、機先を制するかたちで、『終りよければすべてよし』が最後の作品になったのは、あくまでも偶然であって、最初から狙っていたのではないと語られた。
そのお話を疑う理由はなにもないし、偶然だったと思うのだが、同時に、無意識のうちにも、最後の作品としてのけておかれたのではないかという気もしないではない。
ただ、たしかにこの作品『終わりよければすべてよし』は、タイトルこそ、諺のようなフレーズとして人口に膾炙していながら、作品そのものは誰も読んだことも見たこともないというのはまちがいないだろう。
私としても、『終わりよければすべてよし』の原文は、シェイクスピア全作品中で、一番最後に読んだ作品だし、恥ずかしながら劇場で見たのは今回が初めてである。舞台映像はいろいろなメディアでみることができるので、英国での上演についてはDVDで見たことがある。また昔、NHKでも放送していたBBCのシェイクスピア・ドラマ・シリーズでも、シリーズのなかでもけっこう評判は良かったのだが、残念ながらというべきか恥ずかしながら見ていない。(大学での最後の年度では、シェイクスピアの全演劇作品について解説・講義するという授業を担当したので、その際、この作品を読み直したこともあり、内容については把握しているのだが、それでも舞台をみて、いろいろな発見があった。)
そのため、シェイクスピア作品中、時代ごとに順番に上演するのではないかかぎり、読んだり、上演したりするとき、どうしても後回しにされる作品であるため、彩の国シェイクスピア・シリーズで最後の作品となることは不思議ではない。決して松岡和子さんが最初からねらっていたわけではないと思う。
と同時に、何度もいうように、たとえ最初からではなくても、また意識的ではなくても、この作品でシリーズを完結することを、どこかの時点から狙いはじめたのではないかと思う。べつに悪いことではない。むしろ、この作品でシリーズを閉じることのセンスの良さを実感した。
今回の上演については、また作品そのものについては、いろいろ書きたいことがあるが、とりあえず、上演の感想を記せば、シリーズ末尾を飾るのにふさわしい公演であったし、このコロナ禍で見るべきと強くは言えないのだが、それでもあえて見るべき上演だと思う。
またこれで一区切りつく、蜷川幸雄から吉田鋼太郎へと受け継がれたシリーズの上演は、シェイクスピア劇の上演として、ひとつの規範をつくりあげたのではないかと思う。彩の国シェイクスピア・シリーズ以外の上演法は、あっておかしくないのだが、あたかもこのシリーズがシェイクスピアの上演法の原点であるかのように思わせる力強さと美しさがある。
その上演法あるはドラマトゥルギーを乱暴にまとめれば、つねにリリカルである。音楽の使用による雰囲気の盛り上げは、悲劇であれ喜劇であれ共通している。そしてつねにハイテンションである。悲劇であっても喜劇であっても。ちなみに、いつもながら豪華なプログラムの舞台稽古写真をながていだきたい。選ばれている写真からは、これが喜劇作品であるとは思えないほどの緊張感が伝わってくる。これは悪い事では決してない。そもそも悲劇と喜劇をテンションの違いで分断することは、むしろ愚かであることを痛感させてくれる(シェイクスピア悲劇と喜劇は、日本の「能」と「狂言」のような関係にはない)。またハイ・テンションでたたみかけられる高揚感に満ちた観劇体験は、なかなか得られるものではない。
そしてスペクタキュラーな舞台。今回の舞台も、たぶん彼岸花であったと思うのだが(ちがっていたらお詫びする)、赤い花が一面に敷きつめられ、そこで演技がおこなわれるため、その鮮やかさに圧倒される。それは抽象的な舞台ではないが、かといって現実を正確に再現すべく小道具・大道具が多用するというリアリズムの追求ではなく、様式的・抽象的であり、そしてまた示唆的でもあって、まさに「舞台芸術」といえるほどの芸術性をほこるものとなっている。
もちろん蜷川演出は彩の国シリーズでもスペクタクル性を全面に押し出していて、それは吉田演出にも確実に継承されているのだが、蜷川的スペクタクルは、つねに私たちを驚かせてくれた。ちなみに彩の国シェイクスピア・シリーズのなかで、唯一、舞台が簡素なのは、吉田鋼太郎・蒼井優の『オセロー』なのだが、高い梯子のような階段で囲まれた白い簡素な舞台は、小劇場やスタジオ公演を彷彿とさせる実験的な、リハーサル的な、あるいは演技性重視の上演を彷彿とさせるのだが、シリーズ全体のスペクタクル性を考慮すると、不思議なことに、その簡素さが、かえって豪華絢爛な舞台にみえてくる。
もちろんよいことだけではない。その『オセロー』の舞台をみて、まるで体育館のなかのようだと批判めいたことを言った大学教員を知っているが、それはともかくとして、蜷川演出は、スペクタクル性で目を奪い、またハイテンションのパフォーマンスによって、台詞そのものをなおざりにするところがあった。外国での、あるいは外国向けの上演が多かったこともあって、日本語の台詞が聞き取れないことも多かった。その舞台は、日本語のわからない外国人がみているような舞台だったのだ。スペクタクルで眼を奪われ、ハイテンションなやりとりによって、日本語の台詞がわからなくても、シェイクスピア劇だし、だいたいの内容はわかる、だから、劇を理解できなくて困ることもない外国人の観客。そうした観客に私たちもなるしかなかった。
以前カクシンハンの舞台をはじめて見て驚いたのは、その鮮烈な演出もさりながら、シェイクスピアの台詞であった。シェイクスピアの台詞をたいせつするという大原則を劇団がみずからに課していたこともあって、日本語の台詞は明瞭に聞き取れて、そして驚いた。シェイクスピアに、こんな台詞があったのかという驚き。そしてシェイクスピアの台詞の驚異的な美しさ。カクシンハンが使っていたのは松岡さんの翻訳であり、そのシェイクスピアの翻訳のすばらしさというかすごさを、カクシンハンの公演をとおして、認識することができた。そして、このことは、ハイテンションな蜷川演出からはとても得られないことだった。
【なお余談だが、5月14日から17日までカクシンハンの舞台『ナツノヨノ夢』が予定されていたが、コロナ禍で中止となった。さいたま芸術劇場は、埼玉県にあるために、上演中止にならずにすんだのだろうか。】
彩の国シェイクスピア・シリーズはDVD化されて、最新の舞台をのぞけば、すべてみることができる。そして、どうかそれで確認していただきたい。蜷川演出では台詞が聞き取りにくいことを。最初、録音が悪いのかと思ったのだが(そのせいもなきにしもあらずだが)、どうもそうではなかったと、ある時、気がついた。そしてそれはまた松岡訳のすばらしさを消してしまいかねないものだった。
吉田演出になって台詞は聞き取りやすくなった(とはいえ蜷川演出のすべてで台詞が聞き取りにくいということではないのだが)。このことは、私は、松岡訳にとって、幸運なことだと思う。そして、彩の国シェイクスピア・シリーズは、結局、『ジョン王』が昨年公演中止となったこともあり、ほんとうに最後の作品ではないかもしれないが、松岡訳の素晴らしさが、認識できる演出法になったこともあって、まあ、この作品でおわったことは、まさに終わりよければすべてよしということになろう(これは最初から狙っていたまとめであるが…… とはいえこの記事はつくづ)
2021年05月17日
『終りよければすべてよし』
posted by ohashi at 04:04| 演劇
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